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バーテンダーのN君から先月末、店長をしているBAR「S」が5月いっぱいで閉店することになったという挨拶の葉書が来た。 彼が勤めるBAR「S」は95年にオープンした。大阪・キタの「東通り」というエリアのはずれ、キャバクラやビデオ・ショップ、カラオケ・ボックスが数多く集まる辺りにある。東京で言えば歌舞伎町のような、お世辞にも上品とは言えない、怪しげなロケーションだ。 だが、そんな周囲の雰囲気とは一線を画し、「和」の雰囲気を巧みに生かした店の内・外装は、当時としてはとても斬新な空間に感じられ、僕はたちどころに気に入ってしまった(設計は、大阪市中央区の「May Company」の真川セイジさん&大石桃子さんというお二人)。 店の表玄関には、高さ1.5mくらいの1枚の木戸(写真左)。窓も看板もなく、木戸の側に店の名詞が1枚張ってあるだけという、いかがわしい匂いがぷんぷんする店だ。僕も、最初に来た際は、この木戸を開けるのは相当勇気が必要だった。 そんなロケーションには想像もできないほど、実に居心地のいい、なごめるBARだったから、「究極の隠れ家」として開店当初から、関西のBARフリークの間では、知る人ぞ知る存在だった。僕も、よほどの親しい人間でない限り、他人には教えなかった。 その「S」が突然、店を閉めるという。「S」は、会社関係の人間とはまず顔は合わさない、安心できる場所だった。オープン以来、たびたび訪れてきた僕としては、閉店はとても残念で、すぐにも店に駆けつけ、N君に理由を聞きたかったが、仕事の都合もあって10日ほど前に、ようやく訪れることができた。 N君は、まだ30歳と若い。大阪のBAR業界では、知らぬ人のないHさんの店で長年修業して、その後、北新地のBARを1軒経て、この「S」の店長になった(写真右=Bar「S」のバック・バー。暖かいライティングに浮かび上がる障子が、素敵な「和」の雰囲気を創り出す)。 顔は、元プロ野球・ダイエーで、今は米大リーグで頑張っている井口に少し似ているが、漫才でいう「ボケ役」が上手で、あまり格好をつけない、とても気さくないい男だ。大阪には漫才師みたいな面白いバーテンダーが多いが、N君はとくにノリが軽いというか、面白い。僕はいつも、「もうちょっと、落ち着きと貫禄をつけんとあかんよー」と言っているが、それでも憎めないキャラのN君が好きだ。 「どないしたん? あんな葉書寄こして…。これから、一体どうすんの?」。カウンターに座るなり、僕はN君に尋ねた。すると、「あのぅ、すんませーん。『S』はなくなるんですけど、実は、僕がここ買い取って、名前変えてまたやるんですわー」とN君(写真左=店内の奥には4~6人が座れるテーブル席も)。 「なんやてー?! じゃぁ、やめるんやなくて、店は残るんやー」と僕。ただし、名前は新しいものに変えるという。「店のこの、せっかくの内装、どうすんの?」とさらに尋ねると、「いやー、店買い取るのに借金いっぱいしてしもたから、もう金なくてー、ほとんどこの(内装の)ままやりますー」と言う。 目を白黒させる僕を見て、N君は「お騒がせして、すんませーん」と言って笑っている(葉書には、店続けるなんて書いてなかったぞー!)。う~ん、これはN君に1本とられたかなー、なんて思ったが、店名が変わっても、N君も、この馴染んだインテリアも残ることがとても嬉しい。 BAR「S」は、名前を「P」と改め、6月6日に再オープンする。N君頑張れー!「S」が育んだ素晴らしい雰囲気を、大切に伝えていってねー(詳しいロケーションとか連絡先が聞きたい方は、僕の私書箱までメールをどうぞ)。
2005/05/30
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na_geanna_mさん、Pattieさん、まつもとちあきさん、ステラビアさん、カピタンさん、Ayakhさん、武則天さん、きんちゃん1690さん、久里風さん、はなだんなさん、アトムの妹さん、ふるさん、すまいりぃNORIさん、Stonedさん、YSOさん、カーロさん、hannaさん、ケルティック・タイガーさん、伊吹さん、kairi0017さん、mimiさん、Ladybirdさん、T.T.T.さん、piroshiki19692さん、Suzuckさん、ミスターKさん、rakuten-aiさん、ぶーきちさん、はるるさん、imagineさん…(順不同でーす。名前を挙げるのを忘れた方いたら、ごめんなさーい)。 その他、「縁」あって僕のページと出逢い、いつも書き込みをしてくださる(&これまでに書き込みをしてくださった)優しい皆さまへ。 新緑が目にまぶしい季節。早いもので、去年の11月28日にこのページを始めてから、今日でちょうど半年になったヽ(^0^)ノ。飽きっぽい性格の僕が半年もなんとか続いたのは、皆さんの書き込みによる「叱咤激励」のおかげだと心から感謝している。 このページ(ブログ)で知り合った方は、みんな素敵な方ばかり。実際に会ったことのない方がほとんどなのに、随分と昔からの親友だったような気持ち(僕が一方的に)になっている方も多い。 「遠くの親戚よりも近くの他人」ということわざがあるけれど、今の僕にとっては、「遠くの親戚よりもブログの友人」という感じ(写真左=「徳島の旅報告(5月16日)」でも紹介した本邦初公開! ピアノを弾く僕=5月14日夜、Jazz Cabbin88で)。 「会ったこともないのに、どうして相手が素敵だってわかるんだ?」と、ある時、会社の同僚から聞かれたけれど、コメントやメールを何ヶ月もやりとりしていると、相手の人間がはっきりと見えてくる。どんな考えの持ち主か、自分と合う人か、信頼できる人かそうでないかも、分かってくる。 もちろん新聞には、いわゆる出会い系サイトなどでそうやって知り合って、悲劇的な結末になった話も、何度も報じられている。だから、バーチャルの一線を超えるときは、できるだけ慎重に考えてから、超えるべきだと思っている。 酒やBAR巡りに始まって、ピアノやギターのこと、JAZZのこと、歌伴のこと、大好きなミュージシャンのこと、そして時々は映画や料理、ガーデニングのことも書いたりした。なかでも、自分でも予想外の反響があったのが、各地に旅した報告、そして方言の面白さ、奥深さに触れた時。 自分の体験・経験に引き寄せて、具体的に書く/同じカテゴリーで連続して書かない/他の方の「得意分野」を侵すことはできるだけしない--などの最低限のハードルは、一応、自分に課しているつもり…。幅広いテーマで、あれこれいろんなことが書けたのは、生来の旺盛な好奇心のおかげで、「双子座&O型」に生まれたことを感謝しなければならない(笑)。 ただ、そうは言ってもネタ探しは、正直言ってほんとに大変(いくら好奇心旺盛とは言え、僕にだって、不得意分野や関心のない分野はある)。去年は毎日更新した。それがあまりにも辛くて、今年に入ってからは2日に1回の更新に変えた。それでも2日間はあっという間。その日の日記を書き終えた夜、「おい、2日後の次回のネタがないぞー、大丈夫かー?」と耳元でささやかれてる夢を見ることもある。 東西の老舗BARも、クール、Bordeaux、ルパン、神谷バー、サン・スーシー、吉田バー、十三トリス、サンボア、Baby、Yanagase…と、かなり書き尽くしてきて、「持ちネタも残り少ない」状態(老舗BARはまだあるかもしれないが、自分の知らない店のことは書けない)。 ミュージシャンを取り上げるにしても、通り一遍の紹介にはしたくないので、個人的な体験を交えつつ、できるだけ具体的なエピソードを記すように努力しているが、それもネタがあってのこと(写真右=これも本邦初公開! ギターバンド時代のライブ風景。右端が僕。70年代前半だから、やはり若いなぁ…)。 行ったことのないBARのことや、ほとんど聴いたことのないミュージシャンのことを、知ったかぶりして書くなんて絶対にできない。想像だけで書くなんてはしたくない。だから、僕1人の行動力で表現できる限界が、少し見えてきたような感じもする。 開設1カ月の時も書いたけれど、読まれる方のこともよく考えず、いつも、ついつい長くなってしまうのが悪いクセ。読まされる皆さんはさぞかし疲れると思う。本当にごめんなさーい! 本業のサラリーマンをやりながら、2日に1回欠かさず続けるというのは少々重荷だが、「継続は力、継続が友人の輪を広げる」と信じて、可能な限り、体力と気力とネタが続く限りこのペースは維持したいと思う。引き続き、皆さんのご愛読よろしくお願いしまーす! PS.海外から、僕のページにアクセスしてくださる皆さん、できればぜひ何か皆さんの「足跡」(感想)を残していってくだされば、とても嬉しく思います。どういうきっかけで僕のページにたどり着いたのかも、併せて教えていただければ幸いでーす。
2005/05/28
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5月に入って、パーシー・ヒース、モニカ・セッテルンドと、個人的に思い入れがあった方が相次いでなくなり、日記に触れた。悲しい思いをしていた矢先に、昨日の朝刊が、人気ブランド「VAN」の創業者で、服飾デザイナー&評論家の石津謙介さんの死を伝えていた。93歳。死因は肺炎。記事には「故人の遺志で献体し、葬儀は行わない」とあった。 「VAN」と言えば、60~70年代に青春時代を過ごした僕のような世代にとっては、このうえなく愛着あるブランド。英米の若者ファッションを日本に紹介し、ファッションだけでなく生活スタイルすべてに多大な影響を与え、ブランド自体が一つの文化だったと僕は思う(写真左=オフィスでの石津氏。 (c)石津氏のHPから ) 僕自身、中学、高校生の頃から「VAN」や「KENT」など、石津さんが生み出したブランドの服のデザイン、すなわちアイビー、トラッドといわれるファッションに慣れ親しんできた。それまでの国産メーカーの洋服にはなかった、決定的な新鮮さ、ある種の洗練されたセンスを感じてきた。 以来、ウン十年。僕にとって、ファッションのベースは、一時の流行に触発されて若干「遊ぶ」ことはあっても、常に中心線は、アイビー&トラッド・ファッションだった。だから、石津さんとVANは、僕にとって、ファッションの骨格のような存在だった。 実は、石津さんと僕は思わぬ縁がある。新聞にも記されていたが、VAN・JACKET創業(1951年)の地は、大阪市南区北炭屋町14番地である。現在は中央区西心斎橋1丁目と地名が変わっているその地は、僕の卒業したM中学校と目と鼻の先の、歩いて1分ほどのところにあった。 創業の場所には、2階建てのアパートのような建物が建っていた。VANそのものは55年に東京へ本社を移したが、その後も60年代後半まで、大阪の創業の地は社の施設として使われ続けた。 今でもよく覚えているが、VANのあった場所は、表通りから細い路地を15mほど入ったところにあった。そして、通りには目印らしいポールが立っていて、その先にはあのVANのロゴを記した看板が吊されていた。 学校帰りに、僕はいつもその看板を眺めていた。ときどき路地の奥にある事務所を覗きに行ったが、スタッフが中で何をしているかまでは、その当時はあまり興味はなかった(写真右=VANやアイビー、トラッドがらみの本は今もなかなか捨てられない)。 後年、石津さんのご子息の祥介さん(僕より年上だが)、僕と同じ大阪府立のK高校を卒業されていたことを知った(文芸春秋の「同級生交歓」というページで)。おそらく、創業間もない頃の大阪時代、祥介さんは家族と住む大阪の自宅から通っていたのだろう。石津ファミリーとのさらなる接点を知って、嬉しい気分になった(写真左下=貰ったノベルティ類や、昔使った定期入れも今も手元に…)。 VAN倒産後の石津さんは一時期、不遇の時を過ごしたが、その存在を忘れない多くのファンの支えもあって、再びファッション・リーダーとして復活した。僕が何よりも感銘を受けたのは、つつましいなかにも心豊かに暮らした石津さんの晩年の生活だ。 10年ほど前、石津さんの暮らしを追うテレビ番組を観たことがある。都内の狭い一戸建てが終(つい)の棲家(すみか)だったが、そこでは、質素な食事と服装で過ごし、晩年でも台所に立って自ら料理もつくられた。小さな庭では野菜も作っておられた。番組で着ていたブレザーは、「30年前のものを、今も大事に着てるんだよ」と笑っておられた。 唯一の贅沢が、愛車のミニ・クーパーだった。80歳を過ぎてなお、車のハンドルを握ることには賛否があるかもしれないが、それでも、僕は石津さんのおしゃれ心というか、こだわりに、「格好いいなぁー」「僕も、こんなおじいちゃんになりたいなぁ…」と番組を見ながら素直に感動していた。 生前、石津さんは「私は流行は作らない。風俗をつくってるんだ」と口ぐせのように語っていた。その言葉通り、VANは未来へ続く風俗の礎をつくった。VAN創業の地が大阪であったことは、今も僕ら関西のトラッド・ファンの自慢でもある。石津さんの服飾文化への貢献に感謝するとともに、同じ時代に生きることができた幸せを心から喜びたい。合掌。
2005/05/26
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東京でBAR巡りをすることはあっても、横浜まで足を伸ばす機会は、残念ながらほとんどない。関西在住の僕は、神戸で飲むときは、最初(1軒目)から神戸でスタートする。しかし、出張で来た東京で飲んでいて、「じゃぁ、これからちょっと横浜まで」という風には、なかなかいかない。 しかし、神戸と並ぶ代表的な港町であり、国際都市である横浜をまったく知らないのは不幸である。そう思って、5年ほど前のこと、翌朝から東京出張という機に、前日に横浜で宿をとった。 とは言っても、横浜にはまったく土地勘はない。横浜のBARについての情報や知識もほとんど持ち合わせていない。そんな僕のために、東京在住のBAR好きの友人が同行してくれることになった。 当夜は、駆け足で5、6軒BARを回ったのだが、なかでも一番印象的だったのが、岸壁の氷川丸も望める山下公園の近く、ザ・ホテル・ヨコハマのすぐ裏にあったBAR。岸壁まで歩いてすぐ。潮風の匂いが漂ってくるようなロケーションだ。中華街から近いというのも嬉しかった。 キャパは結構広い。楕円を半分に切ったような大きなカウンターには10人近く座れるだろうか。フロア席もゆったり作ってある。合わせると30人近くは入れるかもしれない(写真左上=店内はとても落ち着いた雰囲気。珍しいモルト・ウイスキーもたくさんある!)。 木やレンガをふんだんに使った内装は、どこかイギリスのパブにも通じる雰囲気。インテリアには、船の絵がかけてあったり、所々に飾られたノベルティ類の小物も海や船にまつわるものが多く、港町のBARらしい演出だ。 友人は以前にも来たことがあって、マスターのYさんとは馴染みのようだ。僕は「**と言います。兵庫県のN市から、お邪魔させてもらってます」と挨拶した。すると、Yさんの顔が少し輝いた。そして、「僕、中学校はN市立の大社(たいしゃ)中学を卒業したんですよー」と話した(写真右=お店は、すぐに目に入る黄色い看板が目印)。 「えーっ、N市にいたんですかー!」と驚く僕。大社中学というのは、我が家からは少し遠い場所にあるが、有名な昔からの伝統校。Yさんとの「距離」が急に近くなったような気がした。この話の後も、Yさんが昔住んでいた桜谷町辺りの話やら、僕の家の近くにある「上甲子園中学」は、女優・常磐貴子の母校だよ(だから彼女は関西弁のセリフが上手い)なんて話で盛り上がった(ローカルな話ですみません)。 BAR巡りの楽しさは、バーテンダーとの素敵な出逢いの喜びでもある。その方が偶然、関西出身の方だったり、関西にゆかりのあったりしたら、なおさら感激する。縁あって、関東で仕事に就いていても、関西のことを忘れずにいてくれる方々を、僕は遠くからいつも応援している。 あれ以来、横浜のBARとはご無沙汰。久しぶりにまた行きたいなぁ、と思っているこの頃。その時には必ず、このYさんのBAR「Three Martini」を再訪したい。【Three Martini】横浜市中区山下町28-104 電話045-664-4833 年中無休でノー・チャ-ジ(!) JR石川町駅から、徒歩約10分。
2005/05/24
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絶対音感というものを持っている人たちがいる。僕も、何人か出会ったことがある。徳島にいた頃、ジャズBARでよくセッションしてくれたサックス吹きのH君も、そういう1人だった。 H君はどんな曲でも、初めて聴いたら、それを五線譜にすぐちょこちょこっと書いてしまう。初見の楽譜を見て、すぐ歌えることはもちろんのこと、「救急車のピーポー、ピーポーというサイレンも、五線譜上の音として聞こえてしまう」と話していた。 僕には絶対音感はない。それどころか、五線譜のおたまじゃくしも、あまり満足には読めない。3人のメンバーでアコースティック・ギター・バンドをやっていた10代~20代の頃。主なレパートリーは、洋楽・邦楽の知っている曲のコピーか、オリジナル曲だった。 楽譜は読めなくてもさほど困らなかった。コピー曲は耳で聴いてメロディーを知っているし、オリジナル曲のメロディーは、メンバーに歌って聴かせれば、なんとかなった。 しかし、Crosby、Stills & Nsah(クロスビー、スティルス&ナッシュ=写真左上)の影響で、バンドは、歌の3部コーラス(ハーモニー)を重視するように変わっていった。例えば、彼らの代表曲でもある「青い眼のジュディ」もレパートリーにしていたが、この曲は3つの曲が組曲になった約8分もの大作。しかもハモも複雑だった。 洋楽の楽譜は当時少なかったし、輸入楽譜を見つけても、メインのメロディーしか書いてないことが多かった。結局、レコードをしっかり聴いて五線譜に起こすしかなかった。曲のコードなら僕にも何とか分かったが、五線譜上の絶対的な音まで聴き取る耳は、僕にはなかった。 有り難いことに、バンドのメンバーで、リード・ギターをやっていた友人のAには、絶対音感があった。いつもレコードを聴いて、1、2週間でハモの楽譜を書いてきてくれた(写真右=友人A君自筆の「青い眼のジュディ」の楽譜。曲の出だしから、いきなり複雑な3部コーラスだ)。 CS&N以外では、ロギンス&メッシーナ(写真左)、バーズ(写真右下)、グレイトフル・デッドなどにも取り組んだが、原曲が2部のハモだったりしても、A君が3部にアレンジしてきたり…。その楽譜のおたまじゃくしを必死で読んで、練習した。彼を真似て、僕も自分のオリジナル曲には、3度上と下のハモを楽譜に書く努力はしたが、時間は彼の3倍はかかった。決して真似のできない彼の才能に、僕はただ羨ましく思うしかなかった。 音楽の才能には大きく分けて、耳、歌、演奏の3つがあると思うが、耳はほぼ100%先天的なものだろう。歌だって80%は先天的なものが占めるに違いない。歌の上手い人は、だいたいが小さい時から上手い(あとの20%は、本人の努力&訓練)。 僕には、先天的な「耳」はなかったが、歌にはそこそこ自信があった。バンドをやってた時は、コンクールに出たり、デモ・テープをレコード会社に送ったりした。あわよくばという気持ちがなかったと言えば、嘘になる。しかし20代の半ば、思わぬ病気の宣告を受ける。「甲状腺腫瘍」。 細胞診をすると、幸い一応見かけは良性のものだったが、悪性に転化する可能性も10%くらいあるタイプ。医者からは「将来のことを考えると、甲状腺ごと全部取ってしまった方がいい」と言われた。それで、泣く泣く手術を受けた(以来、甲状腺ホルモンの錠剤を、毎朝1回必ず飲まなくてはならない人生)。 その手術の際、声帯を少し傷付けてしまった。術後の後遺症で、それまで軽く歌えていた高音が出なくなった(声帯を傷付ける可能性は事前に言われていたので、医者には文句は言えなかった)。歌のキーは必然的に下がり、昔のキーでは歌えなくなった。音域も狭まり、昔歌えていた歌がもう難しくなった。 録音に残るバンド時代の歌(一応テープからCDにして残している)をいま聴くと、まるで自分の声でないような錯覚に陥る。今では、弾き語りをする時は、自分に合うキーに変える。音域の広い、難しい曲を歌うような冒険はまず、しない。他人の歌伴をするのは何ら問題はないのだが、僕自身が歌うようリクエストされた時は、事情を正直に話して、許してもらう。 いま僕ができることは、自分が歌える音域の曲のレパートリーを増やすこと。そしてソロ・ピアノで(あるいはトリオで)できる曲を増やし、演奏のレベルをもっと磨き、高めること。歌は少し不自由になったが、それでも音楽は大好き。ピアノやギターを弾くことも大好きだ。ハンディができても、音楽から離れようとは思わない。僕にとって、音楽のない人生は考えられない。
2005/05/22
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モニカ・セッテルンド(Monica Zetterlund)という1人のスウェーデン人女性の死が、5月15日(日)の朝刊各紙でひっそりと報じられていた。67歳とまだ若い。死因は何かと読めば、「自宅マンションで起きた火災で」とある。共同通信による記事は、火事の原因について「ベッドでの喫煙が原因とみられる」とも伝えている。 日本では、彼女の名はほとんど知られていない。だが私にとっては、大好きなジャズ・ピアニスト、ビル・エバンス(Bill Evans)と共演し、デュオ・アルバムを残した唯一の女性ヴォーカリストとして記憶に刻まれている。 1964年に発表したアルバム(写真左=日本国内での発売は74年)は、エバンスのあの名曲「Waltz For Debby」をスウェーデン語で歌った「Monica's Vals」(モニカのワルツ)をおさめ、話題となった。 アルバムは、エバンスの欧州ツアー中に、ストックホルムで録音された。モニカはこの時27歳。本国ではすでに「歌姫」として有名だったが、エバンスにとっては、きっと未知の女性だったに違いない。 モニカの歌はお世辞にも上手いとは言えない。ストレートに歌っているが、ハスキーで、ややけだるく、冷たい感じにも聴こえる。しかし、ヴォーカルと対等に語り合うように奏でたエバンスのピアノは、彼女の歌をリリカルに引き立て、実に自然で、温かい雰囲気すら感じられるアルバムに仕上がっている。 エバンスの演奏のノリも、とてもいい。よく聴いていると、あのヴィレッジ・バンガードのライブの時のような、複雑かつリズミカルなコード弾きも、随所に見せている。女性とのヴォーカル・アルバムをこの1枚しか残さなかったのが、返すがえすも悔やまれる(写真右=モニカの初期の代表作「Make Mine Swedish Style」。北欧ではヒットしたが、米国内や日本ではあまり話題にならなかった)。 モニカは90年代前半まで現役で活躍した。新聞では、モニカの肩書きを「ジャズ歌手」と紹介していたが、スウェーデンでは舞台や映画で活躍する女優としても有名だったという(と言っても、私は出演作のタイトルを一つも知らなかった。今回WEB上でいろいろ検索して、初めて知った)。 生涯に、ヴォーカル・アルバムを10枚以上も発表したモニカ。しかし、結果的に「Waltz For Debby」を超える評価を勝ち得た作品はなかった(そういう意味でも、伴奏したエバンスの存在は大きかったのかも…)。このアルバムは、今も彼女のヴォーカル。アルバムの中でも最高傑作と位置付けられているが、後年、ジャズの歴史に残るレコードの一つになってしまうなんて、二人とも思ってもみなかっただろう。 今なお、ジャズ・ヴォーカルの名盤として衰えぬ人気を持つ「Waltz For Debby」。そして、このアルバムの存在で、日本のジャズ・ファンにも忘れられない名前になってしまったモニカ・セッテルンド(写真左=22、23歳頃の初々しいモニカ。デビューは19歳だったという。(C)Sveriges-Radio.se )。 そんなモニカが、寝タバコによる火事で死ぬなんて、なんと悲しい、情けないニュースだろうか。久しぶりにモニカのCDをかけ、その歌声を聴いている。喪失の悲しみを、私はウイスキーで紛らわすしかない。 PS.スウェーデンから、いつもこの日記を読んでくださるYSOさん、スウェーデン本国では、モニカの死はどう報じられたのでしょうか。新聞やテレビでも、やはり破格の大きな扱いだったのでしょうか?
2005/05/18
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久しぶりの徳島を堪能し、昼過ぎに帰宅した。今回の主目的は、前回の日記でも書いたように、友人(新郎)の結婚式。この歳(?)になると、友人は男女を問わず、ほとんどが所帯を持っているか独身を貫いているかで、親族以外の結婚式に呼ばれることはほとんどない。 友人もこのブログを読んでいるので、本人の承諾なくプライベートなことはあまり書けないが、新郎、新婦(だいぶん歳下)とも初婚。とくに友人は、僕も含めた周りが「早く嫁さんもらえよー」とずーっと心配していたくらい、長い間独身生活を謳歌していたので、何はともあれ、めでたいことだった(写真左=徳島駅前の風景。ちょっと南国っぽい)。 披露パーティーは新郎新婦それぞれの友人関係ごとに、場所と日を変えて3度開くといい、この日の会場(午後3時半開宴)は、徳島市内の中心部、新町川を臨む素敵なレストラン。彼の職場関係と趣味のテニスの友人、そして僕のようなBARでの飲み友だち関係など、計約40人がお祝いに集まった(写真右=中央に写る三角屋根が会場となったレストラン。後方に徳島のシンボル・眉山=びざん=も見える)。 新郎とは最初、お互いが誰かと知らずにBARで出会った。酒や音楽(ジャズ)の趣味が合って、徳島在勤中は(僕も単身赴任の気楽な身だったこともあって)週に2、3度も一緒に飲み歩く仲に。偶然、同じ大学の先輩後輩だということも分かった。その後、僕が徳島を離れた後も、大阪や神戸まで彼がわざわざ飲みに出てきてくれたり、の関係がずっと続いてきた(写真左=披露パーティーのひとコマ。「堅苦しいのは嫌」という新郎の希望で、みんなカジュアルな服装で集まった)。 彼の会社とは、実は、僕の仕事絡みでも少し関係はあった。でも酒場では、仕事のことはまったく抜きにした付き合いだった。居酒屋で飲んで食べて馬鹿話をして、その後ジャズ・バーでライブを聴いて、そして時には、僕のピアノ伴奏で彼がお遊びで歌ったり…。 住んでいたマンションは、彼も僕も、飲屋街から歩いて10分弱。終電もまったく気にせず、心おきなくとことん酔えた。地方都市ならではの楽しい日々だった(写真右=徳島と言えば「阿波踊り」。市内中心部にかかる両国橋の欄干にもこんなモニュメントが…)。 披露パーティーは、2時間半ほどで終了して2次会へ。彼の職場関係の友人は近くのおでん屋に集合。僕や飲み友だち関係は、そのおでん屋と同じビルの2階にある、「S」というアイリッシュ・パブへ移動した(この2つの店が同じビルなのはまったく偶然で、びっくり!)。 このアイリッシュ・パブは、昨年12月7日の日記でも触れた店。徳島では珍しく、生のギネスやキルケニー、さらにベルギービールも15種類も飲める貴重な店だ(写真左&右下=「S」はとてもいい雰囲気のお店)。とても気さくなマスターは以前、この場所が「F」というジャズBARだった時と同じ人物。「えっとぶりー!」(「久しぶりー!」という意味の阿波弁)と挨拶して旧交を温めたのだけれど、地方都市の景気は、徳島も回復ぶりはいまいちのようで、「なかなか、しんどいですわー」とのボヤキも。 確かに、土曜日だというのに、盛り場を歩いている人が少ない。みんなどこで飲んでるのか? 「S」を1時間ほどで後にした僕は、以前徳島にいた時よくお邪魔していたジャズBARの「C」へ。そこへ、おでん屋での2次会から抜け出てきた新郎新婦が合流してくれた。 「C」(写真右)は、新郎ともよく一緒に来た場所。「C」のマスター、Nさんは、ジャズ・ピアニストでもあるのだけれど、昼間は建築関係の仕事もしていて、大工仕事も得意という多才な方。ログ・ハウス風の店内も自ら作り上げた。マスターの奥さんは元ジャズ・シンガー。神戸出身の親しみ溢れる方で、徳島時代の僕にとっては、仕事のストレスを発散し、疲れを癒せる素敵な場所だった。 「C」では、新郎が、お得意のビリー・ジョエルの「素顔のままで(Just The Way You Are)」や、カーペンターズの「Song For You」を、久しぶりに僕のピアノ伴奏で歌った。そして、この日が初対面だった、可愛い新婦=奥様も、実はカラオケ好き、歌好きということが判明。 「では、ちょっと遊びましょう!」ということで、ドリカムの「未来予想図2」、今井美樹の「Piece Of My Wish」、プリプリの「ジュリアン」の3曲を、僕の伴奏で歌ってくれた(小柄な体に似合わない素敵な歌声でした!)。初お手合わせということで、僕も相当緊張してミスタッチの連続。次回はもっとましな伴奏でご一緒しなくては…(ジャズBARなのに、J-POPなんか演奏して、マスターごめんなさーい。お客さん少なかったから許してね!)。 新郎新婦は午後10時頃、先に帰途に。別れる際、彼には「もう1人だけの体じゃないんだから、くれぐれもあまり飲み過ぎないように」とクギを刺しておいた(ビール大好きの彼は、大ジョッキでも4、5杯!は軽く飲んでしまう)。 新居は、その「C」から徒歩わずか5、6分(!)のマンションとか。「飲屋街からはあまり離れたくない」という彼の願望通り(?)のロケーションだが、数分も歩けば、一転、静かな住宅街が共存する地方都市って、改めて羨ましく感じた。 僕は新郎新婦が帰った後、さらに1時間ほど「C」でピアノを弾いて、マスター&奥さんと、またの再会を約束してお別れ。その後は単独行動。まず、名物の猫たちがいるライブBARの「Y」へ(写真左=めちゃピンボケだけど、Yの雰囲気がよく出てると勝手に解釈)。 「Y」は、あのT.M.スティーブンスと出逢ったBARである(2月16日の日記参照)。以前、僕が保護した猫のアルフィー(写真左上)も元気そうだった。「Y」の後は、銀座(こんな地名があるんです)のモルトBAR「S」にも寄って、締めは徳島ラーメンの「阿波屋」で。 昔、僕がいた頃にはなかった新しい店だが、まずまずのお味。豚骨ベース&醤油ダレの濃厚なスープに、味付けバラ肉の薄切りを具に入れることが特徴の「徳島ラーメン」。ここ数年全国的に知られるようになり、土産物屋さんにも、最近はいろんな商品が並ぶようになった(写真右)。 ただし今回は土産としては選ばず、翌朝、僕が買ったのは、定番の「スダチ」(1パック8個入り380円也=まだシーズンではないので、地元でもちょっと高め)「鳴門の糸ワカメ」「小松島の竹ちくわ」、それにカピタンさんから「もう一度ちゃんと食べてみて」と言われた「フィッシュ・カツ」(写真左=手前がそれ)。さらに、「おっ、珍しいな」と思った「うおぜ(徳島では「ぼうぜ」という)の一夜干し」(写真右下)。 徳島は何度訪れても、居心地の良い街。流れる時間は、吉野川の流れのように、都会とは違い、とてもゆったりしている。この街で暮らしていると、列車ダイヤの1分1秒を争うなんて、とてもバカげたことに思える。 旧知のBAR巡りをし、懐かしい人たちの顔を見ていたら一瞬、僕がいたあの頃から、時間が止まっているんじゃないかと錯覚してしまう。僕はこの街に、心の一部を奪い取られた。そして、「足跡(あしあと)」をいくつも残してきた。それを確認するために、またいつか訪れたい。
2005/05/16
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コーヒーも好きだが、どちらかと言えば、僕は紅茶党かもしれない。外ではコーヒーもよく飲むが、家にいるときは紅茶を飲むことが多い。家には常時、4、5種類の葉を保存瓶に容れていて、その日の気分で好きなのを楽しんでいる。 昔は、缶に入ったダージリンとか、オレンジ・ペコとか、アッサムとかで飲んでいたが、今は袋入りの葉を買ってきて、保存瓶に移し替えることが多い。最近のお気に入りは、「無印良品」の袋入り紅茶。いろいろ種類が出ていて、季節限定の種類やオリジナルブレンドの品もある。なによりもお値段がリーズナブルなのがいい。 なかでも、マリーゴールドなどの花の入った「フラワー・アールグレイ」や「ストロベリー・ティー」がお気に入り。「ストロベリー」は今年はなぜか、葉のものは店頭に並ばず、ティーバッグの10個入りに代わっていた。僕としては、葉だけの袋入りの方が有り難いのだけれど…。 紅茶を立てるのも、「無印」のガラス製ティー・サーバー(写真左上)で。1人で飲むにはちょうどいい、200ccくらいのサイズ。お湯を注いで、数分後に上から、葉をぎゅーっと押さえつけて、紅茶のエキス(?)を絞り出すときの、あの瞬間がとても好きだ。連れ合いは、紅茶よりもコーヒーが好みのようなので、このポットを普段使うのはもっぱら僕だ。 先日は、いつもお酒をよく買うディスカウントの酒屋さんの棚で、なぜか面白い紅茶に視線が行った。「チャイ・ティー」のティーバッグの箱入り(16個入りで450円だったかな?)=写真右。カレーが好きで、時々インド料理店でその店自慢のカレーを食べるが、その際も、僕はたいてい食後に「チャイ」を楽しむ。夏場など、アイス・チャイは大好きだ。 そのチャイ・ティーのティーバッグを買ってきて、早速飲んだが、なかなかいけた(インド製かと思ったら、なぜかメイド・イン・カナダ)。お湯で出しても旨かったけれど、ホットミルクで出したら、なお美味しかった。「ロイヤル・チャイ・ティー」とでも言うのかな? 少し驚いたのは、香辛料の匂いの強さ。ティーバッグの箱を置いているだけで、台所じゅうにチャイの香りというか、カルダモンやシナモン、クローブの混ざったような匂いが漂った。最初は、「うわぁー、強烈!」と思ったが、慣れというものは恐ろしいもので、3日くらい経つとあまり気にならなくなる。 ここ数年、一番気に入っているのは「無印良品」の「トロピカル・ベリー」という商品(写真左下)だ。紅茶といいながら、これには葉らしきものはあまり見えない。ハーブに5、6種類の(ドライ)フルーツや花がブレンドされているが、独特の酸味がたまらなく美味しい。人気の商品のようで、毎年、夏になるとたいてい店頭に並ぶほか、春や秋にも季節限定の姉妹商品がよく登場する。 今年ときどき挑戦しているのは、生のハーブを使ったハーブ・ティー。幸い、レモン・バームは我が家の箱庭でたくさん採れる。ミントもそこそこ収穫できる。これまではもっぱらドライハーブでしか飲んだことがなかったが、生葉で立てるハーブ・ティーもなかなか面白い(健康にもいいかも?)。 ハーブ・ティーには、ハチミツをお好みで入れる。ハチミツは今は実にいろんな種類を売っているが、僕は濃厚な味わいの「ヒース」でつくったハチミツが好き。ヒースとはご存じの人もいるかもしれないが、スコットランドの泥炭の元にもなる花だ。彼の地では「ヘザー」とも言う。スコットランドに思いを馳(は)せながら、ハーブ・ティーを飲むのも悪くない。【追記】14日~15日と友人の結婚披露パーティー参加のため、徳島へ行ってきまーす。次回16日の日記では、久しぶりの徳島の旅(?)の報告ができるかも…。
2005/05/14
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とっておきのBARというのは、あまり誰にも教えたくないもの。雑誌にもほとんど載らず、隠れ家としてぴったりのBAR。京都・祇園に、そんなBARがあった。 今年で開店24年目。僕はオープン当初から京都を訪れるたびに、時々お邪魔してきた。関東から友人が遊びに来た際も、よく連れて行った。一見すると、まるでお茶屋のような店構え(というか元お茶屋だった町家をそのままうまく利用しているので、当たり前か…)。 今でこそ、やや目立つ暖簾を店先に出しているけれど、昔はドアのところに、注意深く見ないと分からないような、小さい店名のプレートが付いているだけだった。だから、一見の客はまず来なかった(と言っても、僕も初めての時は一見だったのだが…)。安心して、落ち着いて飲める、居心地のいい場所だった。 そのBARには、玄関を開けると三和土(たたき)がある。そして、またもう一つドアがある。そのドアを押せば、ようやく店内にたどり着ける。「こんなところに素敵なBARがあるなんて、びっくりしたよ」。同行した友人は、例外なしに感嘆した。そんな稀有なBARの名は、「フィンランディア・バー」(写真左上)。 この日記では、あまり触れたくなかったこのフィンランディア・バー。だが、この10年ほどの間に、何度か雑誌に紹介されてしまって(オーナーのポリシーが変わったのかもしれない)、もう、僕を含めた一部のファンの隠れ家でもなくなった。だからもう、日記に書いてもいいだろう。 祇園にフィンランディア。この取り合わせに最初は、僕も戸惑った。店名の由来は、オーナーが北欧専門の旅行社だったから。だから、お酒のなかでも、ウオッカ、アクアヴィット、ヴィーナなどの品揃えは群を抜く。アイスランド産のウオッカなんて珍しいものもある。 「和」の雰囲気を取り入れたオーセンティックBARは、今でこそ珍しくもない。だが、四半世紀前は、想像以上に斬新だった。お茶屋の「和」の趣を巧みに生かした上質の空間は、BAR愛好家から高い支持を集めた(写真右=店内はおしゃれで、とても落ち着いた雰囲気)。 メディアには媚びを売らず、あまり雑誌に露出させないお店の姿勢が好きで、僕は初めての訪れて以来すっかり惚れ込んでしまい、通ううちに「フィンランディア」という店名には、何の違和感もなくなった(写真左下=2階にグループ向きの和の個室も最近できたそうです)。 ただ一つ、大阪や神戸で僕が行きつけとなったBARと違うのは、このBARのバーテンダーの皆さんとは個人的には、あまり知り合いにはならなかったこと。と言うか…、行くたびに、バーテンダーの方の顔ぶれが入れ替わったりして、結局、個人的に親しくなる機を逸してしまった。 でも今では、そんなことはまったく気にしていない。バーテンダーに惚れて通うBARもあれば、BARそのものに惚れて通い続ける処もある。フィンランディア・バーは、間違いなく後者だ。京都・祇園へ行く機会があれば、ぜひ一度訪れてみてほしい。ドアを開けるには少し勇気が要るかもしれないが、開けたら最後、貴方は「フィンランディアの魔法」にかかってしまうこと、間違いなし。【フィンランディア・バー】京都・祇園、四条通り花見小路南入ル一筋目西入ル 電話075-531-8408 午後6時半~午前2時 無休
2005/05/12
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3月20日付の日記で、我が家のサクラが三分咲きくらいになったという話を記した。その際、「暖地桜桃(だんちおうとう)という品種で、(時期は少しずれるが)花見とサクランボがともに楽しめる」と書いたのを、ご記憶だろうか? あれから1カ月半。サクラの花は散って、すっかり葉ザクラに。そして5月の連休明けになって、サクランボが赤く色づき始めた(写真左上)。さて、これからはヒヨドリ(ムクドリ?)との勝負。彼らも、サクランボが熟するのを今か今かと楽しみにして、どこからか狙っている。 もちろん毎年、人間さまはすべてを食べ尽くさず、野鳥たちのために少しは残しておいてあげる。今の様子では、サクランボはあと数日で食べ頃になりそう。去年はジャムにしたけれど、今年はどうしよう? サクラは英語では「チェリー・ブロッサム(Cherry Blossom)」というが、その名をそのまま頂いたカクテルがある(写真右)。横浜のBAR「パリ」のバーテンダー・田尾多三郎さんという方が、約80年前に考案した素晴らしいカクテル。あの「サヴォイ・カクテル・ブック」にも収録されているというから、欧米でも認知された、日本第一号のカクテルかも。 「チェリー・ブロッサム」のレシピは、チェリー・ブランデー30ml、ブランデー30ml、オレンジ・キュラソー&グレナディン・シロップ&レモン・ジュース各2dash。これをシェイクする。 ただし、出来上がった「チェリー・ブロッサム」は桜色ではなく、深いルビーのような赤色。甘酸っぱさの中に、ブランデーの芳醇な味わいが溶け込んでいる。僕が作る際は、せっかくだから、我が家の生のサクランボを添えてみたい。 ところで、5月に入って暖かさも増して、柚子の花も咲き始めた(写真左下)。この花が散った後、柚子の実が膨らみ始める。柑橘系の樹木は、表年と裏年があって、出来のいい年と悪い年を隔年で繰り返す。去年はあまり実が成らなかったので、今年はきっと「表年」のはず。 晩秋から初冬にかけて、大きく実を付けて色づくのを今から期待しているが、それまでの間はアゲハ蝶との戦い。アゲハは柑橘系の樹木が大好き。毎年必ず、タマゴを産み付けにやって来る。 放っておくと、タマゴから毛虫が育ち、柚子の木の葉は食べられて丸坊主になる。だから心を鬼にして、タマゴやまだ小さい毛虫を、ピンセットで一つ、一つ取り除く。 でも最後の1個(匹)までは取らない。アゲハ蝶だって、生きる権利はある。柑橘系の樹木がなくては、彼らも、この地球上に生きてはいけない。いかなる生物も理由(わけ)あって、この地球という星で人間と共存している。特定の種を根絶する権利は、人間にはない。もしそう思うなら、それは奢りでしかないと思う。 サクラの木にも毛虫が付くが、こちらは蝶ではなく蛾だ。大きな毛虫(刺されると腕がしびれるくらい痛い)は見つけたら駆除するけれど、根絶やしにはしない。殺虫剤も、僕は絶対使わない。薬剤のかかったサクランボなんて食べたくないし、全ての虫を退治してしまうという発想は、最後の手段だと思っているから。
2005/05/10
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僕が幼い頃には、彼らはもうプロとして、ステージで歌っていた。ローリング・ストーンズ(Rolling Stones=写真左上)。1963年6月、「Come on」でレコード・デビュー。同じ英国出身のビートルズの陰に隠れて、60年代は、あまり脚光を浴びることはなかった。そして、70~80年代にブレークし、42年経った今も、現役バンドとして活躍し続ける稀有な存在。あの不良キッズたちが、平均年齢60.7歳のオヤジになっても歌い続けるなどと、誰が想像できただろうか。 ミック・ジャガー(61)、キース・リチャーズ(61)、チャーリー・ワッツ(63)という、結成から変わらぬ不動の3人に、今は76年から正式メンバーとなったロン・ウッド(58)が、キースのリードワークをしっかりと支える(ビル・ワイマンは、どうしてるんかなぁ?)。 当初は、演奏が下手だとか、音が薄いとか、ミックの個性的な歌い方が変だとかいう中傷も受けたりもした。大ヒット曲にも恵まれなかった。ストーンズが注目されるようになったきっかけは、60年代後半から力を入れた地道なライブ・ツアー活動。多くのロック・ファンが、ストーンズのライブを聴くうちに、ロックとR&B、ブルースを融合させたような荒削りな良さを再認識するようになる。 ただし60年代では、64年に「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」、65年に「サティスファクション」、67年には「夜をぶっとばせ(Let‘s Spend The Night Together)」などが英米国内でヒットして注目されたくらいで、世界的な人気というまでには及ばなかった。 その後70年代に入って、全米を含むワールド・ツアーに全力を注ぐ。ツアーでは毎回、大仕掛けのセットを組んで、大会場を埋め尽くすファンをあっと言わせた。 もちろん仕掛けだけでなく、「ストリート・ファイティング・マン」「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」「ホンキートンク・ウイメン」「ブラウン・シュガー」「アンジー」などの大ヒット曲を立て続けに放って、人気を不動のものにした(写真右上=ステージ狭しと歌い踊り、走りまくるミック。その体力には、ただ、ただ感心!)。 ビートルズは66年に初来日し、コンサートを行った。しかし、ストーンズはファンの皆さんならよくご存じのように、73年に来日公演計画があったにもかかわらず、ミックの麻薬逮捕歴を理由にした、頭の固い日本のお役人のために実現はならなかった。そして、我々ファンは、90年2月の東京ドームでの初来日公演まで待たされるわけである。 僕は初来日時の90年は観ることはかなわず、98年春の「ブリッジ・トゥ・バビロン・ツアー」での来日公演までさらに待った。このツアーは「ブリッジ・トゥ・バビロン」というアルバムと、「Stripped」というアンプラッグド・アルバムの2枚を出した直後。 会場の大阪ドームには、メイン・ステージのほかに、アリーナ中央に10m四方くらいのサブ・ステージをつくられていた。オープニングは、いきなりジャン、ジャン、ジャ、ジャ、ジャーンジャ…とあのギターのイントロ、「サティスファクション」だ。客はもう大喜びで、ノリノリ(写真左下=キースのこの得意のギターの弾き方が、最高にカッコいい!)。 サブ・ステージは、何の曲を演奏するときに使うのかなと思っていたら、コンサートなかばで、メイン・ステージの床から何と!可動式のアーチ橋が出てきて、少しずつサブ・ステージの方へ伸びていった。長さは、驚くなかれ20m前後もある(よーやるわ、こんなアホな仕掛け!)。 そして、ミックやキースらサポート・メンバーも含め全員が、聴衆のすぐそばの真上を、橋を渡ってサブ・ステージへ移動する。そして、「Stripped」収録の曲をアコースティックで演奏するという趣向だ。ツアー・タイトルにも引っかけた仕掛けに、ファンが大喜びだったのは言うまでもない。このアコースティックで演奏したなかでは、ディランのカバー、「Like A Rolling Stone」が最高だった(写真右下は、「Bridge To Babylon Tour」のツアー・パンフ)。 この夜のミックはご機嫌で、かなり上手い日本語で、「マダマダ、ヤルヨー」「ツギハ、スコシスローナナンバーヲ、ヤリマース」などとMC。アリーナ前列の可愛い女性には、「ソコノオジョウサン、アトデ、デンワバンゴウ、オシエテクダサーイ」なんて言って、会場を爆笑させたりも。 キースはキースで、アンコールでは阪神タイガースのはちまきを締めて登場、関西のファンには大受けだった。こういう子どもっぽい遊び心が素敵なんだなー(余談だが、ミックはうどんが大好き。大阪公演の合間をぬって、道頓堀の有名な「今井」へおしのびで行き、きつねうどんを食べたとか)。 ミックは一昨年、あるインタビューで、「僕らはライブが大好きなんだ。体が元気である限りはツアーをやめることはないと思うよ」とファンにとって嬉しい発言をしていたが、去年はチャーリーが癌の放射線治療を受けたなんてニュースも飛び込んできた。その後の病状はどうなんだろうか。ミックとキースがいる限り、ストーンズはストーンズであり続けられると思うけれど…。 願わくは70代になっても、ステージ狭しと暴れまわっているミックを観てみたい。他のメンバーもくれぐれも体を大事にしてほしい。とくにキースよ、体のこと考えて、いいかげんに禁煙しなさい! あなた達には「永遠の悪ガキ」のままいてほしいから…。
2005/05/08
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出張の機会を利用して、東京で昔の友人に会う際、「お土産には何がいいかなぁ…」といつも迷い、悩む。流通が進んだ現在、東京でも、関西の有名どころのお土産はほとんど何でも手に入るという。よほど珍しいもの、首都圏で手に入らないようなものを持っていかない限り、相手も驚くことはないだろう。 夜、上りの東海道新幹線に乗ると、車内に同じような匂いが漂ってくることが、よくある。関西に出張に来たサラリーマンらが、揃いも揃って、「551蓬莱(ほうらい)の豚まん」(写真左上)を土産に買って帰るからだ(「551蓬莱」はなぜか首都圏のデパートに常設販売のコーナーがなく、それ故、うちの東京オフィスの人にも人気のお土産だが、あまりの定番品では芸がないので、僕は避けている)。 昔は神戸トアロードの「デリカテッセン」のハム・ソーセージや、芦屋の「アンリ・シャルパンティエ」のお菓子などをよく持っていった。しかし、今では「アンリ」のケーキは東京の有名デパートで買える(「デリカテッセン」はどうだったかな?)ので、希少価値も薄れてしまった。 東京の会社の同僚には、ウケを狙いで「タコ焼きせんべい」とか、グリコの関西限定「ジャンボ・ポッキー」とか、あるいは阪神タイガース・ショップ限定のお菓子などを買っていくこともあるが、いずれにしても、いつも考えるだけでおっくうになる。阪神百貨店のイカ焼き(写真右=玉子入り、玉子なし、和風味の3種があります)なんて結構喜ばれるのだが、夏場など、あまり長時間持ち歩くのは心配なので、躊躇してしまう(最近はお土産用に冷凍パックの箱入りもできたが、この箱が結構大きくて持ち歩きには不向き)。 「たねや」という滋賀県近江八幡市のお菓子屋さんの詰め合わせも、気に入っているので、時々持参したが、「たねや」も数年前から東京の有名デパート(三越や東急など)で買えるようになり、有り難みは薄れてしまった。もっとも、今はインターネットでの通信販売でたいていの物は買えるので、そんなことにこだわっていても仕方がないけれど…。 そんななかで、僕がよくお土産に選ぶのは、京都・千本今出川にある「近為(きんため)」というお漬け物屋さんの「柚子こぼし」という一品(写真左下=一応、要冷蔵の品なので保冷パックに入れて持って行く)。大根を柚子と一緒に漬け込んだ浅漬けだが、この品はほとんど例外なしに、「美味しかったー」という反響が帰ってくる。実際、お茶漬けで食べても、そのまま日本酒のアテにして食べてもとても旨い。 他の大手漬け物メーカーも、似たような製品を販売しているが、僕はやはり、この近為の「柚子こぼし」の味わいが一番好きだ。難点は、他社の製品に比べて、若干お値段が高め(150g入りで420円)なことだが、まぁ満足度を考えると妥当な価格ではないかと思う。 近為は京都だと、今出川の本店のほかJR京都駅から10分ほど南東へ歩いたところに支店もあるが、僕はたいていいつも大阪・梅田の阪急百貨店で買う(大阪で唯一、近為の商品を取り扱う)。と書いて、近為のホームページを見たら、今ではなんと東京の深川と人形町、そして鎌倉に計5店も支店を出しているではないか!(ほか、日本橋高島屋と渋谷東急でも買えるという)。あぁ、これでは、もう関西でしか手に入らないという土産はなくなってくるぞー! それはともかく、この手の浅漬けが、僕は日本酒や焼酎のアテに大好きなもんだから、時々「エバラ浅漬けの素」を買ってきて、大根と柚子の皮の千切りとともに漬け込む。漬けた当日でも食べられるが、2~3日してから食べた方がもっと旨い。だが、やはり近為の「柚子こぼし」とは、当たり前だが、何かが違う。近為の旨さの秘密をいつか解き明かしたいと願っているのだが…。
2005/05/06
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ミナト神戸にはおしゃれなBARは多いが、老舗BARというのは、今では数えるほどになってしまった。あのバブル景気に起因する地上げが、そして阪神・淡路大震災による打撃が、老舗の永続を阻んだ。 残っているのは、思いつくまま挙げてもSAVOY、YANAGASE、Abuはち、アカデミー、でっさん、バンブー、SMOKEYくらいだろうか…。そして、その数少ない老舗BARの中でも、僕がいつも一番居心地がいいと感じているのが、北野にあるYANAGASEだ(写真左上=YANAGASEの玄関へのアプローチ)。 三宮の駅を降りて、北野坂を登る。山手幹線を越えてすぐ北東への、なだらかな登り坂に入る。そして5、6分歩くと、左手にツタのからまる一軒家が見えてくる。そこが「YANAGASE」。BARの玄関にたどりつくには、さらに階段を少し上がる。このアプローチが神戸らしくて、僕はとても好きだ。 1966年の開業。本来のオーナーは、店の名の通り柳ケ瀬さんという方だった。柳ケ瀬さんは77年に亡くなり、以来、義弟に当たるNさんがカウンターを守っている。 Nさんは元はサラリーマンだったが、店の開業時にたまたま大阪へ単身赴任していて、義兄に店を手伝うように頼まれた。それが縁で店に関わり続け、結局店を受け継ぐことになった(右下は、成田一徹氏の切り絵で描かれたNさん=「酒場の絵本」より。 (C )成田一徹)。 Nさんの住まいは今も東京。孫もいて、月に1、2度は帰京するというが、単身赴任はもはや42年目。「僕は、おそらく日本で一番長く単身赴任している男です」と笑う。 開業からまだ40年足らずのBARだけれど、YANAGASEの店内に一歩入ると、調度からは、まるで明治や大正から続くBARのような落ち着きや重みが感じられる。 何よりも僕がYANAGASEの魅力だと思うのは、店の奥にある暖炉だ。決して飾りではなく、冬場には本当に薪(まき)を燃やし、店内を暖かく包んでくれる(写真左下)。暖炉のあるBAR。そう聞いただけでも、とてもロマンチックな気分になれる。 阪神大震災では、1カ月間の休業を余儀なくさせられた。店内のボトルはほとんどが割れたが、幸い、店は地盤のしっかりした山手に建っていたため、倒壊は免れた。 店が再開すると、すぐに常連客が駆けつけ、口々に「ありがとう。こんな大変な時やからこそ、ほっとできる場所、ほしかったんや」とNさんに感謝の言葉を伝えたという。どんな災害や不幸にあっても、どんなに落ち込んでも、人間には一息入れられる場所が必要なのだ。 いま、僕のもっぱらの心配は、Nさんが2年ほど前、病気をされ、店を少し休まれたことだ。今年72歳。もう、そう無理が利く歳でもない。Nさんがいなくなったら、YANAGASEはどうなるのだろうと、つい心配してしまう。 オーナーがいなくなると店を閉じるBARが最近は多い。でも僕は、大震災をも乗り越えたYANAGASEだけは、神戸という街があり続ける限り、ずっーと残っていってほしいと願っている。【Yanagase】神戸市中央区山本通1-1-2 電話078-291-0715 午後5時半~午前零時 無休
2005/05/04
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ある81歳のジャズマンの死亡記事が、今日(2日)の夕刊に出ていた。パーシー・ヒース(Percy Heath)。伝説のジャズ・バンド「MJQ(モダン・ジャズ・カルテット)」のベーシストとして活躍した、素晴らしいミュージシャン。 ビル・エバンスやピーターソンらピアノものからジャズ好きになった僕は、MJQのことは、あまり詳しくは知らない。だから、パーシー・ヒースのことをうまくは語れるはずもない。でも、彼には忘れられない思い出がある。 8年ほど前、僕は、大手電器メーカー勤務で、米国駐在中だった友人に会うためにニューヨークを訪れた。友人はマンハッタンから川を挟んですぐ西側の、ニュージャージーに住んでいたのだが、訪問中に、僕はぜひ行きたいところがあった。それは、ビル・エバンスやソニー・ロリンズや、あるいはボブ・ディランがライブ演奏をした、あの有名な「ヴィレッジ・バンガード」。 彼も実はジャズ好きなのだが、米国に住んでいながら、なぜか「ヴィレッジ・バンガード」には一度も行ったことがないと言う。だから、喜んで僕に同行してくれた。午後8時からの1回目のライブは、すでにほぼ満員。でも、彼が事前に予約していてくれたおかげで、僕らは結構いい席に座ることができた。 当日誰がライブをするかには、正直言って、僕はあまり関心はなかった。ただ、あの歴史的なライブ・スポットで生のジャズが聴けることだけが楽しみだった。実際、その夜、ライブ・ステージに登場した高齢のジャズメンたちが誰かは、僕は全然わからなかった。 プレーヤーたちにスポットライトが当たったとき、僕の友人が叫んだ。「おいおい、あのサックスとベース、ヒース兄弟やでー(彼は関西出身)」。「ヒース兄弟って、だれー?」という僕に、彼はいろいろ解説してくれたが、その内容は、さほど頭に入らなかった。この夜、彼らは約45分ほど演奏しただろうか。ほとんどがジミーのサックスをフィーチャーした曲だったが、曲目は今となってはまったく覚えていない。 そして、その後ジャズ・アーティストに少し詳しくなった僕は、ヒース兄弟、とくに長男のパーシー・ヒースという人は、マイルスやエバンスとも共演した、凄い人だったんだということを知る。ジャズの歴史に残るような人の生演奏を、あのヴィレッジ・バンガードで聴けたのは、なんという幸せだろうか。 ヒース兄弟は、いずれもジャズマンだった。長男のパーシーがベース、次男はサックスのジミー、三男はドラムスのアルバート。MJQ解散後は、パーシーを中心にヒース・ブラザースというジャズ・コンボ(ピアノだけは兄弟以外のメンバー)を結成し、活躍した(写真左上は、ヒース・ブラザース。少し若い頃の写真なので、4人のうちのどれがパーシーか、僕にはよく分からない。誰か教えてー!)。 そのパーシーが亡くなった。死因は「骨肉腫」と記されていた。歴史に残る数々の名アルバムで、ベーシストをつとめてくれた。パーシー、長い間、本当に有難う。貴方はジャズという音楽の素晴らしさを、僕にしっかり教えてくれました。
2005/05/02
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