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呼吸がふっとゆるむ場所がある。呼吸がふっとラクになる人がいる。呼吸がふっと通るモノがある。そういうものに気づけるか。その感性を養う。たとえば僕は、緑豊かな土地にいくとふっと呼吸が抜けます。そこは僕にとって気持ちのよい、心地のよい場所だ。それから美しいものを見ると、ふっと呼吸が抜ける。たとえば仏像とかね。そういう「人」もいます。会うだけで息が苦しくなる人。反対に、なぜかほっとさせてくれる人。無意識のうちに身体は反応しているのです。それに気づいてあげられるか。自分を大切にするということは、身体を大事にするということです。人間にとって理性や論理は大事ですが、それ以上に、身体そのものはもっと大事なのです。また何を見ても、呼吸がふっと抜けるように、何があっても穏やかな呼吸が保てるように修行することも大事です。それは他人や環境に左右されない自分を創るということです。つまり自分じしんの責任を負う生き方です。呼吸を保つということはアクティブアクションのひとつです。
2008年08月28日
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透明な力うおーーーーーーい!文庫版が出たなんて知らんかった!本屋として恥ですね。うちにも入荷してるかな?出勤したら確認しよう。文春文庫です。文芸春秋は「孤塁の名人」いらい佐川先生に興味を持ったのかな。
2008年08月28日
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気心道経絡指圧の遠藤先生の本です。講談社+α新書の著書を2冊読んで興味を持っていたのでこの本(だいわ文庫)も買ってしまいました。だいわ文庫は好きです。佐伯チズのシリーズは読みませんが・・・。千円札は拾うな。最近これの文庫版が出ました。ぼくはB6サイズのを持っていたので読み返してみました。やっぱり大きな視点でモノを見ないといけないなと思いました。10年20年先を見据えた行動をとる。もちろんそんな先のことは分からない。なにかあれば計画を修正すればいい。計画を立てないことには、修正するものもない。日々の業務に追われて、いつのまにやら40歳。それは怖いことですよ。それは、怖いことなんです。仕事で大切なこと経営の神様、松下幸之助さんです。CDで直接語りかけてくれます。今日はヤボ用でつくば市まで行ってきましたが、道中ずっと聞いていました。いやあ、心に沁みる講演ですな。言っていることは、普通なんだけどね。僕は、「説得力」って「人間力」そのものだと思うんですよ。それは論理じゃない。どれだけ文章をうまく組み立てても、伝わらないものは伝わらない。思うに、説得力のあるじいさんは非常に「子供心」が強い。言い方は失礼ですが、幼児がしゃべっているような純粋さを感じるのです。邪心がないというんでしょうか。そういうのは、声そのものから来るんですね。ある域に達した声で話されれば、無条件で飲み込んでしまう。うちのじいちゃんは僕にとって、とても説得力がある。身体の中にビシビシ響いてくるんだよね。それから、合気道の達人、塩田剛三先生。よく聞いてみると論理的にはすごく適当にしゃべっているのに、なんだか「たしかに!」と思ってしまう(笑)あれが真の実力だよね。それからこのCDの松下幸之助さん。早口で、何を言っているのか聞き取れないところもあるけど、「ふーむ、なるほど」と思ってしまう。しかしどんなに明瞭にしゃべってもどこかうさんくさい人、言葉が浮いている人もいる。つまり、内容よりも誰がしゃべるかが問題だということです。ぼくはこのブログですごく良いことを言っているけど(笑)、それが「キレイゴト」に聞こえるのなら、それはぼくの「人間力」が足りない、修行不足だということです。こういうのはテクニックでは身につかないんだろうなあ。それこそ、生き方そのものが反映されてくるのだろう。明日からも成長の日々です。「嫌なことは、成長の糧」やるぞーーー!
2008年08月25日
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ポジティブシンキングでもネガティブシンキングでもどっちでもよい。どっちも必要なこと。なにより大切なことは、ポジティブアクションなのだ。
2008年08月25日
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これ、スゴイ言葉だね。「自分を勘定に入れない」宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一説らしいけど。あまりに感動したので書いておきます。自分を勘定に入れないかあ、そうかあ、そうだよなあ。
2008年08月25日
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成功の反対のことばは失敗。では、「人生の失敗者とは誰か?」と考えてみる。「お金がない」「社会的地位がない」「権力がない」「名誉がない」そんなことは大したことではない。もしそういったことを失敗者というのなら、生まれたばかりの赤ちゃんはみんな、失敗者になってしまう。そこでもう一度考えてみる。失敗者とは誰か?そう、人生を諦めたとき、ぼくらは失敗者となるのだ。希望と失敗は共存しない。希望あるところに、失敗という概念は存在せず、そこにはただ、経験という言葉があるのみである。
2008年08月21日
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スマイルズの名著『品性論』「自助論」を読んだので、これにも挑戦してみましたが、やはり訳文というのは、どうも頭に入りにくいですね。めっぽう漢語が多いと、身体に沁みてこないのです。このことばの原語はなんだろう、ということばかりが気になって、なかなか内容が頭に入らない。たとえば「勇気」という言葉ひとつとっても日本語と英語ではニュアンスが違うのでしょう。そういう意味では英語ができる人がうらやましいかも。3時間熟睡法深く眠ることの大事ですね。もともと寝入りが悪いところがありましたが、呼吸法でかなり改善されました。呼吸法は面白いですよ。イライラをおさめたり、恐怖や不安をなだめたり、感情を抑制するのにはもってこいです。ああ、文庫は廉価でよいですね。金欠のときには助かります。
2008年08月21日
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「花より男子 ファイナル」を見てきました。昨日ですが。思ったよりいい映画じゃないですか。松ジュンの演技が最初から最後まで好きになれませんでしたが、予想に反して、まあまあ見れました。少女の視点で見れば、とても楽しいし胸キュンなのです。もちろんオトナの女性もたくさん見にきていましたが、彼女らは、少女に戻った気分で、もしくは心のうちに秘めている少女の部分で見ているのです。ちなみにぼくはルイ派です。あーゆーのは女性の視点を学ぶよい機会なのです。やっぱりオトコとオンナでは観点が違いますからね。ぼくが最近思ったのは、女性のキーワードは「きらきら」と「ふわふわ」なのです。女性はすごく現実的な生き物ですが、その「現実」が満たされると、すぐに「きらきら」と「ふわふわ」に走ります。「花より団子」なのですが、「団子を食ったら花を見に行く」のがオンナです。そうやって「違う視点」のことが分かってくると、また面白くなってくるのです。女性の方、「それぜんぜん違うわよ」と思ったらコメントください。
2008年08月18日
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合気道はスポーツだ。そうあるべきだ。
2008年08月17日
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「今年は暑いから夏バテした」という文章があったとする。よく聞くようなセリフである。それを、「今年は暑い。だから私は夏バテした。」というふうに分解してみると、まるで夏が暑いせいで、自分が夏バテしたように思い込んでいることがわかる。しかし同じ地域に住んでいれば、夏の暑さは同じである。みんなが同じ暑さのなかで暮らしているのである。それでも夏バテしない人はいる。むしろ夏バテする人のほうが少ないだろう。どういうことかというと、夏バテしたのは、暑さのせいではないということだ。「暑いから」夏バテしたのではなく、自分の身体の調子が悪いので、夏バテしたのである。その意味で、風邪のウイルスで風邪にかかるわけではないのだ。論理を飛躍させれば、風邪のウイルスなど存在しないと考えても支障は無い。これは発想の転換として面白い。よく何も考えずに「○○だから××になった」ということを言ってしまうが、そういった発言は注意して見ないと成長をさまたげる。要は、環境のせいにしてはいけないのだ。環境のせいにすると、自分を変える気がなくなる。成長しなければ、という思いが失せる。「あいつがああだから腹が立つ」「会社がこうだから、うまくいかない」というように自分をそのままに環境を変えようとするとき、いちばん苦しむのは自分です。もちろん自分が変わるときも苦しみを伴うのですが、それは一時的な苦しみなのです。希望ある苦しみなのです。しかし相手を責め立てる苦しみは底がありません。出口の無いトンネルです。どこまでも不毛に、相手とそして自分が傷ついていくのです。自分の言葉に敏感になることは大事です。自分がふだんどんな言葉を発しているのかを仔細に観察してみてください。うまくいっていないときは環境を責めるようなことばかり言って、自分を変えようとしていないはずです。まず自分から変わっていく。その一歩が踏み出せれば、世界が動き出すことが実感できるでしょう。そしてそのとき「世界が動き出す」という言葉の本質も理解できるはずです。
2008年08月17日
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人間にとって大切なもののひとつに、希望がある。希望とはなにか。希望とは暗闇に差し込む、一条の光である。希望とは、人間の尊厳そのものである。希望とは可能性である。そして希望とは確信である。未来を創るのは、確信である。「できる」という想いである。「やる」という覚悟である。ぼくらには希望がある。希望を捨てない限り、明日はある。希望は心から生まれるのではない。希望は行動から生まれるのである。「希望が無い」のではない。「希望が見つからない」のだ。希望とは、大きな視点で見ることだ。希望とは、宇宙から、歴史から今日という一日を見ることである。希望とは、自分の思い込みを解くことだ。希望とは、柔軟性と多様性である。希望とは「やってみる」という精神だ。希望あるところに「失敗」はない。希望とは、今できることを見つけることである。
2008年08月17日
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うらやむ力が大切だ。ぼくらは自分に無いものを見ると、それを欲しいと言ってみたり、はたまた要らないと言ってみたりする。しかし要らないという場合、往々にして「すっぱいブドウ」である場合が多い。「あんなに頑張って、学校の成績あげても仕方ないよ」「お金ばっかりあっても仕方ないよ」「オトコにはモテるみたいだけど、頭わるいし」「出世したとしても、性格が悪かったら意味ない」といったように素直にうらやむことができないと、ひがんだ性格になってしまい、欲しいものも手に入らない。ちなみに「すっぱいブドウ」とはたしかイソップ童話で、「手が届かないくらい高いところにあるブドウをキツネが見つけたが、『ふん、あんなすっぱいブドウは要らないや』」とのたまったというお話です。つまり甘いかすっぱいか、食べたこともないのに自分では手が届かなさそうなので、「要らないふり」をしているということです。これは自分をごまかすという恥ずべき行為です。まあ誰しもが気づかぬうちにやっていることだとは思いますが・・・。うらやむ力は自分の夢に気づく力です。自分の心に真正面からぶつかる気概です。「あいつが持っている!俺も欲しい!」と素直にがんばることです。「なんであいつだけ。不公平だ」「別にあんなの要らないし」「自慢ばっかりしやがって」こういう言葉を日常的に言っていると、うらやむ力が失われていきます。嫉妬してしまうのは人間のサガですが、そのエネルギーをいかに使うかが大事です。このまえ高級ブランド品店に入ってぜんぜん手が出ませんでしたが、そんなとき「べつに高級ブランドなんて興味ないし」と言ってしまうのか、「いつか買ってやる」と思うのかでは将来的に差が出てくると思うわけです。ちなみに僕の場合は「高級ブランド品にとくに興味は無いが、それが買えるくらいの経済力は欲しい」という考えです。「ひゃくまんえんのゆびわ」、買いたいものですねえ。ちょっと話がそれましたが、うらやむことは力です。そしてその悔しいと思う気持ちをどこに向けるのか。いい思いをしている人の陰口を叩くのか、自分もそうなろうと努力するのかは・・・、自由だ!羨望 イズ フリーダム!!
2008年08月17日
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和田秀樹の“最終最強”知的生産術和田秀樹さんです。なかなか面白い。導入部分の「偏差値高=悪、偏差値低=良」というあやまった構造をマスコミが垂れ流している、というのには共感できました。東大卒が事件を起こすと、「だから勉強ばかりしてるやつは・・・」と騒がれるが、実はいわゆる偏差値の低い層のほうが犯罪をおかす率は高いそうだ。マスコミに流されず、「正しい知識」を得るためには勉強しなければならない。そのための方法論。ためになります。自分を肯定すれば必ず!「いい結果」がついてくるまたまた和田秀樹さん。同じ著者の本を同時期に買うのは読書のドミナント戦略です。似たような本を同時期に読むと理解が早い。この本は30代向けの本だったので、ちょっと自分には合わない部分もありましたが、参考になることのほうが多かったです。絶えざる自己成長。そしてその成長が周りの人の幸福につながること。自分を変えていくのは慣れてしまえば快感です。「お金を稼ぐ!」勉強法社会人は知識を得るだけじゃダメなんだ。知識を使ってリターン(お金)を得てこそプロだ!というようなお話。そうなんです。プロになって、堂々とお金を稼ぐ。何かで読んだんですが、お金はその人を増幅させるだけ。善でも悪でもない。善人はお金によってもっと善人になり、悪人はお金によってもっと悪人になる。そんなお金におびえて遠ざけてはいけません。お金は、リアルです。今日は読書の調子がよかったです。今日買った本を全部読んでしまいました。帰りの電車で何読もう・・・。
2008年08月16日
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あの~、読者のみなさまに聞きたいんですが、「セミやカブトムシをつかまえるアミ」のことをなんて呼んでました?ぼくは昔から「タモ」って呼んでたんですが、どうやらこれは共通語ではないようなんです。人に聞くと「あみ」「虫アミ」「虫取りアミ」とか言いやがるんです。おかしいと思って、辞書を調べるとふたつの辞書のうち、ひとつにしか載ってません。しかも載ってたほうも【たもあみ】タモとも言う。みたいな書き方でした。ぼくはね、自慢じゃないがずっと「タモ」って呼んできたんですよ。いまさら変えるつもりは毛頭ありませんからね!トンボを捕まえるのは・・・タモです!!天才の時間ちょっと科学の話など難しかったですが、「天才には休暇が必要だ」という話が面白かった。休暇というのは雑事にまどわされず仕事に没頭できる時期のことを言っているのです。逆に言えば、いちばん仕事をしている時期ですね。あー、早く天才になりたい。とベムのようにボヤいてみる。人を見抜く力これは講談社ムックの「セオリー」のシリイズです。ぼくはセオリーって好きですよ。「上質の〇〇」とかマスコミにおどらされている感はありますが、それさえも楽しんでしまおうという気概であります。買ったのははじめてですけど。やっぱりこれからの時代は読書ですよ。心身共に鍛えられるしね。自分を磨くこと、学ぶことをしなくなったら人は腐っていきます。知った人で、自分の話ばかりする人がいますが、その人と一緒にいると人生の時間を損しているような気分になります。ほんとにイヤだなあと思っていたら、他にもそう思っている人がたくさんいるようです。みんなから疎まれるって寂しいことですよね。やはりそうならないためにも自分を厳しく見る目を養わないといけない。それには読書が必要なわけです。なんていつのまにか偉そうに語ってしまいましたが、いつの日か、こういうことを語るのが似合う人になりたいです。ちゃんちゃん。
2008年08月15日
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流星群をさがしに、ちょっとそこらを散歩にいったんですが、曇ってて見れませんね。残念でごわす。いつものセブンイレブンまで歩いたのですが、途中で橋があるでしょう。あの橋の上を歩いているときに後のほうで、ぶーん、ぼてっという音がしたので、驚いて振り向くと、なんとカブトムシでした!しかもオス!押忍!!みたいな。見るとどうやらひっくり返って起き上がれないようです。ひっくり返して、ひさしぶりに背中を持ってみましたが、ぐいぐい暴れるのでびっくりして離してしまいました。そしたら、また裏返ってしまってヘコヘコしています。元に戻れないなんて、生物的に欠陥だと思う。写真のごとく、そばにあるタバコにつかまったりしてジタバタしていました。仕方ないので、もう一度オモテ向きにしてあげました。最近、虫を救うことが多いです。ウチのお店には虫さまがたくさん来店されます。最近のビッグなお客様は、オニヤンマでした。夜ご来店されたときは掴まえられなかったのですが、翌朝出勤すると、衰弱されていたので、外に逃して差し上げました。その翌々日くらいにはミンミンゼミがのたうちまわっていらしたので、それも外に逃がして差し上げました。おとといはクワガタのメスを2匹外に出しました。オトナになってから、虫とか触れなくなりましたが、最近は修行と思ってがんばっています。それにしても、虫の死は、身近だ。虫の死は、軽いのかな?いのちってなんだろう?いのちって、なんだろうか・・・
2008年08月12日
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絵解き般若心経これはあの瀬戸内寂聴さん訳の般若心経です。しかし般若心経は訳して読んでもとくにありがたみがないね。その心持ちを体得してから読むと、「そうそう、これなんだよねー」というふうになるのでしょう。とかく達人のことばは結果論なので、そこにだまされないようにしないと上達が阻害される。ぜんぜん関係ないですが、 杉 永作博美 J 太 郎という図式を思いつきました。意味はないです。
2008年08月12日
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感謝ってなんだろうと考えました。「ありがたい」という気持ち。「有難い」は論理的には「なかなか起こりえないことだ」という意味ですが、実際には、そういうふうに思っているわけではない。で、ぼくが思考を煮詰めた結果、感謝とは「て良かった」ではないかと思ったのです。たとえば誰かに感謝するということは「あなたに会えてよかった」人生に感謝するということは「生まれてきてよかった」会社に感謝するということは、「この会社に入れてよかった」「て良かった」の前には、「現状」が入ります。「あなたに会えた私」であり、「生まれてきた私」であり、「この会社に入れた私」なのです。つまり「現状」があり、「その現状でよかった」ということになる。それは「いま」を「認める」ということなのですね。先日、赤塚不二夫さんが亡くなりましたが、バカボンのパパの「これでいいのだ」というのはそういった現状肯定の精神の発露だと思われます。まどみちおさんに、以下のような詩もあります。「くまさん」はるがきて めがさめて くまさん ぼんやり かんがえた さいているのは たんぽぽだが ええと ぼくは だれだっけ だれだっけ はるがきて めがさめて くまさん ぼんやり かわに きた みずに うつった いいかお みて そうだ ぼくは くまだった よかったなこの詩を見たとき、ものすごい衝撃を受けました。「そうだ ぼくは くまだった よかったな」ここに人生極まれり、という感じですね。このように、「て良かった」と感じるとき、ぼくらは「ありがたい」という感情が同時に生まれるのです。「崖の上のポニョ」の「生まれてきて良かった」というキャッチコピーもそういったようなことが言いたいのかもしれませんね。あなたは、「て良かった」と言えますか?現状肯定こそが、幸福のカギです。そして、現状肯定こそが、矛盾するようですが、変革のカギでもあるのです。
2008年08月12日
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なぜ本屋さんでトイレに行きたくなるのか本屋なのにその答えを知らなかったので買いました。この本にある「内蔵感覚」という言葉にビビっときました。内臓。たしかに内臓は非常に鋭敏に空気に反応します。嫌な奴のことを思い出してみてください。お腹が反応しているでしょう?感情はお腹に宿ります。それを調整するのが呼吸なのであります。夢を必ず実現する「右脳生活」法いいですねえ、右脳。ぼくの好きなものは右脳です。右脳と、潜在意識と禅と合気道と呼吸法と気です。あとはα波とθ波も好きですね。あ、セロトニンも好きでした。そのへんのところを体系化して、誰もがうまくいく、成功する、上達する、そういったオゼキズム・メソッドを開発したいのです。古来からの鍛錬法・稽古法といわゆる「成功哲学」ってすごく類似した点があるんですね。ぼくは「人間の鍛え方」というのはある程度普遍的なのではないかと踏んでいるんです。その方法を見つけること。それをやればみんなが幸せになれる、というメソッドを見つけたい。たぶんね、ぼくらが認識している「人間」以外に、なんというかまったく目に見えない「にんげん」があると思うんですよ。それと対話するということ。まあ直感といってしまえば、それだけですが。とにかく「目に見えるもの」「科学で証明できるもの」はこの世界のほんのすこし、氷山の一角だということです。死ぬまでに「神とは何か」が証明できたらいい。というわけで今日は般若心経を写経してみました。ボールペンですが。近いうちに覚えて暗誦したいと思います。
2008年08月12日
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自分勝手な気持ちがあると、心が曇るのだ。自分だけがよくなろう、自分だけが幸せになろうとすると、心がに濁る。心が濁ったり、曇ったりすると、モノやコトが見えなくなる。静かな心に気はやどる。心を澄ますことで、見えてくるものがある。心を澄ますというと、どうも精神論に聞こえてウサンクサイが、実はそれを身体論で論じることができる。心を澄ますということは、身体を澄ますことだ。それを禊(みそぎ)という。みそぎとは「身削ぎ」。身体から、余計なものをそぎ落とす。余計なものとはリキミ。自分勝手なチカラだ。対象に伝わる前に固まってしまうチカラ。こもるチカラ。それを伝わるチカラ。出すチカラ。に変えていく。誰かを幸せにしたいという気持ちが、なによりも強いチカラなのである。
2008年08月10日
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けっきょくのところ、人と話す、言葉にするということは具体論でなくては意味がないのだ。しかしあることを具体論と捉えるか、抽象論と捉えるかは、その人の感覚の鋭敏さによる。例えば「気」というものをリアルに再現性を持って感じられる人にとって、「気」は具体論である。しかし「気」というものがあいまいにしか感じられない人にとっては、「気」は抽象論であり、あやふやで意味のない話になる。ぼくの立場としては「気」はおそらく具体的に存在する。しかし、ぼくはそれを具体的に感じることはできない。もちろんピーンと直感が働くことはあるが、そこに再現性がないので、具体的とはいいがたい。「気」というものについて、まだ詳しいことはわからない。しかし近いうちに、何かひらめきそうな「気」はするのである。
2008年08月10日
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仕事はもっとも大切な修行だが、人生の目的ではない。
2008年08月10日
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モクヒョウをタッセイするだけが人生じゃない。野に咲く花がモクヒョウをタッセイするだろうか。ノラ猫がモクヒョウをタッセイするだろうか。空が、雲が、山が、海が、モクヒョウをタッセイするだろうか。モクヒョウをタッセイすることが好きな人。べつにモクヒョウをタッセイすることが特に好きではない人。いろいろな人がいるのだ。モクヒョウをタッセイしない人生だって、悪いものではないのだ。しかしぼくのこの言葉がチカラを持つためにはぼく自身がモクヒョウをタッセイしなければならない。
2008年08月10日
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たしかに「システム」は効率的で無理がなく、ムダも少ない。しかし、「システム」には限界がある。なぜなら、「システム」にはヒトが介在するからだ。システムのすきまにヒトがいる。完璧なシステムのはざまで、ヒトがミスをする。ヒトは失敗をする動物である。こんな書き方をすると、自分の失敗をかばっているみたいだが、いやしかし、誰しもミスはしているだろう。すくなくとも一日一回は。そもそも「システム」が効率重視のために構築されたとしても、実はシステムの効率には存外にも早く、限界が来る。ほんとうに効率が良いのは、人為的な、というかヒトそのもののあり方なのである。システムというのは、非常に左脳的な考え方であると思う。大脳新皮質的と言ってもいい。システムは、幻想である。体系というのは、あくまでヒトの頭の中の産物である。システムというのは、言葉と同じレベルにある。便利だが、限界がすぐに見える。逆に言えば、システムの限界を知ることで、システムを最大限に利用することができる。システムの構造だけにとらわれてはいけない。システムのはざまに、ほんとうに大切なものが落ちているのだ。今日はわかりにくい文章を書きました。自分のためのメモです。すみません。
2008年08月07日
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たとえばお金の遣い方で大切なのは「機」を観ることだと思う。それは、金額の多寡ではないのだ。そのとき、その場に応じた適切なお金の遣い方を勉強すること。お金の力が最大限に発揮されるよう遣う。それが、本当にお金を大切にするということ。貯金さえすればよい、というものではない。ぼくが思うに、少ない金額で、多くの喜びが生まれるのがいちばん素晴らしい遣い方だと思う。安ければいいのではなくて、その落差が大きいほど、よい遣い方。お金を多く出せば、喜んでもらえるのはある意味で当たり前なのだ。 多く出すときには、めちゃめちゃ喜んでもらわないといけない。しかし機さえ見定めれば、すくない金額でも喜んでもらえる。機というのはタイミングのことだが、それだけにとどまらず、人間関係や、場の空気、それまでの経緯などなど4次元的にいろんなファクターを包含したことばだ。機を観る、というのは「今、ここ」に適応すること。それはお金だけでなく、言葉の遣い方もそうなのだ。それがなによりむずかしい。しかし研究する価値はある。
2008年08月07日
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ご報告が遅れてしまいましたが、本館であります「合気雑感」のHPが閲覧できなくなっています。これはある事情によるものですが、これを機に、合気雑感はいったん閉鎖することにしました。合気雑感は2004年6月に作成され、4年と4ヶ月のあいだ、多くの合気ファンの皆様に支えられてきました。合気雑感を通して、ほんとうに多くの方と知り合うことができ、大いに勉強させていただきました。今は、「そういう時期」ではないのであえて休館にいたしますが、かならずやビッグな研究結果とともに合気雑感を復活させたいという思いはあります。「ozekeyの、あの伝説の合気雑感が帰ってきた!」みたいな感じになったらいいなと思っています(笑)今後しばらくのあいだは、こちら「無浄随感」と合気道ブログ「呼吸と合気道」、もしくはミクシイを通じて合気ファンの方とは交流したいと思います。つたないHPでしたが、温かい目で見守ってくださった皆様にほんとうに心より御礼申し上げます。ありがとうございました。
2008年08月05日
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合気道の何が良いかって、時間がない人でも稽古できることです。というのは、その動きが自然にかなったものであるから、日常生活においてこそ、稽古という意識が大切になってくるのです。仕事中に、サッカーやボクシングの練習はできないでしょう。でも合気道の稽古ならできるのです。つまり、姿勢や呼吸の仕方、指の意識、腹を練る、など誰に迷惑をかけるでもなく、もくもくと稽古することができます。ぼくが最近思うのは、日常生活に稽古を取り入れるのではなく、日常生活こそが稽古だということです。ひとつひとつの動作、たとえばダンボールひとつ運ぶのにも仙骨を意識してみたり、いろいろできます。小さなことに思えるかもしれませんが、それが積み重なると、大きな違いになります。そういうところが楽しいと思うわけです。土日の休みにスポーツを楽しむ、というのもアリかとは思いますが、ぼくの好みではない。そもそもオンとオフを使い分ける考え方が好きではないのです。オンであれ、オフであれ、ぼくの人生に変わりはない。オンとオフが渾然一体となって輝いてくるとき、「誇りある人生」となるのでしょう。話がそれましたが、合気道はそれほど奥が深いということです。
2008年08月05日
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億万長者専門学校ぼくがレジをしていたらお客さんがこの本を持ってきて、気になってぼくも買ってしまいました。これは面白い。いわゆる「お金持ち本」の法則をまとめたような内容でなんだか教科書っぽい。ページ数が多いのですが、サクサク読めます。で、ぼくがこの本を読んで思ったのは、「お金持ちになるのは手段である」ということです。お金持ちになることは、ぼくにとってどうしても目的にならない。副次的な意味しかないのです。ぼくが本当に興味があるのは、身体という小宇宙であり、人間関係の構造であり、「神」の存在なのです。「この世の不思議」が好きでたまらない。その謎を知りたい。しかしそれは直接的には生かすことができない。生きることに直結しない。ぼくはひとりで生きているわけではないから、ぼくと関わる人たちに幸せになってほしいと思うわけです。「尾関直人という人と関わってよかった」といって欲しい。そのためにはお金が必要なのです。お金だけで人を幸せにすることはできない。しかし心だけでも、人を幸せにすることはできないのです。だから何とかして「この世の謎を研究することで、お金が入ってくるビジネスモデル」をつくらないといけない。そんなものあるのか?ないと思えばない。しかし、考えに考えて答えが出ないことなどないのです。考えまくって煮詰まれば、かならず答えがでる。その確信はある。ぼくは「誇りある人生」を歩みたいと思っている。「誇りある人生」に、ぼくなりの定義づけをしました。(これ重要)それは・・・「持って生まれた能力を活かしきり、社会や周りの人に貢献し、自分自身も心から生きがいを感じる」というものです。キレイゴトに聞こえるなら、それはそれでかまいません。あくまでぼく個人の目標ですから。また、抽象的な表現にみえるかもしれませんが、実際にはもっと細かい定義がなされています。「能力」って何?とか。「やらなきゃいけないことがある」と感じているので、なんとしてもそれをやり遂げたい。そういった気持ちは自分のことだけを考えていたら生まれないのですね。なんだか最近、そういうことを思います。
2008年08月04日
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夏、動きがあります。動きは、おもしろい。どう、変わるか。未来はどちかに転ぶか。たのしみだ。眼力眼力(がんりき)です。人を見抜く力ですね。人を見抜くのはむずかしい。しかし、それだけに当ったときは嬉しい。眼力で、人から恐れられたい。あとは「丹田を創って腹の人になる」という本も読んだのですが、どうも小学館文庫は画像がないようです。やたら蒸し暑いです。座っているだけで汗ばみます。幸いというべきか否か、一人暮らしなので扇風機も冷房も使いません。流すだけ汗を垂れ流しますと、なかなか身体の調子はよいわけです。「気」の開発メソッド(初級編)宇城先生の新刊です。合気ニュースの本はデータにあるんですね。地方小扱いなのに(←本屋用語)丁寧な生活を心がけること。「礼」は精神的である以上に肉体的だ。こころとからだのつながりは研究してもしきれない。そういえば、ぼくは「研究」ということをやっていないと死んでしまう人種だとやっぱり思いました。大きくしたり、広げたりするのは苦手。あるモノ(コト)のなかにじっくり入っていく。構造(しくみ)をさぐっていく。それを理論をもとに良くしていく。そういうことが性に合っているようです。
2008年08月04日
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脳トレをがんばっている人というのは、脳を鍛えていったい何がしたいのだろうか。
2008年08月03日
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端的に言ってしまえば、オトコの価値はお金であり、オンナの価値は美貌である。そもそも価値という観念じたいが、「なにかと比べる」という発想のうえに成り立っている。ぼくらにとって、本当に大切な人は無価値である。愛するということに理由をつけるのを野暮というのである。「かけがえのない存在」という言葉は価値という考え方とは相容れない。「くれる/くれない」「あげる/もらう」というのは相対的な世界の話である。絶対的な世界とは「ある」世界だ。何が「ある」のかといったら、「ない」ということだけが「ある」のである。つまり0が1であるということ。0だけが1。だからほんとうに大切な人は無価値という価値があるのである。しかし絶対的な世界は存在しないのであって、ぼくらは多少なりとも相対的な社会にいきることで、生きる実感を得ているのである。
2008年08月03日
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「いい人でありさえすればいい」というのは大きな勘違いである。
2008年08月03日
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どれだけ注意して自分のこころを内省してみても、どうやったって俗欲が生まれてくる。誉められたい。評価されたい。感謝されたい。モテたい。カッコイイと言われたい。スゴイと思われたい。いい人だと思われたい。優秀だと言われたい。デキる人だと思われたい。恥ずかしながら、ぼくはそんなことを考えてしまう。しかし、自分を弁護してしまうが、たぶんこういうことはみんなも考えているのだろう。きっとぼくだけではないはずだ。思うに、こういった俗な欲望・我欲というのは、それを「思ってしまうかどうか」ではなくて、その欲望に対して「どう対処するか」ということが大切なのではないだろうか。つまり、そういった「俗欲を持ってしまった自分」を素直に認める。そのあとで、それに対してどう振る舞っていくのかを決めるのが大事だと思うのだ。俗欲を持ってしまった自分をむやみに責めても仕方ない。「俺はダメだ。未熟だ」という嘆きは、おうおうにして努力に対する逃げである。嘆いているヒマがあったら、なにかしらひとつでも努力すればいいのであって、「俺はダメだ」というのは、「何もしません」ということの言いかえに過ぎない。俗欲・我欲に対する方法はひとつしかない。それは「ふるまい・行動」を変えることである。「振る舞い」がその人を決める。痴漢願望があっても、痴漢をしなければ犯罪者ではない。成功願望があっても、成功しなければ成功者ではない。結婚願望があっても、結婚しなければ既婚者ではない。つまり人とは願望ではなく、振る舞いなのである。まずは「振る舞い」から変えることだ。しかしその「振る舞い」は他者に向けられてはならない。「募金をした自分」や「お年寄りに席をゆずった自分」「レディファーストをした自分」「金に糸目をつけない自分」に酔ってしまうと、けっきょくのところ成長はない。それに関しては、自分で厳しく監視するしかない。「今の行動は己の成長のためにやったのか?」「よく思われようとしてやったのではないか?」「評価されようとして振る舞っただけではないのか?」たゆまぬ自己監視がなければ、「振る舞い」はたちまち自己満足の喜劇に終わる。そして皮肉なことに、誰からの賞賛も得られぬのである。意識的に「ふるまう」ということは、ただ己の心の修養のためのみに行なうのである。ふるまい続けることで、心が変わってくる。それは「誇り」が生まれるからだ。嫌なやつにもニッコリしてみる。その瞬間は死ぬほど腹が立つのだが、あとから「お、できるじゃないか」という自信になる。その小さな自信が次の行動を引き起こす。「今度はニッコリしながら、優しい言葉もかけてみよう」となる。それで腹を立てながらも、がんばってふるまってみる。鷹揚な人物を演じてみる。これは演技だ。ゲームだと思いながら、がんばる。そうすると意外にもできる。「できるじゃないか、俺」というふうになる。そうすると「じゃあ、こんなこともできるかな?」といってどんどんチャレンジする幅が広がっていく。そのうちにはじめのステップなどは簡単にこなせるようになってくる。そうやって、振る舞いが誇りになり、自信がついてきて、心が変わっていくのだ。大事なポイントは「このようにやってみよう」と自分と約束したらけっしてそれを破らないことだ。言い訳をしないで、やってみることだ。「ふるまう」前には、かならず意識的な「決心」がある。「やってみよう」と心に誓う瞬間がある。その約束を守れるか。自分との約束を守って、がんばって「ふるまう」とそれが「誇り」になる。「よくやった、俺」ということだ。そうやってチャレンジの階段を一歩ずつあがっていく。これが成長の仕組みである。今日の文章はやたら偉そうだし、しかも組み立てがごちゃごちゃだが、なんだか熱い心を書きとめておきたいので支離滅裂に書いてしまいました。
2008年08月03日
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やたらと誉めてもらいたがる人がいる。「アナタが誉めてくれないと ワタシはヘコみますのでヨロシク」といった空気で、会話の方向性を強制するのだ。そういった強制的な会話の中でいつも誉められているような人は、本質的には特に誉められるような人ではないように、ぼくには思われる。
2008年08月03日
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「人間関係に誤解はない」ということが言われます。つまり、相手にどう思われるかが全てなのであって、「自分はほんとうはこういう人だ」という主張は通用しないということです。「自分はホントは明るいんだけど、地味に思われる」とか「ほんとは優しい面もあるんだけど、冷たい人と誤解される」というのは甘えであって、相手や周囲にそう思われたら、それがその人の「社会的な人格」だということです。そうなると、その論理を逆手にとらない手はありません。つまり、内面でなく「振る舞い」によって社会的人格を変化させてしまうということです。たとえば怖くて冷たいと思われている人が、「俺はホントは優しいんだ!」と主張しても誰も聞いてくれないし、説得力もない。実際に冷たい態度を取っているから、そう思われているのですから。しかし、「冷たい心」を抱いたままだとしても大きな声で、はきはき明るく挨拶して、冗談のひとつでも言ってみたらどうでしょう。それが1週間も続けば、たちまち「明るくなった」と評判になることでしょう。けっきょく、「心」などはそう簡単に読めぬということです。ほとんどの社会的な関係は「ふるまい」によって成り立っている。そしてまた、人は「ふるまい」に応じた心持ちになっていくものです。明るく笑顔であいさつしながら、人を憎むという芸当はなかなかできるものではありません。とにかく、そのときにどんな感情を持っていたとしても、「ふるまい」を大切にすることで、相手や周囲に与える印象は変わってきます。そして内面が冷たいとしても、「あたたかい人だ」と評価されれば、その人は社会的に「あたたかい人」ということになるのです。一時の感情にとらわれず、「ふるまい」を意識すること。そのうちに内面的人格も変わってくるところが面白い。「心」を変えたいときには、まず「ふるまい」から変えるのがよいのです。
2008年08月03日
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「確信」というのはぼくは非常に神秘的なものにとらえています。「確信」というのはピンとくるというか、直感というかとにかく「できる!」というひらめきです。「確信」というのは、意識の上で持とうと思って持てるものではない。内から湧き上がるというよりはむしろ外部からやってくるような感覚さえあえある。それはかならずふとした瞬間で、「確信」をぎらぎらと待っているわけではない。たとえば、ぼくが就職活動のとき、今の会社はかなりピンときました。エントリーした時点で「受かるに違いない」と思っていました。他にもそういうことは色々あった。「この人とは何かある」とか「合格できるに違いない」とかそういう強い「確信」はほとんど外れなくて、オカルティックに言えば、「未来が見える」とでも言えそうだ。逆にその「確信」を自由にあやつることができたなら、未来さえもあやつることができるのだろう。そのキーとなるのは潜在意識だ。潜在意識は、たとえば左脳的な論理では捉えられないことから、ある本では「神」と呼ばれたりもする。しかし、潜在意識には潜在意識の理論があるだけで、実際は非常に「科学的な」ものだと信じている。だが、その現象といえばやはり神秘的で、西洋でいう「GOD」がどこかにおわすような気さえしてしまう。まあ、その捕らえ方は自由なのであって、要は「それ」を自在に使いこなせるかどうかだ。いかに「確信」を持つか、そのメソッドが確立されたなら、ものすごく面白いことになるだろう。
2008年08月03日
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□キホンA型マジメ B型ワガママ□カレ、カノジョに翻弄される□だけど好き□たまに自由すぎてムカつく□だけど好き□カレ、カノジョの自由さを真似てみようと試みるが、 なんか不自然な感じになる□それでちょっとムカつく□だけど好き□カノジョ寂しがり屋□カレ、実はもっと寂しがり屋□繊細なカレ、カノジョの不用意なひとことでむだに傷つく□カノジョ、そのつもりまったくなし□カノジョ「どうかしたの?」□カレ「なんでもない」□カノジョ「でも不機嫌じゃん」□カレ「なんでもない」□カノジョ「言ってくれなきゃわからないよ」□カレ「なんでもないってば!」□カノジョ「じゃあ、もういいよ」□カレ、それならと論理で攻め立てる。□カノジョ、せっかくの論理をばっさり無視する□カレ、あ然。□カノジョが感情で攻め立てる□カレ、ムキになったカノジョを見てたら笑えてくる□カノジョ、笑ってるカレを見てますますヒートアップ□カレ、どんどん冷静になる□カレ、何かに気づく そして突然、「俺が悪かった」□カレ、なぜか自己完結。□カノジョ、怒りのぶつけどころがなくなりモヤモヤ。□でも、一晩寝れば忘れる。□カレ、自己完結したのに実は執念深く覚えてる。□カノジョ、カレのメールの文体に敏感□だけどじぶんのメールはけっこう淡白。□カレ、思い込みはげしい。□カノジョの伝家の宝刀 「そんなつもりじゃないのに」A型カレシとB型カノジョのカップルの実情(?)はこんなものかな?昨日O型自分の説明書発売になりましたO型自分の説明書ちなみにB型はA型とのケンカは尾を引かないが、O型とケンカするとやたらぶつかりあって、翌日まで怒りが残るそうです。そんな経験のある方いますか?
2008年08月02日
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変わろうと思えば変われます。変わりたいと本気で願えば変わります。言い訳しないで実践すれば、変わります。ぼくは変わっていくということはすごく楽しいことだと思います。自分で言うのもなんですが、ぼくはここ1年半くらいでだいぶ変わった(と思う)。「社会」というものの認識と、お金に関する価値観は大いに変わった。人というものの見方、またそれにともなって人との接し方も変わったと思う。「え?変わってないじゃん」と思う人もあるかもしれませんが、(精神的に)いちばん近くにいる人が「変わったね」と言ってくれたのでやっぱり変わっているのだと思う。変わることは面白いことだ。しかし同時に、変わることは怖いことだ。それは「もとの自分」がなくなってしまう恐怖だ。でも実はそれは錯覚なのだ。新しい価値観を覚えたら、前のじぶんがいなくなってしまうのではないかと思ってしまう。それは無への恐怖、つまり死への恐れといってもいいだろう。その恐れは、ものすごいことものだ。そしてまた、新しい価値観を覚えるということはものすごく苦しい過程を踏む。しかし変わってしまえば、いったい何を怖れていたのかと思う。もとのじぶんが消えることなんてなく、厳然と存在している。「おそれることなどなかったのだ」トンネルをぬけたあとには、何に怯えていたのかさえ忘れてしまう。人は変わることができる。ぼくは最近、その確信を得ました。そのメソッドとしては、自分のどの部分が嫌なのか、なぜその部分が嫌なのか(どういうことが実際に具体的に起こるから嫌なのか)その部分のせいで実際にはどういった害を被っているのか。では、どうなりたいのか。そしてそうなったとすると実際に具体的にはどのようなことが起こると想像できるのかそのとき自分はどんな気分なのかを具体的にイメージすることです。(まだまだイメージすべきことはたくさんあります)たんに「成長したい!」「変わりたい!」という気持ちだけでは変わらないのです。「まっとうに思考する」という技術が必要になる。もちろん気持ちが先決ですが、思考の技術が追いつかないと、気持ちばかりが空まわりする。あたらしい価値観には喜びがあります。あたらしい価値観には希望があります。明日から変わるために、いっちばん大切なポイントがあります。それは「感情にとらわれない」こと。ムカつくから八つ当たりする。かなしいから、しょげた顔で接客する。さみしいから、ちょっかいをかける。不安だから、相手に依存する。感情にとらわれた行動をすると、行動が感情を正当化しようとします。それで悪循環にはまっていく。嫌な感情を持ってしまうことは仕方ないが、それを正当化してはいけない。嫌な感情は、単に嫌な感情として処理する。「人が変わる」ということは「行動が変わる」ということです。行動はすぐにでも変えることができます。ただし、どうしても変わらない人もいます。それは「ぼくは変われない」と思っている人です。「変われる!」という自信がない人は変わることができません。そして「まあ変わらなくてもいいか」というように危機感がない人も変わりません。危機感というのは生へのつよい欲求です。それが本能的にがーっと働き出すと変わる。生命が、反応するのです。変わるときには色々なエネルギーが必要です。それは怒りだったり、焦りだったり、かなしみだったり、さまざまです。しかし変わるためのエネルギーは「愛」がいちばんいい。愛によって、人は変わるのです。そうでないと、ゆがみやすい。愛は人を変えるパワーだ。変わることは楽しみです。そして嬉しいことだ。あなたの知らないたのしい価値観が世の中にはたくさんあります。うれしい価値観を、見つけてみませんか?
2008年08月01日
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