日本版レコンキスタ宣言   旅立った孫と子孫への私の人生卒業論文

日本版レコンキスタ宣言 旅立った孫と子孫への私の人生卒業論文

2025.10.26
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カテゴリ: 歴史について
現代ビジネスのサイトより

【太平洋戦争】零戦に爆弾を積んで敵艦に体当り攻撃をかける「神風特別攻撃隊」、その最初の指揮官が「死」を目前に語った言葉(神立 尚紀) | 現代ビジネス | 講談社

戦後80年。私はそのうち30年以上にわたり、日本海軍の戦闘機搭乗員を中心に旧軍人、遺族、関係者の取材を重ねてきたが、その過程で、遺族や戦友会、クラス会から託された史料も少なくない。そこで、不定期にはなるが戦時中、当事者によって書かれた日記、手記をシリーズで紹介していこうと思う。

今回は、ラバウルやフィリピンで最前線の航空隊司令を歴任した山本栄海軍大佐が遺した4冊におよぶ日記より、重要と思われる部分を抜粋し、4回にわたって紹介する(第4回)。

この日記は、山本大佐の部下だった元零戦搭乗員・角田和男中尉が戦後、回想記を執筆するさい、山本氏から「自由に使ってよい」と託されたものを、角田氏の晩年、私が『特攻の真意』(文藝春秋・2011年/現在は光人社NF文庫)という本を書くさい、山本夫人の了承を得て、「自由に使ってください」と言われ引き継いだものだ。山本氏は1982年に85歳で、角田氏は2013年に94歳で、それぞれ亡くなっている。

(本文はカタカナ、旧仮名遣い、旧漢字で書かれているが、ここではひらがな、新仮名、新漢字で表記、明らかな誤字は改め、解説を付する)

敵上陸の誤報による「ダバオ水鳥事件」
ラバウルから帰った山本栄大佐が、大分海軍航空隊司令、高知海軍航空隊司令を経て第二〇一海軍航空隊(二〇一空)司令に発令されたのは、昭和19(1944)年7月10日のことである。二〇一空はかつてマーシャル諸島やラバウルで戦った歴戦の航空隊だが、19年2月17日の米軍艦上機によるトラック島空襲、3月30日のペリリュー島空襲で壊滅状態になり、フィリピンで再建中だった。

すでにサイパン、テニアンに米軍が上陸し、太平洋の海軍航空隊の主力だった第一航空艦隊は壊滅している。海軍は次の決戦地と目されたフィリピンで第一航空艦隊(司令長官・寺岡謹平中将)を再編。ミンダナオ島ダバオに司令部を置いた。二〇一空はその戦闘機隊の主力である。ところが9月9日から10日にかけ、ダバオは、米機動部隊を発進した艦上機による大空襲を受ける。9月9日は終日、ダバオ基地上空は敵機に制圧された。味方戦闘機は空襲を避けてフィリピン各地に分散していたので被害は少なかったが、その代わり迎え撃つ戦闘機もいなかった。

翌10日も、早朝から空襲がはじまった。ダバオ基地に飛べる飛行機は1機もない。ほどなく、海岸の見張所から「敵水陸両用戦車200隻陸岸に向かう」との報告がもたらされた。飛行機もレーダーもない状況で、敵情については見張員の目視に頼るしかない。



司令部は玉砕戦を覚悟して通信設備を破壊、重要書類を焼却したが、10日の夕方になって、一五三空飛行隊長・美濃部正少佐が、修理した零戦で現地上空を偵察飛行してみたところ、敵上陸は全くの誤報であることがわかった。見張員が、海面の白波を水陸両用戦車と見間違えたのであった。

これは、昔、平氏の軍勢が水鳥の羽ばたく音を源氏の軍勢と間違えて潰走した「富士川の合戦」を思わせることから、「ダバオ水鳥事件」と呼ばれる。

ダバオでの混乱が生んだ「セブ事件」
早まって通信設備や重要書類を処分してしまったために、一航艦司令部は司令部機能を失った。そのため、しばらくの間、フィリピンでの航空作戦の指揮は、セブ基地にあった第二十六航空戦隊司令官・有馬正文少将に委ねられた。一航艦司令部は9月11日、ルソン島のマニラに後退することになる。

有馬少将は、ダバオに敵上陸の誤報を受け、幻の敵攻略部隊に備えてセブ基地に二〇一空零戦隊を集結させたが、9月12 日、こんどはセブ基地が敵機動部隊艦上機の急襲を受けた。

セブ基地では、二〇一空飛行長となっていた中島正少佐が飛行場に戦闘機搭乗員たちを集めて戦闘上の注意の座学を行っていた。不幸な偶然は、同じ時間に、味方の輸送機が到着する予定になっていたことだ。そのため、爆音が聞こえても一時の逡巡があった。

一瞬の判断が勝敗を分ける空戦の怖さを知っている歴戦の搭乗員のなかには、いち早く零戦に向かって走り出した者がいたが、

「いや待て、あれは味方の輸送機だ」

と、中島少佐がそれを制した。

事実、輸送機はセブ基地に着陸したが、そのすぐあとを追うように敵の大編隊が姿を現したのである。着陸したばかりの輸送機は、敵弾を受け一瞬で炎上した。

零戦隊は空襲下の不利な態勢から41機が邀撃に上がったが、空戦で27機を失い、53機が地上で撃破された。これで、フィリピンでの決戦に向けて用意されていた虎の子の零戦は、戦力の過半を失ったことになる。



「日米最後の艦隊決戦」に向けて
度重なる不手際に、寺岡中将は更迭され、寺岡中将の後任として大西瀧治郎中将が着任した。10月18日、マニラに着いた大西はさっそく寺岡と引継ぎを行った。辞令上、大西の第一航空艦隊司令長官は10月20日付だが、この時点で実質的な指揮権が大西に移ったとみて差し支えない

すでに10月17日、米軍はレイテ島湾口のスルアン島に上陸を開始している。日米最後の艦隊決戦は目前に迫っていた。18日夕刻、連合艦隊司令部はフィリピンでの決戦を意味する「捷一号作戦発動」を全海軍部隊に令した。

19日早朝には、日本側の索敵機が、レイテ湾とフィリピン東方海上に、「敵空母10隻以上、輸送船約100隻」の発見を報じ、ほどなくレイテ島は米艦隊の激しい艦砲射撃を受けた。もはや、敵大部隊がレイテ島に上陸を開始するのは時間の問題だった。

作戦によると、栗田健男中将率いる戦艦大和、武蔵以下、戦艦、巡洋艦を基幹とする第一遊撃部隊が、レイテ島に突入、大口径砲で敵上陸部隊を殲滅する。西村祥治中将率いる戦艦扶桑、山城を主力とする別働隊と、重巡洋艦那智、足柄を主力とする志摩清英中将率いる第二遊撃部隊が、栗田艦隊に呼応してレイテに突入する。その間、空母瑞鶴、瑞鳳、、千歳、千代田、を基幹とする小澤治三郎中将率いる機動部隊が、囮となって敵機動部隊を北方に誘い出す。基地航空部隊は全力をもって敵艦隊に痛撃を与える。



ただ、「セブ事件」の不手際や度重なる空襲での損害に、味方艦隊を掩護すべき第一航空艦隊の飛行機は35機から40機程度しか残っていない。陸軍の第四航空軍約70機、台湾の第二航空艦隊の可動機230機を合わせても、米軍に比べて圧倒的に数が足りない。この数少ない航空戦力で、敵空母の飛行甲板を破壊し、少なくとも1週間程度、使用不能にしなければならない。

骨折のため、やむを得ず指揮を譲ることに
そこで新長官・大西中将が決断したのが、零戦に250キロ爆弾を積んで敵空母に体当たりする「特攻」だった。

フィリピン・レイテ島へ上陸した米軍の大部隊との「決戦」を控えた10月19日、クラーク・フィールドのマバラカット基地にいた山本栄大佐は、飛行長・中島正少佐とともにマニラの第一航空艦隊(一航艦)司令部に出頭命令を受けたが、この日、クラーク・フィールドは三次にわたる敵機の空襲を受け、さらに午後1時半には敵艦隊攻撃のため零戦を艦上爆撃機とともに出撃させたりと、戦闘指揮にかかりきりで出発が遅れた。

山本と中島が自動車でマバラカットを出たのは午後2時5分のこと。そして、4時30分、山本がマニラの一航艦司令部に着いたときには、山本と中島が来るのが遅いのに業を煮やした大西中将が副官・門司親徳主計大尉をともなってマバラカットに向かって出発したあとだった。

大西中将と行き違いになった山本は急いでマバラカットに戻ることとし、午後6時、中島少佐が操縦する零戦の胴体にもぐりこんでニコルス基地を離陸したところで乗機のエンジンが故障、機体は近くの田んぼに不時着し、山本は左脚の脛骨を折る重傷を負ってしまう。そのため、山本としては不本意なことに、マバラカットに展開する二〇一空零戦隊の指揮を副長・玉井浅一中佐に任せざるを得なくなったのだ。

10月19日の山本日記より――。

〈1405(午後2時5分)飛行長と共に宿舎発 1630一航艦着 長官我が宿舎に向け出発された由聞き早速零戦にて帰ることとす。1800ニコルス離陸。1805飛行場の南200メートル田中に不時着陸、左脛腓骨を折る。飛行長「司令大丈夫ですか?」司令「大丈夫!足が折れた!横を向いている」

荷物を取り出し機外に出る。畦道を200メートルばかり背負ってもらう。足ふれる度に痛し。陸軍のトラックで一航艦まで送って貰う。皆親切なり。休憩。「足は折れても俺をやめさすと戦争に負けるぞ!」参謀長より体当たり隊の話を聞く。

「当隊は長官の御意見と全く同一ですから副長とよく御打合せください」〉

山本はそのまま、マニラの海軍病院に入院した。

「神風特別攻撃隊」編成の知らせ
その夜、マバラカット基地近くにある第二〇一海軍航空隊本部で、大西瀧治郎中将、一航艦先任参謀・猪口力平大佐、第二十六航空戦隊参謀・吉岡忠一中佐、二〇一空副長・玉井浅一中佐、戦闘第三〇五飛行隊長・指宿正信大尉、戦闘第三一一飛行隊長・横山岳夫大尉の6人の士官が極秘に会談をもち、二〇一空の零戦に250キロ爆弾を積んで敵艦に体当り攻撃をかける「神風特別攻撃隊」の編成が決まった。

さっそく特攻隊員の選抜が始められ、翌10月20日、指揮官・関行男大尉(戦闘第三〇一飛行隊分隊長)以下、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊の4隊が編成された。

司令でありながら特攻隊編成の蚊帳の外に置かれた山本は、この日の日記に〈終日足痛む〉と書きながらも、大西中将から下された命令文を書き写している。

〈現戦局に鑑み零戦26機(現有全力)をもって体当り攻撃隊を編成す(うち体当り13機)

本攻撃隊はこれを4隊に区分し敵空母比島東方海面出現の場合之が必殺(少なくとも当分使用不能の程度)を期す。

攻撃の成果は水上部隊突入前に之を期待す。今後艦戦(零戦)の増強を得次第更に編成を拡大す。

二〇一空司令は現有全力をもって体当り攻撃隊を編成し、なるべく10月22日までに比島東方海面の敵空母殲滅に任せしむべし。

本攻撃隊を神風特別攻撃隊と称す。〉

天皇陛下のためではなく、最愛の妻のため死ぬ
二〇一空の隊附報道班員として部隊と同行していた同盟通信の小野田政の回想によると、小野田はこの日、デング熱のためマニラの報道班員宿舎で休んでいたところを入院中の山本に呼び出された。

「おい、特ダネだぞ!」

左脚を包帯でぐるぐる巻きにした山本は、体当り攻撃隊の編成と、関大尉が指揮官に選ばれたことを小野田に告げ、

「しっかり報道願います」

と言ったという。

小野田は同盟通信社の車を飛ばしてマバラカットに行き、この日の出撃が中止になって二〇一空本部に戻っていた関大尉を飛行場近くのバンバン川原に連れ出してインタビューを試みた。

「報道班員、日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当りせずとも敵母艦の飛行甲板に五十番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある」

という関の言葉を、小野田は戦後、『神風特攻隊回想の記』に残している。関は、言葉を継いだ。

「ぼくは天皇陛下とか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(ケーエー・海軍隠語で妻のこと)のために行くんだ。命令とあれば止むをえない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう!」

関の様子には、何とかして自分の「死」に意味を見出そうとする煩悶が感じられた。士官たるもの、上官や部下を前にこんなことはなかなか言えないだろうが、二〇一空で唯一の民間人である小野田には心を許し、思いの丈をぶつけたかったのかもしれない。

わずか5日で強引に退院
特攻隊は10月21日から数次にわたり出撃したが、21、22、23日と山本の日記にはそれに関する記述はない。前3回の記事で見たように、部下に対し情に厚い山本は、内心忸怩たるものがあったのではないだろうか。関大尉が率いる敷島隊も21日、23日、24日と続けて出撃したが、分厚い雲に遮られたりして敵艦隊を発見することができなかった。21日、敵艦隊を求めて燃料ギリギリまで飛び、ルソン島南端近くのレガスピー基地に不時着して翌22日朝、マバラカットに帰投した関は、玉井中佐に報告すると、

「申し訳ありません」

と涙を流したという。さらに23、24日と出撃した関は、一航艦附報道班員だった毎日新聞社の新名丈夫(しんみょう・たけお)に、

「ああ、戦争というのはむずかしいなあ」

という言葉を遺している。

山本は10月24日午前、まだ傷も癒えないうちに強引に退院した。通常、骨折が全治するには現代でも6週間から8週間以上はかかる。それを5日で退院するとは、部下たちが出撃してゆくなか、山本もいても立ってもいられなかったのだろう。

24日の日記より――。

〈0830院長、主任、田辺さん、平井さんに見送られ懐かしの病院発。1030宿舎着。

親切に世話してくれた人 院長 医大佐 松尾正道 外科主任 医少佐鎌田常郎

従兵 武政上衛兵 婦長 岡さん 平井ユキ子 田辺信子

従兵 一整 道川貢〉

入院中、世話になった人たちの名が記され、道川一等整備兵の実母と田辺看護婦の実父の住所も記されている。そして一人一人に、

〈マニラの人間修理工場 白衣の天使田辺さん お陰で私もまた征ける 今度は修理が利くまいが 待っててください大戦果 片脚居士 山本栄(花押)〉

のような感謝の言葉を記し、

〈院長様始め皆様の親切に感謝しつつ退院します 御健闘を祈ります。僕も頑張る 山本〉

という言葉で締めくくっている。

ついに特攻隊が出撃
10月25日、山本は松葉杖をつき、二〇一空の副島泰然軍医大尉に体を支えられて、マバラカット東飛行場を発進する敷島隊を見送った。特攻隊を紹介するとき必ずと言っていいほど使われる敷島隊の出撃シーンの写真を見ると、副島軍医大尉に支えられた山本が、左手に松葉杖をつき、右手を大きく上げている姿が写っている。

〈神風特別攻撃隊敷島隊出発決別に行く。唯だ崇高なる威に打たるるのみ。五軍神逝きて帰らず〉

と山本は日記に書き残している。特攻隊が初めて敵艦に突入したのはこの日のことだった。

マニラの第一航空艦隊司令部に、敷島隊の戦果報告がもたらされたのは10月25日昼すぎのことである。

〈神風特別攻撃隊敷島隊一〇四五スルアン島の北東三十浬にて空母四隻を基幹とする敵機動部隊に対し奇襲に成功、空母一に二機命中撃沈確実、空母一に一機命中大火災、巡洋艦一に一機命中撃沈〉

ところが、肝心の栗田艦隊は、必死の思いで戦う航空部隊、陸上部隊にとっては信じがたいことに、すでにレイテ湾への突入を断念して北上を始めていた。

山本はマバラカットの司令室でふたたびギプスで脚を固定され、入退院を繰り返しながら、特攻隊の見送りや命名式に立ち会っている。この時期の日記は事務的に、報告を受けた戦況を淡々と記しているのみである。

「無名戦士など一人もいない」
唯一、11月7日の日記に、10月26日、セブ島からマバラカットに帰るため輸送機に便乗し、敵戦闘機に撃墜されて戦死した、山本の従兵だった伊藤國雄一等整備兵(一整)の追悼文が記されている。戦史で省みられたことは全くなく、戦地では最下級の少年兵(当時の海軍では二等兵は基礎訓練のみ。一等兵になって初めて実戦部隊に出る)だが、山本大佐は伊藤一整をことのほかかわいがっていたらしく、その死を悼む溢れんばかりの気持ちが伝わってくる。これを読むと、「無名戦士」など一人もいないことが実感できる。

〈一整伊藤國雄君を偲ぶ

君は純真温順そのものだった。去る七月十七日司令としてダバオに着任以来、司令従兵として公私共まことに気持ちよく誠心誠意やってくれた。

約二ヵ月、自分のような短気者でさえ一度だって叱ったことがなかった。どの士官だって伊藤を叱った人は居るまい。飛行長に負けまいと思ってドミノの手入れを頼んだ時なんか終日磨いてくれた。ずいぶん大工の手伝いもさせた。家庭の話を聞いたこともあった。洗濯もよくやってくれた。身体も流してくれた。我が子のように可愛かった。

十月十日飛行隊の進出とともに自分も一、二日の予定でマバラカットに進出した。これが最後の別れとは露知らなかった。十九日自分は怪我をした。伊藤に世話してほしいと思った。十月二十六日、伊藤一整は自分(注:山本)の荷物を全部持って輸送機に便乗、西澤飛曹長等と一緒にセブを出発した。ミンドロ島プエルトガレラ付近で不幸G戦二機と遭遇、恨みを呑んで熱火に包まれ撃墜されたのだった。 伊藤! 残念だったね!

全航程の過半は来ていたのだ。(敷島隊戦果確認の直掩隊小隊長西澤飛曹長も同乗していて戦死した)〉

同じ飛行機では、10月25日、敷島隊の突入を見届けた直掩機、日本海軍屈指の「撃墜王」西澤広義飛曹長をはじめ、本田慎吾上飛曹、馬場良治飛長も戦死している。

11月10日付で副長・玉井中佐が二〇一空司令に昇格、司令兼副長となる人事が発令され、同日をもって山本は横須賀鎮守府附となって内地に送還されることになった。

11月25日、山本は、海軍が特設病院船として徴用していた氷川丸(現在、横浜山下公園に係留されている日本郵船氷川丸)に便乗し、内地へ向かう。病院船は戦時国際法で攻撃してはいけないことになっているが、日記には、出航の翌朝、4機の米戦闘機グラマンF6Fによる銃爆撃を受け、約150発の機銃弾が船体に命中、負傷者が出たことが記されている。氷川丸が横須賀に入港したのは12月1日のことだった。

山本はその後、宇佐海軍航空隊司令を経て、帝都防空を担う第七十一航空戦隊司令官として終戦を迎えた。

カトリック教会へ通うように
山本は戦後、保険の外交で身を立てながら、しばらくは世を憚って生きていたらしい。

昭和26(1951)年のある日、山本は東海道線二宮駅(神奈川県)前で、1人の外国人神父を見かけた。

「戦争に勝ったらこんどは宗教で征服か」

抵抗を感じたが、その神父の顔はあくまで穏やかで、山本は逆に興味を持った。そして、電柱に貼ってある説話広告を見て、カトリック二宮教会に出かけてみた。そこで、ダニエル・カリガン神父をはじめ教会の人たちの敬虔な思いに打たれ、日曜ごとに教会に通うようになった。

山本は自分の経歴について一切語ることがなかった。教会に集う人たちは、彼が海軍大佐であったことは知らず、「田舎の小父(おじ)さん」がミサに来るようになったと思っていたという。

3年間、教会の活動体験とカトリックの教えを勉強した山本は、昭和29(1954)年、洗礼を受けた。洗礼名は「フランシスコ・ザビエル」だった。信者のなかで年長者だった山本は、献身的に教会を手伝い、悩んでいる人、困っている人を励まし続けた。そして、しだいに教会の若い人たちの相談相手として、敬愛を集める存在になっていった。若い世代に尽くすことが、山本にとって戦争で死なせた部下への贖罪であったのかもしれない。

ただ、山本は、特攻隊の慰霊祭や戦友会などの席上で、教会の話は少しもしなかった。日曜日の会合に欠席することが多かったので、

「司令は、教会に通っているらしい」

と噂されていただけである。教会の話だけではなく、旧部下たちと集うとき、山本は特攻について回想することも、論評することもしなかった。それだけ特攻が心の深い傷になっていて、黙って道を求めているのだろうと、部下たちは推察するのみだった。

思いやりの深い人だった
昭和56(1981)年8月17日、山本は脳血栓で倒れ、国府津の山近病院に入院した。入院を聞きつけた昔の部下が、代わる代わる看病に駆けつけた。五八二空で山本とともに戦った零戦搭乗員・角田和男元中尉は、

「司令は寝たきりになっても頭はしっかりしていて、私が、帰りますと言っても帰してくれない。どうしてもここにいてほしいというので、病院に頼んで簡易ベッドを運び込んでもらい、司令のベッドを真ん中に、奥さんの芳子さんが右、私が左で、一晩中側についていたことがありました」

と私に語っている。クリスマスには、信者から送られたカードが壁一面に飾られていたという。昭和57(1982)年1月25日、山本は妻・芳子に看取られて息をひきとった。享年85。角田によると、芳子はかつて大分海軍航空隊時代に懇意にしていた海軍料亭の女中頭だった。先妻に先立たれ、脳血栓で倒れた山本を、大分から出てきて献身的に看病したのだ。その恩に報いるため、自分の遺族年金が受け取れるようにと芳子を入籍した。

「司令は最後まで思いやりの深い人でしたね……」

と、角田は生前、私に語っている。

山本の葬儀は1月27日、教会でおごそかにとり行われた。遺族、親族と海軍時代の同期生や部下たち10数名が参列したが、礼拝堂を埋め尽くした参列者の大部分を占めていたのは、教会の信者仲間の人たちだった。

信者の女性が棺の上で十字を切り、

「いいおじいちゃんでした……」

と、頬に涙をつたわせた。山本の遺骨は、茅ヶ崎のカトリック共同墓地に葬られた。十字架は黒御影で、下の石台には「主の平安」と刻まれ、「一九八二年一月二十五日 フランシスコ・ザビエル・山本栄」と彫ってある。

神立 尚紀

PROFILE
1963年、大阪府生まれ。日本大学藝術学部写真学科卒業。1986年より講談社「FRIDAY」専属カメラマンを務め、主に事件、政治、経済、スポーツ等の取材に従事する。1997年からフリーランスに。1995年、日本の大空を零戦が飛ぶというイベントの取材をきっかけに、零戦搭乗員150人以上、家族等関係者500人以上の貴重な証言を記録している。著書に『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』『証言 零戦 大空で戦った最後のサムライたち』『証言 零戦 真珠湾攻撃、激戦地ラバウル、そして特攻の真実』(いずれも講談社+α文庫)、『祖父たちの零戦』(講談社文庫)、『零戦 最後の証言彜Ⅰ/Ⅱ』『撮るライカⅠ/Ⅱ』『零戦隊長 ニ〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯』(いずれも潮書房光人新社)、『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(文春文庫)などがある。NPO法人「零戦の会」会長。

--------------------私の意見-------------------------
私は天皇陛下万歳で敵艦に突っ込んだわけではなく、最愛の奥さんのために、そして両親・家族を守るためだったと思う。もし私が関大尉の立場なら私も命令に従ったと思う。

私は20代の頃旧日本兵の人たちとの交流があった。そこで関大尉と同じく、天皇陛下万歳の極右の人たちではなかった。私と同じ酒好き・カラオケ好き・女好き(笑)の普通の人たちだった。ひとつびっくりしたのは戦友というのは戦友が窮地に陥ったら自分の財産を投げ売ってでも助けるという気概だった。生死を共にする関係というのは単なる友情を超越したものだろうと思った。

高市内閣を超極右政権と揶揄している人たちがいるが、まさに◯かなのと私は言いたい。

本日の一枚    片山さつき財務大臣  この美貌なら舛添さんがころっといくね

mold on X:

本日の一曲   恋の風車   チェリッシュ



あいち交通死をなくすボランティアにじいろ会|さえりん♥ストラップ

文武両道





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最終更新日  2025.10.26 18:22:44
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