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高速で回転したり、動いているものに光を当てると止って見える。ストロボスコープといって、ドリルの先の歯のカケやキズ、モーターやタービンなどの固定装置、画像処理によるタイヤの比較など、使用中の工具や対象物を止めることなく、目視検査することができるものがあります。高回転しているものが、目ではっきりと見える。これは、けっこう不思議な感じがします。ぼくの知っているのは、本体の先からロッドが出ていて、その先からLED(発光ダイオード)を照射して調べるタイプのもの。細かく、速く点滅する光を対象物の回転数に同調させることで、残像をカットしてしまうのです。ふだん、動いているものを目視した場合、見えているのはこの残像。服部半蔵ではありません。ハンディタイプの機械を任意で対象物の動きの早さ、最高18,000RPMまで合わせられ、そして照射すれば、ぴたっと止って見える。理屈はなんとなくわかるのだけど、実際にみるとやっぱり不思議。世の中には、100倍速、1000倍速で動く人もいるようですが、ちょいとそんな人に当てるストロボスコープはないものだろうか。そうすりゃ、少しは成功思考なるものを身につけることができるかもしれないなぁ。おお、そこそこ。ママ止っておいていただけますかな。メモしますんで。
2004.06.30
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■追記「待ってました」「成田屋」「音羽屋」と、歌舞伎の掛け声。「いよっ! 征夷大将軍」は、高杉晋作。タイミングの妙。観客席にいながらもプレーヤーとして在る。観客とプレーヤーが、場の空気をつくりだす。これも技や経験もいるのだろうし、楽しむ気持ちや評する目が必要になりますね。━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━テレビのプロ野球中継を観ることは、今ではめったにありません。だからといって、野球そのものを観ることがキライなわけでもなく。ヨコハバスタジアムなんかで、夏のカクテル光線なぞ眺めながら、幕の内弁当を頬張り、ビールなど飲みながら、一席に身を置くのも一興であります。それから楽しいなぁと思うのは、たとえば、満塁で走者一掃の長打が出たとき、テレビなら、外野へ飛んだ球や中継プレー、ホームへ帰る走者などを映しています。こんなとき、打たれた投手をその瞬間からずっと追ってみたり・・・というより、自然と目がそちらにいってしまうのですが、そういう勝手気ままな見方ができるのがいいのでしょうね。生観は。打たれて、目は球を追って、瞬時クッというようなゆがんだ顔を見せて、ちょっと間があって、思い出したようにマウンドを降りて、キャッチャーのカバーに向う。返球が反れそうになると、キャッチャーの後ろや横で、思わずうろっと、あの所在のなさが、なんだか人間くさくてよかったりして。気の効いたヤジの直球や変化球を持ち合わせていればよいのですが、残念ながらそちらの方は力不足で、ただ黙してパクパクゴクゴク。夏の夜の野球観戦。書いているうちに、なんだか出かけたくなりました。
2004.06.29
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夕方、虹を見ました。久しぶりのレインボー。夕方の虹は、明日は晴れ、だそうです。今週は、梅雨の2度休み?なのでしょうか。これまででいちばん大きな虹を見たのは、猪苗代・野口英世記念館の近くででした。とにかく近くて、どでかくて、二重にかかった、うっっわぁぁ~な不思議な虹でした。(そういえば博士は、新千円札で日本経済に虹をかけてくれるのかな?)あの虹を見たのは、20代に入ったばかりの頃でした。波長や屈折率や分光など、よくわかりませんが、そんなことは、まぁいいやなのダイナミックな虹体験。虹は何色? 七色?国や見る人によって、マチマチで無限大がほんとうのところではないか。そういう人もいます。好きな数だけ、いいかもしれません。「虹が10分も見えていたら、もう見る人はいなくなるだろう」(ゲーテ)だそうです。オーバー・ザ・レインボー♪あの虹の向こうには、なにがある?なにかがあるのでしょうか。
2004.06.28
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人がつながったり、関わりあったりすることの楽しさ、心地よさ。同じ社会の中で、ずっとつながっていくことの心地よさ、これまで自分が長く属していた社会の中で留まることの安心感よりも、別の社会と交わりをもつことの楽しさを味わいたい。可能性を見出したい。生き暮らす、なにかを体感したい。ぼくの周りでも、そんな人たちが増えています。同じ社会に留まることの安心感、安定感そのものが、すでに崩れている。ということも一因にはあるのでしょうが、でも、それだけじゃない気がします。インターネットやメール、ブログ、トラックバックなどをコミュニケーションの手段にして、生産や環境、暮らしに関する喜怒哀楽…自分がもつさまざまな想いについて、ふだんあまり接することのない別の社会に生きてきた人たちが、同じような想いを違う言葉で語っている。そういうことに気がつきやすくなってきた。限られた時間の中で、別の社会へ自由に出かけたり、訪れてもらったりしながら、関心のある人たちと、より具体的につながっていく。そんなことを考えたとき、書いて声を発することは、以前にも増して、大きな意味をもつのかもしれません。いま、小さな企業がその可能性に気づき始めています。とくに、トップがそのことをわかったところとそうでないところはこれから格差が生まれるのでしょうね。会社の「なに」を知ってもらうかと言ったとき、商品やサービス、技術の背景にある見えない人の想いや行いを継続的に伝えていく。自らの活動、想いを伝えることは「喜び」だと本気で思える企業がブログ、トラックバックを意欲的に活用していくのだと思います。ここで自分がやっているわけではないから大きなことは言えませんが、やるとしたら、楽天ではないでしょうね。
2004.06.27
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右に進もか、左へ行こか。こうした選択への質問について、答えを求められたとしたら、「いいんでないの。どっちでも」と答えるという人がいました。「やっぱり、あっちだったかな?」ということはあるだろうけど、それも含めて、それで良し。その失敗や不運の向こう側には、案外、もっと行ってみたかった場所があったりするかもしれないと。ありですよね。ジグザグジタバタ、ウロウログズグズ、ムダ・ムラだらけの、かなりダメダメな生き方をしてきましたが、そのおかげで、その過程を踏まなきゃ会えない人間と会えたり、ああ、自分がしたみたいことはこういうことだったんだ。と気づきがあったり。こういうことは、ありますね。いま、そう思えるなら、ハッピーかも。「次、どっち行く?」「どっちでもOKよん」
2004.06.25
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梅雨時ではありますが、ビールがうまい。そんな季節でありますね。いや、私、飲みすぎるとプリン体っつうのがよくないらしいので、控えておりますが。缶ビールをよく飲む場所と言えば、家が圧倒的に多いと思うのですがいかがでしょう?そういうことにして、え~と近頃のCMはどうなのかな?よく冷えた缶ビールを片手にゴクゴクゴクっと、のどを鳴らして「あ~~」と大げさにうなりをあげ、手にした缶をじっと見つめてご満悦のひととき。爽風吹きぬけ、笑顔がかよって…相変わらず、こんな感じでしょうか?まぁ、ないことはないと思うけど。初めて飲んだ物がうまければ、演技な感嘆詞の一つも口をついて出るかもしれません。でも、いつも飲んでる、いつもうまいと感じるリアクションって違うと思うけど。では、どんなの? どんなのでしょうね。では、缶ビールをゴクッと。「あ~~」てが。
2004.06.23
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500万人都市が、いま世界で39あって、そのうちの22がアジアにある。ワ~タシの記憶が正しければ、ですが、どこかでそんな記事を読んだような。はぁ~、言われれば、そうなのかなぁ。あの辺りとか、その辺りとか。我が場所は350万人都市だけど、これから環境や資源、食料のこととか、ますます身近で切実なテーマになってくるのでしょうね。人が蠢いている。人が多ければ多いだけ、社会のスレや汚れに日常的に慣れ、身も染まる。反面、人が集い、笑い、話し、なにかに向うことの楽しさも享受している。人のどさっと居る場所に自ら身を置きたいと思うときもあれば、そうでないときもある。人と会って、なにかを話したいときもあれば、そういうことがわずらわしいと思うときもある。一日生きて、そこに人がいて、関わりをもって・・・人の大河の流れに、意思をもって身をまかすのか、流されるのかはわかりませんが、清流も濁流も激流も楽しめるような気の力はもっていたいなと。一週間、じんわり風邪にやられた心身のだるさで思ってみたりしたわけです。
2004.06.20
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■追記。そういえば、納豆売りの声は聞いたことがないなぁ。時代的に少々、遡らないといけないのでしょうか?でも、「アッコちゃん♪」が来るのを待っていたら、確か聞こえてきたような気もしたけど。いつかって? それは秘密♪━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━「金魚ぉぇ~、金魚ぉ~」「竿やぁ、竿竹ぇ~」夏が近づくと、なぜか想い出す、物売りの声。田舎の街角に、のんびりと和やかな声が響いていた頃、子ども心になんだかなつかしい気持ちがしたものです。金魚売り、物干し竿売り、すいか売り、魚売り、かぼちゃ売り、とうもろこし売り・・・石焼いも売り(これは冬だけど)、豆腐売り(プーポーだけど)、夜鳴きソバ(ピラリ~ラリ♪だけど)「朝いちばんでとってきたやずだぁ(各家庭を回って歩く農家の行商のおばあちゃんだけど)」こういうのは、生声が耳に残っているかな。夏の朝、炎天下、午後のけだるい時間。路地裏を抜けて、古びた田舎の縁側に届いてきた、働く人々の声。夏の風物詩、なのかどうかは知りませんが、夏の情景とつながって、この時季になると思い出します。そういえば、「あんたを思い出すころの風鈴」と詠ったのは、山頭火だったかな。土地土地で受け継がれた、物売りの姿があるのでしょうね。「全国物売りの声大会」なんてイベントを開催していただきたいものです。まったく関係ないけど、「夏の夕暮れ待ち人コンテスト」も。話はどんどん逸れて、「夏の庭」をひさしぶりに読みたくなりました。元気出ます。おしまい。
2004.06.16
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■追記東京藝術大学先端芸術表現科。糸井重里さんが、茨城県の取手にある「かなりややこしい名前の教室」に行ってきたそうです。糸井さん個人の勝手な感じ方によれば、森のなかの学校で、学生たちが毎日考えていることは、 「おもしろいこと」他にない「おもしろさ」「おもしろい発見」とか「おもしろい表現」とか、そういうことではないかと。こうした学校が存在していること自体がおもしろいですね。世の中を上手く生きてる人はたくさんいるのだろうけど、そういう人がすべて、毎日を「おもしろい」「楽しい」と感じているとは限らない。自分にとって、どんなことがおもしろいと感じるのか。おもしろいことを考えたり、参加してみたり、創りだしたり。年齢や立場を問わずに、自らを揺さぶってやる。楽しいの筋力を絶えず鍛えることは必要なんだろうなぁ。その人の環境や状況なりに、おそらくピピッとくるものはあって、要は手を出し、ヤリ出し、ツノ出し、気づこうとしているか。人様がどうこうではありませんが、そういうことをしないで、毎日、テレビ見て、人生おしまい。それも、ちとサビシイななんて思ったりして、我が身を振り返るわけです。━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━「社長、頼むから独立させてくれ。今を逃すと、もうできなくなってしまう」ある集まりで、3年前に会社を立ち上げた人の発した言葉。現在、精密機械加工・試作品加工・金型設計などを中心に業務を展開しているKさんは、元はソニーの技術者だったそうです。20代を大手の会社で過ごすうち、気がつくと自分がいつのまにか、モノづくりの世界から遠ざかっていた。毎日、仕様書を書き、下請け会社に送り、段取りやチェックをする。町工場から世界に名乗りあげた会社は、大きくなるに従い、当然のことながらさまざまなやり方を身につけた。その中で、社員もさまざまなパーツとしての役割を担うことに。「自分が望んでいたのは、こういうことだったのだろうか?」「現場に帰りたい。自らの手でモノをつくり、届ける喜びをもう一度味わいたい」ソニーを辞めた。辞めて、現職の技を身につけるため、中小企業に入社する。モチベーションは明快。持ち前のモノづくりスピリットを発揮して、メキメキと腕を上げ、信頼を得る。その間に独立の機会はあったが、会社は引き止めた。やがて、また上げ潮のように起業の心が満ちてきた。そして、「社長、お願いだから一人でやらせてくれ。今しかない」と。Kさんは、自らの仕事への夢と同時に、大量生産型では得られない手の喜びを後輩たちにも伝えたいと、ネットを通じて集う場づくりを計画中です。なんだか聞いていて、ワクウキしました。どこにいちばんワクウキしたのかな?と、後で考えてみましたが、技にこだわりがあるとか、そういうこともありますが、自分に具体的に関心をもって楽しんでいることがいいですね。自分がどうしたら、具体的に動いたら面白く生きられるかにずっと関心があったから、いまの位置で仕事をしているのでしょう。その人がどれだけおもしろがっているか。おもしろがるを続けることって、案外、エネルギーいるし。運力…そういうものがあるとすれば、こんな人のところについていくのかも。気持ち。気の力持ち、なのでしょうね。
2004.06.15
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ラテン度。テレビからそんな言葉が流れていました。経済評論家曰く、失業率も高く、賃金も安い沖縄に年間、3万人の方が移住しているのだそうです。ほおほお。拙者、北の出ではありまするが、確かにのぉ。南の島の暮らしには憧れますなぁ。南の島で、一日一組しか受けないコテージのオーナー…などという、夢だけでいい夢もありまして。(じゃぁ、夢じゃないじゃん。やっぱり夢か、これも)これとは、ちと意味合いが違いますが、それでも沖縄で暮らしたいと。その辺りに流れる志向・思考をもつ人が今の時代の中で増えているということなのでしょうか。そういえば、昨年、ちょっとだけ知り合ったリフォーム会社の青年は、今年から沖縄に住んで漁業をやるって言っていたなぁ。「楽歴社会」楽しいモン勝ち。楽しく生きるが価値。この言葉を聞いたのは、もう10年以上も前でしょうか。暮らすことは、自分の暮らしを創るために、なにかを生産・消費すること。働くことも、学ぶことも、遊ぶことも、仲間をつくることも、自分がどう在りたいのかに向って進む中で、出会う人たちと時間・場を共有したい、そういう楽しさを積み重ねる生き方が増えている。そんなことを指していたかは、もう覚えていませんが、時代を問わず、繰り返されていくことなのでしょうね。もちろん、ライドオンです。沖縄で「暮らす」というのも、楽しさに向うものだろうけど、ただ楽しければいいというものではないですね。それは、「住む」という言葉に置き換えても一緒ですね。「ラテン」も、貧しかろうが富んでいようが、ラテンな人はラテンでしょうね。それにしても、沖縄人の沖縄タイムすごいっす。学生時代、後輩に鎌倉駅前で約2時間待たされました。顔を見るなり、「ディス イズ オキナワタイム」って、あいつが特別なのか。いまだに変わらぬ「ハイサイオジサン♪」野郎。
2004.06.13
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■追記そうだ、「福」と「幸」がついているじゃないか。今さらながらに気がつきました。足繁く通っているエリアは、地名が「福○」「幸○」と2つの名前で構成されている。思えば、以前はこの辺りでは釣りもしていたし、自転車にも乗りに来ていた。凧揚げもすれば、BQもした。だいたい元々、仕事で縁があった。あるときから、違う想いを寄せ、見つめていたら、違う縁が現れた。意味のある偶然。近頃、とみにこの言葉が浮かぶのは、そう考えようとしているかもしれないけれど、物事をいい方に見てのことだし、誰にも迷惑をかけるわけじゃないからいいでしょう。世の中を楽しく生きる方法は、案外、身近にあるのかもしれない。けして手放しで楽しく生きてるわけではないけれど、遠くばかりを見上げる必要はないのではないかな。そんな気がする、サタサタデー。━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━「福門」とひと言、メモ書きしてある。ガサゴソと古いを書類を引っくり返していたら出てきた言葉。何のことだろう? 何を意図して書きとめたのだろう?参考までにGoogleで引いてみると、招福門とや口福門など、中華街のお店の名前が並んでいます。風水に関係あるのかどうかは知りませんが、方角的にそういうことを指す言葉のでしょう。家に福が入ってくる方角?昨日、モノづくりの社長からもらっていた、B1サイズの地図を部屋の壁に貼りました。装飾的にはまったく機能しない、家に貼るには似つかわしくない案内図。机の前に座ると、右横前から否が応でも目に入ってきます。ぼくにとっては意味のある地図。そう思うと、視覚的にも心地よく見えてくるから、人間とは不思議なものです。どうやら福門は、南東にあるらしい。それも入ってくるのではなく、出向いていく方角らしい。この方角へ、日ごと出向く回数が増えて…いや、増やしています。お~い、福門の神様、もう少し足元を照らし、道筋を教えていただけませんかな?えっ? 自分で見つけろ。へい、がってん承知の助。(なんだか古い)
2004.06.12
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朝のFM番組内で、繰り返し交通情報が流れる。次々と読み上げられていく県内の主だった渋滞ポイントの映像が浮かんでくる。その中には一度きりしか通ったことのない場所もある。なのに、ほとんどの場所が、自宅から面と線でつながります。クルマに乗り始めた頃は、聴いていてもまったくわからなかった。地図を見るのが好きだったにしても、目的地以外、意識して覚えようとしたことはないのに。なぜだろう。やっぱりクルマを自らが運転して、動いて、自らの視覚体験として楽しみながら取り込んでいたからではないのかしら。クルマをもたない人と話をしていて思いましたが、どこにどんなお店があるとか、ユニークな施設があるとか、そんな物理的な情報は、ふだんクルマに乗る人の方が圧倒的に持っている。アタリ前田のなんとかですね。行動エリアが違えば、視覚的情報も増えるわけだから。というより、そもそもクルマにならない人は関心をもたないようです。そりゃ、自分が行ったこともない、行く手間を考えた場合の行く可能性がほとんどないのに、たとえば、どこかの町の大型店舗の開店チラシ見たって、気持ちは動かないでしょうね。ウチの母みたいに、行きたいとなればバスでも歩きでも、どこでも行っちゃう人はいるけど、基本的に時間がある人じゃないとねぇ。情報をもつ・・・ことに、どんな場合に意味があるのだろうか。道や街ならば、自らが動いて得た情報があって、その上で後で道路MAPで俯瞰的に確認したりすることが点が線に変わる喜びになったり、どこかに行く時はここを通って、ここに寄ってとかの組み合わせの喜びを生んだり。大したことではないかもしれませんが、日常生活に感じたり、一日を生きる地図をひろげることだってあるのであります。知っているから、さらに知りたい、動きたいということが生まれてくることってあるものなぁ。仕事に関して言えば、今日の購読メルマガで、「詰め込み教育こそが真の教育である」とありました。詳細は省きますが、これは言えてると思います。どれだけ本気かってことなんだよな。うん。と一人納得。━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━拙い日記に、いつもお声をくださる方々、ありがとうの返事しなくてごめんなさい。ここへのお声の返事は、間抜けのトンちゃんでちょこがきしていきますので。ただ、所用により、お声をいただいた方の庭を毎度、訪れるのは厳しくなったかな。だから、素通り、まったくオッケイよん。もちろん、声はうれしいけど。ここも何千分の一かの生活地図にはなっていると思うから、歯抜けにムリせず。こちらも書きたいときにお声の有無に係わらず、お訪ね書きしますのでよろぴく。
2004.06.08
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調べ物があって、楽天にサイト上から資料を請求したら、まもなく電話が鳴った。「ただいま資料請求をいただきました、楽天の○○と申します」。資料請求のクリックを押して、3分経ったかどうか。むむむ。さすが、楽天。やりおるのぉ。抜かりなし。デジタルなしくみを、リアルにアナログに活かしてますな。これとは関係なく、どこかで誰かが「楽天の成功は、『楽天』と名付けたときから約束されていた」と書いていたのを目にして、まぁ、結果論であるにしても、名前のもつ力・エネルギーはあると思うので、ふむ。くらいは頭に残っておりました。そしたら、またまたまったく関係のない、つながりのないところで立て続けに「楽天心」「楽天地」「楽天屋」なんて言葉に出会って、あ~らびっくり。今時、「楽天」の出そうな・・・ビジネス本や雑誌、ネット、お店など、そういうところで出会うなら、偶然とは思わなかったけど。しかも「楽天」という言葉が、これだけ世に出回る前からあっただろう場でだからちょいと、プチうれし。おお、必然に変わってほしいだす。まぁ、言葉はこういうことがけっこうありますけど。「楽天」と言う言葉自体はキライじゃないから、へへ、ご利益に授かりますようにと、いっぱい「楽天」と書いてみました。(13個入ってる)
2004.06.05
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■追記Tonight Tonight in my dark blue suit♪フリフリフリフリ フリフリフリフリ♪かまやつひろしさん作詞・作曲の「フリ・フリ’66」「フリフリ」って、どういうところからでてきたのだろう?「なんとなく なんとなく」なのかなぁ。いいノリ、いいセンス(って言い方が古いか) 「振り子」つながりで思い出して久々、聴いてみましたが、いやいや、やっぱしイカしてますな、ザ・スパイダース。ゴゴゴゴ~ 風が泣いている♪踊れよ ゴゴ~♪嵐のゴゴゴゴ~♪ のとぼけた顔して バンバンバン♪っとぉ。(アクション付)あの時 君はバカだった♪--------------------------------------------------------------------------------ときに大きく揺れたり、ぴたっと動かなかったり。胸ん中の振り子は、いつも気まぐれだにゃあ。さまざまな物事に大きく揺れて感じることのできる、すばらしい振り子をお持ちの方もこの世に数多くいるけれど。わたしゃ、自らの定めたピンポイントで、ここぞとばかりに振り回す。そうした振り子の揺れ方が、それがいちばん性に合うにゃ。それしかないにゃ。間違いない。ああ、独り言独り言、こりゃこりゃ♪(朝、モニターが虎ぶってもうタイヘン。「バックアップ」とメモした矢先の大汗モン。こういうこと書くとなにかが起きる、PCマイ法則)
2004.06.04
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■追記ぼくの周りにも、にじりぐちをつくろうとする人がいます。製造業の人で、この人、自身の仕事はとても元気なんですが、今現在の成功・不成功とは別に、業種・分野を問わず、横断的に人や物・事に接するから、フラット思考で応じるから、いろんな人が寄ってきます。とても、周りから好かれているわけですね。さまざまなところで、淡々と人との出会いを創ろうとしていますが、その中にはヨコハバ市のトップも入っちゃてるみたい。「コトを起こし、その中心となるのはあくまでも民間じゃなくちゃ」「行政をあまり信用してはいけない」等身大の立場でいろんなことを聞いて話してみたいらしいのです。いつも通り、力みなく、淡々ニコニコと語ります。面白いのは、そんなモノづくり社長を、行政の「現場」の人間が慕ったりしているのです。やがては、お役人のお偉いさんも、にじりぐちをくぐって話をしにやってくるのかもしれません。この前遊びに行っていたときは、同じ地域でレストラン・喫茶などを経営する社長がいきなり花束をもって現れました。会社の資材を加工してもらうお礼の意味もこめてらしかったけど、製造業の現場に花束で、手渡されてちょいと照れてた。なんだか妙な取り合わせが微笑ましく、モノづくり社長の人なりとアナログなつながり、可能性みたいなものを感じたのでありました。 今宵は、満月。--------------------------------------------------------------------------------茶室の客入り口を、そう呼ぶらしい。知ってた? そりゃ、すまん。「にじりぐち」ですか。うまいこと言うものですね。2尺3寸(約69cm)、幅2尺2寸(約66cm)ほどの、やっと人一人がくぐって入ることのできる出入口。どんなに地位の高い人でも、そこに招待されたときには、身をかがめ、頭と膝をくっつけるような姿勢で、にじるようにしないと中に入れない。これを考えたのは、利休だと言われているそうです。併せて、四畳半だった茶室を二畳にしたのも利休なんだって。とても小さな空間でも、にじりぐちをくぐることにより、高さや広がりを感じることができると。今では伝統、常識らしいのですが、それだけではないらしい。極端な狭さ・・・不自然とも言える空間で、人と人が膝突き合わせ、茶のひとときを過ごす。そこでは外見的な身分や装った表情は通用せず、生身の人間性があらわになる空間でもあるのだろうと。それを利休のような地位にあった人が、ほんとに意図したもの(なんだろうと思うけど)だとしたら、利休さん、やるじゃん。茶人・利休の、人や物の在り方に対する思い入れでもあったのかな。
2004.06.03
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ちょいと前、たとえばお金の泡踊りの頃とか、なにかの生産に関わりながら収入を得る。ということを意識することが難しい仕事も生まれ、もてはやされもしていたような気がします。今でもあるだろうし、なにかの役割意識をもって仕事をすることが「生産」することでもあるのだろうから、すべての仕事が生産に関わる仕事でもあるけれど。いま、それぞれの役割は役割として、自分になにができるのかをもう一度見直し、できるだけ生産に近いところで、自分と他の人、在る力と力を組み合わせ、一つのなにかを生産していきたいという意識が高まってきているのではないかと。農業をやる人は米や野菜をつくって、それをお金に換える。漁業を生業にする人は、魚を獲って、お金に換える。家具作りの職人は、家具を作って収入を得る。そうじゃない人も、某かの生産に関わって生計を立ててきたと思うのですが、その意識が一時、希薄になって、今また、生産を意識して働きたいという人たちが増えているのではないのかな。ただ、モノや食べ物を作ると言うことではなく。タテの役割、「会社」という組織が大きな力をもった…いまでもそうだけど、それよりヨコの役割、関係づくりの中で、新しい協働・共創社会をつくっていこうという人たちが、ずいぶんと増えてきたように思えます。これは仕事だけじゃなく、さまざまなコミュニティや趣味のサークル活動も含めてですが。友人・知人と言いますが、どんな人たちをそう思ったり、呼んでいるのか。食べたり、飲んだり、遊んだりの時間を過ごす関係にも変化が出てきているのではないのかな。
2004.06.02
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■追記「時間は、意思の代弁者」と言った人がいます。物事にどれだけ本気で取り組んでいるか。ということなのでしょう。日常に当てはめれば、言えてることも確かに多いです。仕事に関することだと、成功者の多くは考えてからかたちにするまでの集中度、熱中度の℃が、やっぱり高くて、熱くて、速いと思います。だけれども、あえて仕事も含めて、生き暮らしていく間にはそうとは言い切れない、言わなくたっていいこともありますよねぇ。そんなこたぁ、本人が一番よくわかってるし、感じてることもあるし、ほんとうに、そんなこたぁ、どーでもいい場合もある。でしょ? だしょ?-------------------------------------------------------日本人と生活習慣病。今更でもないですが、あちこちで取り上げられています。現代人の生活習慣と結びついて、やがて重大病を引き起こす原因となる病気。ここ数年では、日本人の死亡原因のトップだと言います。その一つが動脈硬化。これが元の原因で命を落とす人が、計算上では1分に一人なんだとか。遺伝的なものも大きいのですが、極端な言い方をすれば人間が生まれたときから、誰にでも動脈硬化が始まっている。それが生活習慣。子どもの頃から高カロリー、受験、いじめなどのストレス、交通手段などの発達による運動不足……で、40代を過ぎてから、何の前触れもなくバッタリと。だから、サイレントキラーとも呼ばれるそうです。小学生の頃から、自覚症状なしにひそかに体内で進行し始め、ある日突然。最近、生活習慣病に関する複数の情報にふれる機会があって、ふむふむと読みながらも、実は違うことを考えたりします。日常の中の思考停止。思考回路の渋滞。現実逃避…仕事やこう在りたいとのギャップとの危機感を持ちながらも反対に意識し過ぎることで、日常の動脈硬化を起こしてしまう。時間というものを意識するから、スピードはクォリティ。人も自分も急げ急げと、あっちこっちのつまみ食いの栄養過多のバランス偏り。食っちゃぁ、あせりを吐き出し、余計に固まってしまう。とくに、今のすべての状況というわけではないですが、人それぞれ、暮らしの動脈硬化なことってなんだろうと思ったりします。やっぱり、なんかあるでしょ?三つ子の魂、百までも。雀百まで、踊り忘れず。身についた習慣が良しと出るか悪しとなるか、とらえ方にもよるけれど、確かに思考や行動を変えようとすることは容易ではないですね。考えてばかりじゃしかたないけど、考えようとしないよりはいい…のか。ヘタな考え、休むになんとかもあるけれど。(尻すぼみで終わる。ちょっとサビシイ)
2004.06.01
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