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「モノゴト」とひとくくりにされることが多いですが、「モノ」は点であり、「コト」はその点と点の「あいだ」のことです。「間(ま)」とも言います。「間」には何にもないのです。だからこそ、「間」にはすべてが入っている。ぼくはいま、「間」というものに非常に興味を持っている。もっというと「関係性」ということですね。「モノ」が個別に存在することはできように、「ヒト」もひとりでは存在しえません。かならず「隣あり」ということです。「人間関係力学」という学問を作っても面白いと思います。3人でオシャベリするのと4人でするのではだいぶ違う。それも、その会話に加わる一人の「立場」によってもぜんぜん違ってくる。ぼくはかならず「となりの誰か」によって規定される。カノジョが隣にいればカレシになり、上司が隣にいれば部下になり弟が隣にいれば、兄になる。それはたんなる「役割」の話でしょう?という反論もあるかもしれませんね。しかし、ぼくらはこの世界(社会)に生きるとき、かならず役割を背負っています。「裸のじぶん」「本当のじぶん」というのはたしかに存在する。しかしそれは、頭の中にしか存在しない。実際に、その自分がこの世界に体現されるときぼくはかならず「役割」を担っている。今日からは、その観点でいろいろ見ていきたい。また何か発見したらブログに書きます。
2008年04月29日
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今日はプールにいったのですが、そこに至るまでの道程は、もんのすごい田舎道でした。高い建物なんにもない。道ほそい。道まがりくねってる。一面、田んぼ。遠くかすむ山並み。ときおり目に入る菜の花。もう一気に呼吸がラクになるのが分かりました。「自然という景色」の美しさはまさに言語を絶するものがある。これはそのものを感じるしかない。だからあえて写真は撮らなかった。自然は「無意味」だ。自然は何も意図していない。自然に意味をつけるのはぼくらである。自然は、「ただ」そこに「ある」。自然は、偉大だ。自然は、こわい。自然は、ありがたい。この街には遊ぶとこなどほとんどない。しかし、「自然の景色」がある。そこにいって何をするでもない。しかし、そこにいけば、そこにいてもいい気がする。自然は、うれしい。自然は、やさしい。ぼくは風のなかに座る。空が、近くなる。ああ、そうか。ここは、空の一部なんだよなあと実感する。太陽が、かがやく。自然は、母だ。そうだ、自然があるじゃないか。自然は近寄ってこない。しかし、自然はそこにいてくれる。自然は、待っている。自然は、ぼくらを愛している。ぼくらが何をしようとも。果てしない空がありぽっかり浮かぶ雲がありそのスキマから顔をのぞかせる太陽がある風にゆれる草木がありうやうやしく芽吹くいのちがあるいろとりどりの花のなんとあざやかなことかそのことを忘れては、なにも意味がない。ぼくらは働き、お金をかせぎ大切な人を幸せにし、社会に貢献する。しかしそのまえに、ずっと待ってる、自然がいる。そこが原点なのだ。ぼくらはいつまでたっても、自然の子どもなのだ。それを忘れちゃいけないんだよなあとつくづく思ったのでした。
2008年04月29日
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今日はプールに行ってきました。図書館で勉強してたらなんとなく全身運動がしたくなって、調べたら市内にあるようなので行ってみたのです。車で30分ぐらい走ったら着きました。外観は思ったよりキレイで、平成7年築とは思えないほど。笠間市の建物は総じて芸術的です。ほとんどの公共施設がやたらモダンっていうか、デザイナーズになってるんです。さすがは芸術のまち「笠間」です。その名に恥じない建物が多い。中に入って着替え、さっそくプールサイドにいって愕然。ちょっと予想はしていましたが、じいさんばあさんばっかりです。ぼくだけひとり若者。はずかし。しかしもう着替えてしまったのでこのまま帰るわけにもいきません。水につかり25メートルプールを何往復かしてみました。すると!すげい疲れる!そういえば本格的に泳ぐのなんて何年振り?!もちろん数ヶ月前、連れとあそびにはいったのですが、キャップをつけて泳ぐのは大学2年いらいか・・・。手が重い!進まない!息が苦しい!じいさんばあさんとほとんど変わらないレベルです。この事実には非常にショックを受けました。それでも20分くらい泳いでいると、だんだんコツをつかんで泳ぎ方を思い出してくるもんですね。ほんとうに体力が死ぬほど落ちていたわけでなく、泳ぎ方のコツを忘れていただけのようです。適度に筋肉が疲れてくると、ムダな力が入らなくなって、身体が統一されてくる感じがしました。やはり、ときたまこういう運動をするのはいいですね。ぼくは、ほおっておけば頭ばっかり使ってしまうので、水泳で非常にリフレッシュできました。ぼくは「健康には適度なスポーツ」というありふれたフレーズが大嫌いでしたが、それもたしかにあるなと思いました。世の中に流行っていること、浸透していることって間違っていることも多いけど、それなりに「理」のあることもあるよなあと思い知った瞬間でした。「俗」なものを楽しむ、というのは意外に楽しいことです。ぎゃーぎゃーこだわらず、なんでも楽しんでみるもんです。世間から離れることだけが「悟り」じゃないんですね。以下は今日読了した本です。整体楽になる技術やはりぼくにとって「身体」がなによりも魅力的だ。こんなに身近で、こんなに遠い宇宙はない。
2008年04月29日
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あたらしい学問がもっとどんどんできても良いと思う。この前日記を書いてみて「恋愛哲学」っていう学問はどうだろうかと思った。それと「宗教科学」。宗教は科学だ!という立場で話を進めていくという。さて、こんな本読みました。御社のトップがダメな理由こんなん読んでるのを社長に見つかったら怒られるんだろうか(笑)「成果主義」は人件費削減&人事異動のし易さ・・・などなど、最近の企業に取り入れられている悪しき制度を叩いてます。非常に勉強になります。どうも日本人は新しい思想を取り入れるのがヘタ?No.1理論潜在意識理論のさきがけのような本、のようです。こっち系の本は大好きですが、前も書いたように僕はトライ&エラーでものごとを進めていくのが好きなので、つまりなんでも本に書いてあることを試してみないと気がすまないので、なかなかそういう「場」がないのはもどかしいかぎりです。スパイシー奥様キクちゃんぼくはコミックエッセイってなんかやたらと好きなんです。学生のころに「ダーリンは外国人」を読んでからですね。「キクちゃん」は4コマのありふれたコミックエッセイでありながら、その表現の多様性には驚かされます。マンガ内の統一感がなくなってしまうほど多様ですが、その雑多感が一種の統一感をかもしれいる。なんてね。おととい買った3万円分の本はまだまだあります。
2008年04月28日
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コメントに返信してたら長くなったので、日記にしてしまいます。>いい女は『都合のいい女』、『どうでもいい女』になりやすい・・・心に刺さります。誤解なさらないでくださいね。ぼくが言いたいのは「都合のいい女」「どうでもいい女」という状態になってしまいやすい人ほど、「いい女」になれる可能性が高いということなんです。(むしろすでに「いい女」である)身勝手な女、計算高い女、憎しみに満ちた女は、勝手に不幸になっていきます。今この場では、のうのうとしていてもかならず地獄を見ます。「嫌われたくない」という意識は悪いものじゃないんですね。要はとらえ方の問題で、もうすこしそのレベルをあげればいいのです。「嫌われたくない」というのを「相手に好かれたい」、ひいては「相手を喜ばせたい」というふうに捉えなおすのです。考え方の方向性はおなじでも、言葉が違うだけで、ぜんぜん印象が違いますね。「嫌われたくない」というのは「嫌うor嫌わない」という選択肢が前提ですが、「相手を喜ばせたい」というのは「相手に好かれている」ことが前提になります。「相手に好かれていることを前提」にすると、それは相手を信じることになるんですね。また「嫌われる」のは自分ですが、「喜ばされる」のは相手です。つまり「嫌われる」は自我に執着した状態ですが「喜ばせる」のは、自我にとらわれていない状態です。ぼくは今の連れに対していつも思ってることがあって、それは、「もし明日フラれても後悔しないように、『いま』100%愛そう」ということなんです。やっぱりフラれたときにいちばん心が痛いのって「なんであのとき、ああしてあげれなかったんだろう」「あのとき、もっと大切にしてあげればフラれなかったかも」っていう「愛せなかった後悔」だと思うんですよね。その逆に100%一生懸命愛してたら、たとえフラれたとしても、「あれだけやってフラれるなら仕方ない」って思えると思うんですよ。もちろん心の痛手は負いますけどね。何事もそうですけど、「人事を尽くし」たら「天命」がどうであれ納得できるんです。恋愛は結果ではない。その人が、一瞬一瞬の「いま」にどれだけ向かい合ったか、という「過程」なんです。何度か日記に書いてますが、ぼくが自分でつくって気に入っている言葉があります。「愛せばよかったと後悔することはあっても、 愛しすぎたと後悔することはない」今からでも遅くはありません。考え方をすこし変えれば、今日いまからでも変われます。あした愛することはできません。愛するのは、今日いましかないんです。ぼくの好きな句を書いておきます。明日ありと 思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものとは (たぶん親鸞)(意訳)あしたがあるなんて思う心は はかないぞあした桜を見るだって?夜に嵐が吹かないなんて誰が決めたんだ?いま、桜を愛でなさい。明日ではなく、いま見るのだ。「いま」「自分に」「何ができるのか」その3点だけおさえて自問自答するとかならずや良い方向にすすんでいくでしょう。PS:相手を責めたり、相手を変えようとすると、 自分が傷つきます。PS2:「嫌われたくない症候群」の女性は かならずお父さんとの関係はどうだったか見直してみてください。 その意味で「鏡の法則」はとても良い本です。
2008年04月26日
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今日は売上のノルマがある日だったのでがんばって売りました。今週は今日にむけていろんな仕掛けや取り組みをしました。内容は秘密です。そしたら売れに売れて目標達成率120%超えました。いきなり図書カード5万円かってくれる神があらわれたり、売れる雑誌が入荷したり、大口の客注の入荷が間に合ったり、奇跡じみたことがたくさん起きました。やっぱりぼくはツイテるなあ。神様いつもありがとうございます。すばらしい。これも店をささえてくれるパートさんバイトさんお客さんのおかげですね。ほんとうに心からありがたいことです。今日はすこしでも売上に貢献するため本を3万円分も買ってしまいました。最近は「オトナのオトコのお金の使い方」を勉強するためいろいろな使い方を実験していますが、今日はさすがにやりすぎたようです。しかし、よい勉強になりました。これも自己投資というやつです。カッコイイ大人になるために必要な出費です。明日からは倹約を心がけます。ケチと倹約の違いがわかるまでにはもうすこしお金を使わないといけないなあ。
2008年04月26日
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責任感というのは何かといったら、想像力、つまり具体的思考なのである。仕事が一人で完結することはない。仕事は、人と人のつながりのなかに生まれるもので、自分ひとりで終わることはないのだ。仕事はどこまでもつながっていく。だからこそ、責任感が必要になる。つまり「これをこうしたら、あれがどうなるか」ということをどこまで詳細に考えることができるか、ということに尽きる。考えるといっても、頭で考えるのではない。それはイメージだ。想像するのだ。〇〇さんはこれこれの業務についてどこまで知っているか、昨日の伝達事項は伝わっているか?あの仕事に必要な準備は誰がいつする?じゃあ、これはどこ?じゃあ、この件はどう兼ね合いをとる?想像すればするほど、事細かな設定ができてくる。イメージというのはぼくに言わせれば逆算の技術である。つまり「うまくいった絵」と「現状」があって、その差を埋めていく行程がイメージの技術なのだ。だから「うまくいった絵」と「現状」を正しく見ることができなければ、全うにイメージすることなどできない。青写真ばかり仰いでいてもダメだし、現状ばかり見ていても、何も変わらない。「成功図」と「現状」がどれだけ遠くても、それは永遠ではない。「具体的課題」という小さな階段をいくつか設定すればゆっくり地道にでも、かならず歩いていけるのだ。おっと、少し話がそれてしまった。つまりイメージが描けないかぎり、責任感など身につかないのだ。誰かがやってくれるだろう。たぶん分かってくれるだろう。仕事の「だろう運転」は最悪だ。「自分の考えが及ぶ範囲」が仕事の度量になる。自分が背負うべき部分を自分から少なくしたのでは、いつまで経っても成長しないだろう。
2008年04月24日
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「憤せずんば啓せず。非せずんば発せず」そうでなければ、「教育」など時間のムダなのだ。成長したい、覚えたい!そういった強い気持ちがないものに何を話したってムダ。時間も自分のエネルギーをも浪費してしまう。上の漢文は孔子の論語にあることばです。「やる気がもりもりの人にしか教えない。 なんとか成長したいと強く願う人でなければ、見捨てる」という意味です。(かなり意訳ですが)ここから「啓発」という単語が生まれています。口先だけで成長したいと言ってみても、「ぼくはぼくでいいんだ」と心の底で思っていたら一生何も変わりません。人に何かを教えるというのはほんとうに難しいことだ。「背中を見せ、待って 待って、待つ。」教育といっても、ほんとうはそれくらいしかすることがない。世に「指導法」の本はたくさん出ているが、何もしないことが本当の教育なのではないかと思う。
2008年04月24日
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今から少しのろけますので、覚悟してください。わたしはあなたに出逢って愛されることを知りました大切にされることを知りましたぼくが連れのために作ったブログで、その連れがこんなコメントをくれました。ぼくはこれを読んだとき、すごくうれしかった。いくらか古風な考え方かもしれないけど、やはり女の人って愛されたい願望が強い気がする。愛されてナンボの世界というか。いい女ほど、「都合のいい女」「どうでもいい女」になりやすい。ぼくは、いい女には幸せになってほしいと思う。いい女には、ワガママを言う権利がある。いや、愛されるためにはある程度のワガママを通す必要がある。ゆずってはいけない急処(ポイント)があるのだ。大切にされたいなら、大切にしてほしいと伝えることだ。それは言葉じゃなく、態度で伝える。「大切にしてくれなくてもいいから、嫌わないで」そういう態度や行動は今すぐやめるべきだ。嫌われるのが怖くて、ドレイのようになっているとけっきょく大切にされない。それじゃ本末転倒だ。大切にされないなら嫌われた方がマシ。大切にされもしない、嫌われもしない、というのを飼い殺しというのです。愛されてもいいんだよ。誰しも、愛される権利がある。そのヒケツは甘えること。けなげに甘えること。甘えてもいいんだよ。いや、むしろ甘えなさい。そしてオトコはけなげな女を大切にすること。今時、けなげな女は、なかなかいない。相手がいい女だと、何をしても許してくれる気がしてしまうが、甘えていると最後に後悔する。「あなたに出逢って愛されるということを知った」最高にうれしい言葉じゃないか。
2008年04月23日
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マントラって知ってますか?日本語にすると「真言(しんごん)」なんていうみたいですが、要は呪文のことを言うのですね。呪文っていうとなんだか怪しげかつしぶしげな感じがしますが、別に怖れるほどのものでもなく、意味のない音の羅列と思ってください。そのひとつに「南無阿弥陀仏」があります。「南無阿弥陀仏」は意味はないことはないんですが、マントラとして唱えるときは意味がわからないほうがよいのです。とにかく同じ音を繰り返すことが大事だからです。ぼくは本を読んだら何でもやってみないと気がすまないタチなのでさっそく「なまんだーぶー」をやってみたのです。なるべく早く「なまんだーぶ なまんだーぶ・・・」と繰り返す。そうすると意外に聞くのですね。動悸がしたり、気分が悪いときにぶつぶつとマントラを唱えてみると、不思議と体調がよくなったりします。意味のない音の羅列を繰り返すことによって思考が停止し、左脳的な不安が解消されることにより自然治癒力が発動するためだと考えています。病気の大半は「不安」ですからね。「となりのトトロ」でメイがいなくなったときにおばあちゃんが一生懸命お祈りしていますが、あれも心配で心配で精神がどうにかなりそうなのをマントラによってなんとか正気を保っていると思われます。さて、最近気に入っているマントラがあって、それは「あなたに幸せが訪れますように」「あなたに幸福の光が降り注ぎますように」というものです。おもっきり意味あるじゃん!とツッコまないように(笑)これは心をこめて言わなくてもいいのです。「アナタニシアワセガオトズレマスヨウニ」という音の羅列を心で繰り返すのです。そしてそれをムカつく人に言うのです。仕事でレジをしているとやっぱり横柄な客っているんですよ。サービス業を見下してる人とか、生意気なガキとか、不機嫌なオバちゃんとかね。かなり治りましたが、そーゆー客にはやっぱりカチンとくるんですよね。「てめー、なめやがって。このボケナスが!」と心では思っています。でも商品を渡すときに心の中で「アナタニシアワセガオトズレマスヨウニ」という音を無理にでも言ってみるのです。そりゃあ、そいつのことは嫌いですよ。ばりばりムカついてます。だからムカつくのを直そうとはしない。ムカついたまんまで、「アナタニシアワセガオトズレマスヨウニ」という音を心の中で出してみる。そうすると、すっと何かが胸の中からおちてちょっとスッキリするのです。胸のムカムカって言いますけど、たぶんそれですね。それがストンと落ちる。なんだか憐憫の情が生まれるのですね。相手が「かわいそうな人」に見えてくる。つまりマントラによって、にんげんのレベルがひとつ上がったのです。ムカついているうちは同じレベルということですね。これは不思議ですが、ぼくにとっては真実です。イライラが多い人はぜひやってみてください。ウザイ上司に説教されているとき、「てめー、うっせえんだよ、このやろー」と思ってもよい。でもその人の前から去るときに「アナタニシアワセガオトズレマスヨウニ」とぼそりとつぶやいてみるのです。実際にやってみて効果があったらまた教えてください。ことばはかように力があります。ことばは、思考の枠組みそのものだからです。ことばは、ぼくら(の文化)そのものです。こんな怪しい文章を最後まで読んでくれたあなたに幸福が絶え間なく降り注ぎますように。
2008年04月23日
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家を建てるって、どんなんだろうと考えます。一年前はまったく家など興味はなかったですが、最近、家を建てるのも面白いかも、というふうに考えています。やっぱり住まいって大事でしょう?自分の気持ちに直結する部分がある。今のアパートも、給料の割には広めにしたんですが、それは卑屈な精神にならないためにわざと選んだのです。たぶん家というのは夫婦のためにあるのだと思います。ぼくは生まれてから22年間、そんなに広くない県営の団地住まいでしたが、嫌だと思ったことは一度もなかったし、むしろ家は大好きだった。(ただ思春期のころは自分の部屋が欲しいと思った)また友達の家をうらやんだことも一度もなかった。大きくて素敵な家だなあと思ったこともなかった。それに友達にも、自分の家がどうだと話す人はいなかった。ぼくが思うに、子供は家のつくりなんてどうでもいいんです。家族が仲良くやっていれば、子供はそれだけでうれしいんです。だけどぼくが家族を作るとなると、そうはいかない。女性の社会進出といっても、やっぱりまだオトコが稼いでくる時代でしょう。ダンナは仕事、奥さんはパート、という形が圧倒的に多い。そうなると、やはりダンナの双肩にいろいろ乗っかってくるわけです。その色々のなかには「奥さんの人生」も大きく入っているわけですよ。だから「まあ、これくらいでいっか」という自己満足では終われなくなってくる。二人が満足するのが最終目標になってくる。「ふたり」における良い満足のカタチというのは、パートナーを喜ばせて、その笑顔に対して、「どうだ、うれしいだろう。これからも笑顔にしてやるぜ」と満足する、というのになるんじゃないかと思うのです。ぼくはそれを理想としている。その意味で、家というのはわりかしプレゼント的な意味合いを持つと思うんですね。もちろん家を建てたからといって幸せになるわけじゃない。ヘタをすれば家を建てたことで不幸になることもあるだろう。でも家が幸福を宿す道具になりうるということは間違いないと思うのです。そんなこんなで、家についても考えています。
2008年04月23日
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思考というのは、前に進まねばならない。思考というのは段階を踏んで、ステップアップすべきものである。思考しているつもりで思考していないことがある。思考というのは思考に集中しないとできないことだ。なぜ?なぜ?なぜ?と理詰めで考えていく。たとえば?たとえば?たとえば?ときに思考を現実にあてはめて考える。つまり?つまり?つまり?広がった考えを要約し、一本の線にしていく。そのように、思考には筋道が必要なのだ。しかし面白いことに思考は論理でつめていくと、かならず行き詰る。なぜか行き詰るようになっているらしい。それでも考え続ける。煮詰めて考える。思考を凝縮する。あきらめないことが肝腎。答えは必ず出る、と信じるのだ。するとあるとき、ビッグバンのようなものが起こってふっとひらめくのである。それはまるで、小さな悟りのようなものだ。いかんともしがたかった二つの命題をむすぶ論理がぱっと思いつく。「あちらを立てればこちらが立たぬ」から「あちらを立てても、こちらも立つ」というビンビンの状態になるのです。「ああ、こう考えればすべて納得がいく」そう思える瞬間。それは思考そのものではなく、思考の枠組みが変わった瞬間なのですね。ひらめく瞬間はいつでも最高の快楽だ。いわば「知」がさわぐ状態。「これだ!」と思うのは、もう直感としか言いようがない。心身の奥のほうがピタッとくる感じがするからその感覚に身を任せている。宗教的に言えば「魂が震える」とでも表現できるかもしれない。そうやってひらめいたことは、かならずメモにとっている。どんな紙切れでもいいから、かならず書いておく。重要なひらめきも、すぐに忘れてしまうからだ。メモに取ったら、家に帰ってからこのブログにアップする。そうしてぼくの「ひらめき」を皆さんにお伝えしているのです。「ひらめき」の言葉は神がくれたかのようにぱっと頭のなかに浮かぶのです。だいたいそれをそのままタイトルにしています。書いて、アウトプットすることで「ひらめき」が「あたりまえ」になってくる。そうすると、また次のひらめきを得る段階にくる。思考は階段状に成長するのである。ぼくはこんな感じでいつも思考しています。みなさんの思考術は、どんなですか?
2008年04月23日
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「生きる」ということは目的なのだろうか結果なのだろうか。「生きる」ということは目的なのか結果なのか、どっちなのだろうか。2回も聞いてしまった。ぼくは考える。たぶんそれはどっちでもない。生きることは目的とか結果とかではなく、たんに現実なのだ。しかし、けだし「生きることは結果」と捉えた方がより幸せに生きることができるのではないかとぼくは思う。「生きるために」なんとなく深い考えなしに使ってしまう言葉だ。というのも「生きることが最終目的」というのが世間ではある種の「当たり前」になっているような気がする。しかしぼくは、そんな「当たり前」を疑ってみたい。次の二つの状況のうちどちらが楽しそうか考えてほしい。「生きるために仕事をする」「仕事をするために生きる」ぼくは明らかに後者のほうがいきいきとした活力を感じるのだが、どうだろうか。もちろん「〇〇するために生きる」の〇〇は仕事でなくてもいい。こういう話をすると「ぼく(わたし)には〇〇に入る部分がない」と落胆する人がいる。しかし落ち込む必要はない。誰しも〇〇に入るものごとを見つけるのは容易ではないのだ。容易ではないから、へこむ必要はないが、探そうとしているのか、あきらめたのかでは、大きな差がある。サガシモノは見つけようと思ったからと言って見つかるわけではないが、見つけようと思わなければいつまでも見つからない。バットは振らなきゃ当らないってやつだ。論理的には矛盾してしまうが「〇〇するために生きる」の「〇〇にあたる部分を探すために生きる」というステージがどうしてもぼくらにはあると思う。「ないよー」と言って一生を終えるのか、なんとか見つけようとしてみるのか、その小さな考え方の違いがのちのち大きな差を生むはずだ。ぼくは何のために生きているのか。それは分からない。分からないというか、ことばでは説明できないのだ。〇〇の部分は、たぶん見つかってもことばにはできないのだろう。しかし、自分の中では「分かっている」。そのとき「生きること」はぼくらのなかで「結果」になっているはずだ。
2008年04月23日
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今日は休日でございます。きのうはなぜか、16時間以上も職場にいました。もうすぐちょっとしたエベントがあるので、がんばりぎみです。そんな今日は昼ごろ起床して、さっそく「笠間工芸の丘」にいってきました。もちろん焼きあがった我らが作品を取りに行くためです。それがジャジャン!↑上の写真です。左下3点はぼくの、右上2点は連れのです。ぼくの皿は、残念ながら底が割れてしまいました。まあ、こういうこともあるよね。オチョコとトックリは今日から使おうと思います。お酒買ってこなきゃ♪さて、関係ない話ですが、たまにお客さんですごくにおう人がいるんです。におうといっても、いい匂いなんですよ。シトラス系とかの。でもぼくは思うんですが、ああいったやたらと「いい匂い」っていうのはどこか魅力にかけるんですね。香水だかなんだか分からないですが、「製品そのもの」の匂いって、心なしか機械的なんですよね。ぼくが思うには、においは無臭かもしくは分かるか分からないか程度の匂いがよいです。めちゃくちゃ近くに寄って、髪に鼻を近づけたらさりげなくシャンプーのにおいとか、そういうのがいいですね。つまり恋人関係じゃないと分からないくらいでちょうどいい。やたらとシトラス系のかおりをふりまかれても、鼻がマヒするだけで、いい気分ではありません。ぼくの観察では、見目麗しい人はあんまり積極的にはフレーバーをふりまいていません。たぶんにおいっていうのは、「分からないのがいい」んでしょうね。特に人のにおいは。ああ、これは「〇〇のにおいだな」と分かった瞬間に魅力は半減してしまうような気がします。「なんだか分からないけど、いい匂いっぽい」ぐらいがいちばん蠱惑的だと思うわけです。春の匂いもそうですね。なんだか分からない。でも確実に季節の変わり目には香りが変わるんです。薫風とはよくいったもので。においを見る。そんな表現があっても、いい気がする。
2008年04月22日
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「北の零年」見ました!こりゃ面白い!キャストから映像からストーリーまで何から何までよいね!やたら長いのも気にならず、ぐいぐい引き込まれて見てしまいました。吉永小百合は「かあべえ」も見たけれど、あーゆー役がハマりますなあ。でも見てて不憫すぎるので、ぜひ幸福な役を演じるところを見てみたい。声が素敵だよね。これは見といたほうがいいです。
2008年04月20日
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ぼくは基本的には「上には逆らわない」という哲学を持っています。それはもちろん阿諛追従やおべんちゃらで世間を乗り切れという意味ではありません。組織である以上、「上が言うことは命令」であり、それに従うのが部下の役目であります。「上司、上司足らずとも、部下、部下たるべし」と肝に銘じているのです。もちろん「えええぇぇぇぇ?」と上司に対して思うこともあるでしょう。みんな人間ですから。そうした場合、ぼくとしては「それは違いますよ!」とはっきりとは言わないのです。そうではなく「ああ、そうですね。たしかにそれはいい。しかし、こういうのはいかがでしょうか?こんなメリットもありますが・・・」とやったほうが、よっぽど円滑なのです。「アンタは間違ってる!」なんて息巻くのはドラマのようでカッコイイのですが、ぼくはあんまり有効ではないと考えています。つまり上司というのはあくまで操作する対象であり、反抗する相手ではないと思うのです。そもそもこの世の中にはあるルールがあって、「正しいことを言ってはいけない」というふうに決まっているのです。だから「正しいこと」を口にするのは罪であると心に刻んでおかねばならない。ぼくらがすべきなのは「正しいことが行なわれるように行動すること」なのです。たとえば部下がやる気をもって働かない、というときにも「やる気出して働け!」というのはカンタンです。しかし効果がない。大事なのは「部下が自然とやる気をもって働くように仕向ける」「部下がやる気をだすしくみを考え出す」ことなのです。だから上司が明らかに間違ったというときは「間違っています!」と声高に叫ぶのではなく、間違いを自分で気づくように仕向けるのだ。それは容易ではなく、かなり知恵を絞らねばならない。しかし頭に汗をかかないかぎり、人は動いてくれないのだ。最近はそんなことを考えています。
2008年04月19日
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僕らの不幸はたいてい、忘恩によってもたらされる。忘恩とは読んで字のごとく、恩を忘れることです。ぼくらは、いいことにしろ悪いことにしろ忘れていきます。忘れるということは良いことでも悪いことでもなく、自然の摂理なのです。しかし恩と謝だけは忘れてはならないのです。自分のしてあげたことは覚えていても、なぜか誰かがしてくれたことはすぐに忘れてしまう。恩を忘れるということは、すなわち人をうらむということであり、憎むということであります。ぼくらは、一度にものごとの両面を見ることはできません。両面があることを知っていても、一度に見れるのは一面だけなのです。だから恨んだり憎んだりしたときは、恩を忘れているのです。恩の一字を大切にしていると、「あたりまえのできごと」をありがたく感じます。オトナの姿で生まれてくる人はいません。みんな赤ちゃんから今の姿になったのです。つまり過去に一瞬でも人生が途絶えていたら、今の自分はなかったということです。ぼくの場合でいえば、今まで25年間と11ヶ月、一度も死ぬことがなかったので、いま、生きていることができているわけです。つまり25年と11ヶ月間、「生かされてきた」わけです。まずそのことだけで、ありがたいことです。恩の一字を忘れたとき、ぼくらには不平不満やうらみつらみが募ってきます。不幸というのは、状況ではなく自分じしんの心のあり方です。忘恩の罪は、ぼくらに厳しい罰を与えます。それは「一生不幸の刑」と呼ばれます。うらみやにくしみを取り去ることは容易ではありません。しかし恩を思い出すことによって、しぜんとうらみやにくしみは消えていくものだと思うのです。恩さえ忘れなければ、幸せはそこにあります。
2008年04月17日
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三谷幸喜の「みんなのいえ」を見ました。これは、やたらと面白いねえ。「ドラマ」の真髄とでも言おうか。田中邦衛しぶすぎ。あの鼻呼吸には人生の深みがつまってるね。マネできんでしょう。ひさびさに見ていてずっと引き込まれる映画でした。チョーおすすめ!!ああ、いい気分の昼下がりです。続きまして世界の北野「菊次郎の夏」これは、なんだかシュールでした。だけど、じわりと訴えてくる感じ。間の取り方が、コントか、もしくは4コママンガ的に思えました。真剣にふざけてるのが伝わって笑える。たけしって、大仏みたいだなあ。
2008年04月17日
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やたら二日間の休日が長いのは、ほとんど寝てないからですね。ほとんどといっても何度か仮眠はとっていますが、ぐっすり6時間とかは寝てないです。ぼくの身体を使って、減眠減食実験をしてみました。その結果、やっぱり少食と短眠は相性がいいです。少食にすることで胃腸が休まります。そうすると疲れない。だから眠らなくて済む。エネルギーが過剰になるとダルいというのは真実だろうと実感します。とくに胃腸の疲れね。これが大敵。便秘の人は、一度少食をやってごらんなさい。プチ断食健康法こんな本もたくさんありますからね。食べ過ぎて胃腸が疲れて眠りすぎる。それでは勉強する気も起こりません。疲れたときは、とにかく食べる量を減らして、姿勢を正して、吐く息を長くする。これに限ります。そうして気を張って仕事してれば風邪も治るものです。さて、内ジャスにいってこんな本を買ってしまいました。意外にこういう俗物的なの好きなんですよ。銀座ママが教える「できる男」「できない男」の見分け方あんまり面白くなかったけど、「ますい志保」と「ますいさくら」が姉妹ということがわかっただけで満足です。さて、話題の新刊孤塁の名人ですが、これはなんとも。なんで引用ばっかりなんだろうか。半分以上「透明な力」からだし。作家という視点だから、なんだかもどかしい叙述というか違和感を覚えることがあるが、まあそれはそれ。内容はともあれ、本の構成ばかりが気になってしまった。人生生涯小僧のこころ修行とは何か、を考えさせられる一冊。自己救済・・・。人が他人の幸せにいかに関与するか、ということはいつの時代も問題だよね。休日中は、石岡市のワンダーグーにも行きました。本屋なんですが、連れはペットショップと思ったらしい。ジャスコで生まれてはじめて一人映画でもしてみようかと思いましたが、面白そうなのがなかったので家で「魔女の宅急便」のDVDを見ました。図書館で少しだけ勉強しました。やっぱり勉強は楽しいね!ボク、ガリ勉!!別にどうでもいいと思いますが、そんな休日でした。
2008年04月15日
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中国のサイトでトトロを見つけて観賞しました。なんつー楽しいんだろうか。すごいな、さすがに稀代の名作。宮崎さんどんだけ天才なん?アニメでもちろん非現実的世界なのに、他のディテールの圧倒的なリアルさ。その対比で、夢と現実がごちゃまぜになってそのままファンタジーの世界に引き込まれる。これはねえ、ほんとうにすごいねえ。あと、メイが連れにそっくりです・・・。それからひとりずもう(上)ひとりずもう(下)さくらももこの、同名のエッセイのマンガ版です。これも天才的に楽しいね。ノスタルジーの極致だ。それは、仔細な観察から生まれている。冷静な目だからこそ、こころ揺れるノスタルジーを描けるのだ。いやあ、天才はすごいなあ。やっぱりなんとしてでも天才になりたいなあ。
2008年04月14日
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レセプターの問題です。日本語で言うと「受容体」です。つまり、大切なことはメッセージそのものでなく、受け取る側の問題、ということです。低級なレセプターを装備している人は、何も感じることができません。目の前にあるありがたいできごとにも、日常にある美しい光景にも誰かのなにげないやさしさにもなにも感じることもない。低級なレセプターをもった人は不幸です。自分に対するメッセージはどこにでも転がっています。要はみずからのレセプターでそれをキャッチすることができるかどうか。ごくごく抽象的な言い回しですが、「心を開いて見る」ことです。どうすれば心を開いて見ることができるようになるのか。それは心から「成長したい!」と願うことです。自分は自分でいい。等身大の自分でいい。ありのまま。これが俺の個性。なんてのはヘコんでいるときには役に立つ言葉ですが、日常には不要。「いま目の前にある出来事を、 どうすれば自分の成長につなげることができるのか?」その一点でものを考えているうちに、レセプターの質があがってきます。レセプターが上質になってくると、バチバチきます。目の前の出来事がすべて刺激的に思えるのです。「退屈だあ、なんか面白いことない?」といつも言っている人は、低級なレセプターしか持っていません。レセプターの感度が低い人は、いつも人のせいにします。「あれはつまらない」「そんなことしてもしょうがない」自分じしんのレセプターが低レベルなだけなのに、なぜ他人や環境のせいにするのでしょうか。昔から言われている言葉に「他山の石」「反面教師」という言葉があります。「我以外皆師」というのもありますね。つまりぼくらは、何事からでも学ぶことができるということです。レセプターを「学ぶ」チャンネルに設定しておくだけで、ゲットできる情報量は何倍にもなります。「目の前に起きる問題は、すべて自分の問題だ」この覚悟をもってすれば、かならずや最上級のレセプターを手にすることができるでしょう。
2008年04月14日
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お店にとってもカワイイお客さんがきます。中学生が高校生くらいかと思うんですが、さみしいのでしょうか、いつも3人くらいでつるんでやってきます。かまってほしくて仕方ないんでしょうね。わざと大きな声を上げてみたり、何度もジュースを飲みながら入ってきたり、床に座り込んでみたり・・・。甘えん坊だなあと思いながら声をかけてあげます。「お客様、たいへん恐れ入りますが、店内は飲食禁止でございます」「お客様、あちらにイスもご用意してありますが、いかがですか?」思ったよりちゃんと言うことを聞いてくれます。でもそれを何度も繰り返すということは「何とかして気に掛けて欲しい」ということなんですよね。彼らは甘やかされて育ったから、ああなってしまったのか?それとも誰にも甘えることができなくてああなってしまったのか?何年か前から書いてますが、ウザイ奴はさみしいのです。さみしくてさみしくて何とか不器用にも誰かに近づくんですが、その容貌に比例せずに心が幼いので、またみんなに疎まれてしまうんですね。ほんとうにかわいそうなことです。たぶん学校でも先生から「問題児」扱いされてるんだろう。きっとそれが悔しくて悔しくてたまらないんだね。あっちの反抗的態度にたいして、丁寧に応対すると、あっちは反抗するよりどころをなくすらしく、思ったよりきちんと言うことを聞いてくれます。いわゆる問題児的ガキんちょほど、けっこう素直なところがあるな、というのがぼくの感想です。しかし「自分はさみしがってる」というのは奴らが自分じしんで気づくしかない。ぼくらは、それを「待つ」ことしかないのです。「辛抱」「忍耐」なんだか古い人の言葉のようですが、「グッとこらえる」ということはほんとうに大事なことだなと実感します。
2008年04月14日
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人間関係においてはほんとうに小さなことがとっても大きなことなのだ。それはもう言葉にすることができないくらい小さなことで・・・。あいさつは、カタチだけでもよいのです。お礼だってカタチだけで十分なのです。見せかけでもいいから、笑顔で「ありがとう」といってごらんなさい。たちまち人間関係は好転します。「なんか虫の好かない奴」と「なんか可愛げのあるやつ」を比べてよーく観察していると、やっぱり「ありがとう」と発する量が違うんだね。「可愛げのあるやつ」は口癖のように「あざっす」っていうんだね。別に丁寧なわけじゃないんだが、その一言だけで関係はぜんぜんスムーズになる。ほんと小さなことなんです。しかし実践するかしないかで、ほんとうに大きく変わってくる。行動することは、ほんとうに大事なことなんです。今日はめちゃめちゃ面白い本読みました。竹原慎二のボコボコ相談室こんな痛快な本、なかなかないよ。さすがは世界の竹原。回答がほとんど、「とっとと辞めろや」「お前、バカか?」「好きにしろや」「俺はお前が嫌いじゃ、ボケ」などなどたんなる暴言(笑)「お前はただカッコつけたいだけのヘタレ、要するにクソじゃ」って、「要するに」の使い方が、これすげえよ。でもさすがに元世界チャンプだけあって、言ってることがしごく全うなんだね。相談者も甘えた質問が多くて、甘えた人がぶちのめされるというテレビにありがちな単純な構図なんですが、やっぱり気持ちいい。これは一読をオススメしますね。
2008年04月13日
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いまに生きる力を「集中力」と呼ぶ。
2008年04月11日
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不幸には理由があります。そして幸福には理由がない。ぼくらはほおっておけば、幸福なのです。しかし、焦って何か余計なことをしてしまうので不幸になる。幸福な人は、何かをしているわけではない。何もしていないから幸福なのだ。不幸な人は、たとえばうらむから不幸になる。うらまなければ幸福なのに、うらむ。そして自ら不幸になる。幸福は寡黙です。幸福はしゃべらない。幸福は唯一、行動です。幸福とは、動くことであります。ぼくらの基本原則は幸福であります。それを根本にして考えないと、間違った方向に進んでしまいます。
2008年04月11日
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今日トイレに入った瞬間気がついたのです。ぼくは永遠には若者ではないんだなあ、と。これは畏怖すべき事実なのであります。
2008年04月10日
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理論と実践はしばしば相反する。理論上ではできることが実際にやってみるとできない、ということは往々にしてあることです。そうなると実践派は言うのです。「空理空論をふりかざすな」と。では、理論には意味がないのでしょうか。もちろんそんなことはない。帰納的に引き出された理論であれ、演繹的に導き出された理論であれ、つぎに起こりうることを予測する力を持っている。そもそも、ぼくが生きることすべては理論があってこそ成り立っている。じゃあ、なんで理論と実践が相反することがあるかといえば、それは理論と実践の「距離」が遠いからですね。理論というのは非常にシャープなのです。理論というのは外部の要素を限りなくとりのぞいているのです。たとえば「モノが落ちる速度はみんな同じ」という法則がありますね。しかし実際には羽根よりも鉄球のほうが早く落ちる。それは空気があるからです。だから上の法則は「真空中では」という条件がつく。そう、理論にはその前提となる条件が必要なのです。とはいえ「地球には真空の場所なんでほとんどないから、 そんな理論はムダだ」となるのでしょうか。そんなことはありません。詳しいことは知りませんが、「モノが落ちる速度はみんな同じ」という理論は物理学の発展に大きく寄与したのでしょう。つまり理論は理論として存在し、ある意味で実践と関係ない。しかし、根底にあるのは理論であって、理論なしには実践はありえない。イメージでいうと理論は2次元、実践は3次元なのです。どちらが偉いということもないと思います。シャープに学究的に、理論派でいくのか泥臭く力強く、実践派でいくのか、それは自由で、けっきょく突出すれば社会に貢献することができるのです。しかしそのままでは、どうしても理論と実践が反発しやすい。そこでぼくは理論と実践のあいだにグラデーションを考えたのです。それが「理論的実践」と「実践的理論」です。理論→理論的実践→実践的理論→実践という流れになります。このようなグラデーションを設定することにより無用なあらそいをさけることができそうですが、いかがでしょうか?
2008年04月09日
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誰かに何かを教えるというとき、それが抽象的では意味がないのだ。抽象的であることは、まるで本質をついているようにも見えるが、実はたんなる自己満足にすぎない場合が多い。たとえば「君は責任感がないんだよ」と言われても、言われた方はどうしようもない。「はい、明日から責任感をもって仕事に臨みます」と言うくらいなら、今日からやれよって話で。「一歩先を考えて仕事しなきゃ」というのも同じ。やろうとしてできるんならもうやってます。「ちゃんと段取組んでやれよ」「全体が見えてないからダメなんだよ」「もっとコミュニケーションをうまくやらなきゃ」・・・etc.こういうのは上司や先輩の自己満足なんです。言いたいことだけ言ってすっきりして「ふう、あいつの短所の本質を突いてやったぜ」と自分に酔っているんですね。それで部下・後輩は「ウザ!」と思っているだけ。「本質をついたつもり」というのはアブナイ。というのは、本人は「するどい指摘」をしたつもりでも、「で、だから何?」となる可能性が高いのですね。たとえば今のぼくが「うちの会社は〇〇なところが問題なんだよなあ」と言ったとする。そして万一その指摘が「正しい」ものだとする。しかし意味はないのです。上司やその上司に働きかけ、自分にできることをやり、変えていこうとしていかないかぎり、「本質的な指摘をする」ということは何の意味もないことなのです。それはたとえば火事が起きているときに、「この家は木でできているから燃えているんだよ」と解説しているようなものです。「次は、こっちの部屋が燃えてそれから家は崩れるだろう」評論家はつねに呑気です。自分とは関係がないから呑気なのです。関係するということは行動するということです。ぼくらが「つながる」方法は、行動することしかないのです。おっと、話が少し逸れてしまいましたが、つまりは「指導・教育」ということに関しても、抽象的に愚弄するだけでなく、「具体的な課題」を出してあげることが大事なのです。そして部下・後輩がその具体的な課題を具体的に達成したとき、自然にその「本質的な問題」が解決しているようでないといけない。具体的な課題を出してあげることがなかなかむずかしいのです。「明日までに責任感を身につけてきなさい」「来週までに段取上手になりなさい」では指導・教育とはいえないのです。「礼儀ただしくしなさい」ではなく「あいさつをしなさい」。もっといえば「朝あったら、おはようといいなさい」というのが具体的課題です。朝会ったらおはよう、と言うのを続けるうちに自然と礼儀は身についてくるものです。カンタンにいえばまずはカタチからということです。ぼくは抽象的なアドバイスをしないように気をつけていますが、やっぱり抽象的に指摘するのがいちばんカンタンなんですね。そこに逃げないようにやってみたいと思います。
2008年04月09日
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モリコロパークにいってきました。写真はもちろんサツキとメイの家です。中には入れなかったのですが、外から見たのも初めてだったのでうれしかったです。意外に小さいんだね。ゆっくりと時間の流れる公園で春を満喫しました。ちゃんちゃん。
2008年04月09日
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人生でいちばん楽しいのは勇気を振り絞る瞬間だ。
2008年04月04日
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「構成力」とは「並び替える力」です。並び替えることによって同じパーツからより高いパフォーマンスを抽出します。いわゆる「生産性を高める」ということですね。並び替えるということに関しては「文章」がいちばん関係が深い。文章はまさに並び替えの芸術だ。わかりにくい文章というのはイメージしにくい文章です。わかりやすい文章というのはイメージがしやすい。逆にどんな文でもイメージできる人は読書力・読解力がある。かんたんな文でもイメージができない人は、読書力・読解力がない。テレビが悪くて、読書がいい、というのはこういう理由なわけですね。まあ自分の子供がテレビを見るのとエロ小説を読むのとどっちがいいかと聞かれたら困りますが・・・。脳の開発という観点でいえばエロ小説のほうがいいんでしょうねえ。なんか脱線してしまった。だからえーと、並び替えによって、ぜんぜん違ってきますよということ。それは仕事にも活かせるのです。・・・あー、ダメ。今日は書く集中力がありません。今日は持田香織・・・じゃなくてモチベーションがやたら低い日です。とにかく文章は脳にいいよ!本屋へ行こう!という話です。
2008年04月03日
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想像<イメージ>すること。そのとき大切なのはどこまで「具体的に」イメージできるかということ。「具体的に事細かにイメージする力」を想像力と呼びます。具体的に、というのは、「あれがしたい、これがしたい」というときに「じゃあ、あれはどうするの?これはどうするの?」ということを突き詰めて考えていくことだ。たとえば仕事で通したい企画があるとして、はじめはそれは曖昧なカタチであらわれる。「こんな企画できたらいいな~」そこで想像力を働かせていくと、「じゃあ、予算はどれくらい?」「上司はなんというだろうか?」「採算はとれるのか?」「期限はいつまで?」「他部署との折衝は?」などなどいろいろな疑問がでてくる。その問いひとつひとつに答えていくうちに、それも「なんとかなるさ」ではなくて「どうすれば何とかなるのか」を考えることで、イメージは具体的に絞られていく。具体的でない企画のことを「思いつき」と呼びます。「誰がいつどうやってどれくらいの予算でやるの?」それが全く「見えない」。そういうのはイメージのヘタな人ですね。「思いつき」を連発する人は「部外者」です。自分に関係がないから何とでも言える。たとえばぼくらが政治家を批判するようなものです。「いまの首相はさあ・・・アメリカの・・・」とか言うだけならいくらでも言えるわけですね。それは知らないから言えるのです。イメージが自分勝手なのです。想像というのはまさに自分との対話です。「あれはできるのか?」「あそこはどうする?」「あの準備はいつまでにやる?」その「自分諮問会議」をどれだけ厳しくできるか。それが問題です。それで「具体案」を出していくと相手とイメージを共有できるのですね。そう「具体」だけが、他人と共有できるのです。「イヌがいます」という文は具体的ではないので、イメージが共有できない。どんなイヌが、何匹いるのかがまったく見えない。だから説明するわけです。「白いイヌが、1匹います」というふうに。それでもまだ曖昧ですね。そこで「白いプードルが、一匹います」というふうになる。それでだんだんイメージを共有していく。で、「体長40センチくらいの白いプードルが、一匹います」なんてくわしくしていくわけですが、しかしこの限界はない。どこまで具体的にしても、限界はないのです。つまり言葉はどこまでいっても「曖昧」なのです。逆に言えば、言葉少なでも相手に「イメージさせる」ことができれば、それでよいということです。奥さんに「おーい、あれ持ってきて」でもマスターに「いつものアレで」だけでも通じる。言葉とはそういった性質のものです。そこが面白いところです。想像力というのは「具体的にイメージする力」であると同時に「具体的にイメージさせる力」でもあるのです。「具体的にイメージさせる」ということが相手に伝わるということなのです。そこには「構成力」が必要になります。 続く
2008年04月03日
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君に届け(6)君に届け(5)これはほんとに面白いねえ。4巻まで読んでて、5巻をずっと読んでなかったんだけど、今日6巻とあわせて買ってしまいました。ちいさいおやじ日記たまに魔が差したように変な本を買ってしまいます。いわゆるキモカワです。
2008年04月03日
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空は青いんです。誰がなんと言おうと空は青いんです。そういうもんだよね。
2008年04月02日
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劣等感というのは誰しもが持っているのです。なぜだかみんなはできるのに自分にはできない。みんなは持っているのに自分は持っていない。劣等感ポイントを的確に刺激されると、ぼくらはへこみます。ああ、俺はダメ人間だ。ああ、俺は最低だ。役立たずだ。人間のくずだ。と、どんどん思い込んでいくわけですね。ぼくはそういうのが周期的に訪れます。しかし今までを振り返ってみると、そういった「コンプレックスを刺激されて自己嫌悪した時期」というのはかならずターニングポイント(TP)になっているような気がするのです。以前から言っている「もうダメだ」と思ったときがチャンスということです。「もうイヤだ」でもいいですけど、とにかく思考が煮詰まることが大事なんですね。本気で考えて考えて考えまくって、落ち込んで自己嫌悪して、がーーーっとヘコンだら、かならずそこに道が開けてくるわけです。まさに「ひらめく」という状態です。だからぼくは自分のコンプレックスを気づかせてくれる人って大事だと思うんです。そいつは友達だったり、たんなるご近所さんだったり、もしくは嫌いな奴だったりするんですが、その人たちを遠ざけてしまうと、ずっと自分のコンプレックスから目をそむけることになる。そうするとそのコンプレックスから一生逃げ回らないといけない。それは結構つらいことです。本人にとっても周りの人にとっても。コンプレックスってのは「認めたくない部分」なんですよね。ぼくらは「現実を認める」ことによって幸せになります。劣等感のある部分(認めたくない部分)を「ないこと」にしても本当はあるんです。周りの人も「傷つけてはいけない」って思って口には出しませんが、知っている。そして本人も知っている。自分の「心のアキレス腱」がどこにあるのか、どうやったら触れないですむか、知っているのです。そうやって事なかれ主義で生きていくのもありなんでしょう。だけどきっといつかポロリとはがれるときがくるのです。自分が劣等感を抱いていた部分が、真正面から向かい合わねばならない状況として、どろーんと出てくる時期がくるのです。だったらもう、はじめからコンプレックスに向き合ったほうがいいんですね。そうすると同時に「自分を傷つけた人」に感謝できるようになります。「教えてくれてありがとう」ということですね。そうすると自分に優しくしてくれる人にはもっと感謝したくなります。そうなるといろんなことに感謝できます。いろんなことがありがたく思えてくるのです。ありがたいことがたくさん起こる。あんまり起こらないことがたくさん起こる。つまり奇跡が起こるのです。コンプレックスに向き合う生き方は奇跡の生き方です。どんどん劣等感を刺激してヘコむのがよいのです。へこんでいるときこそがチャンスです。「具体的に悩む」ことさえできればかならず道は開けます。「具体的に悩む技術」に関してはまた書きますが、「ただしい悩み方」というのがあるわけですね。やみくもに悩めばいいわけではない。「答えがない悩み方」をすると悪いスパイラルにはまります。しかしそれも傷の舐めあいをするよりはいいのでしょう。傷を舐めあうと、一時期は「癒される」のですが、ほんとうは傷口が広がっているのです。どう悩めばいいのか。悩むところですね。 ↓参考図書にどうぞ。とことん悩む人が強い理由
2008年04月01日
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何につけても読書だ。読んで読んで読みまくれ。左脳や右脳を使って読書すること。気分によってかえる。バランスを取る。読書によってマジでヘコみ、読書によって心から勇気付けられる。アンパンマンの友達は愛と勇気だけだが、俺には読書もあるぞ!本は素直に読むことが何より大事です。ヘタに批判しながら読むと意味はない。自分が本の内容そのものに一旦なってしまう。感化されてみる。そして実践してみる。評価するのはそのあとでいいのです。さあ、今からでも書店へGO。そして書店業界の売上に貢献しましょう。
2008年04月01日
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今日実はエイプリルフールじゃないんだって!
2008年04月01日
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