全6件 (6件中 1-6件目)
1
(津覇ノ寺/テラヤマ)沖縄本島中部にある中城村「津覇集落」の東側に「津覇ノ寺/津覇のテラ」という拝所があり、集落では昔から「テラヤマ」や「ヤマグヮー」と呼ばれています。1991年に改修されたコンクリート製の祠内部には霊石と8体の自然石が祀られており、さらに4基のウコール(香炉)も設置されています。この拝所は「津覇寺」とも称し今から約400年前に「竈勝連/カマドゥカッチン」という人の先祖が霊石を権現として祀る為、お宮を建立したのが始まりだと言われています。ここに祀られる御神は「水の神」「火の神」「海の幸の神」「子孫繁栄の神」の四体の神となっています。「津覇ノ寺」は平成26年3月26日に中城村指定文化財(有形民俗文化財)に登録されました。(津覇ノ寺/テラヤマの祠内部)(津覇ノ寺/テラヤマの祠内部)1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には『神社 俗ニ津覇ノ寺ト云 津覇村 ヨヤゲセジヨヤゲヅカサ スデル君ガナシ 押明キヤウ笑キヤウ スンキヤウ笑キヤウ』と記されており、更に『昔、津覇村竈勝連先祖、霊石ヲ権現ト崇、宮建立仕タル由、申伝也。為何由緒アリテ権現ト崇タルヤ、不可考。竈勝連無子故、養子ニ次渡シ、当時、ミチケ桃原、祭祀ヲ司ル也。』と記述されています。四体の神が戻ってくる旧正月2日の「初うくしい/ハチウクシー」、健康と長寿を祈願する旧9月9日の「菊酒/十二支廻り」、四体の神が一年の報告をする為に昇天する旧12月24日の「解き御願」の祭礼日に集落内外より参拝者が訪れて拝しています。(トーチカ)(トーチカの銃眼/南側)「津覇ノ寺/テラヤマ」の敷地内に沖縄戦の時に造られた「トーチカ」と呼ばれる戦争遺跡があります。「トーチカ」は六角形のコンクリート製の構造物で、日本軍により設置された防御陣地です。厚さ約20センチの土が被せられ、地面すれすれの位置に北・北西・南・西南西に向けに銃眼が開けられています。「トーチカ」を造った日本軍の部隊や時期は不明ですが、1945年(昭和20)4月6日以降に「津覇集落」でも米軍との戦闘があった事から、それ以前には存在していたと考えられます。「トーチカ」とはロシア語で「点」を意味し、日本語では「特火点/とっかてん」と訳されます。この「トーチカ」は集落や国道329号線方面に向いている事から、中城村の平野部から南下してくる敵を迎え撃つ為に造られたと考えられています。(イクサヤマ)(イクサヤマの墓)(イクサヤマのウコール)「トーチカ」の南側に「前原/メーバル」という小字があります。この土地に広がる畑の中に「イクサヤマ」と呼ばれる場所があり、この一箇所のみに木々が鬱蒼と生い茂っています。茂みの内部には二基の墓が東側の海に向けて安置されており、それぞれの墓に石造りのウコール(香炉)が設置されています。小屋の形をしたコンクリート製の墓内部には戦死者が祀られていると言われていますが、詳細は不明のままです。更に、この二基の墓の脇には別の石造りウコールが設置されています。沖縄の各地には内地(本土)から沖縄に出征した兵士が遠い沖縄の地で戦死し、戦地に埋葬された無名の墓が数多く存在します。その為「イクサヤマ」の二基の墓に葬られた死者も、故郷への帰還を果たせなかった兵士のものであると思われます。(クシバルガー)(クシバルガーの平場)(富里のカミガー)「津覇集落」の西側丘陵にある「上津覇ノ嶽」と「富里ノ嶽」との中間点にあたる場所に「クシバルガー」と呼ばれる古井戸が現在も残っています。山中に生い茂る深い木々の一画に平場があり、その中央に古い琉球石灰岩とブロックで囲まれた「クシバルガー」が在しています。また「富里ノ嶽」の南側には「富里のカミガー」と呼ばれる拝井戸があります。「津覇集落」では戦前まで「初水の御願」と呼ばれる行事が旧1月3日に行われ、水へ感謝して字内の井戸や拝所へ祈願が行われていました。「ウトゥーシ・上津覇ノ嶽・トゥングヮー・津覇ノ寺・屋号安里小隣の拝所・ウブガー・上津覇のカミガー・クシバルガー・富里のカミガー・ヤナジガー・クバニーガー・ウェーグンガー・チュンナガー・屋号安里小隣の井戸」が拝されていました。(ヤナジガー)(屋号安里小隣の井戸)(ウブガー)「津覇集落」の南西側に「ヤナジガー」があり、集落の中央部には「屋号安里小隣の井戸」が残されています。更に集落の北側の畑に囲まれた場所には「ウブガー」と呼ばれる井戸があり、産水や正月の若水を汲んでいたムラガー(村井戸)として使用されていました。旧5月15日の「グングヮチウマチー/五月ウマチー」で神に稲の初穂を供えて豊作を祈願し、旧6月15日の「ルクグヮチウマチー/六月ウマチー」では神に稲を供えて豊作を感謝しました。各「ウマチー」では「伊集ノロ」が「ウトゥーシ・上津覇ノ嶽・トゥングヮー・津覇ノ寺・屋号安里小隣の拝所・ウブガー・上津覇のカミガー・クシバルガー・富里のカミガー・ヤナジガー・クバニーガー・ウェーグンガー・チュンナガー・屋号安里小隣の井戸」を巡り祭祀を行なっていました。(ウェーグンガー)(クバニーガー)(チュンナーガー)「津覇集落」の「ナカミチ」と「メーミチ」の間に「ウェーグンガー」と「クバニーガー」が隣接しており、更に西側には「チュンナーガー」があります。この「チュンナーガー」に設置されたウコール(香炉)には、ウチナーウコー(沖縄線香)が「ヒジュルウコー」と呼ばれる火を灯さない作法で供えられていました。井戸はそれぞれ民家の道路沿いに構えており鉄柵が設けられています。集落に点在する井戸と拝所を巡り豊作を祈願して感謝する各「ウマチー」の際、3つのシマを管轄していた「伊集ノロ」は馬を利用して各拝所を移動し、初めに「伊集集落」次に「和宇慶集落」最後に「津覇集落」を廻ったと言われています。「イーツハヤマ」にある「上津覇ノ嶽」は祈願の最終の拝所として締め括りの祭祀が行われたと伝わります。(スガチミチ/潮垣道)(ンマイー)(チーチーヤー/乳搾り屋跡)「津覇集落」の主要道路であった旧県道が出来る以前に「スガチミチ/潮垣道」は集落の中心的な道路で、現在は「村道潮垣線」と名付けられています。かつては「スガチミチ」近くに海岸線があり、トロッコ軌道が敷設され西原町の製糖工場にサトウキビを運んでました。「津覇ノ寺」付近の「スガチミチ」は「ンマイー」と呼ばれていましたが、ンマスーブ(琉球競馬)が行われる事は無く子供達の遊び場として使われていました。集落北側の「スガチミチ」沿いに「チーチーヤー」という乳搾り屋の跡があります。屋号「呉屋門」は牛飼いで宜野湾村(現在の宜野湾市)から牛を2〜3頭購入し養っていました。戦前は身体が弱い生徒の給食用として学校に配達したり、時には西原町まで搾りたての温かい牛乳を配達していたと伝わります。(ヤブーの住居跡)「チーチーヤー」の北西側の屋号「西比嘉」に「ヤブー」と呼ばれる民間療法を行う人がかつて住んでいました。その人は「呉屋カメ」さんという名前で、通称「ダッチョーハーメー/ダッチョー婆さん」と呼ばれており針治療を行っていました。集落の人々は熱を出したり身体にアザを作った時に「ブーブー」と呼ばれる治療してもらいました。温めたコップを患部にあてて吸い上げ、吸い上げた部分に針を刺して体内の悪い血液を抜くという治療で、遠くは泡瀬からも患者が来ていたと言われています。「ダッチョーハーメー」は集落の子供達から恐れられており、子供達が悪さをした時に「ダッチョーハーメー呼んでくるよ!」と叱ると、皆が直ぐに言う事を聞いたと伝わっています。
2022.09.26
コメント(0)
(上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキ)沖縄本島中部の「中城村(なかぐすくそん)」の東南部に「津覇(つは)集落」があります。かつて古い集落があった「古島」と呼ばれる場所は、伝承によると現在の「津覇集落」の西側丘陵の一帯にありました。元々は「上津覇/イーチファ・富里/フサトゥ・糸蒲/イトカマ」の3つの小集落に分かれていたと伝わります。1983年(昭和58)の「中城村教育委員会」による発掘調査ではグスク時代から近世期にかけての遺物が発見されており、その後の時代に3つの小集落は丘陵地から現在の平坦地に移動して1つの集落に合併したと言われています。また、1781〜1798年に作成されたとされる『琉球国惣絵図』には「津覇」が既に現在地に集落を形成している事が確認できるため「津覇集落」はそれ以前に移動してきたと考えられます。(上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキの祠内部)(上津覇ヌ嶽の石碑とウコール)「上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキ」は「津覇集落」西側の丘陵地帯に位置し、この付近はかつて集落の古島の一つである「上津覇」があった場所であると言われています。以前の拝所はこの地点から南東側に広がる「上津覇山/イーチファヤマ」の頂上付近にあり、小さな石造りの祠があったと言われています。1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には『上津覇ノ嶽 神名 津覇コダカネモリノセジ御イベ』と記されており、約300年以上の歴史を持つ拝所である事が分かります。「上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキ」の祠内部には3基のウコール(香炉)と石柱が祀られており、祠の敷地入り口には「上津覇ヌ嶽」と彫られた古い石碑とウコールが2基設置されています。(糸満之墓)(大湾按司三男 大湾子之墓)「上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキ」の祠西側に隣接して「糸満之墓」と「大湾按司三男 大湾子之墓」が祀られています。「糸満」は「津覇集落」の「根屋/ニーヤ」と呼ばれるムラの創始家の一つと言われており、現在の「糸満門中」は伝統芸能の獅子舞を保管する「獅子屋/シーシヤー」を管理しています。また「英祖王(在位1260-1299年)」の父である「恵祖世主/えそよのぬし」を初代とする10代目「大湾按司」の三男「大湾子/おおわんしー」は「津覇集落」の「根屋」の一つである「呉屋門中」の元祖であり、この門中は集落の旗頭を保管する「御神屋/ウカミヤー」を管理しています。2基の墓にはそれぞれ「糸満之墓」と「大湾按司三男 大湾子之墓」と彫られた石碑が建立され、コンクリート製のウコールが祀られています。(富里ヌ嶽/フサトゥヌタキ)(富里ヌ嶽/フサトゥヌタキの祠内部)「上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキ」の南西側で、中城村立津覇小学校の裏手に「富里山/フサトゥヤマ」と呼ばれる丘陵地があります。この一帯はかつて「津覇集落」の古島の一つである「富里/フサトゥ」があったと言われています。この山の東側に「富里ヌ嶽/フサトゥヌタキ」の祠が鎮座しており、この御嶽は『琉球国由来記』には『富里之殿』と記されており『稲二歳之時、花米九合宛・五水一沸二合宛・神酒一宛・シロマシ二器津覇地頭、神酒四宛・肴一器同村百姓中、供之。伊集巫ニテ祭祀也。且此時、地頭ヨリ三組盆、巫・根神・掟アム・居神十五員、馳走也。』との記述があります。「富里拝所 昭和六一年十二月二十八日」と刻まれた祠内部には霊石が祀られています。(合同遥拝所/ウトゥーシ)(合同遥拝所/ウトゥーシの火の神/ヒヌカン)「富里山/フサトゥヤマ」の北側にある南上原糸蒲公園の東側に「糸蒲山/イトカマヤマ」があります。この一帯はかつて「津覇集落」の古島の一つである「糸蒲/イトカマ」があったと伝わってます。この土地に住んでいた人々は元々、現在の琉球大学千原キャンパスの生協北食堂売店南側にある「シージマタ」と呼ばれる地域に住んでいました。しかし「棚原一門」との戦いに敗れ「糸蒲」に移り、一時生活した後に現在の「津覇集落」に移り住みました。「合同遥拝所/ウトゥーシ」には3基のウコールが祀られており、それぞれ「糸蒲ヌ嶽」「シージマタノ嶽」「糸蒲寺/イトカマデラ」で「糸蒲」に住んでいた人々にゆかりのある拝所への「遥拝所/ウトゥーシ」となっています。因みに「糸蒲ヌ嶽」は『琉球国由来記』に『糸カマノ嶽 神名 糸掛カネモリノセジ御イベ』と記されています。(龕屋/ガンヤー)(龕屋/ガンヤーの内部)中城村立津覇小学校の体育館後方に「龕屋/ガンヤー」があります。琉球石灰岩をアーチ型に積み上げ、石積みの目地に漆喰が塗られています。「龕屋/ガンヤー」とは「龕/ガン」を収める小屋の事で「龕/ガン」とは、火葬が行われていなかった時代に遺体を安置した棺を墓まで運ぶ朱塗りの輿の事をいい「津覇集落」では「ンマ/馬」と呼ばれていました。集落から墓地まで「龕/ガン」が通る道は決められており、現在の津覇小学校の校舎と校庭の間の小道を通る事になっていましたが、その後「メーガーラー」と呼ばれる川の沿道に変更されました。「龕/ガン」は4人で担ぎ、坂道になると集落の人々が手伝ったと伝わります。「龕屋/ガンヤー」は平成18年3月27日に「中城村有形民族文化財」に指定されました。(津覇尋常高等小学校/津覇小学校)(津覇尋常高等小学校/津覇小学校)(校長先生の宿泊所跡)「津覇尋常高等小学校」は現在の「津覇小学校」の前身で、学校の校舎はほとんど瓦葺きで鉄筋コンクリート製の建物でした。学校の裏には農園があり高等科から農業の授業で野菜や家畜の育て方を学んでヤギ・豚・鶏を飼育していました。生徒たちは自分で育てた野菜を収穫して「津覇集落」や隣の「和宇慶集落」の「マチヤー/商店」に売り、得たお金でお菓子を買って校舎の屋上に集まって楽しく食べたというエピソードが残っています。1941年(昭和16)に「津覇国民学校」と名称を変え、1944年(昭和19)には日本軍の兵舎として使われました。そのため、ほとんど学校で授業が出来ない状態になり、周辺集落の「ムラヤー/公民館」や民家を借りて授業を行ったと伝わります。更に、学校の北側に隣接した場所には校長先生の宿泊所跡があり、現在は大きなガジュマルの木が育っています。(ジュンサヌヤー/駐在所跡)「津覇小学校」の南側を流れる「メーガーラー」と呼ばれる川沿いに、かつて「ジュンサヌヤー」と呼ばれる駐在所がありました。ジュンサ(警察)は集落の外から派遣された人が住み込みで勤務していました。戦時体制下に入ると集落での見回りも一段と厳しくなり、青年達の娯楽の一つであった「モーアシビ/毛遊び」も取り締まりの対象で厳重な処罰が与えられたそうです。大正生まれの古老によると、ある日「津覇集落」の青年達がヤンバラヤー(現在の吉の裏公園の浜)で「モーアシビ」をしているとジュンサに見つかり、その中のサンシンヒチャー(三線弾き)が捕まったのです。その後「ジュンサヌヤー」に連行されて『あの浜で三線を弾くなら、ここで弾け!』とジュンサに言われ、夜通し三線を弾かされたという実話が残っています。(ヒラマーチャー/平松跡)(アシビナー跡)「津覇小学校」の北側には集落の共同墓地が隣接しており、さらにその北側にはかつて「アシビナー/遊び庭」がありました。その昔、この共同墓地とアシビナーの間には「ヒラマーチャー/平松」と呼ばれる高樹齢の見事な松の木があり、神が宿る木として住民に崇められ「神マーチ/神松」と言われていました。共同墓地の古い彫込墓(フィンチャー)と平葺墓(ヒラフチバー)が並ぶ場所の上部に生えていたと言われておりアシビナーの御神木として親しまれていましたが沖縄戦で消失したと考えられます。現在、かつて各集落に一箇所あったと言われているアシビナーがあった場所は深い草木に覆われていますが、当時は集落の老若男女が集い交流して賑わっていた場所でした。(イサヌヤー/診療所跡)(イサヌヤー/入院室跡)(マットォーグヮーミチ)国道329号線沿いで現在の新垣タイヤサービスの北側に隣接した場所には戦前に「イサヌヤー」と呼ばれる診療所がありました。この診療所を開いていたのは屋号「新後玉那覇」の比嘉盛茂(ひがせいも)氏で、診療所の南東側に入院室の施設もありました。1944年(昭和19)年頃には「津覇国民学校」に日本軍が駐屯し始めた為、診療所と入院室は日本軍に貸し出されていたと言われます。比嘉氏が徴兵された後、診療所は将校の宿泊所、入院室は日本軍の慰安所として使用されました。因みに、診療所の入院室は「マットォーグヮーミチ」と呼ばれる道沿いにあり、この小道は独身で17〜18歳のチュラカーギー(美人)の女性のみが通っていたと言われており、現在も集落に残っています。(マチヤー/商店跡)かつて「津覇集落」には「一銭マチヤー」という駄菓子屋や雑貨屋が数多くあり、様々な物が販売されて子供達の筆記用具、米、酒、ソーメン等が売られていました。「イサヌヤー」の北側に隣接した屋号「東眞境名」の呉屋陽賓(ごやようほう)氏が、もともと「与座商店」があった場所で国から許可を取り、当時は貴重品であった米と酒の専売店をして高級菓子等も販売していました。お店の商品は「与那原」の業者さんが配達をしていて、更に戦前は自転車のパンク修理も行っていました。前身の「与座商店」は「ユザヌマチヤー」の名称で呼ばれ、お店は「ユカッチュ」と言う首里出身の人が経営し、琉球王国時代の髪型である「カタカシラ」を結っていた事から「ユザヌカンプー」と呼ばれていたと伝わります。
2022.09.21
コメント(0)
(和宇慶の氏神)「古島」と呼ばれる「和宇慶集落」の発祥地は「和宇慶の御嶽」の森から北西側に位置する「上登原/イートンバル」の丘陵にあったと伝わります。その後、現在の集落の中心がある「検知原/ケンチバル」に移転したと言われます。沖縄戦が始まる1944年(昭和19)には「和宇慶集落」の一部も日本陸軍の「東飛行場」の滑走路建設に利用されました。この飛行場は「西原飛行場/小那覇飛行場」とも呼ばれ、その年の10月に起きた「10・10空襲」により米軍の激しい攻撃を受けて土地は放置されました。戦後「和宇慶集落」があった「検知原」の一帯は米軍の軍用地として強制的に接収されて立ち入り禁止区域となり、住民は近隣の集落に身を寄せる事になったのです。そして、1959年(昭和34)5月に「和宇慶集落」は米軍から集落の地主に返還され、現在の「和宇慶集落」の発展に至っています。(和宇慶の氏神のシーサー)(和宇慶の氏神の霊石)「和宇慶公民館/和宇慶構造改善センター」の敷地内に「和宇慶の氏神」が祀られる祠があり、赤瓦の屋根には魔除けのシーサー(獅子)が構えています。「氏神」とは土地の守護神であり、その土地に生まれた人を守る神を言います。戦前は「和宇慶の氏神」はここから南側にあった「倶楽部/村屋」と呼ばれる、現在の公民館にあたる施設の敷地内にあり「ナカミチ」という主要道路寄りの北側に鎮座していました。当時は3〜4段の階段を登った土台の上に祠が建てられており、現在の「氏神」の祠よりも大きく東側の海岸に向けて建てられていました。今日「和宇慶公民館/和宇慶構造改善センター」に祀られている「霊石」は戦前の「氏神」の祠内に在していたもので、集落返還後に米軍に統治されていた旧集落の土地から発見されました。(倶楽部/村屋跡)(統合拝所乃碑)(ナカミチ跡)「和宇慶集落」の西側で戦前まで集落の中心を東西に通る主要道路であった「ナカミチ」沿いに、かつて「倶楽部」という場所があり「村屋」とも呼ばれていました。現在の公民館にあたる「倶楽部」は当時は木造瓦葺の建物で、1924年(大正13)生まれの古老が産まれる前からあったと伝わります。現在の「倶楽部」は「統合拝所」となっており、戦前までこの地にあった「ムラの火の神・ビジュル・ビジュル御井・中軸之御井」に併せて戦前に「検知原」に点在していた「安里御井・世利御井・外間御井・龍宮御神」の8拝所が合祀されています。「統合拝所」の入口には「土地改良地域 統合拝所乃碑 昭和五十八年九月十八日」と彫られた石碑が建立されています。現在この敷地の北側には昔の「ナカミチ」跡が数十メートル残されています。(ビジュル)(ビヅル神/ビヅル御井の石碑)(ビジュル御井/ビジュルウカー)「倶楽部/統合拝所」には「ビジュル神」が祀られた祠が北側に向けて建てられています。祠の内部には「ビジュル」と呼ばれる霊石が鎮座しており、戦前「ビジュル」の霊石は「倶楽部」の東側に隣接した屋号「小波津/クファチ」の屋敷内にウコール(香炉)と共にありました。「ビジュル」の語源は十六羅漢の中の第一の尊者である「賓頭盧/ビンズル」で、その名前は「不動」を意味します。「ビジュル」とは霊石の事で、その霊石を信仰する沖縄における「霊石信仰」の対象となっています。「ビジュル」の祠は豊作・豊漁・子授けなど様々な祈願が行われる拝所で、祠の脇には「ビヅル神 ビヅル御井」と彫られた石碑が建立されています。更に、その右側には「ビジュル御井」の井戸とウコールが祀られており「ビジュル」の霊石同様、戦前は屋号「小波津」の屋敷内にありました。(安里御井/アサトウカー)(中軸之御井/チュウジクヌウカー)(ムラの火の神/ヒヌカン)「安里御井/アサトウカー」は戦前の「和宇慶集落」の南側にあった屋号「南風小/フェーグヮー」の側にありました。「山城門中」の先祖が利用していた井戸で、昔から同門中が拝していたと伝わります。「中軸之御井/チュウジクヌウカー」は「倶楽部」の敷地の庭の真ん中に位置していた井戸で、その名称は井戸があった場所に由来していると考えられます。この井戸は「倶楽部」の敷地内にあった事から集落の多くの人々から拝されていました。かつて「倶楽部」の建物の土間に3つの石が置かれた窯があり「火の神/ヒヌカン」が祀られていました。「倶楽部」で行事が行われる際には、この窯で茶を沸かして振る舞ったと伝わります。現在、この3つの石を「ムラの火の神」として祀っており、西側に向けて建てられた祠には石造りのウコールが設置されています。(外間御井/ホカマウカー)(世利御井/シリウカー)(龍宮御神/リュウグウウカミ/東世御通)「倶楽部/村屋」跡の敷地には他にも合祀された「外間御井/ホカマウカー」があり、戦前の「和宇慶集落」の中央部に位置していました。「ナカミチ」沿いにあった屋号「仲元」と屋号「新前小波津」の間にあり「儀間門中」が拝んでいました。「外間御井」の脇には「世利御井/シリウカー」が祀られており、戦前は「外間御井」の南東側に位置する屋号「登同呉屋」と屋号「小波津小」の間にありました。さらに「統合拝所」には「龍宮御神/リュウグウウカミ」の石碑が建立されています。戦前は集落の最東端にあった「サーターヤー/サトウキビ小屋」の敷地内にあり「ウマアミシグムイ」と呼ばれる馬に水浴びをさせる水溜りの脇に「龍宮御神」の石碑が建立されていました。「龍宮御神」は東の海の遥彼方にある理想郷「ニライカナイ」を拝む拝所として崇められてたと言われています。(旧県道)(ユーフルヤー/風呂屋跡)(ダンパチヤー/理髪店跡)「和宇慶公民館/和宇慶構造改善センター」沿いに「旧県道」が通っています。戦前の主要道路で中城村内は「久場・泊・吉の浦」を通り「奥間・和宇慶」を経て西原町に続きます。戦前は「旧県道」の屋号「西新屋小」は「ユーフルヤー/風呂屋」を営んでおり、敷地内にある井戸から手押しポンプで汲みあげた水を大きな釜で沸騰させました。利用者は桶には入らず釜のお湯を洗面器で体にかけていたと言われています。「ユーフルヤー」から旧県道を渡った向いの屋号「二男仲與儀」は「ダンパチヤー/理髪店」を経営していました。この店主は大阪から「和宇慶集落」に帰って来て「ダンパチヤー」を開店し、集落では「グーニーダンパチヤー」と呼ばれていたそうです。戦前はハサミを所有する家族が少なく、ほとんどの人が「ダンパチヤー」を利用していたと伝わります。(雑貨屋跡)(馬車ムチャー跡)(和宇慶公民館裏の石敢當)「ダンパチヤー」の南西側向かいの屋号「吉田小」は、戦前は「雑貨屋」を経営していて米や油、生活雑貨など豊富に揃っており県道沿いの好立地から多くの客で賑わっていたそうです。屋敷内の豚小屋で豚を飼育して豆腐も作っていたと伝わります。この「雑貨屋」西側の旧県道沿いの屋号「二男前仲元」には「馬車ムチャー」と呼ばれる馬車を所有する人がいました。サトウキビの製糖時期になると樽詰めにした黒糖を馬車に乗せて、那覇にある出荷場まで運ぶ役割を担っていました。帰りは新しいタルガー(黒糖を入れる樽)を購入して集落に戻って来たと伝わります。「和宇慶公民館」の西側には古い「石敢當/イシガントウ」が残されています。「石敢當」とは丁字路の突き当たりに設置される魔除けの石碑の事で、この「石敢當」は昔からこの場所で厄祓いの役目を果たしていると考えられます。
2022.09.16
コメント(0)
(和宇慶の御嶽/ウガン/イキガ神)沖縄本島中部にある「中城村(なかぐすくそん)」の南部に「和宇慶(わうけ)集落」があります。この集落の面積は0.726平方キロメートルで「上登原/イーントーバル・松尾原/マツオバル・川崩原/カーグイバル・宇志真原/ウジマバル・検知原/ケンチバル・平良原/テーラバル」の6つのハルナー(小字)から成り立っています。現在の「和宇慶集落」は「検知原」の一部と「宇志真原」の国道沿いから東側一帯に集中していますが、戦前は主に「検知原」一帯にありました。「上登原」と「松尾原」には墓地が多く分布しており、丘陵の中腹に広がる「川崩原」と「松尾原」の深い森では戦時中、多くの住民が避難壕を掘り避難していました。また「和宇慶集落」発祥の土地は「上登原」の周辺であったと伝わっています。(和宇慶の御嶽/祠内部)(和宇慶の御嶽/祠の霊石)(和宇慶の御嶽/トゥムンジャク)「和宇慶集落」と西側に隣接する「伊集集落」の境は「上登原」の「トゥムンジャク」と呼ばれる一帯で「和宇慶の御嶽」の祠があり「ウガン」とも呼ばれています。この拝所は1713年に琉球王府が編纂した「琉球国由来記」には『伊集ノ嶽 神名 和宇慶ウラソデバナノセジ御イベ』と記され「イキガ神/男神」と言われており、隣接する「伊集のウガン」の「イナグ神/女神」と男女一対の関係にあります。かつて「和宇慶の御嶽」の祠は「伊集のウガン」の祠から北側に約100メートルの位置にありましたが、地滑りにより現在の位置に移動し「伊集のウガン」の祠から東側に約20メートルの位置に現存しています。「琉球国由来記」にある『伊集/和宇慶村 伊集ノ嶽』とは「伊集のウガン」の祠と「和宇慶の御嶽」の祠が対として南北に鎮座する一帯の丘陵の森を示していると考えられます。(マーチューグヮー)(伊集ノロの墓)「和宇慶の御嶽」の祠がある「トゥムンジャク」の東側の「松尾原」には「マーチューグヮー」と呼ばれる丘陵となっており墓地が一帯に広がっています。戦前は松の木が生い茂る林となっていて、台風が過ぎ去った後には燃料となる「マーチバー/松の枝」を広い集めに行ったそうです。しかし、その松林は激しい沖縄戦により失われてしまいました。この「マーチューグヮー」の東側丘陵の中腹には「伊集ノロの墓」があります。「伊集ノロ」は「伊集店・和宇慶・津覇」の3つのシマ(村)を管轄し「ウマチー」と呼ばれる五穀豊穣と村の繁栄を祈願する行事では「伊集」の拝所を廻った後「和宇慶・津覇」の祭祀を執り行いました。その際「伊集ノロ」は馬に乗り各シマを廻り、その馬は「津覇」の「呉屋門中」から出されたと伝わります。(伊集ノロの墓の石碑/表側)(伊集ノロの墓/門石とウコール)(伊集ノロの墓の石碑/裏側)「伊集ノロの墓」は元々は西原町の「琉球大学」から西側にある「イシグスク/石城」の山中に葬られていましたが、沖縄自動車道建設のため「和宇慶集落」の「マーチューグヮー」に移動されました。墓の石碑には『夏氏 伊集野奴呂神之墓 西原町石城山ヨリ移転(卯年) 一九八七年九月吉日建立』と記されており、石碑の裏側には『字伊集 東門中 字和宇慶 小波津門中 字津覇 玉那覇門中』と彫られています。「伊集ノロの墓」の門石には設置されたウコール(香炉)に霊石が祀られており「伊集東利門中・和宇慶小波津門中・津覇玉那覇門中」の拝所となっています。ちなみに「伊集ノロ」には2人の姉がいて、それぞれ南城市(旧知念村)久高島の「久高ノロ」と西原町棚原の「棚原ノロ」であったと伝わります。(ガンヤー/龕屋)(ガン/龕)「和宇慶集落」の東側にある「宇志真原」の国道329号線から山手に約20メートルの場所で「川崩原」との境の付近に分布する墓地群には「ガンヤー/龕屋」と呼ばれる小屋があります。「ガン/龕」とはかつて火葬が一般化する以前、葬儀の際に死者を運ぶ為に使われた屋形型の輿の事です。戦前に使われていた「ガンヤー」と「ガン」は沖縄戦で消失してしまいましたが、戦後に新たに造られて1961年(昭和36)頃まで使用されました。現在「ガンヤー」の小屋内部には当時使われていた「ガン」が現存し保管されています。戦前の「和宇慶集落」の「ガン」は有名で人気が高く、周辺の村々から借りに来ていたそうです。古老によると「ガンノ シードゥー ウスメー」と呼ばれる屋号「山城小」のお祖父が「ガン」が傷付けられないか心配で、現在の「西原町」まで一緒に歩いて同行したと伝わります。(ウブガー)(ウブガー/和宇慶の御嶽の遥拝所)(ウマアミシグムイ跡)「和宇慶集落」の「検知原」西側にあった屋号「比嘉」の北側に隣接する場所に「ウブガー」があります。この井戸は「和宇慶」で最初に掘られた井戸であると伝わっています。「ウブガー」は集落で子供が産まれた時の「ウブミジ/産水」や正月の「ワカミジ/若水」として汲まれ利用されていました。井戸の左側にある石碑とウコールは西側の「上登原」の「トゥムンジャク」にある「和宇慶の御嶽」への「ウトゥーシ/御通し」をする遥拝所となっています。「ウブガー」の西側で国道329号線沿いの自動車整備工場の付近には戦前まで「ウマアミシグムイ」と呼ばれる溜池がありました。この近くにあった「サーターヤー」と呼ばれる製糖小屋で作業をした馬に水浴びさせる為に使われていた他にも、子供達の遊び場としても利用されていました。(遠隔地に行く時に拝する拝所)(拝所の祠内部)(イシゼーク/石細工職人の屋敷跡)「ウブガー」の南側で旧県道沿いの屋号「二男前小波津小」の屋敷角に拝所があり石造りの祠が建立されています。この拝所は遠方に出掛ける時や戦地へ出征する際に拝まれていました。1924年(大正13)生まれの「和宇慶」出身の女性は「支那事変が勃発した頃、出征兵士のいる家は武運長久を願い、毎月1日と15日は集落内のウガンジュ(拝所)を全て拝み、その後に普天満宮を拝む為に歩いて参拝に出掛けた」と話しています。更に「ウブガー」の東側に隣接する場所には「イシゼーク」と呼ばれる石細工職人が住んでいた屋敷がありました。「和宇慶集落」には、この屋号「川畑小」の他にも屋号「仲新屋・東小波津」にも「イシゼーク」がいて「川畑小」は、隣村の「伊集集落」出身の「イシゼーク」と一緒に墓を造っていました。(和宇慶の神獅子)(和宇慶の遊び獅子)(和宇慶の遊び獅子)「和宇慶公民館/宇慶構造改造センター」の正面入り口には集落の「神獅子」が安置されています。「神獅子」による「和宇慶の獅子舞」は集落以外で演じられる事はなく、獅子舞が集落に伝わったのは18世紀の中頃だと言われています。沖縄戦で獅子は失われますが、1956年(昭和31)に区民の協力により復元され40年間使用されました。その「神獅子」は引退して現在は「遊び獅子」として県内の様々な行事で「和宇慶の獅子舞」を披露しています。「十五夜まつり」では幕開けに現役の「神獅子」が「鳥の舞」を披露し「遊び獅子」が舞台の最後を飾り「犬の舞」を演じます。現在「遊び獅子」は公民館の舞台の壇上に大切に保管されています。因みに獅子の頭の部分は「デイゴ」の木で作られていおり「デイゴ」は年輪がなく加工しやすい上に軽量なので獅子の頭を造るのに適しているそうです。
2022.09.11
コメント(0)
(ウガン/伊集ノ嶽)沖縄本島中部にある中城村の最南端に「伊集(いじゅ)集落」があり「伊集原・下原・前原・宇宙原・上原・崩原・後原」の7つの「ハルナー/小字」で構成されています。戦前の集落は「伊集原」の一帯と「下原」の東側の一部に集中して集落が形成されていました。さらに「前原・宇宙原・上原・崩原・後原」のほとんどは畑地が広がっていました。「伊集集落」の東側に隣接する「和宇慶(わうけ)集落」との境にある「後原」は「ウガンヤマ」と呼ばれる山があり、その深い山中に「ウガン」と呼ばれる御嶽があります。「古島」という昔の集落がこの「ウガンヤマ」一帯にあった説と、「上原」に位置する「ユージドゥン/世持殿」一帯にあった説が「伊集集落」には伝わっています。(ウガン/伊集ノ嶽)(ウガン/伊集ノ嶽のヒヌカン/火の神)(イーントーカー/上登井戸)「ウガンヤマ」の北東側のマーニ(クロツグ)が生い茂る山中に「ウガン」の祠があり内部には石造りウコール(香炉)が3基祀られています。「ウガン」は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『伊集ノ嶽 神名 和宇慶ウラソデバナノセジ御イベ』と記されており、この御嶽は「伊集集落」では昔から「イナグ神/女神」として拝されています。「ウガン」の祠に向かって左側に隣接するもう一つの祠は戦後に「ヒヌカン/火の神」として設けられ、祠の内部には1基の石造りウコールが設置されています。「ウガン/伊集ノ嶽」から北側に山を登った位置には、御嶽と対の関係を持つ「イーントーカー/上登井戸」があり「チュクサイヌカー/一鎖ヌ井戸」とも呼ばれています。この井戸には昔から残る古い石造りウコールと新しいウコールが2基並んで祀られています。(ニーヤ/根屋の神屋)(神屋の神棚)(神屋の神棚)「伊集集落」の創始家である「ニーヤ/根屋」のムートゥヤー(本家)は屋号「アガリ/東利」で姓は「アラカキ/新垣」です。「アガリムンチュー/東利門中」は伊集で最も大きな門中で「ユージビチ」と呼ばれています。伝承によると「東利門中」の初代は勝連城主の「阿麻和利」を討った「大城賢雄/鬼大城」の次男腹「大城賢忠」であると伝わります。「大城賢雄」が第二尚氏に討たれると「大城賢忠」は伊集に逃げ延び「先代ノロ」と呼ばれる女性に助けられました。やがて「先代ノロ」と「大城賢忠」は子供を授かり、その子孫が現在の屋号「東利」だと言われています。「神屋」の仏壇には初代から継承される2幅の「観音菩薩図」が祀られており、更に「ガンス/元祖神」と呼ばれる初代から7代までの子孫が祀られた仏壇には7基のウコールが設置されています。(神屋のヒヌカン/火の神)(夏氏系図)「ニーヤ/根屋」は「琉球国由来記」に『与儀根所』と記されており、更に『毎年六月、為米初、神酒壱同村百姓中供之。同巫ニテ祭祀也。』との記述があります。「神屋」の仏壇に向かって一番左側には「東利門中」の「ヒヌカン/火の神」が祀られており、3体のビジュル(霊石)とウコールが設置され沖縄線香のヒラウコー(平御香)が供えられています。「東利門中」の家紋は「夏氏」で「大城賢雄/鬼大城」が元祖であると伝わっています。伊集の「ニーヤ/根屋」のご主人で「大城賢雄」の末裔である新垣氏から貴重な「夏氏系図」を頂きました。『天孫氏廿五代/一代思金松金國王』から始まる系図は『十六代長男/榮野比大屋子』と続きます。その後『夏氏大宗一世長男/夏居数越来親方賢雄』から十八世『諱崇徳摩文仁親雲上賢貞』まで記されており、最後に『文化財保護委員会専門委員 林清国 誌すから写す 松田賢善』と記帳されています。(ターチマーチュー)(ターチマーチューのウコール)(ターチマーチューのクサイヌカー)「後原」にある「ウガンヤマ」の西側に「東利門中」に関わりがある「ターチマーチュー」と呼ばれる拝所があり、かつてこの地には「東利門中」の関係者が暮らした屋敷があったと伝わります。戦前は2つの大きな松の木が生えており、その中間にウコールが置かれていたと言われます。「ターチ」は沖縄の言葉で「2つ」を意味し「マーチュー」は「松の木」を指す事から「ターチマーチュー」という名称が付けられたと考えられます。現在は祠が建てられ内部にウコールが設置されており、この拝所の周辺にはかつて屋敷に使われていたと思われる人工的に加工された古い石材が現在も多数残されています。「ターチマーチュー」の北側約25メートルの場所には拝所と対になる「ターチマーチューのクサイヌカー」があり、石造りのウコールが設置される井戸跡となっています。(シルドゥングヮー/地頭火ヌ神)(シルドゥングヮーのクサイヌカー)「伊集集落」の北側で「伊集原」と「後原」の境に「シルドゥングヮー」と呼ばれるコンクリート製の拝所があり、ウコールと3体の霊石が祀られています。間切を治める地頭職の補佐役にあたる役職である「夫地頭/ブージトゥー」の屋敷跡だと言われており「地頭火ヌ神」とも呼ばれています。一般的に「夫地頭」は非常勤で任期は3年、定員は一間切から2〜8名と言われていました。「シルドゥングヮー」の祠から北西側に隣接する畑の中にはこの拝所と対の関係となる「シルドゥングヮーのクサイヌカー」と呼ばれる井戸があり「チュクサイヌカー/一鎖ヌ井戸」の名称でも知られています。「夫地頭」の屋敷の生活用水や農業用水として使用されていたと考えられ、この井戸にはウコールが設置されており門中の年中行事で拝されています。(ヌンドゥンチ/ノロ殿内)(ヌンドゥンチ/ノロ殿内の拝所)「ニーヤ/根屋」の南西側に「ヌンドゥンチ/ノロ殿内」があり、拝殿の内部には「ノロヒヌカン/火の神」「御先世・中が世・今が世を示す3基のウコール」「久高島へウトゥーシ/御通し(遥拝)する1基のウコール」が祀られており、更に集落の守護神である獅子が安置されています。この「ノロヒヌカン/火の神」は「琉球国由来記」には『伊集巫火神』と記されており『伊集巫崇所。毎年三・八月、四度御物参之時、有折願也。』との記述があります。「伊集ノロ」は「サンカヌル」と呼ばれ「伊集・和宇慶・津覇」の3つのシマの祭祀を管轄していました。伝承によると「伊集ノロ」には2人の姉がいて、長女は「久高ノロ」次女は「棚原ノロ」であったと言われています。「ヌンドゥンチ/ノロ殿内」に向かって左側に隣接した場所には拝所の祠があり、内部には3体のビジュル(霊石)と1基のウコールが祀られています。(ヌンドゥンチ/ノロ殿内のゲーン)(アシビナーの井戸)「ヌンドゥンチ/ノロ殿内」は戦前まで瓦葺きの建物で現在よりも前方に建っていました。今のコンクリート製の建物がある場所には、かつては細長い池があり鯉を飼育していました。この鯉は「伊集集落」の所有物で、集落の子供が病気になると親は字にお金を支払い鯉を購入し子供に食べさせたと伝わります。「ヌンドゥンチ/ノロ殿内」の敷地の中央部は「アシビナー/遊び庭」と呼ばれ、戦前までそこに舞台があり盛大な「ムラアシビ」が行われていました。「ヌンドゥンチ/ノロ殿内」入り口の上部には「ゲーン」と呼ばれる魔除けが飾られており、十字の中央には沖縄の粗塩が入った悪霊祓いの「マース袋」が吊るされています。更に「アシビナー」の北側には井戸跡が残されておりウコールが設置されています。(アンディガー/ヌールガー)(アンディガー/ヌールガーのクチャ溶き石)「ヌンドゥンチ/ノロ殿内」から北西側に位置する畑の中に「アンディガー」と呼ばれる井戸があります。「ヌールガー」の名称でも知られているこの井戸は「伊集ノロ」が髪を洗ったと伝わっています。「アンディガー」に向かって左側には「伊集ノロ」が「クチャ」と呼ばれる髪洗用の泥を溶いた石が現在も残されており「クチャ」を溶いた部分はなだらかな窪みが形成されています。「クチャ」は世界でも沖縄でしか採れない泥で、カルシウムやミネラルを豊富に含み美肌効果がある化粧品として最近は注目を集めています。「アンディガー」の名前は水量が豊富であった事に由来しています。しかし、逆に水が溢れ過ぎても良くないとして、戦前までは近隣の畑まで溝を掘り「アンディガー」の湧き水を流していたと伝わっています。
2022.09.06
コメント(0)
(ユージドゥン/世持殿/與儀之殿)沖縄本島中部の東海岸線に「中城村/なかぐすくそん」があり、同村の南端で「西原町」に隣接する場所に「伊集(いじゅ)集落」があります。約0.66平方キロメートルの小さな集落の北西側でギンネム(ギンゴウカン)の木で覆われた「モーエー」と呼ばれる小高い山の麓に「ユージドゥン/世持殿」と呼ばれる拝所があります。この拝所は「與儀之殿」とも呼ばれており「伊集ヌシー」の屋敷跡であると伝わります。「伊集集落」の始祖である「ニーヤ/根屋」の先祖「ウヤファーフジ」が「伊集」の地に来た時、既に空き家として存在していた屋敷内には観音菩薩が描かれた掛軸があったとの伝承があります。現在、この場所にはコンクリート製の「ユージドゥン/世持殿」と「ヒヌカン/火の神」の祠が祀られており「世持殿」と彫られた石碑が建立されています。住民の健康や長寿を祈願したり、農作物の方策を感謝する行事等で拝されています。(ユージドゥン/世持殿の祠内部)(ユージドゥン/世持殿のヒヌカン/火の神)(世持殿と彫られた石碑)「ユージドゥン/世持殿」は1713年に琉球王府が編纂した地誌である「琉球国由来記」に『与儀之殿』と記されており「伊集・和宇慶・津覇」の3つのシマを管轄した「伊集ノロ」により祭祀が執り行われました。更に「琉球国由来記」には『稲二祭之時、花米九合宛・五水六合宛・神酒半苑・シロマシ一器伊集地頭、神酒壱宛・シロマシ壱器同村百姓中、供之。同巫ニテ祭祀也。』と記述されています。「ユージドゥン/世持殿」の祠内部には3基の石造りウコール(香炉)と幾つもの霊石が祀られており、中央のウコールには神様へ拝する際に用いる「ジュウゴコー/十五香」と呼ばれる15本の「ヒラウコー/平御香」が供えられていました。向かって左側には「ヒヌカン/火の神」の祠があり、石造りウコールと霊石が祀られています。更に右側には「世持殿」と彫られた石柱が建立されています。(アガリメーヌカー/東前ヌ井戸)(名称不明の井戸)(ウブガー/産井戸)「ユージドゥン/世持殿」から丘陵を降った南東側に「アガリメーヌカー/東前ヌ井戸」と呼ばれる井戸跡があり、コンクリート製の祠と水の神を拝する石造りウコールが設置されています。「伊集ノロ」が居住した「ノロ殿内」との関わりがある井戸で、旱魃が起きた際に利用された井戸であると伝わっています。この「アガリメーヌカー/東前ヌ井戸」から程近い南西側の位置には「名称不明の井戸」の跡があり、丸いコンクリートの蓋が施されています。更に南側には「ウブガー/産井戸」の跡があり、石造りウコールが祀られています。「伊集集落」で唯一「カブイ」と呼ばれるアーチ状の石積みが現在も残されており、戦前まで集落で子供が誕生した際の「ウブミジ/産水」として使用され、正月には子供達がチューカーグヮー(ヤカン)を持って「ワカミジ/若水」を汲みに行きました。(ヤマグヮーヌタキ/山小ノ嶽)(ヤマグヮーヌタキ/山小ノ嶽の祠内部)「伊集集落」の中心を通る「ナカスージ」と呼ばれる道沿いに「伊集構造改善センター/字伊集公民館」があり、その前庭に「ヤマグヮーノタキ/山小ノ嶽」というコンクリート製の祠が建立されています。この拝所は「ムラヒヌカン/ムラ火の神」と呼ばれており「伊集集落」の発祥に関わった「ニーチュ/根人」が最初にこの地に屋敷を構えた「ニーヤ/根屋」であると伝わります。戦前までこの一帯は「ヤマグヮー/山小」と呼ばれる小高い山になっており、頂上に西側に向けられた祠がありました。現在の祠は南側に向けられており、コンクリート製の祠内部には「天の神」「土の神」「火の神」が祀られる3つのウコールと幾つもの霊石が設置されています。それぞれのウコールには「ジュウゴコー/十五香」の15本の沖縄線香に火が灯され供えられていました。(クサイガー/鎖井戸)(次良大前/ジラーウフメーの屋敷跡の井戸)「ヤマグヮーノタキ/山小ノ嶽」のクシベー(北側)で「次良大前/ジラーウフメー」の屋敷跡の東側に「クサイガー/鎖井戸」と呼ばれる井戸跡があり「世持殿」がある西側に向けてウコールが設置されています。更にこの屋敷にはもう一つの井戸があり、現在は石製の蓋が施されています。かつて「次良大前/ジラーウフメー」の屋敷の住民は「トロッコムチャー」と呼ばれ、トロッコにサトウキビを積んで馬に引かせ現在の西原町にある「西原製糖工場」までサトウキビを運んでいました。「伊集集落」では他にも屋号「前森/メームイ・西前森/イリメームイ・二男仲與儀/ジナンナカユージ」が「トロッコムチャー」として働いていました。因みに「西前森」は客を目的地まで運ぶ客馬車もしており、泡瀬や与那原まで客を乗せて運んだと言われます。(フナングヮ/フナグラノ殿)(フナングヮ/フナグラノ殿の祠内部)(フナングヮ/フナグラノ殿のヒジャイガミ/左神)「伊集構造改善センター/字伊集公民館」のメーベー(南側)に「フナングヮ」と呼ばれる拝所があり「フナングラノ殿」の名称でも知られています。この拝所は航海安全の神様である「龍宮神」が祀られています。この場所は海から約1.5kmほど離れていますが、かつてこの一帯は「フナングヮ/船倉」と呼ばれており昔は船着場の海岸線でした。その由来から「フナグラノ殿」とも呼ばれる拝所となっており、祠内部には石造りウコールと霊石数個が設置されています。祠に向かって右側(祠にとっての左側)には「ヒジャイガミ/左神」と呼ばれる拝所の土地の神様も祀られており、幾つもの霊石が祀られています。「琉球国由来記」には隣接する「和宇慶集落」の拝所として『フナグラノ殿』と記されており『花米五合宛・五水三合宛・神酒壱宛同村百姓中、供之。伊集巫ニテ祭祀也。』の記述があります。(ウマクンジャー)(ウマクンジャー)「フナングヮ/フナグラノ殿」の西側に隣接する場所に「ウマクンジャー」と呼ばれる岩が鎮座しています。後に「ボージウシュウ/坊主御主」と呼ばれた第二尚氏王統17代国王である「尚灝王/しょうこうおう(在位1804-1834年)」と伊集村の美人娘「ヒジャナビー/比嘉ナベ」との恋愛にまつわる岩として知られています。「尚灝王」が「ヒジャナビー」に会いに首里から伊集村に来た時に馬の手綱を結びつけていた岩で、現在も当時と変わらない場所に大切に保存されています。その後「ヒジャナビー」の子孫に当たる方々がこの岩を拝所として祈願するようになったと伝わっています。「尚灝王」は生涯で一妃二夫人八妻をもち、九男十七女の子をもうけました。その八妻のうち七妻は平民の出であると伝わっています。(チキンダガー/津喜武多井戸)「伊集集落」の南側で国道329号線沿の崖下に「チキンダガー/津喜武多井戸」があります。「伊集集落」から南西側に約3km離れた西原町小波津に「津喜武多グスク」があり「チチンタグスク」または「チキンダグスク」とも呼ばれています。「チキンダガー/津喜武多井戸」はこのグスクの城主であった「津喜武多按司」と関わりがある井戸だとの伝承があります。沖縄戦の後、深い草むらに埋もれていたこの井戸は「伊集集落」の村人に探し出され、コンクリートで修復されました。井戸の水は戦前まで周辺の稲作に使用されており、集落で初めて稲作が行われた田んぼも「チキンダガー/津喜武多井戸」の近くにあったと伝わり、かつてこの井戸の水量が豊富だった事が考えられます。(石敢當の石碑)「ウマクンジャー」に伝わる王様と伊集村の美人娘の恋愛から約100年前にも、当時の王様と伊集村の美人娘との別の恋愛が存在していました。伊集村に「与儀真加戸樽/与儀阿護母志良礼」という百合の花に例えられる美人娘がいて、第二尚氏王統第14代国王「尚穆王/しょうぼくおう(在位1752-1794年)」にも噂が伝わりました。心を奪われた「尚穆王」は「与儀真加戸樽」を首里に呼び寄せて妻に迎入れたのです。「尚穆王」の王妃である「佐敷按司加那志」はその若さと美貌を羨み、次のような歌を詠みました。『伊集の木の花や あん清らさ咲きゆり 我身ん伊集やとて 真白咲きかな』(伊集の木の花は あんなに綺麗に咲いて 真白に咲く姿は とても見事である)「尚穆王」に嫁いだ「与儀真加戸樽」は王様や民衆に愛されて49歳でこの世を去ったと言われています。日本最大級ショッピングサイト!お買い物なら楽天市場
2022.09.01
コメント(0)
全6件 (6件中 1-6件目)
1