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■追記。いきなりシャットダウンを繰り返し、青・黒エラーメッセージ。再起動やメインスイッチでの強制終了で「深刻なエラーから・・・」。深刻なエラー、といっても、たかがPC(こう言うとますますごきげん悪くなるかな?)です。元々は、あると便利だったはずのものが、いつのまにかなければ不便なものとなり、あたふたとしているだけ。おおよそのバックアップはとってあるのだから、ハードディスクにもっと大きな障害が出る前に、さっさと再セットアップすればいいだけ。それができない自分が情けなか。用は、処置後の手間を惜しんでいるに過ぎません。これを人の暮らしに置き換えたら、そうはいかないのでしょう。それぞれの場面で、暮らしや心を再セットアップ。そんな経験ある人も多いのではないでしょうか。幸い、なにもなく順風満帆、それはそれでとても素晴らしい。なにも苦労やトラブルなど、「買ってでもナントカする」必要はないと思います。それで人生や性格がゆがんでしまう人だっているのですから。望まずともやってくるとき、その場合はどうするのか?じっとやり過ごし、待つ? 放っておけば自然解決・解消する?それとも再セットアップにかけるのか。生命にかかわる問題なら、対峙することを避けるわけにはいかない。生命は、自分のことだけとは限りません。自分の大切な人、家族…その人に関わることかもしれない。身近に、なにかがあったとき、否が応でも自分の問題として捉えざるおえない状況・環境に陥ったとき、どうするか?「人生の深刻なエラー」に出くわしたとき、自分を再セットアップする勇気や根気は必要となります。再セットアップしたときの気持ち。それも忘れずに、今在ることを考えなくちゃいけない。これがついつい油断して、忘れそうになる、いや忘れていたりする。そのときの気持ちを忘れない。いつも自分に問いかけなければいけないこと。鉄塔と夕陽の散歩道にて。━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━PCの調子が、いかんいかん。今日は、朝から夕方までこれだけ。やはり、あれしかない、のかな。ネットの途中で、ブツッと真っ暗画面。青や黒の画面に英語や数字で、システムエラーでなんたらかんたら。深夜か今朝、強制終了&再起動、その途中で再起動の繰り返し。数週間前から症状が出始めて、ここ1週間そして昨日からダメ~ダメ。毎朝チェックの2重防備で、ウイルスではないらしい。「深刻なエラーから回復しました」→MS王国に送る→「デバイスエラーじゃよ、きっと」の繰り返し。バックアップも取った。けどなぁ、ネット設定とかががなぁ。またやるのかぁ。でも、そんな問題じゃないですよね。問題をどこでどうすることが、結局はいいのか?「リセット」という言葉に置き換えてもいいかな。あ、PCの話でしたね。
2004.08.31
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日本は、世界でも最も川が身近な国なのに、その川に対して全く無知。これではいかんと、カヌーイストの野田知祐さんが4年前から始めた取り組みだそうです。(昨日の朝日新聞から)小学5年生から中学3年生までを集めて川に放り込み、潜らせ、モリをつかせ、魚を捕らせる。岐阜県の長良川の河口堰にある資料展示広報室で、、担当者がこう言ったそうです。「河口堰を作っても川の水質は変わりません」。野田さん、思わず「そんな大嘘をつくな」と怒鳴ろうとしたら、そこにいた大人たちが感心してうなずいていて、絶句。河口堰ができてから、長良川の水質汚染や漁業への打撃は耳にしますし、野田さんも「誰がみても明らかだろう」と指摘します。子どもたちから来る手紙には「なぜ、川の水が冷たく濁っているのか」「ダムの下の川に魚が少ないのか」「なぜダムをつくるのかを考えるようになった」などが書かれているそうです。道は遠いけど、まず子ども教育からだと思っているそうです。よくわからないから知ったことは言えませんが、もう要らないだろう。ダムも河口堰も、誰が誰のためにやっているか、わかっているのにね。と。こちらにも丹沢湖周辺にダムができて、以前、県紙に広告主でもあるのでご丁寧に「みんなで行って理解しよう」みたいなコメントつけていたこともありました。ここの価値が本当にどうなのかわからないので、これ以上は言えませんが、割り切れないものがありました。産経や讀賣では、同じ問題をどうとらえているのでしょうね。この問題だけじゃありませんが、たとえ遠くに見えていても、声を出し続けていくって大事だなぁと思います。
2004.08.30
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夏のお昼の中華屋の、あの空間とオヤジさんの姿が懐かしい。以前いた会社の近くにあった小さな中華屋は、いい感じに小汚くて暑かった。冷房がいい感じに効いていなかった。厨房越しに炎の余波が伝わってくるカウンターは、熱さひときわ。でも行けば、必ずそこに座ったものでした。よく見る白の仕事着で、テンポよく鍋を返したり、ラーメンの麺を湯切りしたり。その後ろ姿を、間近に眺めているのが好きでした。真面目に、無口に、汗だくに、はい、元気の仕事、一丁上がり。はいな、どうぞ召し上がっておくんなまし。夏に、人が汗かいて働く姿は悪くないもの。こちらが勝手にそう感じるだけで、相手はただ黙々と自分の仕事をこなしているだけ。そこがいいのでしょうね。細身だったオヤジさん、「太る暇がない」って言ってたっけ。ボ~と熱いカウンターに座って、ラーメンやチャーハンを食べる。そこに行って、その場所でメシを食えるか、食いたいと思うか。も、夏の自分の元気度のバロメーターになっていたのかもしれません。なんて言いながら、今夏は風呂から上がって、クーラー強で風をめいっぱい浴びながら、30分くらい居眠りこいてたこともあったなぁ。今日は、こちらはしとしと雨で、お寒い日。オリンピック最終日。大好きなマラソンとF1中継あり。暑さがぶり返したら、あの中華屋に行ってみようか。いい感じの熱さと小汚い空間を味わいに。
2004.08.29
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数年前、「捨てる技術」という本がベストセラーになりましたが…ぼくの場合は、「捨てられない未熟」です。午後、ふいに本の整理を思い立ち、ちょいとだけといじりだしたのですが。思い切りよく捨てようとした雑誌が捨てられない。ルアー釣りをよくやっていた頃の雑誌やアウトドア系の雑誌がけっこうの量があり、これを捨てるとスペースが稼げると思ったのですが、いざ、手に取って眺めると捨てる気が失せていく。ある量の背表紙のかたまりには美しささえ感じ、どうしようかと思っていたところに、古いカセットテープがポロリと出てきて。「頭の中一ぱいに続く長い道」 斉藤哲夫「サーカスにはピエロが」 ディランII「アイ・シャル・ビー・リリースド」 ボブ・ディラン「風に吹かれて」 ボブ・ディラン「シンガプーラ」 加藤和彦「ヒマ人クラブ」 泉谷しげる「ひとりあるき」 泉谷しげる「下宿屋」 加川良「鉱夫の祈り」 高田渡「遺言」 なぎらけんいち「カレーライス」 遠藤賢司 ・ ・ ・「今日までそして明日から」 吉田拓郎(・・・♪)聴き入ってしまいました。そういえば、あのテープはどこにいったかな?(ガサゴソ)完全に目的を見失ってしまいました。 そして今 私は思っています♪明日からもこうして生きていくだろうと♪
2004.08.28
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ミスを恐れるな。だが、ミスはするな。それを戦う者に強く求めるのが、F1というモータースポーツ。と思って観ています。トップチームの1年間の予算は、ドライバーとの契約金やエンジン使用料、車体開発費、遠征費、人件費なども含めて約400億円。とは、どこかで読んだ情報ですが、いずれにしても他のスポーツとは桁違い。巨額を投じたマシンをぶつけて壊せば「あいつは金のかかるドライバー」と言われ、無難に走れば、「攻めることのできない、面白みのない奴」と言われる。(本当かな? そういうことにしておきませう)観てきて思うのは、一流と呼ばれる、トップドライバーと呼ばれる人たちはミスをしない。ここでミスをしてはいけない。ミスをしないで、ここは攻めまくって、ひたすら速く走って欲しい。結果を出してほしい。とチーム関係者やファンが望むだろうとき、あきれるくらいにミスをしないで、自車の一番時計をたたき出すのです。日本の期待の☆、佐藤琢磨選手。彼の評価は世界的に高まっている、のは確か。英国のモータースポーツ誌が、数ページに渡って特集を組んだこともあります。定評のあるロケットスタート。いけると踏んだら、思いっきりインを差す。人一倍限界まで、ときに限界を超えるまでがまんするブレーキングワーク。高いマシン開発能力と一人、相手チームに乗り込んで文句をいう度胸。で、ミスもままあったり、ぶつかたりするのですが只今、世界の評価が二分中。近々、一流になれる、1.75流。くらいではないかな? 攻めるがゆえのミスだけど、結果にもろにつながるのもこの世界。でも、もうちょい。だんぜん、琢磨選手とレースにおけるホンダを応援。F1世界選手権-第14戦ベルギーGP開幕。タバコ広告法の問題から2年ぶりの開催。アルデンヌの高原に広がるスパ・フランコルシャン・サーキット。チャレンジングな高速コーナーの連続と、激しいコース高低差のドライーバーズ・サーキット。技量と度胸が試される、ドライバーお気に入りのコース。また、ポディウムに上がって欲しい。できれば、真ん中に。きっと近いうちに。
2004.08.27
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「形態記憶、ストレッチ」…はぁ? この秋の新化粧品だそうです。「形態記憶」や「伸縮性」で肌の張りを保つと。どんな人に? かは、それぞれの憶測におまかせしませう。肌のハリを保つ新技術を活かして、「使い始めてすぐに若く見られたい」(・・・)と効果を期待する女性を、がっちりとキャッチしたいようです。形態記憶ですか。肌にたっぷりとしみ込ませ、弾力効果を発揮する。これは、毎日のハートには効いてこないのかしらん。人間関係には? お札に塗ってはダメでしょうか?ちょっと、いやらしくなってきましたね。なにに効くにしても、頼りすぎて、浦島太郎の玉手箱になったりして。
2004.08.26
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たとえば、真紅のフェラーリがほしいと思ったとき。なぜフェラーリが欲しいと思うのでしょう?お金持ちだと思われたい。女性にもてたい。人の注目を集めたい・・・フェラーリに乗る、欲しいと思う、おそらく一部の人以外は、性能や美的外観などクルマ本来の魅力から欲しいと思うわけではない、勝手に憶測するのですが、どうでしょう?クルマは、とくに外車は、持つ自分が人からどう見られたいか、ということが出やすいものだとは思いますが。欲しいものと、欲しいものがもつイメージ・象徴を混同したまま、時を過ごしていて、さてそこに、どんな幸福感が生まれるのでしょうか。あ、否定も肯定もなんも思っている…わけじゃありませんよ。ずるいけど。お金を稼ぐことがどうのこうのとも言うつもりもないし。いま食事して、なんか書いとくか。で、ズルズル書いただけですから。だけど、この頃、あちこちで自分の内側に向ってなにかを問いかける人がますます増えてきたなぁと感じがしているのです。こういう場がどんどん広まって、いろんな声を目に耳にする機会が増えたこともあるのでしょうね。
2004.08.25
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■追記フンドシ一丁、ぽうず頭に筋肉質の肉体をおしろいで包んで路上演技。昔、ヨコハバの野毛という街で大道芸人の演じる「ムンクの叫び」を観たことがあります。前衛舞踏家とか芝居とか、そう呼んでみたくなるような雰囲気を漂わせていました。スケッチブックに書いたタイトルをめくってはイーゼルに戻す。そのときの演技の一題が「ムンクの叫び」。一見、スルドイ風貌から、両手を頬に当てて、あの「叫び」をユーモラスに演じる、そのギャップもあってか、けっこうウケてました。その頃、新聞の地域版にも載ったりしていましたが、いまどうしているのだろう。━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ オスロのムンク美術館で、代表作の「叫び」が強奪された。一緒に「マドンナ」も。白昼堂々、来場者がいる中で銃をもった2、3組が館員を脅して作品を持ち去ったのだといいます。犯人たちは、待機していた乗用車で逃走したらしいのですが、いま、どこかの暗闇の中で「叫び」が嘆き悲しんでいるのではないでしょうか。「わたしはある夕べ、道を歩いていた。一方に町が横たわり、フィヨルドがわたしの前にあった。わたしは疲れ果て、気分が悪かった。~~~ わたしは自然を貫く叫びみたいなものを感じた。わたしは叫びを聞く思いがしたのだ」専門家の間では「叫び」は50億円もの値段がつけられているのだとか。どうやって絵の価値が決まるのかわかりませんが、ふぅ~~。この絵を描いたムンクさんが、もし、いまの状況を見たとしたら大いにびっくりするんじゃなかろうか。(間が空く)などと、こんなこと書いていたらPCに深刻なエラーが発生しました。いきなりシャットダウンして画面真っ暗、怪しげなエラーメッセージが出てきたかと思ったら、またシャットダウン。あららららぁ~、メインスイッチを押しても起動せんじゃないか!困った。マイッタ。明日一番でサポートセンターに電話じゃ。しばらくしてもう一回。入った。えっ?Cheking Fileなんたらかんたら・・・長々。再起動がかかって、深刻なエラーから回復したと。実は、数日前から数度目。ネットやCDーROM、スキャナを使っていて、いきなりパシャッとPCが閉じる。再起動がかかって、また何事もなく、だけど明らかにおかすぃな。一度は再起動の途中でまた閉じてを2度ほど繰り返し・・・ウイルスチェックは毎日しているから違うと思うけど、先日スパイウエアが検出されたけど関係ないな。話が途中から関係ない方へずれちゃった。でも、こりゃPCオンチのPC頼りにしている者の叫びだ、嘆きだ。根本原因を早めに調べないといけないみたいです。
2004.08.24
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■追記かき氷…というような陽気ではありませんでした、こちらは。ハズしてますね。終わり夏を生きるセミも、今日は音なしの構えです。曇天、雨空、空き地の夕顔。夏は生命のにおいを感じやすいだけに、自然がどんより押し黙ると、ちょっと寂しい。そうだ、「オッカムのかみそり」って知ってますか?今日のお題から、そんな言葉を思い出しました。関心ある人は検索してみてください。しかし、便利になったものです。こんな言葉でもたちどころに調べることができるようになったんだものねぇ。━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━かき氷の蜜のかかっていない部分を、手でばさっと取っ払ってしまう。大昔に人から聞いた、現役時代のミスター3番の食べ方。余計(かき混ぜる手間)なところは除けて、いきなりおいしいところから攻めていくのが流儀。例え話として聞いたのですが、何の話だったかというと文章の書き方。なにかを書いたり、説明したりする際、核心や結論に的を絞って述べよ。まぁ、そんなところだと思いますが、幾多あるそうした作法・例え話の中で、キャラクターも手伝って映像の浮かびやすさで、今でも記憶に残っています。確かにね。人に何かを伝えるとき、相手の立場で相手の知りたいと思うことを、あるいは自分の言いたいことをまっすぐに、ムダなく言わなくちゃいけない。言われればその通りで、ムダ・ムラの多い我が身に染みます。だけど、その一方でこうした場は、そうじゃなくても、そうじゃない部分にこそ、人としての味や、なにか可能性を感じることがあるのではないかしらん?などということも思ったりします。「インターネットをやり始めてから、文章の完成度を犠牲にするようになった」。という人がいましたが、それはなにかを思ったり、感じたとき、早く伝えたいということを優先しているからだそうです。熟し切れていない想いを、とにかく出してみて、またいい考えが浮かんだら何度でも書き換えていく。日々の想いを更新していくわけですね。もちろん、何を言うにしても、人とつながっていきたいという想いから出た言葉が前提になると思いますが。ここを公開日記と言っていいのかわかりませんが、人に読まれることを意識すれば、長嶋のかき氷は必要かもしれません。ですが、本日の自分がいったいなにを感じたり、右往左往しているのか。あちゃこちゃ右往左往している言葉の中から、自身でもっと気がつきたい。それでいいな、と思っているところがあります。もちろん、誰かに読んでもらうことは、とてもうれしいことなんですよ。じゃなきゃ、続いてないですね。とっくにやめてます。長嶋のかき氷・・・蜜のない部分の氷たっぷり山盛り、てんこ盛り。ご静聴ありがとうございました。
2004.08.23
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Happy は、ハッピーではなく、「ハピー」。英語に促音はないので、「ッ」を入れるのは間違いだと、英語系のメルマガで読んだことがあります。Hokkaidoを「ホッカイドウ」など、ローマ字教育に基いた表記からきているということで、英語を学ぶ人たちには、時に悪しき習慣として障害になるそうです。促音の一瞬、息を止めるような、つまらせるような発声は英語にはなく、英語は息を吐く。ロウソクを前にして英語を話すと一瞬で消えるそうで、消えない発声をしている人は、どこか間違っていると言っていいのだとか。ふむ。そういえば、押し出すように話してますものね。英語が得意な人は。英語…言語の発生と気質も関係するのでしょうか?で、キャッシュは「キャシュ」で、カッターナイフのカッターは「カター」で、ほれ、あの人、ブッシュは「ブシュ」になるんだ。(検索でも出てきますね)いろいろ探したら、面白そうなものありそうです。なにかあったら、教えてね。ところで、ある言葉やある言葉の一部をカタカナで書くことがありますが、これって、けっこうこだわりがあったりするものですか?そこから見られると、かなり節操ないです。「モノづくり」という言葉を使うとき、「ものづくり」「物づくり」と言うこともあります。この言葉はこういう表記、という基準がないことはないけど、わかっていてあえて換えてしまうこともあります。書く場、用いる場がどんな場かを気分的に読んで、そうしてしまったり。書き言葉のカタカナ言葉は、使い方でちょっとなと思うこともありますが、そこにその人のどんな気持ちがあるのかな? ということを感じるようにしています。今度、皆さんの日記もそんな視点で眺めてみませうか。
2004.08.22
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「ブログは、農家を育てることができるだろうか?」そんなブログを読みました。いま、ブログを企業広報として取り込むところも多いようですね。四季を通して自然と向き合う農家が、素材や食づくりにこだわる過程、毎日の出来事を伝えていくことは、作り手としての心意気や人間性がおいしさの一部となり、ネット通販などでのファンも増えていくだろう。まぁ、これは多くの分野に置き換えても言えることで、今後、ブログがお仕事の中で果たす役割も大きくなるのかもしれません。そんな記事を読みながら思っていたのは、また違うことで。人って毎日、「わけのわかること」ばかり考えているわけじゃない。周囲に見えることより、見えないことの方が圧倒的に多い。その見えないことは、実は自分にも見えていない。ある人が、「人の思っていることの範囲は、宇宙に匹敵すると言ってもいいくらいに、とても大きくて、深くて、わけのわからないもの」と言っていましたが、そう思うのです。いま、ここで書いていることも「今日はこれを書きましょう」と思って書いたことではなく、PCに向って何を書こうかと思って、あれこれ眺めて、その中で瞬間的に発酵してでてきたこと。でも、それは自分の中で言葉にならない想いとしてくすぶっていて、そのとき出会ったなにかとの組み合わせで、言葉となってあぶり出されたものなのでしょう。あいまいで、うまく言えないんだけど伝えてみたい言葉。日常、「勝ち・負け」「正解・不正解」を求めたがる一方で、そうではない、すぐに答えが見つからないけど、明快な考えとして言えないけど、自分にとってなにか価値を感じるもの。心地よいこと。怒りや悲しみを覚えること。生きて在る自分が、今日はいったいなにを感じていたのか。大きく出れば、自らの心や魂を揺さぶる場として、こうした所に書き置きたいという欲求が生まれるのかもしれません。(その割には、近頃、よくさぼりますけど)
2004.08.21
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「アライグマ調査を中止」。「鎌倉市と東京農大野生動物学研究室が共同で取り組んでいた、アライグマとハクビシンの生息状況調査を中止した」そうです。自然保護団体などからの反対運動を受け、同大が市に調査中止を申し出て、県内では初の本格的な生態調査が十分な成果を得られぬまま、とん挫してしまったと。農作物への被害に悩んでいる市は、調査研究の重要性から今後も調査方法や対策などを検討していくと話しているそうです。どんな調査研究のどの部分に、どんなクレームがついたのか定かではないのであまり言えませんが、う~む。野生動物を捕らえて、なにかをするということへの抗議なのでしょうか。人間の身勝手で、自然・生態のなにかをいじくるということへの異議ありなのでしょうか。自然に生きる動物は、土地開発などで次第に住む場所やえさを失い、人里へと降りてくる。(のかもしれない)人は人で、世代を継いでそこでこれからも生活を営んでいく。(のでしょう)土地に暮らす人も困っている、動物たちも命をもらったからには生きていきたい。共存や共生を、行政や専門機関、地域住民、そしてそれを客観的に監視し、意見を述べる人たち・・・などの相互意見の反映で成り立たせていけたらいいのにね。自然保護団体の反対運動の中には、そうした考え方も含まれた「反対」だったのでしょうか。人がそこで生きていくということを前提に、多くのたちで考えなければいけないことだと思うのですが、ただ「やめた」に追い込まれてしまう現状が寂しいですね。
2004.08.20
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■追記ここのデザイン、まだ要領を得ません。なのに、ついいじくってしまい、気がついたら、あらあら。いじればいじるほど、残心だ。こりゃあ。━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━「残身が美しい」。柔道女子63キロ級で優勝した谷本歩実さんを評して、上村春樹・日本柔道チームリーダーの言葉で、相手を投げた後の立ち姿のことだそうです。「残身」。「残心」とも、弓道では言います。射法八節の締めくくり、射の良し悪しがその姿に現れると。高校時代に弓道をやっていたのですが、この辺はどの武道も変わらない心持ちなのかもしれません。気持ちの乗った一射は、残身も残心も、大きく感じて途切れない。気負いもなく、す~っと自らの中に余韻を残し、射を閉じることができる。残身を意識するから残身が美しいわけではなく、その過程の一つひとつの射への心を配することで、射が実を結ぶのでしょう。日常の物事の過程で、生きて暮らす過程で、残身への想いはあるのだろうか。人は、いつかは死ぬ。明日、生きて暮らすという確証もない。8月という月が、日本の歴史の中で特別な意味を持つ月だからなのか、夏が終わりに近づいたからかどうなのか、歳のせいなのかわかりませんが、近頃、前にも増してそんなことを思うのです。昨日、友人の知り合いの女性が2歳と3歳の子どもを残し、肺がんで亡くなったということを知りました。さぞや心残りだったことでしょう。日々、人様の結果のみについつい心とらわれ、浮き足立って、風にただようオールのないボートのような有様でありますが、もう一度、何度でも、自分なりのていねいな一日を過ごす。そういうことに心を向けてみたいと思う、残り夏。
2004.08.18
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セミの幼虫のぬけがらが26匹。ムリムリ、ダレジャしてみましたが。延々と行進しているかのように、木のずっと上まで続いていました。だいたい、同じようなところに固まってありますね。こういうのは動物行動学的にナントカとか言ったりするでしょうか。とくにそういうものはないのでしょうか。6~7年間、同じ木の根の下、地中でそれぞれに過ごした者たちが、成虫としての時を同じくする者が、縁者として同じ木に集い、羽化して旅立つ。「お先に」「あいつ、先に行ったのか」そんなことはないでしょうけど。タテに長く続く、ぬけがらの在り様が夏の幕引きの近いことを感じさせてくれたのでした。
2004.08.16
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オレンジのやわらかい光が、お勝手の窓を染めていた。みそ汁のだしをとる匂い。魚を焼く匂い。トントンとなにかを刻む音がする。う~ん、猛烈にお腹がすいてきた。坂道だらけの旧い住宅街を縫いながら、浮かんでくるおかずは不思議と和の物ばかり。時間帯や場所が、そんな気持ちを誘うのでしょうか。誰かが、誰かのために夕飯の支度をしています。
2004.08.11
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街の歩道には生命(いのち)を終えたセミがあちこちに。まだまだ暑いとはいえ、夏は確実に過ぎてゆきます。アブラゼミやミンミンゼミだと、土の中に6年間いて、羽化してから1週間?2週間?ほどの生涯でしょうか。ひとしきり鳴き、次なる生命を産み落とす、ひと夏の生命。それが短いのか、そうでもないのか、セミに聞いたことがないのでわかりません。人は運良く生き通せれば、セミの2千倍以上は生きることになるのかな。顔も肉体的にも知らず知らず…否、知らないふりしながら衰えていく、朝起きたら変わらず、また自分であることを認めながらも、今日一日を生きてゆく。気持ちだけは、時計の針を止めたかのように一人時間差若者気分、の日もあります。街を行く若い世代と同じ位置で自分を見ていることもあります。どう年齢を重ねればいいのか、その理想はあってもほど遠く、ジグザクとジタバタと夏の歩道を歩いていました。
2004.08.10
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今夜は、サッカー アジアカップ決勝。残念ながら、ビデオ観戦になりそうです。日中両国の監督の記者会見の際、中国メディアからジーコ監督に辛らつな質問が飛んだそうです。(本日の朝日新聞スポーツ欄から)「中国には、『幸運は3度は続かない』ということわざがあるが、決勝も運に恵まれると思うか」「中国の大観衆のプレッシャーにどう勝つのか」「中田英らの主力の不在が優勝を逃した時の言い訳になるか」田舎にいた頃、母親がやり手の中国人のテーラーに長く勤めていました。「中華思想」という言葉を初めて知ったとき、「はっはぁ~」と思ったものです。そのときはですが。世界には、日本思想や米国思想もあれば、インド思想にブラジル思想もあるのかもしれない。国内にも、東京思想や大阪思想、九州・東北思想もあるのかもしれない。メディアの質問には、自らの意図するものに寄せて声を引き出したいというものがあるのかもしれないし、そう読み取っている、取ろうとしている自分もいます。すべて自分が外側から見て、一部を読み取って、相手はこうだろうと思い、感じているだけなのですが。国や地域、人、情報に対して、ほとんどそうしかできませんし、それはそれで構わないとは思うのです。ただ、自分が思い、感じるようには人は思わないかもしれない。そういうことを踏まえた上で、物言いや対応をしていかないといかんな。中国メディアの質問から、こんなことをあらためて考えました。以前なら、「勝手な質問しやがって」と自分勝手に思ったままでしたから。ジーコ監督の受け答えも素晴らしいと思いました。「コイントスなら単なる運だろうが、球にはいろいろなものがこもる。運とは練習を積んで呼び寄せるものだ」(運)「中国に来た時から感じていて、すでに克服した」(大観衆のプレッシャー)「これが今の日本のベストメンバーだ。彼らの資質と気持ちの強さを信じている」(主力メンバーの不在)ジーコ監督の声は、選手に向っている。RAH!RAH! ニッポン。さて、ジーコ監督の声を受けて、中国メディアはなんと報じたのでしょう?
2004.08.07
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「原爆の日」でしたね。違いましたね、やはり。「広島原爆記念日」なんて言いましたが、はずかしい。今日の「徹子の部屋」に出ていた、映画監督の黒木和雄さんのことが「天声人語」にも載っていました。TV番組内でも言っていたことと重なって印象に残りました。「私の戦争」(岩波ジュニア新書)の中で書かれているそうです。米軍機の空襲にあった際、一緒にいた人たちのほとんどが即死し、その中での友人が黒木さんに向って手を伸ばしたのだそうですが、ただひたすらに恐怖感が襲われ、友だちを置いて防空壕へと逃げ去ったと。「私は逃げたのです。瀕死の重傷を負った学友を救おうともせず、逃げてしまったのです」。そのときのことを、ずっと今に引きずり生きてきた。「なぜ自分だけが生き残ったのか」その黒木さんの映画、戦争レクイエムの第3作として「父と暮らせば」が東京・広島・長崎で先行上映されているそうです。10年前に観た、井上ひさしさんの同題の芝居を映画化。親友を失い、建物の下敷きになった父を見捨て、逃げてきたことを悔いて生きる美津江(宮沢りえ)の姿に重なった。原爆投下から3年目の広島で、生きながら悔い、幸せになることを拒む娘。父(原田芳雄)がひょうきんめの幽霊となって現れ、「わしの分まで生きてちょんだいよォ~」「おとったん、ありがとありました」(美津江)あの日のことを伝えていくために生きる。今週は、関係ないことに逃げ、明らかにムダな時間を過ごしました。ひとえに気持ち不足で、なにをやってるの? でした。でも、無意味な自分ではなかったと思うようにしたい。「わしの分まで生きてちょんだいよォ~」という声が聞こえてきます。もっとも、「わし」とは言ってないでしょうけど。
2004.08.06
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「NQ―人間を幸福にする『思いやり』指数」。NQ=ネットワーク指数韓国東国大学 新聞放送学 キム・ムゴン教授の著書のことを、雑誌で知りました。韓国ではベストセラーにもなったそうですね。「他人とのネートワークを、どれだけ上手につくれるか計る尺度」のことだそうです。21世紀、東アジアはネットワーク社会へのターニングポイントに立たされていて、その中で必要になってくるのは、学歴やコネではなく、思いやりや謙虚さをもって、周囲の人たちと共存共生する能力。人を幸せにすることで、NQが高まり、自分も幸せになると。特に新しい概念だとは思わないし、人が「自前の祭り」を欲するのもそういうことがあるからなのでしょう。なにかを解決できるから、そこに人が集まるのではなく、集まることで、お互いになにかを解決することを生み出せるかもしれない。仕事で言えば、分業・協業・共創、協働、得意と得意の掛け合わせ・・・こうしたことは前々から考え方としてあり、今の時代、また意識されていることだと思います。「NQ」という言葉にして表したら、人の心をつかんだ。既存の概念も、ネーミングひとつであらたな注目を浴びる。個人的には「NQ」の違うところへ目がいってしまいましたが、否定ではなく、感心しているのです。これまで関心のなかった人たちに、目を向けさせたのですから。でも、「NQ」って、いかにも学者的な表現だな。「祭り」とか「賑わい」「集まる」「友人・仲間と知人」などの方が伝わりやすいけど。概念のタイトルとしてどうかということはありますけど。でも、NQは、誰かになにかを促す、行動として人を刺激する言葉ではないと思います。あと、「思いやり指数」ねぇ。確かに、人を思いやることは想像力だと思うけど、それを他人が数値化して評するということ? こういう言葉は、自分の内に向ける場合と外側に向けるときと、う~む、考えなきゃいけないですね。自らの想いによって、誰かとつながり、新しい社会をつくっていきたい。人の気持ちが、よりそういうところに向っているのだろうな。ということは、「NQ」から感じました。
2004.08.05
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8月6日は、「広島原爆記念日」ですね。記念日というのも、なんだかですが、忘れてはいけない歴史。と、素直に。「ヒロシマ」は、世界に知られた言葉と言っていいのでしょうね。まだ、「ヒロシマ」に行ったことがありません。それが恥ずかしいことなのかどうかはわかりませんが、戦争や核兵器のおぞましさ、地球・人類に与えるダメージが、いかほどのものなのか、くらいには思いが向きます。Do‐ingとBe‐ing。重慶での日本サッカーチームに対する反応を観ていて、そんなことも感じました。上海や北京などでは、また違うのでしょうけれど。日本とアメリカ。日本と○○。アメリカと○○。欧米諸国と植民地。世界の民族間の争いごと。時代が変わり、人が変わっても、人のこれまでの過ちとこれからの関係づくり、感情的にもそう簡単にはいかないのでしょうね。民間レベルでの利害関係の絡むところでは、お互いニヤッとやりとりしながらも。なんだか、楽天、う~む、よくわからん・・・まま、いじってしまった。
2004.08.04
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