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日の丸こぼれ話(5) オリンピックと日の丸さて、本日はオリンピックの日の丸の話です。霞ヶ関の官庁街を通って、役所の屋上やポールの日の丸を見ると、祝日でもないのに何故と違和感を持つことは、私にもあります。「そこまで宣伝に努めなくても良いじゃないか」といった感じを持つからです。公立の小・中・高校の入学式や卒業式の式場の壇上に校旗と並んで日の丸に鎮座されると、これはもうグロテスクとしか言いようがない気持になります。ある学校の入学式では校長以下普通壇上に並ぶ担任の先生なども、壇下に並び、登壇する度に日の丸に恭しく拝礼してから、マイクの前に進む姿を見て、このアナクロニズムで現代っ子の教育が出来るのかいな?と寒気に襲われました。さすがに在校生代表や新入生代表は、日の丸には知らん顔で登壇していましたが……さて、そんな私や現代っ子たちも、オリンピックの表彰式で日の丸が掲揚されるのを見るのは大好きです。例え、メーンポールでなかったとしても…。白地に紅の日の丸は、シンプルで他国の国旗よりも祭典に良く似合うと誇らしくさえ思います。そのオリンピックの日の丸ですが、皆さんよーくご覧になっていらっしゃいますか。実はあの日の丸、通常の日の丸というか、市販されていて官庁街や学校や、家庭で祝日などに掲げられる日の丸とは、日の丸のサイズが違っているのです。日の丸の部分が大きくなっているのです。通常は縦径の5分の3なのですが、オリンピックに持参される旗は縦径の3分の2に拡大されているのです。実は1964年の東京オリンピックの時から、このサイズとされているのです。各国の国旗と並べて見ると、日の丸の部分が小さいと貧相に見える。そこで、東京オリンピックの組織委員会がデザイナーに協力してもらって,作成したものが、右翼などの反対をかわして、以後使われているというのが、真相だそうです。皆さんも表彰式の日の丸をご覧になって、違和感など感じられませんよね。とても素適に見えませんか。 続く
2008.01.31
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第一次世界大戦(59) 新生トルコの抵抗アンカラのトルコ大国民会議とケマルの政府は、セーヴル条約を否定しました。イズミールのギリシア軍、イスタンブールと海峡を抑える英・仏軍、アドリア方面のイタリア軍、東北方面のアルメニア軍、そしてクルディスタンにもイギリス軍と、四方をセーヴルの屈辱的条約の承認を迫る勢力に包囲され、まさに四面楚歌の状態でした。その上、アナトリア高地においてさえ、親英・親スルタンの反動勢力が暗躍していました。こうした状態の中、ケマルを中心に団結した政府と国民会議は、ほとんど徒手空拳で、戦争に疲れた貧しい国民を鼓舞しながら、連合国に敢然と立ち向かう気概を見せたのでした。この行為はほとんどゼロから出発して、国を築こうということですから、まさに苦難の道でした。指導者のムスタファ=ケマルは、大戦前から各方面での軍事的困難に立ち向かった経験を生かして、難局を切り開こうと務めました。トルコにとっての救いは、連合国が決して一枚岩ではなく、異なる思惑を抱いて、分裂の可能性を秘めていたことでした。ケマルは、20年5月にシリアの経営に手を焼くフランスとの休戦に成功し、同年12月には、ロシア革命の影響で誕生したアルメニアのボルシェヴィキ政府と結んで、アルメニア軍の撃破に成功します。そして翌21年3月には、モスクワのソヴィエト=ロシア(=ソ連)と相互承認条約を結び、2世紀に渡って続けられたカフカーズ方面の国境問題を解決し、合わせて共に連合軍の干渉に悩んでいるソ連からの軍事援助を引き出すことに成功します。同じ時期に経済的に苦しくなったイタリア軍も、トルコから撤退しました。この間、アナトリアの反乱分子の策動も抑えて、1921年1月には、ミトハト憲法(日本史の教科書では、1889年=明治22年制定の大日本帝国憲法をアジア最初の憲法と記すことが多いのですが、西アジアをも含めるとすると、オスマン帝国のミトハト憲法は1876年制定ですから、日本に23年も先行しています。大日本憲法は東アジアで最初の憲法とするなら、正しいのですが…)を修正して、国民主権とその代表機関としての大国民会議の存在を規定した新憲法(基本条項と当時は表現していました)を採択しました。同じ月、21年1月には、ソ連から到着した武器で装備した新生トルコ軍が、最大の敵ギリシア軍に最初の勝利を記録します。前年7月以来、イギリスはセーヴル条約の履行をギリシア軍に委任するという口実を設けて、ギリシア軍のアナトリア中央部への侵入を支援していたのですが、この侵入ギリシア軍をイネニェの戦いで、トルコ軍が初めて敗退させたのです。トルコ政府は、敵方の内部分裂を捉えて、大部分の兵力を対ギリシア戦に向け、ギリシア戦の勝利に全力を傾注したのです。状況もまた新生トルコに味方しました。 続く
2008.01.31
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クロニクル 山下家で5つ子誕生1976(昭和51)年1月31日この日、東京の主婦山下紀子さんが、実家に近い鹿児島市立病院で5つ子を出産、世間の話題を集めました。5つ子は男児2人に女児3人、体重は990g~1800gでしたので、全員保育器の中に入れられましたが、母子ともに元気と報じられました。実は5つ子の誕生は、明治34(1901)年に福島県でもあったのですが、この時は、生後5日にして5人全員が死亡してしまい、めでたい話にはならなかったのです。山下家のケースは全員が成長しましたが、この年9月に神戸で6つ子が、10月には東京で4つ子が生まれたのですが、どちらも全員成長することはなく、排卵誘発剤の使用の是非が大きな社会問題となりました。それにしても、あの5つ子ちゃん達、もう32才になるんですねぇ。
2008.01.31
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ブログを訪れてくださる皆様へ…昨日、私のブログへのアクセス数が5万ヒットに達しました。気付いたのは夜になってからでしたので、ご挨拶が遅くなりました。2006年の10月2日に、「今日は何の日」形式で書き始め、昨年7月からその他の記事を追加し始めて、アクセス数が膨らんできた気がします。はじめて間もなく1年4ヶ月になりますので、1日100アクセス少々。お硬い内容のブログなのに、訪れてくださるかたはがこんなにいらっしゃるという事実に励まされています。クロニクルの形式の部分は、その内ネタのない日も出てくると思いますが、最近出会えた「ツボンチ」さんのブログに時々助けていただきながら、なおしばらくは続けられるかなぁと考えています。どうぞ、今後ともお付き合い下さいめすよう、お願いして、御礼の言葉と指せていただきます。どうも有難うございました。そして今後ともよろしくお願いします。
2008.01.30
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日の丸こぼれ話(4) 「大日本帝国国旗法」余話から最初のうち、「朱の丸」と表記されていた日章旗は、次第に「日の丸」と称されるようになります。明治10年を過ぎると「朱の丸」という表現は、極端に少なくなっていったようです。1877(明治10)年に入ると、洋式船、和式船を問わず、外国に航行する船舶全てに対して、日章旗の掲揚が義務付けられます。「日の丸」は諸外国に対する国籍表示旗として、日本国旗の意味を正式に果たすようになったのです。やがて、当初は禁止されていた「日の丸」旗の製造と販売が、業者に許可されるようになります。天皇制国家と明治政府のシンボルとして、国民の間にも日本の旗のイメージが浸透したのでしょう。鹿鳴館時代になると、国旗商人の広告が、新聞などにも掲載されるようになりました。しかし、「日の丸」旗の陸上用の寸法、日の丸の割合、そして色は何も決まっていませんでした。旗寸法に対する日の丸の割合は、おおよそ縦の5分の3となっていたようですが、その縦、横の寸法はマチマチでしたし、何より日の丸は、朱だったり、紅だったり、橙がかったりしていたのです。陸・海軍も異なった寸法を押します。こうして「日の丸」は日の丸でも、どれが正式のものなのか、長く論争が続いたのです。こうして長い論争の果てに、1931(昭和6)年、満州事変の直前の時期に、政府は「大日本帝国国旗法」という法律を帝国議会に提出しました。しかし、議会も寸法を巡っては意見の一致をみることが出来ず、政府提案の「国旗法」は結局廃案となってしまいます。色については朱や橙を押す勢力は弱く、紅色が定着して行くのですが…。こうして、公式的には議会で「国旗法」が流産したことから、「日の丸」の旗は国旗ではないといった、レトリックが一応は成り立つことになります。しかし、この議論は形式論に過ぎず、国民意識と大きくズレていますし、何より、国籍表示旗として日本国籍を現してきたこと、「日の丸」を押したてた日本軍や日本人がアジア・太平洋の各地で植民地支配と侵略戦争を続けてきたことなどを顧る時、「日の丸」国旗説を否定する議論は、私は間違っていると考えますし、日本の歴史の負の面を正視していないように考えます。 続く
2008.01.30
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クロニクル 日英同盟成立1902(明治35)年1月30日この日、日英同盟協約が締結され、即日発効しました。調印はロンドンのイギリス外務省で行われ、日本側は林駐英公使、イギリス側はランズダウン外相が署名しました。日英同盟協約の主な内容は、清国における両国の利益と韓国における日本の政治・商業・工業上の格段の利益を他国の侵略的行動や民衆反乱から守るため、危機に際しては両国が適当な措置をとること、また日英両国のいずれかが、第3国と戦争になった場合、一方の締約国は厳正に中立を守り、さらに他の国が第3国に同盟して参戦する場合には、一方の締約国も協力して戦う事の2点でした。この同盟は、ロシアの極東進出、とりわけシベリア経由での「満州(現中国東北地域)」進出に危機感を感じたイギリスからの誘いに、韓国支配の安定を望む日本が応じた形で、締結に至りました。イギリスは名誉ある孤立の伝統を捨て、日本をパートナーと認めた形となり、日本の国際的地位の上昇に、多いにプラスとなったのでした。
2008.01.29
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第一次世界大戦(58) セーヴル条約のペテン1919年4月30日、ムスタファ=ケマルらは、アンカラにトルコ大国民会議を召集し、イスタンブール政府を否認、新政府の誕生をヨーロッパ各国に通告しました。しかしスルタン、メフメット6世はアンカラ政府を否認、欠席軍事裁判でケマルら一党に死刑判決を下して、ヨーロッパ列強に対してこれを承認しないよう求めました。ヨーロッパ列強にとっても、スルタンの政府の方が、何かと好都合なため、オスマン帝国分割に不都合なアンカラ政府の無視を続けました。ムスタファ=ケマルと、彼の下に結集したトルコ人の多くは、スルタンに大国民会議の承認を求めて止みませんでした。彼等の多くは帝国主義とギリシア軍の侵入から、「イスラムの地」と「イスラムの民」を守ろうとして立ちあがったのです。そうであれば、スルタンは守るべき対象だったのです。しかし、スルタンは終始一貫英・仏の言いなりでした。彼は自らの地位に恋々として、英・仏の保護に期待を寄せていました。彼は国民を裏切り、国を売ることも辞さなかったのです。ウィルソンが病に臥せった4月、英・仏はこれ幸いとサン-レモ協定を結んでアラブ地域を「委任統治領」と定めて、これを分割する挙に出たのです。こうした中で、1920年8月、オスマン帝国スルタンの代表を、パリに近いセーヴルに呼び出し、この内容をセーヴル条約としてスルタンの政府に押しつけたのです。セーヴル条約には、アラブ地域の放棄(イギリスとフランスで分割)の外にも、トラキア、エーゲ海諸島、イズミール地域をギリシアに、さらにイタリアやフランスにも領土を割譲した上、ダーダネルス・ボスフォラスの両海峡を国際管理下に置くことが明記されていました。それだけではありません。軍備の制限、そしてトルコの財政は英・仏・伊3国の共同管理下に置くこと、治外法権を認めることなどまで、記載されていました。これはトルコの民族的独立を完全に否定するものでした。スルタンの政府は、こうした屈辱的内容の講和を拒否することもせず、唯々諾々とそれに署名したのです。アンカラに篭ったトルコ大国民会議とケマルの政府はこれを、真っ向から拒否しました。トルコ民族の正当政府を名乗り、国民の多数が支持するアンカラの政府が否定する条約は、当然ながら有効な条約とはいえません。これがセーヴル条約の正体でした。従って、対トルコに関しては、講和はなお整っていなかったと理解するした方が良いのです。 続く
2008.01.29
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日の丸こぼれ話(3) 「朱の丸」旗の使用を巡って1870(明治3)年は、商船用「国旗」、陸軍用「国旗」、海軍用「国旗」と制定が続いたのですが、翌1871(明治4)年になると、兵部省所轄の船を除く一般船では、「朱の丸」旗の掲揚は西洋式船に限られ、和船は大小を問わず、領海内での旗の掲揚を禁じられます。政府自身、まだ船舶用の国籍表示旗の概念が良く飲みこめていなかったからの、混乱だったのだろうと、私は推測しています。しかし、翌1872(明治5)年になると、開港場を持つ各県庁に対し、祝日には商船用の大旗、平日には同じく中旗を掲揚するようにとの、太政官通達が出されます。ここに、「朱の丸」は陸上でも掲揚されることになりました。同じ頃、当時の東京府知事から、「一般国民にも、『日の丸』を掲げたいとの希望があるが、掲げてもよろしきか」というお伺いが出されたのですが、それに対する回答として、「日章国旗の旗型を相掲げ候は苦しからず…」と許可されています。ここからは、「国旗」というものは、政府の印であるから、一般国民が勝手に作ったり、立てたり出来ないものであるという感覚が、政府にも民間にもあったことが読み取れます。明治5年の12月3日をもって、大陰暦から太陽暦に改暦することとなり、12月3日が、明治6(1873)年の1月1日とされたのです。東京府知事のお伺いは、この改暦による新年への戸惑いを払拭し、お祝い色を盛り上げようとする計らいだったのです。答えは、本物の「国旗」の雛型なら掲げても苦しゅうないということだったのです。この頃はあまり見かけなくなりましたが、元日に国旗を掲げる習慣が出来たのは、この時からだったようです。以後、政府は明治天皇の誕生日である天長節(11月3日)や紀元節(2月11日)など、新政府の国策に合う祝日に、国旗の掲揚を認める一方、伝統的な五節句やお盆といった行事での掲揚は、これを認めない姿勢を貫きました。そのため、伝統重視派の不満を増幅することにもなりました。ここでは、明治政府がいまだ国旗の扱いに慣れず、試行錯誤を続けながら、官公庁への掲揚や、祝祭日における一般家庭への掲揚に進んで行くには、なお時間を要したことが見て取れます。それに、家庭に掲げられるのは、「国旗」の雛型であって、本物ではありません。商船用の小型の旗でも、陸上のしかも家庭用には大き過ぎたからです。どれが本物の「国旗」の寸法なのか。全てが本物なのか。ここにも解決すべき問題が残っていました。 続く
2008.01.29
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クロニクル 政治改革4法案成立す1994(平成6)年1月29日前日1月28日の細川護煕首相と最大野党自民党の河野洋平総裁のトップ会談で、時期国会での修正を条件とした合意が成立した事を受け、この日の本会議で、政治改革4法案が可決成立しました。政治改革4法案の主な内容は、1、衆議院の選挙制度を中選挙区制から、小選挙区比例代表並立制に改める2、個人宛の企業献金の禁止3、政党への公費助成(政党助成金)の導入などからなっており、前年9月17日に、政府提案として衆議院に付託されておりました。修正部分については、小選挙区選出議員を300人、比例代表議員200人とするなどの修正を施した修正案が、3月4日に国会を通過して成立、11月には小選挙区の区割り法案も成立して、いよいよ小選挙区制の時代を迎えることになりました。
2008.01.29
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第一次世界大戦(57) ギリシア軍の侵入 首都のイスタンブールを連合軍の占領下に置かれたオスマン帝国では、スルタンのメフメット6世は、形式的にその地位を保っていましたが、事実上は連合軍にとって好都合な傀儡に過ぎなくなっていました。英・仏・伊の各国軍が夫々自国に取りこみたい帝国内の各地に軍を進め、列強によるオスマン帝国領の分割の動きが進行しつつあったのです。オスマン帝国はトルコ族のトルコに縮小する、こうした動きでした。そこへ、勝者連合についていたギリシアが悪乗りして、「新ビザンチン帝国」建設を夢見るようになったのです。その実現が今こそ可能になったと、夢想したギリシア政府は、イギリスの支持を頼りに、古代の植民ポリスの遺跡が残る、イズミール地方占領の許可を連合軍司令部から手に入れたのです。ムスタファ=ケマルは、ギリシア軍のイズミール侵攻の翌日、連合軍とスルタンから、トルコ軍の動員解除とアナトリアの治安回復の命を受けました。彼は、イスタンブールを船で離れると。黒海沿岸のサムスンに渡り、三つの軍団を傘下に置き、ギリシア侵入軍に対する抗戦と抵抗を呼びかけました。この呼びかけに各地の民衆や軍団が応じ、スルタンへの忠誠、領土の防衛、臨時政府の組織などが次々に決議されて、アナトリア各地の軍団や地方の長官、イスラム聖職者などの広範な支持を集めました。イスタンブールでもケマルらの動きに呼応するデモが起こり、スルタンもまたケマルとの妥協を模索する動きを見せました。11月の総選挙では、連合軍に対する抵抗派が多数を占め、1920年1月、議会はトルコ領土の保全と国家的独立などを盛り込んだ、6ヶ条の「国民誓約」を決議したのです。アナトリア西部では、国民軍がギリシア軍への抵抗を拡大し、フランス軍がロシアの反革命軍へ送る予定だった小銃や機関銃、弾薬などをすっかり奪い取ることにも成功したのです。3月、イギリス軍中心の連合軍はイスタンブール全市を占領し、多数の民族主義者を逮捕して拘束、マルタ島に幽閉する挙に出ました。これに憤慨したムスタファ=ケマルらは、アンカラにトルコ大国民会議を召集して、イスタンブール政府を否認、新政府の誕生をヨーロッパ各国に通知したのです。トルコにとって、戦争はなお終っていなかったのです。 続く
2008.01.28
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日の丸こぼれ話(2) 旗のサイズ1870(明治3)年の太政官布告第57号が「商船国旗」として定めた「朱の丸」の寸法は、実は大・中・小と3種類ありました。縦横の比は、横10に対して縦7、日章の直径は縦に対して5分の3と記していますが、長さは最も小さなものでも横6尺、縦4尺2寸ですから、あくまで商船用で、地上用ではありませんでした。ここから混乱が始まります。同じ年5月の太政官布告第355号(余談ですが、この年に入って、いくらか明治国家の統治体制が整ってきたことが、ここから分かります。5ヶ月弱で300本もの布告が次々に出されているのですから…)が、今度は「陸軍御国旗」に関する定めを発表したのです。サイズは横5尺に横4尺4寸と正方形に近い形でした。「朱の丸」は横の直径の3分の1と小さくし、その周囲に16条の旭光が伸びた「旭日旗」です。後陸軍の連隊旗となったものの原型です。こうなると海軍も黙っていません。同年10月、太政官布告第651号で、「海軍御国旗」が定められます。縦7尺8寸、横1丈1尺7寸と2:3の比率に、縦の5分の3の紅の日章というものでした。大きい事も大きいのですが、「商船国旗」とは縦横の比率が違っていました。商船用、陸軍用、海軍用と夫々の用途に応じてサイズ等が違っているのですから、明らかに使用目的に応じて機能的に異なる寸法、デザインが混在していたのです。当然、混沌の中から、次第に明治国家の輪郭や方向性が見えてくると、このままでは具合が悪い、何とか「国旗」の1本化をという議論が出てきます。その点に移る前に、当時の「朱の丸」の利用状況を辿ってみる事にしましょう。 続く
2008.01.28
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クロニクル 春闘始まる1955(昭和30)年1月28日春闘が形骸化してかなり時間が経ちますが、春闘の語は今に残り、「三丁目の夕日」とは違った意味で、郷愁を感じる方も多いと思います。本日は、その春闘の始まりの話です。GHQの戦後改革の1つに労働組合の結成の自由、労働者の団結権等の自由がありました。この観点から労働基準法、労働組合法、労働関係調整法の労働三法も作成され、労働者は団結権のほかにも、団体交渉権、争議権を獲得していました。労働者のナショナルセンターも組織され、1時期「総評」が大きな力を持ちました。その総評に属する、炭労、私鉄総連、電機労連など6単産が、この日「春季賃上げ共闘会議総決起大会」を開いたのです。この春季賃上げ闘争を略して春闘と呼ぶようになったのです。
2008.01.28
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日の丸こぼれ話(1) その起源1853年のペリー来航の話は、クロニクルに書きました。鎖国の禁が解かれた時、幕府は外洋を航海できる大船の建造を禁じてきた禁止令も一緒に解除しました。この時いち早く大船を建造したのが薩摩藩で、薩摩藩が藩船「昇平丸」の船印として掲げたのが「朱の丸」のはしりともいわれます。もっとも鎖国時代から、幕府は城米廻船に「朱の丸」を用いていましたので、外洋航海の船舶の国籍を明示するための日本の総船印には、別の印を考案しては…という意向も、当時は働いていました。それが、「日の丸」となったのは、老中安倍正弘名による「日本国総船印の布告」(1854年)によるのです。正式には、幕府の遣米使節団が乗り込んだ「咸臨丸」(幕府がオランダに発注し、引渡しを受けた船でした)に掲げられたのが最初とされています。時に1860年のことでした。ところで、明治維新期の戊辰戦争においては、薩長中心軍(いわゆる官軍)も幕府軍も、共に自軍の旗として「日の丸」の旗印を用いていたのです。上野の山の彰義隊も、会津の白虎隊も、函館五稜郭の榎本武揚らも「日の丸」を使っていましたし、「官軍」もまた天皇家の家紋である菊の花をかたどった「錦の旗」の外に「日の丸」をも用いていたのです。さぞややこしかったでしょうね。こうしたいきさつを経て、本日のクロニクルに記した明治3年、1870年の太政官布告が出され、「日の丸」は「商船国旗」に定められたのです。 続く
2008.01.27
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クロニクル 日の丸制定1870(明治3)年1月27日この日、明治政府は太政官規則として、日本の商船に日章旗(日の丸)を掲げることを布告しました。ここに日の丸が日本船籍を現す旗=事実上の国旗として定められました。19世紀世界で、国旗とは、国際貿易や植民地争奪戦等に活躍する商船や軍船(当時はこの区別も曖昧でした)の所属を示すものでした。それは海賊船との区分を明確にするためでもあり、或いは、港湾の利用権の有無を判別するためにも、なくてはならないものだったのです。日の丸については、いくつか興味深い点もありますので、こぼれ話をまた書きたいと思っています。
2008.01.27
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第一次世界大戦(56) オスマン帝国の解体とトルコオスマン帝国、1453年にビザンツ帝国を滅ぼし、イスラム世界とギリシャ正教世界を統治する大帝国を形成し、ヨーロッパの国際関係にも常に大きな影響を与えていたこの国は、しかし、長期の君臨による金属疲労から、19世紀に入ると瀕死の重病人と呼ばれるまでに弱リ果てた国、腐った「大国」になっていました。1912年にバルカン同盟を構成したバルカン諸国が、オスマン帝国からの独立を目指した第一次バルカン戦争にも敗れ、バルカン諸国の独立を認めなければならないほど、この国の力は衰えていたのです。そのため、1915年にドイツ側に立って連合国に参戦した後、オスマン帝国軍は実質的にドイツ軍の丸抱えに近い状態にありました。大戦末期、戦後における独立の密約(フサイン=マクマホン協定)を武器に、オスマン帝国領内のアラブの地域に反乱を組織することに成功したイギリスは、アラブ人部隊と共に大挙してエジプトからパレスティナ、シリアに侵入しました。またインド駐留軍とインド人部隊を動員して、イラク方面からも侵入を果たしました。この英軍の侵入を獅子奮迅の活躍によって、アレッポの線で辛うじて食いとめたのが、現在でもトルコ独立の父として、尊崇されているムスタファ=ケマルでした。しかし、ブルガリアの降伏とそれに伴うドイツ側戦線の崩壊とドイツの敗勢が、もはや帝国の態をなさなくなっていた「トルコ』の戦闘能力を奪ってしまったのです。ここにトルコは、18年10月31日、遂に降伏して、トルコにとっての第一次世界大戦は終ったのでした。休戦条約には、「連合軍が安全を脅かされた場合、いかなる戦略上の拠点をも、占領する権利を有する」と記されていました。実際に、休戦協定成立後オスマン帝国の首都だったイスタンブールは、連合軍の占領下におかれましたし、列強によるオスマン帝国領の分割が、現実に進行しはじめたのです。イギリスの前の首相アスキスは「病人は今度こそ死んだ」と語ったと言われています。 続く
2008.01.26
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バブルを考える(99) 昨日の新聞記事から昨日の日経新聞に、大略次ぎのような記事が載りました。「日銀が91年に、既に株価が大幅に下がっているにみ関わらず、強引に2回も利上げを続けたことが、バブルの軟着陸を不可能にした。あの時日銀が2度の利上げを思い留まっていたら、今の株価は23000円だったかもしれない。」と。あの時、日銀が土地バブルの退治にシャカリキになっていたことは、この連載でも指摘しました。私は日銀の責任は、機動的に利上げすることが出来ずに、バブルの拡大を放置した、88年の低金利放置にこそあれ、91年の利上げ継続にはないと考えています。記事は、土地担保融資に狂奔し、総量規制後も傘下の住専を使って融資の継続に走り、自らの首を締めた金融機関にこそ最大の責任のあったこと、そしてその金融機関が現在の欧米の金融機関と違って、自ら不良債権の実態を正視しようとせず、連結対象から外した子会社群を使って、隠しに隠し続け、遂に隠し続けることが出来なくなるまで、隠し通そうとしたこと、そうした金融機関の姿勢を黙認し続けた行政にこそ、本当の責任のあることに目を瞑っています。この記事はこうした大局を意図的にか、無意識にか見落としている誤った記事です。日銀に責任なしとは、私も申しませんが、当時の状況での日銀の責任は、相対的に小さいと私は考えています。昨日の記事は、実に劣悪でした。最近は新聞記者のレヴェルも大きく落ちているようですね。テレビのアナウンサーの放送原稿の誤読くらいは、見逃してやらないといけないのですかね…。 続く
2008.01.26
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クロニクル 初の疎開命令下る1944(昭和19)年1月26日この日、内務省は、改正防空法に基づく初の疎開命令を、東京と名古屋に対して発動しました。この命令に基づき指定地域内の建造物の強制取り壊しも行われましたが、そうした行為も空しく、その後も日本の防空能力の欠如を見透かして、激しさを増す一方だった、米軍の空爆によって、東京、名古屋、大阪、神戸といった大都市は、徹底した空襲によって、焼け野原となり、多くの市民が焼き殺されるという、大虐殺の憂き目を見たのでした。
2008.01.26
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第一次世界大戦(55) トリアノン条約ベラ・クンらのハンガリーソヴィエト革命が連合諸国の干渉によって、敗北した後、連合国はようやくハンガリーとの講和に向けて動き、1920年6月になって、ハンガリー代表をヴェルサイユ宮殿内の別棟トリアノン宮に呼び出し、ここで対ハンガリーの講和条約を結びました。なお、トリアノン宮とな別に近くにプチ・トリアノンがあります。フランス王ルイ16世妃マリー・アントワネットがお気に入りの側近達と篭っていたのは、このプチ・トリアノンの方です。トリアノン条約でハンガリーは、ルーマニア、ユーゴスラヴィア、チェコ・スロバキア、そして何とオーストリアにまで領土の割譲を強いられる破目になり、さらに軍備の制限や賠償義務を課されたのでした。この結果、ハンガリーの国土面積は、3分の1に制限され、人口はかつての4割となったのです。とりわけ、ハンガリー国民にとって,怨嗟の的となったのは、同胞のマジャール人300万人が国境の外に居住することになったことでした。オーストリアやドイツに引きづられた戦争であっても、弱小の敗戦国は、特にひどい目に合わされるのですね。 続く
2008.01.25
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クロニクル 三井三池争議開始1960(昭和35)年1月25日この日、三井鉱山は争議行為を準備中の三池鉱山をロックアウトしました。これに怒った労組側は、全山無期限ストライキに突入、炭労の全面支援を受けつつ、長期戦の備えをとりました。ここに、会社側には経団連、日経連などの総資本の支援が、労組側には炭労、総評など総労働が支援に応じ、総資本対総労働の壮烈な戦いが展開しました。九州大学の向坂逸郎教授や詩人の谷川雁なども労組側の支援につき、会社側の切り崩し、第2組合作りに耐えながら9ヶ月に及ぶ長い戦いが、安保闘争が終結した6月以降も続けられましたが、8月の中央労働委員会の斡旋案の提示を受け、9月6日の炭労臨時大会が、斡旋案の受諾を決定、11月1日にストを解除、争議は組合側の実質的な敗北をもって終了するに到りました。日本の反体制運動が最も元気だった時代は、ここに終ったと私は受け止めています。全共闘運動に代表される68~69年の学生反乱は、もう少し狭い範囲の運動に留まり、60年安保闘争や三井三池争議のような幅広い支持は獲得できていなかったように受け止めるからです。
2008.01.25
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第一次世界大戦(54) ハンガリーの革命マジャール人を中心としたハンガリーは、長くハプスブルグ帝国とオスマン帝国に国土を支配されていたのですが、オスマン帝国の弱体化とフランス革命とナポレオンの時代の思潮に影響されて、19世紀中頃から独立運動を強めました。1848年のヨーロッパ革命の時代には、コシュートをリーダーとする革命派が1時政権を握ったこともありました。その後、オーストリアから一定の自治権を認められ、1866年の普墺戦争後は、オーストリア皇帝をハンガリー王とする条件での独立を認められ、全く独立の議会を持つ、オーストリア=ハンガリー二重帝国を形成して、第一次世界大戦を迎えたのでした。ドイツ側同盟諸国の敗色が強まった1918年に入って、オーストリアからの敢然独立の空気が強まり、同年秋、ハンガリー民主共和国として独立、オーストリアとの絆を完全に断ち切ったのです。この動きをリードした開明貴族のカーロイは、講和を進めながら土地改革を目指しましたが、保守派の抵抗にあって失敗、1919年3月にブタペストで蜂起した、ベラ=クンを指導者とするハンガリー=ソヴィエト派が政権を獲得するに到りました。クンは大戦に従軍中に、ロシア軍の捕虜となり、ロシア革命とソヴィエト運動を目撃して、その熱心な支持者となった人物でした。政権を握ったクンら革命派は、地主や教会の所有地、銀行や工場等の国有化を急ぎましたが、とりわけ伝統や農村特有の慣行を無視した土地国有化方針は、伝統を重視する農民層の離反を招き、ルーマニア、ユーゴスラヴィア、チェコスロバキアなど周辺諸国との対立までうまく利用した連合国の干渉に屈し、19年8月ハンガリーのソヴィエト革命は、崩壊の憂き目をみたのでした。この時期、ロシアのソヴィエトも諸外国の支援を受けた反革命戦争を戦っており、ハンガリーの仲間へ救援の手を指し伸ばすことは出来なかったのです。 続く
2008.01.24
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記事の訂正:葉書50円、封書80円に 昨夜の記事に誤りがありましたので訂正します。記事中1994年の50円、80円への値上げは、81年の30円、50円から13年振りの値上げであると記しましたが、途中の2回の値上げを飛ばしておりました。その後、葉書40円、封書60円に値上げされ、さらに89年4月1日の3%の消費税導入と同時に、消費税分として、葉書41円、封書62円に値上げされていたのを、落としておりました。お詫びして訂正します。それから5年して、50円、80円というキリの良い数字となり、97年の消費税5%への引き上げの際には、値上げは見送られたのでした。自宅に残る1円切手は、41円、62円時代の使い残しだったのを忘れていました。
2008.01.24
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クロニクル 葉書50円、封書80円に1994(平成6)年1月24日この日から、郵便料金が値上げされ、葉書が50円,封書が80円となりました。郵便事業の最大の稼ぎ頭である。年賀郵便の出し控えを避ける意味で、年賀シーズンの終った時期での値上げとなったようです。前回の値上げは1981年の1月20日。20円だった葉書を30円に、30円だった封書を50円に引き上げたのですが、この時も年賀郵便シーズンが終了直後だったことに変わりはありませんでした。民営化されたJRは、値上げと縁遠くなりましたが、郵便事業会社(この妙な名も、いずれ何とかしてほしいですが…)も値上げはしにくいでしょうね。宅配業者の新規参入問題がありますからね…。今や封書の代わりに、Eメールが活躍してくれる時代ですし、こちらは内容によっては、日に何度も往復が出来ますので、利便性はグンと高いわけですし、郵便事業もジリ貧の道を辿るのでしょうか。皆さんは、どうお考えですか?
2008.01.24
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第一次世界大戦(53) ヌイイ条約 1915年10月にドイツ・オーストリア側に立って参戦したブルガリアとの講和条約が、19年11月に結ばれたヌイイ条約でした。パリ近郊のヌイイ=シュール=セーヌにブルガリア代表を呼びつけて結ばれたものでした。ブルガリアは長くオスマン帝国の支配下にありましたが、1875年バルカン半島のセルビア・モンテネグロ・ボスニアなどと共に、オスマン帝国からの独立運動を起こし、この間紆余曲折がありましたが、1878年のサン-ステファノ条約とベルリン会議を経て、オスマン帝国内の自治国の地位を獲得しました。ツルゲーネフの『その前夜』が描く、ブルガリア独立運動はこの時期のことを描写しています。その後、1912~13年の2度のバルカン戦争で、セルビアとマケドニアの領有を争って敗れたことから、セルビアに深い遺恨を抱いていたことが、ドイツ・オーストリア側に立っての参戦の理由でした。当初は優勢に戦いが進みましたが、次第に形勢は逆転、マケドニア戦線はイタリア・イギリスらの連合軍の制圧するところとなり、1918年9月の戦闘でブルガリア軍は崩壊してしまいます。劣勢のドイツ、オーストリアにブルガリア救援は不可能だったため、万策尽きたブルガリアは、9月27日に休戦を申し出、29日に休戦が成立していました。ドイツ側同盟諸国で,最初に白旗をあげたのがブルガリアだったのですが、講和は先ず、ドイツそしてオーストリアと行われ、革命中のハンガリーを後回しにして、3番目に呼び入れられたのがブルガリアでした。ブルガリアは新たに誕生するユーゴスラヴィア、ルーマニア、ギリシアの3国に領土を割譲することを強いられ、さらに軍備の制限と4,5億ドルの賠償を押しつけられたのです。このうち賠償額は後に8,400万ドルに減額されましたが、貧しい小国の国民にとっては、大変な負担となりました。小国の施政者のポピュリスムが、前後を弁えずに、国民のナショナリズムを煽ることが、いかに無責任で危険な事かが良く分かる事例を、ブルガリアのケースは示してくれています。最近の日本も、この点に気をつけたいものですね。
2008.01.23
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クロニクル 八甲田山死の彷徨 1902(明治35)年1月23日この日、陸軍第8師団青森歩兵第5連隊の将兵210名が、例年の雪中行軍に出発しました。この年は1月に入って積雪が多く、この日は特に寒気も厳しかったと指摘されています。山口少佐が率いる第2大隊の将兵は1泊の予定で裏八甲田の田代に向ったのですが、夕刻から激しくなった雪に道を誤ったため、目的地に到着出来ず、この夜は半煮えの食事だけで、雪中に野営せざるをえなくなりました。翌早朝から猛吹雪の中を行軍を開始し、いたずらに体力を消耗、凍傷もひどくなって、将兵の4分の1が倒れました。それでも山中の彷徨はなお27日まで続き、最後は隊を解散して各自が思い思いに行動する破目になりました。26日にようやく遭難救助隊が出動したのですが、猛吹雪のため捜索活動も難航しました。27日になって大隊のほとんどが凍死しているのを発見しました。生存者は僅かに17人、このうち6人は収容後間もなく死亡しました。犠牲者199名の大惨事でした。雪中行軍は,ロシアとの戦争を想定した訓練でしたが、装備の不備と進退の判断の誤りが、この大惨事を招いた原因でした。その点は、同じ時期に雪中行軍を行った弘前第31連隊は、全人無事に帰営していることからも明らかでした。
2008.01.22
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バブルを考える(98)中小企業対策中小企業対策にも,大きな問題がありました。金融パニックに陥った金融機関は、自己資本比率を改善するために、引き上げられる融資は全て引き上げ、徹底的な貸し渋りに走りました。利子をつけて預かる預金は、基本的に貸付に回さなければ損失が出ます。ですから貸し渋りは矛盾した行動です。何故そんなことが出来たのか。預金金利を限りなくゼロに近づけるという,政治の手厚い保護のおかげでした。しかし、行き過ぎた貸し渋りは、自民党の支持基盤の1つである中小零細企業の資金繰りに、大きく響く結果になりました。金融機関の融資打ちきりによって,倒産に追い込まれる中小企業が急増したのです。中小企業対策はここで発令されたのです。金融機関の貸し渋りにあっていること、融資の申し出を断られたことの、いずれかを証明できれば、1社に500万円~5000万円までを、信用保証協会が無担保で融資するシステムを作ったのです。貸し渋り対策として、総額20兆円もの特別保証枠が設けられたのです。中小企業に直接融資するのは、金融機関なのですが、借り入れした企業が返済できない場合、企業に代わって信用保証協会が返済してくれるのです。即ち金融機関にとってのリスクはゼロになります。しかも貸付の条件は前述の通りですから、企業の健全性は少しもチェックされません。不良債権に懲りている金融機関が、倒産懸念のある中小企業に、リスクを取って自ら貸し出すことはありえません。金融機関の中には、信用保証協会への融資を申し込ませ、申し込みが受理されて融資金が振り込まれると、そっくりその分を,自行の融資の返済分として、貸付を申し込んだ企業には何も渡さなかったという、ひどいケースも報告されています。もし信用保証協会の保証が、貸し渋りにあった優良企業を対象にしてのものならば、それは理に叶っています。しかし、そうした条件もなく、融資を受けた企業の2割以上が、2000年の春までに倒産し、信用保証協会に拠る弁済分は、2兆円に迫っていたのです(一律に1社5千万円借りていたとすると、4万社の倒産です)。倒産予備軍への債務保証、これこそ究極の税金の無駄使いに外なりませんでした。 続く
2008.01.22
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クロニクル 東京に初の電灯1887(明治20)年1月22日この日,東京電灯会社が移動式発電機を使って、鹿鳴館に白熱電灯を点灯することに成功、営業を開始しました。日本における電灯営業の開始を告げる一幕でした。
2008.01.22
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第一次世界大戦(52) サン・ジェルマン条約 第一次世界大戦は、ドイツ側同盟諸国との戦いでした。その中心は確かにドイツでしたが、ドイツとだけ講和すれば済むものではありません。しかるにヴェルサイユ条約は、ドイツ1国との講和条約であって、同盟を構成したオーストリア=ハンガリー、ブルガリアそしてオスマン帝国は、蚊帳の外におかれたままでした。ドイツとの講和後、連合国はまずオーストリアと、ついで大戦末期にオーストリアからの分離独立を宣言していたハンガリーと、そしてブルガリアと,最後にオスマン帝国とと、順次講和を結ぶ積りだったのですが、ハンガリーで革命がおきたために、ハンガリーとの講和は、ギリシアとの戦闘を続けていたオスマン帝国との講和と共に、先送りされることになりました。オーストリアは、ハンガリーの自治権を認めつつも中欧になお強大なハプスブルグ帝国を保持しておりました。しかし,世界大戦の敗色が色濃くなる中、ハンガリーが独立の道を選び、チェック人もまたマサリクの指導の下に独立の道を選ぶなど、大戦末期には、オーストリアの地位は大きく揺らいでいたのです。講和会議は、ソヴィエトの代表を参加させないまま、ブレスト=リトフスク条約を廃して、旧帝政ロシア領については、フィンランド、ポーランド、バルト三国の独立を決定していました、特にポーランドは、ドイツ、オーストリア,ロシア3国に分割されていましたから、ドイツ,オーストリアの持つポーランド領も、夫々の手から取り上げられ、独立が認められたのでした。オーストリア支配下のチェコとハンガリー支配下のスロヴァキアも、統一したチェコ=スロヴァキアとして独立を認められました。ハンガリーの独立も正式に認められました。またクロアティア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェコビナの分離を飲まされ、これら地域はセルビアと連邦を組んで,ユーゴスラヴィア連邦として独立することになりました。さらにオーストリアは、イタリアとの係争の地であったチロルとトリエステの割譲を余儀なくされました。フィウメもまた独立の自由市となりました(同地は1924年に、ムッソリーニの手でイタリアに併合されます)。オーストリアはこうした領土制限と軍備の縮小、賠償義務などを盛り込んだ講和案を押しつけられ、反論の余地なく受け入れざるを得ませんでした。そのオーストリアが連合国に要望したのは、ただの1点だけでした。それは、帝国の要素をすべて剥ぎ取られる以上、もはや独立オーストリアでいる必要はなく、ドイツ共和国の1州としてドイツと合併する事を認めてほしいということでした。しかし、オーストリアのこの要望は、ドイツの大国化を警戒する英仏が受け入れるはずがなく、無視されたのでした。こうしてオーストリアは、国土面積と人口が共に4分の1という小国の姿に変貌したのでした。かくして、社会主義のソヴィエト・ロシア(後ソ連)とドイツとの間に北からフィンランド・バルト3国・ポーランド・チェコ=スロヴァキ、ハンガリー・ユーゴスラヴィアと民族自決の名の下に、独立を達成した国々が並んだのです。それは、ドイツの大国化を牽制し、かつ社会主義のソヴィエト・ロシアを封じ込めるための、米・英・仏3国による巧妙な仕掛けでもあったのです。 続く
2008.01.21
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クロニクル ロンドン海軍軍縮会議開催1930(昭和5)年1月21日この日、ロンドンで米・英・日・仏・伊5ヶ国が参加して海軍の軍縮会議が開かれ、激論の末、以下のような条約がまとまりました。1、主力艦の建造停止を5年間延長する2、主力艦の保有率を英米の15に対し日本は9とする3、米・英・日3国で補助艦協定を結び、日本は総量で米国の69,7%とす る。潜水艦保有は、各国同じとする。この条約に対し、軍部・右翼は強く反対しましたが、浜口内閣は国民の支持を背景に、これを抑えて調印にこぎつけました。
2008.01.21
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クロニクル イラン米国人人質解放1981(昭和56)年1月20日この日イランの学生達は、政府の説得に応じて駐イラン米国大使館の占拠を解き、54人の米国人人質を解放しました。占拠は79年の11月4日から続いていましたので、解放された外交官らは実に444日振りに解放されたことになります。この444日の間に解放されたのは、体調を崩して入院加療が必要と判断された数名に留まっていました。後日談になりますが、この解放の裏には、イラン・イラク戦争の継続に兵器を必要としていたイランに、米国政府が武器の密売を確約するという裏取引がありました。それも敵対するイランに、ストレートに売るわけにいきませんので、中米ニカラグアの反政府ゲリラを支援する名目の兵器を、イランに横流しし、ニカラグアのゲリラには代金を資金として提供すると言う、手の混んだ芝居をしていました。後に明らかになったイラン・コントラ事件です。
2008.01.20
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バブルを考える(97) 公共事業バブルの問題とやや離れるのですが、財政問題を考える時、もう少し公共事業の問題点を綴りたいと思います。公共事業は例え国の事業であったり、鉄建公団や道路公団の事業であっても、工事現場はどこかの自治体になります。地元の協力がないと工事は進みません。そこで地元選出代議士や自治体の要望を入れて、大手や中堅のゼネコンと地元業者との共同企業体(ジョイント・ベンチャーJV)に発注する仕組みが増えているのです。施行能力に劣る地元業者に一定の利益を確保するための仕掛けです。当然ながら工事単価は割高になります。あまり知られていないのですが、中小の土木業者に公共事業の受注機会を確保するための「官公需法」という法律があります。国や公団の公共事業の一定割合を中小の施行業者に発注することを義務付けた悪名高い法律です。この法に基づき,毎年の公共事業の40%強が地方の中小業者に配分されるのです。そして地方自治体は、自治体ごとに国とは別に発注目標を定めているのです。当然ながら中小の業者に、大規模工事がまとめて施行出来るはずがありません。大規模工事を細かく分割して発注する必要が出てきます。当然効率は悪くなり、費用も嵩みます。まさに非効率の典型です。そして、皆さんのお宅の近所でも、道路が頻繁に掘り返されていませんか。そこで行われるのは、ほんの僅かな手直しに過ぎません。単純な工事しか出来ない零細業者にまで、公共工事を配分するための措置なのです。何故こんなことが行われるのかというと、それはまさに政治の要請です。選挙のためなのです。小選挙区制の導入で、選挙区は小さくなりました。狭い地域での集票のために、中小建設業者の集票機能は評価を高め、発言力を増したのです。選挙のために中小零細の建設・土木業者の要望を受け入れようとする政治家も増えているのです。こうして建設業界は公共事業にもたれ掛かりながら、生き延びる道を模索し、構造改善を先送りし続けているのです。いまだに業界全体にカルテル体質が温存されている事実からも、この点は確認できます。
2008.01.19
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第一次世界大戦(51) ヴェルサイユ条約こうして5ヶ月をかけて、パリの講和会議は、ようやく対ドイツの講和条約を作りあげました。全文で440条に及ぶ膨大なものでした。その第1編は、ウィルソン提案にあった国際的平和機関として、国際連盟の創設をうたっていましたが、既に指摘した通り第2編以下のドイツに関する部分は、ドイツを厳しく制約するものでした。そしてこの間、ドイツには何の音沙汰もなく、ただ連合国の協議が終了するのを待たされただけでした。ドイツにとって、これが敗戦の現実でした。戦勝国の中でも英・仏・米三国の密室の協議が、条約のほとんどを決したのです。そしてその内実は、仏・英二国の対立と妥協に立ったゴリ押しが、ウィルソン流の理想主義を次第に骨抜きにし、両国の都合を優先させるものでした。こうして完成した講和条約案を、ヴェルサイユに呼びつけられたドイツ代表は、一切の弁明も反論の機会も与えられずに、ただ受け入れることだけを強要されたのです。その際連合国側は、「5日以内に、この条約案を受諾しない場合は、休戦中の戦闘をただちに再開する」という、脅迫的な内容の通告までつけていたのです。ドイツは、押しつけられた講和案をそのまま受諾するしかありませんでした。休戦を申し込む際に、ドイツの政治家が描いていた最も悲観的な見通しよりも、さらに厳しい現実がそこには待っていたのでsづ。ヴェルサイユ条約は、こうして6月28日に調印されました。5年前にサラエボ事件の起きた、まさにその日でした。舞台はヴェルサイユ宮殿の鏡の間、1871年にドイツに敗れたフランスが、アルザス・ロレーヌを割譲させられた屈辱の講和条約を結ばされた場でした。復讐は将来の明るい展望を開かない。そんな未来を予感させる出来事であったように、この事実を振りかえるたびに、私は考え込んでしまいます。 続く
2008.01.19
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クロニクル 社会党第一次分裂1950(昭和25)年1月19日この日、社会党は路線問題をめぐる対立から、左右両派に分裂しました。少数派の右派は片山哲元首相を委員長に選出、多数派の左派は委員長を空席にして、鈴木茂三郎を書記長に選出しました。この時の分裂は、およそ2か月半後の4月3日に再統一となりました。前年12月に、全面講和、中立堅持、軍事基地反対の平和三原則を決定していたのですが、右派は独立が先決であるから、単独講和でも受け入れられないわけではないとの立場もとり、左派とは一線を画していたのです。平和三原則は、翌51年1月の党大会で再軍備反対を加えた平和四原則に拡充され、ここで左派の鈴木茂三郎を委員長に選出しました。しかし、政府が西側諸国中心の単独講和を次善の策として推進し、同時に日米安全保障条約を結んだことを巡って、絶対反対の左派と、条件付容認の右派とは再び対立が再燃します。ここに10月24日、臨時党大会を開いた社会党は、再び左右両派に分裂したのです。今度は簡単に元に戻ることは出来ず、再統一は1960年秋のことになります。ここでは憲法改正絶対阻止という理念の前に,小異を捨てて大同に点くことになったのでした。
2008.01.19
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バブルを考える(96) 財政問題…2 新幹線98年以降に投入された総合経済対策は、どんな効果を発揮したかを見てみましょう。先ず金融機能安定化対策費を見ましょう。この費用は、金融機関の破綻処理や預金者保護、そして金融システムの崩壊を崩壊を防ぐための資本注入などであるから、金融機関の不始末と行政のミスの尻拭いのための費用という性格を持つ、後ろ向きの対策費です。前向きの構造改革のための費用とは、とても言えません。その役割は、とりあえず金融恐慌の発生を抑え、金融機関をして、構造改革のスタートラインに立たせる条件を、政治の援助で整えてやることにあります。情けないことですが、当時はこれが喫緊の課題だったのです。対策費の使徒の第2は、公共事業です。悪名高い整備新幹線の復活です。赤字新幹線の建設凍結でお蔵入りしていた九州新幹線や、北陸新幹線、東北新幹線の延長などが復活したことです。80年代の中曽根政権下における国鉄民営化によって、赤字路線の建設には厳しい歯止めがかけられたはずでした。それでも、上越、山形、長野、東北の4新幹線は赤字路線となっています。民営化したJRに赤字の全てを押しつけるわけにはいきませんから、旧国鉄の赤字の多くは国鉄清算事業団が引き継ぎ、8~10%という高い金利の減免を銀行団に要請することもなく支払い続け、残った赤字20数兆円は税金で穴埋めしました。そして、民営化後については、今後建設される新線については、鉄道建設公団(現在は独立行政法人)が建設して所有、JR各社に貸し出すことにしています。JR各社が軌道を借りて使用料を払って、列車を運行するのです。この軌道の使用料は乗客の見込み数、運転本数によって見直されます。それゆえ、新幹線建設の赤字の多くは、「鉄建公団」が抱えているのです。いわば、国の隠れ借金、国による不良債権隠しがここにあるのです。それでは、新幹線建設で地域住民は潤うのでしょうか。そうではないのです。新線の停車駅近くの自治体と住民にはプラスになるのでしょうが、新幹線の停車駅は在来線に比べて、グンと少なくなります。そしてJRは新幹線の運行を開始すると同時に在来線の運行を停止してしまいます。廃止されると地元の足はなくなってしまいます。それでは困る地元自治体が協力して第3セクターを設立、資金を出し合って在来線を運行するのです。こちらも当然のように赤字となって、自治体財政を圧迫しているのが現実なのです。こういう問題山積みの状況には,知らん顔をしながら、現在も問題山積みの新幹線延伸建設費を組み込んだ予算案が、国会に提案されているのです。そして、ネジレ国会でも、この点が問題とされることはないのが現実です。自民・民主両党の議員の多くが、赤字新幹線の建設に声を上げて反対することがないからです。 新幹線の停車駅の出来る地域の自治体と住民は喜び、その他の地域の自治体や住民との間の生活格差を広げる、喜ぶのは地元の大企業と中央・地方の政治家と役人、仕事の入る中央と地方のゼネコンくらいでしかない、新幹線建設がこうして今も続いているのです。本来は国鉄の民営化で終るはずだったのに……「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く…」 続く
2008.01.18
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第一次世界大戦(50) ヴェルサイユ条約へ…その2講和条約における領土問題では、フランスの強硬姿勢が際立っていました。それはドイツに対するフランスの怯えと裏腹の関係にありました。クレマンソーを初めとするフランス代表団は、仏・独の緩衝地帯としての中立国の役割に期待できないこと、ベルギーやルクセンブルグの存在が、第一次大戦では全く役に立たなかった現実から出発していたからです。彼等はフランスが、ドイツと戦える物的・人的な軍備を備えた国家になることが必要であると主張したのです。ドイツ領をライン右岸に限定しても、なおドイツの人口は6千万人となるのに、ライン左岸を加えても、フランス、ベルギー、ルクセンブルグの人口は5,5千万人にしかならないので、なおドイツが優位であると指摘して、ライン左岸のドイツからの引き離し、さらにライン右岸50キロにわたる非武装地帯化を要求したのです。昨日の(59)に記したパリ講和会議の結論は、こうしたフランスの主張と、ドイツに強硬な態度を取り続けることは、ドイツにおける共産勢力(ボリシェヴィズムを指す)の伸張を許す事になるとする、英・米の反対との妥協の産物でした。ことが賠償の問題、無償金での戦争終結の問題となると、領土問題では対立していた英・仏は微妙な対立点を含みながらも、ウィルソンのアメリカに対して協調姿勢をを取りました。対立点は、その北部地帯が対独戦争の激戦地となり、国土の一部が灰燼に帰したフランスと、都市部や工業地帯に艦砲射撃による被害はあっても、地上戦が行われたわけではないイギリスとの違いにありました。戦争被害に対する賠償ばかりではなく、戦費負担の一切をドイツに負担させようとするフランスと、戦争被害に対する保障のみを要求するイギリスとの違いでした。そして両国とも、米国の政府や民間から巨額の借款を得ている点で共通していました。米国は大戦を通じてヨーロッパに対する債務国から債権国へと変貌を遂げていたのです。つまるところ、フランスとイギリスの主張は、ドイツからの戦争賠償んあしには、自国の経済復興もままならない。それでは対米戦債の返還も覚束ない。返還を免除してくれるならともかく、返還に応じるためには、ドイツからの賠償金によって,経済復興を図る必要がある。と言うものでした。それでもウィルソンが、賠償金総額の巨額さに首を縦に振らなかったために、賠償総額は講和条約には盛り込まれず、暫定的に戦前の金平価で、200億金マルクとされ、2年後のロンドン会議で、正式に1320億金マルクという天文学的数字になったのでした。 続く
2008.01.18
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クロニクル 李承晩ライン設定1952(昭和27)年1月18日朝鮮戦争がなお継続中のこの日、韓国政府は海洋主権を宣言し、李承晩ラインを設定する旨,発表しました。当時米国は、前任の司令官マッカーサーが発したマッカーサーラインから朝鮮半島寄りの海域を戦闘ラインとして、漁船等の立ち入りを制限していました。李承晩ラインは、このマッカーサーラインよりも日本寄りの位置にあり、この海域から韓国寄りの領域を、韓国の領海とする旨,宣言したのです。この結果、公海上と判断して漁を続ける日本漁船が、韓国警備艇に拿捕されるケースが続出することになり、日韓関係は一時緊張を続けることになりました。
2008.01.18
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バブルを考える(95) 財政問題…1ところで、バブル不況下では,度々財政出動が行われてきました。その結果を見ることにしましょう。バブル不況が深刻さを増すにつれ、日本の財政の健全度は急速に損なわれたことが指摘されています。バブル不況の下、2000年3月までで、総額100兆円を超える公共投資を実施し、それとは別に様々な景気対策も実施しています。97年の金融パニック以後の総合経済対策だけをとっても、3年間で100兆円を超える予算が投入されています。それで効果はあがったでしょうか。株式市場の立直りは、2003年のりそな銀行への公的資金投入を転機に、急速に進む事になりました。景気の方は、それより早く2002年の中頃から、緩やかな回復を続けて今日まできています。しかし、この景気回復は財政出動の結果というより、リストラに励んだ企業の自助努力と、中国を中心とした新興経済諸国の経済的離陸の恩恵によるものだったことが、かねてから指摘されています。公的資金を湯水のように投入した、多額の公共投資を含む経済対策も、実際には景気の下支えに役立っただけなのです。景気に多少明るさが見えれば、当然ながら財政政策の重心は、財政再建に軸足を移し、緊縮気味の予算配分に舵を切ります。すると、財政に頼りきっていた経済は減速します。2001年までの10年はあきれるほどに、この繰り返しでした。カンフル注射で辛うじて最悪の事態に陥る事を免れているのですが、カンフル剤の効力が切れる毎に景気は後退するのです。それならカンフル注射を打ち続ければ良いのか。そうは行きません。景気を刺激しても本格的に回復するのではなく、下支えがやっとなのですから、やがて財政がパンクすることになるからです。現実に景気の回復は、リストラに励んで、国際競争に打ち克つべく、自助努力を続けた企業群の業績の回復によって齎されました。この事実は重いと言わざるをえないように思います。 続く
2008.01.17
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第一次世界大戦(49) ヴェルサイユ条約へパリの講和会議は間断なく続けられましたが、成案が出来、有無を言わせずドイツに連合国案を押しつけ、そのまま認めさせたのは、6月下旬のことでした。講和会議で意識された無併合・無償金の講和原則は、その姿を留めることは出来ませんでした。フランスの安全確保を最大の目標としていたクレマンソーは、アルザス・ロレーヌの返還はもとより、ライン川を独仏間の自然国境とするための、ライン左岸(西岸)の英・仏による15年間の占領を認めさせ、さらにザールの炭田地帯の同じく15年に及ぶ国際管理も認めさせたのです。ライン右岸(東方)も、その50キロメートルの地点までを非武装地帯とすることも決まったのです。また東方では、ダンツィヒは国際連盟管理下の自由都市となり、再興なったポーランドが外交権と関税徴収権を持つことになったのです。ドイツ領植民地は、そのアフリカ植民地は英・仏が、南洋の島嶼は日・英が、そして中国山東省は日本が、委任統治を行うことになったのです。こうしてドイツは、ヨーロッパにおいて、ザールという重要工業地帯を含む領土の6分の1を割譲し、植民地と国外の権益の一切を失う事になったのです。さらに、ドイツの戦闘能力は大幅に制限されることになり、徴兵制は禁止され、陸軍兵力は10万人までとすること、性能の高い最新兵器の保有禁止、空軍保持の禁止,海軍兵力は1,5万人まで、艦船の保有は10,8万トン、潜水艦保有の禁止などとされたのでした。 続く
2008.01.17
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クロニクル 民選議院設立建白書提出1874(明治7)年1月17日この日、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らが、連名で「民選議員設立建白書」を議会に提出しました。そこでは、人民の自由と民権の確立を基礎として民選議院(議会)を創設し、民意に基づいた政治を行うことが提議されていました。この建白は、国民の間に強い衝撃を産み、賛成論、反対論、時期尚早論が入り乱れての喧喧諤諤の議論が続きました。しかし、この時期の民権運動は、征韓論に敗れたが故に国権派が巻き返しを誓ってはじめた運動であり、選挙権もかなりの大きく制限する事を認める、上流の民権を目座すという限界を抱えていまいた。 こういう限界から、自由民権運動の本格的成長は、明治10年の西南戦争の敗北によって、力に拠る反政府運動(士族反乱)が完璧に抑え込まれた後に、それなら言論での反政府運動をと、反政府派の大同団結が実現して、はじめて大きなうねりとなったのです。
2008.01.17
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バブルを考える(94) 不振業種…2 再びゼネコン…その2大都工業と良く似たケースに、関西を地盤とする村本建設の例があります。同社も会社更正法に拠る再建中なのですが、事業管財人に元防衛施設庁長官を選任し、その影響力に頼って、自衛隊や米軍関係の工事を数多く受注し、他社の羨望を買って、問題となりました。そして注意すべきは、防衛施設庁、米軍関係の工事は公共事業費削減の影響を全く受けず、現在でも漸増を続けている数少ない分野であることです。以前に記した飛島建設の受注に占める公共工事の割合も、98年3月期の42%から99年3月期には53%に上昇し、小泉政権の緊縮財政の下で、公共事業量が減少しても、なお50%に近い水準を維持しているという突出振りが目につきます。不祥事の影響で民間工事の受注が落ち込んだ分を、官庁工事で穴埋めしている図式が見事に示されているケースです。こうした公共工事のあり方は、到底経済合理性に基づいているとは、言えないシロモノです。それどころか、ゼネコン業界の構造改善の阻害要因と言うべきもののように思えます。高級官僚を高給で迎え入れてくれる美味しい天下り先への1種のお返しが、受注高の異常な突出として現れている姿は、実質的には汚職の匂いが強く漂う、悪質なリベートだと考えて良い要に,私は受け止めています。少なくとも,最少コスト原則に基づかない税金の使い方になっていることは、間違いないと言えましょう。不動産についても利権絡みのケースが多いことは以前から指摘されています。新幹線、地下鉄、高速道路とどれをとっても、もし誘致に成功すれば,周辺地価の高騰は間違いないからです。ゼネコンに仕事を、地方有力者には、事前情報で先に仕込んでおいた土地の転売益を、これが公共事業や誘致事業の大きな魅力となっていることは、間違いのないところです。こうしたタカリの構造が、今もってなくならないところに、日本経済のジリ貧の原因のかなりの部分があるように思えます。 続く
2008.01.16
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クロニクル パーレビ国王亡命1979(昭和54)年1月16日1978年秋以降、革命情勢が日増しに強まりつつあったイランで、この日遂にパーレビ国王が亡命を決断、エジプトに出国しました(後病気治療名目で、米国が亡命を受け入れました。ここにイランの王政覇崩壊し、イラン・イスラム革命は勝利に向けて大きく前進しました。2月1日には、革命派の精神的支柱だったホメイニ師が、亡命先のパリから15年振りに帰国、国民各層の熱狂的歓迎を受けました。2月11日には、革命派による勝利宣言が行われ、ここにイラン革命は成就したのです。
2008.01.16
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第一次世界大戦(48) 講和会議とロシアドイツが休戦を申し入れ、事実上降伏を受け入れたことで、第一次世界大戦は終了しました。しかし、戦闘は間もなく再開されていました。パリで戦勝諸国が講和条件を話し合っている最中にも、ロシアの革命政権に対する干渉戦争が行われていたのです。講和会議では,その冒頭ロシア問題が討議されていました。ロシアの革命政府は1918年末に、ブレスト・リトフスクの講和を破棄して、連合国との講和を改めて提案していたのです。そしてパリ講和会議には、旧ロシアを継承する正統政府として、代表を送る権利があると表明していたのです。連合国は、こうしたロシアの革命政府の提案を黙殺した上に、新たに軍隊を派遣して革命に対する干渉戦争をしかけ、経済封鎖の続行を決めていたのです。なおロシア国内に残っていた反革命派グループは、代表をパリに送って、自分たちを正統政府と認めること、ソヴィエト政権をボイコットすることの2点を働きかけていました。講和会議の内部でも、対露方針に関する意見は割れていました。武力干渉や経済封鎖は、かえってロシア国民をボルシェヴィズム支持に結びつけてしまって逆効果であると、ロイド・ジョージらは主張したのです。そこから、ロシア各派の代表を一同に集めて、内戦終結のための円卓会議を開く構想が産まれました。しかし、反革命派が拒否したため、この会議は実現しませんでした。3月に入ると、ボリシェヴィキの社会主義政府を抹殺したい欲求を持つ、各国政府の支援を受けた反革命派の攻勢が強まり、干渉戦争も積極化します。しかし、4年余の戦争に疲れ、ひたすら平和を望んでいたのは、ドイツやロシアの兵士ばかりではありませんでした。4月には黒海に遠征中のフランス艦隊で反乱が起き、連合軍はオデッサからの撤退を余儀なくされました。北部ロシアでも英・米連合軍の兵士の反乱が起き、駐留の継続は連合軍兵士をボルシェヴィキ化させかねない危険を持つことが明らかになったのです。こうした兵士や世論の出兵反対の声が、干渉戦争の継続を困難にしました。こうして講和会議は、「連合軍のロシアからの撤退と、ロシア国内の白衛軍(反革命軍)へのあらゆる援助の継続」を決議するに到るのです。連合軍のほとんどは、こうして20年夏までにロシアから撤退したのですが、1人日本のみは、約7万の兵力を22年6月までシベリア駐留を続けたのです。この一方で、反革命勢力に対する軍事的・経済的支援は続けられ、アメリカからは1億ドルを超える借款が、イギリスからも5千万ポンドを超える借款が提供されたのです。講和会議のこのような方向から、やがて登場するヴェルサイユ体制が、反社会主義に基礎を置く、ロシア(後のソ連)社会主義の封じ込めを狙った大成となることは、予測できることでした。 続く
2008.01.15
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バブルを考える(93) 不振業種…2 再びゼネコン建設・土木の業界においては、信用力の高い企業が元請けとして公共事業に参加できることになっています。そして官庁は天下り先確保の思惑から、債務免除を受けたような経営不振企業でも、入札から外すことをしません。そうすると信用力があるからと、民間工事の入札にも参加できます。債務免除を受けた結果、借入金の利払い負担は軽減されますから、債権放棄を要請せずに頑張っている企業よりも,利払い負担の軽い分だけ安値で受注することが可能になるのです。官庁が天下り先確保の思惑で、経営不振企業を庇い、入札に参加させていることが、建設業界の全体としての立直りを遅らせ、競争力も生産性もの高い企業群としての再生を阻んでいる現実がここにあります。いつまでたっても談合体質が温存される理由も、この辺に根がありそうです。最も露骨で極端と思える例を、いくつか具体的に記します。97年8月に倒産し、会社更正法の適用を受けて更生中の大都工業という、海洋土木工事を得意とするマリコンがあります。同社の倒産前の海洋土木関係の受注高は、年間の平均で300億円台でした。この大都工業は更正法の適用が決まると、運輸省(当時,現国土交通省)の元港湾局長を事業管財人に選任して、この管財人の顔で更生中にも関わらず、港湾関係工事の入札への参加を認められ、倒産前の80%近い受注量を確保しているのです。事業に失敗した敗者(あくまで敗者であって、決して弱者ではありません)に退場を迫らないシステムは、脆弱になります。いつまで経っても,事業の効率化が進められないからです。こうしたおかしな例は、まだまだあるのです。 続く
2008.01.15
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クロニクル 平和問題懇話会声明発表1950(昭和25)年1月15日この日、平和問題懇話会に集った学者・文化人たちは、「講和問題に対する声明」を発表、岩波書店発行の『世界』3月号に全文が発表されました。声明は、来るべき講和について、全面講和、中立不可侵、国連への加盟、軍事基地化反対、経済的自立の達成などなどを主張し、世論の喚起に務めたのでした。
2008.01.15
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第一次世界大戦(47) 3人の政治家…その3 フランス首相クレマンソーは、急進的左派の出身でした。普仏戦争後、アルザス・ロレーヌの割譲に反対して、講和条約に反対票を投じ、パリ・コミューンとヴェルサイユ議会との仲裁に動き、その後は流刑となったコミューン戦士の特赦に奔走した経歴の持ち主でした。クレマンソーが政界で大きな地歩を築いたのは、対独復讐をバネに軍事クーデタを計画したブーランジェ一派との果敢な戦いと、国家主義的反動の犠牲とされようとしていたドレフュスの弁護を通じてでした。2つの事件に共通するものは、共に19世紀末のフランスにおける、軍国主義に対する激しい敵愾心でした。ここにクレマンソーの真骨頂がありました。クレマンソーは国内の右派との戦いに情熱を燃やしてきた政治家でしたが、その彼も、外敵のために祖国フランスに危機が迫っていたがゆえに、右派をも巻き込んだ挙国一致内閣の首相を引き受け、右派の将軍たちとも手を組んだのでした。講和会議の席においても、クレマンソーの最大の関心事は、将来における自国フランスの安全確保であり、ドイツとの力のバランスをどうとるかでした。そこにウィルソン的理想主義が入り込む余地はなかったのです。問題はドイツの脅威からフランスの安全を守ることに尽きていました。ロイド・ジョージもまたイギリス政界の革命児でした。大戦勃発前に蔵相を務めた彼は、ドイツの軍拡に対抗するため、軍事予算を組まざるをえなくなった時、上院の強い反対を抑えて、富裕階級に限定した増税案を可決,成立させることに成功したのです。そこには、アイルランドの自治を約束して、アイルランド国民党(後のシン・フェイン党)の協力を取り付けたり、社会政策の継続による、労働者階級の支持を得たりといった、彼独特の政治的判断が働いていました。当然、2人の政治家にとって、夫々寒暖の差はあったのですが、ウィルソンの14ヶ条提案は、到底そのまま認めることの出来るものではなかったのです。 続く
2008.01.14
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クロニクル 自民・自由両党連立内閣誕生1999(平成11)年1月14日この日、自民・自由両党が連立政権を組む事で合意、自由党幹事長の野田毅が自治相として入閣した、小渕恵三内閣が発足しました。この連立は、やがて自由党を仲立ちとして、公明党をも連立政権に取り込むことに成功、10月には自・自・公3党の連立に発展しました。
2008.01.14
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バブルを考える(92) 不振業種…1経営不振業種は、国際競争と無縁な専ら国内市場を対象とした企業に多い。国際競争と無縁の内需中心の規制に保護された業種が、その中心をなしていました。いずれも諸外国の企業と比べた生産性が著しく低いという弱点を持っています。流通業界は規制に頼ってきた業界の1つの典型を提供してくれています。経営不振から身売りしたダイエーや西友などのスーパーは、主婦の店の看板を掲げ、規制の網の目を潜っては安売りをしかけたりして、成長を続けてきたのですが、ひとたび自社の進出に成功すると、他者の進出を妨げることが、独占的利益に繋がるため、規制の支持派に転向するのです。出店の実現までは規制反対の声をあげ、出点実現後は規制支持を表明するのです。スーパーの天下は、店舗面積を小型化し、営業時間を延長し、さらにコンピューター管理を徹底して、売れ筋商品中心の品揃えに徹したコンビニ旋風と、店内いっぱいに商品を積み上げるタイプの専門店化した安売り店の前に崩れ去ったのです。そして、こうした専門店の多くは、大型駐車場を完備した郊外に店舗を構え、車で来店する顧客にターゲットを絞って営業して成功を収めたのでした。一定面積までの出店規制が緩和されても、小型店では品揃えの充実に問題が生じるため、専門店の多くは、規制のゆるい郊外を選んだのです。ところが、そうなったらなったで、今度は駅前繁華街の集客が翳り、売上げが大幅にダウンするという結果を生じたのです。大型店の出店を拒んだ当然の報いを受けたのですが、ここでまた新たな規制に頼ろうと、郊外型大型店の出店規制を、政治を巻き込んで実現してしまったのが、昨年のことでした。自ら車を運転しないお年寄りに不便だというのが、その根拠です。唯々諾々とそうした要請を受ける政治家も政治家です。許認可の権限が増える役人もニコニコ顔のようです。しかし、自ら集客の努力もせず、大型店を排除しておいて、そうした店舗を郊外に追い遣って置きながら、顧客にソッポを向かれると追加の規制で、政治に何とかしてもらおうという、自助努力をおき忘れた姿勢では、逃げ出した顧客が戻ることは期待できません。錆びれた駅前商店街の活況を取り戻すのは、顧客を引きつける魅力的な店舗作りに、商店街の総力を絞るべきなのでしょうが、なおその道は遠いのが,今日の現実です。規制を全て返上するような意気込みが、全国隅々にまで広がる勢いが見えて来ない限り、流通業界の本格的な再生、諸外国に負けない生産性の水準は確保できないように思えます。 続く
2008.01.13
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第一次世界大戦(46) 3人の政治家…その2アメリカ合衆国大統領のウィルソンは、政治学者出身の学究で、プリンストン大学の総長から、1910年に政界に転じ、民主党の支持を得てニュージャージー州知事となった清新な人物でした。選挙戦の最中、銀行家との会合で「銀行業は道徳的基礎の上に築かれるべきであり、利潤の法則以上に、崇高な法則のあることを理解してほしい」と述べた逸話で知られる理想家肌の人物でした。当時の米国内では、反独占の空気が強く、国民の間では政治的にも経済的にも改革への期待が高まり、冨と収入の不公正な分配を正さない政治に対する改革,改善要求が強まっていました。いわば革新主義の空気の強い時期でした。その空気を敏感に察知した民主党は、1911年の大統領選の候補者として、政治経験のほとんどないウィルソンこそ、その理想家肌の弁舌と、清新な印象から、革新主義の風潮が強まる中での最良の大統領候補と判断して、彼を候補者として推薦したのです。この作戦は大成功を収め、当時の48州のうち、ウィルソンは40州で勝利する圧勝で、大統領に当選、1912年に大統領に就任したのです。就任早々ウィルソンは、平均40%だった関税率を26%に引き下げました。消費者の犠牲によって、重要産業に高い利潤を保障しようという大資本の論理に、彼は妥協しなかったのです。米国ではじめて所得税に累進課税を適用したのも、ウィルソンでした。いまや多くの日本人が知っている連邦準備制度(その理事会がFRBと呼ばれます)を確立したのもウィルソンでした。当然、就任当初のウィルソンと大資本の仲は、かなり険悪なものでした。この両者の関係を改善したのが、ヨーロッパに発生した大戦争だったのです。理想家肌のウィルソンは、当然戦争に反対し、世論の支持も得て中立政策をとります。戦時経済に傾くヨーロッパ諸国への日用物資の輸出、次いでドイツの商船攻撃への反発としての英・仏側への傾斜と借款の提供、やがての参戦と大資本との関係も改善し、大資本もまた消費需要の拡大による国内市場の拡大を受け入れるようになり、革新主義は一定の成果をあげたのでした。こうした成果をバックにパリ講和会議で、フランスのクレマンソー、イギリスのロイド・ジョージという2人のヴェテラン政治家の前に立ったウィルソンですが、政治経験や外交術という点では,大きなハンディを負っていたのです。 続く
2008.01.13
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クロニクル 森戸事件1920(大正9)年1月13日この日、東京帝国大学経済学部の森戸辰男助教授が休職を命じられる事件が起きました。創立から日の浅い、同学部の紀要『経済学研究』の創刊号に掲載された森戸の論文「クロポトキンの社会思想の研究」が、無政府主義(アナーキズム)の宣伝になっているというのが、その理由でした。森戸の論稿は、社会政策を論ずる立場から、単にクロポトキンの無政府主義の考え方を紹介したものに過ぎなかったのですが、右翼御用学者の上杉慎吉らが、危険思想であると騒ぎたて、政治の圧力を招いたのでした。これが世に言う森戸事件で、森戸と編集発行人の大内兵衛助教授が朝憲紊乱、新聞紙法違反で起訴されました。その結果、森戸は禁固3ヶ月、罰金70円の罪に問われ、大内は禁固2ヶ月、罰金20円、執行猶予2年を言い渡されました。この事件は国家による学問・思想の自由の弾圧の先駆けをなすものとして知られ、以後こうした動きが強まっていくような…。 続く
2008.01.13
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第一次世界大戦(45) 3人の政治家…その114ヶ条原則を引っさげたアメリカ合衆国大統領ウィルソンは、12月14日パリに到着しました。パリ講和会議は翌19年1月に、戦勝27ヶ国によって開始されました。ドイツなどの敗戦国は招かれませんでした。先ずは戦勝国側の意見を合致させることが優先されたのです。また戦勝27ヶ国の会議と言っても、米・英・仏・伊・日の5ヶ国が重要事項を決定する最高会議のメンバーとなっていて、他の国々は、自国の関係する問題の会議に参加するだけでした。またイタリアと日本も、直接利害の関わる問題以外には関心を示さず、ほとんど発言もしませんでした。こういうわけで、パリ講和会議は実質的に米・英・仏三国によって、実質的に進められたのです。フランス首相クレマンソーは、1870年の普仏戦争期に、既に急進派に属した若手政治家であり、1871年のヴェルサイユ講和条約の審議に際しては、アルザス・ロレーヌのドイツへの割譲に抗議して、反対票を投じた経歴の持ち主でした。彼と同時代を共有する政治家はほとんどが鬼籍に入り、彼は71年の屈辱を知る唯一の生き残りでした。その老虎クレマンソーが、国家存亡の危機に際して、挙国一致内閣を率いる重責を担い、そして今講和会議のフランス全権として、ウィルソンに対峙したのです。イギリスの首相ロイド・ジョージも挙国一致内閣の首相として、大戦後期のイギリスを指導した人物でした。彼はアジテーション能力の高い、民衆の支持を基盤とした政治家でした。27才で下院に議席を占めたロイド・ジョージは、この時55才、ボーア戦争に大反対した議会演説で、あやうく議会から追放されかけた経歴を持つ彼も、今や壮年の政治家として、現実との折り合いのつけ方に長け、クレマンソーとは別の視点を持ちながらもイギリスの利益を主張すべく、ウィルソンを待ちうけていたのです。 続く
2008.01.12
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バブルを考える(91) 不良債権の実態手元に日本経済新聞の2000年11月29日付け朝刊にのった、当時の4メガバンクの不良債権に関する資料があります。当時不況業種の代表、不良債権の巣窟とされていたゼネコン、不動産、流通の3業種の不良債権がどの程度になるかをまとめたものでした(この時期、ノンバンク向け融資は、ようやく処理が完了したため、大きく減少していました)。それによると、みずほ、三井住友、UFJ,東京三菱の4メガバンク(当時)の融資全体に占める3業種の割合は、そろって30%台前半であることがわかります。そして、今度は不良債権全体に占める3業種の割合を見ると、途端にその比率が大きく跳ねあがるのです。その比率は当時は最も少なかったUFJで47,4%、みずほが49,3%、三井住友が56,8%、東京三菱が63,1%となっていたのです(2000年9月末の数字)。最もUFJは、当時再建中で、後に産業再生機構入りするダイエーの債権を正常債権に位置付けていたのに対し、東京三菱や三井住友は引当対象としていたといった、各行の体力による債権分類の違いもありました。いずれにしても、国際競争の勝者の立場にあった自動車、家電・半導体、精密、機械といった国際的にみても生産性がトップクラスにある企業群と、国内の規制に安住して生産性を高める自助努力を怠ってきた生産性の低い企業群との差は歴然としていました。
2008.01.12
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