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クロニクル 米軍沖縄基地の強化を発表1950(昭和25)年1月31日68年前のことです。この日米軍のブラッドレー統合参謀本部議長らが来日。前年10月1日の中華人民共和国の建国を受けて、社会主義封じ込めの最前線を日本に期待することを述べると共に、占領中の沖縄の軍事基地化を推進すると同時に、日本全国の米軍基地も強化する旨の声明を発表しました。この年6月には、朝鮮戦争も勃発、米ソのにらみ合いは次第に深まっていきました。そのトバッチリを受けたのが、沖縄でした。このブラッドレー声明を受け、しばしの間、沖縄の米軍基地は拡大に継ぐ拡大を続けることになりました。当時は、沖縄だけではなく、日本全体が事実上米国の占領下にありました(形式的にはGHQという連合国軍の占領ということになっていましたが、GHQの主力も米国人で占められており、ほぼ米国の意のままに、基地の拡大もできたのです。冷戦が、今に連なる沖縄の悲劇を生んだと言えましょう。
2018.01.31
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クロニクル 日英同盟成立1902(明治35)年1月30日116年前のこの日、日英同盟協約が締結され、即日発効しました。調印はロンドンのイギリス外務省で行われ、日本側は林駐英公使、イギリス側はランズダウン外相が署名しました。日英同盟協約の主な内容は、清国における両国の利益と韓国における日本の政治・商業・工業上の格段の利益を他国の侵略的行動や民衆反乱から守るため、危機に際しては両国が適当な措置をとること、また日英両国のいずれかが、第3国と戦争になった場合、一方の締約国は厳正に中立を守り、さらに他の国が第3国に同盟して参戦する場合には、一方の締約国も協力して戦う事の2点でした。この同盟は、ロシアの極東進出、とりわけシベリア経由での「満州(現中国東北地域)」進出に危機感を感じたイギリスからの誘いに、韓国支配の安定を望む日本が応じた形で、締結に至りました。イギリスは名誉ある孤立の伝統を捨て、日本をパートナーと認めた形となり、日本の国際的地位の上昇に、多いにプラスとなりました。 時に日露開戦の2年前のことでした。
2018.01.30
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クロニクル 日本最初の戸籍調査実施1872(明治5)年1月29日146年前のことです。この日、日本で最初の全国戸籍調査が開始されました。壬申戸籍として有名になった明治時代最初の戸籍調査です。江戸時代は、全住民を寺に帰属させ、宗門改帳が戸籍の代わりとされていましたが、悉皆調査というには、問題がありました。この72年調査の結果、この時点の日本の総人口は、男性16,796,158人、女性16,314,667人、合計で33,110,825人となりました。 人口減が大きな課題としてあげられる現在ですが、僅か1世紀半足らずの間に4倍近くにまで増加していたことになります。
2018.01.29
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クロニクル 新潟少女長期監禁事件2000(平成12)年1月28日タイトルをどうつけるべきか迷いましたが、このタイトルにしました。18年前の今日は、事件の解決日でした。 少女が誘拐されたのは、小学校4年生だった1990(平成2)年の11月13日、新潟県三条市の小学校からの下校途中でした。ですから、少女は9年2ヵ月に渡って監禁されていたことになります。 少女が同じ新潟県柏崎市の加害者宅で見つけられ、助け出されたのは全くの偶然でした。少女を誘拐した犯人(加害者)宅へ、別件で訪問した同市の保健所職員が、室内にいた足が萎えて満足に歩けない女性を発見、保護したのです。その後の入院と事情聴取によって、9年2ヵ月前に誘拐された少女と判明しました。 衝撃的な事件でしたので、おそらく皆さんの記憶にも、残っている事件だと思います。犯人は最高裁で懲役14年の刑が確定し、服役しました。裁判中の拘留日数も加算されますから、既に出所しています。 犯した犯罪に比べ、刑が軽いことは事実ですが、誘拐監禁に別件の傷害罪を加えても、当時の刑法で科すことが出来る最大の刑罰が、懲役14年でした。罪刑法定主義の立場からすると、これ以上の刑罰を科すことは出来なかったのです。 判決は、「犯行は法が想定していた刑期をはるかに越えた最悪のものである」と記して、懲役14年が刑罰として軽すぎることに、無念をにじませています。裁判官も人の子だと、感じることができた判決でした。
2018.01.28
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クロニクル 第1回ハワイ移民出発1885(明治18)年1月27日133年前になります。時まさに鹿鳴館華やかなりし頃ですが、同時に松方デフレが深刻化し、前年には、自由民権期の激化事件が頻発した、そんな時期でした。この日、横浜港から、政府の募集に応じた927名のハワイ移民が、アメリカ汽船シティ・オブ・トーキョー号に乗船、ハワイに向け出航しました。 移民は男性696名、女性165名、小児66名でしたから、単身の男性が多かったことが分かります。また出身を見ますと、山口県出身者が415名、広島県出身者が220名を占めていました。ハワイ移民のルーツは1868(慶応4)年の5月に、153名が農園労働者として渡航したのが始まりです。71(明治4)年には、ハワイとの間にも修好通商条約が結ばれ、契約移民が開始されることになったのですが、それから14年して、ようやく第1回の移民が実現したというわけでした。 当初の移民は出稼ぎが主であり、永久移住を考えた渡航者は少なかったのですが、こうした移民の背景には、幕末維新期以降の、急速な西洋医学の普及などによる人口増加を背景とした、農村の窮乏があったことは否定できません。ハワイへの契約移民は、その後94(明治27)年まで、26回行われ、28,995名が渡航しています。その多くはサトウキビ畑で働く出稼ぎの農園労働者でした。
2018.01.27
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クロニクル 法隆寺金堂で出火1949(昭和24)年1月26日69年前のことです。私は、この年の4月に小学校に入学しました。ですから、ラジオでニュースを聞いたはずですが、事件についての直接的な記憶はありません。この日、法隆寺金堂から出火。大変残念なことに、模写中だった12面の壁画が全焼してしまいました。 模写は戦前に始まっていたのですが、、戦争で一次中断。戦後になって、作業を再開、いままさに軌道に乗ってきたところだったのだそうです。真冬の寒さの中、暖をとる必要があったのですが、火鉢や練炭では火災の危険も大きいだろうと、より安全だろうからと、設置された電熱器のショートが、火災の原因として特定されました。なんとも皮肉ですが、残念なことでした。ただ修復のために、かなりの数の写真が撮られていたので、当代一流の画家たちの手で、複製を完成させることはできました。
2018.01.26
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クロニクル カノッサの屈辱1077(承暦元)年1月25日 今から941年前になります。日本で言うと平安朝後期、上皇による院政の盛期にあたります。西洋では中世ヨーロッパの骨格がようやく整ってきた頃でしょうか。ヨーロッパの中世都市が、あちこちに生まれるのは、もう少し後のことになります。 「カノッサの屈辱」は当時存在した「神聖ローマ帝国」皇帝のハインリヒ4世が、ローマ教皇グレゴリウス7世を雪のカノッサ城(カノッサはイタリア、トスカナ地方の女性伯爵マティルダの居城でした)に訪ね、破門の許しを乞うて、素足で3日間城門の前に立ち尽くしたという、有名な事件です。 当時のヨーロッパには、いくつもの王国が存在していますが、まだ強固な王権というものは存在せず、王とは諸侯の中の第一人者で、戦闘となった場合の指揮官程度の意味しか持たなかった時代です。そのためヨーロッパというまとまりの範囲は、ローマ教皇をいただくカトリック教会の勢力範囲を示し、教皇の宗教的、精神的権威によって維持されていました。こうした世俗の王権に対する教皇権の優越を、象徴的に示した事件が、カノッサの屈辱でした。 事件の発端は、ハインリヒ4世が無謀にも教皇権に挑戦したことから始まりました。聖職者の任免権、これを聖職叙任権というのですが、この権利は当然ながらローマ教皇にありました。それゆえ教皇に任命された大司教や司教といった教会幹部の聖職者は、当然ながら国王ではなく、教皇の意向を尊重します。それゆえ、多少王権が強まり始めていたこともあって、ハインリヒ4世は、聖職叙任権を我が手に納めようという野心を起こしたのです。そうして彼は行動を起こします。事件の2年前の1075年のことです。ハインリヒ4世は、自ら空席となったミラノの大司教を叙任し、皇帝の権威を示そうとしたのです。怒った教皇は、教会政治への介入に抗議し、ハインリヒ4世に教皇への服従を要求したのです。ハインリヒ4世はこの要求に従わず、ウォルムスの公会議に出席し、グレゴリウス7世の廃位を宣告したのです。これは全面戦争の布告にほかなりませんでした。激怒した教皇は、ハインリヒ4世を破門したのです。76年の2月のことでした。カトリックの世界で、教皇に破門された者を、王や皇帝として戴き続ける意識は、当時はありません。諸侯会議は、1年以内に破門が許されない限り、ハインリヒに替る別の皇帝を推戴する事を決定します。 慌てたハインリヒは、あの手この手で教皇の許しを得ようとしますが、どれもうまく行きません。そしてこの日、トスカナ女伯マティルダのとりなしで、カノッサ城を訪ねました。彼は27日までの3日間、雪の城門に素足で立ち尽くし、ようやく破門を解かれました。この事件は、世俗権力と聖界権力との聖職叙任権を巡る長い争いの第一幕でした。この事件には、後日談があり、後日の第2幕では、グレゴリウス7世のワンマン振りに不満を持ったドイツ各地の司教たちがハインリヒを支持し、彼が一矢を酬いる形になりました。
2018.01.25
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クロニクル 缶ビール登場1935(昭和10)年1月24日83年前になります。この日、アメリカのクルーガー社が、世界ではじめて缶ビールを発売しました。現在に比べ、技術的に未熟でしたから、瓶ビールに比べ、当初の味はかなりは落ちました。日本では、1958(昭和33)年9月15日に、朝日ビールが1缶70円で発売したのが最初です。ただ、朝日も主力は瓶ビールで、ハイキングや遠足、バス旅行などの時に、持ち歩きに便利な缶ビールがあったら喜ばれるだろうとの判断で、売り出したと言われます。プシュッと飲み口を開けられるプルトップタイプのアルミ缶が登場したのは、東京オリンピック翌年の65(昭和40)年のことでした。500mmのロング缶は、72(昭和47)年にサントリーが売り出したのが最初です。缶ビールの味が、瓶とさほど変らなくなったのは、いつ頃だったでしょうね。私にも覚えがありません。
2018.01.24
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クロニクル 八甲田山死の彷徨 1902(明治35)年1月23日116年前のことです。この日、陸軍第8師団青森歩兵第5連隊の将兵210名が、例年の雪中行軍に出発しました。この年は1月に入って積雪が多く、この日は特に寒気も厳しかったと指摘されています。山口少佐が率いる第2大隊の将兵は1泊の予定で裏八甲田の田代に向ったのですが、夕刻から激しくなった雪に道を誤ったため、目的地に到着出来ず、この夜は半煮えの食事だけで、雪中に野営せざるをえなくなりました。 翌早朝から猛吹雪の中、行軍を開始し、いたずらに体力を消耗、凍傷もひどくなって、将兵の4分の1が倒れました。それでも山中の彷徨はなお27日まで続き、最後は隊を解散して各自が思い思いに行動する破目になりました。26日にようやく遭難救助隊が出動したのですが、猛吹雪のため捜索活動も難航しました。27日になって大隊のほとんどが凍死しているのを発見しました。生存者は僅かに17人、このうち6人は収容後間もなく死亡しました。 犠牲者199名の大惨事でした。雪中行軍は,ロシアとの戦争を想定した訓練でしたが、装備の不備と進退の判断の誤りが、この大惨事を招いた原因でした。その点は、同じ時期に雪中行軍を行った弘前第31連隊が、全人無事に帰営していることからも明らかでした。
2018.01.23
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クロニクル 社会党「新宣言」採択1986(昭和61)年1月22日32年前になります。この日は社会党の定期大会の最終日でした。前年の大会に、石橋正嗣委員長、田辺誠書記長を中心とした執行部は、ジリ貧の党勢を回復すべく、ニュー社会党をめざしての、大胆な党路線の修正を目指すことを提案、激論を戦わせた上で、翌年の大会までに、新路線を決定するという、決議を引き出していました。こうして、この日、検討委員会案として、西欧型社会民主主義への路線転換を明記した「新宣言」を提案、議論の末に賛成多数で採択されたのです。ここに日本社会党は、遅まきながら、路線を転換し、社会民主主義に近づいたのでした。 土井委員長が参院選で勝利して、「山が動いた」という談話を発表したのは、この時から3年半後の、1989年7月末のことでした。それが社会党の最後の輝きとなったのですが…。
2018.01.22
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クロニクル ソニー8mmビデオ発売1985(昭和60)年1月21日33年前のこの日、世界のソニーが8ミリビデオを発売しました。ビデオカメラは70年代から発売されていますが、小型軽量の8mmビデオは、瞬く間に市場を席巻して行きます。そして、このしばらく後には、デジタルビデオカメラが登場します。 時移りて、新興国などの追い上げにあう中で、画期的なヒット商品を生み出すことが出来ず、ソニーも会社存続の危機に陥りましたが、ここにきてようやく薄日が差し込むような小型の新製品がヒットし、一息つくことが出来たようです。 こらが本格回復に繋がるのか否か、大事にすべき人材の多くが、社外に流出してしまっているだけに、まだまだ試練が続くのではと、思えてなりません。
2018.01.21
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クロニクル 119番事始1936(昭和11)年1月20日今から82年前の昭和11年といえば、これはもう2・26事件に尽きるのですが、1カ月と6日後に、2・26事件を控えたこの日、東京警視庁消防部が、初めて管内の6消防署に1台づつの救急車を配備し、救急活動を開始しました。配備されたのは、丸の内、麹町、品川、大塚、荒川、城東の六つの消防署でした。同時に173個所の救急病院を指定しました。また救急呼び出し電話として、119番通話が開設されました。 当時の救急車、どんなサイレンを鳴らしたのでしょうね。つうほうする
2018.01.20
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クロニクル 日本航空会社更正法申請2010(平成22)年1月19日あれから8年になるのですね。日本航空と子会社2社が、この日会社更生法を申請して倒産しました。それから4年、国鉄を分社化して民営化したJR各社のうち本州3社は黒字化して株式上場を果たしたのですが、同じようにJALもまた早期に再建され、株式上場を果たしました。ただJALとJRでは、そのおかれた環境は大きく違います。JRは夫々に独占的な路線を持つ国内企業です。JALの場合、世界の航空会社がライバルですから、こうしたライバル、時には格安航空会社との競争に耐えるコストパフォーマンスを実現する必要がある上に、国内にもANAというライバルがいます。JALが本当に世界に伍して行けるかどうかは、現在もなお今後にかかっているように思われます。
2018.01.19
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クロニクル 東大安田講堂の封鎖解除に機動隊出動1969(昭和44)年1月18日 49年前のことです。若い方には信じられないことでしょうが、1950年頃から1972,3年頃までは、学生による異議申立てが非常に盛んで、学生運動が活発に展開されておりました。その第1のピークが1960年の安保改訂反対闘争でした。その後、安保闘争の敗北を受け、学生運動もしばらく停滞期をすごすのですが、64~65年の早稲田大学の授業料値上げ反対闘争と、ヴェトナム反戦運動の盛り上がりを受けて、再び活況期を迎えます。 全共闘運動と呼ばれた盛り上がりがそれです。68年5月、革命の国フランスで、パリ(ソルボンヌ)大学の学生のストライキから、学生と労働者が連帯してのゼネストが広まり、1週間もしないうちに、全国に拡大して、遂にドゴール大統領の辞任を勝ち取り、五月革命と呼ばれるようになりました。 日本の学生たちも、フランスの学生運動の盛り上がりに大いに刺激され、4月に20億円もの使途不明金が見つかった日大と、1月以来、教授陣と学生との対立が続いた東大医学部が、2つの核となって、アカデミズムの牙城であり、日本の大学の頂点に立つと当時一般に受けとめられていた東大と、マンモス大学の雄で、これまた日本のいびつな大学組織の象徴的存在であった日大という、対照的な2つの大学で全学共闘会議(全共闘)が組織され、一般学生の支持を集めて、大規模な運動が展開されたのです。 日大のある水道橋に近い、明治、中央(多摩校舎への移転はまだなされていません)の学生も日大全共闘運動を支持してデモや封鎖に参加、本郷の東大もまた御茶ノ水に近く、駿河台下から神保町へ、そして水道橋に到る一帯は、誰が名付けたのか、日本のカルチエ・ラタンと呼ばれました。 東大全共闘の学生は、東大の象徴として安田講堂を占拠、医学部、工学部、法学部の一部建物も占拠して、無期限ストを続行して大学側との交渉を要求、交渉を続けたのですが、日本共産党系の民青系学生が党本部の指導もあって、全共闘系グループと異なる立場をとり、交渉は難航を続けました。そうこうするうちに、69年度の入学試験の時期も近づき、文部省等からの圧力も受けた大学側は、自力解決を断念、大学の自治の名において、警察権力の学内導入に強いアレルギー反応を示していた従来の対応を転換、機動隊の導入による占拠学生の強制排除を決断して、警視庁に機動隊の出動を要請したのです。こうして、69年1月のこの日午前8時、8500人の機動隊員が東大構内に入り、バリケードの撤去を開始したのです。安田講堂以外の建物の封鎖は、この日昼頃までに完了したのですが、要塞と化した安田講堂の封鎖解除は難航し、4機のヘリコプターから催涙弾まで投下しながら、放水等を続け、学生もまた手製の火炎ビンと投石で対抗、封鎖の解除は、翌日19日の午後5時45分にようやく完了したのです。 逮捕者は631人を数えました。この模様は2日間にわたってテレビで実況中継され、私も固唾を飲んで見つめ続けたことを覚えています。 神田駿河台の通称カルチエ・ラタンでは、日大・明大・中大等の学生たちが、東大全共闘支援と称して、周辺道路をバリケード封鎖、路上の解放区を実現したとしながら、2日間にわたって機動隊との衝突を繰り返しました。さて、こうして封鎖は解除されたのですが、学生たちのエネルギーはなお旺盛で、東大当局は文部省とも相談、入試を安全に行いうる環境はなお整っていないと判断、翌日1月20日に、69年度の入学試験を全面的に実施しないことを発表したのです。こうして、昭和44年度(1969年度)の東大入学者はゼロとなったのです。 東大と日大の運動は、全国の学生に強い影響を与え、69年度には全国の大学に全共闘運動が広がり、70年には、裾野は各地の高等学校にまで広がり、学生たちの異議申立ては、72年頃まで、活発に続けられました。
2018.01.18
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クロニクル 湾岸戦争の開始1991(平成3)年1月17日17日は、ここで記事にすべき出来事の多い日です。ニュースで盛んに取り上げられてる1995年の阪神大震災もその一つです。79年のこの日は第2次石油ショックの開幕を告げています。そして遠く明治7(1874)年には、板垣退助らによって「民撰議員設立建白書」が提出されています。その中から、今年はパパブッシュによるイラク攻撃、湾岸戦争の開始を取り上げることにしました。27年前の出来事です。 前年8月2日、フセインのイラクは突然隣国クウェートに侵入、同国をイラクの1州として併合すると発表しました。国境地帯に位置する油田の採掘を巡る争いが直接の引きがねだったようですが、このフセイン流のやり方は、あまりに無茶でした。そこで、国連はただちに、イラクに対する経済制裁を発動、イラク軍をクウェートから撤退させない限り、多国籍軍による軍事制裁を行うことも決定しました。当時の海部首相は、憲法上疑義のある自衛隊の海外派兵には踏み込まず、当初10億ドル、総額で90億ドル以上の資金拠出と戦後におけるペルシャ湾の機雷除去に掃海艇を派遣しました。 フセインのイラクは、国連の仲裁を拒否し、この日、遂に米国を中心とした多国籍軍のイラク攻撃が開始されたのです。ヴェトナムのジャングルを攻めきれず、民族解放戦線+北ヴェトナムとの戦いに敗れた米国でしたが、見晴らしの良い砂漠と平地の戦いでは、空軍の威力が何の妨げもなく発揮されます。従ってこの戦いは、長期の占領と駐留の継続を意図しない限り、最初から勝利が確実視される戦いでした。「砂漠の嵐」作戦と銘打たれた緒戦は、ペルシャ湾に展開した原子力空母中心の艦隊から、航空機1000機、巡航ミサイル100発を用いた波状攻撃が、クウェート領内のイラク軍戦略拠点やイラクの首都バクダッドに向けて実行されました。それにしても米国も英・仏・独も、1980~88年まで9年間続いたイラン:イラク戦争では、イラクを強く支持して、大量の新兵器をイラクに供給し続け、ホメイニ師のイランを封じ込める正義の防波堤としての役割を高く評価、イラクの軍事大国化を支援していたのですから、皮肉ですね。
2018.01.17
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クロニクル 禁酒法成立1919(大正8)年1月16日99年前ですか。この日アメリカ合衆国で憲法修正第18条の批准が完了し、禁酒法が成立しました。 米国では、19世紀半ばから女性を中心に、男性が不健全な酒場に入り浸って、家庭生活に支障をきたしているとして、酒場での禁酒を求める禁酒運動が次第に強力となっていました。その結果メーン州を皮切りに、20世紀初頭までに18の州で禁酒法が制定されていました。 第1次世界大戦を契機に、戦時の食料不足を予防するという大義名分が加わり、合衆国全体としての禁酒法制定の気運が強まりましたが、州の権限の強い米国では、全国的な禁酒法の制定には、憲法の修正が必要でした。こうして憲法修正第18条が議会に提案され、上院は17年の12月18日に、同案を可決しました。 国会を通過した憲法修正条項は、各州での批准を経ないと発効できない仕組みがあり、4分の3以上の州の批准が必要でした。当時の米国は全48州でしたから36州の批准が、禁酒法の発効に必要だったのです。その36番目の州の批准が、この日決定したのです。しかし、禁酒法の実施細則がまだ未決定でしたから、実施細則を別の法で定めた上で、正式に禁酒法が実施に移されたのは、翌1920年の1月でした。 禁酒法は、酒類の製造・運搬・販売を禁じましたが、家庭での飲酒は禁じていません。そのため富裕層は禁酒法発効前に、たくさんの酒類を買いだめしたといわれています。しかし、飲酒は人類にとって古来からの習慣です。法で禁じたからといって、なくなるものではありません。酒の密造は後を絶たず、隠れた酒類の販売は、ギャング達の恰好の資金源となったのです。こうして禁酒法は、稀代の悪法として怨嗟の的になり、結局1933(昭和8)年2月28日に、憲法修正第18条を廃止するための、憲法修正21条が可決成立して、同年12月15日から実施され、禁酒法は廃止されました。結局禁酒法の施行期間は13年11ヵ月間でした。
2018.01.16
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クロニクル 双葉山敗れる1939(昭和14)年1月15日79年前の今日は、大相撲1月場所の4日目でした。前日まで69連勝を続けていた横綱双葉山にとって、この日の一番は70連勝のかかった一番でした。そしてこの日双葉山は安藝ノ海の外掛けに敗れ、古来稀なりの70連勝には届かなかったのです。勝利した安藝ノ海は出羽の海部屋の新鋭で、双葉山とは初対戦でした。巡業中の稽古の経験もなく、取り口を全く知られていなかったことが幸いしたとも言われていますが、出羽の海部屋あげての打倒双葉山の作戦で、投げにきた時に足を狙えと、教えられていたと言います。双葉山以前の連勝記録は、横綱谷風の63連勝で、奇しくも白鵬がタイ記録の63連勝を記録していまsす。双葉山の連勝記録は、小結だった1936(昭和11)年1月場所の7日目に始まります。前日はこの場所全勝優勝を飾った横綱玉錦に敗れています。この場所9勝2敗で関脇に上がり、以後この日の敗戦まで負けしらずの連勝を続けたのでした。当時は年2場所、1場所11日間の興行でしたが、36年5月場所11戦全勝、翌年1月場所も全勝と続くと、双葉山人気が盛り上がり、同年5月場所からは、13日興行に伸びたのです。ですから、同年5月そして38年の1月、5月と13戦全勝を続け、66連勝として、39年1月場所を迎えたのでした。まる3年にわたって、連勝を続ける緊張感に耐えたのですから、やはり不世出の大横綱と言えるのでしょうね。敗れた双葉山は、インタビューに「我いまだ木鶏たりえず」と語ったそうです。ところで、双葉山に勝利した安藝ノ海ですが、彼は勝って驕らず、親方や先輩から、あの双葉関に勝ったオマエも、負けて話題になるような力士にならなければ、双葉関に失礼になると諭された教えを守って、稽古に励み、4年後の1943(昭和18)年1月場所後、照国と共に横綱に推挙されました。今の親方衆では、どこを叩いても、こんな人生訓は出てきそうもありませんね。ところで、その後双葉山は安藝ノ海と8度対戦していますが、双葉山の8連勝に終っています。以上、小学生時代に、オヤジに何度も聞かされた話です。東京大空襲で焼け出されるまでの我が家は、当時の両国国技館の近くにあり、呼び出し太郎さんのお宅の近くだったとか。オヤジは相当な相撲狂だったのです。
2018.01.15
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クロニクル 生きていたタローとジロー1959(昭和34)年1月14日59年前のこの日、第3次南極探検隊が昭和基地に到着、前年置きざりにして帰らざるをえなかった、15頭のカラフト犬のうち、タローとジローの2頭が生き残っていたことを確認したのでした。この嬉しいニュースはただちに日本に打電され、大きな話題となりました。日本の南極観測は、前々年1957年に昭和基地を建設した事に始まり、この年第1次越冬隊11人が15頭のカラフト犬と共に基地に残りました。帰路、日本の南極観測船「宗谷」は厚い氷に閉じ込められて航行不能に陥り、ソ連の砕氷船「オビ号」に救出されて事無きを得る一齣もありましたが、ともかく無事に帰着したのでした。 ところが、翌年の第2次越冬隊は,悪天候に遮られて昭和基地に接岸出来ず、第2次越冬隊は越冬を断念するのやむなきに到るのです。その際、昭和基地に残る11人の越冬隊員は、「宗谷」搭載のビーバー機で辛うじて基地を脱出、生還することが出来たのですが、彼等と苦楽を共にした15頭のカラフト犬は,基地に置き去りにされたのでした。残された食糧は、およそ1週間分だったそうです。その情報をえた国内では、誰もが極寒の地に食糧もなく置き去りにされた犬たちの死を予感して、暗澹たる気分になったものでした。それから1年、僅か2頭だったとはいえ、自分たちの力で極寒の地で生き抜いた犬たちがいたという事実に、日本中が深い感動と大きな喜びを味わったのでした。 タローとジローを主役とした映画も作成され、ビクターの三浦光一が歌った主題歌と共に、大ヒットするおまけもついたのです。その後、ジローは1年半後に南極で亡くなりますが、タローは北海道に帰り、約10年ほど生きたのでした。 60年前の日本の工業技術は、まだまだ高いとはいえない水準だったことが良くわかりますね。
2018.01.14
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クロニクル 「ピース」発売1946(昭和21)年1月13日72年前になります。敗戦の年が明けた、昭和21(1946)年は、元日の天皇の人間宣言という、ショッキングな話題から始まりました。いまだ、全国のあちこちに焼け跡の残る、まだ貧しくつましい時代でした。 暗い世相が続く中で、この日一つの明るい話題が提供されました。専売公社(現在はJT)が、高級タバコ「ピース」の発売を開始したのです。当時は10本入りで、1箱7円でした。 私の小学校低学年時代は、1箱40円だったように記憶しています。 当時は10本入り40円が最高価格で、20本入り30円の「ゴールデンバット」が一番安いタバコだったような…。もっとも、タバコの銘柄そのものも、数少なかったですが…。
2018.01.13
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クロニクル 大相撲の実況放送始まる1928(昭和3)年1月12日90年前のことです。勿論テレビはありませんから、ラジオでの実況放送です。日本でラジオ放送が始まったのは、この3年前の1925(大正14)年の3月22日のことでしたから、およそ3年の経過で、大相撲の実況中継が始まったのですね。前年1927年に、東京と大阪の相撲協会の話し合いがまとまり、両団体が同時に解散して、単独の大日本相撲協会が発足したことが、実況放送に繋がったようです。場所は、1月と5月に東京両国で、3月と10月は大阪で開かれることになり、90年前の今日が、初場所の初日だったのです。さて、この実況中継の開始に当たって、大相撲史に残る改革が実施されています。それが幕内4分の立会いまでの制限時間です。実はこの規定、この1928年の初場所から導入されたのです。今までは無制限でした。理由は、実況中継の時間には限りがあり、限りある時間内に横綱の取り組みまで、全てを終らせる必要に迫られたからでした。横綱の取り組みまで、全てを時間内に放送できるなら…というのが、NHKが出した実況中継の条件だったのです。
2018.01.12
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クロニクル 中曽根首相訪韓1983(昭和58)年1月11日35年前のこの日、中曽根首相は電撃的に韓国を訪問しました。前年11月27日に首相指名を受けて45日目でした。訪問は電撃的でしたが、歓迎晩餐会での挨拶は、最初と最後は韓国語を用い、宴席では韓国語で歌を歌うなどして、日韓対等をアピール、全斗煥大統領ら韓国首脳を感激させるなど、周到な事前準備をした上での訪韓でした。この出来事は、しかし日韓関係史の上だけでなく、日本の政治史の上で大きな意味を持っています。それは、戦後の歴代首相の中で、首相としての最初の外国訪問先に、米国を選ばなかったのは、中曽根首相がはじめてだったからです。歴代首相にとって、首相としての外国訪問は、参勤交代の諸大名が江戸の将軍家を訪問するが如く、ホワイトハウスに米国大統領を訪ねることは、米国のお墨付きを得る上で、欠かせない不文律だったのです。それだけに中曽根首相のソウル訪問は、米国との関係を対等の関係を目指して改善しようという、中曽根首相自身の並々ならぬ決意を示すものでもあったのです。
2018.01.11
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クロニクル 「賽は投げられた」 紀元前49年1月10日 「古いヤツだとお思いでしょうが…」とくれば東映任侠路線の鶴田浩二の決め台詞ですが、今日のクロニクルは、起源前の話なんです。今日を去る2067年も昔の話なんです。 塩野七生さんの『ローマ人の物語』を読んでおられる方も多いと思います。この言葉は、ポンペイウス、クラッススとの三頭政治の一翼を担い、ガリア遠征で成果をあげたカエサル(英語音シーザー)が、元老院と組んでカエサル追い落としをたくらんだポンペイウスとの雌雄を決すべく、元老院の召還命令を逆手にとって、自分の軍勢と共にルビコン川を渡ろうとして、自軍の兵士を激励すべく発したものです。 時に紀元前49年の今日でした。当時ルビコン川は、ガリアとローマを分ける境界をなし、兵士と共にこの川を渡る将軍は、ローマへの反逆者と認定するとされていた、重要な軍事境界だったのです。このルビコン川、とても小さな川です。
2018.01.10
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クロニクル OAPEC結成1968(昭和43)年1月9日ちょうど半世紀前のことになります。この日アラブ石油輸出国機構(OAPEC)が、アラブの石油産出諸国と近隣の石油大国イランとで結成されました。それは、エジプトを盟主としたアラブ諸国が第三次中東戦争(別名七日戦争)で、イスラエルに大敗した翌年のことでした。現在問題となっているガザは、この戦争の時に、シナイ半島と共にイスラエルが占領した地域です(因みに、この戦争でイスラエルはヨルダン川西岸~話題の東エルサレムもここにふくまれます~をヨルダンから、ゴラン高原をシリアから奪っています)。このOAPECは、1973年の第四次中東戦争において、陰の主役を務めます。石油資源を武器として、戦争勃発と同時に、イスラエルの味方をしたり、イスラエルを支持する国には原油を売らないと宣言し、実際に油井のバルブを閉めて油量を調節したのです。結果として、アラブやイランの原油に頼っていた諸国は困り果て、相次いで中東戦争に中立の立場を表明し、従来のイスラエルよりの立場を修正しました。欧州諸国にその傾向が目立ちましたが、日本などは、駐イスラエル大使を一時召還し、イスラエルとの貿易を凍結した上で、中曽根通産相(当時)を中東諸国に派遣して、原油輸出を懇請する慌てぶりでした。当時の田中内閣の列島改造計画は、このとき生じた石油危機によって頓挫しています。この時石油危機も生じたのですが、これが資源産出国の資源外交が成功した最初のケースでした。それは、アラブ産油国の団結が保たれたことが大きな原因でした。OAPECの団結がイスラエルに一糸酬いることに繋がったのです。
2018.01.09
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クロニクル 周恩来中国首相永眠1976(昭和51)年1月8日42年前のこの日、周恩来中国首相が逝去されました。享年78歳でした。同じ年の9月9日には、毛沢東主席が82歳の生涯を閉じています。76年という年は、中国の革命第一世代の巨星が、相次いで世を去った年として、記憶されています。とりわけ周恩来首相は、若い日に日本で留学生活を送っており、現在も神田神保町の裏通りにある日中学院の前庭には、「周恩来ここに学ぶ」と記された石柱が立っています。
2018.01.08
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クロニクル 環状7号線全区間開通1985(昭和60)年1月7日33年前のこの日、環状7号線がようやく全戦開通しました。当初の計画から58年目のことでした。 環7は、1927(昭和2)年に構想され、1940(昭和15)年に、第二京浜国道と交差する地区が完成、利用されるようになりました。しかし、戦局が急を告げるにつれて、道路のことは忘れられてしまい、再スタートをきったのは戦後のことでした。しかし、戦後もGHQが「敗戦国に立派な道路はいらない」とコメントしていたため、計画は遅れました。旗色が変わったのは、東京オリンピックの開催が決まった結果でした。羽田空港とオリンピック主会場を結ぶ道路として、同時に代々木のオリンピック村(現青少年センター)と戸田のボートレース場をつなぐ道路として、オリンピック開会までの完成が合言葉となったのです。こうして、1964(昭和39)年に大田区の平和島から、北区と足立区の境界の新神谷橋までが開通しました。その後の工事は再び進捗が遅れ、ようやく85年に至って、全面開通に至りました。総工費は用地取得費の増大と工事の遅れによりおよそ1兆2000億円にまで膨れ上がり、全線開通当時は東京都の財政悪化の一因だとする、厳しい評価も受けました。それにしても、計画当初はともかく、自動車の急増が明らかになった60年代においても、2車線の道路幅を拡幅することなく、工事を続けた官庁の感覚は、何とも時代遅れでどうしようもないですね。
2018.01.07
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クロニクル 中央省庁の再編成スタート2001(平成13)年1月6日もうアレから17年なのですね。17年前の今日、中央省庁の再編成がスタートしました。厚生労働省とは、厚生省と労働省が合体、文部科学省は文部省と科学技術庁が合体、国土交通省は建設省と国土庁が合体してスタートしました。大蔵省は財務省に編成替えされるなどし、さらに総務省がスタートし、内閣府が編成されるなど、1府12省庁となりました。この省庁再編は、村山内閣の退陣後にスタートした橋本内閣が執念を燃やして、抵抗する省庁を押し切った結果でしたが、なにやら焼け太り気味の省庁もあるなど、なお不完全燃焼気味でしたから、今後さらなるスリム化が求められるはずでした。ところが、その後はナシの礫。それどころか、いまだに省庁の利権が絡む不要な規制はなくなる気配が見えず、役にも立たない消費者庁など、何かあるとすぐに省庁の焼け太りにつながる、つまらない規制はすぐに出来ますから、日本の役人天国ぶりはなお続いています。悪法の特定機密保護法の誕生で、官僚の権限は益々強まっていますので、我々がもっと声を上げることが必要なんだと、受け止めています。皆さんはいかがお考えですか?
2018.01.06
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クロニクル アイゼンハワー・ドクトリン発表1957(昭和32)年1月5日61年前のこの日、アイゼンハワー米大統領は、中東教書を発表し、前年10月末~12月末にかけて、約2ヶ月に亘って続けられた第二次中東戦争(イスラエルのアラブ世界への攻撃と、英仏のスエズ運河地帯への派兵によって起こされた戦争です)後の平和の確立について、米国の関与と方針を示しました。 中東地域での戦闘は、12月22日の国連緊急総会の決議で、その非を指摘された英・仏軍が年内に撤退、イスラエルもいくつかの占領地の確保を認められたことで、停戦と撤兵を受け入れていました。アイゼンハワー・ドクトリンと呼ばれた中東教書によって、アイクは曲がりなりにもアラブ・イスラエル間の当面の和平を実現したのです。この平和は、67年5月の第三次中東戦争の勃発まで、10年間続きました。こうしてアイゼンハワー大統領は、当時なお継続されていた朝鮮戦争の終了に向けて、外交努力を集中する事が出来る環境を整えたのです。
2018.01.05
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クロニクル 円新高値へ1978(昭和53)年1月4日40年前になります。新年最初の為替取引きが行われたこの日、海外市場での円高傾向を受けた東京市場で、円はいきなり1ドル=237円90銭の新高値をつけました。1971年12月18日のスミソニアン合意で、円はそれまでの1ドル=360円から、1ドル=308円に切り上げられたのですが、この固定レートは1年しか持たず、73年2月14日から日本は固定相場制に別れを告げ、為替相場の変動幅制限を廃止する変動相場制に移行しました。ヨーロッパ諸国も3月には相次いで変動相場制に移行、ここに為替取引きは現在に続く変動相場制の時代に移行しました。初日の円レートは277円丁度のスタートでした。その後ジリ高が続きましたが、夏以降は1ドル=260円台の小動きが続き、政府・日銀の介入による円高阻止の動きがなかば公然と続けられました。73年10月、第1次石油ショックが勃発すると、原油高から円は売られ、円安に振れましが、この世界同時不況を最初に抜け出したのが日本でした。資源小国であるが故に燃費効率の良い車の生産を常に心がけざるをえなかった日本車が、アフターサービスの良さをもプラスして、アメリカの相対的低所得層のニーズを掴み、爆発的に売れたことがきっかけでした。やがて80年代の日米自動車摩擦に発展するこの動きは、自動車産業を牽引車とする日本経済の復活だけではなく、日本を世界経済をリードする経済大国に押し上げたのです。急増する輸出は巨額の貿易収支の黒字を積み上げ、欧米からの日本のダーティフロート(政府・日銀によるドル買い介入はこう呼ばれました)に対する批判は高まる一方となり、ここに政府も為替相場への介入を控えざるをえなくなっていったのです。その結果が、この日の円新高値に繋がりました。その後も円高は続き、この年10月31日には、1ドルは175円50銭の高値をつけ、スミソニアン合意まで続いた360円の固定相場から、僅か7年で2倍にまで円の価値は高まりました。輸出業界はブツブツ言っていましたが、自国経済の地位向上を実感できるのですから、我々一般の国民にとって、これは気分の良いことでした。ただ生活実感の乏しい気分の良さだったことも事実でした。当然ドルベースの国民所得、平均賃金も切り上がり、生活実感に乏しい経済大国日本が出来あがったのです。農協をはじめとする日本人の海外団体旅行が隆盛をみせはじめ、昨今の中国人旅行者のように、欧米各地でノーキョーとして顰蹙を買ったのも、この頃のことでした。国内旅行より、海外旅行の方が割安だという、円の強さを実感できるほとんど唯一の時だったからでもありました。それにしても、当時の高値は200円前後、現在は大きな円安といっても、せいぜい110円前後なのですから、不況不況といわれても、GDPで中国に抜かれたと言っても、日本経済の世界経済に占める地位は、いまだ大変強力であると考えてよいように思います。
2018.01.04
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クロニクル 第1回紅白歌合戦1951(昭和26)年1月3日 意外に思われると思いますが、NHK紅白歌合戦の最初は67年前の1月3日に行なわれました。大晦日に行なわれるようになったのは、1953年の第3回からです。この第1回は、当時のNHK東京放送会館で最も大きいラジオ第1スタジオに、およそ300人の観客を招いて、ナマ放送で行なわれました。時間は午後8時~9時までの1時間。出演は男女7人づつでした。まだテレビのない時代でした。 白組は、キャプテン藤山一郎の外に、林伊佐緒、近江俊郎、東海林太郎ら。紅組はキャプテン渡邉はま子の外に、菅原都々子、菊地章子、二葉あき子らが出場しました。 歌われた曲は、長崎の鐘、ダンスパーティーの夜、湯の町エレジー、桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン、上海の花売娘、ミネソタの卵売りなどでした。曲名を聞くと、子供の頃の歌だけにメロディーは浮かんでくるものですね。
2018.01.03
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クロニクル 日銀BISに加盟1970(昭和45)年1月2日48年前になります。この日日銀はBIS(国際決済銀行)に加盟しました。1990年代の日本のバブル崩壊期に、BIS規制として、「国際業務に携わる金融機関は、自己資本比率8%を維持しなければならない」とする規制が知れ渡り、一躍BISは有名になりました。 本部はスイスのバーゼル、駅前の目立つ建物だそうです。さて、BISは1930年に創設された、各国の中央銀行が加盟する組織(それゆえ、正規のメンバーは、各国の中央銀行総裁になります)です。当時、第一次世界大戦後で、ことあるごとにドイツの賠償金の支払い問題で揉めていたため、ドイツの賠償支払い事務を扱う機関として、創設されたのです。ドイツは個別に各国当局に賠償金を払い込むのではなく、BISに一括して払い込み、BISが公平に賠償を受ける権利のある国に分配することにしたのです。ですから、当時はヨーロッパの戦勝国のいさかいを仲裁する役割が主だったのです。そのため全く中立的な仲裁役を担える存在として、日銀も乞われて加盟しておりました。しかし、世界恐慌の深化と国際連盟脱退を機に、日銀はBISを脱退しました。それが、60年代の末になると、日本の貿易黒字が次第に問題化する兆候が強まってきましたので、BISへの再加盟が必要となってきたのです。こうした事情で、厳密に言えば再加盟したのですが、BISの役割は戦前とは全く異なり、国際的な金融政策の調整機関に変わっていましたので、ここでは再加盟とせず、単に加盟としました。その日銀は、1994年から理事国となり、日銀総裁がBISの理事を兼務しています。理事国はG10と言う、BISの最高意志調整機関のメンバーとなります。毎月1回、各国中央銀行総裁が集う会合が開かれているのですが、あまり報道されることはないようで、粛々と金融政策等の調整がなされるのは、かえって良いことかもしれません。
2018.01.02
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クロニクル 天皇の人間宣言発表1946(昭和21)年1月1日72年前になります。この日、天皇の神格化を否定する詔書、いわゆる人間宣言が発表されました。若い方には、なかなか信じられないことと思いますが、明治の中盤以降(20年代後半の日清戦争後頃から)の日本では、天皇を現人神(あらひとがみ)と信ずる気風が色々な仕掛け(内容後述)によって、広く国民一般に浸透していました。そうした天皇信仰とでもいうべき現実を、天皇自らが否定して見せたのです。詔書は「私と国民との間の紐帯は、常に相互の信頼と敬愛によって結ばれているものであって、神話や伝説によって結ばれているものではない。また天皇を現人神とし、国民を他民族に優越した民として、わが国の世界支配を当然なる天命とするが如き、架空の観念に基づくものでもない」(口語は拙訳)として、自ら現人神であることを明確に否定したのです。ここで少し歴史を振り返ることをお許しください。明治前半期の日本では、民衆の間に天皇の神格化は見られず、天皇は徳川将軍に代わる支配者程度に位置付けられていました。民衆は、徳川300年(正確には268年ですが、長いことの代名詞として、当時は300年と表現していました)の将軍家の支配ですら、最後はあっけなく倒れた現実を、驚きと共に一種の感動をもって意識にとどめていました。そのため、自由民権期の激化事件の中で、最大の民衆闘争となった秩父事件では、蜂起した農民達は「天皇陛下と戦うから加勢しろ」と、周辺各地区へ強力な呼びかけを行い、大量動員に成功していくのです。彼等は、徳川300年の支配ですらああも簡単に倒れた。ならば20年に満たない明治政府の支配など、もっと簡単に倒せるだろうと考えたのです。事実を知らされた山県、伊藤ら当時の政府首脳は戦慄します。そこから彼等は、天皇の神格化の必要を感じとり、先ずは軍人教育を本格化します。ここに明治15年に発表されていた軍人勅諭の本格的利用が始まります。兵士となった男たちには勅諭の全文暗誦と、勅諭への絶対服従が義務付けられたのです。そしてより若いうちにと、当時4年間だった義務教育を利用しようと、明治23年に教育勅語が発表され、男女を問わず小学生に勅語の暗誦を義務付けたのです。少し強い言葉を使えば、将軍様を絶対視する現在の北朝鮮以上の洗脳教育を、若い世代に施したのです。明治中盤以降、昭和の敗戦までの日本の義務教育で最も重視された科目は、修身と国史(歴史)でした。修身は勅語の徳目を噛み砕いて教え、摺り込むための時間であり、国史は天皇と天皇制の歴史を摺り込む時間だったのです。そこでは神話が平然と事実とされ、一方で知られると都合の悪い南北朝対立や壬申の乱のような天皇家の醜い争いは、知らせてはならないと隠蔽されました。こうして先ずは、現在では実在を否定されている神武以下の神話上の人物から現天皇までの歴代天皇の名を、幼い子供達全員に暗誦させたのです。余談ですが、お身内に昭和9年頃までにお生まれになり、戦前・戦中に小学校教育(明治40年に、義務教育年限は6年に延長されています)を完了された方がおられましたら、「おばあちゃん(或いはおじいちゃん)、歴代天皇の名前、覚えてる」と聞いて見てください。最近の記憶がまだらになっていらっしゃる方でも、かなりの名前がスラスラと出てくるはずです。昭和8年生まれの私の姉もその1人です。話しを戻します。先ずは義務教育で、次いでは軍隊で(これは男性に限る)の天皇神格化教育は、こうして明治20年代なかばまでに本格化したのです。その効果は日清戦争後から少しづつ現れ始め、日露戦争の勝利(それは不完全な勝利に過ぎなかったのですが、国民には大勝利とのみ発表されました。また、国際的には、大国ロシアと対等以上に戦ったことで、日本の立場は大いに向上しました)によって、一挙に国民の間に広まったのです。こうして、明治30年代後半からの日本では、天皇=現人神説は民衆の間に広く浸透していたのです。兵士は勿論、最後は竹槍での本土決戦まで覚悟させられた国民も含めて、天皇=現人神説は疑う余地のないものになっていたのです。それゆえ人間宣言は、天皇のために戦い、天皇のために不自由を忍び、天皇のために死を覚悟した人々にとって、大きな衝撃となりました。しかし、衝撃は一時的なものに留まり、民主的な憲法を積極的に評価して、象徴の地位に甘んじることを是とし、平和主義を高く評価して、平和の使徒として貢献しようとする天皇の姿勢は、天皇の戦争責任の問題を曖昧にしつつも、次第に広く国民の支持を集めるようになっていったのです。安倍内閣にも歴史の重みを、正しく汲みとって欲しいと思うのは、私だけではないように思っているのですが……元日ということで、少々長いクロニクルになりました。お許しください。本年もどうぞよろしく。
2018.01.01
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