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地下車道だけで40分、金正日の豪華地下別荘今回の内容も前回(#4)に続き、韓国の雑誌「新東亜」に連載された金正日の「喜び組」(金正日の女性たち)の話を翻訳したものです。過去に北朝鮮を脱出して韓国に入国して韓国のマスコミで働く記者が、前職金正日の「喜び組」の女性を直接取材した内容を元に、記事を作成しました。----------------------------------------------------Q)日本に藤本健二さんといって、金正日の料理人をしていた人がいます。彼が書いた本を読んで見ると、金正日がシンチョン招待所で、ある時、5人の喜び組に近付いて服を脱がせた後、裸の彼女たちを他の幹部たちと踊らせたという部分があります。そのような可能性があるのですか。A)私は、金正日は他の幹部たちの視線を非常に意識していたと、思います。そうだとしたら、かなり異例の出来事ですね。でも、嘘だとは言い切れないのは、金正日はお酒に酔うとちょっと、そうですね…変態的気質と言うか、そういうこともしたりしました。彼は飲み過ぎると、自分が何をしているのか、よく分からない時がありました。 私も直接見ませんでしたし聞いた話ですが、こんな事があったそうです。ある時、あまりにもお酒を沢山飲んだので側に副官が近付いて、「もうお止めください」と引き止めた事があったそうである。すると、「こいつを今すぐ監獄に放り込め」と大声で叫んだとのことです。そして朝、目が覚めた時、その副官が居なかったので探したところ監獄に入れたと聞いて、「私が昨日そうしたのか」と言いながら、すぐまた呼び戻すように指示をしたとのことです。 お酒飲むと、彼も普通の酔っ払いと同じ様になってしまいます。しかし、私たちの前で醜態を演じた事はありませんでした。お酒を飲んで私たちの前で泣いた事はありました。でも、声を出してワンワンと泣くのは見たことがありません。ただ、私たちに悲しい歌を歌わせて、その歌を聞きながら目に涙が浮かんで、我慢ができなくて涙を流したりしました。Q)藤本健二さんが6年前に書いた『金正日の料理人』という本を読んで見ましたか?A)そういう人がいるのは知っていましたが、その本を読んだことはありません。それから、私たちが金正日と会う時は、他の人は居ませんでした。もちろん私たちを案内してくれた副官と思われる男は2人位いましたが、料理人は見た事がありません。料理は他の人たちが運んで来ました。エレベーターから出て来た時もありました。ところが、金正日が寿司が本当に好きなのは事実です。それで私たちも沢山食べましたが、もしかしたら彼が作ったのかも知れませんね。他の料理もとても美味しかったですが、特に寿司は美味しかったです。その味を忘れることが出来なくて、韓国へ来てから、有名な寿司屋に何回も行って見ましたが、まだあのように美味しい寿司を食べた事はありません。(※彼女が『金正日の料理人』を読んだ事がないと言うので、その本を贈呈した。彼女は記者の前で最初の数ページを読んで見た。そこには金正日の1週間のメニューが記録されていた。それを見ながら、彼女はこのように言った。)ここでも鮫の料理が沢山出ますね。鮫を何回も食べました。初めて会った時、イタリア料理が出ましたが、あの時も鮫料理が出ましたよ。刺身がとても独特な器に盛られて出たりしました。金魚2、3匹が泳ぐ鉢が下にあって、その上に刺身皿が置かれていました。生きて泳ぐ魚を見ながら刺身を食べるのは、一味違う雰囲気でした。ところでこの本には、ご飯が白米だと書かれていますね。でも、私は金正日に会って白米は食べた記憶はないです。いつも5~6種類の雑穀が混じったご飯を食べたようです。私はあの時初めて、松の実と胡桃が入ったご飯があることを知りました。ああ、ステーキに添えられて出るご飯は、白米でしたね。初めて会った時だったでしょうか、どんな食べ物が一番好きかと質問されたことがありました。私が「冷麺が好きです。1日に3回食べても飽きないです」と答えたら、金正日は思い出すような口調で、「私の父がお前のように冷麺が大好きだった。ところで私はあまり好きではない」と答えました。Q)金正日とは平壌だけで会ったのですか?A)いいえ。あちこち回りました。地方の別荘も行ったし、狩り場も行きました。どこだか分からない別荘も多いです。学生だった時は名前を教えてくれませんでしたが、ミオクお姉さんが、「あなたが卒業して中央党で働くようになったら、ここが何処だか全て分かる」と言いました。もし、私があの時、数年後に韓国へ来る運命なのを知っていたら、1カ所ずつ全て頭の中に詳しく覚えさせたはずです。しかし、その時は知りたくても質問しなかったし、わざと憶えようともしませんでした。私は余りにも幼なかったし、何も知りませんでした。私たちが教育を受けた時、無駄な関心は持たないようにと学びました。他の所へ行く時は、大抵、金正日が行く1日前、いくら遅くても数時間前に、予め行って待っていました。別荘の話までしていたら、話があまりにも長くなってしまうので、今は話をしたくないです。多分、金正日は自分の別荘とアジトの話をすることを、1番嫌がるでしょう。Q)それでは、1番記憶が残っている別荘を1カ所だけ紹介してください。A)車に乗って、地下だけ40分間も走る別荘もありました。そこは全てのものが地下にありました。それで記憶に残っています。それは別荘とはちょっと違うようでした。地下車道は1車線で、あまり狭くもないし、広くもなくて、適当でした。 ミオクお姉さん曰く、「ここは将軍様が特別に大切にされている所で、将軍様と私たち以外には、他の人々が来ることが出来ない」と言いました。地下に各種ゲームセンター、プール、寝室、食堂などが本当に豪華に整えられていました。金正日の別荘は本当に豪華です。 その地下アジトも、そうでした。金正日が来る前日に地下プールで水泳をしましたが、幅は狭くて、長さは約50mくらいでした。珍しい点としては、プールの底にタイルで大きな金正日の絵が飾られていたことです。そして、その金正日の絵の中央部分はキラキラと黄金色に輝くタイルで作られていました。お金がすごく掛かったと思います。寝室も本当に豪華でした。Q)地下にある別荘が多いのですか?A)そうです。別荘というより、地下アジトという表現が適切です。特に平壌市内には多いです。実例としては、人民大学習堂や光復百貨店のような民間ビルの地下にも、金正日の密室があります。防音装置が徹底的にされているので、民間人は下にそのような場所があるとは、絶対に想像すら出来ないでしょう。 ところで、密室にはそのビルと連結された脱出口がありました。イラク戦争の時、フセイン宮を無差別攻撃しましたが、北朝鮮ではそのような方法は通じないでしょう。民間ビルの地下に隠れてしまったら、爆撃するのも難しいでしょう。随所にこのような秘密の隠れ場があって、地下で繋がれているので、どこに居るのか探すのは難いです。Q)そんな場所を連結する地下道は護衛局で管轄するのですか?A)はい、地下車道を専担して守る部隊がありました。そこの軍人たちは、本当に特恵を多く受けていました。実例ですが、こんなこともあると聞きました。元々、北朝鮮軍は30歳になると結婚ができます。ところが、そこの軍人たちは30歳になる前でも、一定の年齢になったら、1晩ずつ女性と過ごせると聞きました。もちろん、そのような女性たちも私たちのように5科に選ばれたのに、最終的に選ばれなかった女性たちでしょう。ですから、抜群の美人たちだと思います。彼女たちを別に教育して、ホテルにも常駐させているそうです。多分、外国から必要な人物が来たら、接待する女性だと思います。お客さんたちが来なくて待機している女性たちと軍人たちを引き合わせるのです。Q)狩り場へ行くと他の人も鉄砲を携帯するのか、教えてください。A)私たちと行く時は、いつも他の人がいませんでした。金正日が1人だけ鉄砲を携帯していました。ミオクお姉さんも鉄砲を持っていませんでした。私たちも射撃訓練はしましたが、実際に金正日の前で鉄砲を打った事はありません。護衛兵たちは遠くに離れていて、約50~100m離れた所から遠距離警護をしていました。金正日は射撃が上手でした。狩りが終わった夕方は、大抵、その日捕った雉肉で料理を作って食べましたが、その料理も開いた口が塞がらない位美味しかったです。雉肉と茸のしゃぶしゃぶ、雉の肉団子、雉饅頭といったものを主に作ってくれました。初めて狩り場へ行った時、金正日は私に名前を付けてくれました。私の元の名前が田舍臭いからと、私に「ミヒャン」という名前を付けてくれたのです。美しい「ミ(美)」と魅惑的な「ヒャン(香)」を兼ね備えたとしながら、付けてくれた名前です。その時から北朝鮮を出る日まで、私の名前は「ミヒャン」でした。私たちには中央党が発給する特殊証明書がありましたが、そこの名前も全てミヒャンになっていました。(次回に続く)
2010年01月28日
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今回の内容も前回(#3)に続き、韓国の雑誌「新東亜」に連載された金正日の「喜び組」(金正日の女性たち)の話を翻訳したものです。過去に北朝鮮を脱出して韓国に入国して韓国のマスコミで働く記者が、前職金正日の「喜び組」の女性を直接取材した内容を元に、記事を作成しました。----------------------------------------------------金正日と一緒にブルースを踊るQ)初めて会った時、あまり緊張しませんでしたか?A)ご存知のように、北朝鮮では生まれた時から偶像化教育を受けていたので、金正日は正に神さまのように思われていました。彼を見ただけで涙をこぼせる位にです。 テレビで見たら、彼に会った人は皆「マンセ(万歳)」と叫ぶじゃないですか。それで私も部屋に入って金正日を見るや否や、事前に注意を受けていたにも関わらず、「マンセ(万歳)」と呼ばなければならないのではないかと思って、不安にかられてしまいました。ところが、ミオクお姉さんとミソお姉さんが金正日と微笑み合って、握手をするではありませんか。私もお姉さんたちがしたように、とても緊張した状態でしたが握手をしました。そして私たちは6人用テーブルに座りました。金正日が真ん中に座って、その両側にミオクお姉さんとミソお姉さんが座って、私たち3人はその正面に座わりました。食事をしながらミオクお姉さんが私について説明して、ミソお姉さんがヨンミについて説明をしました。ところで金正日はそれに満足しないで、私たちに順に立ち上がって自己紹介をするように言いました。それで、震える声で自己紹介をしました。Q)その日、何を食べましたか?A)イタリア料理が出ました。ステーキとスパゲッティのようなものでした。ワインも飲みました。本当に珍しいことに、イタリア料理なのに鮫の料理も出ました。料理は本当に美味しかったです。生まれて始めて、こんなに美味しい料理を食べました。でも、私はあまりに緊張してしまい、顔も真っ直ぐに上げられないままで食事をしました。他の子たちも同じようでした。ただ、ミオクお姉さんとミソお姉さんはとても気楽に話をしていました。すると金正日はしきりに私たちに優しい声で、「もっと気楽に、ゆっくり食べなさい」と言いました。私たちの表情が硬かったので、自分も不便なようでした。Q)金正日を直接に目の前で見た感じはどうでしたか?A)以前、金日成、金正日の前で公演をした事がありましたが、その時は数10m離れていました。直接、目の前で見たら、隣の家のおじさんのように、とても平凡な印象でした。そして顔に黒いシミが沢山あって、歯は黄色で、とにかくその時まで持っていた神秘的なイメージが、大きく崩れてしまいました。ところで、本当に優しくしてくれました。それから、金正日が何か訓示のようなことを言うと、ミオクお姉さんが先に拍手をして、私たちもそれに従って拍手をしました。帰る時はプレゼントもくれました。チョコレートと中国の月餠に似たお菓子が入ったセットと一緒に、金正日の名前が刻まれた時計もくれました。金正日特有の崩し字で書かれた、自筆の筆記体が刻まれていました。実はこれは北朝鮮では、名刺時計と呼ばれていました。しかし金日成の名前が刻まれた時計は存在しても、民間には殆ど知られていませんでした。 そして2番目に会った時は、真珠のネックレスと化粧品をプレゼントにもらいました。私とヨンミだけもらって、お姉さんたちはもらいませんでした。ミオクお姉さんは金正日がプレゼントをくれそうになると、予め見当をつけて、外に出てプレゼントを持って来ました。そして金正日が私たちにそのプレゼントを渡してくれたのです。Q)2番目に会った時はどうでしたか?A)2番目会った時は食事をして、カラオケ部屋で歌も歌いました。会う回数が増えるほど、彼も次第に、自然に私たちに接するようになりました。Q)自然と言ったら、どの程度ですか?A)うーん、このような話までしなければならないのですか…おならもためらいなく出来るくらいです。初めて会ったときは、そうではありませんでした。彼のおならは「革命的」にすると表現したら、多分、適切ではないか思います。とにかくためらいがありませんでした。臭いがしても、私たちは表情を変えることも出来ないし、息はしなければならないし。それで、そのまま笑いながら…そんな感じでした。 ところで金正日の性格上、他の人々の前で、このようにためらいなくおならはしないようでした。いくら地位が高い人でも、体面というものはありますからね。私たちの前でも、初めはかなり気を付けていたようです。金正日のように無所不為(出来ないことがない)の権力を持っていても、目下の人たちの前では体面を重視するものです。Q)さっき歌を歌ったと言いましたが、カラオケの雰囲気はどうでしたか?A)私とヨンミに歌を歌わせる場のようなものでした。私とヨンミに歌を歌わせましたが、ヨンミは声楽科出身で歌が本当に上手でした。「将軍様、冷たい雪道を歩かないでください」という歌を歌いました。ヨンミは声楽を専攻した人らしく、リフレイン部分で「将軍様、将軍様」と歌う時は、涙を流しながら切実な声を出しながら歌を歌いました。それを見ながら私は、「本当に上手だから、きっと誉められるわ。私もあのように歌わなければならないのに」と心配してしまいました。 ところが、意外にも金正日は特に喜ばないで無愛想に、「上手だった。声が本当に綺麗だ」と言いました。私の順番になったのですが、私は歌はヨンミより下手なので、日本の歌の「道ずれ」を歌いました。日本語で歌ってから、北朝鮮で翻訳された歌詞でも歌いました。歌ってから金正日が、歌と私の体の動きがとても自然でよく似合っていると言いながら、もう1曲歌って見なさいと言いました。それで北朝鮮の歌を歌いました。 Q)日本の歌をためらいなく歌うとは、それでも大丈夫なのですか?日本の歌はどこで学びましたか。A)日本の歌は学校で全て学びました。日本の歌だけではなく、韓国の歌、中国の歌、ロシアの歌など、各国の歌がすべてありました。テープでこのような歌を全部聞かせてくれて、自分が気に入った曲を歌わせてくれました。学校にカラオケの施設がありました。「道ずれ」は実はミオクお姉さんが将軍様が一番好きな歌だと教えてくれたので、学んだものです。お姉さんに歌の本がありましたが、日本語が分からなかったので、日本語を韓国語で書いて覚えたのです。そこに一旦入ったら、どんな歌を歌おうと、全然構わないのです。その日は金正日も歌を歌いました。ミオクお姉さんが「将軍様も1曲お願いします」と拍手をしながら、拍子に合わせて「将軍様、将軍様」と呼んだので、私たちも皆一緒に「将軍様、将軍様」と言いながら拍手をしました。金正日が気持ち良さそうな顔で立ち上がって、歌を歌いました。ロシアの歌をロシア語で歌いましたが、ミオクお姉さん曰く、ロシアではとても有名な歌だとのことでした。金正日は音痴ではありませんでしたが、声が変だったので、上手だとは思えませんでした。彼が一番聞くのが好きな歌は日本の歌です。 私に日本の歌の「昴」を歌って見なさいと言われて、歌ったことがありましたが、「お前は『道ずれ』がもっと良く似合う」と言われました。Q)喜び組は元々、外国の歌を沢山歌うと聞いたことがあります。それで外国の歌を一生懸命に学ばせたのでしょうか?A)私たちはその後、金正日に会う時、他の人々がいる前で公演したことはありません。多分、踊ったり歌ったりする子たちは、別にいたようです。実は北朝鮮には喜び組という名前がないのです。私たちも自分たちが何と呼ばれているか、知りませんでした。マッサージをする女性も別にいました。これは聞いた話ですが、マッサージも頭を担当する子と、足を担当する子、体を担当する子が違うとのことでした。小さな失敗もあってはならないので、そのようにするとのことでした。金正日は私たち4人を、他の人々の前に公開しませんでした。必ず自分が1人でいる時に呼びました。たまに他の人がいた時もありましたが、私たちは彼が誰だか分かりませんでした。また、違う点は私たちには舞踊を集中的に教えなかったことです。もちろん私たちは芸術学校出身だったので、基本技は学んでいましたが、専門訓練は受けませんでした。その代わりに、金正日はブルースを踊るのが大好きだったので、その練習はしました。それから、ミオクお姉さんは外国語も特別に学んでいるようでした。(次回に続く)
2010年01月27日
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今回の内容も前回(#1)に続き、韓国の雑誌「新東亜」に連載された金正日の「喜び組」(金正日の女性たち)の話を翻訳したものです。過去に北朝鮮を脱出して韓国に入国して韓国のマスコミで働く記者が、前職金正日の「喜び組」の女性を直接取材した内容を元に、記事を作成しました。----------------------------------------------------Q)身分が変わったので良い部屋が待っていましたか。A)いいえ。部屋には何もありませんでした。トイレと布団だけあって、本当に何もありませんでした。とても小さな窓が1つだけありましたが、私の身長では外を見ることができませんでした。何階かも分かりませんでした。夜には外から変な鳥の鳴き声と虫の音が聞こえてきて、恐ろしかったです。人に会う時は、特定の男性が食事を運んで来る時だけでした。それさえも、何も言わないのです。そして、読むようにと、本を何冊も持って来ました。金日成、金正日労作、革命歴史など外でも読んだことがある本もあったし、小説もありました。本を読むと、必ず感想文を書かなければなりませんでした。本1冊で感想文を何種類も書きなさいと言うので、大変だったのを覚えています。本を積み上げたら、窓の外を眺めることができそうでしたが、その部屋の天井に監視カメラが付いていたので、そのようなことをしようとも思いませんでした。監獄と全く同じだったのです。 本当に息苦しかったです。他の人たちは、皆良い所に行ったと言ってくれたのに、私がどうしてこのような所に来たのか、何時までこのように暮らさなければならないのか、本当に心細くて苛立たしかったです。 私は私がスパイに育てられるのではないかとも考えました。なぜなら、私が入った学校の名前が**軍事学校だったからです。学校の名前は書かないでください。この学校の存在は、まだ外部には全く知られていないからです。私が名前を言ったら、後日、この学校出身だと嘘を言う人が出現するでしょう。 Q)監禁生活は何時まで続きましたか。A)1カ月です。1カ月位が過ぎた頃、呼び出されて、ある部屋に連れて行かれました。そこには私のように選ばれて来た女の子が、10人いました。 顔を初めて見る子もいたし、3次試験で会った子もいました。皆、全国から選ばれて来た美人たちでした。外国の女性のような顔付きの子もいました。年は私が一番幼いようでしたが、お互いに正確な年齢は分かりませんでした。お喋りをしませんから。 2年間、殆どお互い口を利かないで暮しました。それから、先輩や後輩もいないのです。学生たちが皆卒業したら、また新たに新入生を受け入れるようでした。ある幹部がこれから入学式を始めると言いながら、軍服をくれました。ネクタイもあって、人民軍協奏団の軍服に似ていました。入学式が終わってから、また、私がいた部屋に戻りました。そして生活にも変化が起こりました。Q)どんな変化がありましたか。A)まず外出が許可されました。1週間に1、2回ずつ、平壌に外出しました。外出する時は、とても素敵な服を着て出かけました。外出すると、楽しい事を見物させてくれたり、素敵な食堂へも連れて行ってくれました。私のお気に入りだった玉瑠館(オクリュウグァン)には、貴賓用の部屋が別途にあるということを、その時知りました。ヒャンマンルのような高級食堂へも行きましたが、行く前に予め部屋を全て予約してから行ったので、他の人々と会うことはありませんでした。外出する時、2~3人ずつ組分けしてから外出をしましたが、組の構成は外出する度に変わりました。先ほどお話しましたが、外出してもお互いに殆ど口を利きませんでした。特に注意を受けていたし、学校の雰囲気もそうだったので。そして1カ月くらい経ってから、写真を沢山撮影されました。中央党の写真師が撮影してくれましたが、金正日に差し出すもののようでした。その時、写真師がこれを保管しなさいと言いながら、気前よく写真を何枚かくれました。その時もらった写真を、韓国に何枚か持って来ました。Q)学校生活はどうでしたか。例えば教育課程とか。A)何をどのように学んだのか詳しく話したら、終わりがないです。勉強もしたし、射撃や水泳もしました。ビデオも見たし、芸能訓練もしたし、食事のマナーも学びました。 私がいた建物は、構造がとても複雑でした。勉強をしに行く時は、同じ階へ行く時も、エレベーターに乗って下がったり上がったりしながら行きました。一言で言って、構造が分からない迷路のようでした。実際、住んだことがない人には、絶対に想像ができなくて、その構造を描くことが出来ないでしょう。そして、防音が非常によくされていました。本当に静かでした。Q)以前ミオクお姉さんという名前を言いましたが、その人は教官ですか。A)はい。教官と言ったら教官で、先生と言ったら先生のようなお姉さんです。私たちを教えるお姉さんたちは全部で3人いました。ミオクお姉さんは、その責任者格でした。 学校生活を始めて3カ月くらい経った頃、私は他の部屋に連れて行かれました。その部屋は2階にありました。以前の部屋は建物の羽部分にありましたが、今度の部屋は建物の中心部分にありました。私が1人で使っていた部屋よりずっと大きな部屋で、家具も格段良かったです。たんすもあったし、コンピューターもありましたが、ベッドはありませんでした。退屈な時はコンピューターでゲームもしましたが、このようなゲームもありました。ゲームの名前は「将軍様を守りなさい」だったようです。敵を殺しながら、使命を遂行して、最後まで行ったら、髪の毛がチリチリでジャンパーを着てお腹の出た小さな人が出て来て、「パチ、パチ、パチ」と拍手をしながら手を振りました。誰が見てもそのキャラクターが金正日であることが分かりますね。 拍手の後に、バックミュージックに「マンセ(万歳)」という声が聞こえした。とにかくゲームまで忠誠心を呼び起こすものなのです。1990年代半ばにそのようなゲームがあったとは、多分、想像もできないと思います。Q)その部屋にも1人でいましたか。A)いいえ。私はその部屋でミオクお姉さんと一緒に生活しました。ミオクお姉さんは私と本当に似ていました。皆が姉妹のようだと言いました。背も私と殆ど同じでした。そのお姉さんは少佐でした。ところが軍服を着た姿は、見たことがありませんでした。その時から、何処かへ行く時は、何時もそのお姉さんと一緒に行きました。 教育を受けに行く時も、ミオクお姉さんが送ってくれて、連れて来てくれる時が多かったです。私の同期10人の中でお姉さんと一緒に生活していたのは、咸興(ハムン)芸術学校で声楽を専攻して選ばれたヨンミという子だけでした。Q)2人だけだったというのを、どうして知りましたか。 A)教育を受ける時、講義室には大抵私たち2人が先に行っていました。そして1~2分後に残りの8人がぞろぞろと入って来ました。教育が終わって帰る時も、私たち2人が先に帰りました。私たちは2階に住んでいましたが、他の8人は1階に住んでいました。それで嫉妬混じりの視線で良く見られました。それ以後、金正日に会う時も、いつもミオクお姉さんが同行しました。そして、ヨンミとヨンミと一緒に生活する教官のミソお姉さん、このように私たち4人で普通、金正日に会いました。もちろん、私とミオクお姉さんだけで会う時もありました。ミソお姉さんよりミオクお姉さんの格が高かったです。最終指示を下す立場にいたからです。 私たち2人だけが、特別にお姉さんたちと生活したのは、多分10人の写真を大量に撮って差し出したところ、金正日が私たち2人を最終的に選んだので、私たちだけがお姉さんたちと特別に生活したようです。Q)金正日に初めて会ったのは何時のことですか。 A)1995年の夏の暮れ頃でした。学校生活を始めて、半年位経った時でした。その中で暮らしていると、時間の概念がなくなります。それで、私も正確な日付はよく覚えていないのです。2日前にミオクお姉さんが私とヨンミを呼び出して、とても厳肅に話しました。「あなたたちは将軍様を側で補助する仕事をします」それから、沢山の注意事項を詳しく教えてくれました。まず、以前将軍様にお目に掛かった事はあるかと聞かれました。私は小さい頃公演に出て、金日成と金正日の前で公演を何回かしました。それで公演場で会った事があると答えました。しかし、ヨンミは初めてだと答えると、ヨンミに細心の注意を払うようにと言いました。注意事項としては、あまり過剰反応しないで、落ち着いて行動するようにということと、将軍様のお話が終わったら自分がするように拍手をすようにと言われたのを覚えています。その日の夜は一睡も出来ませんでした。その日から、顔のマッサージを受けたり髪の手入れをされました。当日は化粧もしました。私は10代だったので、その年に合った、さっぱりした化粧をしました。そこでは、毎朝、着る服の指示をされました。軍服を着るように言われたらその日は軍服を着て、他の服を着なさいと言われたらそれを着ます。 ところで、その日は新しい服を持って来てくれました。私のサイズは既に完璧に把握されていたので、指示さえしたら、どこからか私の体にぴったりの服を作って来てくれました。Q)どこで会いましたか?カーテンを掛けた車に乗って行ったので、正確にはどこに行ったか分かりません。地下ではありませんでした。到着して見たら、私まで合わせて5人いました。ミオクお姉さんと私、ミソお姉さんとヨンミ、そしてもう1人いました。でも、その子には一緒に来たお姉さんはいませんでした。そしてそれ以後、私たちが金正日に会う時、2度と現われませんでした。 多分、金正日が写真を見て、私たち2人以外にその子も1度会って見たいと思ったようですが、最終的に合格しなかったようです。もちろんその子の美貌も抜群だったし、どこかしら、北朝鮮の映画俳優のオ・ミランに似ている感じがする人でした。それから、その5人は服が全員違いました。多分、各々の個性に合わせて着せたようでした。ある部屋の前に着いたら、ミオクお姉さんが先に入ってから、出て来ました、そして、私たちも一緒に入りました。その場に金正日が座っていました。ある人とお茶を飲みながら話をしていましたが、私たちが入って行くと、その人は出て行きました。 (次回に続く)
2010年01月26日
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今回の内容も前回(#1)に続き、韓国の雑誌「新東亜」に連載された金正日の「喜び組」(金正日の女性たち)の話を翻訳したものです。過去に北朝鮮を脱出して韓国に入国して韓国のマスコミで働く記者が、前職金正日の「喜び組」の女性を直接取材した内容を元に、記事を作成しました。----------------------------------------------------Q)2次を通過した後はどのようにするのですか?A)2次を通過すると、家へ行って約2週間位休んでから、また呼び出されました。この時は全国から選ばれた学生たちが全て平壌に集まって、高級ホテルに泊りました。4人部屋を使いましたが、4日間は特別なことはしませんでした。 あの時のことを思い返すと、本当に面白かったです。女の子たちの間には、嫉妬と競争心がすごく強いんです。一晩中笑う訓練をする子がいたり、きゅうりパックを塗って横たわっている子がいたり、とにかく皆大騷ぎでした。パンも分けて食べないし、化粧品もお互いに分けて使わなかったです。元々、北朝鮮では学生に化粧の許可をしませんが、芸術分野で選ばれて来た学生たちだからか、抜群の美貌で注目を集めながら学校に通った学生たちだからか、化粧にはかなり慣れていたようです。当時、既にきゅうりパックをするなんて、本当に北朝鮮では誰も知らなかったことですからね。思い出に残っていることは、あの時、チキンフライが出たことです。初めて食べました。北朝鮮ではニワトリは油で揚げないのです。それで不味くて、皆、肉を全て捨てて、骨だけ食べた記憶があります。Q)最終審査はいつしましたか?A)4日位経ってから、5日目にバスに乗って、どこかへ連れて行かれました。全国から集まった学生たちが約30~40人位いましたが、男子が15人位いました。そこで試験官たちの話を聞いたのですが、1年にこんなに沢山選ばれた事はなかったと言っていました。 最終選考では身体検査はしないで、主に写真を撮られました。拡大写真、全身写真など沢山撮られました。ところで、化粧をしないようにと注意をされたのに、して来た子たちがいました。そのような学生たちは、皆顔を洗って来るように注意されました。そして、また1人ずつ得意なことは何かと質問されたり、して見なさいと言われたりしました。この最終選考を統括する女性がいました。黒い乗用車に乗って来ましたが、真黒いサングラスを掛けて、真黒い皮のジャンパーに、膝まで来る真黒いブーツを履いていました。この若い女性の前では、他の年上の人々がペコペコしていました。Q)最後選考でも脱落者が出るのですか?A)当たり前です。しかし誰が落ちるかは分かりません。試験が終わると、家へ帰りました。そして、4日位してから、中央党からベンツが家へ来ました。他の人々が見ないように、夜来ました。そして両親に、娘を祖国の為の重要な仕事が出来るように、立派に育ててくれて感謝するという内容が書かれた感謝状が与えられました。特別な点は、お金をくれたことです。当時の労働者の月給と比べると巨額でした。しかし、その時は物価があまりにも上がってしまっていて、市場価値では巨額と考えることは出来ませんでしたが。 Q)どこに連れて行かれましたか?A)私はそこが何処か、よく分からないのです。ある部屋に入ったら、背広を着てお腹の出た男性が座っていました。そして、机の上に大きな本が置かれていました。大きさはこれくらいで(彼女が描いた絵を見たところ、長さが約70cm、幅が50cm位の大型サイズだった)、表紙は濃いえんじ色で金縁が付いていました。 表紙には「朝鮮労働党中央委員会5科委員会」と書かれていて、その横に何かの数字が書かれていました。私たちの番号ではないかと思います。私のページが開けられていましたが、1人当たり3ページ位ありました。最初のページには私の名前、両親の名前、家族構成、学校の評価、成績などの個人的な事項が書かれていました。3ページ目には、これまでの3次試験までの評価と身体検査の結果などが書かれているようでした。2ページ目を開けたら1番上に「この同士は**学校を卒業して、党と首領の配慮」で始まる文がありましたが、その文を中央党幹部が直接読んでくれました。その文の下に写真が5枚位が貼られていました。それまでの試験で撮られた写真でしたが、正面、側面と多様な角度の写真が上に貼られていて、全身写真は1番目の写真の下にありました。写真を貼った余白に、言われた通りに文を書きなさいと言われました。 軍人宣誓に似ている忠誠の誓いでした。ところで、北朝鮮でこのような宣誓には、必ず金日成の名前が入っていますが、この宣誓には金日成の名前が入っていなかったのが、ちょっと違う点でした。文を綺麗に丁寧に書くようにと、何度も強調されたのを憶えています。多分、金正日に差し出される本だったのでしょう。全部書いてから、下に血書きをするように言われました。Q)血書きまで書くように言われたのですが?生まれて初めて血書きを書いたので、あの時の記憶は生々しいです。初めは血書きを書かなければならないとは言わないで、幹部が先にこのように質問しました。「手で一番大切な指はどれか。もし指を1本だけ残すとしたら、どの指を残したいか」本当に、最終選考まで来たら、幹部の言葉使いも丁寧になりますね。あの時は、私はこれもテストの1部だと思っていたので、しばらく考え込んでしまいました。1番先に、薬指を除いて、そして次は中指を除きました。そして親指と人差し指、小指の間でしばらく悩みました。小指を除きたかったんですが、それがなかったら耳をほることができないと急に考えたのです(笑い)。結局、小指も除きました。記者さんは親指と人差し指のどれを選びますか。(私ですか。うーん…私は人差し指を選びますね。)そうです。私も結局、人差し指を選びました。すると、手のひら位の長さのナイフを消毒綿で拭いてから、私にくれたのです。このナイフで血書きを書くようにとのことだったのです。そのナイフはとても素敵なものでした。北朝鮮のものではなく輸入品でしたが、折り畳んだり開いたりできて、切れ味も良くてとても派手なものでした。その時までは、私はナイフで指を切るということは想像すらできませんでした。でも、雰囲気が雰囲気だったので、薬指をナイフで切りました。でも、血が少ししか出ませんでした。もう1回するようにと言われて、目をつぶって歯を食いしばって、心の中で「お母さん」と叫びながら、もう1回切りました。そして、その幹部が言うとおりに「忠誠に服務する」という7文字を書いたのです。その次に幹部が、その下に何かの判子をポンと押しました。Q)血書きを書いてから、全く違った生活が待っていましたか?A)血書きを書いた後にベンツに乗せられて、どこかに連れて行かれました。運転手が前にいて、後部座席に私と案内人が一緒に乗っていました。運転席と後部座席の間にはレースが付いたカーテンが掛けられていました。そして側面にも、全てカーテンが掛けられていました。ですから、外を見ることも出来ないし、運転手が私の顔を見ることも出来ない構造でした。もちろんカーテンは開けたり閉めたり出来ますが、許可なくそうすることはできないでしょう。私はその後も車に沢山乗りましたが、私が乗ったベンツは、殆ど全てカーテンが掛けられていました。もちろんカーテンの色と厚さは、車毎に違います。外国の首脳が北朝鮮を訪問すると、リムジンに乗るじゃないですか。そのリムジンにも乗ったことがあります。ベンツの止まった所は、平壌の郊外でした。山に囲まれていて、外からは見えない所でした。静かな郊外で木に囲まれた所に、3階建ての建物が1棟ありました。後に教育を受けて知ったのですが、地下にも3つの階がありました。建物の形は 万景台(マンギョンデ)学生少年宮殿のような丸い半円型でした。その真ん中に金正日の銅像があって、その下に学校の名前が刻まれた大理石の版がありました。金正日の銅像は生まれて初めて見ました。建物の長さは100m以上でした。その時はそれが何の建物か分かりませんでしたが、今考えてみたら、中央党5科の建物のようです。到着するや否や、私をある部屋に連れて行きました。これから暮らす所だと言っていました。 (次回に続く)
2010年01月25日
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今回の内容は、韓国の雑誌「新東亜」に連載された金正日の「喜び組」(金正日の女性たち)の話を翻訳したものです。北朝鮮を脱出して韓国に入国して韓国のマスコミで働く記者が、前職金正日の「喜び組」の女性を直接取材した内容を元に、記事を作成しました。----------------------------------------------------彼女に北朝鮮の金正日国防委員長と関わる過去があるという事実を知ったのは、かなり以前のことだった。金正日の「喜び組」の一員だったと主張する女性は、以前から多くいたし、新たに入国した脱北者の中にも、自分が「喜び組」だったと主張する女性たちはいるが、偽物と本物を区分するのは非常に難しい。しかし、いくら本で読んだ内容を自分の経験のように話しても、自分が知らなかったり経験していなかったら、そのような話は少し聞いただけで、すぐにばれてしまう。また、もう一つ。特にこのような主張には、ただの1カ所も手をつけた形跡がない自然の美貌としなやかな体つきと魅力といった、決定的な「証拠」がなければならない。彼女がそうである。彼女は現代医学の恵沢とは無縁の美人である。北朝鮮で中央党所属の写真師が撮影してくれたという10代の時の写真の中の彼女は、もっと美しかった。彼女はこれまで、めったに口を開かなかった。しかし、金正日の重病説が報道された今年の初めから、心境の変化が起きたようである。この記事は彼女との数回のインタビューを通じて整理した内容である。金正日の私生活は、常に好奇心を刺激する素材だが、多くの部分がベールに包まれている。この記事は彼の私生活の一部に過ぎない。そして彼女の願いに沿って、わざと書かなかった話がもっと多い。 Q)今まで私に金正日と関係があったという事実は隠さなかったのに、敢えて記事にすることを避けてきた理由は何ですか?A)理由を敢えて挙げるとしたら、沢山あります。まずは金正日の「喜び組」にいたと、後ろ指を指されるのが嫌だったからです。人々が、まるで私を金正日のオモチャだったように見るかと、心配で恐ろしかったのです。私は金正日と2年近く一緒にいましたが、彼と寝たことはありません。そして、実は北朝鮮には「喜び組」とか「満足組」という言葉さえありません。ここで全て名前を付けたものなのです。そして、私の身の上に金正日の側にこれ以上いるのが困難な出来事が起こった時、彼は私を特別に生かしてあげるようにという指示を下したとのことです。元々、私のように彼の側で多くのことを見て聞いた人は、生きてそこを出るのが難しいのです。金正日が私に慈悲を施してくれたおかげで、私の命は繋がったと見ることもできます。韓国に入国して調査を受けた時、過去の経歴を隠したことも、理由といったら理由になりますね。金正日との話は全て隠して、平凡に生きて来たように話したのです。以前、偶然海外のマスコミに一度出演した事があります。その国の言葉が分からなくて、そこでどのように紹介されたか分かりません。 後に一度、事実を歪曲した記事が出て抗議したら、「それじゃ、訴訟しなさい。ここは外国だから、勝とうとしたら、多分、数十年は掛かりますね」と言うのです。本当に頭に来ました。そんな体験を通じて、マスコミ嫌いになったようです。Q)では、今はマスコミに出ても良いのですか?A)いつも記事を書きたがっていたじゃないですか。私が結局、降伏したのです。(笑い) これは冗談です。代わりに、あまり問い詰めないでください。実際、これが国家のための重要な情報でもないし、ただ人々の好奇心を満足させるためのものに過ぎないでしょう。私が実は口を割る必要もないのです。どうせ、今も全部は話したくないです。ただ、金正日が病気に掛かって痩せ衰えた姿を見ていたら、人生無常という言葉が思い浮かびました。どうせ彼が死んだ後に全て公開されることなのだから、今言っても言わなくても、とにかく私はまだよく分からないのです。私の話が誰の役に立つかも…。それから今は時間も沢山経ちましたから。私が金正日の側を去った時から、もう12年も経ったのです。10年経ったら江山も変わると言うじゃないですか。Q)金正日の側にどのようにして行くことになったのですか?A)私の意志ではないです。北朝鮮では、毎年、中央党の幹部たちが全国の学校を回って、学生たちを選抜します。多分、脱北者たちは皆知っていると思います。これを5科に選ばれると言います。5科については、これ以上話すのはやめます。私もそこで選ばれたのです。 5科対象者の選抜は毎年されますが、中央党の幹部たちが1回学校を回る度に、3つの学年の学生たちを調査して選びます。私は平壌で生まれて、芸術関連の特殊目的高等学校に通いました。私の学校には美貌の学生たちが沢山いました。Q)初めはどのように選ばれるのですか?A)私が5年生の時、授業時間に40代位の中央党の男女幹部が入って来ました。 「お前、お前、そこに立ちなさい」と言いながら、一旦、何人か選んだ後、選ばれなかった学生たちをゆっくりと見回しました。もしかして見落とした学生がいるかもしれないからです。その次に自分たちが選んだ学生たちを相手に、沢山の課題をさせます。「何が上手か、して見なさい」とか、「一番可愛くない顔をして見なさい」といった具合ですが、見ながら彼らもクスクスと笑ったりします。中央党幹部の前に立っているので緊張するうえに、本当に難しかったり滑稽な課題をさせる時もあるので、おしっこを漏らしてしまう学生も時々います。私には踊って見なさいと言ってから、一番綺麗な顔をして見なさいと言いました。このようにして選ばれた学生たちを、教務室に呼びます。教務室へ行って、両親の名前、家族構成、担任の先生の名前などを全て記録します。その場でその中年男性が何と言うかというと、「お前、男と寝たか。寝たことはないか?」こんな質問をするんです。その時、私が満15歳位だったので、どんなに恥ずかしかったか…。そして選んだ学生たちを病院に連れて行って、健康診断をします。病気がないかどうか検査します。このようにして最終的に選ばれた学生が、私の学校には15人位いました。そして私たちにしっかりと振舞って、男性と恋愛してはいけないと言ってから帰って行きました。5科対象者に選ばれたので、その後、先生たちは「あの子たちは5科に行く学生たち」と言いながら、授業に参加しなくても何も言わなくなるし、とにかく誰も私たちに干渉しなくなりました。 Q)選抜手続きはそのように簡単なのですか?A)当然、そうではないです。1年後、ですから卒業の数カ月前に、中央からとても素敵な病院の車が来ました。今度の検査は、本当に詳細にされました。そして2番目の検査で私の学校から、たった3人だけが選ばれました。でも、かえって1次検査で落ちたほうがよいです。2次検査で落ちたら、男性と寝たから落ちたと、他の友達から後ろ指を指されます。それから女子だけ選ぶのではなく、男子も選びます。Q)男子は主にどんな所に使われるのですか?A)男子も選ばれて上に上がると、部類が分かれます。親衛隊に行く学生もいるし、金正日の狩り場へ行って、10年間秘密裏に豆農業だけして帰ってきた学生もいます。狩り場に雉が沢山集まるように、豆農業をさせて、収穫しないで、そのまま捨て置くのです。5科に行ったら、休暇もないし、手紙も家に送れなくなります。初めから10年間は家族と断絶させるのです。そうとは知らないで、親は息子が5科に選ばれて行って、素晴らしい働きをすると自慢をします。豆農業だけではなく、豚の飼育をさせる5科もあるし、果樹を育てる5科もあります。とにかく、健康で若い学生たちを選んで、金正日と中央党幹部たちの世話をさせるのです。Q)一番重要なことは何ですか?A)顔と性格、心がけを一番重要視します。内向的な性格ではあまり選ばれません。最終審査まで行ったら、写真を正面、側面、後面と多様な角度から本当に沢山撮影します。検査をする時、定規を持ってきて、顔の比例を測り、撮影した写真を拡大して定規で測るなど、何回も顔を測って、目の長さはどれくらいで、口と顎との間隔はどれくらいで、ということも精密に記録します。背は158~165cmの間で選びます。私の場合は当時158cmでしたが、身体検査をした人たちが「丁度2cm足りない」としながら、「家へ帰って親に手足を引っ張ってもらって、ぐいぐいと伸ばして欲しいと言いなさい」と冗談交じりに言いました。それから「まだ17歳だから、もうちょっと大きくなるだろう」と彼ら同士話していました。最終的に選ばれた女子たちは、全部で10人でしたが、私の背が一番小さかったです。私と背の高さが同じ子が一人いましたが、残りは私より大きかったです。ただ165cm以上は選びません。金正日の背が小さいからです。声が低かったり、ハスキーだったりしても選ばれません。そして体に傷跡や染みがあってもいけないのです。私の場合、最終段階で幼い頃に転んで腕に出来た傷跡のために、本当に悩んでいました(彼女の腕には、本当に注意しないと見えない、約1cm位の傷跡があった)。それで私をキム・マンユ病院と烽火(ボンファ)診療所に連れて行きました。年をとった医者に会わせて、あれこれ質問していましたが、とにかく手術はしないという結論が出たようです。 「久しぶりにゴミから真珠を選んだのに、たった2つ(背と傷跡)引っかかる」と言いながら、大変残念がりました。とにかく私は1、2次試験には合格しました。そして平壌では全国から集められた女子たちを比較、最終選抜する3次関門が残っていました。」(続く)
2010年01月21日
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**この記事は、韓国のインターネットサイトであるブレイク・ニュース・コラム(www.breaknews.com)に掲載されたものを翻訳したものです。北朝鮮が今年1月15日、最高権力機関である国防委員会(委員長:金正日)で韓国を攻撃すると発表した声明に対して、韓国のマスコミが論評した資料です。北朝鮮の金正日政権が、もう1回、狂った姿を見せた。1月15日の最高権力機関である国防委員会の報道官の声明は初めての形式であり、韓国の「北朝鮮急変事態への対備計画」に対する「報復聖戦」という詭弁の下、韓国の主要政府機関を攻撃すると脅迫したものである。今年1月1日の新年共同社説で、国際社会との積極的な対話の意志を見せた後、11日の平和協定停戦当事者会談の提起、14日の金剛山及び開城観光実務接触の提案、15日のトウモロコシ1万t対北朝鮮支援の受け入れなど、何時になく韓国に対する友好的な態度を見せて来た点を考慮して見たら、どうにも理解が出来ない行動である。しかし、今更のように混乱することはない。これが即ち、北朝鮮の金正日政権の限界という点を、再確認するだけである。 金正日自ら、金日成の時からの人民に対してしてきた「コメのご飯に肉汁の保障」という約束を守ることができなかったことを終に打ち明けた。食糧難が体制の崩壊をもたらすというのが自分診断であり、それが強迫観念になってしまったことは現実である。 また、韓国との対話再開を通じた対北朝鮮支援協力獲得と、南北協力を通じたアメリカなどの国際社会との関係改善だけが救命の道であることを認識していることを見せている。しかし、未だに韓国との対話で脅迫戦術を一緒に使おうとしている。今回、北朝鮮が問題としているのは、韓国のマスコミによって既に明かされた「急変事態への対備計画」である。これは目新しいことではなく、韓国を攻撃するという理由にもなっていない。北朝鮮は既に、以前にも同様な主旨の内容である「作計5027」とか「作計5029」に対しても、数え切れないくらい問題を提起して来た。そのような中でも、彼らは自分たちが必要な場合は対話と交流を拡大させて来たし、最高当局者同士の首脳会談だけも2回も成功させて来た。 また、韓国の急変事態計画というものが、すぐに金正日とその体制を攻撃するというものではなく、北朝鮮が自ら崩壊する時の状況に備えて、必要な措置を準備するというものである。北朝鮮が自ら崩壊した場合、韓国をはじめとする中国、日本などの周辺国に及ぼす影響が大きいというのは明らかだからである。実は、このような計画は当然立てるべきものであるし、日本や中国にも確かにこれと同様な計画があるはずである。 従って、この件に関連する脅威は、北朝鮮の金正日と軍部がまだ外部に対して武力を行使する意図が明確にあるということである。そして、愚かな自分たちの存在を浮上させているのである。北朝鮮の今回の国防委声明は、金正日政権が最近切実に望んできた南北関係改善の動きに、韓国が積極的に呼応してくれることを、強く圧迫する次元であることを見せている。 1人統治体制の核心である金正日が委員長として、国防及び対外政策を統括する最高権力機関である国防委員会が、初めてこの事に関与したのが、その証拠である。 また今回の声明は、今後、韓国とアメリカをはじめとする国際社会との交渉で、イニシアチブを握ろうという考えから出されたもののように見られる。韓半島の平和と安定を保障するための対話を挙論しながらも、今後、6カ国協議やアメリカとの平和協定議論過程などで韓国を徹底的に排除するという発言で韓国を圧迫したことも、そのような論点から出されたものである。今回の声明が、北朝鮮の人民は聞くことができない対外用の朝鮮中央通信と平壌放送などのマスメディアだけに流されたという点も、また同様な隠された本心を指摘している。韓国に対する脅迫も、北朝鮮人民たちには秘密裏にしているということは、示唆する点が大きい。北朝鮮政権はこれ以上、浅知恵を使わず、率直に国際社会に真摯な対話と交流協力の再開と拡大を要請して行かなければならない。 他国の有事の際の計画に対して心配するということ事態が、笑止千万な事である。既に北朝鮮のこのような脅迫に国際社会は慣れている。また、北朝鮮の本音も国際社会は、ある程度は既に見通している。韓国政府は北朝鮮の同じような宣戦布告にも決して動揺せずに、静かに毅然とした立場を維持しなければならない。北朝鮮がドルを儲けるために切実に望む金剛山観光事業の再開要求とトウモロコシ支援問題も、原則通りに対応しなければならない。 今回の声明は、北朝鮮の金正日体制の限界を正確に見せてくれた。そして隣国の危機事態への準備にも脅威を感じるほど、体制が不安定であることを証明してくれた。従って、遠くない未来に亡びるしかないことが、北朝鮮の現実なのである。
2010年01月19日
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1.北朝鮮の工場と農場の管理幹部たちには、共通の問題がある。社会と経済が不確実になった原因の一つであるその問題とは、人々が言う事を聞かないということである。それは、今の北朝鮮の労働者農民たちが、以前のように馬鹿ではないということを意味する。北朝鮮経済の生産単位である工場管理幹部、農場管理委員長たちと話をして見ると、彼らが泣きっ面をしながら一様に言うことは、今や、人々に対する統制手段がないということである。 北朝鮮の統制手段というのは、物質的刺激と精神的刺激である。それを適度に混ぜ合わせて適用して、人々を拘束して置くのだが、以前の金正日政権は住民統制と管理方法として、精神的な刺激を多く利用した。実例としては、金日成・金正日親子は、北朝鮮の社会を基本階級と改造対象に分類して置いて、人々が基本階級に執着するようにした。北朝鮮では基本階級と改造対象の差別が激しかった。同じ罪を犯しても、基本階級は許されるが、改造対象は許されることがない。 基本階級強調の効果として、以前の北朝鮮の社会では、労働党入党運動が超人間的に展開された。もちろん、「忠誠心」が労働党入党の前提だが、住民の間では、労働党入党が優劣を評価する実力戦だった。力が強い人は力で、技術のある人は技術で、お金のある人はお金で、甚だしくは女性達は党幹部たちに性を捧げたりもした。昔の北朝鮮社会で、党員証は人々の未来を保障する保証小切手のようなものだった。 北朝鮮の社会で熱狂的な入党運動が盛んだった頃が、金正日政権の全盛期だったと言える。人々は党員になる為に、犠牲と献身を厭わなかったし、金正日政権はそれを利用して、政治的、経済的な「成果」を収めた。北朝鮮の社会で狂信的に「党員になること」が消えたのは、90年代半ば、多の人々が飢え死にした大餓死時代だった。生きていくのが大変な人々にとって、「党員になろうとする努力」は贅沢なことだったし、その上、その時期の政権と労働党に対する人々の不信と不満は、極致に達していた。その時期、普通の人なら誰でも、金正日と労働党の実体を疑わざるを得なかった。 北朝鮮の社会で、偶像のような絶対的な実体として君臨した金正日政権は、90年代半ばから、北朝鮮住民たちの認識の中で、絶対的ではなく相対的な実体へと下落し始めた。徹底的に集団主義的だった北朝鮮の社会は、終に個人的な性向へと変換して行った。金正日にとって各機関を通じた強力な住民弾圧も、自らの重要な生存カードだったが、それも万能ではなかった。弾圧を強化するほど住民たちはそれに反射的な適応を示した。ここで言う「反射的な適応」というのは、金正日政権が強力な弾圧をしても、人々は萎縮しないということである。弾圧に相応した人々の対備策も、正比例して整えられるということである。 金正日政権は酷いが、それに対応する住民たちも酷くなった。今、北朝鮮住民たちは体制の機関を対象に、嘘をたくさん言う。簡単に言ったら、しっかりと2つの目で見ながら追求しても、住民たちは「違う」と主張する。一言で言って、金正日政権立場から見ると、北朝鮮住民たちは言葉が通じない人々になってしまったのである。本当に政権の統治が、限界点、終着点に至ったと考えなければならないだろう。 2.金正日政権が以前、政治犯収容所を利用した残忍な人権染躪で体制を維持していたが、それも今は限界点に到達した。政治犯収容所は対外的に、多くの非難を浴びる反作用の実体でもあるが、対内的にも多くの副作用を生む。北朝鮮でも住民たちの反金正日感情の理由の一つが、金正日が政治犯収容所を作って、人権染躪を日常茶飯事のようにするということである。金正日政権も政治犯収容所と残忍な人権染躪が、自分たちのイメージを悪化させているということを知っている。 今、金正日政権は人々を捕まえて、政治犯収容所に送る問題について、かなり慎重になった。何年か前だったら、絶対に政治犯収容所に送られたような人々も、今は労働教化所に行かせたりする。特に、政治犯収容所に人々を捕まえて送る作業は、必ず夜中、速かに、隣人も分からない内に進められたが、それは金正日政権も住民たちの視線を意識していたということを物語っている。それに、北朝鮮住民全てを政治犯収容所に閉じ込めることはできない。 3.北朝鮮体制は、世界で最も強い独裁体制であると同時に、最も腐敗して、無政府的な政権である。金正日政権が腐敗して無政府的な政権になった理由は簡単である。それは、金日成・金正日親子が北朝鮮の社会で、権力を絶対的なものに作り上げたからである。批判勢力や相対的な勢力が排除された絶対権力は、腐敗するしかない。今、北朝鮮の社会で権力階層は、住民たちの糾弾の対象である。 金正日政権が幹部階層を管理する方法も異常である。金正日は幹部階層を一般住民と区別して、特別な待遇をする方法で管理する。これは、彼らを特別待遇しなかったら、その内、取り返しがつかない瓦解の群れに変貌するということを物語っているからである。脱北者たちが以前の韓国の対北朝鮮政策を非難する理由が、ここにある。韓国の莫大な対北朝鮮支援が、北朝鮮では金正日政権が「自分の階層」を特別待遇する資金として活用されたからである。 4.金正日政権の今回の貨幤改革は、手中に握られた最後のカードである。北朝鮮の社会で今回進められた貨幤改革の話は、10年前から提起されていた。前代未聞の貧困と共に、北朝鮮社会が崩壊しながらその過程に発生したことが「非社会主義」である。非社会主義というのは、一言で言って、資本主義的な生活方式である。90年代末から、北朝鮮の社会には極端な貧富の差が現われ始めたが、ここで金持ちは、資本主義的な生活方式を素早く取り入れた非社会主義者たちであった。 当時、体制に忠誠するいわゆる社会主義者たちは、北朝鮮社会の崩壊を心配して、収拾方法として貨幤改革を挙論したりもした。彼らはロシアの貨幤改革を模倣しなければならないと主張したりした。彼ら(彼らの言葉を全て信じることは出来ないが)によると、ロシアで当時、共産党の書記だったエリツィンは、貨幤の価値を下落させる方法として、社会の不安定と貧富の差を牽制したと言うのである。元来、10ウォンだった労働者たちの月給を100万ウォンにあげる方法で、何年間もお金を蓄えた新興金持ちたちの100万ウォンを、労働者たちの1カ月の月給価値に切り下げたことが、ロシアでエリツィンが行った貨幤改革だと言う。 北朝鮮で今回進められた貨幤改革は、10年前に狂信的な忠誠主義者たちが挙論した貨幤改革の主張と、完全に一致する。貨幤改革の時期がなぜ今なのかというのが疑問なだけで、貨幤改革は金正日政権がかなり以前から準備してきたカードだというのである。金正日政権の立場から見たら、今回の貨幤改革は大きな効果を期待した決定的なカードだった。ところが貨幤改革を施行した後の北朝鮮社会は、混乱だけが増加している。貨幤改革が起こした混乱を解決するカードが必要だが、現在の金正日政権にはそれがない。 今、金正日政権には手中のカードがない。今後、カードを新たに作らなければならないのだが、その新しいカードというのが外部からの支援と言える。中国、アメリカ、韓国から支援を貰って、それで体制安定用カードを作らなければならないのが、今の金正日の境遇である。最近、金正日の訪中説が流れているが、それも金正日の新しいカード作りだと言える。
2010年01月15日
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クォン・ヨンギョン(統一教育院教授)北朝鮮は現在、第2次核実験とその後の挑発行為によって、2006年の1718号制裁措置よりずっと強力で全方位的なUN安保理1874号制裁を受けている。即ち、商業的、人道的目的以外の全ての不確かな国際取り引き及び金融取り引きに対して制裁を受けているし、甚だしくは禁輸対象の兵器及び物品を積んでいると「疑わしい」北朝鮮の船舶も、検閲を受けなければならない。核開発と係わっていると判断された企業や人物の対外金融取り引きも遮断されている。ある研究所の調査によると、この措置が実質的に適用された場合、北朝鮮は最低で15~20億ドル、最高で32~37億ドルの経済的損失を受けることになり、これは北朝鮮の対外貿易の40~78.8%に相当する規模になるはずだと言う。 北朝鮮のような小規模経済にとって、これは少なくない規模であるが、まだ現象的に北朝鮮経済に深刻で否定的な影響を与えているとは観察されていない。その理由は幾つか考えられる。まず第1に、商業的目的の対外貿易や人道的次元の経済開発支援などを除外しても、北朝鮮の対外貿易の70%以上を占める北朝鮮-中国間の交易関係が正常に維持されているからである。中国は1874号制裁に賛同はしているが、正常な交易は続けていくと宣言した。それで、北朝鮮-中国間の交易は以前と比べて実物量では大きな変化がなく、単に原油輸入単価の下落のため、去年より2.5%位だけ減少したと推計されている。第2に、1874号制裁措置は北朝鮮の軍経済及び党経済部門に直接的な影響を与える措置なので、時間の経過と共に、次第にその波及効果が現われと期待されるからである。北朝鮮経済は、軍経済、党経済、人民経済に3分割されている経済構造であり、軍経済、党経済は人民経済に寄生する形態で存在している。すなわち、軍経済、党経済の海外市場が行き詰っても、短期的に自生的市場に基礎を置いた人民経済からの余剰移転により、堪えられる可能性があるというのである。 しかし時間が経過したら、1874号制裁は北朝鮮経済全般に打撃を与えるだろうと予測される。核兵器開発に関わる企業、人物に対する金融制裁が、結局、商業取り引きにまで影響を与えるしかないということを、2005年のBDA事態が証明しているからである。実際、最近その影響が少しずつ現われる兆候が見えている。民間団体による対北朝鮮情報によると、北朝鮮の貨幤改革以降も、ドル対比北朝鮮ウォン貨の為替は上昇し続けているし、ブルームバーグ通信は北朝鮮-中国間交易のバロメーターである中国・丹東(タンドン)-北朝鮮間の物流移動が、目立って減少していると伝えている。2005年以降、急激に増加した中国民間企業の対北朝鮮投資も減少しているし、その他の国家との経済協力も、エジプト・オラスコム社の移動通信投資を除き、実質的な投資者はほとんど存在しないと把握される。韓国との経済協力も減少し続けている。その上、人民経済の主要基盤である市場経済も、復古的努力の動員運動である「150日闘争」によって萎縮してしまい、貨幤改革以降は麻痺状態に陥ってしまった。北朝鮮は「どのような制裁でも私たちは大丈夫だ」と公言しているが、内部的には時間が経過するに従って、彼らの主張どおりに2012年「強勢大国の門を開き難い状況」になりつつあるようである。金正日が6月25日、党、軍隊、経済幹部たちを集めて、「上からはして上げられないから、自力更正するように」という主旨の経済談話を発表したと言うが、これに対する反証ではないだろうか。 2009年8月25日付けの米議会報告書では、核保有と強力な経済建設を同時に追求する北朝鮮の政策を「経済的災難政策」と指摘している。北朝鮮は今、待望の2012年を前に、住民たちにもう少しだけ忍耐するように要求している。しかし、国際社会は過去20年間の教訓により、挑発-経済的保障の繰り返し的交換モデルを、これ以上維持してはならないという意志を前例なく強く持っている。北朝鮮は今や、核を放棄すると決意さえしたら、住民生活を画期的に向上させる国際協力をしてあげるという提案を、積極的に受け入れなければならないということを、悟らなければならないだろう。
2010年01月14日
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北朝鮮の金正日が、「コメのご飯に肉汁を食べて、絹の服を着て、瓦屋根の家に住めるようにする」とした金日成の遺訓を貫徹することができなかったことを是認したと、9日付けの労働新聞が伝えた。金正日は去年、現地指導で、「政治思想的な面からは言うまでもなく、軍事的な面からも、強国の地位を築き上げたが、人民生活では成し遂げられなかったことが少なくない」としながら、このように語ったと言う。 北朝鮮の生活が困難になったのは、昨日、今日に始まった事ではない。沢山の脱北者、又は彼らが伝える北朝鮮住民の惨状は、聞き者も辛くなる程である。対岸の中国を放浪しながら物乞いをする子供(コッチェビ)たちや、飢えに耐え切れなくて市場で幼い娘を売ろうとした親の話が特にそうである。社会主義計画経済の破綻が生んだ悲劇により、最近は貨幤改革を断行して自生的に芽生えつつあった市場経済の芽まで摘み取ってしまい、住民たちの苦難だけが広まっている。 金正日はまた、最短期間で人民生活の問題を解決して、人民たちが楽に暮らせるようにすると強調したと言う。しかし今の体制では、住民たちがコメのご飯と肉汁を食べられる日は、決して来ることがないだろう。過度な軍事予算、日増しに落ちる農業生産性、核兵器の開発が招来した国際制裁など、北朝鮮が処した内外条件のどれ1つとして有利なものはない。北朝鮮が去年、アメリカに特使派遣を要請し、韓国との首脳会談開催に積極的に取り組み、年頭から中国訪問説を提起するのも、このような事情とは無関係ではない。 北朝鮮が今のように核兵器の開発に固執する限り、国際社会が援助してくれる余地はますます少なくなる。世界食糧計画(WFP)が北朝鮮脆弱階層に食糧を供給しようという緊急救護事業資金も、国際社会の無視により余り集まってはいない。去年の末までに集められた8,988万ドルは目標額の18%に過ぎず、それさえも他の使用可能な資金を合計した金額であり、北朝鮮を受恵国として指定した金額は2,181万ドルに過ぎない。コメのご飯と肉汁をと訴えるのではなく、今すぐに住民を飢えさせない為には、外国からの援助を受け入れる道以外に方法はない。金正日が本当に住民生活を気遣っているのなら、国際社会からの要請を受け入れて、核兵器を放棄しなければならない。
2010年01月13日
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外貨使用中断・賃上げ・市場閉鎖など「経済原理が理解出来ないのではないか」という憂慮も去年11月末の貨幤改革以降、北朝鮮が「してはならない経済措置」を相次いで発表している。これによって、本来の貨幤改革の目的を果たすのも難しく、社会の統制力を掌握することもできない、失敗の為の貨幤改革に全力疾走しているようだという憂慮が、国際シンクタンクを中心に提示されている。 ◆市場勢力の資金を奪うことだけに没頭=6日で北朝鮮が貨幤改革を施行してから正確に1カ月が経過した。北朝鮮政府は去年11月30日、電撃的に貨幤改革を実施した後、12月6日までに旧貨幣と新貨幣の交換を終えるようにと指示した。 しかし、ピーターソン国際経済研究所は6日、『彼らの不満で一杯の冬:平壌、市場を攻撃する』という報告書の中で、△経済の沈滞△高騰する物価△慢性的な食糧不足の中、どれにも効率的に対応することができないだろうと予測した。 普通、貨幤改革は△施行日程を予め公開して△交換に充分な時間を与えて△1人当りの交換率に限度を決めないのが一般的である。最近、貨幤改革を断行したガーナの場合、7カ月前から貨幤改革を公示して、新・旧貨幣の交換に6カ月の期限を与えた。 しかし、北朝鮮は11月30日の施行前日、党・指導細胞を集めて指針を下した後、次の日、電撃的に施行した上、新貨幣の交換期間を1週間しか与えなかった。世帯当り10万ウォンという上限も決めた。公式月給が1人当り4,000~10,000ウォンである点を考慮したら、1人当たり2~3カ月分の生活費水準。しかし、市場価格から計算したら、10万ウォンはコメ60kgも買えない価格である(コメ1kg=1,700ウォン内外)。闇市場のドル価格にしたら、30ドルほどになる(1ドル=3,500ウォン内外)。 貨幤改革の勝敗は、どれ位経済がうまく作動するかに掛かっていた。しかし、北朝鮮政府は「市場勢力の資金を奪う」事だけに集中しただけで、後続措置や影響を考慮しなかったように見られる。一部専門家たちの間からは、「北朝鮮が経済原理をよく理解できないままで貨幤改革を施行したのではないか」という分析が提示されている。 北朝鮮経済が市場に依存するようになったのは、1990年代「苦難の行軍」を経て、公共領域が生存を保障してあげられなくなったからである。公共経済が崩壊して、「下からの市場化」が自発的に施行されたのである。 このような状況を反映して北朝鮮は、2002年に「7・1措置」を施行するなど、市場経済的な要素を取り入れた。しかしながら、2002年以降、ドルに対する北朝鮮ウォンの価値は、毎月7~9%ずつ低下して行った。年率を基準にすると130~140%にもなる。年平均100%を超えるインフレーションを経験したという話である。 このような状況の中、北朝鮮は2005年から市場措置を元に戻し始める。経済の悪化によってインフレが発生する中、更に物資不足を加速化させる政策を執ったのである。公共配給制を開始し、市場で穀物取り引きを中断させた。2007年(40歳以下の女性による市場活動の禁止)、2008年(市場の取り締まり、10日市措置)、2009年(ピョンソン市場-最大規模の卸し売り市場-閉鎖)といった反市場措置が続いた。 ◆金正日訪中・社会統制強化の不可欠論=今回の貨幤改革も同じである。 既に北朝鮮経済の相当部分を市場が引き受けているし、全ての財貨が公共領域に戻る可能性がない状況でも、「市場の弱体化」だけが続けられている。 旧貨幣の使用可能期間を6日に制限すると発表するや否や、誰もが品物の購入に没頭し、物価は大きく高騰した。物価が上がったので、卸し・小売商人たちは今後の価格変動を予想して、品物を市場で売らなくなり、従って物価はもっと上がった。 先月28日からは北朝鮮内で国内人はもちろんのこと、外国人まで外貨使用が禁止された。21日には「配慮金」の形態で、現金を配り、事実上の賃上げを誘導した。 この2つの措置は、20年前の冷戦解体と旧ソ連経済崩壊の過程で、東欧国家が物価暴騰と経済沈滞で喘いだ時、ジェフリー・サックス・ハーバード大教授が、「絶対にしてはならない事」としながら警告した、代表的な措置である。通貨の互換性(convertibility:自国の通貨を外貨と交換できる権利)がないと、貨幤価値を評価することが出来ないからである。今回の措置で闇市場でさえ外貨取り引きが中断されたことを受けて、北朝鮮ウォンの価値の歪曲現象は一層悪化する見通しである。外貨が不足するということは、国境貿易が萎縮することを意味するので、物価上昇要因はまた生じる。無差別な賃金の引き上げも、物価上昇を深刻化させる要因である。先月30日には清津(チョンジン)市スナム市場(平安道の代表的な卸し売り市場)も閉鎖されることになり、日常物資の不足が更に加速化する見通しである。 貨幤改革措置が思うように進まないので、今後、北朝鮮が出来ることは、対外援助の手を借りながら、内部的には社会統制を強化する方法しかないようである。年頭の新年共同社説を通じて、対韓国融和メッセージを出し、金正日の訪中シグナルが相次いで出されたことも、このような脈絡である。 先月4日には、(国境貿易を狙う)不法越境者を現場で射殺するようにという命令が出された。 2008年2月に15人を公開処刑したケースより、もっと強化された措置である。ルディガー・フランク・ウィーン大教授も6日、ノーチラス研究所への寄稿文の中で、「中国と国境統制をもっと強化するだろう」と予測した。しかし、このような措置が短期間の効果はあったとしても、貨幤改革自体が期待通りの目標を達成出来ないのは明確である。 最近の北朝鮮の「非経済的」措置- 2009年11月30日:電撃的に貨幤改革を断行(新貨幣・旧貨幣の交換期間、交換規模を制限→物価引上げ要因)- 2009年12月21日:「配慮金」の形態で現金を撒布(無差別賃上げ→物価引上げ要因)- 2009年12月28日:国内・外国人の外貨使用を全面中断(貨幤価値の歪曲、国境貿易の抑制→物価引上げ要因)- 2010年12月30日:清津市スナム市場の閉鎖(物資不足の加速化→物価引上げ要因)
2010年01月11日
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北朝鮮ではお正月の1月1日だけ休んで、2日から業務が始まる。北朝鮮ではお正月の朝、新年共同社説が発表されるが、あまり重要な内容はない。いつも、実現不可能な美辞麗句でいっぱいなだけである。 共同社説に普通、必ず登場する文句の一つは、「今年は農業に力を集中して、人民たちの食べる問題を解決する」である。農村では「新年社説で言及された課題を遂行するために」、元気良く初出勤をしなければならない。ところで、冬は農村ですることがほとんどない。それで、お正月の翌日に普通することは、肥料の生産である。北朝鮮では化学肥料がとても貴重である。従って、天然肥料の生産が必須である。ここで言う天然肥料とは、秋に積み上げて置いた枯草に人糞を交ぜて作るものを意味する。北朝鮮では人糞がすなわち肥料である。従って、家のトイレをしっかりと見張らなければならない。もし見張るのをさぼったりしたら、革命課業遂行に絶対的なパーセンテージを占めるトイレの人糞が、盗まれてしまうかもしれないからである。 実際、働きに出ている間に、空き家に入って人糞を密かに盗む例が多いので、北朝鮮では冬になるとトイレに鍵を掛ける。人糞をどれ位確保するのかによって、革命課業遂行の行方が決まる。なぜならば、北朝鮮は家毎に肥料課題がある。1冬に1家庭から少なくとも5t位の肥料を提供しなければならない。草は幾らでも集めて来ることが出来るが、人糞は手に入れるのが難しい。人糞を少ししか交ぜられないと、悪口を言われる。しかし少ししか混ぜられなくても沢山混ぜても、とにかく混ぜたら人糞の臭いはする。お正月の翌日になると、トイレに溜まった凍りついた人糞をシャベルで掘り起こす。困った幹部がいる農村では、お正月から人糞の臭いを嗅がなければなければならない。新年社説が午前中に放映された後、農場幹部たちが党のスローガンを貫徹する為に、お正月も返上して働くとしながら、トイレの人糞掘りに取り組み始める。 平素はブラブラしながら遊んでいるのに、正月や休日になると必ず家毎にトイレを見て回る人間たちである。党に対する忠誠心を証明するには、お正月に歩き回るのが一番良いからである。このような人たちは、いつも他人にさせないで直接人糞を運搬する。誰が見ても、本当に素晴らしい絵が出来上がる。そして党の秘書は、「私たちの農場幹部たちは、お正月から党の方針を貫徹する為に、直接に人糞を運搬しています」と上部に報告する。すると、点数を稼ぐことができる。とにかく、このような人間のために、一般農場員たちは苦労をする。不満は多いが、少なくても作業班長や班長くらいの中間幹部たちは、仕方なく働かなければならない場合が多い。幹部たちが外で人糞を運んで回っているのに、部下が黙っているわけにはいかないからである。人糞騷動は農村だけで起きる事件ではない。都市も同じである。新しい年に新年社説貫徹の為に努力するという印象を残すには、都市を人糞の臭いでいっぱいにする以外に方法はない。臭いだけ嗅がせたら、「一生懸命に何かしている」ということを証明出来るからである。幹部たちが大変好むショーである。職場毎に、個人毎に、人糞課題がある。1人当り普通50Kg位である。1月の北朝鮮では犬の糞を探すのも難しい。毎朝村を歩き回りながら、凍り付いた犬の糞をバケツに入れて回る人を沢山見かける。このようにして集めた犬の糞は、革命課業完遂の為に家ごとに保管される。1月2日はこのようにして集めた糞が農村に向かう日である。この日は共同社説貫徹の為に努力しているということを見せなければならないので、無条件に農村に向かう。都市から農村まで糞を運ぶ行列が続く。 人糞課題は都市の党幹部たちも例外ではない。しかし幹部たちは楽である。農村まで人糞を車に積んで行き、1t運んで行って10tの領収証を要求する。結局、幹部たちは少しだけ働く振りをしたら、党の肥料課題を全て終えられる。お金がある人は、人民班長にお金を出せば良い。人糞をお金で買うのである。もちろんこのお金は、「私の分担を他の人々がする代わりに、私は後方物資を提出する」という意味だが、その人の分担を実際にする人はいない。人民班長や都市で働く人々は、人糞を1日か2日位だけ運んで、農村班に差し出す。班長に賄賂を上げたら、1t運んだだけで、10tの領収証を受け取ることができる。班長はこの時こそお金が儲けられる機会である。天然肥料1tの偽領収証を作って上げたら、お酒10リットル位を手にすることが出来る。もちろん、これは村毎に差がある。このようにして集めたお酒は班長の収入になる。班長は事業用資金がなければ、農機器や化学肥料を買うことができないし、ビニールなどを貰うことが出来ない。国家の保障がほとんどないので、このようにして班長が賄賂で資金を準備しなければ、その年、班農業をすることができない。結局、領収証が1万t分発行されても、実際に農場の畑に撒かれる人糞は、百t程度に過ぎないだろう。中央には課題が完遂されたと報告が上げられる。北朝鮮は普通、革命課業遂行がこのようにして行われる。ところで、問題はお金もなくて権力もない一般労働者たちである。彼らが売れるのは労働力しかない。このような人々は、結局、人糞を課題通りに提出しなければならない。ところで手に入れるのが難しいので、盗んで来るのである。人糞を盗む為に、農場の警備員たちにお酒を飲ませて寝かせたりもする。元々、お酒数十リットルの賄賂が必要な仕事を、お酒2-3本で解決するのだから、ずっと割が良いと言えるだろう。
2010年01月07日
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北朝鮮の先軍政治は絶対に変わらないだろう北朝鮮の平和攻勢が、2010年度には更に強化されそうである。今年の北朝鮮の主要政策方針を提示した新年共同社説は、対外分野ではアメリカ-北朝鮮間の平和体制樹立と韓国との関係改善、内部的には軽工業と農業活性化を通じた住民生活の向上に焦点を合わせながら、国際社会に向かっては平和攻勢を選択したようである。韓国マスコミの連合ニュースはこのような柔軟な新年共同社説を、「(北朝鮮の政策基調は)、中長期的には『金正雲(キム・ジョンウン)後継構図』の早期構築を念頭に置いたものと受け取れる」と評価した。実際、今回の北朝鮮の共同社説は、「アメリカと北朝鮮の敵対関係の終熄」を2回も強調することにより、オバマ政府に「ラブコール」を送ったものと判断することができる。しかし、北朝鮮の平和攻勢は、いつも実体がないスローガンであることを忘れてはならない。 北朝鮮がアメリカにラブコールを送るのは、2009年12月のスティーブン・ボズワース米対北朝鮮政策特別代表の訪朝以降、堅持して来た韓半島平和体制樹立というイシューを、今年も最優先に扱うという意図と捉えられると連合ニュースは評価した。「対話と交渉を通じて、朝鮮半島に確固とした平和体制を樹立し、非核化を実現しようということが、私たちの立場である」と明らかにした北朝鮮の新年共同社説は、「アメリカ-北朝鮮間の対話と6カ国協議を並立することは、平和体制樹立と非核化問題を一つのパッケージとして扱うことを示唆する」と、連合ニュースは評価した。北朝鮮の対韓国赤化工作が「平和体制の構築」を目標に、2010年度に強力に展開されそうな雰囲気を共同宣言から感じることができる。外形的には敵対的表現が弱められたが、実際、北朝鮮は今年を「~総攻勢の年」と規定した。北朝鮮は今年、困難な中で成功させたアメリカとの対話チャンネルを堅持しながら、「平和体制」と「非核化」という2つのカードを絶妙に組み合わせて、有利な交渉の立場を確保するために尽力するだろうと、連合ニュースは予想した。北朝鮮の共同社説は、「南北関係改善の道を開いて行かなければならない。南北関係を改善しようとする我々の立場を確固不動にする。韓国は対話と関係改善の道へと歩んで行かなければならない」と言及しながら、韓国に対話と和解の手を差し伸べている。過去10年間、韓国の左翼政権によって延命してきた金正日が、李明博政府にも寄生しようと和解のジェスチャーを演出している。金正日の最も緊急な韓国に対する戦略的目標は、中道を自称する李明博大統領を左翼へと誘導することである。李明博を第2の盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領に作り上げたら、韓国に対する工作ゲームは、北朝鮮の勝利に終わる。北朝鮮住民たちの不満を解消するために、韓国の李明博大統領の中道政府の支援が切実な中で、金正日集団は韓国の悪口を言う余裕はないと言うのが、連合ニュースの全般的分析である。「6.15共同宣言と10.4宣言を全面否定し、ファシズム独裁時代を再生しようと、南北対決に猛り狂う南朝鮮の執権勢力」と非難した去年の共同声明に比べると、今年の共同宣言は、「南朝鮮政府が6.15共同宣言を否定し、外勢と結託して、対決騷動に執着していたら、南北関係は改善されない」としながら、非常に柔軟になった。しかし、このように表現は柔らかいが、韓国を外勢に属する国家であると非難した北朝鮮の根本的視点と意図は、そのまま盛り込まれていると言えるだろう。共産集団が融和的に活動する時は、いつも警戒しなければならない。 毎年のように先軍政治を誇示する国防工業部門に関する政策課題を削除して、生活部門に関する政策課題を先頭に立てた点も、2010年度の北朝鮮の共同宣言が持つ特徴だと連合ニュースは指摘した。「党創建65周年を迎える今年、もう一度、軽工業と農業に拍車を掛けて、人民生活で決定的転換を成し遂げよう」と結んだ今年の北朝鮮の共同宣言は、「今年は人民生活の向上に全党的、全国家的な力を集中しなければならない総攻勢の年である。人民生活の向上が今年の総括的な闘争の方向である。軽工業と農業は人民生活向上のための主戦線である」としながら、生活経済を強調したと連合ニュースは伝えた。破産状態を超越した北朝鮮の生活経済の向上が、金正日集団の最も緊急な懸案であることを表現した新年共同宣言だと言える。しかし、今の北朝鮮は国防分野に言及する必要はないようである。核兵器を保有した状況で、公的に軍事的課題を強調して国際社会を刺激する必要はないという判断を金正日が下した後、生活経済に対する課題を浮上させながら同時に平和攻勢を強調しているのが、今年の北朝鮮の新年共同宣言が内包している意味のようである。核兵器実験で充分に武力デモンストレーションを行った北朝鮮は、今や軍事的脅迫を駆使しないで平和の手を国際社会に差し伸べる可能性が高い。国際社会は北朝鮮の偽装された平和攻勢に騙されてはならない。金正日は結局、先軍政治の旗印を掲げた軍事独裁政権に過ぎない。金正日の欺俗と暴力の本性を隠蔽することは出来ても、消すことは出来ない。国際社会は北朝鮮の平和攻勢的なジェスチャーに対して、常に警戒しなければならないだろう。北朝鮮の主張する平和は、即ち暴力(戦争)であることを忘れてはならない。北朝鮮が共同宣言の中で、「先端突破戦の基本戦線である国防工業部門で、強勢大国の大門を叩く勝利の砲声を鳴らさなければならない…人民軍は一瞬の安逸もなく、常に高度な激動状態を維持して、敵方の全ての挑発も断固として破壊することが出来るように、戦闘動員準備を完全に整えなければならない…2009年に我々の技術で人工衛星『光明星2号』の発射に成功して第2次核実験に成功したことは、強勢大国建設で勝利の初砲声を打ち鳴らした歴史的事件だった。去年成し遂げた勝利は、今こそ強勢大国宣布の日が近付いているということを証明してくれた」と明らかにした。余りにも鮮明な北朝鮮の意図を読み取ることが出来る。金正日が自ら変わる事はあり得ない。**韓国インターネット新聞「all in korea」社説
2010年01月06日
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パキスタン核開発の父とされるアブドル・カディル・カーン博士が、「1999年の訪朝の際、北朝鮮が核兵器3基と起爆装置などを見せてくれた」と言及したという内容の文件が公開された。核兵器はミサイル搭載が可能な小型化されたもので、山奥に掘られたトンネルの中に保管されていたと言う。彼は「北朝鮮が2002年にはウラン遠心分離機3000台を利用して、高濃縮ウラン(HEU)も作った」とも言った。北朝鮮の核能力がこの程度なら、衝撃である。「推定」とだけ伝えられていた北朝鮮の核兵器とHEUの実体が、現実化したのである。プルルトニウム弾の完成に続き、ウラニウム弾の開発も、相当な水準に達していたことを意味する。北朝鮮自らも今年9月初め、UN安保理議長に送った手紙の中で、「ウラン濃縮試験が成功しつつあり、完結段階に入った」と言った。この程度なら、北朝鮮の「核兵器10基保有説」も嘘ではないようである。2006年10月と今年5月の2回の核実験、テポドン1・2号の試験発射などは、北核プログラムが完結段階に入ったことを意味している。北朝鮮がこの10年で核兵器を保有する間に、アメリカ、日本、韓国などの関連諸国は北核阻止のために何をしたのだろうか?2003年8月の第1回会談を皮切りに、過去6年間に及ぶ北核6カ国協議での収穫は何もない。相変らず北朝鮮の6カ国協議復帰への説得と、騒々しい一括妥結案だけである。北朝鮮の核状況をあまりにも過小評価しているのである。北核の実体に対する推定と論議に踊らされている間に、北朝鮮は核性能の改善に没頭して、全世界を大きく威嚇している。遅々として進まない6カ国協議の枠組みだけに固執するのは、いくら考えても無理である。時間だけを浪費しているという声が少なくない。「ボズワースとカンソ・クチュ会談」で、来年2月頃、北朝鮮の6カ国協議復帰が実現するかも知れないが、北核除去は不透明である。不可能だという見解も多い。アメリカや日本は勿論の事、国際社会は北核に対する実状をより正確に把握して、北朝鮮の核放棄のための国際社会の共同対処に、もっと尽力しなければならない。
2010年01月04日
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