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夕暮れ過ぎの職場。のびのびの髪の毛がちらりと目に入る。なんとそこにしらががっ、しらががっ、しらががっ、、、、傷んでいる髪で先の方だけ白いのは時々ある。ところが今回のは根元まできちんと白い。折しも今日の昼休みストレスが体に及ぼす影響について刻々と体がさびついていくのを感じる、などと発言していた私。ちょっと『あるある大事典』に毒されている。めったに見ないけど。イメージ。それが、こんなに髪が白くなるまで気づかなかったとは!(イエ、1本見つけただけですけど)あまりの迂闊さに即帰る。
2006.06.28
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実はなにやら忙しい。もうすぐ戯曲演習のスクーリングの課題提出期限なので話を練ろう練ろうとするけど日々頭の中が梅干の種みたいに疲労してしまって暇さえあれば眠ってしまうのであった。普段就いている仕事は、世間一般的には楽な方だ。だけど今ちょっと忙しい。その上、それを見せまい見せまいと余計な気を回してしまいよけい気疲れしている。労われるのは別にいいのだけど、哀れに思われるのがいやなのであった。本来、仕事上に哀れという感情はありえない。哀れに思われるような状況がほんとにそこにあるのならべつに自分の力でそこから抜けられる。なのに、時に感情的に偏った見方に捉えられるのが我慢ならないのであった。そういうのは心底鬱陶しい。それで、そういう状況を一生懸命避けている。機を織る鶴の気分(ちょっと違うけど)。気持ちにゆとりをなくしてはいけないと思いゆとり確保にも努めてみたり。ゆとり確保に努めるゆとり。ということは、まだあんまり忙しくないのかも。。。?まあどっちでもおんなじ。とにかくこの隙に今週中に絶対戯曲演習の課題をやろう。来週からは放送脚本の課題をやろうっと。
2006.06.26
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日頃サッカーを見るわけでもないけどワールドカップのたびに何となく見てしまう。しかし今朝はお隣の韓国も予選リーグで敗退していた。休みだったので午前4時からの試合を生で見よっかなと思い、2時ごろから仮眠に入ったが気づくと7時。4時半(“半”というのがいかにもにわかファンぽい)にかけた目覚ましの音に全く気づかなかった。4年前からサッカーに関する知識が増えていないので韓国といえば、アン・ジョンファンだ。4年前にこの人をはじめて見た時はなぜおばちゃんパーマなのか!?というので興味を持った。でもそれがすごく似合っていてサッカー選手としても大舞台に強い。なんとも華のある人だなあ~と思ったものだ。韓流の人たちが世間ではやっていてもあんまり興味を引かれない私にとって最もかっこいい韓国の人はこのアン・ジョンファンだ。ほぼ4年ぶりに見たアン・ジョンファンはおばちゃんパーマ度が少し小ぶりになっていた。ちょっと年をとったせいか、ほんの少し枯れた感じがさらにかっこいい。なのに負けてしまった。アン・ジョンファン、いくつになったんだろう。4年後、出てこられる年なんだろうか、、、難しいような気も…ということは今回が見納め?さみしい…せめて早起きすればよかった。
2006.06.24
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先日観た舞台「LOVE LETTERS」。幼馴染の男女が、50年間にわたり相手に書き送った手紙を舞台上で読み上げる朗読劇。お互い、相手に愛情を持っている。にもかかわらず、気持ちとタイミングとが合わず、恋人同士として過ごす時間は短い。親密に過ごすのはほんの一瞬。それぞれ別の人と結婚し、それぞれの人生を歩むことになってゆく。手紙はその間ずっと、書き綴られてゆく。途中、男が女に書き送る手紙に、次のようなくだりがある。この男は、書くことが好きな男だ。書くことで自分を表現し、そうして表現することが生きていくことだと、そう考えているような男だ。「…手紙を、自分の手で書く。自分のペンで。自分の字で。どこからでもない、自分の中から湧いてくるものを。そうして君に、ぼく自身を送る。(中略) 手紙がぼくなんです。たった一人のぼく。(中略)君はぼくを破き、ぼくを捨てるかも知れない。今日も、明日も。好きなだけ、死ぬ日まで。」(『上演版 ラヴ・レターズ』 A.R.ガーニー著,青井陽治訳 劇書房)手紙がぼく自身、確かにそうかもしれない。ただしそれは、“書いている主体にとっての"手紙『は』ぼく自身、ということだと思う。書いている本人にとって、書いている内容はどうフィクションを用いても結局本人自身、と思う。でもそれが相手にそのまま伝わることはない。相手が受け取る「ぼく」は、ぼくの思う「ぼく」と同じかどうかは絶対にわからない。というか絶対に同じではない(脳が違うんだから)。同様に、読み手の捉えた「ぼく」が、書き手の思う「ぼく」と同じとは絶対に言えない。舞台の感想とは外れてしまうけど人は他人のことをほんとにはわからない、ということをいつも思う。とはいえ、私も誰かや何かに共感することはある。なので、「わかる」という言葉を発する時はできるだけ「・・・ような気がする」と加えるようにしている。だってわからないはずだから。微妙な話をしている時にいとも簡単に、「わかる」と言われるとちょっとびっくりする。が、それがうれしいと思える時もありその時は、「ああ、わかる気がすると思ってもらえたのですね」と変換する。「言わなくてもわかるはずだ」などといわれるといじわる心がむくむくと持ち上がって「言ったとしてもわからないのでは?」と反論したくなる。期待するのは自由だが、期待に応えないのも自由だ。全く個人的な嗜好ですし、社会人としてはいつもいつも実践できているわけではなく、実践しない時に何か悪意があるわけではないですが。だから、受け取り手はいつも自由だ。誤解を恐れる気持ちは書くときの私にもあるけど、何を読み取り何を考えてもらってもかまわないはずだ。「ぼくを破き、ぼくを捨てるかもしれない」というリスクを負うだけではない。書かれたぼくをどう受け取るかは知り得ない、ということ込みだと思うのだがどうもこの男、自分の書いたものは意図の通りに相手に伝わると思ってるんじゃないかという節がある。いただけない、と思いつつそれでも相手に期待してしまうのが恋愛感情なのかもしれないとも思う。それは幻想を含んでいる。そしてそれもまたよし。。。ただこの舞台の場合女の方が男よりずっと感覚的なので手紙に書かれた「ぼく」を簡単に受け取ったりはしない。そんなことを言われるのがまさに「うざったい」といった風に手紙は嫌だと主張する。この女の求めるのは実在の男自身だ。……(しばし考えております) つづく (かもしれない)
2006.06.23
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このごろ好きな佐々木蔵之介さんの出ている舞台、「LOVE LETTERS」を観る。偶然見つけた所属事務所のネット優先予約で先日チケットを取ったところ前から3列目!という幸運だった。50年にわたって2人の男女の間で交わされた手紙を佐々木さんと中嶋朋子さんが舞台上で読み上げるという内容で何度も何度もいろんな俳優さんの組み合わせで演じられている。今回のこの2人の組み合わせもすでに再演。感想は現在熟成中。初めて「実物」を見た蔵之介さんは同窓生という先入観があるためか異常に親しみやすい印象。演じている最中はあまり大きなアクションはないがカーテンコールにてちらっと見せるしぐさがいかにも知ってる人にいそう!な感じなのだった。でもすっかり立派な俳優さんであった。見ず知らずの人に失礼ながら「大きくなって帰ってこられましたなあ~」と思う。とてもよい席だったので、周りは2人の俳優さんの熱いファンの人が多いのか?と思われ最後に周囲でスタンディングオベーションが起きた。内容も涙が出るくらいによかったし私もスタンディングで、と思ったがなんだか気後れして立てなかったのであった。そのかわりめいっぱい拍手した。小心者である。
2006.06.21
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久しぶりに近所のPエステサロンに行く。春先に試してみた石膏のパックを思い出して再び。クレンジングをしたあと蒸気を当てて余計な皮脂を取ってもらいぷるぷると震える器具(いつも目を閉じてるのでなんだかわからない)を用いて首から頬にかけてマッサージしてもらいそのあとパック。ガーゼ(らしきもの)をかぶせて上からパック剤を塗る。その上から石膏を乗せてみっちり密封。詳しい成分はよくわからないが、乗せられるほどにずっしり重みがかかってくる。まず、石膏の内側がじわーんと温かくなり顔全体がほころぶ。そのあと冷めてくるに従って再び感じる重みとともに水分が肌に入っていく感覚。気持ちよくって知らないうちに熟睡。石膏を外してもらうと眩しくてまぶたが開けられない。「ゆっくり目を開けてください」と、母親の年頃の店員さん。以前よくドラマで見かけた、眼科の外科手術後の様子が脳裏によぎる。目を開けると電気を落とした室内。それでさえ眩しいと感じるのだから、石膏の中は漆黒の闇らしい。きれいな人はもっときれいに。そうでない人もそれなりに。という昔のキャッチコピー(フィルムの)を思い出しながらふにふにとやわらかくなったほっぺたに満足しつつてくてくと歩いて帰る。
2006.06.19
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昨晩、電気を消してうつらうつらしながらテレビをつけてワールドカップの中継を流す。部屋が暗くなったのでハムスターのはなごろうが起き出してがさごそする音がする。はなごろうは最近目が悪い。目やにが出ているので目薬をさしてやらなきゃなあ~と思いながらひきつづきうとうと。テレビではイングランドとトリニダード・トバゴが真剣試合をしている。なんとなくイングランドを応援していた私。ああ、ここで、はなごろうをとり上げて目薬なんかをさしたらイングランドがひとり減っちゃうから、ベッカムが怒るかもなあと、ぼけーっと考える。しかたないなあ、もうちょっと待つかあ、とひきつづきうつらうつらぼけーとひとしきり考え、、、そんなわけあるかー!!と突然目が覚めた。絶対ベッカムは怒るまい。あまりのことにくっきり目がさえたのでテレビ画面に映る選手とはなごろうの大きさを比較しながら想像してみる。どうあてはめてもにぎりこぶし大・2頭身のハムスターがテレビの中の選手に混じってピッチにいるとこわい。違う種目になる。
2006.06.16
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ブログの書き方って、みんなそれぞれなんだなあとつくづく思うことのあり。考えていることをそのまま口にしたり書いたりするとなぜかわりと説教されることの多い私。なので、ブログっていまだによくわからないけど書くにあたってはいろいろセーブしている。なので、少なくとも人を傷つけないように知らない人がたまたま読んでも不快にならないようにそして誰にでもそこそこ意味のわかるものを心がけてみてきた。不特定多数が対象でないと書き味がどんどん暗く重く難くなっていく傾向があるのであえてそれを避けているのであった。そんな中でささやかなルール付けをしてきた。強く思うことが書きたいときはthe world という名のもとに書く。書き味が凝り固まって苦しくなった時は芸風リセット という名のもとに書く。そこはちょびっと創作色があったりする。私事ながらまだまだ書き足りない。まだ、今のところ楽しい。知っている人が読んでくれるのはもちろん、知らない人が読んでくれるのも楽しい。もちろん、書けないことも、書いてないことも多いけど。そんなことも含めて。なのでちょこちょこ読んでくださる方にはまだしばらくお付き合いいただけたらうれしいなあと思う。いつやめるかわからない、ということ込みで。
2006.06.13
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先日、宴会の席にて、わりと好感を持てる人と意見の一致を見た。一日中誰ともしゃべらなくても気にならない。お互いそんなタイプであることだ。そして自分自身は誰とも会話しなくてもまったく差し支えないけれどいっしょに過ごす相手が気を遣うんじゃないかというところが気になる、というところも一致したのであった。まず私がそのことを指摘されたのだがそうは言ってもあなたもそうなんでしょう、そのことも言いたいことなんでしょう、と思ったので○○さんもそうですよね、と言うと会心の笑みでもって同意された。お互いの指摘がぴったりあてはまって、きっとお互いうれしかったに違いない。人と長々と話すことは苦手だ。日常的なおしゃべり、聞き手としては楽しく聞けるけど自分のことは話せない。話したくない、というのとは違う。話したいけど話せない、というのも違う。何が話になるのかわからない、そんな感じ。話し始めたとたんに話し終わりを探してそこに向かってしまう。ことがらをひとつひとつ紡いで長く語りつづける持久力がない、と思う。それならよっぽど、何かについての意見を求められる方が簡単だ。さて、そういう私の書き味はどこにあるんだろう、と考える。文章でもって何かを作り出そうとするときにしばしば目にするのは「細部の積み重ねの上に成り立つリアリティ」というようなことだ。話し手としての私は、細部の積み重ねを最も苦手としている。そこで、安直にも走ってしまいそうなのが「詩」なのであった。多くの言葉をかけずに、行間をも含めて最大の意味をあらわしたい、そういう希望があるのであった。そして、向いているかどうかはわからないけど書きたいと思うのは純文学だ。筋が面白くなかろうと、若干難解であろうとも書きたい世界を妥協せず書いてみたいなあといういまだ漠然とした野望があったりする。そこでの勝負は文体だ。いろんな文体を試してみつつ、とはいえ自分の文体を損なうまいと思っている。なので文体模倣は興味深い。このところリンク友が、リンクしているブログをやめると言い出したり去年も別のリンク友が別のところでの日記を中心にしたいと言っていたりしてそれを止めるつもりは全くないけれどもなんだかさみしいのであった。どこでもなんでも気がねせずに自由に書けたらいいのにと思いそれがどこであってもなんでも書かれたものは私は読むのに、と思う。そんな気分で今日の日記を書き始めたところ本日の私としてはこんな内容になったのであった。これは、まったく私事の記事だ。つまり私自身もそういう決心なしにはこういう個人的一辺倒な記事を書くことができない。リンク友の気持ちがわからなくもない。でも、なんだかさみしいのであった。。。
2006.06.11
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エルド山に住む妖女、サイベル。その父とその祖父とが呼び集めた、古き言い伝えに名高い、魔力を持つ獣たちと暮らす。獣たちは名を呼ばれて捕えられた。そして彼女もまた、伝説に名高い「ライラレン」という白い鳥を求め、その名を呼びつづける。名を得ることが、そのものを支配するのと同義であるという遍く世界に伝えられてきた昔物語的世界の話。サイベルのもとには「ブラモア」という恐怖の象徴である妖怪が現れる。冒頭、サールのコーレンという青年がタムローンという赤ん坊をサイベルに預ける。タムローンの母、リアンナはサイベルの血筋のものだ。タムローンの父は、モンドールのドリード王。その妻のリアンナと、コーレンの兄、ノレルとの秘められた恋がタムローンの出生に疑惑を生じさせドリードの心を焼き長きにわたる諍いの種となっている。成長したタムローンをサイベルはドリードのもとに帰す。ドリードを意のままに動かすことのできるサイベル。サイベルの力を恐れたドリードが、魔術師を雇って彼女を支配しようとするところから、物語は大きく動き、サイベルはドリードへの復讐を強く心に誓う。岡野玲子さん1993年の作品。原作は『妖女サイベルの呼び声』(マキリップ ハヤカワ文庫)。繊細な絵柄が、原作の独特な世界観を、一幅の絵巻物のようにぶれることなく表現している。何より人物が魅力的だ。氷にたとえられる容貌のサイベル。彼女の不思議な能力を、人間でありながら理解し共鳴するコーレン。それでいて彼には陽の光のような暖かな魅力がある。2人はやがて結婚することになるのだがコーレンが彼女を抱きしめるシーンでは愛しいものの腕の中に過ごす安心感が呼び起こされる。物語の最後、サイベルの求めつづけた「ライラレン」が現れる。実はすでに彼女の近くにあったのだった。この「ライラレン」は物語中の最大の謎だが他にも森の賢者・猪の「サイリン」のかける数々の謎をすべて解き明かし大団円のうちに物語は終わる。
2006.06.10
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Kさんより、ワサンボンロールなるロールケーキを教わる。カノーショージュアンのワサンボンロール。ワサンボン、いつもながら石鹸のような語感だと思っていたところ立ち寄った百貨店にあったので購入。「叶匠寿庵の和三盆ロール」こう書くとサボンとは程遠い。物の名を正しく得ることは把握の第一歩だ。家にて切り分け早速食す。和三盆といえば、これまで押し菓子のイメージしかなかった。そこにあるのは細やかな砂糖のみっしり詰まった味覚。それでいて口の中でするっと溶け、と同時にするっと解ける。よってこの和三盆ロールにも軽やかな甘さを期待したものであった。口に入れた和三盆ロールは意外と密度が重かった。粒子の繊細なものは水分を引き寄せやすいのだろうか。生地はしっとりと湿っている。中のクリームは餡子の風味。餡+生クリームといえばクリームあんぱん、という貧困なイメージしかなかったが混ぜ合わせると意外なほどに品が良い。うすむらさきのクリームの中心に少量の小豆粒。最後に口に残るこの小豆粒が強く和を主張する。これは紛れもなく、和の菓子だ。today I image a commentator about cake culture, Japanese and Western cake culture.
2006.06.08
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ハリー・ポッターシリーズ第6巻。一応出るたびに楽しみに読んではいるものの刊行頻度と記憶力が釣り合わない。およそ1年以上置いて次の作品が刊行される。なので、新しいのが出るころには前作をわりときれいに忘れている。しかもこのシリーズの特徴として登場人物が多い。エピソードの数も不要に多いような気がする。いろんなあれこれを大事に大事に詰め合わせた結果逆に「詰まっていない」作品になってるなあと思う。私の記憶力の問題かも知れないが。。。それでも途中でやめられないのは後半以降どんどん面白くなっていって最終的に、ああ~楽しかった~~となるのが5巻までの経験上わかっているから。前半にはふんだんに伏線が盛り込まれ、それが後半でほどけるように解明されていく。第6巻ともなると、5巻までのストーリーの中に実は伏線があったことが明かされていたりしてそんな伏線を全然覚えていないのが悲しいところだが作者は几帳面な人だなあ~と思う。今回は特に時間がなくて、超スピードで読み飛ばし、2晩で終了した。エピソードが理解できたかどうかもわからない。でも次が出るころにはどっちみち忘れてるから個人的にはたぶんそれで良いのである。ただ、下巻の後ろ半分は引き込まれて読み飛ばす必要もないほどのスピードで一気に読み上げた。読者にも主人公にもつらいことがあってこれはとても涙なしには読めない(に違いない)、と思いながら瞬きするのも惜しんで、涙の溜まる間もなく、終了した。早く次が読みたいなあ。忘れないうちに、早く早く。
2006.06.07
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みてきました。よかった。いまや数ある和み系日本映画の中でもきわだって和める。しかも力も抜ける。難しいことはなーんにも考えなくていい。時々笑えるところもありながら、全体的にはふとんにくるまれてるみたいに心地いい。基本的に大きなことはなんにも起こらない。原作のそんな感じがちゃんと出ていて安心。最後の方でこのなんにも起こらなさ加減をわざわざ台詞にしたところがあってそれだけはいらなかったのに、と思ったけど、手も足ものびのびのびる感じ。みおわって、だらだら~っと出て、好きなものを食べて、ぼけーっと電車に乗って、家に帰ってほこっとしてまただらだらする。あれこれ思い出して書く気も起きてこない。あとはもう寝るだけ。そんな映画でした。
2006.06.02
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母御の誕生日であった。にもかかわらずきのうは家の片づけを手伝ってもらい頼んでいたスカートが出来上がったと言って持ってきてくれた。中ぐらいの粗さのこげ茶のギンガムチェックのスカート。私の小さい頃、母は洋裁を習っていて一般のお宅の和室で開かれていた教室に連れて行かれた記憶がある。大きな座卓を囲んで何人かが作業している。母は私にコンパスを渡して、丸を書いて遊んどき、というようなことを言った。私は仕方なく丸を書いたものだ。でも何しろ丸は丸。コンパスでくるっと書いてもあっという間。変化を見出せずすぐ飽きる。しかしそうそうせかすわけにもいかず、退屈そうなそぶりを見せまいと一生懸命丸を書いて遊んだ。あれはいくつくらいのことだったのか尋ねるとなんと2歳くらいだったとのこと。しかし「え~またまる~?」と思ったことまで覚えている。でもそのがまんと気づかいの甲斐あっていろいろ作ってくれる母になったのであった。 写真はそのスカートの服地 このごろギンガムチェックが気にかかり気味
2006.06.01
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