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生まれてくる子供の名前を付けるのに嬉しいケンカをしている夫婦がいます。長年待ち望んでやっと授かった子供です。二人は努力を重ねてきました。医師の指導の下、排卵日に合わせた計画妊娠にも挑戦し、「正直、味気なくなっちゃったよ」と言う表情に、それを聴いた者たちは悪いと思いつつも笑ってしまいました。医療にもかかり検査もしました。その結果、妻のからだには問題がありませんでした。夫は、最近の男性が言われている精子の数も少なく、勢いも弱いことが分りました。その上妻は高齢で、さらに妊娠できない。そこで提案され、選んだのが人工受精でした。1回で成功。男の子の一卵性双生児が生まれてきます。父親はずっーと前から決めていました。「男の子が生まれたら、琢朗(たくろう)と命名しよう。」と。しかし、二人とは思ってもいなかったので、どうしてももう一人の名前は出てきません。「もう一人はお前の好きな名前にしたらいいじゃあないか。いくら双子でも、違う人生を歩いて行った方がいいじゃん。」「それはそうよ。でも、その違う人生を力を合わせたり助け合ったりするんだよ、って気持ちを名前に表わしてやりたいのよ。」字画だの音だのにばかり関心があるのです。白川静氏の「字訓・字通」を拡げました。「琢」「朗」の字も調べました。やがて、やっと、自分が一番大事にしていることは何だというところまで行き着きました。野口先生から何度も言われてきたことがあります。「一生の間使う自分の名前ぐらいは徹底的に調べなさい。一度調べたくらいでは探検とはいえない。時間を置いて何回でも繰り返し繰り返し調べ直すんだ。その繰り返しのエネルギーが新しい何かを生み出してくれるのだ」(野口三千三)和語の一音一音・漢字の成り立ち、その意味を知る感動は、からだとことばの探索へと誘います。自分の名前を調べる楽しみも、新しい自分へと誘ってくれました。
Apr 29, 2008
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今日来ていただいた新しいお仲間は、ご夫婦です。でも、夫人のKさんは、精神のデイケアで今まで一緒に仕事をしてきた人です。思ってもいませんでした。野口体操に、仕事を越えて行動に繋がるまでの関心を寄せてもらっていたとは。伝わっていた…。繋がるよろこびです。夫君のNさんは、肺に血栓が出来て手術を受けたおからだです。「妻がそう言うのなら、野口体操とやらをやってみよう」と、新婚の二人はアツアツの乗りでやって来ました。お互いを気遣う優しいご夫婦です。授業の流れは、「呼吸」の最後でした。連休のため、お休みの方もおいでになって、「呼吸」の最後は次回にまわしましました。これは今までやって来た方達と一緒に学びたい。お二人のために、野口体操のそもそもの大前提のところを確認しました。5月からの予定を繰り上げての「野口体操・からだに貞(き)く」 (野口三千三著)に入りました。「私は、体操による人間変革は可能であると信じています」(野口三千三)ということばから始まるこの著書に添って、「体操による人間変革」とは何を指すのかをからだの動きで確認しながら進めて行きます。新しい人にとって野口体操のからだの動きはなかなか困難なようです。実際、野口先生のことばを板書して学んでいる内は容易に理解できる人も、その哲学・理論に添ってからだを動かし始めると、既存の「からだ・からだの動きの概念」を平気で持ち出してくるからです。それが、自分が大切にしていることと大きく離反していることに気づかずに。気づいて「気持ち悪い、なんだかヘンだ、こんなはずではなかった、繋がらない…、」など、自らに問い始める。それが、「体操による人間変革」への扉に手を掛けることです。「デイケアで体操をしていた時よりも、『水袋』が重要なんだと思いました。」とKさん。「初めての概念でした。」とNさん。大変そうだったけれど、楽しそうに感じました。先輩のメンバーが「いいご夫婦ですね。」とわざわざ言いに来てくれました。
Apr 27, 2008
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一つひとつの動きは独立していません。たしかに動きにはそれぞれ名前が付いています。だからでしょうか、どうしても一つひとつの動きをマスターしてゆこうと思ってしまわれます。「『後にょろ転』ね。」「『前にょろ転』ね。」「『後にょろ転』は出来るけど、『前にょろ転』は出来ません。どうなっているのか分んない…。」あ、後ろも前も同じ動きです。ゆっくり落ち着いて確かめてゆけば同じところを通っているのが分ります。一つの動きです。「波の動き」は前後・左右・斜め…、もっと厳密に言えば、同じところを寸分たがわず通れるわけではないのですから、通り道は無数にあります。それでも、その何処を通っても、必ず同じところを通る箇所があります。一つの動きです。「∞の字の動き」も「新しい手が出る動き」も一つの動きです。他の動きも、やっぱり一つの動きです。全部あわせて、それも一つの動きです。応用が利かないのは、一つひとつバラバラでマスターしたからです。からだがまるごと繋がって一人の人間であるように、どの動きも一つの原理に貫かれています。人という種が持っているからだの条件がその原理を決めているのです。そして、わたし達人間は自然の神によって創られた自然の一部であるのですから、一人の人間のからだの裏(なか)で起こっていることと、その人がそのからだを持って外で関わったことと、同じ一つの動きです。「からだは、大自然の神が自然の原理の霊妙さを、具体的に表現した特別作品である」(野口三千三)
Apr 24, 2008
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4月13日、山形からおいでになったYさんからお便りいただきました。遠方でやむなく「一回だけの体験参加」でしたが、それでもこんなにいろんな刺激があるのですね。一回だけではなあ…、ということがないといえば嘘になります。だから一回だけの方にはより本気になります。教室の感覚が残っていて、教室を離れたあとのからだに話しかけてゆくのですから。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「先日は大変お世話になりました。日常に追われているうち、あっという間に1週間が過ぎてしまいました。あの時は、教室の中の『相手を感じよう』、『相手に伝えよう』 という雰囲気を感じることはできたのですが、私自身がそれを同時に あるいはすごく短い時間で交互に することは全くできませんでした。ただ、思いをもらって帰ってきたという感じです。でも、水袋の感覚と『思いを持つ』 ということは残っていて、体を伸ばすとき、ゆするとき、うごこうとするとき時々 思い描いています。特に、水袋をただ床においただけではなく自分の手で持ち上げたり曲げたり動かしたりしたときの感じ、そのときの、水袋の動きを感じながら、このくらいなら大丈夫かなあと思いながら動かしていった感覚が皆さんの動きとともに 強く残っています。『~でなくてはならない』『~しなくてはならない』が支配している私のなかで、『私は今、どうなっているかなあ?こうするには何処を通るのがいちばん気持ちいいかなあ』という時間を たとえ たまにでも持てるようになったことは大きな幸せです。伸ばしてみて、痛いところがあったときな『んで、できないの?』ではなく、『ずっと 縮こまらせてきてしまったね、ごめんね』という気持ちになれるようになりました。今は。・・・・忘れないようにしたいです。 あの時は はじめのお話のときも、最後の感想のときもうまくしゃべることができませんでしたが、あらためて、なぜ 野口体操が心に引っ掛かっていたのだろう?と思い起こしてみました。思い出すことはいっぱいあるのですが、その中のひとつに日本語をとても大切にしているようにかんじられたという点があることに思い当たりました。『言葉がすべて』 ではないですが、『言葉はとても大切。日本人がどんな考え方でいきてきたかを伝えている』というのが、新鮮でもあり、本当にそうだなあ、とも思われました。あの時、思い出せなかったので・・・・・・ また、東京に行く機会を得ましたら、是非 参加させて下さい。遅くなりましたが、お礼と 感想。メールで失礼します。」 又来てくださいね、お待ちしています。
Apr 23, 2008
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日曜日、大阪の教室からやって来たMちゃんが、「東京の教室に行ってきました。」とMLに投稿してくれました。濤・渦・螺旋がその日のテーマでした。シルクに貞(き)きました。それを具体的なからだの動きに表わした「∞の字の動き」で、「『からだの流体力学』―つながり・つたはり・とほり……」(野口三千三)を楽しみました。「大阪教室1期でやった呼吸の回では下腹部が筋肉痛でしたが、今回はわき腹にきて、動くたびに「グゴガガ!」などと意味不明なうめき声を上げてます。」教室で普段やっている「逆立ち」も見てもいました。「どんな状態からでも逆立ちが出来るんだよ、と正座から逆立ちして元の正座に戻るなど、次々繰り出される動きになんじゃこりゃ~!なにが起こったのだ~!と思いましたが、『こういう動きが出来るだろう』と思いついた頭の柔軟性にも驚きです。」そして、文章の最後は、こんな感想が綴られていました。「■思ったこと長い間、野口体操をされている方が何人もおられたり、関西と関東の違いや、教室の回数など違いはたくさんあるけれど、大阪教室と何か根本的に違うぞ…と感じました。なにが違うんだろうな~と考えてたのですが、大阪は始まったばかりで、平面を広げていってる。東京は広げた平面を今度は下に掘っていっているイメージがしました。体操で動いてる時の空間の使い方も、東京では、例えるとボールにゴムがついていて、ひっぱって動かすと四方八方に動いて、他のボールと重なったり絡まったりするけど、手を離すと元の位置にパチンと戻る感じ。大阪は、空間が壁で1人用に区切られていて、その中を自由にコロコロ動くけど、壁の外には出ないよ、という感じ。誰かに当たったりしないかな?と気にかけているような。同じになるのがいいとは全く思ってませんが、自分の中身と教室と、バランスをとって成熟していくのかな~とぼんやりと考えました。」二つの教室の比較をしながら、直感的に捉えられていていることの意味は大きく、Mさんのことばを通して、一人で在るということ。その違った一人ひとりが集って関係を創るということ。継続することとは、長い時間をかけて熟成させてゆくことだということ。その熟成の中身こそ一人ひとりの中身の熟成であり、ほかならぬ教室の中身だということ…。が炙り出されて来ます。
Apr 22, 2008
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うひゃ~休憩!!の声にみんな雪崩れ込むように横になりました。しばらく肩で息をしていましたが、実はすごくうれしそうです。こんなにからだを投げ出して、ふうふう言っている彼らはあまり見たことはありません。脚で蹴りをやりました。次に、腕で突きをやったのです。「エィ」「ヤー」「トー」の中から掛け声を選んで、その掛け声とともにからだの中から腕が出てきます。腕だけではダメ、声だけではダメ。足の下から、地球の中心から声が、腕が出てこなくては。いつも無理をさせないように気を配っています。でも今日は、多分、彼らの予想を超えた長い時間、同じ動きに取り組みました。だって、ちっとも声がでないのです。何度もやり直して、練習して、少しずつ声がでてきました。これは乗り込んでゆくしかありませんでした。流れに乗る、調子に乗る…、ひっそりと暮らしを立てている彼らにはないことです。人前で大声もあまり出したことがないのではないでしょうか。終わって、休んでいたメンバーも全員集って一言、今日のデイケアでの印象や感想を話します。体操に参加したメンバーに残ったのは「蹴りや突きが楽しかった」でした。休んでいたメンバーからも「楽しそうだった」と声が掛かりました。少しづつ可能性を拡げていってもらいたい。からだの動きでアプローチします。やがて、自分から自分の動きを見つけ出していけたら…と願いつつ。「自分にとって最も『好きな、気持ちのいい、興味を持つ、大切な』動きを見つけることが大切である」(野口三千三)
Apr 21, 2008
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やってきました、大阪の教室から、Mちゃんが。大阪といっても滋賀県の奥、今津の方が住まいで、大阪の教室にも何時間も掛けてやって来ています。最初、「体力がないので続けられるかどうかもわからないのですが、とりあえず、一度試してみます」と申し込んできました。一度試した後、傍によって来ての質問も「からだの弱い私でも継続してやって行けるでしょうか?」でした。本当にからだが弱くて、それでもからだの動きををやりたいのなら、野口体操しかありませんと答えました。彼女は小学生の頃網膜剥離を患い、左目の視力は光を感じ取るぐらいしかありません。衝撃を起因とする網膜剥離もありますが、彼女の場合は全身の過労からの充血が原因で、それは右目も条件が揃えば同じです。一期が終わり、「当たり前のように普通に行きたくなる」と言って、二期にも参加してくれました。この東京の教室にMちゃんが居るのは不思議なぐらいで、それは多分Mちゃん自身にとっても夢のようなことではないかと思われます。今日は、いつもの教室の様子をそのまま感じてもらいたいと、今までの流れのに添って授業は進められました。「人間のからだの動きの基本は、『濤・うねり・渦・・螺旋』であり、その空間的・時間的・エネルギー的な変化の『伝わり・流れ』が本質なのである」(野口三千三)「∞の字の動き」を基本にして、その「空間的・時間的・エネルギー的な変化の『伝わり・流れ』」を確かめました。冬のさ中、夜行バスで来て下さったKさんのことを思い出しました。Kさんも、癌の病を克服してきた方でした。あの時も心配しました。Kさんも現在、大阪の二期に参加されています。KさんもMちゃんも、何に突き動かされてであれ、東京まで来て下さるというのは、並大抵のことではありません。まぶしい感じさえします。有難いことですし、大切にしなければばちが当ります。「大阪の教室と東京の教室では本質的な何かが違うと思いました。」と感じたMちゃん。Kさんも大阪に帰った後、何度もメールを下さいました。来ていただいたことが、お二人の何かのお役に立っているのでしょうか…。
Apr 20, 2008
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木曜教室、この教室では久しぶりに「寝にょろ」に取り組みました。二人でやる「対話の動き」の一つです。一人が寝て、背中全部を足の裏にします。重さを地球に預けているところが足の裏ですから、うつ伏せと共に、姿勢(ポーズ)の中で一番足の裏が広い姿勢です。それでも緊張から、重さを地球に預け切らない人がいます。もう一人は寝ている人に触れ、働きかけます。緊張しているからだには丁寧に優しく、「なで・さすり」や「ゆり・ふり」で話しかけてゆきます。絶対的な信頼関係が生まれるまで次の動きに進めません。ますます相手が緊張するからです。この段階を無視しては、「寝にょろ」の動きは成立しないと言っていいと思います。何が相手を信頼させるのか。地球の中心と安心して繋がらせてあげることです。それはどんな瞬間も、安心して立っているところを見つけてあげるということです。横たわるまるごと全体を、話しかける人のまるごと全体で感じとります。相手次第で自ずと手を添えるところも、触れ方も違ってきます。場合によっては、どこでも手にして相手に触れてゆきます。絶対的な信頼関係が成立すると、イメージの共有が生まれます。「からだは生きた水袋」(野口三千三)となります。話しかける人も、話しかけられる人も、「からだは生きた水袋」となり働きかけられた方向に流れてゆくようになります。脱力だけでは動きは生まれない、という助言は本当は必要ありません。そんな助言は、「からだは生きた水袋」を例え話に貶めてしまいます。実際「水袋」の端を持って高くしてみると、水は全く脱力状態なのに、確実に低いところに流れてゆきます。あの感度の良さ、つたわりの良さ、信頼し任せ…、感動です。
Apr 17, 2008
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舞台芸術学院の新学期の始まりです。去年十月から受け持った学生たちが進級し、二年生となっての再スタートです。演劇科では、新学期になってから始まる科目もあるのですから、半年早く出発していた野口体操はまだマシと言わねばなりません。それにしてもこの春休みで若者たちのからだは元に逆戻りです。からだの内側の変化より、外から見た形の方が気になるのです。固めて、頑張りで、何が何でも思う形にしたがります。カッコイイのは、もちろん大歓迎です。だから、何がカッコイイのか、です。美しくなければなりません。だから、何が美しいのか、です。大切なものは何か、も問われます。価値観の大転換を図って、からだが変わって、今まで誰もやったことのない演劇、観たことのないミュージカルをみんなの手で創ってゆくのだよ。誰かの後を追っかけるのではなく、自分たちから発せられた已むに已まれぬ表現を追い求めよ。未来はあなたに託されているのだから。大手のミュージカル劇団の後を追っかけていたってしょうがないでしょう。劇団☆☆なんてクソ喰ラエだよ。本気で訴えた時、彼らからウオーという声があがりました。そんなこと言われたって…もあり、そんなこと出来ないよ…もあり、その中に共感の響きも感じ取りました。価値観の転換、美意識の転換を図るには、その基準がなければなりません。その基準となるのは自分のからだです。自分のからだの中が耕されていなくてはなりません。よく耕されたからだから、芽が出、花開きます。思いがふつふつと沸きいずるのも、このからだからです。残る授業が楽しみだと言ってくれました。楽しみです。「常態の変化の『繋がり・つたはり・とほり・ながれ・まはり』のよさを力という。高度な情報能力(差異・関係・流動性)をもつからだをいいからだという」(野口三千三)
Apr 16, 2008
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昨日、日曜日の教室に参加されたSさんのブログからの転載です。2時間の授業のここが、こんな形で伝わり、そして、暮らしの中に落ちていたのだと手ごたえを感じます。Sさん、ありがとうございます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◆野口体操の経験から◆―Sさんの場合「《触れる、コミュニケーション》 今日の野口体操のテーマは、「ていねいに触れる」でした。ネニョロと呼ばれる動き、一人が身体の力を抜いて横になり、もう一人が身体を水袋として触れ、揺すり、ひっぱたり押したりの働きかけをし(これを語りかけると先生は言っていました。)される方は、語りかけられた相手とイメージを共有しながら動いていくというもの。「触れる」ということは、「語りかける」ことでもあり「受け止めて体液の変化を感じる」ことでもあるのです。最後に先生が言ったのが「介護福祉士という資格があるそうですが、触れること、触れ方の大切さ、働きかけることの、受けとめることの大切さという点で、この野口体操教室が資格を認定してあげたいと思うことがありますよ。」という話でした。教室が終わるころ、エチオピアに行っていた知り合いからメールが入っていました。12月まで体操教室に通っていた女性です。彼女はエチオピアのマザーテレサの施設で、病を抱えた子ども達のケアをボランティアでしてきたとのことでした。「言葉を持たない子ども達と接すると、言葉に頼らないからこそ、彼らの表情や握ってくる手の握力に集中することが出来て、濃密な時間を過ごすことが出来ました。ボランティアということについての考え方がすっかり変わってしまったんです。」と心に強く残る体験を知らせてくれました。「大学にも通い始めて、自分も変化して行くし、Sさんもイギリスに行き変化するでしょう。また是非話をしましょう。」そんな言葉で結ばれていました。奇しくも体操教室で取り組んだことと共通することが書いてあって、感心しました。言葉を介さないコミュニケーションに集中してていねいに取り組んだ彼女の気持ちがよく伝わってきたからです。午後には、義母を見舞いに老人ホームに行きました。今日の義母は殆ど言葉を発せず、今月から要介護度の高い人たちが暮らす居室に変わったためか、あまり元気がありませんでした。でも教室でのことと、エチオピアに言っていた彼女の言葉が頭にあったので言葉がなくてもコミュニケーションをあきらめず、足のマッサージをしたり爪を切ったり、と身体に触れながら話しかけました。言葉はあまりないものの、笑顔は出て、嬉しそうでした。言葉だけに頼らない、ていねいなコミュニケーションは、たとえ言葉がある人同士の間でも、意識したいと思います。言葉と身体の感覚が離れてしまわないように、言葉も感覚も大切にしたいものだと思いました。」「相手と向かい合って立った時、すでにこちらの全身の中身のすべてが、相手の全身の中身のすべてと、ことばでないことばで話し合い、通じ合い、融合っていなければならない。手は手であって手だけではなく、自分のまるごと全体なのである。そのような在り方の時に初めて、脚も腰も胸も顔も頭もすべてが必要に応じて新しい手となって、相手に触れて話しかけ、その触れ方によって瞬間の対話が成立するのである」(野口三千三)
Apr 14, 2008
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基本に返る。それは「未分化なまるごと全体」になることです。それは「原初生命体としての人間」の営みをすることです。さらに言えば、それは生命の起源・コアセルベートまで遡ることです。野口体操教室では体操の初めには「原初生命体の動き」として必ずやられています。基本に返る。その具体的な動きは「寝にょろ」「にょろ転」などで確かめられます。ここで「からだは生きた水袋」(野口三千三)の感覚がからだの隅々まで行きわたれば、後はいかようにも応用ができます。今日は、いつもよりもっと丁寧に、時間をかけて基本に返るチャンスです。何故って、新しい方が四人も体験学習においでになったのですから。山形から一回体験で、昨日夜カプセルホテルに泊まって来てくださったYさん。一月に脳梗塞を患い、その原因を自らの中に見つけだし再発予防をされようとするIさん。グループコミュニケーションを企業に提供されているNさん。かつて、スタッフ寺島康子の教室で学んでいた方。しかし初めての方達もそうですが、すでに野口体操に触れている人たちの方に伝えたい。例えば、「寝にょろ」は「対話の動き」でもあります。他人と組むことで今まで自覚されていなかったことが表に表れてきます。触れるとはどういうことか、丁寧に触れるとは何を指すか、自分のこと相手のことがどれだけ分っているのかからだの動きで、具体的に分かり合ってゆきます。何度やっても新しい発見があるような在り方に、厳しく身を置きたいと思います。
Apr 13, 2008
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大阪で野口体操教室が開かれています。一ヶ月一回で、半年。もう二期目に入って、昨日は二回目の日でした。今日初めての方がお二人、それに二期からの方と一期からの方達との混成クラスです。お年も様々で、男女もおよそ半々。この交じり合ったのがいい。おかげでいろいろなからだの動き表に現れてきました。他者の動きから学んでゆくことができます。「作用・反作用」をテーマにしました。「作用・反作用」が分らない、難しい、という声が寄せられていました。作用・反作用は、自分ののからだの重さを地球に働きかけた時(作用)の、地球からの贈り物(反作用)です。これは有難く受け止め、それを活かすことです。一見弾んで見えていなくとも、ゆっくりであれ速くであれわたし達は地球と繋がっている限り作用し、反作用をもらっています。「すべての動きにおいて、地球との対話、それは当然のこと、『作用・反作用』なのだ」(野口三千三)動きを変えて確かめました。「未分化なまるごと全体」「からだは生きた水袋」(野口三千三)から、からだの動きでひも解き、「おへその瞬き」「四つん這いの背中の動き」「腕立て弾み」「ぶら下げの動き」「波の動き」などの動きで確かめました。「腕立て弾み」時、からだの中で何が起こっているのだろうか…、ことばにもしました。様々な気づきのことばが引き継がれ繋がってゆきました。その中ではっきりしたことに一つに、男性たちは押し並べて「腕立て伏せ」の影響を根強く受けているということでした。体育教育の根深さを知らされます。「やっぱり分らない」「さっぱり分らない」という声も寄せられました。しかしその中に少し・ほんのちょっと兆しを感じているのも伝わってきます。そのほとんどが自分のからだに対する苦情ですが、その正確さに感度のよさを感じました。それが今の自分ならば、受け止めて行けば、その苦情はやがて気持ち良さに変わります。
Apr 12, 2008
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どうしたものか、思い悩んでいます。なかなか結論が出せないのです。行き詰まって散歩に出かけました。ちょっと立ち寄った友人の家で友人の息子が、玄米を炊くために買い求めた圧力釜の説明書を読んでいました。「俺、この会社嫌いだよ、権威的なんだもの。塩も玄米もこの会社の売り出しているものでなければ美味しくない、何もかもこの会社のモノを使えってさ。物事は最後はシンプルなはずだよ。」彼は突然、からだの動きを始めました。見たことのない動きでした。いい動きだな…、しばらく見ていました。何かことが起きた時こそ、その真価が問われます。何を大切にしているかの価値観、善悪から美醜までの美意識、年を重ねて取り入れたり捨てたりしてきた、今の思想から哲学まで問われます。選択を迫られて自然に出てくることばがあります。「『土・水・空気・光・植物その他すべての生きもの』『空間・時間・エネルギー……』、みんな自然の神の一つの姿である。今、自分が立っている大地や床はもちろん、自分自身や道具・楽器さえ神の一つの具体的な姿なのである」(野口三千三)長い間、野口体操で追い求めてきたものです。少しずつ立ち軸がはっきりしてきています。そして、少しずつシンプルになってきています。あとはもう、どちらでもいい…、あなたのいいようにどうぞ、と気持ちよく言えるようになってきています。帰って体操をしました。ああ、意識であれやこれやコネクリ回していたんだ…。
Apr 10, 2008
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もうどれだけやってきたでしょうか…。それでも、卒業式や入学式は晴れやかで新鮮な気持ちになり、緊張します。社会に送り出す責任、迎え入れ教育する責任に対する緊張でもあります。教師たちの話スピーチは、学生たちに向けられたものですが、聴き入ってしまいます。そうだ、そうだ、とまるで自分に言われているように聴いてしまうのは、今もなお現役で、夫々の専門の経験の中から出てきたことばの重さが伝わってくるからです。「入学おめでとう」「進級おめでとう」が飛び交う中で、人間国宝・野村萬氏のことばは印象的でした。「諸君のこの学校での期間は、冬の時代です。しかし冬眠をしていてはならない。」地中で、あるいは寒風・雪の中で力をつけて春を迎えるのだよ、というメッセ-ジであり、修行の厳しさに耐えろということでもあるのでしょう。プロの現代演劇などというものは、経済の目安がなければ成り立つものではなく、しかし、経済を劇団という組織で取り組むことになった時、よほどの覚悟と方法論を持たない限り、演劇本来の意味を見失ってゆきます。厳しい現実の中で、観客も自分も楽しめ、メッセージも伴ったプロのショーとして存在するミュージカルスターになりたがる若者たちの気持ちも分らないでもありません。学院での二年間を人生のゆとりの時間として、自己の成長に当てたいとする学生もいます。結果においては、プロになるよりもこの位置づけの方がはるかに多いのです。それにはこの学院での二年間は最適です。教師たちは現役のプロで、プロを育てる方法論しか持っていません。そのことが、例えプロにならない、なれないに関係なく、学生たちと教師たちを繋ぎます。学生たちは教師たちから「本気」と「情熱」、実現するための「具体」を学びます。これがあれば、演劇から離れても生き切ってゆけると確信して、教師たちはプロを育てる厳しさで、自分の専門を伝え続けます。「冬の時代」にどれだけ「力のもと」を身につけたか、は大きいと信じているのです。稽古とか修行の持つ緊張感、充足感はそれ自体、楽しみなものです。稽古嫌いな表現者はいません。「私は、私一人の部屋で、あるいは私の体操教室で、○○のようなことを勝手に言い出し、そのことを私一人で、あるいは教室のみんなと一緒に、『からだの動き』によって確かめていく。思いがけないことが起こってくるのでとても面白い。このような営みを私は『体操』と呼び、『からだに貞(き)く』という」(野口三千三)
Apr 9, 2008
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今日は天気予報どおりの春の嵐となりました。駅ではプラットホームにも乗れず、地下道にまで行列を作りました。東横線では落雷事故で電車も止まり、遅刻してくるスタッフもいました。「自分の乗っている電車に落雷だなんて…、嘘みたい…。」と信じられない表情です。都会は総ての災害に無防備で、弱い。これでは今言われている確率でホントに地震が来たら、劇画どころの話ではないでしょう。今日は台風みたいなものだから、教室の流れも変えて、「濤・渦・螺旋の動き」をやりました。「宇宙は流体であり、いろいろな渦巻き・螺旋構造の総体である。自分のからだもまた同じ。からだの動きのすべては『なみ(波・濤)』の動きであり、『渦巻・螺旋』の動きであり、「ゆり・ふり(揺・振・震・淘・汰)』の動きである」(野口三千三)このことばが現実的具体的に、「事実」として感じられるか、まるで絵空事のようにしか思えないかで、からだの動きは大きく違ってきます。その差は何が引き起こすのか、いろいろ考えられますが、はっきりしていることは、知的にだけどんなに知っていても行動には繋がらないということです。自分のからだの中身もまた「いろいろな渦巻き・螺旋構造の総体である」のならば、当然からだの動きもいろいろな渦巻き・螺旋になります。そこで、「ひねり逆立ち」をやりました。先ずは、一回転の前に半回転です。回転しながら逆立ちをして地球の中心と繋がれば、反作用はより勢いをつけて返って来ます。逆さに立つための頑張りや努力は少しもいりません。全てのことを、自分のからだと入れ子構造として捉えることができれば、宇宙の摂理も自分のこととして捉えることができましょう。台風も嵐も、土砂崩れも雪崩も、地震も…災害としてだけでなく、また違って感じられてくるはずです。この壮大なところに自分を立たせて、地球の中心と宇宙を繋ぐ自分のからだを感覚していることは,言いようのない喜びです。
Apr 8, 2008
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デイケアの終わった後のスタッフの話し合いに、時には精神科医が加わることもあります。この病院は廊下の両側に4つの診察室が並んでいて、夫々に医師がいます。待合室はもっと手前にあって、呼ばれた患者さんは廊下を進んで担当の医師の待っている部屋に入ります。デイケアの入り口は待合室と並んでいます。廊下の一番奥がデイケアのスッタッフルームです。診察室はいつもドアは開け放たれています。廊下をうつむいて歩いていても、部屋の中でカウンセリングが行われていることは気配で分ります。大学教授のTV解説に寄よれば、いろいろな理由が重なって、今は精神科医バブルだそうです。そのために、依存度の高い薬を投与して薬物中毒にさせ、自分の患者を獲得している。それを見分ける大切な目安は、カウンセリングが行われ話を充分に聴いてくれるか否か、だというのです。つまり、三秒診察で薬だけ与ている病院か否か判断しなさい、というのです。全くその通りですが、さらに、デイケアが設置され、それが正しく機能しているかどうかも大きな目安になります。何故なら、つい最近まで精神病院は閉鎖病棟がほとんどでした。入院患者さんは病院から外には出ることができず、中で何が行われているか見当もつかないだけではなく、差別・虐待がまかり通っていた病院も多くありました。解放病棟になり、町ともつながりができ、退院し暮らしも考えられるようになった時、その機会を与え、ケアーもできるのが、デイサービスです。それにはメンバーの担当医との連携が欠かせません。医師もデイケアの存在やスタッフを、治療の片腕と見ているようです。野口体操をしている時に見せるメンバイ一人ひとりの一つひとつの貌は、多くを語ります。カウンセリングや学問から読み解いた医師の判断と、デイケア室で仲間とやる作業にも加わりながら共に一日を過ごすスタッフと、突合せをするに価値があります。思わぬ発見もあれば教えられることも多い重要な時間です。「からだの『重さと思ひ』とが、同根のコトバであることが、からだの実感で分ったとき、新しい動きの世界が開かれる」(野口三千三)
Apr 7, 2008
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野口三千三が蒔いた種は先生亡き後も育っています。そのジャンルは広く、藝術関係から始まって精神医療、教育、スポーツに亘るまでです。殊に東京藝術大学では、1949年(35歳)に助教授として就任してから教授、名誉教授に到るまで心血を注ぎました。何処に行っても藝大で野口先生の授業を受けたという方がおいでになります。兄弟姉妹が野口先生の指導を受けて、「家に帰っても体操をしているのを見ていました」と言って教室においでになる方までを数えると大変な人数になります。藝大を卒業した方達が何十年も経て、再び野口体操に学ぼうと教室の門を叩かれるのは、本当に嬉しいことであり、身の引き締まることです。野口体操教室においでになる方達は偶然なのか、いや、そう偶然とも言えないと思うのは、そのほとんどは音楽関係の仕事をされていることです。音学することはからだと直結しています。本来人間の営みはからだと直結しています。例え、デスクワークであれ、パソコン関係であれです。昨今は演劇でさえ日常をそのまま舞台に乗せようとするごまかしがまかり通ります。今日も、藝大で野口先生に教えを受けた方がお仲間入りしてくださいました。在学中はバイオリン科で、現在は指揮者として活躍されています。若き日の野口先生の印象を伺いました。「先生はひたすら研究に没頭されて、それをそのまま教室に持ち込まれした。凄いと思ったのは、ご自分の求道された地点を自分のからだの動きで見せてくださった。」からだの中身の大切さにも触れられました。「指揮者が陥りがちになることの一つとして、自分のからだの中に音学が湧き起こらないで外側でごまかすことです。」これは指揮者でなくとも、表現の仕事をしている者すべてが陥りがちになる穴です。こんな話もされました。「野口体操の見事に論理的なのことは、学生の時から驚きでした。」そう。感覚的なところから入った者にとっても、やがてその論理性に納得させられてゆきます。終わって帰り道、また、こんな話もされました。「野口三千三という天才が、どう次の世代に受け継がれてゆくのか大変興味があります。天才の残したものが無惨な形で個人の金や権力に利用されているのを見てきました。」「僕は藝大の行きかえり、上野の公園を通り過ぎながらいつもおっかさん、おっかさんと言いながら、からだの重さを大地に預けながら地球に甘えて『おっかさん歩き』をしていました」(野口三千三)
Apr 6, 2008
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お豆腐屋さんで思わず言っていました。「ダイジョウブ、皆さんに喜んでもらえるし…。」今日はそういう一日でした。久しぶりに自電車に乗ってマッサージを施しに行って来ました。何人か、今でもお客様として繋がっていて下さいます。野口マッサージで生計の助けにしていた時のお客様です。例えば、看護士さんで勤務がまちまち、女性だから自宅に来てもらうのに好都合、何よりも自分のからだのことを熟知してもらっている、だから他の人には頼めないという関係です。でも今日の相手は違います。「背中が痛くて苦しいんです。へんな治療は受けたくない。どうしたらいいんでしょうか。」教室の方から相談の電話を貰いました。近くて自転車の範囲だし、辛そうで放っておけない…。明らかに背中の右半身が腫れています。しかしそこは触れないで、指から足の指まで、丁寧にマッサージを。その段階で、症状には少しも触れなかったのに背中の腫れが引きました。そして最後に腫れに手当て。からだは丸ごと繋がっていることを改めて実感します。「ぜんぜん違う、楽になりました。あの…、料金は?」いえ、いりません。喜んでいただけたし。お母さんから送ってもらったというお菓子を少し分けていただいて、帰り道は桜の花びらが肩にはらはらと降り注いで、上機嫌。遠回りして、お豆腐屋さんに寄りました。あ、あの人もお豆腐が欲しいかもしれない。「なんて嬉しい電話を呉れるんでしょう。」とお仲間の分まで大量の注文。他に、頼まれもしないのに、何時持って行っても大喜びしてくれる友達の分も。自電車の籠からこぼれ落ちそうになって、お豆腐屋さんも手伝ってくれます。「大丈夫ですか?」ダイジョウブ、お豆腐屋さんも友達も、皆さんに喜んでもらえるし…、わたしも…。でも、今日はどうしたことか、いつもの友達は留守。ぷらぷら自電車を引いて歩いていたら、ご近所の方に久しぶりにお会いしました。「肺炎で大変だったの。やっと少し良くなったら、なんだか急に冷奴が食べたくなって。スーパーではおいしいお豆腐がなくって。」あ、これ、どうぞ。いくら〇〇さんが留守で…と事情を話しても、「まあ嬉しい、ありがとう、ありがとう」の連発で、お豆腐の代金はきちっと貰ったのに。このところ気分はひどく落ち込んで引きこもりがちだったので、そして,引きこもるというのは大抵、人間から引きこもるわけで、皆さんに喜んでもらえる一日は、ちょっとした自前治療となりました。「ただし、この“気持ちいい”というコトバは、浅く考えると大変危険です。気持ちがいいとは何かと吟味する必要はありましょうが、これは理屈よりも日常の生活の中で、実際に生きていくほんとうの姿を素直に見つめれば、自然と解決していく問題ではないでしょうか」(野口三千三)
Apr 3, 2008
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豊田早苗の2回目の授業でした。只今研修中といったところですが、長く伝え手をやっている者も、長い間野口体操に学んでいる者も彼女から大いに教えられるものがあります。その丁寧さです。どこに着眼しているのか、何を大切にしているのか、それは選ばれるからだの動きに表れています。伝え方にも表れています。長い間やっていると雑になったり、マンネリ化されることはよく指摘され戒められます。初心者であったとしても、こんなに丁寧な在り方をしている人はそうはいません。これは多分、彼女の気質であり個性であり、そして才能でしょう。「野口体操で初めて落ち着きました」と言った彼女の内実が解けてくるようです。野口体操は本来、ていねいにやられるべきものです。勿論どの動きもスピードを変えて楽しみます。「決める動き」もあります。しかし基本的には、丁寧にゆっくりとやられるのが本来です。今日彼女が着眼したのは、「触れる」でした。「大事に両手で床に触れる」は、「触れる」を最初にこの動きまで遡るのは久しぶりでした。木の血管を話してくれた野口先生の声が聴こえて来ました。「まえにょろ転」「うしろにょろ転」で、掌で足の裏から、さらにはからだのどの部分でも、「大事に床に触れる」を経験しました。「歩幅を小さく歩いてみる」も、改めて新鮮な感覚で経験し直しました。「本当に大事に大事にやらなければならない。やるつもりでやれば誰でも、まるごと全体の中身が、触れる前と後までふくめて、大きく変わることがはっきり感じられてびっくりすることと思う。そして大事に触れることによってそこに生まれた感覚そのものが、何か貴重なものという感じにひたされ包まれていることを実感するであろう」(野口三千三 大事に両手で床にふれる より ) まず触れる、ここから働き掛け、その反作用をもらい、さまざまな動きが生まれてきます。落ち着いたやさしい時間に浸されました。
Apr 1, 2008
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