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(アブチ川に架かる安波茶橋/北橋)沖縄本島中南部の浦添市「経塚(きょうづか)」の最北端で、県立浦添工業高校の東側に「安波茶橋(あはちゃばし)」と呼ばれる石橋があります。南橋は小湾川に、北橋はアブチ川にそれぞれ架かっており、首里から読谷方面に抜ける「中頭方西海道(なかがみほうせいかいどう)」と呼ばれる、琉球王国時代に造られた幹線道路の宿道が通っています。「安波茶橋」周辺には現在も石畳道が当時のまま残されており、このアーチ型の石橋は昔から沢山の旅人や通行人で賑わいました。アブチ川に架かる北橋から川沿いを西側に下ると丘陵の森の麓に井泉があり、琉球王国時代から現在に至るまで変わる事なく水が湧き出ています。(北橋から赤皿ガーに向かう道)(赤皿ガー/アカザラガー)(赤皿ガー/アカザラガーの拝所)「安波茶橋/北橋」からアブチ川を伝って西側に進むと右手に「赤皿ガー」が現れます。琉球王朝最後の王様であった「尚寧王(1564-1620年)」が首里城から琉球ハ社の1つである普天満宮(宜野湾市)に参拝する途中、家来が琉球漆器の赤い皿(椀)で井泉の湧き水を汲んで国王に差し出していた事から、この井泉は「赤皿ガー/アカザラガー」と呼ばれるようになりました。ちなみに「ガー」とは沖縄の言葉で井泉や井戸を意味します。井泉の右脇の小さな洞穴にはビジュル(霊石)が鎮座しており、水の神様が祀られた拝所となっています。「赤皿ガー」は琉球王国時代から原型をとどめていると言われ「尚寧王」もこの「赤皿ガー」のほとりで暫し休憩を取っていたと考えられます。(西の井/イリヌガー)(西の井/イリヌガーの手押しポンプ)「経塚の碑」が建立されている「うちょうもう公園」の西側に「西の井/イリヌガー」と呼ばれる拝井戸があります。浦添市社会福祉協議会「ひまわり学童クラブ」に隣接する契約駐車場に古井戸が残されており、古く錆びた手押しポンプが設置されています。井戸は円形に石垣で積まれており、上部はコンクリート製の蓋が被せられています。井戸の周囲は比較的広い敷地が設けられているため「西の井/イリヌガー」は水量が豊富で、周辺住民の飲料水の他にも井戸の水で衣類の洗濯や野菜などを洗っていたと考えられます。現在は手押しポンプのハンドルは折れて紛失していますが、水道が普及するまで「西の井/イリヌガー」は周辺住民の憩いの場として賑わっていたと思われます。(古井/フルガー)(古井/フルガーの石碑)(古井/フルガーの手押しポンプ)(古井/フルガーの拝所)「経塚集落」を南北に通る「経塚通り/県道153号線」の近くで経塚1丁目6番地の住宅の庭先に「古井/フルガー」と呼ばれる拝井戸があります。その名前の通り「経塚集落」に古くからある井戸で、現在も比較的に保存状態が良い手押しポンプが現存しています。井戸の脇には「ふるがー」と彫られた石碑が建立されていてウコール(香炉)が設置されています。さらに2体のビジュル(霊石)が並んで鎮座しており、古くから水の神様を石に祀り水の恵みに感謝する拝所となっています。この「古井/フルガー」は現在もカーウガン(井戸の拝み)で祈りを捧げる、神聖な場所として周辺住民に崇められています。ちなみに、この手押しポンプは「川本式ポンプ」で、昔から品質の高い井戸ポンプとして広く知られています。(御殿井/ウドゥンガー)(御殿井/ウドゥンガーの手押しポンプ)「古井/フルガー」の南側に「御殿井/ウドゥンガー」と呼ばれる拝井戸があります。琉球王国時代末期の王族である「本部朝勇」と、その弟で空手家(琉球唐手)として名高い「本部朝基」が生まれた「本部御殿」が首里赤平村にありました。かつて「本部御殿」の別邸が経塚のこの地にありましたが沖縄戦で屋敷は失われてしまいました。しかし、別邸の屋敷で使われていた井戸が現在も残っており「御殿井/ウドゥンガー」と呼ばれています。この別邸跡の近くには「本部御殿墓」があり、さらに首里から普天満宮に通じる「中頭方西海道」も近かったため「本部御殿」の人々が墓参りやお宮参りの休憩場として「経塚集落」に別邸が建てられたと考えられています。現在も「御殿井/ウドゥンガー」は王族が使用していた井戸として「経塚集落」では大切に崇められているのです。(龍巻井/ルーマシガー)(龍巻井/ルーマシガーの石碑)経塚にあるショッピングモール「サンエー経塚シティ」の敷地北側に「龍巻井/ルーマシガー」という拝井戸があり、地元では「ドゥーマシガー」とも呼ばれています。井戸にはウコール(香炉)が設置され住民により拝されています。その昔、日照りの時に龍が天に立ち昇るのを見て、その地を掘ったところ水がこんこんと湧き出たことから「龍巻井/ルーマシガー」と呼ぶようになりました。それからこの場所は「龍巻/ルーマシ」と言われ、豊富な水資源に恵まれ稲作が多く営まれました。現在「龍巻井/ルーマシガー」は大型ショッピングモールの裏手にひっそりと佇んでおり、近くには「龍巻松の木公園」が整備されて地元住民の憩いの場となっています。(夫婦河/ミートゥガー)(夫婦河/ミートゥガーの石碑)(夫婦河/ミートゥガー/夫井戸)(夫婦河/ミートゥガー/婦井戸)「経塚の碑」がある「うちょうもう公園」から「経塚通り/県道153号線」を渡った西側に「夫婦河(ミートゥガー)」の拝井戸があります。敷地には2基の井戸が並んで据えられ、それぞれにウコール(香炉)が設置されています。向かって左側の井戸蓋には「夫」と彫られており、右側の井戸蓋には「婦」と彫られています。沖縄の言葉で「夫婦」は「ミートゥ」と言い、2基の井戸にはそれぞれ丸い形の霊石が祀られています。浦添市「経塚集落」は澄んだ水が湧き出る井戸が豊富で、先人は昔から水への感謝を示す為、井戸に線香をあげて祈りを捧げてきました。琉球王国時代から残る拝井戸は「経塚集落」の歴史に欠かす事が出来ない神様からの恵みの象徴として、現在も住民により大切に守られているのです。
2022.06.27
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(経塚の碑)沖縄本島中南部「浦添市」の北側に「経塚(きょうづか)集落」があり、この集落の東端は自然豊かな「ウチョーモー/お経毛」と呼ばれる森の丘となっています。琉球王国時代に造られた首里城と読谷村を結ぶ「中頭方西海道」と呼ばれる宿道沿いにあるこの森に、浦添市指定史跡の「経塚の碑」が建立されています。尚円王統の尚真王の時代(1477-1526年)に紀州(和歌山県)の真言宗知積院の住僧である「日秀上人」が沖縄に仏教を広めていた1522年、首里から浦添に通ずる道中の丘にマジムン(妖怪)が出没して人々を困らせていました。その話は尚真王の仏教の師となった「日秀上人」の耳にも入るようになり、マジムン(妖怪)が出ると言われる浦添の丘に出向いたのです。(経塚の碑/金剛嶺の石碑)(経塚の碑のウコール/香炉)(史跡経塚の碑の記念碑)「日秀上人」は「金剛経」のお経を記した石をマジムン(妖怪)が現れる丘に埋めて、その上に「金剛嶺」と三文字を彫った石碑を建てました。すると、たちまちマジムン(妖怪)は退散して人々は安心して通れるようになったそうです。この言い伝えから「お経を埋めた丘/塚」という意味で、この土地は「経塚」と呼ばれるようになりました。さらに、この「経塚の碑」がある「毛」と呼ばれる森を地元の人々は「お経毛/ウチョーモー」と呼ぶようになりました。現在も「金剛嶺」と記された石碑が建立する「経塚の碑」にはウコール(香炉)が2基と霊石が1体祀られる拝所となっており、集落の人々は「氏神」として大切に崇めて旧暦10月1日の祈願祭が執り行われています。(お経毛/ウチョーモー)(いちゃりば兄弟の碑)(いちゃりば兄弟の碑)「経塚の碑」が鎮座する「お経毛/ウチョーモー」には「いちゃりば兄弟の碑」と呼ばれる巨大な石碑が建立されています。「いちゃりば兄弟/ちょーでー」とは沖縄の有名な言葉で「一度出会えば皆兄弟」という意味を持ちます。「経塚集落」は1944年に、周囲にある「安波茶・前田・沢岻」の3集落の一部を割いて作られた新しい集落で「日秀上人」の『お経を記した石を埋めた塚』から「経塚」と名付けられました。3つの集落が寄り集まり、一度出会えば皆兄弟の一致団結を祈願して「いちゃりば兄弟の碑」は建てられました。さらに「お経毛/ウチョーモー」は「うちょうもう公園」に整備され、緑豊かな憩いの場として地域の住民に親しまれています。(経塚橋/ちゅうちかはし)(経塚橋/ちょうちかはし)「お経毛/ウチョーモー」の北側には小湾川に架かる「経塚橋/ちょうちかはし」があります。「経塚の碑」が建てられた土地周辺は琉球王国時代から「経塚/ちょうちか」と呼ばれており、この地から生まれた、地震の際に唱える有名な呪文が昔から伝わっています。ある時、旅人が「経塚/ちょうちか」で昼寝をしていると、近くの村人が大騒ぎをしているので目が覚めました。旅人が村人に聞くと「今、大地震があったのに知らなかったのですか?」と不思議そうに答えたのです。旅人は近くの村が全て大地震で揺れたのに経塚だけはお経の力で揺れなかったと知りました。この話が広く伝わり、それから沖縄では地震の際に『ちょうちか、ちょうちか』と呪文を唱えて、地震の揺れがいち早く止むように祈願する事になったのです。(安波茶橋/石畳道)(小湾川に架かる南橋)(アブチ川に架かる北橋)(安波茶橋と小湾川)「経塚の碑」の北側に続く「中頭方西海道」に「安波茶橋」があり、現在も琉球王国時代に敷かれた「石畳道」が残っています。「安波茶橋」と「石畳道」は1579年に「尚寧王」の名で浦添グスクから首里平良までの道を整備した時に造られたとされています。首里城と中頭(なかがみ)/国頭(くにがみ)方面を結ぶ宿道(幹線道路)として人々や旅人の往来で賑わい、琉球国王もこの道を通り琉球八社の1つである「普天満宮」に参詣しました。「安波茶橋」は石造りのアーチ橋で、小湾川に架けられた南橋とアブチ川に架けられた北橋から成ります。深い谷の滝壺の側に巨大な石を積み上げる大変な難工事であった事が分かり、当時の石積みや石橋作りの技術の高さが見て取れる非常に貴重な資料となっているのです。
2022.06.22
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(松川殿之毛拝所)沖縄県那覇市に「松川(まつがわ)集落」があり、集落の北部の丘陵地に「松川殿之毛拝所」と呼ばれるウガンジュがあります。この拝所がある敷地は「殿之毛(トゥンヌモー)」と称され「松川殿之毛拝所」は集落の守護神を祀る霊域となっています。首里王府時代に「殿之毛」北方から南西方向にかけて集落が形成され「茶湯崎村」と称されていました。清の官僚「徐葆光(じょほこう)」が1721年に著した「中山伝信録」には「松川」と記されており、松川脇地頭の所領地でした。明治初年に「松川村」と改称され、明治41年には「真和志村字松川」となりました。また、古くから「首里坂下」とも呼ばれてきた歴史があります。「松川殿之毛拝所」は「真壁・茶湯崎・安謝」の3村を管轄した「真壁(大あむしられ)」と呼ばれるノロ(祝女)が七神を祀り村の繁栄を祈願していました。(松川殿之毛拝所の内部)(松川殿之毛拝所の内部)(松川殿之毛拝所の内部)『賓頭盧尊神/じんずるそんしん』徳と救済・疫病祓いの神仏『土帝君/トウテイクゥ』土地と屋敷の神仏『金満善神』豊作と繁栄の神仏『御嶽火之神/ウタキヒヌカン』御嶽の根神、腰当神(クサティガミ)、祖霊神『東代御通し/アガリユーウトゥーシ』アマミクの世の神・アガリ世の神『中山御通し』首里親国御通し(遥拝所)『北山御通し』今帰仁あおりやへノロ、今帰仁世の神(松川殿之毛拝所/赤瓦屋根の上のシーサー)(殿之毛の石碑)(上之井/水神)「松川殿之毛拝所」の赤瓦屋根の上には一体のシーサーが鎮座しています。沖縄のシーサーは災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けの役割がある他にも、幸せを離さない意味も込められています。「殿之毛」は現在「殿之毛公園」として整備され「松川集落」の人々の出会い、親しみ、賑わいを目的とした広場として活用されています。「殿之毛」と彫られた巨大な石碑をシンボルとして、旧6月の綱引きや旧3月の村遊び、更に沖縄相撲(角力)の他にも集落の諸行事の開催の場として「殿之毛公園」は住民の生活に欠かせない場所となっています。「殿之毛公園」には「上之井/ウィーヌカー」の水神を祀った祠が建立されており、祠内には古くから残るウコール(香炉)が設置されています。(上之井/ウィーヌカー)(前之井/メーヌカー)(サーター屋井/サーターヤーガー)「松川集落」は「今帰仁森/ナキジナームイ」を背景に、首里城の西側に位置しています。「殿之毛」の南側丘陵の麓には「上之井/ウィーヌカー」の井戸があり、手押しポンプが設置され、正面には魔除けの「ヒンプン」が井戸を守っています。この井戸から南側には「前之井/メーヌカー」があり、井戸にはウコール(香炉)と霊石が祀られ、同じく正面には「ヒンプン」が設置されています。さらに「殿之毛」の西側、坂下通りの松川交差点近くに「サーター屋井/サーターヤーガー」があります。「サーター屋」とはサトウキビを製糖する小屋の事で、製糖過程でこの井戸の湧き水が使われていました。井戸にはウコール(香炉)と霊石が祀られており、他の井戸同様に水の神を崇めて水の恵みに感謝する拝所となっています。(新屋敷/ミーヤシチの井戸)(新屋敷/ミーヤシチの賓頭盧神/ビジュル神)(新屋敷/ミーヤシチの拝所)「殿之毛公園」の西側駐車場に隣接する土地には「根屋/ニーヤー」と呼ばれる「松川集落」に最初に移り住んだ始祖の屋敷跡があります。現在は「新屋敷/ミーヤシチ」と呼ばれ、北側に向けられた3箇所の拝所が残されており「新垣家門中」と「豊村(旧姓新垣)門中」の土地となっています。敷地内には井戸を覆った祠があり、内部には石積みされた古井戸の穴が開いていて正面に霊石とウコール(香炉)が祀られています。この祠のすぐ後方にある別の祠内部には「賓頭盧神/ビジュル神」と記された霊石、もう1体の霊石、ウコール(香炉)が設置された拝所となっています。更に、この北側にはコンクリートのブロックでコの字型に囲まれた小型の祠がありウコール(香炉)が祀られています。(松川樋川/マチガーヒージャー入口)(松川樋川/マチガーヒージャー)琉球王国時代「松川集落」には綺麗な湧き水が多く、美人が多くいる場所として有名でした。「殿之毛公園」の北側で、首里城の西側に延びる尾根の南側丘陵に「松川樋川/マチガーヒージャー」の井泉があり、昔から『美人になれる湧き水』として地域住民に親しまれていました。この丘陵の下部は12〜14mの急斜面となっており、湧き水は主に泥岩で構成される豊見城層内から湧き出る地下水であると考えられています。「ノボホテル沖縄那覇」の敷地東側に「松川樋川/マチガーヒージャー」の入口があり、通路を進むとガジュマルの木の下に井泉が佇んでいます。この井戸は平面で見ると鍵穴型をしており、入口から2段の石段を下りた場所に広がる石畳みの踊り場は幅約1.2〜2m/奥行き約3.5mと細長く、両側は布積み(豆腐積み)の美しい石垣が積まれています。(松川樋川/マチガーヒージャー)(松川樋川/マチガーヒージャーの名板)(松川樋川/マチガーヒージャーの樋口)井泉の貯水槽は半円型で間口約1.9m/奥行き約1.5m/深さ約0.3mとなっています。中央の奥部は上下2段の張り出しとなっており、湧き水は下部の張り出しに設置された石樋を通じて流れ落ち、貯水槽の両側にはウコール(香炉)が1基づつ祀られています。「松川樋川/マチガーヒージャー」の踊り場や張り出しは実用的ではなく装飾的であるため、この井泉は地域住民が生活用水を汲んだり水浴びをしたムラガー(村ガー)ではなく、琉球王府の御殿や庭園の水場として造られたと考えられています。現在でも有名な『美女伝説』が残るこの井泉は「松川集落」では聖地と崇められ、多くの住民が線香を持ち寄り水の神に拝してるのです。
2022.06.17
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(チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の拝所)沖縄県那覇市の中央部に「松川(まつがわ)集落」があり、この集落は1957年12月17日に那覇市に編入合併されるまで「真和志(まわし)市」という独立した市に属していました。それ以前は、1908年4月1日に「真和志間切」から「真和志村」になり、1953年10月1日に「真和志市」になった歴史があります。現在「真和志」という名前は「真和志小学校」「真和志中学校」「真和志高校」の名称のみに残されています。この「松川集落」には「チャナザチバシ/茶湯崎橋」と呼ばれる橋が「真嘉比(まかび)川」に架けられています。この橋にまつわる有名な伝承が存在し、そこから「ムジンクジンワカラン」と言う『意味がわからない』という意味の口語が生まれ、現在も多くの沖縄の人々が使用しています。(チャナザチバシ/茶湯崎橋があった場所)(現在の真嘉比川に架かる橋)現在の「ライオンズマンション松川」のエントランス付近には、その昔「チャナザチバシ/茶湯崎橋」が架けられており「真嘉比川」が流れていました。この橋は琉球王国から昭和期にかけて首里と那覇を結ぶ重要な橋で、創建年は不明ですが1674年の江戸時代に木造から石橋へと架け替えられました。かつて、この辺りまで船が遡って来たと言われ、18世紀に琉球王府の行政の最高責任者である三司官を務めた「蔡温(さいおん)」は、その著書「独物語(ひとりものがたり)」で『茶湯崎に湊を造れば交通の便が良くなり、さらに商船がやってきて交易ができる。そうなれば首里に住む人々の生活も良くなる』と記しています。今日の「真嘉比川」は戦後の区画整理で本来存在した場所からマンションの東側に数十メートル程移動しています。(真嘉比川に架かる橋の北側)(真嘉比川に架かる橋の南側)「尚真王」(1465-1527年)の時代、和歌山県の那智から西方浄土を目指して舟を出した「日秀上人(にっしゅうしょうにん)」という、沖縄に仏教を広めた僧侶がいました。当時、那覇から首里に上る「松川」にマジムン(妖怪)が多く出て道行く人が恐れて困っていました。それを聞いた「日秀上人」は「松川」の「指帰(さしかえ)」の地にマジムンを退散させる為、1519年に「チャナザチバシ/茶湯崎橋」の北側に呪文を彫った石碑を建ててマジムン退散の祈祷をしました。すると、この石碑と「日秀上人」の祈祷の力で、たちまちマジムンは退散して人々が無事に通れる道になりました。そもそもその石碑は梵字(サンスクリット語)で記されており、人々は全く読めなかったので『ムジンクジンワカランマチガーヌヒムン(文字も故事も分からない松川の碑文)』と言われるようになりました。(チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の拝所)(チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の石碑)(チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の石碑)その後、意味がわからない事や理解できない事を「ムジンクジンワカラン」と表現するようになり、現在は更に言葉が訛り変化して「イミクジピーマン」とも言われるようになっているのです。沖縄県立図書館には首里の古い地図が保管されており「チャナザチバシ/茶湯崎橋」の東側には「松川の碑文」の石碑が描かれています。この石碑は明治期までは残されていましたが、その後の道路整備のために残念ながら現存していません。しかし「松川の碑文」の石碑があった場所と考えられる場所には現在、拝所として石碑が2体祀られウコール(香炉)が2基設置されています。向かって左側の四角い石碑には微かに「金剛綘」とも読み取れる文字が彫られていますが定かではありません。正に、これこそが「ムジンクジンワカラン」であると言えます。(現在の茶湯崎橋/ちゃゆざきはしの橋名板)(現在の茶湯崎橋/ちゃゆざきはし)(現在の茶湯崎橋/ちゃゆざきはしの橋名板)「チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡」の直ぐ南側に同じ「真嘉比川」に架かる橋があり、この橋には現在「茶湯崎橋/ちゃゆざきはし」という名称が付けられています。1945年(昭和20)の沖縄戦の後「松川集落」は道路整備に伴い、元の「チャナザチバシ/茶湯崎橋」の道は旧道となり橋の北側を走っていた電車軌道跡(1933年/昭和8に廃止)が新たな県道となりました。更に川筋も変えられて新しい道路も造られた事から、1953年に橋の位置も移動して新たな「茶湯崎橋/ちゃゆざきばし」が竣工されました。この橋の名称が刻まれた石版は橋が建築された当時のままで、那覇市歴史博物館の写真資料では彫られた橋の名称が当初は黒く塗られていた事が確認出来ます。(現在の指帰橋)(現在の指帰橋の橋名板)(現在の指帰橋/安里川/真嘉比川)「茶湯崎橋/ちゃゆざきはし」の南側で安里川と真嘉比川が合流する地点に「指帰橋/さしかえしはし」が架かっています。この橋の名称はかつて琉球王国時代に、この土地に実際にあった「指帰橋/サシケーシバシ」から受け継がれたもので、首里の儀保や山川を水源とする「真嘉比川」と首里の崎山や金城の周辺を水源とする「金城川」が合流し「安里川」の本流となる首里坂下に架設された橋です。造られた当初は木橋は近世になり石橋に改築され、現在は坂下上り口の元国道の地下に埋設されています。明治末期発行の「大日本地名辞書/第八巻」には『指帰橋は首里坂下安里川の交流に架す。昔は、諸島の貢船、川をさかのぼりて来り泊り、満潮を待ってかえりし故になづく』と記されています。(現在のさしかえしはしの橋名板)(真嘉比川と安里川の合流地点)(指帰橋の安里川の名板)新訳「球陽外巻/遺老説伝」第19話に「指帰橋」が次のように記されています。『遠い昔の時代、小橋がこの地(茶湯崎邑の西、首里より那覇に行く大きな路にある場所)に設けられ、人々はよく往き来していました。そして木食い虫のために損なわれては、たびたび修繕して、その心配がなくなることはありませんでした。近世になって、王は、側近の家臣に命じて石を築いて橋を造らせました。この橋を架けた時代、海水が出たり入ったりしていて、水も深くて川幅が広く、北山の色々な船が、ここに到着して停泊していました。そして海水が満ちてくる時はいつも、川からの水のために押しかえされるのでした。そんなわけでその橋を名付けて「指帰橋さしけーしばし/さしかえしばし」といいます。』
2022.06.12
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(シナハウガンジュ/瀬名波御拝所)沖縄の言葉で"岩場が多い地域"と言う意味の「シナハ」または「シナファ」とも呼ばれる「瀬名波(せなは)集落」は沖縄本島中部の「読谷村(よみたんそん)」に位置しています。現在の「瀬名波集落」は「瀬名波原(シナハバル)」という土地に広がっており、その中央部には「シナハウガンジュ/瀬名波御拝所」と呼ばれる社が建立され「ノロ殿内/ヌルドゥンチ」とも呼ばれています。この「ノロ殿内/ヌルドゥンチ」とは、琉球神道における女性の祭司(巫/祝女)である「ノロ」が暮らした屋敷があった聖域を意味します。琉球王府により正式に任命された「ノロ」は「ヌル」または「ヌール」とも呼ばれています。(シナハウガンジュ/ノロの火の神)(シナハウガンジュ/瀬名波御拝所の神棚)(シナハウガンジュ/ヌール神の霊石とウコール)「シナハウガンジュ/瀬名波御拝所」はほぼ北側に向けて建てられており、その敷地は古い石垣で囲まれています。仏壇に向かって左端には「ノロのヒヌカン/火の神」が祀られていて3体のビジュル(霊石)と白い陶器のウコール(香炉)が設置されています。仏壇には4柱の位牌にそれぞれ2基の花瓶と湯呑、ガラスのコップとウコール(香炉)が供えられています。更に、正面の中央手前には古い木製の神皿が置かれ、御賽銭が奉納されています。仏壇に向かって右端は「ヌール神」が祀られた拝所となっており、中央奥に鎮座した霊石を囲むように7つの石製ウコール(香炉)が設置されています。ウコールにはそれぞれ1個づつ小さな霊石が置かれています。(津波家先祖代々之生霊の位牌)(のろ神之霊位の位牌)(馬に乗るノロを描いた彫刻)仏壇には「津波家先祖代々之生霊 歸元 霊位」と記された位牌があり、その向かって右側には「のろ神之霊位」と書かれた位牌があります。「シナハウガンジュ/瀬名波御拝所」は「ヌルドゥンチ/ノロ殿内」とも呼ばれ「崎原巫(ノロ)」が住む屋敷が建てられていた聖域でした。「瀬名波ノロ」とも呼ばれる「崎原巫」は「瀬名波」のみならず周辺の「長浜」「渡慶次」「儀間」「宇座」「高志保」の6つの集落の祭祀を管轄していました。「ヌール神の拝所」にはノロ神のウコール(香炉)を中心に6つの集落を意味する6つのウコール(香炉)が祀られています。この拝所には周辺集落の祭祀に馬に乗って出向く「崎原巫/瀬名波ノロ」を描いた古い彫刻が飾られており、ノロの文化や歴史を知る上で非常に重要な資料となっています。(神アサギ毛/神サギモー)(神アサギ毛/神サギモーの霊石)「シナハウガンジュ/瀬名波御拝所」の北東側に「神アサギ毛」と呼ばれる場所があり「神サギモー」の名称でも知られています。「神アサギ毛」は「崎原巫(ノロ)」や集落の「カミンチュ(神人)」が神を招請して祭祀を執り行う「神アサギ」が建てられていた聖域でした。かつて「神アサギ毛」の周辺には松の木や、沖縄の言葉で「マーニ」というクロツグ(ヤシ科の植物)が生い茂っていた広い土地であったと伝わります。「瀬名波集落」を始めとする周辺の6つの集落を管轄していた「崎原巫(ノロ)」の霊力による祭祀は大規模なものであったあっと考えられます。現在の「神アサギ毛」には祠が建立されており、内部には大型の霊石が鎮座しています。(旗スガシー道/シナハウガンジュ側の入り口)(瀬名波根屋/城間)(旗スガシー道/瀬名波公民館側の入り口)「シナハウガンジュ」の南側から「瀬名波公民館」に続く道は「旗スガシー道」と呼ばれています。「旗スガシー」とは五穀豊穣や集落の繁栄、住民の無病息災を祈願する「道ジュネー」と呼ばれる先祖供養の祭事です。エイサーの踊りと共に集落を練り歩く行事で、沖縄では夏の風物詩と言われる大切な伝統芸能です。この「旗スガシー道」沿いには「瀬名波根屋/城間」と呼ばれる集落発祥の家があります。その昔「シリヤマ」と呼ばれる集落北側の岩山にあった「城間」の家が火事で焼けてしまい、毎年旧暦12月1日を「用心燈の日」として火の用心を呼びかける「ヒーマーチウガン」の行事が行われるようになりました。「瀬名波根屋/城間」には「ヒーマーチ」の神が祀られています。(シリヤマ)(シリヤマのハンタ)「瀬名波集落」の東側で「半多原」と呼ばれる土地に「シリヤマ」と呼ばれる岩山があります。この岩山の更に東側は断崖絶壁付のハンタ(崖)となっており、昔は周辺住民に非常に恐れられていました。「シリヤマ」は「瀬名波集落」発祥の地と言われ、ニーチュ(根人)と呼ばれる「城間家」が暮らしていました。この岩山には「城間門中」の拝所である祠があり「ティラの神」が招請されています。「門中」は「ムンチュー」と発音し、沖縄県における始祖を同じくする父系の血縁集団の事を意味します。旧暦2月1日と8月1日の大御願(ウフウガン)、旧暦3月3日の清明祭(シーミー)、旧暦12月24日の解き御願(フトゥチウガン)の際に拝されています。(城間一門拝所)(城間一門拝所の祠内部)(元寺上霊城間之墓)「シリヤマ」と瀬名波海岸の間に「瀬名波ヤラジャー」という一段と高い岩山があり、周辺は「グシクヌウチ」と呼ばれるセジ(霊力)が高い場所として知られていました。「瀬名波ヤラジャー」にはドーム状の洞穴があり、古い人骨が祀られた「ヤラジャーヌティラ」がありました。戦後、米軍施設の建設により移転を余儀なくされ、北西側の「シリヤマ」の岩山に勧請されました。「瀬名波集落」ではこの「ヤラジャーヌティラ」の神を観音堂の神と同様として拝しています。「シリヤマ」には「城間一門拝所」の祠があり、読谷石灰岩の荒々しい岩肌に霊石が祀られています。さらに「元寺上霊城間之墓」と記された墓も隣接されています。この「シリヤマ」は「瀬名波集落」発祥の地であり、現在も神が宿る聖域として崇められているのです。
2022.06.07
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(カンカーモーのガジュマル)沖縄本島中部に読谷村(よみたんそん)があり、村の北部の海岸沿いに「瀬名波(せなは)集落」があります。この集落の発祥は「瀬名波の浜」の南西側にある「ハンタバル(半多原)」にある「シリヤマ」と呼ばれる岩山周辺であり、その後に集落は北側の「カガンジバル(鏡地原)」に移動しました。この土地には「琉球国由来記(1713年)」にも記される「カガンジウタキ(鏡地御嶽)」が現存します。しかし、水捌けが非常に悪く大雨が降ると酷く冠水する土地であったため、1737年に南側の「久良美知屋原」に集落は移動しました。更に1776年に集落は近隣の「高志原」の土地に移動し、最終的に現在の「瀬名波原」と呼ばれる地域に「瀬名波集落」が定着して現在に至ります。(カンカーモー)「瀬名波集落」の北部で、かつて「高志原」と呼ばれた現在の「ヤーヌクシバル(屋之後原)」と「瀬名波原」との境界線に、大小多数の石垣で囲まれた「カンカーモー」と呼ばれる広場があります。ガジュマルの巨木が聳え立つこの地は旧暦の4月1日と8月1日に「カンカー」と呼ばれる悪霊払いの祭祀が執り行われる場所となっていました。集落に「フーチ」と呼ばれる流行病や疫病が入り込まないように、集落の入り口である「カンカーモー」の広場で牛を潰し、その血を小枝に付けて各家庭の屋敷の四隅に立てて厄祓いをしました。牛の骨を集落の各要所に吊り下げて悪霊払いをし、牛の肉は集落の住民に分けられて食されたと伝わります。(不動/イーヌファ/亥の端)(不動/イーヌファの石碑)「瀬名波集落」には集落の四方に「不動」と呼ばれる石碑が祀られた祠が建立されています。「不動」は「フルー」と呼ばれ「不動明王」に由来し、集落の4箇所を守護する神として崇められています。この「不動」の石碑は設置された方角を十二支で表しており、集落の北北西の方角には「イーヌファ/亥の端」と呼ばれる「不動」が鎮座しています。「瀬名波原」と「屋之後原」との境にある森に建立されており、古老によると昔は「不動」の場所を超えた土地に屋敷を建てて住んではいけないと言われていたそうです。現在は「女性専用癒しの宿/みるく家」というヒプノセラピー&宿泊施設の北側の森に「イーヌファ」の「不動」の石碑があります。(不動/トラヌファ/寅の端)(不動/トラヌファの石碑)「瀬名波集落」の東北東に「トラヌファ/寅の端」と呼ばれる「不動/フルー」があります。県道6号線沿いで嘉手納警察署瀬名波駐在所の南側に建立された、この「不動」は集落の「瀬名波原」と「半多原」の境に設置されています。「トラヌファ」の「不動」がある「半多原」には「シリヤマ」と呼ばれる「瀬名波」発祥の地と呼ばれる岩山があり、昔は人々に恐れられていた断崖絶壁の地であった土地と言われています。さらに「半多原」には「トウヤマグシク」と呼ばれる丘陵のグスク森が広がっています。かつて「トラヌファ」の「不動」はこの地で「瀬名波集落」を東北東から守護しており、現在でも保存状態が良い環境で「不動」の祠と石碑が鎮座しています。(不動/ミーヌファ/巳の端)(不動/ミーヌファの石碑)「ミーヌファ/巳の端」の「不動」が集落の南南東の方角にあり、祠内に石碑が祀られています。この「不動」は「瀬名波原」と「屋之前原」の境に鎮座しており、集落北側の「ヤーヌクシバル/屋之後原」に対して南側は「ヤーヌメーバル/屋之前原」の土地が広がっています。この「屋之前原」には「屋之前原遺跡」の森があり、遺跡の西側には1895年(明治28)に分校として設立され、1902年(明治35)に独立開校した「読谷村立渡慶次小学校」があります。小学校の敷地内には「沖縄の名木百選」に選ばれた「渡慶次のガジュマル」があり、この古樹は1904年(明治37)に創立3周年記念木として植えられた古い歴史があります。(不動/サルヌファ/申の端)(不動/サルヌファの石碑)(サルヌファ/申の端のチンガーグヮー)「瀬名波集落」の西南西の方角に「サルヌファ/申の端」の「不動」が鎮座しています。この場所は「瀬名波集落」の西側に隣接する「渡慶次集落」との境目で、他集落からの疫病や悪霊を封じ込める役割りがあります。この「サルヌファ/申の端」の広場には「チンガーグヮー」と呼ばれる井戸跡が残されています。水道が普及する以前の「瀬名波集落」は水の資源を確保する事が非常に困難で、この「チンガーグヮー」の井泉は集落の住民に大変重宝されていました。現在、井戸跡にはウコール(香炉)が設置されており、住民により水の神様を拝する聖域となっています。(瀬名波中道/渡慶次小学校側の入り口)(瀬名波中道/川平原側の入り口)(カニチグチ)「瀬名波集落」の西側に集落を南北に渡って通る「瀬名波中道」と呼ばれる主要な道があります。南側の入り口は「渡慶次小学校」の西側で、北側の入り口は「川平原」と呼ばれる土地に隣接しており「カンカーモー」の脇を通過します。「瀬名波中道」の中間地点の長い直線の道路には「カニチグチ」という場所があります。「カニチグチ」とは綱引きの際に雄綱と雌綱をカナチ棒(かんぬき棒)で一つに連結する場所を意味します。「瀬名波集落」には古の先人達が残した大切な伝統文化が息づき、歴史を感じさせる風景が現在も数多く残されているのです。
2022.06.02
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