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(私、誕生花というものの性格を、大きく取り違えていたようです。。なので以下の文、最初にUPしたものからかなり書き換えてます。。あと、リンク張りなおして飛べるようにしました。。)とあるHPからの引用になるけど、<誕生花の由来はギリシア・ローマの神話時代にさかのぼ>るらしい。その時代には、<花や木々は神秘的な力や神からのメッセージを宿すものと考えられていた>そうだ。<ギリシア・ローマの人達は、日々を司る神がいると信じて>いて、<その神と花を結び合わせて暦にしたのが誕生花>なのだそうだ。<誕生日の花は、守護神のように自分を守り、幸福、愛、富をもたらしてくれるものだと信じられています>。花言葉には昔から興味がありました。小説や映画などで花が使われるとき、花言葉を調べてみるとけっこう深い意味があったりしたからです。自分や友人の書いた小説なんかの花も調べてみたんですが、センスがいいなと思う人の作品の花言葉は、まさにその花が出てくる状況にはまっていることが多いのです。花とそれが象徴するものの関係って、不思議だなぁ、と、思ってました。いまだによく分からないのは、誕生花というやつです。花言葉を相手に贈るときは、伝えたい言葉をひとつ選んで、それを表す花をプレゼントするそうです。そのときの選択の対象になる花が誕生花で、古代ギリシャの神々にちなんだものなのは分かるんですが、その花言葉はその日に生まれたヒトの性格や運命にも影響を与えているんでしょうか?ちなみにおいらの誕生花と花言葉はなにかというと、(以下、リンク・フリーなこちらを参照) オウゴンハギ 謙遜、成功、思いのままハイビスカス(白)艶美、繊細な美ハコリス 悲しき思い出ポポー 健康ヤマユリ 人生の楽しみ、荘厳、威厳いくつかのキーワードは、当たってる気がします。繊細な美、とかぁ(うそです。。汗)。他にも(勝手に)例をあげてみよう。プロフィールに誕生日を入れてる方から。。うちのHPに来てくれてる方は、たいていここから流れてきてくれたという、うちの集客力の源(笑)、エイガ・デ・コルテの女支配人、ももちきさんはどうでしょうか?クリ 公平・豪華・満足・真心クリノハナ 真心チューリップ(白)思い出の恋・思いやり・失恋・新しい恋ニゲラ(クロタネソウ) 当惑んー。どうすか?恋愛関係はご本人しかわからないこととしても、クリ関係はわりと当たっているような気がします。もうすぐ誕生日のいもぉとのみぃは、こんな感じです。キンモクセイ 謙遜、真実セイタカアワダチソウ 生命力ブバルディア 交わり、夢想家ルピナス(ノボリフジ)あなたは私の安らぎ、空想、母性愛、貪欲ルピナス(白) 母性愛これまた不思議とふさわしい言葉が並んでます。生命力、謙遜(これはちと微妙かな。。汗)、母性愛、貪欲wあたりはとくにそうかな。。(笑)交遊範囲の広いやつだから、交わりもいえてるか。くれち、みぃにルビナスくれてやって、「あなたは私の安らぎだよ」て言うんだっ。(自分が出来る相手いないので他の人にやらせようとするおいらw)うちのキリ番を2度踏んで下さったがちゃさんの誕生日の花は、こんな感じだったりします。サクラ草(オックスリップ) 初恋・勝者の寛容・少年時代の希望・神秘な心・青春の歓びと悲しみセイヨウサンザシ 一度きりの恋バイカウツギ 気品・品格ユリノキ 見事な美しさ・幸福神秘な心、気品、品格、幸福など、がちゃさんの雰囲気にふさわしい言葉のあいまあいまに恋って文字が入ってきてます。てな感じで、他にもリアルの知り合いやら、楽天の方のやら見てたんだけど、なんだかけっこう当たってるとこ、あるような気がしました。おいら、誕生花からヒトの性格考えるのが好きになりそうです(笑)。当たってないこともけっこうあると思うので、鵜呑みにするつもりはありませんが。。考えるきっかけになりますし、思わぬ発見もありそうです。てかね。。おいらの誕生花の花言葉には、愛とか恋とかいう文字がひとつもないのですよ。。(汗)たいていの人のところには、なにかしら入ってるようなんですがねぇ。。(汗)みなさんの誕生花はいかがですか?
2004.10.31
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山道を登りながらこう考えた(うそ)。ほんとはかこ君の日記を読んで考えた。なにかを書きたいという気持ちはどこからでてくるのだろうか?なぜ書きたいんだろうか?映画の感想を書くことについては、はっきりしている。語るべき対象を認識し、表現する努力。それが楽しい。(↑この部分については文末に補足有)そして私の場合、語るべき対象は、正確にいうと映画のことではない。映画を見た結果、私の中に生じた印象、イメージ、思想、感情。。そういったものを書こうと試みてる。なぜなら、楽しいから(笑)。自分の中の曖昧なイメージに形を与える。それが楽しい。逐一言葉で表現していくのではなく、私の文章を読む過程で、読む人の心の中に、イメージとして浮かんでくればいいな、と思って書いている。日々のこともそうだな。書きたいことは、本当は、日々のできごとじゃないのかもしれない。それは実は、素材にすぎなくて、その日の気分や、あるできごとから感じたこと、感じられなかったが感じたかったこと、そういう漠然としたものが文章全体の印象として伝わるように考えて書くのが楽しい。言うまでもなく、成功してるか失敗してるかは、別の問題だ。今日失敗したって、明日成功すればそれでOKだ。明日成功したからといって、あさっては失敗するかもしれない、それもOKだ。ちょっと悔しい思いをするくらいだな。かっこつけて言うと、文章全体が1枚の絵のように見えること。それをやってみたい。そんなことができたところで何かの役に立つとは思えないが、少なくとも私は楽しいし。(^◇^)レス読んでると、正確に受け取ってくれてる方もいるので、うれしい。そういう人に楽しんでもらいたいので、楽しんでもらえるような工夫をする。そうやっていくと、ひとつの日記がいろんな次元を含むようになってきて、さらに楽しい。これは、自分に向けた表現であり、同時に他者に向けた表現、ということなのかな?実は一番退屈なのは、こういう説明文なのだが、それでも正確に自分を表現しようという真摯な試みなわけだから、楽しいといえば楽しいし。言葉に縛られず、言葉を使いこなす感覚が得られたりすると、快感だし。結局、私の場合、文章書くのが好きなんだと思う。自分の中に沸き起こった感情を、文章にするのが好きなのだと思う。日常生活で主に使う話し言葉と違うものを使ってみたい、という欲求や、誤解のないように言葉をつなげていくことに神経を配らなくてもよい楽しさかな。言葉と言葉をつなげることで生じる自分という存在の雰囲気。それを確認することで分かる自分の形。自己認識。それを深めることに、興味があるってのもあるな。自分を知ることで、初めて他者を理解できるから。他者を理解できないのは、自分を理解できていないからだといつも思う。私もその中に含まれるけど、自分を知らない者の言葉は、軽いしね。自分の言葉を使えないから、いつも何かに頼らざるをえない。頼るものが見当たらなければ、はすに構える。ださい。でもそれが分かっていない。もっとも私が誰かを見てそう感じるとってことは、さらに高い位置から見れば、私も軽く見えるということだ。さらに高い位置にいる人から私を見れば、私はきっと何かに頼ろうとしているはずだ。はすに構えて逃げてるはずだ。ださいはずだ。しかもそれを分かっていないはずだ。そう考えることで、初めて謙虚になれた。自分より分かっていない人にも寛容になれた。でもこんなのは、ほんとに最近のことだ。身のほど知らずな言動も、度が過ぎない限り笑って許せるかな。てか、私のこういう言動がすでに身のほど知らずなんだけどさ。。(笑)しかもほんとは表現について書くつもりだったんだが、結局自分について書いてるな。。まぁ、すべての表現は自分について語ること(描くこと、奏でること。。等々)だから(ごまかし。。笑)。かこ君曰く、>すべてを解放した自分、他者を意識しない表現。コンセプトは面白いと思ったんだがなぁ。実践はかこ君に任せるしかねぇだわ。。(汗)わたし的には表現という行為の中には他者に向けて行われるもの、って前提があって、その前提がありながらそれを意識しない表現、といういっけん矛盾したスタイルに魅力を感じてます。しかし、私にはそれは無理です。でも、表現の技術の問題ではなく、表現者のあり方に投げかけられた言葉だけに、深い言葉だと思います。あえて他者を意識しなくても、自然とピントが合ってしまうような本質的な内容や深い洞察を含んだ表現、てことなら、目指してみたい地平線のかなただなぁ。(補足)えとですね。。参考までにおいらの学生時代の専攻は、経済学です。。なのでこのへんのことは、全部聞きかじったことで書いてます。ちなみに↓のは、かつて読みかじった三浦つとむの考えの私なりの理解です。。(汗)表現とはなにか?この問いかけは、今の私の出発点ともいえるある場所と、思想と、人々を思い起こさせる(人々の中には、“戦友”ヴェリーちゃんも含まれているがライヒ君は直接には含まれていない。。笑)。私にとっては幽霊のような問いかけなのだ。その表現の構造について、かつて私のまわりでは、たしかこんなふうな解釈が支持されていた。1.ヒトの五感が受け取る情報が、思考やひらめきを介してあるイメージを心の中に形成していく。2.ヒトはそのイメージを観念的に対象化し、認識する3.認識したモノを、形あるものとして、物理的に対象化するこの解釈の特徴はなんだろうか? そして欠点はどこだろうか?まず、特徴。1の段階でヒトをブラックボックス的に解釈することで、インスピレーションというミューズの贈り物を2の段階の「認識」という言葉に置き換えていること。3の段階が、認識したものを形にする作業であること。この段階での作業は、2の段階の認識のレベルによって、異なった意味合いを持つ。認識の度合いが深ければ、作業はきわめて容易だ。しかし認識が不十分で混乱を極めるほど、作業には<認識を確定する>要素が含まれてくる。表現という行為のダイナミズムの構造をうまくとらえていると思う。次に欠点。創造的な行為の要に「認識」をおくことに無理はないか? つまり、この解釈によって説明することはできるが、これをもとに表現を実践することはできないのではないか?表現の過程でもっとも創造的な部分をブラックボックスとして表現しているから。
2004.10.30
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日常生活でできないことをしたくて、ブログ(というのか?)を維持してる。幸か不幸か一人暮らしなので、時間はある。理論を立てて実践する。なんて言えばおおげさすぎるけど、そういう作業、おいらはけっこう好きだ。ヒトをもてなしたり、楽しませたりするのも、(意外に思う人もいるだろうが)好きだ。笑わせたり笑ったりすることとかね。どうすれば楽しんでもらえるかな、って考えて、実行したりもする。リアルでの行動がバーチャルに影響し、バーチャル世界での行動がリアルに影響を与える。循環する2つの世界は、とても居心地がいい。ひとつのおいらのありかただ。別のおいらのありかたもある。でも、いくつかの些細なきっかけから、おいら、バランスを得ただよ。きっかけのひとつは、日常生活のささやかな変化だった。別のきっかけは、最近見たいくつかの夢だった。あるいは、映画についてあれこれ考えていることの副産物だったり。。もっと大きなきっかけは他にあるんだが、当たり前でつまらないものだったりする。。おいらが健康になったこと。。ほらね。。ひらたく言うと、腰の状態が良くなったのさ。小走りくらいならできるようになった。動きたいのに動けないストレス、本来できることができないもどかしさ。そういうのから解放された。まったく、単純すぎるぜっ、おいら。でも。約8ケ月間のもどかしさから得たものは、少なくないし、健康なままだったら(いや。。たいした病気ぢゃなかったんだが。。)楽天始めてなかったろうから、意味のある期間だったと思うことにしよう。おいらにとってのこの場所は、わりと素直に自分をさらせる場所だし。ここでは利害関係が発生しないから、基本的には自分に不利な情報を隠す必要がないし。ブラフする必要もないし。素直にふるまうことで、リアルのおいらも変ってきた。そんな気がする。この好循環がこれからも続けばいいな。
2004.10.29
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師匠(改め、おねぃさんまたは姉上だった。。忘れてた。。汗)のいぬ間に。。勝手に値付け評価。。(ただしおいらのメモがわり。。失礼。。汗)「或る夜の出来事」 (1939年フランク・キャプラ監督クラーク・ゲイブル)スクリューボール・コメディと呼ばれるジャンルの映画です。アカデミー賞で主要5部門(作品、監督、脚本、主演男女)を独占した初めての作品とのこと。前半はたるいが中盤以降、すごい。長距離バスの乗客がみんなで歌うシーンはほのぼのしてて楽しい。250円。「ハーヴェイ」 (1950年ヘンリー・コスター監督ジェームズ・スチュワート)この時代にこの物語とはちと驚き。ジャンルはファンタジー? 300円フレンチ・キス (ローレンス・カスダン) 200円おもしろい。たまに見たくなる。元ヨメがこのメグ・ライアンを見て、自分とそっくりだた主張していたのを思い出した。なのでほんとは、メグ・ライアンを見てるとたまにムカムカする。。(笑) たしかに雰囲気は似てた。顔は全然違った。「カウチ・イン・ニューヨーク」 200円ウィリアム・ハートとジュリエット・ビノシュの共演(わたし的には夢の共演デス)。ハートが「エドワード」と呼ぶペットの犬をビノシュは「ロメオ」と呼ぶ。エドワードて、「偶然の旅行者」のハートのペットの名前だけど、よくある名前なのか??ロメオ=ロミオで、ジュリエット(ビノシュ)だからか?なんかわろた。「裏窓」 (ひちこく)何度見てもよい。グレイス・ケリーが最初に登場するシーン、サイコー。210円。「裏窓」 (クリストファー・リーブ主演のリメイク)クリストファー・リーブのリアル人生が、事故で首から下が不随になる主人公と重ねて語られる。ちょっと感動。。あんど合掌。。でも100円。。「殺したいほどアイ・ラブ・ユー」 (ローレンス・カスダン)これって評価低いってまじ? 私はすごく楽しめました。200円。「アンダーグランド」 個人的には好き。うさんくささがたまらない(笑)。けど、150円かな。。「スミス都へ行く」 (フランク・キャプラ) 150円ジェームス・スチュワートの演技がすごい。「素晴らしき哉人生!」 (フランク・キャプラ) 200円アメリカの良心が資本主義と戦う話でもある。。「ショコラ」 おもしろかった。この監督の感覚はきらいぢゃありません。180円「汚れた血」と「嵐が丘」、見たくてたまらなくなった。「東海道四谷怪談」 (中川信夫監督)登場人物のほとんどが死ぬ異常な物語。。傾く画面。。製作年を考えると、ものすごい技巧&映像美。「死霊のはらわた」に影響与えてるかも。。200円。
2004.10.27
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郵便配達員がインターフォンで、「書留です」と言う。受け取ろうとして、ハンコ持って玄関開けたら、「あなた宛ぢゃないです。奥さん宛です」わけわかんねぇ。だから。「いや。おいらに妻はいませんが?」そしたら郵便配達員、ちとむっとする言い草で。「そんなハズはないでしょう。だって書留がきてるんです」冷静においら、「ああ。心当たりはありますよ? それはきっと元。。」言いかけて絶句する。リビングから玄関にかけてのフローリングに何かが当たっているような、カツカツ、って音が近づいてきたので振り返って見たら、レッサーパンダが。。なんだか照れくさそうにおいらを見ながら歩いてきた。「ああ。奥さん。ここにハンコを」郵便配達員が差出した紙切れに、レッサーパンダは、ぺたん、と足型を押した。納得いかねぇおいらは言う。「あのさ。。ちょっといいかな??」でも配達員は帰っていく。妻?は書留を咥えて、リビングに戻っていく。「もしや、おいらもレッサーパンダなのか??」洗面所に行って鏡を見た。その可能性は消えた。今度はカサカサ音がするので、リビングに行ってみた。妻?が手紙を読んでいた。おいらに気づくとまた照れくさそうに笑って、みぎゃぁ、と鳴いた。言いたいことが分かってしまった。「ああ。母さんから手紙がきたんだね?」「みぎゃぁ」「今度遊びに来るのかね。そーかそーか。。」「みぎゃぁ」おいらのことも書いてある?妻?が言うから、手紙をのぞき込んだ。くさび文字みたいなのがぎっしり並んでいた。よく見たらくさびに見えた模様は、くさびではなく竹のようだった。。「わかんねぇよ。その竹文字は、おいらには読めねぇよ」妻?はなんだか興奮気味にリビングをぐるぐると歩き回った。その様子を見ていると、なんだかおいらもうれしくなってきた。妻?の母には会ったことがなかったので、会うのが楽しみだ。あんな文字で手紙を送ってくるってことは、妻?の母親もパンダなのだろう。どうやってもてなそうか考え始めた。
2004.10.26
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昨日はソファで寝てしまった。2時間おきに目が覚めて、ベッドにいかなきゃ、と、思いつつ、なんでかしらんけど楽天にログインして自分の書いた日記を読んではまたソファで寝た。。なんだかんだで7時間くらい寝たのかな。。普段は4,5時間だから、多すぎるくらいなのに、今日はもう眠い。。まだ1時なのに。。寝る子は育つというが、おいら、これ以上育ちたくない。いや待て。それ以前に、誰が子供やねん、とつっこまねば。。ねばねば。。今日はなにしたんだっけか? 仕事で世田谷行ってきたんだったか。都心の住宅街はごちゃごちゃしてて、歩いてると楽しいが車だとストレスたまる。道が細すぎ。人が多すぎ。仕事は1日では終わらなくて木曜日にまた行かなきゃならない。世田谷区役所にもまた行くだよ。ヴェリちゃん、木曜日に昼めしでも一緒に食わんかね?おやぢひとりじゃ入りづらいようなこじゃれた店でケーキ食べたいだよ。スパゲティも食いたい。夜に、かの骨折騒ぎの「みそらーめん専門店」に行った。さいわいヒビが入ってただけらしいけど、膝から下をギプスで固めてるって。。いったいどこにヒビはいったんぢゃ??(なんとなく聞き損ねた)おいらの顔を見るなり、「こないだはすみませんでした。今日から開店です」おいら、全然気づいてなかったくせに、「ああ。。やっぱりそうでしたか。。」なんて、調子よすぎなこと言いつつ、西京みそラーメン(甘口)注文した。今晩はこれしか食べてない。体重は昨日よりマイナス0.6キロ。体脂肪率26.2%。。。おうのぉ。。
2004.10.25
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ああ、食った食った。。(ノ_・、)シクシクまず帰りにカタコト日本語の中国人さん(帰化申請中)がやっておられる中華屋でラーメンと半チャーハンのセット食べた。「ラーメンは、ショウユ味と、あっさりと、もろやか味、あるけど、どれする?」言われて、一瞬、ん? となった。そしたら、ひとなつっこい笑顔の中国人さん、「あ、まろやか味?」と、おれに聞くので、「あ~、そうかも」と答えた。んで、まろやかを注文した。あっさりとこってりならわかるが、あっさりとまろやかて。。しかもそれ以外の選択肢がしょう油って。。客に選択の幅与えてるんぢゃなくて、あなたのお薦めチョイスなわけね。。(笑)前からメニューのお薦めコーナー、何書いてあるかさっぱりわからんくて(ちゃんと日本語で書かれているにもかかわらず、です。。汗)、いつもそれ見て考えてるうち、料理の出てくる店だったが、ますます好きになれそうだ。食後の感想。。まろやか、しょう油味ぢゃねぇか。。(汗)けど、うまいので許すっ。まろやかとしょう油とあっさりの違いがますます気になってきた。。とっても自然な味のラーメンで、本場の味ってカンジがする。麺もそこらのラーメン屋のとはなんか違ってるし。卵って、麺にいれる? なんか卵が入ってる気がした。そしてセットでついてきた半チャーハン。ほんとに炒めた飯ぢゃねぇか。。(汗)かろうじて刻んだネギと炒りたまごは、ちょっとだけはいってたけど。。ほ、本場はこうなのか??うまかったから許すけど。。んでとりあえず家に帰ってきて、日記にレスつけながら日本シリーズ見ながら、クッキー2個食べた。クッキーぢゃねぇや。なんだっけか? スコーンだっ! クルミ入りのやつ。これ、明日の朝食になるはずだったんだが。。んで大量にコントレックスとかいう水飲んで、風呂でも入ろうと思ったとき、思い出した。昨日、買ったけど食べなくて冷蔵庫いれといた牛肉のたたき200グラム。今日食べなくては忘れてしまうかもしれないし、そうすると腐ってしまうかもしれないし、それはとても悲しい。。(汗)半分だけ食べておこう、残りは冷凍しておこう、と、思って薄く包丁で切り始めたはずなのに、ひとかたまり全部食っちまった。。(汗)ああ。。もうだめだ。。神さま、なんとかしてくれぃ。またでぶるやんか。。へこむ自分のだめさ加減を数値化するため、体重計に載った。。やっぱりあかんがな。。体重計を買った日から、プラス1.1キロ。。ニヤリ笑いするみぃの顔が目に浮かびやがる。。減量中の体は、脱脂綿のように栄養を吸い取るのかっ!?気を取り直して。明日からまたやりなおそう。結婚は簡単にはやりなおせないかもしれないが、減量と禁煙はわけが違う。いつでも何度でもやりなおせるさ☆ (オイオイ…
2004.10.24
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今日は出先で仕事が終わり、家への帰り道にTUTAYAがあったので、寄ってみた。家からはちょっとはなれたところにある、たまに行くTUTAYAだ。商品がいっぱい入荷していて、あれも見たい、これも見たいと棚から抜いてるうち、ふと気づくと6本になっていた。み、見れねぇ。。(汗)でもどれもはずしたくねぇ。。(汗)なので全部借りたら、2460円て言われた。。1本210円のハズでは? と思って、料金表見て唖然とした。。おいら、ここでは毎週水曜日に返して借りるサイクルが出来てたんだが、なんと水曜日は半額サービスデーだったのだ。。会計済ませて10分くらいの間、失われた1230円について思いをはせた。本日の夜ごはんの予算が800円。これに加えると2030円。。いったい何が食えたろうか。。ステーキは食えねぇが、タン・シチューなら、もう少し出せば食えた。。嗚呼、悲しすぎる。。この悲しみを誰にぶつければいいのだろう。。(おい。。汗)あ、楽天で日記に書きゃいいぢゃん。。(^◇^)ケケケてなわけで書いてましゅ。んでその6本はどんなのかというと、なんだかクラシックだ。「市民ケーン」「カウチ・イン・ニューヨーク」「愛のメモリー」(デ・パルマ)「サンセット大通り」「或る夜の出来事」(フランク・キャプラ)「ハーヴェイ」(ジェームズ・スチュアート主演)一番新しいやつでも10年くらい前の作品だぁ。今の気分ぢゃ最近の映画は神経にピリピリきそうで。。全部は見れないと思うけど、今はちょっと疲れ気味の自分をくつろがせてやりたい気分なので、刺激のあるものははずしたつもりだ。。いや。。まぁ。。デ・パルマとか借りてるけどさ。。(汗)いったい何本見れることやら。。おとついも自分に違和感のない世界を楽しもうと思って、ローレンス・カスダンの「フレンチ・キス」借りたし。おもしろかった。でも、これ、結婚してたとき元ヨメが借りてきて一緒に見たやつだった。ぎゃはは。なにはともあれ、カスダンの映画はどれもいいっ。唯一、「ドリーム・キャッチャー」には、ちと失望したけれど。。「殺したいほどアイ・ラブ・ユー」も、いいっ。そのカスダンの映画によく出ているウィリアム・ハートとジュリエット・ビノシュが共演してる「カウチ・イン・ニューヨーク」は、ずっと見たかった映画だっ。今晩はまずこれを見るつもりだ。ジュリエット・ビノシュは、おいらの5大女優のひとりにはいるのさ(笑)。ビノシュとおいらは同い年なのだが、「ショコラ」でもお美しいままだった。感動したっ。映画にぢゃなくて、ビノシュさんに。「汚れた血」で見た時の衝撃を思い出した。いつまでもスクリーンで活躍してほしい。ちなみに5大女優の他の4人は、ジェーン・フォンダ、トリニ・アルバラード、ローラ・ダーン、ドリュー・バリモア、ジョディ・フォスターかな。。共通点てあるのかな? なんだかお上品なカンジかな?(いや。。バリモアさんは違うな。。汗)って、ひとり多いけど。。(汗)今、急に思いついて考えたもので。。(笑)。男優だと、どうなんだろ?ウィリアム・ハート、ジェームズ・スチュアート、アダム・サンドラー。。あとふたり。。出てこねぇ。。ジャン・ピエール・レオーとジャン・ポール・ベルモントでいいか。。これの共通点は明確だ。好きな映画によく出てることだな。そういう意味じゃ、イーストウッドやカイル・マクラクラン、宍戸錠なんかもいれていいのかも。。
2004.10.23
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仁侠映画て、観たことありますか?私、学生の頃、よく観ました。その頃すでに仁侠映画は20年ほど前に流行っていた過去の遺物でした。京大の西部講堂とか、某大学の学生会館とか、大阪の新世界のきちゃない2番館とか(汗)、そういうとこでしか上映してなかった気がします。話の作りは資本家(であると同時にやくざの親玉だったりすることが多い)対庶民(主人公はいつもこっち側)って図式なことが多かったです。んでまたその資本家のやり方というのが、あまりにも強引というか暴力的というか。。でも資本主義の本質ってこうだよなぁ、って、妙に納得できるようなことをやってくるわけです。それに対する庶民は、古きよき時代の日本の美徳をけなげに守って生きています。資本の論理で美徳を踏みにじられ、我慢に我慢を重ねます。そして最後の最後に主人公がキレて、すべての罪を背負うかわりに単身資本家のもとに殴りこみ、ばった、ばった、と、切り殺すわけです。いちおう通説(?)では、このラストにカタルシスがあり、高倉健や鶴田浩二が演じることの多かった主人公がかっこいい、と。そういうことになるようです。しかし、ほんとにそうなんでしょうか?本当の面白さはもっと別のところにあるような気がします。たしかに任侠映画では、とてもじゃないけど現代じゃできそうもないような、ほんまものっぽい殺陣が見れます。石井輝男「昭和残侠伝唐獅子牡丹」(?)なんかでは、本物の刀を使った殺陣シーンがあり、刀と刀が触れた瞬間、本物の火花が飛び散ります。役者の運動能力も、基本的に現代の日本の役者たちよりかなり高いです。だから誰かがただ走っているだけのシーンでも、その運動能力の高さに軽く感動したりすることがあります(役者の運動能力の衰えっていうやつは、日本映画に強く感じます)。CGではなくセットというのも、あらためてみると豊かさを感じさせます。さらに任侠の世界で行われていたしきたり等を、正確に再現していることもあります。しかしこれらも本当の面白さではありません。本当の面白さは、先の図式の中にあります。かつては一時代を築いたらしい任侠映画のこの図式の中には、当時の庶民の心の風景が記録されてるように思うのです。高度に発達しつつある資本主義社会に生きる現代の庶民である私たちの目には(と言って語弊があるなら、私の目には)、もはや先の図式において、対立する両者のどちらが正しいのか、とても分かりにくくなっているのです。たとえば。。映画の中で資本家が言い、庶民が理不尽と感じる言葉を、私たちはある程度、「当たり前のことだ」と感じます。それに不平をのべる庶民を、「わからねぇやつらだな」と、感じることがあります。資本主義というものに対する理解が違ってきてるのです。私たちは、同じ<庶民>という言葉でくくれる存在でありながら、すでに、かつてこのジャンルの映画を楽しんだ人たちとは、別の種類の人間なのです。かつての人々には明快な図式として捉えられた対立は、私たちには明快なものではなくなっており、かわりにそこには、ある悲しい姿が浮かびあがってきます。それは、かつてはとても野蛮だった資本主義という思想が、資本主義とは相容れないある理念を飲み込んでいく姿かもしれません。滅びゆく者たちの悲しい魂のために、仁侠映画のラストでは、ひとりの男が立ち上がります。龍やら獅子やらの刺青を背負ったその男は、滅びゆく者たちの鬱憤をほんの少し晴らします。しかし彼は、もはや時代の変化を止められないことを誰よりも知っているように見えます。だから彼の殺戮は、復讐の範囲にとどまり、革命へと繫がることはありません。しかし出来のいい作品においては、彼の姿は、なんだか神話的な悲しい神々しさを放つのです。仁侠映画は資本主義の成長過程のある時期における庶民の心の風景を記録しています。すべての任侠映画、というわけではないでしょうが、少なくともそれを記録している映画が存在します。それはある意味、歴史の流れに消されてしまった風景であり、その映画のラストで起こる大立ち回りは、その風景へのレクイエムです。こういうものが映画という形で記録されていることがすばらしいと。私は思います。そしてごくたまに仁侠映画を観て、滅びていくものことに思いをはせます。滅びていくものとは常に自分の外側にあるわけではなく、内側にも存在します。自分の中から永遠に失われた風景や感情に思いをはせ、敬虔な気持ちで一夜を過ごし、夜が明けると何事もなかったかのように、また資本主義社会の中へ溶けていきます。
2004.10.20
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全国の有名なみそを集めてみそラーメン作ってる店が近所にあります。手作りの味を出してるよい店です。何を手作りの味と呼ぶのか、定義は難しい気はするんですが、私は、「自分自身がうまいと思うものを安く提供しようとする気迫」じゃないかと思ってマス。安易に化学調味料や、塩や醤油の濃い味付けに走らず、自分がうまいと感じるものが一番なんじゃぁ、みたいなプライドを感じるやつですね。私が都心から徐々に離れ、いまの場所で暮らすようになったのは、こういう外食産業の「味の商品化」が進んでいないせいもあるのデス(ビバ、外食!)。「味の商品化」が進んでしまった地域では、何を食べても言い訳されてるようで、ヤな感じデス。「この値段でこの味なら、文句ないでしょ? ね、ね、うまくまとめてあるでしょ?」って言われながら食べてるようで不愉快デス。味のバランスなんて、どんなに壊れててもええから、「お前の120%を見せてみろぉぉぉ」と、叫びたくなりマス。(ちなみに映画なんか観てても、同じこと叫びたくなるとき、ありマス。。)あえて都心で商品化されてない味を求めるなら、エスニック料理がいいような気がしマス(金に糸目をつけないなら別なんでしょうが。。)。なんだか理解しがたい香辛料の味とかしてても、全力で調理人の文化的な背景をぶつけてこられたみたいで、がしっ、と、受け止めてみたくなりマス。いや。。そんなことはともかく。。てか、実はこの話をこのまま展開した方が、おもろいような気もするんだけど、私は書きたいことに突き進みます(笑)。こないだ帰宅途中のその「みそラーメン専門店」で夜ごはん食べたとき、客のいないカウンター席に店の主人がのっかって、壁面の高い位置の拭き掃除してたんです。60歳前後と思われるわりには身軽なご主人は、軽快なテンポで作業を終え、カウンターから飛び降りました。そのとき唯一の客として店内にいた私は、「重力が衰えるとき」の続編「太陽の炎」を読みながら(ふぇふぇ。そのうちまた感想書くだ。。汗)ラーメンを食べてました。「はっ!!」なんて、ご主人、掛け声かけて飛び降りたので、なにごとかと思って、目をやりました。10点満点の完璧な着地に見えました。しかし。。ご主人、このときの衝撃で、どうも骨折したようです。。「お客さん、申し訳ないねぇ」と、しきりに私に謝りながらも、痛々しく足を引きずり歩きながら、完璧な着地であったことを悲しげに私に主張するのでした。私のそばで、救急車呼んだり、家族に電話して助けにこさせたり、入ってきた客には事情を話して帰ってもらったり、店を閉める段取りを始めました。私も、なんだかあせってラーメン食べました。だって、救急車とか救急隊員とか見ながらラーメン食べてるなんて、いろんな意味でヤですから。場違いで間が抜けてるし。人でなしみたいだし。「こんなんで骨折っちゃうなんてなぁ。。」ご主人、おもいっきりブルー入ってます。そのブルーは確実に、私のみそラーメンにも忍び込んできましたが(汗)、まぁ、ことがことだけに許せました。「その高さからぢゃ、おれでも折ってたかもですヨ?」なんて、とってつけたような気休め言ってしまいました。。なのでちょっと反省して、付け足しました。「おれ、おじさんより若いけど、重さがあるからねぇ」おじさん、おもわず吹き出しました。。こら。。おれは客やぞ? (笑)嘘でもええから、「そんなことない」て言わんかい。。(涙)もうすっかり秋めいているのに汗だくで食べ終えた私は、救急車が着くよりも、ご主人の家族が着くよりも先に、すでにすっかり外の照明を落として閉める気満々の店をあとにしました。「悪かったね、また来てね」って言われてたのに、人でなしな私は、今さっきまでこのことを忘れてました。近いうち、ちとまたこの店、行ってみようと思います。てか、店、開けてるんかな。。(汗)それにしてもマジ最近、おいらの日記の長文化が進んでマス。書いてる時間はむしろ短くなってきてるんですけどねぇ。。
2004.10.19
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いつまでもマイナーなSFハードボイルドの日記で止まってるというのも、来てくれた方々に失礼な話やし。ちょこっとなんか書いときます。ネタ切れになると、つい仕事ネタ書きたくなるんやけど、わりとエグいネタも少なくないので、結局思いとどまります。人がどのように決断するのか、とか、どのように決断から逃げるのか、ということには、やたら詳しくなりました。最近考えてるのは<消費>への欲望ってやつで、この人は(てか、このタイプの人は、かな)なぜこれを買おうとしているのか、ていうのにすごく興味があって、たまに本人に聞いてみたりしています。売る側の人間である私に、「なんでこれなんですか?」と聞かれるのは、買う側の人間にとっても新鮮なようで、いろいろ話してくれる方もいます。まぁ、たいていの方は、自己分析できてませんので、私が代わりに分析してあげてます(誘導してるとも言う。。)。こんなことをしていると、自分で買い物に行ったときも、「なぜこれなんだ?」とふと考えてしまいます。ちゃんと分析できてるときはあまり面白くありません。なんかわかんねぇけどほしいとき、というのがけっこう面白くて、いろんな理由をこじつけて買おうとしてたりするから、お客さんの心を追体験してるような気がしたりします。こういうときになんて言われればうれしいかなぁ、なんて、背中を押す言葉考えてみたりして(笑)。それでいい言葉思いついて、うれしくなって衝動買いしてる私は馬鹿ですが。。ちなみに客としての私は、販売員さんに何を言われてもまず心が動きません。一番やりにくいタイプの客です。自分の目だけを頼りにしてるかというとそんなことはなくて、その販売員さんを見てることが多いです。なので一度気に入ると、靴にしろ時計にしろ服にしろ、ずっとその人から買うことになります。どういうタイプの販売員に弱いのかというと、こちらの希望をじっくり聞き、それにそって一生懸命考えて薦めてくれる人、という当たり前の線に落ち着くようです。ところが案外こういう人がいないっ。。(汗)特に男の販売員。。じっとこっちの様子見てて、これが気に入ったんじゃないかなぁ、なんて、勝手に見当つけたところで突然販売トーク喋りだすイタイやつ、多い。。(汗)無駄なことはしたくないって気持ちは分かるけど、きみのその販売トークが一番無駄だということにはやく気づくんだぞぉ、なんてね。思いますだよ。。(汗)聞きたくもない販売トーク聞いてやった上に、その人から買ってあげられるほど、私は心が広くなかったりします。。(汗)
2004.10.18
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原題”When Gravity Fails”ジョージ・アレック・エフィンジャー著/浅倉久志訳 ハヤカワSF文庫一部で熱狂的に支持されているらしいエフィンジャーのブーダイーン3部作の1作目です。私もなにげに支持してます。題名にある<重力>は物理的な力のことではないらしく、個人の人格やモラルを維持する力、社会秩序を維持する力の比喩として用いられているとのことです。たしかにこの作品の世界には、現代の私たちを支配している<重力>の減衰が、さまざまな形で見てとれます。タイトルの原題は、ボブ・ディランの「親指トムのブルース」という曲の一節からとられてます。作品の巻頭に置かれたふたつの引用は、この歌詞の一節とチャンドラー「簡単な殺人法」です。歌詞はこの作品の物語の世界をほのめかすために。チャンドラーは主人公の属性の由来をあきらかにするために置かれています。「簡単な殺人法」は、本格推理小説を実名をあげて批判したチャンドラー自身によるハードボイルド宣言として有名らしいのです。そしてまさにチャンドラーの世界から抜け出てきたようなこの小説の主人公の名は、マリード・オードラーン。ヨーロッパ人の血が4分の1混じったアラブ人です。約200年後の世界を描いたこの作品で、フィリップ・マーローはイスラム人として転生しているようです。西暦2200年頃の世界では共産主義も民主主義も消え去り、無数の小国家が乱立しているという設定です。作品の舞台となるブーダイーン街区は、うっかり迷い込むと生きてでられないような街です。現代の規範ではかると実に退廃的で危険な、このムスリムの街が、作品の魅力のひとつになっています。ブーダイーンに起こった猟奇的な殺人事件の調査を行うはめになったマリードは、恋人ヤースミーン(ジャスミンか? 性転換し、全身を人工パーツに入れ替えた完璧な美女だす。。汗)や友人を守るために知力体力うふりしぼって闘い、勝利を手にします。流れだけを見ていくと、ハッピーエンドになるはずである意味出世物語なのですが、金を手にすればするほど、皮肉にもマリードは守ろうとしたすべてのものを失っていきます。そのプロセスと彼の姿が、美しくて共感を呼び起こします。SFとして読むのはどうかと思いますが、SFチックな舞台のハードボイルド小説としてのできばえは、かなりなものだと思います。作品中頻繁に繰り返される儀礼的なムスリムどうしの挨拶のやりとり、おそらくあえて直訳チックに訳されたイスラムの慣用句などが、アラビアンナイトな雰囲気をかもしだして素敵でした。
2004.10.17
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3.プロト・タイプとの対話80年代以降のホラーには、それまであまり目にすることのなかったタイプの作品が存在します。それらの作品では、現代のおとぎ話と呼びたくなるほど心理学的な象徴が多用され、時間軸に沿って展開される物語とは別に(そして同時に)、現代的で典型的な危機的心理状態が描かれています。画面に映し出される恐ろしい出来事が、主人公の心の中で起こる葛藤をもあらわしていて、その危機的な状態からの脱出のドラマ(あるいは脱出に失敗してしまうドラマ)としても成立しているのです。私たちは時間軸に沿う物語を、通常の映画を見るように楽しむとき、象徴を用いて語られるこの隠された葛藤の物語は、潜在意識に直接働きかけてくるのです(サブリミナルな効果を私たちに及ぼしているのだと思います)。私が初めて目にしたそういう作りの映画は、「死霊のはらわた」でした。この作品の舞台となる家屋(夢分析ではしばしば心の象徴とみなされる)は、他からは断絶した場所にあり、惨劇はその閉ざされた場所で起こります。これはまるで、他者から切り離されたヒトの内部で惨劇は起こるのだ、と、言われているかのような恐怖を感じさせます。しかも惨劇の発端は、偶然発見された地下室にあったテープレコーダーです。いわば無意識の世界から掘り起こされたもの(テープレコーダー)が原因で、心(=家の中にいる人々)は悪霊の激しい攻撃を受けるのです。ピーター・ジャクソンがニュージーランド時代に撮った映画「ブレイン・デッド」もまた、「サイコ」の色濃い影響をうかがわせわせつつ、この手法をさらに徹底させています。「サイコ」のノーマンは支配的な母性に飲み込まれてしまいますが、「ブレイン・デッド」の主人公は恋人の助けを借りて克服します。映画のクライマックスで母性を象徴する怪物に一度は文字通り飲み込まれてしまいながら、脱出し、退治に成功するのです。ついでながらこの映画の怪物は、「エイリアン2」の母エイリアンにそっくりですが、母性の象徴のようなこの母エイリアンが、リプリーのシャドウであったがゆえに、クライマックスの戦いがとてつもなく切実だったのは、わりと明白ではないでしょうか? 敵役との対決の裏に、主人公の心の問題の要点が集約されていることが、クライマックスの緊迫感を高めているわけです。エイリアンと闘うために自らの<女性>性を切り捨て、男まさりの闘う女と化したリプリーが、やむにやまれず(母性本能のおもむくまま)少女を救うために向かった先で、皮肉にもこの母性の権化のような母エイリアンに出くわします。これは、なんだかせつなすぎる話に思えました。話を「さまよう魂たち」に戻します。。(汗)この作品の悪霊の属性は、いわゆるサイコパスです。この悪霊と主人公フランク・バニスターの心との関係もかなり面白くて「うまい」と感心してしまうのですが(悪霊=バニスターのトラウマ)、それよりも目につくのは次のことでした。バニスターが誰かと1対1で話すとき、相手はバニスターの別人格(プロトタイプ=元型)であるかのように弁舌をふるう。ということ。たとえば序盤、判事と呼ばれるガンマンの幽霊は、まるでオールド・ワイズ・マン(老賢者)のようです。オールド・ワイズ・マンとは、<公正で厳格な態度で自らに接し、悪いことをすれば厳しく罰してくれる>内なる存在、結果的に<自分を正しい道に導いてくれる>存在です(まさに判事の名がふさわしい)。その彼が、インチキ稼業に身をやつすバニスターを諫めるように、同時に彼の本心を観客に伝えるように、これから彼の身に起きることを予告するように、語るのです。また、FBI特別捜査官ダマーズ(ヘンタイ)は、けして他者には向けないような、まるで自責する心の中の別人格であるかのような、厳しい言葉でバニスターを追い詰めるかと思うと、バニスターの<負の心>の象徴であるかのように振舞って、トラウマを克服し、再生しようとするバニスターの行く手を阻もうとします。さらにルーニーはアニマ(理想の女性像)なのでしょう。<乙女の清らかさと母親の温かさが共存している反面、成熟した肉体的意義は切り捨てられる>第3段階のアニマは、トリニ・アルヴァラード扮するルーニーにぴったりです。ちなみに第3段階のアニマの典型として聖母マリアがあげられるそうですが、作品のクライマックスの舞台であるチャペルにマリア像が置かれていることとこのことは無関係ではないように思います。妻を交通事故で死なせたことをトラウマに持つバニスターは、悪霊退治物語の裏に隠された葛藤の物語において、自問自答を繰り返しているかのようです。この映画のクライマックスの解決は、悪霊退治の物語として見るとはぐらかされたような印象が残るのですが、心の葛藤の物語として見た場合、わりと納得のいくものではないかと思います。そしてその後に続くラストシーンも、ハッピーエンドで心温まると同時に、軽い皮肉が利いていていい感じでした。どうやらバニスターと結ばれたらしいルーシーは、もはやアニマではなく現実の女性です。その女性が時と場合によって悪霊に見えることが、男にはあっても不思議ではありません(苦笑)。
2004.10.15
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私、しつこいですか? (涙)ホラーについていくら語ってみたところで、見ないヒトは絶対見ないというのに。。(汗)ホラーだっていい作品はいっぱいあるんですけどねぇ。。「さまよう魂たち」作品本体のレビューです。前置きがありますので、よければこちらを先にご覧下さいませ。この作品について語りたいことは3つあります。最初は、ともかくこの作品を語ってみたいです。これってやっぱ、映画鑑賞の原点であり基本だって気がするんで。次に、ヒッチコックに捧げられたオマージュの指摘をしてみます。これは、ある手法を踏襲する形で行われています。最後は、ユングの元型(プロトタイプ)を用いた対話シーンについてです。主人公とその他の登場人物が1対1で喋るとき、主人公の話し相手は主人公の元型であるかのように弁舌をふるい、それによって作品は、悪霊退治系のホラー・コメディというメインストーリーに、主人公の精神的な葛藤の物語を重ね合わせることに成功しています。また、とある元型たちのモラル・ハラスメント寸前の、サディスティックな弁舌は、この映画の<怖さ>の本質を形作っています。ちなみにこの映画には、残虐シーンはいっさいありません。1.ともかく語るっあらすじを再度書くとこんな感じです。交通事故を起こし、同乗していた妻を事故死させたフランク・バニスター(マイケル・J・フォックス)は、そのときの衝撃で死者の魂(=幽霊)が見えるようになる。その<特技>を利用して、彼はインチキ除霊師を生業とする。3人の幽霊を仲間に引き入れ、ポルターガイスト(やらせ)を起こさせ、それを鎮めたかにみせて、金を巻き上げるのだ。しかし彼が住む街には、実は強大な「死神」がいすわっており、その魔手はやがて、主人公が心引かれる人妻ルーシー(お美しいトリニ・アルヴァラード)に及ぼうとする。。しかも「死神」が起こした事件の犯人はバニスターだと考えるFBI特別捜査官ダマーズ(ヘンタイ)が登場し。。もしかしたらこの日記を読んでこの作品見てみようなんて思ってくれる奇特な方がいるかもしれないので、ネタバレ部分は省略してみました。。上に梗概を書いた部分で、全110分のうちの70分くらいの分量に当たります。残りの40分間で意外な真相が明かされつつ、物語はハッピーエンドに向かうんですが(そしてかなりご都合主義なまとめ方しちゃうので、気になるヒトは気になるでしょうが)、ここまでの型破りな内容で、十分もとはとれると思います(250円っ! ←いや。。これ、別のサイトのお約束やん。。汗)。なにが型破りかというと、めちゃくちゃ聖林謹製(柊林謹製?)のノリでありながら、まずインチキ除霊師が主人公だということ。これをマイケル・J・フォックスのような陽性キャラが演じるので、いい味が出てます。次に人妻がヒロインであること。どうするつもりなんだろう、と、思ってたら、わりとあっさり展開してました。。(汗)FBI特別捜査官ダマーズのヘンタイ&偏執ぶりも、見ものです。ある意味、怖いキャラなんですが、私はけっこう笑えました。FBI心理捜査官系の映画そのものを戯画化したみたいなキャラ設定で、演じるのが「死霊のしたたり」で死者の蘇生を試みたマッドサイエンティスト役のヒト、というのもなんかオシャレに思えました。判事と呼ばれる幽霊は、ウエスタンの世界を背景に持ってるようです。ルーシーを演じるお美しいトリニ・アルヴァラードは、「タイムズ・スクエア」(1980年)の少女の片割れだったようです。。あのときもかわいかったよなぁ。。2.ヒッチコックっ「サイコ」で見られるわりと有名な仕掛けの中に、これから起こる出来事や惨劇を違った形で予告する、というのがあった気がします。すぐに思い出せるのが1つしかないのですが、それは「サイコ」の冒頭でお金を横領する女性が勤めていた事務所に掛けてある絵画が、後に現れるベイツ・モーテル近くの景色にそっくりだったりする、ということです。その風景画とそっくりな雰囲気のシーンが後にあらわれる、という仕組みです。いわば映画内予告とでもいうようなこの手法をピーター・ジャクソンは、2度用います。まずヒロイン・ルーシーがバニスターと最初に会うシークエンスで。バニスターとルーシーの夫は、いんちき除霊の料金をめぐって口論します。このときのルーシーの立ち位置が、あきらかに普通ではないのです。画面は基本的に口論しているふたりを切り返しで映していくのですが、ルーシーはバニスターの後ろに、寄り添うようにも見える形で立っているのです。これはルーシーと夫との夫婦関係の状態を表現しているとともに、誰がヒロインであり、バニスターとの関係がどうなっていくのかを、予告しています。この映画の展開に夫婦の離別が必要ないなら、彼女の立位置はバニスターの後ろでなくてもいいでしょうし(流れ的にバニスターの視線の外にいる必要はあるとしても、ですが)、ワン・ショットで彼女とバニスターをおさめる必要はないのです。この予告により、見る側は(てか、私は、ですか。。汗)、この夫婦がどのような形で決別し、どのようにルーシーとバクスターが近づいていくのかを、楽しみにすることができるわけです。もうひとつの予告は、街を歩いているバクスターが葬儀に向かう車の列と出会う場面です。彼は通りすがりの大男とぶつかり、しりもちをつくのですが、その大男の着ているTシャツにプリントされた絵が、後に登場する「死神」にそっくりなのです。これにどういう効果があるのか、私にはよくわからないのですが、予告に気付けばニヤリとできるのは間違いないです(笑)。また、この「死神」のTシャツに出くわす直前、バクスターは車に轢かれそうになります。このシーンの意味が私には解読できませんでした。どなたか分かる方いたら、教えて下さい。ついでながらこの作品内のとある屋敷には、ヒッチコックそっくりの人物の肖像画(ただし眼鏡をかけている)があります。バクスターはあるなりゆきから、この肖像画を破壊することになるんですが、これは「ブレインデッド」でもヒッチコックの強い影響下にあったピーター・ジャクソンの、なんらかの決意表明かもしれないと思いました。長くなったので3についてはまた明日。。私、最近長くかけるようになってきて、調子にノリすぎてます。。ええかげんちゃう映画のこと、喋りたいがな。。(涙)
2004.10.14
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夜に「さまよう魂たち」の作品本体の感想、UPします。しかし昨日の日記がちょうど100個目だったので、少し感慨にふけってみようかと。。(笑)200個目とか1000個目なんてのは、ないかもしれないですしね。あ。もうすぐ9999アクセスと10000アクセスてのが、節目としてやってきますが。。どうか狙ってみてください。余談ですが7777アクセスだけは、「談合」の結果です。。あのときのむったん、みぃとのメッセ、めちゃおもろかったから、残しといて公開すればよかったな。。w実は昨日までで開設してから204日経ってました。バタバタしてて、そのまま開設したことさえ、忘れてたんですが、IEの「お気に入り」を整理してるときに発見しました(汗)。6月の終わりごろのことです。ちょうど時間がある時期だったので、あとづけ日記なんかも書いたりしてました。実質3ケ月ちょっとでしょうか?まぁ、なにも考えずに始めたわりにはよく続いてると思います。このたった3ヶ月の間でも、楽天をやめた方ややむなく遠ざかった方が何人かおられますし、私もいずれはそうなるのかもしれません。しかし、なるべく続けていきたいと今は思ってマス。その意味では、うちのHPに一番最初にカキコしてくださったえりごのみさんが、忙しくなった中、今でもたまに来てくださるのはとてもうれしいことだったりします。私の中には明るさと暗さとか、激しさと静かさとか、そういうものが同時に存在してるようなので、いろんな方々とやりとりさせて頂けると、バランスが取りやすいようです。改めてみなさまに感謝、感謝ですっ。ここ始めるまでは、ヒマな時間はウルティマ・オンラインというゲームをする時期と映画を見る時期の繰り返しでしたし、自分が好きなタイプの映画を語れる相手がリアル世界にいなかったので、どれもけっこう流し気味に見てました。自分がほんとに興味を持てるものしか見てなかったです。映画の話ができること、ってのも、けっこううれしいことのひとつですっ。
2004.10.13
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(さまよう魂たち、明日以降ってことで。。汗)今日と明日はひさびさの連休。ちと都心まで出かけてみました。ちなみにうちから新宿までは約70分です。池袋までなら80分。行き帰り寝てますから関係ないんですが。。私はほんまに都民なんでしょうか?都心にいる友人と楽しくタイカレー食べて、その方は仕事があったので、そのあとはひとりで買い物して回りました。優勝セールで賑わう西武百貨店に行ってみたけど、欲しいものはセールの対象にはなってないもんですねぇ。。(汗)靴、カバン、ベルトっていう皮もの見て回りました。結局、今日は下見です。エドワード・グリーンの靴、やっぱ最高に履き心地いい。。皮もいい。作りもいい。ほしい。でも高いっ。今度儲かったら検討してみよう。腰の状態もさらに良くなってきて、早足で歩けるようになってきました。私は野山を歩いていると、行き先によってはすぐに退屈するんですが、街は退屈しないですね~3時間ほどうろうろしました。いいリハビリってカンジですっ。けどまだ走るのはちょっと怖いかな。なので今、映画見てて一番怖いシーンは、誰かが全力で走ってるシーンです(笑)。「ひぃぃぃぃぃ。腰がぁぁぁぁぁ。やめてぇぇぇ」って、カンジですね。
2004.10.12
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(昨日の続き。ちと説明しきれてない箇所が散在してます。しばらく放置してから読み直して修正しまっす)このピーター・ジャクソンの映画に対する献身、物語ることへの徹底は、ポール・バーホーベンと通じるものがあるように思います。「スターシップ・トゥルーパーズ」、「ショーガール」、「トータル・リコール」、そして「ロボコップ」にさえ感じられる冷徹な写実性をピーター・ジャクソンも共有している気がするんです。彼らの写実性は、対象となる行為が纏う意味や概念を剥ぎ取ります。このことをより分かりやすく説明するためには、サム・ライミの「スパイダーマン」あたりを思い浮かべて頂ければよいと思います。そこでは画面に映し出される誰かの行為が、ある意味を帯び、記号性を持つのです。たとえば「走る」ことが、主人公のあせる気持ちを表す記号のような役目を果たしていたり。。差し迫った状況を飾るものであったり。。ビルの谷間をびゅんびゅん飛ぶ姿が、力の誇示であると同時に果てしない孤独をも表していたり。。漫画の1コマ1コマが何かを指し示しているように、すべての行為がつねに何かを指し示す記号の役割を果たしているのです。このような記号性を最大限に利用したのは80年代のホラーです。その意味で80年代ホラーは様式美の世界でした。「死霊のはらわた」でその魁となったサム・ライミが、扱いにたけているのもうなずけると思います。ついでながら黒沢明の初期の作品でも、この記号性がうまく利用されています。後期の黒沢の作品がシンプルで美しい色彩を持ちながら、芸術性を獲得できなかったのは、黒沢がこの行為の記号性を無自覚のうちに用いていたことの証しのように感じます(う。。黒沢ファンからなんか来るかな。。汗)。無自覚であったがゆえに黒沢は、冷徹な写実に徹するべき場面で、意図せざるナルシズムが表れてしまったのだと、私には思われてなりません。その姿は、私の敬愛する自称大時代的映画作家ロマン・ポランスキーが、「フランティック」や「ナインス・ゲート」でこの記号性の微妙なズレを楽しんでいたのとあまりにも対照的でした。バーホーベンやピーター・ジャクソンは、その記号性を奪い去ります。記号性を奪われたとき、スクリーン上の出来事は、どのように私たちに映るでしょうか?記号性が保たれていれば、スクリーンでの出来事は、すべて登場人物の誰かに起こった出来事にすぎません。そこではすでに、そして常に、読み解き方が示されているわけです。しかし、記号性が奪われたとき、そこに起こる出来事は、私たち自身が直面する未知の出来事です。私たちが意味を見つけるか、あるいは宙吊りになったまま、冷徹な写実を見つめ続けねばなりません。そこでは、私たちが現実世界で見慣れた行為の意味が変容していきます。その変容を受け入れられるかどうかで、これらの監督の評価が割れるんじゃないかと思ってます。バーホーベンの写実は、ときとして(「トゥルーパーズ」や「ショーガール」)アメリカ社会で生きるヒトの生き様の図式を重ね図として提示してきます。「最前線物語」を思わせる物語に<立身出世>の図式が重ねられていたり、ウエスタンの形式に<なりあがり>の図式が重ねられていたりします。異邦人の目を通したアメリカ、でしょうか?しかし同じ異邦人(但しニュージーランド出身)でありながらピーター・ジャクソンの写実には、アメリカに対する敵意を感じさせません。彼から感じ取れるのは、聖林謹製映画に対する信仰であり、野心でしょうか。って。。なんか。。おもいっきり話それてきてますね。。今日は余談で終わりました。。(汗)明日はがんばって本筋に戻し、作品本体について書きたいと思います。*****このところ、立て続けにトラバを頂き、みなさまほんとにありがとうございます。いろんな方々のさまざまなご意見、たいへん興味深く読ませて頂いておりマスっ。せっかくトラバして頂いても、うちはもともと訪問者多くないので、申し訳ない気持ちでいっぱいです。そう思うのはトラバさせて頂いたおかげで、うちに訪れて下さる方が少し増えた気がするからです。みなさまのお力で(とりわけももちきさま。うちに来てくれる方の大半は、あなたのところから流れてらっしゃいますっ。。)、うちのHPはほんの少し成長致しました。これからも不肖な私ですが、よろしくお願い申し上げますっ。
2004.10.11
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主演マイケル・J・フォックス。「ロード・オブ・ザ・リング」のピーター・ジャクソン監督の隠れた名作です。私、この映画は確実にレンタル屋から消えると思ってDVD買ったんですが、まだ近所のTUTAYAには置いてあります。。ジャンルはホラー・コメディになると思います。TUTAYAではコメディ・コーナーに置いてあります。私はそれで正しい気がしていましたが、ふと昨日、見直してみたら、けっこう怖いところもありましたね。。残虐シーンではないんですが、スリルとサスペンスの度合いがきつすぎるって感じでした。なんかこう、神経にぴりぴりくる感じでしょうか。けど基本的には笑って見れました。最初から最後まで、ノリがよくて乾いた感じがすごく好きでした。ところで私がこの監督の作品を語る場合のひとつめのキーワードは、<超絶技巧>です。同じキーワードでくくりたくなる監督に、「マグノリア」や「パンチドランク・ラブ」のP・T・アンダーソンがいますが、ピーター・ジャクソンの方が、より職人芸的で、商業映画に特化しているように思えます。ピーター・ジャクソンは無駄を省いた密度の濃い、とんでもない物語を考え出し、それを写実的に描くことに徹底します。それまでのフィルモグラフィーから考えると「ロード」の監督になったことは大抜擢って気もするんですが(聖林謹製は「乙女の祈り」と「さまよう魂たち」のみ。ニュージーランド時代に頭がヘンだとしか思えない傑作ホラー・コメディ、「ブレイン・デッド」他数本)、よくよく考えるとまさに適任だったんじゃないかと思います。二つ目のキーワードは<サディズム>です。「ロード」でもなにげにフロドがずいぶんいじめられていましたが、この作品ではマイケル・J・フォックス演じる主人公が相当な目に遭います。しかしそのいじられ方は、ハッピー・エンドを約束する雰囲気を常に湛えているものの、あまりに逃げ場のない追い込み方に見えるので、登場人物に感情移入しながら見るヒトにはつらいかもしれません。「ロード」ではフロドに感情移入してたヒトはあまりいなかったでしょうから(苦笑)、それほど目立たなかったんだと思うのですが、引いた目線であのいじり方を見ていると、けっこうゾクゾクするものがありました(笑)。ところで「さまよう魂たち」のあらすじは、こんな感じです。交通事故を起こし、同乗していた妻を事故死させた主人公は、そのときの衝撃で死者の魂(=幽霊)が見えるようになる。その<特技>を利用して、彼は悪魔祓い師を生業とする。3人の幽霊を仲間に引き入れ、ポルターガイスト(やらせ)を起こさせ、それを鎮めたかにみせて、金を巻き上げるのだ。しかし彼が住む街には、実は強大な死神がいすわっており、その魔手はやがて、主人公が心引かれる女性に及ぼうとする。。DVDのケースにも、だいたいこれと似たことが書いてあります。なんともうさんくさげな話です。主人公はその胡散臭さの中で、自分を腐らせています。物語は彼がそこから立ち直る再生の話です。そして超絶技巧その1。ピーター・ジャクソンの脚本は、彼が表現したかったことを、的確に、無駄なく表現しきってると、いつも思わされます。むしろ無駄がなさすぎて、同じ長さの他の映画と比べると情報量が異常に多くなっているかもしれません。このあたりも、「ロード」を思い出して頂ければ、納得いただけるのかもしれません。ものすごい分量の物語を、実に手際よくまとめて映像化していたはずです。彼は自分の脚本を映像化するときも、あの手際のよさで対処するのです。彼が既成の映画のジャンルについて、熟知しているのは間違いないと思います。しかし彼は、そのジャンルで使い古された語りの手順を踏まないことが多いような気がします。彼は自分が語ろうとする物語が、一番生き生きと見える手順で、一番観客にとって分かりやすい方法によって、語っていると思います。その点において、彼にはいっさいの妥協は感じられません。残念なのは彼の作風にホラーの要素の強いために、おそらく多くの観客を獲得できないことでしょうか。そして超絶技巧その2。カット割りです。非常に細かいショットをつないで登場人物の動きを分解しているんですが、これはもう見事というほかない気がします。なぜその行為をその方向からのそのショットで撮ろうと思いつくんだろうか? なぜその行為を分解して(モンタージュして)みようと思ったのか? と、見ててためいきがでるほど素晴らしいと思います。しかも彼のカット割り(というかモンタージュ?)は、スクリーン上で起こっていることをリアルに観客に伝えることや、臨場感を出すことを目的にしています。おっきく言うと物語るためだけに非常に細かいカット割りを行うのです。まるで自分の作家性を否定するかのような、映画に対する献身、物語ることへの徹底が、逆に彼の個性として浮かび上がってくるかのようです。 (明日につづきます。。汗)
2004.10.10
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(書けたらあとで映画の感想追加します)たいふーん、東京をほぼ直撃って感じです。ドシャ降りの帰り道、いつもの道をゆっくり走りました。ええ。。ダイエット中ですから。。雨の日も走りましたともっ。ただし車で、なんですが。。(汗)黒い雨合羽着て、黒い長靴はいて、その上に黒い傘を持って歩いていたヒトを轢きそうになりました。オジサンでした。といっても、たぶん私より6つくらい年上なだけだと思います。。そのヒト、道の真ん中を、傘を前に倒して歩いていたのです。んなもん、全然見えませんってば。。これって、轢いてたら、やっぱおれのせい?そう思うと腹が立ちました。ひとこと言ってやりたくなって、そのヒトの横に車を停め、窓あけて、怒鳴ってみました。こんなふうに。。「ちょー。あんた、どこ歩いてはりますねん?」迫力ナッシングですわ。。(笑)ほんとは、「アブねぇだろ、バカ」くらいなこと、言うつもりだったんですが、思わず関西弁が出たら、こんななりました。せめて、「どこ歩いとんねんっ」くらいな勢いでいきたかったんですが。。もっとも文字で書くと穏やかなんですが、京都弁的な冷たさ満開だったかもしれません。そのヒトは、なんだかへらへら笑いながら、ぺこりと私に頭を下げて、歩いていってしまいました。思いました。ちょー待てや。。おれが難癖つけてたみたいやんけ。。(汗)まぁ、いいんです。私はK官に捕まることもなく、無事に家にたどり着きました。ああ、幸せな一日でした。
2004.10.09
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「ZOO」の作品本体のレビューです。前置き部分は、こちらをどうぞ。 あらかた<気づき>に過ぎないのですが、辺境の映画である「ZOO」が私にどう見えたか、ということを明らかにする中で、私というモノの感性のあり方を伝えられれば嬉しいです。まずこの作品のあらすじを私なりにまとめると、以下のようになります。主人公である双子(オズワルドとオリバー)は、交通事故によって妻を同時に亡くす。ふたりの妻たちを乗せて車を運転していたアルバは、死ななかったが片足を失う。双子はそれぞれにアルバが入院する病院まで行って、妻のことでアルバを責める。あるいは、妻が死んだときの状況を克明に聞きだそうとする。しかし。。やがて、双子はそのアルバと付き合い始める。同時に死んだ妻を悼むためか、動物の死体が腐敗する様子を、進化の度合いが低い動物から記録しはじめる。また、動物園の動物を逃がし始める。アルバは双子と付き合ううち、残された足を切断する。アルバは双子の子供を身ごもり、やはり双子の男の子を出産する。その後、死を選ぶ。双子も自分たちの腐敗具合を記録するため、死んでしまう。あとには虹の男の元に、アルバの娘と双子の赤ん坊が残る。双子は妻たちの死を悼み(妻たちが腐敗するのが耐えられなくて)、進化の歴史になぞらえて、動物たちの死をカメラに記憶していきます。そしてその延長に、自分たちの死をすえています。また、彼らは、妻を殺した相手とみなしていたアルバとデキてしまいます。このアルバとの一体感に満ちた楽しげな生活を送りながら(どこか冷めたふうな様子なのは、彼女の体を腐敗させるために狙っていたせいなのですが)、妻の死に端を発する死に至る記録行為を続けるのです。この部分は、物語を、ふたつに分けて考えると分かりやすいかもしれません。1.妻の死→腐敗の記録→自分たちの死という物語と2.妻の死→アルバとの出会い→一体感→アルバの死、双子の出産→自分たちの死という物語です。どちらの物語も、始まりと終わりは同じなのですが。。1の物語には、物語と体を売る女、ミロ(正確な役名は、ミロのヴィーナス。。汗)が大きく関わってきます。ミロの登場によって、この作品には、妻、母、娼婦という、男にとってのアルバ性の類型が揃うことになります(アルバの娘ベータを少女として、これに加えてもよいかもしれません)。ミロは、主人公の双子のそれぞれを、個人として認識していることが画面で示されるほぼ唯一の人物です。ミロ以外のほぼすべての登場人物にとっての双子とは、ふたりでひとり、あるいは、その片割れがどちらであってもかまわない存在なのです。ところで妻を失ったふたりが年上のアルバに抱擁されるというのは、なにを意味するのでしょうか?ヒトは通常、母に育てられ、自立し、妻を得て母の元を去っていきます。しかしこの映画の2の流れは、後に母とみなし得るような存在になるアルバが妻を殺し、子供を奪い返す図式にも見えないでしょうか?彼らは母に抱かれ、本来そうであったシャム双生児の姿に戻ろうと試み、母との間に双子の男の子をもうけます。そしてその双子が誕生したあと、死んでいくのです。彼らは動物の腐敗の系統樹の完成が近づくにつれ、本来不可逆的な成長の過程を逆に辿ったことになるんじゃないでしょうか?画面で何が起こったか、という事実だけを見ていくと、そして彼らが映画の後半で口にする美しい言葉を考えると、こう言ってもおかしくないと感じました。双子の母のような存在であったアルバは、残された足を切断した時点で母であることをやめ、娼婦となります。この変化に対応するかのようにミロから娼婦の属性が薄れ、別の存在に変化します。女ともだち、あるいは女きょうだいでしょうか。なぜふたりの役割が入れ替わるのか、正直私にはよく分かりませんが(てか、よく考えてもたぶん私からは女性に対する否定的な考えしかでてこない可能性が強いのですが。。汗)、一種の価値の転倒なのかもしれません。また、両手がない<ミロのヴィーナス>の名を持つ女と両足のない女アルバとは、元々互いを補完しあう存在なのかもしれません。進化の歴史を仰々しく映し出し、単細胞生物から霊長類に向かって生物を並べてみせる一方で、アルファベット順に動物を並べてみせ、生物の並べ方は一通りではないことをアピールすること。「アダプテーション」では偉大な歴史と想定され、描かれた進化論ををからかい、否定する言説。そして双子の、時間を遡る旅。これは、すべての事象が因果関係に基づいてひとつの方向に流れていくこの世界への、ささやかな反乱ではないでしょうか。現実世界がそのような仕組みのモノとして私たちに認識されているからといって、映画までがそうじゃなければない理由は、<表現>の問題として考える場合、おそらく見当たりませんし(商業的に考えると、いろいろ問題あるでしょうが。。)。それにしても。。グリーナウェイにとって進化論ほど美しくないものはなかったんでしょうか?進化論を美しくないと感じる感性があるとすれば、現代はとても生きにくい時代だったんでしょうね。。んー。また文章が流れてしもたな。。
2004.10.07
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ひさびさの晴天は、ずいぶん秋めいてた。先週の休日はまだ夏物で過ごせたのに。仕方ないので衣替えした。デジカメ片手にブラブラ出かけた。紅葉の季節はまだ先だけどさ。飲み会の翌日はいつもながら内臓が妙に重くて、プライベートで飲んだのなら、それなりに心地よいのだけれど、仕事がらみだと肩が凝って左の眼球の奥が痛む。こんなときってどんな顔してるんだろうとレンタル屋のトイレの鏡で自分を見た。濃い青のサテンのこのシャツ、昔は似合ったんだが。。顔がでかく見えやがる。腹が出て見えやがる。しかも髪の毛、ボサボサだし(笑)。そろそろ散髪いかなきゃな。でも今日じゃなくていいや。んなふうにうだうだぶらぶらしてるうちに、昨日から何も口に入れてないこと思い出した。なもんで。うまいステーキでも食おうと出かけてみたら、営業時間外。ならばとタン・シチュー食いに行くと、やはり営業時間外。カレー屋もまた、時間外。。肉に齧りつきたい気分だったんだけど。午後3時に飯を食うのがこんなに難しかったとは。。結局いつもビートルズがかかってる喫茶店に行った。ビートルズは好きでもないけど嫌いでもない。けど、なんだか上品でいいカンジって思うから、どちらかといえば好きなんだろうな。サンドイッチ食べてコーヒー飲んだ。2杯飲んだ。それでようやく目が覚めてきたのに。もう午後4時だった。昨日のお客さん夫婦のことを思い出した。子供のいない夫婦。初めて会った夫婦。きっと奥さんはおれのこと気に入ってくれるだろう、と思った。そのとおりになった気がする。ダンナの方はあと一息、つかみ切れてなかったかも。。そんなこと考えながら本読んでいた。戦後作家のアンソロジー。吉田知子という作家、知らなかったけど、ずいぶんうまいヒトだった。日本の現代作家は女性作家の方が圧倒的にレベル高くないかな? そんな気がしちまった。あぁ。そうだった。みぃにマンガ返さなきゃな。今度の休みに返しに行くか。。五穀米とかいうのを食わされそうだから、またケーキでも買っていくか。
2004.10.06
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私、下戸なんで、かな~りきついっす。。会社の飲み会だったのです。日付が変わるまでは、がんばってお付き合いしてきました。。あとは勝手にやってくれぃ、です。飲めねぇ分、食っちまった。。やヴぁいぜ。。(汗)しかもずっと同じ姿勢で座らざるを得なかったので、腰のことがちょっと心配です。******一度酔った状態で、日記書いてみたかったんですが、なんだかふつうですね。。ちっ。つまらん。。
2004.10.05
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「ZOO」とりあえず書けたんですが、もう1回見直してチェックしてからUPします。今日は7時半にお客さんのところへ行く約束があったんですが、それ以外の仕事は6時過ぎに終わったので、いったん家に帰りました。途中でちょっとすかしたスーパーマーケットに寄って、豊水とサラダを買いました。夜ごはんです。食後に体重をはかったら、昨日より△0.2.。。変わってねぇ。。体脂肪率? 見たくねぇ。。けど見ないわけにはいきません。みぃの口車に乗せられて、体重やら体脂肪率やら筋肉率やら体年齢を測定できるオムロン製品、買ってしまったのです。。こいつによると私は、「ちょっと太り気味」だそうです。実はその表示、ちょっとうれしかったんですが、よく見ると「ちょっと太り気味」の上には、もう、「太り気味」しかなかった気がするのです。。(汗)これは明らかに、よろこんでる場合ではありません。。(汗)私はさらなる減量に努めなければなりません。私は「ふつう」になりたいのです。嗚呼、こんなにも「ふつう」でいることが素晴らしいことだったとわっ!!ひとつ賢くなりました。そのごほうびにカップラーメンを。。(あかんあかん)
2004.10.02
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