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青年賦 青年とは歳の若さを指すのではない。精神の溌剌さをいうのである。青年とは、豊かな頬、赤い唇、柔らかい肢体をいうのではない。意志の力・想像力・感激性を指すのである。歳を重ねるだけでだれでも老いていくのではない。理想を失い、自信を無くしたときのみ人は老いる。年齢は皮膚にしわをよせるが、情熱を失うと、その人の魂にしわがよる。つねに明るい希望を持ち、勇気凛々、未来の夢に挑戦する人生命の喜びを神に感謝する人であれば、50歳であろうと70歳であろうとその人は青年である。 豊生才治郎 親鸞上人は90歳まで生きられたが、今日残されている書物の大部分は80歳以後にかかれたものである。 鈴木大拙先生も生涯に100冊ほどの本をお書きになられたが60歳以前のものはわずかに10数冊で、60歳から95歳までの間に80冊の本を書かれた。 シュバイツァー博士も歳をとられてからも若かったそうですが、博士の若々しさは自分の幸せのための行き方だけでなく、人々のために生きるという生き方のためでしょう。 私もこれからですよ。
January 30, 2004
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真民さんの詩に「一生懸命」と題して 一生懸命! わたしはこの言葉がとても好きです ひとところに いのちをかける ここまで辿りつくのが 大変だが 辿りついたら もうしめたものでこわいものはないですね あの不動明王の 大火焔のようなものが いつも体にわいて とても愉快です とある。 不動明王は八方照らすといわれている。不動心といわれる如く、一度これを身に付けるとどのような変化にも、対応して行けるという。 真民さんは、一生懸命に命をかければこの不動心が身につき愉快であるといわれている。 暑さ寒さにも負けずに、社会のどのような変化にも対応できる不動心を身につけたいと考える日々である。
January 29, 2004
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真民さんの詩に「与えよ」と題して 与えよ与えよ惜しみなく与えよそれはブッダ・シャカキリスト・イエスのみ心なのである とある。私の今までの人生は、与えられてばかりであった。命を与えられ、それを守る健康を与えられ、そして数多くの人々から善意を与えられ、生かされてきている。 9歳のときに大病をし、皿に命の無いところを祖父母・父母の看病により一週間の高熱に魘されながらも命は助けられた。 この体験が基で私は自分に無理はしないように、無意識のうちにそのような性格になっていた。 そのために、人の世話になり、日常の生活も平々凡々とし与える生活よりも、与えられる生活に慣れていた。 人間は、心が変われば習慣が変わり、習慣が変われば生活が変わり、生活が変われば人生が変わると教えられている。 今までは与えられていても、それが当たり前だと思っていたが、これからは出来る限り物でも心でも与える人間になりたいと思う。
January 28, 2004
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心の触れ合う出会いは人生で素晴らしい財産です私は30台の後半に東京で足掛け4ヶ月、北は北海道から南は沖縄まで約40名の人々と東京で寝食を共にしました。その中で秋田県・新潟県・岡山県・長崎県の人とは部屋も同じでした。この中のひとりは現役を引退されていますが、私を含め二人は現役であとの二人は市会議員をしています。この人々とは、切っても切れない付き合いをしています。また、東海地区の愛知県・岐阜県そして近隣の静岡県・滋賀県の人々とは数年に一度会って旧交を温めています。4年に一度は全国から一堂に集まります。私の人生の中でいい経験を積ませていただきました。しかし、人生には出会いもあれば別れもあります。これが人生の常です。高校時代の友達と卒業と言う名の下に別れるのが辛く18歳の当時禅宗のお坊さんに「別れが辛いです」と訴えたところ「別れの寂しさの中に、頑張って生き抜きなさい」との返事でした。出会いと別れ、人生の常ならば、素晴らしい出会いを多くして、どうにもならない別れの時には寂しさの中に頑張って生きていきたいと考える今日この頃です。
January 27, 2004
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自己管理とは何か? 1 健康管理……言うまでもなく、一番大切なことだろう。普段は分からないがなくしてから分かるのが人間である。健康のために何を為すべきか。何をしてはいけないのか?無くするまでに心得ておかなければならない。2 金銭管理……お金も大事である。私の周りには、これに困っている人が多い。理由は使いすぎて借金の増えた人。仕事が続かず収入の無い人。色々ある。これもそれも本人の金銭管理が出来ていないからだ。3 時間管理……道元禅師は「いたづらにすごす月日は多けれど道を求むる時ぞ少 なき」と言われた。限られた人生である。大切にしたいものである。4 精神管理……健康管理にしても、金銭管理にしても、時間管理にしても、精神管理が出来ていなくてはこれらはすべて駄目になる可能性がある。結局「自分が自分を自分する」のである。 うーーーん
January 26, 2004
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「他人の悪いところを見つけて注意したり、叱ったりする」時に ↓1相手のプライドを傷つける。2人間関係が悪くなる。3相手のやる気をつぶす。 ↓ このような場合に自分の気持を知らせる。「私はこうこうと思う」=私メッセージと言う。 相手が思いやりがないという前に、自分が相手に自分の気持を伝えているかを反省してみること。 「あなたが間違っている」⇒相手メッセージと言う。「なぜ兄弟の目にある塵をみながら、自分の目にある梁を認めないのか」(マタイによる福音書7-3-5) 自分を見る基準……他人と自分を比較するよりも、神の前における自分を見つめよ
January 25, 2004
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清水寺の管長さんであった大西良慶師著『円光は遍ねく照す』 「心」をおさめなくては具合が悪い。心をおさめて正しいものを判断しなくてはならない。唯識のたてまえは、そこに真理と言うものがひとつある。すべてのものの上に存在するものは何かといえばそれは真理と名づける。人間の知恵が真理に叛いている間は苦になる。真理に殉じている間は苦にならない。台風が出てきて雨になる。水に苦労しないのは雨のお陰である。その雨が川に流れ水力発電が出来る。そして明るく照らしてくれたり、電車が走ったりする。これみな台風のお陰である。道理さえわかれば台風を恐れない。建物が壊れたりする。壊れるのは建て方が悪いのだ。悪いのはこちらにあって向こうには何もないのだ。道理に悪いのはひとつもない。道理が分からないから腹が立つのであって、道理がわかれば腹が立つことはひとつもない。怒ることはひとつもない。不服を言うことはひとつもない。どうりを分からないので腹を立てる。勝手に腹を立てているのだ。それが苦である。だからどうしても天地自然の道理というものを見なければいけない。 天地自然の道理を見なくてはいけない。いつも腹を立てているこの私。いつも怒っているこの私。うーーーーん
January 24, 2004
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私たちは自己を保存させる本能を持っています。これ自体は善でも悪でもありません。しかし時々他人の迷惑も省みないで、ひたすら自分の欲求を満足させようとする利己心が働きます。 私欲・情欲・傲慢・強情・負惜しみ。他人の立場や気持ちを考えないで自己中心になる。人を怨む・不平不満を唱えて憤慨する・形式的に無闇に遠慮する。虚栄心が強い・落ち着きがない・他人に必要以上に干渉して世話を焼く・人を差別する。 これらはすべて利己心である。このようなことを重ねていくと、家庭や社会の秩序を乱したり平和を害したりすることになる。そして結局自分自身の幸福も実現しなくなる。 釈迦は涅槃を教えられ、キリストは愛を教えられた。私たちは自分の保存の本能が自己中心に働きやすいことを念頭に置き、これをコントロールすることを学ぶべきである。
January 23, 2004
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昔田舎者のふたりが江戸に来て、水を売っている人を見かけ、一人は「江戸と言うところは水を売ってでも商売になる。チャンスがある」と思い、江戸で商売を始め成功した。もう一人は「江戸じゃ田舎で只の水も買わなければ生活できない」と田舎に帰ったという。 また、靴をアフリカに売りに行った時に裸足の人々を見て一人は「100%売れる」と思い、他の一人は「100%売れない」と思ったという。 同じ水を飲みながら、蛇は毒を出し、牛は乳を出すとも言われている。 ひとつの行為を見て、一つの行為をして私たちは毎日毎日どのような結果や結論を出しているのか? 自分自身も考えよう。うーーーん
January 21, 2004
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大和路の奈良の都の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲という歌がある。「の」の効用である。大和という大きなものから奈良まで「の」で持ってきて奈良から薬師寺まで「の」で縮め、薬師寺塔までに「の」で限定し、その上のひとひらの雲まで見事に「の」で結んだのである。私は日本語もあまり得意ではないが、英語・中国語・フランス語をはじめ他の国の言葉はまるきり駄目であるが、外国語であればこのような美しい旋律は出ないであろう。この歌のように日本語は素晴らしいものである。これが「と」で結ばれていたらすべてがバラバラである。人間関係も「の」で結びたいものである。社長の社員・社員の社長・父の子・子の父・あなたと私ではなく、あなたの私である。
January 20, 2004
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♪もしもしかめよかめさんよ せかいのうちでおまえほど あゆみののろいものはない どうしてそんなにおそいのかうさぎは、この挑発的な言葉と、競争の途中で怠けてしまった為に悪者にされているが、ある子供が母親からこの話を聞いて「きっとうさぎさんは疲れていたのだろう」と言ったという。大人になるに連れ固定観念が出来太陽は赤いと思い、空の色は青いと思う。 このようなものが身についているので太陽の色が変わっても、空の色が変わっても気がつかないでいる。 「幼子のしだいしだいに智慧づきて仏に遠くなるぞ哀しき」という道歌がある。この智慧がつくことによって、人間としての分別が出来るのであるが、それと同時に不平・不満も大きくなっていく。 一日24時間この不平不満をどれだけ少なくするか、ありがたいという感謝の心をどれだけ増やせるか、もう一度幼子の心に戻る必要もある。
January 19, 2004
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友人と武田信玄の隠し湯であった下部温泉に行ってきた。 凄いところである。山又山の凄いそっぽこ谷にひっそりとある。ここで生活をしている人もいるのである。娯楽施設なんて物も無い。人間の生命力は凄い。雪が降ってきた。積雪があった。水墨画の世界である。空気も美味い。人間味もある。都会の人間は、人間性を取り戻す為に訪れる。石原裕次郎も逗留したという。うーーーん日本は広い。
January 18, 2004
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趙州和尚と言う人は、中国の趙州という土地の観音院のお坊さんで、西暦778年に生まれ897年に亡くなっておられる。まさに120歳の天寿を全うされた人である。60歳から80歳まで全国を行脚され「我に勝るものあれば8歳の童子といえども教えを乞わん。我に劣るものあらば100歳の老人といえどもこれを教えん」と大願心を起されたという。この坊さんのところにある坊さんが尋ねてきて「お釈迦様は悟りを開かれたときに、一切衆生悉有仏性と言われたが仔犬にも仏性はあるのか?」とその時趙州さん「無」と うーーーん この私の毎日に「無」は有るや無しや うーーーん
January 16, 2004
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釈迦は明けの明星を見られ「一切衆生悉有仏性」を悟られた。あの真っ暗な空にピカッと光り輝いている明星の如くに人間の心にも仏性があるのだ。ただ五欲煩悩のために曇っているのだ。とこの瞬間から今私たちが教えられている8万4千の法門が出来上がっていくのである。私たちはぴかっと光り輝くものを持っていながら、毎日毎日色々と悩み・欲を出しこれを曇らせている。ああもしたいこうもしたい。あれもほしいこれもほしいと心を曇らせ、きついときには人間であることを忘れてしまう。大晦日に除夜の鐘で煩悩を去り、初詣で新しい心を誓ったはずである。15日が過ぎた、そろそろ垢や埃が付いてきたか?
January 15, 2004
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毎日6時に起き、6時40分に朝食を摂り 7時13分に家を出て7時22分のバスに乗り7時40分にバスを降り、そこから20分歩いて職場に着き、17時15分に職場を出て、20分かけて歩き、17時37分のバスに乗り、18時にバスを降り18時05分に家に着き、22時に寝る。これが私の生活パターンです。 『無門関』という禅問答の書物にという公安がある。坊さんは鐘の音で何故衣を着るのか?という問答である。 時間が来れば時間どおりの動きをして、日常茶飯事変わりなく勤める。その生活の中にもアクセントが必要なのである。そのため人間は節句を設けた。今の世の中忙しすぎてこり節句の善さも消えている。一日の変化の無いときにもアクセントを見出したいものである。1 冷たい水で顔を洗う2 体操をする3 違った職場の雰囲気にしたる4 友人に電話する5 笑顔を鏡の前で作る6 散歩に出る7 ウィンドショッピングをする8 喫茶店に行く私の変化の無い一日のうちで、アクセントをつけているのは、往復40分の歩きの中とバスの中で出会う人々の観察であろうか?
January 14, 2004
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私たちの心は、利己心と道徳心のふたつが同居しています。 利己心は、自分中心の心で、道徳心は広い・低い・柔らかい心で慈悲心であると教えられています。 一度に同時の心遣いは出来ません。ですから一瞬一瞬どちらかの心遣いをして、毎日を送っているのです。毎日の生活の中で、どれだけ慈悲心を出して広い・低い・柔らかい心で過ごしているかと考えると、私の場合僅かしかない事に気がつきます。何かにつけ狭い・自己主張をし・硬い心で物事を処理しています。反省すべきことです。
January 13, 2004
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今あなたは 満足していますか?何をしていますか?何を考えていますか?よい人生ですか?精一杯生きていますか?努力していますか?誇りを持っていますか?感謝していますか? 一瞬一瞬の積み重ねが1分であり1分の積み重ねが1時間であり1時間の積み重ねが1日であり1日の積み重ねが1年であり1年の積み重ねが人の一生である。この一瞬満足しているか・精一杯生きているか・感謝しているか
January 12, 2004
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世の中には善悪・強弱・貧富・男女・夫婦・老若・苦楽等互いに対立し対照となっているものが無数にある。私は日々このようなものに囚われ、ああだこうだと考えすぎているのではないか?あるべき姿のそのままに、いま・ここを生きる一年にしょう。 例えば、あの人は自分より年寄りだからとか、あの人は自分より富んでいるからとか人と比べて生きるのではなく、真理と言うか理想と言うか自然の法則と言うかそういうものと照らし合わせて生きていきたい。
January 11, 2004
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当たり前だと思っているが、この世の中本当は当たり前なんて無いのだ このような考え方は素直な感謝の気持から生まれる。こうなれば、心が広くなりゆとりが生まれる。相手の立場に立つことが出来、思いやりの心となり前向きのエネルギーとなると教えられている。日々当たり前だと思う心があるから感謝の気持も生まれず相手の立場に立って物事を考えることが出来ない日々を送っているのである。日々のことに、当たり前と思わずありがたいと思う心で過ごしたい
January 10, 2004
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昔 講演を聴いた それは学士院会員であった中村 元先生の講演である。 デカルト……近代哲学の祖⇒「我想うゆえに我あり」……すべてを否定し、ただ想う我のみが存在する。⇒この思想に対して、我が生きているのが元だとする意見もある。⇒日本人はこの問題をどのように感じてきたか? 日本人⇒言上げせぬ民族である。⇒直感的民族である。西行法師「としたけて また こゆるしと おもいきや いのちなりけり さよのなかやま」⇒自分は生きて又ここを越えるとは思ってもいなかった。生きているという実感である。芭蕉は、もっと直感的で29歳のときに「命なりわずかのかさのしたすずみ」銘々が生きているということは、他人と取り替えることが出来ない独自の自己として生きているのである。 自分はかけがえのない自分であり、他の人もまたかけがえの無い人であるのである。それを悟り、我も人なり彼も人なりの精神で今年も生きていきたい。
January 9, 2004
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朝ある家庭での出来事 お母さんが、子供の名前を呼び「早く起きなさい」「早く顔を洗いなさい」「歯を磨きましたか」「早くご飯を食べなさい」「早く着替えをしなさい」「早く学校へ行く私宅をしなさい」「早く学校へ行きなさい」狭い日本そんなに急いでどこへ行くのでしょうか夕方ある家庭での出来事 「ただいま」「学校でちゃんと勉強してきましたか」「宿題は?」「塾へ行く時間ですよ」「ただいま」「塾でちゃんと勉強してきましたか」「塾や学校の復習をしなさい」夜ある家庭での出来事 「復習や予習はしましたか」「早くご飯を食べなさい」「風呂へ入りなさい」「もう遅いからお休みなさい」「お休み」「はいお休み」 あくる日また同じ繰り返しである。私たちは、ともすれば家庭でも会社でも上と同じようなことをしていないでしょうか?子供と話をしているつもりでも、この状態は子供に話をしているのです。相手に話をするときは私たちに余裕が無いときです。心に余裕を持って生活したいものです。忙しいとは、心偏に亡ぶと書きます。
January 8, 2004
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恩師中村稀彦先生の著書に 《人をあてにしてはいけない、自分を当てにしなさい。人は頼みにならない。自分こそたったひとつの頼みなのだ。ただし、人に頼まれる人になりなさい。頼りにされたら絶対裏切ってはならない》 《最後に頼れるものは己のみ》《友を売るな》戦時中に中国で生死をさまよった先生である。だからこそ言葉にも重みがあり、私も40年来この言葉を噛締めて生きてきたという自負はある。ただこの頃思うのは、頼りにする自分が曲がっていないか?間違っていないか?自問自答できるようになってきたのは歳をとったためか。いずれにせよ、いい恩師に恵まれ、いい友人に恵まれ、いい家族に恵まれ、いい同僚先輩に恵まれ生かされ生きていることは確かである。
January 7, 2004
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真民さんの詩に 「それぞれ」と題しての一説に電車は一筋の線上を急ぎゆくなりそれぞれの思いを乗せ黄色き電車は喜怒哀楽の音を響かせて近づいて来るなり とある。電車という同じ箱物に乗っており、同じ方向に向かっているのに、その思いは違うであろう経験を、私は何度かの東京との往復で経験した。ある人は、親の死に目に間に合うか会わないかの瀬戸際であろうし、またある人は新婚旅行であろうし、ある人は何年か振りに友人に会いに行くのであろうし、ある人は退院の帰りであり、ある人は入院の為に乗っているのであろう。人それぞれである。私たちもこの地球という乗り物に乗っており人それぞれに生活しているのである。この乗り物一体どこへ行くのであろうか?
January 6, 2004
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小学校からの同級生で事故で半身不随になった人が居られる3日に事故以来初めて同窓会でお会いした。車椅子で出席されていたが、彼女は健常者より元気であった。階段を踏み外しコンクリートで頭を打ち、記憶を失い、気がついたときは病院のベットの上だったという。医者からは一生寝たきりを言い渡されたそうである。死にたいと思ったときもあっただろう。人生に失望したときもあったであろう。失意のどん底から彼女を救ったのは、彼女の心遣いである。毎日毎日のリハビリも辛かったに違いない。何度かの転院辛い痛い哀しい中で彼女が掴んだのは、感謝の心であった。そのため、寝たきりを言い渡されたのが車椅子の生活までできるようになったのである。彼女は今、車椅子で自分で運転をし、同じような悩みを持つ人の相談・ローカルテレビへの出演・小学校中学校等への講演活動・県へ障害者の意見を言うボランティア等以前よりも忙しいという。以前ある人からこう教えてもらったことがある。 身体はご病気でしょうが、それも身体の一部のみです。心まで病気ではありません。感謝しましょう と、私は教えられて初めて、ああそうだと気がついたのですが彼女はそれをやっているのです。同窓会に出席して「元気と勇気と感謝する心を貰ってきました」そして、翌日彼女から私宛にメールが届いていました。「生きているって素晴らしい。命をつないでくれてありがとう」と、こちらこそ、有難う
January 5, 2004
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はい、そうしますという素直な心おかげさまでと謙虚な心すみませんでしたと反省の心相手はいかにと思いやりの心有難うございますと感謝の心ご安心・ご満足をと親本位の心人様の幸せのためにと報恩の心 今年一年はこの心を毎日手帳に書いて夜寝る前に一日の反省をしてみよう。具体化することによって自分がどれだけ至らないかがわかるだろう。やはり希望でも、夢でも、物事は具体性が必要である。家を建てたいという希望だけで家が建つわけではない。間取りはどうするのか、平屋か二階建てか、資金はどうか、土地はどうかなどなど具体的な考え行動が、必要なのである。心遣いも同じである。出来たか出来なかったかの検証は必要なのである。
January 4, 2004
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加藤美知子さんの詩に『幸せ隠し味』と題してからいお塩は おいしい しるこの かくしあじ からいくるしみ悲しみ そして別れ みいんな しあわせの かくしあじ ひとふり ふたふり ほら! 幸せがとっても美味しくなったでしょう とある。今の幸せは、今までの悲しみ・別れ・苦しみがあってのことだ。これからも苦しみ・別れ・悲しみはある人生だろうだが、それは次の幸せへの隠し味だと考えれば乗り越えられるだろう。勝ち負けではなく・悟り迷いではなく、これがそのまま次の幸せの隠し味だと味な考えをするのもいいだろう。
January 3, 2004
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埼玉県に、加藤美知子さんと言う人が居られる この方の存在を知ったのはもう10年ほど前であるが、美知子さんは無腐性壊死という難病を患っていられる。この人の言葉に 「とにかく生かされている限り生きてみよう」「人間は生きることを拒否すると体の細胞は死ぬ方向に行く。希望やロマンに向かっていくと細胞は見る見るうちに生きてくる」「私は自分の生命力を信じています。一生懸命生きていて世の中に必要とされる人間であれば神が生かしてくれると思います」と言われている。 私は五体満足で毎日毎日だらだらと生きている。ピシッと生きなければと正月に思う。
January 2, 2004
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坂村真民さんの詩に「天に向かって」と題して あせるな いそぐな 朴の木のようにゆっくりと 葉を出し 花を咲かせ 天に向かって おのれを示せ とあります。私は性格上何事も焦り気味です。ことしは、ゆっくりと、焦らず人生楽しみながら、やっていきたい。 焦るな いそぐな 天然自然 ゆっくりと天を相手に生きていこう!
January 1, 2004
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