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幾つか教室を閉めてきました。どの教室も鮮明に憶えています。夫々の教室に個性があり、それが又独自の楽しさなのですが、それだけでは教室は存続できません。その楽しさはやがて飽きられます。本当の楽しさではないからです。それが個性であってもマンネリ化された時、教室は役割を終えます。あとは肩こりのため、腰痛のため、疲れを取るため、なんとはなしの健康のため、となります。しかしそれだけではなおさら、教室は存続できません。あなたもそうなの、私もそうよ、と慰めあい情報を交換して終わりです。その上、マッサージ、鍼灸、〇〇治療…、治療の種類も箇所もイヤというほどあり、患者さんは解決を求めて転々とします。教室が熟成しなくなったからです。教室を閉める度、教室を成熟させて行くにはどうしたらいいのか、さみしい思い、苦々しい思いをしながら学んできました。今日、10年間継続して来た恵比寿の教室を閉めました。何度も閉めようかという「危機」を乗り越えてきました。けれどもこのまま行くとこじんまりとなり過ぎ、個人レッスンの様相になってしまいます。今までの「危機」もそうでした。出きるとか出来ないとか、上手とか下手とかが目標になり、どうするの?とやり方や正しいお手本を求めるようになります。肝心の「その人の動き」が出てきません。行き詰まって、「原初生命体としての人間」(野口三千三著)を、最初から紐解くことにしました。またたくうちに軌道が修正されました。自分は本当は何を求めていたのか…、一人一人が自ら問い始めました。野口体操と自分との関係がはっきりすると、出きるとか出来ないとか、上手とか下手とかが目標ではなくなり、同じ下手でも出来ていなくとも、からだの動きが変わったのです。教室にとっても個人にとっても、今が一番良い時、これからという矢先に教室を閉めることになります。それが一番いいという気がします。みんな時間の都合をつけて、下落合の「検証と継承の教室」でさらなる自分と出会います。
Mar 31, 2008
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今日3月29日は、野口三千三のちょうど10年目の命日に当たります。以下の文章は、野口先生がお亡くなりになった時H出版社から依頼を受け、没になった原稿です。H出版社から、先生が家族について語られた部分のカットを要請され、それを拒否したことによります。夜も眠れないような毎日と、師を失った混乱の中で、限られた枚数で書かれたたものです。今読み返してみて、何もかも充分に語られているとは思えません。しかし、10年の節目に、先生とわたし達の最後の日々を書き残したものとして、お読みくださればありがたく思います。最後の「遺言としての授業」「今日は誰の当番なの?」と訪ねられて、私は戸惑った。3月8日に野口先生の病態が急変されてから、私たちはご遺族お許しを得てローテーションを組み、看護体制に入った。一秒たりとも先生をお一人にはできない、という気持ちからであった。私の中で先生の死が全く思い及ばなかったわけではなかった。しかし同時に私たちは、この体制が何年続いても良いと確認しあった。細やかな心遣いから、いつも一人の行動を選ばれる先生が、私の不安をよそにこの看護体制を承認されていた。「ありがとう。僕は幸せです。」何度も口にされて、却って、私は心細かった。3月29日、野口先生は逝っておしまいになった。「僕は美しい死に方をしたいとは考えていません。」先生はご自分が死んでゆくことを予感され、死を受け入れようとされていた。死に行く者の不安と病んで生きていることの不安、今ここにあることの総てをそのまま曝すかのように、先生は私たちにお見せになった。4年前のご病気の後、先生は、「遺言としての授業」を始められた.使命感や悲壮感のない、穏やかで明るい感じの授業であったが、その一回一回の授業はかけがえのなお重さで私のからだに滲みていった。この病室での看取りの日々こそが、先生の本当に最後の「遺言としての授業」となった。立つ姿勢での排尿は困難になっておられた。尿意は待ってはくれない、手際よく介助するしかない。先生、すみません、恥ずかしい思いをおさせして、と私は呟いた。「恥ずかしい感情などありません。老人の介護とはこういうものです。」体調の良い時など、先生は実に、楽しむかのように腕を組み、大胆に前を開き尿の取り方を指導された。先生はよく頭の不快感を訴えられた。「ねえ、ねえ…違和感があるの。」頭の置きどころのない苦しさから、「…膝枕をして。」とせがまれた。私は痺れで、足の感覚がなくなるまで先生の頭をさすった。「僕は小さな失敗を繰り返してばかりいるの。僕はおかしくなっています。すっかりダメになってしまった….」夜中に粗相をしたことをひどく気にされた。そして、そんなことで気を落としているご自分に又,気を落とされた。「ここは十二階だね。ここから飛び降りれば確実に死ねます。でもみんなに迷惑をかけてしまいます。死ぬことも、できない…。」先生、失敗したっていいじゃありませんか、という弟子のことばにこっくりと頷いて、目をと瞑られた。堰を切ったように話されることもあった。薦骨のこと、マッサージのこと、からだの動きのこと、甲骨文とやまとことばのこと…。そして付け加えられた。「僕を追っているだけではいけません。自分自身の考えを持つことです。」先生は又、さまざまな思いも語られた。意識がまだはっきりとされていた最後の日だった。「僕は家族についての考え方が間違っていました。家族とは、同じ家に住み、同じものを食べ、共に出かけ共に帰ってくる、平凡で、特別でなく、ほこりっぽいものです。その平凡な家族というものが一番基本で、大切で、安心なのです。僕は、安心が欲しい…。」この20日間、先生は実に正直でいらした。お元気な頃、「僕にはできない。できないから言っているのです。」と度々口にされた。そのお一つであったろう、何よりも困難なこと「負けて・参って・任せて・待つ」を、その生命の終わりに、見事に、自らのからだを投げ出して私たち弟子を相手に実践された。私が先生は死を覚悟しておいでになると、本当に感じたのは、先生の容態からではなかった。先生の見事としか言いようのない、まるごと全体を曝し切った姿を感じ取った時であった。甘え、苦しみ、おののき…そのどの姿も味わい深く、凛として美しかった。「僕が死んだら、遺体は捨てて欲しい。鴉に啄ませて、蛆がたかり、朽ち果てて行くのが理想だなあ。最後に骨は欲しい人が持って行って、飾ったり、身に付けたり、粉にして嘗めてくれる?」先生は入院前、授業の中でご自分の死に触れ、よくお話になった。本気で話しておられた。私たちも夫々に欲しい骨を告げ、先生は嬉しそうに頷かれた。ご遺族のはからいで、「僕の最後まで見届けてください。」という先生とのお約束は果たせた。先生がお遺骨になって目の前に横たえられなかったら、一ヶ月過ぎても実感の持てないままでいる先生の死が、観念としても受容できなかったかもしれない。先生がお亡くなりになって最初の私の教室に、生徒の手で白い菊が供えられ、先生を偲ぶ授業となった。野口先生の孫弟子である。彼等は、その暮らしや仕事の場で、医療・教育・福祉に、さらに表現者として「野口体操」を実践している。先生の蒔かれた種はどれほどの数になるのだろうか。野口三千三の処女作、「原初生命体としての人間」(三笠書房・1932年・57歳)の第一章は、「体操による人間変革」で始まる。あれから二十五年、先生は83歳になっておられた。最後の師走であった。恒例の年末の御挨拶に伺った時である。「体操で、革命が起こせるかもしれません。本当の人間の革命を…。」秘密を打ち明けるようなお声に力がこもった。「やっと実現しそうです。これはすごいことです。愛に満ちた体操、教室に育ちました。」確信されていた。深々とした笑みと、未来を思う少年の眼差しが忘れられない。先生。先生が「自分のからだの動きの実感を手がかりに、人間(自分)とは何か、自然地は何か、を探検する営みを体操という」と定義され、からだに「貞(き)」き続けられた「野口体操」は、先生亡き後も、時空を越え、一人ひとりのからだの「裏(なか)」で育まれてゆきます。あらゆることばはからだの動きの「実感」で洗い直され、「探検」という営みで繰り返し問われる。美意識が変わり、価値観が変わる。探り続けることで、その一人ひとりのからだの「裏(なか)」から次々と新しい感覚が生まれ出る、先生、わたし達の「体操による人間変革」の始まりです。 1998年、5月
Mar 29, 2008
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春は誰しも体調を整えるのに苦労します。天候は不安定です。新芽はエネルギーがありすぎます。待ちわびた春。けれども、よほど元気な人でない限り、春のエネルギーに負けてしまいます。そうでなくても、日常的な薬の服用は彼らのからだを一定のレベル以下にしています。薬と彼らの病気との関系は、まさに必要悪ということでしょうか。いつも、からだがだるい…。眼を瞑ればいつでもねむれます。休憩室から出てこようとしません。でも、ちょっと声をかけることで、やってみようかな、という気を起こしてもらえます。「声掛け」スタッフの大切な仕事です。どんな「声掛け」をするか、そこに高邁な愛情や高い理想はいりません。それがどんなに正しくとも、そんなことで彼等は動いてはくれません。むしろ距離ができるだけです。一般的であったり、常識的であったり、教育・説教的であったりは彼等の病気への否定です。それは、彼らそのものを否定することなのです。彼等は、幻聴や幻覚などの妄想は、処方をもとに服薬さえしていれば、自身でよく知っています。しかしその人の傾向、こだわりは強く持っています。病気とともに生涯を生きてゆくものにとって、もうそれは個性です。健常と言われている人たちの個性と、そうは違わないのです。自分をちゃんと見てくれているか、自分の今の状態をそのとおりに感じてもらっているか、彼等は微妙なところまで繊細に分ります。いや、むしろ微妙で繊細に分ってもらっているか、こそが肝心といえます。それから初めて、一般論、常識、時にはお説教さえも聴いてもらえることがあります。「ゲゲッ」と言おうが、「ダメダメ」と言おうが、「何ヤッテンダカ」と言おうが、彼らは自分を笑って客体化する力も充分持っています。ただし、すべて関係が取れてからです。「声掛け」は関係の現われなのです。「もともと、すべての感覚は根源的に『触』であり、『視・聴・嗅・味』も本質的には『触』の発展したものである」(野口三千三)
Mar 28, 2008
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今日。あれだけの人が申し合わせたように、誰もやって来ませんでした。初めて教室を持った頃そんなことがあって、そのこと、今も忘れないで憶えています。そして、今もそれは、そう変わりはありません。この季節、いろいろな区切りがあって、生活が変わります。何人もの人が長いお休みに入りました。野口先生の時代から見てきました。あの頃のように黙ってやめてしまわれる人はおいでになりません。みなさん「しばらく休みます」と言って下さいます。けれども、ほとんどの方はその理由は話してはいただけません。ほとんどの方は帰っておいでになることはありません。長い年月、深い付き合いだった方との突然の別れは、がっかりします。一方的に恋人から別れを告げられたように、すっかり、しょんぼりしてしまいます。こんな場合どう考えたらいいのか、どう対応したらいいのか、正直なからだの感覚と離して、分析したり考えたり、払い除けることはたやすいことです。カウンセリングを学んでいた時、教えられました。「黙って来なくなるのが一番いい。クライエントは自ら自立できたという実感を持って生きていける。お礼を言われたいと思うカウンセラーになるな。」と。いろいろ思い出して、それが自ずと分ける作業に繋がり、爽やかな気持ちになりました。「平成透明」「透明な重さの流れ」(野口三千三)が、からだの中を充たし通り流れてゆきました。三十分も過ぎた頃、Sさんがやって来ました。二人だけなので、「対話の動き」をやりたいと言われました。思えば、彼女と組んだことはありません。ていねいに伝えれば不思議なぐらい必ず圧倒的に良くなります。あんなに不器用だったSさんが、いつの間にだか、からだが変わっているのです。不器用ゆえに確かに変化しているのです。不器用ゆえに確かなように、不安定ゆえに本質的なことができる。誰もやって来ないチャンスを得て、この不安定な中に身を置いていくことを選び切ることができました。
Mar 27, 2008
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みんな卒業して巣立ってゆきます。なかなか子供を手放せない母親のように、身近にいた子供たちのざわめきが残ります。しかし新しい学生たちが待ち構えています。それを見事なことばで言い表したのは、今は亡き演出家金杉定男です。「卒業生は別れた女のようだ」と。かつて、ときめきながら一途に思っていた女、恋愛関係にあった女だというのです。しかし今、新しい女がいて、その女に夢中なのです。さみしいなあ、過ぎた恋の余韻を味わっていられるのは春休みの間だけです。卒業生から電話がありました。「来週水曜日、皆で遊びに行っていいですか?」どうぞどうぞ。「稽古があるのでそれまでの時間でいいですか?」では早目に10時からということで。そしてやって来ました。こんな時だけは休まないで参加するヤツはちゃんと居ます。遅刻気味だったのは遅刻して…。「ボビュ・デュランのレコードがあるじゃん」次々レコードがかけられ、「やばいよ」と自前のピザを喰い、話し、笑い…、楽しそうに見えて時々深いため息が漏れます。彼等は、卒業公演に向かって集中的にテンションが上げられ、その高揚が沸騰点まで行ったその時、「さあ、飛翔べ!!」と放り出されたのです。「めっちぁ、不安ですよ…。」「しばらくゆっくり考えた方がいいのか…。」「そんなことしていたら戻って来れなくなるんじゃないか…。」「〇〇劇団の研究所が受かりました。」「何も決まっていません。」演劇状況の見通しは今まで以上に甘くはありません。彼等卒業生の前途も決して平穏ではありません。心細くなったら何時でもおいで。「俺、ほんとに来ますよ。」みんなが帰ってもそっと残って、悩みを打ち明けた卒業生も居ます。家族の事情に悩まされて、一歩踏み出せないでいるのです。一緒に残った友が、五歳で離婚した両親とその後の自分達の歩いた道を話しています。友の、経験から来たことばの重みは何よりの励ましになったようです。「『交わる』ということに関して、大野晋 (岩波古語辞典)の『均一、同質のものが多くある中へ、異種、異質のものが加わって、その異質性を保ちながら一緒に存在する』という説明のあとに、私はさらに『そのことによって、新しい何ごとかが、今までにないものが、新しく生まれるということ、それが交わるということである』と付け加えたいのです」(野口三千三)
Mar 26, 2008
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1998年3月29日、野口三千三が逝ってからはや十年になります。「無我夢中」と言うのとも違う、「何とかここまでやって来た」と言っても違う、かと言って、「落ち着いて淡々と」と言うのも当たっていません。当たり前に、今、こうしてここに「検証と継承の教室」が存在しています。派手なところが一切無く、根源的で基本的なことを何よりも大切にしてきました。かといって陰気かと言えばそんなことはありません。明るく楽しくやっています。命日より少し早いけれど、先生のお墓参りに行ってきました。上野・寛永寺のお墓には新しいお塔婆が奉納してありました。ご長男が墓参されたのでした。脇に立つ桜の花はまだ固い蕾でした。でも今日は先生に素適な報告ができました。「野口体操の伝え手になりたい」と自ら申し出てくれた豊田早苗も一緒です。花崎・徳永・小関と共にこれからの教室を担っていってくれます。先生から直接薫陶を受けた者の「検証と継承の教室」を手渡してゆきます。「4月から新しく野口体操教室に所属するのですから、自分もお墓参りに行きます。」恵比寿教室から席を移したHさんの真面目な気持ちが伝わってきました。ありがとう。先生も喜ばれます。墓前では、いつものように野口体操をしました。「立波の動き」「横波」「∞の動き」「丹田から新しいお尻が…、新しい胸が…」「ぶら下げの動き」「逆立ち」墓前でやるに相応しい体操を野口三千三は自ら残して、弟子たちはその度に墓前で体操をします。至福の時間です。先生。「透明な重さの流れ」(野口三千三)になってきているでしょうか…。
Mar 25, 2008
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あと二回。恵比寿の教室です。Hさんの「波の動き」があまりにいいのです。からだのつたわりが良く、なめらかで自然なのです。この教室、始めてもう何年になりますか?「野口先生が亡くなられた次の月から始めました。多分十年になると思いますが…。」Hさんはこの教室を立ち上げた一人です。だからHさんの野口体操歴もちょうど十年になります。すでに定年退職を迎えていました。そのうちHさんは週に三回野口体操をやるようになっていました。決して暇に任せてやっているとは思えませんでした。「青春を取り戻したい」と言われました。何と言ったらいいのか…、こころざしとも言えるある決意すら感じました。七十五歳を越えた男性です。一番多感な年頃を軍隊精紳で叩き上げられて来ました。あと何ヶ月かすれば戦争に借り出されたのです。「こんなことをやっていたら昔なら張り倒されますよ。」繰り返し聴いたことばです。こんなこと、とは野口体操の動きです。野口体操の思想であり哲学です。「青春を取り戻したい」Hさんにとって野口体操とは「戦争に持って行かれてしまった青春」を取り戻すものです。何故十年間、週三回、ほとんど休むこともなく野口体操教室にやって来ることができるのか…。からだの動きが変わりました。「波の動き」があまりにいいのです。からだのつたわりが良く、なめらかで自然なのです。黙々と、しかし、しっかりとからだを張ってやられた一人の男の静かな反戦だと感じました。Hさんはこの後も、野口体操を続けます。恵比寿教室がなくなって週二回になるけれど。Hさんは教室に一番早くやってきます。自分のやるべきことを一途にやり続けてゆくことの深さ、意味、力を貰っています。「多くの職人や古典芸能などにおけるように、体操もまた、恍惚の人になるまでは、正しい練習を続ける限りの伸び続けて、奥深い堺地が開かれるような動きこそが、体操の本流でなければならないはずだ、と思うのです」(野口三千三)
Mar 24, 2008
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Nさんは、大阪の野口体操教室に参加されています。出発の時アンケートに、「とりあえず、やってみます」と書かれました。それが、一期の約束がまだ残っている頃から「ぜひ、二期も継続して」に変わられました。「迷っています。混乱しています。」と、言い続けながら…。Nさんの応募に寄せられたメッセージは次のようなものでした。■メッセージ「〇〇を17年ほどしていますが、トラブルを抱えながらも鍛えるというやり方に疑問を持ちました。そんな中で野口体操のメルマガに出会い一年近く購読させていただいております。体液をイメージする、ということは驚きにも似たものでした。とても興味があるのですが、なかなか実感ができません。一度体験したいと願っておりました。今回定期的に開催されるとのこと、楽しみにしております。」Nさんの迷いや混乱はどこから来ているのか。「トラブルを抱えながらも鍛えるというやり方に疑問を持ちました。」すべて、ここから来ていると見て取りました。Nさんは、関節を「鍛え」て可動範囲を広げたからだと、今まで「鍛え」について行った熱心さで、野口体操の世界にもからだを開こうとされました。彼女の心配は、〇〇の先輩で、同じく〇〇の指導者である母上のことでした。母上はもう三十年、指導者の立場で自分もお弟子さんも鍛え続けて来られました。しかし、母上は、膝・腰・頚椎…と、痛みで動くことが困難になってきておられます。それでも「トラブルを抱えながらも鍛えるというやり方」で、「型」に向かっておいでです。Nさんからメールが届きました。「2期がスタートしましたね。大きなうねりに繋がりそうで…、私もワクワクしています。これからもよろしくお願いいたします。二回目の「腕立てはずみ」、今回は痛みはどこにも出ませんでした。「ふわっ」はなかなか実感できませんが、「からだに無理なうごき」は理解できてきているのかな…、と思っています。さて、先日お願いいたしました母の東京教室への参加ですが昨夜連絡がありまして、23日に伺いたいたいとのことです。母の〇〇の生徒さんがひとり、体験を希望されているのでその方も同行したい、とのことですがよろしいでしょうか?」そして今日、母上と生徒さんははるか東北から野口体操教室にやって来られました。ああ、これは大変だったろうに…とその頑張りをいとおしく感じました。野口体操とは対極のところで、根本的・本質的に違うことをやって来られたのだなと直感もしました。驚くほどありのままに〇〇で「鍛え」て来たことを、その結果からだの不具合を引き起こしたことを、大変正直に話してくださいました。「月に二回は来たいです。」一緒にからだを潤わせてゆきましょう。「はたして、人間は猫より硬いのであろうか。それを検討するために、ここで柔らかさの本質を吟味しなければならない。従来の体操では、関節や人体の可動範囲が空間的・量的に大きいことを柔軟性があると言っている。しかし、そのような考え方で、生きている人間の柔らかさの概念を充たしてくれるであろうか」(野口三千三)
Mar 23, 2008
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教室に参加したいと申し込みがありました。「ヨガを始めて二年です。ヨガのインストラクターを目指しているんです。」いいですね ! 目指すものがあって精進できるなんて。「でも、他の人はほとんどプロようにからだが利いて、ワタシは今まで何もやったことがなくて、からだがものすごく硬いんです」硬いかどうか分りませんよ、勝手に決めないほうがいいですよ。「だから、ケガをしたんです。片脚で立つポーズで。」「怪我をして、それでもワタシ頑張りつづけて、からだが壊れてきました。」野口体操はあなたのやっていることの対極にあります。「でも、日曜日、人前で見せます。もう決まっているんです。」え?からだが壊れても頑張るあなたも悪いけど、そのままやらせている指導者も悪い。「本で中心軸のことが書かれていたので、それを教えてほしいんです。それと、力を入れるところと、力をぬくところを知りたいんです。」野口体操はヨガが上手になるためにあるのではありません。野口体操は野口体操そのものとして存在しています。その上で役に立つことはあります。皆さんご自分で役に立てておいでです。「気に入ったらやります。とりあえず四回体験コースで。」そして、その人は教室に来てくださいました。選ばれた動きは、「波の動き」でした。からだの動きに添っていつも中心軸を取りながら変化してゆく動き。その常態を保つために今必要なバランスは、バランスを崩すことでしか取ることができません。「直立不動」やポーズを良い姿勢と考える体操ではないのです。真っ直ぐ立つことも、ポーズも、ほんとうは微妙にバランスをコントロールしています。力ずくの頑張りのからだでは、バランスを取るためのコントロールはできません。力や意識ではバランスは取れません。「バランスを崩さなければバランスはとれない」「不安定を創り出す(バランスを崩す)能力は動きのエネルギーを創り出す能力である」(野口三千三)硬いのではないのです。力ずくでガンジガラメにしているからだなのです。そうしている自分を硬いからだとしか自覚はされていないだろうと思われました。よくここにきましたね。やさしくからだまるごと包んであげたくなるほどでした。気がついて、興味を持ってもらうことでしか解決に繋がらないだろうと思われました。
Mar 18, 2008
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あと2回で月曜日・恵比寿の教室が閉まることになります。でも、あまり現実感がないのです。もう一定の年齢まで年を重ねてきた人たちが集って、十年近く毎週、生きることをからだの動きで確かめてきたのですから。「野口体操を通して確かにからだが覚えたことがあります。このからだがあって生きている限り、からだの動きの実感で確かめながら、新しくことに当たって行くことです。と言えるまでになりました。」このことが分れば、ここから先は自分のからだの感覚を武器に生きてゆけます。教えられたことを越えて、自分自身の経験のことばが出てくるようにもなりました。自分のからだが本当に自然の一部であると言い切れるようにからだを磨いてきました。私のからだは自然の使徒であると自然の神様に平伏すことができるように体操をしてきました。しかし、野口体操の側から言えば、十年二十年は当たり前、まだ入り口に過ぎません。大阪の参加者が言い表わしました。「分ったような、分らないような、しかし野口体操は北極星のようです。」なんと、素適なことばでしょうか…。まだまだこの先、何時でもどこででもからだと共にいます。困難な時は、からだに返るのが一番です。もうあっけらかんとした若さはありません。幾つになっても困難で迷うことがあります。それがむしろ若さというものです。からだも老いて行くばかりです。それだから豊かでたっぷりとしたからだの中身で構えていられるのです。「『無限の可能性』と『残酷な宿命』の中をどのように歩いて行けばよいのか?その時大切なことは、『透明平静』な感覚で進むべき道をさがし選ぶことだ」野口三千三)
Mar 17, 2008
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久しぶりに、布を使って確かめて見ました。関節もない筋肉もない薄い一枚のシルク。それゆえに、シルクは重さのつたわりをひらひらと波打たせます。それゆえに、シルクは思いの方向に寄り添ってゆけます。その人の足は地球の中心と繋がり、その人の指に持たれたシルクは最も末端となります。シルクはからだの一部であり、からだはシルクの一部となります。シルクとからだが溶け合った時、人は一枚のシルクであり、そして、シルクは一つのからだです。そこまでじっくりからだとシルクを馴染ませるには、どうしても正しい呼吸が必要となります。息をつめたり力ずくでは、シルクはただの「もの」でしかありません。正しい呼吸がされ、からだとシルクが一体となった時、初めて「こと」を起こすことが出来ます。今日の「こと」は「∞の字の動き」です。シルクの「∞の字の流れ」のようにからだの中に「∞の字の流れ」が生まれます。小さな「∞の字の流れ」から大きな「∞の字の流れ」まで、まっすぐ立ったまま、横から、ななめから、前から、後ろから、からだのつたわりは全て「∞の字の流れ」であり、「∞の字の動き」です。シルクという「もの」が、からだの動きと呼吸との関係をはっきりさせてくれます。「もの」と「からだの動き」と「呼吸」がピッタリ一致する気持ちよさが味わえた時、世界がまた違って見えてきます。「呼吸は息であり『生気』である。ぜひとも自分自身の生き方の問題として、息の仕方を充分に検討してほしいと思う。呼吸の問題は限りなく多く、限りなく深く、限りなく新しく、さまざまな姿で自分の中にあらわれてる。そして一応解決するかに見えて、永遠に解決することはない」(野口三千三)
Mar 16, 2008
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舞台芸術学院の卒業式。出会いは時間の長さではないといいます。大げさに言えば百年付き合っていても出会いのない相手もいれば、初めて目が合ったその時に出会う人もいる、と言われます。舞・芸の学生との関係はどうなのでしょうか?このクラスとの出会いは、求められれば、クラス会や個人的な問題にも顔出し・口出しをして生まれました。個人的な出会いは、からだの動きと、動きから見えてきたその人の抱えている問題が一致した時生まれました。クラスや個人との深い関わりも今期が最後になるかもしれません。子供たちが少なくなり、教育現場の大人たちが少ない子供たちの取り合いをしています。敗れた学校が閉鎖されてゆきます。何が勝ち、何に敗れてゆくのでしょうか…。資本の論理です。資本の論理で教育運営することができるグループが勝つようです。舞台芸術学院は真っ直ぐで誠実に表現への道を追い求め続けてきました。しかし、ぼんくらにも資本の論理が欠落しているのかもしれません。ただ真っ直ぐに誠実に表現への道を追い求め続けるだけではダメなのでしょうか…。卒業生の顔を見ながら、卒業しても時々立ち寄れる母校が存続し、エネルギーをもらうために後輩たちの発表会が続けられていることを願いました。さあ、どの道を歩くにしても、誰かの焼きなおしだったり、真似だったり、追いつけ追い越せではない、自分だけが表現できる世界、自分しか表現できない世界、自分独自の表現を創り出してほしい。もう種・芽はからだの中に在るのだから。それを掘り起こし、磨き、育てあげるのです。「次々に流行する藝術上の主義主張に右往左往するな、右顧左眄するな。どんな時代であろうと、どんな国の人であろうと、人間の考えることだ。人間のすることだ。自分という人間の個の、ほんとうのあり方を、より深くより新しく、探検しつづけるならば、それがそのまま人間の真実なのだ」(野口三千三)
Mar 14, 2008
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Sさんとは野口先生ご存命の頃からの長い間のおつきあいです。Sさんのおつれ合いが突然倒れられました。マージャンをしていて、仲間の医師から「ちょっと様子がおかしいから」と受診を勧められました。脳腫瘍でした。手術は成功したとの担当医の報告でした。しかしその後、脳血管障碍が起りました。そしてほとんどの時間眠っておいでの状態となられました。Sさんのおつれ合いにはプライベートに手伝っていただいたことがあり、仕事場のトイレで転ばれた時、マッサージの依頼を受けたこともあります。Sさんは先生の弟子たちの教室にも通ってくださり、不器用なSさんによってかえって、教えるよりは教えられたことの方が多かったのでした。純情に野口体操を信頼して、十年二十年と休まず続けて来られました。おつれ合いも、Sさんも心配でした。とにかく顔を見なければ安心できない気持ちでした。ちょうどカテーテルの処置の時間がきて、ロビーの椅子で2時間ほどはなしました。「青天の霹靂だった。…でも本当はそうではなかったのね。血圧も高くて病院に通っていたし、机の中から糖尿病の薬も出てきた。私に心配かけまいとして言わなかったし、食事の制限を厳しくされるのもいやだったのね…。」「家に帰って一人になるのが怖い…、だから9時には布団を被って寝てしまうの。不安…。だから、朝10時には家を出てここに来るの。何も食べたくない、おなかの贅肉もなくなってしまった、でも眠れるから…。」分っていても、気が付かないでいたい夫を了解し許してしまうのです。やがてこうなってしまった後悔、不安、孤独、恐れ…、にからだの重さが地に落ちません。締め付けられて来て、定年後ゆったりした気持ちになったおつれ合いの生活パターンも、その夫に寄り添ってだけきたSさんのことも、充分理解できます。誰にでも起こり得ることです。高齢者の人口%は毎年更新されてゆきます。国も社会も、わたしたちも経験したことのない、後期高齢者を含んだ高齢社会が来ます。そうね、そうね、ただ聴くだけでした。先生の最晩年の稽古場におけることばを開いてみたくなりました。こんなメモがありました。聴き取りのメモです。「『自分』というのはないと気がついた。あるのは『関係』がある。野口三千三という独立したものはない。あってもそれだけではない。関係を全部断ち切ったら存在はなくなる。
Mar 13, 2008
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人の評価なんてどういう基準できめるのでしょうか…。卒業生に贈られる野尻賞を決めるのに、毎年教師たちは頭を抱えます。評価する側の価値観も変わります。その時代、その社会で価値観も変わってきます。才能と言たって、何を才能とするか、考え方によって大きく違います。素質となればなおさらです。「努力も才能の内」と言います。舞台芸術学院のチラシには、「努力と才能は仲がいい」というキャッチフレーズがあります。頑張ったね、努力したね、も基準は元から人によって違います。目標の定めかたも違っています。悩みぬいて引きこもっていて、家から初めて出てきた人もいれば、子供の頃から目標を決めて様々な訓練を受けてから来ている人、決まった劇団に入るための予備校として来ている者もいます。将来性も、先のことは何も見えないこの世界で保障は出来ません。実際卒業後、表現の世界で活動している者で「野尻賞」を受けたものはそうはいません。秀でた者がいない今年のミュージカルはしっとりとして、クラスの結束が伝わってきました。歌やダンスを競い合う感の強いミュージカルには珍しいことです。「クラス賞っていうのはどう?」初めて出た評価です。人の評価なんてどういう基準で決めるのでしょうか…。社会は評価したりされたりだけで成り立っています。私たちはそれに馴らされ慣れてしまって、評価しない世界を物足りないと感じるようになります。その人しか表現できない世界を、ただただ驚き、感動させてもらえればいい。嫉妬したり落ち込んだり、劣等感を持つことはないのです。そして私だけの世界を表現することができればいい。これでもない、これでもない、と発見に耕してゆくことに何の遠慮も要りません。そこに初めて評価ではない本当の関係が生まれます。違った観点も認めることができます。「野口三千三は、他から強制されることが大嫌いだ。しかし、すべての強制が悪だ不合理だとは考えていない。強制されることによって自分が守られることも多い」(野口三千三)
Mar 12, 2008
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野口三千三は「衆人は喉で、哲人は背骨で、真人は踵で呼吸する」の中で理想的な呼吸として、「踵で呼吸する」を取り上げています。「『踵で呼吸する』とは、事実としては、大隔膜呼吸を充分にしているが、それを全く無意識のうちに自然に行っていて、分析的な意味での呼吸器を働かせている感じがまったくない様をいう。」として、では何故「踵」なのかについては、「自然のうちに大隔膜呼吸が静かに行われているときは、地球との一体感があって、固い踵も開いている感じがあり、空気を呼吸しているというより、地球の中から『気』が通(かよ)ってくる感じがするからであろう」(野口三千三)と自分の経験に則って見事な解説をしています。今日は、「事実としては、大隔膜呼吸を充分にしているが、それを全く無意識のうちに自然に行っていて、分析的な意味での呼吸器を働かせている感じがまったくない様をいう。」という呼吸を実践してみたい、そして、どこまでにわれわれが自然で自由な呼吸ができるのか、できているのか、確かめてみたい、という気持ちが高まってきました。しかし、「お尻たたき」の動きで、すぐに頓挫してしまいました。ほとんど全員が息を止めており、それを悪しきこととして自己批判する人と、イヤ、これは息は止まっているが「吸気」の後の「保息」の常態である、と言う人もおり、つまるところ、まだ呼吸のことは「無意識のうちに自然に」行ってはいませんでした。「胸たたき」の動きでも同じことが言えます。一つひとつの動きをこうやって確かめてみると、究極の呼吸としての「無意識のうちに自然に」行われた呼吸ではなく、意識的訓練の行き届いていない、未熟な呼吸をしていることに気づかされます。毎日当たり前のようにやって来た呼吸ですが、まだまだ身につけなければならないことがいっぱいあります。やっと呼吸の門を叩いたところです。
Mar 11, 2008
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日曜日の教室にふらりと若者が訪ねて来ました。それは本当にふらりといった様子で、何の連絡もなく、いきなり突然、、もうそこまで来ているので、と言ってやってきました。「野口体操教室のメルマガを読んで、一度体験したいと思って宮崎から来ました。」それはそれはようこそ。しかし、迷子になったということで遅刻で、なんにも情報の交換もできぬまま、その青年は教室に腰を下ろし、体操を始めました。彼のために用意されたものは何もなく、教室は流れの中で進んでおり、しかもたった一回こっきりの体験では……、スタッフが一人横について補いました。あわててつくった「水袋」だけ触ってもらいました。「水袋」の威力が凄いのか、補ったスタッフの青年にかけたことばがピッタリはまったのか、その青年の動きに驚きました。こんなに驚いたのは、フランスのオリンピック選手(水泳)、ウラジミールさんの「対話の動き」以来でした。かけることばの情報を受け止め、からだの動きに変えてゆく力が抜群にいいのです。からだが丸ごと全体繋がっていて、新しく出されることばの情報が、からだまるごと全体に吸収されてゆきます。受けた情報だけからだが変化してゆきます。この青年のからだのあり様こそ柔らかいというのでしよう。観念的な意識で操作されているところがまったくないのです。彼の素直さこそ、柔らかさの原点です。「柔らかさの本質は『変化の可能性の豊かさ』にある」(野口三千三)わたし達伝え手は観念的な意識人間に苦労しています。その人たちにどれだけ時間を提供しているかしれません。意識が中心で意識でからだを支配している人は、情報は部分的な処理に終わります。からだまるごと全体が繋がらないのです。彼らには宝物のようなことばも伝わりません。観念で操作されるからです。それだけのせいなのに、「私はからだが固い」と逃げを打ちます。終わって、感想を聴きました。「僕は学生で、今日は卒業旅行の最後の日です。卒業したら教師になります。小学校の教師です。子供たちの前にからだを開いていたい、そう思っているときメルマガを読んで、それで野口体操教室に来ました。」この素直さを失わなければ、必ずやきっといい教師になることでしょう。
Mar 9, 2008
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★野口体操教室を大阪で★2期が、今日から始まり、そして無事終えました。これらから再び月1回、半年間、大阪の教室は継続されます。無事だったのかなあ…、いや、そうともいえません。初めて経験するからだの動きです。しかも初心者だけの集りです。詳しく言えば、うち半分は1期性、あとの半分は2期生。人数も30名近くはいます。先輩といえどもつまりは1期生で、6回しかやっていません。しかし、新しい人が入ってみると1期生と2期生の違いは鮮明になります。成果はっきりと現れます。6回といえども半年、半年かけてやってきた成果です。その間、個人の生きる場の中で体操は継続されていたのです。体操が出来るようになったのでもなく、上手くなったわけでもありません。当人からしてみれば、相変わらず雲をつかむような「不思議」はそのまんまかもしれません。でもはっきり今日から始めた後輩と違います。野口体操への信頼が違います。このままやっていってもいい、やってゆきたいという気持ちが伝わってきます。顔を合わせたその時からからだは開かれていて、思わず手を握り合いました。握手も、「た(手)のし(伸し)=楽しい」だったんですね。「野口体操をやる人って、何か問題を抱えている人が集まってくるんでしょ?」今日はじめて参加した方から聴かれました。いえ、それは誤解です。生きるのが困難だとか、生き辛いだとか、そんなことを指しているのであれば。逆に問題を抱えていない人っているの?問題を抱えていなければむしろおかしい。でもその場合の問題は問題が違います。その人の中にご機嫌に問題が生まれ、その人はご機嫌にその問題と取り組んでいるのです。悩み多い人からご機嫌な人まで、先輩後輩共にいることは凄く素敵なことです。先輩は後輩を包み込んで、なみ・うず・らせんを描きながら教室の質を濃くしてゆきたいと願っています。「からだの動きにおいて、からだの中身に、『なみ・うねり・ひねり、うづまき・ゆり・ふり』など、それらの多重構造の流れ、つたわりがないとき、その動きは『いのち』を失ったといってよく、新しい動きの世界は開かれない」(野口三千三)
Mar 8, 2008
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北海道からお電話を頂きました。話が噛み合わないのでよくよく聴いてみると、野口三千三の本が欲しいが、本屋さんでも注文できないので売っていただけないか、と。ええ?さらによくよくお聴きすると、友人からコピーしたビデオを貰ったのだが、「それに付いている野口三千三のことばを集めた本が欲しいと思いまして…」やっとビデオについている小冊子だと分りました。美しい声でおとなしいやさしい口調でした。あのビデオはコピーしてはいけないんですよ、断りが付いていますよ。ビデオと小冊子は対のもので、別々には販売はしておりません。「それをほしいのですが。」もっと優しい声でその女性は繰り返します。先生のことばはビデオをご覧になればその中でくりかえし紹介していますが、紙と鉛筆を用意なさってメモなさってはいかがですか?それにしても、あのビデオはコピーしてはいけないんですよ、コピーライトがついていますよ。「ビデオはまだ見ておりませんので。」ええ?「本は売っていただけないのですか?どこに売っているのですか?」コピーしてはいけない、ということには全く反応がありませんでした。同じようなことが多々あります。教室に参加している人が新しく参加してきた人に「買わなくていいわよ、私が買ったのを貸して上げるから。(コピーしてあげるから)」制作している者の目の前で明るく声をかけている様子に悪気はありません。それは失礼ですよ。でも、どうも伝わりません。スタッフの立場の人でも「今度、〇〇さんと一緒に見ま~す。」と明るいのです。それは失礼ですよ。「見せてもらうのは悪いことですか?」つぶらな目で見つめられてしまいました。うーん、そうねえ、めげずに、買うべきだという理由を5つも6つも挙げてしまいました。次に会った時に大きな声で「買いました~。」と言ってもらえたのは、売った・買ったというより分ってもらえたと思えて、凄く嬉しかった。言える人には言うのですが、ほとんど黙ってしまいます。その度に、ビデオ制作の五年間、その間のあれこれ、決して楽しかったことだけではないあれこれも思い出します。多分、ビデオとそれを創った人が繋がっているのは当事者だけで、そこにただ商品が存在するだけになっているのでしょう。野菜も…、モノも…、何もかも創った人とソレは分断され、貨幣とソレとのやり取りだけに終わります。どんなモノにも、そこから人間が感じられるようになったのは、実はビデオを制作してからでした。人間が、その人が、感じられないものは発信しない、受け取らない。そう決めて初めて、「もの」を「こと」にすることができます。からだの動きはもっともその人の現れです。「何かそこにある「『もの』が主体ではなく、『こと』が主体であり存在なのである。『こと』とは一言でいえば『関係及びその変化』といえよう」(野口三千三)
Mar 5, 2008
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サーカスを見てきました。さよなら『ドラリオン』そうです。スピード・迫力・芸術性において世界最高を誇り、東京凱旋公演として再度東京にやって来て、これが最終となるサーカスです。隣の席の子供が飽きてむずがるのを見ながら、田舎で見たサーカスを思い出しました。初めて自分で作った水色のワンピースを着て、今は亡き弟を連れてゆきました。弟はすぐに飽きて帰りたがりました。帰ると言っちゃあ、ダメだよ!!とあんなに約束したのに…。水色のワンピースと弟がぐずぐず言うのに困り果てたこと、座ったゴザの居心地の悪さ以外肝心のサーカスのことは何も憶えていません。それほど貧しいサーカスだったのでしょう。『ドラリオン』は違います。昭和三十年年代に、富山県の片田舎で見たサーカスとは比較にはなりません。東京だな、やっぱり。原宿に設備された立派なテント。決して待たせないお手洗いの設置。このサーカスのために用意された最新の設備。さて、その内容も中国のドラゴン・雑技と、西洋の歌・バレーを基本にした華やかな美しさが融合された世界でした。一年ほど前に見た中国雑技団よりは洗練されており、技術も数段上のように感じられました。人間技とは思えない見事なものでした。しかしここでもサーカスの中心は中国雑技でした。西洋の歌や踊りに彩られているのが、むしろ邪魔でした。全体を見渡せないほどの同時多発のショー、息を呑むスピード、厭きさせないリズムは、技術を伴い計算が行き届いていました。それが逆に舞台との一体感がもてませんでした。舞台がよそ事として勝手に進んでゆきました。縄跳びの二度の失敗にほっとしました。このスピードを支えているチームワークは凄いものでした。一歩間違えば死も招きかねないギリギリのエンタテイメントです。裏方と表舞台のチームワークの良さには敬服しました。舞台に立つ「技術者」と呼びたくなるようなタレントのチームワークにも感心しました。どれほどの練習が繰り替えされたのでしょうか。むしろ、その練習を見たいと思いました。こんなこと幾つまでやっていられるのだろうかとも思いました。決して老いたとは言えない道化師たちは、かつてサーカスの花形だったのだろうか…。そうだとして、道化師になれなかった花形たちはどこに消えたのか…。「私は『超』の世界を憧憬賛美して、それを目ざす価値観・美意識に抵抗を感ずることが多い。好ましい平凡というものは「人類も地球生物の一つの種である」ということを忘れないところから生まれる」(野口三千三)
Mar 4, 2008
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Hさんは、この大学病院の精神科デイケアのスタッフです。感覚のいいスタッフです。どんなスタッフがいるかでそのデイケアの内容が大きく変わります。スタッフの人間観がデイケアの内容を決めてゆくからです。Hさんは体調を崩して一年間の休職をされていました。復職して三ヶ月が経過しました。「まだ体調は本調子ではないんです。仕事のストレスからついつい食べてしまって、過食になってしまいます。でも、体操のあった週の一週間だけは無駄に食べなくてもいられます。体調もいいのです。カウンセリンを受けているM教授にも言いました。お伝えしておきたいと思いまして…。」M教授とは、この大学の精神の教授です。野口体操もこの教授によって看護大学で看護婦の卵たちに紹介されています。どんなことがMさんのからでの中で起こっているの?すぐでなくていいから、ことばにしてみてね。「はい。そうします。」その一つを、かれはこの後すぐに言語化してくれました。体操が終わって、今日のデイケアでの経験を全員で話し合う席で、聴きました。「呼吸のこと、初めて自覚しました。野放図に息を全部出し切ってしまうと、息が足りなくなってやりたいことも出来なくなると聴いて、ああそうなんだと思いました。」「今日の野口体操では、地球ということばを何度も聴きました。地球と繋がっているんだなあ、地球に働きかけて地球からエネルギーをもらっているんだ…。こんな壮大な中に身を置くことは普段はなかなか意識できません。らくになりました。」「『○○の為に体操をする』のではなく、『体操する(自然に貞く。からだに貞く)』ということが、生きること、生きるということの実際の姿である」(野口三千三)
Mar 3, 2008
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今日日曜クラスで珍しく、皆で演劇を観にでかけました。東京芸術座の幹部であり女優の岡田 恵さんが教室に参加されていて、スタジオ公演をご招待下さいました。ジョン・スタインベック原作/脚本・演出 杉本 孝司「はつかねずみと人間」久しぶりにしっかり創られた演劇を見ました。大変失礼な言い方ですが、誤解をおそれずにバッサリ言わせていただくと、こういう演劇を創っている劇団がいまだに健在であることに驚きました。客席にはこの劇団を支えるご高齢から若者までのお客様で満席でした。長年、若者の劇づくりの一端を担っていて、いつの間にかこういったキチンとした思想に支えられた演劇から遠ざかっていたのでした。いつか、ある演出家から言われたことがあります。「野口体操はいいよなあ。普遍的、本質的だからなあ。演劇はそうは行かない。何時も時代と共にいるからね。」と。それは、時代の変化をそのまま劇のテーマにしてゆくことを指しているのだろうか…。野口体操はその演出家に、今日観た演劇のような印象を与えているのだろうか…。しかし、「はつかねずみと人間」が感動を与えている大きな要因は、ストーリーの展開やテーマではありません。俳優たちの行き届いた表現に、人間を認められるからです。1930年代を生きた流れ労働者の肉体までは無理としても、途上人物たちの絶望と、夢への渇望は俳優たちのからだを通して伝わってきました。からだは時代と共にあります。ましてからだの動きは時代がつくりだした価値観・美意識に左右されます。良くも悪くも時代の影響を受け時代と共に変化してゆきます。野口体操教室が追い求めているのは、原初生命体と2008年が行き交う世界です。その世界から紡ぎ出されたからだの動きです。「私はいま『文明さん……、どうぞお先へ!!」と言う。私は、置き忘れた人間にとって大事なことを、取り零し見落とした大事なもの、気づかなかった貴重なものこと、などなど……、そのような身近なこと身の中(うち)のことを、丁寧に慎重に、見直し探し出し確かめ直し、言わば文化の穴を埋めること、文化の欠落を補習することを、授業という形で、出来る限りの力を尽してやっている」(野口三千三)
Mar 2, 2008
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病院の仕事はめちゃめちゃ楽しいのに、めちゃめちゃ疲れます。疲れるわけは、様子を感じながら、ほどよく、少しづつみんなの気持ちを高揚させてゆくことも役割の一つだからです。精神科の先生に真顔で言われたことがあります。「例え一時でもいい、彼らが、ああ楽しかったと本当に思えればそれだけでいい、野口体操は、彼らにほんとうの楽しいという時間を提供できます。」と。本来デイケアの役割は治療です。今だけ楽しい、それだけでは治療に繋がらないのではないか、と思っていました。精紳の仕事の何たるかを教えてもらった尊敬するスタッフから言われたことがあります。「例え一ヶ月に一回でも、経験は彼らのからだに残ります。野口体操は、彼らのからだに沁みこんでゆきます。」と。そうかもしれない、と実感できるようになったのは、彼らが待っていてくれるようになってからです。軽口も叩いてもらえるようになってきました。社会の片隅で、ひっそりと生きている彼らを取り巻く大半は、こだわりであり、嫌なことであり、怒り、孤独、不安、淋しさ、悲しみ…です。野口体操をやることで、その苦しみ辛さの反対側に楽しさが潜んでいたことを思い出してもらいたい。ね、からだの動きをしている今、この瞬間も、楽しいと感じることができているように。「楽しい」の語源である、「た(て)のし(伸し)は」、彼らが生きている実感を持つことに繋がりました。「特にすぐれることはなくてよい。平凡なことがよくできて、与えられた条件に素直に向かい合い、自分の能力に応じた反応ができればそれでよしとする(野口三千三)
Mar 1, 2008
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