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皆さま、ご無沙汰でーす! 昨日(28日)午後、フィレンツェ、アッシジ、ローマの旅から無事帰って来ました! 初めての訪問なので、落とせない名所・旧跡は一応見て回って、美味しいものもいっぱい堪能して、充実した、楽しい6日間でした。 ただ、行きは、フランクフルト経由、帰りはロンドン経由というハードな旅程だったこともあって、いささか疲れてしまいました(写真左=ホテルの部屋の窓から見たフィレンツェ名物・ベッキオ橋)。 旅行会社任せにした僕らも悪かったけれど、やはり、欧州は直行便に限りますねー(現地の時間も有効に使えますし…)。次回は絶対、直行便!! 家に帰ってトランクを開け、荷物を整理したら、もうぐったり。携帯の留守電には、いっぱい電話が入っていて、パソコンに電源を入れると、メールが何と165通も(そのうちの1割近くは、迷惑メールだったけれど…)。 休暇中の業務は、一応「承認」権限のある他の人に頼んだのですが、それでも滞っている問題もいろいろあるみたい。会社のPCから転送されてきたメールには相談事があれこれ混じっておりました。 明日からは休んだ分の罪滅ぼしも兼ねて、普段の倍は頑張らなくては思うと気が重いけれど、それはそれで仕方がありませーん(写真右=世界中からの観光客であふれていたローマ・トレビの泉)。 書きたいことはいっぱいあるのですが、少し整理してから書き始めた方がいいかなと思っています(夜、久しぶりにバスタブでゆったりと風呂に入った後、体重計に乗ってみたら?!? さて、どういう結果になっていたかは、本編でのお楽しみに)。 詳しい旅行記は、あさって10月1日(土)からスタートさせようと思います。皆さまどうか、しばしお待ちを!
2005/09/29
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皆さま、申し訳ありません。明日から28日まで遅い夏季(?)休暇のため、ブログをお休みさせていただきます。 行き先は、ダ・ヴィンチとダンテの国です。初めての訪問なので、ちょっと、いや、かなりワクワクしています。3カ月ほど前から特訓していた語学の成果は、いかに? 2都市を、実質6日で回るあわただしい旅。元来、路上犯罪が多いといわれるこの国、ロンドンでの同時テロ以降、欧州ではなお、テロ再発不安も消えません。 連れ合いともども、身の安全(行動)には気をつけようと思っていますが、それでも、テロに遭ったら運が悪かったと思ってあきらめます。 美味しいものを食べるのも楽しみですが、暴飲暴食には気をつけよう~っと(また腹痛起こして笑われないように…)。帰ってきて体重計に乗るのが怖い! それでは、29日の日記(旅日記)で、再びお会いしましょう! PS,日本にいない間にタイガースは優勝してしまいそうな雰囲気。テレビで、生で見られなくなりそうなのが残念…。
2005/09/21
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ラフロイグ(Laphroaig)。ゲール語で「広い入り江の美しい窪地」という意味のモルト・ウイスキー。ブレンディド・ウイスキー「バランタイン」のキーモルトとしても使われ、「スモーキーでピーティー」あるいは「ソルティ」と称されるアイラ・モルトの中でも、群を抜いて個性的なモルト。 初めて飲んだ人は、「何だ、この消毒薬のようなウイスキーは!」と、その強いアタックに腰を抜かす。そして、そのままはアイラ・モルトの奥深さにはまっていく人と、「こんな酒は二度と飲まんぞ」と離れてしまう人と、二つに分かれることが多い。 蒸留所は、アイラ島の南、静かな湾に面して建てられている。1815年の創業。周辺には、同じくアイラの人気モルト、ラガヴーリンとアードベッグの蒸留所もある(写真左上=白壁が美しいラフロイグ蒸留所の建物。 (C )バランタイン社のHPから ) ラフロイグは、ボウモアやラガヴーリンと並んで、今では世界で最もよく飲まれているアイラ・モルトの銘柄。シングルモルトで最初に「プリンス・オブ・ウェールズ御用達」の称号をもらったという事実からも分かるように、チャールズ皇太子の最も好きなウイスキーとしても有名だ(写真右=ラフロイグのオフィシャル10年。この強烈な個性に圧倒された人数知れず)。 しかし1940年代までは、英国内でもさほど人気のある銘柄ではなかった。現在の名声の基盤は50年代に入り、蒸留所長になったベッシー・ウイリアムソンという女性に負うところが大きい。 ベッシーは、約20年の歳月をかけて製造工程の大改修に取り組んだ。そして、現在のようなバランスに優れ、ボディのしっかりしたラフロイグをコンスタントに生産できるような体制を整えたという。 ラフロイグがなぜ、同じアイラ・モルトの中でもとりわけスモーキーなのかはよく分からない。独自のフロアモルティング、サーネイグ川から取る独自の仕込み水、独自の採取場から採れる多量の苔を含んだピート、海に直接面した熟成庫等々…、様々な要因があり、その融合の神秘がラフロイグを生む。それは、人智の及ばない神の魔法かもしれない。 僕は、徳島時代にラフロイグと出会い、その後、しばらく別れた時間がかなりあった。嫌いになったという訳でもない。他のシングルモルトもいろいろ味わってみたくて、ただ「蒸留所巡り」に忙しかったこともある。そして、最近になって、またラフロイグとの邂逅が楽しいと思えるようになってきた。 そんなきっかっけをつくってくれたのが、今年、ラフロイグ蒸留所が創業時の味を、創業当時の手法で再現すべく創り出した「クォーター・カスク」という記念ボトル(写真左下)。普通サイズのオーク樽(バーボン樽)で前熟された後、4分の1サイズの樽に移して後熟されている。 小さいサイズの樽で熟成させると、当たり前だが、樽とウイスキーの接触面積が3割ほど増える。その分、熟成が早く進み、樽材の影響(樽由来の香りや甘味等)を短時間で受ける。言い換えれば、樽の個性がウイスキーの個性に大きく反映することになる。 「クォーター・カスク」は、やや明るい琥珀色をしている通常のラフロイグの10年もの等とは違って、やや深みのある濃い琥珀色。口に含むと、ラフロイグ独特のスモーキーさだけではなく、オイリーな熟成感も十分に味わえる。また、ココナッツのような甘味もほのかに感じられるなど、バランスの良さが素晴らしい。 大阪のBARでその上質な味わいを体験した僕は、たまたま神戸の酒屋さんで予約販売していたのを見て、手に入れることができた(お値段はオフィシャルの普通のボトルと変わらないくらいで、とても良心的だった)。 でも、気になることも一つ。酒屋さんは「世界で限定5000本とか言ってますので、次また造るかどうか…」と言っていた。これっきり飲めなくなるのは、ファンとしては困る。できれば、毎年この「クォーター・カスク」を出し続けていってほしいと思うのだが…。
2005/09/19
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明日のことを、きょうに書く。明日9月18日は、あるミュージシャンの命日。1970年のこの日、彼は27歳の若さでこの世を去った。ツアー中のロンドンのホテルの一室で。死因は、睡眠中に嘔吐物を詰まらせたことによる窒息死とされているが、アルコールや薬物の過剰摂取が原因だったとも言われている。 本名、ジェームズ・マーシャル・ヘンドリクス。僕らにはジミ・ヘンドリクスという名で知られている。1942年11月、米シアトルで生まれたジミは、軍隊を除隊した後、好きだった音楽の道に入る。だが、ギターも抜群に上手く、歌もできて、優れたオリジナル曲もあったのに、米国内ではなかなか芽が出なかった。 だが、ある出会いがジミの運命を変える。ニューヨークのライブハウスでのジミの演奏を見た、アニマルズ(「朝日のあたる家」などで知られる英国のバンド)のベーシスト、チャス・チャンドラーが、「一緒にイギリスへ行こう」と誘った。 そして、ジミはイギリスのオーディションで出会った、ノエル・レディング(ベース)、ミッチ・ミッチェル(ドラムス)と意気投合して、あの「エクスペリエンス」を結成。1966年12月、シングル「ヘイ・ジョー」で、デビュー、翌年にはデビュー・アルバム「Are You Experienced?」(写真左上)を発売した。 僕が初めて聴いたジミの曲は、多くの人もそうであったかもしれないが、セカンド・シングルでもあった「紫のけむり(Purple Haze)」。ジミの曲では、僕は今でもこの曲が一番好きだ。ジミの搾り出すような声も、とてもいい(あの滅茶苦茶かっこいいギターのイントロは、よく練習した)。 ただし、ジミはご存じのように、左利きだった。右利き用のギター(当時はおそらく左利き用は生産されていなかったのか?)の弦を張り替え、器用に弾いていた。そのパワー溢れる革新的な演奏は、聴衆を圧倒し、欧州各国での評価をどんどん高めていった(写真右上=99年に、ようやくCD化された伝説のウッドストック・ライブ)。 ジミの評判はアメリカにも伝わり、程なく米国盤も発売される。そして、あのウッドストック(69年)のステージにも立ち、伝説的な名演奏を残す。映画版「ウッドストック」では、「星条旗を永遠なれ」を弾くジミの姿を見ることができるが、その存在感には今でも圧倒させられる。 ジミが当初アメリカでは認められず、イギリスでデビューした背景には、やはり米国内の人種的偏見があったからという専門家もいる。メインのリード・ギタリストを黒人がつとめるバンドなど、それまでなかった。黒人が白人を従えるバンドなど(とくに南部では)受け入れられない風潮が強かった。 逆に、だからこそイギリスの音楽関係者やファンは、「凄い黒人ギタリストがいるらしい」とジミに注目し、迎え入れたのかもしれないが、その実力を正当に評価したのもまた、イギリスだった。 ジミが亡くなった同じ年の10月4日にはジャニス・ジョプリン(写真左下=ジャニスの代表的なアルバムと言えば、「パール」)がジミ同様、薬物の過剰服用で、翌71年7月3日にはドアーズのジム・モリソン(写真右下=代表作の「ハートに火をつけて(Light My Fire)」が心不全で、急逝。この時代を彩ったミュージシャン3人が相次いで、若くして世を去った。そして驚くことに、ジミも含め3人とも「27歳」。不可思議な運命としか言いようがない。 ジミは、わずか4年ほどのバンド活動の中で、公式アルバムは5枚しか残していない。しかし、その多くがロック史上で燦然と輝く名盤となっている。返す返すも、その夭折が悔やまれる。今生きていれば、63歳。パワーは衰えてもきっと、あのチョーキングを効かせたギターで、ジミ・ヘン節を効かせてくれたに違いない。
2005/09/17
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今回は、かなり関西(大阪?)ローカルなテーマなので、関西以外の方は(読んでもたぶん面白くないから)読み飛ばしていただいて結構でーす。 関西では新聞やテレビのニュースでもよく報道されていたけれど、大阪・梅田の阪急百貨店内にある旧・阪急梅田駅舎コンコースが、百貨店の改築のため取り壊されることになった。 見納めになるという13日の夜、僕は会社帰りに立ち寄り、デジカメで写真に収めた(写真左)。僕と同じようにデジカメや携帯で思い出に残そうという勤め帰りの人たちが、想像以上にたくさんいた。改めて、この空間はみんなに愛されていたんだということを確認した一瞬だった。 梅田と言えば、大阪最大のターミナルであり、いわゆる「大阪キタ」の中心地。JR(大阪駅)、阪急、阪神、地下鉄という4つの鉄道が結節し、百貨店は阪急、阪神、大丸という3つの大手が顔を付き合わせる、大阪市内最大の繁華街(近い将来には三越もできる)。 京都生まれで、大阪育ちの僕は、子どもの頃、京都市内の祖父母の元へ行くのに、いつも阪急京都線を利用した。当時は(現在の四条河原町とは違って)四条大宮が終点で、いつも阪急の梅田駅から特急に乗った。そして、当時の改札口は、今回の改築でなくなるコンコースの中央にあった。 現在の阪急梅田駅のホーム&改札口は、70年代の大改造で、昔の場所より300mほど北に移された。だから、この旧コンコースは、昔の駅舎の面影を伝える唯一の証人。会社の若い同僚に、そういう話をしても「へーっ、そうやったんやー」と驚くだけ。僕は今でも、この場所に立つと、昔懐かしい改札口の風景がよみがえる(写真右=阪急百貨店&阪急梅田駅。昭和4年=1929=の建築。外壁のゆるやかなカーブが美しい)。 60年代半ばまでは、梅田駅を発車してわずか数分もすれば、まだあちこちに田畑が広がっていた。車窓から見る、今のヤンマーの本社ビルの周辺や、梅田ロフトの辺りは、ほとんど何の建物もなかった。 梅田の駅前にも、戦後の焼け跡闇市の名残がまだあった。阪神百貨店の南側には、区画整理の及ばない、小さな店がひしめく怪しい一角があり、僕はよく探訪した(その一角も10年ほど前についに一掃された)。 そんな梅田(大阪駅)界隈も、この数年で相当様変わりしようとしている。時代が変われば、街の風景も変わるのは当たり前だけれど、当時の、あの猥雑な梅田の面影を残すエリアも、、今では、曽根崎・お初天神の辺りだけになってしまったのは、何となく悲しい。 新聞によれば幸い、阪急百貨店は、あのコンコースにある壁画やシャンデリアは保存して、改築後の建物のどこかに活用すると話していた。子どもの頃の思い出が残るのは嬉しいが、個人的には、ニューヨークのグランド・セントラル駅にも似たあのアーチ型の旧駅舎=コンコース全体を保存してほしかった。 「建築物には寿命がある」と役人や(馬鹿な)建築家は言う。そう言うならば、「ロンドンやパリやプラハの街並みを見ろ」と僕は言いたい。100年、200年前の建物が今なお、現役のものとして、住民が活用しているではないか。そして、街全体が今も生きているではないか。 街や、建物に寿命があるなんて決めつけるのは、人間の傲慢でしかない。身近な街並みが、本当に歴史的使命を終えたのかどうかは、役人や経営者や建築家だけが決める問題ではない。最終的には、市民(住民)の選択に任せるべきだろう。
2005/09/15
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夏から秋にかけては、1年中で一番フルーツが美味しい季節かもしれない。果物屋さんの店先には、色とりどりのいろんなフルーツが所狭しと並べられていて、見た目も美しい。 今年の夏休み中、友人たちを我が家に招いたとき、フルーツ・カクテルをよくつくった。お酒にあまり強くない人でも、フルーツ・カクテルなら、結構喜んで飲んでくれる。 一応、パソコンを使って、カラー印刷したお客様用メニューもつくる。メニューには、「本日のフルーツ・カクテル」とだけ記して、用意したフルーツの名前だけを書く(他にも一応、注文に応えられる主なスタンダードカクテルのリストも添えた)。 先日、友人を招いた際は、ブルーベリー、ラズベリー、オレンジ、巨峰、ナシ(幸水)、桃、スイカ、グレープフルーツ、パイナップル、バナナ、スダチ…と、計11種類のフルーツを用意した。 たくさんのフルーツを用意すると、正直言って材料費も結構かかる。そして、フルーツは新鮮なうちが命。だから客人には、できるだけ多くの種類を飲んでほしい。「いや、私はウイスキーの水割りがいい」「私はビールでいい」なんて、最初から言われると、がっくりくる。 という訳で、いつも半ば強制的(笑)に、「バー・タイムは、僕のフルーツ・カクテルから始めようよ」と好きなフルーツを選んでもらって、飲んでいただく。客が迷惑がろうとも、僕はわがままを貫いて、どんどんフルーツ・カクテルを勧める。 どんなフルーツ・カクテルをつくるかは、その場で考えるが、基本的には、そのフルーツにホワイト・スピリッツ(ジン、ウオッカ、ラム、テキーラなど)と様々なリキュールとの組み合わせ(味を引き締めるために、レモンジュース少々を加えたり、甘さが足りない時はシロップも少し…)。 フローズンぽいのが好きな人には、クラッシュド・アイスも加えたりする。後はブレンダーで一気に混ぜるか、バーズ・ネストで漉すか、ペストル(すりこぎ)で潰すか、ブレンダーから直接注ぐか、シェーカーで混ぜ合わせるか…、いろいろ。どういう作り方がベストかは、まだ試行錯誤の段階だ。 今夏、客人に人気があったベスト3は、ナシとスダチのカクテル(写真左上)、ブルーベリーのマティーニ(写真右)、スイカのカクテル(写真左下)。ナシやブルーベリー、スイカにはそれぞれ、その果物のフレーバー・リキュールを少し加え、ナシはスダチの絞り汁を少し足してフローズン・スタイルに。 他には、ベリーニ(桃)、ピーニャ・コラーダ(パイナップル)も気に入ってもらった。多くの種類のフルーツ・カクテルを同時進行でつくるのは、どういう順番でつくるのかも含め、結構大変だが、客人の「美味しい!」の一言でそんな苦労も報われる。 今の季節は、本当にフルーツの種類が豊富で、値段も手頃なので嬉しい。だけど、そんな季節ももう後わずか。残り少ない「フルーツの季節」。貴方は何を楽しみますか?
2005/09/13
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9月から社内で職場が変わった。サラリーマンだから、異動や担当職務が変わることは覚悟しているし、何度も経験している。だが、今度の新しい仕事は、これまで、全くやったことのない経理・管理部門の仕事。 僕の前任者はまもなく定年。でも幸い、定年後も別会社からの出向のような形でそのまま職場には残ってくれるので、仕事の引き継ぎは、あまりあせることなく、「オン・ザ・ジョブ・トレーニング」の形でやっている。 毎日のようにあれこれ、見よう見まねで教えてもらっているんだけど、まったく別の会社にやって来たような感じ。「除却」「原則申し立て」「特別損失」「実算比」「稟議」などという専門用語が毎日のように飛び出すが、分かったようで分からん言葉もあり、ひたすら勉強、勉強。まぁ、新しい仕事に挑戦するのは嫌いではないので、気持ちを切り替えてやっている。 自分が希望した職場ではない。数字に強い訳でもない。でも、サラリーマンである以上、辞令を受ければ、辞表をたたきつける勇気がなければ、仕方がない(会社を辞めてピアノBARを開くには、まだ資金不足で、決断できない)。 仕事の範囲は幅広い。予算の作成、備品の調達、アルバイトの雇用、社有建物の管理、建て替えの際の業者との交渉、予算の適正使用のチェック、…、他にもいろいろあって、体が2つも3つもほしいというのが本音(写真左=我が家のリビング・ルームのマスコット「トラッキー」君。祝!勝率マジック13点灯です!)。 最近だと、例のアスベスト対策でも業者にいろいろ指示を出したり、飛散防止工事の交渉したり。う~ん、僕に似合わない仕事だなぁ、と思うのだけれど、役割を与えられた以上やるしかない。 「何億円、何千万円単位の仕事が君の判断で動かせる、やりがいのある、重要なポスト(仕事)だよ」なんて、辞令を言い渡した上司は言ったが、若干の“お世辞”も含んでいるということくらい、僕は分かっている。 実際には、そんな大きな権限はない。僕1人の判断(決済)ですぐ外へ発注できる工事や備品購入は、60万円未満のもの。それを超える金額だと、僕よりさらに上の人の承認が要る。さらに何百万円、何千万円単位になると、担当役員や取締役会の決裁が必要になってくる。 まぁ、それはともかく、僕は毎日、新しい仕事に新しいやりがいを見出そうと頑張ってるつもり。いちおう気分よく仕事はしている。だから、2日に1回の日記の更新もできている(笑)。 会社(職場)が変わったとき、仕事が変わったとき、担当が変わったとき、ブログ仲間の皆さんは、どうやって新しい仕事に慣れられたのか、どうやって環境の変化をうまく乗り越えたのか。もし体験談があれば、聞かせてほしいなぁ…。
2005/09/11
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今でこそ、ピアノ(またはキーボード)で弾き語りする日本人歌手って、珍しくはないが、1970年代始めまではほとんどいなかった。 海外では50~60年代から、ポール・アンカ、リトル・リチャード、キャロル・キングら弾き語り歌手がいた。70年代に入ると、エルトン・ジョンやビリー・ジョエルら本格的なピアノ弾き歌手が登場した(もちろん、ビートルズのポールはそれ以前からピアノで弾き語りしていたが…)。 日本のポップ・ミュージック界初のピアノ弾き語り歌手って、誰だろうか? すぐには浮かんでこない…。しばらく考えてみたら、女性なら荒井(松任谷)由実、男性なら小田和正(オフコース時代だが)かなという結論になった。この2人以前に、もしいてたら、誰か教えてください。 ユーミンは今、ステージではピアノの弾き語りをほとんどしないが、デビュー(1972年)したての頃は、半分以上は、ピアノの前に座って歌っていた(写真左上=デビュー・アルバムの「ひこうき雲」=1973年)。 僕は、まだ荒井由実時代のユーミンを、大阪・天王寺野外音楽堂で聴いた。2枚目のアルバム「ミスリム」(1974年=写真右)を出した直後で、「瞳を閉じて」「私のフランソワーズ」など「ミスリム」からの曲が中心だったが、「ひこうき雲」も歌ってくれた。 ユーミンの歌は当時はおせじにも、上手いとは言えなかった(時々、高音で音をはずしていた)が、最近のライブを聴くとだいぶん上手くなったみたい…(長いキャリアを考えたら、当たり前かな?)。 その後、長いキャリアの中で、数多くのアルバムを出し、多様な音楽のスタイルを追求してきたユーミンだが、僕は「ひこうき雲」「ミスリム」「コバルト・アワー」という、デビュー・アルバムから続く3作の頃が一番好きだ。歌も曲も演奏も、素直でピュアな感じが一番よく出ている気がする。 僕は当時、「私のフランソワーズ」や「ひこうき雲」「生まれた街で」などのコピーをよく練習した。ユーミンの歌は、本人に似合わず(失礼!)、意外と音域の広い歌が多く、男である僕には結構難しかった。「ひこうき雲」の2番のサビの部分など、僕は声がひっくり返ってしまう(写真左=中期のアルバムで、僕が最高傑作だと思っているのがこの「昨晩お会いしましょう」)。 以前の日記(2004年12月16日)で、「ピアノの弾き語りは、まず、Let It Beから始めた」と書いたが、邦楽で、弾き語りの手段としてピアノを意識し始めたのは、ユーミンと出会ってからだと思う。そういう意味で、先駆者としての彼女に、僕はいつも感謝している。 ユーミンはご存じのように作詞、作曲も自分でこなした。そして何よりも、マイナー・セブンスやメジャー・セブンスを多用したコード進行が、それまでの邦楽にはほとんど見られない、とても斬新なものだった。「呉田軽穂」の名前で松田聖子に提供した数々の大ヒット曲も、それまでの歌謡曲にない、とてもおしゃれな曲だった。 ユーミンがデビューした頃、「一発屋」で終わると予測した評論家もいた。しかし、この浮き沈みの激しいポップ・ミュージックの世界で、33年もほぼトップの位置を守り続けられたのは、やはり、曲づくりの才能や、詩にみられるようなすばらしい感性があってのことだろう。 最近は、出すアルバムが昔のようなミリオン・セラーにならず、マンネリ感も指摘されるユーミン。だが、作曲家としての才能には誰でもピークはある。50代に突入した今、20代の頃のままの感性を、彼女に要求するのは酷なことだろう(写真右上=2003年には、他の歌手に提供した曲などをカバーしたアルバムを出し、話題になった。「瞳はダイヤモンド」がいいです!)。 同世代でもある僕自身は、ユーミンにいつまでも息長く、60代、70代になっても歌い続けてほしいと心から願っている。70歳のユーミンがどんな歌を歌っているかを、考えるだけでも楽しいではないか。
2005/09/09
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JR新橋駅近くの繁華街。初めてそのBARを訪れた時は、目指すビルを探すのに少し苦労した。ようやく見つけた雑居ビルの地下に、そのBARはあった。 BARの扉を押すと、入り口から奥の方へ伸びた細長いカウンター。奥の方は少し三角形に突き出している。その前には数脚のスツールがあるが、基本は、英国のパブのようなスタンディング・スタイル。背中側はようやく1人がすれ違えるような狭いスペースの店内だった。 初めて訪ねた僕は、入り口近くに、1人立って、静かにウイスキーの水割りを飲んだ。「Tony’s Bar」(写真左)。その名の通り、マスターは愛称、トニーさん(本名は、「松下安東仁」と言ったらしい)。いつも、奥の方が定位置だった。 トニーさんは、英国人将校の父と日本人女性の間に生まれた。10代前半から進駐軍のクラブで働き始め、1952年(昭和27年)に、東京・人形町に店を構えた。その後、東京五輪(1964年)と同時に、今の新橋に店を移した。 トニーズ・バーの自慢は、バック・バーの棚に、ところ狭しと置かれた2千種類以上の豊富なお酒の品揃え。そしてトニーさん自身は、酒に関する博学ぶりで、いつも客をうならせてきた。184cmの長身。男が惚れ惚れするようなダンディズムと、酒やマナーについての頑固さを兼ね備えた人でもあった。 2人連れ以上の女性客は断った。「店内が騒々しくなるから…」と一言。お行儀の悪い客を叱る光景も少なくなかったという。常連ではない旅人で、たまにしか訪れない僕は、笑顔のなかにも少し鋭いまなざしをしたトニーさんを、いつもただ、遠くから見つめるだけだった。 そして残念ながら、トニーさんは02年6月、病に倒れ、天国へ旅立ってしまった。そして店は、姉のベッティさんに引き継がれた(写真右=切り絵で描かれた「Tony’s Bar」。 (C )成田一徹 ) 新橋移転以来40年余。トニーズ・バーは今もBAR好きの男たちの安らぎの場として、愛され続けている。店は今、74歳のベッティさんと、最後の弟子だったSさんがしっかり守っている。 僕はお邪魔するのは、東京BAR巡りの「スタートとして」が多い。トニーさんが亡くなっても、ここに来ればトニーさんに会えるような気がする。店の中央には、在りし日のトニーさんの写真が架かる。トニーさんに見つめられると、マナーよろしく飲むべしと気持ちが引き締まる。さぁ、襟を正して、今夜も「いざ、2軒目へ」。【Tony’s Bar】東京都港区新橋1-4-3 芝ビルB1F 電話03-3571-0990 JR新橋駅から徒歩2分 土日祝休み
2005/09/07
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アメリカ南部を猛烈なハリケーンが襲い、とくにルイジアナ州、ミシシッピ州では、史上最悪の犠牲者や被害が出ている。被災地では食糧や医薬品不足に加えて、日に日に衛生状態が悪化し、街では略奪も起きているという。 とくに、堤防決壊のため街の8割が水没したルイジアナ州ニューオーリンズは、もともと海抜より低いため、4日現在でもまだ水は引かず、都市機能はマヒしたまま。テレビのニュースは、街のあちこちで火災も起きていると伝える。 学生時代、アメリカに米北東部コネチカット州でホームステイした経験のある僕だけれど、ルイジアナやミシシッピへは、一度も足を踏み入れたことはなく、どんな街かはほとんど知らない(写真左=ニューオーリンズの惨状 (C )AP通信)。 今回の災害では、世界の最先進国と見られていたアメリカが被災者の救援で遅れをとり、大きな問題となっている。自然災害での救援対策では、最も進んでいると見られていた「あのアメリカが、なぜ?」と僕は不思議で仕方がない。 ハリケーンが来ることは4、5日前から警告され、連邦政府や州政府も事前の避難を訴えていた。しかし、今回の洪水で取り残されていた人たちは、貧困層(黒人層が多い)がほとんど。逃げろと言われても、避難のための車もなく、避難の資金もなかった。被害は結局、弱い人たちに集中した。批判を受けて、連邦政府もようやく本格的な救援に乗り出した。だが、4日のニュースを見る限り、救援の手は末端までは届いていない。 連邦政府の責任は、もちろんあると思う(災害から5日も経って、ようやく現地を視察したブッシュ大統領は論外)。だが、阪神大震災を経験した僕としては、むしろ州政府やニューオーリンズ市当局は、一体何をやっているのかと腹立たしく思う。被災者が集められたのは、スポーツの競技場だけ。日本だとまず、地域の学校あたりが避難場所に変わるのだが、なぜそういう公共施設がないのか。 商店からの略奪の映像もたびたび伝えられており、警察は治安機能を喪失し、州兵がマシンガンを持たないと治安は保てない。悲しいけれど、これが世界で最も民主主義が進んだ、超大国アメリカの現実でもある。 阪神大震災の時は、兵庫県も県内の各自治体も、職員自らが被災者である苦しい状況のなかでも、被災者救援は、地震発生直後からそれなりに機能した。公務員は昨今何かと批判されることが多いけれど、僕は、日本の地方公務員の責任感、倫理感、公僕としての献身は誇りに思う(写真右=水没したニューオーリンズ (C )AP通信)。 もちろん一般市民のモラルも高かった。街が壊滅状態になっても、救援物資がなかなか届かなくても、阪神大震災では、商店からの略奪などは、(僕の知る限り)まったく起こらなかった。日本にも敗戦直後は、貧しい時代があったが、それでも最低限のモラルはあった。だが、アメリカの現実を見る限り、貧富の差の拡大は確実にモラル低下を促進しているようだ。 ジャズ発祥の地、ニューオーリンズへはいつか訪れてみたいと思ってきたが、まだ一度もその夢は実現していない。この様子だと、街の再建にはおそらくは、少なくとも2~3年はかかるだろう。訪問の夢は当分は実現しそうにない。
2005/09/05
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版画と言えば、昔は木版画か石版画くらいしかなかった。しかし19~20世紀以降、シルクスクリーン、リトグラフ、エッチング、ドライポイントなど様々な手法での版画が生み出され、それぞれを得意とする版画家が多様な作品をつくり出してきた。かのロートレックもリトグラフで素晴らしいポスター作品を数多く残した(リトグラフは石版画の一つとも言えるが…)。 版画は、手法によって枚数に違いはあるが、1点ものの油絵や日本画と違って、ある程度の枚数を生産(創作=商品化)できるのが利点だ。たくさん刷れることによって、1点もののような素晴らしい作品が、数多くの愛好家に手頃な値段で楽しめるようになった(写真左上=僕がタルマッジを知るきっかけとなった「ハリウッド・ピープル」というタイトルの版画)。 1点ものの油絵なら、何百万円、何十万円する作品が、シルクスクリーンやリトグラフなら、その十分の一、百分の一の値段で買える。レベルの高い作品が大衆の手に届くことは、大変いいことに違いない。 10年ほど前、僕は、大阪のある画廊で見たある米国の版画家の作品がとても気に入ってしまった。もともとその画廊へは、あのローリング・ストーンズのメンバー、ロン・ウッドの版画展(ロンは絵の腕もプロ級なんです)を見るために行ったのだが、ロンの絵より魅せられてしまったのだ(ロン、ごめんね!)。 その版画家の名前は、ジェームズ・タルマッジ(James Talmadge、日本では「タルマージ」と表記されることの方が多い)。オイル・パステルを巧みに使ったカラフルで、躍動感あふれる絵は、一瞬にして僕の心を捕らえてしまった。 手頃な値段なら買いたいと思ったが、僕の記憶では、80×60cmくらい大きさの作品に、なんと50~60万円の値段が付いていて、その場で手の届くものではなかった(それでも、業者は「ローンも組めますから、お一つぜひ」としつこく迫ったが…)。 そして、その数年後、シカゴに駐在していた大学時代の友人夫婦を訪ねる機会があった。そして、シカゴの画廊で、タルマッジの版画を見つけた。値段を聞くと、僕が一番ひかれた「Down By The Broadwalk」というタイトルの版画(写真右上)は、額付き、日本への送料込みでも、約17万円ほどだった。 その場では迷ったけれど、日本へ帰った後、「やっぱり、欲しい」という思いが募り、その友人を通じて、買って送ってもらった。そのタルマッジは今も僕の家のリビングの壁を飾っているが、実に楽しい気分になる素敵な絵だと、凄く気に入っている。 ジェームズ・タルマッジは、ヒロ・ヤマガタやクリスチャン・ラッセンのように、商業主義に乗った宣伝をしないから、日本ではほとんど知られていない。1947年、カリフォルニア州生まれ。14歳で個展を開いたというから、早くからその才能は認められていたのだろう。19歳で、LAのオーケストラでオーボエを演奏したという、多才な人でもあるらしい(写真左下=「Jazz」をテーマにした絵も多い)。 米国内でもブレークしたのは1980年代半ば以降らしいが、英文のサイトで調べると、世界各国の有名美術館でタルマッジの作品が買い取られているほか、俳優のチャーリー・シーンや、テニスのアンドレ・アガシ、それに化粧品会社のマックスファクターは、タルマッジの作品を数多くコレクションしているという(写真右下=「群像」も彼が得意とするモチーフ。色使いが素晴らしい。タルマッジの他の作品はこちらに)。 しかし、米国内での相場は若干下がり気味で、今では10万円前後でも買える作品もある。これに対して、日本の取り扱い業者は(昔よりは安くはなったが)相変わらずとんでもない値段を付けているが…(いまどき、なぜ米国内の3~4倍もの値段で売るのか理解に苦しむというか、あきれる)。 タルマッジはプライベートな部分がまったく謎の人だ。僕も、写真は雑誌で見たことはあるが、プロフィールはほとんど知らない。今年58歳。最近の消息はほとんど聞かない。新作も見ない。今はどこでどうしているんだろうか。気になる版画家の1人である。 ※絵の画像は、自ら購入した1枚(写真上から2枚目)以外は、タルマッジの公式HP( http://www.talmadgeart.com/ )、タルマッジを扱う画商「Gregory Edition」のHP( http://www.gregoryeditions.com/talmadge.htm )等から引用・転載しました。心より感謝いたします。
2005/09/03
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