全6件 (6件中 1-6件目)
1
(美里殿/ンザトドゥン)沖縄本島南部の南城市に「佐敷(さしき)集落」があり「佐敷上グスク」がある「佐敷上グスク遺跡散布地」と、その東側に隣接する「島宜原遺跡散布地」の中間に「美里殿/ンザトドゥン」と呼ばれる拝所があります。「佐敷上グスク」から東側に約100メートルのこんもりとした林の中に鎮座する「美里殿/ンザトドゥン」は第一尚氏王統「尚思紹」の妻の父親(舅/しゅうと)であった「美里之子/ンザトヌシー」が暮らした住居があった場所であると伝わっています。「尚思紹」は「美里之子/ンザトヌシー」の娘との間に5男1女をもうけ、その長男が後に琉球王国を統一した初代琉球国王の「尚巴志王」となりました。(美里殿/ンザトドゥン)(美里殿/ンザトドゥンの祠内部)(美里殿/ンザトドゥンに使われていた礎石)「美里殿/ンザトドゥン」は現在コンクリート製の拝所が設けられ、その一部にかつて礎石として利用されたと伝わるニービ(微粒砂岩)の石材がはめ込まれています。「尚巴志」の祖父である「美里之子/ンザトヌシー」は、この場所から南側の「航空自衛隊知念分屯地」敷地内にある「佐敷ようどれ」と呼ばれる墓に「尚思紹」の家族と共に祀られています。「美里殿/ンザトドゥン」は東側に隣接する小字「与那嶺」の地頭代補佐職であった「与那嶺大屋子」の「根所/ニードゥクル」で、稲穂祭と稲ニ祭の際には「佐敷ノロ」により祭祀が行われていました。「美里殿/ンザトドゥン」について、1713年に琉球王府が編纂した『琉球国由来記』には次のように記されています。『美里之殿 与那嶺大屋子根所也 佐敷巫祭祀也。且、巫・根神・居神四人ヘ祭前日之晩ヨリ祭之日朝マデ、二度賄仕也。』(美里井/ンザトガー)(美里井/ンザトガー)(美里殿/美里井の森)「美里井/ンザトガー」は「美里殿/ンザトドゥン」の西側に位置し、かつて「美里殿/ンザトドゥン」に暮らす人々が生活用水として井戸を利用していました。また「佐敷ノロ」が「美里殿/ンザトドゥン」で祭祀を行う際に、井戸の湧き水で身を清める禊(みそ)ぎの聖域であったと言われています。現在も「美里井/ンザトガー」の水は豊富に湧き出ており、旧正月に執り行われる字の「カーガー拝み」の祭祀場として周辺住民により崇められています。「美里井/ンザトガー」は「佐敷上グスク遺物散布地」に属し、グスク主体部の東側斜面下の森の中に位置しています。「美里殿/ンザトドゥン」と「美里井/ンザトガー」周辺の地形は「佐敷上グスク」の一つの郭として様相を呈しています。(佐敷ノロ殿内/佐敷ヌルドゥンチ)(佐敷ノロ殿内/佐敷ヌルドゥンチの祠内部)「佐敷上グスク」北東側の敷地内に「佐敷ノロ殿内」の祠があり「佐敷ヌルドゥンチ」とも呼ばれています。「佐敷ノロ」は「佐敷」と東側に隣接する「与那嶺」の2箇所のシマを管轄して祭祀を行なっていました。「佐敷ノロ殿内」の祠内部には「ヒヌカン/火の神」専用の白い陶器製ウコール(香炉)・花瓶・湯碗・水碗、更に石造りウコール(香炉)と霊石が数体祀られています。『琉球国由来記』には『佐敷巫火ヌ神』と記されており、次のような記述があります。『稲穂祭之時、穂上ゲ、巫ニテ御崇也。且、自他人、飯相調、巫ヘ馳走也。稲穂祭三日崇之時、花米九合・五水二合百姓。毎年三・八月、四度御物参之時、三日崇トテ、神酒壱百姓。且、祈願之日、五水二合・神酒壱百姓。』(佐敷ヌル殿内と彫られた石碑)「三日崇」とはノロが御嶽や拝所に籠り「物忌み/数日間に渡り飲食や言行を謹んで心身を清める事」をして豊作を祈願する儀式を意味します。さらに『琉球国由来記』の「佐敷ノロ殿内」に関する記述は次のように続いています。『年浴三日崇之時、神酒壱百姓。年浴之日、花米九合・神酒壱百姓。麦初種子・ミヤタネ三日崇之時、花米九合・五水四合・神酒壱百姓。初麦種子・ミヤタネノ日、花米九合・五水四合・神酒壱百姓、供之。同巫ニテ祭祀也。』初代の「佐敷ノロ」は「尚思紹/苗代大親」の長女が任命され、その後の「佐敷ノロ」は代々「喜友名家」の系統女性が昭和初期までノロ職を継承していました。最後のノロが他界してからは後継者は途絶えたままだと言います。(洗心泉/シーシンガー)(タキノー御嶽への遥拝所)(タキノー御嶽/クンナカの嶽)「佐敷上グスク」の北西側の丘陵中腹に「洗心泉/シーシンガー」と呼ばれる井戸があります。沖縄戦後のアメリカ統治下時代に「琉球列島米国民政府/USCAR」に置かれた高等弁務官の資金により「洗心泉」が造られました。井戸水は「下代樋川/シチャダイヒージャー」から貯水して周辺住民の飲料水タンクとして使われ、現在も旧暦12月24日の「御願解き/ウガンブトゥチ」に拝されています。この井戸の脇には「タキノー御嶽」への遥拝所としてウコール(香炉)と霊石が祀られ、住民はこの拝所から南側丘陵斜面の深い森にある「タキノー御嶽」を拝しています。写真中央のこんもりした場所の周辺が「タキノー御嶽」の森で、そこから手前の丘陵中腹に「クンナカの嶽」があります。(クンナカの嶽の石積み)(クンナカの嶽の岩に生える亜熱帯植物)(クンナカの嶽の岩塊)「クンナカの嶽」は「佐敷上グスク」の南西側の丘陵斜面に位置しています。『琉球国由来記』には『クンナカノ嶽 神名 イベヅカサノ御セジ』と記されており「セジ」とは「神威」の事で神の威光や威力を意味します。更に「クンナカの嶽」について「琉球国由来記」には『佐敷巫崇所。年浴並麦初種子・ミヤタネノ時、同于上城之嶽也。』との記述があります。「佐敷ノロ」により祭祀が行われ、稲作事初めに豊富な水を得られる祈願である年浴の際には花米や神酒が供えられ、麦初種子やミヤタネ(米種子)の際には花米、五水、神酒が供えられました。字佐敷の「ミロク節」には『佐敷クンナカや竹の若緑、トゥヤイ字民ヌ、ムテイジュラサ』(佐敷クンナカの嶽にある竹の若緑と同じように、字民が美しく栄えている)と謳われています。(タキノー御嶽の森)(タキノー御嶽の1つ目のウコール)(タキノー御嶽の2つ目のウコール)「クンナカの嶽」から数十メートル南側丘陵を登った周辺一帯は「タキノー御嶽」と呼ばれる聖域となっており『琉球国由来記』には『タケナフノ嶽 神名 タカモリノ御イベ』と記されています。この御嶽も「クンナカの嶽」同様に「佐敷ノロ」により祭祀が行われていました。地形的には「佐敷上グスク」より30メートル高く、かつてはグスクの見張り台があったと言われています。「タキノー御嶽」の深い森の中に2つのウコール(香炉)が数メートル離れた場所に確認されて、それぞれ古木の脇に祀られていました。「タキノー御嶽」の「イビ/威部」はある特定の場所ではなく、この御嶽の森全体が神が宿る聖地として捉えられ、昔から周辺住民の人々に崇められているのです。
2022.07.27
コメント(0)
(佐敷上グスク/月代宮)沖縄本島南部の東海岸に南城市「佐敷(さしき)集落」があります。この集落は2006年1月1日に玉城村、大里村、知念村と合併して「南城市」になるまでは「佐敷町」に属していました。現在の「佐敷集落」は南城市の中心部から北側に位置し、東西を「ヤシ並木ロード」と呼ばれる国道331号線の主要道路が通っています。集落南部の丘陵の頂上には「航空自衛隊知念分屯基地」があり、北部には中城湾の海が広がっています。「佐敷集落」は琉球王国第一尚氏王統の第2代目中山王(在位1422-1439年)で、1429年に三山(北山・中山・南山)を統一して初の琉球国王となった「尚巴志王」の出身地として知られています。(上グスクのカマド跡)(上グスクのカマド跡/火の神)(内原の殿/ウチバルヌトゥン)「佐敷集落」の丘陵中腹に「尚巴志」と父親の「尚思紹」が居城した「佐敷上グスク」があります。このグスクの敷地内にグスク時代に使われていた「上グスクのカマド跡」と呼ばれる場所があり、3体の霊石とウコール(香炉)が設置された火の神(ビヌカン)が祀られています。この周辺は「佐敷上グスク」の女官が働いていた場所だと言われており、現在ここから南側に構える「内原の殿/ウチバルヌトゥン」は女官が待機する詰所(屯所)と言われて、もとは「上グスクのカマド跡」の付近にあったと考えられています。「内原の殿/ウチバルヌトゥン」は「上グスクの殿」とも呼ばれ、琉球王府が編纂した「琉球国由来記(1713年)」に記されている『殿 有城内。住昔佐敷按司蔵敷也。』に相当すると考えられ、殿(トゥン)は「佐敷巫(ノロ)」により祭祀が行われていました。(月代宮の石碑)(月代宮への石段)(月代宮の手洗石)「上グスクのカマド跡」の脇には「月代宮」と彫られた石碑が建立されており「月代宮/つきしろのみや」へ向かう丘陵を登る参道の階段が続いています。鳥居と灯籠がある階段の中間地点には手洗石が設置されており、参拝前に身を清めて浄ずる場となっています。「佐敷上グスク」は1979年(昭和54)の発掘調査により、中国や東南アジアとの交易品である青磁と白磁のお椀や皿、土器、石器、鉄釘や小銭などが出土しています。さらに、柱の穴の跡や石積みも確認されましたが、沖縄各地のグスクに見られる城壁の石垣は発見されていません。「佐敷上グスク」はグスクが多い事で知られる南城市のみならず、沖縄県内でも非常に珍しい土で造られたグスクである事が特徴的です。(月代宮への石段)(尚巴志王遺蹟の石碑)(月代宮の拝殿)「月代宮」に向かう参道の階段に沿うように古い石段が現在も残されています。この石段は「月代宮」や現在の階段の参道が作られる以前からグスク頂上に通じる主要な石段であったと伝わります。グスク時代から使われていたと考えられる石段を登った先には、1922年(大正11)の11月に「沖縄史蹟保存會」により建立された石碑があり「尚巴志王遺蹟」と彫られています。「佐敷上グスク」は東側から西側にかけて丘陵の斜面を削り出し、そこに石灰岩を貼り付けた石列(貼石状石列)が大きな特徴で、この造りは沖縄県内で唯一「佐敷上グスク」で発見されています。さらに「尚巴志」が「中山(ちゅうざん)グスク」を滅ぼし、佐敷から首里に移り住む際に「佐敷上グスク」の城郭の石を全て首里城に移したと伝わっています。(月代宮の本殿/向かって左側)(月代宮の本殿)(月代宮の本殿/向かって右側)「月代宮」の拝殿を抜けると正面に「月代宮」の本殿が建立されています。この本殿は1938年(昭和13)の「尚巴志500年祭」を記念して「つきしろ奉賛会」により建立され、第一尚氏王統の守護神である「つきしろ」に因んで命名されたと言われています。さらに、1962年(昭和37)にはコンクリート製に建て替えられ、周囲には参道の階段などが整備されました。「月代宮」の本殿には「尚巴志王/尚思紹王/鮫川大主/屋蔵大主/尚徳王/尚泰久王/尚金福王/尚思達王/尚忠王」の御魂が合祀されています。現在でも「月代宮」には多くの参拝者が訪れ、本殿にはウコール(香炉)が祀られて献花が供えられており、さらに「國之主/佐敷世之主/御先神様」と彫られた霊石が鎮座しています。(上グスク之嶽)(上グスク之嶽)(上グスク之嶽)「月代宮」がある広場の南側にはウコール(香炉)と霊石が祀られた「上グスク之嶽」と呼ばれる御嶽があります。琉球王府による地誌「琉球国由来記(1713年)」には『上城之嶽 神名:スデツカサノ御イベ / 神名:若ツカサノ御イベ』の二神が祭神として記されています。「上グスク之嶽」は拝所巡礼「東御廻り/アガリウマーイ」の1つとして拝されています。沖縄を創造した神「アマミキヨ」が、太陽が昇る東方(アガリガタ)の聖なる理想郷「ニライカナイ」から渡来して住みついたと伝えられる霊地を巡拝する行事です。「東御廻り/アガリウマーイ」の起源は国王の聖地巡礼で、王国の繁栄と五穀豊穣を祈願する行事として太陽神信仰と密接する地域を巡礼したのが始まりとされています。(上グスク之嶽)(親井/ウェーガー)(親井/ウェーガー)更に「琉球国由来記(1713年)」には「上グスク之嶽」について『年浴之時、花米九号・神酒壱百姓。麦初種子・ミヤタネ之時、花米九号・五水四合・神酒壱百姓、供之。佐敷巫祭祀也。』と記されています。「年浴」とは稲作事始めの儀礼で、田ごしらえに必要な水が豊富に得られる事を願う節目を意味し旧暦6月に執り行われていました。更に「麦初種子/ミヤタネ(米種子)」の祭祀は旧暦9月に催され、共に「佐敷巫(ノロ)」により行われていました。現在「上グスク之嶽」には石積みが組まれ、ウコール(香炉)と数個の霊石が祀られています。「上グスク之嶽」の西側斜面の崖下には「親井/ウェーガー」と呼ばれる井泉があり「佐敷上グスク」の生活用水として使われていました。また「産井/ウブガー」とも呼ばれ、集落で子供が産まれた時の産水としても汲まれ、集落の生活とも深い関わりがあったと考えられています。
2022.07.22
コメント(0)
(ジリチン毛/ジリチンモー)沖縄本島中南部にある浦添市「前田集落」に「ジリチン毛/ジリチンモー」と呼ばれる丘陵の森があります。「毛/モー」とは「野」の当て字で野原や広場を意味し「毛遊び/モーアシビ」という若い男女が野原や海辺に集まり飲食を共にして歌舞などで交流した集会にも「毛/モー」言葉が使われており、恩納村の「万座毛/マンザモー」の名称にも「毛/モー」という字が使われています。「前田集落」の「ジリチン毛/ジリチンモー」は県道38号線(警察署通り)沿いの「浦添グスク」や「浦添ようどれ」がある「浦添大公園」の南東端と「浦添市消防本部」に挟まれた丘陵の森に位置しています。「ジリチン毛/ジリチンモー」の西側には入り口の階段が丘陵の内部に続いています。(ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷)(ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷のウコール)(ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷の火の神)「ジリチン毛/ジリチンモー」入り口の階段を登ると左手に「ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷」の拝所があり、社の内部には石造りの古いウコール(香炉)と霊石が祀られています。拝所に向かって左側にはブロックで囲まれた「火の神/ヒヌカン」があり数個の霊石が供えられています。「ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷」は「前田集落」発祥の地で、初めてこの地に住んだ「根人/ニーチュ」の屋敷(根屋/ニーヤー)がありました。「前田」は「浦添グスク」の前方に広がっていた田畑の土地から名前が付けられたと伝わり、首里の士族がこの地に移り住み「ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷」に住み始めたのが「前田集落」の始まりだと言われています。現在は「前田集落」発祥の地たして人々に拝されています。(前田髙御墓/前田タカウファカ)(前田髙御墓の石碑)(前田髙御墓の手水鉢と霊石)(前田髙御墓のウコール)「ジリチン毛/ジリチンモー」の頂上付近には「前田髙御墓/前田タカウファカ」という墓があり、丘陵の高い場所に設けられた墓である事から「髙御墓/タカウファカ」と呼ばれています。この墓は県道38号線の改良工事のため、旧暦昭和50年乙卯12月13日に「前田名川原頂上1468番地」から現在の「前田山川原1962番地」に移転改修されました。この墓の前方に隣接する場所には「前田髙御墓」と刻まれた石碑、手水鉢、霊石が設置されています。さらに「前田髙御墓」の門石には霊石が祀られ、墓前には陶器製ウコール2基と石造りのウコール1基が祀られています。この石造りのウコールには「奉寄進/恵祖按司/前田按司/はか君加那し/恵祖子あや/久米きつは/てる君加那し/咸豊十一年辛酉九月/大里間切大城村/嶋袋筑登之親雲上」などの文字が記されています。(火の神/グフンシジの拝所)(火の神/ウミチムン)(グフンシジ)「前田髙御墓」の北側に隣接する小高い丘には「火の神/ウミチムン」と「グフンシジ」が祀られる拝所が建立されています。「火の神/ウミチムン」には3体の岩がカマド型に組まれており、4基の石造りウコール(香炉)と数個の霊石が供えられています。「ウミチムン」とは「3個のカマド石」を意味する言葉で、琉球古来から伝わる信仰で「火の神/ヒヌカン」が祀られています。一方「グフンシジ」は神が宿るとされる「ビジュル/霊石」を集落の守護神として崇めるのが一般的で、この拝所には数体の霊石と石造りのウコール(香炉)が祀られています。「火の神/ウミチムン」と「グフンシジ」のウコール(香炉)にはヒラウコー(沖縄線香)が供えられ、現在も集落の住民により拝されています。(後之御嶽/クシヌウタキ)(まさら神)(ふえしじ之御嶽)「前田髙御墓」の西側には「後之御嶽/クシヌウタキ」「まさら神」「ふえしじ之御嶽」の合祀拝所があります。「前田髙御墓」と同様に県道38号線の改良工事のために「ジリチン毛/ジリチンモー」の丘陵に移設された拝所であると考えられます。もしくは「前田集落」は沖縄戦の激戦地でもあったため、戦争で破壊された御嶽や拝所がこの地に移動して祀られているとも考えられます。「後之御嶽/クシヌウタキ」にはウコール(香炉)2基が祀られており「まさら神」には、神が宿るとされる琉球石灰岩の岩塊とウコール1基が供えられています。更に「ふえしじ之御嶽」にはウコール(香炉)1基が設置された合祀拝所となっています。(ティーダウカー)(ユーアキガー/男泉)(ユーアキガー/女泉)「ジリチン毛/ジリチンモー」の南東端で「沖縄消防本部」に隣接する崖の上に「ティーダウカー」と刻まれた石碑が立つ井戸があります。「ティーダ」は沖縄の言葉で「太陽」を意味し、この井戸は見晴らしの良い南西方面に向いています。「ティーダウカー」の南側に隣接して「ユーアキガー/男泉」と呼ばれる井戸があり、円形の石で蓋が施された井戸の脇には石造りのウコール(香炉)が1基設置されています。この井戸は「ジリチン毛/ジリチンモー」の西側に隣接する位置にある「ユーアキガー/女泉」と対になっており、丘陵の森の地下に流れる同じ水脈から湧き出ていると考えられ「ジリチン毛/ジリチンモー」の「ミートゥーガー/夫婦井戸」とも呼べる古井戸となっています。この「ユーアキガー/女泉」には霊石1体と石造りのウコール(香炉)1基が祀られています。(前田大屋の墓/前田大王の墓)(前田大屋の墓/前田大王の墓の石碑)「ジリチン毛/ジリチンモー」の北西側の丘陵中腹には2基の「平葺墓/ヒラフチバー」と呼ばれる掘り込み墓が並んでいます。向かって左側が「前田大屋の墓」右側が「前田大王の墓」となっています。「平葺墓/ヒラフチバー」の古墓は主に士族層の墓で、首里から「前田集落」移住した士族がこの古墓に祀られていると考えられます。墓前の石碑には次のように記されています。『前田大王 昭和三九年 甲辰 旧八月十六日 (一九六 四年) 浦添市字仲間稲俣原一三二三番の墓より 前田 山川原一九五九番の墓に移転する 前田大屋 昭和三九年 甲辰 旧八月十六日 (一九六 四年) 浦添市字仲間稲俣原一二六六番の墓より 前田 山川原一九五九番の墓に移転する 平成十五年十二月十三日 戌申 旧十一月二十日』
2022.07.17
コメント(0)
(玉城朝薫/邊土名家の墓)沖縄本島中南部の浦添市前田にある「前田トンネル」の上部に「玉城朝薫/邊土名家の墓」があります。「玉城朝薫/たまぐすくちょうくん(1684-1734年)」は琉球独自の歌舞劇である「組踊/くみおどり」の創始者です。「玉城朝薫」の家系は代々、玉城間切の総地頭職を務めていた事から「玉城」を名乗りましたが、子孫の代に「邊土名/へんとな」と実名が変わりました。「玉城朝薫」は中国からの「冊封使/さっぽうし」を歓待するために琉球王府より踊奉行に命ぜられ、この時に生み出された「組踊」は1719年に初めて首里城で演じられました。「組踊」は音楽、舞踊、所作、台詞で構成され、その創作には琉球の故事をもとに物語が作られています。(三味台/サンミデー)(墓庭/ハカナーにある三味台/サンミデー)「玉城朝薫」が作った『二童敵討/にどうてきうち』『執心鐘入/しゅうしんかねいり』『銘苅子/めかるしぃ』『女物狂/おんなものぐるい』『孝行の巻/こうこうのまき』は特に「朝薫の五番」と呼ばれ高く評価されています。「組踊」は2010年に「ユネスコ」の無形文化遺産リストに登録されました。「玉城朝薫/邊土名家の墓」は沖縄特有の堀込式「亀甲墓/かめこうばか」で、墓の入り口である「門石/ジョウイシ」の正面は「三味台/サンミデー」と呼ばれ「香炉/ウコール」や御供物が備えられています。この古墓に向かって「墓庭/ハカナー」の左側には「三味台/サンミデー」の石台が設置されており、石造りの香炉、花瓶、湯呑が備えられ、普段から多くの参拝者に拝されています。(門冠い/ジョウカブイと相方積みの鏡石/カガミイシ)(亀甲墓に使われる実際の石柱)(玉城朝薫/邊土名家の墓下を通る前田トンネル)この古墓の内部は石を積んで壁や天井を組み上げており、天井は4本の柱で支えられています。「墓庭/ハカナー」の石積みは撥状に跳ね上がる形に開くなど、石積みに曲線を多用しているのが特徴です。「玉城朝薫/邊土名家の墓」は亀甲墓が成立してゆく17世紀後半から18世紀前半に造られたと考えられています。この墓の敷地には亀甲墓の内部に実際に使われた石柱のサンプルが展示されており、沖縄の古墓を知る上で非常に重要な資料となっています。墓下には2000年に開通した「前田トンネル」が通り、墓の東側には沖縄都市モノレール「ゆいレール」のレールが空中に敷かれています。このレールは墓の地点で軌道が不自然にカーブしており「玉城朝薫/邊土名家の墓」を迂回するため特別に建設されたと言われています。(メーヌハルガー/前ヌ原井戸の井戸跡)(メーヌハルガー/前ヌ原井戸の大岩)(ジングスク/銭グスク跡)「前田集落」の北東部に「メーヌハルガー/前ヌ原井戸」と呼ばれる井戸跡があります。かつて集落の農業用水として使われた「ハルガー/原井戸」で、集落の前方にあった事から「メーヌハルガー/前ヌ原井戸」と呼ばれていた考えられます。現在は井戸は塞がれていますが、井戸の脇に鎮座する大岩は現在も残されています。更に、集落の東側丘陵上に「ジングスク」と呼ばれるグスク跡があり、グスクを形成した巨岩の集落側崖下には墓があったと言われています。現在は丘陵が削られて公務員住宅が立ち並び、巨大な貯水タンクが建設されています。「ジングスク」の遺構や遺物は発見されていなくグスクの詳細は全く不明となっています。古老の伝承によると「ジングスク」は「銭グスク」の意味で「金蔵」があった場所だと伝わっています。(井の大人川/ヰのウシガー)(井の大人川/ヰのウシガーの拝所)(井の大人川/ヰのウシガー)「前田集落」の最西端に「井の大人川/イノウシガー」と呼ばれる古井戸があり「ヰのウシガー」とも表記されます。「大人/ダイジン」と書いて「ウシ」と言う尊い言葉から『井の中でも尊い井戸』の意味を持ち、その昔に琉球王府から授かった名称だったと伝わります。そもそも「前田」とは「浦添グスク」の"前"に広がっていた"田"から付いた集落の名前であり、周辺は水が豊富な土地でした。明治時代には7ヶ月も日照りが続いても井戸が枯れなかったと言われています。「井の大人川/ヰのウシガー」に向かって右側には井戸の拝所が設けられ、霊石が数体祀られており、水への感謝と水の神への祈りの場となっています。井戸の正面に立つ2つの石柱にはそれぞれ蛇口が設置され、井戸水が出る非常に珍しい仕組みになっています。(井の大人川/ヰのウシガーのウコール)(井の大人川/ヰのウシガーのコカコーラ商標)(社長 ウイリアム E. マチェットの刻銘)井戸に向かって左側にはウコール/香炉が設置されており、こちらも井戸に拝する場となっています。戦前は半月状に切石で縁取られた水溜めから湧き水を汲んでいましたが、戦後の1959年(昭和34)にコンクリート製のタンクに改修され蛇口から水が出るようになりました。この時「井の大人川/ヰのウシガー」の改修工事の費用を寄付した人物の名前が現在もタンクに刻まれています。総工費用は480ドル53セント(約17万3,000円/当時1ドル=360円)と記録が残されています。井戸のタンクには『Coca Cola』の標識ロゴが彫られており、その下には『社長 ウイリアム E. マチェット』と記されています。ウイリアム エドワード マチェット氏は当時「沖縄ソフトドリンクス」の社長を務めており、この会社は1968年(昭和43)に沖縄コカコーラボトリング株式会社として生まれ変わりました。「井の大人川/ヰのウシガー」は長い歴史を経て、現在も変わらず豊富な水が湧き出ているのです。
2022.07.12
コメント(0)
(前田の権現)沖縄本島中南部の浦添市「前田(まえだ)集落」の西部に「前田権現」と呼ばれる拝所があります。「キッチャキ石」と呼ばれる霊石を権現として祀られ、旅の安全や家内安全が祈願される拝所として人々に崇められています。「キッチャキ石」は「つまずき石」を意味する霊石で、四方をコンクリートで囲い正面に2箇所の覗き穴が設けられた祠の内部に「キッチャキ石」が祀られています。「前田権現」の祠には2つの石造りウコール(香炉)が設置されており、ヒラウコー(沖縄線香)と共に小さな霊石も供えられています。祠に向かって右側には中型の霊石も数体祀られており「前田権現」に於ける沖縄の霊石信仰の文化が現在も大切に継承されています。(前田権現/向かって左側の灯籠)(前田権現/祀られるウコールと霊石)(前田権現/向かって右側の灯籠)「前田権現」の祠には2基の灯籠が建立されており、左側の灯籠の3面にはそれぞれ「奉寄進」「嘉利二拾 庚戌 吉日」「阿氏 佐久田親雲上守祥」と彫られています。「阿氏/あうじ」とは琉球三国時代(南山・中山・北山)の南山王国の王族の血筋であり「佐久田」は前田集落に多く見られる姓です。さらに「親雲上/ペーチン」とは琉球士族の事で、その中でも地頭職という行政区域の領主を務めた士族は「親雲上/ペークミー」と呼ばれて区別されていました。「前田権現」には次のような伝承が残されています。『その昔、首里を往来する人々がこの地を通るたびにキッチャキ(つまずく)する石がありました。いくら片付けても石は元の場所に戻り、再び人々がつまずくので「キッチャキ石」と呼ばれるようになりました。(前田権現/向かって左側の灯籠)(前田権現/古井戸)(ハンタタイガー)そんな時、ある役人が使者として中国に赴く事になり「もしキッチャキ石の神様が権(かり)の姿であるならば、役目をきちんと果たし、何事もなく無事に帰国できるという私の願いをきっと叶えて下さるに違いない」と一心に祈りを捧げました。その後、役人は中国で役目を果たし、無事に沖縄に帰る事が出来たのです。』以来「キッチャキ石」は権現として人々が崇拝するようになり、古老によるとこれが「前田権現」の起源となり今も語り継がれています。「前田権現」には古い井戸があり権現の地から湧き出る水として住民に崇められています。井戸には古い石造りのウコール(香炉)と霊石が祀られています。「前田権現」の西側には「ハンタタイガー」と呼ばれる井戸があり「前田権現」の丘陵の地下を通る水源から湧き出ていたと考えられます。(トゥンチガー)(トゥンチガー向かいのヒヌカン/火の神)(トゥンチガー向かいのヒヌカン/火の神祠内部)「前田権現」から南東に60メートル程の場所に「トゥンチガー」と呼ばれる井戸跡があります。この井戸の北側には1基のウコール(香炉)と1体の霊石と思われる石が祀られています。「トゥンチ/殿内」はドゥンチとも言われ、脇地頭以上の家柄や親方(ウィーカタ)及び士族の家柄の屋敷を意味します。「トゥンチガー」はその屋敷で使われていた井戸の事で、そこから南側に道を挟んだ場所にある古い「ヒヌカン/火の神」は、かつてこの地に建てられていた「トゥンチ/殿内」の敷地に祀られていた「ヒヌカン/火の神」であると考えられます。北側に向けて造られた「ヒヌカン/火の神」の祠は3つの琉球石灰岩を組んで造られており、祠内部には古いウコール(香炉)と霊石が祀られています。(ナカミーヤーヌメーヌカー/仲新屋ヌ前ヌ川)(ナカミーヤーヌメーヌカー/仲新屋ヌ前ヌ川の拝所)「トゥンチガー」から東側に150メートル程の場所に「ナカミーヤーヌメーヌカー/仲新屋ヌ前ヌ川」と呼ばれる古井戸があります。屋号「ナカミーヤー/仲新屋」の屋敷前にあった井戸であると考えられ、井戸の北側に向けて霊石が祀られており古い石造りのウコール(香炉)が設置されています。比較的に井戸の敷地が広いため、水量が豊富で様々な用途に使用されていたと考えられます。沖縄の屋号は「ヤーンナー」と呼ばれ、家の方位、位置、地理、家主の職業、本家か分家、兄弟の何番目など様々な事柄や特徴に因んで名付けられました。「ナカミーヤー/仲新屋」は屋号「ミーヤー/新屋」の一つの呼び名で、他にも「ミーヤーグヮー/新屋小・イリミーヤー/西新屋・ウシミーヤー/牛新屋・メーミーヤーグヮー/前新屋小」など多種に渡ります。(石川門中/川端の拝所)(石川門中/川端の仏壇)(石川門中/川端の位牌/ウチナーイフェー)(石川門中/川端のヒヌカン/火の神)「ナカミーヤーヌメーヌカー/仲新屋ヌ前ヌ川」から東に20メートル程の場所に「石川門中/川端の拝所」が建てられています。「石川門中/川端」と記された表札の建物の内部には仏壇があり3基のウコール(香炉)が設置され、それぞれに花瓶、酒椀、水椀が供えられています。向かって一番左端には「石川門中/川端の位牌」が祀られており、中央に『石川家先累代之 霊位』右上から『自得宗寿信士/釋浄徳信士/木覚道全信士』右下から『徳室妙寿信女/貞室豊雲信女』と名前入れされています。沖縄の位牌は「ウチナーイフェー」と呼ばれ、位牌札は上段が男性で下段が女性と決められています。仏壇に向かって左側には「石川門中/川端のヒヌカン/火の神」が祀られ、石造りウコール(香炉)に花瓶、酒椀、水椀が供えられています。(カーバタガー/川端井戸)(瑞穂の泉の石碑)(カーバタガー/川端井戸のウコール)「石川門中/川端の拝所」敷地の南側に面して「カーバタガー/川端井戸」があります。この井戸はこの土地に昔から住んでいた「川端家」の屋敷で使われていた井戸で、隣接する拝所はその後「旧姓川端の石川門中」として受け継がれたウガンジュであると考えられます。円形コンクリートの蓋が施された井戸には「瑞穂の泉」と彫られた石碑が立っており「昭和十八年四月二十二日改修」とも記されています。さらに、井戸の北側には石造りの古いウコール(香炉)が設置されています。「前田集落」に点在する井戸のウコール(香炉)はいずれも北側を向いており、その北側の先には「舜天王・英祖王・察度王」の3王朝が10代に渡り居住した「浦添グスク」の丘陵が構えています。「前田集落」では井戸からの水の恵みを王様からの恵みと重ね合わせて敬意を込めて拝していたと思われます。
2022.07.07
コメント(0)
(真地大権現堂/前田の普天間グヮー)沖縄本島中南部の浦添市「経塚(きょうづか)集落」に「真地大権現堂」という洞窟の拝所があり、一説によると権現八社の1つであると伝わっています。この土地は「経塚子の方原」と呼ばれる小字の東側丘陵で「前田/経塚近世墓群」に分類される古墓群に位置しています。この古墓群からは1701年に洗骨された「我謝筑登之親雲上」と女房、さらに1757年に洗骨された「那氏平敷筑登之親雲上」と同人妻の骨が発掘されました。「親雲上/ペーチン」とは琉球士族の事で、その中でも地頭職という行政区域の領主を務めた士族は「親雲上/ペークミー」と呼ばれて区別されていました。この丘陵にある「真地大権現堂」は別名「前田の普天間グヮー」と呼ばれており「普天満宮」の女神が休憩した伝説の洞窟として知られています。(真地大権現堂の鳥居)(真地大権現堂の石獅子/向かって左側)(真地大権現堂の石獅子/向かって右側)沖縄には「普天間グヮー」と呼ばれる拝所が6ヶ所あり、その内の5ヶ所は首里と普天間の間に点在する洞窟となっており女神が休憩した場所とされています。琉球八社の1つである「普天満宮」には首里桃原に女神が出現され、のちに「普天満宮」の洞窟に籠られた縁起伝承があります。 1「普天間グヮー/女神の生誕地」那覇市首里桃原 2「普天間グヮー/西森御嶽洞窟」那覇市首里儀保 3「普天間グヮー/真地大権現堂洞窟」浦添市経塚 4「普天間グヮー/前田権現洞窟」浦添市前田 5「普天間グヮー/嘉数ティラガマ」宜野湾市嘉数 6「普天間グヮー/神山ティラガマ」宜野湾市愛知 (旧神山/普天間基地内)(真地大権現堂の龍柱/向かって左側)(真地大権現堂の洞窟)(真地大権現堂の龍柱/向かって右側)次のような「普天満女神」由来の伝承が残されています。『昔、首里の桃原に美しい乙女が住んでいました。 とても優しく気品に満ちたその容姿が人々の評判となり、島中で噂となりましたが不思議なことに誰一人その姿を見た人はいません。彼女はいつも家で機織りに精をだし、決して他人に顔を見せませんでした。彼女の神秘的な噂に村の若者達は乙女に熱い想いを寄せていたのです。ある日の夕方、彼女が少し疲れてまどろむうちに荒波にもまれた父と兄が目の前で溺れそうになっている夢を見ます。乙女は驚き二人を必死で助けようとしましたが、片手で兄を抱き父の方へ手を伸ばした瞬間、部屋に入ってきた母に名前を呼ばれて我に返り、父を掴んでいた手を思わず放してしまいました。幾日か過ぎ、遭難の悲報とともに兄は奇跡的に生還しましたが、父はとうとう還りませんでした。(真地大権現堂の賽銭箱とウコール)(真地大権現堂の洞窟内に祀られた霊石とウコール)(真地大権現堂の燈篭と手水鉢)乙女はいつものように機織りをしていましたが、その美しい顔に愁いが見えます。 神様が夢で自分に難破を知らせて下さったのに、父や船子たちを救うことができなかった悲しさが乙女の心から放れません。以来、旅人や漁師の平安をひたすら神に祈り続ける毎日でした。 乙女の妹は既に嫁いでおりましたが、ある日夫が「姉様は美人だと噂が高いが、誰にも顔を見せないそうだね。私は義理の弟だから一目会わせてくれないか。」 と頼みました。暫く考えた妹は「姉はきっと断わるでしょう。でも方法があります。私が姉様の部屋に行き挨拶をしますから、そのとき何気なく覗きなさい。中に入ってはいけません。」と答えました。(御神託拜聞記念/陳氏比嘉門中の石碑)(真地大権現堂鳥居建立/奉納者/施工者)(真地大権現堂の土地に関する案内板)「姉様しばらくでございます!」 妹の声に振り向いた乙女は、障子の陰から妹の夫が覗いているのを見つけ、途端に逃げるように家を飛び出しました。末吉の森を抜け山を越え飛ぶように普天間の丘に向かう乙女に、風は舞い樹々はざわめき、乙女の踏んだ草はひら草になってなびき伏しました。乙女は次第に神々しい姿に変わり、普天間鍾乳洞に吸い込まれるように入って行ったのです。そして、それ以来再び乙女の姿を見た人はありません。 現身の姿を消した乙女は「普天満宮」の永遠の女神となったのです。』この時に乙女が暫し休憩を取ったとされる場所が、那覇市首里から宜野湾市普天間にかけて現在も点在する5ヶ所の「普天間グヮー」と呼ばれる洞窟となっています。(真地大権現堂/鳥居の額束)(真地大権現堂の前田/経塚近世墓群の丘陵)(比嘉家納骨堂)「真地大権現堂」の土地は戦後の所有者確認作業(1946-1951年)にて所有者が確認出来なかったため、現在も「所有者不明土地」となっています。しかし「真地大権現堂」には「乾隆四拾六年 辛丑 九月拾貳日 御神拜聞記念 陳氏 比嘉門中」と彫られた石碑が建立されており、鳥居建立の奉納者は「比嘉仁和氏」であり、更に「真地大権現堂」南側の丘陵中腹には「比嘉家納骨堂」があります。「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」第62条により、この120平方メートルの土地は浦添市が管理を行なっていますが「真地大権現堂」には「比嘉家」が深く関連している事が見て取れます。ちなみに「門中/ムンチュー」とは沖縄に於ける始祖を同じとする血縁集団の事です。17世紀後半、琉球王府による士族の家譜編纂の開始以降、士族階層を中心に沖縄本島中南部で「門中/ムンチュー」が発達したのです。(比嘉門中の墓/2号墓)(比嘉門中の墓/3号墓)(比嘉家之墓/比嘉家門中之墓)「真地大権現堂」がある「経塚子の方原」の小字から北東側に「前田東前田原」と呼ばれる小字があります。この小字の中心部にある「前田小学校」北側の砂岩層(ニービ)の丘陵中腹には初期の堀込墓である「比嘉門中の墓/2号墓」の古墓があります。ここから更に北東側は「前田前田原」の小字があり「比嘉門中の墓/3号墓」の堀込墓がある琉球石灰岩が隆起した大岩があります。この古墓の敷地には新しい「比嘉家之墓」と「比嘉門中之墓」が隣接しています。「真地大権現堂」も「比嘉門中の墓」の古墓も同じ「前田/経塚近世墓群」に属しており、昔から前田集落の住民と首里から移り住んだ琉球士族の墓が多数存在しています。「真地大権現堂」は家族の健康祈願に加えて、子どものすこやかな成長を願う「子育て祈願」に訪れる人が旧暦の9月を中心にして多くなり大切に拝されています。
2022.07.02
コメント(0)
全6件 (6件中 1-6件目)
1