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昨日の日記で「後世に遺す」ということはそもそも「子孫繁栄」がなくては始まらないという話をしました。でも、ここでさらに突っ込んで・・・一つ言いたいことは子供を遺すこと”だけ”が求められているわけではないということ。多くの人は子供を残しますがそれを望まない人、望んでも叶わない人、色々な方がいると思います。私も現に今まで望みながらいまだ叶っていないものの一人です。でも、子供だけではなくても何かを遺したい、何かを繋げたい、そいういう想いが私たちの中には存在します。自分自身が直接的に子供を残さなくても間接的に子供達が元気に健康に育っていけるたとえば自然環境を後世に遺すこともそれは地球全体でみたときの大きなチームワーク。だから、そんな想いも含めて想いを遺す色々なきっかけをウィルウィンドは提供したいと思うのです。・・・時々考えます。私がこんな事業を思いついてしまってそしてなんだか使命感のように突き動かされているその背後にある何かはもしかしたら私には「子供とは違う」別の形で想いを遺させる、想いを繋げさせる役目を与えているのかもしれないと。まだ何もしていないのにそんな余計なことだけには頭が働いたりします。笑人生とはかくもおもしろきものですね。どうなるのか、私自身も乞うご期待。
January 27, 2006
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ウィルウィンドのテーマ、「後世に遺す」。それは、「後世」が存在することによってはじめて意味をなします。では、我々は何故、「後世」を思うのでしょうか。それはいのちが繋がることを私たちの「遺伝子」が望んでいるから。つまり全ての原点は「子孫繁栄」なのではないでしょうか。子供が産まれてはじめて「後世」が存在しうる。そんなあまりに当たり前だけれど今の「少子化問題」がどれだけ重要かということをもっともっと根幹的なことで私たちは知っているはずです。そして、それに気づくことはお金や政策でがなせるわざではなく私たちが私たちの中に眠るもっと本能的な「遺伝子」で感じて行動すべきことなのだと思います。ウィルウィンドの存在は子供が産まれてはじめて意味を持ちます。文明の中でつい鈍感になっている私たち本来の想いにふとした気づきをくれるそんな「きっかけ」をウィルウィンドとともに考えていけたらと思います。今日、お会いした素敵な方といろいろとお話しをさせていただきながら基本に立ち返って、そんなことを考えていました。
January 26, 2006
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昨日お会いした方たちとお話ししていた中でどんどん使われていかなくなっていく日本語を後世に伝えていくことの大切さの話になりました。公共広告機構の広告「江戸しぐさ」をよく地下鉄車内で見ますがその「しぐさ」や「言葉」が失われるということはそのことそのものは例え時代の移り変わりと共に変化しようともその背景にある哲学は、伝え残されるべきもののはずです。だから私たちが、昔の言葉を知るということは昔の人たちの知恵や哲学を知ることに他ならずまたそれを伝承していくものが「言葉」なのかもしれません。「傘かしげ」という言葉、たとえ未来に傘に代わる透明バリアのようなものが登場して「傘」というものがこの世からなくなっても互いを思いやるマナーが江戸時代から大切にされてきたのだというその文化の成熟度や哲学を知る上でやはり忘れてはならない「言葉」なのです。以下、いくつかご紹介いたします。「三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる」といって子供を教育した。三歳までに素直な心を、6歳になるとその振る舞いに節度をもたせ、9歳では人様の前でも恥ずかしくない言葉遣いを覚えさせ、12歳ではきちんとした文章が書けるようにさせ、15歳にもなると物の道理がわかるようにしなければならないというものであろう。この教えは現代にも通用する教育論である。 「お心肥やし」。江戸っ子は教養豊かでなければならないということをこう呼んだ。ここでいう教養とは読み書き算盤のほか、人格を磨く事が何よりも大切なのだという意味合いが強く込められている。 「打てば響く」。江戸っ子はすばやく対応することを身上とした。当意即妙の掛け合い、初対面で相手を見抜く眼力など、その切れ味が真骨頂とされた。 「三脱の教え」。初対面の人に年齢、職業、地位を聞かないルールがあった。これなどは身分制度を全く意識させない教えであり、相手を思いやる心と、人を肩書きだけでは判断しないという、何事にも捉われない意気込みがみてとれる。 「時泥棒」。江戸城の時計は一分の狂いもない正確なものであった。このため、幕府に仕えている武士ばかりではなく、商人たちも時間には厳しかった。現代でもまったく、同じことなのだが、都会人のマナーというべきであろう。 以上、こちらのページから抜粋させていただきました。
January 25, 2006
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阿弥陀堂だよりを見ました。日本での宗教観についてある方とお話ししていたらこのDVDを貸して下さったのです。*~*~*春、夏、秋、冬。はっきりしてきた山と里との境が少しずつ消えてゆき、一年がめぐります。人の一生とおなじなのだと、この歳にしてしみじみ気がつきました。お盆になると亡くなった人たちが阿弥陀堂にたくさんやってきます。迎え火を焚いてお迎えし、眠くなるまで話をします。話しているうちに、自分がこの世の者なのか、あの世の者なのか分からなくなります。もう少し若かった頃はこんなことはなかったのです。恐くはありません。夢のようで、このまま醒めなければいいと思ったりします。 「阿弥陀堂だより」より、96歳、おうめ婆さんの言葉*~*~*山の上にご先祖様がいらっしゃる。そんなことを日常で意識した感覚でいのちの繋がりを自然に受け入れる。ウィルウィンドではこんな昔ながらの感覚を現代風にアレンジしてみんなで考える場を提供したいのかもしれません。いや、現代風にアレンジしなくてもこれはきっと今でも舞台となった信州の山奥やもちろんふつうの田舎でもごくごく自然に受け入れられているあたりまえの原風景なのかもしれません。色々な方のお話をきちんと聴いて、後世にのこしていきたいと思います。
January 22, 2006
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想いを後世に遺す1つの方法として「ドナー登録」のお話しを以前メルマガで書かせていただいたことがありましたがその「ドナー登録」がもっと身近になるようです。⇒ドナー普及の切り札 臓器提供意志ネットで登録 厚労省、今夏にも開始とってもいい物やサービスや取り組みを考えたとしてもそれをどうやって利用してもらうかその「商品+普及方法」とのセットになってはじめて世の中に利用してもらえるのですよね。
January 19, 2006
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昨日ちょっと酔っ払って「宝くじのような夢」を語る方のお話しをしました。つまり、一枚300円で「夢を買う」のと同じような気持ちでお金を使わせてくれる方です。朝起きて読み返してなんだかちょっと怪しげな宗教っぽかったので(笑)まずは補足。その方はバブル期に資産総額3000億という日本有数の金満家になったのちバブル崩壊に伴い1000億以上の借金をされた。でもそれでも会社を潰さず復活されさらに数年後に自分はまた億万長者だとおっしゃる。自分はもうそれを知っているのだと。その方とはマンスリーマンションでおなじみ「ツカサ」の川又三智彦社長。ワンワンワン♪の犬の音色から知らぬ間にアードレスはにゃんにゃんにゃん テンコテンジェピー♪の猫の音色に変わっていた背景にはそんなことがあったのです。そして現在みなぎるそのどでかい夢は「昭和30年代村計画」この方ならやりかねないと最後は思わせてしまうそして一緒に夢を見たいと思わせてしまうたとえそれがうまくいかなくても「宝くじよ、夢をありがとう」と思ってしまうようなそんな力みなぎるものでした。いや、もちろん宝くじだからといってはずれるわけではなくきっと彼なら、当たりくじを引くまで挑戦し続けるので安心していますがそれでもなおかつ「だまされてもいいから一緒に夢をみたい」と思えるくらいのエネルギーを持つ人はそう多くはありません。ちなみにご本人は騙されても騙されても次にいいことが必ずあると知っているから気にしないらしい。そしてその気前のよさから本当にしょっちゅう騙されているらしくついこの年末も信頼していた方に逃げられたと話していました。でもだからこそ、今年が凄くいい年になるというのです。笑最後は丁寧に社内まで案内していただきました。川又社長、夜遅くまで、ありがとうございました!さて、ようやくタイトルの堀江社長のお話。(長くてすみません・・)堀江さんがルール違反をしたかどうか、それをここで問題にするつもりはないのですがでも果たして「だまされてもいい」と思える方だったかどうか。堀江社長はどちらかというと口下手。昨日の川又社長はどちらかというと饒舌。もちろん比較するようなキャラでもなんでもありませんが堀江さんが日本経済という数字に見えるものだけではなくて日本人の心にエネルギーを与えたという意味でそのパワーは計り知れないものであった気がします。その口下手さや態度から最初から「この人ならだまされてもいい」というタイプではなかったかもしれないけれど時間を追うごとになんとなく憎めないキャラが浸透して今回のことも含めて手の平を返したような逆風にもかかわらずそれでも応援したいと密かに思っている人は多いのではないでしょうか。つまり彼は時間をかけて「だまされてもいいや」という地位を自然と築き上げてきていたのかもしれません。そういった意味では「だまされてもいいや」くらいの突き抜け感のある人、そういう人が日本を元気にするのであってその価値を提供することは評価したいしそしてその恩恵をうけて元気になった私たちはライブドアの株価がストップ安や売買停止になることは仕方がないにしてもIT株全部ひっくるめて、いや株式市場全体をひっくるめて大きく下げるような反応はしたくないと思うのです。人を巻き込む力があっても「私はあなたを信じてついていきます」と盲目的な信者を増やすだけのレベルの人と「だまされてもいいや」といって自己責任の上で夢に便乗してくる人をもつレベルの人。後者のような人がもっと日本に増えて欲しいしそういう魅力を持った方には何があっても復活して欲しいと思います。最後に、これまでだますだますと連発してきましたがルール違反はもちろん厳重に罰せられるべきだと思っています。私も夢を語り続けたいけれどもちろん「だます」つもりは毛頭ありません。そしてなによりも自分自身の精神衛生の為にも「誠実」が一番であると思っているのでその心の鏡に曇りのない道をひたすら進んでいきたいと思っています。
January 18, 2006
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今日はとにかくでっかく「夢」を語る方に出会いました。私も負けじと夢は大きいつもりですがあの天井突き抜け系のエネルギーは確かに人を巻き込みます。だまされてもいいや、この人についていこう、一緒に夢を見たいから追って行こう。そんな人なんです。宝くじを買って、はずれても文句を言わない。だって、夢を買ったと思っているから。そんなことを思わせてくれる方でした。私の夢もめちゃめちゃ規模が大きいけれどみんなで一緒に夢を見る。ワクワクする刺激のある人生を人様にあげられたらそれだけで価値があることなのかもしれません。結果はもちろん大切だけれどそんなことはどうでもいいと思わせてくれるくらいの「宝くじレベル」の吸引力。私の夢も超でっかい。なんたって「人類の繁栄と平和」ですもの。「人の魅力」というものがどれだけの威力を発するのかわかったので私はこの「夢語り」にますます拍車をかけようかと思います。暑苦しいかもしれませんが本気度合いはオンリーワンのナンバーワンです。一緒にみんなで夢を見ましょう!ちょっとお酒も入っていて気持ちは大きくなっていますがでも、明日の朝もきっと同じ気持ちです。100%保障します。
January 17, 2006
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私の仕事はなんなのだろうと考える。「後世に遺す」「後世に繋げる」というテーマを扱ったのはいかに「今を生きる」か、ということを考えるヒントになるからではないかと考えたからだ。この度、「聴き書き」による「おじいさまの歴史/おばあさまの歴史」という家族のための小さな口述本を作るサービスを開始する。私たちには「今」しかないのではなくて、時の流れの中の一部であっていのちを繋ぐ活動の中間走者だという責任があると思っている。…⇒曾祖父母⇒祖父母⇒両親⇒「私」⇒子供⇒孫⇒曾孫⇒玄孫⇒…この流れの中の一役を担っているだけ。そしてそれはとても当たり前かもしれないことだけれど毎日の生活の中で、つい忘れがちなことだったりもする。大切な、でもいつかは必ずいなくなってしまう血の繋がった家族の歴史をきちんと「知る」ということ。それは他でもない「ああ、いのちは繋がっているのだ」ということを改めて感じるきっかけになる。歴史の教科書で学んだ一行を生きて体験した人が目の前にいる。それも血の繋がったおじいさまやおばあさまだ。そうなると、それはもはや年号暗記の「歴史」や見たこともないヒーローが活躍する「歴史」ではなくて私たちの血を流れる「現実」のものになる。そして彼らが生きなければ、けして存在しなかった「自分という存在」をあらたな視点から見ることができる。「いのちが大切だ」という本当の意味が「アタマ」と「カラダ」で感じられるようになる。そしてその同じ感覚を次の世代にも、そしてその次の世代にもきちんと伝わるように「遺す」ということが今を生きる私たちの一つの責任でもあると思っている。さらに同時に「遺す」ということはつまり、その方が「いつかは必ずいなくなる」ということ意味していてそうやって「死」をきちんと見つめるということも「今を生きる」ためには欠かせないこと。「なんのために生きるのか」や「どう生きるのか」などという根本を本気で考えさせてくれる。幸か不幸か我々には他国のように人々の毎日の行動の指針となったりはたまた政治的経済的判断を下す際に活用する思想なり宗教が根付いていない。いろいろな宗教をかいつまんだような文化の中で「そもそも」というところを考えずに生きてしまいがちである。宗教を信じる多くの人たちには過去の宗教家たちがその「そもそも」の答えを提示してきた。だから、よくよく話し込んでいくと我々多くの日本人が「うーん」と唸ってしまうところでいとも簡単に答えを言ったりする。でも、だからこそ「うーん」と唸る人が多いからこそ一番の可能性を持った国でもあるのではなかろうか。自由な発想で過去の思想化、哲学者、宗教家たちがしてきたことを自分達のアタマとカラダで感じられるのだ。日本の進むべき方向、世界の進むべき方向に民族や宗教の壁を越えて考えやすい立場にいるのではないだろうか。私がウィルウィンドを立ち上げたのはそんな「いかに生きるか」「どう生きるか」「何が大切か」という根本を一人一人が考えるきっかけを提供したいと思ったからだ。私にだってもちろん「答え」はわからない。「どう進むべきか」だなんてわからない。でも、みんなで本気で考えたら日本にとって、世界にとって、人類にとって、地球にとって何かすごいことになるんじゃないかと鳥肌が立つような予感がした。だから私はその「きっかけ」を提供しようと思った。「後世に」というキーワードで先を見つつ、今を生きることを問う。そんな最初のサービスはあなたの「おじいさまの歴史」「おばあさまの歴史」を遺そうきちんと形にして次の世代にも伝えよう、というもの。他にもいろいろな手段で「きっかけ」を提供したいと思う。そうやってみんなで「そもそも」を本気に考えて宗教のない国から世界に何かを発信していけたらこんなに素晴らしいことはないのではないだろうか。***またまた得意な大きな話になってしまいました。笑大きな視点でものごとを見ながら目の前の小さな雑事の処理に戻りたいと思います。「おじいさまの歴史/おばあさまの歴史」にご興味がある方はinfo@willwind.co.jp までお問い合わせ下さい。
January 16, 2006
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とあるブログにデビューしました。活動を共にしている「昭和の記憶」のブログです。今日も一緒にミーティングをしてきました。仲間がいるっていいですね。ホワイトボード使っちゃったりして。もちろん、会社員のときは普通のことでしたが半年近く一人仕事をしているとそんな小さなことでも新鮮だったりします。ご縁というのは本当に不思議です。素敵な出逢いがあると「生かされている」ってますます思ってしまうのですよね。昭和の記憶のブログも、こちらともども、どうぞよろしくお願いいたします。
January 13, 2006
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ちょっと調べごとをしていて海やサンゴのことを知りたくてでも私のようなど素人、誰にどう聞けばいいのか皆目検討がつかなくてあっ、そうだ!とばかりに沖縄美ら海水族館に思い切って電話をしてみました。そうしたら電話で応対してくれたお兄さん、めちゃくちゃ丁寧に教えてくれました。この手がありました。水族館や動物園や色々な博物館。。。素人としてわからないことがあったらそういうところに素人向けに丁寧に教えてくださる専門の方たちがいるのですね。自分で探しておきながらなんですがなんだか新たな発見にちょっと嬉しくなりました。いつか行きたいなー、美ら海水族館・・・そしてお兄さん、ありがとう。それとも普通は電話では教えてくれないのかな。。。「海に一人でも目を向けてくれる人が増えるのは嬉しいこと」って言って、詳しく説明してくれました。お兄さんの海への愛が伝わってきました。
January 12, 2006
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近所のスーパーの前で鏡開きと称して無料のおしるこが振舞われていました。というわけで、「スーパー鏡開き」です。笑もちろん、私もお相伴にあずかりました。ちょうど体が冷え切っていたので、物凄くおいしかったです。なんか地域の繋がりっていいなー。お年寄り達がスーパーの前で腰掛けてなんともないお話をしている気持ちがとてもよくわかります。一昔前の私は、そのよさがわからなかったんですよね。平日夜は、残業して帰って少しでも自分の時間を確保したい。休日は少しでもゆっくり寝たい。睡眠をたっぷりとったら平日やりたくてもできなかった掃除も洗濯も本を読むのも映画を見るのもドライブも・・・あれもこれもをやりたくてそんな忙しいときに通りすがりの人とちょっと言葉を交わすことも避けてきました。隣近所も知らない、典型的な都会の暮らしを好んでいました。今考えると、心がすさんでいたんだと思います。そして、今、人との繋がりがあって自分が生かされていることを感じる毎日の中であのときの働き方は何かが違うと強く感じています。人間の一番大切な、暖かい心の通じ合いを「めんどくさいもの」とまで感じてしまっていたそんな自分の心の余裕のなさ。恥ずかしいです。そして、私が作る会社で働く人たちにはその大切なものを忘れないような働き方をしていただきたいと思っています。そういう環境を、絶対作っていきたいと思っています。・・・以上、深夜に一人事務所で仕事に励む、夢見る独り言でした。
January 11, 2006
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北朝鮮拉致被害者、曽我ひとみさんの夫ジェンキンスさんの著書「告白」のドラマを見ました。昼間は友人と天皇の後継者問題について話していました。万世一系の伝統なのか、国民のアイデンティティーなのかはたまた皇室の方々の個人としての基本的人権なのか・・・「宿命」について考えさせられた一日でした。そして上記にあげた方々には「宿命」と思われる人生が与えられたけれど果たして一見、「宿命」とは無縁で「自由に生き方を選択して」生きているように見える「私」はどうなのだろうと思いました。一般に「宿命」は自分の手では変えられない「運命」は自分の手で変えられると聞きます。でも「宿命」を「生まれたときから与えられた役割り」と考えた場合今、私が取り組もうとしていることももしかしたらそうなのかもしれないと思うのです。そしてこれは誰しもにあるものでそれが、一見「自由に選んでいるように見える」のか「自分の手ではどうしようもないように見えるのか」の違いだけなのではないかと感じました。私がこの人生を歩んできた道のり全てに意味があってそれらがパズルのように組み合わさって今の私を作っています。・・・というか、そう考えることが一番幸せだからそう考えたいのかもしれません。拉致被害者を考えても皇室問題を考えてもそして自分の人生を考えてもみんな、天から与えられた「使命」があるのだと思います。今年の初詣のおみくじは「取越苦労をしないで、精一杯に働きましょう」でした。結局は、そういうことなのかもしれません。(・・・おお、最後におみくじと繋がりました。)
January 9, 2006
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昨日テレビで「生まれ変わってもまた自分になりたいですか?」という質問に松井選手と宮里藍選手が間髪入れずに「はい」の「○」印を挙げていました。見ていてとっても爽やかで気持ちよかったです。自分の人生は自分の手中にあります。気に入らないことも、どんどん変えていけます。そして他でもない、変えられるのは世界中に一人だけ、自分の人生を変えられるのは自分だけです。毎朝が眠りから醒めたとき、生まれ変わったつもりで嫌なところを変えてみる毎時間、毎分、毎秒、いつだって「生まれ変わったつもり」になれます。全てが「自分次第」です。私も同じ質問への答えは「はい」です。今年1年、ずーっとそう思い続けられるように頑張りたいと思います。ちょっとダメだなと思ったら、すぐ気を新たに何度でも生まれ変わりたいと思います。こんな都合のいい性格も含めて、結構気に入っています。^_^
January 4, 2006
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元日に母と「ALWAYS三丁目の夕日」を見ました。昭和33年、東京タワーが完成した年を舞台とした東京の下町の希望と人情味に溢れた日常が描かれています。想定通りの内容の映画に想定通りのボロ泣きをしました。映画の最中だけではなく後からもじわじわきます。エンディングロールのところですでに感動の場面を思い出し、おいおい泣きそうになったので慌てて思い出さないようにするのに必死でした。笑「ものがないけど幸せ」「貧乏だけど幸せ」よく耳にする言葉です。でも、どうして「ものがないけど」や「貧乏だけど」が接頭語にくるのでしょう。ものがあるかないかと、お金があるかないかと「心の豊かさ」は全く関係のない次元のことだと思います。そして、そんなことに気づくのに私たちは50年以上の歳月を費やしてしまったように思います。三丁目の人々の活気や希望はさらに上があったからこそ出てきたものなのかもしれません。今、物質的に世界の頂点に達してしまった私たちはこうしてノスタルジーだけではない何かを三丁目の夕日に見ています。それに気づくことができてあの優しさや人と人との繋がりにそこしれない心の温かさを感じた私たちはこれからもっともっと日本を、そして世界をよくしていけるのだと信じたい気持ちになりました。昭和33年の母の生活を帰りの地下鉄で聞きながら帰りました。私の知らない昭和33年、青春時代を過ごしていた母は映画を見ながら小声で「あっ、こんなのあったわ」「あっ、あんなだったわ」と、つぶやいていました。後半は鼻をすする音しか聞こえませんでしたけどね。笑
January 2, 2006
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新年、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。年末年始は久々に実家に一泊しました。里帰りといっても電車で8分の実家、帰省ラッシュとは無縁です。笑大晦日の日に祖母から「あなたが知りたかったのはこういうものじゃないの?」といって手渡されたのは1988年に発行された祖父の対談記事が載った雑誌でした。私の尊敬する祖父は生理学者でありその研究で多くの賞を受けていました。私が1歳から7歳までの間、父の仕事の関係でニューヨークで暮らしていたときにたまたま時期を同じくして祖父は日本とアメリカの大学を半年間ずつ行き来する生活を送っていました。そしてアメリカ滞在中は金曜日の夕方になると車で2時間ほどかけて我が家にきては、一緒に週末を過ごしました。自転車の乗り方を教えてくれたのも祖父です。字の読み方も、祖父に習いました。ニュースを聞くと頭がよくなると言われ、わけもわからずニュースの時間にテレビの前に座り終わると「頭よくなったかな?」と聞いていました。私が窓からの景色や綺麗な風景に人並み以上に大きな関心を示すのも金曜日の夕方になると祖父の到着を何時間も窓辺で待ちながら時間と共に変わる木々の陰影や際限なく舞い降りる雪たちを眺めていたあのころに培われたものではないかと、今になって感じています。成長して高校生になった私は一年間、フロリダのタンパという町の近くに留学していました。そして学校活動の一環で参加した演劇で一人芝居を認められ、幸いにも州大会にまで出場するという快挙(!?)をなしとげました。ところがそれ以上に驚いたのは私の州大会の”翌日”から大会のあるタンパから車で1時間ほどのサラソタという町で祖父の関係する学会が開催されるということでした。当時81歳だった祖父はそれが海外で参加する最後の学会にしようと渡米し州大会当日にタンパで落ち合い地球の反対側の街で一人芝居を演じる私の晴れの舞台に嬉しくも立ち会ってくれることができたのです。なんという偶然、いや、でもやはり必然なのでしょうか。その2年後の1991年、83歳で亡くなった祖父のことを思い出すたびあの夢のような出来事を懐かしまずにはいられません。他人が読んだらちっともおもしろくない、ただの思い出話になってしまいました。(すみません 笑)でも、そんな大好きな祖父と当時はなにを思って研究していたのかなぜその研究課題を選んだのかどんな苦労をどうやって乗り越えたのかなどという本質的な話をすることもないまま過ごしてしまいました。今となってはそれを知る術もない・・・祖父への想いは「家族の歴史を遺す」という、歴史上の人物の話を読むのとはまた違う「いのちの繋がりを身をもって感じることなのだ」という今の想いに、そしてこれからの活動の取り組みに通じていました。そんなやさき、大晦日に突然祖母から、雑誌を渡されたのです。除夜の鐘を聞き終わった後、ベッドで何度も何度も読み返しました。1988年の祖父、つまりタンパで落ち合う1年前、そして亡くなる3年前の祖父がそこにはいました。「われ思う」という研究に焦点をあてたインタビューでした。「眼の研究」程度にしかわかっていなかったことが「網膜神経生理学」というものであったことがわかりました。そして研究課題の選び方や、逆転の発想で切り抜けた新たな学説の提唱優秀な弟子が集まってきた理由など・・・そこには対談形式で、祖父の口調で書かれていました。少しだけ抜粋すると・・・研究課題を選ぶ際の視点>「研究の現在のレベルを雲海にたとえると、 雲海の下でゴソゴソやっていたのでは本当の意味の研究ではない。 雲海の上に出なければいけない。 出るためには、雲海がどの高さにあるかを見極めなければいけない。 そして雲海の上に出るのには二つの行きかたがある。 一つは、方法上の行き詰まりをなんとか打開すること。 そしてもう一つは、材料はいっぱいあるけれども それらがうまく法則的にまとまらないという現状を なんとか叡智の力で打開する。」優秀な弟子が集まった理由>「私は教育者としては、 少なくとも一般の学生を教育するということに対しては、 失格者だと自認しています。 (中略) ただ私の個性がある震動を出しているときに、 彼らの私と似た個性が私のと共鳴しあって、 私のところへ寄って来たように思われます。」読んでいるうちに、ますます、祖父と涙が出るほど話がしたくなりました。祖父は「研究者」として一生を終えましたが私は「事業家」という道を選びました。といってもまだ事業家の「たまご」にもなりきれていません。雲海の上に出る方法として祖父は「方法上の生き詰まりをなんとか打開する道」つまり前者を選びました。私に叡智があるかは別として、世の中に散らばっている色々なものを私なりの視点でまとめなおして後者で頑張りたいと思っています。まだ部下はいませんが、「後世に」などという大それたことをいきなり言い出すのですから私には私の個性があると思っています。その私の個性の震動に共鳴する誰かと祖父が出会ったように、出会いたいと思っています。対談の中で、同じく学者であった曾祖父の話もでてきました。曾祖父は名物教授といった派手な「動」。一方その弟子でもあった祖父は「静」であったといいます。私もどちらかというと「静」の部類だと認識しています。そんな繋がりを感じられるのは、ひとえに血の繋がった大好きな祖父であるからこそ。「家族の歴史を聴き書き遺す」こと。これは自分といういのちの存在意義を感じさせてくれる誰もが関係する大切な取り組みです。そして今回、改めてその威力にまいりました。本当はプライベートなこと、戦争中のこと、もっともっと知りたいです。広島に軍医として派遣されていたとき、山の中できのこ雲を見たそうです。疎開中の家族は広島に配置されたことを知っていたので死んだと思い込み、祖父が帰ったときにはお化けだと大騒ぎになったそうです。これは祖父から直接聞きました。でも、残念ながら、他に何か書き残したものがない限りこれ以上のことはわかりません。今年から、本格的に「昭和の記憶」というNPOと活動を共にします。そのような中で、まさに、私がこれから取り組んでいきたいことを体感できたお正月でした。そして何よりも嬉しいのは他でもない、一番大好きな祖父がこうして時空を越えて2006年のことはじめにエールを送ってくれたことでした。やっぱり私は祖父に支えられています。そしてもちろん、祖父だけでなく多くの人に支えられて今年も頑張らせていただきます。いのちの繋がりを感じて、想いを後世に遺すお手伝いをさせていただきたいと思います。
January 1, 2006
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