( 承前 )
前頁掲載の壷井八幡宮から始めます。
壷井八幡宮と壷井権現社の間の庭に源義家の歌碑がありました。
吹く風を なこその関と 思へども
道もせにちる 山桜かな (源義家)
歌意は下の写真にてご覧下さい。歌碑の隣の木製の古い副碑に歌意が印刷された紙が虫ピンで貼り付けられていました。こういうのも河内源氏らしくてよいではないか(笑)。
壷井八幡宮を出て南へ。左手(つまり東側)間近に見える岡が義家らの墓のある丘と見たが、古い集落の細い路地にて、左に入る道がどれも一見には行き止まりに見える。どれとも決めかねているうちに府道27号との通法寺交差点に出てしまう。再び引き返し、行き止まりに見えた路地の場所へ。その路地に入り、突き当りを左に行くと通法寺跡。その少し手前に通法寺共同墓地がある。墓地に入って奥へと登って行くと義家と頼信の墓がありました。
墓は森閑として人影もない。枯れ葉が風でかさこそと乾いた音を立てるのみ。
まあ、頼朝・義経の時代と違って、武士がまだ公家の下風に立っていた時代、そして前九年の役や後三年の役なども奥州の戦。東北の人には関心を持たれる方も多いのかも知れませんが、後世の保元・平治の乱などと違って、中央の政権を揺るがすものでもなく、注目度は低くならざるを得ない。ということで、これらの事件で活躍した河内源氏も地味な存在。とあれば、この源氏三代墓の何やらもの寂しく打ち捨てられた感じというのも無理のないことですかな。
しかし、小生などは、これらの墓の在り様や佇まい・雰囲気といったものがすっかり気に入ってしまったのでありました。まあ、店や公園や町並ならいざ知らず、墓の雰囲気が気に入るとは変な言い草ではありますが・・(笑)。
義家の墓と向き合うようにして南側に義家の祖父の頼信の墓がある。義家の墓が南向きであるのに対して、頼信のそれは東を向いていますから、墓そのものが向き合っている訳ではない。
参考までに、河内源氏の系図を記して置くと、
満仲(摂津・多田源氏の祖)-頼信(河内源氏の祖)-頼義-義家-義忠-(義高)-為義-義朝-頼朝
である。義高についてはこれを外す説が有力説のようなので括弧表記して置きました。
頼信の長兄が、酒呑童子討伐や渡辺綱・坂田金時ほかの頼光四天王などで有名な源頼光である。
頼信の墓の傍らに大僧正隆光の墓があった。何故?と思ったが、彼は通法寺再興の折には柳沢吉保と共にこれに協力して居り、綱吉死後は失脚し一時この通法寺の住職にもなっていたのですな。将軍綱吉の生母桂昌院の寵愛を背景に隆盛を誇った坊主にしては、まことに粗末な墓である。こちらの墓は分骨墓。彼の生地である奈良市二条町にある超昇寺跡にある本墓も似たりよったりの墓らしいが、機会があれば訪ねてみましょう。
義家・頼信の墓の次は、通法寺跡にあるという、頼義の墓を訪ねる。
通法寺は頼信が小堂を建てたことに始まるという、河内源氏の菩提寺である。明治の廃仏毀釈で、今は山門と鐘楼を残すのみである。
門前雀羅という言葉があるが、此処は門内も雀羅である。未だ蕾も固い桜木が、花の季節にはさぞと思わせつつ、今は寒々とほつ枝を空に向けているのみ。
(通法寺跡・山門)<参考> 通法寺
・Wikipedia
山門を入ると、頼義の墓。
ほかに何も無いのだから、直ぐに目に入る。と言うより、山門を入るまでもなく、塀を廻らしてもいなければ、前の道路から既にそれは見えているのである。
わがブログは「偐万葉」であって「源万葉」ではない。いささか源氏に関わり過ぎました。
通法寺を出て、府道27号から、石川べりに出る。上流へと東岸に沿って走っているうちに何やら様子がおかしいことに気付く。石川に東側から注ぎ込んでいる千早川沿いの道に入っていたよう。かなり、石川から離れてしまった。まさに「しまった」である。この辺りの地名は大伴。大伴の地でヤカモチが道を間違えるというのも「偐」らしくていい(笑)。
目に入った最初の橋を渡って石川東岸の道へと戻る。目指すは彼方小学校正門内にあるという万葉歌碑である。偐万葉というコンセプトに合せようという、まあ、弁解みたいな道行きであります。
やがて、前方左手に小学校らしき建物が目に入る。川の土手道だから標識も住宅もなく川と田畑の中の道。町名を知る手掛かりもない。走った距離感と建物の感じで、これと見定めましたが、的中でありました。
彼方
の
赤土
の
小屋
床
さへ濡れぬ 身に
副
へ
吾妹
(万葉集巻11-2683)
歌碑の方は「小雨降り」と「我妹」となっているが、岩波文庫版の「万葉集」の方の訓で表記しました。「ひさめ」の方が寒そうでいい。「身にそへ」と言わなくても寄り添ってくれるというものである(笑)。しかし、この歌、小学生はどういう意味と理解しているのやら。
「彼方」は、遠くの方、川や野原などの向こう側の意。普通名詞ではなく地名と考え、宇治彼方神社のあたりのこと、とする説もあるようだが、富田林にも「彼方」という地名があるのであれば、名乗りを上げる資格はあると言うもの。こういうのは言ったもの勝ちである。どの道「水掛け論」なのだから。
「彼方」が使われている万葉歌で小生が知っているもう一つの歌はこれですな。草壁皇子が石川郎女に贈った歌である。
大名兒
彼方
野辺に 刈る
草
の 束の
間
も
吾
忘れめや
(草壁皇子 万葉集巻2-110)
この後、滝谷不動明王寺に回る予定にしていましたが、坂道が・・と偐山頭火氏が難色。よって、これにて銀輪散歩終了とし、富田林駅裏の大衆食堂で昼食。帰途は石川河川敷自転車道をひたすら疾駆。出発点のリビエールホール前で、偐山頭火氏と別れ、恩智川沿いを帰りました。途中から雨がポツリ、ポツリ。
以上で、銀輪散歩・石川偐山頭火編完結であります(笑)。
<参考>偐山頭火氏のブログの関連記事は コチラ
から。
自宅療養記・花園中央公園、ライフ新石切店 2025.11.07 コメント(2)
自宅療養記・ホルター心電図と枚岡神社な… 2025.11.04 コメント(2)
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