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今日見に来てくれた人は、9割が「ぼったくり」経由だと思われるので、ここ「楽天」の説明をします。作る前は、全く想定外だったのですが、公開する以前でこのページは200弱ほどのアクセスがありました。「楽天」というのはきわめて初心者向けというか、これでもか、というサービス機能があってどんなにつまらないページでも、偶発的に2~3アクセス(ランダム機能)。日記をつけると、新着日記として紹介されるので10前後のアクセスがあります。さらに他の人のページを訪問すると、「あしあと」が残りますから、どんな人か気になって訪問返しを受けることになります。現在掲示板の「虎なおき」さんが浮いてしまって恐縮なのですが、訪れたページに書き込むというのは「楽天」では常識的な作法なのです。当然私は「虎なおき」さんを訪問しますから、大野は冷たいんじゃないか、と思わないで下さい。 ジオあたりにページを作ったんだが、誰も見てくれないとお嘆きのあなた、その意味では「楽天」はいいですよ。 それに対して「ぼったくり」にはそんな機能はありませんから、すごいわけです。うっけの底力恐るべし。で、今度は「ぼったくり」の説明ですが、http://6202.teacup.com/sakura/bbs ご覧のように20日近く何の書き込みもなく、しびれをきらしたロムが書き込んだ、というような状況になっております。なんであんなつまらない掲示板が、20万アクセスを越えているか、と不思議に思う人いるかもしれませんが、かつてあそこは他で見られないようなケンカ、掲示板同士をクロスオーバーする白熱の議論。どっか悪いのか、と心配になってしまうような奇妙な書き込み、とまあ、刺激的な掲示板だった訳です。古戦場です。 古戦場でも、一日5,6人は見る人がいるかな。公開するにはちょうどいいかも、と思って張ったのですが、推定ですが、いまなお100人ぐらいの人が訪れているようです。相互にアクセスしあおうという「楽天」とは、全く別の世界がそこにある。書き込まず読むだけという、いわゆるロムが、今でも固唾をのんで見守っているでしょうか。どう考えても、もう何も起こらないのに・・・
Apr 24, 2003
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一通り出来たので、楽天外にも公開することにしました。まあ、知人や卒業生のたぐいですが・・・ 一カ所、2ちゃんねるの監視下にある掲示板にも張りましたが、嘲笑はするけれど、乱暴はしないところなので、大丈夫だと思われます。
Apr 23, 2003
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トップページ完成。初心者なのであか抜けないが、まずまずだろう。写真はゼミの卒業生が撮ったもの。沖縄系のページは海の写真が多いので、道にしました。読谷村かな。 詩も過去の卒業生。授業中に書かせたものだけど、なかなかいい感じ。 コンテンツはもう少し充実しなければならないけど、これから先は手打ちかOCR。というわけでひとまず完成ということにしておこう。
Apr 22, 2003
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昨日の考察でほとんど自分なりの結論は、出ていることになる。「子供には暴力衝動など無い」という立場に立ち、情報をシャットアウトするよりも、育て方を誤れば自分の子供も「キレタ少年」になりかねない、したがって暴力衝動をコントロールするために早くから情報を与えたほうが、無難だと思われる。 暴力衝動のコントロールとは、やってはいけないことを学ぶということである。例えば私は次のようなルールを考える。1,先制攻撃の禁止。2,自分より明らかに弱いものを攻撃してはならない。3,女の子を攻撃してはならない。 これらはほとんど全てのヒーローもの、子供むけSFなどでは守られているルールである。ウルトラセブン第26話「超兵器R1号」などのように例外もあるが、そもそもウルトラセブンは幼児向きではない。アイスラッガーという必殺技の性質上、戦闘シーンもやや残酷である。大人には評価の高いシリーズであるが、4,5才の幼児には見せるべきではないと思う。 ルール3については、ジェンダーフリーの立場から批判があるかもしれないが、フェミニズムというのはくだらん思想である。どんな理由があろうとも、女の子は叩いてはいけないのである。ママだって叩いちゃだめである。怪獣ごっこの相手はパパである。 さらに私は次のようなルールを付け加える。4,武器を使ってはならない。5,大勢で一人を攻撃してはならない。 子供が素手同士、一対一でけんかした場合、まず大けがはしない。動物とはそういう風に出来ていると考えられる。したがって武器、一対多数を禁止すれば、私は少々のけんかはむしろやるべきだと考えている。 実はこのルールに大きく引っかかるのは、戦隊ものと呼ばれるシリーズである。これは、単純なストリー、変身前のヒーローが格好いいためお母さんにも人気。フラビージョがかわいいのでパパもにっこり、というわけで非常に人気がある。私も実はハリケンジャーを息子達と見ていた。うかつであった。 批判的に見た場合、戦隊ものは危険であると思われる。確かに先に攻めてきたのはジャカンジャであるが、正義の名の下に一対三、シリーズ後半には一対六の戦いであった。これは卑怯である。またこのシリーズは武器使用に対する誘惑が大きくなるという問題点を持っている。今やテレビと全く同じ形状の武器が、おもちゃやで売っている。これが結構堅いのである。 社会学的な根拠はないが、私はイジメの深刻化。子供の凶器使用には、ゴレンジャー以降の戦隊ものがある程度関係しているのではないか、と思っている。また掲示板で少しふれた、ネットでの集団あらしなども、その疑いがある。いかなる理由があれ、一対多数は卑怯である。 その点ウルトラマンは、人間より遙かに進んだ科学技術を持っていながら、肉体だけで戦っている。光線は体から出るものだからいいのである。影響を受けたとしても、子供は光線を出すことは出来ないので、実害はない。子供が決めの光線ポーズを取ったら、パパは派手に倒れてやるべきである。「帰ってきたウルトラマン」のブレスレットはありか?という問題はあるが、後述するように、親が作品の内容をチェックすれば大丈夫である。 またシリーズが後ろの方に行くと、兄弟が助けに来てくれることがあるが、これはまれに見る強敵が出現した場合に限られ、毎週毎週助けを呼ぶわけではない。本当に困った時には家族に頼ってよい、というか頼るべきである。 というわけで「子供にウルトラマンを見せてもいいのか」は、「いい」ということなのであるが、出来れば親が必ず一緒に見ることが望ましい、と思う。中には「帰ってきたウルトラマン・第33話 「怪獣使いと少年」」のように幼児にショックを与えるような作品もあるので油断は禁物である。 さらに見終わった後、感想を話し合うのもいいだろう。これはテレビの害悪の一つである、対話性を欠いた一方的な情報という問題点を軽減させるし、なんといっても親父は話がわかる、自分の話を聞いてくれる、という印象は、早い時期に持たせた方がいいであろう。いずれ子供というのは親から離れて行くのであるが、真に困った時、こういった幼児体験は、親に対する気持ちを開かせるだろう。自殺して初めて子供が悩んでいたことを知ったなどという父親にはなりたくないものである。 当然の事ながら、ウルトラマンだけを見せ続ける、というのは論外である。今はレンタルビデオがやすいので、バーバパパとかディズニーとか、動物の生活とか、乗り物とか、多様な情報の中にウルトラマンを位置づけるというのが、賢い方法だと思われる。 という訳で、1で提示した問題に答えていないものも多く、論としても不整合な部分があるが、まさか一週間近くこの問題を考えるとは思わなかった。この項は一回終了である。
Apr 21, 2003
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親が番組を選択する場合、たぶん大きな焦点になるのが、戦闘・暴力的な表現を含むものの取捨であろう。例えば酒鬼薔薇事件の時、犯人の少年がホラー映画を見ていたという点が話題になったり、「バトル・ロワイヤル」のR指定問題などが記憶に新しい。が、この問題については既に数多くの議論が行われていながら、未だ結論は出ていないのである。 一つめの立場は、多数の人々が主張する「戦闘場面に影響を受け、乱暴になる」というものである(以下「影響論」とよぶ)。これにはうちの女房も含まれる。 二つ目は「カタルシス」という考え方に基づくもので、早くいえば、「戦闘シーンを見てすっきりして、現実の暴力に及ばなくなる」というものである。 この二つの立場には、根本的な人間観の相違がある。 影響論は性善説であり、「本来幼児には暴力的な衝動はなく、外から与えらるものだ」という考え方である。私はこの分野の専門家ではないので、はっきりした事は言えないが、現在教育者の間では、こちらが主力のようである。「子供は天使だ」もしくは「子供の心は白紙(タブララサ)だ」。 カタルシス論においては、暴力・嫉妬・憎悪のような、悪い感情も本来の人間の一部だと考える。したがって浄化や、矯正が必要なのである。 学問や哲学の世界では、これに関するそれこそ数え切れない立場があり、またそういうレベルにおいて、明確な結論は永遠に出そうもないと思われる。もしかしたらヒトゲノムの研究で決着が付くのかもしれないが、一般社会で常識となるのは、相当先のことだろう。うちの息子達が成人してしまう。 で、自分はどう思うのか、ということであるが、以下議論が乱暴になるが、ずばり私は「カタルシス」論の立場に立ちたいと思う。 これはここ4年間、子供を見ていての実感である。例えば二才になって弟が生まれた時、長男は誰に教わることもなく、「嫉妬」とみなされるような行動を示した。また所有という欲望も、相当原初的なものであると思われる。「自分の場所」に弟が座ると、力で押しのけるのである。 七〇年代以降、人間という生き物の特異性を強調するあまり、「本能」という言葉はあまり使われなくなったが、やはり人間も動物である。自分に不利益な存在があらわれれば、敵と見なし、攻撃する。巣の中で大きな口を開けられない雛は、死んでしまうのである。 「そもそも人間には、遺伝子レベルで「闘争本能」があり、だれに教わることもなく、暴力を用いることがある」 この認識は、子育てのどこかにあるべきではないかと思われる。乱暴な番組を見なくとも、子供は「自然」に暴力をふるうことがある。この立場に立ってこそ、社会的な適応性を身につけるため、本来ある「闘争本能」を、どうやって危険のない方向に持っていけるか、というプログラムをたてることが出来るのだと思う。 近年不可解な暴力事件が発生する。「影響論」の立場は、必死に外部に原因を探そうとする。テレビがいけなかった、ゲームが悪い、いじめを受けた経験がある、孤独な都市生活がいかん、等々。もちろん外的な「影響」が特定できるケースもあるのだろう。しかしこう考えた方が、むしろすっきりする。「もともとあった闘争本能をコントロール出来なかった」 普通の人間は不可解な暴力事件を起こさないから、家庭生活のどこかで、わがままな本能をコントロールする方法を学んだのだと考えられる。そしてそれは、一切の暴力に関する情報をカットする、というような方法ではあり得ない。それは「ある」ものを「無い」といいはる欺瞞に他ならない。むう、今日は難しい話になってしまった、文章も下手だ・・・
Apr 20, 2003
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昨日の日記を整理するならば、「テレビはその機械としての本質上、幼児にとって、かなりの害がある」「しかし現在の状況の中で、全廃するのは難しい」 それゆえ次の福島章氏(著名な精神科医)の主張は参考になる。「その視聴時間は1日1時間以内に制限するのがよいだろう。子どもが見る番組は、親が選択することが望ましい。これは、子どもの人格形成に親が責任を持つ、ということにほかならない。」 「子どもの脳があぶない」福島章 PHP新書 一時間というのが根拠のある数字なのか疑問も残るが、そこまで厳密に考えなくてもいいように思う。 掲示板のほうにシェリ6921さんが報告してくださったように、私もテレビにも一利はあると考えている。それはかつて「おばあさんの昔話」が持っていた機能である。幼児の世界は狭い。当然その中から生に必要な事を学んでいくわけだが、この目に見える世界の外部には大きな世界が広がっていて、そこには経験しにくい出来事が起こっている。幼児はそれを大人達の話などから得ていたはずである。 もちろん今だって、親が話をしたり、絵本を読んでやったりするのが一番いいのだろうが、核家族化した現在、ほとんど一日中子供世話をしていられる「おばあちゃん」は得難い。我が家にもいない。というわけで、テレビのアシストというのはさけられないと思うのである。 また私の息子(長男)はこんな経験をしたことがある。3才前後だったと思うが、「ダンボ」を見せた時、母と引き離されるシーンでわんわん泣き出したのだ。これは私にとってちょっと感動的な光景だった。こんなに小さい頃から、人間は感情移入で泣くことが出来るのか・・・・。(もちろんこの事態を十分検証したわけではなく、もしかするとテレビをみて泣くというのはいけないことなのかもしれない) 害をなるべく減らし(視聴時間の短縮)、利点を十分に生かすためには、コンテンツ選択というのがきわめて重要であろう。 で、最初の問題に戻るわけである。そのコンテンツのなかに「ウルトラマン」は含まれるのか。
Apr 19, 2003
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一般論としていいか悪いか、ではなくうちの息子に見せるべきか、が課題であるから、悠長な研究をしている場合ではないのだが、やっぱり研究者の端くれとして、今日はネット上で先行研究の勉強をした。 まず重要なポイントとしては「番組が何であれ、幼児にはテレビを見せるべきではない」ということである。これは教育学の素人としての私の直観としてもそうであったが、ネット上この問題について発言している人の、全員一致した意見である。脳生理学、教育学、心理学その他あらゆる分野の専門家の意見がこれほど一致する例は珍しい。 一番コンパクトにまとまったページ。http://www.ne.jp/asahi/contact/hoikuen/video3.html これを見て特に愕然としたのが、「2歳まではテレビを見せない」という部分である。心当たりがある。 実はうちの長男は、2才くらいまでは、それほどテレビを見ていないはずである。問題は今2才の次男の方である。兄ちゃんが見るもんだから、0歳児の頃からかなり見ちゃっているはずだ。で、二人の大きな違いは、集中力と持続力である。 長男の方は絵本が大好きである。かなり長尺の絵本も最後まで聞くし、場合によっては「もう一回」という。2才の頃そんな感じだった。これに対して、弟の方はなんとか最後までもつのは「おひさまあはは」ぐらいである。これはやばい感じである。 じつはこの危険性については、早くから妻が指摘していた。「まあ、個性ってものがあるから、心配いらないだろう」ってとんでもないかもしれない。 こんな恐ろしい報告もある。http://www2s.biglobe.ne.jp/~katei-H/video.htm まあ、これは一つの例であり、臨床例が少なすぎる感じもあるが、「しまじろうなら大丈夫だろう」などと安心してはならない。 中村修也氏は「セーラームーンと幼児教育」の中で、女の子が「セーラームーン」にはまる危険性を訴えている。男児に比べて選択肢の少ない女児は、一層深刻らしい。http://www.bunkyo.ac.jp/faculty/kyouken/nakamura/nakamura.html これは学術論文であるが、教育学の論文ってこんな程度でいいのか、と思うほど一般的な内容である。またうちは男二人なので緊急の課題ではないのだが、引用文献は参考になるものが多かった。 とにかくテレビはいかんのである。しかし中村氏の主張するように「今のテレビの存在する状況を否定してもはじまらない。すでに存在する状況の中で、我々は幼児教育を考えねばならない」 もっともである。今や4歳児の男の中で「アバレンジャー」と「仮面ライダー5S」「ウルトラマンシリーズ」は三種の神器であり、これに「ピカチュー」や「あんパンマン」が加わる。どれも知らなければ仲間はずれになってしまう。が、一番ほのぼのとした「アンパンマン」ですら、アンパンチでバイキンマンをやっつけるのである。 というわけで今日は表題のウルトラマンにまで至らなかったが、少なくとも自分が懐かしいのと、息子が喜ぶという安易な理由で「ウルトラマン」のビデオを借りてくるのは凍結した方が、良さそうである。
Apr 18, 2003
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何だか子育て系になってきたが、このところの関心事なので仕方ない。 で、「子供にウルトラマンを見せてもいいか」ということなのだが、女房は大反対である。理由の第一は、乱暴になるからだということだ。彼女によれば特にいかんのが、ウルトラマンレオである。これはウルトラシリーズの中でも異色とされ、ウルトラマンとスポコンが結合したような内容である。大体レオは初戦で怪獣にやられ、人間に戻ってからモロボシダンに特訓される。そして弱点を克服したり、必殺技を編み出したりして、怪獣をやっつけるのである。努力して相手を倒すなど、なかなかよいではないか、と思うのだが、問題はその特訓がかなり無茶だという点である。飛んでくるナイフをよけたり、金属製の巨大斧にキックをしたり、危険この上ない。「まねしたらどうするの」というわけである。まさか真似はしないだろうと思うのだが、女房によればレオは子供の興奮度が高いということらしい。 ウルトラマンがいけないもう一つの理由は、もう少し哲学的であり、「悪い相手はやっつけていいのか」という点である。「むう、その問題は、きわめて早い段階からチーフライター金城哲夫が直面したものであり、彼の最高傑作とされる「ノンマルトの使者」では、うんぬんかんぬん」とうんちくを話そうとしても聞いてくれない。これはどんな対立も話し合いで解決しうるという、戦後民主主義的発想が、一般の主婦をも巻き込んだ例であるが、彼女がこのような立場に立った理由はもう一つある。それは昨年やっていた、ウルトラマンコスモスというこれまた異色のシリーズのせいである。 コスモスの特色はなんといっても、怪獣を殺さないという点にある。昔のウルトラマンしか知らない人は、そんなバカな、と思うかもしれないが、本当である。これなら奥様も安心である。したがってウルトラマンという場合、コスモスを除く、という条件が付く。 テレビ公開に先駆けて劇場公開された作品を、息子と一緒にビデオで見て私は驚愕した。子供同士なら、地球人もバルタン星人も仲良くなれるのである。ところが一部の攻撃的な大人達のために、両者は武力対立に至る。見ているうちに私は次第に激しい怒りに捕らわれはじめた。「これは欺瞞である・・・・」 で、試しにグーグルで「ウルトラマンコスモス×欺瞞」で検索したところ大量にヒットした。やっぱりそうか。 と書いているうちに、最初の議題「子供にウルトラマンを見せてもいいか」という問題が、きわめて複雑な構造をしていることが明らかになってきた。 まず「ウルトラマンをみると子供は乱暴になるのか」という問題である。これは純粋に子育ての課題である。 次に「悪い相手はやっつけていいのか」という問題である。この問題はきわめて深刻であり、イラク戦争という人類史における新しい局面を迎えて、深刻度は一層高まったと言える。またこの問題の背後には「正義とは何か」というより一層困難な問題が潜在しており、おそらく「子供にウルトラマンを見せてもいいか」というような枠組みでは論じ切れそうもない。 三つ目に「じゃあ、コスモスは本当に欺瞞なのか」という問題。これは明らかに欺瞞なので、そのうち論証したい。 四つ目に、「欺瞞であったとしても、子供には平和主義的な作品を見せた方がよいのか」これは問題の規模としては、ちょうどよい感じである。そのうち考察してみたい。
Apr 17, 2003
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昨日の続き、というか本当は同じ日に書いているのだが、子供の教育をめぐって重要なのは父の役割である。林道義先生によれば、そもそも子供を塾に通わすか、などというせこい問題を父親がくよくよ考えること自体論外である。 現在家庭内において、「父」という存在が消滅している、と林氏は主張する。これは自分の生活に照らして、正論だと思う。恥ずかしいことだが、私の家には父親はいない。身の回りの世話をしてくれる第一母と、外で仕事をしているらしい第二母がいるだけである。うちの息子はしばしば私を「ママ」と言い間違える。フロイトをまつまでもなく、この錯誤行為の原因は明らかである。私は補助的な第二の母親なのである。 社会のルールを教えるのは、ママ(つまり私の妻)の役割になっている。あれしちゃだめ、これしちゃだめ、いい加減しなさい、キイイイイ。ここら辺でパパ(つまり私)の出番である。「まあまあ、ママの言うことをきかなきゃだめだよ。でも、ママもそんなにきつく言わなくてもいいんじゃないかな」・・・むう、おいしい。おいしすぎる役割である。しかしこの状態がまずいのは明らかである。 思えばうちの親父は怖かった。特に公共の場で騒いだりすると親父は人前でも平気で私たちを怒鳴りつけた。小さい頃は父親は自分のことを嫌いなんじゃないか、と思ったことすらある。もちろん今は父親の気持ちがよくわかる。彼は嫌われ役になろうと、社会のルールを私に刻み込んでくれたのである。今や時代が違う。特に沖縄では騒ぐ子供に寛容である。で、どうしてもまあ、このくらいはよかろうとルーズになる。スーパーで駆け回る子供。だめだよ程度の父親(自分)。こういう子供達が小学校に上がると、学級崩壊以前にそもそも学級が成立しないという事態が起こる。父兄はこんな状態では困ります、と抗議をする。原因を作ったものが、その事態に対して文句を言うのである。 とまあ、理屈は立派であるが、問題は私が父の権威を回復できるのかということである。
Apr 16, 2003
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昼間講義しているのに、家に帰ったら4才の息子の公文を見てくれと言われた。宿題が多いようである。そもそも4才の子供を公文塾にやるべきか、という議論もあろうが、それについては後述。 よみの勉強はそこそこ楽しいようだが、ひらがなを書く練習は苦痛のようだ。これで勉強嫌いになったら元も子もないような気がする。むう、書くのが商売なのに「ようだ」の繰り返しが多い・・・ で、本題。 幼児教育ほど難しいものは無い。理論書や実践書をみてもこれといった定説はないように思われる。まあ基本的には子供はのびのびと自由に育てよう、という自由放任派と、早期教育ほど有効という英才教育派がある。どちらの主張にもそれなりの説得力があり、なかなか難しい。難しいから、どこそこの誰さんはこうしている、と世間依存型になる。中には子供がやりたかったらやらせ、いやだったらやらなくてよい、という一見民主的な立場もあるが、これがくせ者である。要するに幼児に自己決断を迫っているのである。「おまえの選んだことだから」と責任回避したい親はこういう意見にすがってしまう。幼児の短期的な気分を根拠にしてどうするつもりか。せめて基本的に自由放任主義を取るのか、英才教育をとるのか、親はある程度の考えを持つ必要があるだろう。 じゃあ、おまえはどうなんだ、と聞かれると本当に困ってしまう。おそらく経済・社会状況がこのまま推移した場合、息子達が成人する頃、日本は相当きつい状況になっているだろう。経済的には勝者と敗者に二極分化し、中間層が崩壊するのは目に見えている。自慢ではないが私はそう大きな資産を残せそうにないから、子供には何らかの能力を付けてやるしかない。そのためにはどんなタイミングで何をやらせるのか、又やらせないのか。公教育には本当に期待出来ないのか。そもそも学歴主義はいつまで持つのか。せっかく沖縄にいるんだから、基地関係のスクールの方がいいのか。等々問題は山積みである。
Apr 15, 2003
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授業開始の週は演習系の授業も講義形式になるので準備が大変。まあ、毎年同じ内容にしている先生もいるようだが、今のところ妥協したくないので・・・今のところはね。 文学史、久々に90分、まあ実質70分くらいか、話し続けたので酸欠状態。休み明けはいつもこうなる。あと10年ぐらいはマイクレスでがんばりたいところ。 ゼミ。新三年生は14人。ちょっと多いが、4年が7人しかいないので好いバランスか?暗くオタッキーなゼミを目指していたが、学生は明るい感じだ。
Apr 14, 2003
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小学校の頃通信簿で基本的生活習慣Cをいただいた。「整理整頓に注意しましょう」三つ子の魂百まで。シカマ先生恐るべし。既に私の人生を予言していた・・・ 宮台真司先生や福田和也先生のようにメジャーでむちゃくちゃ書いている人ならともかく、私の文章などたかがしれている。が、無い。パソコンの買い換えの時、文書ファイルだけはしっかり移したはずなのに大量に無い。フロッピーはそこらに転がっているが、シールが張ってない上、管理が悪いので、一部はカタカタと変な音がする。事実上ゴミである。今のところ新聞社のデータベースが頼り。俺より俺について知っている機械がある・・・ という訳で、きちんと編年体でアップするのを断念。生きているファイル優先である。「身の回りからきちんと」ああ、小1の時のシカマ先生。あなたの教えは偉大だった。 明日から本年度の講義開始。しゃべりたくてうずうずしている。学生はたまらんだろうなあ。
Apr 13, 2003
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初めてHP作りにチャレンジ。初めてなので他との比較は出来ないが、私に出来るぐらいだから、おそらく「楽天」は、最も簡単な部類に入るのだと思われる。1ページに原稿用紙50枚分も好感。 一月ぐらいをめどにだんだん作ろうと思う。 まだ日記一日分で、誰にも教えていない時点で20アクセスにはびっくり。ここら辺も「楽天」の人気の秘密か?全くの見ず知らずの人が、いつ閲覧するか解らない、というのはおそらくHPの本質だし、スリリングな部分だけれど、一種の不気味さでもあるなあ。
Apr 11, 2003
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本来四月一日から始めたかったのだが、たった二枚の書評(又吉栄喜『鯨岩』)が書けず、もたもたしていた。酷評したいのだが、気が小さいので、ソフトな表現を工夫したため。それでも自分としては勇気を出したほうか?ようやく先ほど完成、送付。 これからなるべく毎日日記を書こうと思う。人生で三〇回目ぐらいの決意かな。
Apr 10, 2003
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