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4.3 関連作品との比較4.3.1「二十億光年の孤独」(50年代の作品と60年代の作品の差異) 谷川の作品のうちもっと広く知られた作品であり、二十億という非日常的な距離・宇宙感覚、「ネリリ」「キリリ」といった言葉遊び、「地球」「人類」といった巨視的な感覚から、末尾の「くしゃみ」へと急速に収束する運動性など、後に多量のバリーションを生み出す出発点である。 これとの対比で見た場合、「朝のリレー」もまた「つながりたい」という谷川における重要な要素は継承されている。一方「人類」という大づかみな把握から、具体的な生を生きる他者の多様性が表現されている。反面四人の人物は全て幸福で前向きであり、孤独や悲しみなど、谷川においては必ずしもマイナスとはされない多様な感情は捨象されている。 また「二十億光年の孤独」のテーマ、といった場合、容易には特定出来ないのに対し、「朝のリレー」は単純平明である。4.3.2「祭」(オリンピックという特殊な状況と、日常的生活空間) オリンピック連作の中でも特に「朝のリレー」と密接な関連を持つ作品である。まず最初に多様性をもつ民族が提示され、それがつながっていくという構造は同一である。ただし「祭」の場合、民族が肌の色という視覚的、またはそこからイメージされる嗅覚の多様性において表現されているのに対し、「朝のリレー」はメキシコの少女がスペイン系の場合(人口比的にはメスティーソと呼ばれる混血が多い)、全員が白人になってしまう。もちろんニューヨークの少女が黒人である可能性も否定できないのだが、普通に「朝のリレー」を読んだ場合、そのように読む読者はほとんどいないと思われる。 実はローマ以外の地域は全て、16世紀から17世紀にかけて白人が先住民族から奪いとった土地なのだが、このような発想も「祭」との対比において初めて生ずる。現状「朝のリレー」を読むためには、そこまで読む必要はないが、「ニューヨークの少女は白人か?」という問いかけは、われわれの先入観を対象化するかもしれない。 「祭」には「二千年の歴史をこえて/今オリンピアがよみがえる」と、その伝統性にふれ、賞賛している。これは例えば初期の「博物館」に描かれたような、人間の歴史など些事に過ぎないという考えの対極にある。これが「朝のリレー」の「柱頭」につながっていく。 基本的に「朝のリレー」はオリンピックという限定された「祭」において、確かに谷川の眼前で展開した人類の「つながり」を、日常的な人類の普遍性に広げようという試みだったのではないか。4.3.3「月からの風景」(「朝のリレー」が捨象したもの) 「朝のリレー」は表現構造を別にすれば単純平明である。教科教育の指導案としては通常最後に「主題読み」が行われるのだが、ここまで多様な読みの可能性を展開していたのにかかわらず、「主題」-「若者たちの決意と連帯へのよびかけ」とあっさりと終わる。実際「朝のリレー」の主題は?と問われればこれ以外の読みを提案するのは難しい。この点を厳しく批判したのが、詩人の関富士子氏である。「朝のリレー」は最初からテーマが決まっており、そのテーマのために対句などの技法を駆使している、ということであるが、これはその通りである。また私自身この詩を教材にした授業の、あまりの予定調和に不満を感じたこともある。しかし関氏が見誤ったのは、その技法が生み出す言葉の力であった。 以下はネットから恣意的に拾ったものである。 ○谷川俊太郎の「朝のリレー」のフレーズがラジオから流れてきたときは、思わず鳥肌が立った。 ○カムチャッカ(私が習ったときは、カムチャツカではなくカムチャッカだったような気がします^^;)ってどこだろう?朝もやの中のバスって? キリンの夢って?ってワクワクした覚えがあります。○カムチャツカという言葉が出てきた時に先生が「カムチャツカはどこだ~?」と生徒に聞いたのですが、みんな聞いたこともなくて結局先生が「ここだよ」って教えてくれたんですが、そのときの思い出で出てくる先生の顔は中2の時の国語の先生の顔なんですよね・・・。「月からの風景」は「朝のリレー」の次に置かれており、自転する地球を外部から見るという作品である。この作品で特に注目すべきなのは3連から4連への流れである。 3連では朝と夜が対比され「朝のリレー」を引き継いでいるが、それは「まわりつづけるあやうい独楽」である。実際「朝のリレー」は冒頭4地域の中に、ベトナム(当時の)とかパレスチナなどを入れるとたやすく崩壊してしまう「あやうい」世界なのである。 4連では「ナパームの閃光」「黒も白も黄色いも」「セザンヌのりんご」「廃墟」が語られる。地球を遠くから見ているため見えないのであるが、それらは確実に存在している。「ナパーム」は第二次世界大戦以前から存在していたが、ベトナム戦争で広く知られるようになった。「黒も白も黄色いも」は人種をさすが、「祭」における連帯のイメージとは異なり、戦争の次に配置されているため、対立や差別を喚起してしまう。実際この時期のアメリカは人種差別を撤廃させようという「公民権運動」の真っ最中であった。「セザンヌのりんご」は芸術を象徴している。人類の歴史はマイナスばかりではなく、すばらしいものも生み出しているのであるが、全体の流れを変えるほどの力はない。最後の「廃墟」は、実態としてはローマの「柱頭」と同じものである。しかし「廃墟」という表現は、人間の営為のむなしさを暗示している。「月からの風景」はまさに「朝のリレー」の裏であり、二つの詩は大きな対句をなしている。「朝のリレー」はこの時期の谷川の世界認識からマイナス要素を全て捨象し、希望だけを純粋培養した作品である。その意味ではきれい事であるが、この時期次世代への継承という新しい課題を、持ち始めていた谷川には是非とも書かなければならない作品であった。 5結論 非常に高い普遍性を持つ「朝のリレー」であるが、その成立過程には1960年代という時代状況、また父親になったという個人史が強く関連している。特に谷川自らも報道映画作成という形で参加した東京オリンピックの影響は大きい。会場の外部には問題が山積していても、少なくとも会場の中の選手たちは「武器なく/憎しみなく」競い合い、そこに民族を越えた友情が生まれるのだ。直接的に3篇書かれたオリンピック作品にあきたらず、この連帯を「祭」の期間中だけではなく、日常における世界的広がりとすべく生み出されたのが「朝のリレー」である。もちろん国家・民族を越えた連帯というのがそう容易いものではないことぐらい谷川は認識しており、これが「月から風景」に描かれている。地球の連帯は今は実現していない。それゆえ「朝のリレー」に登場するのは全て次世代である。しかもそれをくっきりとイメージさせるために、四つの地域をえらんだ。特に冒頭カムチャツカという聞き慣れない地名と、そこに住む若者がきりんを夢見るというモチーフは、詩を読み慣れていない中学生の言語感覚を、世紀を超えて引きつけている。 以上で報告は終わりである。また私の専門は沖縄文学なので、短かった谷川研究も終了である。しかし次回報告のグループは詩を取り上げるので、より工夫を加え発展させてくれるだろう。バトンは渡したw(あと一回つづくかな)
Apr 23, 2012
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おし、きっちり予定通り仕上げたぜ。 実際には4.3の他の作品との比較部分が肝になった。ただこの部分を前もって読んでると本番の授業がつまらなくなっちゃうので、4.3と5結論は授業後公開します。テーマはどっちかというと同時代というよりも「詩集」の中へ置き戻すの方に傾斜したかも。4.考察(以下、ブログでだらだら書いたのでメモ程度にし、口頭説明しますが、アドリブ弱い人はしっかり文章を書くといいでしょう)4.1 「構造読み」の意義と問題点。 別紙コピー 『中学校・『詩』の読み方指導』より 授業で対句を指摘するのは意義がある。対句は谷川の全体的な特徴でもある。 若者/娘 少女/少年 などはその通りである。ただし「若者」は「娘」との対比をまたずとも、通 常男性をさすと思われる。 「構造読み」は読みを固定化するため注意が必要。 谷川の対句は厳密なものでは無く、揺れ動く傾向がある。 南北の対立は無理がある。むしろ南北は最初の二行で完結していると見るべき。 他にも無理な読み、多数。4.2 四つの地域 既にブログにたくさん書いたので本時は省略。 4.3 関連作品との比較4.3.1「二十億光年の孤独」4.3.2「祭」4.3.3「 月からの風景」5.結論まだつづく
Apr 20, 2012
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もうちょいである。1.報告のテーマ 「朝のリレー」は定番教材として親しまれ、また2004年にはこの詩の朗読と映像を組み合わせたCMで、ACCグランプリ(テレビCM部門)を受賞している。この詩の成立は1964年もしくは1965年前後だと思われるが、他の谷川作品同様、やすやすと制作された時代を飛び越える普遍性を持っている。 定番教材というということもあり、この詩は従来「教材」という観点から論じられることが多く、その際成立過程に関心が向けられることはほとんど無かった。教室ではほぼ同時代の感覚で読まれているようである。これは既に述べたようにこの詩の普遍的性格からいって一定の妥当性を持つ。 しかしその一方どのような文学作品であれ、具体的な時代の制約と特色の中で誕生したのである。今回は研究の入門という意味もふくめ、作品を成立期の文脈の中に置き戻したとき何がわかるか、というスタンダードなテーマで報告を進める。 2.報告の方法。 テーマに即して、特にこれといった文学理論は用いず、実証的なスタイルで臨む。 一括発表された詩集の中の一篇であるという観点から、「祈らなくていいのか」の所収の他の作品、およびこの作品と関連がある「二十億光年の孤独」との比較も行う。 また従来この詩に対するアプローチとして一般的である「構造読み」についても若干検討する。 3.データ(実証部分、少しでもいいので必ずいれること)3.1.時代背景と年譜後で年表を貼る。3.2関連作品別紙コピー「二十億光年の孤独」「祭」「時の間に」「やみの中に」「月からの風景」(「朝のリレー」の次の作品)その他参考作品 この小児(中原中也)コボルト空に往交へば、野に蒼白のこの小児。黒雲空にすぢ引けば、この小児搾る涙は銀の液…… 地球が二つに割れゝばいい、 そして片方は洋行すればいい、 すれば私はもう片方に腰掛けて 青空をばかり――花崗の巌や浜の空み寺の屋根や海の果て…… 夜景(山之口獏)あの浮浪人の寝様ときたらまるで地球に抱きついて ゐるかのやうだとおもつたら僕の足首が痛み出したみると、地球がぶらさがつてゐる*山之口獏についてはあんまり「会話」ばかり取り上げられるので、沖縄の若者はうんざりしてしまうのだが、実は上記のようにおもしろい作品が多い。
Apr 20, 2012
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レジュメ作り序盤。普通は書誌はこんなに詳しくなくてよい。「朝のリレー」谷川俊太郎 2012.4.23 大野隆之0.書誌1.報告のテーマ2.報告の方法。3.データ3.1.時代背景3.2.当時の谷川4.考察0.書誌:初出、 現時点で確認できているのは『谷川俊太郎詩集・日本の詩人17』河出書房1968.5.15に「祈らなくていいのか-未刊詩集」と題された28篇のうちの一つとして掲載された。『谷川俊太郎詩集』では、『二十億光年の孤独』(東京創元社1952)など既刊から選ばれた詩と併置されているが「祈らなくていいのか」には、詩集としてのはっきりとした構成意識がある。独立した詩集として準備されていたものを、河出の企画にあわせて発表したものと考える。 谷川は同シリーズの18巻(最終巻)、『青春詩集』の編者としても参加している。おそらく口絵写真の選択やデザインなどにも、深く関与していたと思われる。 この詩はその後何度となく多くの詩集に採録されている。確認した範囲では『谷川俊太郎詩集・日本の詩集17』角川書店1972.4.30『谷川俊太郎詩集 続』思潮社1979.02 『これが私の優しさです・谷川俊太郎詩集』集英社文庫 1993.1.25『あさ/朝』アリス館 2004.7.10また教科書の採録も多い。わかっているだけで光村図書、教育出版、三省堂等。、さらに国語科教育法の参考書等にも掲載されている。本学図書館にあるもの。中学国語実践講座刊行委員会篇『中学国語実践講座 第2巻 音読・朗読・群読の学習』ニチブン 1997.3.1。(これには退職された高橋先生の論文が載っている)。科学的「読み」の授業研究会編『中学校・『詩』の読み方指導』明治図書 1994.10異同、 表記法に若干の異同がある。初出では「カムチャツカ」となっているが「カムチャッカ」と表記されたものがある。初出の表記法は促音「つ」や拗音「や・ゆ・よ」を大文字で表記している。既に昭和21年から、現代仮名遣いが推奨されていたが、かならずしも徹底はされていなかった。それを現代の表記に改めるときに、「カムチャッカ」と改められたものだと思われる。しかし現代でも辞書などの表記は原音により近い「カムチャツカ」であり、他の促音を小文字の「っ」に直す場合も「カムチャツカ」だけはそのまま表記するのが適切である。
Apr 19, 2012
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谷川は1956年岸田衿子と離婚した後、1957年に大久保知子さんと2度目の結婚をしている。1960年には長男(後に音楽家の谷川賢作氏)、1963年に長女を授かり父親になった。詩集「祈らなくていいのか」の後半部分は、結婚が主要なモチーフとなっている。「パパ自讃」には「人類の子孫にして祖先たることに」という詩句が見える。父となった谷川には「こども」というモチーフと、「世代の継承」というモチーフが加わった。「祈らなくていいのか」の中で最も童謡的な作品は「川」であり、はっきりと次世代へのメッセージ性をもつのが「朝のリレー」である。この二つの方向性は、むしろ「詩集」の外部で、別のジャンルとして表現されていくようになる。一つはいうまでもなく谷川の仕事の大きな部分を占める童謡や童話、絵本の領域である。一方次世代へのメッセージは「校歌」というジャンルにおいて展開していく。 谷川の最初の校歌は既に1959年の「四日市南高校校歌」があるが、本格的に取り組まれるのは60年代に入ってからである。校歌の場合、谷川は「詩」とは違って、押さえた表現をしている。中には「谷川」といわれないとわからないようなものもあるが、特に初期の作品には谷川的と言ってよい表現も見られる。この空は 宇宙へ続く(四日市南高等学校校歌1959)丘の上から 青空見よう/ここも宇宙に 通じてる(南陵中学校校歌1966)これらのうち「朝のリレー」と類縁性が強いのは「東の空に日がのぼる」に始まる静岡東高校校歌(1965)である。この歌詞には「歴史をたずね 宇宙に問いかけ ひとりひとりが明日を拓く」とある。詩とくらべた場合、谷川の校歌の特色は「歴史の継承」と「風土の重要性」であるように思う。ローマの「柱頭」はわずかな一節であるが、この時期の谷川の全体性の中では、重要であると思われる。 当初予定ではこの上に山之口獏との比較などももくろんでいたのだが、そろそろ終わりにしよう。一節だけ引用しておくとこんな景色のなかに神のバトンが落ちている血に染まった地球が落ちている(山之口獏「喪のある景色」)さてお昼休みにしよう。
Apr 19, 2012
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また間違ったことを書いてしまった。今このシリーズは楽天内に「教材作成」というフォルダをつくって整理していたのだが、そこに入れ忘れただけで「「朝のリレー」について調べる4」はちゃんと存在しています。さて、今日は最も暇な木曜日なので、ラストスパートがんばる。まず午前の部は年表バージョンアップ版。月曜日にはもう一段上のやつをお届けできるかと。 1931昭6 谷川俊太郎誕生1956 昭31 25才「もはや戦後ではない」(経済白書) 10月、岸田衿子と離婚。1957 昭32 26才 スプートニク一号(ソ連) 大久保知子と再婚。1958 昭33 27才「地球は青かった」(ガガーリン)1959 昭34 28才 皇太子(現天皇)ご成婚。『週刊少年マガジン』創刊 最初の校歌(四日市南高等学校) 1960 昭35 29才 六〇年安保、四日市ぜんそく問題化 長男、賢作が生まれる。 詩集「あなたに」 東京創元社 1961 昭36 30才 ベルリンの壁建設1962 昭37 31才『週刊朝日』に時事諷刺詩の連載を始める。詩集「21」 「月火水木金土日のうた」で第4回日本レコード大賞作詞賞 校歌や童謡など増え始める。1963 昭38 32才 アニメ「鉄腕アトム」主題歌は谷川 長女、志野生まれる。 リオデジャネイロ旅行 ワレンチナ・テレシコワ女性として初の宇宙飛行。1964 昭39 33才 東京オリンピック、記録映画の脚本に参加 テレビ受像器一千万台突破 「落首九十九」 朝日新聞社1965 昭40 34才 米、北ベトナム爆撃 歌詞「死んだ男の残したものは」武満徹の作曲 絵本『しりとり』 童話『けんはへっちゃら』(最初の童話) 1966 昭41 35才 ジャパン・ソサエティ・フェローとして、ヨーロッパ、アメリカ旅行に出る。 9ヶ月間詩を書かなかった。1967 昭42 36才「ウルトラセブン」10月1日~68年9月8日 1968 昭43 37才 ★『谷川俊太郎詩集』河出書房
Apr 19, 2012
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(リレー) 聖火そのものはプロメテウスにちなむ、古代ギリシャからの伝統であるが、近代オリンピックでは1928年のアムステルダムオリンピックまでは、使われていなかった。また古代オリンピックでは聖火は一人によって輸送されていた。聖火リレーというものが誕生したのは、1936年、後に「ナチスのプロパガンダ」などといわれるベルリンオリンピックである。つまりあまり伝統があるものでは無いのだが、クーベルタンの理念と重ねあわせられるかたちで、オリンピック前の重要な行事として定着していった。 この聖火リレーに特別な意味を持たせようとしたのが、東京オリンピックであった。ビルマ(当時)、マレーシア、タイ、フィリピン、中華民国、沖縄と、大東亜戦争の戦場をまわり、過去の戦争の乗り越えと、新しい友情を表現したのである。この主旨からいうと中華民国(台湾)ではなく、中華人民共和国をまわるべきだったのだが、当時中国は台湾問題のためIOCを脱退しており、実現しなかった。したがってこの時点で中国をのぞく、アジアの諸国との友好は確認されたのである。それをまた日本のサイドからむしかえすから、「日本が50年前に起きたことを謝り続けるのは理解できない。過去のことは教訓とすべきだが、将来に向かって進むべきだ」(マハティール首相1994)としかられちゃうのである。さだまさしの「償い」みたいである。 最終ランナーもまた特別だった。通常は有名人が担当するのであるが、この時は1945年8月6日、すなわち原爆投下の日にに広島県で生まれた無名の青年が担当した。まさに第二次大戦の最終的な乗り越えであり、新しい平和国家日本が、世界に認知されたのである。これもまた演出にすぎないという人がいるだろうが以下略である。世界をつなぐリレーという発想はここから得られたのではないだろうか。(つづく)
Apr 18, 2012
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今気づいたのだが、通しナンバーで4を抜かしていた。削除等ではなく、単なるミスで4は最初からありません。『谷川俊太郎詩集・日本の詩人17』河出書房版・1968が届いた。「谷川俊太郎詩集」という同名タイトル本は何冊もあり、特に角川版は「日本の詩集17」と番号まで一緒なのでややこしい。さて予想通りであるが、書誌に関わる情報は皆無であった。しかし44年前の本とは思えないコンディションであり、おそらくこの本でしか読めないと思われる作品も含まれており、定価290円のところ2000円であるが、悔いは無い^^ 書誌情報は無いが、構成から様々なことがわかった。まずこの本は冒頭に写真と組み合わせた無題の作品が9篇載せられている。これらの作品は非常に信頼の高まった「谷川俊太郎・非公式ホームページ」のリストからも抜け落ちている。 このうち一枚はWWP配信の地球の衛星写真である。地球の衛星写真が最初に撮られたのは1959年8月7日打ち上げのエクスプローラー6号であるが、これはモノクロである。最初のカラー写真が何年なのかは特定できていない。十分な距離を取った地球全体の写真が撮られたのはhttp://mostinterestingblog.blogspot.jp/2008/07/only-first-photos-in-owrld.htmlというサイトによればこの詩集の発刊と同じ1968年とされている。 The Blue Marbleと名付けられた有名な地球の写真は1972年の撮影である(アポロ17号)。この詩集に掲載されているものは高度の低い部分画像である。しかし早くから地球感覚、宇宙感覚をモチーフにしていた谷川にとって、どうしても入れたかった一枚だろう。 存命詩人の作品をネットで引用するのには慎重なのであるが(学生が提出した一部作品をのぞく)、最小限で引用すると「おまえ(大野注、地球)の陸は争いに満ち」と青く美しい画像、そして「朝のリレー」とは対極的な認識が示されている。 詩集の構成は以下の通りである。まず既刊詩集からのおそらく自選詩。「20億光年の孤独」4篇「六十二のソネット」12篇 「愛について」10篇 「絵本」4篇 「愛のパンセ」2篇 「あなたに」12篇 「21」4篇 「落首」9篇 この後に「祈らなくていいのかー未刊詩集」28篇が収められ、この詩集の一番大きなブロックになっている。「祈らなくていいのか」は単なるそれまでの未刊詩篇の寄せ集めではなく、構成意識に基づいており、あくまで未刊「詩集」、すなわち独立した一冊の詩集として準備されていたものであることは確実である。「目に見えぬ詩集」という序詩ではじまり、最後は「詩」と題された作品で終わっている。その中にオリンピックの3篇、人名を題したもの4篇など、テーマ別に配置されている。前回は誤解していたのだが、楽譜付きの「死んだ男の残したものは」および「風のマーチ」は「祈らなくていいのか」とは別立ての「歌」として、巻末に配置されている。 オリンピック関連は「祭ーorynpiad 1964」これは開会式。「時の間に」は競技。「やみの中にーオリンピック閉会式ー」これはそのまま閉会式。この連作の次に「石と光」という短い詩があり、その次が「朝のリレー」である。 「祭」は違った色の肌の描写から始まる。これは「二十億光年の孤独」などで描かれた「人類」という包括概念ではなく、異質な他者の集まりである。他者であるからこそつながるのだ。この発想の仕方が、「朝のリレー」へと展開していく。また「祭」には「武器無く/憎しみなく」とくっきり戦争との対比が描かれている。 オリンピックに対しては所詮国威発揚のための政治ショーに過ぎない、という冷ややかな見方もある。またモスクワ、ロサンゼルスを例に挙げるまでもなく、国際対立の場になることも多い。東京オリンピックにしたところで、当時オリンピックに参加することが出来なかった中国は、嫌がらせのために、会期の半ばで核実験を強行している。敗戦後の日本のインテリというのはそういう悲観的な話をするのが好きで、それが利口さの証みたいなところがある。しかしそういう人々は何の対案もださず、また何の貢献も無しに終わっていくのである。60年代の状況が、平和という状況からほど遠いという認識は、谷川も持っていたし、実際表現もしている。しかしそれでもなお、選手達の汗に希望を見るのが谷川という詩人である。(つづく)
Apr 17, 2012
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「朝」 けんさくが まどをあけて 「あさだ」 といったあと おかあさんに 「おはよう」と いったよ(大野健作3才、処女作・口述筆記、大野隆之)まあ、単に子供が父親に報告しただけなのだが、親ばかが勝手にスタンザを作って、詩にしただけであるwだが父親が朝について研究していることを感じ取るとはただものではない。さて日程上きついので、土曜の夜だが頑張る。考察メモ3「ニューヨーク」 いうまでもなくニューヨークとはアメリカの富と繁栄の象徴である。後にテロの標的となったワールドトレードセンターの着工は1966年であった(完成は1972)。冒頭カムチャツカはソ連の領土であるから、世界中からたった4つの都市(地域)をえらんで、偶然米ソが含まれていた、などと言うことはありえない。少なくとも谷川はそのように読まれうることを織り込み済みでこの詩を書いたと思われる。しかし一方この詩では、あくまでも「カムチャツカ」と「ニューヨーク」なのであり、ソ連とアメリカではない。この微妙な緊張感の中でこの詩は成り立っている。ニューヨークはこんなもんかな。「ローマ」 もちろん「ローマ」には必然性がある。「柱頭」は当然古代ローマを示している。詩全体が同時代の共有をモチーフとしている中で、歴史と伝統へと遡行しうる契機をはらんでいるのがローマなのだ。しかし結果として、世界中からたった4つが選ばれた中、二つが西側先進国になってしまった。ここはアジアや中東の歴史をもった地域を選んだほうが、この詩は広がったのではないだろうか。 たとえば「ギーザの少年はスフィンクスを染める 朝陽にウインクする」(センスないかもw) ただこうしてしまうと「構造読み」の思うつぼになってしまうから、現行「ローマ」でいいのかもしれない。(続く)
Apr 14, 2012
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今日は教授会がなかったので、もう一つ書けた^^考察2「メキシコ」 まず確認したいのは「メキシコの朝もやは案外寒い」ということである。メキシコは低緯度ではあるが、標高が高いため、最低気温は一番高い6月ですら12度程度。 1月だったら6度を切る。 ところが「科学的「読み」の授業研究会」は朝もやの指導例として「あったかい雰囲気、あったかい季節」だの「カムチャツカの寒冷の地と対比して読める」などと書いてある。バカも休み休みにしていただきたい。「もや」というのは水蒸気を含んだ大気の温度が急速に下がり、露点温度に達した際発生するものである。あったかい朝もやなどあり得ない。無理無理「構造読み」をするために、自然のメカニズムをねじ曲げてしまったのである。そりゃあ冬場には-20度とか記録するカムチャツカと比べれば暖かいが、メキシコは南の代表としては明らかにパンチ力不足である。 この詩を書くおそらく少し前に、谷川はリオデジャネイロを訪問している。リオなら真冬でも最低気温が18度もあるから、本当に北と南とを対比させたいなら、自ら経験したむわっとするリオの朝でも入れればよかったのではないか。ただしもやの発生は難しいので「リオの少女は まぶしい朝陽の中でバスを待つ」とか。 だがそうではないのである。メキシコはこの時期の谷川が、世界中から四つ地域を選ぶ場合、どうしても入れたい場所だったと思われるのである。これは現時点では完全に論証できるほどの材料のない仮説であるが、メキシコは東京の次のオリンピック開催地だったからである。 既に述べたとおり「朝のリレー」とほぼ同時期に、谷川は「やみの中に」において東京オリンピックの閉会式を描いている。これは徐々に照明が落とされていく中、選手達のベストを尽くしたという満足感、大会が終わってしまう寂しさ、未来への希望といったものが描かれている。この詩には直接メキシコという言葉は出て来ないが、実際の閉会式の演出は次のようなものであった。 場内が暗くなると大会の成功を祝う花火を打ち上げ、電光掲示板には「SAYONARA」「MEET AGAIN IN MEXICO 1968」と表示され、蛍の光の大合唱で東京オリンピックの全日程が終了した。 これはwikiなので、もっと公式の資料を入手できたら差し替え。 そもそも私は「朝のリレー」という作品自体が、東京オリンピックの聖火リレーから発送されたと考えているのであるが、これについては「リレー」の項で述べる。(つづく)
Apr 13, 2012
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考察メモ1 本来は資料収集、問題点の整理なのだが、一つの詩について4日も考えていると、はき出したくなってくるので、今日は考察です。 まず最初に問題提起したいのは、最初の四つの都市(地域)は、経度がばらけていればどこでもよかったのか?ということである。関富士子氏はあきらかにどこでもいいと考えており、「テレビでよく見る全国各地の朝の映像のようだ」と揶揄している。またこの詩の可能性を評価する池田一彦氏は、さすがにどこでもいいとはいわないが、氏の関心からいえばカムチャツカ=北、メキシコ=南、という対構造が重要なのであり、北と南ならどこでもよかったといっているのと同じ事である。 私はそうは思わない。ローマこそ微妙な感じがするが、四つの地名はよく効いているのではないか?例えば「カムチャツカ」のところに「平壌」を代入してみればよくわかる。「平壌」は極端にしても「ウラジオストク」に換えただけで、中学生には似たようなものかもしれないが、この詩の雰囲気は大きく変わるのではないか。「カムチャツカ」 ずばり言って私は「朝のリレー」の魅力は、まず第一に「カムチャツカの若者が/きりんの夢を見ているとき」にあると思う。他の三つに比べ、ずば抜けてマイナーであり、寒そうであるが、一体どんなところか想像がつかないのである。中心都市ペトロパブロフスク・カムチャツキーの人口は約二〇万人であり、おお、そんなに住んでいるのか、という感じがする。そういう遙か北の若者が南の「きりん」を夢見るというのはそれ自体が既に斬新であると同時に、東西のリレーが強調される詩全体の中で、南北の連帯を補っている。また「きりん」というのはどうしてあんなに優しい、切なそうな表情をしているのだろうか、というのは私個人の感じ方である。しかし「ゴリラの夢」だと、詩の感じが全然変わるというのも確かなことである。 ちなみに日本人はついカムチャ「ッ」カと促音化してしまうが、ロシア語的にはカムチャ「ト」カにむしろ近いようである。カムチャ「ツ」カが正しく、コマーシャルでははっきりと「ツ」が読まれ、より一層エキゾティックである。この「ツ」に惹かれた音楽家の方が考察しているので参照されたい。http://music-1000.blog.so-net.ne.jp/2010-04-17-2 対句だのへったくれだの以前に、一般の読者は「カムチャツカの若者が」という出だしの不思議な音感、世界観に引きつけられるのであり、これは既に「異化効果」である。例えばグーグルで「カムチャツカ」を検索すると「カムチャツカツアー」に続く第二候補は「カムチャツカの若者」である。 なぜウラジオストクではいけないのかというと、ソ連の軍港を強くイメージさせるからである。この詩の成立した時期は、冷戦が、キューバ危機という直接衝突の危機から、最大の代理戦争であるベトナム戦争に移行した(しつつある)時期であった。後述するようにこの詩の深層に東西分断の絶望的な状況が秘められている可能性はあるが、ウラジオストクではそれがあまりにも前景化されてしまうだろう。 実をいうとカムチャツカも似たようなもの、あるいはそれ以上である。現実には冷戦下のカムチャツカはアメリカに最も近い領土として軍事地域指定を受けており、外国人の入域は不可能であった。現在でもロシア海軍太平洋艦隊の潜水艦基地はカムチャツカ半島にある。しかしこれはさっき調べたからわかったのであり、一体どれくらいの日本人がそれを知っているだろうか。さらに問題は谷川がこのような現実を知っていたのかどうか。現時点では私は、そこまで意識していないと考えており、秘められた軍港というのは読み過ぎだと思う。(つづく)
Apr 13, 2012
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書誌と作品成立の背景である。 思潮社版の『谷川俊太郎詩集・続』は、うるま市立図書館にもあるようなので行ってみた。初めて行ったのだが、なかなか素敵な建築である。ドガの複製画などがセンスよく飾ってある。 予想通りこの詩集は全集仕立てではなく、書誌の説明は異様に簡単。*祈らなくていいのか-未刊詩集 は河出の『日本の詩人17 谷川俊太郎詩集』に収録されたという既にネットでわかっている事実しか書いていない。この詩集は「祈らなくてもいいのか」そのものなのか?既にその詩集に入った以上、未刊詩集じゃないんじゃないか、等さっぱりわからない。このもととなった『日本の詩人17』は横断検索によると、県内図書館にはない>< アマゾンの「出品者からお求めいただけます」が私を誘う。この「日本の詩人」シリーズは他の詩人のやつは800円ぐらいなのに、谷川だけ2000円である。ちょっと待ってくれ。古本ならさっきまで図書館で見てた900ページもある『谷川俊太郎詩集 続』の方が1600円で買えるのだが・・・・。だがしかし期待薄だが、何か解説とかついてるかもしれない。ここで引いたらベストを尽くしたとは言えまい、というわけで入魂のお買い上げである。週明け頃には届くだろう。 思潮社版を見ただけでもいろいろなことがわかった。1964年出版の『楽首95』で、時事的な作品にとりくんだ谷川は、「祈らなくていいのか-未刊詩集」にもコンテンポラリーな作品を入れている。「やみの中に」には副題として「オリンピック閉会式」と記されている。谷川は東京オリンピックに協力的であり、記録映画作りに参加している。閉会式は1964年10月24日であり、この作品はそれから時を経ずに書かれたものであると推測できる。「ワレンチナ・テレシコワに」は人類初の女性宇宙飛行士に対する、親しみを込めた賛歌である。テレシコワは「ヤー・チャイカ」すなわち「私はカモメ」で有名な人である。これは当時流行したようで、ウルトラQでも使われている。谷川自身この出来事に非常に惹かれたようで、1910年に「ヤー・チャイカ」というタイトルの映画を撮っている。ちなみにテレシコワの飛行は1963年6月16日であり、これもそう日を明けずに制作した可能性が高いと思われる。 「死んだ男の残したものは」これは武満徹が曲をつけ、1965年のベトナム戦争反戦集会で披露されたものである。歌詞であるため当然なのだが、「死んだ××の残したものは」という対句的な表現の繰り返しで成立している。youtubeで見ることが出来るが、なかなかいい曲である。 オリンピック、宇宙飛行、戦争。「朝のリレー」はこのような文脈で書かれたものである。この詩集の中かに置き直すと、また違った読みが可能なのではないのか?(問題の芽4) 以上の状況を私はまじめなのでw年表にしてみた。実はこの時期は金城哲夫が活躍していた時代なので、使い回しである。ウルトラセブンだけはわざと消さなかった^^(続く)。1931昭6 谷川俊太郎誕生1956 昭31 「もはや戦後ではない」(経済白書) 水俣病、公式確認(熊本県)1957 昭32 スプートニク一号(ソ連)1958 昭33 「地球は青かった」(ガガーリン)1959 昭34 皇太子(現天皇)ご成婚。『週刊少年マガジン』創刊1960 昭35 六〇年安保、四日市ぜんそく問題化 詩集「あなたに」 東京創元社 1961 昭36 ベルリンの壁建設1962 昭37 『週刊朝日』に時事諷刺詩の連載を始める。詩集「21」 「月火水木金土日のうた」で第4回日本レコード大賞作詞賞1963 昭38 アニメ「鉄腕アトム」主題歌は谷川 リオデジャネイロ旅行 ワレンチナ・テレシコワ女性として初の宇宙飛行。1964 昭39 東京オリンピック、記録映画の脚本に参加 テレビ受像器一千万台突破 「落首九十九 朝日新聞社1965 昭40 米、北ベトナム爆撃 歌詞「死んだ男の残したものは」武満徹の作曲 絵本『しりとり』 童話 1966 昭41 ジャパン・ソサエティ・フェローとして、ヨーロッパ、アメリカ旅行に出る。 9ヶ月間詩を書かなかった。1967 昭42 「ウルトラセブン」10月1日~68年9月8日 1968 昭43 ★『谷川俊太郎詩集』河出書房
Apr 12, 2012
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研究史の整理である。しかし2週間だと「研究史」と言うほどには行かないなあ。関連論文にいくつか目を通せれば、ぐらいである。前にも書いたかもしれないけれど、最初からタイトルがわかっている場合は直接CINIIでいいけど、漠然としている場合はgoogleの方がよい。「作品名×国文学」がおすすめ。しかしこれは私の経験則なので、あるいはもっといいキーワードがあるかもしれない。工夫してください。しかし「作品論」とか「論文」より、「国文学」のほうがかかりやすいと思う。 「朝のリレー×国文学」だと最初に出てくるのが成城大のページで、そこで 池田 一彦氏の「谷川俊太郎「朝のリレー」 私解」という論文が存在することがわかる。次に論文名をコピーして再検索すると、CiNii 論文 - 谷川俊太郎「朝のリレー」私解にたどり着く。プレビュークリックで本体が出てくるので、印刷である。このとき大切なことは 聖徳学園岐阜教育大学国語国文学 聖徳学園岐阜教育大学国語国文学 9, 1990-03-15を「必ず」1ページ目にメモることである。 この論文は「朝のリレー」を「文学教材」として扱う立場から書かれたものである。ストイックなまでに新批評的であり(作品外部を一切参照しない)、さらに「私解」の方も徹底しており、一切の研究史に言及していない。そのため残念ながら、注がない。私は注のついていない学術論文を初めて見た。 このようなスタイルが国語科教育法の一般的な手法なのかどうかよく知らないのだが、歴史的文脈や現実のありようから切断して詩を読むことが妥当なのか、検討する必要がある(問題の芽2)。 次にネットならではという関 富士子氏の「<詩を読む 4>谷川俊太郎「朝のリレー」を読む」http://www.interq.or.jp/mars/ippo/rain3/shijin.html 関富士子氏は『歴程』同人の詩人であり、『歴程』ってまだあったのか、とまず驚いた。内容はきわめて「朝のリレー」に対して批判的であり、「「朝のリレー」には、まず初めに、読者に押し付けようとするテーマというものがあり、表現はそのためにねじまげられているのだ。」とまで言い切る。これは実は「朝のリレー」の授業を見たときの私の違和感とも重なるものであり、非常に興味深い。 ただその一方ネットでは、この詩に対して、好意的な感想が多い。特にコーヒーのCMはyoutubeで今回初めて見たのだが、非常に好評である。また先に挙げた池田一彦氏は当然ながらこの作品の可能性を高く評価している。相反する二つの見方というのは既に重要な「問題の芽3」である。 次に藤本 寿彦氏の「谷川俊太郎論―詩集『二十億光年の孤独』に組み込まれた初期詩篇の世界」 総合研究所所報 15号 2007-03 奈良大学総合研究所 これは直接「朝のリレー」に直接言及していないが、初めて谷川について調べる私のような初心者には、非常に参考になるいい論文である。奈良大の研究所所報なんて、ネット以前だったらたどり着いたかどうかわからない。これが簡単にダウンロードできるとは、いい時代になったものである。 まず一般人から見ると最も有名な戦後詩人である谷川の研究が、どうしてこの程度に細いのかよくわかった。詩以外のマルチな領域で活躍したのがよくないらしい。なるほど世の中というのはそういうものなのか。吉増なんかのほうがストイックな感じがするものなあ。 次に「朝のリレー」を選んでから気になっていた「二十億光年の孤独」との関係について、考える土台を与えてもらった。実は「二十億光年の孤独」もまた同時代に批判されたことがあるらしい。 清岡卓行の批判「戦争と戦後の現実に鍛えられ、そのきびしさにいささかうちのめされたような人間からみれば、谷川俊太郎のその頃の詩は、無恥なほど明るく、軽く、一種の奇麗事のようにも思われたのであった」 おお、やっぱ谷川批判といえば「奇麗事」か。これは「朝のリレー」に対する関氏の批判とも相通ずる部分がある。この論文には当然のことながらちゃんと注がついているので、清岡の見解は時間があったら読んでみよう。 開始2日。わずか3本の先行文献で、「いけるんちゃうか」感が出てきた^^。明日は講義がないので、那覇図書館である。(続く)
Apr 11, 2012
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以下2週間弱にわたって、谷川俊太郎「朝のリレー」について調べ、レジュメを作成するための手順を示す。前期のゼミでは、だいたい作品を決めてから2週間ぐらいで発表なので、その限られた時間でどのように調査し、研究史をまとめ、問題を発見・設定し(重要)、考察し、レジュメを作成するかをリアルタイムで示す。まずだいたいの予定。10日火(今日)作品の決定、調査開始。11日水 研究史の整理112日木 研究史の整理2 書誌の確認13日金 調査および問題の絞り込み114日土 家族サービス日全休15日日 新入生歓迎企画があるので、たぶん全休16日月 授業がたくさん、夜の大学院まであるのでたぶん何も出来ない。17日火 調査および問題の絞り込み218日水 問題の決定と、資料の点検 学生はこの段階まで来てから質問に来ること。 「先生何をやったらいいのかわかりません」禁止。 そのためにこの企画をやっている。19日木 考察20日金 考察およびレジュメ作り21日土 お休み22日日 予備、理想的にはお休み23日月 発表 結構タイトだな。 さて今日は作品を決めるわけだが、「朝のリレー」にした。この作品は中学の教科書の定番教材で、一見すると非常に平易である。過去何度か教育実習の研究授業で見たのだが、何か物足りない感じがした。昨年度、国語科教育法の立場からこの詩を取り上げた修論を審査し、おもしろかったのだが、文学研究としてはもうちょい違う視点もあるのではないかと、再び関心をもった。この詩の秘密は「カムチャッカ」と「柱頭」にあるんじゃないのか。わからないけど。 で、さっきからネットであれこれ検索したのだが、いきなり壁にぶつかった。初出がわからん。既に前倒しで池田和彦氏「谷川俊太郎「朝のリレー」私解」聖徳学園岐阜教育大学国語国文学 9, 1990-03-15というのを拾ったのだが、作品の初出が明示されていない。院生の修論を取り出してみたが、これにもない。どうも国語科教育法の論文の場合、教材の初出というのはあまり問題にならないのかもしれない。だが私は文学研究者なので初出がわからないというのは、異様に不安である。 なんとかネットで「谷川俊太郎 非公式ページ」というのを見つけた。管理者はニコニコ動画とかで活動している人のようで、本職等は不明である。しかし谷川本人とコミュニケーションを取っているようだし、かなりの時間をかけた労作である。リンクは自由だそうである。http://tanikawashuntaro.jimdo.com/ そのページには「朝のリレー(『谷川俊太郎詩集』(日本の詩人17)(河出書房))」とある。出版年は1968年である。ここを軸に再検索すると音楽家の方が研究しているページにぶつかった。http://music-1000.blog.so-net.ne.jp/2010-04-17-2 本格的な異同を調査しており、後に再び検証したい。このページでも一番古いものは河出書房版である。ただ気になる記述が。「最もオリジナルに近いものと思われます」むう、これ以前にオリジナル(雑誌初出等)があるのか?今日調べたところ谷川に全集を名乗るものはまだ出版されておらず、最もそれに近いのが思潮社版の正続『谷川俊太郎詩集』の1994年版(新版)のようである。実は以前見たことがあって、かっこいい本である。だが残念ながら本学図書館には無い><県内のあちこちの図書館に置いてあるのだが、これは木曜になる。 仮に1968年に書かれたものだとすると、宇宙ブームから大阪万国博へと向かう時代の流れに位置づけられることになる(問題の芽1)。今日はこれくらいかな。(続く)
Apr 10, 2012
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先日子ども達の見ているテレビをのぞいたら、パンドンを運ぶ輸送船が映っていたのでそうつぶやいたのである。当然、中からパンドンが出てくる。字幕で「パンドン」。「お父さん、何で知ってるの?」ばかもの、私を誰だと思っているんだ。と威張るほどでもなく、私たち世代の「お父さん」はそれぐらいわかるだろう。日本各地のお茶の間で展開された光景かもしれない。 どうやら「ウルトラマン・サーガ」という映画の宣伝番組のようで、過去ウルトラマン達を苦しめた怪獣が復活するらしい。パンドンの場合、セブンの体調が悪かったから苦戦しただけで、それほど強くないような気もするのだが。総大将はゼットンである。45年経っても最強はゼットンなのか。こちらは紫藻さん期待のAKBもでるようなので、若い人も見に行くのだろうか?それとも狙いはずばり親子で鑑賞? 「愛と誠」のリニューアル版も作られたようである。「サイボーグ009」は息子さんが完結編を出すそうである。あとカラー「ウルトラQ」。60年代に誕生したサブカルは、70年代に事実上完成し、機材の高度化以外のクリエーティブな部分では、その後同工異曲なのだろう。
Apr 7, 2012
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沖縄にPAC3が配備された。当然県内の関心は高く、記事も大きい。私個人は特にこれといった大事件は起きず、何事もなかったように終わるのではないか、という根拠の無い楽観を抱いているが、一般の県民も大体似たような感覚ではないだろうか(違うかも)。まあ、素人の私の意見などはどうでもよい。問題は琉球新報の紙面構成である。 琉球新報は、4日5日両日に渡り、4人の「識者」に意見を求めている。ひとりは新崎盛暉氏。新崎氏の意見は極端なのであるが、長年沖縄識者の代表とされている方なので、仕方ないのだろう。今回も期待通りぶっ飛んだ主張をされている。「衛星を打ち上げている国はたくさんある。日本が衛星を打ち上げるとき他の国の上空通過していないのか。なぜ北朝鮮のときは大騒ぎするのかが問題だ」 そしてミサイルを口実に自衛隊を配備することに懸念を表している。恐れながら日本の衛星は東側向きに発射され、大気圏突入の際燃え尽きる設計になっているので、上空というのが大気圏を指す場合、問題ないかと・・・。まあ、日本には北朝鮮と違って言論の自由があるから、このような意見も自由であるし、これを取り上げることも問題ない。 次に纐纈厚氏の意見が取り上げられている。纐纈というのは見たこともないような漢字であるが、「こうけつ」と読み、由緒ある姓のようである。山口大の教授である。なるほど、本土の知識人に意見を求め、新崎氏の意見を相対化しようとしているのか、と思いきや「「衛星」に便乗して配備を正当化し、世論の反発も緩和しようとしている」 あのう、新崎氏とほとんど同じ意見であり、わざわざ聞く必要あったのだろうか? 纐纈厚氏については不案内のためネットで調べたところ、世界史上で旧日本軍ほど残虐な組織は無かったと主張する藤原彰氏の弟子であり、本人も中国共産党と結びつきが強く、日本の弱体化こそが、世界平和の基礎であると考えている方のようである。 その前のページでは孫崎亨氏のインタビュー記事がある。孫崎氏は元防衛大学教授である。なるほど、軍事・防衛の専門家の意見が出てきたか。ここで新崎氏と違う見解が提示されるのか、と思いきや、孫崎氏によればミサイル迎撃は不可能であり「日本政府は「これ幸い」とばかりに米国の意向に沿ってPAC3配備を機に南西地域の自衛隊配備を図る方針だろう」 え?これも新崎氏と同じ意見なのですが・・・。孫崎氏については不案内のためネットで調べたところ、軍事・防衛の専門家ではなく元外交官であり、特に反米思想の持ち主のようである。防衛大元教授というのは事実であるが、特に兵器に対して詳しくない人物である。だが一般人は防衛大の元教授が言っているのなら、防衛上の正しい見解だと思いかねない。 これら3人の意見の前日には我部氏の意見が掲載されている。我部氏はPAC3の配備は意味がなく、北朝鮮に自制を促すべきだと主張している。これもまた前記3名と似たような意見である。だが一般国民、一般県民はすでに知っている。北朝鮮という国は説得してどうにかなるような国ではない。 だがしかし、私は4人の人物に対してはそれほど批判的ではない。繰り返すが日本は思想・言論の自由が保証されており、中国や北朝鮮とは違うのである。北朝鮮に好意的で、日本に対して批判的な意見んも自由である。問題は琉球新報である。普通この種の議論ではPAC3配備を評価する立場、中間的な立場も掲載すべきだろう。インターネットの普及により、多様な意見が閲覧可能な今日、琉球新報の紙面は異様である。
Apr 5, 2012
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今回の出張目的は旧制中学校の校歌関係の資料収集だった。こちらについては国会図書館の機能向上のため、さくさく状態であった。一方個人的には、10・10空襲以後の沖縄新報を発見するという目的もあった。残念ながら空襲以後どころか、全く所蔵されていないことが分かった。所蔵されている「沖縄新報」は、戦後発行された別の新聞である。 国会図書館は例えば「沖縄新聞」(これも同名紙有り)を所蔵している。これは敗戦後、捕虜収容所内で発行されたガリ版のもので、よく残っていたなあ、などと思うのであるが、要するに沖縄戦以後の物は些細な物でも結構残っているのである。これに対して沖縄戦による破壊・消失というのは徹底的なものであり、現在閲覧可能な比嘉春朝文庫版は、たまたま比嘉が東京で購読していたから、何とか残っているというものである。しかしこれについても10・10以降船便が途絶えたため、おそらくこの時期の沖縄新報は一部も本土に運ばれていないものと思われる。他に沖縄県立図書館には宮城信治資料版があるが、これは昭和一八年までである。 ただ県外にはほぼ無い、とわかったのは一つの収穫である。新学期が始まったので忙しくなるが、もう少し調査してみようと思う。
Apr 5, 2012
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小学生の頃サンスタースパイ手帳に夢中になったことがある。その延長なのだが、A6ミニでハサミとホッチキスまで収納できるとは、文具も進歩したものである。
Apr 3, 2012
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今年の1月からのようだが、国会図書館のシステムが変わった。といっても普通の図書館のようになっただけだがw 従来国会図書館というのは、行くたびに一日閲覧の手続きをしなければならず、入るだけでも大変だったのだ。ついに個人利用カードの発行に踏み切った。しかも有効期間3年という優れものである。行った事ない人にとっては「なにそれ?普通じゃん」ということだと思うが、長年苦労してきたものとしては、ついにここまで開放されたか、と感涙ものである。 そうでなくとも国会図書館は過去10年ぐらい、行くたびによくなっている。まず職員のみなさんの態度である。私が学部生の頃はいかにも官僚という感じであり、同じく大型の都立中央図書館と比べても雲泥の差であったが、非常に親切になった。今はシステム移行期ということもあるのかもしれないが、検索フロアには絶えず数人の職員がスタンバっており、不明な点があって手を上げると飛んできてくれる。 さらにこの点が重要なのだが、請求後、資料が届くのが非常に早くなった。コピーも早い。20年ほど前は、午前と午後で一つずつしかゲットできない、などということもざらであったが、びっくりするほど早くなった。もちろん電子化の賜物ではあるが、国民の請求にいち早く応えようとする職員の士気も高いと思われる。 うちの学科には図書館司書志望が多いのであるが、最高峰にチャレンジして欲しいと思い、採用試験案内をもらってきた。4月26日消印有効である。
Apr 2, 2012
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国会図書館とはいうまでもなく国会議事堂に隣接している(京都にもあるけど)。これまでなんとも思ったことはないが、今回突如「そういえば自分は国会を見学したことがない」ということに気づいた。年のせいか最近、今やらねば多分一生やらないだろう、と思うことが多くなった。「いつかやろう」は禁物である。「いつか」は永久にやってこない。 で、早速見学した。衆議院の方は事前予約やなんたら面倒くさいようだが、参議院の方は飛び込みでOKである。手続きも簡単。可愛らしい女性の衛視さんが案内してくれる(いつもその人なのかどうかは不明である)。見学自体は一時間弱である。 感想であるが、大変よかった。しかも子供時代ではなく、この年で初めてなので、感動もひとしおである。建築という面からも、工芸という面からも、当時の国力の粋を集めていたことがよくわかった。また戦前からある建物なので当然なのだが、皇室の存在が非常にでかい。行ったことない人にはおすすめである。玉座のレプリカ(議事堂直前に展示室がある)
Apr 1, 2012
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