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仙台にいた時に、一番お世話になった新聞社時代の上司から今日、突然電話をもらった。聞けば、今年の4月に、前橋から東京に転勤になったという。「今日は空いているか」「はい、大丈夫です」。急に、再会が決まった。ふたりとも、東京の東側の下町に住んでいるので、わたしの行きつけの、近所のBarへ行った。 宮城県の石巻で、色々と教えて頂いたことが、次々と蘇った。年代や性別を超えて、ひとと付き合う醍醐味を教えて下さった方だった。あの人たらしぶりは全然変わってなくて、本当に嬉しかった。 最初にビール。次に赤ワインを1本。最後に、シングルモルトをストレートで一杯。こんなに飲んだのは本当に久しぶりで、ちゃんとキーボードを打てているのが奇跡のようだ。正直に云ってここのところ、くじけそうになっていた。あの方とこんな風に再会できるなんて。神様のご加護を強く思う。わたしの一番望んでいるものを、神は与えて下さった。どれだけ、わたしの力になることだろう。 これから、またちょくちょく会える。そう考えただけで、百人力のような勇気を感じる。ひととひとはお互いに、磁場を作りあっているのだろう。ひとがひとから得られる満足に叶うものはないのだ。この再会を演出して下さった神様に、深く、感謝したい。
2004年06月30日
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ひとに勧められて、アメリカの映画をDVDで見始めた。 最初の作品は、「For Love of The Game」。ケビン・コスナー扮するデトロイト・タイガースの投手が、ヤンキースとの対戦で完全試合を果たすまでの間に、様々な回想シーンが挟み込まれるという構成。登場人物が英語で話すのを、英語の字幕で追いかける。ストーリーが工夫されていて、一気に見てしまった。 英語の字幕付きで映画を見るのは初めてで、なかなか面白かった。やはり、相当口語が多くて、普段、新聞や小説、専門書などで見ている英文の文章とは大きく異なる。どんなに頑張っても、英文の内容が聞き取れない理由が分かった。目で追いかけても、意味がよく把握できないのだから。 英語も言葉である以上、ひとの豊かな感情によって裏打ちされている。考えてみれば当然のことなのに、忘れていた。もっと、英語とひとの感情が強く結びついたものに触れた方が良いのだと強く思う。
2004年06月29日
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いくら眠っても、まだまだ眠れる気がする。自分の中で、圧縮されて閉じ込められていた眠気が漸く、解凍されたような状況。午前10時ごろ、自分を叱りつけるようにして、のろのろと起き上がる。朝を自分の味方につけているひとを、つくづくと尊敬する。 今日もまた、「The Bell Jar」と向き合う。調子が出てくるまでがしんどい。最初の数ページは、英文がまったく、頭に入らず、何度も読み返す始末。自分には、英語がすらすらと理解できる日は永久に訪れない・・なんて、絶望的な気持ちになるのだから情けない。 作家野沢尚さんが自殺したというニュースをインターネットで知って茫然となる。書くことを突き詰めていくと、どうしても苦しくなって、自殺の誘惑に駆られるのか。それとも、この世の成り立ちがすべて自明になって、生き続ける理由が無くなったのか。自分はもしかしたら、そうとは知らずして、底なし沼に自ら、近づいているのかもしれない。今、スムーズに先に進まないのは、自分でひとつひとつ、クリアする力を身につけることによって、いざ、自殺の誘惑にさらされたときに踏みとどまれるようにするためなのかもしれない。 わたしたち生きとし生けるものがみんな、ぬか床に漬けられた野菜だとしたら、ぬか床に値する大いなる存在が必ず、存在するはずである。しかし、わたしたち野菜に、ぬか床の存在ははっきりとこの目で見えない。様々な出来事を通して感じるだけである。かつて、電子顕微鏡の発明によって、微生物の存在が明確になったように、将来、何かの発明によって、ぬか床に相当するものの形や仕組みを、明確に把握できる日が来るのだろうか。それとも、そういった日は永遠に来ないのか。 易占いの卦の配列を考えると、非常に興味深い。64卦あるうち、63番目に来るのが「水火既済(すいかきせい)」。既に何かが完成して、あとは衰退するだけという状態を表す。そして、最後に、「火水未済(かすいびせい)」で、未だ終わらずという意味である。未完成な状態は、完成された状態より、夢があり、上昇する力を備えている。だからこそ、ひとは進歩し続けるという意味なのだろう。 わたしたちが、ぬか床に相当するものの存在を明確に把握できないまま生を終わりにするとすれば、生きること自体が、永遠に未だ終わらずの状態であることにつながるだろう。そういう意味では、あえて無理に、大いなる存在の成り立ちを追求する必要はないのかもしれない。その成り立ちが自然と分かった段階で、死が訪れるのかもしれない。けれど一方で、わたしたちが避けて通れない曖昧さに直面すると、途方に暮れてしまう。 中学生の時の同級生が自殺して以来、繰り返して考えるのは、もしかしたら彼女は、大いなる存在の全容がはっきり見えたがために、生き続ける必然性がなくなったのではないか・・ということだ。今日、野沢さんのニュースを知ったときも、そう思った。 この謎が解けるとき、きっと、わたしにも死が訪れるのだろう・・・。
2004年06月28日
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どうしても、長野の戸隠神社の杉並木を歩きたくなって、昨日、日帰りで行ってきた。 雲は重く立ち込めていたけれど、歩いている間は奇跡的に、雨が降らなかった。樹木の香り、鳥のさえずり、虫の鳴き声。そして、参道の両脇を流れる小川のせせらぎ。この四重奏のバランスが絶妙で、息を吸い込むだけで胸がいっぱいになる。400年前に植樹したという杉並木は、幹が両手で抱えきれないほど太く、縦にしわが刻まれている。1年前に見た杉並木が、変わらぬ迫力でたたずんでいる。それがどうして、こんなに安心感をもたらすのだろう。 昨年の今頃は、会社を辞めるか否かで結論が出ず、ぐるぐると同じところを回るばかりだった。杉並木を歩いた後、ぐったりと疲れたのを覚えている。神様に叱られたのかもしれない・・と余計に落ち込んだ。今年は・・方向性が見えているものの、自分の能力に対する不安が色濃く残っている。去年みたいに疲れたらどうしようと、どきどきしながら行った。 何だか、杉並木がとても優しかった。前夜、4時間しか寝ていなかったため、歩き始める前はふらふらしていたが、並木を進むうちに、足取りが軽くなっていく。清めの水が甘露のように感じられて、はっとした。また壁にぶつかったら、ここに来れば良いのだ。 数日前、頼んでいた洋書 ” The Bell Jar” が届いた。昨日から読み始めている。辞書を引きながらでまどろっこしいのだが、比喩が具体的で身に詰まる。例えば、主人公の女性が、友人と二人で夜の街へ繰り出す。そこにナイスガイの男性が彼女らに話しかけるのだが、主人公には見向きもせず、友人とどんどん親しくなる。自分だけが置き去りにされる様子を彼女は、「パリから遠ざかる特急列車にいるような気がした。都市はどんどん小さくなり、自分も小さくなってますます寂しくなる」と描写している。1932年生まれのこの著者は、1963年に自殺してしまうのだが、それだけ繊細な感性だからこそ、生み出せる表現なのだろう。こんな英文は初めてのような気がする。先を急ぎたくなる。英文に対して、そう思えることが嬉しい。
2004年06月27日
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昨日で、仕事がひと段落した。また、静かな日々が始まる。 午前8時半に目が覚めて、シャワーを浴びる。腰が重く感じられ、再び、横になった。とろとろとした眠り。緊張から解けた途端に、眠れるようになるのだから、自分の現金さには笑ってしまう。午前11時近くなって漸く起き出し、家を出た。 先日購入したノートパソコンには無線LANがついている。六本木ヒルズの図書館にも無線LANのアクセスポイントがあるということだったので、設定してみたのだが、どうしても使えなかった。一度、派手に壊れた経験があるだけに、むやみにパソコンの設定を変えることが出来ない。担当者の方に相談したところ、どうやら、PHS端末のモデムがインストールされているため、パソコンが、無線LANのポイントを認識しないのではないか・・ということだった。残念。
2004年06月25日
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二日間の出張を終えて、伊豆半島から戻った。「海は浄化、山は癒し」という言葉を聞いたことがあるが、本当に、寄せては返す波を見ているだけで、気持ちが落ち着くから不思議だ。 べったりとした汗をかいて帰宅する。途中で我慢できなくなって、梅酒ソーダの缶を買う。シャワーを浴びて、ごくごくと飲み干してしまった。眠気が近づいている。今のうちに、布団に入ろう。
2004年06月23日
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台風が近づいているせいか、湿気を含んだ大気が熱を帯びている。梅雨はどこに行ったのだろう。 ペルーから帰国した友人と、表参道で会った。犬にかまれたところは、5センチ大のガーゼが貼ってあって痛々しかったけれど、友人は涼しい顔をしていた。留学前とは別人のようにたくましくなっている。ほっとしたし、嬉しかった。留学して良かったと思うよ。友人の言葉を聴いて、後は自分次第だと思う。 3ヶ月ぶりに六本木ヒルズに行く。事故現場には白い布が掛けられた小さなテーブルが置かれてあって、森ビルの謝罪文の入った額が立てかけられていた。この世で生きられなかった人生を、別の世で取り戻せますように。手を合わせることしか出来ない。以前ほど寛ぐことができない。2時間も経たないうちに建物から出てきてしまった。 心臓に疲れが残っていて、ぼんやりしている。動きたいのに動けないもどかしさ。暑さから来ているのであれば良いが。あと一週間で仕事のカタがつく。
2004年06月20日
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出張で再び、伊豆半島に行ってきた。海辺にたたずんで寄せては返す波をぼーっと見つめていてふと、ぬか床とそこに漬ける野菜の関係に思いを馳せた。 のっけから変な話をするけれど、簿記で登場する貸借対照表と損益計算書の関係に良く似ているような気がするのだ。 貸借対照表とは、資本をどのように調達して、それをどのように使っているかを示すための表だ。資本の調達には大きく分けて二つある。ひとつは誰かから借りること。これは負債になる。そしてもうひとつは株式を発行すること。これは資本になる。そうやって得た資金で、ひとを雇ったり、部屋を借りたり、商品を仕入れたりして企業活動を始める。資金の使い道は、資産という形で表示される。 損益計算書は、企業活動によってどのぐらい儲かったか(あるいは損したか)を示す。損益計算書は1年間経つとリセットされて、すべての勘定残高がゼロになる。各期の損益の結果は、繰越利益、あるいは繰越損失という形で貸借対照表に積み重ねられていく。一方、貸借対照表がリセットされるのは、会社が合併されたり、倒産、あるいは清算などされて実態が無くなる時だけだ。企業活動が続く間、その営みは、貸借対照表の勘定残高に降り積もっていく。 貸借対照表をぬか床、損益計算書を漬ける野菜とみなせば、二つの関係は非常に分かりやすくなる。財政状態の非常に良い会社ならば、一年ぐらい、経営成績が悪くたって何とかなる。いわば、ぬか床がとても美味しければ、漬ける野菜が多少、古かったとしてもごまかせるのと一緒だろう。けれど、債務超過ぎりぎりの会社が、多額の赤字を出してしまうと、会社の存続自体が危うくなってしまう。逆に、そういう会社がたまたま、ヒット商品などを手がけて大きな黒字を生み出せば、会社全体が一息つけるようになる。業績回復だけで終わるのは小手先に過ぎない。業績回復をきっかけに、財政状態の改善まで果たして漸く、企業再生は真の成功と言えるのだ。 このぬか床と漬ける野菜の関係、さらに対象を広げられるかもしれない。いざという時、とても頼りになる家族や友人、恋人を持っているひとは、挫折に対する耐性が大きくなるだろう。いわば、仲間というぬか床に支えられて、野菜は試練や挫折に立ち向かう力を得るのだ。もっともっと視野を広げれば、わたしたち人間はみんな、漬ける野菜といえるかもしれない。目には見えないけれど、わたしたちをこの世に送り出している大いなる存在こそがぬか床なのだとしたら、どうだろう。 ぬか床は、漬ける野菜のエキスによって、美味しくもなるし、まずくもなる。人間の命には限りがあるけれど、歴史は綿々と続く。以前にも書いた、時代を越えて受け継がれるものこそ、ぬか床を美味しくするエキスに他ならないのではないか。 生きているからには、何らかのエキスを遺してこの世を去りたい。なぜなら、わたし自身、先人たちが遺してくれたエキスからどれだけ力をもらったか、計り知れないから。例えば、バッハとシューベルトの音楽。ふたりより前に生まれたとしたら、今よりもずっと、生きるのに苦労しただろう。様々な作家の存在。活版印刷を発明したグーテンベルク。本のない生活はもう、想像だにできない。けれど、作家がいなければ作品は存在しないし、誰かが印刷技術を発明してくれなかったら、こんなに手軽に読書を愉しめなかっただろう。 こんなちっぽけなわたしにでも出来ること。それを見つけ出すのが、大きな課題だと思う。
2004年06月18日
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今、友人が一人でペルーを旅行している。自分とよく似通った性格を持つ友人である。彼女もホームページを持っていて、旅先でも、インターネットカフェからアクセスして日記を更新するので、毎日見ている。 先ほど、彼女のサイトを開いたら、一人でトレッキングをしている途中、道に迷ってうろうろしていたところ、犬にかまれて怪我を負ったと書いてあるので、ぞっとした。やっとの思いで道を探し当て、旅行会社へ行って英語の分かるひとに病院を教えてもらったという。狂犬病の恐れがあるので、明日、リマの病院へ行って予防注射を打ってもらうという。何も無ければ良いが・・。 スペイン語は全く分からないというのに、ペルーを女性一人で旅するのだから、何もトラブルがない方が奇跡だろう。わたしもどちらかというと、新たな経験を喜ぶ傾向があるから彼女の気持ちは分かる。けれど、そんなに心身にストレスを与えていたら、参ってしまうだろう。 「英語ライティングルールブック」という本を読んでいる。英語と日本語の感覚のずれなどが丁寧に解説されていて興味深い。これがすべて、自分の頭にすんなりと入る日が果たして、来るのだろうか。
2004年06月16日
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アメリカに留学している友人から「とても面白いよ」と勧められた小説があって、アマゾンに注文したところ、今日届いた。ところが、それには本の要約や筆者の紹介、読書レポートに推薦するトピックスといった内容が掲載されていて、小説の本文はどこにも載っていないのだ!読むのを愉しみにしていただけに、がっかりした。しぶしぶ、今日、再注文した。また、一週間待ちだ。 怪我の功名というべきか、アマゾンでDVDを安く購入できることに気付いた。英語の勉強になるよ・・と別の友人から勧められた作品も一緒に注文する。 仕事で色々と助けて下さった方と、代々木上原のイタリア料理店へ行った。男性3人で切り盛りしている小さな、けれど力強い店。クロダイのソテーが絶品だった。料理を通して、シェフから力を頂いた気がする。お蔭で会話も、弾んだ。
2004年06月15日
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梅雨の晴れ間に恵まれて、友人の結婚式は、大成功だった。最後に、中庭でデザートのビュッフェが振舞われて、式はお開きになった。シャンパン、ワインを飲んでいたせいもあって、気持ちが弾み、帰り道、書店に寄った。 「壁に突き当たったとき開く本」というサブタイトルに惹かれて、齋藤孝さんの「座右のゲーテ」という本を買った。ゲーテがその著書の中で語っている、具体的行動の工夫について、一つ一つ取り上げて、その意味するところを解説し、補足している。 今、最大の課題である英語の壁を念頭に置いて読んだ。扱う対象を小さく区切る。このアドバイスには深くうなずいてしまった。わたしにとって、英語というのはつかみどころが無い上に、手の届かないところに浮かんでいる雲のようなもので、その印象が、英語に対する苦手意識を一層、強めてしまっている。受験勉強は、英語をパズルのように捉えることで、好きな数学に引っ掛けてほとんど力づくでねじ伏せたが、もう、そんな手は通用しない。目標を細かく、区切ってみよう。少しずつ、クリアしていけば良いのだ。 もうひとつ感心したこと。「結局、最も偉大な技術とは、自分を限定し、他から隔離するものをいうのだ」-ゲーテは、英語やフランス語、イタリア語に堪能だったけれど、書く上では母国語にこだわったという。物事を吸収する段階では広く膨大だったが、表現手段は絞り込んだらしい。それによって、作品に、歴史的な価値を与えた訳だ。 日本語を本当に愛しているからこそ、異なる言語に精通することが意味を持つ。日本語で書くこと。英語の習得はそれを豊かにするための必要不可欠な要素なのだ。・・そう考えれば、英語の壁に挑むことは、喜びにつながる。漸く、自分の中で、モチベーションをあるべき場所にあてはめられたような気がする。 少しずつ、環境が整っていくのを感じる。自分の気持ちもかなり、前向きになってきた。さあ、始めよう。
2004年06月13日
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昨日から、何もする気が起きない。ずっと、寝そべっていたが、それにも飽きて、やっとの思いでシャワーを浴び、外出した。今、事務所に来ている。雑用を片付けて、時間が空いた。 先ほどから、英語の教材を広げているが、集中出来ないでいる。ふたりの友人に電話を掛けてみたが、どちらも通じない。こういう時は、ひとりでじっと息を潜めて、重苦しい雲が頭上を通り過ぎるのを待つしかないと分かっているのだけれど。 伊豆半島の海辺の景色を思い浮かべる。ただ、ぼーっと眺めているだけで、強張っていた何かが、緩み始めるのが分かった。今、事務所の窓から見えるのは、ビルばかり。東京に疲れているのかもしれない。 明日は友人の結婚式がある。それまでに気持ちを立て直さなくては。*************************** 二時間ばかり、辺りを散歩してきた。雲は垂れ込めているけれど、風が適度な強さで吹いている。道の両脇には、高いビルがそびえている。明かりのついている窓がいくつもあって、うんざりした顔で休日出勤しているひとたちの顔を想像する。 マンハッタンの雑踏がまた、脳裏に浮かぶ。彼の地もここも、大都市であることには変わりない。街の雰囲気も似通っている。けれど、決定的に違うことがひとつ。あれだけ多くの人種が同じ場所を共有している、あの複雑な線の交差が、ここにはいくら探しても見えない。今日の散歩で、日本人以外のひととすれ違ったのは、たったの一人だ。 どうして、彼の地に行けないのだろう。こみ上げてくるものがあって、思わず声がもれる。わたしも、複雑な線の一部を構成したい。線と線が接して交わり、エネルギーがぶつかり合うその場にいたい。その時間を経なければ、インプットの作業は完了しようがない。いつまでもアウトプットの段階に移れない。同じところをぐるぐる回っているしかない。 クリアしなければならない課題を乗り越えることが不可欠なのかもしれない。一歩一歩、地道な作業を、諦めずに積み重ねる。わたしが最も、苦手としていること。それをこなさなければ、彼の地にわたっても、挫折してしまうよ・・そんな声が聴こえたような気がした。
2004年06月12日
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会社を経営している友人から、民事再生法の適用を申請したという知らせを受け取る。先代の社長が、バブル期に多角化経営をもくろんで行った投資が、どれも失敗で、最後までそれを挽回できなかった。商売柄、半年前から相談を受けていた。その都度、出来る限り相談に乗っていたけれど、結局、何も役立たなかった。自分の無力さを思い知る。 先日、NHKのプロジェクトXの再放送を見ていた。オリンピックで外国人に金メダルを奪われた日本の男子柔道界が、3度目の正直で金メダルを奪還するまでのエピソード。その中で、非常に面白いことが語られていた。柔道の技は、いったんかけられると、まるで自転車が坂道を転がり落ちるように、自然に決まってしまう。それを防ぐには、最初の段階で勢いを殺ぐしかないのだ。会社経営も、同じことが言えるのかもしれない。最初のタイミングをつかみ損ねてしまうと、取り返しがつかなくなるのだ・・。 この悔しさを挽回するには、自分自身が力をつけるしかないのだ。これもまた、考えようによっては、成長の大きな動力になるだろう。 米国に留学中の友人が、一時帰国する。わたしと同じく、100人にひとりしかいないというタイプに属していて、同じことに悩んでいる彼女。ぜひ、会いたいと思う。また、ずっとご無沙汰していて、気にかかっていたひとたちから、何通もメールをもらった。また、色々なことが動き始めるのかもしれない。
2004年06月11日
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今日は誕生日なのだが、朝から不思議なことが続いている。まるで、今後の生き方をじっくり考える時間を、神様が贈って下さっているかのようだ。 8日から伊豆半島へ出張に出かけており、本来なら、今日の夜遅く、東京に戻る予定だった。ところが、会社の方に急用が出来て、午前11時には一緒に会社を出た。早めの昼食を取って電車に乗る。 一方、「もし、早く帰れたら、一緒に会おう」と言ってくれた友人は今日になって仕事が立て込んで、会えなくなった。急に手にする、ぽっかりとした時間。ひとりになることにたじろぐ自分を発見して、逆にうろたえる。あんなにひとりの時間を必要としていた筈なのに、この動揺は何だろう・・。 一度家に戻って荷物を置き、ノートパソコンを持って外に出た。近所にあるお気に入りの喫茶店に行く。隅の、コンセントを電源につなげる席が奇跡的に空いていた。今、こうやって座って、パソコンを開いている。 メールを開いたら、札幌時代にお世話になったふたりの方からメッセージが届いていた。「留学準備は進んでいますか?」ここ3ヶ月間、嵐のようなBusy seasonに見舞われて、満足に英語の勉強も出来ないでいます。ぐらぐらとふらつく自分を見ていて、果たして留学できるかどうか、不安を感じています・・。現状をそのまま書き送ったら、ふたりとも心配するだろう。ああ。わたしの弱さをそっとたしなめる、神様の大きな見えない手を感じる。今のままでは駄目だ。早く、体の疲れを取って、自分を立て直さなくては。 今日のように、日中から、じっくりと自分に向き合う日は本当に久しぶりだ。その必要性をしみじみ感じる。時々、ひとりになって自身を確かめなくては、その日その日の決まりきった雑事に流されてしまう。 34歳。自信と不安が等分ずつ同居していて、シーソーゲームのようにせめぎあっている。けれど、この状態はある意味、流動的で、自分の意思次第でどうにでもなる自由さを備えている。10年前の誕生日を思い出す。社会人になって最初に迎えたこの日。ひとつの道を着実に歩んだわけでは決して無いけれど、無我夢中で進んできた。あの頃に戻りたいとは露にも思わない。年を重ねて得られる豊かさに、感謝したい。
2004年06月10日
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自分自身、今は過渡期にいるような気がしている。エネルギーを蓄積する時期なのだろうか。以前、とてもお世話になった方々にお会いしたいと思いながら、まだ、サナギの状態で伺って良いのだろうか・・と逡巡していた。相手の貴重な時間を割いていただく以上、自分も、お返し出来るような、何かしっかりとしたものを内包していなければ、相手に申し訳ないと思っていた。 今日、とても嬉しいことがあった。連絡したくても連絡できなかった方から「お元気ですか。ご活躍だとは思いますが」というメールを頂いたのだ。きっと、何かがきっかけとなって、わたしのことを思い出して下さったに違いない。メールで、素直に今の状態を報告した上で「お会いしたいです」と書くことが出来た。 神様は時々、こうやって思いもかけないプレゼントを下さる。直にお会いして、あの、良質のシングルモルトにも似たお話を伺うことが出来たら、こんなに嬉しいことはない。
2004年06月07日
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梅雨入り直前というのに、本当に気持ちの良い晴れ間が広がった。日光がまぶしい。文京区にある白山神社にアジサイを見に行ったら満開だった。このところの晴天続きで、花がげんなりしているのが気の毒だった。あれだけアジサイが密集していても、圧迫感を受けないのだから不思議だ。満開の桜の下を歩くのとは大きく違う。葉の青々とした色に取り囲まれているからか。それとも、花の色が可憐だからか。 その後、地下鉄で日本橋まで行って、東急百貨店の跡地に建てられた再開発ビルを冷やかした。周りのビルとは明らかに傾向が異なる。祝祭的で軽やかな建築。日本橋の再開発はさらに、進むのだろうか。しかし、ビルの面している交差点が、銀座四丁目交差点に似通っている気がしてならなかった。再開発の結果、既存の繁華街の雰囲気に近づいていくというのは、どういうことだろう。 その後、隅田川にかかる佃大橋まで歩いた。川縁に行くと、潮のかおりがする。花火大会の情景が目に浮かんだ。夏はもう、すぐそこだ。 月島まで足を伸ばして、驚いた。60店以上のもんじゃ屋が協同組合を作っていて、地区全体で商店街を盛り上げている。商店街の入り口に組合の案内センターがあって、若い男性がきびきびとした態度で、もんじゃ屋を次々と紹介している。そこかしこに、もんじゃ屋の無料マップが置かれていて、何人ものひとが声を掛けてくれた。周回遅れのトップランナーというのだろうか。古さを前面に押し出して新しさを生んでいる。 日本橋で進行中の再開発とは一線を画す、ソフトを主体とする街づくりが明らかに浸透しつつある。地域でタッグを組み、他の地域から客を呼び寄せている。すでに壊れてしまった地域社会を嘆く代わりに、別の形で連帯を生み出せば良いのだ。当事者のひとたちが本気になれば、いくらでも新しいあり方を生み出せるのだろう。 久しぶりに太陽の光を燦々と浴びて、嬉しかった。今夜はぐっすり眠れそうな気がする。
2004年06月06日
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久しぶりに仕事が早く終わったので、近所のBarへ行った。ベルギービールとマンハッタン。たった2杯しか飲んでいないのに、椅子から立ち上がるとよろめいて、カウンターに手をついてしまった。千鳥足で家に戻る。観たいテレビ番組があって、放映時間までまだ時間があったから、本でも読もうと思ったが、気がついたら、電気をつけっ放しで寝ていた。先ほど、目が覚める。まだ頭が重い。けれど妙に目が冴えて眠れない。 ひとの生きる意味を考えるとき、魂の巡礼という言葉が一番ぴったり来る。数十年間の人生の間に経験する様々な事柄を通して、ひとは喜怒哀楽を得る。そして、それが大きな魂の成長につながって死を迎えるのだ。わたしたちをこの世に送り出した大いなる存在は、予め、ひとそれぞれに学ばせたい項目、そしてなすべきことを定めている。いつ、どこで、どんな両親の元で生まれるかは、決して偶然ではないのだと思う。 ここでひとつ、疑問を感じるのは、大いなる存在がどうして、ひとをこんなにも不完全なものとして設計し続けているかだ。わたしたちは数千年前から争いを繰り返している。人間の犯す犯罪は、太古の昔と今とで、本質はそんなに変わらないと思う。世界中のひとびとが生まれては死ぬというサイクルを繰り返して、みんなそれぞれ、魂の巡礼を続けているというのに、どうして人間全体のレベルが、こうも変わらないのだろう。 もしかしたら、不完全な存在だからこそ、成長しよう、前へ進もうという意欲が生まれるのかもしれない。ひととしてバランスが取れていては、決して一流の芸術家にはなれないという言葉を思い出した。完全であるということは、自分ひとりで完結しうるということだ。ひとりひとりが完結していたら、誰もコミュニケーションを取る必要性は無くなるだろう。そうか・・・そういうことなのか。 仙台から札幌に引っ越して味わった物足りなさを思い出した。東北のひとたちは、先人たちが築いた長い歴史に誇りを持ちつつ、否応なく東京化していく地域のありように対し、複雑な気持ちを抱いている。時には怒り、時には呆れ、そして諦める。けれども希望は捨てない。そういった葛藤が生み出すエネルギーが面白くて、わたしはどうしようもなく東北に惹きつけられる。一方、札幌は、受容の土地だ。北海道庁の作成したポスターを最初に見たとき、呆れてしまった。「試される大地、北海道」という、道庁の作った標語がでかでかと表示されていたからだ。「試す大地」ではないところが、じれったくて、なんだかな・・と思っていた。 一年目の冬だろうか。ふと閃いたことがある。今わたしが、世間体など全く気にせずに、自分の生きるべき道を求め続けられるのは、幼少の頃から、両親がわたしの自主性をとても尊重してくれたお蔭である。両親はどちらも北海道出身だ。特に父は、かつて倉本聡が脚本を書いたドラマ「昨日、悲別で」の舞台となった砂川出身である。かつて、炭鉱で栄えたが、今はもう、当時の繁栄を想像するのも難しい過疎の町。炭鉱夫だった祖父は肺を患って、60代の前半で亡くなった。父にとって砂川はつらい思い出が多い場所らしく、その頃の話はほとんど、聞いたことはない。しかし、多くの悲しみに直面し、じっとこらえて静かに受容するその姿勢が、わたしに対する接し方にも現れている。今、自分が物足りないと思っている北海道の受容性が父に影響を与え、今の自分につながっている。そこに思いが至ったとき、めまいがした。この世の中には、注意深く眺めなければ分からない複雑さが潜んでいる。生きる難しさと喜びをしみじみと味わった。 自分がこれからどこに行こうとしているのか。分かったようで分からなく、不安を感じないといったら嘘になる。けれどもそれは、かけがえのない発見に満ちた道のりでもある。その喜びを思うと、この不安も納得がいく。
2004年06月05日
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今日の東京の夕焼けには息を呑んだ。日が沈んだ後、空に黒をたっぷり含んだ赤が広がって、太い幅のストライプのような、大胆な模様が広がった。たまたま、西向きの窓のある部屋にいて、思わず、手が止まった。 代々木にあるNTTドコモのビルのシルエットが夕焼けに浮かび上がって、ニューヨークのマンハッタンを思い出した。さまざまな人種の人々がごったがえす雑踏が脳裏に浮かんだ。やっぱり、向こうに行きたい。胸がちくちくする。諦めかけていた気持ちにやっと、弾力が戻った。家に帰って、久しぶりに英語のCDを聴いている。 相変わらず、仕事は終わらないが、それでも区切りが見えてきた。先週、作成をお願いした資料をチェックする。合うべき数値がどこもつながっていて、あるべき姿に落ち着いている。まるで資料の数字がピカピカに磨かれているようで、本当に嬉しくなった。担当者のひとはきっと、何度も見直してくれたに違いない。 気持ちの落ち込み方も、動から静に変化しているのか。以前は、あたかも底なし沼にずぼずぼとはまっていくような、猛烈な自己嫌悪を伴った。とてもしんどかったけれど、底を打つのも早かった。今は、ゆっくりと、しかも自覚することになしに落ち込んで行き、脱力していく。そこから抜け出すのも、以前に比べて時間がかかる。今回は夕焼けに救われた。 自分の体力と年齢を考える。体力の低下さえなければ、いくらでも年齢を重ねたいのだが。昨日、弟が30歳になった。自分の時より感慨を覚える。あの小さかった弟が・・。
2004年06月02日
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ここのところ、寒暖の差が激しい。眠りが浅い。いったん眠っても、2,3時間ごとに目が覚める。 うとうとと、夢を見る。仕事のことが頭から離れないのか、クライアントのひとが登場して、今、問題点として挙がっている事項を話している。話がどんどん、妙な方向へずれて行き「あれっ」と思う。我に返ると目が覚める。 小学校で、6年生の女生徒が、同級生の女生徒を殺害したというニュース。自分の感情が吹き荒れて、制御できなかった思春期を思い出す。しかし、どんなに想像を膨らませても、当事者に近づけない。どんなに憎んだとしても、相手の存在を消すという考えは浮かばなかった。物理的に相手を殺めることは出来ても、してしまったことの償いには、長い時間がかかるだろう。 この世の中は、どんなものにも裏表がある。というより、あらゆるものは、裏表で1セットとなっている。作用・反作用の力はあまねく、そして時には容赦なく、働く。文字で表せばシンプルなことだけれど、これさえ実感すれば、他者を傷つけることは出来なくなる。ひとを傷つけたら、絶対に自分に還って来るのだから。それなのにどうして人間は、互いに傷つけ続けるのだろう。 これまでさまざまな先人たちが残した素晴らしい遺産に接すると、人間の偉大な可能性が感じられてわくわくする。その一方で、戦争はいつまで経っても終わらず、悲惨な事件が消える気配は一向にない。人間という生き物はどうして、こんなに矛盾に満ちているのか。
2004年06月01日
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