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「天才」っていい響きじゃないですか?ぼくは将来、天才になりたいです。天才脳のつくり方あの香山リカが号泣したというオビを見て立ち読み。なんだか興味深くて購入。自分とは年齢も性別も違うのに、考えさせられた。生きるってことは・・・。結婚しなくていいですか。熱い!熱い本です。100%の人生を求めるなら読む価値あり。もっとわがままになれ!ぼくが「天才になりたい」って話をしたときに、「天才ってのは生まれ持っての・・・」とかなんとか言ってる人がいましたが、そんなくだらない「正論」はどうでもいいのです。「現実派」ほどつまらないものはない。「明日からノーリスクで天才になれますけど、なりませんか?」って神様から言われたらなりたいでしょう。イエスって答える人は天才になりたいんですよ。この「天才」って部分はなんでもいいんです。「金持ち」でも「モテモテの人生」でも「絶倫」でも「ミュージシャン」でも「自由人」でもなんでもいいのです。たしかに現実は厳しい。現実ほど絶望的なものはない。でも「現実」って言葉を言いわけにしてるんじゃないかって思うときがあるんですね。「やらない理由」「はじめない理由」のナンバーワンは「現実」です。でも、そうじゃないと思うんです。「現実的じゃない」ってごまかして、「どうやるか」「どうすればできるか」「いまできることはなにか」を考えていないだけ。具体的に思考することができてないだけなんです。学生ではない、社会人のアナタに聞きます。あなたは将来、何になりたいですか?
2008年03月31日
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知識のないところに知恵は生まれない。
2008年03月29日
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機は熟した。もう、逃げない。
2008年03月28日
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今日は仕事が7時半には終わらせて、ごはんはファミレスにいきました。なんだかゆったり本を読みたかったのです。6時間くらいで3冊読めたので満足です。紅茶を何倍飲んだんだろう・・・。学校の勉強だけではメシは食えない!熱いね。さすがは「世界一の職人」。職人ってやっぱりいい響きだよな。昔はちょっと差別的な言葉だったんだってね。でも今こそ職人の時代だと思います、ぼくは。人生に悩む人はぜひご一読を!斎藤一人の「それで、元はとれるのかい?」★5つですな。さすがは斉藤一人さん。天才。この商売哲学はいただきストリートです。もっと読み込んで深く学びたい。小売の人は必読。丸の内お局さまは見た!やはり伸びた男意外にだめだった男まあこれの解説はいいか。オモロイ本です。女の視点はコワイ・・・。以下、最近読んだ本。呼吸のくふう呼吸に感心のある方は一読されたし。禅を生活にいかすには?若き天才からのヒント偉人伝だが、どの人の話もなぜか途中で終わってる・・・。でも「天才の悩み」は思ったより人間的でなんかウレシイ。はじめての呼吸法かなりの良本。横隔膜呼吸に興味のある人は読んでおいた方が良いです。歩行禅山間を徒歩巡礼する著者たちの会話から禅や呼吸のことが学べます。ストーリーがあって楽しく読めます。仕事の哲学人生初のドラッカー。名言集です。「すばらしいこと言うなあ」とうならされますが、もちろんドラッカーの思想体系がわかるわけではありません。という感じで「ボクいっぱい本読んでるよ」という自慢でした。「ヒマなだけじゃん」って言わないでね♪
2008年03月27日
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やさしさは憐れみでない。それはなんとなく、そんな気がするんです。やたらと憐れみ深い人っているでしょう?ぼくもそういうところがありますが、どうも病人に「やさしく」してしまう。「風邪ぎみだ」と言われれば「無理しないでね」。「頭がいたい、お腹がいたい」と言われれば「だいじょうぶ?」「気分が悪い」と聞けば「横になる?」などなど、弱っている人に気を遣ってしまう。一般には、そういう行動や言動を「やさしさ」なんて表現していることが多いように思うんです。でもそれって、病人を弱者扱いして、憐れんでいるだけなんですよね。やたらと憐れみ深い人は、とくに男の場合、どうも「大物と思われたい」ふしがあるんですね。つまり、大物ではないのです。「ダメだ」と告げるより、「いいよ、いいよ」と言ったほうが「度量がある」と評価されそうだ、という判断でそうしている感がある。(そういう人は「いいよ、いいよ」の声が妙に浮わついている。)憐れみというのは、なにか「違う」んです。不自然なんです。ぼくの求める世界ではない。「人を助ける」というのはものすごいスマートさを要求される行為だと思うんですね。たとえば車椅子の方が道で困っていたりするとき、恩義を感じさせずに助けるには強烈に独立した精神が必要になるわけです。「助けてあげた。感謝された。うれしかった」というのはどこかキモチワルイ発想です。自分が優位に立っちゃってるんです。それは憐れんでいるだけなんです。自分勝手なんです。ぼくは電車では高齢者に席をゆずると決めていますが、自分の修行として「どうぞ」ということは言わないようにしているんです。あくまで無言で立って、隣の車両とかに行ってしまう。おばあさん(おじいさん)に直接的には席をゆずらないので、ほかのオッサンが座ってしまうこともありますが、それは仕方のないこと。ぼくのせいではない。ぼくとしては席をゆずって「ありがとう」と言われるのを期待してしまう自分がイヤなんです。「ありがとうと言われたい」ってなんかキモチワルクないですか?もちろん「ありがとう」ってすごくいい言葉で言ってもらえたら嬉しいんだけど、それが目的になったら終わりだと思うんです。あくまで「ありがとう」と言ってもらえるのは結果であって、「このおばあさん、席をゆずったらありがとうと言ってくれるかも」と心のどこかで思ってしまうのは、すごく醜いことのようにぼくは思うんですね。それは、目の前につらそうなお年寄りがいるのに、いっこうに席を譲らない若者と同じくらい醜い。憐れむということは「自らの優位を確認する」というのと同じです。だから口げんかや誰かを批判するときに使うのですね。「かわいそうに」という言葉を。自分のほうが優位ということ暗に(だからこそパワフルに)示している。憐れまれたほうは、たまったものではありません。「論理的には」、ありがとうと言わねばならないし、なおかつ人間としての尊厳を下げられることになるわけです。逆に言えば「憐れまれたがる」人、「憐れんでほしがる人」「私はかわいそうなのよ」という人は、どんどん誰かに憐れんでもらえます。なぜなら人は不幸な人を見ると嬉しくなるからです。憐れな人をみると、「あの人よりはマシだ」と思えるし、「かわいそう」と感じる「やさしい自分」に酔いしれることができるからです。そうすると両者の欲求が一致して負のサイクルの完成です。みんな不幸になっていく。そこに永遠にやさしさは現れない。じゃあ、「やさしさ」って何なのか。ぼくが思うに、やさしさってのは「何もしないこと」なんです。だまって淡々と、相手の状況を受け入れる。批難も批判もしなければ、アドヴァイスもしない。誉めもしないし、叱りもしない。「そうか、そうか」と真摯に聴くことだと思うんです。真摯に聴くことではじめて「助けてもらいたい人」と「助けてもらいたくない人」を判別できるようになるのですね。あえて厳しく自立させるときと思いっきり甘えさせる、その切り替えができるということ。それが本当のやさしさなのではないかと思うわけです。やたらと甘やかすのが「憐れみ」です。ぼくは「やさしい男」になりたい。
2008年03月27日
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人間関係を考えるうえで大切なのは、「なぜあの人は自分に厳しくあたるのか?」を考えるのではなく「なぜ自分はあの人に厳しくされるのか?」を考えることです。つまり主役は自分なわけですね。もちろん「相手の身になって考える」ことも大事ですが、けっきょく変えることができるのは自分だけなのですから、「自分はいったいどうなのか」を考えねばならんのです。相手が自分につらくあたる理由が判明しても仕方ないのです。「上司にとって自分は生意気な部下だから冷たくされるのだ」ということがたとえ「客観的」にわかったとしても、最終的に行動するのは「自分」なのですから、はじめから「自分はどうすべきか」だけ考えれば早い。相手がどうだということはあまり関係がないのです。「生意気な部下をいじめるのは悪である」なんて空論をふりまわしても虚しいだけです。ぼくが見るかぎり社会に「平等に扱われる」ということはありえませんが、それは当たり前で、周りに喜びや明るさを振りまいている人はやっぱり優遇される。ひいきしてもらえる。反対に愛想もなく、笑顔もなく、技術もなく、対話する能力もないような人はつめたくあしらわれるようです。でもそれは当然のことですよね。「自分が撒いた種から稲穂を刈り取る」とはよく言われることですが、周りによいことを撒き散らしている人は大切にされ、嫌なことを撒き散らす人は、のけもの扱いされる。この世界は、不平等だからこそ平等なのです。そのことを実感するには、相手や世界や社会ではなく、自分じしんを観ていくことです。観察するのです。自分じしんの立ち位置と振る舞いがマッチしているだろうか。「身分不相応」な言動をとっていないか。そういったことを見直すとよいのです。「つらい境遇」というのは自分の「不相応」な部分を社会が是正しようとしているのです。だから擦り切れる痛みを味わう。「よいこと」をしているつもりなのに「よいこと」が起こらないのは、「よいことをしているつもり」だからです。「つもり」、つまり自分勝手な思い込みです。「つもり」ではなく、「よいこと」を実行すること。「よいこと」とは何かというと「よいことが返ってくること」です。Aという行動をとって、それで良いことが起きればAは「よいこと」だったのです。Bということをしてみて、「悪いこと」が起きればBは「わるいこと」だったのです。それくらい「法則」は単純なのです。「何が良くて何が悪いことか」は自分を実験台にしてやっていくうちにだんだんと見えてくるものです。そのときにもやはり相手や環境ではなく、自分を見つめることが大事になってくるのです。
2008年03月27日
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学生の子で、びっくりするくらい「ひびかない子」がいます。なにかにつけて無関心というか夢がないというか希望もないというか、たんに精神性が幼いというのではなく、将来性がまったく感じられないのです。あまりに「ひびかない」ので、こっちもしゃべる気がなくなります。対話が成り立たないのですね。たまにこっちに話しかけてもくるんですが、言ってることがぜんぶ的外れというか、何が言いたいのかわからないというか、とにかくつまらない。それで対話が成立していないんですが、どうもそれにも気がつかない様子。そういうコミュニケーションしか知らないのか。そういう子に仕事をまかせても、やっぱりピントがずれている。こっちの話(指示)をまとも聞けないから当たり前だ。そういったことを見るにつけても本当に「対話」するということがいかに珍しいことなのかが分かる。人と人との関係は「ひびきあう」ことにその本質があると思うのだが・・・。
2008年03月27日
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ごくごくカンタンなことです。否定すれば否定されるのです。世間がどうだ、社会がどうだ、会社がどうだ、上司がどうだと否定すれば否定するほど、どんどんあなたは否定されていくのです。社会人というのは自分で社会の中に居場所を作っていくのです。誰かがぼくの場所をあけてくれて、そこにスポッとおさまるというわけではない。自力で切り開くしかないのです。「ぼくの居場所がない!そんな社会はいやだ!」って、そんな情けない叫びはないのです。否定すれば否定され、認めれば認められ、愛せば愛される。その、ごくごくカンタンな原理を忘れてはいけないのだ。
2008年03月27日
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幸せって、なんだっけなかなかシブい視点でついてくる本でした。ソフトバンク新書のラインナップは好きだな。豊かさを問い直す。豊かさとは経済的なことばかりではないんだよ、というお話らしい。が、なんか全体的に流れがなく話がぽんぽん飛ぶ感じで、けっきょく何が言いたいの?と思ったり。スローライフもいいが、「豊かさ」が人を不幸にしたというのはたぶん言いすぎだろう。モノがない生活は精神的に豊かというのこそ幻想だ。たしかにモノにとらわれる精神性は貧しい。しかしモノがないほうがいい、という発想もまた「とらわれ」の考え方なのである。経済的に発展してない国々の人たちのほうが幸せそうだというのは著者の幻想ではないか。「田舎には心あたたまる触れ合いがある」なんてのは何も知らない都会人の妄想なのだ。畢竟、「スローライフ!」なんてことを提唱してがんばるのはぜんぜんスローライフではないということ。スローに生きようが金を求めて生きようが、そんなものは自由なのだ。ブランド物に興味があろうがなかろうがそんなものは人の自由なのだ。ロハスな家に住もうが、豪邸を建てようがそんなものは自由なのだ。現代社会を批判するのはカンタンだ。しかしそれは賢者のすることではない。
2008年03月26日
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ぼくらの思考はとらわれている。世間の常識に、今までの経験に、なんでもない思い込みに。それらは重力としてはたらく。その「重力」にとらわれているうちは「思考」などできない。「思考」しているフリをしているだけだ。それが「とらわれ」の段階。ジャンプするも、すぐに重力に負けてしまう。そのうちその「重力」を利用して、つまりその力に反発するようにして思考するようになる。それが第二段階「飛翔」。自由に飛びまわれるが、飛翔は実は重力を利用しているのである。第三段階は「浮揚」「浮遊」。宇宙空間に浮かぶフェイズである。そうなるともう上も下もない。まさに自由自在の境地。良いも悪いもない世界。「それがそのまま」ぼくとしてはその自由自在の思考の境地にいきたいわけです。
2008年03月25日
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「そうか、もう君はいないのか」なんか惹かれるタイトルでついつい買ってしまいました。ぼくの分からない世界だけれど、想像するに、とても愛おしい世界だ。月並みだが、死から生の意味を問い直す。格調高く、さっぱりとした文体ですが、その内容はあまりにもみずみずしい。ぜひ読んでみてください。これから実家(?)に戻ります。
2008年03月23日
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本が山です。今日買った本が3冊(e-hon含む)。昨日買った本が4冊。今たまってるのが8冊。計15冊。どーしよ。「きょうの猫村さん」の3巻出たんだよ!ファンはマストバイです!きょうの猫村さん(3)「エンゾ・早川の体型大全」これはやばい。観察力が天才的。体型フェチ必読の書だね。エンゾ・早川の体型大全また面白いの見つけたら紹介します。ってか早く読まないと。今週はノー残業ウィークにしてしまえ。
2008年03月20日
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人生の面白いところは一所懸命にやっても結果が出るかどうかはわからないが、一所懸命にやらないと結果は出ないということだ。これはつまり、一所懸命はものすごくリスクが高いということである。しかしそうならぬかぎりリターンも見込めないのだ。仕事しかり勉強しかり恋愛しかり。さて、あなたならどうする?
2008年03月20日
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大人になるということは非常な危険性をはらんでいるのだ。大人になるということはある意味で、どんどん力を持っていくことだ。筋力は衰えるが、権力が強まってくる。権力というパワーを持ったときにこそ、真の人間性が現れる。権力がすこしもなかったら、強制的に謙虚になってしまうのだ。だからそのときは人間性が見えない。力を持ったとき、本質が現れる。「なぜ人は偉くなるとバカになるのか」というようなタイトルの本があったが、つまりそういう人が多いということ。大人は子供に対して先輩は後輩に対して上司は部下に対して、教師は生徒に対して、「バカな顔」をさらす可能性が高いのだ。子供(後輩・部下・生徒)は「裸の王様」のことをさげすんで嗤っているのだ。しかし誰も言わない。「裸の王様」はバカだから言っても仕方ないと思っているから。だから大人になるということは本来すごく怖いことなのだ。それを気をつけていないと、ぼくらはいつだって「裸の王様」になってしまうのだ。
2008年03月19日
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ぼくには尊敬するじいちゃんがいるんです。今ちょっと怪我をしていて入院しているんですが、1ヶ月ほどまえにお見舞いにいってきたんです。そのときじいちゃんはコーヒーをおごってくれてそれにいろいろと教えてくれた。じいちゃんにしたらただの雑談かもしれないけど、60年以上働いてきた人がぽつりぽつりとつむぐ言葉は仕事と将来に悩む若造の心に十分に響いたのでした。じいちゃん曰く「なによりもやりたいことをするのが幸せだ。だが、お前の歳ではまだやりたいことはわからんだろう。だから今はやりたいことを探すのも仕事のうちだ。やりたいことをしていると人間の芯が出てくる。それでも結局やりたいことが見つからんこともある。しかし、それはそれだ。食うために働くというのもひとつの生き方だ。それはそれなのだ。またこの世の中というのは、人の心、精神性というものと同じくらい、いや、場合によってはそれ以上に経済的な力という要素がある。ある程度はそれを持つこと。そうして人に迷惑をかけるのではなく、迷惑をかけられる(金を貸してあげられる)存在になるのだ。(「迷惑をかけられることは苦痛じゃないの?」という質問に対して)迷惑を迷惑と思ってはいかん。それは自分で責任を持つということ。人に金を貸すときは返ってくると期待してはいけない。人に期待すると苦しむだけだ。俺はお前に小遣いをやるが、それは何に使っても自由だ。何せよ、あれ使え、これ買えなどは一切言わない。しかしできることなら金は世のため人のために使うことだ。それがいちばんよいことなのだ自分のぜいたくに使ってはいかん。」ぼくはこういうことを教えてくれるじいちゃんの孫であることをいつも誇りに思ってるんです。あの人はどう見たって、なんらかの悟りの境地にいると思う。思考は聡明でなおかつ自由自在。心身の扱いも見事なものだからね。ビジネス書に書いてあるようなことをそのまま体現している人だ。モデルとなるじいちゃんがいるのはとても幸福なことだと思います。
2008年03月19日
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幸せってなんですか?やっぱり俺には分からない。幸せってお金のことかなあ。幸せって愛のことかなあ。幸せって家族のこと?幸せって夢のことかなあ。幸せって・・・。最近のぼくはあまりに俗人的です。それは少しずつだけど社会が見えてきたからかもしれない。ぼくが「欲がなくって、理想的」なことばかりほざいていたのは、それは高い精神性でもなんでもなくて、単に「知らなかった」だけだったんだなあと思い知る毎日。単にコドモだったんです。ときに「社会」を教えてくれなかった人をうらむような愚かな行為に走ったりする。きっとぼくが聞く耳を持たなかっただけだ。幸せはどこにある?ぼくはぼくに問いかける。きっと答えはわかっている気がする。だけど、それを実現する手段が見つからないんだ。ちくしょう。
2008年03月19日
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自己満足は、自分が満足すればそれで終わりだが、他者満足に限界はない。そもそも他者が満足したかどうかなど、どうあがいたって分からないのだ。その意味でも利他的な喜びこそが真に追求すべき喜びだということが分かる。
2008年03月19日
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ぼくらはかけがえのない存在として生まれ、 かけがえのない役割をさがしていく。それがヒトとして生まれ、人間になるということだ。
2008年03月15日
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ぼくはまじめな性格なので「まじめ論」についてまじめに書いています。今日も書きます。このまえびっくりすることを言われました。実は前にも言われたことがあったのですが、やっぱりびっくりしたのでまた書きます。人と話していたら「え?酒もタバコもオンナもやらない? じゃあ、なにが楽しいんですか」ということを言われたのです。「まじめですねえ」と。反論するのも馬鹿らしくなり、何も言いませんでした。なんで世の人はまじめな人をバカにするのでしょうか。そしてじぶんは「まじめでない」と言うのでしょうか。それはたぶん、劣等感の裏返しなんじゃないかと思うわけです。まじめな人とふまじめな人がいたら、たとえば、なにかを比べたらまじめな人が勝つに決まっている。勉強だって、スポーツだって、仕事だって、まじめに取り組んだ人が勝つようになっているんです。当たり前です。だからふまじめな人は、まじめな人に劣等感をいだいて、コンプレックスを持っているんですね。勝てないから。そこで「まじめですねえ」というセリフが出てくる。「まじめですねえ」というのは「土俵から降りる」という意味合いのセリフなのです。わかりますか?「まじめですねえ」→「自分はふまじめで努力もしていないからそりゃ負けますよ」という逃げ口上なのです。いちばんカッコワルイのは何か分かりますか?それは「まじめに努力したけど、ふまじめなひとに負ける」ということです。その状態がいちばん恥ずかしいのです。だから自分から先に「負け宣言」をしておくのです。そうすると「努力したのにダメだった」という最悪の状態を避けることができるのですね。でもその「負け宣言」はウソなのです。ほんとうは勝ちたい。あわよくば勝ちたい。できれば「努力なんてしてないのに勝っちゃった」という状態になりたいわけです。「だって、じぶん才能あるもん」ということですね。もし負けても「だって努力してないもん」と言いわけができる。「まじめですねえ」というセリフを頻繁に吐く人はそういう人なのです。本人は、努力なんてカッコワルイことしたくないスマートにいきたいとやっているつもりかもしれませんが、本当はその状態がいちばんカッコワルイのです。「まじめですねえ」なんてバカにするように言ってくる人の顔を見てごらんなさい。品性も教養もなく、負けを絵に描いたような強烈に卑屈で、みにくい顔になっているでしょう。ちょっと話はずれますが謙遜というのはとかくむずかしいのです。「日本は謙遜の文化」とかなんとか言っても、実力のない人が言えば、ただの言いわけにしか聞こえません。「そんなことないよ」と言われたいのがミエミエで醜いだけです。だからやたらめったら謙遜すべきでない。むしろ「俺はできる」「俺はすごい」といって、他人に叩いてもらうくらいで丁度いいのです。叩かれるつよさを持たねばならない。謙遜は自己卑下と違う。ほんとうの謙遜とは「何も言わないこと」なのだ。何はともあれ、まじめがいちばんである。追伸:とはいえぼくは「ただのまじめな人」と思われるのも 嬉しくないらしく、恥ずかしいことだが 「まじめなだけじゃないんだよ」ということをアピールしてしまう。 誰も聞いてないのに「昔は金髪だったんだ」とか「むかしはヤンチャしてました」 みたいな話をしてしまう。「ぼく、見た目とギャップあるよ」みたいなことが 言いたいんでしょう。恥ずかP!!(←こうやっておチャラける、ふざける、茶化すのも「まじめなだけじゃないんだぜ」をアピールしているのですね) まじめ論は、意外に深いのです。あなたは、まじめですか?
2008年03月13日
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面倒なことが、なによりも大事だ。面倒なことは、ごくごく小さなことです。しかし些事をおろそかにして、大事成すことはないだろう。面倒という概念の裏(前提)には、「あせり」があるのです。ことばにすると「これさえなければもっと早く終わるのに」です。早く終わらせて次にいきたいこと。それが面倒なことです。たとえば脱いだ服をハンガーにかけるとか脱いだクツをそろえるとか、トイレのフタをしめるとか使った書類をファイルに戻すとかつかった道具をもとの場所に戻すとかそういった「小さなこと」です。どうしても、ぼくなんかは特に面倒くさがりなので、そういう細かなことは人にまかせたがるんです。それは「あせっている」ということなんです。何があるわけでもないのに時間に追われている。あせっていると数分がまるで万里の長城のように長く感じるものです。駅で切符を買うときや銀行でお金をおろすとき、じいちゃんばあちゃんがモタモタしてるとなんかすごくイライラするでしょう。でもあれって実際には長くてもほんの数分なんですよね。さすがに10分もモタつくばあちゃんはいない。でも、「早くしてくれ」と思う。でも、「じゃあ、おまえはそんな数分刻みのスケジュールなのか」と聞かれると、もちろんそんなことはない。朝はダラダラしてるし、仕事中だって数分くらいボケッとしている時間はある。ムダにテレビやネットを見てしまったりもするでしょう。電車の時刻にだってまだ15分ある。なのに、なんだかイライラする。それは「焦っている」からなんです。しかも「むだに焦っている」。つまり焦る必要もないのに、焦っているということです。あせりの一人相撲です。それでは、今を生きているといえない。ほんのすこし将来に生きている。面倒なことをこなすことは、今を生きることです。面倒な作業にしっかり取り組む。面倒な作業になりきる。集中する。待つべきときは、待つ。そうすると、だんだんと「肚」ができてくるのですね。「肚(はら)」なんていうと現代人には分かりにくいかもしれないので、まあ、西洋医学的に「横隔膜の弾性の強化」とでも言っておきましょうか。肚ができてくると、あせりが少なくなります。焦ってしまうような場面でも、「いまは、今できることをするしかない」という心境になります。そうすると、次第に事がうまくまわりはじめるんです。おかげで最近は仕事の調子がすこぶるいいです。だから、面倒だなあと思うことがあったらそれを積極的にやるのです。「面倒なこと」を見つけたら「やった!」と喜ぶべきです。面白いことに面倒なこと、というのは基本的に妄想です。やってみたら大したことないのです。今日は部屋のそうじをしてみましたが、たったの10分で終わりました。だから面倒なことをする、というのは自分の思い込み、妄想を解くということにもつながるのですね。ということでぼくのブログは最後まで読むのが面倒かもしれませんが、きちんと全部読みましょう(笑)
2008年03月13日
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きのう、仕事のビッグエベントを終えて、今日は休日でございました。今日はホワイトデーイブということで、ちょいと街までブラリ、パートさんにお返しするお菓子を買いにいってきました。そうしたら、なんとなく服を見てしまって、そうしたら、なんとなく服を買ってしまいました。マア、衝動買いというわけではなくて、春の服を欲しいなあとは思っていたのです。それで買ったのが、ジャジャン↑上記の写真です。シャツとジャケットを買いました。帽子とマフラーはオサレに見せるために置いただけです。大の男が、服なんか買っててもいいんだろうかと迷いましたが、たまにゃ良かろうと思い買いました。そこで、社会人男性の人に質問!洋服代に一ヶ月(もしくは半年)にいくらぐらい使ってますか?ぼくは2007年はたぶん1万円未満な気がします。今年はちょっとその数倍は使ったな。2005もけっこう服を買ってました。2006はあんまり買ってない記憶があります。写真を見ると同じ服が多いから・・・。今度はクツが欲しいであります。ああ、欲望に際限なし。
2008年03月13日
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【送料無料選択可!】トランスフォーマー スペシャル・コレクターズ・エディション [HD DVD] / 洋画DVDで「トランスフォーマー」見ました。これってスピルバーグなんだね。かなり笑いました。金属生命体たち、やたら人間味あふれてるんだもん。性格もそうだし、動きがどうみてもロボじゃない。ストーリーはつるんつるんに分かりやすい。浅薄なメッセージ性もありましたが、あからさまに「安い」感じがしてヒいた。へたに「人間の犯した罪は重い」みたいなセリフをきくとうんざりするよね。まあ点数でいえば60点弱です。子供と一緒に見るのが前提なら85点かな。そうたぶん子供用なんですね。さて、あのロボたちの動きを見て思ったんですが、今のCGって、「モーションキャプチャー」ってやつなんだよね?実際の人間の動きを取り込んだという。あれを見てると、なんだか不思議な気持ちになるでしょう。キモチワルイ動きだなあと思いつつも、わりと快適なクオリア(by茂木健一郎)なんですよね。それはなぜだろうと考えていたんです。で、ぼくとしての結論は、「CGの動きが自然だから」ということになった。というのは、コンピュータ制御の動きってのはたぶんかなり自然法則にしたがっているんです。ファジーさがなくて、自然法則そのまま。ウィンドウズにはピンボールのゲームがついているのが多いけど、あの「球」の動きって、たぶん自然法則を入力してあるんだと思うんです。物理はぜんぜん分からないのであれですが、「落下の法則」とか「慣性の法則」とか「放物線の法則」とか「入射角=反射角」とか、この世に存在する物理法則をコンピューターに入力して、あの「球」の動きができてるはずなんです。(だれか理系の人フォローしてください!間違ってたら教えて!)で、その感じでCGが作成されているとしたら、やっぱりその動きはかなり物理法則そのものになると思うんですね。またCGの身体性は異常になめらかでしょう。人間のもっている「リキミ」というのがない。「おそれ」とか「たじろぎ」がない。だからそれはある意味で「異常」にうつると共に、しかし「自然」でもあるのである。つまりわれわれ普通の人間は「不自然」なのだ。そうなると、CGの動きというのはいわば「イデアとしての身体」と言い表すことができるのではないだろうか。ぼくたちの身体というのは、どんなに修行しても完成された自然体にはなりません。どこかに欠陥がある。それは達人とて同じです。その欠陥がないのがCGなのです。だからこそ、あの動きを見てるのはなんとなく「快」なのですね。店でDVDを選んでるときに、「今日CG見たいな~」ってときあるもんね。いわばCG欲ってんですかね。マア、トランスフォーマーを見て、そんなことを思いました。P.S.:トレーラーの名前が「コンボイ」じゃないのがショックでした。好きだったなあ、コンボイ。
2008年03月13日
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問題は、躁なんですなかなか深い本を読みました。ちまたで話題の「うつ」に比べて、あまり取りざたされない「躁(そう)」。ぱっと見ただけでは、活動的で元気な人。しかしそれが「なんとなく」異常な感じだと、躁病である可能性があるというのです。本人もまわりも病気であると気がつかないうちに知らぬ間に精神が病んでしまうとのこと。<躁>という切り口から見ることで、現代の異常性を解釈していく。精神病理に興味がある人は一読されたし。
2008年03月13日
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やたら笑いの沸点が低い人たちがいます。なんでもかんでも笑いあっている。実にセンスがない。それは人格が円満で、ニコニコしているのとは違う。新しい視点や、面白い言葉遣いもなければ言い方も陳腐で、もちろん当意即妙の切り返しもない。はっきり言って、そういった空間にいることは耐えがたい。その人たちを見ているだけで恥ずかしくなるのだ。そんな場所に身を置くことはぼくにとって恥ずかしいことであり、また時間のムダである。程度の低い笑いに甘んずる人たちというのはどうも心の弱い人が多いらしく、自分じしんをネタにした笑いというのがない。まれにそれらしいネタも出るのだが、実際は自虐ではなく「そんなことないよ」と否定してもらいたいだけの浅ましい心なのだ。その見せ掛けの「自虐ネタ」にのせられ「そんなことないじゃない」なんていう人も、心の弱い人だ。それは空気が読めるというのとは違う。ただ、嫌われるのが怖いだけなのだ。そんなところにまっとうな人間関係などあるはずがない。あるのは、単なる傷の舐めあいだ。笑顔があるからといってそれが良い空間だとは限らない。なぜセンスがない人はセンスがないのか。笑いのセンスがないとはどういうことなのか、ちょっと今から考えてみます。
2008年03月12日
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これはたぶんに自分にもあてはまることだが、「面白いネタ」を持っている人ほど、気をつけねばならないことがある。「面白いネタ」を持っていると、ついつい話したくなる。またそれがウケたとなれば、自分もすごくうれしい気分になる。みんなが笑ってくれるとき、自分の存在を実感できるのだ。それに笑うというのは、基本的に「よい評価」と思っても良い。ブーイングされた人や、無視された人よりは「笑いをとった人」のほうが「よい」と思われているのだろう。しかし。しかーし、である。面白い話をきいて笑うというのは、実はけっこう疲れることなのだ。笑わせているほうは、ドッカンドッカン来ているのでどんどん調子に乗ってくるのだが、笑わされているほうは意外に、慣性で笑っていたりする。もちろんそれがテレビなら問題ないのだが、それが「人が集まる場」となるとちょっと問題だ。みんなを笑わせていると、まるで自分が主役のような気持ちになってくる。「みんながぼくを見てる。話を聞いてる。しかも笑っている!」と「王様気分」になってくるのだ。そうなると次第に人の話を聞かなくなる。自分の「笑い」にもっていこうとする。そうすると、だんだんと話ができない人が出てくる。「場」には力関係が顕著にあらわれるので、力のない人はほとんど聞かされるだけになってしまう。それはつまらないことだ。力のない人は「聞いてるだけで楽しいから」なんて謙虚なことを言っているが、ほんとうはそういう人こそ、滋味ふかく味わいのある意見を持っていることが多い。やたらと主張がつよいのは、本かネットか先輩の受け売りなのだ。「面白いネタ」を聞かされた人はワハハと笑ったとしても、満足して帰るだろうか。そうではない。顔は笑っていても、心は消化不良で帰るのだ。だから「面白いネタ」を持っている人は気をつけねばならない。笑ってくれたからと言って、相手が満足しているわけではないことを知っておかねばならない。人は、楽しい話を聞いたときよりも、自分の話ができたときに本当に満足するのである。そのことを忘れては、「面白いネタ」が真の意味では活かされないだろう。
2008年03月11日
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いい人間、すばらしい生き方について考えていたとき、ふと、「無人島に流されたときに、 誰かのそばにいてもうっとうしくない人間」ということを思いつきました。無人島では、富も名誉も肩書きも関係ないのです。お互いが、「そのままの自分」でいるようになる。そのとき、いまの社会通念のなかで、モテはやされるものばかりを追い求めていた人は、きっとウザイと思う。「俺は〇〇だった」「俺は〇〇を持っていた」「〇〇と知り合いだった」無人島でそんな話をしてもしょうがない。「誰かのそばにいても、うっとうしくない人間」とはどういう人だろうか。ぼくが思うには、何も言わずに生活している人だ。淡々と生きている人だ。ぼくが学生時代に「こいつはすごい」と思っていた人は、とても淡々としていました。すごく寛容で、一見だらしないんですが、やるときはやるし、たぶん元来持っている能力はすごそうな人でした。英語の時間に「好きなことは?」と聞かれて「Do the sex!」と言っていたのを覚えています。彼の生き方を真似ようとは思わないし、真似しようにもできないと思うけど、とても参考になる生き方でした。やたら主張しない。相手の顔色ばかりうかがわない。自分の話ばかりしない。そうして「ふつう」に生きている」。そんな人が「無人島に流れ着いたとき、となりにいてもうっとうしくない人間」なんじゃないかなと思います。
2008年03月11日
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どうも、ozekeyです。「前向き駐車」で書いてあると、「おっけー!後ろ向きでも大丈夫さ!」という前向きな気持ちでバック駐車します。それにしても、車でバックするのと車でバックでするのは、一文字だけで大違いです。今日はあったかい一日でした。サクラが錯乱して咲いてしまうんじゃないかと思うくらいでした。さて、話は変わりますが、「目は口ほどにものを言う」ということわざがありますね。あれはたしかだなと最近思います。目が語ることって思ったよりものすごく多いのですね。人が自分を見ていなくても、その人の視線を見るだけで、なんかいろいろ分かります。どうして分かるのかと言われても、それは分からないのですが、とにかく考えていることが直に目に出ますよね。怯えている、こちらをうかがっている、仕事に集中していない、仕事で不安がある、反発している、混乱している・・・などなど。目線ひとつでも、お店全体を見回せているか、自分の仕事に没頭してしまっているかもわかります。あれはなんでわかるんでしょう。あとはいわゆる「教養」というやつですか。教養や知性を感じられない人は、やはりそれなりの目をしていると思う。濁っているというか、締まりがないというか。目にシマリがないと、またみんなにこそこそ笑われるよ。あとは、おびえですね。やたらとこっちの表情を伺ってくる人がいますが、ぼくはそれが嫌いなんです。まあぼくが怖がらせてるんでしょうけど。好き嫌いが激しいので。なんにせよ、目はなんか凄い力持ってるよ。よくよく吟味すべし。今日は「ジャズコレクション」買っちゃいました。創刊号は490円。みんなも書店へGO!!あーとりとめのない日記だ。
2008年03月11日
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格差社会・・・。どうもピンとこないのはぼくだけか?思うんですが、格差っていうからには、なんらかの「差」があるんです。しかし、その前提が分かるだろうか?ある前提があってはじめて、「格差」という概念が生まれるのです。それは「基準がひとつしかない」ということです。社会に格差があるのではなく、「基準がひとつしかない」から社会に格差があるように見えるのです。多様な価値観が認められるのならぜったいに格差など生まれません。どんなに優れていると思っても、ひっくり返せばいちばん劣っているのです。じゃあ、格差社会の基準って一体なんなのかと言ったら、それはもちろん「お金」です。お金を持っていない人を「負け組」と言うらしい。いやですね、学校であったら。「3年負け組 金八先生」とか。お菓子だったらもっとイヤですね。「コーラグミ ソーダグミ 負けグミ」とか。意外に売れるかも。もし「負け組」の人が「負けた」と思っているなら、それは恥ずかしいことです。同じように「勝ち組」の人が「勝った」と思っているなら、それはもっと恥ずかしいことです。なぜなら、「勝ち」や「負け」というのはアホな脳みそに宿ることばだからです。アホな脳みそというのは、ひとつの価値観しか認められないのです。だから「格差社会」というのは幻想なんです。かしこい人はお金があろうがなかろうが、それを口にせず淡々と暮らしていると思います。アホな人はお金がないと金持ちをねたんだり、お金をたくさん持っていると自慢しているでしょう。ひとつの価値観にとらわれたら面白くないのです。頭がどんどん劣化していくのです。もちろん「お金」もひとつの価値観です。だからお金大好きな人がいてもいい。でも、お金大好きじゃない人がいてもよいのです。そういう自由さをぼくらは得るべきです。そうしたら、格差社会は一気になくなります。格差社会というのは、実際の貧富ではなく、意識の問題なのです。そんなことをふと思いました。
2008年03月10日
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とてつもなく静かにつぶやいてみる あなた とこころなしか かろやかに口ずさんでみる きみと獰猛なやさしさのもとで 呼んでみる おまえとそれはそこはかとなくいとおしい 呼び名なのだ
2008年03月10日
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知っていることを知っているとみずからは云わず、持っているものを持っているとみずからは云わず、できることをできると、みずからは云わず、ただ淡々と目の前の仕事をこなす、そんな生き方を ぼくはうつくしいと思う
2008年03月09日
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帰省二日目は会社の試験でした。(3月7日)昼1時から4時間ぶっ通しで、合計600問(だったかな?)の問題を解きました。受かるといいな~。そのあと、同期と労をねぎらうためごはんに行きました。前の店で一緒に働いた人ともしゃべれて良かったです。ぼくが勝手に心配していた子も、ちゃんと就職先が決まったようでした。翌日仕事の人もいたので20時ごろ早めに解散。次の日、4時起きの人もいて、その人はずっとそのネタでつないでいました(笑)ちゃんと起きれました?ってかこの日記読んでます?3月7日の夜に寝て、朝起きたらなんと3月8日になっていました。今日は名古屋港水族館に行く日です。滝川クリスタル広場で待ち合わせたら連れが30分くらい遅れてきましたが、寛容なぼくは「ぜんぜん気にしてないよ」と言いました。なんて心が広いんでしょう。また好感度がアップしてしまいましたね。それから水族館でイルカショーやらクラゲやらシマイセエビやらを見て、たこ焼きを食べたりしました。イルカすごいね!あんなにジャンプするなんて知らんかった。蘇我入鹿もすごいと思うけど、海のイルカもなかなかのものです。ちなみに漢字で書くと「海豚(いるか)」です。そのあとは名駅やらをぶらぶらして、休憩したり健康的にスポーツじみたことなどしました。おかげで翌日(今日)は筋肉痛だ・・・。夕ご飯は、かつてバイトしていた居酒屋にいきました。知っている人は店長だけだったけど、ひさしぶりにあいさつできて良かった。もうそこのバイトを辞めてから5年くらいになるけど、いまだに遊びに行けるのがすごくうれしいなと思う。それから20時47分の新幹線にのり、茨城にもどりました。日が変わるころにこっちに着きました。またまた濃いい3日でした。そして今日もお仕事がんばったのでした。ちゃんちゃん。
2008年03月09日
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どうも、BONNIE PINKの本名が「浅田香織」だと知って驚きを隠せないozekeyです。ひさしぶりにくだらん日記など書いてみます。3月5日。12時まで働く。そのあと家に帰り、本を読んだり電話をしたりしてごろごろ。3時から風呂に入る。そのあと4時すぎに家を出発し、駅までクルマを走らせる。5時。電車が出発。東京は上野へ鈍行でぶらり。電車から見る日の出はうつくしい!!7時くらいに上野着。山手線で東京へ。そっからは新幹線で、名古屋まで。あとはサクサクと実家に帰りました。着いたのは10時前かな。家に戻ってきたのは、引越しの手伝いに来たのです。諸事情があって、ぼくが社会人になるまでずっと住んでいた家からゲルマン民族大移動をすることになったのです。その手伝いに長男が茨城からはせ参じたというわけです。ぼくのお役目は、本の片付け。はっきり言って本の片付けだったプロいです。トーハン9号ダンボールにA5サイズの書籍を4面並べてガンガン詰めちゃいます。ちょっと空いたすき間に、変形サイズの児童書とかキレイに詰めちゃいます。でも、家の本は廃品回収みたいにビニール紐でしばってあったんだよね!だから箱詰め技術とか、関係ないんだよね!!そんなヒモで十字掛けされた本を、おかんが捨てるといったのですが、それはもったいないから売ることにしました。我が家のセダンで古本屋に運んだんですが、さすがに一度では運びきれず、2回にわたって本を運搬しました。もって言ったのは合計で1300冊くらいあったそうです(古本屋談)そのうち売れたのは400冊くらいでした。ほとんど日焼けで売れませんでした。まあ捨てるつもりだったのでよし。しめて8000円弱になりました。ちなみにぼくが帰る前にも、マンガをウルトラマン処分(モロボシダン)したらしいんですが、そのときはレア本がかなりあって、1000冊強で40万円だったそうです。それはそれでスゴイ。で、半日そんなことをして、夜はヒザが痛みました、じゃなくてピザを食べました。ぜんぜん違うよね。そんな休日の一日目でした。
2008年03月09日
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仕事ができない人が叱られるのは、仕事ができないから叱られるのではなくて、仕事ができないことを「理由に」叱られているのではないか。仕事ができるできないと言ったって、どうせ入社1,2年ではあんまり大差はないものだ。しかし、がみがみ叱られる人は叱られるし、叱られない人はあんまり叱られない。それはバイトでも同じだろう。やはりコミュニケーションが何より大事なのです。ぼくが見る中では、やたら怒られる人というのは、叱られベタなのだ。なんだか腑に落ちないような態度をしたり、分かったのか分からないような返事をしたり、「もう聞きたくない」というのはあからさまに分かるような聞き方をしたりウジウジしゃべったりする。つまり相手の怒りの火にみずから油をそそいでしまうのである。そうではなくて、こちらから積極的に怒ってもらう。そして「怒ってくれてありがとう」「もっと教えてください」という態度をとるのです。これは技術の問題なんです。そうしたら、相手もそれ以上はなかなか叱ってきませんよ。相手の怒り以上に謝れば、「まあ今度から気をつけろよ」で済むのです。その調子でふだんから「聞く」ということを心がけていると、「こいつは一言言えば直すな」と思われて、がみがみ言われない。怒る相手だって、一言言えば済むから、疲れない。これはいわゆる「WINーWINの関係」なのです。上司だって聖者じゃないから、「ミスを憎んで人を憎まず」ということはなかなかできない。どうしてもミスを多発するやつが鼻につく。いや違う。「鼻につくやつのミスがやたら気になる」のである。ミスが多いか腹が立つのではない。腹が立つやつのミスを、躍起になって探してしまうのだ。そのように嫌われてしまえば、どうでもいいことをあげつらわれてまた叱られてしまうのだ。そもそも上司と部下に意見の「相違」があった場合、正しいのは上司なのである。それが会社だ。圧倒的な「正義」をもった上司といかに接しいかに利用するか、ということは技術を要するのだ。友達や親兄弟ではないのだから、まともな人間の論理で仕事はなりたたぬ。あくまで「仕事の関係」なのだ。そこを履き違えると、カッコつけ一匹狼気取りになってしまう。叱られ方は研究のしがいがある。いかにうまく「聞く」か、相手がどのような反応をしたら喜ぶか、いつもじっと観察しながら支持や命令を待つのである。その延長線上で、「叱られ方」を学ばなくてはならない。
2008年03月05日
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「やりたいことをやる」ここ数年のぼくは、それが何よりも正しいことだと信じていました。でもここにきて、別にそれだけが人生で正しいことではないと実感してきています。それは、ぼくらは一人じゃないからです。誰かがいて、誰かがいて、誰かがいる。ぼくはぼく一人ではないんです。そうなると、どうしても「ゆずりあい」ということが必要になってくる。もちろん、みんながみんな「やりたいこと」をやれたらいいんですが、みんなの思いは無限、物質は有限なんです。だから、誰かが譲歩しないといけない。できればお互い譲歩するのが、うつくしい姿だと思うのです。それは言い換えれば「我慢」ってことになるんじゃないでしょうか。昨今の「欲望にまみれた現代社会」では「我慢はよくない」っていう風潮が強いようです。でも、そんなことはない。多くの人が、ひとつの場所に集まるとき、みんなの我慢が必要なのです。しかし我慢にもコツがあって、それは「恩着せがましくならない」ということです。我慢をすると、えてして人のせいにしがちです。「誰々のせいで、我慢しなければならなかった」という言い方をしてしまいがちなんです。これは「誰かがわたしに我慢させた」という考え方なのです。そのもとにある前提は「わたしは誰かに我慢させられうる」という考え方なのです。つまり、ほんとうは自分で選んで我慢したはずなのに、「あいつのおかげで、我慢を強いられた」という恨みがましいことを言ってしまうのです。それはいただけない。自分でしようと決めた我慢なのに、人のせいにしたとき、その我慢は水の泡になります。その意味では我慢は毒なのです。しかし、これは我慢しようと決めてその責任を背負って生くならば、ぼくはその我慢の人生をうつくしいと思う。たとえば、本当は絵がやりたかったけど、子供がいたからできなかったとか、勉強がしたかったけど、お金がなくて大学にはいけなかったとか、海外留学したかったけど、親の介護でいけなくなったとか、そういったいわゆる係累に関係することで「やりたいこと」を選ばないで「やるべきこと」を選ぶというのもひとつの選択肢だと最近は思うようになってきました。つまりは「選択」というものが「逃げ」からくるのではなく、勇気をもってなされたなら、たといどんな結果になろうともそれはうつくしいと評価されるべきだとぼくは考えるわけです。「成果」を出すだけが人生なのだろうか?自分でない誰かにうらやまれることが、人生なのだろうか?ぼくは今一度「やりたいことをやれなかった人生」というのを認めたいと思うんです。どうしても天運というのがあって、「やるべきこと」に翻弄されることもあるのでしょう。しかし、それはそれでよいのであって、きっと生き方に正解なんてないのだ。我慢する人も、我慢しない人もどっちもいい。それぞれいい。そう思ったとたんに、なんだかいろいろとラクになってきました。
2008年03月04日
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シャンプーは、自分でするより誰かにしてもらったほうが気持ちがいい。美容院でやってもらうシャンプーは、自分でやるより何倍も気持ちいいものなのである。それがなぜなのか、考えてみた。ぼくが出した答えは「被支配性」だ。カンタンに言うと「誰かになにかされてしまう」という「コントロールが効かない」快感なのではないかと思うのだ。一般にコントロールが効かなくて、どうなるか分からないというのは悪い状態のように思える。いわゆる生殺与奪の権を握られる状態というのはあんまりうれしいことではない。しかし、そこに「生命の安全」が保証されているとき、「生かすも殺すも思うがまま」の状態になることは「恐怖」から「快感」に変わるのだ。世の女性が口にする「もうどうにでもして」「好きなようにして」というのは、「相手の思い通りになる快感」に身をゆだねたいということなのである。そういうのは、マゾヒズムだ。いま思いついたが、いわゆる絶叫ましーんというやつもマゾ的快感に属すると思う。あれは、次にどっちに曲がるか分からないからコワイ。カーブや落下が予測できたら、怖くないのだ。誰かにシャンプーしてもらうという気持ちよさの本質はそういったマゾヒズム的快感なのだろう。指の動きが自分の思ったところとすこし違うところにいく。その「小さな想定外」が気持ちよさを生んでいるではないか。それは変態的快楽ではなく、むしろもっと原始的なよろこびなのだと思う。というのは、ぼくら人間は「自然」という神にたいして、いつでもマゾヒズム的であるからだ。とくに東洋では、その考え方がつよい。自然に身をゆだねる、身を任せる、ということが何よりもすばらしいこととされてきた。無駄な抵抗を捨てて、とにかくなすがままにしてしまう。それはびょうびょうと広がる大草原に四肢を大の字に広げて眠るような気持ちよさに近いのだろう。「まかせる」「ゆだねる」「なすがまま」それはいまの社会でいうと「負け」ということになるのかもしれないけれど、本当はとっても人間らしく、気持ちの良い生き方なのだ。誰かにしてもらうシャンプーは、そんな人間としての生きかたを追体験できるすばらしいツールなのだ。だから、他人にしてもらうシャンプーは気持ちいい。と強引にまとめてみる。
2008年03月04日
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あたえることは、そのことじたいが、すでに、よろこびでなければならない。あたえた瞬間に、こころによろこびの息吹が生まれないばあい、いつまで待っても、その見返りを得ることはないだろう。あたえたぶんだけなにかがもらえるという考えは根本から間違っている。あたえるという行為は、その一瞬で完結する。あたえることと得ることに時間差はないのだ。大切な人をよろこばせたい。その一心で動くことはうつくしい。一所懸命に誰かを大切にすること。そのとき、ヘタに客観視してはいけない。相手の笑顔とじぶんのよろこびのみを見つめる。そのとき、「じぶん」は消えていて、それを他人から見ると、そのじぶんはうつくしいのである。
2008年03月04日
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少しばか過激なタイトルになってしまいました。でも、思うのですが、やっぱり性格のよいブスなんていないんじゃないでしょうか。そもそも、ブスというのは蔑称です。差別語的っていうのかな、ことば自体にバカにしたニュアンスがあるんです。たんに容姿が端麗でない、見目うるわしくない、ということだけでは「ブス」にならないはずだとぼくは思うわけです。顔というのは、「いかに端整にととのっているか」、ということよりも「いかに可愛くみえるか」ということのほうがよっぽど大事なわけです。もちろん端整にととのっているほうが「可愛くみえる」要素はより多く含むので有利といえば有利です。しかしそれは単にスタート地点の問題で、大した差じゃないと思うわけです。性格が良かったら、「ブスだなあ」なんて思いません。「美人だ」「きれいだ」とは思わないかもしれないけど、「ブスだ」とはぜったいに思いません。「ふつう」って思うんです。考えてみると、友達でブスっていないんですよね。友達になるくらいだから、「こいつは性格がよい」と思っているわけです。だから「性格がよいけどブス」なんて思わないわけです。そうなるとやっぱり「性格のいいブス」というのは形容矛盾です。「男らしい女」みたいな言い方です。というようなことを考えました。女の人はオトコをどう見ているのかな?「性格わるいけど、イケメン」っていうのは話に聞くような気がしますが、このイケメンっていうのは単に「顔だけ」の話なんでしょうか。女の人にとって、オトコの顔ってどこを見ていてどれくらい重要なのか。一生に一度でいいから、女になってみたいものです。
2008年03月04日
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「自分探しが止まらない」という本を読みました。http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000032023610&Action_id=121&Sza_id=C0これは非常に興味深くて面白かったですね。著者の視点の冷めたことといったらもう。冷静を通り越してニヒリズムってんですかね、こんな人と話したらコワイだろうなあって思った。「~系」ってつけるとそれをバカにした感じになるんだね。熱血だよね!→熱血系だよね。ホストみたい→お兄系だよね。カッコイイ!→イケメン系だよね。夢のある若者→自分探し系ってな感じで。いや、それにしても「夢」って言葉はいろいろだなと思いますよ。なんだか耳障りはいいんだけどね、やっぱり周りの人に迷惑かけることも多いし。現実世界に耐え切れなくて、夢に逃げていてはいかんのだね。夢はそういうものではない。夢にも見方がある。夢を見るってのは空想にふけることではないのだ。「夢だ夢だ」とほざいても、周りに迷惑がかかるようであれば、節制すべきだ。まずは現実生活をちゃんとすること。まっとうに働くこと。金がなきゃ、なんともならんて。金にもならんことをせっせと続けることは偉いことか?そこに一般的な答えはないだろう。よい場合もあるし、悪い場合もある。いつまで自分探しなんてしてる場合じゃない。けれど、自分を探さなくなったらそれはそれで面白みがない。「自分探し」に興味がある人はぜひ読んでみてください。ちなみに今読んでいる本のひとつに「アーティスト症候群」というのがあるけど、これもやはり興味ぶかい。「自分」が拡大した社会は、これからどうなっていくのだろうか・・・なんてね♪
2008年03月01日
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人は、誰かに誉められたいと思い、けなされることから逃げようと、自己卑下をすることがある。「俺なんかマジでダメだ」「もうオバサンだから」「顔がこれだから」「頭悪いから」なぜかみんな自分で言ってしまう。自分でいって、自爆してしまう。なぜ自爆するかと言えば、そのほうが他人から言われるよりはよっぽどいいからだ。たとえば髪を切った翌日、「かわいくなったでしょ?」と言ってみて、もし「いや、前のほうがよかった」なんて言われたら、すごくショックでプライドも面目も丸つぶれだ。しかし「ちょっと失敗しちゃった」と言っておいて、「いや、可愛くなったよ」と言われたら、うれしいし、面目も保てる。もし「前のほうがよかった」と言われたら「でしょ?あたしもそう思ってる」なんて傷つきながらもごまかすことができる。ショックだが、面目は保てるのだ。いわゆるリスクヘッジ(危険回避)とでも言おうか、自分を卑下して言うこと、というのは勇気が要らなくて、安全パイなのである。「自分はダメだ」という言い方をしておくと、あとからなんとでも言いわけができるのだ。だからこそ、そういった自己卑下ばかりしていると本当にそういう人物になっていく。「頭わるいから」という逃げ口上を使って、頭を使うことを拒絶していると、ほんとうに頭が回らなくなる。誰かから「バカだ」と言われるのを怖れるがゆえに、ほんとうに頭が悪くなっていくのである。「もう年だ」とかも言っていると、ほんとうにそういうように老けていく。ぼくが見るに、「オバサンが何言ってるの」とこちらから言えるような人は若い。逆に「もうオバサンじゃん」なんて言ったとたんに急激にへこむような人は、ほんとうに老けている。そういうのは「悲壮感」となって現れる。若い人は、自分をバカにできる。老けている人は、誉められたがっている。若い人から見て、どっちを「いいな」と思うかは言わずもがなである。自分をバカにできる人は強いのだ。老けた人と一緒にいるのは疲れるだけだ。こっちはいつでも誉めていないといけないからだ。若い人、自信がある人と一緒にいるのは楽しい。お互いバカにしあいながら、それでいて尊敬しあうことができるからである。そうとはいえ、やはり誰しも「触れてはならない部分」がある。自信がある人も、コンプレックスを持っているのだ。だから、その「核心」に触れぬように、どれだけ相手をバカにできるか、というのには技術が必要だ。「核心」に触れないようにバカにされるとただ誉められる以上に、人は親近感を感じるものである。そういうところが、人間って面白いなあと思う。
2008年03月01日
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