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福島原発事故は原子炉の運転等により生じた原子力損害については製造物責任法の規定は適用されず、製造物責任法の対象外であるが、製品に起因して発生した人体もしくは財産に対する不法行為という視点からすれば、他の一般産業品、汎用製品の場合は製造物責任の対象となりうる事故である。 製品安全事故(製造物責任事故)は次のように定義されている。 【人身】製品の取り扱いや製品の欠陥が原因で、生命や身体に危害を及ぼした事故。 【財産】・製品の欠陥が原因で発煙、発火等を生じ、財産に被害を与えた事故。 ・水、ガス、各種液漏れにより環境・財産に被害を与えた事故。 製造物責任における欠陥の判定基準にはつぎの3つがある。 「標準逸脱規準」法律、規則、業界の標準、図面、設計仕様からの逸脱するレベル 「危険効用規準」利便性、有用性が危険性(リスク)を上回るレベル 「消費者期待規準」通常の消費者の安全性に対する合理的な期待に不適合なレベル この「消費者期待規準」は社会的に受け入れ可能な欠陥(リスク)レベルを示しており、この規準を満足していれば『安全』といえる。「消費者期待規準」は時代とともに変化し、社会の要請によって決まる規準であり、常に変化し近年増々厳しくなってきている。 一方、国際規格における『安全』の概念は「Unacceptable Risk(受け入れ不可能なリスクがないこと)」と定義されている。いいかえると「『安全』とはAcceptable Risk(受け入れ可能なリスク)」となる。これは社会の現在の価値観に基づいて与えられた背景の下で受け入れられるリスクということになる。 発生確率から見たリスクレベルは米国の意識調査から、被害の確率はが100万分の1より低くければ許容リスクレベルとする考え方で、重大な被害の発生確率が年間1万分の1より大きければ、許容できないレベルとしている。 原子力発電所の安全性は平常運転時、重大事故時および過酷事故時に大別して検討されている。重大事故としてはおよそ10万年に1回程度起こる冷却材喪失事故を考え、過酷事故としては、重大事故の際に工学的安全施設が動作しなくて、燃料が溶融するような場合を仮定し、過酷事故の起こる確率は1000万年に1回程度と考えてきた。 現在、世界で稼働している原子力発電所は437基、平均稼働年数は26年である。炉心溶融に至った過酷事故はスリーマイル、チェルノブイリ、福島の3件で過酷事故の発生確率は2.6Х10‐4/炉・年となり、当初の想定より3桁から4桁高い値になっている。これは国内において交通事故で死亡する確率(万が一)と同程度である。 商用航空機で死亡者の出る事故の確率が10‐6以下(0.5ppm程度)であることを考えると原子力発電所の安全性は決して高くはなく、あと3桁から4桁(万万が一)安全性を向上させないと、社会から許容されないと思われる。 毎週金曜日、首相官邸に反原発を訴える人が集まっている。今週は主催者発表20万人(警視庁発表2万人)もの人が集まったという。これらの人々に原子力発電を『受け入れ可能なリスク』と納得してもらうことは極めて難しいと思った。
2012.06.30
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学生時代4年間ワンダーフォーゲル部に所属し、夏は南アルプスが合宿の舞台だった。就職してからは完全に山から遠ざかった。本心から山とか自然とかが好きではなかったのではとも思っている。学生時代求めていたのは、活動を通じての仲間だったような気がする。 ワンダーフォーゲル部の仲間とは、定年退職し、第一線を退く人が多くなり、時間に余裕ができたこともあり、昔の仲間に声をかけ、各自の都合に合わせ参加するという活動がおこなわれている。 今年も飲み会、お花見、ゴルフ、国内登山、国内・海外のトレッキングなど20数件が計画されている。たった、4年間の接点しかないのに、40年経っても、会えば時を超え、自然に学生時代の雰囲気に戻ることができる。「同じ釜の飯を食う」とはこういうことなのかと思う。 そんな中、2年先輩の「アルプスの黒豹」ことMTさんが『岳人』6月号に「第二の青春を謳歌する昔の山の仲間たち」と題し投稿され、記事となった。本当に山とか自然が好きで、テント、食糧などは自分で準備する自己完結型のどちらかというとハードな活動を主にされている。自分自身とてもついていけないが・・・・・・。 『岳人』を購入したのは初めてかもしれない。MTさんの記事を読んだあとパラパラ見ていると『山と海と人の物語 北の山河抄』登山家 新谷暁生氏の『伝えることの難しさ』に目が止まった。登山者へ事故防止のための情報を流す苦労、難しさが述べられていたが、この内容はモノつくりに係わってきたものにも通じる重要な示唆に富んだ内容だと感じた。 「危険の捉え方は人によって違う。人にそれを伝えるための信頼の構築。 砂の塔を作るような試みかもしれない。でもそれを継続していかなく てはならない」 ●人は災難が降りかかるその時まで、事故を他人事だと思っている。 そして事故に遭う。不可抗力の事故はない。 ●事故には必ず理由がある。何が危ないかを伝え、それを聞いた人が 少しでも用心すれば事故は減る。 ●事故は人間の過失が引き起こす。 ●人は危険を過大に見積もり、あるいは過小に評価する。 情報を真剣に読み取ろうとする人もいれば軽視する人もいる。 否定する人ももちろんいる。 ●何が起きるかを想像できなければ、事故防止の情報は書けない。 ●信頼の構築が事故防止の最大の抑止力。 製品事故・製品トラブルを防止するための視点と全く変わらないものがあると感じた。福島原発事故があり、国、事業者は国民に対し「危険の捉え方は人によって違う。人にそれを伝えるための信頼の構築」こそが重要な課題だと思った。
2012.06.18
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今日(6月10日)の朝日新聞朝刊「波聞風問」に『「原発でエコ」のおかしさ』と題する原真人編集委員の記事があった。電気自動車を増やせば、火力発電に頼らざるを得ず、二酸化炭素の削減にはならない。「原発をふやせばエコ実現」というおかしな構図になっており、「エコ」と「脱原発」は二律背反にあり、知恵と科学を総動員してできる限りよい道を探さなくてはならないという主旨だった。 数年前から、電気自動車の開発競争が世界中の大企業、ベンチャー企業で行われており、マスコミもことあるたびに、大きく取り上げ、温暖化防止、石油の消費量を削減する有効な切り札となりうる技術として取り上げきた。マスコミも含め誰も、電気自動車の電力をどのように確保するのかということまで言及しておらず、奇異に思った。 電気自動車は電池とモータが主な部品で、エンジンのような日本が得意とする擦り合わせ技術がいらないため、自動車の製造経験がなくとも参入しやすい分野と言われている。一番重要なのは電池の開発であり、1回の充電で300kmから500kmの走行できることと、充電時間をガソリンの給油時間程度にできるかがポイントだと思う。 現在、限られたコミュニティーをモデルにスマートグリッドの実証実験のプロジェクトが行われている。従来の発電方式での電力、太陽光発電、風力発電などと事業所、各家庭に電力の消費量、供給量の測定データを伝送できるスマートメータを取り付け、IT技術を利用し、エネルギー利用の最適化を実現する。 このスマートグリッドの説明図の中に電気自動車が出てくる。まだ、ガソリン車のように長距離走行できないし、ガソリンスタンドのように、充電スタンドも整備されていないので、ごく限られたコミュニティー内を走る。充電は夜間電力を利用する。ところが、災害等で停電になったら、電気自動車の電池を家庭の電気に使うという説明があり、こんなことは成り立つのかと疑問に思った。 昨年の震災の時、ガソリンの量を気に掛けながら車で給水所まで水をもらいに行き、スーパまで、買い出しに出かけた。非常時に電気自動車の電池を使い切ったら、昼間、動くことができなくなる。曇っていて風もなければ、自然エネルギーに頼ることもできない。 バス、トラックを除く、自家用車は現在6000万台位だと記憶しているが、その半分が電気自動車に替わったとして、どの位の電力が必要になるのだろうか。5月5日に泊原子力発電所3号機が定期検査のために止まり、42年振りに原子力発電所による発電が「セロ」になり、この夏の電力需給が逼迫するため、節電が言われている。 原子力発電所なくして、電気自動車が動くことはないことは明白だと思う。現在の石油の産出量は人類が石油を利用し始めて100年が経過しピークの時期と言われている。このままの状態で推移すればあと100年が限度か。幅広く利用できる石油を少しでも長く使えるように子孫にのこすことを考えることが、現在生きている我々の世代の努めだと思う。 そういった意味から、電気自動車の開発は必要だと思うが、電気自動車を支えるのは原子力による電力しかない。震災前、電力発電量の約30%が原子力だったので、電気自動車を本格的に普及させるには60%から70%は原子力で賄なわなければ、成立しないのではないかと思う。電気自動車と原子力発電はコインの表と裏の関係にある。
2012.06.10
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