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「これぞ、待っていた本!」 という内容でした。 笠間直穂子「山影の町から」(河出書房新社) です。
秩父に越してきて一年近く経った八月のある日、開けた窓から風に乗って流れこんだ爽やかで甘い濃厚なにおいに覚えがあった。ジャスミンをより野生的にしたような香りが暑く湿った空気に充満して、嗅いでいるとちょっと朦朧としてくる。家の裏の藪か、その藪を下ったところにある公園から来ていると目星をつけて、たしかめ行くと、藪と公園の境目に並んで生えていた低木に、淡い紫がかったピンクの花房がついていて、これが正体だった。(P7) これが、冒頭、 「常山木」 と題されたエッセイの書き出しです。エッセイの題になっている木は 「臭木」 とも書くそうで、 「クサギ」 と読むそうです。
おそらく、東京のど真ん中にあるであろう職場に対して、普通なら考えられない距離にある秩父に住居を定めるという思い切った行動をする女性のようで、とりあえずは、その思い切った行動の所以というか、経緯が本書の話題として書き綴られていきます。 こんなふうに、最初のエッセイは終わりますが、一見、これ見よがしな田舎暮らしを選んだ人の、鼻持ちならない矜持のようなものを漂わせていますが、読み進めていくとこんな文章が待っていました。
夜、帰ってくると、電車を降りた瞬間に山の匂いがする。周りが真っ暗でも、戻ってきたなと匂いでわかる。自転車を漕ぎ出せば、冷たい風とぬるい風が交互に吹き、人間活動の残り香は草に呑みこまれていく。
生理や本能と思われているものは、しばしば文化的なものである、あるいは少なくとも文化的な要素に左右される。とりわけジェンダー論を通じて、こうした考えは一般論としてそれなりに共有されるようになってきている、とは思うのだが、とはいえ、個別の現象については、指摘されてはじめて気づくことも多い。 で、この文章は、まあ、とりあえずこんなふうに結論付けられます。
たとえば以前、フランスとイタリアに長く暮らした文学研究の友人Mに、日本の女性は総じて声が高い、これは文化的なものだと思う、と言われて、すぐには納得できなかった。声の高さは体の問題ではないかと、とっさに思った。でも、意識してみると、自分の出せる声のレンジの中で、どの辺を発話に使うかは、ある程度調節できて、思い返せばわたし自身、女同士で「はしゃぐ」感じで話すときや、電話で未知の相手に形式的な台詞で応答するときは、かなり高めに発声を設定している。また、フランス留学中、韓国人の友人Jと一緒にいるときは、お互い低めの地声で話していて、それがとてもらくだった、ということも思い出した。日本社会において女性がどのようなものと規定されてきたかに、声の高さは関わっているのだろう。
どんなときに涙を流すか。どんなときに吐き気を催し、あるいは実際に吐くか。鳥肌が立つ、叫ぶ、尿意を催す。身体のレベルで生じることは、身体のレベルだからといって、あらゆる人間において同じように生じるとはかぎらない。人間の「本能」は、自分を取り巻く社会との関係において、調えられていく。(P23) 「 虫と本能」 と題された文章の一節です。
「これぞ!」 と膝を叩きたくなりながら、かつて、晩年を東京郊外の 成城 という町で暮らしながら、日々の暮らしの中から生まれてくる文学的感慨を日記のように綴った、 大岡昇平 の名エッセイ 「成城だより」(講談社文芸文庫) を思い出していました。
追記
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