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最近はバットマンの敵役のジョーカーが人を平気で殺す姿に憧れた服部恭太容疑者が京王線でテロをした。さらに包丁を持った男が宮城県のこども園に侵入したり調布で刃物を持った男がうろついたりして〇〇ジョーカーと呼ばれる事件が多発している。こういう事件が起きるとフィクションが悪いもののように言われるので、これについて考えることにした。
・犯罪者はたいてい頭が悪い
京王線の事件の前に小田急線にサラダ油を撒いて火をつけようとした男がいたけれど、これは犯人がアホなおかげで火がつかなくて火事にはならなかった。京王線ジョーカーはこの小田急サラダ油男の失敗から学んだようでオイルライターで火をつけたけれど、結局は詰めが甘いおかげで重体の被害者は出たものの死者は一人も出ずに済んだ。テロ犯に知恵をつけるつもりはないので具体的なことは言わないけれど、無差別で誰かを殺そうと思ったら確実に殺人できる場所や手段があるし、ミステリ好きな私から見たら本気で殺人する気がなくてやったふりをしただけで満足したようなずさんな手口に見える。
他の犯罪もたいてい何かしら頭が悪い行為をしている。京王線ジョーカーを真似て熊本で九州新幹線に放火した男も出てきたけれど、こっちは火が燃え広がらなくて放火未遂事件で終わって犠牲者は出ていなくて、「火を放って自殺しようとした」と供述したそうだけれど、自分は怪我したわけでもないし報道を見て衝動的に真似したレベルで何をしたかったのかよくわからない。京都アニメーションに放火した男はガソリンの危険性を理解していなくて、犯人が馬鹿だったせいで犯人の想定外に被害が拡大して犯人も瀕死の重傷を負った。
こうしたテロは詐欺みたいに犯人が得するわけでもないし、革命と違って庶民を殺したところで社会が変わるわけでもない。被害者だけでなく犯人も損をする不毛な犯罪である。
・なぜ死刑になりたいのか
死刑になりたいという理由で無差別殺人をする人が数年おきに出てくるけれど、なぜ自殺ではなく死刑になりたがるのか疑問である。社会への報復をした後は自分は死刑になっても構わないという理由なら、「死刑になりたい」ではなくて「社会に報復したいので死刑になってもかまわない」という動機になるはずである。死刑になるために死刑に相当する犯罪をやるのは目的と手段が逆転している。
京王線ジョーカーは「仕事で失敗し友人関係もうまくいかなくなり死にたいと思ったが、自分では死ねず死刑になりたかった」と供述したけれど、「自分では死ねず」と「死刑になりたかった」に飛躍があるように見える。自殺志願者が座間に呼び出されて殺害された座間9人殺害事件や、警察官に襲い掛かって射殺された人がいたように、自分で死ねないなら他人に殺害を頼むほうが社会への被害が少ない。京王線ジョーカーがテロを企てたのは、死にたいというよりも社会に迷惑をかけることで自分に注目してほしいという自己愛が動機なのではないかと思う。
平凡な人でも殺人をすれば全国のニュースで報道されるので、無名な敗者としてひっそり自殺するよりも、やばい悪人として有名になりたかったのだろう。子孫や仕事や作品を残せず友人もいなくなった人が存在を証明しようとした最後の悪あがきのようなものである。2015年の東海道新幹線火災事件でガソリンをかぶって焼身自殺した老人や、2019年の川崎市登戸通り魔事件で犯行後に首を刺して自殺した男みたいに、自暴自棄になった犯人は死刑になりたい(生き残って裁かれたい)と言わずに犯行現場で死亡している。自殺したら自分が有名になったかどうか確認できないので、京王線ジョーカーは犯行現場で自分が死ぬ気はなくて逃亡もせず警察に抵抗もせずに足組して煙草を吸ってさっさと捕まっていて、これも逃げまどうみっともない姿を見せたくないという他人の評価を気にするがゆえの行動だろう。
・自己愛モンスターの暴走
人間には自分を大事にしてほしい、認めてほしいという自己愛がある。これは大事には違いないけれど、自己愛が肥大すると社会に害をなすようになる。店で自分を優先してほしくてわめきちらすモンスタークレーマーになったり、学校で自分の子供だけを重視するモンスターペアレントになったり、自分の進路を邪魔したと激昂して煽り運転をしたり、目が合っただけで馬鹿にされたと曲解して喧嘩をふっかけたり、社会通念に反する非常識な行為で注目を集めて金儲けする迷惑系YouTuberになったり、自分に注目してほしくて掲示板やブログのコメント欄にコピペスパムをまき散らしたりする。この自己愛をどう制御するのかが社会的な課題になる。2018年にはてなブログに「低能」という荒らしコメントを投稿しまくって低能先生というあだ名をつけられた人が有名ブロガーのHagexに馬鹿にされて刺殺した事件が起きて懲役18年になったけれど、馬鹿にされて当然の行為をしておきながらそれを馬鹿にされると激昂するという理不尽なことをしている。社会通念よりも自己愛のほうが強いので自分が悪くても反省しなくて、他人に迷惑をかけることでしか自分の存在を主張できないのである。
・自責か他責か
自責する人は上手くいかなければどこが悪かったのか反省して分析して改善できるけれど、他責する人は自分は悪くないと思考停止して原因を他人のせいにして反省しないのでそれ以上成長しなくなる。冬が寒いのは地球のせいだと他責したところで寒くなくなるわけではないし、状況を変えたかったら厚着するなりこたつを買うなりして自分が行動して変わらないといけない。不幸な状況を変えようとしないなら不幸のままなのは当然である。国の政策の失敗で失われた30年の不況になったように他人の責任も当然あるけれど、それでも自分がやれる限りのことをやらないと状況は良くならない。自分が不幸なのは親や社会や国のせいだと他責するだけなら楽だけれど、そうして自分に責任を持とうとしない生き方をした挙句に死刑になりたいと死ぬ方法や時間まで他人任せにしようとする人が出てくる。2018年東海道新幹線車内殺傷事件の犯人が典型的で、「自分で考えて生きるのが面倒くさかった。他人が決めたルール内で生きる方が楽だと思い、無期懲役を狙った」と供述して人生を他人に丸投げしている。宮城県のこども園に侵入した犯人はひきこもりで「2人以上殺せば死刑になると思った」と供述したそうで、自分で考えて行動する意思がないのだろう。自分で考えて行動できず、こつこつ生活を改善しようとせず、行き詰って死刑になりたがるのが馬鹿のマインドセットになっているようである。
・大きな物語がなくなった時代に馬鹿はどう生きるべきか
中世のヨーロッパの庶民はキリスト教の教義通りに生きればよいと教会で洗脳されて生き方を強制されてきた。ところが活版印刷で聖書が大量に印刷されて個々人が神と対話するようになると、神に何とかしてくれと祈りを捧げても神が救ってくれなかったと恨んでも物事は変わらず、自分で考えて行動しないといけないと気づき始める。そして学問が発展するにつれて聖書の科学的な間違いが明らかになって、神は死んだと言われるように宗教の権威と影響力が少なくなった。
かつては神話、宗教、イデオロギーといった社会全体で共有していた大きな物語が道しるべになっていたので馬鹿でも進む道を決められたけれど、大きな物語がなくなった現代では個々人が自分がどう生きたいか決めて進むべき道を見つけないといけなくなって、馬鹿は生き方に迷うようになった。しかしどう生きるにしても結局は善を成して悪を避けるという根本原理なしでは社会は成り立たない。何が善で何が悪かは主観的な判断になるので、その判断基準を持たない人は欲望のままに行動して悪事で社会を害しうる。
上座部仏教では神を信じれば救われるとかお経を唱えれば極楽浄土に行けるとかの信仰を否定して、自由な人間に信仰は必要ないとして自分で考えて行動することを促しているので、神が死んだ現代向きの哲学である。それゆえにキリスト教圏の欧米人でも仏教や禅を学ぶ人がいる。仏教では貪瞋痴が三毒と呼ばれて、自分の好むものをむさぼり求める貪欲、自分の嫌いなものを憎み嫌悪する瞋恚、ものごとに的確な判断が下せずに迷い惑う愚痴が悪とされる。その逆の無貪、無瞋、無痴を善の根源になる三善根という。釈迦の教えを理解せず物事の道理がわからない愚か者をサンスクリット語でmoha(痴)といって、日本ではmohaの当て字で愚か者を莫迦や馬鹿という。
この仏教の基準で見ると社会には馬鹿や悪人が大勢いる。自分の利益だけを追求して社会に還元しない新自由主義者は貪欲な悪人である。政治が悪いと無駄な愚痴を言うだけで投票に行かず政治家に陳情もせずに社会を良くするための行動をしない人は馬鹿で、権力者や社会を憎んで壊そうとするのは悪人である。善悪の判断基準を持たずに悪人に憧れるのは馬鹿で、悪人の真似をして悪事を成すのは悪人である。
低学歴だから馬鹿で高学歴だから馬鹿ではないわけではなくて、高学歴にも馬鹿や悪人が大勢いる。ソクラテスが自分が無知であることを自覚しているがゆえに一番賢いと言われたように、まずは自分がいかに無知な馬鹿なのかを自覚しないことには物事の道理は理解できないけれど、暗記だけが得意で物事の道理を考えないままペーパーテストで高得点をとって高学歴を身に着けた賢いふりをした馬鹿もいる。参議院議員の西田昌司が財務事務次官の矢野論文が馬鹿のあぶりだしだと言ったように、マスコミとか経済学者とかで矢野論文を支持する人は財政破綻論の間違いを理解できないでいて高学歴でも馬鹿をさらしているし、間違った財政破綻論を理由にやる必要のない増税をして庶民を苦しめて福祉を削減して弱者を見捨てる政治家は悪人である。
馬鹿な人が自分で物事の道理考える能力がなくて判断を下せないなら、せめて自分よりも立派な人の考えや判断を真似るべきである。身の回りに立派な人がいないなら歴史上の人物でもよいし、フィクションの立派な人を真似るのでもよいではないか。例えば高倉健に憧れる人がいるけれど、そういう人は高倉健のプライベートを知っているわけではないし高倉健という個人に憧れているのではなくて高倉健が演じた硬派な男らしい人物像に憧れているわけで、フィクションでも十分模範となりうる。アクリフーズ農薬混入事件の犯人は『ONE PIECE』の海軍の「正義」と書かれたコートを着ていたけれど、正義とは逆の悪事をなしていて、うわべを真似るのではなくて思想や行動という道理を真似しないと意味がない。人間は模倣で知識や技術を得て成長するし、人生も仕事も芸術も良いものを真似れば良くなるし、悪いものを真似れば悪くなる。それゆえにまずは善悪正誤の判断基準を知るのが肝要である。フィクションは現実よりもはっきりと価値を提示するので馬鹿にもわかりやすいだろうし、大まかな方針としては役に立つと思う。
・フィクションの役割
現代では文学部廃止論をいう人がいるようにフィクションは単なる娯楽や役に立たないものとしてとらえられがちだけれど、実際はフィクションは小さな物語を通じて学校や親が教えない善悪の倫理観を教えている。どんなに大きなビルを建てようが爆破テロをされれば瓦礫の山になるように、社会の役に立つ知識や技術を教える教育だけでは不十分で、社会を害さない人に育てる教育も必要で、フィクションはそこを担っている。
我々が映画の『ジョーカー』を楽しめるのはそれが虚構の世界で殺人は悪だという倫理を理解しているからで、普通はゴッサムシティみたいな汚職と犯罪だらけな街にしてはいけない、ジョーカーを生まないように弱者の苦しみを理解しないといけないという反面教師として映画をとらえる。ジョーカーだって悪党になる前は普通の人で、他人に優しくされていたらブチ切れずに踏みとどまれたかもしれないのである。『ジョーカー』を楽しんだ人でもISISの処刑みたいに実際の殺人を記録した動画なら楽しめないだろうし、虚構だからこそ娯楽として成り立つのであって、虚構を規制したところで反社会的思想の人がいなくなるわけではない。フィクションを理解していない人ほどフィクションを危険視してやたらと規制したがるけれど、暴力的な話がだめだというならフィクションだけでなくニュースも歴史も伝えることができなくなるし、そうしたら悪という概念すら理解できなくなる。京王線ジョーカーは『ジョーカー』がなかったとしてもヤクザやナチスやボコ=ハラムに憧れたかもしれないし、オイルライターを規制されても別の凶器を使うかもしれないし、目先の物に原因をなすりつけてそれを規制したら事件が起きないと考えるのは短慮である。国民が幸福でお互いに助け合って弱者にも居場所がある社会を作らないことには犯罪やテロはなくならないし、根本的な問題は解決しない。そしてフィクションだからこそ教えられることがある。たいていのフィクションは主人公がいて、主人公は自分の判断で自由に人生を開拓していくがゆえに物語の中心人物となる。自由とは自分に由るということで、自分の責任を考えるから自責して成長するし、他人任せで他人が悪いと他責する人は物語の主人公にはならない。例えばもし『鬼滅の刃』で炭次郎が鬼殺隊が鬼を退治しないせいで家族が殺されたと他責して自分で妹を守る力をつけようと思わなかったらそこで炭次郎の物語は終わってしまう。誰しも自分の人生の主人公で、社会がどうなろうが他人がどうだろうが自分の命をどう使うかは自分で決めて責任を持つことをフィクションは表現している。
それにフィクションは自分の周りの家族や近所の人や同級生や同僚以外の環境も年齢も思想も異なる人に対する理解と共感を促していて、この他者への理解がないと自分勝手な人だらけになって社会は形成できなくなる。生得的に共感能力が欠如したサイコパスが生まれるのはしょうがないけれど、そういう人が反社会的な思想にならないように人間の価値を伝えねばならない。
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