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今日は法政大-東京大2回戦が行われ、法政がスコア2-0で連勝し4つ目の勝ち点を挙げた。この結果をもって両校とも今季を終了し、法政大は2位を確定させた。 法政は尾崎完太(4年、滋賀学園)が初の完封勝利をした。132球、被安打2、奪三振12、与四死球3。今季は昨季まで見られた突然崩れる様子は見られず、今日も安定した投球だった。 「打」は、相変わらず寂しい。ただニューフェースが活躍した。ゼロ行進の中、5回、均衡を破ったのはリーグ戦初スタメンの7番・姫木陸人(3年、日大藤沢)だった。直球を待っていたもののカーブに反応して、ライトスタンドに運んだ。打った瞬間に本塁打とわかる強烈な当たりだった。 この回、さらに後続がチャンスを広げると、二死一・二塁の場面で、この東大戦からスタメンに名を連ねた2番・藤森康淳(1年、天理)がセンター前にはじき返して2点目を挙げた。 恥ずかしながら姫木のことを知らなかったが、「日大藤沢から法政」と聞けば、ボクと同世代だったエースの和田護さんを思い出す。プロに進んだ田中富でもなく、池田親でもなく、川端でもなく、背番号17の小さな右腕和田が当時法政のエースだった。 和田さん、いま何しておられるのか?気になって調べてみたら、法友倶楽部(法政大野球部OB会)の副会長をされているらしい。ちなみに会長は小早川毅彦さん。(写真)均衡を破る本塁打を放った姫木。(写真)5回、藤森が2点目となる適時打を放つ。
2023.05.21
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春季リーグ戦は、明治大学が3季連続43度目の優勝を決めた。明治において3連覇は1937年春~38年秋の4連覇して以来、85年ぶりのこと。 当時の主力は、”中京商四天王”と呼ばれた杉浦清、吉田正男、村上重男、恒川道順ら中京商を3連覇にけん引した中心選手たちだった。吉田は明石中を相手に延長25回を投げぬいた伝説の投手。 明治4連覇における最大の熱戦は38年春の早稲田との優勝争いだった。4番・呉明捷(嘉義農林)の長打力が光り優勝決定戦にもつれたが、谷沢監督のもと堅実な戦いをみせた明治が優勝を決めた。 この頃、法政大には鶴岡一人(広島商)、早稲田大には呉明捷や南村不可止(市岡中)がいた。「不可止」という名前に今ひとつピンとこなかったが、改名後の「侑広」ならば解説者として、ボクの記憶に微かに残っている。(写真)”中京商四天王”。吉田は左から2番目。~『東京六大学野球80年史』(ベースボール・マガジン社)より。以下も同じ。(写真)鶴岡一人。(写真)呉明捷。
2023.05.20
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中西太さんが亡くなられた。享年90歳。 伝説と呼ばれる「10・19」。ボクが忘れられないのは、二走の鈴木貴久が懸命に駆けて生還すると、中西さんと抱き合い転げまわる感動的なシーン。 涙なしでは見られないが、今から10年前の10月19日に開催された「近鉄バファローズ『10.19』25周年トークアンドライブ」の会場にゲストとして登場した中西さんは、「いや、あの日は気管支の病気で体調が悪かったのに、鈴木貴久が二塁から駆けてきた勢いそのままにしがみついてきたから、押し倒されてしまっただけ」とこともなげに話した。 あのシーンに涙したファンは少なくないはずだけど、その素っ気ない言葉に一瞬会場は静まり返り、その後どっと沸いた。そんなわけはない、下の写真を見れば分かる、照れ隠しだろうか。 中西さんがどうこたえようとも、あの日のダブルヘッダーの異様な空気を操り、演出していたのは中西さんだったと、今でもボクは思う。
2023.05.20
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すでに東洋大が2部優勝を決め、次の注目点は最下位争いになった。現在、立正大、東農大、専修大の3大学に最下位の可能性がある。優勝校はあっさりと決まったものの、こちらの争いは最終週までもつれるし烈な戦いだ。 さて今日、等々力球場の第2試合は、その渦中にある立正大と東農大の一戦。立正大 002 003 000 =5東農大 001 100 010 =3(立)梅田(東)長谷川、上原、松原 勝敗を分けたのは6回表、立正大の攻撃だった。二塁打と四球で二死一・二塁の好機をつかむと、7番・岩本翼(4年、東亜学園)が打席に。すると、ここで東農大・北口正光監督がマウンドへ。バッテリーとの協議の中味は岩本と勝負するか、それとも岩本を歩かせて次打者・田近介人(2年、大阪桐蔭)と勝負するかの意思確認だったろうか。 結果、東農大バッテリーは、今季初スタメンの田近との勝負を選択したようで、岩本を敬遠気味に一塁へ歩かせた。そして田近。投手・長谷川優也(3年、日本文理)は初球にストライクを奪うも、次の2球目。内角に入った直球を田近が叩くと、打球は左翼線に転がり、これが走者一掃の決勝打となった。 さて、最下位争いだが、今日明日の戦いで勝ち点をあげたチームは争いから抜け出せる。立正大が1勝し、今日の第3試合では専修大が東洋大を下した。したがい、いま現在、最下位の可能性が濃厚なのは東農大である。明日以降の挽回を期待したい。
2023.05.16
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三原の「バット事件」は1938(昭和13年)11月27日、巨人と阪神の優勝決定戦で起きた。 第2戦、無死一・二塁の好機を得た巨人は三塁線に送りバントをするも、投手が三塁へ送球してアウトに。微妙なタイミングだったが、烈火のごとく怒ったのは巨人監督の藤本定義。審判団と揉み合うなど一時は退場の恐れもあったが、その場はいったん収まった。 しかし、試合後も怒りの収まらない藤本は、血相を変えて審判室へ向かい、「おーい、タイガースからいくら貰っているんだ」と叫んだ。それを知った三原脩が帰り支度のまま藤本の後を追ったが、連盟は藤本の言動を問題視して処分を下す。さらにたまたまノックバットを持っていた三原を指して「ノックバットをもって審判室へ殴り込んだ」という話になってしまい、三原も球団から処分をうけるハメになった。 「私はただ居合わせただけなのに、罰金と出場停止は納得できない」は三原の述懐。そして最も腹が立ったのは居合わせただけの三原をまったく庇おうとしなかったことだと。「もう辞めてやらあ」と愛想を尽かして、同年暮れには野球を辞めて報知新聞社に入社した。(写真)三原脩(右)と、左は水原茂。~『日本プロ野球偉人伝』(ベースボール・マガジン社)より。
2023.05.16
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1938(昭和13)年は、既存の8球団に加えて、秋のリーグ戦から南海が新加入した。注目は明治大から、東京倶楽部を経て入団した、「神主打法」の岩本義行だったが・・・、大和球士さんは、こう記した。「岩本は春季キャンプを終えるとすぐに軍隊へ召集されてしまったため、岩本を除いて魅力ある選手もなく、南海が好成績をあげられるわけがなかった」。試合数40、勝利数11、敗数26、引分け数3で勝率.297の不成績だった」。そして、「南海はスタートが不運であった。翌14年には法政大出身の大物鶴岡一人が入団したのだから、岩本、鶴岡と並べば、ゆうに優勝候補たるの実力を備えて、あるいは戦前に一度ぐらいは春か秋のリーグ戦の王座についていたろうに」と続けた。 岩本は2年間兵役に服し、青島にいた。球界に復帰すると、1942(昭和17)年7月に対名古屋軍戦で1試合3本塁打のプロ野球新記録を達成した。戦前に記録した唯一の選手である。(写真)真ん中のサングラスが岩本。~『東京六大学野球80年史』(ベースボール・マガジン社)より~
2023.05.14
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前年まで成績が上昇したイーグルスだったが、1939(昭和14)年は9チーム中最下位に落ち込んだ。原因は明確。2年前に最高殊勲選手賞を獲得したバッキ―・ハリス捕手が突然帰米したためだった。 好守好打、特にその強肩ぶりは評価が高く、チームにとって貴重な戦力だった。また、日本語の勉強に熱心な親日家であり、ユーモラスなキャラクターの人気者でもあった。小学校の国語の教科書をいつもバッグに入れては「モモタロサン、モモタロサン」と大きな声で音読を繰り返すほど。その熱心さは試合中にも。打者がが打席に立つと、ハリスはマスク越しに「モーモタロサン、モモタロサン」と茶目っ気たっぷりに歌い出して打者の打ち気をそらしたことも。大和球士さんは「これも捕手のインサイドワークの一種だろう」と記した。 しかしこの年、臨月の妻が帰国してお産をすることになり、ハリスもやむなく突然帰国することになった。送別試合の際は、マイクの前に立ち、別れの言葉を述べたが、途中から涙が先にたち、満足に挨拶ができなかった。帰国の理由は妻のお産だけでなく、当時の日米関係の悪化も微妙に影響したのかもしれない。当時イーグルス代表だった河野安通志が翻訳してくれた原稿には、次のようなことが書かれていたそう。「職業野球は、皆さまのお引き立てがなければ立ちゆきません。今後ともごひいきに願います。私はこの際、別れを告げます。皆様のご壮健とご幸福を祈ります。さようなら」。(写真)バッキ―・ハリス(左)、右は亀田忠投手。~『激動の昭和スポーツ史 プロ野球(上)』(ベースボール・マガジン社)より。
2023.05.07
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