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2025.03.28
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カテゴリ: 宮城


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遠藤温は、深谷屈指の豪農で名望家であり、戊辰戦争に際しては軍監増田繁幸の顧問格として従軍し、戦後は新しい宮城県の行政基盤確立に努め、政治家、弁護士として終始前向きに行動した人物である。



祖父の佐覚は、天保飢饉に家産を傾けて賑恤した。遠藤佐覚の天保賑恤については、石巻奥野屋久作の記す『天保耗歳鑑』に、斎藤善治右衛門と並んで記載がある。その後を継いだだけに、家計苦しく再建に苦労したが、天稟理財の才があり数年ならず旧に復したのでみな温の才幹に驚いたという。

幼少から読書を好んだが、医を志して涌谷の蘭医角川作庵に指示し、次いで、弘化2年(1845)23歳で、蘭医で儒者の涌谷家中坂元道逸の塾(拙存堂)に入門。おそらく道逸を通じて首藤杏村、十文字栗軒らを知り、涌谷出身の碩学斎藤竹堂に学ぶ機会を得る。こうした師友の影響で、温は医を捨てて経史経世の額に専念することになる。

嘉永2年(1849)27歳で藩校養賢堂に入学。学頭は大槻平泉。修学怠りなく疑義を諸儒に質して研鑽に努めた。矢本村酒造家桜井庭五郎の次女茂与と結婚し(年月不明)、嘉永5年30歳で、長女徳子(今五郎の妻)が出生。嘉永6年には醸法研究のため江戸を遊歴して大槻俊斎(赤井出身の蘭医)に投宿中、養賢堂の盟友だった岡啓輔(千仭)に勧められて府学昌平校に入学。安政元年には岡と横浜で初めて米艦を見る。昌平校の寮内でも書生間で開国鎖国の論が激しくなったが、温は家郷の事情で帰郷する。32歳。

安政3年、岡を伴い石巻に粟野一平(元仙台藩士だが官を辞し石巻で船問屋を営み文人墨客と論戦した人物)を訪ねる。安政5年次女直子(遠藤良吉妻)出生。安政6年藩に養賢堂資金として400両を献金し士籍(いわゆる献金番外士)を得る。

このころから勤王論者として活発な政治活動を始める。若いころ蘭医を志したことから海外に目を向けていたので、攘夷論には否定的だったが、王政復古の大義から尊攘派に与していた。同志には、三好監物、石沢俊平、岡啓輔、山内耕烟(本吉郡入谷の豪農で南画家として全国を遊歴修行した人物)ら。

万延元年(1860)、38歳。岡啓輔を仙台に訪ね、同道して大年寺で僧(弗云、良完)と時勢を論じ、安政の大獄を論難する。偶然にもその夜岡邸で井伊大老の変を知る。元治元年(1864)42歳には、岡啓輔を伴い大槻磐渓宅で磐渓(開国佐幕論)と激論。

明治元年正月、46歳。岡、茂貫大橘とともに、執政坂英力を訪ね、討会論を主張して激論。2月には、同志石沢俊平、岡啓輔と連署で、藩主伊達慶邦に討会建白書を提出。3月には、参政三好監物の命で、岡とともに奥羽鎮撫使一行(大山、世良両参謀)を松島に迎える。4月、討会軍に従軍、増田繁幸の幄謀に参与。閏4月、藩論一変し討会をやめ会津の謝罪嘆願を周旋することに決定。温は、参政坂本大炊と官軍参謀世良修蔵を訪ねるが、瀬上主膳(鹿又梅ノ木邑主)らの世良殺戮で水泡に帰し、憤然と帰郷する。以後、岡啓輔、山内耕烟らと謀り三好監物を擁してクーデターを期したが事前に露見。三好は自刃、岡は投獄、温は湖上や山中に潜み捕吏をのがれる。

明治元年9月、仙台藩降伏。ふたたび増田繁幸らに招かれ、帰順係応接方として復職出仕。46歳。氏家厚時、増田らの降伏謝罪の内議に与ったり、遠藤充信に属して政府軍との交渉にあたる。10月、新政府の召喚で上京する藩主父子に従い、世子宗敦の侍読となる。

明治2年2月、世子の帰仙で、温は請うて昌平校に再入学し、舎長、大学中助教に抜擢される。47歳。

明治3年5月仙台藩の参事氏家厚時らに請われ、仙台藩少参事に就任。長女徳子に迎えて嗣としていた今五郎(松山茂庭氏家中大友盛)に家産を任せ自身は仙台南光院丁に別宅を設け移る。明治4年仙台県権参事となる。50歳。在任中は地租改正に尽力し、その成功の速さは府県中第一だったとされる。

明治6年、学制が発布されると、温は参事塩谷良翰とその実施計画を策定。地租改正同様に県下の事情をよく踏まえたため、文部省の基準を下回ったに関わらず高く評価され、以後全国のモデルプランになったという。明治7年、嫡孫久三郎出生。



明治12年(1879)府県会がはじめて開かれると、温は仙台区から選出されて県会議員、同副議長になる。57歳。議長は増田繁幸。明治17年には、県会第5代議長。明治23年、第一回総選挙に宮城第5区(桃生、牡鹿、本吉)から当選、代議士となる。温は平生藩閥政治を非難し、立憲政治の本義を主張していたので経綸大いに期待されたが、翌24年病に倒れ辞職。以後在褥6年、明治29年(1896)6月4日逝去。74歳。

碑は松島町瑞巌寺境内。維新で勤王派として大義を標榜した温の盟友で、漢学者でもある岡千仭の撰文である。書き手は当代きっての書家鳴鶴日下部東作である。





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最終更新日  2025.04.03 22:43:25
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