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山名氏清
は正儀に苦しめられた経験から、楠木氏はあえて劣勢を装っているのだと過剰に警戒し、楠木軍と山名軍は膠着状態にあった(『
後太平記
』巻9「河内国平尾合戦之事并亀六之術事」)。
『後太平記』はこの様子を『 三国志 』の「 死せる孔明生ける仲達を走らす 」の故事で喩えている。
元中5年 / 嘉慶 2年(1388)8月17日未明、子飼いの精鋭騎兵200を含めた1000余りの手勢を率い、 紀伊国 の名勝 和歌浦 玉津島神社 から帰京の途にあった室町幕府第3代将軍 足利義満 を 奇襲 しようと企てる(『 後太平記 』巻9「河内国平尾合戦之事并亀六之術事」)。
しかし、 赤坂城 に駐留中の山名氏清に動向を察知されており、 河内国 平尾(現在の 大阪府 堺市 美原区 平尾)に先回りされ、自軍の4倍近い3500余りの兵と戦うことになる。
正勝は奇策や挑発など手を尽くしたが、氏清は慎重に慎重を重ねて徹底防御を貫いたため、正勝の軍が疲弊してきたところを狙われ、最後は数的優位を活かされて散々に打ち破られた(詳細は 平尾合戦 )。
元中7年 / 明徳 元年(1390年)4月4日に「伊予守」という人物が「楠木右馬頭」という人物へ当てた書状の文面(『南狩遺文』所収)が残っていることから、この頃までには右馬頭に任じられていたと考えられる。
同年、剃髪し、仏門に入る(『全休庵楠系図』)。その理由や、虚無や傑堂能勝といった高僧と同一人物であるという仏教伝説との関係は不明。
元中9年 / 明徳3年(1392)春、 畠山基国 に楠木氏の本拠地である 千早城 を落とされ、 吉野 に敗走(『大日本史』巻177に引く『渡辺系図』)。
この年 閏 10 月 5 日 (1392)、南北の朝廷が講和したため、南朝の 後亀山天皇 が吉野から京に帰ってしまう( 明徳の和約 )。
しかし、正勝は鬱々として、これでは志を得られないとして、北朝には合流しなかった(『大日本史』巻177)。
なお、『後太平記』巻14「千剣破合戦之事付城郭明退事」は千早城陥落を南北朝統一後の12月としている。
同年、弟の 正元 が南朝残党とともに斬られ、晒し首にされる(『全休庵楠系図』)。
7、「南北朝合一後」
応永 6年(1399)、 守護大名 大内義弘 が 応永の乱 を起こし、 室町幕府 に対し反旗を翻すと、正勝もこれに呼応し、正盛(正顕)・正堯の二子を連れて合流した(『全休庵楠系図』)。
兵数は二百余騎(『応永記』)あるいは三百騎(『大日本史』巻177)。
このとき、友軍の菊池肥前守という武将から、肥後菊池住 延寿太郎国村 作の銘がある名槍を贈られたという(『全休庵楠系図』)。
堺 に3か月余篭城の末に、反乱軍は幕府軍に敗れ、義弘も闘死した。決着がついたことを知った正勝は、玉砕していたずらに死ぬのは無益であるが、降伏するのもまた恥である、と言って退却し、大和路に向かって逃走した。
北畠氏の重臣である 鹿伏兎氏 の伝承によれば、このとき幕府方として参戦していた伊勢国司 北畠顕泰 は、楠木の血を絶やさせてはならないと、鹿伏兎孫太郎忠賀に命じて、楠木軍を幕府軍に変装させて城内から連れ出し、正勝ら父子を窮地から救ったという(『鹿伏兎記』『鹿伏家楠氏詳伝』『邑戦異闘家記系図』)。
敗走中、戦闘で負った傷が悪化し、 応永 7年 1 月 5 日 (1400)に死去(『全休庵楠系図』)。
伊勢楠木氏の系図では、正勝の遺骸は二子の正盛(正顕)・正堯兄弟によって河内国 大伴邑 (現在の大阪府 富田林市 大伴地区)の林中に葬られたというが(『全休庵楠系図』)、現在の大伴村に正勝に関する所伝は伝わっていない。
別伝として、埋葬地は 大和国 吉野の武蔵(現在の 奈良県 吉野郡 十津川村 武蔵)とする伝承も根強い。
死後
伊勢に逃れた嫡子の正盛は、 北畠家 の庇護を受け、伊勢国司代行 大河内顕雅 (北畠顕泰の子)から偏諱を受けて 正顕 と改名し、 伊勢楠木氏 ( 北勢四十八家 楠家)の祖となった。
次男の正堯は 丹波国 に逃れたが、その後の詳細は不明。正勝の嫡孫で伊勢楠木氏第2代当主の 正重 は、武将ではなく刀工として活躍し、伊勢の名工 村正 の高弟になった。
天下三名槍 の一つ 蜻蛉切 などを製作したとされる刀工 正真 も伊勢楠木氏の一員である。
正重の弟の 正威 は、 禁闕の変 に参加し後南朝のために 三種の神器 を奪ったが、討死している。第7代当主 楠木正具 は、 織田信長 の伊勢侵攻とたびたび戦っている。
伊勢楠木氏の庶流として 木俣氏 があり、 木俣守勝 は 徳川家康 に仕え、のち 彦根藩 井伊家 の筆頭家老となった。
その功績から、木俣氏は明治維新後には男爵に叙されている。ただし、守勝には実子がなく、養子の 守安 が木俣氏を継いだため、現在の木俣氏本家は正勝と血筋上の繋がりはない。
その他、伊勢楠木氏の後裔を自称する氏族として、 山下氏 ( アラビア石油 創業者 山下太郎 の氏族)や 高楠氏 (仏教学者 高楠順次郎 が婿入りした豪族)などがある。
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