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クロニクル 米軍沖縄基地の強化を発表1950(昭和25)年1月31日63年前のことです。この日米軍のブラッドレー統合参謀本部議長らが来日。前年10月1日の中華人民共和国の建国を受けて、社会主義封じ込めの最前線を日本に期待することを述べると共に、占領中の沖縄の軍事基地化を推進すると同時に、日本全国の米軍基地も強化する旨の声明を発表しました。この年6月には、朝鮮戦争も勃発、米ソのにらみ合いは次第に深まっていきました。そのトバッチリを受けたのが、沖縄でした。このブラッドレー声明を受け、しばしの間、沖縄の米軍基地は拡大に継ぐ拡大を続けることになりました。
2013.01.31
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クロニクル ガンジー暗殺1948(昭和23)年1月30日65年前のこの日、インド建国の父マハトマ・ガンジー翁が、ヒンドゥー至上主義の若者に暗殺されました。78歳でした。ガンジーは、イギリスに留学して、弁護士資格を得、南アフリカで開業して、当地のインド移民の待遇改善に尽力して成果を挙げ、一躍名を知られるようになりました。有名な非暴力抵抗運動は、南アフリカ時代に考案された運動形態でした。ガンジーはインド独立のために、非暴力運動を指導してイギリスと戦い続け、第二次大戦後の47年、遂に独立を達成します。しかし、ガンジーは、インドとパキスタンという2つの国として独立したことを悲しみ、ヒンドゥとムスリム双方の間を取り持って、両国の統一を目指しました。この行動が「ガンジーはムスリムに譲歩しすぎだ」と指弾され、この日の暗殺に繋がったのです。ノーベル賞委員会は、1937年以降、47年までに計5回も、ガンディを平和賞の候補に推しました。しかし、ガンジーは頑としてノーベル平和賞の受賞を辞退し続けたため、最後まで受賞には至りませんでした
2013.01.30
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クロニクル 政治改革4法案成立す1994(平成6)年1月29日もう19年になるのですね。この日の前日、1月28日に細川護煕首相と最大野党自民党の河野洋平総裁のトップ会談が行なわれ、なお細かな調整が必要な部分については、次期国会での修正を条件とした合意が成立した事を受け、この日の本会議で、政治改革4法案が可決成立しました。政治改革4法案の主な内容は、1、衆議院の選挙制度を中選挙区制から、小選挙区比例代表並立制に改める2、個人宛の企業献金を禁止する3、政党への公費助成(政党助成金)を導入するなどからなっており、前年9月17日に、政府提案として衆議院に付託されておりました。修正部分については、小選挙区選出議員を300人、比例代表議員を200人とするなどの修正案が、3月4日に国会を通過して成立、11月には小選挙区の区割り法案も成立して、いよいよ小選挙区制の時代を迎えることになりました。
2013.01.29
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クロニクル レゴ・ブロックの特許出願1958(昭和33)年1月28日レゴ・ブロックご存知ですよね。あのレゴ・ブロックの基本構造に関する特許が出願されたのが、55年前の今日でした。出願者はレゴ社のゴッドフレッド・クリスチャンセンさんでした。レゴ社はデンマークの玩具会社です。レゴ・ブロックは、60年代半ばから徐々に売り上げを伸ばし、70年代に大きく飛躍して現在に至っています。 我が家にも、かなりの量がありましたが、今は、姪の子どもたちが使っています。
2013.01.28
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クロニクル 日の丸制定1870(明治3)年1月27日143年前のことです。この日、明治政府は太政官規則として、日本の商船に日章旗(日の丸)を掲げることを布告しました。ここに日の丸が日本船籍を現す旗=事実上の国旗として定められました。19世紀世界で、国旗とは、国際貿易や植民地争奪戦等に活躍する商船や軍船(当時は商船と軍船の区別も曖昧でした)の所属を示すものでした。それは海賊船との区分を明確にするためであり、同時に港湾の利用権の有無を判別する上でも、なくてはならないものでした。
2013.01.27
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クロニクル ダイヤモンドは永遠に1905(明治38)年1月26日108年前の今日は、日露戦争の最中にありました。そんなこの日南アフリカのカリナン鉱山で、世界史上最大のダイヤモンド原石が発見されました。この記録は、現在なお破られていません。このダイヤは、3106カラット(621.2g)あり、鉱山の所有者トーマス・カリナンの名にちなんで「カリナン」と命名されました。「カリナン」は、より大きな原石の一部であると考えられているのですが、現在なお残りの原石は発見されていません。「カリナン」は南アフリカのトランスヴァール政府に売却されました。そして同政府は、1907年11月9日に、イギリス国王エドワード7世の66歳の誕生日の贈り物として「カリナン」を贈呈したのです。エドワード7世はオランダ・アムステルダムにあるアッシャー社にカットを依頼し、9つの大きな石と96個の小さな石が切り出されましたた。9つの石にはそれぞれカリナン1からカリナン9の名が付けられ、すべてイギリス王室か王族個人の所有物となっています。いくつかはロンドン塔で永久展示されています。530,2カラットの最大サイズのダイヤ、カリナン1は、イギリス王室の王笏を飾っています。317.40カラットの2番目のサイズのカリナン2は、王室の王冠を飾っています。
2013.01.26
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クロニクル 朝日新聞創刊 1879(明治12)年1月25日今日が創刊134年の記念日になるのですね。そうなんです。朝日新聞が大阪江戸堀にて、創刊第1号を発行したのが、134年前の今日でした。ここに、大阪朝日新聞と、東京日々新聞(毎日新聞の前身)という、自由民権運動を支持する二つの新聞が肩を並べることとなりました。
2013.01.25
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クロニクル 葉書50円、封書80円に1994(平成6)年1月24日19年前のこの日、郵便料金が値上げされ、葉書が50円,封書が80円となりました。郵便事業の最大の稼ぎ頭である。年賀郵便の出し控えを避ける意味で、年賀シーズンの終った時期での値上げとなったようです。郵便料金は80年代に3回値上げされ、81年の1月20日に、それまで20円だった葉書を30円に、30円だった封書を50円に引き上げ(この時も年賀葉書シーズンの終了直後でした)、同年4月1日には、追いかえるように葉書40円、封書60円に再値上げされています。1度に倍額には出来ないと、2ヶ月少々時間をおいたのでしょう。そして89年4月1日の3%の消費税導入と同時に、消費税分の値上げとして、葉書を41円、封書を62円にしています。消費税分の値上げを別にすると、今日取り上げた94年の値上げは、約13年振りの値上げでした。民営化されたJRは、値上げと縁遠くなりましたが、日本郵便も消費税の増税分以外は、今後も値上げしにくいでしょうね。今や封書の替わりに、メールが活躍してくれる時代、こちらは内容によっては、日に何度も往復が出来ますので、利便性は葉書や封書よりもずっと高いのですから。
2013.01.24
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クロニクル 「ゴキブリホイホイ」発売1973(昭和48)年1月23日アース製薬の「ゴキブリホイホイ」、ご存知ですよね。当時好感度no,1と言われた由美かおるさんをCMに起用し、大ヒットした商品です。今でも関連商品の売れ行きは好調で、殺虫・防中関連商品でのアース製薬のシェアは、50%近いと言われています。実はこのアース製薬、ゴキブリホイホイ発売の3年前、1970年に会社更生法を申請し、一度倒産しています。この会社を買収し、再建を引き受けたのが、大塚製薬でした。こうして大塚製薬の傘下に入ったアース製薬は、ゴキブリ捕獲器の開発に社運をかけ、除虫菊の成分から、ゴキブリ誘引剤を取り出すことに成功します。この発見が、誘引剤で誘い込んだゴキブリを、粘着剤で動けないようにして、箱ごと捨てる「ゴキブリホイホイ」の誕生に繋がりました。こうして、ちょうど40年前の今日、発売となりました。「ゴキブリホイホイ」は他社製品に比べて、捕獲力が高く、しかも誘引剤であるため、殺虫成分を含まず、薬剤の使用に問題のある小児や小動物のいる家庭にも歓迎され、爆発的大ヒットになりました。当然アース製薬の経営再建も、その後は順調に進みました。
2013.01.23
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クロニクル 血の日曜日事件1905(明治38)年1月22日108年前のことです。この日、当時のロシア帝国の首都ペテルブルグ(現在のサンクトペテルスブルグ)の冬宮前広場は、ツァーリ(皇帝)への請願のためにやってきた人々に対する警備の軍隊の発砲によって、一面の銀世界を血の修羅場に変えました。当時は日露戦争の最中にあり、ロシアもまた資金難に苦しめられており、社会の底辺で暮らす人々の生活は食糧価格の高騰により、困窮の度を深めておりました。 この時にあたり、警察の認可と協力を得ながら、貧困な労働者を教化する組織作りを進めていた、ロシア正教会の牧師ガポーンは、ツァーリへの請願行進を計画、この日1月22日(西暦から13日を引くとロシア暦になります。ロシア暦ではこの日は1月9日の日曜日です)に実行するに至ったのです。勿論ガポーンは,この計画を警察に届け出、その許可を取りつけたと考えておりました。行進は、ガポーンの指導の下、当時ストライキ中のロシア屈指の大企業、プチロフ工場の労働者とその家族を先頭に、ペテルブルグと近在の貧困層のほとんどが参加する大規模なものとなりました。行進参加者達は、生活の窮状を訴えた思い思いの請願書を手に、冬宮に向かったのですが、冬宮前で待ち構えていた軍隊は、想像を超えた多数の群衆の出現に驚き、問答無用の一斉射撃を浴びせたのです。雪の冬宮前広場は.労働者や家族達の血で染まり、一瞬にして阿鼻叫喚の世界に変じました。死傷者数2000を超えたと言われています。この事件は「血の日曜日事件」として、後世に知られるのですが、「ツァーリ」を味方と信じ、辛い暮らしもいつかツァーリがこの苦しさから救い出してくれる、と信じてきたロシアの民衆にとって、ツァーリは味方ではなくなった、ツァーリが自分たちを裏切ったと感じさせるに十分な出来事でした。なにしろ数万を超える民衆が目撃した、信じ難い光景だったのですから…。この事件がきっかけとなって、1905年の第1次ロシア革命が始まりました。革命の火は、以後10月に向けて、高まり続けて行くのですが、やがてその火は、軍隊にも飛び火し、戦艦ポチョムキン号の叛乱事件などに繋がってゆきます。 この結果、ロシアのツァーリ政府は、日露戦争を継続しながら革命勢力を鎮圧することの不可能を悟り、形成不利なままでの、不本意な講和を日本との間で結ばざるをえない状況に追い込まれてゆきます。
2013.01.22
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クロニクル 薩長同盟の密約成る1866(慶應2)年1月21日147年前のこの日、京都の薩摩藩邸で薩摩藩と長州藩の同盟、薩長同盟の密約が交わされ、幕末の歴史を大きく倒幕の方向へ傾けました。薩長両藩は、1863年8月の政変以来、犬猿の仲になっており、特に長州藩は薩摩藩を仇敵視していたのですが、幕府の第2次征長が近づくに連れ、孤立を避けたいという考えに、傾いていました。薩摩藩もまた、征長方針を巡って幕府との対立が深刻化していたため、長州との接近を考慮するようになりつつありました。このことを察知した土佐藩の坂本竜馬が仲介に立ったことから、両藩の話し合いは急速に進み、この日坂本竜馬の立合いの下、薩摩藩の小松帯脇・大久保利通・西郷隆盛と長州藩の全権代表木戸孝允(桂小五郎改め)との間で、薩長同盟の秘密文書が締結されたのです。この密約は6ヶ条からなり、幕府と長州とが開戦した場合の両藩の対応を定めていました。具体的には、西欧の最新兵器を長州藩が英国から購入できるように、薩摩藩が仲介の労をとる事など、両藩の軍事的協力を取り決めたものとなっていました。 しかし、この同盟は薩長両藩の一般藩士にも固く秘せられていたため、幕府も全く気づく事が出来ず、幕末の歴史を大きく転回させる原動力となりました。147年前の出来事でした。
2013.01.21
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クロニクル イラン米国人人質解放1981(昭和56)年1月20日32年前のことです。この日イランの学生達は、政府の説得に応じて駐イラン米国大使館の占拠を解き、52人の米国人人質を解放しました。大使館員を人質として幽閉することは、明らかに「外交関係に関するジュネーヴ条約」に違反する行為でした。しかし、イラン政府は、積極的に学生を説得することはせず、79年の11月4日に始まった占拠は、2年越しのこの日まで続けられました。ですから、解放された外交官らは、実に444日の人質生活に耐えたことになります。この間、途中で解放されたのは、体調を崩して入院加療が必要と判断された数名の方に留まっていました。後日談になりますが、この解放の裏には、イラン・イラク戦争の継続に兵器を必要としていたイランに、米国政府が武器の密売を約束するという取引があったことが、明らかにされています。敵対するイランに、ストレートに兵器を売るわけにいかない米国は、中米ニカラグアの反政府ゲリラを支援するという名目で兵器を船積みし、その兵器をイランに横流しするという、複雑な手を使ったのです。そしてニカラグアのゲリラには、この売却代金を提供するという、念の入れようでした。後に明らかになったイラン・コントラ事件です。
2013.01.20
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クロニクル 喉自慢素人音楽会始まる1946(昭和21)年1月19日8/15の敗戦から僅か5ヶ月後、67年前になります。この日、NHKラジオから、素人喉自慢の放送が始まりました。題して「喉自慢素人音楽会」。以来、今日まで、舞台こそラジオからテレビに移りましたが、ずっと毎週日曜日の昼12時代の放送が続いています。見事な超長寿番組ですね。毎週舞台を変えて、地方を巡り、国内各地の紹介というか、お国自慢が盛り込まれるのも、長寿の秘訣の一つなのでしょうね。
2013.01.19
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クロニクル 市営バスの登場1924(大正13)年1月18日89年前の今日、東京市で日本初の乗合いバスの運行が始まりました。前年の9月1日が関東大震災でしたから、震災から約4,5ヶ月で実現したことになります。そうなんです。関東大震災の影響で、東京の各所で運行されていた、路面電車の軌道があちこちで破壊され、回復には相当な時間が必要であると判断されたため、急遽市民の足を確保するためにと、計画されたのです。震災から1ヶ月半が経過した10月16日、東京市議会は乗合いバスの運行計画と、そのために必要な予算200万円を承認し、直ちにアメリカのフォード自動車に、乗合いバス車輌1千台を発注したのです。この注文車輌の第1弾として、11人乗りの車輌44台が到着、この日の運行開始となったのです。運行は、巣鴨~東京駅間の巣鴨線と、中渋谷~東京駅間の青山線の2系統でした。運賃は10銭均一でした。それから2ヶ月後の3月16日、当初予定された20路線全てが開通し、総路線距離は148kmに達しました。こうして不慮の事故から急遽登場した乗り合いバスは、市営電車を代替する役割を果たしました。東京における乗合いバス事業の成功から、次第に全国各地の都市でも乗り合いバスが運行されるようになりました。
2013.01.18
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クロニクル ロサンゼルス大地震1994(平成6)年1月17日ロスを含むカリフォルニアは地震の多いところです。ロサンゼルス地震も大きなものが何度も起きています。それでも19年前、1994年の大地震はマグニチュード6,8で、被害規模も大きな地震でした。それは阪神・淡路大震災の丁度1年前のことでした。早朝5時台と通勤時間帯の前だったことも共通しています。その結果、被害の拡大が防げたのは、不幸中の幸いでした。ロス地震では、窓ガラスが大量に割れ、市内各地の病院で、窓側のベッドを使用していた患者の被害が最多だった点に、大きな特徴がありました。役所や警察、消防署の窓ガラスも割れており、通勤時間帯でしたら、通行人に大きな被害が出ただろうと、指摘されています。またもし日中であったら、学校という学校で、相当数の児童・生徒・学生に被害がでただろうとされています。耐震強度の高いガラスが、この後急速に普及するようになったのは、まさにこのロス地震の副産物でした。
2013.01.17
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クロニクル 禁酒法成立1919(大正8)年1月16日94年前ですか。この日アメリカ合衆国で憲法修正第18条の批准が完了し、禁酒法が成立しました。米国では、19世紀半ばから女性を中心に、男性が不健全な酒場に入り浸って、家庭生活に支障をきたしているとして、酒場での禁酒を求める禁酒運動が次第に強力となっていました。その結果メーン州を皮切りに、20世紀初頭までに18の州で禁酒法が制定されていました。第1次世界大戦を契機に、戦時の食料不足を予防するという大義名分が加わり、合衆国全体としての禁酒法制定の気運が強まりましたが、州の権限の強い米国では、全国的な禁酒法の制定には、憲法の修正が必要でした。こうして憲法修正第18条が議会に提案され、上院は17年の12月18日に、同案を可決しました。国会を通過した憲法修正条項は、各州での批准を経ないと発効できない仕組みがあり、4分の3以上の州の批准が必要でした。当時の米国は全48州でしたから36州の批准が、禁酒法の発効に必要だったのです。その36番目の州の批准が、この日決定したのです。しかし、禁酒法の実施細則がまだ未決定でしたから、実施細則を別の法で定めた上で、正式に禁酒法が実施に移されたのは、翌1920年の1月です。。禁酒法は、酒類の製造・運搬・販売を禁じましたが、家庭での飲酒は禁じていませんでした。そのため富裕層は禁酒法発効前に、たくさんの酒類を買いだめしたといわれています。しかし、飲酒は人類にとって古来からの習慣です。法で禁じたからといって、なくなるものではありません。酒の密造は後を絶たず、隠れた酒類の販売は、ギャング達の恰好の資金源となったのです。こうして禁酒法は、稀代の悪法として怨嗟の的になり、結局1933(昭和8)年2月28日に、憲法修正第18条を廃止するための、憲法修正21条が可決成立して、同年12月15日から実施され、禁酒法は廃止されました。結局禁酒法の施行期間は13年11ヵ月間でした。
2013.01.16
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クロニクル 双葉山70連勝ならず 1939(昭和14)年1月15日74年前のことです。この日は大相撲初場所4日目でした。1936(昭和11)年1月場所の6日目に、横綱玉錦に敗れてから連勝を続け、前日まで69連勝を続けていた横綱双葉山が、この日新小結安芸の海に敗れ、70連勝はなりませんでした連勝の始まった1936年当時、大相撲は1場所11日間でした。場所も1月と5月の年2場所でした。これが37年5月場所から13日間となり、双葉山の連勝が止まった翌場所の39年5月場所から、1場所15日間となって、今日に至っています。連勝の始まった36年1月場所、双葉山は9勝2敗で関脇に昇進、新関脇の同年5月場所で11戦全勝で初優勝、1場所で大関に昇進します。翌37年1月場所も11戦全勝、5月場所は13戦全勝で、3場所全勝優勝を飾り、場所後に横綱に推挙されました。18年は1月場所、5月場所を共に13戦全勝で5場所連続全勝優勝を飾り、36年1月場所の7日目からの連勝は、5,11,11,13,13,13となって66連勝となり、約150年振りに谷風の63連勝の記録を塗り替えたのでした。39年1月場所は、前年秋の満州巡業時に赤痢に感染して体調不良で、激減した体重も戻らず調整不足でしたが、横綱の責任感から強行出場し、4日目のこの日安芸の海に屈し、連勝が途切れたのでした。勝った安芸の海に対し、師匠の出羽の海親方は、「勝って騒がれるだけの力士ではなく、負けて騒がれる力士になれ」と諭したという逸話が残っています。安芸の海は教えを守り、4年後の43年に横綱に昇進しました。
2013.01.15
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クロニクル 自民・自由連立内閣誕生1999(平成11)年1月14日14年前のこの日、自民・自由両党が連立政権を組む事で合意、自由党幹事長の野田毅が自治相として入閣し、小渕恵三改造内閣が発足しました。この連立は、やがて自由党を仲立ちとして、公明党をも連立政権に取り込むことに成功、10月には自・自・公3党の連立に発展しました。 自民党は、小沢自由党を介在させることで、公明党との連立に道を開きました。
2013.01.14
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どんど焼き今晩は。 今日13日は、地元のどんど焼きの日でした。小正月に賽の神を祭り、門松や注連縄、書初めなどを燃やし、その残り火で手作りのお団子を焼いて食べ、今年1年の無病息災を祈る、この地域の伝統行事です。伝統に従うなら、14日に行うのが筋なのですが、成人の日が1月の第2月曜日に変更されてからは、連休初日の日曜日に行なうようになっています。風が強かったり、雨降りだったりした時に、順延できるからというわけです。というわけで、今年は13日の日曜日。風のないポカポカと陽射しの温かい、快晴の日曜日。絶好のドン土焼き日和でした。午前中に祠の準備、女性陣は子ども達に配るお断固と竹竿の用意です。昼にいったん解散して、昼食を済ませて午後1時に火入れです。会場は、地域の市街化調整区域に残る、個人の休耕田を御好意で拝借しています。出来上がった賽の神の祠です。2枚目、お神酒をかけてのお清め。祠には少々灯油をかけて、燃えやすくしてあります。子ども達代表と世話人代表で点火。勢い良く燃え上がりました。祠が燃えて熾きが出来るまで、お神酒や清涼飲料、蜜柑やお菓子を戴きながら、三々五々あちこちに輪が出来ます。後半の3枚が、熾きでお団子を焼いている所です。竿の関係で、最初のグループが焼きあがると次のグループへ竿をバトンタッチ。3回ほど竿が回って、午後3時半頃に終了。大人たちは、火の始末を済ませてから、ご苦労会。賑やかな飲み会になりました。
2013.01.13
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クロニクル 森戸事件1920(大正9)年1月13日93年前のこの日、東京帝国大学経済学部の森戸辰男助教授が休職を命じられる事件が起きました。創立から日の浅い、経済学部の紀要『経済学研究』の創刊号に掲載された、森戸の論文「クロポトキンの社会思想の研究」が、無政府主義(アナーキズム)の宣伝になっているというのが、その理由でした。森戸の論稿は、社会政策を論ずる立場から、単にクロポトキンの無政府主義の考え方を紹介したものに過ぎなかったのですが、御用学者の上杉慎吉らが、危険思想であると騒ぎたて、政治の圧力を招いたのです。これが世に言う森戸事件で、森戸と編集発行人の大内兵衛助教授が朝憲紊乱、新聞紙法違反で起訴されました。その結果、森戸は禁固3ヶ月、罰金70円の罪に問われ、大内は禁固2ヶ月、罰金20円、執行猶予2年を言い渡されました。この事件は国家による学問・思想の自由の弾圧の先駆けをなすものとして知られ、以後こうした動きが強まっていきます。
2013.01.13
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クロニクル 桜島大噴火1914(大正3)年1月12日99年前の出来事です。この日、桜島が大噴火を起こし、大量の溶岩が噴出しました。溶岩噴出の勢いは凄まじく、逃げ遅れた人を中心に、35人の命が失われました。桜島が大隈半島と陸続きになったのは、この大噴火の結果でした。まだ99年だったとは、意外と最近のことだったのですね。
2013.01.12
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クロニクル 百円札発行1930(昭和5)年1月11日83年前のことです。この日、聖徳太子の百円札が誕生しました。太子の千円札が発行されるのは1950〈昭和25)年ですから、この日の20年後になります。高校時代の教頭先生は、昭和14年に教員として赴任されたそうですが、そのときの初任給が、65円だったと話してくれました。国語の時間で、漱石の『坊ちゃん』を取り上げていた時でした。給料袋に当時の最高額紙幣が1枚も入らなかった時代だったのですね。それでも、65円は新卒教員には、使いきれない額だったそうです。
2013.01.11
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クロニクル NTK教育テレビ開局1959(昭和34)年1月10日54年前のこの日、NHK教育テレビが開局しました。学校教育用の番組製作を看板にした異色のテレビ放送局として…。この年は、テレビ局の新規開局が続き、2月1日には日本教育テレビ(現在のテレビ東京)が、3月1日にはフジテレビが開局と僅か2ヶ月の間に、3つのテレビ局が開局しました。
2013.01.10
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クロニクル 内村鑑三不敬事件1891(明治24)年1月9日122年前になります。この事件の前年、1890(明治23)年の10月30日に「教育勅語」が発表されています。ですから今日の話題の事件は、「教育勅語」発表の2ケ月と11日後に起きたことになります。「教育勅語」は、教育に関する天皇のお言葉という形で記されていたため、式典等では、教職員と児童・生徒が一斉に奉読することが求められ、あたかも「勅語」に天皇の魂が籠もっているかのように扱うこと、即ち全員が「勅語」に敬礼することが当然とされたのです。内村鑑三はキリスト教徒として知られ、札幌農学校卒業後、アメリカに留学して研鑽を積み、帰国後の1890年9月より、第一高等中学校の嘱託教員に迎えられ、この日に至りました。この日行われた「教育勅語」の奉読式において、内村は、キリスト教徒の良心に従って「勅語」に敬礼しなかったのです。このことが同僚や生徒に咎められ、内村鑑三不敬事件として社会問題化したのです。結局内村は2月に退職に追い込まれました。「勅語」もそうですが、「日の丸」もまた人格を持ちません。政府の記者会見の折にせよ、公立学校(1部私立含む)の式典にせよ、登壇する閣僚や校長等管理職教員が、人格を持たない「日の丸」に拝礼する姿、私にはなんとも奇異に感じられてなりません。
2013.01.09
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クロニクル 韓国,南ヴェトナムに派兵1965(昭和40)年1月8日48年前のことです。この年は、12月に日本と韓国の国交が回復する年(6月日韓基本条約調印、12月に批准書交換)ですが、それに先だって韓国政府は、この日韓国軍兵士を南ヴェトナムに派遣することを決定しました。前年8月のトンキン湾事件を経て、米国は南ヴェトナムに地上軍を派遣していましたが、米国単独の介入は国際的にも評判が悪く、何とか同盟国軍を引き入れたいと、あれこれ工作を続けていました。韓国は朝鮮戦争を戦った「北朝鮮」と休戦協定を結んではいましたが、なお多くの米軍の駐留を必要としており、米軍の長期の駐留に対する見返りとして、南ヴェトナムへの派兵を受け入れざるを得なかったのです。まさに、米ソ冷戦に踊らされた小国の悲劇の1つが、ここにありました。
2013.01.08
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クロニクル 「もしもし、こちらニューヨーク」1927(昭和2)年1月7日86年前の出来事です。「もしもし、こちらニューヨーク」と妙なタイトルをつけましたが、実は86年前の今日、ニューヨークからロンドンへ、史上初めて、太西洋を越える国際電話が通じたのです。これが、国際電話の事始でした。それにしても、「もしもし、こちらニューヨーク」といきなり呼びかけられたロンドンの受け手は、さぞ驚いたでしょうね。それとも冗談だと思ったのか。どちらだったのでしょうね。御在ならば聞いてみたいですね。 固定電話が一般家庭に普及し始めたのは、高度成長が始まる頃のことでしたが、敷設権を確保するには、当時で10万円の電電公社債の購入が必要でしたし、なおその上で、自宅への電話線の引き込み工事が完了するまで、半年~8ヶ月程度待たされるのが常でした。1971年の結婚と同時に隠居を構えた2DKの公団住宅への電話の敷設でも、やはり申し込みから敷設まで7ヶ月待たされたことを覚えています。それが今では、通話は勿論、メールのやり取りも世界規模で瞬時に可能。技術革新のペースは益々速まっていますね。
2013.01.07
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クロニクル 米海兵隊メコンデルタへ侵攻1967(昭和42)年1月6日ヴェトナムにおける民族解放の戦いを、冷戦的思考の鋳型に嵌めこみ、ソ連による共産化の拡大阻止(=社会主義封じ込め)の論理でしか捕らえようとしなかった米国は、自己の傀儡政権である南ヴェトナム政府を支えて、次第に南ヴェトナム政府軍に代わって、解放戦線軍との戦いにのめり込んでいきました。その結果、46年前のこの日、メコンデルタへ海兵隊が投入されました。投入の狙いは、解放戦線支持の農民・漁民に対する政府軍の統制を強め、解放戦線が自由に活動できる地域を制限しようとの企てに基づくものでした。しかし、当然ながらうまく行かず、作戦は失敗に終わりました。
2013.01.06
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クロニクル 村山首相辞意表明1996(平成8)年1月5日17年前のこの日、自民・社会・さきがけ3党連立政権の看板だった社会党の村山富一首相が辞意を表明しました。年末に急遽決まった、住宅金融専門会社(略称住専)に対する唐突な公的資金(=税金)の投入に対する世論の批判に、自ら責任を取ってけじめをつけるための辞意表明でした。村山内閣は、戦後政治史において、常に対立関係にあった自社両党が、さきがけを接着剤に連立を組み、自民党が社会党の首相を支えるという変則的な内閣でした。その村山内閣は、内外の難局に耐え、戦後50年の節目では村山談話を発表して、植民地支配と侵略に対し、アジアの関係各国に真摯なお詫びを表明するなど、随所に特色を出して、1年半にわたって政権を担当しました。村山首相辞任から5日後の11日、自社連立の橋本内閣が誕生します。 村山内閣は、当時既に衰退期に入っていた社会党が咲かせた最後の華だったように、私には見えました。
2013.01.05
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クロニクル 毒入りコーラ事件発生1977(昭和52)年1月4日36年前のことになります。この日品川駅付近の公衆電話ボックスなどに放置された「毒入り」のコーラを、そうとは知らずに飲んでしまった2人の人物が死亡する事件が起きました。警視庁の調べの結果、毒物は青酸ナトリウムと判明しましたが、人ごみで目撃情報もなく、犯人も見つからなかったため、そのまま事件は迷宮入りし、その後この種の愉快犯が続出し、大きな社会問題になりました。昨今は携帯電話やスマホなどの普及で、電話ボックスそのものが少なくなりましたが、代わりになる場所は、外にもありますから、気をつける必要は、今でもありそうです。
2013.01.04
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クロニクル 鳥羽・伏見の戦い1868(慶應4)年1月3日 昨日に続いて幕末・維新期の話です。145年前のこの日は、翌69年(明治2)年5月の函館戦争の終結まで続く戊辰戦争の開幕を告げた鳥羽・伏見の戦いが始まった日です。 前年10月、将軍慶喜は大政を奉還、12月には王政復古が宣言されていますから、政権は京都の朝廷に移っていましたが、旧幕府はなお隠然たる勢力を持ち、フランス公使ロッシュは、なお旧幕府への支援を継続する姿勢を見せておりました。 これに対し、イギリス公使パークスは薩長連合中心の政府構想を強く支持し、幕末の日本を舞台に、影では英・仏抗争が深く渦巻いておりました(日本の開国に決定的な役割を果したアメリカ合衆国は、1861年~65年まで続いた南北戦争で国内が大きく傷つき、対外進出は80年代末まで休止状態に陥っていました)。 ここに、薩長連合側が旧幕府側を徴発、この日鳥羽・伏見において戦闘が開始されたのです。兵力は旧幕府軍が新政府軍の3倍を擁していたのですが、最新鋭の兵器を装備した新政府軍が優勢のうちに戦いを進め、翌日には勝利を決定付けました。両軍の兵器の差が意味するところは、京、大阪を中心に各地の富裕商人層が(幕府お膝もとの江戸の豪商は是々非々の態度をとるものが多かったようです)、政治の変革を望んで新政府側を支持、新政府側へ資金を提供していたからでした。豊富な資金力を誇る新政府軍は新兵器を大量に購入することで、主に陸軍の兵器の質で旧幕府軍を圧倒することができたのです。 民意は幕府を見放していたのですね。
2013.01.03
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続・明けましておめでとうございます2日、午後1時スタートで、地元の寺社と老健施設を訪問し、獅子舞(悪魔払い)の奉納並びに慰問に行ってきました。 その模様をアップし、皆様への新年の挨拶に代えさせて戴きます。5枚目、6枚目が地元の名刹王禅寺での奉納、普段は閉ざされている本堂での奉納。最後の2枚が老人ホームでの慰問です。お年寄りは子ども達が大好き。終了後囃子方を務めた子ども達が、お1人お1人に、「来年まで元気でいてください」と声をかけてゆくと、皆さんの顔が輝いていました。
2013.01.02
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明けましておめでとうございます2日、午後1時スタートで、地元の寺社と老健施設を訪問し、獅子舞(悪魔払い)の奉納並びに慰問に行ってきました。 その模様をアップし、皆様への新年の挨拶に代えさせて戴きます。最初の3枚は、神社の本殿への奉納舞です。踊っている場所は拝殿、奥が本殿です。4枚目は、神社の参集殿前で、初詣の皆さんへのご披露。獅子舞で魔を払い、バカ面踊りでニッコリ笑ってもらって、新年に福を齎すという言い伝えに従っています。
2013.01.02
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クロニクル 長州藩の内乱勃発 倒幕派台頭1865(元治2)年1月2日 禁門の変(1864年7月)で幕府軍に敗れた長州藩は、京の都を灰燼に帰した責任を問われ、主だった幹部が戦死した尊皇攘夷派の勢力は著しく後退しました。 ここに8月の4国連合艦隊による下関砲台の砲撃事件が加わり、攘夷論がいかに現実離れした空論であったかを思い知ることになりましたた。こうして、11月の第1次征長軍の攻勢に敗退後、幕府に屈服してひたすら恭順の意をあらわす「恭順派」が藩政を握りました。ここに、上士層のみでの戦闘にあき足らず、時代の将来を見据えて、下士や町人・農民層らにも門戸を広げた奇兵隊を初めとする諸隊にも解散命令が出されました。当然、諸隊には大きな不満が残りました。こうした情勢下に、吉田松陰門下の高杉晋作ら急進派は、12月中旬から叛乱の機会を狙い、148年前のこの日、高杉は諸隊の一つ遊撃隊を率いて下関を襲撃、恭順派の門閥士族を「俗論党」と断じて、藩内に広く決起を促しました。 この呼びかけに呼応して、奇兵隊や伊藤博文の力士隊などの諸隊は各地に決起、次々に上士中心の藩庁軍を撃破、萩城下に迫りました。こうして内乱は急進派の勝利に終り、長州藩は大きく倒幕の方向に舵を切ることになりました。5月には、但馬の出石に潜伏していた桂小五郎も帰藩、木戸孝充と改名して藩政に復帰、藩の実権を掌握すると、村田蔵六(後大村益次郎)を登用して軍政改革を推進、予測される第2次征長への備えを固めるに到るのです。 幕末動乱に新しいページを開いた一齣でした。
2013.01.02
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クロニクル メートル法実施1959(昭和34)年1月1日皆さん、明けましておめでとうございます。関東は穏やかで陽射しが暖かい元日になりました。どうぞ本年もよろしくお付き合いください。 54年前ですね。この年の4月10日が皇太子(現天皇)ご成婚の日。戦後14年目のことでした。この日まで、日本国内では尺貫法が使用されていました。大相撲のラジオ中継では「6尺豊かな大男」など、夏の氷売りは「1貫目でいくら」と、子ども達の悪口では「ヤーイヤーイ百貫デブ!」などと言われ、当時耳慣れた言葉でした。量り売りの商品の単位は100匁でした。1貫=3,75キログラム。1寸は3,3cmで、1尺は33センチ。今では逆になりましたが、当時は、「えぇっと、100グラムなんて書かれても、これって何匁かなと、忙しく頭をめぐらしたものでした。その結果、1貫目は3,75kgではややこしいので、これは4kgにしましょう。だから1貫目の10分の1の100匁は400gでいこうと、こういう形で生活の知恵を働かして、次第にメートルは定着していきました。、
2013.01.01
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