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政治を斬る 番外編…小沢問題とグーグル事件の闇(6)そこでグーグルの問題です。1月中旬、突然グーグルが中国政府に抗議を突きつけました。力ネット検索の大手とはいえ、グーグルは所詮民間の1企業です。強大な権限を持つ1党独裁のの中国政府を相手にしたのでは、所詮ピエロに過ぎません。なぜグーグルはこんな行動に出たのでしょう。しかも、グーグルのやり方は、通常の交渉とか抗議とは異なり、いきなり実力行動に出るという、常軌を逸したえげつないものでした。いったいなぜ?グーグルは、自社のサイトが中国からのサイバー攻撃を受けたことを我慢のならないこととして、中国進出に際してとった自主規制(中国の民主化運動などが、中国内では検索できないように措置したことなど)を廃止する。それを中国政府が許可しないなら、中国から撤退すると、交渉に入る以前に広く世界に公表し、さらに、公表と同時に1989年の天安門事件の写真などを、ネット上で公表したのです。この写真は我々にはすでにお馴染みのものですが、中国進出に当っての紳士協定を自ら踏みにじったことに替わりありません。下品な言葉で恐縮ですが、明らかに撤退を覚悟した最後っ屁にしか見えない行動でした。そうなんです。グーグルの検索サイトは、中国国内では中国の検索サイトである「百度(バイドゥ)に大きく差をつけられたままで、その差は縮まるどころか、むしろ開いているのです。それゆえグーグルは、グーグル中国の撤退を決意し、サイバー攻撃にあったこともあって、ことのついでに中国政府に噛み付いてみたというのが真相でしょう。この出来事を知った米国政府が、これは日本向けに使えると判断し、さもグーグルの味方をしているかのように、国務省を動員して、中国政府に対して言論統制の撤廃を求めた。どうもこのような図式が浮かびます。或いはグーグルは事前に米政府に対して、撤退を考慮している旨を伝え、相談の上の行動だったのかもしれません。しかし米国政府には、中国政府と本気で事を構える気など、ありもしませんし、出来るはずもないのです。中国政府が保有する米国債という形で、中国はしっかりとアメリカの弱みを握っているのですから。日本と違って脅しが効くような国でもありません。中国は日本を上回る2兆ドル近くの米国債を保有する国です。この国を怒らせて、米国債を一斉に売りに出されてしまったら、米ドルは大暴落、政府は公定歩合を次々に引き上げてドル下落対策としなければならなくなります。当然経済活動は麻痺して大恐慌必死です。こんな悪夢が現実になるかもしれない冒険は、米政府に取れるはずがないのです。ですから、クリントン国務長官の中国政府への申し入れは、表向きのポーズであって、その裏では大事にしないことでの了解が取られていると考えて間違いないでしょう。ではなぜ、こんな手の混んだ行動をとるのでしょうか。当然それは日本向けなのです。中国はこんなにひどい言論統制をする国なんです。そんな国を対等のパートナーに出来るのですか。まだまだ日米安保は大切だし、沖縄の米軍基地が必要なことは分かるでしょう。どうぞ皆さん鳩山民主党政権に意見してくださいね。こうマスコミに乗せられやすい日本の、反中国感情を強めるために、グーグル問題を利用している。私はこのように感じているのです。言論弾圧は中国以外でもいくらでもあります。多民族国家の政治的安定には、欠かせない面もあります。イスラエルしかり。日本人の評価の高いシンガポールでも言論弾圧は、かなり徹底しています。言論弾圧を批判するなら、その全てを問題にする必要があります。なぜ中国だけ? ここには大きな作為があることを見逃してはなりません。 続く
2010.01.31
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ハイチに贈る (17)もうしばらく、ハイチやカリブ諸島に戻らずに、メキシコやペルーに関わる話を続けさせて下さい。日本で良くプランテーションと呼ばれる大農園は、中南米ではアシエンダと呼ばれます。その形成のいきさつを記します。スペインによる征服当初、メキシコやペルーの先住民社会派、相当な過密人口の状態にありました。ユカタン半島などを除くメキシコの主要部だけでも、征服当時の人口は1千万人をくだらなかったとされているのです。ですから、この段階では、スペイン人が先住民から土地を買い取ることは先ず不可能でした。それにエンコミエンダ制で、先住民は領主であるスペイン人に貢納を納めます。古代国家の段階にあったアステカやインカの人々にとって、やってきたスペイン人は前の支配者に代わる新しい支配者、即ち貢納を納める相手と認識されたので、このシステムは抵抗なく受け入れられたのです。先住民は貢納を農産物などで物納します。こうした物納農産物が、大量に都市の消費市場で売りに出されますから、農業経営で利益を上げることは、先ず不可能だったのです。ところが、スペイン人渡来者が新大陸に持ち込んだ、ヨーロッパの細菌やウイルスは、免疫のない先住民社会をパニックに陥れ、劇的な人口減少を招いたのです。良く日本では苛酷な銀山での労働が、先住民の大量死を招いたと説明されますが、それは事実ではありません。鉱山での労働が苛酷であったことは間違いではないのですが、鉱山で非業の死を遂げた先住民と伝染性の疾病による死者では、比較にならないほど後者の方が多いのです。その結果、1千万人に達していたメキシコ主要部の人口は、17世紀の30年代には、1割以下の75万人にまで激減したのです。当然先住民の納める貢納も激減します。都市の農産物価格は高騰を続ける一方、先住民社会では耕し手のいない耕作放棄地があちこちに広がります。スペイン人は、安い価格で大量の土地を手に入れることが出来るようになったのです。丁度エンコミエンダの将来に、見切りをつけ始めていた時期でしたから、スペイン人支配層の多くは、大量に土地を買い入れ、人を雇って都市や鉱山の市場に向けた農牧経営を始めたのです。アシエンダの誕生です。土地が余っていた時代、捨て値で買えた時代のことでしたから、アシエンダは広大な面積を持っています。その規模は最低でも100ヘクタールを大きく超えます。牧草地や山林を含めると、数千ヘクタールのアシエンダも珍しくありません。過疎地の牧場アシエンダは小さなものでも1万ヘクタールを超えています。ところが、先住民の人口は、75万人を底に回復に向かいます。天然痘その他の伝染性疾病に対する抗体が、この頃から出来たのでしょう。その後は猛烈な勢いでの人口増加が起きたのです。当然土地が不足します。しかし、アシエンダの所有者は、いくら頼んでも土地を売り戻してくれなかったのです。彼らは、使っていない土地であっても、先住民に売り戻せば、彼らは忙しくなって、繁忙期の臨時雇いに応じてくれなくなる。また彼らの生産物の一部を市場に持ち込むから、農産物の値段を引き下げる役割を果たしてしまう。こう考えたのです。先住民の要望に答えて、彼らに土地を売り戻してやることは、アシエンダにとって、プラスになることは何もない。彼らはこのように考えたのでした。 続く
2010.01.31
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クロニクル 江川ー小林電撃トレード1979(昭和54)年1月31日小林繁投手、先日亡くなりましたね。細身の横手投げ。しかし強気で内閣にシュートをボンボン投げ込むピッチングでした。その小林投手。ジャイアンツのエース級でしたが、31年前の今日。キャンプインの前日に、タイガースへ電撃移籍されました。例の江川事件、空白の1日を突いたと言う、ジャイアンツのドラフト破りに、コミッショナーーが下した結論が、江川選手はタイガース(その年のドラフトで指名権獲得)に入団し、しかる後に速やかにジャイアンツにトレード移籍させるというものでした。こうしてタイガースが指名したのが小林投手でした。キャンプ地に向かおうとして、突然の行き先変更。何も語らなかった小林投手でしたが、それだけにプロとしての腹の据わり方が見事でした。惜しい野球人が早死にしてしまいました。
2010.01.31
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政治を斬る 番外編…小沢問題とグーグル事件の闇(5) 私は、タイトルにあえて日本とは関係のないグーグルを加えました。小沢問題との関連を匂わせました。そのわけを話す段階に来たようです。日本の政治家の多くは、政治資金の問題では叩けば埃がでます。しかし、内輪もめを起こすか、贈賄側の事情によるかしない限り、先ずこの問題は表に出ません。警察と検察の捜査は事態をある程度掴まないと行なわれないからです。それなのに、身内の資金移動に過ぎないにも関わらず鳩山首相の虚偽記載が明らかにされ、いままた小沢幹事長の資金移動の起債漏れが問題とされているのはなぜか。何処からか検察に情報が提供されたからとしか、考えようがないのです。ではどこか。それはロッキード事件で田中前首相(当時)の復活当番を封じ、東京佐川急便事件を暴いて細川首相(当時)を辞職に追い込んだ、米国発の情報と考えて、間違いないだろうと、私は考えています。なぜか。鳩山ー小沢ラインによる対米外交路線の変更への危機感しかありえません。とは言っても、普天間基地の移転問題ではありません。沖縄海兵隊のグアム移転で、米国が困ることはない点は、「政治を斬る」の本編で、既に書きました。米国が困るのは、鳩山首相が本気で日・中・韓中心の東アジア経済圏の形成と推進に動き、日米の経済的一体性を横において、経済活動の重心をアジアに移そうとしていることにあります。ASEANプラス3にインドを加えた大アジア経済圏が立ち上がれば、次第に米国の影が薄くなります。国内で消化できない国債や政府関係債(フレディ・マックやファニー・メイの債権がこれにあたります)の消化を中国と日本、特に日本に頼っている米国としては、それだけはなんとしても止めなければならない事柄なのです。これは世界経済に関するシリーズで論じますが、為替市場の動きで言うと、ドルに対する円高とか円安というのは、ほとんど問題にするに当らないほどなだらかなのです。少し長めのスパンで見ると、他通貨に対してドルは継続的に安くなっています。そして円に対しても多少安くなっていますが、他通貨に比べると、その割合は驚くほど緩やかなのです。つまり為替市場は、円とドルは親しい親戚のようにパッケージで見られているのです。その円を持つ日本が、経済的にも米国よりアジアを重視するとなると、これは米国にとっての一大事です。オバマ政権はその匂いを感じた。そこでCIAのファイルから、2人の部分を抜き出し、日本国内のエージェントを通じて、検察にリークした。こう考えられます。グーグル問題は、この文脈で登場します。 続く
2010.01.30
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ハイチに贈る (16)スペイン王権は、1542年に中南米植民地に関する新法を制定します。この法には、スペイン人と先住民との関係を正そうとする、ラス・カサスを中心とした先住民擁護派の主張を認めて、インディオの奴隷化を禁止した条文が含まれるなど、評価できる部分も含まれていました。そして問題のエンコミエンダは、今後相続の対象から外し、1代限りのものとすると定めたのです(第35条)。しかしこの条文は、過激すぎました。もし条文がその通りに施行されていたら、植民地社会の中核である都市市民団から、その唯一の経済基盤を奪ってしまうことになるからです。それは、植民地社会の中核を破壊し、植民地社会を根底から崩してしまうことになるからです。王権の先兵である副王たちは、さすがに現地の事情に通じていました。各地の副王は、新法を携えて植民地にやってきた査察官達を待たせて、市会に陳情団を編成させて本国へ派遣し、35条の修正を嘆願させたのです。勿論自らの意見書も提出しました。こうして、第35条は日の目を見ることなく新法から削除されました。しかし、それはエンコミエンダをそのまま存続することではありませんでした。都市の市民団構成員に、エンコミエンダとして与えられていた村落は、一つ一つ西欧式の村落共同体に改組され、夫々にスペイン国王が派遣する役人コレヒドールが配置されることになったのです。コレヒドールとは、「悪を矯める者」と言った意味を持つ語で、夫々の町や村の自治的な活動に対する国王のお目付け役の役割を果たす役人でした。彼らは市会の会合で議長を務めると共に、市の管轄領域での司法をも担当したのです。さらに王権は、1549年にエンコミエンダから賦役を提供させることを禁じました。今後はエンコミエンダ保有者も、先住民の労働力を使うには、コレヒドールに願い出て、その割当を受けなければならないことになったのです。さらに王権は、エンコミエンダ保持者が持つ貢納の裁量権をも取り上げました。以後の貢納は、コレヒドールが行なう公式の人口調査の数値に本付いて貢納額を定め、徴収もまた官吏が行い、エンコミエンダ保有者に分配することになったのです。市民団構成員の経済基盤は確保されますが、エンコミエンダはもはや所領ではありません。所領であるなら、領主(所有者)と少なくとも村長らとの間に、人間的な紐帯があり、時には膝詰め談判で相談をまとめることが出来なければなりません。領主と領民の間に国王の役人が割り込み、人としての繋がりが希薄化したエンコミエンダは、市民団にとって、ただの収入源に過ぎず、市民たちはランティエと化したのです。こうして、目端の利く市民たちは、エンコミエンダに見切りをつけ、農園経営に活路を見出すようになっていきます。プランテーション、スペイン語でアシエンダと呼ばれる大農園の形成は、この時期に始まってゆくのです。 続く
2010.01.30
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クロニクル マハトマ・ガンジー暗殺1948(昭和23)年1月30日62年前のこの日、インド建国の父マハトマ・ガンジー翁が、ヒンドゥー至上主義の若者に暗殺されました。78歳でした。ガンジーは、イギリスに留学して、弁護士資格を得、南アフリカで開業して、当地のインド移民の待遇改善に尽力して成果を挙げ、一躍名を知られたのです。有名な非暴力抵抗運動は、南アフリカ時代に考案された運動形態でした。ガンジーはインド独立のために、非暴力運動を指導してイギリスと戦い続け、第二次大戦後の47年、遂に独立を達成します。しかし、ガンジーは、インドとパキスタンという2つの国として独立したことを悲しみ、ヒンドゥとムスリム双方の間を取り持って、両国の統一を目指したのです。この行動が「ガンジーはムスリムに譲歩しすぎだ」と指弾され、この日の暗殺に繋がったのです。ノーバル賞委員会は、1937年以降、47年までに計5回も、ガンディを平和賞の候補に推しました。しかし、ガンジーは頑としてノーベル平和賞の受賞を辞退し続けたため、最後まで受賞に至りませんでした。
2010.01.30
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政治を斬る 番外編…小沢問題とグーグル事件の闇(4) 政治と金の問題については、基本的に私は政治家を信用しておりません。大部分の政治家は叩けば誇りが出るでしょう。金銭的に恵まれないというか、政治献金から最も遠いところに位置した社民党の非労組系議員が、秘書給与という最もつつましい資金の偽装で、起訴されたことを思い出してください。野党では公明党と共産党の議員は、すべて党が面倒を見てくれるので別格です。ですから、鳩山問題と小沢問題が白日の下にさらされた時の、民主党議員の反応も良く分かるのです。「なぜ?」それは、多かれ少なかれ政治家が脛に傷を持つ身であることを知っている、当選回数を重ねた議員ほど、ピンときた疑問だったはずです。マスコミへのリークが検察や警察であり、CIAの協力者である民間人でなかったことは、報道の出方から明らかでしたから、旧内務官僚の系統に属する官僚たちが、動いただろうことは容易に想像できたからです。しかし、気持ちは分かりますが、民主党の反応と行動はあまりに稚拙であり、相手を利する行動でした。正面から行政府や立法府の議員たちが、検察や警察と戦うと表現することが、国民にどう受け取られるかを、彼らは斟酌しなかったのでしょう。司令塔がいない、策を練ることの出来る黒幕がいない。そしてブレーン層が薄い。そうした若い政党に特有な弱点が、今回はモロに出ていました。日本社会は、建前は三権分立が貫かれています。そして国民の多くは三権分立が字句通りに機能していると思い込んでいます。ですから、議会で多数を占める政党と、その党を中心とした内閣のメンバーが次々と検察を批判し、検察と戦うと表現する事態を異常と感じ、三権分立と憲法を踏みにじる行為と受け止めたのです。検察の挑発に見事に乗せられた愚かな行為でした。しかし、ここで注意したいことは、日本の三権分立は、制度上そう見えるだけで、実態は分立を態をなしていない期間が長かったのです。いや、今もそうなのです。日本には本当の意味での三権の分立は今もないのです。なぜか。1番大きな問題は、議院内閣制をとっていることです。衆議院で多数を占める政党の党首が、大抵の場合首相を務めます。彼は党の総裁を兼ねますから、党の実力者の揃った内閣と党幹部の思惑で全てが決まってゆきます。参議院で野党多数となった2007年以降の2年間も、衆院で3分の2以上を確保していましたから、再議決が可能でした。要は立法府(国会)に対する内閣の優位は際立っていたのです。ここに首相を中心とした内閣の権限は、遥かに国会を凌駕していました。だからこそ、1年、2年で交代するお飾りの大臣を、国民向けのスピーカーとして裏で操る官僚が実験を握るなどという、裏技が通用したのです。実態は官僚たちの独裁でした。実権は選挙の洗礼を受けない、黒子のはずの官僚たちが握っていました。特に細川内閣以降、政治経験が乏しいけれどマスコミへの露出度などで、人気だけは高い人物が大臣になるケースが増えるに連れて、官僚を上手に使える実力大臣が減ったため、この傾向は露骨に目立つようになりました。本当は、首相公選制が実現した方が良いのでしょうね。そして、司法制度です。私は学生運動の経験から、警察はしばしば間違えることがあること、場合によると平気で証拠を捏造することがあること、などを承知しています。そして判事が検察の主張よりの判断をするケースが多いことも承知しています。何よりの問題は、判事(裁判官)の頂点に立つ最高裁判事が、内閣のとりわけ内閣総理大臣による任命になっていることです。この点は、頻繁に政権交代が行なわれていれば、中和されるのですが、日本のように半世紀以上にわたって、単一の政党が内閣を構成していた場合には、著しい偏向を生むことになります。即ち、自民党にとって好ましくない考え方を持つとされた人物は、1人として選ばれないということです。最高裁判決にかなりの偏りが認められるのはこのためです。そして問題は、そうした最高裁の判事たちが、下級審の判事たちの昇進や配属を決定する権限を持つことです。自分たちの判断に疑問を持つような、上級審判決に異議申し立てをするような判事は、確実に左遷されるのです。国際的に見ても、日本の裁判所の保守性が際立っているのはここに原因があります。要するに日本の三権分立は、実は内閣の権限が際立つ擬似的な分立に過ぎないのです。ここを抑えると別の景色が見えてきませんか。 続く
2010.01.29
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ハイチに贈る (15)ところで、居ながらにして、しかも身銭を切ることもなく。広大な領土を手に入れたスペインの王権はどうしたでしょう。カピトゥラシトンによって、新領土の実入りの2割は入ってくるのですが、征服者総督をそのままのさばらせておくほど、強力な王権は甘くないのです。王権は、征服者総督以上に狡知に長けていたのです。王権にとって、征服地で何をしようが白紙委任同然の権限を、現地総督に与えたカピトゥラシオンによって、王権の制約を受けない都市自治体が続々と登場すること、エンコミエンダを利用した強力な領主権が登場するかもしれないことは、次第に苦痛になってきたのです。レコンキスタの過程で獲得した強力な王権にとって、植民地の総督以下の支配層の勝手な振る舞いは、征服事業が軌道に乗ってしまえば、邪魔者でしかなかったのです。インカ帝国を滅ぼしアンデス一帯を支配下に入れたピサロの一族は、1人また1人とペルー植民地の舞台から消されてゆきました。メキシコのコルテスはどうなったでしょう。コルテスは、ホンジュラスで叛乱を起こした部下を鎮圧に出かけて道に迷い、2年間任地を留守にしたことを咎められて総統職を解かれます。1526年のことでした。これに不満なコルテスは、スペインに戻って国王に訴えでますが、総統職への復帰は難しい形勢に直面したのです。そこで彼は、侯爵の爵位と爵位に付随する所領として、22ヵ村に及ぶ広大なエンコミエンダを獲得することで、王権に妥協したのです。侯爵としてメキシコに戻ったコルテスは、10年間所領を経営して巨万の富を蓄積すると、1540年頃にスペインに戻り、同地で没しています。こうして、征服者総督を一掃すると、王権はスペインの名門貴族を中南米植民地の副王として現地に送り込み、現地の支配層に、植民地が王室によって栄誉ある地位を与えられたと思い込ませることに、成功していったのです。残る問題はエンコミエンダでした。都市共同体の構成員たちは、植民地事業の中核を構成する人々ですから排除するわけにいきません。しかし、彼らが現地民を自由に動員して使役できるエンコミエンダは、放置するわけにいかなかったのです。 続く
2010.01.29
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クロニクル アラビア石油1960(昭和35)年1月29日丁度、安保改訂反対闘争の年のはじめでした。この日、アラビア石油がクウェート沖のカフジ油田を掘り当てました。それは、初めての日本企業による、海外での油田開発の試掘成功でした。カフジ一帯は、サウジとクウェートの中立地帯です。そしてカフジ油田は、カフジ沖合い(ペルシャ湾の一廓です)の海底油田です。アラビア石油は、ここで40年間創業して、石油を採掘する権利を得たのですが、その権利は40年後の2000年に失効してしまい、現在はサウジ・アラムコの関連会社が、石油の採掘を担当しています。
2010.01.29
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ハイチに贈る (14)昨日の(13)に記したように、征服から都市建設までは一連の事業でした。ですから、アメリカ大陸に上陸した征服者たちの1部、第2類型に属する冒険者たちが、次なる征服に成功していくに連れて、スペイン人による都市建設は、波紋を描くように広がっていきました。コルテスのメキシコシティ建設以後を簡単に記します。コルテスの部下だったアルバラドは、グアテマラ高地のマヤ系部族を征服してグアテマラ市を建てました、1524年のことです。同じくコルテスのかつての部下モンテホは、ユカタン半島のマヤ人を制圧して、メリダ市を建てました。少し遅れて1542年のことでした。1519年にバルボアを処刑した総督のぺドラリアスは、同地にパナマ市を建設しています。ぺドラリアスの部下だったコルドバは、ニカラグアに進出して1523~24年にかけて、グラナダ市とレオン市を建てています。パナマ市民の身分を持ちながら、親バルボア派と目されて、不遇を囲っていたピサロは、自ら太平洋岸を南下する計画を立て、インカ帝国を打ち破ってクスコ市とリマ市を建設しました。1534~35年のことでした。ピサロの部隊長の1人だったベナルカサルは、エクアドル高地を制圧して、1534年にキト市を建てました。同じベナルカサルとケサダ、フェーダーマンと手を結んでベネズエラを攻略し、1538年にボゴタ市を建設します。ペルーからさらに南下したピサロの部下だったバルディビアは、1541年にサンティアゴ市を建設しています。コルテスの征服から、僅かに四半世紀のうちに、これだけの征服事業が進められたのです。まさに恐るべきスペイン人の征服欲でした。 続く
2010.01.28
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クロニクル レゴ・ブロックの特許出願1958(昭和33)年1月28日レゴ・ブロックご存知ですよね。あのレゴ・ブロックの基本構造に関する特許が出願されたのが、52年前の今日でした。出願者はレゴ社のゴッドフレッド・キアク・クリスチャンセンサンでした。レゴ社はデンマークの玩具会社です。レゴ・ブロックは、60年代半ばから徐々に売り上げを伸ばし、70年代に大きく飛躍して現在に至っています。
2010.01.28
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政治を斬る 番外編…小沢問題とグーグル事件の闇(3)ロッキード事件は、金脈問題で退陣した田中前首相が、再登板への意欲を示し始めた1976年の1月に、米国発の事件として登場しました。米国離れを画策する田中前首相の再登板を阻止したい、米国の思惑は十分に透けて見えました。米国離れを画策すると、政治的に葬られる。脛に傷を持つ政治家には、ロッキードの脅しは十分過ぎる効果を持ったのです。その後の代々の首相で、米国離れを画策した政治家は非自民連立政権の細川首相と、今回の鳩山首相しかおりません。この間、いくつもの汚職事件が明らかになっていますが、リクルート社が、上場予定の子会社「リクルート・こすもす」の未公開株を配って歩いた、リクルート事件は、川崎市の助役の逮捕がきっかけで、連鎖的に大物政治家の名が明らかにされ、竹下内閣の退陣に繋がりました。ここでは、新興企業であるリクルート社と同社の江副ワンマン社長のガードの甘さが、立件に繋がりました。忘れてならないのが、非自民8党・会派連立の細川首相の退任に繋がった東京佐川急便事件です。事件が発覚する直前、1994年1月に細川首相は訪米し、クリントン大統領と会談していますが、その会談で日米貿易摩擦についての米側要求(自動車輸出についての、日本側の自主規制の継続と強化でした)を突っぱね、会談は物別れに終っています。佐川急便事件が、なぜ急に話題に上るようになったのか。捜査のきっかけになる情報は何処から得たのか。この部分が今でもなぞなのです。リクルートは川崎市の助役への贈賄事件がきっかけでした。加藤紘一元幹事長の共和事件では、経理を握っていた秘書と不仲になったことで、明るみに出ました。こうした内部分裂がない限り、表に出ない金の流れは、先ず明らかにならないものです。佐川急便事件も、クリントン要求の受け入れ拒否という、細川首相の意志に対する米側の報復だったと考えると、実に良く理解できます。東京地検にCIAルートで情報が入ったということでしょう。今回の鳩山首相の虚偽記載、小沢幹事長の虚偽記載にしても、捜索令状なしに検察や警察が徴募を点検することは出来ません。「公表資料を精査してごらん…」といった密かな囁きが、どこからかあったことは、十二分に予測できます。出なければ、明らかになるはずはありません。小沢・鳩山の2人は、対米追随外交を改め、日米対等の関係の構築という、日本の政治家であれば、とっくに手をつけておくべきことに、手を染め、日米対等の関係の構築を目指していました。だからこそ、CIAの調査データが検察に渡された可能性が高い、でないと事実は明らかに出来なかった。私はこう見ています。 続く
2010.01.27
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ハイチに贈る (13)さて、市民たちに割り当てられた土地は、そこで働く人間がいなければ意味はありません。近代以前の社会では、土地の割当はその地で働く人間とセットになっているのです。江戸時代には、良く大名の転封が行なわれていますが、移動するのは武家とその雇い人のみで、働く人間にとっては、貢納を納める相手が交代するだけでした。家を建て、耕地を耕し、都市基盤を整備するためには、労働する人間を持たねばなりません。このため総督は、市民団の人選を済ませると、市民たちに都市周辺の村をエンコミエンダとして授与するのです(殿様が家老以下の家臣に、○千石とか○百石とか割り当てるのと同じです)。ですから、総督からエンコミエンダを授与された者だけが、都市における市民団すなわち都市支配層を形成するのです。土地の地割りが終ると、市民たちは割り当てられた村々に出かけ、村長や長老と顔つなぎをして、貢納や賦役の中味について話をつけるのです。先ずは賦役の提供です。送られて来た賦役労働力の1部を用いて自己の屋敷を建て、残りの労働力は都市のインフラ整備のための公共の用に提供するのです。こうして、スペイン領植民地の都市が建設され、征服スペイン人の都市が形成されるのです。スペイン領植民地の最初の都市は、コロンブスの弟バルトロメオが、1496年にエスパニョーラ島に建設したサントドミンゴ市でした。コルテスは、征服したアステカ王国の首都テノチティトランを破壊して、その廃墟にメキシコシティを建設しています。1521年のことです。ところでスペイン人支配層は、農村の領地に居住して農業経営に勤しむことは、全くありませんでした。特に入植の初期段階には、支配層は勿論スペイン人の開拓自作農すらも、皆無だったのです。農村のエンコミエンダは、貢納の対象であり、入植市民の大切な財源でしたが、そこに住み込んで農村の領主になることは、決してしなかったのです。スペイン人の生活圏は都市であり、農村は先住民インディオの生活圏だったのです。エンコミエンダを所有する征服者市民たちは、都市に居住して都市支配層となり、エンコミエンダからの貢納を定収として、スペインから係累を呼び寄せ、使用人を雇い、大所帯の主となったのです。この時彼らが建てる邸宅や教会、市庁舎などは、当然故郷であるスペインの憧れの城館や教会を真似ることになります。そして、都市生活の維持に必要な職人や商人、専門職の持ち主についても、スペインから志願者を呼び寄せ、自ら顧客となるのです。そればかりか、自らの配偶者もまた、都市支配層の自分に相応しい相手をスペインから見つけてくるのです。ギルド制度の下で、親方になる道がほぼ閉ざされていた職人たちは、新世界では親方になる道を喜んで選びました。ですから移住者の徴募に大きな困難はなかったのです。こうして都市のスペイン人社会は、早い時期に安定し、その生活を軌道に乗せることが出来たのです。1枚写真を載せておきます。この地図は、1588年にロンドンで作成されたサントドミンゴ市の古地図です。キャプテン・ドレイクの率いるイギリス艦隊が、1580~86年にかけて、スペイン領アメリカ各地に遠征して、海賊行為を働いた際に、サントドミンゴ市を短期間占領した時の情報を下敷きに作成されたものです。ユネスコの世界遺産に指定されているサン・ドマンゴの旧市街が、この段階でほぼ完成している様子が見て取れます。 続く
2010.01.27
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クロニクル アポロ1号炎上1967(昭和42)年1月27日43年前になります。アポロ1号は、2月21日に宇宙に飛び立ち、地球を回る軌道に打ち上げられる予定になっていました。そしてこの日も打ち上げに備えての訓練が、機内で行なわれていました。そのアポロ1号が、訓練中の事故で炎上し、船内で訓練中の3人の宇宙飛行士が死亡したのです。3人は、船長のバージル・グリソム、パイロットのエドワード・ホワイトとロジャー・チャフィーでした。
2010.01.27
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世界経済の現状 (103)オバマの金融規制案、唐突に出てきたように見えますが、骨子は一昨年来、一部で強く主張されていたことのように思います。ですから、いよいよ来るべきものが来たと私は考えています。彼の就任後、もっと早く出てくると思っていたのですが、ブッシュ政権の続きのようなことを、バーナンキやガイトナーに乗ってやっていました。マサチューセッツの上院補選で、共和党候補に負けて目が覚めたようです。マサチューセッツは、米国50州の中で、最もリベラル色の強い、全米の中で最も民主党の強い州です。ご存知の通り、1620年にピューリタンの一行を乗せたメイフラワー号が、やってきたのがこの地です。実は北米のイギリス植民地の最も古い所は、ヴァージニア州のジェームズタウンであって、メイフラワー号のプリマス植民地ではありません。それなのに、米国建国史で出てくるのは、メイフラワー号であって、ジェームズタウンではありません。それは、独立戦争の口火を切り、独立戦争をリードしたのがボストンを中心とするマサチューセッツの人々だったからです。ボストン・ティーパーティしかり、武力衝突の始まりのレキシントン・コンコードの戦いしかりです。そして、リンカーンが登場した南北戦争の時期に、ボストンには、既にして黒人奴隷は1人もいなかったようなのです。少なくともボストン市の史料では、奴隷の存在は全く確認できないのです。こんな大都市は、アメリカ中探してもボストンだけなのです。ここボストンを核としたマサチューセッツはそういう意味で、米国で最もリベラルで、民主党リベラル派の牙城だったのです。そして過去40年にわたりケネディ家の末弟エドワードが常に大差で楽勝を続けてきた選挙区でした。そんな選挙区ですから、共和党の候補は、不戦敗を防ぐための候補にすぎず、いわば二線級の候補だったのです。その候補が勝利したのです。これは大変なことです。最も民主党が負けることの少ない、共和党が勝利した大統領選でも、常に民主党候補が選挙人を獲得してきたのがマサチューセッツでした。ここで負けたことは、今秋の中間選挙で、民主党が大敗するであろうことを予告されたに等しいのです。従来民主党を支持し続けてきたリベラルな都市中間層などが、オバマ改革にノーを突きつけたということです。直接的な批判は、医療制度改革にに対する反対の意思表示でしょうが、その根にあるのは、リーマンショック以降の、銀行救済にあります。勝手にデリバティヴ商品を作って、大きくレバレッジを効かせて大儲けをし、その儲けは分配してポケットに入れ、相場が崩れて大損が出たら、政府に泣きついて税金投入で助けてもらい、手にした税金でまたバクチを打って、儲かったら借りた分を返して、残りはまたポケットに入れて恥じない連中がのさばり、真面目に働いている連中は、リストラされないまでも給料は大きく下がって汲々としていなければならない。そして、連中だけ羽振りが良くなっても、景気は一行に回復する気配を見せない。国債をジャブジャブ発行して、大手金融機関を助けたのはいったい何のためだったのか。国民生活に貢献しないヤツラを救済したのは何のためだったのか。こういった中産階級の不満の蓄積が、今回の選挙結果なのです。秋の中間選挙で大敗すれば、オバマ大統領は、その瞬間からレイム・ダックに化します。先ず次期大統領にはなれないでしょう。ここはバーナンキ・ガイドナー路線を批判して、金融規制の強化に踏み切るしかない。こ牛田判断から表に出されたのが、唐突と言われる今回の金融規制案です。内容的には筋が通っています。銀行は本来の業務に戻れ、預金と貸し出しこそ、経済の血液としての本来の金融業務なので、そこに戻れというのです。レバレッジを効かせたバクチに手を染める機関と、銀行とは峻別する。バクチをやる機関は、今後は保護しない。ヘッジ・ファンド等バクチをやる機関を銀行が抱えるのも禁止する。これは米国内の多数派市民たちの声ですから、ようやくその線が整ってきたことになります。この案は、08年の金融危機の深刻化の時期に、囁かれていた案でもありますから、議会の中にも、そして共和党の中にも支持者がいます。そして、今のアメリカの状況は、金融界が表立って反対すればするほど、逆にこの案への支持は広がります。横暴極まりない金融資本とりわけGSやMSに対する、米国の叛乱。それが今回の事態です。オバマ提案は、実現する確立が高く、そして、大陸欧州が同調して、英国が孤立するか、同調するか迷う、こんな構図になるであろうと、私は見ています。ここで、中産層や民衆の支持を回復しないと、オバマは結局何もしないで、退くことになってしまうのです。ここをしっかり抑えておく必要があります。日・米・欧の株式市場の戻り相場は、螺旋を描きながら終息に向かうのではないかと、私は見ています。 続く
2010.01.26
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ハイチに贈る (12)アステカ王国の首都テノチティトランは、湖上の島に建てられていました。王国の各地とは4本の土手道で結ばれていたのです。1度首都に迎え入れられたコルテスは、この事情を熟知していましたから、13艘の小型の帆船を湖に持ち込み、土手道の通行権を押さえ、4ヶ所の土手道の付け根の部分に夫々要塞を構えて、毎日島を攻撃し、夜間は要塞に籠もって守りを固める作戦を取りました。足掛け4ヶ月に渡り、アステカ軍は勇敢に戦いましたが、コルテスの理詰めの作戦に対応することが出来ず、国内各地からの糧道を立たれた食糧不足お堪え、遂に1521年8月、天然痘に倒れたクイトラワクの後を継いだクアウテモクが捉えられて、万事休したのでした。アステカ王国を征服したコルテスは、征服の1年2ヵ月後になりましたが、首尾よく国王からカピトゥラシオンを得ることに成功し、この地の総督の地位を手に入れました。遠征軍が征服に成功した後にすることは、一つです。戦利品の国王への上納分20%を差し引き、残りは征服参加者に出資分に応じて分配されるのです。いわば、こうして征服事業を清算するわけです。この時、征服事業に参加した仲間は、身の振り方で3つの集団に分かれます。1組目は帰国組です。彼らは故郷に錦を飾るのです。2組目は遠征続行組です。彼らは新しい遠征隊を組織して、国王と新規のカピトゥラシオンを結んで、さらに未知の地へと冒険の旅を続けます。3組目は残留組です。実はこの残留組が多数派です。彼らは2組の仲間を見送った後、この地に領主として定着するのです。スペインの伝統といえば、レコンキスタの伝統ですから、定着することは即ち、都市自治体を作ることです。征服事業を清算しても、カピトゥラシオンは有効ですから、征服地の総督は事実上の王として振舞う権利を持っています。この総督の最も重要な仕事は、植民地の屋台骨となる都市自治体群を、揉め事なく発足させることにあります。都市を建設する候補地を決めると、総督は残留者の中からその都市に住む市民団を選び、建設予定の都市の数だけのグループを作るのです。この時誰もが総督も居住する首都など、格の高い都市に住みたがりますから、この人選は総督の器量が問われる正念場になります。こうして選ばれた市民団は、その地に趣いて市の設立式典を行い、市会議員を互選します。この市会の最初の仕事が、建設する都市の地割です。先ず碁盤の目のように街路を線引きし、中心部の広場、教会、市庁舎の位置を決め、残りを屋敷地として市民に分配するのです。農地は市街地の外に、同じようにして分配されるのです。 続く
2010.01.26
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クロニクル ダイヤモンドは永遠に1905(明治38)年1月26日105年前の今日は、日露戦争の最中にありました。そんなこの日南アフリカのカリナン鉱山で、現在なおその記録が破られないでいる、世界史上最大のダイヤモンド原石が発見されました。このダイヤは、3106カラット(621.2g)もあり、鉱山の所有者トーマス・カリナンの名にちなんで「カリナン」と命名されました。「カリナン」は、より大きな原石の一部であると考えられているのですが、現在なお残りの原石は発見されていません。「カリナン」は南アフリカのトランスヴァール政府に売却されました。そして同政府は、二年後の1907年11月9日に、イギリス国王エドワード7世へ66歳の誕生日の贈り物として「カリナン」を贈呈したのです。エドワード7世はオランダ・アムステルダムにあるアッシャー社にカットを依頼し、9つの大きな石と96個の小さな石が切り出されましたた。9つの石にはそれぞれカリナンIからIXの名が付けられ、すべてイギリス王室か王族個人の所有物となっています。いくつかはロンドン塔で永久展示されています。530,2カラットの最大サイズのダイヤ、カリマン1世は、イギリス王室の王笏を飾っています。 2番目のサイズのカリマン2世は、317.40カラットあり、王室の王冠を飾っています。
2010.01.26
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ハイチに贈る (11)コルテスがスペイン国王から「カピトゥラシオン」を付与されたのは、征服事業の完成後の1522年10月のことでした。いわば事後承諾となったのですが、ここでコルテスは競争者を排除することが可能な大きな権力を得たのです。さて、コルテスの征服事業に戻ります。コルテスの遠征隊は、トラスカラ人の本拠を襲いました。数的には圧倒的に劣勢でしたが、鉄製の武器を持たず、馬を知らないトラスカス人は、コルテスの小部隊を屈服させることが出来ませんでした。アメリカ大陸にも馬はいたのですが、ベーリング海を徒歩で渡ってきた先住民達は、氷期後の大乱獲で、マンモス等と一緒にはぼ絶滅に近い状態に、追いやってしまっていたのです。ですから彼らには、騎乗という考えがなく、騎馬部隊の突撃に浮き足立ってしまったのです。コルテス軍の威力に感じ入ったトラスカラ人の首長は、アステカ王国と敵対関係にありましたので、コルテスに協力してアステカ王国の転覆に乗り出すことを選んだのです。アステカ王国の国王モンテスマは、派遣していた密偵からこうした様子を逐一知らされます。弱腰の王は騎馬隊の話を聞いて怖気づき、すっかり戦意をなくしてしまいます。こうしてモンテスマは、自ら城門を開いてコルテスとトラスカラの同盟軍を、首都のテノチティトランに迎え入れたのです。国王の弱腰に乗じたコルテスは、無血で王国を乗っ取ることを考え、、先ずは多額の財宝を上納させるkとに成功します。しかし、アステカ王国にも人材はおります。国王の弱腰に憤慨した家臣らは、王の弟クイトラワクを奉じて、コルテス軍とトラスカラ軍を急襲して、彼らを撤退に追い込み、さらに追撃をかけて、大きな打撃を与えることに成功したのです。しかし、ここで大きな不幸がアステカ王国を襲いました。スペイン軍の誰かが罹患していたのでしょう。人口稠密な王国の首都テノチティトランを、天然痘の大流行という恐怖が見舞ったのです。ベーリング海の水没後にユーラシア大陸で突然変異を起こし、伝染性を獲得した病原体に対しては、アメリカ大陸の先住民は、一切の抗体をもっていません。スペイン人の持ち込んだ天然痘、麻疹、チフス、ジフテリア、赤痢などに罹患すると、彼らは劇症を発して、1,2日のうちに死を迎えたのです。アステカ軍が奉じたクイトラワクも、天然痘の犠牲となったのです。アステカ王国の天然痘禍が、コルテスを救いました。トラスカラに陣を敷いたコルテスは、カリブ諸島に陣取るスペイン軍を財宝で誘い、騎兵86騎を含む900人の部隊を整えると、再度攻勢に出たのです。 続く
2010.01.25
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クロニクル カノッサの屈辱1077(承暦元)年1月25日今から1千年近く前になります。日本で言うと平安朝後期、上皇による院政の盛期にあたります。西洋では中世ヨーロッパの骨格がようやく整ってきた頃でしょうか。ヨーロッパの中世都市が、あちこちに生まれるのは、もう少し後のことになります。「カノッサの屈辱」は当時存在した「神聖ローマ帝国皇帝」のハインリヒ4世が、ローマ教皇グレゴリウス7世を雪のカノッサ城(カノッサはイタリア、トスカナの女性伯爵マティルダの居城でした)に訪ね、破門の許しを乞うて、素足で3日間城門の前に立ち尽くしたという、有名な事件です。当時のヨーロッパには、いくつもの王国が存在していますが、まだ強固な王権というものは存在せず、王とは諸侯の中の第一人者で、戦闘となった場合の指揮官程度の意味しか持たなかったのです。そのためヨーロッパというまとまりの範囲は、ローマ教皇をいただくカトリック教会の勢力範囲を示し、教皇の宗教的、精神的権威によって維持されていました。こうした世俗の王権に対する教皇権の優越を、象徴的に示した事件が、カノッサの屈辱でした。事件の発端は、ハインリヒ4世が無謀にも教皇権に挑戦したことから始まりました。聖職者の任免権、これを聖職叙任権というのですが、この権利は当然ながらローマ教皇にあります。それゆえ教皇に任命された大司教や司教といった教会幹部の聖職者は、当然ながら国王ではなく、教皇の意向を尊重します。それゆえ、多少王権が強まり始めていたこともあって、ハインリヒ4世は、聖職叙任権を我が手に納めようという野心を起こしたのでした。そうして彼は行動を起こします。事件の2年前の75年のことです。ハインリヒ4世は、自ら空席となったミラノの大司教を叙任し、皇帝の権威を示そうとしたのです。怒った教皇は、教会政治への介入に抗議し、ハインリヒ4世に教皇への服従を要求したのです。ハインリヒ4世は、ウォルムスの公会議に出席し、グレゴリウス7世の廃位を宣告したのです。これは全面戦争の布告にほかなりませんでした。激怒した教皇は、ハインリヒ4世を破門したのです。76年の2月のことでした。カトリックの世界で、教皇に破門された者を、王や皇帝として戴き続ける意識は、当時はありません。諸侯会議は、1年以内に破門が許されない限り、ハインリヒに替る別の皇帝を推戴する事を決定します。慌てたハインリヒは、あの手この手で教皇の許しを得ようとしますが、どれもうまく行きません。そしてこの日、トスカナ女伯マティルダのとりなしで、カノッサ城を訪ねたのでした。彼は27日までの3日間、雪の城門に素足で立ち尽くし、ようやく破門を解かれたのでした。この事件は、世俗権力と聖界権力との聖職叙任権を巡る長い争いの第一幕でした。この事件には、後日談があり、後日の第2幕では、グレゴリウス7世のワンマン振りに不満を持ったドイツ各地の司教たちがハインリヒを支持し、彼が一矢を酬いる形となっています。
2010.01.25
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JIM-NET チョコ募金についてのお知らせです皆さんにご協力をお願いしました「限りなき義理の愛大作戦2010」についてのお知らせです。多くの方が転載など宣伝に努めてくださったおかげで、売れ行きもとても好調のようです。有り難うございました。私も転載組みだったのですが、転載の転載、そのまた転載と次々に輪が広がり、10万個のチョコの完売が近づいているようです。私の転載の親元、ブロ友のレミドリさんから連絡を戴きましたので、彼女のブログのトップページの転載文の一部を、そのままコピペさせてもらいました。以下、レミドリさんのブログより(JIM-NETからのお知らせです)以下、~JIM-NET ON LINE 番外~を、転載いたしますーーーーー皆さま現在開催中の募金キャンペーン「限りなき義理の愛大作戦2010」は、皆さまのたくさんのご協力をいただいており、スタッフ一同、心より感謝申し上げる次第です。さて、予想をはるかに上回るお申し込みをいただき、用意したチョコレートも残り少なくなってまいりました。そのため、25日よりお申し込みをコールセンターに一本化させていただきたいと存じます。皆様にはご不便とお手数をおかけいたしますが、お申し込みの際は、下記コールセンターにお願い申し上げます。 チョコ募金「限りなき義理の愛大作戦2010」 コールセンター:03-6741-9665 受付時間:平日午前9時~午後6時何卒、皆さまのご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。なお、チョコレートの残数等の情報は、25日よりHP(http://www.jim-net.net/)でお知らせしてまいります。どうぞご覧くださいますようお願い申し上げます。JIM-NET(日本イラク医療支援ネットワーク)事務局ーーーーーということのようです。ご注文の予定で、まだ発注なさっていない方は、どうぞお急ぎ下さい。皆さん、有り難うございました。
2010.01.24
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政治を斬る 番外編…小沢問題とグーグル事件の闇(2)政治家という職業は、金のかかる仕事のようです。特に党や派閥の実力者にとって、グループの議員たちの面倒を見ることは、最低のノルマです。良い悪いという次元を超えたところで、日本の政治に金の問題はついて回ります。今月の日本経済新聞の「私の履歴書」は、細川護熙元首相の回想なのですが、そこで細川さんは、田中角栄元首相との出会いを振り返って、いきなりしかしさりげなく札束を渡されたことを記しています。田中元首相はロッキード事件で、司直の裁きを受けましたが、あの事件も米国発の事件でした。何を今さらロッキード事件かと言うと、実はあの事件で、ロッキード社と丸紅がタッグを組んでの日本の政界工作の全貌が明らかにされたわけではないと、思うからです。ロッキード社の私設代理人を勤めたのは、右翼の児玉誉士夫だったことは明らかになっています。その児玉は、戦時中は満州にあって、児玉機関と呼ばれた組織を作って、軍の物資の輸送などを担い、シコタマ儲けたこと、戦後戦犯として巣鴨プリズンに留置され、そこで岸信介元首相と親しくなったこと、恩赦で出獄後、岸元首相を介して鳩山民主党に結党資金を渡して、政界に深く食い入ったことが、知られています。その後保守合同で自由民主党が結成されるのですが、ロッキード社の政界工作が始まる時期には、なお児玉と田中元首相の接点はありません。この時期、児玉と最も親しかった政治家は、当時自民党の青年将校と言われた中曽根康弘元首相です。ですから、ロッキード社の秘密代理人を引き受けた児玉は、誰かを介さない限り田中元首相の知己を得ることは不可能でした。もうお分かりですよね。田中元首相と児玉を引き合わせ、児玉を介して田中元首相にロッキード社を強く推したのは、中曽根元首相を置いて外にないということは…。ロッキード事件では、中曽根元首相の名も何度か取りざたされましたが、彼に関する証拠は、遂に出なかったのです。ロッキード社からは、田中元首相だけではなく、児玉代理人の懐にも数億の礼金が渡っているのですから、常識的に考えて、中曽根元首相にも相当の金が渡されていると考えるのが自然です。それなのに中曽根元首相への金の流れは、巧妙にも一切が消されていたのです。後に田中派の強力な支援で、中曽根首相が誕生するのですが、その中曽根首相は、当時のレーガン大統領との間で、ロン・ヤス関係を築いた親米派首相として知られます。米国の静止を振り切って日中国交回復を主導した田中元首相との姿勢の違いは明確でした。米国、具体的にはCIAに刺された田中元首相と、CIAに保護された中曽根元首相。私はこういう観点で2人の明暗を考えています。もう少し懐旧談を続けます。 続く
2010.01.24
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ハイチに贈る (10)パナマ地峡への植民と時期的には重なる1517年のことです。エスパニョーラ島に続いて、植民が進んだキューバ島から西に進んだ船が、はじめてユカタン半島に上陸します。ユカタン半島のマヤの人々は、タイノ族とは違っていました。衣服を纏い、石造りの建物を建てていました。この報告を受けたキューバ総督は、部下のコルテスにユカタン半島の探索を命じました。1519年コルテスは500人の兵士を連れてメキシコ湾に向かいました。この地に上陸して、先住民を手なずけ、アステカ王国の情報を聞きだします。捜し求めた金銀が大量にあるらしいことを聞き出したコルテスは、キューバ総督からの自立を決意し、この地の征服のためのカピトゥラシオンを得るために、腹心の部下をスペイン宮廷に派遣して、自らは兵を率いて内陸に進みました。カピトゥラシオンとは、「協約書」とでも訳せるのですが、スペイン国王と個々の征服者とが取り交わす、征服と植民の請負契約書を指します。出発点をなしたコロンブスの航海だけは例外で、国王と王室が遠征と制服の費用を負担しているのですが、以後の征服には、王室は1文の金も、1人の兵士も出していないのです。その後の全ての遠征と征服は、企画立案から、資金調達、物資の準備から遠征参加者の募集まで、一切合財を遠征計画者が自ら行なうのです。言うなれば、新規に事業を立ち上げる野心的な起業家精神の持ち主でないと、実現できない性格のものでした。この時期の征服企業家は、コロンブスに替って、エスパニョーラ島の総督となったオバンドと共にやってきた植民者で、キューバ島やパナマ地峡の遠征に加わって、その地にエンコミエンダ(領地や領民を得ること)を獲得し、貯めた資金で、次なる征服を計画した人々でした。計画実現のメドが立つと、征服者は国王と交渉して、カピトゥラシオンを結びます。契約で国王は、遠征や征服で得られる利益の2割を上納させることを約束させます。引き換えに征服者は、その地の総督の地位を手に入れるのです。 征服者にとって、国王から得られる総督の地位は、将来割り込んでくるかもしれない競争者を排除できる権利ですから、いわば水戸黄門の印籠のように、無くてなならないものなのです。パナマ市を建設したバルボアは、抜群の功績を持ちながら、国王とのカピトゥラシオンを結んでいなかったために、後から辞令をもらってやってきた新総督によって、反逆者として処刑されてしまっていたのです。こうした事例を知っていたコルテスは、バルボアの二の舞を踏むまいと、国王とのカピトゥラシオンを必死の宮廷工作を展開して、手に入れようとしたのです。 続く
2010.01.24
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クロニクル 缶ビール登場1935(昭和10)年1月24日75年前になります。この日、アメリカのクルガー社が、世界で始めて缶ビールを発売しました。現在に比べ、技術的に未熟でしたから、瓶ビールに比べ、当初の味はかなりは落ちました。
2010.01.24
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政治を斬る 番外編…小沢問題とグーグル事件の闇(1)小沢民主党幹事長の政治資金疑惑を巡って、このところ世論もマスコミも沸騰しています。検察に対する民主党の対応までが、槍玉にあがっています。確かに、小沢幹事長自身や鳩山首相、そして民主党の対応にも、「あーあ、もう少し言葉を選べよ」とか、詰め碁の要領で「もう少し考えて…」と言いたくなるような粗忽さが目立つことは事実です。しかし、この事件どうも臭います。これは報道の裏をじっくり検討する必要があるなと思っていましたら、グーグルが中国政府にケンカを吹っかける事態が起きました。ここで謎が解けたように思いました。さらなるどんでん返しがあるかもしれませんが、この2つの事件は同根であると、私は受け止めています。そのことをこれから書いて行こうと思います。おなじ政治問題ですので、「政治を斬る」のシリーズの番外編と致しました。本編はなお続きますが、しばらく休載して、こちらを綴ることにします。古い話になりますが、60年安保闘争の1年後、大学に入学してすぐに、一般教養の「政治学」の講義の冒頭で、「新聞のウソを発見できて、はじめて1人前の大学生だ。紙背を読むことだ」と、一括されたことが、妙に新鮮でした。論旨は明快でしたが、言語は不明瞭な不思議な講義でした。この叱咤激励に納得したこともありますが、常に何かに疑問を持つことが、前進への道である事は、デカルトの言を持ち出すまでもなく、疑いようのない事実です。しかも悪いことに、歴史などを齧っているものですから、史実や史料の裏を読むことが習い性にもなっています。そんなものですから、マスコミ報道を鵜呑みにしての小沢批判や民主党批判に、非常に危ないものを感じています。そんなに素直に検察やマスコミを信じて良いのでしょうか? ブロ友のデブジュペ理さんが、リンクを張ってくださっている江川詔子さん(彼女は「オウム事件」をおっかけて評論家としてデビューしました)が、検察の間違いや検察の危うさを指摘されています。さて、本論に入る前に、私が政治ないし政治家を論ずる際のスタンスを記しておきます。(1) 人物論は別です。政治論としては、政治は結果責任です。意図はどうあれ、或いは人格的に好きか嫌いかは関係なく、政治家或いは政治的な行為は、純粋にというか冷徹に、結果で判断しなければならないということです。 ですから私は義経ではなく頼朝の政治能力を高く評価しますし、西郷よりも大久保を評価します。そして昭和天皇の戦争責任に厳しいです。(2) この観点から、私は政治と金の問題は、ある程度の範囲までは必要悪であると割り切っています。金のかからない選挙制度が実現していない以上、極端に私服を肥やす行為(金丸信がこれでした)以外に、私は比較的寛大です。本人の性格もありますが、8党派連立内閣の細川護熙内閣を、細川首相の佐川献金問題で葬り去ってしまったのは、「政治と金」の問題について、潔癖すぎる世論にも問題があったと考えています。 お金の問題については、飢えない程度、仕事に必要な本や史料が過不足なく入手できる程度にあれば、後はいらないというのが、私の個人的なスタンスです。(3)従って、私は現在の小沢幹事長の政治資金問題については、小沢擁護の立場に立っていることを、はじめに宣言しておきます。 続く
2010.01.23
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ハイチに贈る (9) エスパニョーラ島のその後を辿る前に、もう少し寄り道をさせてください。スペインのアメリカ大陸征服事業を、この際ですから概観しておきたいと思います。アメリカ大陸本土に、最初に上陸したのは、やはりコロンブスでした。彼は自ら見つけた島々の近くに大陸が、東アジアであると考え、「新発見」の大陸の近くにインド洋に抜ける海路を見つけようとしたのです。こうして最後となった第4回航海では、中米の地峡部から現在のコロンビア、ベネズエラ周辺に上陸して調べたのですが、インド洋への海路は見つけられなかったのです。コロンブス失脚から数年を経た1509年、パナマ地峡の付け根に当る大西洋のウラバ湾に、入植地が設けられます。実力でこの地の統率者となったバルボアは、1513年に地元のインディオから得た情報を下に、地峡を横断して新しい海を見つけました。太平洋です。彼によって、地峡の太平洋側にパナマ市が建設されます。1519年のことでした。ここにスペイン人による中南米への征服活動は、新局面に入りました。コロンブスの第1回航海から、30年足らずのことでした。明日は、コルテスとによるアステカ王国の征服について記すことにします。 続く
2010.01.23
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クロニクル 真白き富士の嶺1910(明治43)年1月23日今年でちょうど100年なのですね。この日、 逗子開成中学校の生徒ら12名が乗ったボートが遭難、全員が死亡しました。この悲しい事故から丁度2週間後の2月6日に、同校において、亡くなった12名の追悼集会が開かれました。この時に系列校の鎌倉女学校の女学生達が、鎮魂の歌として披露したのが、『七里ヶ浜の哀歌(真白き富士の嶺)』です。三角錫子(みすみ すずこ)さんの詞になるこの曲は、歌詞の最初の「真白き富士の嶺」として有名になり、事件の記憶と共に、各地で歌い継がれました。>真白き富士の嶺、緑の江の島 仰ぎ見るも、今は涙 歸らぬ十二の雄々しきみたまに 捧げまつる、胸と心 ボートは沈みぬ、千尋(ちひろ)の海原(うなばら) 風も浪も小(ち)さ腕(かいな)に 力も尽き果て、呼ぶ名は父母 恨みは深し、七里ヶ浜辺 < 以下6番マデ続きます。各地で愛唱されたために、5年後の1915(大正4)年にレコーディングされ、その後映画化もされました。
2010.01.23
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ハイチに贈る (8)スペイン領となったエスパニョール島の先住民が、実質的に死滅しました。彼ら彼女らの1部は、奴隷としてスペインに連れてゆかれましたが、慣れぬ船旅で体調を崩し、船中で亡くなった者が6~7割。運よくスペインに辿り着いた者も、ヨーロッパの気候が合わず、長くても2年程度のうちに亡くなっています。黒人と違ってインディオは奴隷に適さなかったのです。ここで、その後の事情を綴る前に、現在のハイチについて記しておきましょう。正式国名「ハイチ共和国」。1804年1月1日にフランスから独立。中南米では最初の独立国という栄誉を担っています。アメリカ合衆国は1783年に独立していますから、西半球として捉えると、ハイチは2番目の独立国です。国土面積は27,750平方キロメートル、2003年の総人口約867万人。うち、アフリカ系黒人90%、ムラート(白人と黒人の混血)10%となっています。エスパニョーラ島の面積は北海道とほぼ一緒ですから、国土面積は北海道の35~36%に過ぎない、黒人国家です。首都のポルトープランスの人口は約20万人。公用語はフランス語とクレオール語です。クレオールとはカリブ諸島や中南米生まれの黒人を指す言葉です。宗教はカトリック80%、プロテスタント15%の比率ですが、同時に半数以上(一説には、90%とも言われます)が、アフリカ大陸から伝えられた黒人たちの信仰です。気候は熱帯海洋性気候。月平均気温は、年間を通して25,5℃から29,4℃。年に2度雨季があり、この時期はハリケーンの通り道になります。北部と南部に東西に走る山脈があり、平地は国土の20%弱です。しかし、これが問題なのですが、山地が80%強もありながら、森林残存率は1%に過ぎません。「ハイチ」という国名は、先住民の一つアラワク族の言葉で、「山の多い地」を意味するのですが、かつて緑豊かだった熱帯雨林は、樹木の乱伐のために、ほとんどが禿山となり、地肌が露出したままとなっています。1人あたり国民所得は、米ドル換算で250ドル、購買力平価で910ドルに過ぎません。平均寿命は男性55,0歳、女性58,3歳です。乳児死亡率は出生1000人当り86人。15歳以上の識字率は47%で50%を切っています。そして人口1000人当りの受信台数は、ラジオで47台に過ぎず、テレビにいたっては5台に留まります。安全な水を入手できる人は、全人口の37%。トイレのある家の割合は25%に留まります。ついでに日本への輸出は6千万円。輸入は24億円となっています。子どもの8割は栄養失調の状態にあり、失業率は7割を超えています。まさに世界の最貧国の一つなのです。 続く
2010.01.22
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クロニクル イギリス労働党政権獲得1924(大正13)年1月22日86年前のことです。この日、イギリスでは、イギリス労働党のマクドナルドを首班とする、初めての労働党内閣が成立をみました。この時は1年足らずの短命に終りましたが、1929年から35年まで6年半の長期政権を担っています。
2010.01.22
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ハイチに贈る (7)1502年にコロンブスが解任された後、新総督として着任したスペイン貴族のオバンドは、ただちに入植者の不満と希望を理解しました。植民者を夫々の領域の領主として承認したのです。この場合、大切なのは、土地は土地だけでは価値を生まず、そこに領民がいてこそ価値を産むという事実です。ましてエスパニョーラ島では、まだ焼農業の段階ですから、定住農業は行なわれておりません。ですから植民者にとっては、土地以上に住民が大切だったのです。オバンドはそこを理解しました。ですから彼は、コロンブスが妥協的に部分的に実施した、タイノ族等の原住民を、「エンコミエンダ」という制度を設けて、植民者たちに分配したのです。この制度は、国王が植民者に先住民を預けるシステムだと、ご理解下さい。先住民を預かった植民者は、国王に代わって先住民を外敵から守る責任と、彼らをキリスト教徒に改宗させる責任を負うのです。そして、そうする替わりに、国王に代わって先住民から貢納や賦役を取り立てることが許されるのです。何のことはない、中世ヨーロッパにおける領主と農奴の関係に、良く似ているシステムです。当然植民者は大喜びでオバンドに従いました。しかし、問題は残りました。オバンドは混乱収拾のために、31艘の大船団に、2,500人ものスペイン人を乗せてきたのです。この大部隊を養う経済的実力は、エスパニョーラ島のタイノ人社会にはありませんでした。その結果は、(5)に記したように、先住民社会の崩壊と先住民の大量死となって現れたのです。先住民の労働力が不足し、金鉱採掘に支障をきたした植民者のスペイン人は、対策を講じることになります。近隣の島々には金鉱は無く、周辺で金が出るのはエスパニョーラ島だけでしたから、近隣の島々の住民を捕らえて奴隷とし、エスパニョーラ島に運んだのです。最初の犠牲はバハマ諸島でした。続いて1508年にはプエルトリコ島、09年にはジャマイカ島、そして11年~14年にかけてはキューバ島が征服され、多数の先住民がエスパニョーラ島に運ばれて、大量死したのです。こうした無慈悲な搾取と先住民の大量死が続いた結果、カリブ海域の島々からは、インディオの姿は消えていったのです。カリブ海域のインディオの犠牲に対し、やがてスペイン人の中からも非難と抗議の声が上がります。オバンド隊の宣教師だったラス・カサスは、1514年にドミニコ会に入会し、以後先住民に対する正当な待遇を求める運動に、障害を捧げたのでした。彼の活動は、カリブ諸島の先住民を救うことは出来なかったのですが、アステカ王国やインカ帝国など、大陸部のインディオの死滅を防ぐ力を持つことは出来たのでした。 続く
2010.01.21
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クロニクル 最初のスキー競技会1912(明治45)年1月21日日本人がスキーを教わったという記録が残されているのは、1911年のことです、その翌年には、早くも競技会が開催されています。そうなんです。98年前になるのですが、98年前の今日、雪深いことで有名な新潟県の高田(私の小学校時代には、日本で最も雪が積もる所と教わりました。現在は直江津と合併して上越市になっています)で、日本初のスキー競技会が開けれました。陸軍の高田駐屯部隊や地方講習員らが参加したそうです。
2010.01.21
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ハイチに贈る (6) 第2回目の航海から、コロンブスがスペインに戻るのは1496年のことでした。そして2年後の98年に第3回の航海に出、最後の4回目の航海は、世紀の変わった1502年のことでした。総督としてのコロンブスの立場は、第2回航海の段階から、入植者社会の中で、時間の経過と共に共に悪化していきました。その事情を記します。スペインにとっての新領土「インディアス」の総督となったコロンブスは、スペイン国王との共同事業の経営者として、先住民との交易や金鉱開発で利益を上げる心積もりをしていました。しかし、その思惑は外れました。現地のタイノ人等が持っていた黄金は、たちまちのうちに種切れとなり、先進的な部族でも、焼畑農業の段階に留まっていた現地人が生み出す、僅かばかりの余剰では、金鉱採掘のための大勢の労働者を養うことは出来ない相談でした。まして入植したスペイン人に食糧を提供するなど、出来ない相談だったのです。この段階の植民地は、経営的には赤字続きだったのです。さすがにコロンブスも、商取引で利益を得るという目標が、実現不可能であることを悟り、力づくで現地人に黄金の拠出や労役を命じたのです。その結果が反抗と逃亡を招きました。この延長戦にあるのが、タイノ人を中心とした原住民社会の崩壊と、大量死に繋がっていったのです。同時に、部下である入植したスペイン人と総督との関係も悪化しました。コロンブスはジェノヴァ人の船乗り出身ですから、交易による莫大な利潤を中心に、思考を組み立てます。しかし、スペイン人の入植者達は、イスラームの土地を切り取り切り取りしてきた、キリスト教徒の征服者の一部です。イスラームの領主から、領民ごと土地を奪い、自分のものとして貢租を取り立てていたことの再現を、彼らは狙っていました。エスパニョーラ島に入植したスペイン人は、こうしたレコンキスタ(再征服運動)の続きと考えて、入植に参加していたのです。ですから、彼らはタイノ人たちの村を、我々に分配しろとコロンブスに迫ったのです。しかし、部下を国王と自分の合弁事業の雇い人と考えるコロンブスは、その要求を不当と考えて受け入れません。当分辛抱してくれの一点張りでした。コロンブスの対応に不満な入植者達は、遂に反乱に訴えます。こうした混乱を経て、コロンブスは1502年、植民地統治の失敗を咎められて解任されたのです。コロンブスの最後が不遇だったというのは、こうした事情をさしています。 続く
2010.01.20
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クロニクル 帝国議会議事堂焼失1891(明治24)年1月20日いきなり、驚かして済みません。議事堂といっても、永田町にある現在の国会議事堂のことではありません。現議事堂の竣工は1936(昭和11)年のことですから、当時はまだ存在していません。計画はあったようですが、財政難から先送りされていたのです。しかし、1889(明治22)年2月11日に、大日本帝国憲法が公布され、翌年12月に国会を開くことが決まりましたから、少なくとも仮の議事堂を建設する必要があります。議論の末に内幸町(現在の霞が関1丁目)の経済産業省庁舎の付近に、仮議事堂が突貫工事で建設されたのです。完成は何と第1回帝国議会召集の前日、1890年(明治23年)11月24日のことだったのです。この仮議事堂が、こともあろうに会期中だった119年前の本日未明に漏電のために出火し、全焼してしまったのです。慌てた政府は華族会館(旧鹿鳴館)を貴族院にあて、東京女学館(旧工部大学校)を衆議院にあて、急場をしのいだのです。その後、昼夜兼行の突貫工事を続け、第2期仮議事堂の建設を急ぎ、同年10月に竣工しせたのでした(第2回帝国議会は11月21日召集)。
2010.01.20
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世界経済の現状 (102)為替相場と言うと、円・ドル関係のみがクローズ・アップされがちですが、ここに来て、円やドルに対しても、ユーロがジリジリと下げてきています。現在は1ユーロが130円を割ってきています。明日スペインへ旅立たれるタックンさん夫妻には、ちょっとした朗報でしょうが、今年はユーロが踏ん張れるかどうかが、もう一つの注目点です。昨年11月のドバイの危機からの連想で、ギリシアの財政赤字が明るみに出され、次なる火薬庫として、PIGSに注目が集まっていますね。順番にポルトガル、イタリア、ギリシア、スペインです。このうち、先ずギリシアが槍玉にあがりました。このギリシアについて、欧州委員会は、ギリシア政府の対応を問題視し、「統計の質が悪すぎる」と批判し、さらに当局の杜撰な体質まで問題視しています。しかし、この批判は、欧州委員会の責任逃れのように聞こえます。欧州委員会やECB(欧州中央銀行)は、ユーロの信認を守るために、各国の財政状況を確認し、場合によっては手を差し伸べたり、勧告をしたりと、様々な介入や救済に動く権利を持っています。それなのに、ギリシアの財政的危機を見抜けなかったECBの監査能力こそが問題ではないのか。今まさに、この点が問われようとしています。特にイタリアは独・仏・ベネルックス3国と並ぶ、EEC時代からの現加盟6ヶ国の1国です。ここの破綻処理は、深刻なユーロ危機に発展する可能性は、かなり高いように思われます。ユーロの動向にも、どうぞご注意下さい。 続く
2010.01.20
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政治を斬る(50)本日「日航」は会社更生法を申請して、倒産しました。と同時に支援機構の管轄化で再建を図ることになりました。国鉄の民営化や、GMの再建手法と似ているといった話も出ています。しかし、どちらとも似て非なるもののように思います。数日前にもデルタ航空との提携話が出ていましたが、話のニュアンスから、支援機構の了解の下で、話が進められているように感じたのは、私の思い込みなのでしょうか。この話が事実とすれば、「日航」は国際線事業を縮小はするが、継続すると読めます。国際線を抱えた形での再生は可能でしょうか。私は「それは無理だ」と考えています。欧州各国は、フランスもドイツもイギリスもナショナル・フラッグは1社です。激しい国際競争の中で、航空業界は生き残りを賭けて、離合集散を繰り返し、行き着いたところが1国1社体制でした。それでも、利益がでないような厳しい競争が、国際間の空の旅を巡って、演じられているのが現在です。日本や欧米に比べて人件費のかなり安い国もまた、ここには参入してきているのです。お公家様商法を繰り返していた「日航」が、こうした激しい競争に耐えられるとは思えないのです。ここは、デルタとの提携ではなく、廃止しない国際線については、「全日空」に売却して、国際線ANA1社体制にする方が、よほど日本の国益に適うように私には思えます。無理して国際線を維持しようとするなど、なけなしの税金をドブに捨てるようなものに思えてなりません。 続く
2010.01.19
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ハイチに贈る (5) 第1回航海の現地残留者39名は、全員が死亡していましたから、これではスペインによる正式な植民地建設とはいえません。それゆえ、コロンブスによるエスパニョーラ島の植民地建設は、第2回遠征隊仁同行した植民者たち200人ほどが上陸して、小屋を建て始めた1494年の1月末をもって、最初の植民地が建設されたことになります。植民者は、ヨーロッパにはないマラリアに悩まされ、水が合わないために下痢をして病気になるなど、かなりの苦労を強いられたのですが、黄金や利益を生む物資を求めて、意気盛んでした。これはタイノ族など、エスパニョーラ島のインディオにとっては不幸なことでした。南北アメリカとカリブ諸島における西洋人による征服事業の全ての手口が、この島の征服に全て現れていました。スペイン人は、優れた武器を持っていたから征服でしたのではありません。当時の火縄銃は飛距離や破壊力にみるべきものはなく、連射も利かないため、連射が利き、毒を塗っているために威力の高いインディオの矢の方が、武器としては優れていたのです。大砲もまた、大音声で脅しに使える点を除くと、石弓とそう大きな差をなかったと指摘されています。それなのに、なぜインディオたちは、スペイン人に屈服することになったのでしょうか。それは後のマヤやアステカの敗退と同じく、インディオたちは共通の敵であるスペイン人に対して、団結して戦うことをしなかったからです。原始的な部族国家の段階に留まるカリブ諸島の住民は、宿敵の部族を倒すためなら、スペイン人に協力することも厭わなかったのです。狡猾なスペイン人は、部族同士が戦うように仕向けることも厭わなかったのです。1495年も後半に入ると、エスパニョーラ島のインディオは、その全てがスペイン人の支配を受けるようになっていたのです。そしてスペインの支配は苛酷極まるものでした。多額な貢物が強要され、抵抗するものは奴隷として売られました。あまりの辛さに、山中に逃亡しても、犬を使って狩り出されることも少なくありませんでした。1492年には、25万人程度だったのではと推定されるエスパニョーラ島のインディオたちは、1508年には6万人程度にまで激減しています。そして、16世紀の50年代には、その数僅か500人弱と、事実上絶滅に近い状態に至ったのです。同じことはバハマ諸島やキューバについても見て取ることが出来ます。この事情をもう少し見て行きたいと思います。 ザビ
2010.01.19
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クロニクル インディラ・ガンディー首相誕生1966(昭和41)年1月19日インディラ・ガンディーは、独立インドの初代首相、ジャワ・ハルラル・ネルーの娘です。ネルー首相は、日本の平和憲法を高く評価し、日本が非同盟主義をとることを望んでいました。それは適わぬ夢に終ったのですが、日本の子ども達の像を見たいという希望を受け入れ、日・印平和条約の締結後に、上野動物園に、アジア像というビッグなプレゼントを贈ってくれたのです。このアジア像はネルー首相の最愛の令嬢の名をとり、「インディラ」と名付けられたことは、ご存知の方も多いと思います。さて、1964年5月末、東京五輪の4ヶ月半前、ネルー首相は急死します。後任首相も2年後に急死し、ここにインド国民会議派は、ネルーの血を引くインディラ・ガンディーを首相に推したのです。こうして、46年前の今日、インディラ・ガンディー女史は、第3代のインド首相の座に就いたのです。
2010.01.19
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政治を斬る(49)しばらく間が開きましたが、「日航」問題の続きです。日航は2006年3月期以降、無配を続けています。赤字会社ですから当然です。しかし優先株というのは、議決権が無く、返済順位が低い代わりに、配当というか利息というかでは優遇されます。普通株は無配でも優先株は社債並みに利息(配当)が付くのです。日航の場合、それが3%でした。2008年に発行された債権のなかでは、大変な高金利です。優先株に3%もの金利を支払うというのは、形振り構わず資金手当てに走ったことを意味していました。庶民が万策尽きてサラ金に駆け込むのと同じ状況に陥っていたのですね。そして、この状況にありながらなお、日航は株主優待を続けました。優待は株主に対する一種の配当です。優待という形で、資産の一部を流出させていたことになります。航空運賃の半額割引券。自ら使わなくてもディスカウントショップで売却も出来ますから、実質的に現金を配ったのと同じです。業績が悪いのに、無理をして配当した企業の経営者は、その企業が倒産した場合、特別背任で訴えられます。日航もまさに倒産なのですから、社長以下の経営陣は、背任の罪を問われてしかるべき立場にあると私は考えます。新経営陣にそこまでの覚悟があるかどうか、見ものです。 続く
2010.01.18
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ハイチに贈る (4) 1493年5月、ローマ教皇の最初の裁定を得たスペイン両王とコロンブスは、ただちにインディアスにおける本格的な植民地建設に向けた準備に入りました。植民地はスペイン両王に献上し、コロンブスが総督兼副王となるというのが、両者の取り決めでした。この第2回航海では、第1回航海の成功を受けて、志願者が殺到しています。ですからコロンブスや遠征の幹部達は、人選に相当な苦労をしています。航海への参加者は、船員の外に兵士や植民者それに布教と伝道のための宣教師(僅か6名でしたが)を含めて総勢1200余名、17艘の大船団が編成されました。この船団が盛大な見送りを受けて、カディスの港から旅立ったのは、1493年9月下旬のことでした。下の絵は出港の模様を描いたものです。船団は、6ヶ月分の食糧、植民に必要な種苗、家畜、道具類も積み込んでいました。船医も乗り込んだ本格的な遠征隊でした。一行は11月初旬には、今日で言う小アンティル諸島に到着し、島々にスペインの旗を立てながら、ヴァージン諸島、プエルト・リコ島を巡って、11月下旬にエスパニョーラ島に到着します。1年前島に残った39名と感激の対面となったのでしょうか。浜辺の崖の上に築いた要塞はもぬけの殻でした。大砲を撃って到着を知らせても誰も現れませんでした。そうなんです。コロンブス提督が旅立った後、居残ったスペイン人たちは、征服者の本能を丸出しにして、多量の貢物を島の部族に次々と要求したのです。こうしたスペイン人の横暴に怒った島中央部の部族がやってきたスペイン人を襲って皆殺しにし、さらに残っていたスペイン人達も皆殺しにしてしまっていたのでした。エスパニョーラ島へのコロンブスの帰還前に、友好的な植民地建設の道は、既に閉ざされていたのです。島内にはなお、スペイン人に友好的な部族もありましたが、スペイン人への猜疑心の方が強くなっていたのです。こうして本格的な植民は、島民との敵対のなかで始まるという、不幸な出発となったのです。 続く
2010.01.18
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クロニクル ドイツ帝国誕生1871(明治4)年1月18日139年前のことになります。日本ではこの年廃藩置県が断行されています。そんな年のことでした。前年の晩夏に始まった普仏戦争(プロイセン<普>とフランス<仏>の戦争)に勝利したプロイセン宰相ビスマルクは、この日占領中のヴェルサイユ宮殿鏡の間にて、プロイセン王ウィルヘルム1世の、ドイツ皇帝への戴冠式を行い、併せてドイツ帝国の誕生を宣言しました。下は、ヴェルナー筆の戴冠式の模様を描いた絵です。中央の白服の人物がビスマルク、壇上の前列左側の人物がウィルヘルム1世です。
2010.01.18
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ハイチに贈る (3) 1492年のコロンブスの第1回航海は、成功裡に終りました。残念なのは、彼の旗艦としてスペインはカディスの港を出港したサンタ・マリア号の設計図や完成図が1枚も残されていないことです。随行したニーニャ号とピンタ号は設計図が残っていますので、現代でも正確な復元が可能なのですが…写りが悪くて恐縮ですが、下に掲載した写真は、コロンブスがスペインのカトリック両王、イサベラとフェルナンドに提出した報告書の中に残されている、サンタ・マリア号のスケッチです。現在いくつものサンタ・マリア号の模型が、なかには実物大の模型も含めて残されていますが、それらは全て、この報告書を元に、作り上げられたものです。帰国したコロンブスは、両王に謁見すると、短期間に報告書を書き上げ提出しています。提督として、彼は航海日誌を記していました(現存しています)し、帰路の航海の最終段階で、報告書の下書きも作っていましたから、この作業は素早く済んだのです。報告書は4ページの小冊子にまとめられ、ただちにローマ教皇の下に届けられます。当時のヨーロッパの政治上の慣習(これが事実上の公法の意味を持っていました)では、新たに見出された土地は、それがヨーロッパにとって未知の土地であることを、ローマ教皇に認定してもらわないと、自領であることを主張できなかったからです。ローマ教皇は同年(1493年)5月には、早くもスペイン両王の主張を認め、アゾレス諸島から西へ318海里離れた子午線に沿って境界線を設け、ここより東の未発見の島々の領有はポルトガルに、同じく西の未発見の島々はスペインに属することを、布告したのです。しかし、この裁定にポルトガルは納得せず、再度の交渉の結果、境界線はヴェルデ岬諸島から西へ1,175海里移動させることで決着したのです。1494年のトルデシリャス条約です。この新しい分割線の悪戯で、ポルトガルはラテン・アメリカにブラジルという大きな地を得る結果となったのです。下図の1番左の線がそれです。見事にブラジルが東側に入っていますね。この時代、大海を渡って海洋の冒険を試み、そうした冒険企業家に資金を提供したのは、スペイン、ポルトガルの両国しかなかったため、ローマ教皇も気楽にお墨付きを出せたのでしょう。そしてそれは、ムスリムの大国オスマン帝国の勢力拡大に対し、キリスト教徒の勢力を維持するために、新たな信者の獲得が不可避だとする、ローマ教会側の焦りとも、密接に関係していたことも事実でした。 続く
2010.01.17
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クロニクル ロサンゼルス大地震1994(平成6)年」1月17日ロスを含むカリフォルニアは地震の多いところです。ロサンゼルス地震も大きなものが何度も起きています。それでも16年前、1994年の大地震はマグニチュード6,8の被害規模の大きな地震でした。それは阪神・淡路大震災の丁度1年前のことでした。朝5時台と通勤時間帯の前でしたので、被害の拡大が防げたのは、不幸中の幸いでした。この地震では、窓ガラスが大量に割れ、市内各地の病院で、窓側のベッドを使用していた患者の被害が多いという特徴が見られました。役所や警察、消防署の窓ガラスも割れており、通勤時間帯でしたら。通行人に大きな被害が出たことが予想されたからです。またもし日中であったら、学校という学校で、相当数の生徒に被害がでたであろうとされています。耐震強度の高いガラスが、以後急速に普及するようになったのは、まさにこのロス地震の副産物でした。
2010.01.16
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ハイチに贈る (2)先ずは、ハイチの位置を確認しておきましょう。日本でもよく知られているキューバから、東へ約80キロの位置、プエルトリコとジャマイカに挟まれた大きな島の西側3分の1がハイチです。下の地図をご覧下さい。上がハイチの地理上の位置を、下が配置のハイチの主要都市などの所在地を示した地図です。ハイチの所在するサン・ドマング島(当時はエスパニョーラ島)は、コロンブス一行が最初の航海で立ち寄っただけではなく、提督のコロンブスが乗船した旗艦のサンタ・マリア号が、1492年の12月24日~25日にかけての夜間に、サンゴ礁に乗り上げ座礁した地です。放っておくと船は沈んでしまいますから、夜明けと共に住民にも手伝ってもらって積荷を下ろし、さらに、船を解体して、この地に小さな要塞を築いたのです。コロンブスはサンタ・マリア号の乗組員から、この地に留まる希望者を集め、サン・ドマング島(=エスパニョーラ島)の一廓に、最初のスペイン植民地の旗を立てたのです。人の良いこの地の部族長もまた、スペイン人の武器に目をつけ、島内の他部族との戦いを有利に進めるために、スペイン人の居住を歓迎したのです。なぜこうしたことが可能だったかと言うと、スペインからインディアスに向かった船団は3艘で、他の2艘、ピンタ号とニーニャ号は無事だったからです。こうしてコロンブスの一行は、39人の仲間(スペイン出発時の乗員は、氏名の分かっているもの87名、不明のもの3名の90名だったとされています)を島に残して、スペインに帰ったのです。残った者たちは、素直な住民達を使って、定住地を探し、この地で広い土地を有した領主になることを、夢見ていたのです。これが、ハイチのみならず、カリブ諸島全体が植民地化される第1歩でした。 続く
2010.01.16
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クロニクル 禁酒法成立1919(大正8)年1月16日91年前ですか。この日アメリカ合衆国で憲法修正第18条の批准が完了し、禁酒法が成立しました。米国では、19世紀半ばから女性を中心に、男性が不健全な酒場に入り浸って、家庭生活に支障をきたしているとして、酒場での禁酒を求める禁酒運動が次第に強力となっていました。その結果メーン州を皮切りに、20世紀初頭までに18の州で禁酒法が制定されていました。第1次政界大戦を契機に、戦時の食料不足を予防するという大義名分が加わり、合衆国全体としての禁酒法制定の気運が強まったのです。州の権限の強い米国では、全国的な禁酒法の制定には、憲法の修正が必要でした。こうして憲法修正第18条が議会に提案され、上院は17年の12月18日に、同案を可決しました。国会を通過した憲法修正条項は、各州での批准を経ないと発効できない仕組みがあり、4分の3以上の州の批准が必要でした。当時の米国は全48州でしたから36州の批准が、禁酒法の発効に必要だったのです。その36番目の州の批准が、この日決定したのです。しかし、禁酒法の実施細則がまだ未決定でしたから、実施細則を別の法で定めた上で、司式に禁酒法が実施に移されたのは、1920年1月からとなったのです。この禁酒法は、酒類の製造・運搬・販売を禁じましたが、家庭での飲酒は禁じていませんでした。そのため富裕層は禁酒法発効前に、たくさんの酒類を買いだめしたといわれています。しかし、飲酒は人類にとって古来からの習慣です。法で禁じたからといって、なくなるものではありません。酒の密造は後を絶たず、隠れた酒類の販売は、ギャング達の恰好の資金源となったのです。こうして禁酒法は、稀代の悪法として怨嗟の的になり、結局1933(昭和8)年2月28日に、憲法修正第18条を廃止するための、憲法修正21条が可決成立して、同年12月15日から実施されました。結局禁酒法の施行期間は13年11ヵ月間でした。
2010.01.16
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ハイチに贈る (1)ハイチが大変なことになっています。政府機関や米大使館、国連の機関などが居住する、現地では頑丈な建物にも大きな被害が出ているのですから、世界最貧国の一つである同国の住民の家屋が無事なはずはありません。首都ポルトープランスは壊滅的な被害に会い、同国は今や存亡の危機にあると、いえるのかもしれません。このハイチは、しかし、19世紀のはじめに、アメリカ大陸とカリブ海の国々の中では、アメリカ合衆国に次いで独立を達成した、しかも初の黒人奴隷達を中心に独立を達成した国としては、世界最初の黒人共和国として誕生した、栄光の歴史をもっています。ハイチ共和国は、コロンブスが最初の航海で探訪したエスパニョーラ島、その後スペイン語でセント・ドミンゴ(サン・ドマング)島となずけられた島の西側3分の1を国土としています。同島の東側3分の2はドミニカ共和国です。明日から、ハイチ革命を中心に、ハイチを激励する1文を綴りたいと思います。 続く
2010.01.15
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世界経済の現状 (101) 米国労働省が8日(日本時間9日)に発表した資料によれば、2009年の1年間で米国の雇用は、非農業部門で416万4千人の減少を記録しました。オバマ大統領は就任時に300万人の雇用を創出すると意っていました。大統領の発言を素直に聞いた米国民は、雇用の枠が300万人分増え、その分失業者が減ると期待したはずです。ところが実際は416万人以上の雇用が失われたのですから、期待値からすると、700万人以上の雇用が減少したことになります。当然ながら、これは元気の出る数字ではありません。この416万人もの雇用の喪失は、米国では過去最悪の数字です。ところで、雇用者数の減少がそのまま失業率や失業者数の増加に繋がるわけではありません。失業者とは、職を探している失職者です。職探しをしない人、その多くは職探しを諦めてしまった人なのですが、そういう求職活動を放棄してしまった人は、失業者にはカウントされないのです。再就職を当面諦めてしまった失職者を除いた数字で、失業率が10%もあることが問題なのです。しかも、失業率をカウントする際に、月に1日でも半日でも仕事をして時給を得た人は、失業者ではなく、有職者にカウントされる事実を知る必要があります。失業率調査では、定期的に働いて、一定の賃金を受け取っている人と、不定期労働で不規則に労賃を得ている人が、同じ有職者に数えられれているという、問題点があるのです。このため、総人口当たりの雇用者数比率を算定して、雇用がどのくらいの水準にあるか、どのくらい深刻な状態なのかを、考えるエコノミストやアナリストが増えてきているのです。そして、この人口当たり雇用者数比率も、2001年の64,5%強から、昨年10月には58,1%にまで下降してしまっているのです。 続く 続く
2010.01.15
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政治を斬る(48) 2008年6月の優先株の割当先の15社の名を、昨日の(47)に出しました。日航に融資している金融機関を除くと、全てが機材や燃料の納入先です。ここから次のようなことが見えてきます。金融機関は貸し倒れを恐れて株式を引き受け、燃料や機材を納入している商社(実は商社も燃料を扱っています)や石油元売は、納入実績を確保する必要から、実績に応じた割当に応じざるを得なかったということでしょう。だからこそ、日航と国土交通省は、会社更生法の適用に最後まで抵抗したのでしょうね。「国の支援で絶対に倒産させないから…」程度は、担当局長が各社の経理担当重役にしっかり耳打ちしていただろうことが、透けて見えるようです。これは立派な押し付け販売です。本来東証のルールでは、こうした利益相反は禁じられています。ルールが事実上無視されている現実が、白日の下にさらされているにも関わらず、東証は何も注意しませんでしたし、投資家に問題があることの告知すらしませんでした。詳しい事情を知らない民間人なら、これだけの大企業が揃って優先株を引き受けるのだから、日航は立派に再建できると、当然考えてしまいます。ところが、この増資にはさらに裏がありました。日航の発行した「第三者割当優先株発行に関する目論見書」には、普通株への転換価格が書かれています。普通株への転換は2012(平成24)年3月17日以降に可能になる(それまでは禁止)のですが、それ以降は、毎年3月17日の株価によって、転換価格を見直すとしているのです。当初転換価格は1株250円なのですが、下限修正価格の125円(当初価格の50%)までは、株価の値下がり分だけ、転換価格を下げるというのです。これは下方修正条項付きの転換社債、悪名高いMSCBの手法と同じです。MSCBは、この仕組みにしないと資金調達が出来ない、倒産寸前の企業が悪あがきで駆け込む資金調達法なのです。MSCBで検索していただくと、この手法の問題点を丁寧に説明したサイトがいくつも出てきます。MSCBを受けるのは、外資が多い(UBSやゴールドマンサックスは常習です)のですが、ひきうけたMSCBを担保に、当該会社の株を借りて空売りを仕掛けます。こうして株価が下がったところで、MSCBを下限価格で転換して(当然、当初価格より入手できる株数は多いのです)、現物で返済すると、買戻しによって株価が上昇してしまう危険も避けられますから、売った値段と下限で転換した価格との差額が、利益になるのです。日航の場合、転換開始以前に株式価値はゼロになりましたが、原理としてはこの手法で、資金手当てをしていたことになります。つまり、このシステムを受け入れた日航や、日航を監督していた国土交通省、そして幹事証券の野村とGS、そして目論見書を受理した東証は、こうした事実を知っていたことになります。しかし、日航の優先株増資が下方修正条項付きであることは、一般には何の説明もされませんでした。これは、まさしく一種の詐欺行為と言えましょう。 続く
2010.01.15
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クロニクル 双葉山70連勝ならず 1939(昭和14)年1月15日71年前のことになります。この日は大相撲初場所4日目でした。1936(昭和11)年1月場所の6日目に、横綱玉錦に敗れてから連勝を続け、前日まで69連勝を続けていた横綱双葉山が、この日新小結安芸の海に敗れ、70連勝はなりませんでした連勝の始まった1936年当時、大相撲は1場所11日間でした。場所も1月と5月の年2場所でした。これが37年5月場所から13日間となり、双葉山の連勝が止まった翌場所の39年5月場所から、1場所15日間となって、今日に至っています。連勝の始まった36年1月場所、双葉山は9勝2敗で関脇に昇進、新関脇の同年5月場所で11戦全勝で初優勝、1場所で大関に昇進します。翌37年1月場所も11戦全焼、5月場所は13戦全焼で、3場所全勝優勝を飾り、場所後に横綱に推挙されました。18年1月場所、5月場所を共に13戦全勝で5場所連続全勝優勝を飾り、36年1月場所の7日目からの連勝は、5,11,11,13,13,13となって66連勝となり、約150年振りに谷風の63連勝の記録を塗り替えたのでした。39年1月場所は、前年秋の満州巡業時に赤痢に感染して体調不良で、激減した体重も戻らず調整不足でしたが、横綱の責任感から強硬出場し、4日目のこの日安芸の海に屈し、連勝が途切れたのでした。勝った安芸の海に対し、師匠の出羽の海親方は、勝って騒がれるのではなく、負けて騒がれる力士になれと諭したという逸話が残っています。安芸の海は教えを守り、4年後の43年に横綱に昇進しています。
2010.01.15
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政治を斬る(47) 昨日「日航」のことを少し書いたのですが、今朝の日本経済新聞5面に日本航空の更正法申請による法的整理に関係して、2008年の第三者割当増資のことが出ていました。昨日の私の記述に、少なくとも2008年度は配当を実施様していたかのような表現がありますが、これは私の間違いで、日本航空は2004年3月期に無配に転落、05年3月期に4円配当に戻しましたが、これを最後に、06年3月期からは、ずっと無配を続けています。問題は、無配を続けながらも、本来は配当と同じ意味を持つ株主優待券(運賃の半額割引券)を発行し続けていたことにあります。日経新聞の記事は、優先株による第三者割当増資の時期を、08年3月としている点を除けば、割当先、割当金額については、おおむね正確です。ただし、増資の時期は08年3月ではなく、約6億株の優先株を発行する旨を、取締役会で決議したのが3月であっても、実際に14社を対象とした第三者割当で、6億1千4百万株の優先株を1株250円で発行し、1535億円を調達することが、日航本社から正式に発表されたのは、6月29日なのです。引き受け金額は、日経新聞を見ていただくとして、みずほコーポレート銀行、政策投資銀行、三菱東京UFJ銀行、三井住友銀行、UBS銀行といった金融機関、三井物産、双日、住友商事、丸紅、伊藤忠商事といった商社、出光興産、ジャパンエナジー、新日本石油、コスモ石油といった石油元売で計14社です。このうち、UBSの引き受け分のうち、6割はその後UBSの危機に際して三菱商事が引き取っていますから、取引金融機関5社、取引商社6社、燃料元売4社と、中核的な取引先に頼み込んで、引き受けてもらった構図がみえみえの増資でした。当時の新聞を取り出せば、明らかになる事柄について、なぜ3ケ月も遡らせる間違いを犯したのでしょうか。これは、今朝の日経の記事の後半部分に関係があります。日経は日航を庇ってのことか、それとも国土交通省とグルになってのことか、「しかし、夏以降の世界的な金融危機で、日航の業績は急激に悪化し、業績の回復は果たせなかった」と言った主旨のことを、書いています。まるで、4月から7月頃までは無風だったかのように…。この時期、危機は刻々と進行していたことは、私のブログにも書いてありますから、この日経の記事は、当時の日経紙の記事からも、そのまま信じることが出来ない記事なのです。再生機構の調査によって、日航の債務超過は5000億円以上とされていましたが、精査の結果9000億円近くに達しそうだと、指摘されています。これだけ膨大な債務超過に、僅か1年少々で達するとは考えられません。つまり、少なくとも2008年6月の増資(優先株の発行)は、債務超過を知りながら、その事実にクチをつぐんで発行した可能性が、極めて高いということです。そして、ご丁寧にも日航は、08年6月29日の記者発表で、優先株増資と同時に、2010年度までの中期経営計画に基づく利益計画を、370億円から530億円に増額修正すると発表しているのです。債務超過の事実を隠蔽し、さらに実現不可能を知りながら、架空の利益計画を増額修正という形で発表しているのです。これはおそらく、日航だけの知恵ではなく、国土交通省の当時の権威を背景に、日航の優先株増資の共同主幹事を務めた、野村證券とゴールドマン・サックスの入れ知恵によるものでしょう。08年当時、日航は既に債務超過に陥っていた。それを知りながら、野村もゴールドマンも、国土交通省がバックにあるからと、日航の実態に目を瞑り、虚偽の決算書類といい加減な中期計画に基づく増資の片棒を担ぎ、東証もまたそれを認可していたのです。この構図は、97年から98年の日本の金融危機に際して、大蔵省が回した奉加帳方式と実に良く酷似しています。日本の官僚機構と、官僚機構に保護された業界は、何度同じ間違いを繰り返せば済むのでしょうか。この際、再生機構には、日航の再建だけでなく、日航に絡んだ巨悪の一切を暴き出してほしいものです。それが出来るなら、本来は野垂れ死にが相応しい日航への、税金投入も意味あるものになるのですが… 日航問題 続く
2010.01.14
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成人式ブログ仲間のカリフォルニアのマダム・リンダ(お年は、最果ての地にお住まいの「宗谷のアザラシ」とお仲間で、私の頭の上がらない姉と同世代の方)から、成人式のいわれについてお尋ねがありましたので、かいつまんで記します。かつて日本には、村ごとに、或いは集落ごとに青年団があり、夫々に独自に入団年齢や入団の儀式がありました。共通するのは、入団と同時に酒を飲むことが解禁となったことでしょうか。ただし、ここでは男女は全く別扱いで、女性は女性だけの女子組でした。現在のような成人式のルーツは、敗戦翌年の1946(昭和21)年11月22日に、埼玉県北足立郡蕨町(現蕨市)で行われた「青年祭」でした。敗戦により虚脱の状態にあった当時、次代を担う青年達を励まし、希望を持ってもらおうと考えた蕨町の青年団が、団長を主催者として「青年祭」を企画したのです。会場となったのは、当時の蕨第一国民学校(現在の蕨市立蕨北小学校です)でした。この青年際のプログラムの第一部として、校庭に張ったテントで「成年式」が行われたのです。この催しを新聞やラジオが報じたことから注目が集まり、全国各地に「成年式」が広まりって、現在のような成人式に繋がりました。蕨市では現在も「成年式」と呼んでおり、1979(昭和54)年の成人の日には市制施行20周年、成人の日制定30周年を記念して、市内の蕨城址公園に「成年式発祥の地」の記念碑を建立しています。蕨市の「青年祭」に影響を受けた国は、1948(昭和23)年に公布・施行された祝日法により、「おとなになったことを自覚し、みずから生きぬこうとする青年を祝いはげます」ことを趣旨として、翌1949年から1月15日を成人の日とすることを決めました。この日が戦前の全国一斉徴兵検査の日だったからです。以後ほとんどの地方で、成人式はこの日に行われるようになったのです。その後、1998(平成10)年の祝日法改正(通称:ハッピーマンデー法)に伴って、2000年より成人の日は1月第2月曜日へ移動したのです。
2010.01.14
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クロニクル 中央大学教授刺殺事件2009(平成21)年1月14日昨年の今日の話です。報道によれば午前10時15分頃のことだそうです。東京都文京区の中央大学後楽園キャンパスんの1号館4階男子トイレで、理工学部の高窪統教授が刃物で胸や背中、腹などを刺されて倒れているのが発見されました。高窪教授は同日午前11時30分頃に搬送先の病院で死亡しました。死因は背中、胸、腹の刺し傷による失血死でした。傷は体の上半身を中心に40ヶ所に上り、両腕には攻撃を防ぐ際についたとみられる傷もあったそうです。現場のトイレ近くで目撃された「30才くらい、ニット帽をかぶった黒いコートの男性」が犯人像として浮上しました。高窪教授は、授業に趣く際にトイレに立ち寄る習慣があったこと。学内それも研究室棟のトイレを犯行場所に選んでいることなどから、教授を良く知る学内関係者や卒業生を中心に捜査が進められ、同年5月21日、高窪教授の遺体の手の爪に残っていた微物のDNAが一致したため、28歳の男性が殺人容疑で逮捕されました。被疑者は同大理工学部卒業生で、高窪教授の教え子でした。
2010.01.14
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