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最近、韓国語を学ぶ日本人が増えていると言う。韓国語学習のための短期研修に参加したり、韓国語を学ぶ韓国旅行商品が新設されたりしている。単純な趣味の域を越えて、もっと専門的に韓国語を学ぼうとする人々は、日本国内の韓国語試験を受けたりする。現在、日本国内の韓国語試験は、二元化されている。即ち、「ハングル能力検定試験」と「韓国語能力試験」である。この中の「韓国語能力検定試験」とは、韓国の教育科学技術部(日本の文部省に相当)が主観する試験である。またもう一つの「ハングル能力検定試験」は、日本政府が公式団体と認定していない北朝鮮の朝鮮総連が運営する試験である。問題は「ハングル能力検定試験」が、北朝鮮の朝鮮総連が主観する試験という事実を知らないで受ける人が多いということである。北朝鮮の朝鮮総連が運営する「ハングル能力検定試験」は、朝鮮総連の現職幹部と傘下団体の関係者たちが主力になって、1992年10月に設立されたNPO「ハングル能力検定協会」が、主に日本人と在日朝鮮人などを対象に実施している試験である。朝鮮総連のハングル能力検定協会は、韓国語と北朝鮮語の普及のために検定試験を主観していると宣伝しているが、受験生確保のために北朝鮮の朝鮮総連傘下の各朝鮮学校在校生たちに、自分たちの「ハングル能力検定試験」を受けるように強制している。しかし、この試験は北朝鮮社会科学出版社発行の書籍を基礎に、韓国では使われていない単語や文章を問題として出題する。従って、この試験のために韓国語を勉強した場合、日本人学習者たちは韓国語ではない北朝鮮語を勉強することになる。参考として、韓国語と北朝鮮語は単語、文章、文法などに違いがある。また、このような北朝鮮の単語や文章の学習と、北朝鮮を背景にする例文の提示などは、学習者たちに密かに北朝鮮の言語慣習と生活様式を伝えることを通して、北朝鮮に対する拒否感を緩和しようとする意図が内包されている。何よりも北朝鮮が主観する「ハングル能力検定試験」の最大の問題点は、この試験で得られる収益金を朝鮮総連の組職運営に使うということである。この試験は毎年受験者が1万人で、1人当り3,000円から1万円の試験料を払わなければならない。従って、毎年、数千万円以上の資金が朝鮮総連に入り、この資金の大部分は試験本来の主旨と無関係に、深刻な財政難にある朝鮮総連の運営費として使われるのである。朝鮮総連の各種不法活動は既によく知られている。彼らが運営する試験を受けるということは、こういった不法活動を間接的に支援することになる。参考として、朝鮮総連は不法資金調達のために、朝鮮総連中央本部の建物を不法売却するなどの行為を犯している団体である。彼らが運営する朝鮮学校も深刻な問題である。現在日本にある約100校の朝鮮学校を通じて、北朝鮮を賞賛し、金日成や金正日に追従する教育をしている。彼らは北朝鮮政府の直接指示を受けて、主体教育という名の元に、北朝鮮体制が世界で最も優秀だと教えている。朝鮮総連の運営する朝鮮学校は、修学旅行の名目で学生たちを北朝鮮へ来させて、軍事教育までしている。彼らの中から北朝鮮に対する忠誠心の強い学生は、朝鮮大学に入学させたりする。このような朝鮮総連の実体を知ると、彼らが運営する「ハングル能力検定試験」を日本人が受けることは、非常に間違った行為だと言える。「ハングル能力検定試験」は、日本人たちの韓国訪問や韓国人との接触、韓国文化の体験などに役立たない「北朝鮮語能力試験」であるだけではなく、このような試験を受けるいうことは朝鮮総連を経済的に助けることに外ならないからである。正確な韓国語能力の評価を受けたければ、韓国政府が公認する「韓国語能力検定試験」を受けなければならない。参考に、韓国では北朝鮮の「ハングル能力検定試験」を認定していない。もし、北朝鮮が主観する試験のために北朝鮮が作った教材で勉強したら、実際に韓国人と会って話をしても、北朝鮮語を使う変な日本人だと誤解を受けるだろう。「もしかして、あなたは北朝鮮から来た人ではないですか」と…。
2010年02月26日
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このような粛清の雰囲気に代表チームも巻き込まれた。代表チームがカプサンパのリーダーであると同時に北朝鮮の第2人者だったパク・クムチョル党中央委員会組職担当副委員長とキム・ドマン宣伝担当副委員長の全面的な支持を受けたという理由からだった。実際、パク・クムチョルとキム・ドマンは自分たちの業績を強調するためにサッカーを大きく活用した。雰囲気が変わり、選手たちは果てしない思想闘争会議をして、自己反省をしなければならなかった。この過程で、シン・ヨンギュは地主息子という点が問題になった。代表チームは結局粛清されて、地方に散らばった。この時の粛清の嵐は余りにも冷徹だったので、1968年半ばには、地方中堅幹部職の3分の2が空席だったと言う。粛清された選手たちの多くは咸鏡北道鏡城(キョンソン)郡の「生気嶺(センギリョウ)」窯業工場に配置されて労働者になった。しかし、サッカーに対する熱情は衰えなかった。当時、窯業工場に出勤しながらボールを足でポンポンと蹴りながら歩く元代表チームの選手たちを良く見かけたと言う。 数年後、窯業工場の子供たちが通う学校のサッカーチームが、全国大会でいつも1位を占め始めた。8強出場当時の大部分の主要選手たちが咸鏡道に追放されていたからか、今も咸鏡道のサッカーチームは各道のサッカーチームの中で最強である。10年間の「革命化期間」が過ぎた後、北朝鮮政府は一部の選手たちを復帰させた。既に現役の年齢を大幅に過ぎていたので、大部分は監督になった。しかし一部は永遠に許されなかった。FIFA会長が賞賛したシン・ヨンギュが代表的な例である。北朝鮮政府は彼が1996年に死亡したと明らかにしたが、ロンドンワールドカップ以後の彼の行績は知られていない。ワールドカップ本選に出場したアジア選手の中で最初のゴールを決めたパク・スンジンは、1980年代半ば「燿徳(ヨドク)」政治犯収容所にいたと言う。彼が「食べて見た虫の中で、ごきぶりが一番おいしかった」と言ったとして、収容所での彼のニックネームは「ごきぶり」だったとのことである。8強代表チームが粛清された後、北朝鮮では「このように世代を切断してしまったので、私たちのサッカーは今後30年は立ち直ることができないだろう」という噂が広まった。実際、北朝鮮のサッカーは、以降、数十年間に渡って、スポーツを政治の犠牲にした代価をたっぷり支払った。 1980年代の北朝鮮サッカー界で注目に値する点は、女子サッカーチームの創設である。女子サッカーが1986年アジア大会の正式種目に採択されたことを受けて、北朝鮮は1986年5月に女子サッカーチームを創設し、これを戦略種目として育成した。わずか3~4年前は公式出版物に「腐って病んだ資本主義世界では、女までが球を蹴る」とあざ笑っていたが、こういった態度は完全に変わった。女子サッカーだけではなく女子柔道も、女子の力技だと非難の対象だったが、今は北朝鮮スポーツの孝行種目になった。初めは女子サッカー選手を陸上選手の中で選抜した。1990年北京アジア大会では、北朝鮮の女子サッカーが韓国を7-0で破った。当時、初ゴールを入れたイ・ホンシル選手は現場で労働党員になる「栄誉」を受けた。北朝鮮で現場での労働党入党は、特別な功績を立てた場合だけに許容される。イ・ホンシル選手は、これ以降、国際女性サッカー審判員になった。勝ち進む女子サッカーと違い、男子サッカーは世界との格差が広がり続けて行った。衝撃を受けた北朝鮮は、結局、1990年代初めに破格的な措置を施行した。まず、1990年に北朝鮮が主催する初の国際サッカー大会である「平壌カップ国際サッカー大会」が始まった。優勝チームに2万ドル、準優勝チームには1万ドル、3位のチームには5,000ドルというあまりにも少ない賞金のためか、この大会は1992年の第3回大会まで開かれたが、中断された。参加希望国がなかっただけではなく、北朝鮮の成績もはかばかしくなかったからである。 また、他の対策は外国人監督の受け入れである。ハンガリー出身でドイツリーグで活躍していたパル・チェルナイ監督が雇用された。ブンデスリーガが全盛期だった1978~83年の5年間、バイエルン・ミュンヘンのFC監督を勤めて2度のリーグ優勝を果たしたこの名将は、1990年代にはハンガリーのあるプロチームの監督に降格していた。チェルナイ監督は1991年6月から1993年10月まで北朝鮮の代表チームの顧問を引き受けた。代表チーム監督は北朝鮮人だった。初期の成果はまあまあだった。 赴任4カ月でアメリカでアメリカ代表チームを2-1で下した。しかし、全体的にチェルナイ監督の北朝鮮行は、あまり成功とは言えなかった。いくら名将だと言っても、全権の委任を受けない限り、北朝鮮システムで能力を発揮する空間は大きくなかったからである。1993年10月、北朝鮮代表チームはアメリカ・ワールドカップ組別予選競技を行うためにカタールに発った。この時、北朝鮮はたった1競技だけに勝って、あとは全て敗れた。当時、チェルナイはカタールから直ちにハンガリーに帰国した。北朝鮮代表チームの団長だった体育委員会副委員長は、一般労働者に降格された。当時、北朝鮮の代表チーム監督だったユン・ミョンチァンもやはり、責任論から自由ではなかった。ユン監督は1999年に韓国に脱出した。1995年から経済難が本格化し、北朝鮮体育界も困難になった。ボールやサッカーシューズが不足するほどだった。しかし、他の種目に比べたら、サッカーはそれでも恵まれていた。2004年にムン・ギナムの元北朝鮮サッカー代表チーム監督の家族が韓国に亡命したが、ムン監督の息子のムン・ギョンミンさんは当時、北朝鮮のサッカー選手たちはそれでも肉類を食べていたと証言した。 ムン・ギョンミンさんは1990年代に機関車体育団のサッカー選手だった時、国家代表に選ばれた。彼はドイツで狂牛病が発生して、数十万頭の牛を屠殺した時、北朝鮮にこの牛肉を持ち込んだ。この肉がサッカー選手たちに優先的に供給されたと証言した。経済難の中でも、サッカーリーグは命脈を維持した。北朝鮮にもリーグ制度がある。交通事情が悪いため、ホームゲームと遠征競技の形式ではないが、1年を3段階で分けて、1地域で集中的に競技を行う。 2月に始まる万景台大会は、4月に優勝者を排出する。続けて7月にトーナメントとして行われる技術革新大会が開かれ、9月にリーグ戦を行う共和国選手権大会がある。3つの大会の優勝チームが再競技をして、11月まで勝者を選ぶが、優勝チームが重なったら、準優勝チームが出場する。最終優勝チームにはサッカー協会長カップと共に、タイで開催されるギングスカップ大会の出場権が与えられる。最下位チームの中の1チームは2部リーグに降格される。1部リーグは「最強チームの競技」と言う。時期毎に多少違うが、1部リーグには普通12チームが所属している。 4・25、平壌市、機関車、鴨緑江(アムロックガン)、月尾島(ウォルミド)、リミョンス、ヨンナムサン、軽工業省、大同江、小白水(ソベクス)などの体育団体が1部リーグの固定メンバーである。この中の前の4つの体育団体は全てのスポーツ種目を保有している特級体育団である。また、各道のサッカーチーム間の競技で1位になったチームが、毎年1部リーグに昇格する。国家代表チームと青少年代表チームが1部リーグに参加して競技をしたりする。競技感覚を養うためである。2部リーグは各体育団体の2陣と同レベルの体育団体が所属している。このような形で北朝鮮には5部リーグまで総計130の専門サッカーチームが存在すると知られている。 このように多数のサッカーチームを保有していながらも、最近まで北朝鮮のFIFAランキングは100位圏外にいた。最も大きい問題は、選手資源の不足である。北朝鮮全域を熱心に探し回っても、身体的条件を備えた有望な人材を発掘するのは難しい。 20歳前後の身体的条件は、5歳未満の幼児期の栄養供給に大きく左右される。しかしサッカー選手の素質を見抜いて、乳児の時から十分に食べさせる方法はない。経済難の上に、基礎体力が不足しているので、ある程度年をとってから選手を選んで、その時からいくら十分に食べさせても、限界があるというのが北朝鮮サッカー関係者たちの悩みである。才能がある選手を選んでも、身長と体格が劣っているので、外国チームに苦戦するしかない。このような限界を意識してか、最近の選手発掘年齢層は一層幼くなっている。 20歳以下、17歳以下、15歳以下のチームに続き、最近は12歳以下のチームもできた。ここには8~9歳の子供もいるが、このようなチームは4・25体育団にも幾つかある。これはサッカー有望人材を最大限に幼い時期から十分に食べさせて、平均身長を育てる効果を出すためである。しかしいくら沢山食べさせると言っても、北朝鮮の中では限界がある。最近は韓国が中国昆明(クンミン)で訓練をする北朝鮮サッカーチームを支援している。全てのチームが参加することはできないから、全ての年齢のチームから1組ずつ参加する形式である。成長期なので、半年間だけ中国で沢山食べてから北朝鮮に帰ると、北朝鮮に残っていた同年齢のメンバーとは身長に格段の差出ると言う。(次回に続く)
2010年02月25日
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北朝鮮の金正日による計画経済が沈滞するに連れて、一層、市場に敵対的に対するようである。市場統制を強化するために去年の末に実施した「貨幤改革」が代表的事例である。この措置は、物価高騰を呼び起こし、住民の不満を育てるという惨憺たる副作用だけ生み、失敗に終わった。貨幤改革後に物価が高騰し、これによる社会的不安が深刻になり、関連者たちを処刑したというニュースまで伝えられている。北朝鮮当局は保安要員たちに実弾を支給して、政府の反市場政策に反発する人は射殺しても良いという命令まで下したと言う。北朝鮮が貨幤改革を断行した理由は、配給体制が崩れた1990年代後半から北朝鮮各地に浸透した村単位の私市場が栄え、軍部と党幹部、公務員などの北朝鮮政権の基盤勢力の既得権を脅威するレベルにまで至ったからである。中央集権・計画経済システムを再整備して、既得権層の利益を守りながら、金日成一家の3代世襲を成功させようというものである。北朝鮮の最近の事態は、金日成一家の唯一権力が「市場との戦争」に押されていることを意味する。 北朝鮮政府は基本的に、市場や経済の基本原則を全く理解していない。最近、韓国が北朝鮮に植樹を提案したことに対して、同意する代価としてコメと肥料が欲しいという理解することができない要求をしてきた。アメリカに対しては、代価を狙っているかのように、発掘した米軍の遺骨を持って行くようにと提案した。未だに、国際社会に向けた物乞いに経済全般が依存している。金正日の誕生日には全ての子供にキャンディーとお菓子をプレゼントするようにと指示したが、市場でキャンディーとお菓子を売れるようにする方がずっと効率的であることを、まだ悟っていない証拠である。 北朝鮮は今年の新年共同社説発表以後、一貫してアメリカとの関係改善と共に、国際社会への積極的介入意志を明らかにしている。しかし北朝鮮経済をよく見たら、このような北朝鮮の意志が果して成功するかどうか疑問である。北朝鮮の現実は、金正日が自ら「人民たちがトウモロコシご飯を食べているのを見ると、一番胸が痛い」と打ち明けたほど悲惨である。 金正日政権が、財産権の保障までは難しいとしても、インセンティブ制度を認めるだけでも、人民の「生きる問題」を解決するのに役立つだろう。北朝鮮は中国に徹底的に頼っている。しかし、一時は計画経済と理念主義の弊害により、極甚な飢饉に苦しんだ中国が市場原理に目覚めて、急速な経済成長を成し遂げたという最も重要な事例を拒否することは、北朝鮮の未来が暗いという決定的理由になっている。北朝鮮の金正日が市場を理解できなかったら、北朝鮮は絶対に正常な社会になれないだろう。
2010年02月23日
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2010南アフリカ共和国ワールドカップには北朝鮮が出場する。北朝鮮はG組でブラジル-コートジアボアル-ポルトガルと闘うことになった。サッカーは北朝鮮で最高の人気スポーツである。今回は北朝鮮のサッカーに関する話である。-----------------------------------------去年の6月18日、サウジアラビアリヤードにあるキングパドスタジアム。 サウジアラビアとの2010南アフリカ共和国ワールドカップアジア地域最終予選、最後の競技であるB組8回戦が終わるや否や、北朝鮮のサッカー選手たちはお互いに抱き合って涙を流した。北朝鮮としては44年ぶりにワールドカップ進出を成し遂げたのである。当然、彼らは平壌で大々的な歓迎を受けた。 北朝鮮政府は彼らに最高級の褒賞を与えた。16人が「人民体育人」の称号を、 3人が「功勲体育人」の称号を受けた。北朝鮮で人民体育人は、運動選手が貰える最高の名誉である。 北朝鮮はオリンピックや世界選手権大会で優勝した選手だけに人民体育人の称号を与え、アジア圏大会で優勝したら功勲体育人の称号を与える。史上初めてこのように沢山のメンバーが同時に人民体育人の称号を受けたことは、北朝鮮がワールドカップ本選進出をどれ位重要視しているかをよく表している。人民体育人の家族たちは、平壌の一番良いアパートに引っ越したとのことである。特に地方に住んでいた家族たちは、息子のおかげで、貰うのが本当に難しいとされる平壌市民証を得た。北朝鮮でサッカーが最高の人気スポーツであると同時に、国家が最も力を注いでいる分野であることを証明する出来事である。 ところで、これ程サッカーを重要視する北朝鮮が、どうして過去40年間以上、国際舞台で良い成績を上げることができなかっただろうか。このことを理解するために、北朝鮮サッカーが最高の栄光を享受していた44年前、即ち1966年のロンドン・ワールドカップに対する説明が必要である。 1966年6月30日、北朝鮮代表チームとスタッフ66人がロンドン空港に降りた時、沢山の現地人たちが見物に来た。当時、ヨーロッパの人々にとってアジアのサッカー選手は目新しかった。彼らは北朝鮮チームの平均身長が165cmに過ぎないという事実に、非常に驚いた。北朝鮮チームも文化的な異質感を感じたのは同様だった。空港に降りてトイレに行った選手たちは、男性用トイレから「女性」が出てきたので腰を抜かした。通訳の助けを借りて、外国では男性も髪を長く伸ばせるという事実を知った。 北朝鮮チームが到着した日、天気が良くないと有名なロンドンが、大晴れだった。現地の新聞は「清い朝の国の選手たちが太陽を持ってきた」と報道した。組別予選が開かれるイギリス北東部のミドルズブラに移動した北朝鮮チームは、主催者側が手配してくれたホテルを4回も拒絶し、市近郊の未完成ホテルであるセントジョージホテルに宿泊した。宿泊費が安かったので、外貨を節約できるからである。一同は現地新聞の関心の的になった。北朝鮮代表チームが毎日、唐辛子を1kg以上を消費するとしながら、「私たちイギリス人が唐辛子をこんなに食べたら、多分爆発しただろう」というホテルのコック長の話も伝えた。現地の人々の目に初めて映った北朝鮮チームは、「謎のチーム」だった。北朝鮮チームの8強進出を予想した人は、誰もいなかった。同じ組にソ連、チリ、イタリアという当時の強豪たちが控えていたからである。この中で伝説のゴールキーパーのレフ・ヤシンがいたソ連が、最強チームだった。ソ連は予想どおり、この組で北朝鮮とイタリアを圧倒して、組で1位になった。ソ連はこれ以降、準決勝で西ドイツに敗れたが、ソ連が西ドイツに敗れたのは、第2次世界大戦以降、初めての異変だった。西ドイツはソ連選手2人が退場になった後、当時のサッカーの英雄ベッケンバウアーを先頭に立てて、辛うじて2-1で勝った。 ソ連は初の競技で北朝鮮を3-0で下した。スコアだけ見たら北朝鮮の完敗だったが、実際は北朝鮮のディフェンダーたちが大変な身長の差にも関わらず、ソ連の攻撃を巧みに防ぎ止めた。イギリスの「ザ・タイムス」は、「最後のゴールだけが、ソ連が北朝鮮の守備を完璧にくぐった最初で最後のゴール」と評価した。現地の人々は、北朝鮮の実力に非常に驚いた。次の競技のチリ戦には、もっと多くのファンがサッカー場を訪れて、北朝鮮を応援した。チリも1962年ワールドカップで3位になった強豪チームだった。最終スコアは1-1と引き分けたが、シュート数を見たら16対9で北朝鮮が優勢な競技だった。イタリアとの競技は組別予選最後の競技だった。北朝鮮はソ連とチリ戦で主力フォワードたちが負傷していたにも関わらず、パク・デゥイクのゴールにより、1-0で勝った。予選脱落したイタリア代表チームは、帰国して腐った卵の洗礼を受けなければならなかった。初のワールドカップ出場で、北朝鮮は組2位で8強に進出した。当時はワールドカップ本選に16カ国が出場した。8強戦のためにリバプールに移動する北朝鮮チームの後を、約3,000人のファンが従った。北朝鮮チームの競技に魅了された人々が、遠征応援に来たのである。ポルトガルは1962年の優勝チームであるブラジルを3-1で圧して勝ち上がって来たチームだった。北朝鮮は初め3-0で優位に立ったが、結局5-3で敗れた。当代最高のストライカーだったエウセビオが、1人で4本のゴールを決めた。北朝鮮住民たちは時差のため、深夜の1時にラジオでこの競技の生中継を聞いた。3本のゴールを先に決めた時、北朝鮮アナウンサーの声は活気に満ちていた。しかし、1本、また1本とゴールを決められる度に、彼の声から力が抜けた。「あ、またユセピオでした」と伝える中継放送を4回も聞いたので、北朝鮮住民たちは彼の名前をはっきり憶えた。 北朝鮮ではエウセビオをユセピオと呼ぶ。4本目のゴ-ルを許した時から、北朝鮮のサッカー解説者は泣き始めた。そして北朝鮮全域が明け方には、涙の海になっていた。しかし、北朝鮮は初出場したワールドカップで強烈な印象を残した。 北朝鮮に帰って来たサッカー選手たちは、咸鏡北道ズウル温泉療養所に数カ月間宿泊しながら、最高の待遇を受けた。しかしこの時、金日成の後を継いだ金正日の政権掌握の分岐点になる「甲山派(ガブサンパ)」粛清事件が起った。 「ガブサンパ」というのは、韓国戦争の前から咸鏡南道を中心に活動していた共産主義者系列を指称する言葉である。金日成は1968年3月に秘密裏に開かれた労働党中央委員会全員会議で、唯一体制の樹立に邪魔になる「ガブサンパ」の粛清を決めた。(次回に続く)
2010年02月19日
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北核問題を扱う6カ国協議が、間もなく再開されるかどうか注目されている。北朝鮮の金正日国防委員長が、最近北朝鮮を訪問した中国共産党の王家瑞対外連絡部長に、6カ国協議復帰の意思を明確にしなかった。しかし6カ国協議の北朝鮮側首席代表であるキム・ゲグァン外交部副部長が中国に赴き、武大偉韓半島特別代表に会うなど、両国間の折衷が緊迫になっているからである。6カ国協議が中断されてから14カ月が経過した。これまで北朝鮮は、2度の核実験を強行し、大陸間弾道ミサイル(ICBM)を試験発射した。国際社会はUN安全保障理事会の制裁決議で対立した。その間、市場を取り締まり計画経済を強化するなど、改革からむしろ後退していく北朝鮮経済の墜落は、止まることを知らない。最後の手段として最近断行した貨幤改革さえ、状況を更に悪化させたと伝えられている。北朝鮮が6カ国協議に復帰する可能性が大きくなったと予想される理由である。外部からの支援なしに北朝鮮が経済難を脱出する道がないという点がいっそう明らかになるに連れて、核問題解決に積極的に取り組むしかないということが分かるだろう。一旦、6カ国協議が再開されたら、核問題議論は以前より急速に進展されるものと見られる。2008年の寧辺(ヨンビョン)原子炉冷却塔の爆破などに至った核無能力化作業が、早い時期に再開、進展されたら、同時にUN安保理制裁も解除されるだろう。特に北朝鮮が強力に望んでいる平和体制構築のための議論も進展されるだろう。更にもう一歩進んで、北核問題が完全に解決される局面に至ったら、北朝鮮に対する大々的な支援を公約して来た国際社会の本格的な支援も可能になるだろう。このような方法だけが、過去20年間維持されてきた最悪の経済状況から、北朝鮮が脱出できる唯一の道である。金正日国防委員長はこれ以上悩まず、6カ国協議復帰の決断を下さなければならない。
2010年02月16日
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北朝鮮の咸鏡南道咸興(ハムン)市の非常防疫指揮部では、城川河(ソンチョンカン)区域をはじめとする新種インフルエンザ発生区域を隔離及び封鎖している。特に、患者が発生したら、幹部世帯であろうと労働者世帯であろうと関係なく、隔離対策を立てている。 アパートの場合、患者が発生したら外出禁止にするために、出入口に警備を立てているのが実情である。城川河区域シヌン1洞24班と29班などの人口密集地域にインフルエンザ患者が発生したので、ここにあるアパートは出入り口を封鎖してしまった。4階建てのアパートの1階出入り口に板を打ち付けたのである。中にいる人々が外に出られないようにした措置である。 突然閉じこめられてしまい、生活必需品や食糧が不足した世帯は、生活するのも難しくなってしまった。特に商売をしながら、毎日の生活費を稼いでいた住民たちの苦しみは甚大であった。その為、北朝鮮の人民委員会では食糧を保障してあげる為に、基礎食品工場から味噌や醤油とその他の炊事暖房に必要な無煙炭を、1日最低3個づつ調達するように指示した。 2~4階に住む住人たちは階下に降りることができないので、上からバケツを綱に結んで1階に下ろして、物品の供給を受ける。1階で食糧と品物をバケツに入れてあげると、2階から綱を引き上げる。これ以外にも北朝鮮当局では、電気釜を使う家庭で電気を使えるように、特別に6万線の電気を供給した。 北朝鮮当局はこのように外部との接触を一切遮断したら、これ以上、ウイルスが拡散しないだろうと期待したが、現実は違っていた。いくら最低の食糧と品物が供給されたと言っても、家族が多い家庭では相変らず不足するので、住民たちは食料を求めて、何としても外に出て来る。咸興市当局はこのような住民のためにインフルエンザ患者が減少しないとしながら、非常防疫担当者たちと保安機関、巡察隊などを動員して、出入りを一層厳格に統制するのに重点を置いている。 北朝鮮の衛生防疫所では、アパート全体を隔離したにも関わらず、インフルエンザ患者が予想以上に大量発生して、当惑している様子である。しかし、最も苦労しているのは、期限の制限なしに隔離生活をしている住民たちである。北朝鮮の住民たちは「国家措置(貨幤交換措置)でそれでなくても大変なのに、伝染病のため本当に何も出来なくなってしなった。このような人生があっていいのか」と嘆いている。北朝鮮の保健当局、薬不足で民間療法を提示咸鏡南道非常防疫委員会では新型インフルエンザ治療薬の不足により、民間療法による解説資料を人民に配布している。インフルエンザの症状について説明し、このような症状が現われたら担当医に伝えて検診を受けた後、治療対策を立てるように教育している。また、市内で流通している中国製の薬品や韓国製の薬品は絶対に使わないようにと注意をしている。 現在、新型インフルエンザによる死亡者は発生し続けているが、治療薬が不足しているので、韓国製の予防注射をしている状況である。4日からインフルエンザ発生地域に韓国製の予防注射を配布しているが、一般のインフルエンザには効果があるが、新型インフルエンザの予防には特に効果がないことが分かった。その上、一部医療陣の中には、住民が症状を説明して検診を要求しても、対策を立ててあげないという現象も現われている。一方、不足する医療陣を補うために、北朝鮮の保健当局は医大生たちを非常防疫指揮部に動員している。 北朝鮮の咸興市内の大部分の食堂、新型インフルエンザで一時営業中止咸鏡南道咸興市の大部分の食堂は、新型インフルエンザにより、現在、営業が一時中断されている状態である。しかし、食堂の衛生施設が良く衛生状態が優れていると判断された所では、営業が可能である。当局の衛生防疫担当者たちが衛生状態を点検しているが、この過程で賄賂が横行している。お金さえあったら、衛生条件に関係なく合格証を幾らでももらうことができる。新型インフルエンザを予防するという当初の目的とは違い、一部の不正幹部の私益を肥やすのに利用されている。
2010年02月12日
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- 韓国のサイトに掲載された資料を翻訳したものです。 韓国の国家人権委員会が20日、韓国の政府機関としては初めて、北朝鮮の政治犯収容所の実態調査結果を公式に発表したことを受けて、政治犯収容所が新たに注目を浴びている。 体制の非難をしたという理由で、本人は勿論のこと家族まで一生奴隷にする前近代的制度である政治犯収容所と連座制は、北朝鮮の人権問題の核心である。 しかし、収容所の存在は北朝鮮の独裁体制と運命を共にするはずだという見方が多い。収容所を解体した瞬間、北朝鮮体制の存立が危うくなるからである。政治犯収容所の大部分は、死んでも出所することができない「終身区域」である上に、警戒が厳しく脱走が不可能なので 、内部の実状が外部にほとんど伝わらない。 北朝鮮の政治犯収容所を解体する運動をしている収容所の収監出身者たちの団体である韓国の「北朝鮮民主化運動本部」を通じて伝えられた政治犯収容所別の特徴と相違点を明らかにして見る。 ただし、同団体は「北朝鮮には収容所6カ所に政治犯約20万人が収監されている」とする韓国の国家人権委員会の発表とは違い、収容所が5カ所で収監者も20万人よりずっと少ないと主張している。 同団体のチョン・グァンイル事務局長は、「1990年代の初めに北朝鮮の北倉(プクチャン)政治犯収容所が無くなり、現在は5カ所だけある」としながら、「私は最も規模が大きい 耀徳(ヨドク)収容所に収監されて2003年出所したが、当時の収監者は1万人程度で、収監者が5万人という人権委員会の発表とは違いがある」と主張した。14号价川(ケチョン)5万人海州(ヘジュ)、熊津(ウンジン)など「解放地区」出身多く大同江(テドンガン)上流に位置する14号管理所は、全体が「終身区域」である。終身区域というのは、一回入ったら絶対に再び出ることができない所を言う。主要収監者は、6・25戦争以降に北朝鮮領になったいわゆる新開放地区(海州、熊津など)の出身成分が悪い人々とされている。韓国の人権委員会では、この収容所に約5万人が収監されていると明らかにしているが、実はこの収容所は収容所5カ所の中で一番知られていない所である。収監者たちは主に、石炭採掘や農業、被服工場などの強制労働に苦しむ。この収容所と似ている所が咸鏡北道会寧(フェリョン)の22号収容所である。2007年にここ出身の収監者であるシン・ドンヒョックさんが韓国に脱出して、内部の実状を証言した。15号耀徳(ヨドク)5万人終身-革命化-改悛区域に分離韓国で一番よく知られている収容所で、北朝鮮の収容所の中で最も規模が大きいとされている。この収容所には「終身区域」と、一定の期間の刑期を満たせば釈放される「革命化区域」、収監期間が指定されていないが、改悛の気配があると判断される場合は社会に出られる、所謂「改悛区域」が一緒に存在する。 約20の管理委員会が存在し、管理委員会毎に約400人が所属している。収監者の構成を見ると、所謂体制を非難したという「言葉反動」が60%、韓国行を試みた脱北者20%、不正腐敗を犯した官僚たちが20%位である。ここの実状は国際社会に広く知られていて、北朝鮮が一部地域は閉鎖したと伝えられている。22号会寧(フェリョン)5万人光復以前の資本家-宗教人たち収監韓国の人権委員会によると、5万人が収監されている北朝鮮最大の政治犯収容所である。しかし耀徳(ヨドク)と規模が似ているという証言もある。1950年代末から作られた歴史が長い収容所で、一回入ったら絶対に出られない終身区域である。主要収監者は、光復以前の地主、資本家、宗教人たちと、6・25戦争の時に韓国軍を助けた人などである。韓国行を試みた脱北者は一般に耀徳(ヨドク)に収監されるが、韓国軍捕虜の家族のように許される可能性がない場合は会寧(フェリョン)に送られる。1987年5月に近隣の穏城(オンソン)収容所で暴動が起きて、5,000人の収監者が虐殺され、隣接する収容所が閉鎖されたが、会寧収容所は維持された。1994年にここの警備兵だったアン・ミョンチォルさんが脱出して世間に知られた。25号洙城(スソン)5,000人物証まで確かな政治犯を監禁この収容所は他の収容所と違い、監獄形態で存在する唯一の政治犯収容所である。ここに入ったら即ち死んだと思われるほど悪名が高い。北朝鮮は反体制犯の中でも、心証はあるが物証がなければ革命化地区や他の収容所に送るが、物証まである場合は裁判を受けて洙城(スソン)収容所に監禁される。15年の刑といったような刑期はあるが、罪状が極悪だという判断下、一旦入ったら出ることは出来ない。6mの高さの柵と電気鉄條網のため、脱出が最も難しい収容所でもある。自転車、ミシンなどを生産するが、ここで生産される「カルメギ(カモメ)」自転車は、北朝鮮で非常に有名である。16号華城(ファソン)2万人大部分が体制に挑戦した1級政治犯北朝鮮内でも比較的よく知られていない1級政治犯収容所で、洙城(スソン)管理所の次に待遇が劣悪な所である。キム・ドンギュ副主席のように、金正日の後継者体制の構築に反対した高位級関係者たちと国家保衛部出身、クーデター容疑者など罪状が極悪で、他の政治犯たちと接触したら秘密が露出する恐れがが高い人物が収監されているとされている。ここの警備は特に厳しくて、今まで一人も脱出に成功して韓国へ来たケースがない。100里を超える谷間に沿って、収監者たちが少しずつ分散配置されている。北朝鮮が核実験をした咸鏡北道吉州郡(キルジュグン)万塔山(マンタプサン)の実験用坑道は、ここの収監者たちを動員して掘らせたものとされている。
2010年02月12日
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政治犯収容所は北朝鮮の公式名称ではない。北朝鮮の人々は「統制区域」、「特別独裁対象区域」、「移住区域」、「政治犯集団収容所」、「流刑所」、 「宗派窟(チョンパクル)」などと呼んでいる。北朝鮮政府は「OO管理所」と呼ぶ。例えば「耀徳(ヨドク)政治犯収容所」は「第15号管理所」と呼ばれているが、記録上は朝鮮人民警備隊隷下の部隊のように偽装されている。 ここにはいわゆる反党・反革命分子などの体制危険分子約20万人が、裁判なしに集団収容されていると知られている。従来は、いわゆる敵対階層の体制危険分子、すなわち、粛清された宗派分子、反党・反革命分子、過去の地主、親日派、宗教人及び韓国へ越境した人の家族、北送海外同胞の中で北朝鮮体制を批判して、自由世界を憧憬賞賛した人々が大部分だった。 しかし後日、労働党の幹部だったのに権力闘争で負けた政治家とその家族が徐々に主流を占めるようになり、特に金日成の偶像化強化過程で収容対象が増加した。 政治犯収容所は収容者たちの脱走・暴動防止のための徹底的な監視と統制体系を整備して運営する為に、外郭の境界には高さ3~4mの4~6重の鉄条網が設置されている。脱走し易い所には電気鉄条網、地雷の畑、落とし穴などを設置し、外郭の垣根2km間隔に高さ7mの監視塔を設置して見張っている。 脱走をして発見されたら、監視員たちによって無差別に射殺され、逮捕された場合には遊撃隊の訓練場で殺人訓練用として使われる場合もあると言う。 一旦収容所に収監されたら、住民としての権利は勿論のこと、人間としての基本的権利も一切剥奪されて、生産力を提供する道具として存在するようになる。 入所すると直ちに公民証を剥奪されて、選挙権・教育権なども制約されて、食糧・生活必需品の配給は勿論のこと、結婚・出産なども禁止され、面会及び手紙による連絡禁止など、外部との一切の連絡が遮断される。収容者の日課は、作業班の性格及び季節によって多少異なるが、農場作業組の場合、明け方の5~6時頃に起床して夕方8時まで作業を続けて、思想教育と人員点呼後、夜10時に就寝する。炭鉱作業組は、冬・夏期の区分なしに1日3交代で作業するなど重労働に苦しんでいる。 主食はトウモロコシとじゃがいも、小麦、麦で、収穫期に各々1回ずつ配給される。供給量は種類に関係なく1人1日基準で計算され、炭鉱労働者は600g、地域地区は500gだったが、最近は食料事情を理由に100~200g程度配給される。副食は野菜類は殆ど供給されず、塩や醤油・みそなどが少量支給され、ニンニク・唐辛子の粉などは菜園で自己調達するのが実情である。 従って収容者たちは食料が絶対的に不足しており、野菜や草の根以外に、牛の糞の中の豆や蛙の卵までも食べ、板やムシロで作った家に木の皮をひいた床で生活している。従って収容者の大多数が栄養失調でペラグラ、結核、肝炎などの疾病で苦しんでいる。 収容所は咸鏡南・北道と平安南・北道、慈江道など、地形と山が険しい地域に全て位置している。地域別に見てみると、咸鏡南道の耀徳(ヨドク)・端川(タンチョン)・徳城(トクソン)、咸鏡北道の華城(ファソン)・清津(チョンジン)・会寧(フェリョン)、平安南道の价川(ケチョン)・北倉(プクチャン)、平安北道の天摩(チョンマ)、慈江道の東新(ドンシン)など10カ所が把握されている。収容所は収容者たちの罪状によって完全統制区域と革命化区域に分けられる。完全統制区域は北朝鮮が主張するいわゆる反党・反革命宗派分子や、海外に逃走しようとして捕まった政治犯たちが終身収容されている。革命化区域は相対的に罪状が軽い政治犯たちが収容されており、3~10年が経過して金父子体制に忠誠して、思想改造されたと判断されたら、審査を経て出所することもある。 収容所の管理は2分化されており、総括調整と統制は国家安全保衛部収容所管理局で担当し、警備は人民保安省傘下の人民警備隊が引き受けている。
2010年02月05日
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Q)今まで金正日の喜び組と言ったら、彼の宴会に参加して踊ったり歌ったりする女性たちが、夜の生活まで一緒にするとされていましたが、今までお話された内容から考えて見たら、真実は違うという感じがしますね。A)金正日は無智で暴悪な暴君に見えても、彼も部下たちの視線は気にします。部下たちに非常に道徳的な指導者として見て欲しいようでした。もちろん全くそうではないと断言できませんが。踊りや歌が上手な女性の中には、彼の好みの女性がいる確率も高いでしょう。歌舞する女性たちはすらりとしていますよね。もし金正日に選ばれた女性がいたら、多分、私たちと一緒に隠遁生活を始めたことでしょう。でも、彼が寵愛した普天堡電子楽団の歌手たちを、その楽団の楽器演奏家たちと結婚させたことから推察すると、そのような女性たちにも一線は守ったと見なければならないでしょう。Q)今までのお話の中で、金正日が付けてくれたミヒャンという過去の名前や当時一緒にいた人たちの名前を語られましたが、大丈夫なのですか?A)どうせこの記事が北朝鮮で読まれたら、私が誰だかすぐに分かるはずです。金正日の側にいた人が韓国に脱出するということは不可能である前に、あり得ないことです。私以外には今後も出現しないでしょう。本人だけではなく家族まで最高の待遇を受けられるのに、北朝鮮を脱出する必要がありません。ですから、名前を隠してこのようなお話をする必要はないのです。それから、5科の生活を終えても、自分の故郷には帰してくれません。前述したように、以前海外のマスコミに出演して、私の過去のお話をちょっとした事がありましたが、その時は私の名前も周囲の人物の名前も言いませんでした。教育を受けた建物のことも言いたくなかったので、適当にお話しました。彼らはエロチックな点に関心があって、「喜び組」や「満足組」があるのかと執拗に質問しました。詳しいお話をしたくなくて大まかに説明したので、誇張されたことが多いです。しかし今は、私が名前まで全て明らかにして、事実をそのまま堂々と話しています。Q)では、なぜ顔が公開されるのを断るのですか?どうせ北朝鮮では全てを知っていると思いますが。A)私がこのインタビューを受けるのは、人気を得るためではありません。韓国へ来た初めの頃は、そのようなことも考えましたが、今は「過去、喜び組にいたミヒャン」として生きたくないです。今後、私の写真が出回ったら、面倒な事が多くなります。周辺の人たちの視線も変わります。私は今のままで暮したいのです。韓国へ来て芸能界にデビューする機会も沢山ありました。俳優や監督の中には、知り合いも多いです。私の過去は知らないのに、映画に出演して欲しいと執拗に説得して来た監督も何人かいました。しかし、全て断りました。韓国の芸能界について知れば知るほど、北朝鮮出身の私が適応する自信はありません。Q)この記事を読む読者たちが、どのようにして韓国に来たのか知りたがっていると思いますが。 A)全ての人に過去の事情と痛みがあります。静かに胸の中にしまって置きたいこともあるでしょう。簡単にお話すると、私の家族が北朝鮮では許されられない罪人になってしまったのです。罪人の娘を金正日の側に残すことはできないでしょう。ミオクお姉さんが私を抱きしめながら、「大変なことになってしまった。もう会えないかもしれない」と言いながら大変悲しみました。お姉さんが「お前が死なないように、私が最善を尽くす」と言いながら、お金も沢山くれました。別れる時、私もすごく泣きました。1997年に私は中央党保衛部に閉じこめられて、本当に長時間審問を受けました。でも、私が言うことが何もありませんでした。 ある日保衛部の人が言いました。「将軍様の命令通り、命だけは助けてあげるから感謝しなさい」その瞬間、ミオクお姉さんが思い出されました。私は深い山奥の革命化区域に追放されて、しばらく世間と隔離されました。理解できなかったことは、追放された時、金正日がくれたプレゼントの一部は持って行かせたことです。流刑中に恩人ができて脱出するのに成功して、彼が教えてくれた方法に従って、数カ月後に北朝鮮を脱出して韓国まで来ました。思い返すのは嫌ですが、その過程を書いても、多分ぶ厚い本1冊にはなるでしょう。 エピソードを1つお話します。中国で北朝鮮料理が食べたくて、北朝鮮食堂へ行った事があります。自分なりに眼鏡を掛けたりして変装をしました。でも、その食堂で働いていた1人の女性が、私をしきりに眺めました。私も彼女をどこかで見たような気がしましたが、思い出せませんでした。ずいぶん長い間躊躇していましたが、彼女が私が近付いて来て静かに、「失礼ですが、もしかして000さんではないですか」と聞くのです。心臓が止まりそうでした。彼女は5科の試験を受けた時、私と一緒に3次まで行って、最終試験の時に同じホテルで生活した子でした。どうして中国にいたのか分かりません。5科に選ばれても、最終選考まで行けなかった美貌の女の子たちは、別に教育してホテルに常住させながら、外国からのお客たちの応待をさせるという話を聞いたことがありました。しかし、海外にいるとは知りませんでした。知らないと手を振りながら、料理も全部食べないで、逃げるように出て来ました。それがもう10数年前のことです。最近、海外にある北朝鮮食堂の従業員たちは、権力がある幹部の家庭の子供の中から選抜されると聞いています。Q)韓国へ来て良かったと思いますか?A)私が来たくて来たのではありません。運命が導いたのです。そして韓国での生活について、結論を出すには早すぎると思います。30代に「成功しましたか」という質問に、答えることができなようにです。来て良かったかどうかは、数10年後に答えられる問題ではないでしょうか。多分、北朝鮮にいたとしても、それほど幸せだったとは思えません。年を取るにつれて、幸福とは特別なものではないということを感じます。結局、幸福とは自分が感じる感情ではないでしょうか。金正日といた事は、私の人生の一場春夢に過ぎません。生きて行く日々は、その瞬間の数10倍です。これから、いくら辛くても、目標と夢は失いたくないです。夢が何ですかって?将来、北朝鮮に帰って、両親を失った子供たちの面倒を見る孤児院の院長になりたいです。(終わり)
2010年02月04日
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金正日好みの理想の女性像は?今回の内容も前回(#5)に続き、韓国の雑誌「新東亜」に連載された金正日の「喜び組」(金正日の女性たち)の話を翻訳したものです。過去に北朝鮮を脱出して韓国に入国して韓国のマスコミで働く記者が、前職金正日の「喜び組」の女性を直接取材した内容を元に、記事を作成しました。----------------------------------------------------Q)すると、ミオク、ミヒャン、ミソ、ヨンミなど、全て「ミ(美)」の字が入った名前ですね。A)はい、それは金正日の女という意味のようです。ミソお姉さんは笑うと、本当に美しかったです。多分、それでミソ(微笑み)という名前を付けたようです。ヨンミも後にミエと改名しました。金正日は酒に酔うと、同じことを何回も繰して喋る癖がありました。特に面白いことは、「ミ(美)」の字が入った名前を私たちに付けて置きながら、名前が解らなくなってしまうのです。お酒を少しでも飲むと指をあげながら、「お前がミオクか?ミヒャンか?」と何回も聞きました。そして、「ミヒャンだったな」と言ってから、また同じことを初めから繰り返しました。 Q)ミオクという女性のする仕事は、教育をすることだけですか?A)お姉さんは金正日と寝たりもする愛人でしたが、秘書の仕事もしました。金正日と親しかったですが、とても丁寧な言葉だけ使いました。お姉さんも平壌で育った人でしたが、中央党庁舍内に金正日が下賜したとても大きくて立派な自分の家を持っていました。しかし5科の建物に来て寝てくれたのは、多分、私が過渡期を楽に乗り越えて、金正日に対してもっと良く知ることが出来るようにと、側に付けてくれたのだと思います。もちろん、いつも私と一緒に行動しなければならなかったので、そうしたのかもしれません。それから、よく1人で外出していました。お酒を飲んで夜明けに帰って来る時もあったし、昼に帰って来る時もありました。金正日が下賜したベンツを直接運転して家へ帰って、寝てから来る時もありました。Q)ミオクお姉さんに対する想い出も多いでしょう。A)お姉さんが金正日の恋人だったので、マスコミが関心を持つような話題も多いです。私と2年近く1つの部屋、1つの布団で寝たので、お姉さんから聞いたことは本当に多いですが、これ以上話したくありません。お姉さんが心配だからです。お姉さんは私を自分の後継者と思っていました。ところで、嫉妬もしなかったし、本当の妹に対するように、良くしてくれました。その中で、私も寂しかったですが、お姉さんも同じように寂しかったようです。お姉さんはよく私を抱きしめながら、「お前は私の後継者ね。お前も私も寂しく生きていかなければならないのね」と言いました。そのようなことを言う度に、お姉さんはとても悲しそうでした。お姉さんは本当に良い人でした。 元々、学校では「同志」と呼ばなければなりませんでしたが、部屋に帰って2人きりになると、「お姉さん」と呼びなさいと言いました。お姉さんには弟が1人いたので、とても会いたがっていました。お姉さんには金正日がくれたプレゼントが沢山ありました。私がある時、「これ本当に綺麗ですね」と言うと、お姉さんは「お前にあげたいが、将軍様が下さったプレゼントなので、あげられないわ」と言いました。そして「これなんか何でもないわ。家にすごく沢山あるの。お前も将軍様に仕えるようになったら、私のように大きい家ももらえるし、あらゆるプレゼントももらえるわ」と言いました。Q)お姉さんの運命はどうなるのですか?A)私たちは26~27歳になると除隊をします。除隊する頃になると、少佐か大尉になります。しかし金正日とそのような関係だった女性は、それ以後も結婚ができなくて、1人で生きて行かなければなりません。もちろん、最高の待遇はしてくれます。除隊した後も金正日の愛を受けていたら、秘書としてずっと側で働くことができます。ミオクお姉さんも金正日の色々な雑用を代理にする仕事が多かったですが、除隊しなかったのは確かです。金正日の側にずっと残ったと確信しています。愛情も信頼も厚かったからです。あまり深い関係にならなかった女性たちは、護衛国軍官などと結婚させて、秘密が漏れないようにします。 Q)金正日の妻だという「キム・オク」という女性について聞いたことはありますか?もしかすると、ミオクというその女性ではないでしょうか?A)私はキム・オクという名前は知りません。韓国へ来てキム・オクという女性の写真は見ましたが、北では見た事がありません。写真を見たところ、可愛くて溌剌としたタイプですね。私たち学生10人の中に、その女性に似た子もいました。でも、美貌に関して言ったら、ミオクお姉さんがずっ美人でした。それから、キム・オクという女性は金正日と丁寧な言葉を使わなくても良い関係だと聞きましたが、私はその報道が信じられないです。金正日は従順な女性が好きです。 金正日の死後、キム・オクが莫大な権力を行使するだろうと予測する人もいますが、私は絶対にそうではないと思います。彼は女性と権力を分け合う人では絶対にないし、そのような状況を作るような人ではありません。ミソお姉さんはちょっと野心があって嫉妬もしましたが、金正日はそのような点をあまり好みませんでした。でも、美貌だけで判断することも出来ませんよね。ある時、ミオクお姉さんが30歳を過ぎたある女性を丁寧に接待していました。誰かと尋ねたところ、「将軍様の信任を受ける秘書で、重要な女性です」と言いました。ところが、その女性はそれほど美人ではないと思いました。Q)金正日の女性に対する趣向はどうでしたか?A)そうですね。簡単に答えるのは難いです。私が感じたとおりに言いますね。まず、目を一番重要視します。そして目と髪の毛の調和を考えます。彼は私の髪の毛の量が多くて真っ黒で、瞳も真っ黒だから好きだったようです。瞳が茶色ならば髪の毛も茶色でなければならないし、瞳が真っ黒ならば髪の毛も真っ黒なのが良いというのが彼の美学でした。その次に口を見ます。特に美人でも唇が薄ければ、無条件に嫌がりました。鼻は高くなければならないです。とにかく彼の趣向は、とても纎細でした。私の指を取って詳しく見ながら、指が長いので感受性が豊かだろうと言いました。化粧を濃くしたら嫌やがりました。付けまつげを付けたことがありましたが、嫌がったので2度と付けませんでした。 香水を付ける方法を教えてくれるほど、私たちには優しくしてくれました。 ミソお姉さんがある時、香水を沢山振り撒いて行ったら、香水は空にまず撒いてから、そこに体を当てなければならないと教えてくれたこともありました。私たちが使った化粧品は、全部フランス製でした。シャネルもあったし、他のものもありました。私たちにはヒールの高さが5cm以上の履き物はくれませんでした。彼の背が低かったので、そうしたようでした。女性が自分より背が高いのは好みませんでした。彼が一番好きなスカートは、下部にだけフレアーが入ったスカートでした。それで私たちが着る服も、そのようのなものが多かったです。とにかく、こういうことも話したら長くなりますね。(次回に続く)
2010年02月01日
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