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クロニクル 赤穂浪士吉良邸に討ち入り1703年1月30日(元禄15年12月14日) 今日は、12月14日ではありません。そうなのですが、317年前の今日こそが、大石内蔵助ら赤穂の47人の浪士たちが吉良邸に討ち入り、本懐を遂げた日です。12月14日は旧暦での日付、太陽暦では1月の30日です。ですから、真冬の寒さの中、大雪の日の深更だったことも、そうだろうなと実感をもって受け止められますね。ただし、大雪の討ち入りは、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の創作で、実際のこの日は、冷え込みの厳しい星空だったというのが、真相だったようです。そして、深更とされる現実の討ち入りは、今の時刻で言うと、日付の替わった31日(12月15日)の午前3時から4時の間のことでした。ただし、こちらは当時の習慣が、明六つから1日が始まるとしていたことから、討ち入りは12月14日(西暦1月30日)のままとされています。
2020.01.30
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クロニクル 南極に昭和基地建設1957(昭和32)年1月29日63年前のこの日、第1次南極観測隊は、南極大陸のリュツォホルム湾に上陸、その地を昭和基地と名付けました。 昭和基地は2月6日に完成。西堀栄三郎越冬隊長以下、16名が越冬のため、カラフト犬らと共に昭和基地に残りました。この翌年の第2次観測隊は吹雪のため、接岸出来ず、第1次越冬隊員を辛うじてヘリで救出するのがやっとだったため、極寒の南極の地で苦楽を共にしたカラフト犬らは、置き去りにされました。 昨今の基地は建物も多くなり、床暖房に専任のコック氏も常駐する比較的快適な住まいとなっていると言いますから、燃料節約のため、夜はストーブを切って寝袋にくるまって寝ていたという当時とは雲泥の差があるようですね。しかし、63年前の建物が、南極のブリザードに耐え、今日も現存しているというのですから、立派です。 因みに63年前の春の甲子園の優勝校は、ノーワインドアップ投法の2年生エース王貞治投手兼4番打者を要する早稲田実業高校でした。この早実に決勝戦で敗れたのが、私の疎開先だった桐生の桐生高校でした。
2020.01.29
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クロニクル レゴ・ブロックの特許出願1958(昭和33)年1月28日レゴ・ブロックご存知ですよね。あのレゴ・ブロックの基本構造に関する特許が出願されたのが、62年前の今日でした。出願者はレゴ社のゴッドフレッド・クリスチャンセンさんでした。レゴ社はデンマークの玩具会社です。レゴ・ブロックは、60年代半ばから徐々に売り上げを伸ばし、70年代に大きく飛躍して今日に至っています。 我が家にも、かなりの量がありましたが、今はは甥の子どもたちが使っています。
2020.01.28
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クロニクル アポロ1号炎上1967(昭和42)年1月27日53年前になります。アポロ1号は、2月21日に宇宙に飛び立ち、地球を回る軌道に打ち上げられる予定になっていました。そしてこの日も打ち上げに備えての訓練が、機内で行なわれていました。そのアポロ1号が、訓練中の事故で炎上し、船内で訓練中の3人の宇宙飛行士が死亡したのです。船長のバージル・グリソムさん、パイロットのエドワード・ホワイトさん、そして同じくパイロットのロジャー・チャフィーさんの3人です。
2020.01.27
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クロニクル 日本で最初のパーキングメーター設置1959(昭和34)年1月26日1959年は、4月に当時の皇太子(昨年退位された平成天皇)の婚儀を控えた年でした。4月10日の婚儀の後の、都内のメインストリートでの馬車パレードは、沿道の大勢の皆さんもにこやかで、ゆったりとのどかな雰囲気に溢れていました。当日は臨時の祝日でしたから、自宅でノンビリとパレードの全行程をテレビ(当然当時は白黒テレビです)桟敷で、見学させてもらいました。そうです。当時の日本は、各地で渋滞こそ起きるようになっていましたが、まだ今のような車社会ではありませんでした。しかし、都心部ではさすがに駐車スペースが不足し、長時間の路上駐車の締め出し作戦が考えられることになりました。こうして考え出されたのが、路上パーキングの構想でした。都心部の一部道路上に、パーキングメーターを備えた駐車スペースを設けて、時間でいくらという料金を徴収することで、駐車時間を短くしようとしたわけです。この計画は短時日の内に実行に移され、61年前のこの日丸の内と日比谷の2ヶ所に設置されました。
2020.01.26
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クロニクル ブット首相出産1990(平成2)年1月25日30年前のこの日、パキスタンのベナジル・ブット首相(出産時36歳)が女の子を出産しました。現職首相の出産は、世界初のことでした。 彼女は、元首相で父のアリー・ブット氏が創設したパキスタン人民党(PPP)の2代目党首として、88年の選挙に勝ち、首相の座についていました。その後、政権を追われたり、首相として再起したりと、波乱の人生を送りますが、3度目の首相への返り咲きかと思われた2007(平成19)年12月27日、イスラマバード郊外での選挙集会において、反対派のテロにより暗殺されました。54歳でした。 彼女はイスラム圏で最初の女性首相として知られますが、汚職体質にまみれており、残念ながら、あまり高い評価を与えることはできない政治家でした。
2020.01.25
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クロニクル ザ・タイガース解散コンサート1971(昭和46)年1月21日1960年代後半は、グループサウンズの全盛期でした。ブルー・コメッツ、スパイダース、タイガース、テンプターズなどなど、次々に人気グループが登場、今も歌われるヒット曲が数多く誕生しました。タイガースにはジュリーとトッポ、スパイダースにはマチャアキとジュン、そしてテンプターズにはショーケンと、人気のヴォーカリストも揃っていました、しかし、グループ・サウンズの絶頂期は短く、60年代の終わりと共に、急速にGSブームは下火となり、中心メンバーたちも、個人として活動するようになって、解散するグループも多くなりました。こうしてザ・タイガースも、1970年末に解散を表明、49年前の今日、武道館で開かれたコンサートを最後に、解散しました。 個人的な好みで言えば、タイガースの曲では、トッポが独特の高音でメーン・ボーカルを務めた「花の首飾り」が、お気に入りです。
2020.01.24
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クロニクル 雪印食品の牛肉偽装事件発覚2002(平成14)年1月23日18年前の出来事です。この日、雪印食品の牛肉偽装事件が発覚しました。前年9月に国内初のBSE感染牛が千葉県で見つかり、感染を怪しまれる牛の食肉は、政府が買い上げ処分する措置が取られました。 雪印食品は、この制度を悪用し、単価の安い売れ残りの輸入牛を国産と偽り、国に買い取って貰っていたことが発覚したのです。この事実を知った国民の反発は強く、雪印食品は、翌月22日に、会社解散に追いこまれました。 目先の利益確保に追われ、最も大事な仕事上の信用を失ってしまったからです。それにしても同じような過ちを繰り返すケースが多いのは、どうしたことなのでしょう。
2020.01.23
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日本のスキー事始め昨日のクロニクルで、スキーの話題を取り上げました。レルヒ少佐をご存知の方もいらっしゃいましたし、ご関心が高いように感じましたので、日本でのスキー誕生のいきさつを簡単に記します。スキーの誕生日本のスキーの生みの親は、オーストリア人のレルヒ少佐です。少佐は、オーストリア軍の冬季の移動や行軍にスキーを導入した人物として知られた人です。 オーストリアは、日露戦争(1904~05年)に勝利した日本陸軍を間近で研究したいと、交換将校の派遣を日本に提案してきました。ちょうど日本も、日露開戦に備えた準備として行った八甲田山での雪中行進で199名もの死者を出していたことへの反省から、スキー技術の習得の必要を強く意識していたことから、交換将校としてレルヒ少佐の派遣をオーストリアに要請、彼の来日が実現したのです。 来日したレルヒ少佐は、当時日本で最も雪の深い地方であった、新潟県高田の第13歩兵師団へ出向き、当地で歩兵第58連隊の14名のスキー専修員を対象に、スキー技術の指導を行いました。日本におけるスキーの始まりは、軍事的要請に基づき、まず陸軍に導入され、やがて民間に普及する形で進んだのです。 レルヒ少佐は、1本ストックと2本ストックの両方の技術を習得していたことから、雪質が重く急斜面が多い高田では、1本ストック有効と判断し、1本ストックで滑る技術を伝授しました。 ところで、高田から数年遅れてスキー技術の伝授を受けた札幌など北海道では、ノルウェーから伝来した2本ストックで滑る技術が導入されたのです。その後の競技会などでは、2本ストックの選手が上位を独占したため、2本ストックが急速に普及し、1本ストック方式はすたれてしまいました。
2020.01.22
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クロニクル 最初のスキー競技会1912(明治45)年1月21日 今日の首都圏は寒かったです。良く晴れていましたが、北風がピューピュー。本日は雪にまつわる話題です。日本人がスキーを教わったという公式の記録が残されているのは、1911年のことです、その翌年には、早くも競技会が開催されています。そうなんです。108年前になるのですが、108年前の今日、雪深いことで有名な新潟県の高田(私の小学校時代には、日本で最も雪が積もる所と教わりました。現在は直江津と合併して上越市になっています)で、日本初のスキー競技会が開かれました。陸軍の高田駐屯部隊や地方講習員らが参加したそうです。
2020.01.21
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クロニクル イラン米国人人質解放1981(昭和56)年1月20日39年前のこの日、イランの学生達は、政府の説得に応じて駐イラン米国大使館の占拠を解き、52人の米国人人質を解放しました。 占拠は79年の11月4日から続いていましたので、解放された外交官らは実に444日振りに解放されたことになります。この444日の間に解放されたのは、体調を崩して入院加療が必要と判断された数名に留まっていました。 後日談になりますが、この解放の裏には、イラン・イラク戦争の継続に兵器を必要としていたイランに、米国政府が武器の密売を確約するという裏取引がありました。それも敵対するイランに、ストレートに売るわけにいきませんので、中米ニカラグアの反政府ゲリラを支援する名目の兵器を、イランに横流しし、ニカラグアのゲリラには代金を資金として提供すると言う、手の混んだ芝居をしていました。後に明らかになったイラン・コントラ事件です。
2020.01.20
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クロニクル 社会党第一次分裂1950(昭和25)年1月19日70年前になります。この日、社会党は路線問題をめぐる対立から、左右両派に分裂しました。少数派の右派は片山哲元首相を委員長に選出、多数派の左派は委員長を空席にして、鈴木茂三郎を書記長に選出しました。この時の分裂は、およそ2か月半後の4月3日に再統一となりました。前年12月に、全面講和、中立堅持、軍事基地反対の平和三原則を決定していたのですが、右派は独立が先決であるから、単独講和でも受け入れられないわけではないとの立場をとり、左派とは一線を画していたのです。 平和三原則は、翌51年1月の党大会で再軍備反対を加えた平和四原則に拡充され、ここで左派の鈴木茂三郎を委員長に選出しました。しかし、政府が西側諸国中心の単独講和を次善の策として推進し、同時に日米安全保障条約を結んだことを巡って、絶対反対の左派と、条件付容認の右派とは再び対立が再燃します。ここに10月24日、臨時党大会を開いた社会党は、再び左右両派に分裂したのです。今度は簡単に元に戻ることは出来ず、再統一は1955年秋のことになります。ここでは憲法改正絶対阻止という理念の前に,小異を捨てて大同に点くことになったのでした。あの頃の社会党は元気がありましたね。それが今では… 社会党の後身の社民党は今や解党目前、社会民主政党の後継の座は、立憲民主党が引き継ごうとしているようにも見えますが、弱者救済を力強く進めていくには、いまだ力不足のように思えてなりません。
2020.01.19
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クロニクル 市営バスの登場1924(大正13)年1月18日96年前の今日、東京市で日本初の乗合いバスの運行が始まりました。 前年の9月1日が関東大震災でしたから、震災から約4,5ヶ月で実現したことになります。そうなんです。関東大震災の影響で、東京の各所で運行されていた、路面電車の軌道があちこちで破壊され、回復には相当な時間が必要であると判断されたため、急遽市民の足を確保するためにと、計画されたのです。 震災から1ヶ月半が経過した10月16日、東京市議会は乗合いバスの運行計画と、そのために必要な予算200万円(現在価値で約36億円)を承認し、直ちにアメリカのフォード自動車に、乗合いバス車輌1千台を発注したのです。この注文車輌の第1弾として、11人乗りの車輌44台が到着、この日の運行開始となったのです。 運行は、巣鴨~東京駅間の巣鴨線と、中渋谷~東京駅間の青山線の2系統でした。運賃は10銭(現在の価格に直すと、およそ180円になります)均一でした。それから2ヶ月後の3月16日、当初予定された20路線全てが開通し、総路線距離は148kmに達しました。こうして不慮の事故から急遽登場した乗り合いバスは、市営電車を代替する役割を果たしました。 東京における乗合いバス事業の成功から、次第に全国各地の都市でも乗り合いバスが運行されるようになっていきました。
2020.01.18
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クロニクル 禁酒法施行1920(大正9)年1月17日100年前ですね。第一次世界大戦が終了して1年少々が経過した時期の米国の話です。前年10月28日に成立した合衆国憲法修正18条(別名禁酒法)が、この日発効しました。 禁酒法と呼ばれますが、この法は飲酒そのものは否定していません。ただし、酒類の製造、販売、輸送、そして輸出入の一切が禁止されました。酒屋や飲み屋は禁止ですね。このため、前日の16日は、なるべく沢山の酒類を自宅へ運ぼうとする車で、深夜までにぎわったそうです。しかし、この法は、字義通りの禁酒が実行されたかどうかという点でみると、明らかに効果の薄かった法に留まっていました。大都市ではもぐりの酒場が、多数営業を続けていました。アル・カポネが率いるシカゴ・シンジケートなど、ウィスキーの密輸と密売で巨額の富を得たギャング団が、幅を利かせたのも、このときでした。それでもこの法は、他方で、節約と勤勉を旨とし、敬虔であることを重んじるプロテスタントの価値観を、アメリカ社会の倫理的規範とする運動の政治的シンボルの役割を果たしました。こうして、20年代のアメリカで、禁酒法は、中産階級以上の人々から、なお幅ひろい支持を受けていたのです。この禁酒法、32年の大統領選で、ニュー・ディール政策を掲げて勝利したフランクリン・ローズヴェルトが、実は禁酒法の廃止も公約に掲げており、先ずはビールとワインを解禁、さらに憲法修正第18条を無効とする修正21条を制定することで、禁酒法と呼ばれる修正第18条は効力を失って今日に至っています。
2020.01.17
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クロニクル Jリーグ初代チャンピオン決まる1994(平成6)年1月16日 今年のアジアカップは残念な結果に終わりましたが、初戦のサウジアラビア戦を見ていて、海外勢のほとんどいないいないチームに、ギラギラした覇気が感じられず、バックパスばかりが目立つ姿に、内心このチームではだめだなと思って、観戦を途中で打ち切りました。どうしたんでしょうね。前に前にという戦う姿勢が見られないのでは、様になりません。A代表は、アジア予選を勝ち抜いて、このところワールドカップに出続けているのに…です。若手に欠けているのは闘争心のように思われます。ところで、その日本代表ですが、日本代表がワールドカップ出場国の常連になるなんて、20世紀の頃には、遠い夢だったのですから、日本サッカーの進歩は大きいですね。プロサッカーリーグ、Jリーグを頂点とする育成システムの成果が、現れてきたのでしょう。嬉しいことですね。さてそのJリーグ、1993年に発足、参加10チームで1年目がスタートしました。チーム数がまだ少なかったので、前期、後期の2部制として、夫々が全チーム2回総当りの18試合で優勝チームを決め、最後に年間チャンピオンシップを行なって、総合優勝チームを決める方式をとりました。こうして、94年の1月に入って、前期優勝チームの鹿島アントラーズと、後期優勝のヴェルディ川崎によって、チャンピオンシップが戦われ、26年前のこの日、ホーム・アンド・アウェー方式の戦いの2試合目が行われました。結果は2試合合計3対1で、ヴェルディ川崎が初代チャンピオンに輝きました。そのヴェルディ川崎、プロ野球方式に固執する読売グループが、Jリーグに対する横槍を拒否されて、つむじを曲げて手を引いた結果、弱小チームに成り下がり、東京ヴェルディとなった現在は、J2に降格した2009年以降、一度もJ1に復帰することなく、J2の常連に成り下がったままとなっています。常に上位で活躍している鹿島アントラーズとは、天と地ほどの差がついてしまっています。残念でなりません。
2020.01.16
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クロニクル スロベニアとクロアチアの独立1992(平成4)年1月15日あれから28年になるのですね。28年前のこの日、欧州共同体(EC)は、前年6月にユーゴスラヴィアからの独立を宣言していた、スロベニアとクロアチアの独立を承認しました。 第1次世界大戦後に南スラヴ系諸民族の連邦国家として成立したユーゴスラヴィアは、民族のルツボと呼ばれたほど、諸民族が混住するモザイク国家だったのですが、第2次世界大戦後はドイツとイタリアのファシズムに対し、共に戦ったパルチザン体験と、そのパルチザン闘争の中で登場したチトーというカリスマ指導者の存在によって、連邦への求心力が保たれておりました。 しかし、スロベニア人が91%強を占めるスロベニアを除けば、クロアチアでのクロアチア人の比率は75%に留まり、モンテネグロは69%、マケドニアは67%、セルビアは66%と中心民族の構成比率は下がり、ボスニア・ヘルツェゴヴィナに到っては、ムスリム人(イスラム教徒は、ここでは独自の民族として認知され、ムスリム人と称されていました。西欧世界ではユダヤ教徒をユダヤ人と称して差別しましたが、ここでは西欧流とは異なり、民族としての対等の権利を付与するための措置でした)41%、セルビア人32%、クロアチア人17%となっていました。スロベニアを除けば、民族の混住はこのように著しかったのです。そのため連邦を構成する各共和国は、義務教育段階から、統一言語による国語教育を実施せず、諸民族言語による教育を是認していたほどでした。それは連邦の維持を目的としたものでもありました。しかし、80年にはチトーというカリスマが死去、パルチザンの記憶も戦後35年という歳月の流れの中で風化してしまいます。折りから第2次石油ショックによる深刻な経済危機からの脱却も適わず、ここに、西欧に近く連邦内経済先進地域であったスロベニアとクロアチアは、貧困地域への税による富の再分配を嫌い、連邦からの独立を希求するようになっていきました。独立宣言はその結果でした。 民族混住が問題化しないスロベニアは問題がないのですが、クロアチアには、セルビア系住民が人口の12%(約60万人)を占めていたため、クロアチア民族主義者による圧力を受けた弱い立場の人達が、セルビアに保護を頼み、クロアチア内戦(クライナ問題)が発生しました。 内戦は国連の仲介により、クライナ地方に国連保護軍を展開することで小休止となり、この日、EC(ECがEUとなるのは、この1年後の1993年です)はドイツの強い主張を受け入れる形で、スロベニアとクロアチアのユーゴスラヴィアからの独立を承認したのです。クロアチア内戦の過程と、このECによる独立承認の結果、緩やかな連邦だったユーゴスラヴィア内各共和国の独立志向は強まり、やがて全ての共和国が独立を宣言するに到るのです。こうして、旧ユーゴスラヴィア諸地域における内戦は93年から激化する、あの凄惨なボスニア内戦に移ってゆきます。 旧ユーゴスラヴィアの諸地域における情勢の推移を十分把握せずに、独立承認を急いだECの責任、特にECの議論をリードしたドイツの責任が極めて大きかったことを指摘しておきます。
2020.01.15
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クロニクル 自民・自由連立内閣誕生1999(平成11)年1月14日21年前のこの日、自民・自由両党が連立政権を組む事で合意、自由党幹事長の野田毅が自治相として入閣し、小渕恵三改造内閣が発足しました。この連立は、やがて自由党を仲立ちとして、公明党をも連立政権に取り込むことに成功、10月には自・自・公3党の連立に発展しました。 自民党は、小沢自由党を介在させることで、公明党との連立に道を開きました。この自公連立は今に続くわけですが、小沢自由党は民主党に合流、民主党は2008年に一度政権を握りましたが、統治能力の欠如をさらけ出す結果に終わり、その後は自民党の独走を許したまま、何もできない情けない政党に堕して分裂、自ら政権から遠ざかっているようにすら見える状態です。小沢グループもまた見る影もない少数グループに落ち込んでしまっています。 野党勢力にカリスマ性のあるリーダーが欲しいところです。
2020.01.14
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クロニクル 日劇ダンシングチーム初公演1936(昭和11)年1月13日84年前のことです。前年9月から選ばれてショーダンサーとしてのレッスンに励んでいた、日劇ダンシングチームのメンバーが、この日初舞台を踏みデビューしました。演目は「ジャズとダンス」。 日劇ダンシングチーム(NDT)と名乗ったのは、6月の第4回公演からです。公演は好評で、一時は大変な人気を呼んだのですが、その後次第に客足が遠のき、1977(昭和52)年4月公演をもって、定期公演を終了、81年2月の日劇の閉館と共に解散しました。 歴代のメンバーには、谷桃子、丹下キヨ子、北原三枝(石原裕次郎夫人)、根岸明美、中田康子など、各方面で活躍した方たちがおりました。
2020.01.13
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クロニクル 桜島大噴火1914(大正3)年1月12日 最近、火山活動の活発化が進んでいるようで、噴火の情報が多いですね。そんなわけで、今日のクロニクルは、火山の噴火の話にしました。106年前の出来事です。この日、桜島が大噴火を起こし、大量の溶岩が噴出しました。溶岩噴出の勢いは凄まじく、逃げ遅れた人を中心に、35人の命が失われました。 桜島が大隈半島と陸続きになったのは、この大噴火の結果でした。まだ106年しか経っていないとは、意外と最近のことだったのですね。
2020.01.12
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クロニクル 百円札発行1930(昭和5)年1月11日90年前ですね。この日、聖徳太子の百円札が誕生しました。太子の千円札が発行されるのは1950〈昭和25)年ですから、この日の20年後になります。 高校時代の教頭先生は、昭和14年に教員として赴任されたそうですが、そのときの初任給が、65円だったと話してくれました。国語の時間で、漱石の『坊ちゃん』を取り上げていた時でした。 給料袋に当時の最高額紙幣が1枚も入らなかった時代だったのですね。それでも、65円は新卒教員には、使いきれない額だったのだそうです。当時の100円、現在の38万円ほどになるのだそうです。
2020.01.11
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クロニクル 「もしもし、こちらニューヨーク」1927(昭和2)年1月7日93年前の出来事です。「もしもし、こちらニューヨーク」と妙なタイトルをつけましたが、実は93年前の今日、ニューヨークからロンドンへ、史上初めて、太西洋を越える国際電話が通じたのです。これが、国際電話の事始でした。それにしても、「もしもし、こちらニューヨーク」といきなり呼びかけられたロンドンの受け手は、さぞ驚いたでしょうね。それとも冗談だと思ったのか。どちらだったのでしょうね。御存命なら聞いてみたいところです。 固定電話が一般家庭に普及し始めたのは、高度成長が始まる頃のことでしたが、敷設権を確保するには、当時で10万円の電電公社債の購入が必要でしたし、なおその上で、自宅への電話線の引き込み工事が完了するまで、半年~8ヶ月程度待たされるのが常でした。1971年の結婚と同時に住まいを構えた2DKの公団住宅への電話の敷設でも、やはり申し込みから敷設まで7ヶ月待たされたことを覚えています。それが今では、通話は勿論、メールのやり取りも世界規模で瞬時に可能。しかも当時は思いもしなかった携帯電話が今や主流。固定電話を持たない家庭も増えているとか。技術革新のペースは益々速まっていますね。いったいどこまで行くものやら、もうしばらく眺めていようかと、最近はそんな心境です。
2020.01.07
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クロニクル 「日本を……反共の防波堤に」1948(昭和23)年1月6日72年前のこの日、米国のロイヤル陸軍長官が「日本を極東における反共の防波堤にすべし」と演説、日本の再軍備を主張しました。8/15以後の日本占領軍は、連合国の共同占領の形を整えていましたが、GHQ(日本占領軍司令部)の主要幹部は米軍関係者で占められ、実質的には日本は米国の占領下にありました。その米国の対日基本方針は、「日本を再び軍事大国にはしない」ということに尽き、そのための仕掛けが民主化の徹底でした。財閥解体で経済界の民主化を行い、農地改革で農村の民主化を徹底、労働組合の結成と行動の自由化(労働規準法以下の労働三法がその保障)で、企業経営をチェック、さらに戦犯を公職から追放することで、国内の抵抗勢力を封じ込め、教育の民主化によって若い世代に民主主義の精神とあり方を学んでもらうという徹底振りは、今振りかえってみても見事なものでした。そしてその集大成が、憲法前文と9条に凝縮した平和主義でした。 日本国民は、あまりに急速な民主化の進展に戸惑い、天皇の人間宣言に驚きと戸惑いを感じながらも、心の底でこうした変化を支持し、受け入れていたらしいことは、石坂洋次郎の新聞小説を映画化した『青い山脈』が大ヒットして、1949年の映画興行収入第2位を記録し、藤山一郎が歌った主題化が、現在もなお歌い継がれていることからも理解できます。 そうした日本国民が何よりも歓迎し、強く支持したのが、この平和主義であり、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とした戦力不保持の原則でした。 憲法の施行から1年も経たないこの日、米国政府内から発せられた対日占領方針の変更に繋がるような発言に、日本国民の間では、旧軍人や右翼など守旧派の一部に歓迎する向きはありましたが、驚きと戸惑いそして強い反発が起こりました。この発言の背景には、当時の中国における情勢の大きな変化がありました。米国は、中国の内戦は、蒋介石の国民党の勝利で終結するものと考え、反共の防波堤役を果たしてくれるものと、考えていたからです。
2020.01.06
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クロニクル 水師営の会見1905(明治38)年1月5日115年前のこの日、午前11時40分から、日本の第3軍(旅順攻略軍)司令官乃木希典とロシア軍司令官ステッセルの会見が、旅順港に近い水師営で行われました。 前年2月に始まった日露戦争は、両軍共に予想を大幅に上回る多大な死傷者を出す激戦となりましたが、なかでも旅順港を巡る攻防戦が、最大の激戦となったのです。 乃木の第3軍による旅順総攻撃は、8月19日にはじまりましたが、攻囲されたロシア軍はコンクリートで固めた堡塁を築いて頑強に抵抗、この攻撃は1万6千人の死傷者を出す大失敗に終りました。10月末に行われた第2次総攻撃も、いたずらに突撃を繰り返す無策振りが仇となって、悲惨な失敗に終りました。ここに満州軍総司令官大山巌は、満州軍総参謀長児玉源太郎を第3軍に派遣します。 現状を視察した児玉は、一時的に乃木に替わって攻撃を指揮することを決意、旅順を望む203高地に攻撃を集中、6万4千人の兵力を投入して、12月5日に占領に成功します。 児玉はこの地に新兵器の28cm榴弾砲を運び上げて、旅順港を砲撃するという荒業を敢行、港に停泊するロシア第1艦隊を全滅に追い込みました。こうして12月末までに、抵抗するロシア側の全堡塁を占領、1月1日ロシア軍は降伏を決意、旅順の要塞はようやく日本軍の手に落ちたのです。 3日には開城規約が結ばれ、この日5日に両将軍の会見が行われました。攻防155日を要したこの戦いでの日本側の死傷者は5万9千人を数え、この戦いのみで、日清戦争全期間を大幅に上回る犠牲者を出したのです。しかし、大国ロシアと対等以上に戦う日本軍に、欧米への劣等感に悩んでいた日本国民は大いに勢いづき、戦死者、戦傷者家族の悲しみは、置き去りにされ、忘れられていきました。その後ろめたさを覆い隠す装置として機能したのが靖国神社でした。
2020.01.05
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クロニクル 竹槍でちょいと突き出す二分五輪1877(明治10)年1月4日143年前になるのですね。確かに明治は遠くなりました。この日明治政府は、貧農層を中心とした「地租改正反対一揆」の激しさを考慮して、地租の額を地価の3%と定めた法令を撤回、地価の2,5%に引き下げると決定、ただちに布告しました。 貧農層は、この結果に大いに気を良くした結果が、標題の落首となったのです。しかし、これは巧妙な政府の作戦勝ちでした。地価の3%の地租というのは、いったいどのくらい重いのかを、簡単な計算式で示しますのでご覧下さい。 問題は地価にあります。これは明治6年の地租改正令で定められたのですが、1つには個人の土地所有権を認めたことに大きな意味がありました。そして土地所有者に地価の3%の地租の納入義務を負わせたのですが、その地価は、その土地の過去3年間の年間収入の平均額を20倍したものと定めたのです。ですから、例えば平均で100円の収入のあった土地の地価は、20倍の2千円になります。ですから地租は2千円の3%、つまり60円です。実に年間収入の60%が税として吸い上げられるのです。これでは封建社会よりもひどいではないか。と貧農が怒るのは当然ですね。 果たせるかな轟々たる非難と一揆の嵐が吹き荒れました。先刻そうなることを予想していた政府は、頃合を見計らって規定路線の0,5%の引き下げを発表したのです。これで地租は年間収入の50%になったのです。 何のことはない五公五民の江戸時代とほぼ同じ水準に収めたのです。最初から50%と出していたら、果たしてそこで収まったでしょうかね。明治政府実に巧妙でした。私はこの事実に、「お主やるのう…」と唸っています。
2020.01.04
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クロニクル アップル創業1977(昭和52)年1月3日43年前になるのですね。Macintosh(Mac)シリーズ、携帯音楽プレーヤーのiPodシリーズ、携帯電話のiPhone、タブレット型情報端末のiPadなどでお馴染みの、アップルコンピューターが、この日産声をあげました。 場所は米国、リンダ夫人のお住まいのカリフォルニア州クバティーノ、創業者はスティーヴ・ジョブスとスティーブ・ウォズニアックの2人でした。この2人に、資金力のあるマイク・マークラが加わり、現在のアップル社の原型が出来上がっていきました。
2020.01.03
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クロニクル レコンキスタ完結1492年1月2日 古い話で恐縮です。1492年は、世界史ではコロンブス一行の航海、ヨーロッパ人にとっての「アメリカ発見」で有名な年です。528年も前のことです。日本では、応仁の乱を経て、戦国乱世に向かい始める頃、山城の国一揆は勢いをなくし始めていましたが、各地の土一揆は、まだ活発な頃のことです。 実は、1月2日のこの出来事こそが、コロンブスの航海が実行に移される大事な伏線だったのです。この日、イベリア半島におけるムスリム勢力の最後の拠点、グラナダがカスティーリャ軍(この国の王が、有名なイサベル女王です)の攻撃によって陥落したのです。ここにキリスト教徒勢力による、旧ローマ帝国の版図の1つイベリア半島を、ムスリム勢力から奪い返そうとする0運動(再征服運動、レコンキスタと呼ばれます)が、成功裡に完結を見ました。要するに、ローマ教皇とカトリックの諸侯による、領土拡大と勢力拡大の征服戦争を、レコンキスタの名で正当化したわけですね。 何事もネーミングが大事なのです。同じ時期に展開し、失敗に終った十字軍の侵略遠征も、ネーミングは立派ですが、要するにレコンキスタと同じく、領土拡大のための戦争でした。さて、ムスリム勢力を駆逐したイベリア半島には4つの国が出来ました。地中海側のアラゴン王国、大西洋側のポルトガル王国、そして中央部に広がるカスティーリャ王国と、ピレネー山脈でフランスと接するバスク王国です。このうち、アラゴンとカスティーリャは国王同士の結婚によって連合王国となり、後にバスクも併合してスペインとなります。 実は、征服事業を早めに完成したポルトガルは、更なる南への進出の野望を海を越えたアフリカに定め、北アフリカの勢力が手強いため、アフリカ西岸を南へ下って、西アフリカの諸王国との貿易で、富強を誇っておりました。 征服を完了したカスティーリャが、さらなる拡大を目指すとなると、ポルトガルと戦うしかありません。それを避けたいイサベル女王の前に現れたのが、冒険航海のスポンサーを探していたコロンブスだったのです。
2020.01.02
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クロニクル 空を越えて…ラララ 1963(昭和38)年1月1日 空を越えて~ラララ 星の彼方、行くぞアトム… ジェットの限り… 心やさし…科学の子、10万馬力~ダ 鉄腕アト~ム と歌われた、手塚治虫の「鉄腕アトム」のTV放映が、この日からフジTV系列で、開始され、大人気を得ました。あれから57年も経ったのですね。 彼の作品には、未来と過去を行きつ戻りつする「火の鳥」や「ブラック・ジャック」など、アトム以外にも見応え、読み応えのある作品が多く、60年近くを経過してなお、新鮮さを失っていないのは、さすがですね。あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしく。 今年は欧州の右派勢力の伸張がなお続くのかどうかに注意していきたいと考えています。ドイツ銀行の経営危機とドイツ経済の停滞もかさなり、ドイツの右派勢力の伸びの速さが、ちょっと心配なものですから……
2020.01.01
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