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が、どうも売れてないらしいのですよ........ マリインスキー劇場。オーケストラが来月来ますが、それとは別に来年の1~2月に来るんですよね。指揮はゲルギエフ。 ま、今シーズンはいろんなのが目白押し、チューリッヒにベルリン国立にドレスデンと来てますから、売れないのはある程度理解するんですが、それにしても。 実は今月初めに「やべ!忘れてた!」と思って、慌てて買いに行ったのです。イーゴリ公とホヴァンシチーナ。今回の来日は他に「ランスへの旅」と「三つのオレンジへの恋」ですから、個人的には本命はどう考えてもボロディンとムソルグスキー。当然忘れてるようじゃ、SやA席のあまり良くない所とかしか残ってないか........と思っていたのに。 10月時点でですよ。イーゴリ公、日によっては、下から二つ目の席が残ってるんです。まだ残ってるんですよこれが。まぁ、他演目とダブルヘッダーの日だから、キャスト的にも何かあるかも、と敬遠されたのかも知れませんが、他の日も、その次のクラスは買えるのです。これ、金・土・日の公演ですからね。いくらNHKホールとはいえ...... 他の公演は、東京文化会館ということもあって、結構売れてますが、高い方はまだまだお席に余裕があります状態。 そんなわけで、私は今の所イーゴリ公だけ買って、後はどうするか検討中なのですが、しかし、こんなに売れてないとはねぇ。ボロディンやムソルグスキー、面白いんですけどねぇ。 ま、ドレスデンも平日公演はこのタイミングでがらがらみたいだし、こんなものなのかも知れませんが。
2007年10月30日
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今週は、先週に引き続きコンサートはお休みです。昨日は日帰りで出掛けてしまったし。台風に影響ないとこに行ったのはいいけど、帰りが大変...... 突然ですが、NHKののど自慢、あれ、合格とそうでない人と、ありますよね。あれ、どうやって決まるのか、御存知ですか?結構上手くても駄目だったり、それほどでもないな~くらいに思っていると合格だったり。基準は何処にあるんでしょう? 私は知りません。別に調べる気もないし、知る必要も無いし、知ってもしょうがないし。でも、実際に自分が聞いていて「こうだな」と思うのと、「結果」が違うのは、なんとなく違和感がありますよね。 まぁ、そういう軽い違和感を含めて楽しむのが、のど自慢の楽しみでもあるんでしょう。ただ、例えばその基準が何か自分の思ってる価値基準と異なる場合、それを知ってしまうと、ちょっといやな感じではあるかも知れない。.......たかがのど自慢如きに何をそんな、って話ですが。 歌の上手い下手で決まると思っていたら、そうじゃなくてパフォーマンスで決まるんだ、とか、上手い下手でも、音程が合ってなくても特徴が出てればいいんだ、とか。いや、ひょっとすると年齢でハンデがあるんだ、とか。自分が思ってることとは随分違ってました、という可能性は否定出来ない。なんか変な気はするけど。でも、そういういことってありそうですよね。そういう違いはやはりあるものだから、仕方ないんだけど。 概ね私は偏りがあるだけでなく辛口に批判する、という傾向があるようではありますが、実は結構書いていないことがあります。それは主に何かというと、他人の評価、という奴であります。 よく、「感じ方は人によって違うから」という言い方をすることがありますね。或いは「他人の評価は問題ではない。自分がどう感じたかが大事だ」とかね。それはそれで決して間違ってないし、まぁ、大人の対応、ってことになります。 でも、本当はそうじゃないだろ、と思ってるんですね。実は。何故かと言うと、平たく言えば、もし音楽が文化であるなら、それは1個人の感じ方に還元してしまえる問題ではないからです。 文化、というのは、ある社会というか人間の集団の中で成立するものです。それも、ある程度普遍性のあるものは、やはり「社会」と呼び得るだけの数と、不特定多数性を持った集団の中でしか生まれ得ないものです。つまり、「私はこう感じたからこれでいいんだ」というのは、文化とはほど遠い考え方になる。だから、こんなマイナーな形で、およそ読者数数十(十数?)人程度のblogでもなんでも、とにかく発信するわけです。で、それほど熱心ではないけれど、他人のも、読む。他人の評価を気にするのは、自分以外の人には自信の無さの現れだとか、そんな風にしか見えないかも知れないけれど、自分としては「この社会の中でこの演奏はどう位置付けられていくのか」というところに興味があります。 でね。最近思うのだけど、「何がいいのか」というのがよく分からないことが多いんですよ。特に、自分が聞いた公演ほど。平たく言えば、演奏を褒めるんだけど、どう聞いても「そうじゃないじゃん!」と思うことが増えてきました。それが、「ああ、なるほど、そういう視点もあるよね」というような見方であれば納得行くんだけど、結構そうでも無いケースもあってですね。 ちょっと大袈裟な言い方するとですね。自分と他人の感じ方は違うだろ、というのは想定はしているけれど、ズレ幅が大き過ぎるとするなら、それはもう自分が聞くものと他人が聞きたがっているものとの乖離が大き過ぎる、ということだと思うのです。つまり、社会の裏付けがあるものが文化だとして、その社会の感じ方が自分の感じ方とずっとずれてしまっているとするなら、しかも、自分が求めるようなものが、もうこの社会では求められないものだとするなら、これはもう単に「浮いてる」では済まないんだろうな、と思うのですね。 だから具体的にどうだとかいうことではないんですけどね。何をどうする訳でもないし。ただ、そういうずれっぷりというのは、こういうblogをやってる中で、はて、自分としてはどう考えるべきなのかな、とか、ちょっと考え込んでしまうものではあります。
2007年10月28日
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今日帰ったら、連絡が入ってました。http://www.muse-tokorozawa.or.jp/news/071023.html 10月27日さいたま芸術劇場、10月30日紀尾井ホール、11月4日所沢ミューズでリサイタルが予定されていましたが、中止になってしまいました。 白井光子本復公演だったのですが、ハルトムート・ヘルがくるぶし下(って踵か?)を骨折したそうで。ピアニストには足の骨折は大変ですから、仕方ないと言えば仕方ないのですが...... 個人的には、今シーズン、秋のリート祭り(?)の最後を飾る予定だったのですが、残念至極。 以前二度ほど生で聞いたことがありますが、日本人にしては綺麗な発音で、「普通にドイツリートが歌える日本人」という数少ない存在。独カプリッチョ レーベルに録音も多数あります。うーん、残念。 まぁ、白井さんはまた来てくれるだろうし、次回に期待、ですねぇ。
2007年10月23日
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JTアートホールアフィニス 19:00~ 中央前方 ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第2番 バッハ:無伴奏ヴァイオリンの為のパルティータ第1番 E.ドホナーニ:ヴァイオリン・ソナタ ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第10番 <アンコール> ブラームス:F.A.E.ソナタ 第3楽章 ヴァイオリン:四方恭子 ピアノ:上野真 コンサートのハシゴが常態化した週末を繰り返したものだから、さすがに色々ツケが回ってきました。というわけで、今週は控えることに。とはいえ前から買ってあった公演は行くんですけどね、結局。 JTアートホールアフィニス。日本たばこの文化事業の一環として持っている、JTビルの中の小ホールです。王子ホールみたいな感じですかね。実は従来あまり公開に積極的ではなかったのですが、最近土日祝日は一般の公演にも開放するようになったとか。いや、実際、ここはアフィニス文化財団(http://www.jti.co.jp/Culture/Affinis/Welcome.html)の関係で公演は時々あるけど、平日ばかりでとても行く機会が無かったんですが、今回珍しく休日公演なので出向いてきました。 小ホールというより大きい会議室みたいなサイズです。椅子もそれなりだけど移動式の、というより普通の椅子。それでも座席配置はちゃんと出てるし、舞台に壁面の反響板もしっかりしていて、一応立派なホールです。収容人員は250人くらいかな。 ヴァイオリニストの四方恭子は、アフィニス文化財団が主催するアフィニス夏の音楽祭の音楽監督。この音楽祭は若手演奏家のアンサンブル指導育成を目的とするもの、と言ってしまっていいのかと思いますが。まぁそういうわけで、このホールにご登場となった訳でしょう。 ヴァイオリンのリサイタルは久々です。こういうフォーマット自体、普段あまり聞きませんし。 全般に「安心して聴ける演奏」ですね。失礼ながら、腕のいいヴァイオリニスト、という以上に特別なことはそうはないと思います。物凄く歌心がある、という風でもないし、超絶技巧が凄い、というわけでもないし、響きが卓越してるとかいうことも、まぁないけれど、決して平凡でもない。丁寧な演奏ですね。単なる安全運転ではないけれど、模範演奏、という感じ。もっと柔らかく歌っている方が自分としては好みですけども。 プログラムとしてはかなり盛り沢山な内容。オリジナルのプログラムが終わったのが既に21時を回っていましたので、この種の公演としてはヴォリュームがありますね。 面白かったのはバッハのパルティータでしょうか。普段ヴァイオリンのリサイタルは行かないので、この曲を生で聞くのは初めてかも知れませんが、改めて聞くと各曲の表情が窺い知れて面白い。アルマンド、クーラント、サラバンド、ブーレの4種の舞曲が奏されるわけですが、演奏のせいか、生で聞くせいか、それぞれの性格、表情の違いの描き分けがよく分かるんですね。よく御存知の方には今更何を、という話なんでしょうが、普段CDでしか、しかもうっかりとしか聞いていない身にはなかなか新鮮でした。 ドホナーニのソナタは、初めて聞く曲ですが、興味深いものがあります。生年1877年、没年1960年。バルトークは1881年生、1945年没。この二人は友人でもあったわけですが、それにしては作風が違っていて面白い。ドホナーニのソナタは1912年の作ですが、この時バルトークは既に「青髭公の城」を書いています。 ドホナーニのソナタは、後期ロマン派の延長にあるのを色濃く感じさせるもので、一部不協和音の大胆な使用などあるものの、バルトークの、リズム面での近代的洗練や調性システムから逸脱しようとする傾向の強い作風とはかなり異なります。正直、一回聞いただけですんなり分かったとは言えませんですね。何度も繰り返し聞いてやろう、という気も無くはないけど、他に聞くものが一杯あるからなぁ。これも正直な所。面白くはありましたけどね。
2007年10月21日
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新国立劇場 14:00~ 3階右側 タンホイザー:アルベルト・ボンネマ エリーザベト:リカルダ・メルベート ヴェーヌス:リンダ・ワトソン ヴォルフラム:マーティン・ガントナー 新国立劇場合唱団 東京フィルハーモニー管弦楽団 指揮:フィリップ・オーギャン 演出:ハンス=ペーター・レーマン 1週間前の話になってしまいました。風邪っぴきでねぇ。書く余裕がなかったですよ。ハイ。 しっかしあの「オペラパレス」なるこっ恥ずかしいネーミング、何とかならんのかね本当に。しかもキャッチフレーズが「世界に誇るオペラパレスにようこそ」っていうんだから、もう、気分は鹿鳴館ですな。 改めて思うけれど、結局日本人は何処まで行っても鹿鳴館気分は抜けないんだと思うんですよね。私は別に日本が音楽の分野で西欧と同等になるべきなんでこれっぽっちも思わなくて、輸入品としてクラシック音楽やオペラを眺める構図で全く差し支えないと思うのだけど、こういう鹿鳴館的発想は、滅茶苦茶恥ずかしいなぁと思うのであります。 ま、それはそれとして、タンホイザー。 なかなかよかったですよ。「終わりよければ全て良し」ってところでしょうか。 概して、どの歌手がどう良かった、一頭抜きん出て良かった、というのは、正直それほどありません。ヴォルフラム役のマーティン・ガントナーは割合よかったけれど、バリトン役は大体がちょっとお得だし。タンホイザー役のアルベルト・ボンネマもいいにはいいけれど、目を見張るほどの「何か」があったわけではなし。 とはいえ、無難にやり過ごしただけ、というわけでもない。個々人の声の限界はあるにせよ、端役に至るまで練れた歌唱で粒が揃っていて、最後まで聞く側が躓きを感じることも無く、というところでしたか。そう、役に負けてるな、と感じたところがなかったのが、最大の要因かも知れません。その上で、それなりにちゃんと聞けて、時にはこちらが「あれ」と思うようなところも見せてくれる。例えば、第1幕の牧童の歌(吉原圭子)など、別段どうというところではないし、今回の演出ではわざわざ前面に出て歌ったりするので、聞き様によっては嫌味なんだけど、それ以前に「ああ、いいじゃない」と何の気無しに思わせたり。これに限らず、全体にダレる場面があまり無かったんですね。強いて言えば第2幕の前半、かなぁ。でも、それも、特別気を惹かれなかったという程度だし。 第3幕はよかったですね。ヴォルフラムの頑張りが利きましたでしょうか。 合唱も、正直言うとここまでは「ちょっと弱いな」というのが基本的な感想でしたが、幕切れ、芽吹いた杖を捧げ持って神を讃える合唱の力強さは、最後の最後にやってくれたな、という感じ。タンホイザーは4月の「東京のオペラの森」で聞いているのですが、合唱のパワーとしては全体的にはあの時の方がよかったと思うけれど、最後の幕切れは、新国立劇場に軍配が上がるな。 フィリップ・オーギャンの指揮も、特別素晴らしい、ということではないと思うのですが、上手く纏めていて、悪くない印象です。人によっては物足りなさを感じるのかも知れませんが、このぐらいのレベルであれば、纏めに行くのもそう悪くはないのではないかと。東フィルも、コントラバス6本ということは、それほどの大編成ではないと思いますが、力不足を感じること無く、よくやっていたと思います。 演出は、まぁこんなもの、でしょうか。格別の新解釈があるというわけではないし。外題役の衣装など、若干「あれ?」と思わなくもないですが、まぁ、総じてこんなもの? 普通の公演、ですね。でも、随分な、中身の無い新劇場名に比して、10年目の新国立劇場は、面白みも外連味も大してないけれど、相応の公演をやっている、ということを示しているのではないかな、と思います。
2007年10月20日
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最近、1日1記事と決めているので(ラ・フォル・ジュルネの期間はともかく)、順序と次公演の都合でこちらを書きますが、今日、新国立のタンホイザーを観てきましたが、なかなかでしたよ。詳しい話は明日アップするとして、今日はこちら。 東京芸術劇場 14:00~ 3階右手 チャイコフスキー:組曲第2番 歌劇「イオランタ」 イオランタ:佐藤美枝子 ブルゴーニュ候ロベルト:成田博之 ブルゴーニュの騎士ボデモン:経種廉彦 プロヴァンス王レネ:成田真 他 武蔵野音楽大学合唱団 指揮:ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー 実はこの日はダブルヘッダーでした。イオランタは先月公演があるのに気付いて慌てて抑えた次第。 イオランタは、ERATOなどから全曲盤が出ています。聞いたことはありますが、ちょっと眠たいオペラだったなぁ、くらいにしか覚えていません。なかなか録音にも実演にも相見える機会が無いので、行ってみました。 前半はチャイコフスキーの組曲第2番。この、チャイコフスキーの「組曲」というの、どうも私はよく分かりません。作曲意図というか狙い所が分からないという感じで。それをいうと、交響曲にしてもそうかなぁ。5番、6番は分かり易いということになってるけど、あれも、チャイコフスキー=悲劇的な作曲家、というイメージに当て込んで読むから分かり易いんではないかと..... 第4楽章が終わった所で拍手が起きたのは御愛嬌。 この日お目当てのイオランタですが、一言で総括すれば「アンバランス」ですね。東京芸術劇場ということもあるにせよ、まず、歌手陣が弱過ぎます。全然声が出てない。或いは下の方では聞こえていたかも、という可能性は否定しませんが、このホールでも、過去、きちんと歌えていた歌手はいるのだし、あの調子だとやっぱり良くなかったんじゃないかな。 一方、対するオーケストラが、相対的にプレゼンス強過ぎです。音楽的には頑張ってるのは理解しますが、これはロジェストヴェンスキーがもっと上手くコントロールしてやる必要があります。 率直に言って、ロジェストヴェンスキーはあまり日本の歌手の状況を理解せずに臨んだのではないかと思います。大体がイオランタは確か2幕か3幕もののオペラだった筈。それを、今回、通し上演で休憩無しで公称100分で上演しました。実際にはもう5分くらい足が出ました。この間歌手は出ずっぱり。休憩もありません。これは聞く方だってきついですよ。いや、勿論ワーグナーならひと幕でこれくらいあることもあるし、サロメやエレクトラという例もありますけどね。加えて、全員が楽譜を見ながらの歌唱。この事自体は俄に問題視されるものではありませんが、楽譜を見ながらの歌唱と、全て頭に入れて(プロンプターは居るにせよ)舞台で演技付きで上演する時の歌唱とでは、やはり違います。特にそれが母国語でなく、馴染みの薄い言語であれば尚のこと。加えて、正直言って必ずしも力量的にベストメンバーとは言えないと思います。今回は。 勿論、彼ら歌手陣は皆プロです。その筈です。(殆どが二期会所属だから怪しいけど、この際言い訳は認めない方向で。)だから、きちんと出来て当たり前、だけど、このような場合、指揮者の調整力が求められると思うんですけどね。ロジェストヴェンスキー、そのへんをどう考えて臨んだか。 この、プレゼンス強過ぎを除けば、荒っぽいながらそれなりに纏められてはいました。音楽の流れをともあれ流す、という点では、ロジェストヴェンスキーは上手く行っていたと思います。 ...............それとも、流すのに精一杯で、他までは手が回らなかったかな? オーケストラも含め、ちょっと荷が重過ぎたのでは。時間的にも、組曲を「くるみ割り」の抜粋かなにかでお茶を濁して、そのまま歌劇に入って、途中休憩を入れて......くらいの方がよかったのでは。お客には終わった後は相応に好評のようでしたが、正直かなりしんどかったんではないかな。 ロエストヴェンスキーの提案によるプログラムじゃないかと思いますが、日本側でもうちょっと調整すべきでしたでしょうね。少なくとも、他にもう少し一公演としての負担を減らす方法はあったのでは。 いや、正直言って少々無謀ですよこれは。酷評してもいいのに、ちょっと舌鋒が鈍るのはその辺が理由です。受ける方が悪い!って言ってもねぇ。この日のプログラム、実は明日も同内容でサントリーホールで公演があるようですが、このプログラムを見ると、演奏時間約80分、とあります。この時点で通常のプログラムとして結構無理があるのに、実質更に20分から25分オーバーですよ。要するに、プロを組んだ方もよく分かってないんでしょう。今更後に引けず、ですけど、実質3時間かかりますからね、この「定期演奏会」。前に、新星日響が「ペレアスとメリザンド」をパスカル・ヴェロの指揮で演奏会形式でやったことがあって、その時も「うわぁ大胆」と思ったけど、これに匹敵します。 じゃ、そんな演奏じゃ駄目駄目かというと、プレゼンスの強過ぎるオーケストラも実はロジェストヴェンスキーに引っ張り回され気味で、言い換えれば指揮者のコントロールで強引に形にしてしまって居る感じなので、全体として破綻はしてないんですよね。だって、歌手陣が弱くてもフォローしないんだもの。それもなんだかアレですが。 イオランタは、ああ、確かにこんな感じだったな、というオペラでした。如何せんドラマ性に欠けるなと感じてしまうのは、演奏のせいもあるでしょうが、正直、これは演奏会形式には向かないと思います。というのも、クライマックスが舞台抜きではつまらないんですよ。 このオペラのクライマックスの一つは、イオランタと恋に落ちる騎士ボデモンとの邂逅の場面、特に薔薇を手折ることでついにボデモンがイオランタの盲目であることを知り、それを彼女に教えてしまい、というところなのですが、ここでのチャイコフスキーの音楽は、そこで行われる内容が十分表現されているものとはちょっと言えない。同様に、大詰め、治療の終わったイオランタが現れて、見えるようになった様子を表現する所も、確かに相応に音楽は語っているけれど、ちょっと足りない。視覚に関わるだけに、ってことではないと思うけれど、この感じを音楽だけで表現するのはやっぱり難しいと思うのですね。 それと、全体に音楽がもう一つ。オネーギンほどにキャッチーなメロディが出てくるでなし、スペードの女王ほどにドラマティックであるでなし。何より、アリアも含めて聞かせどころがもう一つインパクトに欠けるかな。でもまぁ、そういうものとして考えれば、よく頑張りました、ってところでしょうか?個人的には、生で聞くことが出来たので、ま、よかったかな、てなとこで。 今日はサントリーホールで同内容公演があるそうです。ホールのタイプも違うし、二度目でもあるし、もう少し練れた内容になっているのではないかと思いますが、どうなるでしょう?
2007年10月14日
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紀尾井ホール 19:00~ 1階後方 武満徹:弦楽オーケストラの為の3つの映画音楽 ニノ・ロータ:チェロ協奏曲第2番 <独奏アンコール> カサド:無伴奏チェロ組曲第3楽章 ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」 指揮・チェロ独奏:マリオ・ブルネッロ 正直に言うと、私は紀尾井シンフォニエッタが好きではありません。もっというと、紀尾井ホールとか、ついでに言えばモーストリー・クラシックとか、そういうのを結構いいものとして支持してしまう種別の集団を好きではありません。いや、自分でも偏屈だと思うんだけど。 で、そういう人間がなんで紀尾井シンフォニエッタを聞きに行くかと言うと、一種の定点観測で、いつか化けるんじゃないかと思って聞きに行く訳です。今回は加えて、マリオ・ブルネッロが弾き振りで出るし、特別追加公演てことでチケットも買えるし。 で、結論ですが、予想以上の不快感を抱えて帰ってきました。あのですね、いつも偏屈で大抵は的外れな悪口ばっかり書いてますが、演奏会そのものに不快感を感じて帰って来ることは殆ど無いのです。最近では、去年二期会に見切りを付けた時くらい。 一言で不快感の理由を申すなら、共犯関係的な志の低さと自己欺瞞、と申しましょうか。 紀尾井シンフォニエッタ、「合奏精度の高いアンサンブル」として自他共に定評が高いそうです。しかしね、それ、全然的外れだと思うのですよ。 本日の紀尾井シンフォニエッタ、後半はベートーヴェンの田園。編成は、弦五部が8-6-6-4-3という編成。この編成は、今時、フルオーケストラが大きいホールで演奏する時でも、ものがハイドンやモーツァルトであれば、このくらいで演奏することもあります。で、ベートーヴェンでもこのくらいまで絞ることはあります。流石に田園とかになると、1stヴァイオリンで7プルトくらい入れたりもしますが、平均すれば6プルトくらい、つまり、12-10-8-6-4、或いは途中で1プルト増やして低弦を厚くする程度で演奏するのが最近は一般的だと思います。 でね。実は、これが、紀尾井シンフォニエッタの「合奏精度の高さ」の正体の一部なのです。 アンサンブルの精度の高さ、というのは、まずもってアンサンブル全体の人数が少なければ少ないほど楽なのです。ところが、もう一つポイントがあります。つまり、音楽の振幅を抑えることが出来れば、変化要因が少ないですから、合わせ易い。更に、ある程度の腕であれば、テンポが速いほどリズムのズレも起きにくいので更に合わせ易い。 紀尾井ホールは700人も入らない規模のホールです。大雑把に言えば、このホールは一般的大ホールの、大きめに見積もっても4分の1程度の容積です。そういうところに、フルオーケストラの3分の2規模のオーケストラを突っ込むとどうなるか。まず、音量のダイナミズムが個々の奏者としては控えることが出来ます。で、プレゼンスの強い演奏をやり易くなる。だから、他に色々やる余力が出来る。「合奏精度の高さ」は、有り体に申せば、このホールで演奏やってるこの団体がそのように見なされるのは当たり前なのです。出来て当たり前。新日フィルでも東フィルでもN響でも、まぁなんとか東響でも、この程度の人数に絞ってこのホールで3日合わせれば、この程度はいけるんじゃない?ということなのです。 でも、見方を変えれば、それは紀尾井シンフォニエッタの罪ではない。問題は、そう言う意味で、身も蓋も無い言い方をすれば「楽をしてる」この団体が、ではその分何を高めているか?ということなのですが、それが、まるでダメダメなのですよ。 本日の田園の第1楽章は、かなりゆっくりしたテンポで始まったのですが、これが、全然アンサンブルが合ってないのです。勿論、テンポが遅いと、合わせにくいのは確か。だから、合わない部分もあるだろう。けれど、合わないのです。しかも、歌わない。このテンポを指示したであろうブルネッロの意図は、彼の音楽からも考えるに、ここでより幅の広い、息の長い演奏をさせたかったのでは、と思うのです。でなければ、この規模のホールでこの編成を取る理由も無い。にも関わらず、フレージングは合わず、しかも息切れしてしまう。歌わない、広がらない、という演奏。微妙にテンポが揺れるので、尚更合わない。 以下、第2楽章以降は格別テンポが遅いということもなく、淡々と進みましたが、結局、何もないのです。「小さいホールで、それに比してダウンサイジングしていない団体で演奏しました」という以上のものが何も無い。 一体、この団体は、恵まれた環境 - それは、練習環境とかだけでなく、そもそもこのタイプのホールを本拠とすることで出来るであろう音楽表現の可能性 - をどのように活かして来たのか。この団体を最後に聞いて、確か2年くらいは経っていると思いますが、そもそも売りの「合奏精度」というやつも、今日の演奏では鈍っていると言わざるを得ませんでした。前提条件で既に精度は高くて当たり前なのに! 6,7年前、オーケストラ・アンサンブル金沢が、オペラシティのコンサートホールで来京公演をした時に、やはり田園をやったことがあります。指揮は岩城宏之。その時のオーケストラはせいぜい20人ほど。コントラバスは確か1人でした。それなのに、あの大きいホールで、ちゃんと田園をやってみせたのです。それは、勿論フルオーケストラのようなダイナミズムは無かったけれど、そうしたものの代わりに、個々の楽器の響きをたっぷりと聞かせ、タイトではありながら、同時に表現の幅も最大限持たせてやろう、というものでした。言わば、ぎりぎりまで奏者を切り詰めてアンサンブルを高めながら、それで出て来る余力を「響き、音色にこだわる」とかいったところに回したわけです。そこには音楽表現に対する取り組みが感じられるのです。少なくともこの時、オーケストラ・アンサンブル金沢(と岩城宏之)には、言ってみれば音楽を作って行こう、この先の何処かへ音楽を作って行こうとする意思があった。 多分、今日の紀尾井シンフォニエッタにないのは、この意思です。怠惰である、と言ってもいいでしょう。恐らく、当人達も、この公演には居なかっただろうけど定期演奏会の会員も、そんなことはない、と言うでしょう。けれど、はっきり言って紀尾井シンフォニエッタは明らかにその先の音楽を作る意図が感じられない。それなりに美しくはあるけれど、絶対にそれ以上にはなれない演奏。辛辣な言い方をすれば、これは、向上する必要が無いと思っている人達の演奏です。ホテルのピアノラウンジで弾いてるピアニストみたいなもの。というと、ピアノラウンジのピアニストに失礼ですね。 私は偏りはあるにせよ、一応オーケストラも幾つか聞いているし、よくボロクソに書いたりするけれど、どのオーケストラも、N響ですら、一応真面目に「その先」を考えている片鱗を見せることはあります。出来不出来もあるし、時には手抜きにしか聞こえない演奏で、ふざけんなこのやろう、と思うことはあるけれど。それでも、これほどではない。こんな風にやってる方はそりゃぁ気持ちよく音楽出来るでしょう。それを聞いてべた褒めする人々の集団で埋め尽くされる小ホール。それを聞いて更に自己肯定的に気持ち良く。 これは、贔屓だから言うのではないけれど、マリオ・ブルネッロの罪ではないでしょう。 ニノ・ロータのチェロ協奏曲(さすがに、こんなのやるなよ、とは思ったけれど)、確かにそれなりに面白い曲ではあるけれど、結局は映画音楽か.....と少し感じてしまう所、ブルネッロが独奏で入って来ると、途端に様相が変わってしまう。そこまでは、確かに「結構な音楽」であったのが、ブルネッロの演奏は表現も、音も、実に生気があって、音楽の柄が全く違ってしまっている。さながら害の無いイージーリスニングを演奏している所に、いきなり真剣勝負の歌をひっさげて登場したようなもの。ついでながら、武満も、映画音楽だからではなく、何をしたいのか分からない音楽に終始しておりました。よく言えば絶対音楽って言うんですかね。 ブルネッロは、本当はソロ・コンサートで聞きたかったのですが、休日に公演が無いので仕方ない。ただ、今回のロータやアンコールを聞いて思うのは、やはりこの人マイスキータイプの歌う人なんだな、ということ。ただ、マイスキーほどにはぐずぐずのロマンティストではなく、どっかに理性が残ってる感じです。その辺が違うかな。 彼の指揮は、悪くはないけど、そこへいくとチェロ演奏ほどではないかな。指揮というのは、オーケストラに対して足し算と掛け算で作用するものだ、と思っています。そういう意味で言うと、掛け算の係数はそう高くはないのではないかな、と。いや、それ以上に、オーケストラの持っている音楽に足せるものが、彼のチェロに比べるとかなり低いのではないかと。だから指揮者失格ではないけれど、そんな気がします。元々持ってる音楽が芳醇なオーケストラを振らせれば、結構違うんじゃないかと思いますけども。
2007年10月13日
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タワーホール船堀小ホール 19:00~ シューベルト:弦楽四重奏曲第10番 ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番 <アンコール> モーツァルト:メヌエット(弦楽四重奏曲から?) ドヴォルザーク:糸杉 第3曲 ?:ピチカートによるポルカ この日、その前に聞いたフェルメール四重奏団。先日のblogで「最初で最後」と書きましたが、偶然、2年前にも聞いていたのを発見。ラズモフスキーとか聞いていた訳ですが.........................むー、いまいち覚えてないなー(苦笑) 大体休みの日には、「今日は何のコンサートがあるのか?」をいつもチェックしているのですが、7日に出掛ける前に、フェルメール四重奏団の他に何があるんだろ?と眺めていて見つけていたのが、このコンサートです。 おお、パノハ四重奏団。聞いたことないんだよな、そういえば。でも、終わった後で船堀はしんどいな。でも、ドヴォルザークの「アメリカ」か.......うーん。ま、行かないな。疲れてるし。 で、フェルメール終了後の私の気分は前に書いた通り。「足りない!」なのでした。で、結局、ついふらふらと出来心で急遽ハシゴで出撃してしまったのです。 地元の音楽教室主催によるコンサートで、昼間はマスタークラスとかやっていたようです。で、コンサートはというと、値段は一人前の割に、実態は事実上ハーフサイズでした。但し、まぁ、中身はそれなりだったので、一応OKかなと。ある意味「お客さん」ですしね。 目当ては例によってドヴォルザークの「アメリカ」でした。正直、これがなかったら、行ってないと思います。そう、ベートーヴェンの14番で強烈なイメージギャップによって欲求不満気味となっていた私には、「アメリカ」はとっても魅力的に思えたわけです。 で、その「アメリカ」ですが.............えーと...............ラ・フォル・ジュルネでの、プラジャーク四重奏団の演奏がまだ強烈に心に残っていましてですね.......正直、パノハSQの演奏も決して悪くはないのですが、プラジャーク四重奏団の「アメリカ」での、弦楽四重奏を聴いて果たしてこれほど豊かな音楽を聴けるものか?と思わざるを得ないほどの演奏は、それはそれは強烈でしたので。 パノハの演奏は、確かに歌謡性もあるし、音色も決して悪くない。ただ、どことなくぼやけているのですね。正直、個人的には苦しい。プラジャークSQのおかげでかなりレベルが高くなってしまっている上に、直前に少なくとも合奏の精緻さは優れているフェルメールSQを聞いた直後の耳に、流石にこれは厳しかったかも知れません。 でも、別の観点からすれば、ここで自分が聞きたかったのは、確かに精緻さよりも旋律や響き優先(まぁ、それほどまでに素晴らしい響きではなかったと思うけど)といったところではあったので、それなりに目的を達して帰って来たのではありましたが。 全体の出来、ということでいうと、番号の割に実は若書きのシューベルトの方(実はD.87、最初期の作品です)が楽しめたかも知れません。若い頃の作品、恐らくは家族での合奏用だったのでは、というほどの作品故、ある意味稚拙な面もあり、第2楽章だかはレントラーそのものなのが微笑ましくもあり、という感じですが、パノハSQの演奏は折り目正しく丁寧で、正直こちらはあまり期待してなかっただけにその分面白く聞けました。 電車賃と時間とチケット代と、まぁ損はしなかったと言えなくはないけど........蛇足は蛇足、かな?楽しみはしましたけどね。
2007年10月10日
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すみだトリフォニーホール 15:00~ 3階中央 モーツァルト:「魔笛」序曲 ベートーヴェン:ピアノ協奏曲4番 <ピアノ アンコール> シベリウス:夢 ブラームス:交響曲4番 ピアノ:アンティ・シーララ 指揮:ミヒャエル・ボーダー 6日は夜に川崎でのBCJがあった関係で、日程的には少々厳しくなりました。なので、アンコールがあったかも知れないけど、終了早々に出て来てしまいました。ごめん。ついでにいうと、久々に遅れて行ったので、魔笛は途中から外で聞いてました。ごめん。 演奏内容はというと、どうでしょうね。 ベートーヴェンの協奏曲は、いいんだか悪いんだかよく分からない感じ。抑えてる感じがありましたですね。結構拍手を貰っていたようだったから、結構いい演奏だったのかも知れませんが、ピンと来なかったというのが本音でして......そう悪い感じではなかったんだけど、あれはなんだろうな?やっぱり抑えてたんでしょうね、きっと。やっぱり3階席は遠いのかな?でも、人によってはそうでもないわけだし....... アンコールのシベリウスはそこそこ良かったし。本編はどうだったんだろ.... 後半のブラームスの4番が目当てなので、休憩で帰る訳にも行きません。この曲、結構好きなのです。 ここでオケも増員されて、最終的には14-12-9-8-6という編成。急にオーケストラもパワフルになります。荒っぽいけどガンガン響いて来る。ちょっと前の新日の「邪道を極めて乗り越えちゃった」演奏です。最近は、アルミンクあたりだともう少しコントロールが利いて、そこまで露骨にはなりませんが、今日はやりたい放題でしょうか。荒っぽいし、だから時々合ってないし、こりゃひでーや、と言えばそれまでですが、まぁ久し振りに聞く分にはいいかな?それに、ブラームスの4番だし。この曲、ブラームスにしては結構派手ですし、このくらいでもいいかも知れません。ただ、言えば、第4楽章のパッサカリアはもう少し精度が高い方がいいでしょうね............このパッサカリアが好きなので、その点はちょっと残念。 ミヒャエル・ボーダーはいいのか悪いのか、ことブラームスに関しては、一応納得出来るアプローチではあったと思います。フレージングの処理なんかも、こうしたいんだろうな、というのはまぁ分かるし。ただ、やはりこのオケをコントロールするのは大変みたいですね。
2007年10月08日
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紀尾井ホール 15:00~ 1階後方 ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第2番/第6番/第14番 我ながらよくもまぁ、と思うほどですが、何故生演奏に足繁く通うか、というと、そこにはいくつかの理由がありますが、大きな理由の一つに「生で聞かないと分かりにくい部分がある」というのがあります。 別に私は生演奏絶対論者でも、至上主義者でもありません。ただ、私は音楽的素養があるわけではなく、故に世間一般に言う意味で楽譜は読めません。見ても、それで音楽が浮かんで来る、というわけではないのです。レファレンスとして持ってはいますけど。で、そういう人間にとって、音楽は実際に音として出て来ないと理解出来ないのですね。だから、音としてどう聞こえるか、は、大変重要なポイントになります。 「だから、ある演奏家が実際にどういう音を出すか大いに興味がある」ということかというと、まぁそういう側面もあるにはありますが、その他にも例えば、時間的・空間的にどう聞こえるのか、ということがあります。非常にプリミティヴなレベルで言うとですね、そもそもCDで幾ら聞いても、やっぱり空間的にどう聞こえるかは、音楽的素養の低い身の哀しさ、ある程度生のイメージが無いとピンと来ない面があるのです。加えて、CDの場合、どうしても実演とでは時間の流れ方が違うのです。それは楽章と楽章の合間、ということから、その音楽がある一定の空間で聞かれる際、そのような環境下でどの程度の時間的密度を以て感じられるか、といった問題にまで及びます。 と言葉で書くとなんだか大袈裟ですが、要は「え、実演で聞くとこんななんだ」というアレです。私は基本的に鈍いので、このへん、ある程度コンスタントに生で聞かないと勘がすぐ鈍るのです。 その結果、聞いてびっくり玉手箱、なんてことも少なくないですが。 で、フェルメール弦楽四重奏団の演奏会。今年解散を決めたこの団体のフェアウェル・コンサートツィクルスの最終回、という演奏会になります。私はこの団体を生で聞くのは初めてですが、さてどうなるか..........そういや、最初で最後と言えば、スメタナQの時もそうだったよな.......と20年近く前を懐かしく思い出しつつ。ベートーヴェン弦楽四重奏曲全曲演奏会の最終回、ということで、当然オール・ベートーヴェン・プロ。 結論から言います。 いい演奏ではあった。でも、私は、この後、止むに止まれず急遽コンサートのハシゴをすることに決定。理由は、「足りない」から。身体が音楽が足りないと主張しました。 で、冒頭の話に関係するのです。 私は、よくよく考えてみると、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏を生で聞いたことはあまりありません。私の性向もあるけれど、ベートーヴェンを取り上げる公演はそれほど行かないし、行ってもラズモフスキー・セットだったり。 フェルメール四重奏団の演奏は、言ってみれば清潔な演奏です。それは、今日のプログラムに一貫して変わらない性質。前期と呼ぶべき、より古典主義色の強い2番や6番がそうであるのはそれほど不思議ではないと思いますが、実は後期の作品である14番でもこの傾向は変わらなかった。ザッハリッヒカイトな演奏ですが、それに清潔感が伴うというのは、まぁいい。特に前半は。 でも、後期は? ベートーヴェンの後半生は、殆どロマン派の作曲家ではないのか、という見解は決して異色ではないと思います。いかにもロマン派的なフレーズや展開とは言えないにせよ、古典的手法・展開からの逸脱、例えばピアノ・ソナタでの、中期に於ける形式の混乱とそれ以上に明白な旋律の劇的性格、或いは後期での大幅な逸脱、第9は言うまでもない、交響曲第5番以降の劇性は、古典から大きく逸脱したという点で、やはりロマン派的と言わざるを得ません。 正直言うと、私は、同じ文脈で弦楽四重奏曲も眺めていたのですね。特に後期。古典的音楽からの逸脱、という点ばかり見て、CDでなんとなく聞いていた。それはそれで決して間違いではないとは思うのですが、しかし、本当にそうだったのか? このフェルメール四重奏団による14番の演奏を説明するなら、いや、或いはそもそも14番自体がそういう音楽だったのかも知れないのですが、擬古典主義、だったのです。いや、擬前古典主義、なのか。そう思わざるを得ないのです。即物主義、というのとはちょっと違うかも知れないけれど、感情を抑制したような演奏で、つい「何かを表現したかったに違いない」という耳で聞いてしまいそうなこちらを突き放すように淡々と進められたように感じられたのです。そうした演奏の中で置かれたフーガは、確かにフーガなのですが、「古典派以降の文脈に持ち込まれたフーガ」というよりは「本来それがあった古典派以前の音楽の文脈に置かれたフーガ」であるように感じたのです。 思えば、大雑把にはハイドン以降確立されたと言われる弦楽四重奏というジャンルも、その少し前には、J・S・バッハの子供達の世代で確立された前古典派、或いは古典派前期と言うべき時期のシンフォニアなどに於けるソナタ形式の確立があって初めて完成した訳です。 であれば、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏も、或いは擬前古典主義的に、古典派より前の、多楽章制のバロック組曲の流れを汲む、と考えることも出来るのではないか?と思ったりしたのです。或いはそれがこの曲の真の姿やも。 しかし。 そのように聞こえてしまった、このベートーヴェンの14番は、とてもとても清潔感のある演奏ではあったけれど、それは同時に結構私を拒絶しているような音楽に聞こえたのです。拒絶、という言葉が悪ければ、超然、いや違う........率直に言えば「遠い」音楽、に聞こえたのです。とても精緻で整っているけれど、「後期のベートーヴェン」に期待したような劇性が感じられない。それを私は欠点でなく、そういう演奏なんだと思っています。私の勘違いかも知れないけれど、それほどこの演奏は説得力のある出来だったのです。少なくともそのように感じられた。 それには、冒頭で触れた「どのような音楽であるか理解する」ということと関係があります。確かに、この演奏におかしい所は無い。その結果このように聞こえるとすれば、それがこの曲の真の姿の一つであることは疑いが無い。ロマン派への潮流を内在したような音楽には聞こえないじゃないか、と。そのように、確かに私は説得されたのだと思います。 しかし、その結果、私は物凄い欲求不満を抱えた訳です(笑) それは、この演奏が気に入らない、というより、聞き、理解した結果、殆ど自分と別世界で完結した音楽のように聞こえてしまったわけです。理解して置き去りにされた、ってところでしょうか。 うーん。自分で書いてても、上手く説明出来てませんね。結論だけもう一度言いましょう。 いい演奏だったと思います。その結果、私は、特に後期弦楽四重奏に関して新たな見解を得た。けれど、音楽的に、私はもっと違う音楽を渇望した。こういうところでしょうか。 そう、響き、という点でも、確かに私の席はあまりいいところでは無かったけれど、フェルメール四重奏団のそれは、結構禁欲的であったと思います。それも間違いなく関係していると思います。 その後私が如何なる行動をとったかは、また後日.......
2007年10月07日
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ミューザ川崎シンフォニーホール 18:00~ 4階中央 先日の定期演奏会に対して、こちらはミューザ川崎の主催公演。土曜日の夕方なのに、空席がかなり目立ちました。埋まってはいるんだけど、360度囲んでいる形式なので(ワインヤードとはちと違う)後ろ側は入れないにせよ、両サイド方面が全然入ってない。恐らく、2千人くらいのホールで、1200人あったかどうかじゃないかな?まぁ確かに、3連休の初日だし、今日はベルリン国立と被ってると思うし、とか理由はあるにせよ。 会場の雰囲気は、先日の定期演奏会とはやや違う風ではありました。 演奏そのものは、決して悪くはないと思います。それなりにきちっとやってるし。一応ロ短調ミサをちゃんとしたレベルで演奏出来るだけでも立派と言えば立派です。先日感じた「違和感」は、実はロ短調ミサの場合、「そもそもこれは宗教音楽としてどういう前提で書かれているか」からして怪しいし、曲自体もあまりそういう面で考えさせられる傾向が低いので、気になりません。 ただ、個人的には、やっぱり駄目だなぁ。これは音楽的に、ということなんですが....... 確かにいい演奏ではあります。ただ、技術面に於いては、決して器楽セクションの演奏技術は最高レベルとは言えないし、合唱も、よくやってはいるけれど、アンサンブルの揃い加減ははっきり言ってよくない。これ、ソロイスト兼任も含めて20人でこれですからね。 厳しい言い方をすると、演奏する側も聞く側も、共犯的に「ピリオド演奏」に胡座をかいてる気がするのですね。 そもそも、バロック以前の音楽の場合、いわゆる古楽器演奏が猖獗を極めた結果、基準と言うべきものが壊れてしまっているという現実があります。このことの是非当否は今は置きますが、結果として、バロック以前の音楽演奏は、少なからずある種の自意識を原動力にして成立しているという面があると思います。というより、自意識過剰気味に自己主張しないと音楽が作れない、と言った方がいいのかも知れません。 で、それは実は結構鬱陶しい状況を創り出しているとも言えます。ある程度古楽器演奏として完成されたものを目指そうとすると、そこには土台となるスタンダードが無いので、必然的に、自分で何か作らなきゃいけないことになります。平たく言えば、私が私である根拠を常に実証しなければいけない、ということかも知れません。何故このピッチを選択するか、何故この音律法を用いるか、何故この楽器を選択するか、何故この楽器編成で演奏するか、何故この奏法で演奏するか、何故この版の楽譜を用いるか、何故ここでこのような弾き方を選択するか.......これらは、別に古楽に限ったことでなく、全ての音楽について言えることかも知れません。が、古楽器演奏は、それを主張することから始まった音楽活動なのです。今時は「ピリオド演奏」といい、今回のBCJのプログラムには「オリジナル楽器」という言い方をしていますが、それらは本来実証不能なフィクションなのです。結局どう頑張ったって、それが作曲者が想定していた楽器、実際に使用されていた楽器と同じ音を出しているとは限らないし、そもそもそれを鳴らすのは21世紀日本の近代的 - 鳴り過ぎの - ホールですから。同じとは実証出来ない。それを「同じだ!」と言い切る所から始まっている。 今は、やる方も聞く方も「そうじゃないんだ、"これがいい"と感じる所に従ってるだけなんだ」とか言い出して、「もうピリオド楽器と殊更に言う時代ではない」などと言い出していますが、何、要はスタンダードを持たずに走ることにいい加減疲れたということ。でも忘れちゃいけません。「××の作品はこのような奏法で演奏されるべきだ」とかいう思想がある限り、その発想の根底にあった亡霊はいつまでも無くなる訳は無いのです。 逆に、スタンダードが無く、一応某か理由をつければ俺がスタンダード、というのは、それで送り手と受け手が一致してしまえば、何でも通ってしまいます。 BCJの演奏、決して悪くはありません。でも、聞いていて「何故こうなのか」についての納得の行くものではないのですね。その意味で隘路に陥ってはいないか。その、最後の点で、どうもすっきり得心の行くものではなかったのです。
2007年10月06日
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カザルスホール 14:00~ 1階後方 ミヨー:弦楽四重奏曲4番 ダンディ:弦楽四重奏曲2番 ドビュッシー:弦楽四重奏曲 <アンコール> ドビュッシー:亜麻色の髪の乙女 デュティユー? 弦楽四重奏曲からの楽章 実は、本当は全く別の公演を狙っていたのですが、安く買えるということで、急遽こちらに切り替えました。ミヨーやダンディの弦楽四重奏を聞く機会はそうは無さそうですし。 でも、例によって少々寝不足気味で、あまり集中出来なかったんですが...... 時代的に言うと、ダンディとドビュッシーが19世紀末の作品で、遅れること約25年、第一次世界大戦最後の年にミヨーの作品が書かれたという関係です。 そう思って聞くと、ダンディの作品はやや保守的に聞こえます。ミヨーの軽妙洒脱な作風は面白く、同時代のラヴェルやプーランクに比べても尚軽やか。芸術的という意味での異形性ならラヴェルだし、音楽的な先進性ならプーランクでしょうけれど、この軽妙な感じは捨て難いです。 メインは後半のドビュッシーでしょうか。前二曲に比べると、居ずまいを正し背を伸ばして聞いてしまうような感じがあります。そういうと意外に聞こえるかも知れませんが、このドビュッシー、音楽としての、という意味で非常にシリアスなものに仕上がっていました。重々しいというのではないのですが、知らない内に真摯に対面せずにはいられない。これは元の曲がそもそもそういうものだったのか、それともドビュッシー弦楽四重奏団の演奏がそうなのか?決してそういう感じには見えなかったんですけどねぇ。 というわけで、なかなか面白い演奏でした。少なくとも、ミヨーやダンディをもう少し聞いてみようかと思わせてくれたという点で収穫でした。 ところで、カザルスホールに行ったのは本当に久し振りでしたが、改めて見るにつけ、いいホールなんですよね。確かにやや古びてはいるけれど、500人足らずのホールは無駄が無い。何より立地がとてもいい。お茶の水から神保町の交差点へと下る坂の途中なのですが、あの辺は交通量の割に道が広々としていて気持ちがいい。何より街の雰囲気があります。今は都内の小ホールというと、トッパンホール、第一生命ホール、紀尾井ホール、浜離宮朝日ホール、王子ホールとありますが、はっきり言ってトッパンホールや第一生命ホール、紀尾井ホールは遠過ぎるし、土地の雰囲気ももう一つ。ああいうのがいい、という向きもおありでしょうけれど。浜離宮朝日ホールは最寄り駅が大江戸線だし、雰囲気はも一つねぇ。王子ホールは、まぁこの辺はどっちが好きか、の世界でしょうかね。この中では多分カザルスホールが一番小さくて、その辺が興行主からも嫌われる要素かも知れませんが、もっと活用して貰いたいと思います。 一時期存亡の危機を言われていて、最終的に日大が管理することで落ち着いたようですが、どうなるか分かりません。でも、折角の立地なのですから、頑張って欲しいものです。
2007年10月01日
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