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かいなんこうほそかわより 海南行 細川頼之 じんせい ごじゅう こうな は かぼく はる す なつ すで なかば 人生 五十 功無きを愧ず。 花木 春 過ぎて夏 已に 中 なり。 まんしつ そうよう はら さ がた た ぜんとう たず せいふう が 満室 の青蠅 掃えども去り難し。 起って禅榻を尋ねて清風に臥せん。詩文説明人生50というが私の人生も、早50を過ぎてしまった、思えばたいした功績もなく、まことに恥ずかしい限りである。人生を樹木に例えると花咲く春も過ぎ、すでに夏も半ば過ぎている。部屋の中には青蠅がうるさく飛び回り、追っても追っても追い払うことが出来ない、(自分の身辺は、小人ばらの讒言が飛びかっていてうっとうしいことはなはなだしい)。いっそのこと、このような、うるさい世を捨てて立ち上がって座禅椅子のところを探し、清々しい風の吹く静かな所に行って、座禅でも組み、ゆっくり横になり、余生を送りたいものである。 細川頼之 (合戦の様相画) 細川頼之画像 足利義満(頼之は2代将軍義詮の要請を受け管領となり、幼少義満(11歳)の頃より我が子のように教育し見守った)左から1、政治の場で斯波義将ら諸将から妬まれ払っても払っても煩く追い払うことが出来ない(青蠅に譬える)(合成画)2、中央は京都の地蔵院(竹の寺とも云う)細川頼之1367年に創建した寺でそよ風に当たりながら座禅。(合成写真)(主従の離間策にあい、嫌気をさし讃岐へ帰った)のち呼び戻されも、弟の頼元を養子として管領となし頼元を助けた。3、左は竹林に包まれた奥に地蔵院がある。(細川家の700年永青文庫の至宝より)細川頼之細川3兄弟(和氏・頼春・師氏)は足利尊氏に従い各地を転戦、戦功をあげ、湊川で南朝方の勝利に導いた。この結果尊氏が幕府を開くと一族で8ヶ国の守護を兼ねる勢力を持ち幕政に重きをなすことになった。中でも、細川頼之は詩書を好み、知将としての才能も抜群。白峰の合戦では同族で南朝方であった細川清氏(和氏の子)を滅ぼしてからは、足利方の第一の実力者となり、四国及び中国地方までもその勢力下に置いた。2代将軍足利義詮が病床の時、讃岐にあった頼之(元徳元年(1329)~元中九年(1392)を呼び、幼少の子義満を補佐するよう命じた。子義満にも「吾汝に一父を残す、その教えに違う勿れ」と頼之のことを、自分に代わる父として従い教えを受け背くべからずと命じた。頼之は遺命により義満を補佐し内に幕政を整え、外にも武威を輝かした。義満にとって、頼之の度重なる諫言を心よしとせず、加えて周囲の武将も頼之の権勢を忌み、主従の離間策を講ずるなど、頼之は遺命達し難きを感じ天授5年(1379)職を辞し、髪を剃って常久と改め、讃岐に帰った。時に頼之51歳。この海南行の詩はその時の作である。その後、義満は頼之のこれまでの功績と自分の反省を顧み、去った頼之を元中2年召還して再び国政に参与させることになった。同9年3月64歳で没した。義満は自らその柩を送り法華経を書写して供養したという。※頼春の長子で、三河細川郷で生まれる。名は頼之、幼名弥九郎。剃髪して常久と改める。温厚にして知略にすぐれ、読書を好み詩歌に秀ず。足利尊氏に従い転戦した武将。足利3代の将軍に仕え、治績をあげ南北朝合体のためにも尽力するなど、功を成した。京都地蔵院地図 京都地蔵院 地蔵院に有る頼之の墓足利義満将軍になって10年目頃、京の室町に大きな屋敷を構え、いろいろな花を植え、一年中花が咲き乱れていたことから[花の御所]と云われた。後小松天皇から太政大臣の位を受けた。また「花の御所」よりも豪華なまばゆいばかりの金閣寺を建てて人々を驚かせた。(一階は寝殿造、2階は書院造。3階は仏殿)となっている。南北朝に分かれていた朝廷を1つにまとめたいと、両方の朝廷に何度も相談し条件を付けて南北朝を統一させた。37歳の時9歳の長男義持に将軍の位を譲り、将軍よりもっと高い処から思いのままの政治を行いたかった様子、また天皇になりたかったとの説もある細川頼之画像 頼之が夢に見た天童の像 義満が創建した金閣寺 金閣寺の二階部分天童像細川頼之の夢に12~13歳ほどの天童が顕われ和赤を口ずさみつつ舞い、細川家の家運隆盛を告げた。その後家運が開けた事から頼之は天童の像を作らせ、自ら創建した洛西の地蔵院に祀った。([細川家の700年永青文庫の至宝]より)
2010年08月31日
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筑後川を下り、菊池正観公の戦いし処を過ぎ、感じて作るあり 頼山陽 (其の2) 古戦場めぐり 太平記筑後川合戦(大保原合戦)絵巻、と 古戦場地図左から(1)、宮の陣神社境内。 (2)、将軍梅紀念之碑。 (3)、宮の陣征西将軍懐良親王碑。 (4)、大将藤とも将軍藤ともいわれる(小郡福童・中大臣神社境内、生憎7月下旬に訪ねましたので藤の花の時期でなかったのが残念でしたが素晴らしく広大な藤棚でした。※ 宮の陣は懐良親王が陣営を置いた処であり、親王が傷を負った際快癒を祈って大中臣神社に祈祷し、全壊したことにより藤を奉納したといわれる(大将藤)。また親王が御手植えされたという梅があります(将軍梅)。左から(1)宮の陣神社 鳥居 (2)宮の陣神社 (3)高良山山中の本坊跡 (4)道なき道の薄暗い山中の吉見城近くに一輪の花が疲れを癒してくれる。※吉見城跡(豊臣秀吉が九州征伐に際して陣を敷いた処。現在琴平宮を祀ってあり、鳥井には琴平宮と文字があります。左から、善風塚跡・ 宮ノ陣・ 将軍梅・ 将軍藤(大将藤) の説明文※善風塚跡掲示板文面=昔、この「希望の森」の辺りに「小善風」といわれる4っの塚(小さな丘)があり、運動場の南側には「大善風」といわれる3っの塚がありました。これらを合わせて「善風塚」と呼ばれていましたが、今から650年以上前(西暦1359)に起こった「大保原(大原)合戦」で戦死した7人の武将(兵士を指揮する人)の御墓といわれています。この合戦は、南北朝時代(1336~1392)の「太平記」という軍記(戦争)物語に書かれている中世九州の最大の合戦です。この本には1日の戦いで両軍合わせた5400人以上ともいわれる兵士が戦死したと書かれています。当時の人々は、戦死者を敵・味方の区別なく埋葬して、お寺(善風寺・西鉄大保駅の約400m北側)を建てて、供養したようです。現在は、このお寺は有りませんが、寺小寺という地名が残っています。この「善風寺」は、明治から昭和にかけて開発によって壊されてしまったようです。更に1924年(大正13年)には、西鉄電車の前身の九州鉄道(福岡~久留米間)も開通して、少しずつ昔の地形や遺跡は失われて行きました。現在は、沢山の家々が建って、当時の様子を想像するのが難しくなっていますが、この「希望の森」を通して、合戦の人々の暮らしに思いを寄せてください。※ 宮ノ陣神社 掲示板文字 =正平14年(1359)8月、後醍醐天皇の皇子である征西将軍宮懐良親王は、菊池武光・草野水幸ら宮方の軍勢を率い、南下して来た少弐頼尚をはじめとする足利方の大軍と大保原(現在の小郡市から宮ノ陣にかけて)において九州における雌雄をめぐり、激しい戦いを繰り広げました。これが、日本三大合戦の1つとして有名な[大原の合戦](筑後川の戦い)です。その際、征西将軍宮がこの地に陣を張られたことが[宮ノ陣]の地名の由来ともいわれています。これらの故事にちなんで、高良神社宮司船曳鉄門が主となり、明治21年に神殿を創建し、後征西将軍宮良成親王(懐良親王の甥)を祀ったのが始まりです。のち、同44年に懐良親王の霊を合祀しました。境内には[将軍梅]という懐良親王お手植えと伝わる紅梅や皇族お手植えの松樹があり、3月上旬から、遠い昔の思いを秘めて美しい紅梅が咲き誇ります。(久留米市観光振興課) ※ 将軍梅掲示板文面=正平14年(1359)の夏、征西将軍宮懐良親王を奉じた菊池武光らがこの地に陣を敷いた。親王は、念仏寺である阿弥陀像をここに安置し、手向けに一株の紅梅を御手植えになる、百万遍の仏名を唱えられたとされている。対する少弐頼尚は味坂(小郡市)に滞陣した。8月6,7日、両軍は入り乱れての決戦を交えた。これが有名な大保原の合戦である。戦いに加わり戦死した兵士は数千に及ぶといわれる。築池武光の弟武邦は追慕のあまり出家して、この梅樹の辺に庵を結び、親王の念持仏に戦死者の冥福を祈ったという。これが側の遍萬寺である。星霜を重ねて、親王が手向けられた紅梅は老樹となり里人の語り草となって、この老梅樹を人々は「将軍梅」と呼ぶようになったのである。※福童の将軍藤掲示板文面 (県指定天然記念物・昭和45年5月2日指定)この藤は根もと周囲メートル、胸高周囲2メートルで地上1,7メートルから幹が分岐し高さ2メートルの棚の上には枝が広がり、その被覆面積は204平方メートルに及ぶ。樹勢は旺盛で、樹齢約650年と推定される。正平14年(1359)、南朝の征西将軍宮懐良親王・菊池武光と北朝の少弐頼尚の両軍が激突した大保原合戦で懐良親王が手傷を負った際に、その快癒を祈って大中臣神社に祈祷したところ、その加護で全快したことに謝し、この藤を奉納したと伝えられている。左から(1)大刀洗公園内の菊池武光像。 (2)、小郡小学校内運動場の片隅にある善風塚。この大保原合戦では南朝が優位で、勝利しましたが両軍多数の犠牲者が出たので、のちに南朝・北朝の両方が協力して「善風寺」という寺院を建て、死者を供養したと伝えられています。中でも身分の高い武将7人は、ここに特別に塚を作って葬ったといわれています(3)、大原合戦古戦場の650年祭り(2009)記念碑。 (4)、将軍梅の横にあるお寺で、この地はかって、征西将軍宮懐良親王が、陣営を置かれたところであり、菊池武光の弟武邦が出家して戦死者の冥福をいのったという遍萬寺。遍萬寺前の宮ノ陣神社境内には[将軍梅]という懐良親王お手植えと伝わる紅梅や皇族お手植えの松樹があり、3月上旬から、遠い昔の思いを秘めて美しい紅梅が咲き誇ります。(久留米市観光振興課 懐良親王碑 高良大社奥の院掲示板 高良山史跡巡りマップ※高良大社(奥の院) 掲示板文面=古くは[高良廟][御神廟]と称し、高良の神である武内宿禰の葬所と伝えられていた。高良山信仰の原点ともいうべき聖地である。付近の地名を[別墅(処)]といい、白鳳7年(678)開山隆慶上人が、毘沙門天(高良の神の本地)を発見して毘沙門胴を建て、天竺国無熱池の水を法力で招き寄せたのが、この清水であるという。鎌倉時代の貞永元年(1232)には、惣地頭代刑部丞中原為則なる者が、五重の石塔をここに造立供養したというが、現存しない。次いで南北朝時代には、征西将軍宮懐良親王の御在所となったとの説もある。中世末の記録によれば、ここには戒壇が設けられていたとある。恐らく現存の石積の壇を指すのであろう。壇上には室町時代の石造宝塔が立つ。江戸時代の中頃、山中の極楽寺を再興した僧即心は、晩年ここに籠って念仏修業をしたという。明治初年の神仏分離により、毘沙門胴は[水分神社]と改められたが、[あらゆる願い事を叶えてくださる神様]として、高良大社の数ある末社の中でも、今日特に厚い信仰を集めている。(高良大社社務所)左から(1)、高良山から吉見嶽の吉見城跡への山中。 (2)、高良大社 征西将軍宮懐良親王はこの山を本陣として敵を筑後川畔に破り、後ここに征西府を移されたこともあった。 (3)、高良大社奥の院入口。 (4)、高良山展望台公園より久留米市街地を望む ※筑後川の戦い後、懐良親王は大宰府に入り11年間であるが、統治権者として[征西府の春』を実現した。三代将軍足利義満の執事細川頼之は、九州制圧に足利一門の今川了俊を推挙、1371年(応安4)了俊は中国の毛利・大内らの中国勢力と九州の武家方と周到に工作し、子息の義範(のちの貞臣)を豊後に入れ、菊池の背後を突かせ、弟の仲秋を肥前に入れ松浦党ろ糾合させて西方から、自分は豊前から大宰府に迫り三方から大宰府攻撃を試み1372年(応安5)8月12日、大宰府は陥落し、親王・武光らは筑後高良山に逃れた。その後も両軍の攻防が繰り広げられている。(1392年南北朝の合一成る)。
2010年08月10日
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頼山陽漢詩文、頼山陽の肖像画 (合成して作ったものです)筑後川を下り、菊池正観公の戦いし処を過ぎ、感じて作るあり 頼山陽 ぶんせい げん じゅういちがつ われ きくすい くだ しゅうばつ やと 文政の元 十一月, 吾 筑水を下って舟筏 を 雇う。 すいりゅう や ごと ばんらい ほ これ す ひと もうはつ た 水流 箭の如く万雷 吼ゆ, 之を過ぐれば人をして毛髪を竪てしむ。 きょみん なん き しょうへい さい こうかく とこしな おも きがい とし 居民 何ぞ記せん正平の際, 行客 長えに思う己亥の歳。 とうじ こくぞく しちょう ほしいまま しちどう ふう のぞ さいろう たす 当時の国賊 鴟張を擅 にし, 七道 風を望んで豺狼を助く。 きんのう しょしょう ぜんご ぼっ せいすい わず そん しん たけみつ 勤王の諸将は前後に没し, 西陲 僅かに存す臣 武光。 いしょう あいつう なお みみ あ りょうしゅ ようご せいし おな 遺詔 哀痛 猶 耳に在り, 龍種を擁護して生死を同じうせん。 たいきょ き おか かれ なんびと ちか これ せんめつ てんし むく 大挙 来たり犯す彼 何人ぞ, 誓って之を剪滅 して天子に報いん。 かわ ぐんぜい みだ かんばい かわ とうげき あいま はっせん いくさ 河は軍声を乱して銜枚に代り, 刀戟 相摩す八千の 師。 うまきず かぶと やぶ き ますます ふる てき き かぶと と うま うば の 馬傷つき兜 破れて気 益々 奮う, 敵を斬り兜を取り馬を奪って騎る。 や こうむ い ごと もくし さ ろくまん ぞく ぐん つい ざせつ 箭を被ること蝟の如く目皆裂く, 六万の賊 軍 終に挫折す。 きらい かすい わら かたな あら ち ほんたん ほとばし こうせつ は 帰来 河水に笑って刀を 洗えば 血は奔湍に迸って紅雪を噴く。 しせい ぜんせつ たれ ちゅうりょ きゅうこく しゅんじゅん せいせいふ 四世の全節 誰か儔侶 せん, 九国 逡巡 す 西征府。 いかく いま あえ ほくふう むか じゅんこく けん だいふ つた 棣萼未だ肯て北風に向かわず, 殉国の剣は乃父より伝う。 かつ めいし しりぞ ほんちょう さかん あに きょうけん どうじつ かた 嘗て明使を卻けて本朝 を壮にす, 豈 共献 と 同日に語らんや。 じょうふ よう じゅんぎゃく し たっと しょうに おおとも なん くそ 丈夫 要は順逆 を知るを貴ぶ, 少弐大友 何の狗鼠ぞ。 かりゅう とうとう さ かえ はる のぞ ひれい なんうん む 河流 滔々 去って還らず, 遥かに望む肥嶺の南雲に嚮うを。 せんざい かんとう ほね また く ひと くせつ ほうふん つた あ 千載の 姦党 骨 亦朽ち, 独り苦節の芳芬を伝うる有り。 いささ き ゆう たむら ちょうく うた なお おぼ かせい よど げき 聊か鬼雄を弔うて長句を歌えば, 猶 覚ゆ河声の余怒を激するを。左は、水流箭の如く万雷吼ゆる如く人をして毛髪を竪たしむ。この画は頼山陽肖像画を前の方に配置し、数枚で合成した想像図です。 右は「大保原合戦太平記」より菊池武光奮迅の図詩文説明文政元年11月私は舟を雇って筑後川を下った。水の流れは箭の様に速く、音は猛獣がいかり狂って吼える如くに聞こえ、身の毛もよだつ凄さである。土地の住民達は知らないだろうが此処は正平(己亥の年)の昔、菊池武光公の奮戦の場所であり、その時のことを私は、旅の身ながらも追懐せざるを得ないのである。当時は国賊(足利義詮)が梟のように翼を広げ猛威を奮っていて、七道(日本全国)がその威勢を恐れ服従した。楠木正成・新田義貞ら勤王の諸将は前後して亡くなっており、西の果てに僅かに臣、菊池武光が残ってるだけである。武光の耳には今も猶、後醍醐天皇崩御の際の悲しくも痛ましい詔が残っており何としても、皇子懐良親王と生死を共してでも御守りする覚悟である。今大挙して来る敵は何者ぞ、と見ると、裏切り者の少弐頼尚である。武光は怒り心頭し皇恩に報いるため、これを滅ぼさんと筑後川に沿うて河を渡った。河の水音は軍馬の響きをかき乱し枚を含む必要もない。敵に気取られぬように八千の精兵は敵陣になだれ込んだ。忽ち刀と戟と互いに打ち合う大修羅城と変じ武光も馬も傷付き冑は破れたが気は益々奮い、敵将少弐武藤を斬って冑を奪って乗り、戦場を駆け巡った。頼尚の子頼泰を生捕り4人の敵将を斬り奮闘、敵も味方も箭は全身に針鼠の如く刺さり、目尻は張り裂け血を含む形相、さすが少弐6万の軍勢もついに敗走した。戦い終わり河水に刀を洗うと、血はうずまく激流に迸って、時ならぬ紅雪を噴いた。菊池4世(父武時・子武政・孫武朝)に亘って忠節を貫いたのである。外にこれに比類するものがあろうか。これによって九州は懐良親王の征西府の威風におされ足利氏は逡巡した。武光の兄弟達は誰1人として北朝に就いたものはなく国に殉ずる精神は皆、父武時から受け継がれたのであった。嘗て武光は明の太祖が我国に送った書状の無礼なのを見て使者を追い返し日本の威光と体面を発揚したことに対し、かの足利義満は明に対して臣と称し、恭獻王の封爵を受けた恥知らずの行為とは雲泥の相違、足利義満とは同日に論ずることを出来ない。男児たるもの物事の順逆をわきまえる事を貴ぶものである。逆賊足利氏にくみした少弐・大友の如きは犬畜生にも劣ると云ってもよい。河水は滔々と流れ去って二度と帰らぬように月日もいつしか遠く隔たってしまったが遥かに肥後の連山が雲間に聳えているのを見ると当時、菊池氏が一族あげて南朝に尽くした忠節を連想させるものがある。千年を経て少弐・大友の姦賊の一味はその骨と共に朽ち果ててしまったが、これにひきかえ、菊池氏の苦節はその名も芳しく今に伝えられているのである。古今を追懐して聊か英雄武光の霊魂を慰めようとこの長詩を歌えば、河声は今猶武光が正平の余噴をもらしているかの如く、一段と激しく響くのである。「日本漢詩(上)」参考。 現在の宮の陣橋より大刀洗方面を望む 隈の太刀を洗ったという場所で川の横に写っているのが右の写真2枚です。「菊池武光大刀洗之碑」と「大刀洗橋」大原の戦いは概ねこの辺りだったらしいです上写真は小郡市役所の横の道路に面した場所の4コマです。鎮魂650年記念碑(2009)です。※大原合戦掲示板文面= 正平14年(1359)7月から8月にかけておよそ6万人の北軍(少弐・大友連合軍)と、およそ4万人の南軍(懐良親王・菊地武光軍)が、宝満川流域の味坂・大原・西島・山隈を含む筑後平野を舞台にして一大決戦を展開し、両軍の戦死傷者合わせて約2万5千人といわれている。戦いの結果は南軍の勝利となった。以後、菊池武光は懐良親王を奉じて、太宰府に征西府を置き、10数年間九州政治の実権を握るに至った。平地戦で短時日にこんなに多数の戦死傷者を出した激戦は稀であるといわれ、その霊魂を弔ったと伝えられる跡や、その他の遺跡はいくつも残っている。1、善風塚 南北両軍の戦死者を埋葬したといわれている。2、高卒都婆 千人の僧によって卒都婆をたて、両軍の戦死者を供養した所という。3、前伏= 現在地付近で少弐軍陣所の跡といわれ、今大原古戦場の石碑が 建立されている。4、将軍藤= 征西将軍懐良親王が大原合戦でご負傷され、大中臣神社の加護で全快されて、奉納された藤と伝えられる。※筑後川の戦い (日本史辞典) 南北朝時代九州筑後川をはさんで行われた激戦。1359(正平14・延文4)8月、菊池武光ら南朝軍と少弐頼尚・阿蘇惟時良足利軍との戦い。はじめ少弐らは征西将軍懐良親王を擁する菊池氏らと提携していたが、のち離反し、武光らと対陣した。福童原古戦場掲示板 福童原古戦場碑の入口 古戦場碑※福童原古戦場の掲示板説明文=正平14年(1359)8月大保原の戦に勝った菊池武光は一時居城隈府(熊本県菊池市)に帰り同16年8月に懐良親王を報じて太宰府に入り征西府を開いた。それより九州に勢力をふるうこと約10年、明の使いを引見する等の盛事もあった。京都では九州における北朝の勢力を回復しようとして今川了俊(貞世)を九州探題に任じて大宰府を圧迫した。その勢力に推されて文中元年(1372)8月、武光は親王と共に高良山に退去する悲運にあった。文中3年8月菊地武朝・菊池武安らは筑後川を渡って福童原に陣し、北朝方の山内・毛利・深堀らの軍と交戦、この報を受けた了俊は自ら来り助けたので此処の大激戦が展開した。菊池郡は不幸にも敗北して9月17日再び高良山に退いた。このような情勢の緊迫する中で菊池勢は肥後の菊池に引き揚げ、筑後一円は武家の支配に属するようになった。古戦場の碑には「文中3年官軍の主力菊池武安等今村了俊と交戦し所なり」と書いてある。(小郡教育委員会・小郡郷史研究会) 土地の人は千人塚と呼んでるようです。
2010年08月03日
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