仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2025.07.06
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カテゴリ: 宮城




(見出し)
宮城・元若柳町長 菅原さん
14歳 海軍火薬廠に動員
少年少女が危険な業務

(以下、記事の要約引用)
現在の柴田町と角田市の境にあった旧海軍の大規模火薬工場(第一海軍火薬廠)は、面積530万m2、東洋一の規模を誇る火薬工場で、終戦まで約3万トンを製造した。終戦直前には1万人以上が勤務し、1944年からは約3千人が学徒動員された。

菅原郁夫さん(94歳)は、戦後80年を機に、少年少女が危険な場に駆り出された戦争の実像を若い世代に伝えるため、これまで口にすることのなかった経験を語った。

菅原さんは若柳町に生まれ、若柳国民学校高等科2年を卒業した45年3月に、14歳で勤労少年として第一海軍火薬廠に終戦まで5か月ほど動員された。海軍飛行予科練習生に合格しており、入隊通知が届くまでの勤務を教師に勧められた。早く兵隊になり命を落としても国に尽くしたいという気持ちを抑えて、県南の女子学生らに交じって仕事に励んだ。



玉音放送は仕事中で聞けず、上司から敗戦を聞いた。悔しさや悲しみもなく、入隊はなくなった、若柳の親元に帰れるなあ、ぐらいしか考えなかった。

翌46年、町役場職員となる。総務課長、収入役、助役などを歴任、1988年58歳で町長に当選、栗原市発足(2005年)まで5期務めた。胸中には、国民学校しか出ていない劣等感があり、火薬廠勤めを自ら公にすることはなかった。

戦後80年の今年、戦争遺構を伝える河北新報記事に触れた。火薬廠跡地は現在、陸上自衛隊船岡駐屯地、仙台大学、宇宙航空研究開発機構(JAXA)角田宇宙センターなどが建つ。そこにかつて、若者が危険な業務に動員された施設があったことを、語り継ぐ必要性を感じた。

戦争はあってはならない。現代の若者にも火薬廠を知ってもらいたい。自身より長く働いた元工員たちには、苦労や懐かしさを語れる人もいるのではないかと期待する。
(以上)

当ジャーナルでも船岡の海軍火薬廠について記事にした(2011年、そのベースは1985年の朝日新聞連載)。建設の経緯、工場業務の実態、空襲を免れたこと、終戦後の財産処分や従業員のこと、自衛隊や大学の誘致、養護学校、など貴重な内容で、朝日の連載記事に登場された方々も40年前の時点だった。当時を知る方も一層少なくなっており、今回の菅原さんの発言は非常に重要だと思う。工場があった事実、そして歴史を、多くの人たちに知っていただきたい。

■関連する過去の記事
船岡と海軍火薬廠の歴史(その3) (2011年10月16日)
船岡と海軍火薬廠の歴史(その2) (2011年10月14日)
船岡と海軍火薬廠の歴史(その1) (2011年10月13日)





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最終更新日  2025.07.06 18:05:16
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