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このように竹内氏が本にした『帝皇日嗣極秘口伝(正統竹内文書)』のシリーズは、読む人が読めば本当の系図がわかるように、さりげなく口や筆を滑らしながら、少しずつ公開されていったわけです。ただしほんの一部だけですけどね。
では竹内氏が筆を滑らせた『古事記の邪馬台国』で、ほかに何が明らかにされているか、順番を追ってみてゆきましょう。
面白いのは、ナガスネヒコが徐福の子孫であったとする説ですね。
根拠の一つは、秦の始皇帝の時代には既にあった「弩」という機械仕掛けの弓を持っていたことです。
この弓によって、白肩津の戦いで神武天皇の兄である五瀬命は傷を負って亡くなったと言います。
ナガスネヒコの別名が日ノ本将軍(日下将軍。ひのもとしょうぐん)というのも面白いです。日下家は徐福の子孫だったなんていう仮説も成り立ちそうですよね。
また、兄に安日彦(あびひこ)という、太陽神を信仰する祭祀王がいたと竹内氏は言います。
この安日彦の存在は記紀神話からは完璧に消されています。
それでも、鎌倉~室町期に成立したとされる『曽我物語』( には、かつて大和地方を支配していた鬼王として「安日彦」が出てきます。安日王とも呼ばれ、神武天皇に追放されて、東北に逃げたことが伝わっていたことがわかります。
東北の安東家(元は津軽安藤家)がナガスネヒコの子孫だという説もあるようです。実際に 安東氏の後裔である旧・ 子爵秋田家には、家祖の安倍貞任を ナガスネヒコの兄である 安日王 の子孫とする系図が残っているといいます。
『帝皇日嗣』はさらに、日ノ本将軍であるナガスネヒコが東北に逃げたので、青森県に「日本中央」と彫られて古い石碑があるのだといいます。
この「日本中央の碑」はこれまで全くの謎で、坂上田村麻呂(758~811年)が征夷大将軍となり蝦夷征伐に行った際に彫らせた碑ではないかなどと考えられてきました。
でも、そうではなくて、徐福の子孫のナガスネヒコが彫らせた可能性が出てくるわけですね。
しかも興味深いことに、 『 若州 羽賀寺 縁起』によると、 そのナガスネヒコの兄アビヒコの子孫であると主張する檜山系安藤氏(後の安東氏)の二代目当主で、 室町時代の武将・安藤康季(あんどう・やすすえ)は、1398年に 若狭国(福井県)の 羽賀寺が消失したので後花園天皇からの勅命を受けて再興させた際、「(奥州十三湊)日之本将軍」を名乗ることを天皇に認めさせているんですね。
だとしたら、「日本中央の碑」は、巷に言われているように坂上田村麻呂が造らせた碑ではなく、日ノ本将軍・ナガスネヒコおよびその兄安日彦が造らせたとみるほうがはるかに理に適っているわけです。
(続く)
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