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Tさんの介護記録です。「舅が二度目の脳内出血で救急車で運ばれました。去年の八月十九日、お盆休みで我が家に滞在してデイサービスに送り出したその夜、脳梗塞で今回と同じ病院に運ばれました。三週間程の入院の後、リハビリのため老健に転院しました。左半身の麻痺でした。それでも、まだまだ握力も足の感覚も残っていました。だから何とか、つかまり立ちして用を足すほどまでに回復できました。新しく出来たばかりの私立の施設が見つかりました。入会金不要で、一人一ヶ月二十万円の手ごろな施設です。子供たちが訪ねて行くにも近くにあり、何より、姑と夫婦二人となり合わせの部屋で、そのことが皆の気持ちを落ち着かせていました。舅姑と、家族のそれなりのリズムが出来て、何ヶ月も経っていません。発作は昨日の夕方でした。『ご機嫌で楽しそうだったのに…、分かれてから三十分もたっていない…。』と長女は悔やみます。八月の脳内出血より重篤なのは見て明らかです。『昨日からの出血は止まっています。吸収してくれれば少しは良くなるでしょうが、左半身の麻痺になられます。八十六歳という高齢ですから、合併症も心配されます。高血圧・コレステロール・糖尿病の数値が悪い。この病院では二~三週間。リハビリの病院に行けるかどうか…、その後、施設が受け入れてくれるほど回復できるかどうか…。」』担当医の話に「高齢ですから」のことばが何度も挟まります。見渡せば、どの病室も高齢者ばかりです。この病院だけではありません。義妹が小さな声でつぶやきます、『今度は自分たちの番ね…。』うん…。」このところ、人間の寿命は短いなあ、という気がしています。一生というものが見渡せるようになってきたのかもしれません。そう思うようになったら何もできないという人がいます。いや、だからやりたいことをやり切るのだという方向に舵を切る人もいます。残り少ないかぎりある命、どう燃やしてゆきましょうか。「生きがいとは時々刻々絶えず自己の内側から情報を得て、時々刻々絶えず自己を再構成・再創造し、その構成・創造の営みによって、自己の存在を再認識し納得することである」(野口三千三)
May 29, 2008
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「地道にコツコツ」というのは、昔も今も誰にでも与えられた確実で強い味方です。「ウサギとカメのお話」もあり、「努力は才能である」というコトバも輝いています。「東大を首席で卒業して後は学問を放棄しているヤツよりも、中卒でも勉強を続けた者の方が、やがて東大を追い越すのだ。」と、中学卒業の日に話てくれた先生の顔は今も憶えています。何を失っても最後にこの手が残っている。実際、真面目だけが取得と思い込んでいる不器用な友は、これだけを頼りにやっていました。今日、学生たちと「真向法」をやりました。正確に言えば、「真向法のやり方」を伝えました。四百幾つもある型から基本の動きを四つに絞ったこの動きは、野口三千三も「『真向法』は、下半身へ、あらゆる角度、立場から刺激を与えるものとして非常に優れたものである」(野口三千三)と高く評価していました。そして、一つ選ぶとしたら三番の開脚を選び、それに名前を付けました。「開脚座姿勢での上体の『ふんわべったり』→「仙台の夜」→「やすらぎの動き」(野口三千三)こだれけの名前の変更の裏(なか)には、それだけの経験の中身があります。やがて「やすらぎの動き」となるまでには、毎日、この動きに貞(き)つづけ、「地道にコツコツ」を愛おしみました。学生たちから「地道にコツコツ」が遠のいてゆきます。硬い関節はいやだぁ、柔らかくなりたぁい…。しかし、思い描いているのはカッコよく踊っている姿だけ。多少自由になる手先だけつかって小手先だけの動きはカッコよくありません。カッコいいよな、地道にコツコツ。
May 28, 2008
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野口三千三は言っています。「多くの職人や古典芸能などにおけるように、体操もまた、恍惚の人になるまでは、正しい練習を続ける限り伸び続けて、奥深い堺地が開かれるような動きこそが、体操の本流でなければならないはずだ、と思うのです」(野口三千三)お二人は恍惚の人ではありませんでした。八十歳を越えられた今も若々しく、あやかりたいとさえ思っていました。ある程度のご高齢から始められましたが、野口先生のご存命の頃からの生徒さんでした。わたし達は何度もお二人を、「教室の宝」と表現しました。「卒業したい」とお申し出がありました。お一人は、耳が不自由になられ、「教室には来ているだけと感じるようになったので、水泳をやりたい」とおっしやいました。もうお一人はお連れ合いが足腰が不自由になられ、「主人に連れ添ってリハビリに通いたい」とおっしゃいました。それも確かにそうでしょうが、もっと他の理由もおありだったに違いありません。そして、その理由はわたしたち伝え手・スタッフの側にあったのでは…と思っています。なんともさみしく、残念な思いは拭えません。わたし達に何が足りなかったのか、何を見落としていたのか、考えられることを論って、考察しました。同じことを野口先生も何度も味わわれました。ある時はその思いを話され、ある時は沈黙されました。もっと深い孤独感や絶望感であったろうことは想像に難くありません。教室を開き、来たいと言っていただける人はどなたでも受け入れ、伝えられることは惜しみなく伝えておいでになりました。からだに密着しからだから学び、やがて生命の起源から宇宙まで見渡した野口体操の世界のまるごと全体と繋がることはなかなか困難です。その一部にのみ繋がるここととは本質的に思いが違うと言えます。しかし、そのどこと繋がっていたいと思っている人をも受け入れ、そこから野口体操の全体に案内してゆくことを覚悟しなくてはならない、スタッフはそんな懐の広さを課されているのでしょうか…。
May 27, 2008
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野口三千三が「原初生命体の発想」として挙げれている七つの説の中で、一番難解なのは「体気主体説」。そもそも生命の起源・コアセルベートの中に、体気はどう位置づけられているのか?今日のテーマです。「生気、気力、気分、気がする、気にくわない、ものの気(け)気配、味気ない……。腹の虫がおさまらない、虫が好かない、虫酸(唾)が走る……。ピンとこない(くる)、膚が合わない(合う)、うまが合わない(合う)、後味、納得,・・・…このような気(き・け)とか虫とかなどのことばは、みんな『原初生命体の情報』と深いかかわりのあるものと思う」(野口三千三)「原初生命体の情報」の一言に胸の空くような「納得」をして、「気」が済みました。「気」という漢字、やまとことばの「き・け」、その両方が合体された現代日本語の「気」それらの全部が「原初生命体の情報」の中に統括されています。「気」(き・け)を重んじ大切にすること、それ故に、軽はずみに「気}(き・け)に逃げてしまわないこと、そして、「気」(き・け)をということばで言い表されるまがいもの・嘘・霊感商法・オカルトに敏感なこと、などなど、多方面、角度を変えた視点から話し合われました。「非意識主体説」(野口三千三)と深いかかわりのある「気」(き・け)は、個人において進化の極みにある人間にとっては、退化の方向に押しやられてしまっている。からだの動きにおいても「原初生命体の情報」としての「気」を集めました。「下丹田の流体力学」「四つん這いからの左右半身落とし」「地球から手の先にながれる気」「ワルツ」リズムを変え、スピードを変える時、「気」も変わります。どうした、「原初生命体の情報」は。
May 25, 2008
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この精神の病院は閉鎖病棟でした。一人の女性が立ちあがりました。宮本めぐみさんですj。開放病棟にするために、どれほどの苦労があったか知れません。長い歴史と習慣の中で当然のことになっていた閉鎖病棟から開放病棟に変革する、それは行政、地域、病院内の精神病に対する変革でもありました。一つの象徴がデイケアの設置でした。外部からはじめて医師が入り、デイケアには野口体操も呼ばれました。今、デイケアの利用者が減ってきています。医師たちがどんどん若くなり、デイケアを推薦する医師がいなくなったと言います。このままではでデイケアの存在が危ぶまれます。医師たちも心許ないが、デイケアのスタッフも悪い。病院側にデイケアの必要性を具体的に見せていないからです。その先が見えていないのです。デイケアは精神を病む人たちのその先の、どこに位置するのか、社会、あるいは地域の中で生活できるようになるためのステップなのです。デイケアの中の事象でのみ、あれこれどうこう言っているだけではなりません。それは、先だけを見て急がせる、今を大切にしないということではありません。アパートを決め、そこで生活するためだけでも大変な苦労です。段取りもさることながら、患者の不安と付き合いながら生活のリズムをつかんでゆく、それを最後まで気を抜くことなく見届けなければなりません。思い出して欲しい、精神の仕事をしようと決めた時のことを。思いやって欲しい、このデイケアを立ち上げた時の苦労を。イメージして欲しい、人間は本来どうであるのが幸せなのかを。この仕事は、まさに人間の仕事。感覚を磨かなければやれない仕事。「『事実と感覚と意識と表現』の間には多くのズレがあることを忘れてはならない』(野口三千三)
May 23, 2008
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からだの中の、「首」と名前の付いているところは、足首、手首、括れた腰、そして、頭の下にある首です。みんな細くて、細さがしなやかに変化して、その上下の動きを自由にしてくれます。足首の硬い人は「しゃがむ」「正座」が苦手で、転んでも怪我が大きい。手首の硬い人は「逆立ち」「四つん這い」「腕立て弾み」など手首を使う動きが不自由です。頭の下にある首は、からだの末端です。正座をしても、腰掛けても、四つん這いになっても、立っても、腕立て弾みの動きでも、常に末端の仕事をしています。イメージとしては気体です。髪の毛のさらさら、ひらひら感がそのまま首と直結している感じでもあります。そんなイメージを持つには、首はやっぱり楽でなくてななりません。本当は誰でも首は楽なのです。硬くもありません。ただ、すぐ上が頭で、そこは頭脳が在り、意識のタワーになっているので、硬くなるのだと思われます。その上、腕が両側にぶら下がっています。それだけ肩への負担は大きく、肩こりを越えて首まわり全域が凝り固まります。野口体操では「ぶら下げの動き」で「首との対話」をします。あんなに細い首の下に、あんなに大きくて重たい首がぶら下がっているのに、首はゆらゆら動いてくれません。重さに任せることができません。意識的になると硬くなる、を図式にしたように。それでもそのあとに、立って他の動きをやると首は楽になっています。首って固まりやすいんだなあ、首の自由さって大切なんだなあ、首だけゆすっても上手くいかないんだなあ、首の大切さと、しかし上手く行かないとからだが認識しただけでも、からだは変わります。「人間が人間であることにとって、最も重要な手と脳の土台である肩や首の柔軟性を失ってしまって、『人間は猫より硬いと思い込む』ことによって、みずからをこの硬さの中に閉じ込めてしまうことは、みずから人類の特権を放棄する自殺行為ではなかろうか。これこそ、人間のつくり上げた『概念』によってみずからを『疎外』するものというべきである」(野口三千三)
May 22, 2008
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「鍛える」という感覚からなかなか抜け出せません。例えば、その学生においては、ダンスの振りつけを練習に練習を重ねてやっと憶える。間違えなくなるまで練習するのが「からだで憶える」こと。それをまた繰り返し練習して、だんだん上手になる。新しい振りつけは又それを繰り返す。それが彼女の「鍛える」という感覚です。それ以外にやりかたを知らないのです。やってこなかったのです。彼女には、世間では褒められるに違いない条件が揃っています。真面目で、努力家で、一生懸命です。無遅刻無欠勤です。「とりあえず、あるものを詰めてきたんです」とご飯にフリカケだけの大きなタッパーを抱えていたのを見たことがあります。これには好感を持ちました。世話も焼き、進んで級長もしています。よせ、と言っても時間が来たら全員を集めてきます。「対話の動き」の時の組み合わせにまで世話を焼いて、「彼は自分で決めます、あなたな自分のことだけやればいい」と注意しなくてはなりません。そんなくり返しです。自分の持っている力は、もっと違うことで褒められたいと思ってもらいたいぐらいです。何か大事にしていることがあって、それが噛み合わないのです。でも肝心の、本人にとっても一番の目的である、からだが変わらないのです。それでは表現するからだになれないのです。自分の外に美しい・カッコいい「見本」があるので、それを追いかけ廻しているのです。いつも外にばかり関心が向いています。これでは、からだの中身が変わりません。からだとからだの動きの概念が変わりません。自分のからだを核にして全てを統合してとらえてゆけません。この学生の価値観・美意識はどこから来ているのか…、価値観・美意識をを形成した根深いところにあるものと話し合わねばなりません。「『基礎・基本』とは何か、『基礎体力』とは何か。」(野口三千三)
May 21, 2008
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精神のデイケアは、さまざまなメニューが用意されています。どのメニューを選ぶかは、主治医の判断の場合もあれば、個人の選択に任されている場合もあります。個人の選択の場合、参加するかしないか、メンバーの動機はつかみ難いところがあります。こだわりが強くなりがちな病気なので、それを解き明かすのは困難です。今日、新しいメンバーが二人加わりました。新しいメンバーが加わる時は、始まる前の打ち合わせも慎重になります。時にはその人を取り巻く状況も聴き、どんなことが問題で、どんなことに気を配らなければならないか、スタッフと話し合います。この打ち合わせがあって、だからこそ自在で自由な時間をメンバーと共に過ごせます。終わった後のスタッフとの「振り返り」もまた大切です。事前と事後の話し合いは、どの病院でも野口体操にだけやられています。それは、デイケアが治療の現場であること、野口体操が治療として位置づけられていることを意味します。このながれを創ったのは、看護婦の宮本めぐみさんです。本当の意味で、野口体操を深く精神の治療の現場・デイケアに引き入れてくれた人です。野口体操が人間(自分)と深く関わっていることを、デイケアで再認識させられました。初めて野口三千三が体操を定義したしたことばは、「体操とは自分自身のからだの動きを手がかりにして、人間とは何かを探検するいとなみである」(野口三千三)でした。そののち、考察の深まりと共にこの定義も少しずつ変わってゆきました。体操がその人のいとなみであれば、そして体操がその人のからだの内側のできごとであれば、体操とその人自身は当然のように密接な関係にあり、人間という概念にまで発展するのも当然と言えます。もう何ヶ月も前からデイケアの参加している彼らがなぜ野口体操のメニュー出る気になってくれたかは、スタッフにも解りません。「心配して、どきどきしていると言って、他のメンバーに聴いていました。」体操のこと、伝え手のこと、噂があるのだそうです。何と言われているの?「独特の体操と独特の先生だって言っていました。」へえ…。「でも、Cさんが、ハートの温ったかい体操と先生だって言ってましたよ。」それはありがとう。スタッフとのこんなやり取りも、参考になります。心配して、どきどきして、それを乗り越えて出てくれたのです。実際からだの動きをを見てみると、からだの中に力があるのです。体操でしか見て取ることの出来ない彼らの内実です。「続けてみたい、と思ってもら得るために声掛けをして見ます」
May 19, 2008
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「原初生命体の発想」(野口三千三)で言われている中で、一番難解なのは「体気主体説」―人間のからだには「気」が流れている(野口三千三)である、というご意見が参加されているSさんから寄せられました。改めてひも解きました。なんどやってても、いつだってもそうなのですが、また新しい発見がありました。考察が深まったのは、外岡豊彦氏の 「“気”の人間学」―気持ちよく生きることをねらって―が大きく影響をあたえてくれました。昭和五十年発行の「大乗禅」の特集です。ご自身も鬱病を患われ、また、「鬱病友の会」を主宰されて週一回御茶ノ水のマンションで友の会の人たちと共に時間を過ごされました。一年ほどご一緒させていただいたことがあります。その具体を通して書き上げられたこの特集文は、まさに「“気”の人間学」というに相応しい深い人間考察と、人への眼差しの豊かさがあります。そして、日本人だということを抜きにしては語ることの出来ない「気」の存在を教えてくれます。教室には多様な専門の人たちがいて、「スピリッツ」と「ホース」という英語が紹介されました。その違いとともに、日本語と英語の違いのみならず、言語感覚の源になっている生活観・暮らし、さらには哲学にまで言及している外岡豊彦氏の考察を楽しむことができました。「からだは生きた水袋」(野口三千三)から、「『体気』とは『からだを構成している生きている気体』」(野口三千三)となっていった時、野口三千三はどんなイメージを膨らませたのでしょうか。確かにからだの動きはその人の中で自由になり、充たされたからだを味わっているのでした。
May 18, 2008
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その葉書は、1999年のものでした。冷蔵庫に磁石で貼り付けられていました。その間、二度も引越しをしたのに、大事にとっておいては、再び貼り付けたのでした。「あなたが最後のおいでになってから二年たちました。予防治療にお出かけになってはいかがですか。」といった内容の歯科医院からのものです。探してみれば、四隅がボロボロになった診察カードも定期入れにきちんと入っていました。なんだか左側の奥の歯が痛い。この歯だろう、と特定も出来る。ずるずる放って置いてもいい痛さなので今まで来たけれど、このままずるずるという訳にもゆくまい。行きました。なんとカルテも取ってありました。1997年5月15日に最後の治療に行っていました。受付の女性は居なかったし、担当の歯科衛生士さんも十年前に辞めていましたが、先生も、もう一人の歯科衛生士さんもちゃんと憶えていてくれました。まるでづーっと通い続けているように自然に「こんにちは」と声をかけられ、ほっとして嬉しかった。'94年に撮った写真も出してくれ、その時と比べて少しも歯も歯周の状況も悪くはありません」と言うのです。「治療の必要なし。」そして言われたのは、「歯茎が多少磨り減っているのは、かつては力ずくで歯ブラシをするからだと言われていました。それもあるが、研究の結果、力を入れて噛み合わせていることが歯茎の磨り減りの原因になります。それだけではありません。他に、様々なト重大なラブルの原因としてクローズアップされています。あなたの左奥歯辺りが痛いのもそれです。正しい口の閉じ方は、唇はとじる。しかし上下の歯はくっつけない。くっつけるだけでもやらない。まして力を入れてはなお悪い。」力さえ入れなければ、歯はついているものだと思っていました。「イヤイヤ…」先生は写真入の本を持ってきて説明を始めます。そうか、そこまで…。「リラックスは人間にとって最も重要な概念であり、技術であるといえよう」(野口三千三)
May 16, 2008
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体力テストというやつを受けました。心臓機能の観点からのテストです。階段の昇り降りなの幾つかの測定がありますが、「トレッドミル」を受けました。ベルトの上を歩いて血圧、脈拍を見ながらスピードを上げて測定する方法です。高血圧と関連して、同じ心臓機能のテストを受けたことのある先輩からの助言は、「マジになってムキにならないことだよ。どこまで負荷をかけたら心臓麻痺になるかを調べるんだから、えらい目にあったよ。」しかしそうはゆきませんでした。ベルトの上に乗せられ、「無理しないで下さいね」と言いつつもレベルを上げてくるのです。やめてくれ、と言うまで。様々のことを学習しました。人は可能性を確かめたくなるということ。自分を知らないからか、知りたいからか。だから早めに、止めます、という気にならないのです。その中に、挑戦心が無いともいえません。レベルアップはそんなになだらかではないということ。シマッタ、と思うのは、次のレベルがやって来てからです。結構高いレベルでスピードを速めてきます。最初、脚の筋肉の存在を感じ始めました。次いで、お尻が後ろに出て、へっぴり腰になりました。やがて体制が崩れて地球と真っ直ぐ繋がっていられなくなり、手すりに寄りかかりたくなってきました。それから息切れが強くなります。「いいですねえ」と煽てられ、快調にいい汗を掻いたつもりで、終わってみれば温泉に入ったような全身の疲労感でした。自分の力の広げ方を事前にイメージできることが大切と言わねばなりません。怖がらず、無理せず、の両方見ながら。ただ、はっきりしていることは、どんな場合も、こんな初めての場面でも、リズムやスピードが変わる時の切り替えは大切です。ここでもイメージを即座に切り替えてゆくことが、全身が変わり、ベルトのスピードに応じて行けるのです。「人間の動きは、もともとこのようなイメージによってしかうごくことのできないもので……」(野口三千三)血圧を測っている担当者のことばも頷かされました。「心臓が丈夫過ぎてもダメなんですよ、アスリストや相撲取りは心臓を強くしすぎて、引退後元に戻せない人は病気になりがちです。年相応に優しく弱くなってゆくのがいいですよ。」
May 14, 2008
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伝えているつもりでも伝わっていない、それは伝わっていないのではなくて、伝えていなかったのだと自覚するべきです。さっき言ったばかりなのに、もう何回も言いました、何回言ったらわかるの、ちゃんと聴いていないからじゃないの、…どんどんエスカレートして行くようなら、人にものを伝えるのは止めねばなりません。人からもそんなに質問はしてはもらえません。表情を読み取るか、空けて敏感に向き合っていることで貞(き)くしかありません。幸いなことにからだの動きがあります。からだの動きは、伝え手と聴き手の間を繋ぐことばとなります。「からだの動きはことばであり、ことばはからだの動きである」(野口三千三)有難いことに、教室に参加されている方から真面目に質問を受けました。そうか、そんなふうに伝わっていたのか…、そこで、今日は、「コアセルベ-ト」(オパーリン)と、「原初生命体の発想」「原初生命体の動き」(野口三千三)がテーマになりました。「原初生命体の発想」は「原初生命体の動き」を生み出しました。哲学と具体の、理論と実技の一致です。この発想が、このからだの動きを生み出したのです。自由な発想・自由なからだの動きを越えて、宇宙レベルの雄大さから出てきたからだの動きです。こせこせと出来る出来ないの技術に視点を置くことではありません。まだ三回目のSさんの「腕立て弾み」がすばらしい。Sさんのからだの中で、「原初生命体の発想」と「原初生命体の動き」が一致しつつあるのだと感じました。
May 11, 2008
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あんまりそんな経験ないのですが、すっかりお上りさんのような気持ちにさせてくれる、でも、おのぼりさんのような気持ちが楽しかった。大阪の教室の帰り、ミナミというところにゆきました。大阪の人たちの案内なのがまた良いのだと思いました。雨もまた興を添えました。ほんの短い時間だったけれど、阪神が勝った時雄叫びを上げて飛び込む橋、エート、心斎橋だったっけ?傘で身動きできない混雑。写真を撮って、立ったまま大タコ焼きを食べて、落ち着きたくて関西味のうどん屋に入って、たっぷり味の素の味が大阪?ァ、時間だとそそくさと新大阪に向かって、その全体がこてこての大阪でした。それでも、隙間隙間に重くて、深い話をしました。楽しくって楽しくって。一ヶ月に一回だから、当然繰り返すことの意味も必然性がもあります。その中で、少しずつ動きを変化させてゆきます。もちろん全体の様子を見ながらです。自分とからだの動きとの関係も変化してゆきます。先月から、テーマを絞ってみました。先月は、「作用・反作用」でした。今回は、「筋肉」です。どこから入っても、結局は同じところに辿りつきます。結局は一つのことをだからです。「わたしはここで平仮名で“からだ”というコトバを使いましたが、これを言いかえて“こころ”と書いても、いっこうに差し支えありません。いずれにせよ、眼指すものは“人間”ですから。あるいは、“自然”という事になるわけですから」(野口三千三)うん。いいぞ、と思ったとき、新しい動きを加えます。今日は「ワルツ」でした。その意味は、と質問を受けました。「ワルツ」は、今までやってきたことの延長線上にあります。一ヶ月の熟成期間があることが思った以上の味わいを深めてゆくことを、大阪の教室で知りました。
May 10, 2008
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明日は大阪の野口体操教室の日です。今回は一人ひとりへのメールをやめることにしました。そしたらMLに沢山の投稿がありました。その中の一つを紹介します。Wさんの文章は以前にも紹介したことがあります。どんどん本質的になってゆきます。最も大切な学習の仕方への気づきにたどり着かれました。視点は自分に向けられてきたのです。そこを素直な自分のことばで綴られています。 ◆野口体操の経験から◆―Wさんの投稿「いつも先生には一人一人にメールを送っていただけているので、大変だな~と思いつつも、一ヶ月の間に感じたことをどうやって入れ込んで返信してやろうかと考えて、勝手に楽しませてもらっています。 先月の教室から、流れがどうも上手くいかないような感じがします。(今までも上手くいってたわけではないのですが。。)落とした重さをほんとにもらって伝わりを感じているのか??なんか違う気がするぞ。どっかで流れが止まっているのに体は動かしてしまっている気がするぞと。今までこれでよしと勘違いしていた事に気づいたのかも知れません。逆に、上手くやろうとするあまり、こうするんだという形をひっつけてしまっているのかも知れません。。 頭をひねって考えて、理屈をつけるのではなく、余計なものをとっぱらって、水袋のイメージで任せるんだよな~と思ってはいるのですが。。新しい技術や知識を付けるのではなく、余計なものを落として、脱いで、既にあるものをあるように流していく。それをこんなに難しくしてしまっているのは自分だし。。まぁ、できる・できないではなく、その動きが今の自分なんだよなぁと開き直って、土曜日お邪魔しようと思っています。宜しくお願いします。(追伸) 先日、自然農法の福岡正信という方の「自然に還る」という本を読んでいたら、その方が野口三千三先生と話したことがあると書いてありました。短い文でしたが、思いかけず、関心あること同士のつながりを発見できると嬉しいですね~!!」こんな人たちの集まりとして熟してきました。
May 9, 2008
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「小指に棘が刺さってもいい加減にしてはいけません。重大なことです。」(野口三千三)それほどに自分のからだを大切にしなさい、と言われて来ました。だから、大したことではない、とは言えないのですが、中腰で花に水をやっている時、チョットした拍子に腰にかすかな異変を感じました。その後すぐ手当てをしました。ホッカロンを当ててしばらく横になりました。病院の予約があって、呼吸器機能の検査を受ける日でした。これが結構ハードでした。サランラップの芯のような紙の筒を口に銜えて、検査が繰り返されます。「呼吸」のことについては過信もあって、少しムキになってしまいました。当然、腰に来ます。そのからだを、そのまま教室に持ってゆきました。どんな事態になっても今のから学んでゆくのが専門家の仕事です。まして体操が専門です。そのからだから学んだことは実感の伴った気づきです。包み隠すことなく晒ししていくのが伝え手の仕事です。「おへその瞬き」は表面的には「寝て起きる」体操です。単純なその動きで、からだの中身の流れ、人間はどこでも足の裏になれる、動きの基本は土台からから末端に伝わってゆく、思いとイメージと重さが一致して初めていい動きは生まれる…などを確かめられます。からだに支障があると、殊にはっきりします。その上、「どんな時でも、ここしか通ることの出来ないたった一つの道がある。動きとは、そこを、その都度丁寧に探してゆく営みである」(野口三千三)も、面白いほど分ります。しかも、たった一つしかないのがありがたい。健康な時も、何一つ支障が自覚されなくとも、「ここしか通ることの出来ない道がある。そこを、その都度丁寧に探してゆく」ことをやってきたのであれば、何を恐れることがありましょうか。今、この事態になっても、この時のこれしかない道を通るしかないのですから。おまけが付きました。そんなことを身に滲みて大事に感じながら動いていたら、腰の違和感は消えていました。
May 8, 2008
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先輩たちはこんな仕事をしています。いい舞台に出会うと在校生に、卒業生の舞台の紹介をします。今日、学生たちに紹介したのは、もう終んだ演劇なのですが、ONEOR8 新作公演「莫逆の犬」(ばくぎゃくのいぬ) 田村孝裕 作・演出こちらは、只今公演の真最中。モダンスイマーズ 初めての1ヶ月公演「夜行ホテル」 蓬莱竜太 作・演出6月1日まで、下北沢 OFF・OFFシアターで。舞台は、その全てを、俳優・表現者の演技・表現に収斂されます。台本も演出も、俳優・表現者の演技・表現に託され消えてなくなります。それらしく演じたり、フリをしたり、役割の説明をしたりはあってはならない。ひどいのは心理の説明をすることが演技だと思っている場合です。表現者は、役と自分自身とのスレスレの行ったり来たりの中でどれだけ生き切ることができるか。私たちは、それを見たくて劇場に引き寄せられるのです。そこに気づき、演技、表現の何たるかを追い求めている卒業生がいます。公演の度に、読んで涙が滲む手紙をもらいます。「いつも観て頂きありがとうjございます。役者としてのいたらなさを痛感している今日この頃です。知れば知る程、自分の出来なさかげんにガックリです。でもあがいてあがいてもう少しこの世界で頑張ってみます」 彼の裏方の仕事は最高です。彼が演出家を支え、裏表なく劇団員を束ね、この劇団をここまで存続させてきたと思えるほどです。しかし彼は舞台に役者としても立ってきました。「あがいて」…。裏方と役者の間に距離はありません。彼を見ていると、表現のテーマは、楽しみながらやられている裏の仕事と自分との関係の中に見出せるはずです。何ごとも自分と関係のない技術や方法論など、感心はしても感動はしません。からだの動きも同じです。「私の体操はかたちじゃない。中身が問題なんです。気分が問題なんです。イメージが問題なんです。生き方が問題なんです。……と言って、決してむずかしい高度な理屈を言ってるんじゃない。ただ、その素朴なところが、現代の人たちには、かえってむずかしいもの、奥深いものとして映るのじゃないでしょうか」(野口三千三)
May 7, 2008
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「野口体操-自 然直伝」(DVD)と小冊子・CDのお申し込みと、お問い合わせををいただきました。本当に有難いことと、感謝しております。ブログをお読みいただくことが、考えの助けになるだろうと申し上げました。「先ほど野口体操教室のホームページから『野口体操-自 然直伝』DVDを申し込みさせていただきました。共にと ても楽しみに待っています。ちなみにとても歴史のある教室という感想をホー ムページから感じたのですが、初心者では参加はきび しいですか?私は身体や動きが硬い方だと思うし、余り にレベルが高すぎるとつらいかなぁ、みなさんのご迷 惑になるのではないかなぁなどとの思いもあります。 もしお手数でなかったらそこのところどうお考えか教 えていただけたら幸いでです。」初心者であることも、身体や動きが硬い方だと思っておいでのことも、参加されることになんら関係ありません。そんなことで、みなさんの迷 惑になることだなど全くありません。とお答えしておきました。「どんな名医も最初は初心者であった」(野口三千三)「自分のからだが固いということ、運動神経が鈍いということを自分で結論づける能力が、いったい自分にあると思っているのだろうか。もう少し素直に、自分のからだを見つめてみる必要があるんじゃないだろうか。固い・柔らかい・鈍い・鋭いということはどんなことかを自分で考えてみたことがあるんだろうか」(野口三千三)野口三千三のこのことばは、二つの問いに関する全てを答えています。そしてこの問いに違う視点を持てるようになる過程が、野口体操です。からだのうごきの実感がそれを保障してくれます。それには、繰り返しからだに「問い、貞(き)く」しかありません。継続することです。必ず、からだが納得させてくれます。必ず、からだの動きが変わってくるからです。そのやり方は我がままで、個人的であるべきです。外側の基準はありません。一人ひとりの感覚は孤独です。自分の感覚が本当に自分自身の感覚になった時、初めて他者と自立した関係が持てます。いつかご一緒にからだの動きができることを願っていますj。ほんとに迷惑な時はちゃんと言いますよ。
May 6, 2008
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ゴールデンウイークのさなかに挟まれた日曜日。教室は開かれました。野口三千三の著書は、「原初生命体としての人間」「野口体操・からだに貞く」「野口体操・おもさに貞く」の三冊です。決して多くはないこの三冊の本は、だから、凝縮された世界です。一つのことばは他のことばと重なり合っています。どこから入っても、どこを切り取ってもいい。必ず他の全体と関わっています。他にも小文やインタビュー、いや、先生を訪ねてきた弟子からセールスマンに至るまで、到る所で発せられた野口三千三のことばは、三冊で一冊一つのことばと感じられてきます。あたかも、からだを「まるごと全体」として捉えた野口体操そのもののように…。今日のテーマ、「貞(き)く」もそんな意味を持っています。「占いの世界が人と神との関係の『貞』で、甲骨文が人と神との関係の文字であり、私の体操が意識としての自分と、神としての『からだ・自然』との関係によって成立するものなので、『からだに貞く』という事になる」(野口三千三)中国で甲骨文が発掘され解き明かされていった漢字の世界。漢字は、人が神(自然の摂理)に、「問い」「貞(き)く」占いの文字だったこと。体操という営みも、自分がからだという自然の摂理に、「問い」「貞(き)」き、占うことだ、と言っているのです。それにしても、人間は三十八億年の年月を掛けて、からだも、からだの動きも余計なものを身に付けてしまいました。それを手放しで「進化」と喜んでいいのでしょうか…。このからだでは「問い」「貞(き)く」ことができるのでしょうか…。「難しいです」先週から参加されたNさんから正直な声が出てきました。誠実な正直さでした。そうですね。でも、難しいからやって来られたんですよ。何年も何十年も、「問い」「貞(き)く」ことができたのです。「はい。そうですね。」正直な笑顔でした。
May 4, 2008
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すぐ近くに住むご夫婦が訪ねてみえました。二人は同じ学年の73歳と夫と72才の妻です。二人は、六十坪の土地の中の小さな家に住んでいます。残りの土地は花畑と野菜畑です。通りすがりに花に眼を奪われ脚が釘付けになってしまいます。それだけで、いつの間にか親しい友達になりました。いつも無農薬の野菜をいただきます。ピンポンと玄関のチャイムが鳴って、インターホンに出た時は、もう野菜だけ置いて帰る後姿が見えるだけです。お二人の前向きな生き方に、力を貰いました。二人は、凡そ十年前、60歳を過ぎてから再婚されました。パソコンのメールクラブで知り合いました。妻の嫁ぎ先で生活をする事情もあり、「結婚したい」と打ち明け、親族の了解を求めて、すべての人に反対されました。お互いの二人の子供を可愛がり、現在は四人とも独立しています。二人は早朝から畑をやり、よくお出かけの姿を見かけます。それだけでもスゴイのに、家を建て替えるというのです。「あなたの家と同じく屋根に青シートを掛ける状態になって、やっぱり立て替えるしかない。自分は建築関係だから分るが、最新の情報はいくら話しても彼女はイメージがもてない。具体的なところから共有したい。」それで、揃って見学訪問です。いやあ…、家を建てる苦労は楽しかったけれど、もう…。あの膨大な時間と底力のいる集中力は、野口体操の授業に注ぐだけ。二人は年金生活で、高齢です。しかも妻の方は、「からだが弱い」と言われて納得、見ても納得です。二の足踏んでも、おかしくはない。「何所からあの前向きな生き方が出てくるのだろうか」と言うことばがあるけれども、どこかから出してくるものでもない、ただ前向きな生き方があるだけ、その人の条件には関係ない、その人が前向きな生き方をするだけ。「感覚とは自分の『外界に向かっているもの』という強い先入観ができている。私は、感覚の本質とするものは、むしろ自分の内側に向かうもの、すなわち内側の情報を受容することにあると思う。自分自身とは、皮膚を含めその内側の中身だからである」(野口三千三)
May 2, 2008
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白川静さんのことばです。「1. 志あるを要す。 2. 恒あるを要す。 3. 識あるを要す。」宇宙レベルで捉えることと、漢字という具体の中で捉えることとを同時に進められました。漢字を調べれば調べるほど、漢字の中に宇宙の摂理が潜んでおり、それが宇宙レベルの広がりを持っていったのかもしれません。何所から入って行かれたにしても、宇宙の摂理と漢字は同じでした。その研究を進める基盤になっているのが上の3つのことばです。野口三千三もまた、宇宙レベルで捉えることと、からだという具体の中で捉えることとを同時に進めました。哲学・思想と、やることの具体が融合していなければその世界は広がりを持ちません。具体しかなければ、目の前のことに囚われてしまいます。最近身近に起こった一騒動も、この例に漏れません。本来の、あるいは目指すべく「志」がないのです。それで、仲間のマナーの悪さだけが気になるのです。自立した一人ひとりのマナーはもちろん必要です。気をつけるだけではなく、実行しましょう。一方で、そのことばかり目くじら立てて怒りを掻き立てないで、人を育て浸透させる懐の広さがなければ、その会も継続(恒)しない。育たないのです。均等に役割を決めて遂行する、などということは出来ないし、しなくていいのです。やれる人とやれない人がいていいのです。不平等でいいのです。決まりも少なければ少ないほどいいのです。「志」に繋がる本当の「識」がなければ仲間に対する愛情も生まれません。「1. 志あるを要す。 2. 恒あるを要す。 3. 識あるを要す。」は身近なグループでも要します。「ミネラル(岩石・鉱物・化石・隕石)を分ろうとすることは『地球』を分ろうとすること、そしてそれは、自分がどこから来たかの根源(究極の祖先)に遡ること……『宇宙―地球―人間―自分=自分の中身』とは何かを一体のものとして、探検する営みの原点でもあり、野口体操と呼ぶものの基本なのである」(野口三千三)
May 1, 2008
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