温故知新 0
徐福 0
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2、「山名氏の出自」山名氏(やまなうじ、やまなし)は、山陰地方を中心に勢力を持った武家(守護大名・戦国大名)である。鎌倉時代山名氏の本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の棟梁・鎮守府将軍・源義家の子・義国を祖とする名門・新田氏の一門。新田義重の庶子・三郎義範(または太郎三郎とも)が上野多胡郡(八幡荘)山名郷(現在の群馬県高崎市山名町周辺)を本貫として山名三郎と名乗ったことから、山名氏を称した。*「山名 義範」(やまな よしのり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。山名氏の祖。新田義重の庶子として誕生。上野国多胡郡八幡荘の山名郷[2]を与えられ、山名氏を称した。承安5年/安元元年(1175)から安元3年/治承元年(1177)頃には豊前国の宇佐八幡宮を勧請し、山名八幡宮を建立している。他の兄弟と比較されて義範のみ新田荘内の所領を分与されず、また、極端に少ない所領しか相続しなかったことから、新田氏の庶流の中でもかなり冷遇されていたと見られる。父・義重は治承4年(1180)8月に挙兵した源頼朝の命になかなか従おうとしなかったために、頼朝から不興を買って鎌倉幕府成立後に冷遇されたが、逆に義範はすぐさま頼朝の下に馳せ参じたため「父に似ず殊勝」と褒められ、源氏門葉として優遇された。治承8年(1184)2月の源義経率いる平氏追討軍に参加。文治元年(1185)8月には伊豆守に任じられる。文治5年(1189)7月の奥州合戦に従軍。建久元年(1190)、頼朝の上洛に供奉。建久6年(1195)の2度目の上洛では東大寺供養の際に頼朝に近侍し、その嫡子・頼家の参内にも従っている。いち早く頼朝のもとに参陣したのは、早くから足利氏との縁があったためであると伝わる。】山名氏の祖の義範は鎌倉時代には早くから源頼朝に従って御家人となり、頼朝の知行国(関東御分国)の一つである伊豆の国主に推挙され伊豆守となる。源伊豆守の公称を許され源氏の門葉として優遇された。逆に本家の新田氏は頼朝へ参上することが遅れたこともあり、門葉になれなかった。通説では山名義範の嫡男重国の長男の重村が山名郷を継承し、山名氏の嫡流になったとされている。系譜上においては通説通りで問題はないものの、実際には重村の弟・朝家の系統と重国の弟(すなわち、重村・朝家の叔父にあたる)重家の系統が鎌倉時代における山名氏の中心的存在であったとみられている。朝家の子孫は鎌倉幕府の法曹官僚、重家の子孫は六波羅探題の奉行人を務める家柄であったが、朝家の曾孫の俊行が正安3年(1301)に謀反の疑いで滅ぼされ、残った重家の子孫も鎌倉幕府滅亡と前後して没落したため、結果的に鎌倉時代を通じて不振であった山名重村の子孫だけが残ったとみられている。なお、重家の子孫とみられる山名氏が丹波国・出雲国・備前国などに所領を有していた可能性があるものの、重村の子孫である守護大名の山名氏による支配との連続性は確認できないため、別物とみなされる。
2024年05月18日
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「山名氏の一族の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「山名氏の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・33、 「南北朝と山名氏の台頭」・・・・・・・・・・・・64、 「六の一殿と明徳の乱・・・・・・・・・・・・・105、 「応仁の乱と山名氏」・・・・・・・・・・・・・376、 「応仁の乱と山名氏の再興」・・・・・・・・・・567、 「室町時代の後期」・・・・・・・・・・・・・・648、 「山名氏と赤松氏の播磨奪回」・・・・・・・・・859、 「織田家の侵攻と滅亡」・・・・・・・・・・・・9110、「江戸時代の山名氏(但馬)」・・・・・・・・・9311、「江戸時代(但馬山名子孫。清水山名氏)・・・・10112、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・111 1「はじめに」南北朝から室町時代の武家。清和源氏。新田義重の子義範が上野国山名郷に住したことに始まる。室町時代は侍所所司を出す家格(四職)となった。山名時氏のとき、丹波・丹後・因幡・伯耆・美作の五カ国の守護職を幕府に認められたからは、幕府における地位が上昇、山名氏一族の領国は一二カ国(山城の守護職を含む)にのぼり、日本六十六州の六分の一を占めることから「六分の一殿」と呼ばれた。山名氏の勢力に危惧を抱く将軍足利義満は明徳元年(1390)一族の名有分に介入、翌年、明徳の乱にかくだいした。乱により山名氏清らが敗死し、山名一族の領国は但馬。伯耆・因幡の三カ国のみとなった。応永六年1399)の応永の乱で大内義弘が滅ぼされると、安芸国に満氏が守護として入部する。嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱に際して、山名宗全(持豊)が赤松満祐追討の功により、赤松領国にすると訴台に勢力を回復し、細川氏と並ぶ守護大名になった。応仁。文明の乱では持豊は西軍の主将になる。この乱以降、戦国時代を通じて山名氏は後退していった。天正八年(1580)に但馬の出石城を豊臣秀吉に攻めらえて、山名氏の宗家は滅亡した。しかし,庶家の山名豊国が徳川家康から但馬七味郡に6700石知行を与えらえ、以降幕末に至る。
2024年05月18日
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2、「斎藤氏の出自」「斎藤氏」(さいとうし、旧字体: 齋藤氏)は、日本の姓氏のひとつ。平安時代中頃の鎮守府将軍藤原利仁の子・叙用が齋宮頭であったことに由来する苗字とされる。藤原利仁の後裔は越前・加賀をはじめ、北陸各地に武家として発展した[2]。斎藤氏は平安時代末から武蔵など各地に移住して繁栄した。なお「斉藤氏」は「斎藤氏」から派生しており、さらに「齊藤氏」が派生したと考えられる。(齋藤⇒斎藤⇒斉藤⇒齊藤)斎藤氏から出た苗字は大変多いが、有力なものとして、加藤氏、富樫氏、林氏等が挙げられる。 3,「藤原北家利仁流斎藤氏」.鎮守府将軍・藤原利仁の子叙用を祖とする。叙用の父・利仁は敦賀の豪族・秦豊国の娘を母に持っていたことから、越前を中心に北陸一帯に勢力を築き、叙用の孫斎藤伊傳は越前国押領使となった。また同じく叙用の孫斎藤忠頼は加賀介に任じられたため、加賀にまで勢力を広げた。その後裔はそれぞれ越前斎藤氏と加賀斎藤氏の2系統に分かれた。 *「藤原 利仁」(ふじわら の としひと)は、平安時代前期の貴族・武将。藤原北家魚名流、民部卿・藤原時長(中納言藤原山蔭の同母兄弟)の子。越前国敦賀の豪族・藤原有仁(忌部姓?)の娘婿にもなっていた。左近将監などを経て、延喜11年(911)上野介となり、翌延喜12年(912)に上総介に任じられる。そのほか下総介や武蔵守といった坂東の国司を歴任し、延喜15年(915)には下野国高蔵山で貢調を略奪した群盗数千を鎮圧し武略を天下に知らしめたことが『鞍馬蓋寺縁起』に記されている。この年には鎮守府将軍となり、その最終位階は従四位下であったとされる。後代、平安時代の代表的な武人として有名になり多くの説話が残っている。なかでも『今昔物語集』の中にある、五位の者に芋粥を食べさせようと京都から敦賀の舘へ連れ帰った話が有名である(芥川龍之介はこの話を題材に小説『芋粥』を執筆した)。次男・叙用が斎宮頭となり、斎藤氏の祖となる。その孫の代では忠頼が加賀介となり、加賀斎藤氏、弘岡斎藤氏、牧野氏の祖となり、加賀斎藤氏から堀氏、弘岡斎藤氏から富樫氏、林氏が出る。叙用の孫為時の家系からは吉田氏、前田氏、尚忠から吉原斎藤氏、河合斎藤氏、美濃斎藤氏が出たほか、重光から加藤氏、遠山氏が出る。また、一女は藤原秀郷の孫にあたる藤原文脩の室となり文行、兼光らの母となった。利仁の後裔を称する氏族は多く仮冒は少ない。また秀郷と並んで藤原氏が武家社会に進出したことを象徴する人物と言える。 *「藤原 叙用」(ふじわら の のぶもち)は、平安時代中期の貴族。名は敍用、信用とも。藤原北家魚名流、鎮守府将軍・藤原利仁の次男。官位は従五位上・斎宮頭。斎藤氏の祖。10世紀の中頃、斎宮頭に任ぜられる。官職名と姓に因んで齋藤を号した。子孫は斎藤氏となる。その他、蔵人を務め、位階は従五位上に昇った。なお、叙用は鎮守府将軍を務めず、兄弟の有頼・有象が任ぜられている。利仁の祖父は美濃介・高房。子孫は斎藤氏、堀氏、加藤氏、後藤氏、富樫氏、坪内氏などに分かれる。 *「藤原 貞正」(ふじわら の さだまさ)は、平安時代中期の武士。藤原北家利仁流、豊後守・藤原重光の子。寛和元年(985)、時の蔵人頭・藤原実資の推挙により滝口武者となる。永祚元年(989)には、京都粟田口において従兄弟・藤原為延と共謀し対立していた越前国の豪族・三国行正(雅憲とも)を射殺する事件を起こす。これを受けた朝廷は検非違使や武勇人を貞正らの逮捕に向かわせたが失敗したとある。『今昔物語』には子・親孝は源頼信の乳母子とあり、天延元年(973)以前に越前守を務めている源満仲と主従関係にあった可能性も指摘される。後代、一子・正重の子孫が加藤氏を称し河内源氏の郎党となっている。
2024年05月17日
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「斎藤氏一族の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「斎藤氏の出自」・・・・・・・・・・・・・・・33、 「藤原北家利仁流斎藤氏」・・・・・・・・・・・44、 「堀氏(利仁流斎藤氏)」・・・・・・・・・・・115、 「加藤氏(利仁流斎藤氏)」・・・・・・・・・・226、 「後藤氏(利仁流斎藤氏)」・・・・・・・・・・247、 「美濃斎藤氏」・・・・・・・・・・・・・・・・308、 「斎藤道三」・・・・・・・・・・・・・・・・・599、 「斎藤龍興」・・・・・・・・・・・・・・・・・7310、「織田家と斎藤利治」・・・・・・・・・・・・・9411、「斎藤氏の庶流(長井氏)」・・・・・・・・・・10712、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・119 1、「はじめに」斎藤氏の流れは大きく分けて二つの流派があって、①中世の武家。藤原利仁の子、叙用が斎宮頭に任じられ、その子の孫が斎藤氏を称したと言う。加賀斎藤氏、越後斎藤氏などがその系統である。越前の疋田斎藤氏の為永の子孫長定浄円は鎌倉幕府に仕え、嘉禄元年(1225)評定衆に列した。為永の兄弟竹田頼基の子孫には、六波羅奉行人となる者が多く出て、室町時代に代々幕府奉行人となった。特に基能は政所執事代・恩賞奉行人に、親基は政所執事代となり、日記「斎藤基日記」を残している。②また越前の河合斎藤氏の子孫とされる美濃斎藤氏は、室町地代代々美濃守護代を務めた。特に妙椿は、応仁・文明の乱において西軍に着いた守護土岐成頼の下で活躍した。戦国時代になると、斎藤氏の家宰長井氏の出身とされる道三が斎藤を名乗り、美濃の戦国大名として活躍するが、孫の龍興の代に織田信長によって滅ぼされる。
2024年05月17日
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「浅野氏一族の群像」 1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「浅野氏の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・・・33、 「真壁藩と浅野長政」・・・・・・・・・・・・・・・・44、 「広島藩と浅野氏」・・・・・・・・・・・・・・・・145、 「浅野長勲」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・216、 「浅野幸長」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・467、 「赤穂藩と浅野氏」・・・・・・・・・・・・・・・・608、 「浅野長矩」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・649、 「三次浅野家」・・・・・・・・・・・・・・・・・・9710、「安芸新田藩と浅野氏」・・・・・・・・・・・・・10011、「旗本と浅野氏」・・・・・・・・・・・・・・・・10612、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・113 1、「はじめに」近世大名。清和源氏頼光流土岐光時が尾張国丹羽郡浅野村に住して浅野氏を称し、そのご裔長勝に起こる。長勝の婿養子浅野長吉(浅野長政)が秀吉と相婿であるため、豊臣政権で重んじられて五奉行の首座に列した。天正15年(1587)九州平定の功により若狭一国小浜城主となり、文禄2年(1593)文禄の役の功により甲斐国一国22万石余を領した。慶長5年(1600)幸長は関ヶ原の戦で東軍の先鋒として功を立て、紀伊国37万石余、和歌山城主となった。元和5年(1619)長晟は大坂の陣の功により安芸・備後42万石6500石に加増されて広島城に移った。光晟は徳川家康の外孫として松平姓および将軍偏諱を受け、以降浅野長勲の代に及び、籍奉還後、侯爵に列し東京に移った。分家には寛永9年(1632)光晟の庶兄長治が備後国三次5万石に分和、享保5年(1730)長宴に継子がなく封知宗家に戻した。1730年、吉長の弟長賢に蔵米3万石を分けて内証分家とし、江戸隠田青山に居館を安芸国に移すが。正保2年(1645)長直のとき播磨国赤穂城に移り、元録14年(1701)浅野長矩が江戸城中で吉良義央を傷つけて切腹、家は断絶した。
2024年05月16日
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室町時代*狩野正信狩野派の祖は室町幕府の御用絵師として活動した狩野正信(1434? - 1530)である。彼は当時の日本人としては長寿を保ち(通説では97歳で没)、15世紀半ばから16世紀前半まで活動した。正信の出自は上総伊北荘大野(現千葉県いすみ市大野)。20世紀後半以降の研究の進展により、狩野家は下野国足利(栃木県足利市)の足利長尾氏と何らかの関係があったものと推定されており、足利市の長林寺に残る墨画の『観瀑図』は正信の比較的初期の作品と考えられている。正信の画業として記録に残る最初の事例は、応仁の乱(1467 – 1477)の直前の寛正4年(1463年)、30歳の時に京都の雲頂院(相国寺塔頭)に観音と羅漢図の壁画を制作したというもので(『蔭涼軒日録』所載)、この時点で正信がすでに京都において画家として活動していたことがわかる。正信が壁画を描いた雲頂院の本寺である相国寺は室町幕府3代将軍足利義満創建の禅寺で、如拙、周文、雪舟らの画僧を輩出した室町画壇の中心的存在であり、この当時は周文の弟子にあたる画僧・宗湛(小栗宗湛、1413 – 1481)が御用絵師として活動していた。狩野正信がいつ上京し、誰に師事し、いつ室町幕府の御用絵師となったか、正確なところは不明であるが、室町幕府8代将軍・足利義政に重用されていたことは諸記録から明らかである。10年にわたった応仁の乱(1467 – 1477)終結の数年後の文明13年(1481年)、室町幕府の御用絵師であった宗湛が死去しており、狩野正信は、宗湛の跡を継いで幕府の御用絵師に任命されたものと思われる。これ以後は、宮廷の絵所預(えどころあずかり)の職にあった大和絵系の土佐光信と、漢画系の狩野正信の両者が画壇の二大勢力となった。文明14年(1482年)、前将軍・足利義政は、東山殿(銀閣寺の前身)の造営を始め、正信がその障壁画を担当することとなった。延徳2年(1490年)の義政の没後、正信は当時政治の実権を握っていた細川氏に仕えるようになる。正信はこのように、時の権力者との結び付きを深めつつ画壇での地位を固め、後の狩野派隆盛の基礎を築いた。記録によれば、正信は障壁画、仏画を含め、多様な形式・題材の作品を手掛けたことが知られるが、障壁画はことごとく失われ、現存する確実な作品は掛軸などの小画面に限られている。その画風は、同時代人の土佐光信の伝統的な大和絵風とは対照的に、水墨を基調とし、中国宋・元の画法を元にした「漢画」であった。正信は97歳の長寿を保ったが、晩年の約30年間の事績は明らかでなく、嫡男の元信に画業を継がせて引退生活を送っていた模様である。 *狩野元信狩野派隆盛の基盤を築いた、2代目・狩野元信(1476 – 1559)は正信の嫡男で、文明8年(1476年)に生まれた。現存する代表作は大徳寺大仙院方丈の障壁画(方丈は永正10年(1513年)に完成)、天文12年(1543年)の妙心寺霊雲院障壁画などである(大仙院障壁画については、方丈竣工時の作品ではなく、やや後の年代の作とする見方が有力である)。大仙院方丈障壁画は相阿弥、元信と弟・之信が部屋ごとに制作を分担しており、元信が担当したのは「檀那の間」の『四季花鳥図』と、「衣鉢の間」の『禅宗祖師図』などであった。このうち、『禅宗祖師図』は典型的な水墨画であるが、『四季花鳥図』は水墨を基調としつつ、草花や鳥の部分にのみ濃彩を用いて新しい感覚を示している。元信は時の権力者であった足利将軍や細川家との結び付きを強め、多くの門弟を抱えて、画家集団としての狩野派の基盤を確かなものにした。武家だけでなく、公家、寺社などからの注文にも応え、寺社関係では、大坂にあった石山本願寺の障壁画を元信が手掛けたことが記録から分かっているが、これは現存しない。元信は晩年には「越前守」を名乗り、また「法眼(ほうげん)」という僧位を与えられたことから、後世には「古法眼」「越前法眼」などと称されている。作品のレパートリーは幅広く、障壁画のほか、寺社の縁起絵巻、絵馬、大和絵風の金屏風、肖像画なども手掛けている。元信は父正信の得意とした漢画、水墨画に大和絵の画法を取り入れ、襖、屏風などの装飾的な大画面を得意とし、狩野派様式の基礎を築いた。また、書道の楷書、行書、草書にならって、絵画における「真体、行体、草体」という画体の概念を確立し、近世障壁画の祖とも言われている。安土桃山時代元信には宗信、秀頼、直信の3人の男子があったが、長男の宗信は早世したため、宗家を継いだのは三男の直信(1519 – 1592)であった。なぜ二男の秀頼でなく三男の直信に家督を継がせたのかは定かでない。直信は、道名の狩野松栄の名で広く知られ、室町から桃山に至る時代に活動した。代表作としては、大徳寺に残る巨大な『涅槃図』(縦約6㎡)がある。また、父・元信とともに石山本願寺障壁画制作に参加しており、大徳寺聚光院(じゅこういん)障壁画制作には息子の永徳とともに参加しているが、父・元信と息子・永徳がそれぞれに高名であるために、やや地味な存在となっている。松栄の嫡男・狩野永徳(1543 – 1590)は州信(くにのぶ)とも称し、桃山時代の日本画壇を代表する人物である。織田信長、豊臣秀吉といった乱世を生き抜いた権力者の意向に敏感に応え、多くの障壁画を描いたが、これら障壁画は建物とともに消滅し、現存する永徳の作品は比較的少ない。
2024年05月15日
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8、「楠木 正顕」(くすのき まさあき、旧字体: 楠木 正顯)は南北朝時代末期および室町時代前期の武将。初名は正盛(まさもり)。楠木正成の孫正勝の嫡子。伊勢国司北畠家の家臣。伊勢楠木氏の祖。子は正重、正理、正威。前半生天授3年/永和3年(1377)、南北朝時代の武将楠木正勝(楠木正成の孫)と、紀氏当主紀俊文の娘の間に産まれる(『全休庵楠系図』)。幼名は多聞丸、長じて正盛と名乗った(『全休庵楠系図』)。また、幼名を萩王、のちに正尭と称した弟がいる(『全休庵楠系図』)。誕生した当時、楠木氏は北朝側についた惣領で祖父の楠木正儀と、南朝側にとどまった一部の宗族で割れていた。しかし、弘和2年/永徳2年(1382)、数え6歳のときに祖父正儀が南朝に帰参したことで楠木氏内の対立は解消し、その後6~7年の間に祖父が死去して父の正勝が惣領となった。元中9年/明徳3年閏10月5日(1392)、数え16歳のとき、亡き祖父・正儀が進めてきた和平交渉が功を奏して南北朝合一(明徳の和約)。南朝最後の帝後亀山天皇の入京時に供をした武士の中に、7人の楠木党の武士および楠木同族の河内和田氏の武士1人が含まれていたことが知られている(宮内庁書陵部『南山御出次第』)。ところが、父の正勝は徹底抗戦の道を選び、北朝側には合流しなかった。応永6年(1399)の応永の乱にて、父ら一族と共に、幕府に反乱した大内義弘方に参戦(『全休庵楠系図』)。堺に三ヶ月の篭城の末に敗北。北畠家重臣鹿伏兎氏(かぶとし)の伝承では、幕府方として参戦していた北畠顕泰が鹿伏兎孫太郎忠賀に命じ、楠木氏を幕軍に変装させて城内から救出したと言い伝えられている(『鹿伏兎記』『鹿伏家楠氏詳伝』『邑戦異闘家記系図』)。河内国大伴邑(現在の大阪府富田林市大伴地区)まで逃れたところ、父正勝は戦傷が悪化し、応永7年1月5日(1400)に死去(『全休庵楠系図』)。父を林中に埋葬した後、弟の正尭は丹波国(現在の京都府中央部から兵庫県東部)へ、自分は北畠氏の本国である伊勢国鈴鹿郡鹿伏兎谷平之沢(現在の三重県亀山市加太市場、あるいは亀山市関町金場)へ逃れた。以後正盛(のち正顕)の系統は、伊勢楠木氏としてこの地に根付いた。伊勢楠木氏初代当主として伊勢に移って後、正重、正理、正威ら三子を儲けた。南朝崩壊後も、楠木氏と旧南朝皇族は繋がりがあったらしい。応永14年(1407年)4月17日には、旧南朝皇子で臨済宗の禅僧海門承朝が、13年前に崩御した父・長慶天皇の遺命として、内山光賢という僧を、楠木氏の菩提寺観心寺の座主職に任じている(大日本史古文書『観心寺文書』146号)。応永17年(1410年)11月、京都での経済的窮乏に直面した後亀山天皇が、旧南朝の本拠地吉野に逃れる。応永19年(1412年)10月、伊勢の楠(くす)城(現在の三重県四日市市楠町)の城主、中島氏(伊勢諏訪氏)が北畠家に背いて除封され、替わって中島氏の養嗣子となっていた三男の正威が楠城城主となったが、正威はまだ数え5歳という子供だったため、実父の正盛(正顕)が応永31年(1424年)まで楠城の城代を務めた(『(旧)楠町史』所収版の『全休庵楠系図』)。応永22年(1415年)春、幕府の旧南朝皇族への扱いを不服とした伊勢国司北畠満雅(顕泰の長男)が反乱を起こす。同年7月ごろ、満雅に呼応して楠木氏と同族河内和田氏も決起し、大和国宇智郡河内(現在の奈良県五條市 西河内町?)に進軍して家々を焼き払うが、畠山氏の軍に敗北し、首級4つが桂川で見せしめにされる(『満済准后日記』応永22年7月25日条および大和興福寺関係文書『寺門事条々聞書』)。同年10月、北畠家と幕府が和睦し、翌23年9月には後亀山院も京都嵯峨に帰還する。あるとき、北畠家の大河内顕雅(伊勢国司満雅の弟)から偏諱を受け、正盛から正顕へ改名した(『全休庵楠系図』)。いつごろかは不明だが、正長元年(1428)12月21日に満雅が死去し、顕雅が甥の幼当主北畠教具を補佐して実質上の北畠家当主となっていた時期が候補として考えられる。偏諱は普通、一つ目の文字に使用すべきところ、二つ目の文字に使用しているのがやや不可解である。永享元年(1429)9月、南都に潜伏していた一族の楠木光正が、将軍足利義政(同月22日に南都参詣する予定だった)への暗殺を計画していたとして逮捕され、18日に京都へ送られる。24日、六条河原で斬首。このとき辞世の句として漢詩と和歌を書き記し、天下の美談となった、と伏見宮貞成親王は評している(『看聞日記』永享元年9月条)。永享9年(1437)7月11日、大覚寺門主義昭(3代将軍義満の子)が逐電し、行方不明になる。同年8月初頭、一族の武将が河内国森口城(現在の大阪府守口市)を攻め落として立てこもったが、義昭の逐電と何か関係した動きだったのではないかと言われている。8月3月、森口城を占拠していた楠木兄弟が討死し、この時は光正の時とは違い、「朝敵悉滅亡天下大慶、珍重無極、公方御悦喜、御快然」と伏見宮貞成親王たちからその死を喜ばれて酒宴が開かれている(『看聞日記』『薩戒記』)。余談だが、伏見宮貞成親王は永享元年(1429年)には「くすのき」を「楠木」と書くのに、永享9年(1437年)には「楠」と書いており、『太平記』などに影響されて漢字表記が変化していく過程を読み取ることができる。 永享10年(1438)11月死去(『全休庵楠系図』)。当主の地位を、桑名の村正に師事し刀工となっていた長子正重が継いだ(『全休庵楠系図』)。了
2024年05月13日
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正儀死後に楠木氏の勢力は急速に衰え、わずか300余騎を残す程度であったが、北朝の武将山名氏清は正儀に苦しめられた経験から、楠木氏はあえて劣勢を装っているのだと過剰に警戒し、楠木軍と山名軍は膠着状態にあった(『後太平記』巻9「河内国平尾合戦之事并亀六之術事」)。『後太平記』はこの様子を『三国志』の「死せる孔明生ける仲達を走らす」の故事で喩えている。元中5年/嘉慶2年(1388)8月17日未明、子飼いの精鋭騎兵200を含めた1000余りの手勢を率い、紀伊国の名勝和歌浦玉津島神社から帰京の途にあった室町幕府第3代将軍足利義満を奇襲しようと企てる(『後太平記』巻9「河内国平尾合戦之事并亀六之術事」)。しかし、赤坂城に駐留中の山名氏清に動向を察知されており、河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)に先回りされ、自軍の4倍近い3500余りの兵と戦うことになる。正勝は奇策や挑発など手を尽くしたが、氏清は慎重に慎重を重ねて徹底防御を貫いたため、正勝の軍が疲弊してきたところを狙われ、最後は数的優位を活かされて散々に打ち破られた(詳細は平尾合戦)。元中7年/明徳元年(1390年)4月4日に「伊予守」という人物が「楠木右馬頭」という人物へ当てた書状の文面(『南狩遺文』所収)が残っていることから、この頃までには右馬頭に任じられていたと考えられる。同年、剃髪し、仏門に入る(『全休庵楠系図』)。その理由や、虚無や傑堂能勝といった高僧と同一人物であるという仏教伝説との関係は不明。元中9年/明徳3年(1392)春、畠山基国に楠木氏の本拠地である千早城を落とされ、吉野に敗走(『大日本史』巻177に引く『渡辺系図』)。この年閏10月5日(1392)、南北の朝廷が講和したため、南朝の後亀山天皇が吉野から京に帰ってしまう(明徳の和約)。しかし、正勝は鬱々として、これでは志を得られないとして、北朝には合流しなかった(『大日本史』巻177)。なお、『後太平記』巻14「千剣破合戦之事付城郭明退事」は千早城陥落を南北朝統一後の12月としている。同年、弟の正元が南朝残党とともに斬られ、晒し首にされる(『全休庵楠系図』)。 7、「南北朝合一後」応永6年(1399)、守護大名大内義弘が応永の乱を起こし、室町幕府に対し反旗を翻すと、正勝もこれに呼応し、正盛(正顕)・正堯の二子を連れて合流した(『全休庵楠系図』)。兵数は二百余騎(『応永記』)あるいは三百騎(『大日本史』巻177)。このとき、友軍の菊池肥前守という武将から、肥後菊池住延寿太郎国村作の銘がある名槍を贈られたという(『全休庵楠系図』)。堺に3か月余篭城の末に、反乱軍は幕府軍に敗れ、義弘も闘死した。決着がついたことを知った正勝は、玉砕していたずらに死ぬのは無益であるが、降伏するのもまた恥である、と言って退却し、大和路に向かって逃走した。北畠氏の重臣である鹿伏兎氏の伝承によれば、このとき幕府方として参戦していた伊勢国司北畠顕泰は、楠木の血を絶やさせてはならないと、鹿伏兎孫太郎忠賀に命じて、楠木軍を幕府軍に変装させて城内から連れ出し、正勝ら父子を窮地から救ったという(『鹿伏兎記』『鹿伏家楠氏詳伝』『邑戦異闘家記系図』)。敗走中、戦闘で負った傷が悪化し、応永7年1月5日(1400)に死去(『全休庵楠系図』)。伊勢楠木氏の系図では、正勝の遺骸は二子の正盛(正顕)・正堯兄弟によって河内国大伴邑(現在の大阪府富田林市大伴地区)の林中に葬られたというが(『全休庵楠系図』)、現在の大伴村に正勝に関する所伝は伝わっていない。別伝として、埋葬地は大和国吉野の武蔵(現在の奈良県吉野郡十津川村武蔵)とする伝承も根強い。死後伊勢に逃れた嫡子の正盛は、北畠家の庇護を受け、伊勢国司代行大河内顕雅(北畠顕泰の子)から偏諱を受けて正顕と改名し、伊勢楠木氏(北勢四十八家楠家)の祖となった。次男の正堯は丹波国に逃れたが、その後の詳細は不明。正勝の嫡孫で伊勢楠木氏第2代当主の正重は、武将ではなく刀工として活躍し、伊勢の名工村正の高弟になった。天下三名槍の一つ蜻蛉切などを製作したとされる刀工正真も伊勢楠木氏の一員である。正重の弟の正威は、禁闕の変に参加し後南朝のために三種の神器を奪ったが、討死している。第7代当主楠木正具は、織田信長の伊勢侵攻とたびたび戦っている。伊勢楠木氏の庶流として木俣氏があり、木俣守勝は徳川家康に仕え、のち彦根藩井伊家の筆頭家老となった。その功績から、木俣氏は明治維新後には男爵に叙されている。ただし、守勝には実子がなく、養子の守安が木俣氏を継いだため、現在の木俣氏本家は正勝と血筋上の繋がりはない。その他、伊勢楠木氏の後裔を自称する氏族として、山下氏(アラビア石油創業者山下太郎の氏族)や高楠氏(仏教学者高楠順次郎が婿入りした豪族)などがある。
2024年05月13日
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6、「楠木 正勝」(くすのき まさかつ)は、南北朝時代、南朝および後南朝の武将[1]。南北朝合一(明徳の和約)時の南朝方の総大将。楠木氏の当主。楠木正儀の嫡男で、楠木正成の孫にあたる。極位極官は従五位上(贈正四位)・右馬頭。父正儀の没後、斜陽の南朝を支え、軍記物『後太平記』でその戦術が太公望呂尚にも喩えられるほどだったが、大局は覆せず、元中5年/嘉慶2年(1388)に平尾合戦で敗北し、さらに元中9年/明徳3年(1392)楠木氏の本城千早城を喪失した。同年閏10月に南北朝が正式に統合してしまった後もなお室町幕府に徹底交戦するも、応永6年(1399年)応永の乱の敗走中に負った創傷により、翌応永7年(1400年)に死亡した。弟に正元や正秀などがいる。子に伊勢楠木氏の祖となる正顕(正盛)など。日本刀の名工村正第一の高弟である正重は正勝の嫡孫であり、また彦根藩井伊家筆頭家老木俣氏(維新後は木俣男爵家)は正勝を家祖とする。仏教界では、正勝は戦を重ねるうちにこの世が無常であることを知り、死を偽り身分を隠し、悟りを得て後半生は仏僧として活動し続けたというような伝説が生じた。普化宗中興の祖の一人である虚無(きょむ、こむ、一説に虚無僧の語源)、曹洞宗の禅僧傑堂能勝(けつどう のうしょう、足利義満から崇敬された高僧梅山聞本の後継者)あるいは正巌徳勝(しょうがん とくしょう)などにそれぞれ「楠木正勝の出家後の姿であった」とする伝説がある。正勝を虚無と同一人物とする伝説は、尺八の起源を説く18世紀末の『虚鐸伝記』にも登場し、和楽器史上にも足跡を残している。また、浄土真宗本願寺派4世善如から浄土真宗を学んだとも言われ、8世蓮如の片腕であった浄賢は正勝の孫と伝わる[16]。当主就任まで正確な資料に乏しく、兄弟・一族の事跡と混同されている場合があるが、一貫して南朝側の軍事行動を起こしている。 官位は従五位上・左衛門尉(村田倶信『全休庵楠系図』)・検非違使尉(『後太平記』巻9)、のちに右馬頭(『事実文編』拾遺一所収の林信篤『木俣守勝墓碑誌』、徳川光圀『大日本史』巻)。正平6年/観応2年(1351)、楠木氏惣領正儀の嫡子として出生[注釈 1]、幼名は小太郎(『全休庵楠系図』)。母は不明だが、正勝は一貫して嫡子として扱われていることなどから、楠木正儀の正室とされる伊賀局が候補として考えられる。正平24年/応安2年(1369)、父の正儀が北朝に帰順(『大日本史』巻177-『花営三代記』)。ところが、楠木宗族のうち勤王を貫く者たちは、惣領であるはずの正儀の決定に従わず、逆に合従して正儀を攻め、正儀は身内に敗退して河内国から命からがら脱出している。この「楠木宗族勤王者」の中に正勝がいたかどうかは古記録では定かではないが、飯田忠彦『大日本野史』巻93は、このとき正勝は父に逆らい南朝に留まり続けたと断じ、そのため正儀が後に南朝に帰参するまで、たびたび父子対決が起こったと主張している。正勝は紀俊文(晩年は南朝方)の娘を妻としているため[1]、実際、南朝方として父に対し戦っていた可能性はある。建徳元年/応安3年(1370年)、南朝の楠木宗族が和田正武の軍と手を組み、北朝の楠木正儀を打ち破る。建徳2年/応安4年(1371年)秋、北朝方の父・正儀が、南朝から河内国を奪還する(。天授3年/永和3年(1377年)、紀俊文(従三位刑部卿)の娘との間に、伊勢楠木氏初代当主となる正盛(後に大河内顕雅の偏諱を受け正顕に改名)を授かっている。その他、正堯[1]や信盛[6]などの子もいたとされる。『後太平記』巻7「長慶院殿諸所御隠歩之事」が伝える伝説によれば、天授4年/永和4年(1378年)5月2日、長慶法皇は仏道の修行として吉野をお忍びで抜け出し、千早城まで徒歩で踏破して、楠木正儀・正勝父子をねぎらった。思わぬ出来事に、楠木父子は感涙でむせび泣いた、という。しかし、近年の研究では長慶天皇が法皇となり院政を敷いたのは1383年とされ、時期が合わない。またこの頃、正儀とその千早城は北朝に所属しており、僧形に身を変じていたとしても、南朝の頂点である重要人物の長慶天皇が無事千早城に辿り着けた可能性は低い。さらに、同年12月、土丸城を攻め落として勢いづく北朝方を、「南朝方の」正儀・正勝父子が千早城で迎え撃った、としている。しかし、これは当時正儀と千早城が北朝方だったという定説とは矛盾している。弘和2年/永徳2年(1382)に父の正儀が南朝に帰参し、参議という高職につく。義満は報復措置として、山名氏清を派遣し、正儀を河内国平尾で撃破した(『大日本史』巻。ここで正儀は、宗族6人と家臣140人を失うという手痛い敗北を喫している(『大日本史』。当主就任後元中年間(1384~1392)に父の正儀が死去した後、名実ともに楠木一門を率いる惣領となる(『大日本史』。
2024年05月13日
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しかも実態としては、橘氏どころか、祖父の名前すら正確にはわからない中級武士(下級御家人)・悪党(武装商人)の出自であり、これは日本史上前代未聞である。後亀山天皇の擁立弘和3年/永徳3年(1383)末、主戦派の長慶天皇が譲位し、替わって和平派の後亀山天皇が即位。林屋辰三郎によれば、これは楠木正儀ら和平派が本格的に台頭した結果だった。森茂暁もまた、和平派が優勢となったことで譲位が行われたのだとする。なお、別説として、『花営三代記』文中2年/応安6年(1373年)8月2日条には、北朝側の著者が聞いた噂話として、この頃長慶天皇から後亀山天皇への譲位があったという。この噂を真実と仮定する場合、同年、当時幕府の武将だった正儀が南朝に度重なる攻撃を加えた結果、長慶天皇はその軍事力を喪失して主戦派は権威を失い、替わって和平派の後亀山天皇が台頭したのだと説明される。現代では、長慶天皇の在位確定に功績のあった八代国治の弘和3年説をそのまま踏襲する場合が多いが、文中2年説についても、古くは藤田精一が可能性を提示し、21世紀に至っても森茂暁が綸旨発給状況の研究から強く支持している。弘和3年説、文中2年説のいずれを取るにしても、長慶天皇から後亀山天皇への譲位が、主に正儀の行動によるものであったことは一致する。最晩年その後、元中2年/至徳2年(1385)に河内国二王山で合戦があったという説もある(『天野山金剛寺旧記』)。譲位させられた長慶院は元中3年/至徳3年(1386年)4月5日に院宣を発しており、この頃まではまだ南朝内に一定の権力を有した。その前年の元中2年/至徳2年(1385年)9月10日には、「今度の雌雄」について高野山丹生社に願文をしたためており、雌雄を決する相手は室町幕府だったという説と、弟の後亀山天皇だったという説がある。しかし、仮にクーデターだったとしても、南朝内の和平派に未然に防がれたと思われ、後亀山天皇は在位し続けている。その他の活動は不明だが、森茂暁は、これまでの経歴からして、北朝との和睦がまとまるよう、南朝内で和平の実現に向けた土壌作りに努めたのではないか、と推測している。死去その後、南北朝の合一を見ぬまま、元中年間に卒去したとされるが、その正確な年月日は不明である。『国史大辞典』は帰参してから6–7年後(つまり1388~1389年ごろ)に没したのではないかという説をあげている。少なくとも元中3年/至徳3年(1386年)にはまだ生存しており、河内国・和泉国に下知状を出すなど公務を果たしている(『淡輪文書』)。一方、元中7年/明徳元年(1390年)4月4日に「伊予守」という者が「楠木右馬頭」へ当てた書状の文面(『南狩遺文』所収)が残るため、遅くともこの頃までには正儀は死去もしくは隠居し、嫡子(楠木正勝?)が右馬頭として家督を継いでいた。異説として、伊勢楠木氏の家系図『全休庵楠系図』(慶安(1648~1652頃)は弘和元年/永徳元年(1381)に数え52歳で病死とするが、一次史料で弘和2年の書状があるから明らかに誤りである。第二の異説として、大阪府枚方市楠葉の久親恩寺過去帳によれば、元中8年/明徳2年(1391)8月22日に赤坂で討死したとも伝わる]この過去帳では享年62歳とされていることから]、没年逆算で生年は元徳2年(1330)になる。しかし、この説も前記一次史料の『南狩遺文』で、元中7年/明徳元年(1390年)に正儀ではない人物が楠木氏の指揮を取っていることと矛盾する。説 によって数年のずれがあるとはいえ、正儀の生没年(1330年代前半–1388年?)は、南北朝時代の始終期(1336~1392)とほぼ重なり、乱世と共に生まれ、乱世を終わらせるために費やした生涯だった。
2024年05月13日
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先帝崩御で南朝全体が喪に服していたためしばらく交渉は止まっていたが、百日忌を終えると、正儀は再び和平交渉を続け、少なくとも正平23年/応安元年7月19日までは努力が続いていた形跡が確認できる(『河野文書』重綱(判)河野通堯宛書状同年7月19日付)。 しかし、後村上天皇・足利義詮という両首脳を立て続けに失ったことにより、交渉は以前にも増して困難となった。しかも、次節で述べるように、後村上天皇の長子で主戦派の長慶天皇が即位することとなり、やがて交渉は打ち切られた。長慶天皇即位正平23年/応安元年(1368年)、和平派の熙成親王(後の後亀山天皇)ではなく、北朝に対して強硬だったと言われる主戦派の長慶天皇が即位し、和平派の中心であった正儀は南朝内で孤立することになってしまった。長慶天皇は、現実路線よりも理想論を奉じる強硬派だったが、決して無策な愚君ではなかった。『源氏物語』の日本最古の辞書形態の注釈書『仙源抄』を著すなど、文人・学者としての優れた素養もあり、芸術の怪物的天才だった祖父・後醍醐天皇譲りのカリスマを受け継いでいた。のち、二条派の大歌人でもある宗良親王が36年もの長征から戻ったこともあって、長慶天皇は歌合・和歌会を盛んに催した。現代の感覚からすれば公務を放棄して遊戯に興じたように一見思えるが、当時の歌合・和歌会は高度に政治的な場であり、王権を権威付ける公的な文化装置の役割があった。また、このような歌合を通してわかるのは、長慶天皇政権が、人員的にも政治・訴訟制度的にも、それなりのものを維持できていたということである。長慶天皇が主宰する文学サロンによって、この後、弘和元年/永徳元年(1381)12月3日、宗良親王を撰者とする準勅撰集『新葉和歌集』という傑作が生み出されている。実際、長慶天皇のカリスマ向上政策は功を奏しており、のち正儀が北朝に寝返ったときも、棟梁の正儀の決定に唯々諾々と従った楠木氏とその同族の武将は楠木正直ぐらいしかおらず、他はほぼ全て長慶天皇のもとに留まった。特に河内和田氏と和泉橋本氏は楠木氏の同族だが、その棟梁と思われる和田正武と橋本正督は、正儀不在中、長慶天皇の股肱の臣として活躍した。しかし、長慶天皇にどのような政治的ビジョンがあろうとも、そして同族がどれだけ長慶天皇を支持しようとも、それが戦乱の継続を意味する限り、正儀とは全く相容れるものではなかった。細川頼之と協同する一天平安南朝へ帰参弘和2年/永徳2年(1382)閏1月、正儀は南朝に帰参した。正儀の出奔で空位となった室町幕府の河内国守護職は、畠山基国が引き継いだ。南朝帰参の契機となったのは、直接的には幕府での後ろ盾である細川頼之を失ったからである。これに加えて、林屋辰三郎は、正儀の長年の努力が実り、南朝内で和平派を支持する層が増えたからではないか、としている。幕府の報復措置は速やかで、裏切った正儀に対し同月内に山名氏清を派遣した。弘和2年/永徳2年(1382)閏1月17日ごろ、正儀は山名氏清と対峙し、24日、河内国平尾で交戦(『三刀屋文書』所収『出雲国須波郡新左衛門入道軍忠状 永徳2年3月日』)。正儀は野戦で敗退したため、「旧居之要害」(平尾城?土丸城?)に籠城し、河内国の南朝軍を招集した。なお、徳川光圀『大日本史』は『和漢合運暦』を引いて、このとき正儀は氏清に大敗し、宗族6人、家人140が死亡したとし、『南方紀伝』等も同様に伝える。しかし、これらは江戸時代初期の著作のため、数字が正確かどうかは不明である。また、前記一次史料では、正儀が野戦で敗北したことまではわかるが、平尾城に立てこもった後の籠城戦の勝敗まではわからない。この後、軍記物『後太平記』は、元中5年/嘉慶2年(1388)に嫡子の楠木正勝が河内国平尾で氏清に大敗したとしている(平尾合戦)。後世の軍記物のため、日付や戦闘内容をそのまま鵜呑みにしてよいかは疑問である。しかし、一次史料である元中7年/康応2年(1390)3月7日『尼妙性等売券』(国会図書館編)には、「平尾合戦」のとき山名氏の乱入によって荘園の券文(土地書類)が失われたとあるから、1380年代のどこかで楠木氏が氏清から手痛い打撃を受けて平尾城が陥落し、幕府の報復が成功したことは事実と考えられている。参議昇進その後、弘和2年/永徳2年(1382)2月28日までには、北朝側に離反する前に南朝で任じられていた左兵衛督の官職に復帰した(『渡辺文書』弘和2年2月188日付下知状)。同年12月24日までに参議に任じられ、公卿(国政を司る太政官の最高幹部)となった(『観心寺文書』河野辺兵庫頭宛書状12月24日付[13])。楠木氏は四姓(源平藤橘)のひとつ橘氏の後裔を自称・公言し、これはおそらく父の正成が若かりし頃に兵衛尉に任官するために系図を捏造したものと考えられているが、少なくとも『建武記』など当時の政府の記録でも公的に橘氏として扱われている。橘氏は永観元年(983)に参議橘恒平が没したのち没落して公卿が絶えていたため、(実態はともかく公的な書類の上では)正儀は実に399年ぶりの橘氏公卿ということになる。
2024年05月13日
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とはいえ、皇族将軍の謀反という事態は、南朝へ物理的にも精神的にも大きな傷を与え、南朝はこの後も連戦連敗が続いた。閏4月12日、南朝軍は紀伊国で大敗(『愚管記』)、一族の楠木正久が戦死した。5月1日、楠木軍は3城を落とされた(『愚管記』 )。楠木七城(楠木氏の本城)の一つ赤坂城に対しても5月8日夜から総攻撃が仕掛けられ、翌9日に落城(『武家雲箋』所載『豊田幹家軍忠状』)。もはや南朝の滅亡は秒読み段階だった。ところが、ここで南朝に有利な事態が発生した。長引いた遠征によって、幕府の武将に内部対立が起こり、仁木義長・畠山国清・細川清氏という幕府を代表する3人の武将が諍いを起こしたのである。幕軍内の対立と厭戦感情を抑えきれなくなった足利義詮は、南朝後村上天皇が座す観心寺行宮を眼の前にして、撤退せざるを得なくなった。 5月27日、義詮は撤兵を宣言し、摂津国尼ヶ崎の本陣を引き払い、翌288日に京都に到着した(『愚管記』)。これは決して「幸運」ではなく、義詮の指導力不足に加えて、楠木氏が山岳地帯という攻めにくく守りやすい地の利を活かした防衛戦術に長けていたからである。かつて、元弘の乱の千早城の戦いでも、父の楠木正成が幕府の厭戦感情を高めて同士討ちさせた戦略を使用している。この後、7月から9月にかけて、仁木・畠山・細川というこの遠征に関わった幕将はすべて失脚した。7月6日、細川清氏が南朝追討という名目で大軍を伴って出陣。しかし、真の狙いは、幕府でのライバルの仁木義長の排斥にあった。これを察した仁木義長は、京都で乱を起こそうとするが失敗、7月18日には京都から脱出し、幕府を離れる(『愚管記』。最盛期は9ヶ国の守護を占めた仁木氏は没落、伊勢一国を領すのみとなる。さらに8月4日、幕軍大将の関東執事畠山国清が関東に帰還(『大乗院日記目録』)。関東を発ってから既に一年近くも経っていた。このあまりに長すぎる遠征に嫌気が差したのだとされる。翌年国清は失脚し、さらにその翌年、流浪中に死亡。9月23日、将軍義詮は細川清氏に謀反の気があるとして、後光厳天皇を奉じて京都新熊野に移り、清氏誅殺のための兵を徴収、清氏は若狭国(現在の福井県南部)に逃れた(康安の政変)(『愚管記』)。10月25日、清氏は若狭国で幕府の追討軍に敗れ、27日に近江国坂本に逃走、かつて幕府執事として栄華を極めた清氏の軍はわずか50騎にまで減っており、進退極まって南朝に投降した(『後愚昧記』)。幕府の混乱に乗じ、正儀は本拠地である河内国東条などの旧領を回復した。第四次京都攻防戦第四次京都攻防戦は、室町幕府の元執事細川清氏が、室町幕府の政争(康安の政変)で失脚し南朝に降ったことを契機に進められ、正平16年/康安元年(1361)12月8日から12月27日まで京都を占領したが、再挙した義詮の武威に押されて戦わずに撤退した。正儀は開戦前からこの占領作戦は無益だとして批判的だったと言う説がある。以下、詳細を述べる。正平16年/康安元年(1361)9月、南朝後村上天皇は観心寺行宮から住吉在住の津守国量の館に遷幸。12月3日、南朝軍は天王寺に集い、前関白二条師基(もしくは二条教基)を名目上の総大将として、四条隆俊・正儀・頼房・清氏らが実質の主将となり、楠木氏・河内和田氏・湯浅氏・生地氏・贄河氏・福塚氏・河辺氏、および橋本新判官らの軍が集った。12月5日、将軍足利義詮は東寺に布陣。7日、南朝軍の勢いを見て、近江国に退却し、8日、北朝後光厳天皇も比叡山から近江国武佐行宮に逃れる(『皇年代略記』)。同日、南朝軍2000騎は戦いもなく京を占領した。軍記物『太平記』によれば、これは正儀率いる槍歩兵と清氏率いる騎兵による新陣形が功を奏したのだという。12月27日、近江国から幕府軍が上京することを聞いた正儀と清氏は出河原に後退し、一戦も交えずに宇治路に向かって退却した(『壬生官務日記』)。交戦することなく撤退したことについては、真偽不明だが、儀は開戦前から既にこの攻防戦に難色を示しており、「故尊氏卿がさる(建武3年(1336年))1月16日に(京で)負けて以来、筑紫(九州)に落ち延びてから、朝敵(北朝)が都を落とされること5回に及びます(2回は新田義貞・楠木正成・北畠顕家らに、3回は正儀・北畠顕能・足利直冬らに落とされている)。天下の士卒で皇天(南朝)を奉じる者がまだ少ないので、(そこをまず解決しない限り、何度も占領しても)京に足を留めることが出来ないのです。一度京都を落とす程度なら、細川清氏の力を借りるまでもありません。(たかが京を陥落させる程度は)この正儀一人の軍でも容易くできますが、また敵に取って返されて(京を)攻撃されたとき、一体どこの国が官軍(南朝)の助けに来てくれるというのでしょうか。そして仮にもし退くことを恥じて、京に踏み留まって戦ったとしても、四国・西国(九州)の敵が船を出して押し寄せ、美濃・尾張・越前・加賀の敵も、宇治・勢多から押し寄せて決戦するので、また天下を奪われることは必至でしょう。とはいえ、それがしは愚案短才の身でありますから、公儀で開戦を決定するのなら、とにかくも従いましょう」と主張していた。
2024年05月13日
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2月6日、ついに両軍の交戦が開始し、正儀は山名氏の武将(『太平記』は山名師義とする)と連携して芥河で戦うが、苦戦し、多くの兵が命を落とした(『壬生官務日記』)。このため、八幡方面に退却。2月6日から7日、京市街でも戦闘が始まり、直冬を将とする南朝軍が防戦。7日、北朝後光厳天皇が近江から東坂本に遷った。8日、錦小路・猪熊・太宮で両軍引き分け、15日に大市街戦でも勝負はつかず、28日には北朝の義詮が、西山法華寺を攻める。3月12日、東寺の南朝軍主力と、仁木・細川・土岐・佐々木を主力とする北朝軍主力が、七条・西洞院で接戦、未刻(午後2時ごろ)から晡時(午後4時ごろ)まで戦い、両軍多大な死傷者を出した。翌3月13日、寅刻(午前4時ごろ)、薄暗闇にまぎれ、南朝軍はついに淀・八幡・天王寺・住吉など現在の大阪府方面に敗走した(以上『壬生官務日記』。前記の通り、正儀は2月6日に一旦退却しているが、その後に直冬の京市街での戦いに合流したかどうかは、史料が欠落しよくわかっていない。北朝軍の南進を警戒するために、市街には行かず八幡を防備していたとも考えられる。藤田精一は足利氏を悪逆の徒とみなす皇国史観から「正儀は足利父子間の醜い私戦に加わることを良しとしなかったのではないか」などと尊氏・直冬を誹謗中傷しているが、史料がない以上、実際のところは不明で、正儀と直冬の不和を示す直接証拠はない。足利義詮の南征正平12年/延文2年(1357)、8月、摂津国大覚寺に兵士らが乱入狼藉する行為を禁じ、背いたものには罪科を与えると禁制を出す(『大覚寺文書』)。この後、正平16年/康安元年(1361年)4月にも同内容の禁制を触れ回るなど(『大覚寺文書』)、当時摂津国の南朝軍の軍紀は乱れており、正儀はそれを正すのに苦慮していた。9月20日、正儀が和泉国久米田寺に当てた添状の形式から(『久米田寺文書』)、森茂暁はこの頃までに正儀が和泉守護に任じられていたのではないかとしている(建武政権・南朝でも守護という職分は存在した)。内(9月20日時点では左衛門少尉のため、それ以降)に左馬頭(従五位上相当)に任じられ、南朝重臣としての地位を確立した。正平13年/延文3年(1358)4月30日、室町幕府初代将軍足利尊氏が薨去。12月、嫡子の足利義詮が第2代将軍となった。正平14年/延文4年(1359)11月、北朝関東執事畠山国清が関東からの大軍を率い、南朝に大攻勢をかけた。12月23日、後村上天皇が、南朝行宮(仮の都)を金剛寺から楠木氏の菩提寺である河内国観心寺に遷した。これは、畠山国清の攻撃を避けるためであるとともに、正儀の奏上を採択したものと考えられ、後村上天皇との信頼関係がこの頃までに強まっていたものと考えられる。同23日、将軍義詮は自らを大手大将として、東寺を発し、兵2000率いて尼ヶ崎に進軍[。翌24日畠山国清が搦手大将として、八幡路から真木・葛葉を通って、正儀の本拠地の東条に迫る。25日、河内国四条村で正儀と国清が交戦。さらに26日、仁木義長が別働隊として500騎を率いて西宮を出立。このころ、南朝の有力氏族和泉和田氏の和田助氏が畠山国清に投降した(『和田文書』)。和平交渉(1360年)正平15年/延文5年(1360年)1月30日、当時北朝右大臣だった近衛道嗣は、秘密裡に南北朝間で和平交渉があったという話を記している(『愚管記』)。秘密裡の交渉のため、代表や内容は不明だが、交渉の場は「陣中」とあるように、両軍の武将同士の会談であり、そこに南朝総大将で和平派筆頭の正儀が代表として関わっていたのはほぼ確実である。ただ、右大臣である道嗣が厳しく非難するように、この年、北朝側では公家層は和平を全く望んでおらず、室町幕府の武士たちの独断によるものだった。当然、交渉は破断した。南北相次ぐ離反和平交渉が不首尾に終わったため、幕府軍は南征を続けた。将軍義詮自らを大将とし、関東執事畠山国清・幕府執事細川清氏という幕府きっての武闘派が協力して攻勢に出たことから、幕府軍が南朝を終始圧倒した。正平15年/延文5年(1360年)3月17日、畠山国清は南朝攻略を進め、去年末まで南朝行宮があった金剛寺を制圧、焼き払った。4月25日、滅亡の危機に瀕した南朝に対し、さらに最悪の事態が発生した。南朝の皇族で南朝征夷大将軍に任じられていた赤松宮が、北朝に寝返り、義詮から軍勢を借りて、吉野・賀名生に進軍したのである。赤松宮は、後醍醐天皇皇子大塔宮の遺児興良親王であるという説と、興良とは別人でその兄弟の陸良親王であるという説がある。赤松宮は観応の擾乱の際にも、幕府の赤松則祐に擁立されて南朝にも北朝にも属さない第三勢力として台頭したことがあり、もともと独立志向が強かった。しかし、赤松宮は南朝の前関白(二条師基)が率いる軍に敗北し、奈良に撤退した。さらに、同月28日、和田(和田正武?)・楠(楠木正儀?)が、赤松宮の立てこもる奈良を陥落させ、乱はわずか3日で収束した。
2024年05月13日
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9日、正儀・和田正武・石塔頼房らは八幡から討って出、山名時氏らと合流し、義詮を撃破。続いて幕府高師詮・赤松則祐らが京に入るが、時既に遅く義詮が敗走した後だったため、西山に撤退する(『園太暦』)。南朝は京の制圧を確定し、以降、(7月24日の撤退まで)京都では南朝の「正平」の年号が用いられた(『異本長者補任』)。12日、南朝軍は高師詮を攻めて敗死させた。13日、義詮は後光厳天皇を奉じて東走するが、南朝軍はそれを追い詰め、幕将佐々木秀綱を敗死させた。義詮と天皇は美濃国に逃れ小島行宮に遷る(『皇代暦』)。南朝の撤退こうして寡兵にも関わらず正儀の軍略によって再び覇を唱えた南朝だったが、翌7月、すぐに京を奪い返された。7月12日、幕府の赤松則祐が兵庫に進軍したのに対し、正儀は西宮(現在の兵庫県西宮市)に陣取り、23日、京都清水にある南朝国府に対し、四条隆俊を将とする増援要請を行い、後村上天皇もそれを許可した。ところが、24日、義詮が近江国で再挙し、正儀が不在では勝てないと思ったのか、南朝の山名時氏・山名師義・石塔頼房・吉良満貞の四将は戦わずに京から撤退した。25日、赤松則祐・石橋和義ら北朝軍7000騎は悠々と入京した。翌26日、義詮も帰京。28日にはまだ戦いが続き、南朝の原氏と蜂屋氏の軍勢が奮闘、幕府の近江守護後見山内定詮・佐々木高秀ら3000騎を撃破する。しかし、同日、義詮が丹波・神埼を攻めたため、南朝山名時氏は丹波国を退き端午の丹後・但馬へ逃走、正儀もまた神埼を撤退した。正儀はただ一人しばらく踏み留まっていたが、味方が四散してしまってはどうしようもなく、29日、ついに大和国(奈良県)春日大社の辺りから退却した。そもそも山名父子・石塔・吉良は一時的に南朝に付いているが、本来足利氏に属する武将であって、戦意は薄かった。一方、幕府の側は関東に尊氏率いる士気の高い大軍が駐留し、これの西進を警戒するならば、南朝は京から撤退するほかはなかった(尊氏はのち9月21日に入京)。また、物流の要である近江国の琵琶湖を抑えられたのも、兵站へのダメージとなった。京の攻略は時期尚早に過ぎたのである。第三次京都攻防戦第三次京都攻防戦は、主に南朝足利直冬の主導によって進められ、正平10年/文和4年(1355)1月22日から3月13日まで京都を占領したが、尊氏・義詮に敗北し撤退した。経緯正平8年/文和2年(1353年)9月ごろ、南朝の有力武将足利直冬は九州から四国方面に移り、惣追捕使として、本格的に養父足利直義の仇である実父足利尊氏への攻略を開始する。正平9年/文和3年(1354)4月17日、南朝の頭脳であり中立派として各方面の意見の調整を行ってきた歴史家・准后の北畠親房が薨御。国家の柱石を失ったことで、南朝の行動はますます混迷を深めることになる。9月12日、遅くともこの日付までには、正儀は河内守に任じられ河内国(現在の大阪府東部)を統括している(『大伴文書』河野辺左衛門尉宛書状正平八年三月十日付)。10月、北朝足利義詮は、実兄の直冬を討たんと播磨国斑鳩荘・弘山荘に兵を進めた。10月28日、後村上天皇は直冬を主将として第三次京都攻略戦を敢行することを決意し、帝座を河内国天野山金剛寺に移した。12月、南朝側に帰順していた元北朝武将の山名時氏父子や桃井直常・足利高経(斯波高経)らが直冬に合流。12月24日、足利高氏は後光厳天皇を奉じ、近江国武佐寺(あるいは武者寺)に進軍、のち円山(現在の滋賀県近江八幡市円山町)に進み、成就寺に駐留(『壬生官務日記』『太平記』)。11月10日、遅くともこの日までには、正儀は大夫判官(五位の検非違使)に任じられている(『讃岐楠文書』)。尊氏との戦い正平10年/文和4年(1355)1月10日もしくは1月16日、南朝桃井直常は1000余騎を率いて坂本から入京し、法成寺跡に布陣。尊氏は戦いを避け、近江国から上野国勢多郡(現在の群馬県東部)に一旦退却する。1月22日、直常は京都如意ヶ嶽に兵を移して尊氏の西進を監視するとともに、直冬を迎えた。同日、直冬は数千の兵を引き連れて入京し、ここに第三次攻略が完了した。尊氏は東坂本に布陣し、これに対し南朝の山名軍は西山に布陣。また1月25日、直冬は東寺実相院を南朝軍の本営とした。両軍は開戦に向けて一触即発状態となった。直冬の京攻略戦に呼応し、正儀は、1月26日、鳩ヶ峰(男山石清水八幡宮)に進軍。第一次から第三次の攻略戦まで、正儀は毎回この地を制圧しており、これは本拠地である南東条との連絡に便利だからだったと考えられる。2月3日、尊氏は東坂本から神楽岡に陣を移し、義詮は奈良斑鳩に待機した。
2024年05月13日
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11月4日、南朝が摂津国を攻撃したとの情報は京にも入り、京都にも攻め上るのではないか、と恐慌状態になった(『園太暦』)。11月6日、石塔頼房が摂津国守護代を敗走させた(『園太暦』)。11月7日、幕府は南朝を討つため、佐々木導誉の息子である佐々木秀綱・佐々木高秀兄弟を摂津国に派遣(『園太暦』)。24日、伊丹瓦で両軍の戦いがあった(『北河原家蔵文書』)。さらに27日、佐々木秀綱の本隊と交戦し、敗走させた(『園太暦』)。正平8年/文和2年(1353)1月7日、佐々木秀綱は相次ぐ敗北で兵も武器も尽き、ついに摂津国奪還を諦め、京都に帰還した(『園太暦』)。 この勢いに乗じ、11日、石塔頼房は北朝の摂津国伊丹城を攻めた(『北河原森本文書』)。土岐・仁木を撃退正平8年/文和2年(1353年)3月5日、幕府の宰相中将足利義詮は南征を本格化することを決め、土岐頼康を大将として摂津国に派兵、物々しい動きに京は大騒ぎになり、民衆は東西に逃げ散った(『園太暦』)。3月9日、これに応じ、正儀は和泉国の北朝武将である深日又二郎入道を南朝へ勧誘した(『岡本貞烋所蔵文書』深日又二郎入道宛書状正平八年三月十日付.)。3月18日、幕将仁木義長が佐藤元清らを率いて、河内国東条(正儀のを本拠地)を攻め勝利(『南狩遺文』)。3月23日、南朝は反撃に転じ、吉良(吉良満貞)・石塔(石塔頼房)が、摂津国吹田で土岐頼康の軍に攻撃を仕掛けるが、数十人が討ち取られ、40人が幕軍の捕虜となった(『園太暦』)。一方、土岐頼康の側も一定の死者を出し(『古今消息集』巻9)、勢いに押されて翌24日には神埼・尼崎に陣を移した(『北河原森本文書』)。3月末、ついに幕将土岐頼康・仁木義長らが南朝に敗退(『園太暦』)。このため4月1日、義詮自らが大将として立つことを決め、2日には軍馬を整えるが、3日ごろ周囲が逸る義詮を押し留めたため、7日には説得されて出陣を取りやめ、代わりに土岐頼康を大将に再起用して出陣させた(『園太暦』)。この勢いに乗じ、翌月、南朝は京都奪還戦の敢行を決定した(次節)。第二次京都攻防戦第二次京都攻防戦は、摂津国を攻めた幕将土岐頼康・仁木義長を正儀が返り討ちにして撃破した勢いに乗じて進められ、正平8年/文和2年(1353)6月9日から7月24日まで京を占領したが、正儀不在の隙を突かれて北朝に再奪還された。前哨戦正平8年/文和2年(1353)5月15日、南朝が京都奪還を目指し、摂津国天王寺に参集しているとの情報が京に届く(『園太暦』)。16日、ついに戦が開始され、正儀は摂津国渡辺で土岐頼康を攻めて撃破し、幕府軍の伊丹基長が橋を焼き切って正儀の追撃を防いだ(『北河原森本文書』)。19日、北朝の公卿洞院公賢は、25日までに南朝軍が京都に攻め込むだろうとの見通しを武家から報告され、さらに南朝武将足利直冬が東上して周防国府(現在の山口県周防市)に入り、南朝武将山名師義も美作国(現在の岡山県東北部)で蜂起するなど、全国的に騒乱が起きていることを知る(『園太暦』)。20日、南朝後村上天皇は紀伊国誓度院に戦勝祈願をさせる(『誓度寺文書』。同日、関東では将軍足利尊氏によって南朝武将で北条得宗家最後の裔北条時行が斬首されている。21日、楠木氏の軍によって京都と奈良の連絡網が遮断される。この頃、南朝軍は和泉国土丸城を攻め落として城主の日根野時盛を敗走させ、この報は23日に京に届き、京の市民は恐慌状態に陥り雑具を運んで東西に逃れた。26日、非常事態を鑑み、北朝後光厳天皇は関白第(関白の館)への行幸を引き伸ばしにする。29日、南朝の山名時氏・師義父子が但馬国で幕府の高師詮に敗退したとの噂が京に届くが、実はこれは誤報で、30日、実際は時氏が大勝していたと足利義詮自ら洞院公賢のもとに参じて釈明した。この頃、京都の情報系統は完全に混乱しきっており、南朝内で内乱があったとか、山名軍は女騎(女武者)を多く引き連れていたとか、南朝の公家中院具忠が北畠親房の娘で後村上天皇の女御を務めていた女性と密通して駆け落ちしたとか(具忠は前年に戦死しているので確実に不可能な事態)、意味の不明な噂ばかりが届くようになる。山城国八幡を占拠。5日、南朝の吉良・石塔らが八幡に侵攻。6月6日、南朝の吉良・石塔らが八幡に立てこもり、大渡橋を撤去。同日、南朝大納言の四条隆俊が紀伊国・熊野の勢力を引き連れて宇治路を上った。さらに、山名勢は足利直冬と合流したのではないか、数千騎を従えて上京し、父子で二軍に分け、西・北の二方向から同時に京を攻撃してくるのではないか、という噂が立つ。同6日、義詮は南朝の進軍を警戒し、北朝後光厳天皇を延暦寺に遷した。7日、義詮は京都雙林寺に2000騎を連れて布陣。北朝前関白近衛基嗣・右大臣近衛道嗣・三位中将近衛経家ら北朝重臣も比叡山に逃れた。夜、京の西方と南方から炬火が盛んに燃え上がり、星を覆わんばかりだった。市街戦8日、南朝本軍がついに上洛し、鳥羽横大路に陣を敷く。南朝山名時氏の軍は西山法華山寺、上杉氏(上杉顕能?)の軍も長坂(現在の現在の京都市北区鷹峯長坂)もしくは加茂瓦屋(現在の北区西加茂)正伝寺に布陣した。南朝左馬頭吉良満貞は園城寺衆徒に京都攻略に加わるように要請(『園城寺文書』)。 南朝の勢いに押され、義詮は神楽岡吉田神社まで退却した。
2024年05月13日
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12月24日、京都の離宮八幡宮の神人は御燈油料として荏胡麻油の生産を行っていたが、諸国の関がこれを妨害するため、後村上天皇の勅を奉じ、勘過之状(関所通行手形)を発行する(『離宮八幡宮文書』)。 父の正成同様、正儀には神人勢力とのパイプがあったことがわかる。尊氏は直義に勝利。正平7年(1352)2月26日、鎌倉で直義急死。毒殺されたのではないかという噂が立ち、室町幕府政権に揺らぎが生じた。この隙を突き、南朝方は主権の完全回復を目指して、京都を制圧することに決定した。閏2月16日、南朝伊勢国司(北畠顕能)が数百騎を率いて京に向かっているという情報が北朝に入り、異変が伝わった(『園太暦』)。開戦正平7年(1352年)閏2月20日、南朝はついに京に攻め入った。正儀と和田(和田正武?)が主将となり(『園太暦』)、これに北畠顕能と丹波国司千種顕経も加わった(『園太暦』)。 七条大宮で合戦となり、幕府の細川頼春が討死、宰相中将足利義詮も近江国へ敗走した(『園太暦』)。軍記物『太平記』では、正儀が盾・弓歩兵・騎兵、そして当時新しい武器である鑓(槍)を駆使して頼春を討つ場面が描かれる。24日には南朝の実質的指導者である准后北畠親房が入京(『園太暦』)。しかし、関東では20日から3月にかけて、武蔵野合戦で、新田義興・新田義宗ら南朝方が足利尊氏に敗退した。3月3日、南朝によって八幡に捕らえられていた北朝の光厳上皇・光明上皇・崇光上皇・直仁親王・尊胤法親王らが、正儀の本拠地である東条に遷された(『園太暦』)。3月15日、義詮ら北朝・幕府側が京に迫り、南朝の北畠顕能は戦わずに八幡に退却(『祇園執行日記』『五壇法記』)。この後、後村上天皇と北畠顕能は八幡で幕府軍に包囲されて籠城し、一方の正儀は後詰として包囲網の外で奮戦した。17日、正儀は摂津国神崎で赤松光範・社本基長らと戦い敗退。(『北河原氏家蔵文書』)。21日、義詮は陣を東寺へ移し、幕府軍2000余騎が赤井河原(現在の京都市伏見区羽束師の辺り)で交戦(『祇園執行日記』)、後村上天皇が籠城する八幡への攻撃を開始する(『園太暦目録』)。7日、正儀は和田助氏・淡輪助重らを率いて、洞ヶ峠(現在の京都府八幡市と大阪府枚方市の境)南から荒坂山(現在の京都府八幡市美濃山荒坂)で幕府の赤松光範・土岐頼康を撃破し、さらに頼康の弟土岐頼里を敗死させた(『園太暦』『和田文書』『淡輪文書』)。『太平記』巻31では、新兵を徴収するために、5月4日、正儀は後村上天皇に先んじて包囲を突破したと描かれている。しかし、一次史料からは、それが事実であるのか、それとも最初から包囲網の外で後詰(籠城側を助けるための援軍)として戦っていたのかは不明。和泉防衛正平7年/文和元年(1352年)5月4日、幕府の小俣竹一丸が淡輪重継らを率いて、南朝の和泉国土丸城に攻撃(『淡輪文書』)。6日、正儀は和田助氏・淡輪助重らを率いて、幕府軍と和泉松村で交戦(『和田文書』『淡輪文書』)。11日、二ヶ月間の籠城を続けていた南朝軍だが、湯川荘司ら投降者が増えてきたため、後村上天皇は八幡を脱出して宇陀を経由して賀名生に遷幸、包囲突破の過程で天皇自らが鎧を着込んで武器を振るい、さらに南朝の重臣四条隆資や滋野井実勝らが戦死した。12日、正儀は前日に八幡から宇陀郡に脱出した後村上天皇に召し出され、穴太郡(賀名生)についての状況を諮問された(『園太暦』文和2年3月17日条)。正儀の意見を取り入れたのか、この後実際に後村上天皇は賀名生に行宮を定めた。続けて、16日には和泉加守郷で戦った(『和田文書』『淡輪文書』)。6月2日、北朝上皇らが、正儀の本拠地の河内国東条から南朝の賀名生行宮へ遷された(『園太暦』)。この時、後村上天皇の勅命により北畠顕能と共に護送の大任に当たった(『天野山金剛寺旧記』(『金剛寺文書』?))。摂津侵攻正平7年/文和元年(1352)8月中旬から翌年3月末にかけて、正儀は吉良満貞・石塔頼房と共に摂津国に進軍し、各所の制圧に成功。幕府の赤松光範・佐々木秀綱・佐々木高秀・土岐頼康・仁木義長らをことごとく打ち破り、結果として第二次京都攻防戦に至るまでの糸口を作った。赤松・佐々木を撃破正平7年/文和元年(1352)8月15日、摂津国に進軍した正儀は、まず志宜杜(現在の大阪府大阪市中央区法案寺)で幕府の赤松光範と交戦した(『北河原氏家蔵文書』)。9月30日、正儀はさらに攻撃を押し進め、摂津国渡辺・神埼で光範と戦った(『北河原家蔵文書』『森本文書』)11月3日、正儀は大攻勢を仕掛け、吉良満貞・石塔頼房と共に(『園太暦』)、摂津国尼崎溝口に兵を進めた(『古今消息集』9巻)。このとき摂津国で抗戦した主な幕将は赤松光範だった(『野上文書』)。石塔頼房は数百騎をもって神埼を攻め、同地の幕府軍は戦わずに逃走した(『兼綱公記』)。打出浜でも戦いがあり、幕府軍は敗退して神呪寺に籠城した(『北河原家蔵文書』)。
2024年05月13日
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5月16日、正儀からの両特使(神宮寺将監某と入道某)が足利将軍家に謁見し、接待を受け、引出物を賜った(『房玄法印日記』同年5月16条)。このとき、正儀は特使を通じ、交渉の決裂が決定してしまったことと、自らの個人的な怒りと落胆を伝え、幕府が大将を派遣するならば自分も加勢すると言った(『園太暦』同年5月18日条)。醍醐寺清浄光院住持だった房玄が、天台宗の高僧の法勝上人(恵鎮)から聞いた話では、正儀は憤激の余り「こうなってしまった以上、わたくし楠木は幕府方として参戦いたしますので、即刻、総大将(直義)みずから吉野殿(後村上天皇)[の座する賀名生行宮]へ進軍なさってください。そうすれば、この楠木めはことさらに奮闘し、吉野殿(後村上天皇)の通路(退路)を打ち塞ぎ、すぐさま攻め落としてみせます。南朝陥落はたった一日で完了するでしょう」とさえ特使を通じて提案したという(『房玄法印日記』同年5月19日条)。この噂を吹聴する恵鎮は正儀に否定的な『太平記』の編纂責任者の一人であることには注意する必要があるが、『園太暦』も類似の噂を載せているため、事実の可能性は高い。とはいえ、幕府の南朝侵攻が実行に移されることはなかった。なお、父の正成も延元の乱で足利尊氏との早期講和を却下されると、後醍醐天皇に対し、(尊氏の方が人材を多く獲得しているという戦略上の観点から)「我が方には徳がない」「天下が陛下に背いているのは明らか」「この体たらくでは、それがしが生きていても無意味」と大胆な発言をしたことがあり(『梅松論』)、似た者親子だった。正平の一統正儀は和平派の頭目ではあるが、武備を怠っていた訳ではなく、交渉破断後は頭をすぐに切り替えて、北朝への攻撃を開始している。また、この頃、正平6年/観応2年(1351年)7月4日までには左馬権頭に昇進した(『三刀屋文書』諏訪部三郎入道宛の書状、7月4日付)。7月4日、諏訪部信恵らに参集命令をかけ(『三刀屋文書』)、同日さらに和田助氏・淡輪助重(元北朝武将だが、前年12月25日に南朝に帰順)らに命じて和泉国の北朝軍の下村某・平井某の居城を攻撃させた(『淡輪文書』)。7月7日、南北の争いはさらに激化し、8日、南朝の諜報員が京に放たれ足利直義の近辺が不穏になり、9日、正儀が完全に敵に回ったことを北朝方が確認した(『園太暦』)。7月25日、和田助氏・淡輪助重らを従えて和泉国陶器城を攻撃(『淡輪文書』)。この頃、尊氏と直義の仲は急速に悪化。尊氏は直義との決戦の間に南朝に後ろを突かれることを恐れ、後顧の憂いを絶つために、南朝側に付くことを決めた。8月7日に恵鎮を南朝首都賀名生行宮に遣わして降伏の意を伝えるが、一旦却下され、恵鎮も行宮から追い出された(『房玄法印記』『園太暦』)。亀田俊和は、恵鎮が追い出された理由を二つ推測している。一つ目は、後醍醐天皇の寵臣だったのに北朝についたことから南朝に裏切り者と見なされたこと。二つ目は、より強い理由として、直義との交渉が失敗に終わったことから、南朝が幕府に不信感を持ったのではないか、ということである。この間、足利兄弟の不和を漁夫の利として、正儀は楠木党に命じて北朝の和泉国の要地を攻め続ける。8月4日、和田助氏が和泉国日根野を攻撃(『和田文書』)、同日、淡輪助重が和泉国井山城を焼き払う(『淡輪助重軍忠状』)。さらに助重が6日から17日まで佐野城を占拠(『淡輪助重軍忠状』)。また、9月6日から17日にかけて、和田助氏・淡輪助重を率いて佐野城を築城し、ついで16日に杻井城を築城、そこへ幕府軍が攻めてきたために籠城して12月25日まで戦う(『淡輪文書』『和田文書』)。ただし、日付は淡輪の証言(『淡輪文書』)に拠るもので、和田は佐野・杻井築城の期間を9月7日から14日までと証言している(『和田文書』)。これに前後して、9月3日、尊氏は二階堂三河入道安威(二階堂時綱?)、赤松妙善(赤松則祐)らを遣わして、南朝に再び降伏を申し入れる(『園太暦』)。10月24日、降伏が実現し、見返りに尊氏は直義追討の綸旨を得る。北朝の崇光天皇は廃位された。北朝の観応の年号も一旦廃止され、南朝の正平に統一された。ここに、南北朝の合一が実現して内乱は15年弱で終結したかのように見えた。これを正平の一統という。しかし、これは束の間の和平に過ぎなかった。京都攻防戦第一次京都攻防戦[概要第一次京都攻防戦は、観応の擾乱で幕府が揺らいだ隙を突いて行われ、正平7年/文和元年(1352)閏2月20日から3月15日まで南朝が京都を占領した。京の制圧期間は一ヶ月弱と短かったが、南朝は三種の神器を接収し光厳上皇らを捕らえたため、新しく即位した北朝の後光厳天皇は三種の神器を欠いた状態での即位となり、室町幕府の権威を揺らがせる効果があった。経緯11月4日、尊氏は直義を討つために東征を開始。この頃既に、(旧)南朝が京に攻め込むのではないかという噂が立った(『園太暦』)。
2024年05月13日
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正平5年/観応元年(1350)10月、北朝での進退が極まった直義はついに南朝側に寝返ることを決意した。11月20日に河内国石川城に参じ、北朝重臣畠山国清も離反に加わり、さらに南朝准大臣北畠親房と謁見して投降の意を伝えた(『園太暦』正平5年11月25日条)。これが室町幕府の内紛である観応の擾乱(かんのうのじょうらん)の始まりである。なお、直義と親房の折衝地の石川城は、城そのものは北朝の畠山国清の居城であったが、地域としては正儀の本拠地である東条内にあり、この後しばらく正儀も直義と協調路線を取ることから、藤田精一は、直義の投降と観応の擾乱の勃発には正儀からの調略も一枚噛んでいたのではないかと推測している。国清も離反に加わったことについては、亀田俊和の推測によれば、直義の養子(実は尊氏の実子)足利直冬が有能な武将であるのに、尊氏が冷遇していることに、国清が同情したのではないかという。正平6年/観応2年(1351)1月3日ごろ、正儀は楠木党のひとつ和田氏(河内和田氏か和泉和田氏かは不明)を直義の腹心桃井直常に貸し与え、桃井は和田氏を率いて坂本(比叡山周辺)を攻めた(『園太暦』)。2月10日、正儀も自ら擾乱に加わり、河内国大饗城の北朝軍に示威行動を取る(『和田文書』)。その後、観応の擾乱は直義側有利に進み、2月17日摂津国打出浜の戦いでも直義勝利、2月25日もしくは26日に高師直・高師泰兄弟が上杉能憲に殺害されたことで、一旦の決着を見た。和平交渉(1351年初)南朝からの援軍のおかげで尊氏・師直に勝利できた直義は、見返りとして、北朝と南朝の和睦交渉を取り持つことを提案した。正平6年/観応2年(1351年)2月初頭、直義は銭一万疋を南朝に献上するなど、積極的に友好関係を深めようとした(『房玄法印日記』同年2月6条)。しかし、楠木氏同族河内和田氏の棟梁和田正武(わだまさたけ)は主戦派の支持者であり、直義の言を信用していなかったらしく、同2月には常陸親王宮令旨として諏訪部助直ら中国地方の南朝武将たちに戦闘準備を執達していた(『三刀屋文書』)。亀田俊和の推測によれば、直義が北朝の年号である観応を使い続けていたことも、南朝主戦派からの不信感を買ったという。一方、同僚・同族の正武らとは異なり、正儀は和睦に前向きであり、南北朝間で初の本格的な和平交渉に臨んだ(第一回はだが、短期間で打ち切られた)。そもそも、南朝は当時逆境にあり、北朝の側から和平を持ち込むとは、実利的に考えれば千載一遇のチャンスだったのである。また、当時、足利直義は、相次ぐ政治的混乱や実子足利如意丸の急死などもあって、政治への興味を失いつつあったが、なぜか和平交渉だけには熱心で、このことも追い風となった。とはいえ、前述したように当時南朝はまだ強硬的な主戦派が多く、3月時点で既に交渉には困難の影が見え始めていた。まずは2月ごろに室町幕府の二階堂行通が南朝の穴生行宮(賀名生行宮)への使節に選ばれ、交渉を行っていたが、(南朝の側から京に使節を派遣すると決まったためか)3月2日に使節を辞任している(『房玄法印日記』観応2年3月2日条)。3月11日、正儀は神宮寺将監某と入道某の二人(神宮寺正房と八木法達?)を和平交渉の南朝側特使として京に派遣し、足利直義と交渉を進めた(『房玄法印日記』)。3月12日ごろ、臨済宗の北朝高僧夢窓疎石もこの交渉に関心を示していた(『園太暦』)。北朝の山名氏の山名俊行から正儀の側近の和泉和田氏に宛てた3月14日付の書状でも「御合体」について触れられており(『和田文書』)、楠木党総出の和平交渉だったようである。4月初頭に入っても和平交渉は継続中であったことを、天台宗の高僧恵鎮が証言している(『園太暦』観応2年4月16日条)。後半に入り、25日にも和平の会談があった(『園太暦』)。4月27日、直義は南朝の糾弾から兄の尊氏をかばって、武家は公家を助けることが本分なのだから、南北朝が合一しても、尊氏の将軍の地位はそのまま安堵して欲しい、という書状をしたため、正儀の両特使に託している(『吉野事書案』『房玄法印日記』同年4月27日条)。しかし、5月中旬、南朝の主戦派はこの提案を拒絶し、尊氏の政界からの完全追放を望んだ(『房玄法印日記』同年5月15日条)。この南朝と幕府の交渉は『吉野事書案』という記録が残され、格調高い政治議論として古来より名高い。両朝の議論の結果、南北朝に分かれた主な原因が、天皇親政か幕府主権か、恩賞の分配方法をどうすべきか、という二点に集約されることがわかった。しかし、この二点の双方において、両陣営の意見は余りに隔絶しており、和睦が締結されるにはまだ遠く、結局は内戦の継続が決定された。南朝内の誰が正儀の和平交渉に横槍を入れたのかは、はっきりしない。足利氏を糾弾する文書『吉野事書案』の署名や、『房玄法印日記』という一次史料で親房が和平を拒絶したとする記述から、伝統的には、准大臣北畠親房が主戦派の首魁だったとされ、現実を見ようともせずに、北朝の提案を無碍に却下したと言われてきた。しかし、21世紀初頭以降の研究では、実際には親房は中立派であり、主戦派と和平派の間の調停役を務めていたと考えられている。亀田俊和によれば、このころの主戦派代表は、公家の洞院実世、そして他ならぬ後村上天皇自身だったという。身内の非現実的な強硬路線のせいで交渉破断を伝えざるを得なくなったことに、正儀は激しく怒り狂った。
2024年05月13日
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南朝軍もこれに応じて河内国槇尾山から新手の軍勢を発し、付近の北朝の居城土丸城からの補足を振り切り、2月6日、西北の春木谷で北朝の武将土田九郎(和泉国守護代)・淡輪助重らと交戦した(『淡輪文書』)。高師直は2月7日に佐々木導誉らと共に吉野河原を出立し、大和国宇智郡方面へ迂回して、紀伊に逃れた南朝後村上天皇を追撃しようとしたが失敗。翌8日に大和国平田荘に敷いた陣地に戻るが、そこを突いた楠木党に全面攻勢を仕掛けられ、風森・巨勢河原・水越等で戦闘、京極秀宗が討たれ、佐々木導誉もまた傷を負って400余騎を率いて奈良に逃れた。 11日には武田信武が北朝の援軍に加わり、北朝はなお1万の軍勢を擁していたが、ここで高師直は一旦退くことに決め、12日平田を退去、13日に京都に帰参した(以上、『房玄法印日記』『園太暦』『吉川文書』)。以上のように、正儀は二人の兄の戦死という悲劇の数日後、幼少で突如南朝の畿内方面大将に抜擢された初陣であり、南朝の首都である吉野を落とされるという手痛い損害を受けたものの、北朝/室町幕府きっての名将高師直・高師泰兄弟を相手に善戦し、どうにか撤退させることに成功した。足利直冬との戦い北朝の大攻勢は終了したが、この後も散発的に戦闘が続いた。正平3年/貞和4年(1348年)3月11日、東西の南朝軍同士の提携を求める書状が、九州方面の南朝武将阿蘇惟時に届く。同様の書状がおそらく南朝の九州方面総大将である征西将軍懐良親王にも届いたと考えられるが、当時、親王は九州内の平定で手一杯であり、実際に九州から近畿へ派兵されることはなかったようである。3月18日および19日、彼方(おちかた、現在の大阪府富田林市彼方)・佐美谷口(現在の大阪府富田林市佐備)で、正儀・和田助氏が高師泰と交戦する(『和田文書』)。4月26日にも、天野二王山(現在の大阪府河内長野市天野)で、正儀・助氏が師泰と戦闘(『和田文書』)。5月15日、北朝の土田九郎・淡輪助重らが、南朝軍の本営槇尾山の前哨基地である横山を焼き払う(『淡輪文書』)。5月16日、楠木党の安間余一(安間了願の親族?)が石川河原で、北朝の高師茂を敗死させる(?)(『続本朝通鑑』)。江戸時代の史料のため、真偽不詳。若き正儀によって徐々に盛り返してきた南朝に対抗するため、北朝側でも新世代の武将が起用される。将軍尊氏の弟足利直義の養子(実は尊氏の非嫡出子)である足利直冬の初陣である。正確な日付は不明だが、4月16日から7月ごろまでのいずれかの日に、直冬は紀伊方面への攻略に取り掛かったという。直冬の大攻勢に対し、南朝軍は武士の離反を抑えるために、恩賞を積極的に配り、7月19日には准大臣北畠親房が天皇からの綸旨を待たずに、独自の裁量で和泉和田氏の和田助氏を三河国某所の地頭職に任命している。8月初旬、直冬はついに紀伊国に至る経路を確保し、南進し、南朝の紀伊国岩城を制圧。9月4日は両軍各国で戦いが生じた日だった。北朝の直冬は紀伊国阿瀬川城(前出の阿弖河城に同じ)を陥落させ、さらに逃げる南朝軍を紀伊国日高郡に追撃した(『房玄法印日記』『鶴岡社務記録』『集古文書』)。同日、河内国東条でも楠木党は高師泰の襲撃を受け、戦闘は翌日まで続いた(『正閏史料』)。また、同日、和泉国でも北朝の土田・淡輪が南朝に攻撃(『淡輪文書』)。9月28日、直冬は紀伊国南部を平定し終えたとして帰京した。続く戦乱正平3年/貞和4年(1348年)10月20日、北朝の土田・淡輪が和泉国池田を攻撃(『淡輪文書』)。年が明けて正平4年/貞和5年(1349)の3月から4月にも高師泰は南朝への攻撃を続けた。3月15日には河内国寺田、18には山田、19日に佐美谷、4月22日に高岡、26日に長野荘で合戦(『淡輪文書助重申状』『森本為時申状』)。北朝は士気を高めるため、京の六条河原で3月16日に晒し首3つを懸け、さらに4月24日には30もの首を晒した(『師守記』)。南朝もただ押されるばかりではなく、北朝の領地である紀伊国隅田荘(現在の和歌山県橋本市隅田町)を制圧するなど、局所的には勝利していた場面もあったことが、閏6月3日に上田某を同地の地頭職に任じていることからわかる(『南狩遺文』)。しかし、全体としては南朝はきわめて苦しい状況にあった。観応の擾乱足利兄弟の内紛当時、室町幕府では名目上の最高位の将軍足利尊氏は恩賞などただ一部の権限のみを執行し、その弟の足利直義が実質的な政務を取る体制だった。しかし、尊氏の執事高師直が、南朝の名将北畠顕家や楠木正行を撃破して権勢を高めていったことにより、正平4年/貞和5年(1349年)閏6月ごろには、師直と直義の間の不和が表面化した。このため、北朝から南朝への攻撃は一旦停止し、8月9日には師直の弟の高師泰も河内国から撤退して京での政争に加わり、代将として紀伊国守護代畠山国清を正儀への警戒に当たらせた(『森本為時申状』『天正本太平記』)。師泰の合流などもあり、12月8日、師直と直義の間の政治抗争は、一旦は直義の敗北と出家で決着した(詳細は観応の擾乱の項を参照)。
2024年05月13日
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ただし、根拠となる文書には偽書という疑惑もあり、確定ではない。また、軍記物『太平記』流布本の巻31「八幡合戦の事附官軍夜討の事」では、正平7年/文和元年(1352年)の時点で数え23歳とされており、元徳2年(1330年)の誕生となる。一方、『太平記』天正本では、同じ箇所で数え22歳であるため、誕生は元弘元年/元徳3年(1331年)となる。正成は、早くも同時代に後醍醐天皇方と足利方の双方から「(深謀)遠慮の勇士」「賢才武略の勇士」と英雄視されていた(『梅松論』)。 しかし、建武政権は足利尊氏との対立から3に終わった短命政権であり、正儀に物心がついた時には既に、父は延元の乱中の湊川の戦い(延元元年/建武3年5月5日(1336)7月4日で討死、そして同年12月21日(1337)1月23日以来、日本は南北朝という二つの朝廷、二人の天皇に分裂し、内戦状態にあった。初陣兄の「小楠公」正行もまた長じてから南朝総大将となり、正成譲りの天才的軍略で幕府軍を翻弄した。しかし、正平3年/貞和4年1月5日(1348)、四條畷の戦いで、長兄正行・次兄正時は高師直の軍に敗れ、同時に討死。正行の大敗と戦死から予想される混乱を未然に防ぐため、翌1月6日、興良親王は南朝の有力氏族和泉和田氏(みきたし)に、このたびの大敗は危機ではあるが、なお南朝に踏み止まった者には忠臣として恩賞があるだろうという令旨を伝えた(『和田文書』)。この令旨に「虎夜刃丸(とらやしゃまる)」なる幼名を名乗る人物が添え書きしたと思われる書状が現存し(『河内国南河内郡長野町和田某家伝文書』)、藤田精一は、正行・正時の死後に幼少ながら和泉和田氏より上位の立場の人物といえば、二人の兄の死を受けて自動的に和泉・河内武士の棟梁となった楠木正儀をおいて他になく、虎夜刃丸は正儀の幼名なのではないか、と推測している。この「虎夜刃丸」という人物による文書は文体がやや不可解で、その花押(署名のサイン)も後の正儀のものとは違うという偽書疑惑があるが、藤田の主張によれば、正儀は元服後も花押を生涯に何度も変えているため、少なくとも花押の不一致については特に問題はないという。正儀はこのような若者だったが、火急の事態から楠木氏の家督を継いで南朝方の先鋒武将となった。遅くとも同年12月3日までには、かつて父と兄も叙任されていた左衛門少尉に任じられている(『金剛寺文書』左衛門少尉正儀書状12月3日付)。なお、同時期に正近という人物も同じ左衛門少尉に任じられていて、(『金剛寺文書』11月11日付左衛門少尉(花押)済恩寺掃部助宛文書および同文書8月21日左衛門尉正近(花押)金剛寺三綱通知状)、おそらくこの人物が幼少の正儀を補佐した楠木氏の重鎮だったと考えられている。話を兄の死と自身の元服の直後に戻すと、北朝方は大敗する南朝方を追撃して撃滅する絶好の機会であったはずだが、なぜか全体的に動きが鈍く、師直の兄弟の高師泰の軍は、戦後3日、1月8日になってやっと堺から東条(現在の大阪府富田林市東条地区)に移動した(『淡輪助重申状』)。同時に、高師直もまたそれから1週間もかけて、水早・八尾・河原を制圧し(『古今消息通』)、15日になってようやく大和国平田荘に着陣した(『園太暦』)。この不可解なまでの北朝の追撃の遅さについて、藤田精一は、山地戦を得意とする楠木党の勇名を恐れて慎重に行軍したのではないか、としている。一方、森茂暁によれば、室町幕府は鎌倉幕府以来の両統迭立の思想を堅持しており、南朝を根絶することは頭になく、そのため追撃の手を緩めたのではないかという。正平3年/貞和4年1月14日(1348)、東条にて、楠木正儀は初陣に臨み、武将和田助氏(みきたすけうじ、のち和泉和田氏棟梁)らを率いて、高師泰の軍と戦った(『和田文書 和田蔵人助氏軍忠状』)。この後、1月27日、28日、2月8日と、若輩の初陣ながら百戦錬磨の猛将師泰と一進一退の勝負を繰り広げた(『阿蘇文書』)。なお、中院義定は南朝を鼓舞するために南朝軍の全戦全勝だったと報じているが(『阿蘇文書』)、藤田精一は、このうち2月8日の大勝は事実にしても、他の日の戦闘については誇張表現だろうとしている。和平交渉(1348年)正平3年/貞和4年(1348年)1月15日に平田荘に到着した高師直は、遅くとも20日までに、西大寺長老を仲介者とする南朝との和平交渉を進め、この交渉には臨済宗の高僧夢窓疎石も関わっていた、もしくは興味を示していたようである(『園太暦』同年1月20日条)。しかし、交渉は24日までに打ち切られ、高師直の攻撃が再開されている(次節)。吉野行宮陥落師泰が正儀を食い止めている間に、師直は南朝臨時首都の吉野行宮への侵攻を進める。正平3年/貞和4(1358年)1月24日、北朝先遣隊が本軍に先駆けて吉野に突入したため、南朝後村上天皇は紀伊へ脱出(『大日本史料』所収各史料)。25日、師直・佐々木導誉本軍は平田荘を出陣し(『三刀屋文書』)、大和国高市郡橘寺周辺の民家を焼き払い、26日吉野に侵入、28日に吉野行宮を制圧するが、既に南朝要人は脱出した後だった。後村上天皇は紀伊国阿弖河入道の居城に逃れた。阿弖河入道の正体は不明だが、藤田精一は、その昔元弘の乱で仇敵楠木正成に説得され、後醍醐天皇側についた湯浅入道定仏(湯浅宗藤)その人ではないかとしている。2月1日、足利直義は松井助宗らを徴兵し、攻勢を強めた(『蠹簡残編』)。
2024年05月13日
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正平7年(1352年)閏2月20日、尊氏が関東遠征中の隙を狙い、旧南朝方は主権の完全回復を目指し、正儀・和田正武・伊勢国司北畠顕能らが京都を制圧、天下は再び南北朝に分かれた。幕府の宰相中将足利義詮(尊氏の嫡子、後の二代将軍)は逃れ、有力武将細川頼春(後の幕府管領細川頼之の父)も討死した。三種の神器と上皇らを奪われた幕府は、半ば違法とも言える手続きで後光厳天皇を北朝天皇として即位させざるを得ず、以降正統性の低下に苦しんだ。一方、南朝も3月15日には京都を再奪回され、八幡(現在の京都府八幡市)で二ヶ月間の籠城の末、賀名生(奈良県五條市賀名生)に行宮を定めて逃れた(八幡の戦い)。しかし、南朝にはまだ旧直義党の有力武将吉良満貞・石塔頼房の両将が在籍していて余力があり、正儀は二人と共同して同年8月15日から翌年3月末にかけて摂津国(現在の大阪府北中部から兵庫県南東部)に進軍、幕府の赤松光範・佐々木秀綱・佐々木高秀・土岐頼康・仁木義長らを撃破しした。南朝の快進撃に山名時氏親子も合流し、正平8年/文和2年(1353年)6月9日、南朝は二度目の京奪還を成功させるが、幕府に琵琶湖側からの補給線を遮断され、さらに正儀が播磨国防衛に赴いて京都不在中に幕府方が大軍を伴って再挙したため、南朝方は7月24日には都を撤退した。正平9年/文和3年(1354年)4月17日、南朝の事実上の最高指導者准后北畠親房が世を去り、南朝の衰退に拍車がかかる。後村上天皇はこの期に及んでも京都回復を夢見て、南朝方に帰順していた足利直冬を主将、正儀を副将として、正平10年/文和4年(1355年)1月22日から3月13日まで3回目の京都奪回に成功するが、今度は幕府方に将軍足利尊氏自らが戦いに加わったため、やはり短期間の制圧に終わり、戦死者が増えるだけだった。正平14年/延文4年(1359年)には、新将軍となった義詮の本格的な親征によって立て続けに領土を奪われ、翌年1月の和平交渉も破断。正儀の本拠地赤坂城が落とされるなど、南朝はついに滅亡の淵に立たされるが、正儀が幕府の遠征を長引かせることで、幕府の有力者仁木義長・関東執事畠山国清・幕府執事細川清氏らの対立が表面化したため、義詮は完全征服を前に撤退せざるを得なくなった。正儀と南朝側に離反した細川清氏によって、正平16年/康安元年(1361)12月8日から12月27日まで、南朝は4回目にして最後となる京都奪還を成功させた。二人は幕府と一度の戦いも交えずに京を制圧したが、『太平記』では、正儀と清氏が当時珍しい武器である鑓(槍)を装備した歩兵を採用し、斬新な陣形を用いたおかげであるという描写がなされている。また、撤退時も一度の交戦もなかった。『太平記』では、正儀は補給線の確保も出来ていないのに京を占領するのは無益だと、開戦前からこの攻防戦に批判的だったとして描かれている。かつて正儀と後村上天皇は敵対関係にあったが、正平20年/貞治4年(1365)には関係が完全に一転して親密な主従関係にあり、綸旨の奉者という通常は側近中の側近の公家しかなれない役目を、武家の正儀が賜ることもあった。こうしたこともあってか、後村上天皇は徐々に和平派支持に傾き、遠征に失敗した義詮の側でも和平交渉を望んだため、正平21年/貞治55(1366年)8月末ごろから、南朝では洞院実守を代表として、今までにない規模で交渉が進められた。ところが、天皇が病気で体調を崩したこと、九州では南朝皇族征西大将軍懐良親王が多大な戦果をあげていたことから、南朝では再び主戦派が台頭し、和睦の条件に「北朝と幕府の降参」という文言が盛り込まれた。正平22年/貞治6年(1367)4月29日、「降参」という語を目にした義詮は激怒、幕府側で和睦交渉に当たっていた佐々木導誉を譴責し、南朝を攻めるとまで言い放った。しかし、後村上天皇は急遽、正儀を代表に起用して交渉を再開させたため、義詮も態度を和らげ、最悪の事態は回避された。またこの頃、南朝の武士としては新田義貞以来の兵衛督(初め右、のち左)に昇進した。ところが、正平22年/貞治6年(1367年)12月7日に義詮薨去、翌年3月11日に後村上天皇崩御、と連続して両陣営の首脳が世を去った。先帝の百日忌のあと、正儀が和平交渉に向けた努力を続けた形跡があるが、結局交渉は自然消滅した。さらに、後村上天皇の後を継いだ長慶天皇は主戦派であり、人心掌握にも長けていたことから主戦派の影響力を強め、和平派の正儀は南朝内で孤立していった。正平24年/応安2年(1369年)1月2日、正儀は北朝への出奔を決意し、将軍義満に書状を送った。正儀の裏切りに、長慶天皇は言うに及ばず、同族の武将和田正武・橋本正督も激怒し、3月16日、正儀は二将からの攻撃を受けて敗走。幕府は赤松光範と細川頼基を派遣して正儀の亡命を手伝った。4月2日、正儀は当時の幕府の実質的指導者管領細川頼之と面会し、翌3日夜に幼将軍の義満に謁見した。
2024年05月13日
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ちなみに、満幸の不義のふるまいとは、南朝に叛旗を翻し、足利に属したことである。子孫『尊卑分脈』版『橘氏系図』、『群書類従』版『橘氏系図』[4]ともに正行に子がいたかどうかは記さず、弟の楠木正儀の子の系統で楠木氏嫡流子孫である伊勢楠木氏の家系図『全休庵楠系図』(慶安(1648~1652)ごろ写)に至っては、「無子跡絶」と一人も子がなく断絶したと明言している。一方、『続本朝通鑑』(寛文10年(1670年))が伝える伝によれば、戦死時、摂津国野間荘の内藤満幸の娘を妻とし、多聞丸(数え3歳)という子がいて、さらに妻はもう一人の子を妊娠中だった。内藤満幸が高師直に寝返ったので、楠木正儀は怒って正行妻を内藤家に送り返し、のち正行妻は摂津池田氏に嫁いだが、そして産まれたが後の池田教正(若江三人衆の池田教正の同姓同名の先祖)であると伝承している(兄の多聞丸は数え4歳で夭折)。墓所京都市右京区の善入山宝筐院に墓(首塚)がある。また正行の敵方であった足利幕府2代将軍・足利義詮は遺言に「自分の逝去後、かねており敬慕していた観林寺(現在の宝筐院)の正行の墓の傍らで眠らせてもらいたい」とあり、遺言どおり正行の墓(五輪石塔)の隣に義詮の墓(宝筐印塔)は建てられた。ただし、これは伝説であって歴史的事実ではないと考えられている(足利義詮#楠木正行との関係)。大阪府東大阪市六万寺町の往生院六萬寺にも墓があり、こちらには胴体が葬られている。正行が幼少期の時分に往生院で学んでいたことや、また四條畷の戦いの際に正行が往生院に本陣を置いていた関係のためである。大阪府四條畷市雁屋南町にも墓があり、こちらには巨大な楠が植えられている。京都府宇治市六地蔵柿ノ木町の正行寺(首塚)大阪府東大阪市山手町にも首塚がある。鹿児島県薩摩川内市上甑町付近にも甑島墓所がある。 5、「楠木 正儀」(くすのき まさのり)は、南北朝時代を代表する武将、公卿。楠木氏棟梁。正成三男。正行、正時の弟。子に正勝等。父・兄と並ぶ南北朝時代最高の名将で、南朝総大将として北朝から京を4度奪還。また、鑓(槍)を用いた戦術を初めて普及させ、兵站・調略・後詰といった戦略を重視し、日本の軍事史に大きな影響を与えた。一方、後村上天皇の治世下、和平派を主宰し、和平交渉の南朝代表を度々担当。後村上天皇とは初め反目するが、のち武士でありながら綸旨の奉者を務める等、無二の寵臣となった。しかし、次代、主戦派の長慶天皇との不和から、室町幕府管領細川頼之を介し北朝側に離反。外様にも関わらず左兵衛督・中務大輔等の足利将軍家や御一家に匹敵する官位を歴任した。三代将軍足利義満に仕え、幕府の枢要河内・和泉・摂津住吉郡(合わせてほぼ現在の大阪府に相当)の二国一郡の守護として、南朝臨時首都天野行宮を陥落させた。頼之失脚後、南朝に帰参、参議に昇進、399年ぶりの橘氏公卿として和睦を推進、和平派の後亀山天皇を擁立。没後数年の元中9年/明徳3年(1392)に南北朝合一が結実。二つの天下に分かれ約56年間に及んだ内戦を終結させて太平の世を導き、その成果は「一天平安」と称えられた。1330年代初頭、後醍醐天皇の寵臣で、同時代から英雄視されていた有力武将・官僚楠木正成の三男として誕生するが、幼少時、延元元年/建武3年(1336)5月25日に父を湊川の戦いで失い、同年末、日本は南北朝時代に突入した。さらに、兄の正行と正時も、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日四條畷の戦いで戦死したため、急遽楠木氏棟梁と南朝総大将の地位を継ぎ、幕府を代表する名将高師直・高師泰兄弟と戦った。1月中旬、南北で第一回の和平交渉があったが破断。1月下旬には南朝臨時首都吉野行宮が陥落して国家滅亡の危機に陥るが、2月8日に高兄弟の軍に一矢報い、辛くも撤退させた。この後、正儀は巻き返して一定の戦果を収めるも、室町幕府も将軍足利尊氏の弟直義の養子(尊氏の非嫡子)足利直冬ら若い世代の武将を起用して、夏・秋に再び攻勢をかけたため、依然として苦しい戦いが続いた。正平4年/貞和5年(1349)閏6月、幕府では執事高師直と直義の間の対立が深まり(観応の擾乱)、正平5年/観応元年(1350)10月には直義が南朝方について勢力挽回を画策、正平6年/観応2年(1351)2月17日には打出浜の戦いで直義が南朝方として幕府に勝利、高兄弟も暗殺されたため、劣勢の南朝は一時的に勢力を回復した。直義の仲介で南北朝間初の本格的な和平交渉が進み、和平派筆頭の正儀は南朝方の窓口として交渉を取り持ったが、後村上天皇や公卿洞院実世、正儀の同族で副将の和田正武ら南朝の要人はまだ主戦派が多く、中立派で南朝の支柱准大臣北畠親房も直義との政治議論が相容れなかったため、結局は5月16日に正式に破断した。和睦失敗で南朝方に対して一番怒り狂ったのが正儀で、直義が後村上天皇を討つなら自分も幕府側に寝返って加勢するとまで口走ったという噂さえ立つなど、父の正成と似た性格だったことが伺える。同年10月24日、今度は将軍尊氏が南朝に降るという奇策で弟の直義に勝利し、一時的に南北は合一、年号も南朝の正平に統一され、正平の一統が成立した。
2024年05月13日
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明治政府は、南朝の功臣の子孫にも爵位を授けるため、正成の子孫を探した。正成の末裔を自称する氏族は全国各地に数多く存在したが、直系の子孫であるかという確かな根拠は確認することができなかった。このため、新田氏、菊池氏、名和氏の子孫等は男爵に叙せられたが、楠木氏には爵位が与えられなかった。その後、大楠公600祭(昭和10年)を前後して楠木氏の子孫が確認され、湊川神社内に楠木同族会が組織されて現在に至っている。初代会長は、伊勢楠木氏傍系子孫とされるアラビア石油創業者の山下太郎である。年表比較をわかりやすくするため、より歴史的事実に近いと思われる記述と、『太平記』によって世間に流布している記述を並列して示す。『太平記』が出典である場合、「出典」欄には巻数から記す。『太平記』章名は原則として天正本、そのため流布本と違う場合がある。『太平記』は月日の錯誤が多く、特に元弘2年(1332年)の正成再挙兵を8ヶ月も前倒ししている。ただし、元弘の乱の始期と終期(鎌倉幕府滅亡)、正成の命日は他の文献と一致する。 4、「楠木 正行」(くすのき まさつら)は、南北朝時代の武将。楠木正成の嫡男。「大楠公」と尊称された正成に対して「小楠公(しょうなんこう)」と呼ばれる。初名は正之(まさより、まさこれ)と伝わる。父の意志を継ぎ、足利尊氏と戦った。生い立ち生年については明確な史料が存在しない。『太平記』には父との「桜井の別れ」の当時は11歳であったとあることから嘉暦元年(1326)とも推測されているが、これは多くの史家が疑問視している。その事由は延元5年/暦応3年(1340)に正行自身が建水分神社に奉納した扁額に「左衛門少尉」の自筆が記されたことにより、『太平記』の記述を疑って正行の生年をもう少し遡らせ、父の戦死の時点で20歳前後だったという説も古くからあるが、明確な史料が存在しない以上推測の域を出ない。正成の長男として河内国に生まれた。幼名は多聞丸。幼少の時、河内往生院などで学び武芸を身に付けた。延元元年/建武3年(1336年)の湊川の戦いで父の正成が戦死した後、覚悟していたこととはいえ父の首級が届き衝撃のあまり仏間に入り父の形見の菊水の短刀で自刃しようとしたが、生母に諭され改心したという。正行は亡父の遺志を継いで、楠木家の棟梁となって南朝方として戦った。正成の嫡男だけあって、南朝から期待されていたという。足利幕府の山名時氏・細川顕氏連合軍を摂津国天王寺・住吉浜にて打ち破っている。四條畷の戦い正平3年/貞和4年(1348)に河内国北條(現在の大阪府四條畷市)で行われた四條畷の戦い(四條縄手)において足利側の高師直・師泰兄弟と戦って敗北し、弟の正時と共に自害して果てた。従兄弟である和田賢快(新発、賢秀)と和田行忠もまた戦死した。嘉暦元年(1326年)生まれだとすれば、享年28歳。但し、享年に関しては諸説があり、前述の通り、父の戦死時に20歳歳前後だったとすれば、享年は30歳前半となる。先に住吉浜にて足利方を打ち破った際に敗走して摂津国・渡部橋に溺れる敵兵を助け、手当をし衣服を与えて敵陣へ送り帰した。この事に恩を感じ、この合戦で楠木勢として参戦した者が多かったと伝えられている。かねてより死を覚悟しており、後村上天皇よりの弁内侍賜嫁を辞退している。そのとき詠んだ歌が「とても世に永らうべくもあらう身の仮のちぎりをかで結ばん」である。この合戦に赴く際、辞世の句(後述)を吉野の如意輪寺の門扉に矢じりで彫ったことも有名である。決戦を前に正行は弟・正時や和田賢秀ら一族を率いて吉野行宮に参内、後村上天皇より「朕汝を以て股肱とす。慎んで命を全うすべし」との仰せを頂いた。しかし決死の覚悟は強く参内後に後醍醐天皇の御廟に参り、その時決死の覚悟の一族・郎党143名の名前を如意輪堂の壁板を過去帳に見立てその名を記してその奥に辞世を書き付け自らの遺髪を奉納したという。地の利を失っては勝ち目が薄い。家督は弟の正儀が継いだ。その後明治維新の尊王思想の模範とされ、その誠忠・純孝・正義によるとして明治9年(1876)に従三位を追贈された。明治22年(1888)には殉節地の地元有志等による正行を初め楠木一族を祀る神社創祀の願いが容れられ別格官幣社として社号を与えられ、翌明治23年(1890)に社殿が竣功し正行を主祭神とする四條畷神社が創建された。さらに明治30年(1897)には従二位が追贈された。正行の子 池田教正 池田氏はもともとは紀氏流であるが、池田奉政の孫教依は楠木正行の遺児教正を引き取り育てた。教正は池田を継ぎ、摂津に住した。一説に、後室は、父許で一子を産み、正行の遺児を養子とすることを教依が望み、その縁で再婚したとも伝える。
2024年05月13日
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そのため、ずっと常に世間の注目を受けていて、それを酷く気にせざるを得ず、箱根竹下での敗北、播磨攻めへの遅参、白旗城攻略の失敗などについて、義貞は強い自責の念を感じていた。正成はこの義貞の心中の吐露に対して、「他者の謗りなど気にせず、退くべき時は退くべきであるのが良将の成すべきことである。北条高時を滅ぼし、尊氏を九州に追いやったのは義貞の武徳によるものだから、誰も侮るものはいない」といい、玉砕覚悟の義貞を慰めると同時に嗜めた。正成の説得で義貞の顔色は良くなり、夜を通しての彼らの物語に数杯の酒が興を添えた、と『太平記』は語っている。しかし、正成は周囲の悪評や恥にばかり固執して勝敗を度外視した一戦を挑もうとする義貞の頑迷さに、同情したが同時に落胆もしたのではないか、と峰岸純夫は分析している。いずれにせよ、正成にとっては義貞と酌み交わした夜が最後の夜となった。湊川の戦いと最期25日の辰刻(午前8時頃)、楠木・新田連合軍は足利軍と海を挟んで湊川で対峙した(湊川の戦い)。正成は他家の軍勢を入れず、7百余騎で湊川西の宿にて布陣し、陸地から攻めてくる敵に備えていた。『太平記』によると、正成も義貞も足利方の大軍に対して少しもひるむことはなかったという。だが、戦いが始まると、連合軍は多勢に無勢であったため、正成と義貞の軍勢は引き離されてしまった。正成は正季に「敵に前後を遮断された。もはや逃れられない運命だ」と述べ、前方の敵を倒し、それから後方の敵を倒すことにした。正成は700余騎を引き連れ、足利直義の軍勢に突撃を敢行した。菊水の旗を見た直義の兵は取り囲んで討ち取ろうとしたが、正成と正季は奮戦し、良き敵と見れば戦ってその首を刎ね、良からぬ敵ならば一太刀打ち付けて追い払った。正成と正季は7回合流してはまた分かれて戦い、ついには直義の近くまで届き、足利方の大軍を蹴散らして須磨、上野まで退却させた[57]。直義自身は薬師寺十郎次郎の奮戦もあって、辛くも逃げ延びることができた。だが、尊氏は直義が退却するのを見て、「軍を新手に入れ替えて直義を討たせるな」と命じた。そのため、吉良氏、高氏、上杉氏、石堂氏の軍6千余騎が湊川の東に駆けつけて後方を遮断しようとしたため、正成は正季ともに引き返して新手の軍勢に立ち向かった。6時間の合戦の末、正成と正季は敵軍に16度の突撃を行い、楠木軍は次第に数を減らし、ついに73騎になっていた。疲弊した彼らは湊川の東にある村の民家に駆け込んだ。正成は自害しようと鎧を脱ぎ捨てると、その体には合戦での切り傷が11か所にも及んでおり、ほか72人もみな同様に切り傷を負っていた。正季が「7度生まれ変わって朝敵を滅ぼしたい」と述べると、正成も自分もそう思うと同意し、皆に「さらばだ」と別れを告げた。正成は正季と刺し違えて自害し果て、橋本正員、宇佐美正安、神宮寺正師、和田正隆ら一族16人、家人50余人もまた自害し、皆炎の中に倒れ込んだ。死後・子孫湊川で自害した正成の首は足利方に回収され、六条河原に梟首された。だが、正成の首を見た人々は、延元元年/建武3年(1336年)初頭にも偽の首が掲げられたこともあって、その首が本物か疑ったという。その後、尊氏は残された家族を気遣い、正成の首を故郷である河内に送り返した。息子の正行(後世「小楠公」と称される)を筆頭に、正時、正儀らも正成と同じく南朝方として戦い、正行と正時は四條畷の戦いで激戦の末に戦死している。正儀は南朝の参議に登りつめ、(橘氏出身の自称は怪しいとはいえ)約400年ぶりの橘氏公卿となっている。孫の正勝は南北朝合一(明徳の和約)後も北朝に降らず、応永の乱で反幕府側として参戦し、その時の傷が元で死亡している。伝説では、正勝は「虚無」という普化宗の高僧となり、虚無僧や尺八を広めたとされる。また、彼らの子孫も後南朝に属して、北朝を擁する室町幕府と戦った。南北朝の争いが北朝側の勝利に終わると、南朝側に尽くして死んだ正成は朝敵とされてしまった。だが、永禄2年(1559)11月20日、正成の子孫と称した楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願し、正親町天皇の勅免を受けて正成と楠木氏は朝敵でなくなった。ただし、この時点では「先祖である朝敵・正成の非を子孫が深く悔いたから」許されたという形式になっており、正成に非があるとする汚名の返上にまでは至らなかった。楠木氏嫡流と言われた伊勢楠木氏は、伊勢国の金場(亀山市関町金場)や楠城を根城とする北勢四十八家楠氏として土豪になり、 また第2代当主正重が千子村正の門下に入って刀工になるなど細々と活動を行っていた。 しかし、第7代当主楠木正具が1576年天王寺の戦いで戦死、次いで第8代当主楠木正盛(盛信とも)が1584年小牧・長久手の戦い加賀野井城で戦死したことで絶えた。 刀工としては正重のほか千子正真、坂倉正利、雲林院政盛など千子派の名工を輩出し大いに栄えた。 木俣氏(木俣守勝など。維新後は木俣男爵家)は伊勢楠木氏の傍系(ただし、守勝の後を養子が継いだ為、血筋では繋がっていない)。またアラビア石油創業者山下太郎や、伊勢高楠家(仏教学者高楠順次郎が婿入りした家)が第7代当主正具の後裔を称する。
2024年05月13日
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敗走する足利軍は丹波を経由して摂津まで逃れたが、2月11日に正成は義貞、顕家とともに摂津豊島河原(大阪府池田市・箕面市)の戦い(豊島河原合戦)で足利方を京から九州へ駆逐する。朝廷との確執『梅松論』には、後醍醐帝の軍勢が足利軍を京都より駆逐したことに前後して、正成が新田義貞を誅伐して、その首を手土産に足利尊氏と和睦するべきだと天皇に奏上したという話がある。その根拠として、確かに鎌倉を直接攻め落としたのは新田義貞だが、鎌倉幕府倒幕は足利尊氏の貢献によるところが大きい。さらに義貞には人望、徳がないが、足利尊氏は多くの諸将からの人望が篤い、九州に尊氏が落ち延びる際、多くの武将が随行していったことは尊氏に徳があり、義貞に徳がないことの証である、というものであった。正成のこの提案は、『梅松論』にしか記載されておらず、事実かどうかは不明である。しかし、歴戦の武将であり、ゲリラ戦で相手を翻弄する手段を得意とし洞察力に長けた正成は純粋に武将としての器量として、義貞よりも尊氏を高く評価していた。加えて、義貞と正成は、相性があまりよくなかったといわれる。義貞は京都の軍勢を構成する寺社の衆徒や、その他畿内の武士達とは関係が薄く、『太平記』などに描かれる義貞は、鎌倉武士こそを理想の武士とする傾向があり、彼らへの理解に乏しかった。河内国などを拠点に活動する正成は、この点において、義貞と肌が合わなかったと考えられる。一方で、尊氏は寺社への所領寄進などを義貞よりも遥かに多く行っていて、寺社勢力や畿内の武士との人脈も多かった。義貞よりも尊氏の方が理解できる、尊氏の方に徳があると正成が判断してもおかしくはないと考えられている。この提案は、天皇側近の公家達には訝しがられ、また鼻で笑われただけであり、にべもなく却下されてしまった。正成は尊氏との和睦提案を容認されなかったばかりか、和睦を進言したことで朝廷の不信を買い、国許での謹慎を命じられた。そのため、3月に後醍醐は義貞を総大将とする尊氏追討の軍を西国へ向けて派遣したが、正成はこの追討軍からは外されている。義貞は、播磨国の白旗城に篭城する足利方の赤松則村(円心)を攻めている間に時間を空費し、延元元年/建武3年(1336)4月に尊氏は多々良浜の戦いで九州を制覇して態勢を立て直すと、京都奪還をめざして東進をはじめた。尊氏は高師直らと博多を発ち、備後国の鞆津を経て、四国で細川氏・土岐氏・河野氏らの率いる船隊と合流して海路を東進し、その軍勢は10万を越していた。一方、義貞の軍勢はその数を日ごとに減らし、5月13日に兵庫(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)に到着した時には2万騎を切っていた。足利方が再び京に迫まり、義貞が兵庫に退却したという早馬が京へ届くと、後醍醐天皇は正成を呼び出し、義貞とともに尊氏を迎え撃つように命じた。正成は帝に対し、「尊氏の軍勢は大軍であり、疲弊した味方の小勢でまともに正面からぶつかれば、決定的な負け戦になるでしょう。ここは新田殿を京に呼び戻し、帝は以前のように比叡山に臨幸して下さい。私が河内に戻って河尻(淀川の河口)を抑え、京に入った足利軍を新田軍とともに前後から兵糧攻めにすれば、敵兵の数は減ることでしょうし、我々の軍勢には味方が日々馳せ参じるでしょう。その時を狙い、新田殿が比叡山から、私が搦手より攻め上れば、朝敵を一戦で掃滅すること可能かと思えます。新田殿もきっとこの作戦に同意するでしょう」と進言した。この策は正成にとっては、比叡山に朝廷を一時退避して足利軍を京都で迎え撃つという、現実的かつ必勝の策でもあった。この正成の進言に対して、諸卿らは「確かに戦に関しては武家に任したほうが良い」と、納得しつつあった。だが、坊門清忠が「帝が都を捨てて一年に二度も臨幸するのは帝位そのものを軽んずる」とし、「味方の軍勢は少数ながらも、毎回大敵を滅ぼしてきた。それは武略が優れていた訳でもなく、聖運の天に通じたから」だと述べ、正成は即刻義貞のいる兵庫に向かうべきと主張した。その結果、後醍醐天皇は正成の意見ではなく、坊門清忠の意見を尊重した。正成は今更反論しても仕方がないと考え、朝議の結果を受け入れた。兵庫への下向と決戦前夜絶望的な状況下、義貞の麾下で京都を出て戦うよう出陣を命じられ、5月16日には正成は京から兵庫に下向した。道中、正成は息子の正行に「今生にて汝の顔を見るのも今日が最後かと思う」と述べ、桜井の宿から河内へ帰した。これが有名な楠木父子が訣別する桜井の別れであるが、史実であるかどうかは不明である。24日、正成は兵庫に到着し、義貞の軍勢と合流した。正成は義貞と合流したのち会見し、義貞に朝廷における議論の経過を説明した。『太平記』によると、その夜、義貞と正成は酌み交わし、それぞれの胸の内を吐露した。義貞は先の戦で尊氏相手に連敗を喫したことを恥じており、「尊氏が大軍を率いて迫ってくるこの時にさらに逃げたとあっては笑い者にされる。かくなる上は、勝敗など度外視して一戦を挑みたい」と内情を発露した。義貞は鎌倉を攻め落とすという大功を成し遂げたため、その期待から尊氏討伐における天皇方総大将という過重な重荷を担わされた。
2024年05月13日
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だが、これは正成の策略で、前日に、主力軍は住吉、天王寺付近に隠して2000余騎の軍勢を三手に分けており、わざと敵に橋を渡らせてから流れの深みに追い込み、一気に雌雄を決すという作戦であった。正成は敵の陣形がばらけたところで三方から攻め立て、大混乱に陥った敵は大勢が討たれ、残りは命からがら京へと逃げ帰った。「坂東一の弓取り」宇都宮との駆け引きその後、六波羅は隅田、高橋の敗北を見て、武勇で誉れ高い宇都宮高綱(のち公綱)に正成討伐を命じ、7月19日に宇都宮は京を出発した。宇都宮は天王寺に布陣したが、その軍勢は600~700騎ほどであった。和田孫三郎は正成に戦うことを進言したが、正成は宇都宮が坂東一の弓取りであること、そして紀清両党の強さを「戦場で命を捨てることは、塵や芥よりも軽いもの」と評してその武勇を恐れ、「良将戦わずして勝つ」と述べた。その後、夜にあちこちの山で松明を燃やし、宇都宮がいつ攻めてくるのかわからないような不安に陥らせ、三日三晩これを行った。7月27日夜半、宇都宮がついに兵を京へ引くと、翌朝には正成が天王寺に入れ替わる形で入った。正成は天王寺に進出してからその勢いをさらに増したが、庶民に迷惑をかけてはならぬと部下には命じており、すべての将兵に礼を以て接したため、その勢いはさらに強大となった。8月3日、楠木正成は住吉神社に馬3頭を献上し、翌日には天王寺に太刀と鎧一領、馬を奉納した。千早城の戦いやがて、北条高時は畿内で反幕府勢力が台頭していることを知り、9月20日に30万余騎の追討軍を東国から派遣した。これに対し、正成は河内国の赤坂城の詰めの城として、千早城をその背後の山上に築いた。正成は金剛山一帯に点々と要塞を築きその総指揮所として千早城を活用し、千早城、上赤坂城、下赤坂城の3城を以て幕府に立ち向かうことにした。元弘3年/正慶2年(1333)2月以降、正成は赤坂城や金剛山中腹に築いた千早城で幕府の大軍と対峙し、ゲリラ戦法や落石攻撃、火計などを駆使して幕府の大軍を相手に一歩も引かず奮戦した(千早城の戦い)。正成は後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間、 大和国(奈良県)の吉野などで戦った護良親王とともに幕府勢力に果敢に立ち向かい、同年閏2月に後醍醐天皇は隠岐を脱出した。幕府の軍勢が千早城に釘付けになっている間、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、赤松円心ら反幕勢力が挙兵した。5月7日には足利高氏(のち尊氏)が六波羅を攻め落とし、京から幕府勢力は掃滅された。5月10日、六波羅陥落の報が千早城を包囲していた幕府軍にも伝わり、包囲軍は撤退し、楠木軍の勝利に終わった。そして、5月22日に新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしたが、その挙兵は正成の奮戦に起因するものであった。正成の討伐にあたって膨大な軍資金が必要となった幕府はその調達のため、新田荘に対して6万貫もの軍資金をわずか5日で納入するように迫り、その過酷な取り立てに耐え切れなくなった義貞が幕吏を殺害・投獄して反旗を翻したのである。正成は後醍醐天皇が京へ凱旋する際、6月2日に兵庫で出迎え、道中警護についた。天皇が兵庫を出発して以降、正成はその行列の先陣を務め、その後陣には畿内の軍勢7千騎を引き連れていた。建武の新政足利方との戦い後醍醐天皇の建武の新政が始まると、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、検非違使、河内・和泉の守護、河内守(国司)となる。また、そのほかにも河内新開荘、土佐安芸荘、出羽屋代荘、常陸瓜連など多くの所領を与えられた。正成は建武の新政において後醍醐天皇の絶大な信任を受け、結城親光、名和長年、千種忠顕とあわせて「三木一草」と併称され、「朝恩に誇った」とされる。だが、建武元年(1334)冬、正成が北条氏残党を討つために京を離れた直後、護良親王が謀反の嫌疑で捕縛され、足利尊氏に引き渡された。その直後、正成は建武政権の役職の多くを辞職したとされることから、正成は護良親王の有力与力であったと見られている。建武2年(1335)、中先代の乱を討伐に向かった尊氏が、鎌倉で新政に離反した。追討の命を受けた義貞は12月に箱根・竹ノ下の戦いで尊氏に敗れて京へと戻り、これを追う尊氏は京へ迫った。だが、翌年1月13日に北畠顕家が近江坂本に到着すると、正成は義貞や顕家と合流し、連携を取って反撃を仕掛けた。28日、正成は義貞、顕家、名和長年、千種忠顕らと共に京都へ総攻撃を仕掛ける。この合戦は30日まで続いた。この合戦の結果、尊氏は京都を追われ、後醍醐帝が京都を奪還する。合戦は正成の策略と奇襲によって後醍醐帝らの勝利に終わり、京都の奪還には成功したものの、尊氏、直義兄弟ら、足利軍の主要な武将の首級を挙げることはできなかった。
2024年05月13日
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夢から覚めて、天皇は夢の意味を考えていると「木」に「南」と書くと「楠」という字になることに気付き、寺の衆徒にこの近辺に楠という武士はいるかと尋ねたところ、 河内国石川郡金剛山(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)に橘諸兄の子孫とされる楠木正成(楠正成)という者がいるというので、後醍醐帝はその夢に納得し、すぐさま楠木正成を笠置山に呼び寄せる事にした。万里小路藤房が勅使として笠置山から河内に向かい、正成の館に着いてその事情を説明した。すると、正成は「弓矢取る身であれば、これほど名誉なことはなく、是非の思案にも及ばない」と快諾した。そして、正成は人に気が付かれないようにすぐさま河内を出て、笠置山に参内した。正成は後醍醐天皇から勅使派遣より時を置かずに参内したことを褒められ、そのうえで正成がどのような計画を持ち、勝負を一気に決めて天下を太平にするのかを問われた。正成はこの問いに対し、「幕府の大逆は天の責めを招き、衰乱の機会に乗られて天誅が下されます。その好機なら必ず滅ぼすことができます。天下草創には武略と智謀の2つがあります。勢いに任せて合戦を行えば、たとえ60余州の軍勢をもってしても武蔵・相摸の領国に勝利を得ることはできないでしょう。もし何らかの策を用いて戦えば、幕府は守勢に回って欺きやすくなり、怖れるに足らなくなるでしょう。合戦の常は個々の勝敗にこだわらないことです。(たとえ戦いで敗れたとしても)正成がたった一人生存していれば、天皇の聖運が必ず開けると御思い下さい」と述べた[27]。そして、正成は河内に戻り、赤坂城(下赤坂城)で挙兵した。以上が『太平記』が描く後醍醐天皇と楠木正成の接触に関する経緯だが、『増鏡』によると天皇側は前もって正成を頼りにしていたという。正成は得宗被官から一転したため、鎌倉幕府からは「悪党楠兵衛尉」として追及を受けた。同年9月、六波羅探題は正成の所領和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収した。赤坂城の戦い9月、笠置山の戦いで敗北した後醍醐天皇らは捕えられ、残る正成は赤坂城(下赤坂城)にて幕府軍と戦った(赤坂城の戦い)。幕府軍は当初、一日で決戦をつけることができると判断し、すぐさま攻撃を開始した。だが、正成は寡兵ながらものその攻撃によく耐えた。敵が城に接近すれば弓矢で応戦し、その上城外の塀で奇襲を仕掛けた。敵が堀に手を掛ければ、城壁の四方に吊るされていた偽りの塀を切って落とし敵兵を退け、上から大木や大石を投げ落とした。これに対し、敵が楯を用意して攻めれば、塀に近づいた兵に熱湯をかけて追い払った。正成のこれらの一連の攻撃により、幕府軍の城攻めは手詰まりに陥った。一土豪に過ぎない正成に関東から上洛した軍勢が束になって攻撃を仕掛けたことに注目している。単なる悪党の蜂起であるならばこれほどの大軍勢の投入は有り得ず、正成の尋常ならざる実力の証左であるとしている。正成はかつて幕府に反逆した武士を次々に討伐した合戦の名人であり、鎌倉は明らかに正成を大いなる脅威と認識していたと考えられるしかし、赤坂城は急造の城であるため、長期戦は不可能と考えた楠木正成は、 同年10月21日夜に赤坂城に自ら火を放ち、幕府軍に城を奪わせた。鎌倉幕府は赤坂城の大穴に見分けのつかない焼死体を20~30体発見し、これを楠木正成とその一族と思い込んで同年11月に関東へ帰陣した。赤坂城には阿弖河荘の旧主湯浅宗藤(湯浅孫六入道定仏)が幕府によって配置され、その旧領である正成の領地を与えられた。一方、正成は赤坂城の落城後、しばらく行方をくらました。同年末、後醍醐方の護良親王から左衛門尉を与えられた[14]。赤坂城の奪還、和泉・河内の制圧元弘2年/元徳4年(1332)4月3日、正成は湯浅宗藤の依る赤坂城を襲撃した。正成は赤坂城内に兵糧が少なく、湯浅宗藤が領地の阿弖河荘から人夫5、6百人に兵糧を持ち込ませ、夜陰に乗じて城に運び入れることを聞きつけ、その道中を襲って兵糧を奪い、自分の兵と人夫やその警護の兵とを入れ替え、空になった俵に武器を仕込んだ。楠木軍は難なく城内に入ると、俵から武器を取り出して鬨の声を上げ、城外の軍勢もまた同時に城の木戸を破った。これにより、湯浅宗藤は一戦も交えることなく降伏し、正成は赤坂城を奪い返した。楠木勢は湯浅氏を引き入れたことで勢いづき、瞬く間に和泉・河内を制圧し、一大勢力となった。そして、5月17日には摂津の住吉・天王寺に進攻し、渡部橋より南側に布陣した。京には和泉・河内の両国からは早馬が矢継ぎ早に送られ、正成が京に攻め込むと可能性があると知らせたため、洛中は大騒ぎとなった。このため、六波羅探題は隅田、高橋を南北六波羅の軍奉行とし、5月20日に京から5千の軍勢を派遣した。5月21日、六波羅軍は渡部橋まで進んだが、渡部橋の南側に楠木軍は300騎しかおらず、兵らは我先にと川を渡ろうとした。
2024年05月13日
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悪党・非御家人説永仁3年(1295)、東大寺領播磨大部荘が雑掌(請負代官)でありながら年貢を送らず罷免された垂水左衛門尉繁晶の一味として楠河内入道がおり、黒田俊雄はこの河内楠一族を正成の父と推定し、正成の出自は悪党的な荘官武士ではないかとした。元徳3年(1331)9月、六波羅探題は正成が後醍醐天皇から与えられた和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収した。このことから、正成が反関東の非御家人集団とみなす説がある。佐藤和彦によれば、楠木氏は摂津から大和への交通の要衝玉櫛荘を支配し、近隣の和田(にぎた)氏、橋本氏らは同族で、楠木氏は摂津から伊賀にいたる土豪と商業や婚姻によって結びついていた。また植村清二はこの「兵衛尉」官職名から幕府御家人とした。正成を非御家人とみなす説について新井孝重は、楠木氏が「鎌倉武士のイメージと大きく異なるゆえに、もともと鎌倉幕府と関係のない、畿内の非御家人だろうと考えられてきた」が、「畿内のように交通と商業が盛んなところであれば、どこに暮らす武士であっても、生活のしかたに御家人と非御家人の違いはないとみたほうがよい。だから楠木氏その存在のしかたを理由に非御家人でなければならない、ということにはならない」と述べている。挙兵以前元亨2年(1322)、正成は得宗・北条高時の命により、摂津国の要衝淀川河口に居する渡辺党を討ち、紀伊国安田庄司湯浅氏を殺害し、南大和の越智氏を撃滅している。この一連の状況は『高野春秋編年輯録』に詳しい。渡辺党を討った正成は高野山領を通過して紀伊安田へと向かい、安田荘を攻撃した。安田庄司は湯浅一族であり、当時湯浅氏は高野山との相論に負けて紀伊国阿弖河荘(阿瀬川荘)を没収されており、この正成の攻撃は没収地の差押さえであったとされる。その結果、正成は幕府から得宗領となった阿弖河荘を与えられた。その後、正成は越智氏の討伐へと向かった。越智氏は幕府に根成柿の所領を没収され、さらには北条高時が興じる闘犬の飼料供出まで求められ、憤った越智邦永が自領で六波羅の役人を殺害するに至った。六波羅北方は討手として奉行人斎藤利行、小串範行らを二度にわたって派遣したが、そのゲリラ戦に手痛い敗北を喫していた。そのため、六波羅は正成を起用し、彼は越智氏を討つことに成功した。新井孝重は、正成が渡辺党、湯浅氏、越智氏といった反逆武装民を討滅したことは非常に興味深いと述べている。また、一連の軍事行動を否定する積極的な根拠は見いだせず、これらは本当にあったと考えている。新井は、得宗被官であった正成が反逆武装民を討つのは当然の行為であると指摘し、この当時はまだ鎌倉幕府に忠実な「番犬」として畿内ににらみを利かせていたとしている。正成による渡辺党、湯浅氏、越智氏の討滅に六波羅は感嘆の声を上げ、そして怖れたといい、世間の人々にもその強烈な印象を与えた。当時、畿内では悪党が幕府への反逆、合戦を繰り返し、その支配に揺らぎが生じていた。幕府は安藤氏の乱で手を焼かされており、合戦の名人である正成が悪党のエネルギーを吸収し、いずれ反逆した場合への不安を抱いたとされる。挙兵から鎌倉幕府滅亡まで笠置山への後醍醐天皇との謁見その後、正成は得宗被官でありながら後醍醐天皇の倒幕計画に加担するようになった。後醍醐天皇と正成を仲介したのは真言密教僧文観と醍醐寺報恩院道祐とされる。ほか、伊賀兼光の関係も指摘されている。元徳3年(1331)2月、後醍醐天皇が道祐に与えた和泉若松荘を正成は所領として得た。しかし、同年4月に倒幕計画が幕府側に知られると、8月に後醍醐天皇は笠置山に逃げ、その地で挙兵した(元弘の乱)。なお、正成はこのとき笠置山に参向している。その経緯は『太平記』によると以下のようなものであった。天皇が笠置山に籠ると、笠置寺の衆徒や近国の豪族らが兵を率いて駆けつけてきたが、名ある武士や、百騎、二百騎を率いた大名などは一人も来なかった。そのため、後醍醐天皇は皇居の警備もままならないと不安になり、心配になって休んだ際に夢を見た。その夢の中では、庭に南向きに枝が伸びた大きな木があり、その下には官人が位の順に座っていたが南に設けられていた上座にはまだ誰も座っておらず、その席は誰のために設けられたものなのかと疑問に思っていた。すると童子が来て「その席はあなたのために設けられたものだ」と言って空に上って行っていなくなってしまった。
2024年05月13日
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3、「楠木正成」楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自不詳。自称は橘氏後裔。息子に正行、正時、正儀。元弘の乱(1331~1333)で後醍醐天皇を奉じ、大塔宮(護良親王)と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。南北朝時代・戦国時代・江戸時代を通じて日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受け、「三徳兼備」(『太平記』、儒学思想上最高の英雄・名将)、「多聞天王の化生(けしょう)」(『太平記評判秘伝理尽鈔』、「軍神の化身」の意)、「日本開闢以来の名将」(江島為信『古今軍理問答』)と称された。『太平記』では奇想天外な策と智謀に長けた「不敵」(無敵)の戦術家としての活躍が印象的に描かれるが、それは正成の軍才のごく限定された一面に過ぎず、史実では刀を振るえば電撃戦を得意とし六波羅探題を震撼させた猛将であり(『楠木合戦注文』『道平公記』)、築城・籠城技術を発展させ軽歩兵・ゲリラ戦・情報戦・心理戦を戦に導入した革新的な軍事思想家であり(楠木流軍学の祖)、そして畿内にいながらにして日本列島の戦乱全体を俯瞰・左右した不世出の戦略家だった(『梅松論』『国史大辞典』)。明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880)には正一位を追贈された。自称建武2年(1335年)8月25日、『法華経』の写経を完了し、奥書に「橘朝臣正成」と自著していることから、遅くともこの時期までには橘氏の後裔を自称していた。河内の土豪説『太平記』巻第三「主上御夢の事 付けたり 楠が事」には、楠木正成は河内金剛山の西、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたとある。楠木氏は橘氏の後裔とされる。正成の母は、橘遠保の末裔橘盛仲の娘。また、任官には源平藤橘の姓が必要であるため、楠木氏は橘氏を借りたとする説もある。『太平記』巻第三には、楠木氏は橘諸兄の後裔と書かれており、楠木氏と関係の深い久米田寺の隣の古墳は橘諸兄の墓といわれ、楠木氏は橘氏を礼拝する豪族であったともいわれる。また『観世系図』によれば、観阿弥の母は河内玉櫛荘の橘正遠(正成の父・楠木正遠)の娘すなわち正成の姉妹という記録があり、この玉櫛荘を正成の出身地とする推定もある。得宗被官・御家人説得能弘一が楠木氏駿河国出身説を提唱し(「楠木正成の出自に関する一考察」『神道学』128)、筧雅博、新井孝重も楠木氏の出自は駿河国とした。筧雅博はその理由として、以下を挙げている。楠木正成の地元である河内の金剛山西麓から観心寺荘一帯に「楠木」の字はない。鎌倉幕府が正応6年(1293)7月に駿河国の荘園入江荘のうち長崎郷の一部と楠木村を鶴岡八幡宮に寄進したと言う記録があり、楠木村に北条得宗被官の楠木氏が居住したと想定できる。観心寺荘の地頭だった安達氏は、弘安8年(1285)に入江荘と深い関係にある鎌倉幕府の有力御家人長崎氏に霜月騒動で滅ぼされ、同荘は得宗家に組み込まれたとみられる。それゆえ出自が長崎氏と同郷の楠木氏が観心寺荘に移ったのではないかと思われる。楠木正成を攻める鎌倉幕府の大軍が京都を埋めた元弘3年(正慶2年、1333年)閏2月の公家二条道平の日記である『後光明照院関白記』(『道平公記』)に くすの木の ねはかまくらに成を をきりにと 何の出るらん という落首が記録されている、この首「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意とされ、河内へ出軍する幕府軍を嘲笑したものとされる。網野善彦は、楠木氏はもともと武蔵国御家人で北条氏の被官(御内人)で、得宗領河内国観心寺地頭職にかかわって河内に移ったと推定した。正成は幼少時に観心寺で仏典を学んだと伝わる。また、『吾妻鏡』には楠木氏が玉井、忍、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党とならぶ将軍随兵と記されている。
2024年05月13日
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2、「楠木氏の出自」「楠木氏」(くすのきし)は、河内国を中心に、南北朝時代に活躍した南朝方の武家。「楠氏」と表記される事もある。本姓は橘氏。一般に伊予橘氏(越智氏の分家)の橘遠保の末裔という(『系図纂要』など)。しかし、楠木正成以前の系図は諸家で一致せず、確実なのは、河内の悪党の棟梁格だったことである。『尊卑分脈』(橘氏系図)や『太平記』は正成の出自を橘氏嫡流系統の為政の後裔とする。また諸家には、同じく橘姓の熊野国造和田氏の出身とする系図もある。事実、正成の一族以外の子孫が多く和田氏を称している。戦後、名和氏と同じく辰砂の採掘権と技術を有した商人的武装集団の頭目説、散所の長者説などが出された]が、いまだ定説は存在しない。また、河内国の金剛山観心寺領の在地豪族ともされるが、河内国や近隣には「楠木」という苗字の元となる地名はない]。東国武家集団が北条得宗家の被官(御内人)として、赤松氏と共に播磨や摂津・南河内・和泉など北条氏の守護国などの得宗領に移住し、そのまま土着したとする説もある。『吾妻鏡』によると、楠木氏は元は関東にいた御家人で、玉井氏・忍氏・岡部氏・滝瀬氏ら武蔵七党の横山党や猪俣党と並ぶ家柄であり、もともとは利根川流域に基盤をもつ東国武士の有力集団の一派だったという。また、駿河国入江荘楠木村(現静岡市清水区)を出自とする武士ともいう。鎌倉幕府が1293年に楠木村を鶴岡八幡宮に寄進したという記録があるうえ、当時幕府の有力御家人だった長崎氏の出自は楠木村の隣の長崎郷で河内に領地を保有していた。その関係で楠木氏が河内に移ったと言う。1333年の公家の日記に「楠木の根は鎌倉に成るものを……」と言う落首が記録されていることも楠木氏が元々東国の出身だったことを意味していると言われている[要出典]。なお、現在も清水区には「楠」「長崎」の地名が残っている。(古文書には「楠木」、「楠」両方出てくる)。他に、秦氏の系統とする説、熊野新宮神職楠氏の系統とする説(『熊野年代記』)もある。史料上はっきり記されているのは、鎌倉時代後期に楠木正成が後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して挙兵した元弘の乱において宮方に従い、幕府滅亡後に成立した建武政権に加わり、南北朝時代に南朝(吉野朝廷)方として活躍した以降である。その後正成の子の正行、正時や、正成の弟の正季などは北朝の足利尊氏との戦いで戦死し、生き残った正成の子の正儀は南朝零落後にも有力武将として活躍し、北朝との和睦を仲介する。その後、正儀の子孫は播磨国で平木氏を名乗ったとも言われている。
2024年05月13日
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「楠木氏一族の群像」1、「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・22、「楠木氏の出自」・・・・・・・・・・・・・33、「楠木正成」・・・・・・・・・・・・・・・54、「楠木正行」・・・・・・・・・・・・・・・325、「楠木正儀」・・・・・・・・・・・・・・・376、「楠木正勝」・・・・・・・・・・・・・・1007、「南北朝統一後」・・・・・・・・・・・・1068、「楠木正顕」・・・・・・・・・・・・・・1099、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・114 1「はじめに」「河内国千早赤坂付近を本拠とする土豪。本姓は橘氏を称するが出自は不明。13世紀末の播磨国大部荘に姿を見せる。河内楠入道は一族と言われる。元徳3・元弘元(1331)には楠木正成が和泉国若松荘を押領する悪党として登場するなど畿内近国の荘園経営に広く関与、その背景には、鉱山業や物資輸送業との関係が考えられる。元弘の変に際し正重は後醍醐天皇方として活躍し、建武政権かで河内守、河内・和泉守護等の地位を得た。建武政権崩壊後も南朝方として行動したが、正成・正季兄弟は湊川の戦で自刃、正成の子正行も四条畷の戦で弟楠木正時と共に自刃した。その後は正行の弟楠木正義が南朝の中心として転戦したが、次第に衰微し室町期に繰り返し田蜂起も幕府軍により鎮圧された。戦国末には伊勢の大饗正虎が正成の子孫を自称して楠木に姓を改め、後に織田信長・豊臣秀吉の右筆となった。江戸時代にも甲斐庄氏などが楠木氏の末流を名乗っている。
2024年05月13日
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8、「松尾小笠原氏の流浪」松尾小笠原定基は、娘を木曽義在に嫁がせて木曽氏と婚姻関係となり東濃の領地を維持し、府中小笠原長朝の侵攻を撃退し、三河国にも遠征したが、天文3年(1534)、子の松尾小笠原貞忠が府中小笠原長棟(貞朝の子)や鈴岡小笠原氏の親族の下条氏に攻められて松尾城が落城し、甲斐国に落ち延びた。天文23年(1554)、松尾小笠原信貴(定基の子)・小笠原信嶺父子が武田氏の伊那侵攻で信濃先方衆として活躍し、松尾城を回復した。小笠原信嶺はその後、織田信長の甲州征伐の時には織田氏に降伏し、本能寺の変の後、徳川氏の家臣となった。徳川家康の関東移封の際、武蔵国本庄城に移り、1万石ながら大名となった。 *「小笠原 定基」(おがさわら さだもと)は、戦国時代の武将。信濃国小笠原氏分家・松尾小笠原家当主。松尾城主。定基は、家伝の糾法に精錬していた鈴岡小笠原家の小笠原政秀から伝習を受けていたが、明応2年(1493)1月4日、年頭の祝賀と称して政秀を松尾城に誘い、帰途を攻撃して暗殺したことから、鈴岡家は滅亡し、その遺族は府中小笠原家の小笠原長朝を頼った。翌3年(1494)1月13日、松尾城外の毛賀沢で長朝と戦い撃退した。文亀元年(1501)、周防国に亡命中の先代将軍足利義稙から書を贈られた。府中家の小笠原貞朝が11代将軍・足利義澄方の尾張国守護斯波義寛と結び、義稙方の今川氏親を攻めたことから、永正3年(1506)定基は氏親や伊勢宗瑞の要請に応じて三河国に出兵した。永正8年(1511)、死去(『溝口家記』)。天文3年(1534)、子・貞忠の代に府中家の小笠原長棟に松尾を攻められると、敗れて甲斐国に逐電し甲斐武田氏を頼ることとなった。小笠原 長朝(おがさわら ながとも)は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏(府中小笠原家)当主。小笠原清宗の子。宝徳元年(1449)11月に元服、民部大輔、大膳大夫、信濃守に任じられる。文明5年(1473)、室町幕府9代将軍足利義尚就任後初の参内に供奉し、花の御所で犬追物を興行した際に奉行を務めた。文明10年(1478)、父の死去に伴い家督を相続する。応仁の乱では西軍に与し、東軍方の伊那小笠原氏や諏訪大社上社に対抗した。文明12年(1480)には諏訪大社下社の金刺氏と結んで仁科盛直を穂高川で破るが(穂高合戦)、翌13年(1481)に仁科氏が頼った諏訪氏に敗れた。また長享2年(1488)に鈴岡小笠原家の小笠原政秀に井川館を陥落させられ、更級郡牧之島城に逃れたが、筑摩郡の国衆が鈴岡家の府中支配を支持せず、延徳2年(1490)以後、信濃守護に補任された政秀の養子となることで和睦した。明応元年(1492)、10代将軍足利義稙の命により六角高頼征討(長享・延徳の乱)に出兵した。明応2年(1493)、政秀が松尾家の小笠原定基に暗殺されると、孫の小笠原長棟の代まで対立した。文亀元年(1501年)没、享年59歳。法名は徹叟正源。】 *「小笠原 貞忠」(おがさわら さだただ、生年不詳 - 天文19年6月25日(1550)8月7日は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏分家・松尾小笠原家当主。松尾城主。父は小笠原定基。子に小笠原信貴。通称は六郎。官位は弾正少弼、左衛門佐、左衛門尉、信濃守。父の定基は京都の政情に明るく、大内氏らとも友誼を結んでいたため、文亀元年(1501年)6月、周防に亡命中の先代将軍足利義稙から、上洛の際は忠節を尽くせとの奉行人奉書と大内義興の副状を受けたが、実際に上洛は実現しなかった。また、今川氏親の遠江侵攻に悩まされた斯波義寛の意向で府中家の小笠原貞朝と和睦をした上で遠江に派兵をするが敗れている。後に貞朝の娘を娶っているが和睦は長くは続かなかった。永正3年(1506)父の定基と共に今川氏親や伊勢宗瑞の要請に応じて三河国に出兵した。天文3年(1534)、府中家の小笠原長棟(貞朝の子)に松尾を攻められると、敗れて甲斐国に逐電し武田氏を頼った。】 *「小笠原 長棟」(おがさわら ながむね)は戦国時代の武将。信濃の大名小笠原氏(府中小笠原氏)の当主。小笠原貞朝の次男。分裂していた小笠原氏を統一した。林城を本拠とする府中小笠原氏出身。永正元年(1504)11月に元服。永正9年(1512)、父の貞朝を師範として弓馬礼法を伝授され、永正12年(1515)、父の死没に伴い家督を継承する。享禄元年(1528)、将軍・足利義晴の命を受け上洛する。智勇に優れた人物で、天文2年(1533)7月、高遠頼継、知久氏の軍勢を伊那谷に破ると、天文3年(1534)、対立する伊奈(松尾)小笠原氏の当主小笠原貞忠を打倒し甲斐国に追放し、分裂していた小笠原氏を統一した。また弟の信定を鈴岡城に入城させた。天文8年(1539)、敵対していた諏訪頼重と和睦するなど、小笠原氏の戦国大名としての基礎と最盛期を築き上げた。しかし後継の子に恵まれず、弟の長利を養子とした。その後に長時が誕生し、やがて長利と不和となったため長利は小笠原の家を離れ安曇郡に移る。そして小笠原家とは対立関係にあった村上氏配下の香坂氏に身を寄せて大日方氏を称したと伝えられる。天文10年(1541)に長棟は出家して、嫡男の長時に家督を譲った。天文11年(1542年)の長棟の死後、8年で信濃小笠原家は武田晴信により滅亡に至った。】
2024年05月12日
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*「小笠原 貞忠」(おがさわら さだただ、生年不詳 - 天文19年6月25日(1550)は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏分家・松尾小笠原家当主。松尾城主。父は小笠原定基[1]。子に小笠原信貴。通称は六郎。官位は弾正少弼、左衛門佐、左衛門尉、信濃守。父の定基は京都の政情に明るく、大内氏らとも友誼を結んでいたため、文亀元年(1501年)6月、周防に亡命中の先代将軍足利義稙から、上洛の際は忠節を尽くせとの奉行人奉書と大内義興の副状を受けたが、実際に上洛は実現しなかった。また、今川氏親の遠江侵攻に悩まされた斯波義寛の意向で府中家の小笠原貞朝と和睦をした上で遠江に派兵をするが敗れている。後に貞朝の娘を娶っているが和睦は長くは続かなかった。永正3年(1506)父の定基と共に今川氏親や伊勢宗瑞の要請に応じて三河国に出兵した。天文3年(1534)、府中家の小笠原長棟(貞朝の子)に松尾を攻められると、敗れて甲斐国に逐電し武田氏を頼った。】 *「小笠原 貞朝」(おがさわら さだとも)は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏(府中小笠原家)当主。小笠原長朝の子。文明年間には在京して将軍足利義尚の弓馬師範を務めた。文亀元年(1501)、父の長朝が没し、家督を継承する。同年尾張守護斯波義寛の要請に応じて遠江国二俣に遠征、今川氏親と戦った。この時、斯波義寛の意向で対立する松尾家の小笠原定基と和睦するが、後に定基は今川方について三河国に出兵する。その後、永正6年(1507)頃に改めて貞朝の娘を松尾家の貞忠の妻にすることで和睦を図っている。永正元年(1504)、家臣の島立貞永( 享年93)に命じ、同じく小笠原家中の坂西(さかにし)氏の居館跡に深志城を築城させたとされる。長男の長高を廃嫡し、次男の長棟に家督を継がせた。 同12年(1515年)没、享年55歳。法名は固山宗堅、雲光殿前郎将日山宗賢居士。著書として「和礼儀統要約集」がある。】 *「小笠原 宗康」(おがさわら むねやす)は、室町時代の守護大名。信濃守護、小笠原氏当主。小笠原政康の長男。嘉吉2年(1442)に父が死去、小笠原氏惣領職をめぐって従兄(伯父の小笠原長将の子)の小笠原持長との間で争いが起きた。持長は結城合戦や赤松満祐の討伐(嘉吉の乱)でも功績があり、幕府の実力者・管領畠山持国とも縁戚関係にあり、問題を複雑化させた。しかし、当時の現状に鑑みれば、在京期間が長く、信濃と縁の薄い持長では信濃の国人を治めきれないと判断され、文安2年(1445)11月、幕府問注所は宗康を信濃守護職に任命した。だが、小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も二派に分裂して対立が続いた。文安3年(1446)、宗康は弟の光康に後援を頼み、自身が討ち死にした場合は光康に惣領職を譲り渡すと取り決め、水内郡漆田原で持長軍と戦ったが敗れ討ち死にしてしまった(漆田原の戦い)。持長は宗康を討ち取りはしたが、家督は既に光康に譲られていたため、幕府も守護職と小笠原氏惣領職を光康に与えた結果、持長と光康の対立は続いた。やがて光康と宗康の子孫同士も争うようになり、小笠原氏は持長系の府中小笠原家、宗康系の鈴岡小笠原家、光康系の松尾小笠原家との三家に分裂し、再統一は戦国時代初期の小笠原長棟(府中家)の登場を待つことになる。】 *「小笠原 政秀」(おがさわら まさひで)は、戦国時代の大名。信濃守護。小笠原氏の一族で、鈴岡小笠原氏当主。小笠原宗康の子。室町時代の小笠原氏は中興の祖である祖父・小笠原政康の没後、家督争いが起き衰退していた。父の宗康は従兄の小笠原持長と争い、戦死している。宗康は死の直前に弟の光康に家督を譲っており、政秀は叔父の下で養育された。政秀は寛正2年(1461)、叔父の死により家督を継承したと推測されている。鈴岡城に拠り、従弟の松尾城主小笠原家長(光康の子)や又従兄の府中城主小笠原清宗(持長の子)と並ぶ勢力となった。応仁元年(1467)頃から清宗を攻撃して、一時は小笠原家の惣領となった。文明5年(1473)には室町幕府から信濃守護に任命されている。しかし、小笠原家をまとめ上げることはできず、小笠原長朝(清宗の子)を養子に迎え、再び家督を譲らざるを得なくなった。一方、松尾家とは当初は良好な関係であり、応仁の乱においては、幕府の命令で東美濃に共同で出陣し、西軍足利義視に通じて将軍義政に抵抗する土岐成頼と交戦する等、歩調をあわせていたが、後に伊賀良荘の領有を巡って争うようになった。政秀は諏訪大社の上社諏訪氏や高遠諏訪氏と同盟を結び、文明12年(1480)に家長と戦って討ち果たしたが、明応2年(1493年)1月4日、家長の子である小笠原貞基や知久氏に松尾城で実子の長貞と共に暗殺された。鈴岡小笠原家は滅亡したが、政秀の未亡人は生家の下条氏を通じて府中家の小笠原貞朝(長朝の子)を頼って落ち延び、天文3年(1534年)貞朝の子の小笠原長棟が松尾家を下して小笠原氏の統一を果たすこととなる。】
2024年05月12日
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7、「鈴岡小笠原氏の滅亡」鈴岡小笠原政秀は、寛正2年(1461)の光康の死により小笠原家の惣領の家督を継承したと見られ、府中小笠原清宗(持長の子)から府中を奪い返して、小笠原3家を統一し、文明5年(1473)には幕府から信濃国守護に任ぜられた。しかし、筑摩郡の国衆の支持を得られなかったため、政秀は更級郡牧之島城に逃れた府中小笠原長朝(清宗の子)と和睦し、明応元年(1492)の幕府の近江遠征には(長享・延徳の乱)には長朝が出兵した。松尾小笠原氏の小笠原家長(光康の子)は鈴岡小笠原政秀と共闘し、応仁の乱中の文明5年(1473年)、東軍の要請で木曽家豊と共に美濃国に遠征したが、文明12年(1480)に政秀と合戦となり戦死した。家長の子松尾小笠原定基は明応2年(1493)に政秀を暗殺し、鈴岡小笠原氏は滅亡した。鈴岡小笠原氏の滅亡後も松尾・府中両小笠原氏の争いが続いた。ところが、駿河国の今川氏親が遠江国に侵攻すると、その対応に苦慮した遠江の守護職である斯波義寛は信濃小笠原氏への援軍を依頼した。ところが、松尾小笠原氏も府中小笠原氏も互いに自分への援軍要請を求めて争う始末であり、却って小笠原氏の内紛に巻き込まれる形となった斯波氏は両者の仲立ちを引き受けて和睦を図り、その後永正年間に入ると府中小笠原貞朝の娘が松尾小笠原貞忠の妻になることで一時的に和睦して斯波氏への援軍を送った。だが、遠江は今川氏の手に落ち、両者の和睦も長くは続かなかった。 *「小笠原 定基」(おがさわら さだもと)は、戦国時代の武将。信濃国小笠原氏分家・松尾小笠原家当主。松尾城主。定基は、家伝の糾法に精錬していた鈴岡小笠原家の小笠原政秀から伝習を受けていたが、明応2年(1493)1月4日、年頭の祝賀と称して政秀を松尾城に誘い、帰途を攻撃して暗殺したことから、鈴岡家は滅亡し、その遺族は府中小笠原家の小笠原長朝を頼った。翌3年(1494)1月13日、松尾城外の毛賀沢で長朝と戦い撃退した。文亀元年(1501)、周防国に亡命中の先代将軍足利義稙から書を贈られた。府中家の小笠原貞朝が11代将軍・足利義澄方の尾張国守護斯波義寛と結び、義稙方の今川氏親を攻めたことから、永正3年(1506)定基は氏親や伊勢宗瑞の要請に応じて三河国に出兵した。永正8年(1511)、死去(『溝口家記』)。天文3年(1534)、子・貞忠の代に府中家の小笠原長棟に松尾を攻められると、敗れて甲斐国に逐電し甲斐武田氏を頼ることとなった。】 *「小笠原 清宗」(おがさわら きよむね)は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏(府中小笠原家)当主。小笠原持長の子。父の代から続く宗家の家督巡って、小笠原光康の子家長及び宗康の遺児政秀と対立、小笠原氏は清宗の府中小笠原家、家長の松尾小笠原家と政秀の鈴岡小笠原家に分裂、衝突を繰り返して衰退していった。小笠原氏の統一は清宗の曾孫長棟が光康の曾孫貞忠を降伏させる天文3年(1534)までかかることになる。清宗は信濃井川館に生まれた。永享元年(1429)11月に元服、右馬助、大膳大夫、信濃守に任じられる。鈴岡小笠原家の政秀や諏訪氏と度々争い、府中に攻め込まれたため、長禄3年(1459)頃に新たに林城を築き、居館を移す。応仁元年(1467)からの応仁の乱では西軍を支持する。文明6年(1474)7月、上洛して9代将軍足利義尚に拝謁する。文明10年(1478年)没、享年62歳。】 *「小笠原 家長」(おがさわら いえなが)は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏分家・松尾小笠原家当主。松尾城主。父は信濃守護小笠原光康。子に小笠原定基(さだもと)。応仁元年(1467)からの応仁の乱では東軍側に付く。文明5年(1473)、家長は将軍足利義政の命により、子の小笠原定基や木曾家豊(木曾義元の父)と共に東美濃攻略のため、足利義視方の土岐成頼の居城・恵那郡の大井城や土岐郡の釜戸村にあった荻島城を攻め落とす。その後、恵那郡の中部と土岐郡の一部は、天文年間(1532~1555)まで信濃勢の駐留が続いた。京極氏のお家騒動(京極騒乱)にも介入、東軍の京極政経・多賀高忠に加勢して西軍の京極高清、多賀清直・宗直父子、六角高頼を打ち破った。『小笠原文書』によると武田兵庫助を介して、文明10年(1478)、尾張の守護代であった織田敏定の要請で美濃の斎藤妙椿を牽制するため、援軍を送っている。小笠原家当主の家督を巡り、従兄にあたる信濃守護・小笠原政秀と対立し、文明1年(1480年)、政秀によって討たれた。なお、寛政重修諸家譜などでは延徳2年(1490)10月15日死去とされている。】
2024年05月12日
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正長元年(1428年)の正長の土一揆に対して上洛し一揆勢の鎮圧にあたった。また、この年に足利持氏が越後守護代長尾邦景や同国の国人を寝返らせようとして邦景から告発を受けると、政康を急遽帰国させて越後出陣の事態に備えさせている。永享4年(1432)には6代将軍足利義教の弓馬師範に推挙された(『林羅山撰 将軍家譜』)。永享8年(1436)には持氏と通じた村上頼清と芦田氏討伐を果たし、義教から感状を授かった。村上氏は永享9年(1437年)に幕府に降伏し、小笠原氏の信濃支配は一応達成することになる。これに先立つ応永24年(1417)、在京していた武田信元の甲斐帰還を手助け、守護代として跡部氏を派遣している。甲斐では持氏の支援を受けた国人・逸見有直が勢力を強めており、その対抗的意味があったと考えられている。永享10年(1438)の永享の乱では上野国に出陣し平井城に向けて北上する持氏方の軍勢を討ち破った。永享12年(1440)の結城合戦にも信濃武士を統べて参戦しており、『結城陣番帳』にその諸将の名が見える。嘉吉2年(1442)、小県郡海野で死去。享年67歳。長男の宗康が後を継いだ。しかし、正式な譲状を作成しなかったことから、この継承に異論を挟む余地を生んだ。その後、嘉吉の乱で義教が赤松満祐に暗殺された後に畠山持国が台頭、甥で長兄長将の子の持長が持国の支持を背景に相続を主張、国人も2派に分かれて抗争、小笠原氏はお家騒動で混乱、信濃の支配に動揺をきたし漆田原の戦いを起こすことになった。信濃の支配権確立にも取り組み、広沢寺や筑摩神社を開基した。*「小笠原 持長」(おがさわら もちなが)は、室町時代中期の武将、守護大名。信濃守護。父は小笠原長基の長男小笠原長将、母は側室。子に清宗。信濃府中(現在の長野県松本市)を本拠とした府中小笠原氏の祖。応永18年(1411)に幕命により、京極高数に従って飛騨の乱の鎮圧に参加、嘉吉元年(1441)の結城合戦や赤松満祐の討伐(嘉吉の乱)でも功績を挙げた。応永29年(1422)9月には将軍足利義持の伊勢神宮参詣に供奉した。内訌持長は応永3年(1396年)に京都四条の小笠原家屋敷で生まれた。父の長将は結城合戦で戦死し、祖父の死後家督は2人の叔父長秀・政康に移り、嘉吉2年(1442)の政康の死後は従弟の小笠原宗康に継承された。この状況に不満を抱いた持長は、畠山持国の後ろ盾で家督相続を主張、文安3年(1446)に実力行使で宗康を討ち取った(漆田原の戦い)。しかし、宗康は事前に弟の光康に家督を譲り、持国と対立する細川持賢及び甥の細川勝元も光康を支援したため、家督の奪取はならなかった。宝徳元年(1449)に諏訪大社が上社と下社に分裂すると騒動に介入、下社を支援している。一方の上社は光康の松尾小笠原家と連合した。同年に勝元が管領を辞任、代わって持国が管領に就任すると宝徳3年(1451)に光康に代わって信濃守護に任命された。しかし、翌享徳元年(1452)に勝元が管領に再任されると享徳2年(1453)に守護職を交替させられ光康が守護に再任された。畠山持国の支援を受けられた背景には持長の母が持国の妾となって息子義就を産んだからとされるが、持長と義就の年齢差が大き過ぎるため近年では否定されている(義就は永享9年(1437)生まれであり、兄とされる持長とは41歳も差があるため)。寛正3年(1462年)に死去、享年67歳。子の清宗が後を継いだ。 *「小笠原 宗康」(おがさわら むねやす)は、室町時代の守護大名。信濃守護、小笠原氏当主。小笠原政康の長男。嘉吉2年(1442)に父が死去、小笠原氏惣領職をめぐって従兄(伯父の小笠原長将の子)の小笠原持長との間で争いが起きた。持長は結城合戦や赤松満祐の討伐(嘉吉の乱)でも功績があり、幕府の実力者・管領畠山持国とも縁戚関係にあり、問題を複雑化させた。しかし、当時の現状に鑑みれば、在京期間が長く、信濃と縁の薄い持長では信濃の国人を治めきれないと判断され、文安2年(1445)11月、幕府問注所は宗康を信濃守護職に任命した。だが、小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も二派に分裂して対立が続いた。文安3年(1446)、宗康は弟の光康に後援を頼み、自身が討ち死にした場合は光康に惣領職を譲り渡すと取り決め、水内郡漆田原で持長軍と戦ったが敗れ討ち死にしてしまった(漆田原の戦い)。持長は宗康を討ち取りはしたが、家督は既に光康に譲られていたため、幕府も守護職と小笠原氏惣領職を光康に与えた結果、持長と光康の対立は続いた。やがて光康と宗康の子孫同士も争うようになり、小笠原氏は持長系の府中小笠原家、宗康系の鈴岡小笠原家、光康系の松尾小笠原家との三家に分裂し、再統一は戦国時代初期の小笠原長棟(府中家)の登場を待つことになる。】
2024年05月12日
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*「小笠原 政康」(おがさわら まさやす)は、室町時代の武将、守護大名。信濃守護[1]。小笠原長基の3男で長将、長秀の弟。宗康、光康の父。小笠原氏は曾祖父貞宗が足利尊氏に仕えた功績で信濃守護を世襲したが、隠居した父の後を継いだ次兄長秀が国人衆の反感を買い、大塔合戦に敗れて応永8年(1401)に信濃守護職を取り上げられ、信濃は一時斯波義将の支配に置かれた後、翌応永9年(1402)には室町幕府の直轄領となった。 政康は嘉慶2年(1388)に13歳で元服し、応永12年(1405)に兄から家督と小笠原氏の所領を譲られた。応永23年(1416)に関東で発生した上杉禅秀の乱鎮定に駿河守護今川範政や越後守護上杉房方と共に出陣し、また応永30年(1423)には鎌倉公方足利持氏と対立した京都扶持衆山入氏・小栗氏・真壁氏らを救援するため、幕府代官細川持有と共に常陸国に出陣するなど、足利将軍家に反抗的な関東足利氏への抑え役として4代将軍足利義持から重用され、応永32年(1425)に信濃守護職に任命された。信濃の幕府直轄化は元々は守護による統治を嫌って幕府直臣化を望む信濃村上氏ら国人の動きに応えたものであったが、自立志向が強い彼らは幕府の命令にも従わず関東足利氏に通じて反抗することもあったため幕府にとって直轄支配のメリットがなかったこと、関東足利氏に対抗する軍事的再編の中で守護による軍事指揮権の再構築が図られたことによるとみられている。正長元年(1428年)の正長の土一揆に対して上洛し一揆勢の鎮圧にあたった。また、この年に足利持氏が越後守護代長尾邦景や同国の国人を寝返らせようとして邦景から告発を受けると、政康を急遽帰国させて越後出陣の事態に備えさせている。永享4年(1432)には6代将軍足利義教の弓馬師範に推挙された(『林羅山撰 将軍家譜』)。永享8年(1436)には持氏と通じた村上頼清と芦田氏討伐を果たし、義教から感状を授かった。村上氏は永享9年(1437年)に幕府に降伏し、小笠原氏の信濃支配は一応達成することになる。これに先立つ応永24年(1417)、在京していた武田信元の甲斐帰還を手助け、守護代として跡部氏を派遣している。甲斐では持氏の支援を受けた国人・逸見有直が勢力を強めており、その対抗的意味があったと考えられている。永享10年(1438)の永享の乱では上野国に出陣し平井城に向けて北上する持氏方の軍勢を討ち破った。永享12年(1440)の結城合戦にも信濃武士を統べて参戦しており、『結城陣番帳』にその諸将の名が見える。嘉吉2年(1442)、小県郡海野で死去。享年67歳。長男の宗康が後を継いだ。しかし、正式な譲状を作成しなかったことから、この継承に異論を挟む余地を生んだ。その後、嘉吉の乱で義教が赤松満祐に暗殺された後に畠山持国が台頭、甥で長兄長将の子の持長が持国の支持を背景に相続を主張、国人も2派に分かれて抗争、小笠原氏はお家騒動で混乱、信濃の支配に動揺をきたし漆田原の戦いを起こすことになった。信濃の支配権確立にも取り組み、広沢寺や筑摩神社を開基した。】 *「小笠原 長秀」(おがさわら ながひで)は、室町時代の武将、守護大名。信濃守護。小笠原長基の次男。長将の弟、政康の兄。幼名は豊若丸。初めは上洛して将軍足利義満に出仕した。明徳3年/元中9年(1392)、相国寺の落慶供養では先陣随兵を務めている。応永6年(1399)の応永の乱では畠山基国に従って堺を攻め、同年、信濃守護に補任された。入部に先立ち、将軍足利義持は水内郡太田荘領家職について、押領人を退けるよう御教書を発した。応永7年(1400年)、京都から下向し、国衙の後庁のあった善光寺に入部したが、国人に対する排斥と守護権力の強化は大いに反感を買い、有力武将や大文字一揆勢との大塔合戦へと発展し、大敗して大井光矩の仲介によって京都に逐電した。応永8年(1401)に信濃守護職を解任され、信濃は幕府の直轄領(料国)となった。応永12年(1405)に弟政康に家督と小笠原氏の所領を譲渡した。応永31年(1424)筑摩郡で死去(『豊前豊津小笠原家譜』)。享年59歳。著書に「犬追物起源」がある。 *「小笠原 政康」(おがさわら まさやす)は、室町時代の武将、守護大名。信濃守護[1]。小笠原長基の3男で長将、長秀の弟。宗康、光康の父。小笠原氏は曾祖父貞宗が足利尊氏に仕えた功績で信濃守護を世襲したが、隠居した父の後を継いだ次兄長秀が国人衆の反感を買い、大塔合戦に敗れて応永8年(1401)に信濃守護職を取り上げられ、信濃は一時斯波義将の支配に置かれた後、翌応永9年(1402)には室町幕府の直轄領となった。 政康は嘉慶2年(1388)に13歳で元服し、応永12年(1405)に兄から家督と小笠原氏の所領を譲られた。応永23年(1416)に関東で発生した上杉禅秀の乱鎮定に駿河守護今川範政や越後守護上杉房方と共に出陣し、また応永30年(1423)には鎌倉公方足利持氏と対立した京都扶持衆山入氏・小栗氏・真壁氏らを救援するため、幕府代官細川持有と共に常陸国に出陣するなど、足利将軍家に反抗的な関東足利氏への抑え役として4代将軍足利義持から重用され、応永32年(1425)に信濃守護職に任命された。信濃の幕府直轄化は元々は守護による統治を嫌って幕府直臣化を望む信濃村上氏ら国人の動きに応えたものであったが、自立志向が強い彼らは幕府の命令にも従わず関東足利氏に通じて反抗することもあったため幕府にとって直轄支配のメリットがなかったこと、関東足利氏に対抗する軍事的再編の中で守護による軍事指揮権の再構築が図られたことによるとみられている。
2024年05月12日
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興国6年/康永4年(1345)8月、後醍醐天皇七回忌のための供養儀式が天竜寺において執行され、これに際して北朝方の武士が随兵として従ったが、その先陣12名のなかに政長の名前があり、帯刀32名のなかに弟の小笠原政経ら一族の名が見える。正平2年/貞和3年(1347)、父の死により足利尊氏より改めて安堵を受ける。観応の擾乱では、最初は尊氏・高師直方についたが、諏訪直頼・祢津宗貞ら信濃国内の足利直義方による攻勢が激しく、状況が不利に成ると、正平6年/観応2年(1351)1月、京の自邸を焼き払って直義方に降り、打出浜の戦いに参戦した。この結果、政長は守護職を解任されるが、諏訪・祢津らによる攻勢は収まることなく苦境に立たされた。これを見た尊氏は一度は自分を裏切った政長を再び味方に取り込もうと働きかけ、その結果この年の8月には尊氏方に復帰して再び守護職に任じられた。正平7年/文和元年(1351)10月、南朝から直義追討の院宣を得た尊氏が鎌倉に拠った直義を討つために出陣すると、政長は尊氏軍の先鋒として遠江国に出兵し、蜂起した直義方の吉良満貞の軍勢を引間(浜松)で打ち破り、薩た峠の戦いで上杉能憲と交戦した。12月、信濃に戻り諏訪直頼、祢津宗貞の軍を小県郡夜山中尾(現・上田市生田)に破った。翌年、家督を長男の長基に譲った。しかし長基はまだ幼少であり、家督相続は名目上で引き続き実権は握っていたものと思われる。正平10年/文和4年(1355)、信濃に拠っていた後醍醐天皇の皇子、信濃宮宗良親王が諏訪氏・仁科氏ら宮方勢力を結集して挙兵すると、長基・政長らは武田氏らとともに鎮圧に当たった(桔梗ヶ原の戦い)。この戦いの経過の詳細は明らかではないが、以降この地方における宮方勢力の行動が沈静化していることから北朝方の勝利に終わったものと考えられている。政長はその後も領国である信濃の平定に尽力し、正平20年/貞治4年3月21日(1365年4月12日)に没した。享年47歳。著書に「軍術兵用記」がある。】 *「小笠原 貞宗」(おがさわら さだむね)は、鎌倉時代後期から室町時代前期の武将。信濃小笠原氏の当主。信濃守護。正応5年、信濃国松尾(現・長野県飯田市)に生まれる[2]。北条貞時から偏諱(「貞」の字)を受けていることから明らかであるように、当初は鎌倉幕府に仕えていた。元弘元年(1331)からの元弘の乱では新田義貞に従い、足利尊氏(高氏)らとともに後醍醐天皇の討幕運動を鎮圧に加わり、北条貞直に属して楠木正成の赤坂城を攻めた(『光明寺残篇』)。元弘2年/正慶元年(1332)9月、北条高時が京へ派遣した上洛軍のなかに小笠原彦五郎(貞宗)の名がある。 しかし、高氏が鎌倉幕府に反旗を翻すとこれに従い、鎌倉の戦いに参加する。建武元年、この功績により信濃国の守護(信濃守守護)に任ぜられた。中先代の乱では北条残党により国衙を襲撃されて国司を殺され、鎌倉進軍を阻止できなかったが、鎮圧後、尊氏が後醍醐天皇から離反(建武の乱)するとこれに従った[2]乱における国衙焼失後、後醍醐天皇の任命した後任の国司堀川光継を筑摩郡浅間宿に出迎えている。建武3年/延元元年(1336)には足利方の入京により後醍醐天皇が比叡山へ逃れる。この際、9月中旬、貞宗は上洛の途中、近江国で新田義貞と脇屋義助を破り、援軍に来た佐々木導誉ら足利方本軍と共に、後醍醐方の兵糧を絶つ目的で29日まで琵琶湖の湖上封鎖を行い、これが決定打となって建武の乱は10月10日に終結した(近江の戦い)(『梅松論』)。その後も一貫して北朝側の武将として金ヶ崎の戦い、青野原の戦いなど各地を転戦し、暦応3年/興国元年(1340)には、遠江から信濃南朝方の拠点である伊那谷に入った北条時行を大徳王寺城に破った。康永元年/興国3年(1342)には高師冬の救援要請を受けて常陸に北畠親房を攻 めた。建武2年9月には安曇郡住吉荘を、正平2年/貞和3年4月には近府春近領を与えられ、信濃府中に進出する足掛かりを得た。正平2年/貞和3年5月26日(1347年7月5日)、京都で死去。56歳没。子の政長が家督を相続した。小笠原流礼法について現在も続く小笠原総領家では貞宗を小笠原流礼法の中興の祖としている。貞宗は弓馬術に礼式を加え、弓・馬・礼の三つを糾法と称し、小笠原伝統の基盤を作った。さらに、後醍醐天皇より「小笠原は武士の定式なり」との御手判と「王」の字を家紋に賜った。特に騎射に優れ犬追物を復活させ晩年には今川氏、伊勢氏、小笠原氏の三家の武家礼節の書「三義一統」を著した。剃髪し開善寺(飯田市)を創立し俗に開善寺入道と称されている。ただし、小笠原家については歴史的研究はなされていないため、言い伝えに過ぎない。】
2024年05月12日
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定説となっていた館跡は、寿永元年(1182)の横田河原の戦いで使われた砦跡とする説もあり、その説だと200年余も経ている。更に「大塔の古城」に立て篭もった守護勢が壊滅したのは十月二十一日とされ、合戦が行われた九月二十五日から一ヶ月近く経過しているため、微高地とはいえ低湿地の中の荒れ果てた館跡(廃墟)で一ヶ月も持ち応えるのは不自然だとする異論が存在する。現在では大当地区の西方約2キロにある二ッ柳城(現在の二ッ柳神社)を「大塔の古城」に比定する説があり、更に西に400mほどの距離にある夏目城(現在の湯入神社)も近いことから両方との説もある。共に大当地区を見下ろす山際の傾斜地にあり、後の発掘調査により当時は廃城となっていた事が確認されている。ただ、この説に対しても、この二ツ柳方面には、合戦前に500余騎の須坂・中野地方の国人衆が、方田ヶ崎石川(夏目城)方面にも仁科勢等800余騎が布陣していたと伝えられることから、逃げ込む先として考えるには不適当だとする向きもある。守護方として参陣した市河六郎頼重の記録(「市河文書」)には、「二柳城においての戦功」に対して小笠原氏に恩賞を求めた記述が残されているが、この戦功が「大塔の古城」で挙げたものかは不明であることから、今も場所の特定には至っていない。その後の大文字一揆衆永享2年(1430)鎌倉公方足利持氏が白河結城氏を討とうとすると、 将軍足利義教は信濃、越後、駿河の援軍を結城氏に派遣した。この時幕府は守護小笠原政康が率いる信濃の軍勢を畠山氏に従わせたが、大文字一揆については山名時熙に付随させている。】 信濃小笠原氏が度々守護職が外された理由としては、信濃小笠原氏の統治能力の問題だけではなく、信濃が室町幕府の勢力圏と鎌倉府の管轄地域の境目にあり、その管轄が幕府と鎌倉府の間で変更されたり、自立性の強い信濃国人が守護による統治を嫌って幕府の直接統治を望んだことなどがあげられる。それが、大塔合戦の背景の一つでもあり、また信濃小笠原氏も上杉氏や斯波氏の守護在任時代には反守護の信濃国人側に立っている。だが、応永年間末期に室町幕府と鎌倉府の対立の構図が明確になると信濃は幕府側の最前線として位置づけが固まったこと、信濃国人が幕府の意向に必ずしも忠実ではないことが明らかになったことで信濃有数の勢力を持って幕府に比較的忠実な小笠原氏を守護として鎌倉府に対峙させ、幕府がそれを支援する方針が固まってきたと考えられている。もっとも、小笠原氏の守護職復帰後も村上氏・諏訪氏ら信濃国人との間に封建的な主従関係を確立できたわけではなく、守護権力が弱体化した状態が続くことになる。 6、「信濃小笠原氏の三家分立」信濃小笠原氏の家督を継いだ長秀の弟の小笠原政康は、たびたび戦乱を起こしていた鎌倉公方への抑え役として足利義持から重用されて、応永32年(1425)に信濃守護職に任命され、信濃国内、甲斐国、武蔵国を転戦し、庶流の跡部氏を甲斐に送り込んだ。しかし、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で6代将軍足利義教が暗殺されると畠山持国が台頭し小笠原長将(長秀の兄)の子の小笠原持長が家督相続を主張して内乱を起こし、文安3年(1446年)に政康の子小笠原宗康を漆田原の戦いで討ち取って南下し、国府を奪い府中小笠原氏を起こした。しかし、宗康は戦死前に伊那郡伊賀良荘の松尾小笠原氏である弟の小笠原光康を後継者に定めており、府中小笠原氏に対向した。また、府中から光康の元に逃れた小笠原政秀(宗康の子)も鈴岡小笠原氏を起こし小笠原氏は3家に分裂した。*「漆田原の戦い」(うるしだはらのたたかい)とは、室町時代に起きた信濃守護家の後継をめぐる内紛である。文安3年(1446)、小笠原宗康は父の小笠原政康から家督を相続していたが従兄の小笠原持長との間で相続をめぐる争いになった。宗康は弟の小笠原光康に自身が万一討死の際は家督を譲り渡す条件で協力の取り決めをして漆田原(長野市中御所の長野駅付近)での持長軍との合戦に臨んだが敗死。持長は宗康を討取りはしたものの、幕府がこれを認めずに家督を手中にすることが出来ず対立は子らの代にまで続いた。そのため、小笠原氏は持長の系統と光康の系統、そして宗康自身の遺児による系統と三家に分裂して行った。上記の他にも下記の戦闘の行われた地である。1387年(南朝:元中4年、北朝:嘉慶元年)5月、守護斯波義種に反抗する村上頼国、小笠原清順、高梨朝高、長沼太郎(信濃島津氏)らが善光寺で挙兵して平柴(長野市安茂里)の守護所を攻めた際に、麓のこの地で合戦となった。8月には守護代の二宮氏泰が篭城していた横山城を攻め落とした。敗走する市河氏らを追撃して、埴科郡の生仁城(千曲市雨宮)へと転戦し攻略している。1477年、文明9年8月、この地の領主であった漆田秀豊が隣接地の領主でもあり、善光寺別当である栗田氏に攻め込まれて敗れた合戦が行われた。】*「小笠原 政長」(おがさわら まさなが)は、南北朝時代の武将。信濃小笠原氏の当主。南北朝の争乱において父の貞宗とともに足利尊氏に従い、北朝方の武将として各地を転戦した。興国5年/康永3年(1345)11月12日、父から信濃守護職及び甲斐国原小笠原荘・信濃国伊賀良荘などの小笠原氏惣領の主たる所領を譲られて家督を継承した。
2024年05月12日
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また制圧されはしたものの時の守護を兼帯した関東管領上杉朝房の攻撃に対して、これを迎え撃って合戦に及ぶ事件なども続いた。南北朝合一の後、永らく北朝方として戦い、足利将軍家から信濃守護家として遇された小笠原氏が念願の信濃守護に再び補任されるのは応永6年(1399)のことであった。発端小笠原長秀は将軍足利義満から信濃国守護に任命された。就任直後の10月には反発した長沼の島津国忠が守護方の赤沢秀国、櫛置清忠らと石和田(長野市朝陽)付近で抗争した。応永7年(1400年)7月3日、京都を出立した長秀は同族の大井光矩(佐久)のもとを経由し、北信濃の有力者である村上満信には特に使者を送って協力を求め、東北信の国人領主に対しても守護としての政務開始を通告。その中心地である善光寺に一族郎党200騎余を従える煌びやかな行列を組んで入る。そして信濃の国人領主達を召集して対面する。この時の対面は、相当に高圧的なものだったと伝えられている。守護就任に反感を強めていた犀川沿岸の栗田氏(長野市栗田)や小田切氏(長野市小田切)、落合氏(長野市安茂里)、香坂氏(長野市信州新町)、春日氏(長野市七二会)、三村氏(塩尻市洗馬)、西牧氏(松本市梓川)ら国人は「大文字一揆」を形成し、窪寺氏(長野市安茂里)のもとに集まり談合したが推移を見守ることとした。なお、『大塔物語』によれば大文字一揆には大塔古城の攻撃の際、大手門攻撃総大将であった禰津遠光の配下に「実田(さなだ)」氏が加わっており、後の真田氏の一族とする説がある。長秀は、ちょうど収穫の時期となっていた近隣の川中島で、「幕府から知行された守護の所領である」として年貢の徴収を開始する。しかし当時は村上氏が押領していた地であり、守護の一存で所領が左右されることは多かれ少なかれ押領地を有する他の国人領主にとっては認めがたく、多くの国人領主たちを反小笠原に決定付けることとなった。戦局守護小笠原氏に反旗を翻したのは、村上氏のほかに中信の仁科氏・東信の海野氏や根津氏を始めとする滋野氏一族・北信の高梨氏や井上氏、信濃島津氏など大半の国人衆で、小笠原氏に加勢したのは一族以外では市河氏と、元々地盤としていた南信地方を中心とした一部の武士たちだけだったとされる。また小笠原一族内でも、長秀の高圧的な態度に反発して参陣しなかった者が続出したとされる(後に仲介役となる大井氏など、ほぼ半数が加勢しなかったとされる)。上田市立博物館所蔵の「大塔物語」によれば、長秀の下に集まった小笠原勢は800騎余りで、善光寺から横田城へ兵を進めた。これに対する国人衆(大文字一揆)は、篠ノ井の岡に500余騎(村上氏)、篠ノ井塩崎上島に700余騎(佐久地方の国人衆)、篠ノ井山王堂に300余騎(海野氏)、篠ノ井二ッ柳に500余騎(高梨氏、井上氏一族など須坂・中野地方の国人衆)、方田ヶ先石川に800余騎(安曇地方の有力国人仁科氏や、根津氏など大文字一揆衆)が布陣したとの記載がある。この”騎”というのは何人もの家来を連れた武士のことで、実数は4千弱の小笠原勢に対して国人衆は1万以上の兵力だったと推定されている。また、この時諏訪神社上社の諏訪氏は国人側を支援し、下社の金刺氏は守護側寄りであったと伝えられ諏訪神社の分裂が顕在化したとされる。この状況に横田城では防ぎきれないと判断した長秀は、一族の赤沢氏の居城である塩崎城への秘かな脱出を目指すが、途中で発見され塩崎城に辿り着けたのは長秀以下僅か150騎のみで、300騎余りが途中の大塔の古城(古砦)に辛うじて逃げ込んだ。しかし、食料を始め何も準備していない古城(廃城)では篭城する術も無く、取り残される事となった小笠原勢は全員が自害か討死して果てる。更に長秀が逃げ込んだ塩崎城も攻撃を受け、同族で守護代の大井光矩が仲介の手を差し伸べたことで辛くも窮地を脱し、長秀は京都に逃げ帰った。翌年の応永8年(1401)に長秀は幕府から信濃守護職を罷免され、信濃は幕府直轄領(料国)となった。その間、幕府の代官として細川氏が派遣された。信濃が再び小笠原氏の領国になるのは長秀の弟政康が守護に任命された応永32年(1425)である。なお守護方の侍大将の中に井深氏の名が見られる。大塔の古城(古砦)「大塔の古城」の場所については、現在の篠ノ井にある大当地区にあった館跡が定説とされていた。大当地区の東方約500mに当たる御幣川地区にある宝昌寺はこの合戦の多くの戦死者を葬った所との伝承がある。しかし、当時の大当地区を含む現在の長野市篠ノ井から千曲市北部(旧更埴市)にかけては、千曲川に犀川からの御幣川(現在の岡田川)や聖川が合流する低湿地の池沼地帯であったとされ、古くは平安時代から度々大洪水の記録が残されている地である。
2024年05月12日
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5、「信濃小笠原氏」鎌倉時代小笠原氏の惣領職は初代の小笠原長清から小笠原長経に受け継がれたが、比企能員の変に連座して失脚し、庶流の伴野時長に移った。長経は承久の乱の功績で阿波国の守護に任ぜられ、同地に根拠を移す。しかし時長の娘が安達泰盛の母であり、時長の孫・伴野長泰は泰盛の従兄弟として霜月騒動に巻き込まれ戦死したため、惣領は長経の曾孫にあたる小笠原長氏に戻った。長氏は承久の乱後に信濃国に帰国した長忠の孫とされているが、長忠の子で長氏の父にあたる長政は京都の六波羅探題で評定衆を務めていたことが確認できるため、京都が拠点であった可能性が高い。また、長忠の拠点であったとされる信濃国伊賀良荘(現在の長野県飯田市)も実際には北条氏の滅亡後に討幕の恩賞で小笠原氏の所領として与えられたとみられるため、長経系の信濃小笠原氏の成立は惣領の移転よりも更に後の建武政権期に下る可能性もある(小笠原氏惣領の所領は長清の所領があった甲斐国巨摩郡にあったとみられるため)。宝治元年(1247年)の宝治合戦では小笠原七郎が三浦泰村に味方して敗北した。建治元年(1275)5月の『造六条八幡新宮用途支配事』によれば、鎌倉中小笠原入道跡が百貫を納めている。 *「小笠原 長経」(おがさわら ながつね)は、鎌倉時代前期の信濃国の武将。鎌倉幕府御家人。小笠原長清の子。二代将軍源頼家の近習として仕え、蹴鞠の相手や流鏑馬の射手を務めている。正治元年(1199)4月、頼家が十三人の合議制に反発して指名した目通りが許される5人の近習にも選ばれている。同年8月、頼家が安達景盛の愛妾を奪ったことで両者が対立すると、頼家の命を受けて安達邸を包囲したが、北条政子に制止されている(『吾妻鏡』)。建仁3年(1203)9月、比企能員の変では、比企氏方として拘禁された。その後鎌倉を引き払ったと見られ、鎌倉では弟の伴野時長が小笠原氏の嫡家として重用されている。承久3年(1221)、承久の乱で父長清は鎌倉方の大将軍として子息8人と共に京へ攻め上り、京都軍と戦った。乱後の貞応2年(1223)、長経は父の跡を継いで阿波国の守護となっており、5月27日、土御門上皇の土佐国から阿波国への還御にあたって、対応を命じられている。出家して小笠原入道と称され、宝治元年(1247)5月9日、京都の新日吉社で行われた流鏑馬の神事を務めている(『葉黄記』)。宝治元年(1247年)11月5日、69歳で死去。】 信濃国の室町時代小笠原貞宗は鎌倉幕府に反旗を翻した足利尊氏に従い鎌倉の戦いに出陣し、建武元年(1334)、建武政権より信濃守および信濃守護に任じられ、筑摩郡に井川館を築いた。室町時代にも小笠原一族は幕府の奉公衆等となって活躍し、南北朝時代には小笠原政長(貞宗の子)は北朝に属したものの伊那谷は北条時行の拠点であり、後に諏訪氏や仁科氏等の南朝の拠点となった。対して貞宗の跡を継いだ小笠原長基は若年であったため、代わりに上杉氏や斯波氏が信濃守護を任じられた。長基は正平10年/文和4年(1355)4月の桔梗ヶ原の戦いで南朝の宗良親王を破り吉野へ駆逐するなど戦功を挙げ、信濃守護に任じられた。しかし、応永7年(1400)に足利義満に仕えばさらであった小笠原長秀(長基の次男)が信濃国守護に任じられて入国すると、村上氏、仁科氏、諏訪氏、滋野氏、高梨氏、井上氏など、信濃国人の大半が反発して大塔合戦を起こし、これに大敗した長秀は京都に逐電し守護職を罷免された。信濃守護職は斯波氏を経て室町幕府の料国(直接統治)とされたが、信濃小笠原氏の家督を継いだ長秀の弟の小笠原政康が応永32年(1425)に信濃守護職に任命されてからは信濃小笠原氏の守護職の地位が安定化した。 *「大塔合戦」(おおとうがっせん)とは、応永7年(1400)に信濃守護小笠原長秀が、村上氏・井上氏・高梨氏・仁科氏ら有力国人領主及びそれらと結んだ中小国人領主の連合軍(大文字一揆)と善光寺平南部で争った合戦。守護側が大敗し、以後も信濃国は中小の有力国人領主たちが割拠する時代が続くことになる。前史信濃は、鎌倉時代のほぼ全期間を通じて北条氏が守護職を独占しており、鎌倉時代が終焉を告げた後も「中先代の乱」に信濃の御家人が主戦力となるなど、北条氏の勢力が強い地域であった。そんな中にあって、元々は甲斐国の甲斐源氏の一族である加賀美氏(清和源氏義光流、武田氏と同族)から別れ信濃各所に勢力を保持していた小笠原氏は、早くから足利尊氏による倒幕に加勢し、建武2年(1335)に小笠原貞宗が信濃守護に任命される。しかし中先代の乱により船山守護所を襲われた青沼合戦では警備をあずかる市河氏らが奮戦するも敗走、国衙を焼かれ建武政権が任命した公家の国司が自害に追い込まれるなどがあって信濃国内は混乱した。尊氏による新帝擁立で南北朝時代が到来し、また、尊氏と弟の直義の兄弟対立による観応の擾乱が起こると、信濃の国人領主達も北朝方と南朝方、尊氏党と直義党に二分して各所で抗争を引き起こし、守護職が斯波氏に交替した時代には守護代の二宮氏泰の命に抵抗したり、その篭城する横山城を攻め落としてしまった。
2024年05月12日
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4、「京都小笠原氏」小笠原氏には宗家の貞宗の弟の貞長の流れがある。貞長は新田義貞と戦って討死し、子の長高は京都に住んで足利尊氏の弓馬の師範であったというが史実か疑わしい。以後、幕府に奉公衆として仕えた。京都に住んだ貞長の系統は、兄貞宗の系統を信濃小笠原氏とするのに対して、京都小笠原氏と呼ばれる。京都小笠原氏の一族は将軍側近の有力武将として重きをなすとともに、幕府初期から的始めなどの幕府儀礼に参加している。6代将軍の足利義教の頃には将軍家の「弓馬師範」としての地位を確立し、以後的始め、馬始めなど幕府の公式儀礼をしばしば差配し、当時における武家の有職故実の中心的存在となった。こうしたことから奉公衆とはいえ一般の番衆とは区別され、書札礼では「小笠原殿のことは、弓馬師範たる間、如何にも賞翫にて恐惶謹言と書く事、可然也」(『大舘常興書札抄』)とされた。なお従来は、将軍家の弓馬師範は信濃小笠原氏が務めたとされたり、貞宗が後醍醐天皇の師範、長高が足利尊氏の師範を務めたなどの説が流布していたが、これらは後世の付会に過ぎず史料的裏付けに乏しい。小笠原氏が将軍家弓馬師範なる地位を得るのは足利義教の代で、それも信濃小笠原氏ではなく京都小笠原氏である。信濃小笠原氏が武家故実に関わるのは小笠原長時、貞慶父子の時代になってからである。なお、小笠原政清は同じ幕臣であった伊勢盛時(北条早雲)に娘を嫁がせたとされており、彼女の所生とされる北条氏綱以降の後北条氏歴代当主は京都小笠原氏の血を引いていた事になる。京都小笠原氏の一族は、嫡流は幕臣として続いたが、小笠原稙盛が永禄8年(1565)の永禄の変で将軍足利義輝とともに討死すると、稙盛の子の秀清(少斎)は浪人し、後に細川氏(後の熊本藩主細川氏)に仕えた(稙盛は永禄の変後に足利義栄に従ったため、足利義昭の時代に所領を没収されたとする説もある)。秀清は関ヶ原の戦いの際に細川ガラシャの介錯を務め殉死し、秀清の子孫は江戸時代には熊本藩の家老を務めた。また、庶流の小笠原元続は将軍足利義澄の死去後に幕府を離れ、縁戚の後北条氏を頼った。元続の子の康広は北条氏康の娘婿となった。小田原征伐で後北条氏の嫡流が滅亡すると、康広の子の長房は徳川家康の家臣となり、子孫は旗本として存続し、江戸時代の歴代の当主は縫殿助を称した。旗本となった小笠原長房の子孫は家禄780石余、縫殿助を称した当主が多いため縫殿助家とも呼ばれる。長房の曾孫の持広は享保元年(1716)に将軍徳川吉宗の命により家伝の書籍91部と源頼朝の鞢(ゆがけ)を台覧に供した。これは吉宗が射礼や犬追物など弓馬の古式の復興に熱心で諸家の記録を調べていたためで、「世に稀なる書ゆえ永く秘蔵すべき」旨の言葉があったという。後に吉宗は近侍の臣らを持広の弟子として射礼を学ばせている。持広は弓場始(的始め)の式に伺候するとともに、小的、草鹿、賭弓、円物、百手的などを上覧に入れるなどした。子孫も同様な役を勤め、幕末には小笠原鍾次郎が講武所で弓術教授を勤めたが、この家は維新期に断絶する。つまり、室町幕府以来最も長く礼法を伝える家系は現代には続いておらず、縫殿助家と共に徳川幕府の師範家となっていた旗本小笠原平兵衛家(もと赤沢氏)が、現代では小笠原流(弓馬術礼法小笠原教場)宗家となっている。 *「小笠原 長房」(おがさわら ながふさ)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。阿波国守護。小笠原長経の次男で阿波小笠原氏の祖となる。承久の乱後、兄・長忠が阿波国守護に任ぜられるが、長忠が本国である信濃国への帰国を希望したために、代わって長房が守護となった。文永4年(1267)に幕府の命令を奉じて、三好郡郡領・平盛隆を討ち、褒賞として美馬郡と三好郡に2万6千町余りの所領が与えられ、阿波岩倉城を拠点とした。子孫は鎌倉幕府滅亡まで阿波国守護を務め、子孫からは三好氏などを輩出した。】
2024年05月12日
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*「小笠原 長胤」(おがさわら ながたね)は、豊前中津藩の第3代藩主。忠脩系小笠原家3代。藩財政を困窮させた暗君として知られている。寛文8年(1668年)2月9日、初代藩主・小笠原長次の長男・長章の長男として江戸で生まれる。長章は元は世子であったが、病弱なために廃嫡され、長章の弟の長勝が家督を継いだ。長胤は長勝の娘婿となり、天和2年(1682)から病気に倒れた長勝の政務代行を務め、12月に長勝が死去すると、天和3年(1683)1月26日に家督を継いだ。12月4日に従五位下・修理大夫に叙位・任官する。養父の悪政を正すため、貞享3年(1686)に大規模な治水工事を行なった。これは確かに農業にとってはプラスに働いたが、工事による経費などの負担で藩財政の困窮を招いた。元禄2年(1689)6月28日、第5代将軍・徳川綱吉の奥詰となる。元禄4年(1691)には家臣の半知借り上げを行なった。そして弟の長宥に5000石を分与し、旗本時枝領を創設している。しかし、次第に養父と同じような悪政を行なうようになり、元禄6年(1693)には譜代家臣の丸山将監ら26人を追放し、新参の家臣を重用するようになる。また、運上を増税するなどして贅沢を極めるようになった。先代から続くこのような一連の悪政は幕府も見逃せなくなり、元禄11年(1698)7月28日、悪政と乱行を理由にして幕命により改易に処され、本家の豊前小倉藩主・小笠原忠雄のもとに身柄を預けられた。ただし先祖の忠脩らの功績を幕府より考慮されて、「祖先の勤労」により長胤・長宥の弟の長円が4万石に減封された上で家督を継ぐことを許された。宝永6年(1709年)3月27日に配所でそのまま死去した。享年42歳。】 *「小笠原 成助」(おがさわら なりすけ、生年不明 - 天正10年(1582)11月)は、安土桃山時代の武将。長門守を称す。阿波小笠原氏の当主。一宮城を居城とした事から、一宮 成助(いちのみや なりすけ)とも呼ばれる。名の読み方は「なりすけ」で、成祐や成佐など同音異字の表記がある。妻は三好長慶の妹、野口冬長女。一族の三好氏に属して各地を転戦。永禄5年(1562)の久米田の戦いにも参陣。大将である三好実休が戦死する敗戦となったが、撤退戦では配下を見事に指揮して無事に撤退に成功している。しかし、長慶の死後、三好氏の勢力が衰退し、三好長治が当主となった頃には、長宗我部氏に鞍替えし、天正5年(1577)から天正8年(1580)にかけて勝端城を巡って長宗我部氏の支援を受けながら十河存保と争奪戦を繰り広げている。以後も、長宗我部氏の四国統一戦に従ったが、天正10年(1582年)9月3日に三好康長に内応して織田方に寝返り、中富川の戦いの後で再び長宗我部側に降参したが、11月に長宗我部元親に咎められ、切腹を命じられた。弟の成孝(光孝とも)は、兄が謀殺された際に讃岐国へ逃亡し、その子である光信の代で、蜂須賀氏に仕え、一宮神社の神職として血脈を残している。逸話謀殺された無念から、死後亡霊となって現れたという伝説があり、妖怪・夜行さんのモデルの1人ともされている。 小笠原 長房(おがさわら ながふさ)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。阿波国守護。小笠原長経の次男で阿波小笠原氏の祖となる。承久の乱後、兄・長忠が阿波国守護に任ぜられるが、長忠が本国である信濃国への帰国を希望したために、代わって長房が守護となった。文永4年(1267)に幕府の命令を奉じて、三好郡郡領・平盛隆を討ち、褒賞として美馬郡と三好郡に2万6千町余りの所領が与えられ、阿波岩倉城を拠点とした。子孫は鎌倉幕府滅亡まで阿波国守護を務め、子孫からは三好氏などを輩出した。】 *「小笠原 長房」(おがさわら ながふさ)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。阿波国守護。小笠原長経の次男で阿波小笠原氏の祖となる。承久の乱後、兄・長忠が阿波国守護に任ぜられるが、長忠が本国である信濃国への帰国を希望したために、代わって長房が守護となった。文永4年(1267)に幕府の命令を奉じて、三好郡郡領・平盛隆を討ち、褒賞として美馬郡と三好郡に2万6千町余りの所領が与えられ、阿波岩倉城を拠点とした。子孫は鎌倉幕府滅亡まで阿波国守護を務め、子孫からは三好氏などを輩出した。】
2024年05月12日
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2、「小笠原氏の出自と加賀美氏流」」「小笠原氏」(おがさわらし、おがさわらうじ)は、日本の氏族。清和源氏の河内源氏の流れをくみ、武家の有職故実を伝える一族としても知られる。通字は、「長」・「貞」・「忠」などである。家紋は三階菱。小笠原氏の家名のもとになった「小笠原」の地名は甲斐国巨摩郡に見られ、小笠原牧や山小笠原荘があった現在の山梨県北杜市明野町小笠原と、原小笠原荘があった現在の山梨県南アルプス市小笠原に居館があったとされる。なお、今日の研究では原小笠原荘が小笠原氏の本貫であったと考えられている。甲斐源氏の嫡流となった武田氏に対し、加賀美氏流の小笠原氏は庶流にあたるものの、格式や勢力の上では決して武田氏に劣ることなく、全国各地に所領や一族を有する大族である。鎌倉時代から信濃に本拠を移し、室町時代には幕府から信濃の守護に任ぜられた。嫡流は信濃と京都に分かれ、庶流は信濃国内はもちろん、阿波、備前、備中、石見、三河、遠江、陸奥にも広がった。戦国時代には小笠原氏の宗家は武田氏に所領を奪われて没落するが、安土桃山時代に再興し、江戸時代には譜代大名となった。室町時代以降、武家社会で有職故実の中心的存在となり家の伝統を継承していったことから、時の幕府からも礼典や武芸の事柄においては重用された。これが今日に知られる小笠原流の起源である。煎茶道や兵法などにも小笠原流があるが、その起源は多様である。また、抹茶の茶道においては、江戸時代に千利休三世の千宗旦の高弟で四天王と呼ばれた山田宗徧を迎えて宗徧流茶道を保護し、村田珠光の一の弟子と呼ばれた古市澄胤の後裔を迎えて小笠原家茶道古流を興した。「小笠原氏の始まり」小笠原氏の祖の小笠原長清は、滝口武者として高倉天皇に仕えた加賀美遠光の次男として甲斐国に生まれた。長清は『平家物語』に「加賀美小次郎長清」の名で登場しており、遠光の所領の甲斐国小笠原を相続して小笠原氏を称した。南部氏の祖の南部光行は長清の弟である。平家が壇ノ浦の戦いで滅亡した元暦2年・寿永4年(1185)に、信濃国を知行国とした源頼朝によって遠光は信濃守に任ぜられたが、長清はこの地盤を受け継ぎ、小笠原氏は信濃に土着してゆく。なお小笠原氏の家紋である三階菱は、本来は加賀美氏の家紋である(現在では遠光ゆかりの寺院のみが、三階菱の中に「王」の文字を入れた原型を用いている)。なお、長清の子孫には小笠原氏が守護となった阿波に土着した者がおり#阿波小笠原氏となる。また、阿波小笠原氏の一部は元寇の戦功により石見に所領を得て#石見小笠原氏となる。*「加賀美 遠光」(かがみ とおみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。甲斐源氏の祖とされる源義光の孫源清光の四男(清光の父義清の子とする説もある)。加賀美氏の初代であり、武田氏初代武田信義の弟(あるいは叔父)となる。甲斐国巨麻郡加賀美郷(現在の山梨県南アルプス市の一部)一帯に所在する加々美荘を本領とした。保元2年(1157年)、源義重の加冠によって15歳で元服。伝承によれば、承安元年(1171)に宮中に怪異が起こり、高倉天皇は源氏の弓矢の名手として遠光を召され(当時遠光は滝口武者であったとされる)、鳴弦の術を行わせた。無事に怪異は治まり、遠光は褒賞として不動明王像と近江国志賀郡を下賜されたという。この不動明王像は現在も山梨県南巨摩郡身延町の大聖寺に安置されており、国の重要文化財に指定されている。さらに遠光は特別に「王」の一字を許されたとされ、加賀美氏の家紋は三階菱の中に「王」の字を配している。治承・寿永の乱に際しては次男の小笠原長清と共に参加し、平家滅亡後の文治元年(1185)には源頼朝より御門葉の一人として重きを置かれ信濃守に任じられた。以後は頼朝の家臣として活動し、しばしば『吾妻鏡』に記述が見られる。晩年には衰微していた真言宗の古刹である法善寺を再興。また現在甲府市伊勢に所在する遠光寺(当時は臨済宗であったが、現在は日蓮宗)を創建したほか、遠光創建を伝える寺社も多い。5人の息子がいるが、長男の秋山光朝は加々美荘から南方の大井荘に進出し、現在の南アルプス市秋山に居館を構え秋山氏を称した。
2024年05月12日
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「小笠原氏一族の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「小笠原氏の出自と加賀美氏流」・・・・・・・・・33、 「阿波小笠原氏」・・・・・・・・・・・・・・・・84、 「京都小笠原氏」・・・・・・・・・・・・・・・155、 「信濃小笠原氏」・・・・・・・・・・・・・・・186、 「信濃小笠原氏の三家分立」・・・・・・・・・・297、 「鈴岡小笠原氏の滅亡」・・・・・・・・・・・・438、 「松尾加賀沢ラスの流浪」・・・・・・・・・・・519、 「府中小笠原氏の流浪」・・・・・・・・・・・・6610、「府中小笠原氏江戸時代」・・・・・・・・・・・7511、「遠江小笠原氏」・・・・・・・・・・・・・・・11112、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・120 1、「はじめに」 中世信濃の武家。甲斐源治加賀美遠光の次男長清が、甲斐国巨摩にすんだのに始まる。長清は父と共に源頼朝に従い軍功を挙げたのが始まりと言う。信濃国伴野荘を得、阿波の守護になった。守護職は孫の長房の子孫に伝えられ、阿波に勢力を持った。長清の子孫長経は将軍源頼家の近臣として企比氏の乱に連座し北条氏に疎んじられた。小笠原貞宗は足利尊氏に仕えて信濃守護となった。彼は弓馬の儀礼の儀礼典故に通じ、後醍醐天皇の師として「神伝糾法修身論」を著して武家礼法として有名な小笠原流の中興の祖となった。信濃の小笠原氏は相続争いが原因で起こった嘉吉の内訌で1446年を契機に松尾と府中に分かれた。松尾小笠原氏信嶺の時武田信玄に属し、近世は大名となり、元禄4年(1691)以降は越前国勝山にうぃ領した。府中小笠原信玄に敗れて長時の代に信濃を去った。長時の子の貞慶は天正10年(1582)に府中を回復したが、1590年に秀政は下総国古河に封ぜられ、のちに信濃国飯田に移封された。大坂の陣で秀政父子は戦死すると、次男が忠真に播磨国・明石10万石、更に寛永9年(1632)豊前国小倉15万石に転じて幕末まで続いた。秀政の三男忠知は1632年豊後杵築4万石にのちに、三河吉田45000石、子孫は武蔵国岩槻、遠江掛川、陸奥棚倉の転封、文化14年(1817)長昌の時に肥前唐津6万石になり幕末まで続いた。
2024年05月12日
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永禄3年(1560年)、氏康が里見領に侵攻して来ると、義堯は久留里城に籠もって抗戦し、上杉軍の援軍を得て勝利し、反攻を開始して上総西部のほとんどを取り戻した。永禄5年(1562年)、剃髪して入道し、家督を子の義弘に譲って隠居するが、なおも実権は握り続けている。永禄7年(1564年)、北条方の太田康資の内通に応じて、義堯は義弘と共に敵対する千葉氏の重臣高城胤吉の勢力圏にあった下総の国府台に侵攻し、北条軍を迎え撃った。緒戦では北条方の遠山綱景・富永直勝を討ち取るものの、油断をした里見軍は、翌明け方、氏康の奇襲と北条綱成との挟撃を受け、重臣正木信茂が討死するなどの敗戦を喫した(第二次国府台合戦)。この敗戦により義堯・義弘父子は上総の大半を失い安房に退却し、里見氏の勢力は一時的に衰退することとなる。しかし、その後は義弘を中心として里見氏は安房で力を養い、徐々に上総南部を奪回し、永禄9年(1566年)末頃までには久留里城・佐貫城などの失地は回復していた。これに対し上総北部の勢力線を維持していた後北条氏は、佐貫城の北方に位置する三船山(現三舟山)の山麓に広がる三船台に砦を築き対抗した。永禄10年(1567年)8月、義弘の率いる里見軍は三船台に陣取る北条軍を攻囲した。これを知った北条氏康は嫡男氏政と太田氏資らを援軍として向かわせ、別働隊として3男氏照と原胤貞を義堯が詰める久留里城の攻撃へと向かわせた。これに対して義堯は守りを堅固にし、義弘は正木憲時と共に佐貫城を出撃して、三船台に集結した氏政の本軍を攻撃して討ち破った。この時、北条軍の殿を務めた太田氏資が戦死する(三船山合戦)。「三船山合戦」(みふねやまかっせん)は、戦国時代の永禄10年8月23日(1567年9月25日)に上総国君津郡三船台(現在の千葉県君津市上湯江・富津市前久保)において、里見義弘と北条氏政の間で戦われた合戦。第2次国府台合戦において里見氏は北条氏によって大敗を喫した。このため、北条氏は里見義弘の上総北部・西部の里見領を悉く占領し、東部においては里見氏の重臣であった正木時忠・土岐為頼を帰順させた。更に里見義弘の居城である佐貫城を奪うべく、三船山(現在の呼称は三舟山、君津・富津市境)の山麓にある三船台の地に砦を築き、北条家当主の氏政自らが総督した。里見義弘は三船台の砦ができた場合、南に1里しか離れていない佐貫城が危機に晒されると考えて三船台に駐屯する北条軍を攻撃した。これを知った北条氏政は太田氏資らとともに江戸湾を渡海して佐貫城攻撃に向かい、一方弟の北条氏照は原胤貞とともに別働隊を率いて市原郡方面から小櫃川沿いを遡って、義弘の父・里見義堯の居城である久留里城の攻撃に向かわせた。これに対して義弘は正木憲時とともに佐貫城を出撃して、三船台に集結した氏政の軍を攻撃した。戦いは激闘となり、里見軍が北条軍を破った。この時、殿を務めた太田氏資が戦死した。また、北条・里見の両水軍の間でも激しい戦いが行われた。勢いに乗じた里見軍が北条軍を追撃する姿勢を見せたために、水陸から挟撃されることを恐れた北条軍は全軍を相模国に撤退させた。里見義弘はこの勝利により、先に北条方に奔った国人達の切り崩しにも成功し、さらなる房総侵攻に成功している。真里谷領は再び里見氏に属した。北条氏からの助力を期待できなくなった正木時忠は永禄12年3月までには里見氏に帰参しており(正木式膳家譜)、土気・東金両酒井氏も里見氏に従属を申し出た。一旦は北条氏と和睦した常陸佐竹氏も、再び上杉氏と同盟している。この敗戦が北条氏に与えた影響は大きく、永禄11年末には武田氏との同盟も破れて関東経略の転換をせざるをえなくなり、上杉氏と里見氏に同盟を申し入れることになる。里見氏はこの申し入れを断り、上杉氏と北条氏に越相同盟がなると、佐竹氏とともに武田氏と甲房同盟を結んだ。この勝利による房総での里見氏の優位は、北条氏が上杉氏との同盟を破棄して武田氏と再同盟したのち、北条氏の本格的な再侵攻がはじまる天正3年(1575年)頃までは続くことになる。】 また、水軍の指揮を取り浦賀水道の確保に当たっていた北条綱成は三浦口より安房へ侵入しようと試みたが、里見水軍と菊名浦の沖合いで交戦して損害を出している。これらの情勢により水陸から挟撃される危険を察知した北条軍は、全軍が上総から撤退することとなった。この三船山での勝利により里見氏は上総の支配に関して優位に展開し、下総にまで進出するようになった。その後も北条氏に対しては徹底抗戦の姿勢が貫かれるが、義堯は天正2年(1574年)、久留里城にて死去。享年68。義堯の死後の翌天正3年(1575年)頃になると、上杉氏・武田氏の房総への影響を退けた北条氏の侵攻による圧迫を再び受けはじめ、天正5年(1577年)に義弘と氏政との間で和睦が成立することになる(房相一和)。人物・逸話「五公」の二字を印文とした印判を用いる。五公は五官、公とは官衙のことであり、五つの公儀を行うことをあらわしている。また、世の秩序を正し、伝統的な鎌倉体制を保持することを願って、入道名「正五」を用いる。
2024年05月11日
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また、敗戦によってこの戦いを主導した義豊の権威は傷つき、相対的に上総進出の責任者として勢力圏の拡大に努めてきた叔父の実堯の発言力が高まった。この状況は後の義豊による実堯暗殺、そして義豊自身滅亡を招く事になる天文の内訌の遠因となった。この内乱に勝利した里見義堯は北条氏綱の後押しで立てられた当主であり、当初は氏綱が積極的に推進した鶴岡八幡宮の再建にも参加していた。だが、真里谷恕鑑没後の真里谷武田氏の家督争いに対する見解の対立から、天文6年(1537年)5月になって義堯は北条氏綱との断交と鶴岡八幡宮再建のために送る予定だった房総の材木の輸送を差し止める通告を行った。鶴岡八幡宮の再建は「雪下殿」であった小弓公方足利義明の希望でもあり、重臣逸見祥仙を派遣して義堯を説得したが遂に翻意することは無かった。一方、義明も北条氏綱と兄・高基の後を継いだ足利晴氏の連携を断つべく努力していたが成果を得ることは出来ず、下総最西部の葛西城が北条氏の支配下に入ったことで関係の悪化は決定的となった。やがて、この対立は第一次国府台合戦へと発展することになった。近年の研究だが、近年になって永正・大永年間に義豊が発給した文書(最古のものは従来の生年とされた永正11年(1514年)より以前の永正9年(1512年)の文書[2])が存在することが知られるようになり、少なくとも義通が死亡したとされる段階において(永正15年(1518年)、実際は大永5年以降まで生存の可能性が高い)、義豊が既に元服していた可能性が濃厚となった。逆に言えば、実堯が里見氏の後見人、陣代であったとされる従来の記録は義堯の里見氏相続を正当化するために改竄された疑いが出てきたのである。現存最古の文書発給が義豊死去の22年前に行われている事実により、義豊の実際の享年は少なくとも30は越えていたものと思われる。また、義豊の居城についても最初から稲村城にあったというのが近年の有力説である。7、「里見 義堯」(さとみ よしたか)は、戦国時代の武将、安房の戦国大名。安房里見氏の第5代当主。父は里見実堯、母は佐久間盛氏(正木通綱の同族で、三浦・正木とも称したという)の娘。正室は土岐為頼の娘。子に義弘、堯元、堯次、義政(一説に孫の義頼も義堯の子といわれる)。幼名は権七郎、官職は刑部少輔。上杉謙信、佐竹義重等と結び後北条氏と関東の覇権をめぐって争い続けたが勝敗はつかず、房総半島に勢力を拡大し、里見氏の全盛期を築き上げた。家督相続永正4年(1507年)、里見実堯の子として生まれる(一説に生年は永正9年(1512年)とも)。天文2年(1533年)7月27日、里見氏の家中で内紛(天文の内訌)が発生し、後北条氏と通じていた父実堯が従兄の本家当主里見義豊に殺されてしまう。義堯は北条氏綱の支援を受けて、重臣正木時茂と共に上総金谷城において挙兵して里見義豊を殺害し、家督を奪った(犬掛の戦い)。従来は、凡庸な当主義豊が無実の実堯を殺害したため義堯が敵討ちをして義豊を討ったという伝承が長く信じられていたが、近年においてはこれは実堯・義堯父子が仇敵である北条氏綱と結んだクーデターの動きに義豊が対抗しようとした動きであったと考えられている。こうした記録の混乱は、下剋上により義堯が家督を継承してすぐさま北条氏を裏切ったことを隠蔽するために後年捏造されたものと考えられている。後北条氏との抗争氏綱の軍を借りてクーデターに成功した義堯だが、真里谷信清が死去して真里谷氏で家督をめぐる抗争が起こると、義堯は真里谷信応を、氏綱は真里谷信隆を支持したため、氏綱と敵対関係になる。しかし義堯は関東に勢力を拡大していた氏綱に単独で挑むことは難しいと考え、小弓公方の足利義明と同盟を結んで対抗した。そして天文6年(1537年)に真里谷信隆を攻めて降伏させた。しかし天文7年(1538年)の第一次国府台合戦で義堯も戦闘には参加したが、大将は足利義明であって、里見軍の主力はあまり打撃を受けなかったらしい。義明の戦死は、義尭にとって関東中央部への飛躍の機会となったといえる。義明の死後、義堯は味方であった下総や上総に積極的に進出し、上総の久留里城を本拠として里見氏の最盛期を築き上げた。天文19年(1550年)9月5日、11月7日に足利義輝の命を受けて、里見氏と北条氏との仲介の労を取るために関東に下向した彦部雅楽頭に取り成しに満足した旨の手紙を送っている。天文21年(1552年)に北条氏康の策動によって、里見氏傘下の国人領主の離反が発生し、天文24年(1554年)には氏康と今川義元、武田信玄との間で三国同盟を締結された。このため、弘治元年(1555年)には上総西部のほとんどが後北条氏に奪われることになった。この事態に対して義堯は北条方についた国人勢力の抵抗を鎮圧し、奪われた領土の奪還を図りつつ、越後の上杉謙信と手を結び、太田氏・佐竹氏・宇都宮氏等と同調して、あくまで氏康に対抗する姿勢を見せた。弘治2年(1556年)には里見水軍を率いて北条水軍と戦い、勝利している(三浦三崎の戦い)。ただし、北条水軍が暴風雨のため沈没したり沖に流されたりしたことが勝因といわれているため、完全な勝利では無かったようである。
2024年05月11日
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前史古河公方足利政氏の子で鶴岡八幡宮若宮別当(雪下殿)の地位にあった空然(後の足利義明)が、真里谷武田氏の支援を受けて下総国小弓城に入ったのは永正14年(1517年)から大永初年と推定されている。義明は兄の足利高基が父を追って古河公方の地位に就くと、兄からの自立を図るようになり、小弓公方と称した。小弓公方の元には南総の諸勢力が結集する形となり、里見氏・真里谷武田氏・臼井氏などがこれに応じた。一方、古河公方の元にも北総の諸勢力が結集する形となり、結城氏・庁南武田氏・千葉氏などがこれに応じた。小弓公方と古河公方の対立の最大の焦点は関東公方の正当な継承者に関する問題であったが、同時に房総地域、とりわけ下総国の支配権を巡る対立でもあった。 小弓公方にとっては下総一国を掌握するには本佐倉城・関宿城を押さえて下総最北部にある古河公方の根拠である古河城を手に入れる必要があり、反対に古河公方にとっても下総一国を掌握するには本佐倉城・関宿城を足がかりにして下総国最南部にある小弓公方の根拠である小弓城を手に入れる必要があった。永正16年(1519年)には真里谷武田氏の椎津城に古河公方側の結城六郎らが攻めよせている。この六郎は後に結城氏と山川氏の間で行われた小山氏の継承戦争に勝利して小山氏の家督を継いだ人物であり、この戦いは房総半島だけではなく関東地方全体に拡大する可能性を秘めていた。そのような時に伊豆・相模を平定し、三浦半島にその姿を見せたのが北条(伊勢)氏であった。同氏と房総半島との関わりは初代伊勢盛時(北条早雲)在世中の永正13年(1516年)に遡るが、この時には真里谷氏・足利義明側での参戦であったとみられている。つまり、当初は後年のように小弓公方や里見氏と北条氏は敵対関係ではなかったのである。そして、当時の北条氏に対しては小弓公方・古河公方双方が自陣営に加えようと政治工作を行った。また、北条氏としても当時の鎌倉における宗教的な象徴であった雪下殿であった義明との関係維持は自己の相模支配の上でも有効とみなしていた。これに北条氏と対立する扇谷上杉氏・山内上杉氏を交えて複雑な外交関係が展開されることになった。この状況が大きく変わるのは大永4年(1524年)に北条氏が扇谷上杉氏領であった江戸城を占領して東京湾(内海/江戸湾)西部海域及び多摩川・荒川・利根川の河口地域を掌握した事であった。東京湾の過半及び内陸部への水路を北条氏が独占したことは、残る東部海域を支配していた真里谷武田氏や里見氏にとって脅威であり、その弱体化は彼らに支えられた小弓公方にとっては容認できなかった。そこへ、扇谷上杉氏(上杉朝興)と真里谷武田氏(真里谷恕鑑)の間で反北条氏同盟が持ち上がり、同年2月には早くも真里谷武田氏は北条氏との断交を宣言するに至った。里見氏も時期は不明であるが同様の行動に出たと考えられている。以後、房総方による武蔵・相模沿岸部の攻撃が活発化するようになる。こうした状況の下で、大永6年5月には相前後して真里谷武田氏が浅草郊外の石浜城を攻め、正木通綱(里見氏重臣)率いる水軍も品川湊を攻撃して、江戸城に対する圧力をかけた。一方、北条氏もこの事態に対して小弓公方の標的である足利公方足利高基との連携を図った。更に扇谷上杉氏は高基の実子である関東管領上杉憲寛(山内上杉氏)に父親に対する叛旗を翻させることに成功したほか、甲斐国の武田信虎までも反北条同盟に引き込むことに成功して、反撃の準備を勧めていた。合戦だが、連年の北条氏攻撃の成果の効果が見られないことに対し、里見義豊は8月に叔父実堯と協議した上で重臣の中里実次(民部少輔)に対して水軍を安房岡本に集めるように指示している。また、上総の酒井定治にも協力を要請している。同年11月、里見義豊・実堯は正木氏・安西氏・酒井氏などの兵とともに船数百隻を連ねて、三浦半島から鎌倉に向かって進撃した。この日付については、『里見軍記』『北条記』は12月、『鶴岡八幡宮創建并造営記』には11月のこととされている。この11月には鎌倉のすぐ北にある玉縄城が上杉朝興の攻撃を受けており、両者の挟みうちによる玉縄城攻略を意図していたと考えられている。鎌倉の海岸部にて里見軍は船縁に焼人形を並べて北条軍に遠矢を打たせて、北条方の船が接近すると、大石や材木を投げ込んだと言われている(『里見軍記』)。その後、戦いは鎌倉市中に移り、里見軍は鶴岡八幡宮の社家に乱入したり、宝物を奪ったり、仏閣を破却したとされている(『北条記』)。ところが、合戦中に鶴岡八幡宮から出火して炎上し始めたことから、里見軍は鎌倉から離れて玉縄城に向かった。だが、玉縄城を守る北条氏時は城と鎌倉の間の戸部川にて北上する里見軍を迎え撃ち、これを撃退した。一方、扇谷上杉氏も玉縄城を攻略できずに撤退し、北条氏が玉縄・鎌倉から三浦半島一帯を防衛した。その後この戦いにおいて、里見義豊は戦いそのものの打撃以上に、鶴岡八幡宮の炎上という失態による打撃を受けた。鶴岡八幡宮は源氏及び鎌倉の守護神であり、里見義成の末裔である里見氏歴代当主にとっても崇敬の対象であった。また、同氏が盟主に擁立していた小弓公方は鎌倉を拠点とする関東公方の継承者としての立場を打ち出しており、何よりも公方である足利義明自身が鶴岡八幡宮を統括する「雪下殿」であった。このため、合戦後北条氏綱が推進した鶴岡八幡宮の再建に対する協力を義明も義豊も拒絶することは出来なかった。
2024年05月11日
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「里見 実堯」(さとみ さねたか、文明16年(1484年)?-天文2年7月27日(1533年8月17日)は、戦国時代の武将。安房里見氏の一族。左衛門佐と称する。延命寺殿一翁正源居士。 系譜上は、第2代里見成義の次男で兄である義通の死後に家督を継いだとも甥・義豊の陣代(後見人)であったともされたが、近年では実堯の嫡男・義堯の家督相続を正当化するための作為による虚構と考えられている。また、兄・義通とともに安房里見氏初代・義実の子であったと推定される。義通の命を受けて上総国へ進出して金谷城を拠点として正木氏をはじめとする房総半島の水軍を手中に収めた。また、次の義豊の代にはその命を受けて鎌倉や武蔵品川を攻撃して後北条氏と戦っている。だが、次第に家中における発言力を増して義豊の地位を脅かす存在となり、また後北条氏と通じているとの風評が流れるに至った。このため天文2年、義豊は機先を制する形で実堯とその腹心の正木通綱を稲村城に呼んでこれを殺害した。これを稲村の変(天文の内訌)という。これをきっかけに実堯の嫡男・義堯を押し立てた上総の里見氏勢力が叛旗を翻し、翌年には義堯が義豊を殺害して家督を奪った。古くは、義通が若くして死亡して義豊が幼かったために義豊成人までの間だけ実堯が家督を預かっていたのを、成長した義豊が無分別にもこれを逆恨みして叔父を殺害したとされていた。しかし、近年では義通は長命を保って成人した義豊に家督を譲って隠居したと考えられており、義豊も稲村の変当時には既に壮年であったと考えられている。このため、こうした旧説は義堯の家督継承後に実堯系の家督継承の正当性を強調するために創作された話であると考えられており、今日では里見氏当主としては勿論、義豊の陣代であったとする見方も否定されている。 「里見 義豊」(さとみ よしとよ、?- 天文3年4月6日(1534年5月18日))は、戦国時代の大名。安房里見氏の第4代当主。里見義通の長男。左馬頭。高巖院殿長義居士。子に小原貞通、里見家宗がいるとされ、家宗は越後里見氏の祖となったという。孫に義宗、中澤忠宗(家宗の子)、曾孫に宗基、中澤忠重(義宗の子)、玄孫に宗助、岡藩士の中澤義虎(宗基の子)がいるという。大永7年(1527年)12月23日、上総国菅生荘矢那郷の大野大膳亮に対して鋳物大工職の地位を与え、自らの金属需要を充足させようとした(『大野文書』)。従来の説永正15年(1518年)、父・義通が危篤となると家督を継ぐ。だが、義通の弟実堯が義豊15歳になるまでは陣代(後見人)として家督を預かることになった。この頃、対岸の三浦半島に進出してきた北条氏に対抗するため、大永6年(1526年)に品川・鎌倉(鶴岡八幡宮の戦い)を実堯とともに攻撃して当主としての器量を示した。だが、15歳を過ぎても実堯は実権を義豊に返還しなかった。また、重臣正木通綱(時綱)が実堯と接近して家中で大きな発言力を持ち始めた事に他の重臣の不満も高まった。このため、天文2年義豊は稲村城の実堯と正木通綱を襲撃して殺害する(通綱は脱出したものの傷の悪化で病没したという説もある)。だが、実堯の長男里見義堯は「仇討ち」と称して、通綱の遺児である正木時茂とともに叛旗を翻す。義豊が義堯を破ると、義堯も反撃して義豊を一時上総国内に追い払うなど戦いは一進一退だった。だが、翌年に入り義豊は武田氏の真里谷恕鑑(信清)らの協力を得て安房国に復帰したものの、犬掛の合戦で大敗して自害に追い込まれてしまった。享年21と伝えられている(天文の内訌)。 6、「鶴岡八幡宮の戦い」(つるがおかはちまんぐうのたたかい)とは、大永6年11月12日(1526年12月15日)に相模国の北条氏綱と安房国の里見義豊との間で戦われた合戦。当初里見軍は玉縄城を目標としていたが、鎌倉に突入し、兵火が鶴岡八幡宮に燃え移って焼失したことからこの名がある。大永鎌倉合戦(たいえいかまくらかっせん)とも。この合戦の様子を詳しく伝えられているとされてきたのは里見氏の歴史を扱った『里見軍記』などの軍記物である。これらによれば、この戦いは里見実堯による侵攻とされてきたが、近年の里見氏に関する研究の成果によって、この戦いを主導した当時の里見氏の当主は義豊であり、その叔父である実堯はその一部将に過ぎなかった事実が明らかにされている。それは、後の天文の内訌において、氏綱が鶴岡八幡宮に祈願した後に義豊と戦っていた実堯の子・義堯に援軍を派遣していること、その後義堯によって討たれた義豊の首が氏綱に送られた際に鶴岡八幡宮の供僧であった快元が「神罰」と書き記していることからも明らかである(もし、軍記物の記述が正しければ、実堯を討った義豊に「神罰」が下るのは矛盾していることになる)。
2024年05月11日
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「里見 義成」(さとみ よしなり)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての上野国の武将。里見義俊(里見氏の祖)の子。源義重の孫。妻は足利義清の娘。上野国碓氷郡里見郷(現在の群馬県高崎市)を本拠とした。治承4年(1180年)8月、源頼朝が挙兵した際、祖父の新田義重は寺尾城に軍勢を集めて自立の姿勢を示し、その後も日和見の態度を続けたが、京にいた義成は頼朝に従う決意をして「祖父とともに頼朝を討つため、上野に帰る」と偽って京都を脱出し鎌倉に馳せ参じた。この事により頼朝の信頼を得て、鎌倉幕府成立後、新田氏一門が冷遇される中、義成は御家人として重用された。建久4年5月15日(1193年6月15日)、頼朝が富士の巻狩での狩の休日(その代りⅠ日中酒宴を行っていた)の際に地元の手越・黄瀬川の遊女たちが問題を起こしたために、頼朝から「遊君別当」に任ぜられて遊女の選抜から彼女たちの訴訟一般までを扱わせたと言う(『吾妻鏡』)。これは、義成が拠点としていた碓氷郡が東山道交通の要所で、義成が宿駅の管理に慣れていたからだと考えられている。また、弓の名手としても知られ、建久6年8月16日(1195年9月21日)の鶴岡八幡宮での流鏑馬では2番手の射手に選ばれている(『吾妻鏡』)。元久元年4月13日(1204年5月14日)には伊賀守、従五位下に任じられている。藤原定家の『明月記』(同年4月14日条)には、これは京都守護平賀朝雅の年給であったとされる。当時、朝廷では三日平氏の乱に対応するため、本来公卿や寺社が任じられていた知行国主に武家である朝雅が任じられており、伊賀守の任命も伊賀国内の鎮圧を目的としていることから、当時の義成も京都に滞在して直ちに同国に入った可能性が高い。また、近年になって朝雅の前任の京都守護が義成の子である里見義直(美濃里見氏の祖)であったとする『六波羅守護次第』という文書[1]が発見されており、それが事実とすれば、義直の補佐のために上洛していたとも考えられる。なお、里見氏を含む新田氏と信濃源氏である平賀氏の勢力圏は地理的に近接して婚姻関係などで通じていたと考えられており、朝雅と義成も親交があったとみられる。当然の事ながら、翌元久2年(1205年)に発生した牧氏事件による平賀朝雅の誅殺は義成にも大きな影響を与え、伊賀守を解任されて政治的に失脚することになる。『吾妻鏡』において頼朝の没後に義成の名が見られないのは、上洛と牧氏事件への連座に伴う政治的失脚の影響であると考えられている。文暦元年(1234年)11月28日、78歳で死去した。義成の死去を記した『吾妻鏡』の記事には、「これ幕下将軍家(頼朝)の寵子なり。親疎惜しまざる者なし」と記述されている。 5、「安房里見氏」「安房里見氏」(あわさとみし)は、戦国時代に安房国を掌握、房総半島に勢力を拡大し、戦国大名化した氏族である。「関東副帥」(関東管領の異称)もしくは「関東副将軍」を自称した。安房里見氏初代・里見義実は、結城合戦で討死した里見家基の子息とされる人物で、安房国に移り安西氏を追放して領主となったとされる(里見義実の安房入国伝説)。しかし、義実の出自や安房入国の経緯についての詳細は不明である。同時代史料で確認ができないことから、安房里見氏の系譜上で初代とされる義実、2代とされる成義を架空の人物とする説もある。天文の内訌の経緯や第二次国府台合戦の状況など、江戸時代に記された軍記物の記載を土台としていた従来説は、近年の史料発掘と研究の進展にしたがって大きな疑義が示されており、再検討が行われている。 「里見 家基」(さとみ いえもと、応永16年(1409年)? - 嘉吉元年4月16日(1441年5月6日))は、室町時代の武将。里見家兼の子、満行、堀内満氏、家成の兄、家氏の父。官位は刑部少輔。鎌倉公方足利持氏が将軍足利義教に反旗を翻して永享の乱を起こした折に、持氏に従い活動する。持氏が戦に敗れ自殺した後も、結城氏朝らと結託し、持氏の遺子を擁立して将軍義教に抵抗した(結城合戦)。しかし、籠城した結城城を上杉憲実に包囲されて進退窮まり、落城に際し氏朝や子の家氏らと共に玉砕した。家基の子とされる義実は命からがらに脱出して安房に流れ、そこで里見氏を再興したというが、安房の国人たちや、安房への過程で通過する三浦半島の領主三浦時高は反持氏派であり、結城合戦の際も将軍に同調して結城方を攻めているので、持氏に与した里見の者を看過するはずもなく、さらに義実は応永19年(1412年)生まれであり、家基と年齢的に父子関係があるかどうかも踏まえて、義実脱出の伝承については虚構の疑いが持たれている[1]。家基以前の里見氏当主についても、信憑性のおける一次史料に名前が見られず、実在の人物であるかどうか不明確な点がある]。
2024年05月11日
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「里見 義実」(さとみ よしざね、応永19年(1412年) - 長享2年4月7日(1488年5月18日))は、室町時代の武将。杖珠院殿建宝興公居士。里見家兼の孫で里見家基の子とされて、安房国の安房里見氏の初代となったとされる人物であるが、近年では架空人物説、美濃里見氏庶流出身説などがある。子は里見成義・中里実次がいるとされているが、近年では成義の存在は否定されて従来の系譜上成義の子とされてきた里見義通・実堯兄弟が義実の実子であると考えられている。しかし、生物学的な年代分析から見ての蓋然性から、むしろ里見成義の存在を架空とすること自体が里見氏の系譜関係を著しく不自然にする事情などから、この成義の実在を支持する説もある。里見義実の系譜について上野国新田氏の一族であった里見氏は南朝方に従っていたものの、宗家没落後に一族の中に北朝側に参加する者が現れた。やがて、室町幕府に従って美濃国に所領を得た里見義宗が観応の擾乱で足利直義側につくと直義が南朝と結んだ事もあり、里見一族は直義方として参加する。だが、直義は敗北して美濃里見氏は所領を失って没落した。その後、里見家兼が鎌倉公方足利満兼に召しだされて常陸国に所領を得たという。ところが、永享の乱で家兼が自害し、続いて結城合戦で家兼の子の家基がその子の家氏とともに討たれて、家基のもうひとりの子とされる義実は安房に落ち延びたとされている。だが、近年において、義実を旧来の伝承による上野里見氏嫡流ではなく、美濃里見氏・義宗の末裔であったとする説が出されている。同時に義実は源姓里見氏とは無関係の人物で、義実脱出の伝承については虚構の疑いが持たれている説もある[2]。里見義実の安房入国伝説里見義実が鎌倉公方(後の古河公方)・足利成氏に従っていたとされているが、その安房入国の経緯については様々な説がある。結城合戦後の文安年間に少数の家臣に守られて安房国入国して安西氏を頼り、その後神余氏を下克上した山下定兼を討伐して人望を集めて丸氏・東条氏を屈服させ、やがて驕慢になった安西氏を追放して安房を平定した。その後、足利成氏に招かれて仕えた(旧来の通説)。足利成氏に仕官後、安房国の鎌倉府領の代官をしていたが、享徳の乱で成氏と上杉氏が対立すると、義実が同国の守護であった上杉氏とこれに従う国人の所領及び彼らの管理下にあった国衙領を接収した。享徳の乱で武田信長とともに房総半島の上杉側国人を討伐する過程で安房国に割拠した。そのいずれが正しいかは不明であるが、安房里見氏が享徳の乱の際の関東管領上杉憲忠の殺害に関与した事、朝夷郡(朝平郡)の白浜(現在の南房総市)を根拠として国内の反対派を抑えて安房国内の中心部であった稲村に進出したと見るのが今日の通説である。また、義実を架空の人物として義実の孫(あるいは子か)である里見義通の代に里見氏が安房を平定したとする説もあるが、関東地方の室町体制を根底から覆した享徳の乱に乗じて、里見氏が従来強固な支配体制を築いていた守護上杉氏の支配から切り離された安房国に進出あるいは平定が行われたと考えるのが現実的な見方であり、義実が安房に入国して後継者である義通との2代がかりで安房一国を支配したと考える方が妥当であると考えられている。数少ない実在を想定させる史料とされているものに、『関東禅林詩文等抄録』に所収されている季弘大叔の「奉寄 房州太守源湯川公」(長享元年正月27日付)があり、同文章に登場する「房州太守源湯川公」が、時期的に里見義実に相当する可能性が高いとされている[3]。里見義実の安房入国伝説を基にして、江戸時代に曲亭馬琴(滝沢馬琴)によって書かれたのが、『南総里見八犬伝』である。 「里見 家基」(さとみ いえもと、応永16年(1409年)?- 嘉吉元年4月16日(1441年5月6日))は、室町時代の武将。里見家兼の子、満行、堀内満氏、家成の兄、家氏の父。官位は刑部少輔。鎌倉公方足利持氏が将軍足利義教に反旗を翻して永享の乱を起こした折に、持氏に従い活動する。持氏が戦に敗れ自殺した後も、結城氏朝らと結託し、持氏の遺子を擁立して将軍義教に抵抗した(結城合戦)。しかし、籠城した結城城を上杉憲実に包囲されて進退窮まり、落城に際し氏朝や子の家氏らと共に玉砕した。家基の子とされる義実は命からがらに脱出して安房に流れ、そこで里見氏を再興したというが、安房の国人たちや、安房への過程で通過する三浦半島の領主三浦時高は反持氏派であり、結城合戦の際も将軍に同調して結城方を攻めているので、持氏に与した里見の者を看過するはずもなく、さらに義実は応永19年(1412年)生まれであり、家基と年齢的に父子関係があるかどうかも踏まえて、義実脱出の伝承については虚構の疑いが持たれている。家基以前の里見氏当主についても、信憑性のおける一次史料に名前が見られず、実在の人物であるかどうか不明確な点がある]。
2024年05月11日
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