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ナガスネヒコがなぜ「日本中央」と書かせたかは、推測するしかありませんが、仮にも日本の中央である葦原中国を治めた日之本将軍がやむなく遷都した地であれば、やはりそこは中央(葦原中国)なのであるという自負心があったのではないかと思われます。
ところで、『帝皇日嗣(極秘口伝)』にナガスネヒコが徐福の子孫であると書かれて(伝わって)いるのなら、安東氏もまた徐福の子孫だということになります。
そこで思い出すのは、秦の始皇帝の子孫が日本にいるということですよね。
そう、秦氏です。
東儀家にしても、長宗我部家にしても、秦河勝につながる秦氏の子孫の家には、秦の始皇帝を先祖とする系図が伝わっています。
どうしてわざわざその例を出すかというと、私が共同通信社の経済部で旧大蔵省(財研)担当のサブキャップをやっていたときの経済部長が長宗我部友親氏という長宗我部家の当主(親房から数えて17代目)だったからです。彼の家にも、秦の始皇帝を祖とする長宗我部家の系図が伝わっておりました。
私の大先輩でもある長宗我部氏は共同通信を辞めた後、歴史作家となり長宗我部家についての本を何冊か書いています。ちょうどそのことを今月上旬、たまたま原稿(まだ何の本の原稿かは明らかにできません)にして書いているその日に、何気に原稿提出先の出版社のサイトを見ていたら、なんと今月の新刊本のコーナーに長宗我部氏の新刊『秦氏の夢 長宗我部元親』が紹介されていました。
なんというシンクロニシティ!
先輩や後輩を含め、共同通信の同僚たちとは、よくこうしたシンクロ現象が起きます。
私の同期に後に経済部長、編集局長を務めた出世頭のK氏がいるんですが、私が共同通信社を辞めて、人生をかけてアメリカに飛び立とうとしていたその日、成田空港でばったりとK氏に会ったことがあります。
当時K氏は日銀のサブキャップを務めた後、ニューヨーク特派員になっていました。だから特派員としてニューヨークにいなければならないはずだったので、私は「なんでこんなところにいるのか!?」と問いただしたほど意外なことでした。
なんでも私用で仕方なしに帰国していたのだ、というような答えだったと思いますが、特派員が任期の三年の間に、東京に戻ってくることは仕事を除いてほとんどありません。
よほどのことがあったのかなと思いましたが、特に追及はしませんでした。
いずれにしても、人生に一度の日と、ほとんどありえない帰国と再出国のタイミングがぴったりと合って、成田空港での出会いとなったわけです。向こうはニューヨーク行きで、こちらはワシントンDC行きと便も違います。それなのに出会うというのは尋常ではありませんね。
その日、成田空港の一般待合席でK氏としばらく話をしたことを覚えていますが、彼は思い切って会社を辞めてアメリカの大学院に進むことを決めた私の判断に少なからぬ興味を持っているようでした。思えばK氏とは浦和支局でも一緒だったし、私が経済部で農水省を担当しているときに、彼は産業部の食品担当として同じ農水省クラブに在籍していました。
何か切っても切れない因縁のようなものがあるのかもしれませんね。
昔話はこれくらいにしておきましょう。
東北の安東氏に徐福を源とする系図や秘史が受け継がれていたとしても、不思議はないという話をしたところでしたね。
そうした歴史や系図の一部が、偽書とされてしまった『東日流外三郡史(つがるそとさんぐんし)』だった可能性があるわけです。
実は本当にそういう資料や口伝があったから こそ、室町時代の武将・安藤康季は自分に「日之本将軍」という称号を付けたのではないでしょうか。
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