仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2011.10.13
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カテゴリ: 宮城
近代日本を牽引した重化学工業や軍需産業の厚みの少ない宮城県だが、船岡は違った。何といっても東洋一の火薬工場を抱えていた。巨大軍需施設の迎えた戦後と新しい産業の息吹など、船岡の昭和の歴史を記したい。


■関連する記事シリーズ
船岡と海軍火薬廠の歴史(その2) (2011年10月14日)
船岡と海軍火薬廠の歴史(その3) (2011年10月16日)

■朝日新聞仙台支局編『宮城風土記3完』宝文堂、1987年から
(なお、同書の船岡海軍火薬廠は、昭和60年に新聞に連載したとのことです。従って、下記記事中の人物の年齢や肩書きは当時のものです。)

1 建設の決定

昭和7年の上海事変のころから海軍内部で平塚の火薬廠以外に火薬工場を新設する話が出た。角田出身の元海軍中将保科善四郎さん(94)(終戦間際には軍務局長としてポツダム宣言受諾御前会議にも列席。戦後代議士4期。日本国防協会会長として軍需産業界のロビイスト活動を続ける。)は、当時軍務局課長の立場だったことから実家に近い船岡の丘陵地を推した。上司の軍務局長の主張する大分県なども候補に検討されたが、水の確保が容易で丘陵群が隠れ蓑になること、また冷水害に苦しむ農村の働き口という配慮もあり、12年秋に船岡に決定。柴田郡船岡村と伊具郡北郷村(現角田市)の丘陵595haに昭和14年8月海軍火薬本廠船岡支廠として開庁し、爆薬製造を始める。



2 軟弱地盤

船岡海軍火薬廠の活動状況を示す公的記録は処分されたため残っていない。柴田町の塚本寿雄さん(84)は船岡工場の製造部長、海軍大佐で終戦を迎えたが、当時について細かく記録しておられた。船岡に開設が本決まりになったのが12年12月。翌年正月から地元と相場の5割高で水田や山地の用地取得交渉を始める。14年8月開廠すると、軟弱地盤に悩まされた。陸自船岡駐屯地の正門を入ると左手に渡河訓練場大池があり、20mほど離れた古い渡河器材倉庫の建物が、コンクリートの土台ごと池の方に傾いているのが見えるが、これは火薬廠時代の建物(従業員の更衣洗身場)。正門は火薬廠当時は大沼門と呼ばれたように、かつて沼地だった。明治の干拓事業で水田に変わったが、大沼の外、赤沼、内沼、鍋沼、小金沢沼などもかつて存在し、火薬廠が進出した頃でも池やヨシ原が敷地内に残っていた。塚本回顧録によると、整地のための土石が一晩で泥に沈む、コンクリート製倉庫が1mも沈む、など軟弱地盤によるトラブルが多かった。塚本さんは、戦後出身の兵庫県姫路郊外に帰るつもりだったが、郷里の田畑は農地解放で人手に渡り、やむなく建設や危険物解体などの会社を転々としながら家族を養ってきた。元職業軍人に対する異郷の目は温かいものばかりではなく、跡地の米軍接収が解け工場誘致議論がさかんになったとき、塚本さんが危険を解いてまわったにもかかわらず忠告が無視され、進出企業のいくつかは軟弱地盤のトラブルを追体験する羽目になった。

また、有害廃液処分のため、白石川を渡り槻木地区を横切り岩沼市街地を抜けて貞山堀をまたぎ二の倉海岸で太平洋に注ぐ延長16kmの排水路(乙排水路)は、完工検査で通水しない。軟弱地盤のため埋設された管が折れたり外れたりしたのだ。工事責任者はノイローゼで自殺、一度も使われないまま、阿武隈川に放流する甲排水路だけでやりくりした。

引き込み線は船岡駅からではなく大河原駅から引かれたが、線路敷設後の試運転で機関車は丘の間の切り通しを過ぎて埋め立て地に踏み込んだ途端、ガクンと傾き動かなくなったという。

13年秋に工員実習生を募ったとき、地元が初めて建設中の施設は火薬工場と知り、近隣農村からも多数の若者が殺到した。試験の結果400人から50人が選ばれ、舞鶴の爆薬部で半年余りの実習を行い、14年5月に船岡に戻り、8月1日の開庁式を迎えた。

3 船岡駅の変遷

昭和10年の船岡村は604世帯、3705人が水害常襲地の田を耕す小農村に過ぎなかった。それが開廠1年後の15年には559世帯4745人、16年11月には町に昇格。生産がピークに達した19年には8475人(補正後実数約1万人)と倍増した。火薬廠近くの従業員は徒歩や自転車で通い、他県出身者には官舎や寮が用意されたが、近隣町から列車やバスで通う人たちの足の確保に、廠当局が最も悩まされた。通勤に最も使われた船岡駅は昭和4年地元の請願で設けられ、火薬廠から1km足らずだが、線路の反対側ホームの一方に小駅舎があるだけだった。ただ、開設当時の村長が周囲の反対を押し切って造った駅前の道路だけは幅が8間(15m)もあったが、火薬廠ができて千人を超す人が出退庁時間に集中し、線路に飛び降りて反対側に渡る状態になってしまった。16年春平塚から着任し、総務部で労務も担当した塚本中佐(前出)が仙台鉄道局に出かけ、駅舎やトイレの拡張、ホーム横断地下道の架設を何度も掛け合ったが、地下道の要求には抵抗された。仙台駅にさえ跨線橋しかないというのだ。それでも、事故が起きたら責任を取ってくれとはったりをかけて、結局跨線橋を造ってもらうことで妥協した。

4 戦火を免れた工場

火薬廠では、御真影や通信設備を移すための防空トンネルを本務事務所脇の杉山に、人力とツルハシで建設していた。また、海軍横須賀鎮守府は、空襲防備のため砲台建設を計画、船岡の上野山、亘理の三門山、角田の四方山を適地とした。上野山と三門山の頂上に口径12cmの高角砲を2門づつ据え付けたが、四方山砲台は整地作業半ばで終戦となった。火災や爆発時の被害抑止体制として、火薬庫や工場の建物は周囲に土塁を築き、周りは植樹による何層もの防火帯で囲んだ。

本土空襲は19年6月から再開され、軍事施設や工場はB29の猛爆下にさらされた。20年3月10日の東京大空襲の夜は仙南地方上空にもB29が飛来、不忘山腹に3機が激突炎上した。20年秋には本土上陸も計画されていたというから、その前に都市や軍事施設は徹底的に破壊するつもりだっただろう。東洋一の船岡工場が無傷で生き残れたのは、KOパンチを浴びる寸前の命拾いだった可能性が濃厚だ。

仙台大空襲のあった7月10日未明、海岸線を北上する敵機大編隊が通過し終えると思えたとき、突然沈黙していた三門山の砲台が火を噴いた。群れの中の一機が抜け出してきて爆弾を投下、やや仙台よりの民家が炎上したという。地元の人は、なんて余計なことをするんだ、といって顔を見合わせたという。

(その2) に続きます。)





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最終更新日  2011.10.16 16:39:00
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