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胡玲鈴〈コ・レイリン〉は、部屋を出た瞬間、重苦しい雰囲気に包まれたのを感じた。 不安、恐怖、悲しみと言った感情が忙しなく廊下を行き来している人々の心から溢れ出し、大気に入り交じり、暗く空間を彩っている。どの顔を見ても影が落ちており、険しい。耐えるように眉間にしわを寄せ、口を一文字に結び、黙々と仕事をしていた。 玲鈴は雰囲気に飲み込まれるのを防ぐため一つため息をつき、気を取り直し、廊下を歩きだした。豪奢とまではいかないが、きっちりと整い、趣味が良い飾りが一定の感覚で置かれている廊下は普段は人の心を穏やかにさせるものだ。だが所々壁紙が破れ、カーペットには土のついた足で踏みにじられた形跡残っている光景は、暗くざらりとした感情を心に植え付ける。昨夜に見た割れた花瓶の破片や、血にまみれた人が床に伏せる姿がいない分“まし”だな、と思うが、それでも日常とかけ離れた光景に流石に玲鈴は眉を顰めた。 食堂を開けると、誰一人いなかった。今まであり得ないことだったか、今は仕方ないことだな、と玲鈴は軽くため息をつき、厨房の扉を開けた。 誰一人いない広い厨房は、一種の異様さがあった。屋敷の中で、ここだけが常の形を残しているからだ、と気づく。神経質なまでに綺麗に磨かれた食器の中から、気に入りの茶碗を取り出した。だが、肝心の茶がない。急須はどこだろう、と探すが、そのことさえ玲鈴は一苦労し、ようやく見つけた。だが、やっとのことで探し出して、立ち竦んだ。中身がないのだ。空の急須を前に、玲鈴は困り果てた。「湯と、茶葉はどこにあるのよ…」 しばし急須を眺めていたが、埒があくわけもない。 しょうがなく玲鈴は屋敷が使えている人の詰め所に向かった。今は猫の手を借りたいほど忙しい中、申し訳ないとも思う。だが、干涸らびた喉が水分を欲している欲求に負け、玲鈴は屋敷の端の部屋に向かった。 だが、玲鈴は後悔し始めた。あのまま厨房で自力でどうにかすべきだった、と今からでも回れ右をすべきかと真剣に悩んだ。端の部屋に近づくに連れ、足取りが重くなっていった。 廊下にまで、ささやかだが幾重にもなった声が聞こえていた。甲高い声を潜めた女達の声は、平時ならまだ可愛らしく聞こえたかもしれない。だが重苦しい雰囲気の中では浮いて聞こえ、不快感をくすぐり起こすものでしかない。近づくに連れ、内容まで聞こえると更に歩幅が自然と小さくなった。可愛らしい声に包まれても内容の醜さは隠しきれていない。足を鉛に変える呪文は、案外姦しいものなのだな、と玲鈴は妙なことすら感心しそうになった。意図的に意識を逸らせなければ、精神の安寧は保てなかったのだ。 最初は不安であった心を誰かと分かち合うことによって、不安定な足下を固めようとしていたのであろう。誰かとしゃべりあうことによって、解消できることも確かにある。だが、始めは不安を除くための会話はいつの間にかその姿を変えてしまったようだ。 彼女たちの声は、昨夜の恐怖と悲鳴に縁取られた惨劇を作り上げた憎むべき対象を求めていた。罵る矛先を欲しているのだ。だが、直接の惨劇を演じた人間に矛先が向けられない。だから無理矢理にでも、他の対象を探していた。誰かを罵れれば、気持ちは少しは楽になれる。己の中でため込まなくてもいい分ぐらいには。そうすることでしか精神の安定を保てない彼女達の気持ちも分からなくもない。だが、本来の憎しみをぶつける相手ではなく、生け贄の羊を求め、血祭りにしたがっている姿は見るに耐えないものがあった。「やっぱり…あの子のせいよね」「ええ。あの子さえいなければ、こんなこには」 醜悪な彩りの囁きあいは、際限なく続いてる。侍女達は、本来なら囁く暇もないはずだ。なのに、成すべきことを成さずにいる侍女達に玲鈴は苛立ちと哀れみを感じた。緊急時にどれだけのことができるかでその人の価値は決まる、と姉から教えられた玲鈴からしてみれば、彼女たちの姿は弱さを露呈しているだけにしか見えない。きっと彼女たちは後日、後悔すらしないであろう。成すべきことを成さなかった自分自身に対して。反省すべき点に気づけないことが哀れにすら思えてならなかった。「いいかしら?」 玲鈴の声は、さながら水鳥の集まる湖に投げ込まれた石のようだった。水鳥より優雅で品のあるように教育を受けたはずの侍女達であったが、湖から慌てて飛び立つ鳥よりも慌ただしく動いており、その姿は滑稽でさえあった。「な、何でございましょう?玲鈴お嬢様」「お茶が欲しいの。どこにあるかしら」「只今、準備します!」 はじかれたように動きだす侍女達に、背を押され玲鈴は食堂に移動を強いられた。詰め所などにお嬢様が居てはならないのだそうだ。 廊下を逆戻っていて、ふと廊下の隅で土に埋もれ、その輝きを奪われかけていた宝石を見つけた。もとは襟につけたりする装身具だったようだ。留め具の台座から落ちてしまった大粒の宝石を手にとり、光に透かすと新緑の葉の色に似た光を零した。 その光を見ていると、ふと、玲鈴は、昨夜のことを思い出した。 胡家が、襲撃されたことを。
2005年11月27日
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えっと、今回あげたのは、サンセツキsidestory「紅の雪」です。これは本編と時間軸が同時並行しています。読まなくても、まあ、支障はないですが。ちょこちょこあげていくので、お付き合い頂ければ、と…補足として。新しい文体にチャレンジしています。今までの文章と、少し変わったかな?、と思っています初めての挑戦なので、読みにくい点もあるかもしれません。精進していくつもりなので、よろしくお願いします
2005年11月27日
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これで、次回から本編は茜夜さんにバトンタッチです。これでしばらく休憩だぁ……じゃなくて。今度からside storyや過去話を書いて、あげていきます。本編に関係、ないわけないですが、読まなくても、別に問題はないです。できたら、読んでくださると、嬉しいかな、です。よかったら、気長に待って、読んでくださるとありがたいです。あ、えっと。まだ、3話で出てきたまだ名もでてきていない男。彼は、茜夜さんの考えたキャラクターで。口調がまだ、掴めていなかったりします。後で茜夜さんに、読んで貰って。口調が間違っていたら、訂正するかもしれません。話としては、何ら問題はありませんが。一応、ご注意ください。
2005年11月12日
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「おいおい……大丈夫か?」緋深と比べるとかなり低い、大人の男性の声だ。低く、厚みがあり直接脳を揺さぶる声に、心配している響きはない。馬鹿な子供がいる、と嘲ってるわけでもない。子供が二人、雪にまみれ白くなっているのを怪訝そうにしているのでもない。ただ、呆れているようだった。「何だって、こんなとこにガキが……」誰に聞かすためではないように呟かれた言葉は、鋭い寒さを纏った風に消えていく。 「……あいつらしくもねぇな」一定の間隔で聞こえる人の重みで雪が押しつぶされる音が、妙に耳の奥にまとわりついた。徐々にその音は大きくなり、心の奥底の閉じた蓋からわずかに溢れてくる恐怖と絡みついく。揺れる視界の先に、強烈な赤色に染まった人影が写ったと同時に、恐怖は加速し、増殖されていった。言いようもない不快感を振り払うために朔夜は『見る』と言う機能をすでに果たしていない目を、強く上下を縫い合わせた。感覚が、視界を閉じたことで、否応なしに敏感さを増す。どれぐらい今、距離が離れているのか、それがどれほどの速度で詰められているのかが、理解できた。面識のない人と接することに怯えてしまうことが癖になっている朔夜だからこそ、人の気配を察することはたやすく、人との距離を正確に弾き出す。仮に今、身体が自由に動けるなら、間違いなく朔夜は脱兎の如く逃げ出していただろう。それほど朔夜は、精神にかけられる圧迫感に負け、潰れそうになる。自然の猛威にさらされ弱り、ただでさえ荒い呼吸が乱れていった。「うおっ」風を切る鋭い音に、低音な声が重なった。緋深が男に向かい攻撃を仕掛けたのだ。男の声に、どこにも痛みに耐える呻きや、襲いかかられたことに対する不快な感情は滲んでいない。そこには余裕が、どっしりとした落ち着きがあった。「おいおい」「それ以上……近寄るな」朔夜は、緋深の細く張りつめた、だが鋭く触る者全てを切り裂かんばかりの雰囲気に息を呑む。ピリピリと肌を刺すそれは、己に向けられていないのに、息苦しささえ覚えた。だが、それよりも息苦しさを感じた理由は、緋深の感情のない声だ。普段の柔らかさはどこにもなく、温かさは消え失せた、無機質なそれは過去にも聞いたことがあった。脳裏に緋深の顔が過ぎる。よく知る暖かさを凝縮したような瞳ではなく、全てを拒絶する瞳。壊れ物を触れるように接する手ではなく、無慈悲に触れることを許さない冷たい手。(---駄目だっ)恐怖を塗り替える、不快感をねじ伏せる強い感情が弾けるように生まれた。緋深を、止めなくてはならない。その一心で朔夜は軋む身体にむち打って、奮い立たせようとした。だが一指も自由に動かない身体に、歯がみする。「別に、取って食いはしないぜ?」「うるせぇ」「人の親切は、素直に受け取っておくべきだぜ。子供は」「親切?……はっ、親切ってのは、いつから人さらいを指すことになったんだ」「言うに事欠いて、人さらいかよ」男と緋深の会話を、止められない。人を食ったように喋る男に、緋深は苛立っている。何度も、何度も止めようとして、その度に失敗する。急ごうと、どうにかしなくては、気持ちだけが身体を走り去っていく。「……金、掴まされて、頼まれたくちだろうがっ!てめぇもっ」「人間不信だねぇ。善良な一般市民をつかまえて」その瞬間、緋深の張りつめていた雰囲気が、爆発した。苛烈な炎に似た凄まじい怒気が緋深を包む。「そんな趣味の悪い着物なんか着ておいて、一般人と言い張るのかっ?!」空気を切り裂く怒声と共に、風を切り、何かがぶつかりあう音が聞こえた。戦いが、争いが始まってしまったのだ。朔夜は強調し言われた『趣味の悪い』、と言う言葉に一瞬首を傾げかけたが、すぐにその考えは泡のように儚く消えた。仮に、緋深曰く『趣味の悪い』を見ることが出来ていたなら、朔夜は後悔や、無力さに打ちひしがれているのを一瞬でも忘れ、男に目が釘付けになっていただろう。目の覚めるような光沢のある艶やかな赤地の着流しに、金糸の美しい鶴が軽やかに舞っている。自由に羽ばたく黄金の鳥を雪から守るように肩に羽織られた着物は、雪に見劣りしない純白さを誇り、所々に大輪の銀の華が咲いている。牡丹、芍薬、薔薇と、美しいと賞せられる花々は、決して互いを邪魔せず、だが高らかに誇らしく、銀糸と言うことを除いても、白地の着物の上で輝いていた。このとんでもない組み合わせは、成金趣味の悪趣味にしかどうやっても見えない。だがそれを悠然と着こなす男からは決して下品さは感じられず、むしろ似合うとさえ万人に錯覚させた。この似合う、似合わないを考慮しなくても、人の視線を否応なしに縫い止める着物は、人の思考を一時でも停止させるだけの強烈な衝撃があった。この着物の凄さを認識できなかったことが、朔夜によかったか、悪かったかは分からない。罪悪感などを一瞬でも忘れられたことができたのだから。だが、きっと一瞬でも忘れたことを、更に朔夜は後悔しただろう。(---悔しい)己の無力感から生まれる歯がゆさに、胸の奥が軋んだ。呼吸をする度に、細かく割った薄氷を突き刺さっていくような肺の痛みよりも、比べものにならないほどの痛みを感じた。何度も何度も聞こえる重く、だが鋭い音が、鼓膜を切り裂いていくようだ。切り裂かれた部分から流れる見えない血は、鼓膜を覆い、聴覚を麻痺させていく。一枚の薄い壁を通したように聞こえる緋深と男の声を、かろうじて朔夜は聞いていた。緋深が怒鳴っている。男はそんな緋深を、平然と、余裕をたっぷり滲ませる声で応答している。緋深は、親しい者の欲目抜きでも、とても強い。それを軽く躱しつつ、落ち着いた声で会話をしているのだ。息一つ乱していない。力の差が、浮き彫りになっていた。緋深が負けるのは、時間の問題だ。なのに、朔夜は加勢もできない。戦いを止めるため、割って入ることもできない。己の無力さから生まれた暗く重い感情に、引きずられそうになった時だった。「----っ?!」そっと、だがいきなり肩に触れた暖かな感触に息を呑んだ。反射で、身体が強張り、逃げ腰になり、目を見開いた。気配を感じなかった。ありえないことに、困惑し、頭が真っ白になる。いくら思考の海に身を委ねていようと、人の気配がこんなに近づくまで気付かなかったことは、今までになかった。緋深では、ない。肩に触れる指は、ところどころ傷があるが繊細で、一目で女性の手だと分かった。なにより、緋深の怒鳴り声が、遠くから聞こえていた。どうするべきか、色々と考えるが、全てが空転する。空転すればするほど、更に困惑は混乱となり、呼吸の仕方さえ忘れていった。「大丈夫か?」静かで、だが直接心に響き揺さぶる声だ。すとん、と心の奥に届き、混乱が硬直した。じわじわと言葉は胸の奥に染みこんでいき、何故か強張った肩の力が抜けた。声の主の静謐な雰囲気に触れたからか、混沌としていた心が、凪いでいく。呼吸の仕方思い出し、荒れた息が少しずつだが落ち着きを取り戻しつつあった。驚き、恐る恐る、だが必死に表を挙げると、水面越しにある人は綺麗なのが理解でき、と深い感銘を受けた。容姿が、と言うより存在の美しさに圧倒された。反応を返さない朔夜に、急かしたりするのではなく、麗人はただ静かに再び問いかけた。「大丈夫か?」声に誘われ力が抜け、張りつめていた糸がぷつりと切れ、変わりに温かい安堵感が胸にあった。何故、この人の声は、ここまで安心感を与えてくれるのだろう。駄目だ。緋深に加えこの人までも、巻き込んではいけない。そう思うのに、この優しい声に手を伸ばしてしまいそうになる自分の弱さが、気を抜くと安堵の涙と共に零れ出しそうだった。返事を、してはいけない。これ以上接触しては、いけない、と必死に言い聞かせる。まるで、それを気付いたかのような穏やかな声が、言葉が胸に飛び込んできた「もう、大丈夫だ」泣きたくなった。必死に築き上げた弱さを守る壁が、壊された気がした。壊され、嬉しいのか、悲しいのかも分からない。ただ、壊されたと同時に、身体から力が抜けていった。思考が白く浸食され、睡魔の腕が、朔夜の身体を絡め取っていく。意識を手放す間際に、朔夜はふいに、何故ここまで安心できるのか分かった気がした。(……そっか。この人は、櫻妃様に似ているんだ)どこまでも優しく、温かな、あの人に。死の淵で蹲っていた自分を、掬い上げてくれた人々の1人に。心配をかけているだろうな、と思ったが、沸き上がる睡眠の誘惑に勝てず、朔夜はそっと目を閉じた。
2005年11月12日
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