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(安里のテラ)沖縄本島中部の中城村の中央に「安里(あさと)集落」があり、面積は0.547㎢で西側は丘陵の斜面部となっており、国道329号線を挟んで東側には平野部が広がっています。「安里集落」は「桃原・下原・西原・後原・前原」の5つの小字から成り立っており、現在は「桃原・下原・後原」に住宅地が広がり「前原」の北側は墓地地帯となっています。「安里集落」を南北に通るかつて主要道路であった「スガチミチ/潮垣道」沿いには「安里のテラ」という県指定有形民族文化財があり、集落では「ティラ」と呼ばれています。戦前からカーラヤー(赤瓦屋根)であった「安里のテラ」の内部には四体のビジュル石(霊石)とウコール(香炉)、更にはヒヌカン(火の神)が祀られています。この拝所では参拝者はウチナーウコー(沖縄線香)やウチカビ(あの世のお金)に火をつけずにお供えする作法となっています。(安里のテラ内部/四体のビジュル石)(安里のテラ内部/ヒヌカン)「安里のテラ」は1713年に琉球王府が編纂した『琉球国由来記』に次のように記されています。『神社 俗ニ安里ノ寺ト云 安里村 笑キヨ、押明ガナシ、イベヅカサ、寄キヨラ 昔、屋宜村之百姓、屋宜湊ヨリ猟ニ出ケル処、俄ニ東風猛ク吹来ル故、安里ノ湊ニ舟ヲヨセ浜ニ下リ、暫寝ケルニ、土中ヨリ霊石一ツ出テ、我ハ権現也、掘出シ可崇、其方ノ病悩愈、種々ノ願可遂由、夢想アリ。夢覚テ見ケレバ、如夢霊石ノヤウニ見へケル石有リ。不思議ニ思ヒ占ヲ致シケレバ、正ク権現ノ御告也、急ホリ出シ可崇敬、トアリ。因、ホリイダシ見レバ、有霊石三。一ハ笑キヨ、一ハ押明ガナシ、一ハイベヅカサト、奉祝也。其后、霊石一ツ海中ヨリ浮来ヲ、寄キヨラト、奉祝。宮建立、右一所ニ奉安置、朝暮信仰イタシケル故持病モ愈、家富、子孫繁栄イタシ、男子ハ屋宜玉城ノ為大屋子、栄幸ニシテ終也。夫ヨリ村中、安里権現ト崇、諸人参詣仕由、申伝也。其末孫、当間村、ニヨク宮城、且、同妹鍋、右祭祀ヲ司ル也。』(安里のテラ)(安里のテラのカー)(ウマアビシグムイ跡)「安里のテラ」を建てたのは屋号「金万座」の先祖であると伝わり、代々その子孫が祭祀を司ってきました。建物の柱も「金万座」の米倉(高倉)に用いられていたものであると伝わります。戦前「安里集落」の人々は旧暦1月1日の元旦、9月9日のチクザキ(菊酒)、12月24日のウガンブトゥチ(御願解き)に拝していました。子孫繁栄、健康祈願、五穀豊穣の御利益があるとされ、現在も村内外から参拝者が訪れています。「安里のテラ」の北側には「安里のテラのカー」と呼ばれる井戸があり「安里のテラ」を拝んだ後にこの井戸も拝んでいたと伝わります。周辺住民は豆腐を作る水や、正月のワカミジ(若水)をこの井戸から汲んでいました。また「安里のテラ」の南東側にはかつて「ウミアビシグムイ」と呼ばれる溜池がありました。「安里のテラ」の周辺に点在していた「サーターヤー/製糖小屋」で作業する馬に水浴びさせる溜池として使用されていました。(屋号メーバルグヮー/前原小)(屋号ウフメーバル/大前原)(屋号ウシメーバルグヮー/牛前原小)「安里のテラ」周辺は「ヤードゥイ/屋取」と呼ばれ、琉球王国時代の士族が首里から農村に移り住み定住した人々の集落を「ヤードゥイ/屋取集落」といいます。1871年(明治4)の廃藩置県後、現在の潮垣線(スガチミチ)と安里中央線の十字路から西側に「前原/白氏」が最初に定住しました。その後十字路付近に「屋比久/吉氏・知名小/向氏・喜屋武小/水氏・宇小根/朝氏」が、そして南側の海沿い付近に「平安名」がそれぞれ移住してきたと伝わります。この土地は「前原」が最初に移住した事や「前原」系統の家が多い理由から「メーバルグヮー/前原小集落」または「アサトノシチャ/安里ノ下」と呼ばれていました。かつて屋号「前原小」には「力石」という青年達が力試しに使った石がありました。また屋号「大前原」の北側には「サーターヤー/製糖小屋」が隣接していました。(屋号クシメーバルグヮー/後前原小)(屋号トウマメーバル/当間前原)(屋号サンラーメーバルグヮー/三良前原小)「安里集落」の「メーバルグヮー屋取」は5つの門中で構成されていました。「前原」は『白氏 元祖 白楊基金城親雲上信懐 名乗頭 信』で、本家は首里大名にあり姓は「前原」です。現当主の5代前の先祖が首里鳥掘から「安里」に移り住んだと伝わります。「屋比久」は『吉氏 元祖 吉裔介儀間金城親雲上孟明 名乗頭 孟』で、本家は南城市佐敷にあり姓は「屋比久」です。「知名小」は『向氏 元祖 尚韶威今帰仁王子朝典 名乗頭 朝』で、字南上原から分家し姓は「知名」となっています。「喜屋武小」は『水氏 元祖 水道仲村渠親雲上春良 名乗頭 春』で、本家は沖縄市宮里にあり姓は戦後に「仲村渠」から「仲村」に改姓して字北上原から分家しました。「字小根」は『朝氏 元祖 朝承起仲村渠親雲上盛亮 名乗頭 盛』で、本家は北谷町北谷にあり姓は戦後に「仲村渠」から「仲村」に改姓したと伝わります。(ヤマグヮーの拝所)(ヤマグヮーの拝所の祠)(ヤマグヮーの拝所のビジュル石)(ヤマグヮーの井戸)「安里集落」の中心部を南北に通る国道329号線の東側に「モーグヮー」と呼ばれる土地があり、その中に「ヤマグヮー」と呼ばれる一画があります。戦前は今よりも西側にありましたが土地改良により現在地に移動しました。「ヤマグヮー」にはコンクリート製の拝所が建立されておりウコール(香炉)が設置されています。祠の内部には三体のビジュル石(霊石)が祀られており、沖縄における石を神として祀るビジュル信仰の拝所となっています。「安里集落」では「ヤマグヮー」の拝所はグングヮチウマチー(五月ウマチー)とルクグヮチウマチー(六月ウマチー)の年中行事で拝まれています。グングヮチウマチーは旧暦5月15日に行われる稲の生育を祈願する行事で、ルクグヮチウマチーは旧暦6月15日に催される稲の収穫に感謝する行事です。この「ヤマグヮー」の敷地内には井戸跡が残されておりウコール(香炉)が祀られています。(ムラガー/シチャヌカー)(ムラガー/シチャヌカーのウコール)「ヤマグヮー」の拝所から南南西側に「ムラガー/村井戸」があり「シチャヌカー/下ノ井戸」とも呼ばれています。この井戸はカブイというアーチ状の石積みが施されており、現在も豊富な水が湧き出ています。「安里集落」の古老の言い伝えによると、この井戸は干魃が7ヶ月続いても水が涸れる事はなかったそうです。戦前はイジュンという井泉の湧き口を塞いで掃除をしていましたが、水が止まる事なく湧き出てくるので大変だったと言われています。また、この井戸は集落で子供が産まれた時に使うウブミジ(産水)や正月元旦に汲まれるワカミジ(若水)として重宝されていました。「シチャヌカー」にはウコール(香炉)が設置されており、水への感謝を祈願する拝所として住民に拝されています。現在、この井戸の湧水は周辺の農業用水として使用されています。(ヒールガーラグヮー)(ヒールガーラグヮー)(ヒールガーラグヮー)「安里集落」には国道329号線から護佐丸歴史資料図書館や中城村民体育館を経て中城湾に流れ込む「ヒールガーラグヮー」と呼ばれるガーラ(川)があります。戦前は川幅が2〜3mありましたが普段は水が流れておらず、雨が降った際に水が流れていました。中城村は1945年の沖縄戦に於いて激戦地となり、4月5日に「安里集落」は米軍の攻撃により消失しました。次の日には集落の西側に隣接する「北上原集落」では161.8高地の攻防戦が展開し日本軍が壊滅しました。戦後、それまで一筋に流れていた「ヒールガーラグヮー」の川筋が米軍により変えられ、現在は国道329号線の2ヶ所から流れる小川が「ヤマグヮー」と「ムラガー」の中間辺りで合流して東側に流れ込み、そのまま中城湾の海へと続いています。(ヤンバルヤー)(ヤンバルヤー)「安里集落」の東側にある浜はかつて「ヤンバルヤー」と呼ばれており、戦前はヤンバルから来るサバニの舟着場であったと伝わります。サバニとは沖縄のウミンチュ(海人)が使っていた舟の事で、沖縄の言葉で「舟」は「ンニ」または「ブニ」と発音しますが「サバニ」の語源は「サバ(サメ)」漁に使う「ンニ(舟)」から来たと考えられています。また「ヤンバルヤー」の浜はモーアシビ(毛遊び)と呼ばれる場で「安里集落」内外から若い男女が集まって語り合い三線を弾いて踊り楽しんでいました。モーアシビをしていると南側にある「津覇集落」の巡査がたびたび見回りに来る事があり、捕まらないように逃げ帰ったという古老の話が伝わります。現在「ヤンバルヤー」の浜は吉の浦公園ビーチとして整備されており、近年までウミガメの産卵が確認された美しい浜として住民に親しまれています。
2022.10.26
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(北浜集落の竜神宮)沖縄本島中部にある「中城村」の東海岸沿いに「北浜集落」と「南浜集落」があります。1879年の「廃藩置県」の後に那覇市「首里」から現在の「北浜」の土地に「ユカッチュ/士族」が移住してきたのが「北浜集落」の始まりだと伝わっています。この集落は戦前まで「仲松」姓が多かった事から「仲松屋取/ナカマツヤードゥイ」または隣接する「津覇集落」の外れに位置していたため「津覇ヌ下/チファヌシチャ」とも呼ばれていました。1919年(大正8年)に作成された「沖縄県中頭郡中城村註記調書」や1925年(大正14)の「沖縄県下各町村字並屋取調」には「津覇・和宇慶集落」の所属屋取名に「仲松屋取」と記載されています。そのため「北浜」は大正頃までには「屋取/ヤードゥイ集落」として存在していました。因みに「北浜集落」は「津覇南浜原・和宇慶北浜原・新田原・湊川原・検知原」の5つの小字で構成されています。(竜神宮の祠)(竜神宮の祠内部)「北浜集落」の東側で中城湾の海沿いに「旧北浜公民館/世代間交流人材育成防災避難拠点施設」があり、その敷地内に「竜神宮」の祠が建立されています。「旧北浜公民館」は戦前まで屋号「三男東リ小」の屋敷があり、周囲には「東リ小門中」の家々が点在していました。「東リ小のサーターヤー」で製糖作業する馬の水浴びをさせる「グムイ」が「旧北浜公民館」の南側に隣接していました。戦前の「竜神宮」の祠は現在の位置よりも北側にあったと伝わります。旧暦1月2日の仕事始めの伝統行事である「ハチウクシー/初興し」や、ヒヌカン(火の神)が昇天する旧暦12月24日の「フトゥチウガン/解き御願」で拝されています。海の航海と豊漁を祈願する「竜神宮」の祠は東側の海に向けて建てられ、祠の内部には石柱が祀られています。(屋号浜仲松/仲松門中)(屋号首里仲松/仲松門中)「北浜集落」の「仲松門中」は「浜仲松・首里仲松」の2つの系統に分かれています。「浜仲松」は元祖彌眞二男の系統で「首里仲松」は彌眞四男の系統となっています。「仲間門中」は『首里系士族 洪氏 大宗 洪啓瑞南風原筑登之彌慶 名乗頭 彌(弥)』で本家は与那原町の我如古家、中元は那覇市首里にある仲尾次家です。「浜仲松」がまず先に首里から「北浜」に移住し、その後「首里仲松」が西原町兼久を経て移住しました。この「首里仲松」は「北浜」を中心に門中が発展し「仲松屋取」を形成したと伝わります。最初に「北浜」に来た「浜仲松」はその後分家して「北浜」の北側にある現在の吉の浦公園のテニスコート付近に移り「高江洲屋取」を形成しました。屋号「浜仲松」の屋敷は「竜神宮」の西側にあり、屋号「首里仲松」はスガチミチ(潮垣道)付近に屋敷を構えていました。(屋号大宮平/宮平門中)(ウドゥンジー/御殿地)(ナントガー/ナーデーラーガー)「北浜集落」の北側のスガチミチ(潮垣道)沿いに屋号「大宮平」の屋敷跡があり「宮平門中」は『首里系士族 阿氏 元祖山南王汪應祖次男阿衡基南風原按司守忠 名乗頭 守』です。北浜に移住した初代は「ブサータンメー」と呼ばれ、集落の子供達を集めて棒術を教えていたと伝わります。「ブサータンメー」は大屋にあたり屋号は「大宮平」でした。「大宮平」は大きな豪農で「宮平門中」が集中する集落北部にあった、かつて琉球王国の「尚家」が所有していた「ウドゥンジー/御殿地」をはじめ多くの土地を所有していました。屋号「大宮平」の北側には「ナントガー」という井戸があり、旧暦1月2日の「ハチウクシー/初興し」や旧暦12月24日の「フトゥチウガン/解き御願」で拝されています。「ナントガー」の西側には屋号「宮平」が隣接していた事から、この井戸は「ナーデーラーガー」とも呼ばれていました。(ヌハガーラ/饒波川)(ヌハグムイ/ヌハ橋/屋号大饒波)(屋号伊集小)(ナーシルダー)屋号「大宮平」の南側に字津覇から中城湾に流れ込む川があり、屋号「大饒波」の屋敷前を流れていた事から「ヌハガーラ/饒波川」と呼ばれるようになったと伝わります。「ヌハガーラ」とスガチミチ(潮垣道)が交わる場所には「ヌハ橋/饒波橋」が架かっており、この橋の下の川底に窪地があったため「ヌハグムイ」と言われていました。この窪地は橋から飛び込めるほどの深さがあり子供達の恰好の遊び場であったそうです。「ヌハ橋」の南側にある屋号「伊集小」は「バクヨー/馬喰/博労」と呼ばれる家畜の仲買人をしており、更に「と殺」の専門知識を持っていた事から集落の人々から依頼を受けて家畜(馬・豚・山羊)を潰していました。この屋号「伊集小」の屋敷から東側にある土地には「ナーシルダー」という稲の苗を育てる田んぼがあり、隣接するクムイ(溜池)から水を引いてたと伝わります。(屋号ウサー伊集/ボウシクマーが集まる場所)(仲松カー神)(仲松カー神の祠内部)「仲松門中」の屋号「首里仲松」の北西側に屋号「ウサー伊集」の屋敷がありました。この家には「ボウシクマー/帽子編み」と呼ばれる人々が集まり帽子を編んでいました。戦前まで「ボウシクマー」は女性の副業で、サトウキビ栽培に並び貴重な収入源でした。編んだ帽子は那覇の卸売り会社に納品され本土に運ばれました。スガチミチ(潮垣道)と中通り(馬車道)のカジマヤー(十字路)を西側に100メートルほどの畑内に「仲松カー神」の祠が建立されています。戦前からある古井戸で旧暦1月2日の「ハチウクシー/初興し」や旧暦12月24日の「フトゥチウガン/解き御願」で拝されています。また、正月元旦のワカミジ(若水)や子供が産まれた時のウブミジ(産水)もこの井戸から汲まれていました。「仲松カー神」の祠にはウコール(香炉)が祀られており、祠内部には井戸が鎮座しています。(南浜集落の大内のカー)「南浜集落」は「安里屋取」と呼ばれるほど、集落のほとんどの世帯が「安里門中」でした。「安里門中」は『首里系士族 楽氏 元祖屋宜親雲上昌寔 名乗頭 昌』で本家は宜野湾市の長田にあります。「南浜集落」の「安里門中」は中元にあたり「大内」は最初に「南浜」に移住した家で、廃藩置県(1879年)後に首里から移ってきたと伝わります。「安里集落」は「和宇慶」の外れにあった事から「和宇慶ヌ下」と呼ばれています。「安里門中」が所有する『楽姓安里門中世系図』によると、元祖である「楽崇義安里筑登之親雲上昌茂」には7名の子供がいて、この子供達の系統が現在まで栄えていると記されています。屋号「大内」の敷地にはかつて「大内」の屋敷で使用していた井戸が現在も残されており「大内のカー」と呼ばれています。(アサトガー/安里井戸)(アサトガー/安里井戸)(屋号ウフメー新屋の井戸)(屋号ウフメー新屋の井戸)「南浜集落」の「上屋取」と呼ばれる区画に屋号「大内」の敷地内に「アサトガー/安里井戸」という井戸があります。屋号「大内」が「南浜」に移住した際に利用していた井戸だと伝わり、戦前から集落の人々に拝されています。当時はこの場所からスガチミチ(潮垣道)を北側に進んだ屋号「浜與儀」から西側に広がる畑の中にありましたが、戦後の土地改良により現在地に移設されています。「南浜集落」の東側は「下屋取」と呼ばれ、この区画を流れる「ヲーキガーラ/ヲーキ川」沿いには屋号「ウフメー新屋」が使用していた井戸が現存しています。屋号「ウフメー新屋」はウミンチュ(海人)で、当時は主流であった素潜りを専門に漁をしていました。素潜りをするウミンチュは「シムワザ」または「裸潜り」と呼ばれていたと伝わります。
2022.10.21
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(濱龍宮神の拝所)沖縄本島中部に「中城村/なかぐすくそん」があり、この村の東海岸沿いに「浜集落」があります。1879年の廃藩置県の後に屋号「大謝名堂/ウフジャナドウ」が現在の「浜集落」の土地に移住したことが集落の始まりである伝承があります。その後、首里から「屋良/ヤラ」字北上原から「仲本/ナカモト」が移り住んだと言われています。戦前は「謝名堂」姓が多かったため「謝名堂屋取/ジャナドウヤードゥイ」または西側にある「奥間集落」の外れに位置している事から「奥間ヌ下/ウクマヌシチャ」と呼ばれていました。1919年(大正8年)に作成された「沖縄県中頭郡中城村註記調書」や1925年(大正14)の「沖縄県下各町村字並屋取調」には「奥間集落」に所属する「屋取/ヤードゥイ」として「謝名堂屋取」と記載されています。(濱龍宮神の祠内部)(浜漁港)(メーヌハマ/前ヌ浜)「浜集落」の東海岸沿いにある「浜漁港」の敷地に航海の安全と豊漁を祈願する「濱龍宮神」の祠が建立されており、コンクリート製の祠内部には石碑とウコール(香炉)が祀られています。「浜漁港」は昔は砂浜で「メーヌハマ/前ヌ浜」と同様に「サバニ」と呼ばれる沖縄の伝統的な木製の小形舟を陸上げする場所でした。「サバニ」はとても重く干潮で海が遠くなると「海人/ウミンチュ」は舟を押し出せないため、干潮と満潮の時間を計算して舟を出していました。「浜集落」では主に素潜が盛んに行われており「海人」は明け方から昼過ぎまで海に潜り「イヨグン」と呼ばれる銛を使ってイカ、タコ、貝、魚、フカ(鮫)などを獲っていました。普段は水深3〜5メートル、深いところでは約20メートル近くまで潜ることもあったそうです。(屋号大謝名堂/謝名堂門中)(屋号仲謝名堂)「謝名堂門中/ジャナドウムンチュー」は「浜集落」に最初に移住したと伝わり、集落において一番大きな門中を形成しています。『首里系士族 任氏 大宗 任興元稲福親雲上忠記 名乗頭 昌』で、本家は那覇市首里にある屋我家、中元は那覇市安謝にある謝名堂家です。「浜集落」の大屋は屋号「屋号大謝名堂」で屋敷内に「御神屋/ウカミヤー」があり、ここで那覇市の本家や中元に行く代わりに遥拝するようになったと伝わります。「謝名堂門中」の姓は「謝名堂・浜田」で、戦後に屋号「仲謝名堂」を含む数件が「浜田」へ改姓しました。「ナカミチ」の通り沿いにある屋号「仲謝名堂」は屋号「大謝名堂」の屋敷南側に隣接しており、戦前は「馬車ムチャー」と呼ばれる職業に就いており、依頼を受けて馬車で荷物を運搬していました。(屋号サンラー屋良/屋良門中)(カーラ/川)(ハシグヮー/コンクリート橋跡)(ハシグヮー/コンクリート橋跡)士族帰農で「浜集落」に移住してきた「屋良門中」は『首里系士族 向氏 元祖尚龍徳越来王子朝福 名乗頭 朝』で、本家は那覇市首里の嘉味田家です。「尚龍徳越来王子朝福」の支流六世朝長の三男、七世朝眞が首里から「浜集落」に移住したと伝わります。その後、屋号「サンラー屋良・下屋良」と分家し、現在の「屋良門中」を形成しています。集落の西側から東海岸に流れる「カーラ/川」は仲通りに沿っており、この小川にはかつて「ハシグヮー」と呼ばれるコンクリート製の橋が架かっていました。「カーラ」は子供達の格好の遊び場で橋の下にはセークグヮー(エビ)、魚、カニなどがいる釣り場でした。旧正月にはこの川から子供達がワカミジ(若水)を汲みウフヤー(大屋)に持って行き、お年玉をもらったという古老の話が残っています。(屋号松尾/与那嶺鰹節店)(屋号松尾/与那嶺鰹節店の井戸)(屋号松尾/与那嶺鰹節店)「屋号大謝名堂」の屋敷から南西側に隣接する「与那嶺鰹節店」の土地にはかつて屋号「松尾」があり、屋敷には「カチューウヤー/鰹売り」が住んでいました。この家のお婆さんがカチュー(鰹節)を売り歩いており、昔からカチューは味噌と一緒にお湯でときカチュー湯にしてにして飲むと風邪に効いたと伝わります。鰹節は那覇から自転車で配達され、それをお婆さんが籠に入れて頭に乗せ、字新垣や宜野湾の野嵩や普天間に売りに行きました。籠は重さ約20キロありましたが、お婆さんはそれを頭に乗せて小走りする事も出来たそうです。屋号「松尾」のお婆さんが鰹節を売りに来るのを楽しみに待っていたお客さんが大勢いたと言われています。また、この屋敷には「ウミンチュ/海人」も暮らしており、沖縄戦の時には5〜6名の日本兵が寝泊まりしており、獲った魚を提供していたと伝わります。(屋号謝名堂小)(チンジュウガー/鎮守井戸)(チンジュウガー/鎮守井戸の拝所)「与那嶺鰹節店」がある屋号「松尾」の西側に隣接して屋号「謝名堂小」の屋敷がありました。現在、この家の敷地には「チンジュウガー/鎮守井戸」と呼ばれるコンクリート製の古井戸があります。蓋が施された井戸には石造りのウコール(香炉)が設置されています。この井戸に向かって左隣には「チンジュウガー」の拝所があります。この祠内部には「御守神」と彫られた石碑が設置されており、この拝所にも石造りのウコールが祀られています。戦前まで「チンジュウガー」の井戸は屋号「謝名堂小」近くにあった畑の中にあり、旧暦の9月9日に家族の健康祈願を行う「チクザキ/菊酒」の御願行事で拝されていました。更に、旧正月の若水や子供が産まれた時の産水も、この「チンジュウガー」から汲まれていたと考えられます。(屋号仲本小の屋敷跡)(メーベーのサーターヤー跡)(クシベーのサーターヤー跡)浜漁港沿いで「浜集落」の最も北東側の場所には、かつて屋号「仲本小」の屋敷がありました。「仲本門中」は『首里系士族 夏氏 大宗 諱居数越来親方俗叫鬼大城賢雄 名乗頭 賢』で姓は「仲本」です。本家は首里にあり中元は字北上原の「石嶺仲本小」で、字北上原から「浜集落」に移住してきたと伝わります。「浜集落」には3つの「サーターヤー/砂糖小屋」があり、屋号「仲本小」の南側には集落の「メーベー/前方」に所属する家と「クシベー/後方」に所属する家が使用した2つの「サーターヤー」がありました。収穫したサトウキビは「サーターヤー」に運ばれ、サトウキビを圧搾するサーターグルマと呼ばれる機械に差し込まれます。このサーターグルマに木製の棒を取り付けて馬に繋げ、馬を歩かせてサトウキビを搾りました。「サーターヤー」には作業をする馬の水浴びをさせる「ウマアミシグムイ」という溜池が常設されていました。(スガチミチ/潮垣道)(スガチミチ沿いのサーターヤー跡)(洗濯場跡)サトウキビを運搬するトロッコ軌道が敷設されていた「スガチミチ/潮垣道」沿いの「カジマヤー/十字路」にはかつて「サーターヤー」があり、屋号「知念小・松尾・新屋謝名堂・三男知念小・新知念小・謝名堂小」などが使用していました。サトウキビは貴重な換金作物であったため、集落の多くの家で栽培されていました。そのため「サーターヤー」では冬から春にかけて黒糖作りが盛んに行われていました。更に、戦前までこの十字路には川が流れており、川沿いには約2メートル幅の土手があり所々に石が積まれていました。この場所では川に降りられるようになっていて、女性達が集まって洗濯物を洗っていたと伝わっています。現在の川はコンクリートで塞がれていますが、かつての面影を感じ取る事ができます。
2022.10.16
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(ニフェーマーチューの拝所)沖縄本島の中部にある西原町に琉球大学千原キャンパスがあります。この広大な敷地一帯はかつて琉球王国が管理して王府の御用木を生産していた「杣山/ソマヤマ」と呼ばれる山林(官有林)が広がっていました。大学の共通教育棟1号館の北東側敷地内に「ニフェーマーチューの拝所」があり、この場所は琉球王国の中城間切時代には「カナイタ山」と言われていました。「ニフェーマーチュー」の「ニフェー」は「感謝」で「マーチュー」は「松の木」の事で、総じて「感謝の松」を意味しています。かつて「ニフェーマーチューの拝所」はコンクリート製の祠が建てられており、祠内部には2体の霊石が祀られていました。しかし台風により祠は崩壊し、現在は「ニフェーマーチュー」と彫られた石碑が新しく建立しています。(ニフェーマーチューの石碑)(ニフェーマーチューの拝所)大学敷地の整地のため拝所は一時期、大学の中城村側東口守衛室の裏側に仮移設されましたが、再び元の拝所の場所と考えられる現在の位置に移されました。その昔、この場所には松の大木があり周辺の住民は「カナイタ山」に入り松の枯葉や薪などを採って生活していました。人々はこの「ニフェーマーチューの拝所」で山の神様に山を利用できる事への感謝と、山の安全への祈りを捧げてから入山したと伝わります。琉球大学千原キャンパスができた後も、この拝所は地域の人々の信仰の場所として拝され続けています。建立されている石碑の裏側には『後世の人々に山御願の歴史が伝承されていくことを切に願い、この地に新たに拝所の石碑を建立した。二〇二一(令和三)年二月吉日 中城村南上原南組有志会』と記されています。(チャーヤマ/茶山跡地)(クガニガマ跡)琉球大学工学部からテニスコート辺りまでが昔から「チャーヤマ/茶山」と呼ばれていた場所で、琉球王国の正史の歴史書である『球陽』には1733年の「尚敬王」の時代に棚原山地に初めて茶園を開いたと記されています。更『球陽』には20,850余歩の面積を開いて茶種や樹木などを植え、和漢の茶葉を製造して王国に供するとの記述があります。「金武御殿」からの分家と伝わる「普天間家一門」の宗家が約250年前に首里から「チャーヤマ」の番人として移り住み「茶山普天間」の名前で知られていました。また「チャーヤマ」周辺は「アカモー」とも呼ばれており、赤土の山に野イチゴやヤマモモが多く自生していました。かつて「チャーヤマ」の北東側には「クガニガマ」と呼ばれる洞窟があり「クガニ」は「黄金」で「ガマ」は「洞窟」を意味します。黄金の光がこの洞窟内で輝いた伝説から「クガニガマ」の名称が付けられたと伝わります。(石原門中の屋敷跡地)(石原門中の屋敷/井戸跡)琉球大学文系講義棟の東側にある小高い森には、かつて「石原門中」が暮らした屋敷と井戸の跡が残されています。「石原門中」は『首里系士族 楊氏 元祖楊太鶴山内親方昌信 名乗頭 昌』で本家は「与世田殿内」大屋は「山野前」となっています。現在、屋敷跡の周辺は石とコンクリートで整備されており、かつての屋敷の面影を残しています。「石原門中」の屋敷で使用されていた井戸はコンクリート製の囲いが施されており、井戸の内部へはパイプで空気孔が設けられています。更に井戸の脇にはベンチも設置されており、大学の学生の憩いの場として利用されています。戦前、この屋敷の周辺には「石原門中」が集中して暮らしており、屋号「石原」が4軒あった他にも、屋号「御殿地石原・内石原小・タードーシ石原・金武田石原小」などの屋敷も点在していました。(知名門中/大屋知名の屋敷跡地)(喜屋武門中/大喜屋武小の屋敷跡地)(サキタリヤマ/サカタリヤマ跡地)「知名門中」の屋号「大屋知名」の屋敷跡地には現在、琉球大学の共通教育棟3号館が建っています。「知名門中」は『首里系士族 向氏 元祖尚真王三子尚韶威今帰仁王子朝典 名乗頭 朝』で本家は「具志川御殿」です。元祖の「朝典」は第二尚氏の北山監守として「今帰仁グスク」に移り住んだ王族です。この屋敷跡地の南側には「喜屋武門中」の屋号「大喜屋武小」の屋敷跡地で、現在は大学浄水施設の敷地となっています。「喜屋武門中」は『首里系士族 毛氏 元祖毛国鼎中城按司護佐丸盛春 名乗頭 盛』で本家は「豊見城殿内」となっています。元祖の「護佐丸盛春」は「尚巴志王」に仕えた按司として知られています。更に、この屋敷跡地の北側にある大学の「サッカー・ラグビー場」には、かつて「サキタリヤマ/サカタリヤマ」と呼ばれた山があり、密造酒を造っていた事からこの名称が付けられたと言われています。(ボージウシューヌカー/坊主御主の井戸)(ボージウシューヌカー/坊主御主の井戸)(ボージウシュー/坊主御主の屋敷跡地)琉球大学農学部の建物の北東側に「ボージウシューヌカー/坊主御主の井戸」があります。その昔「チャーヤマ」に隠居した第二尚氏の第17代「尚灝王/しょうこうおう」(在位:1804-1834年)が使用していた井戸だと伝わります。「ボージウシュー/坊主御主」とは「尚灝王」の隠居後の名称で、昔からこの井戸は首里から礼拝者が多数訪れていました。琉球大学が首里から移転する際にこの井戸は取り壊されそうになりましたが、首里のノロ(祝女)達が来て井戸を残すよう言われたそうです。現在、大学北口に向かう道路脇にある井戸はコンクリートの建物で囲まれ、内部には大学移転当時のポンプが現在も残されています。この井戸から東側の北食堂裏の敷地は「尚灝王」が暮らしていた屋敷の跡地となっています。ちなみに「尚灝王」は一妃二夫人八妻を持ち、九男十七女をもうけた琉球国王でした。(サーターヤー跡)(ウマウィーグヮー/千原馬場跡)(果樹園跡)琉球大学工学部1号館の北側一帯はかつて「サーターヤー」と呼ばれる製糖場がありました。そこから南西側にある農学部沿いの道路はかつて「ウマウィーグヮー」という馬場で、馬の走り方の美しさを競う琉球競馬が行われていました。「チャーヤマンマイー」や「千原馬場」とも呼ばれた道は長さ約108メートル、幅が約9メートルあったと伝わり琉球競馬の他にも子供達の遊び場でもありました。この位置から同じ道を更に南側に進んだ一帯にはかつて「果樹園」がありました。『西原町史』の民族編には、1960年(昭和35)頃に台湾出身の陳という人が千原馬場の南側、現在の農学部南棟側から農場棟辺りの山地で、約2万坪の村有地を借地開墾し果樹園を開いていたと記されています。この果樹園では主に紀州ミカン、ポンカン、バンジロウなどを栽培していましたが、琉球大学の移転に伴い閉鎖され撤去されてしまいました。(琉球大学)琉球大学農学部の「農学部フィールド」と呼ばれる一帯には「棚原グスク」を守る支城の役割があった「イシグスク」や「大城門中按司墓」と彫られた石柱が建つ古墓、更に「ヤマバーン/山番」と呼ばれる杣山管理をしていた首里系士族「普天間門中」の墓を含む「五連墓」など、より多くの人々に知られるべき興味深い遺跡文化財が点在しています。残念ながら「農学部フィールド」は琉球大学の研究者以外は立ち入り禁止の区域となっています。琉球大学の広報担当に問い合わせたところ、個人での見学や利用については検討が必要で許可が下りるまで時間がかかるとの回答がありました。更に「農学部フィールド」に関する画像は研究者の知的財産権を損害してしまう場合があるため、SNS等への掲載はお控え下さいとの返答もありました。
2022.10.11
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(シージマタノ嶽のイビ)沖縄本島中部にある中城村「津覇集落」の「ミーヤシチ/新屋敷門中」の祖先は沖縄本島北部の今帰仁から「中城グスク」の南東側に広がる中城村「字泊」に移り住み「トゥマイウフヤ/泊大屋」という家を作りました。その分家である「アガリウフヤ/東大屋」の三男である「ザキミシー/座喜味子」が「ミーヤシチ門中」の元祖であると伝わります。その元祖の時代には現在の西原町千原にある琉球大学千原キャンパスの敷地内に広がる「シージマタ」の森に住んでいました。しかし、西原の「棚原門中」との戦いに敗れた「ミーヤシチ門中」は東部の「糸蒲」に移り、その後は更に東側の「津覇集落」に移り住んだと言われています。この「ミーヤシチ門中」は「ウェーグン/親根門中」とも呼ばれ、姓は「新垣」となっています。(以前のシージマタノ嶽のイビ)(シージマタの森)(シージマタの森)「シージマタ」の「シージ」は「しのぐ」の事で「マタ」は「川の合流地点」を意味します。昔、戦に敗れた落武者がこの土地に隠れて命を凌いだ事が地名の由来であると伝わります。「シージマタノ嶽」は1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には『棚原村 シギマタノ嶽 神名 コバヅカサノ御イベ』と記されています。以前のイビ(神が宿る最も重要な場所)は、現在のイビがある拝所の南側の川沿いに生える「ホソバムクイヌビワ」の根元辺りにあったと言われています。この場所から更に南側には「シージヌマタヌカー」という井戸があったと伝わります。一説では、この森は「棚原集落」の発祥地であると伝わり、集落の草分けで「ニーヤー/根屋」と呼ばれる「宮里門中」の元祖が暮らした屋敷があったと言われています。そのため戦前まで「棚原集落」のカミンチュ(神人)が年中行事で祭祀を行なっていたとの伝承があります。(シージマタノ嶽の遥拝所)(津覇集落のミーヤシチ門中)「棚原門中」との戦いに敗れた「ミーヤシチ門中」が逃れた「糸蒲」の地に「シージマタノ嶽」への遥拝所があり、石造りのウコール(香炉)が御嶽に向けて祀られています。「ミーヤシチ門中」が「津覇集落」に移り住んで暮らした屋敷の土地が現在も残されており、戦前までこの門中は「津覇集落」で馬車を所有する「馬車ムチャー」として働いていました。黒糖を詰めた「タルガー/樽」や「ウミイシ/海の石」など、依頼主の要望に応じて様々な物資を運んでいました。「津覇集落」に「サーターヤー/製糖場」が多く存在した事に比例して「馬車ムチャー」の数も多かったと伝わります。「津覇集落」の「馬車ムチャー」は「ミーヤシチ門中」の他にも「東比嘉・前田場・三男森田・酒庫理・森田小・栄眞境名」が存在したと言われています。(球陽橋/きゅうようばし)(ナービグムイ)(千原池/せんばるいけ)「シージマタノ嶽」の森に沿って「千原池/せんばるいけ」と呼ばれる人工池があり「球陽橋/きゅうようばし」が架けられています。かつて「千原池」の上流域に「ナービグムイ」という直径1メートル、深さ1.6メートルの鍋状をした溜池があり「ナービ」は「鍋」の事で「グムイ」は「溜池」を意味しています。伝承では中城の「津覇集落」の古代マキョと呼ばれる血縁部落の「糸蒲ノロ」が戦に追われてこの溜池で水死し、そのノロ墓が「ナービグムイ」の近くにありました。また昔、ある遊女がこの溜池で自殺したと言われており、水面には遊女が使っていたと思われる「サバチ箱/用具箱」が浮いていたため「ナービグムイ」は幽霊が出ると人々に恐れられていたそうです。現在の「ナービグムイ」と「ノロ墓」は琉球大学がこの土地に移転した際に作られた人工池の「千原池」に沈んでいます。(ウフタチグムイ)(千原池に架かる球陽橋)(千原池/せんばるいけ)「ナービグムイ」から南側に約20メートル離れた場所に、かつて「ウフタチグムイ」と呼ばれる溜池がありました。「球陽橋」の東側の川が湾曲した所に位置し、かつてこの溜池で馬を水浴びさせたり子供達が泳いだりしていました。しかし、この溜池は溺死する事故も多く、大人達は子供だけで泳がないよう注意していたそうです。「ウフタチグムイ」は一番深い場所で約2メートル、広さは約100坪ほどあったと伝わります。「球陽橋」が南北に架かる「千原池」は琉球大学が那覇市首里から西原町の現在地に移転した1977年に作られた人工池で、農学部農場用の用水ダムでもあります。池の面積は約20,000平方メートルで平均水深は約1.5メートルとなっており、野鳥を始めとする多くの生物の生息地として重要な役割を担っています。(チカジャングヮーカーの森)(ガチマタ)「千原池」に架かる「球陽橋」を渡った南側に大学会館(全保連ステーション)があり、この建物に隣接した場所にはかつて「チカジャングヮーカー」と呼ばれる井戸がありました。戦前まで周辺に暮らしていた屋号「チカジャングヮー/津嘉山小」が井戸の名称に由来していると考えられています。「チカジャングヮー」を使用していた「津嘉山門中」は18世紀の初めに首里や那覇から農村地域に人口移動が行われた「士族帰農」でこの土地に移転しました。『首里系士族 向氏 元祖尚質王三子尚弘仁義村王子朝元 名乗頭 朝』で、本家は琉球王族の「名護御殿/なごうどぅん」であると言われています。さらに大学会館の周辺は「ガチマタ」と呼ばれる深い森で覆われており、昔は川が合流して滝が流れていたと伝わっています。(トーフクエーマーチ/豆腐喰松があった場所)(トーフクエーマーチ/豆腐喰松の拝所)(トーフクエーマーチ/豆腐喰松の拝所)「トーフクエーマーチ/豆腐喰松」は琉球大学千原キャンパスの北食堂入り口付近にあったと言われています。「トーフクエーマーチ」は「ターチマタマーチュー」とも呼ばれ、その名前の通り2本の松の木で大きい方の幹は直径約1メートル、高さ約10メートルあった大松であったと伝わります。木の根元にウコール(香炉)が祀られ、拝所として「棚原集落」や他の村から拝みに来ていました。その木の根元に豆腐をお供えしたら、いつの間にかそれが無くなっていたので「トーフクエーマーチュー/豆腐を食べる松」と呼ばれるようになりました。この松は昭和8年頃まで生えていましたが、その後無断で伐採されてしまったと伝わります。現在「トーフクエーマーチ」の拝所は大学生寮の北側にある駐車場の角に移設されており、3基のウコールが祀られた拝所となっており人々に拝されています。
2022.10.06
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(トゥングヮー)「津覇集落」の南西側でケンドー(旧県道)の近くに「トゥングヮー」と呼ばれる祠があります。旧暦1月2日に行われる「ハチウクシー/初興し」と呼ばれる行事は、1年間を通じて集落の各拝所への拝みを始める最初の日で「トゥングヮー」はこの行事の最後を締め括る拝所として拝まれていました。旧7月16日に行われていた「念仏エイサー 」の踊りは旧盆の最終日に「トゥングヮー」で行われ、旧盆翌日の旧7月17日には「ジュウルクニチー/十六日」と呼ばれる厄除け祈願の行事が行われていました。また、旧8月15日の「十五夜」の行事では集落の豊年と厄祓いの祈願で「トゥングヮー」が拝され、その後「アシビナー」に移動して「ムラアシビ/村遊び」が行われていたと伝わります。(トゥングヮーの火の神)(トゥングヮーのウコール)(トゥングヮーの手水鉢)「トゥングヮー」はかつて「旧津覇公民館」があった場所で、戦前は鬱蒼とした木々で覆われている中に小さな瓦葺きの祠があったと言われています。当時、現在の位置よりも少々北側にあり、祠の内部には火の神(ヒヌカン)の霊石が祀られていました。現在の「トゥングヮー」はコンクリート製の祠で向かって左側には「奉納 昭和四十五年六月吉日 糸満家親族一同」と記され、右側には「奉納 昭和四十五年六月吉日 新垣盛蒲 カマ」と彫られています。「トゥングヮー」の正面にはウコール(香炉)が設置され「ヒジュルウコー」と呼ばれる、火を灯さない作法でヒラウコー(沖縄線香)とお賽銭が供えられています。更に「トゥングヮー」に向かって右後方にはコンクリート製の手水鉢が置かれています。(ムラヤーのシーサー)(メーガーラー)「トゥングヮー」がある場所はかつて「ムラヤー/村屋」または「倶楽部」と呼ばれた集落の中心地でした。現在、この敷地の南西側にある掲示板の上に「シーサー」が2体設置されています。以前は「メーミチ」と呼ばれる隣接する道の入り口に鎮座していたと言われています。戦前は西側丘陵の「富里ノ嶽」がある「フサトゥヤマ/富里山」に向かって3〜4体のシーサーが置かれ「ヒーゲーシ/火伏せ・厄除け」の役割があったと伝わります。「津覇集落」の南側には「メーガーラー」という河川があり、源流は小字「仲棚原/ナカタナバル」で津覇小学校南側を通り、小字「寺原/テラバル・浜原/ハマバル」を経て東側の中城湾へと流れつきます。因みに、現在の「メーガーラー」の川幅は戦前とほぼ変わらないと言われています。(糸満門中のシーシヤー/獅子屋)(シーシヤーの神棚)「ムラヤー/倶楽部」の北側にある「糸満家」に「シーシヤー/獅子屋」と呼ばれる獅子舞を保管する小屋があります。「糸満門中」の本家は屋号「糸満」で「津覇集落」の創始家である「ニーヤー/根屋」の一つと言われています。戦前は集落の祭祀を行う「カミンチュ/神人」を出した家であり姓は「新垣」でした。また、同系統の家として「糸満小」や「湧田」があります。「糸満門中」の「カミンチュ」は集落の火の神である「トゥングヮー」で白衣装を着用して祭祀を行いました。屋号「糸満」の屋敷裏側には、この白衣装を干す専用の場所があったと伝わります。「シーシヤー」の小屋内部には神棚があり、4基のウコール(香炉)、4組の花立・酒・水、2組の茶碗が供えられ、花立にはチャーギ(イヌマキ)が供え葉として捧げられています。(津覇のシーシ/獅子)(エイサー大太鼓)「シーシヤー」の小屋内部には「津覇の獅子」が安置され、火の神の前にエイサーに使われる大太鼓が置かれています。「津覇の獅子舞」の由来は、その昔に丘陵で生活していた「糸満家」と「呉屋家」が平地へ移動して現在の「津覇集落」を形成し、その際に厄除けと五穀豊穣を祈願したのが始まりであると伝わります。「津覇の獅子舞」の大きな特徴は、一頭の獅子で雌と雄の演舞を踊り分けする事です。雌の舞は柔らかい所作が主体となり「シランカチ」という虱(シラミ)をかく動作を座りながら行います。一方、雄の舞は力強い所作が主体で「マース高」や「見シジ」と呼ばれる踊りを行います。約400年余りの歴史を持つ「津覇の獅子舞」は1997年(平成9年)3月7日に「中城村指定無形民俗文化財」に登録されました。(ナカミチ)(ヤマグヮー)(ヤマグヮーの拝所)「糸満門中」の「シーシヤー」の北側沿いを通る「ナカミチ」は「津覇小学校」側から国道329号線に架かる陸橋近くが入り口になっています。「津覇集落」の中央を東西に横断し、集落の東側にある「スガチミチ/潮垣道」に至る「ナカミチ」は集落内で最も道幅が広く、エイサー の「道ジュネー」の順路となっています。この「ナカミチ」沿いには「ヤマグヮー」と呼ばれる場所があります。その昔「ヤマグヮー」にはヤシ科の植物である「マーニ/クロツグ」の低木が沢山生えており、その深い茂みの中に墓があったと言われています。この墓は「英祖王」の父である「伊祖グスク」の「恵祖世主」を先祖に持つ「大湾按司」に仕えていた家来や、奉公していた人の中で身寄りがない人を葬った墓であると伝わっています。現在は竹林の根元に霊石とウコール(香炉)が祀られています。(呉屋門中の御神屋/ウカミヤー)(呉屋門中の神棚と火の神)(津覇の旗頭)「ヤマグヮー」から南側に「ナカミチ」を挟んだ場所に「呉屋門中」の「御神屋/ウカミヤー」があります。本家は屋号「呉屋」で集落の根屋の一つと言われており「津覇集落」で所有する「旗頭」を保管しています。「呉屋門中」は「恵祖世主」を初代とする10代目「大湾按司」の三男「大湾子」を元祖とする門中です。「呉屋門中」の神人は集落内では「ヌール」と呼ばれており、ウマチーの行事の際には「伊集集落」のノロ殿内に貢物を運んでいたと言われています。この門中は「伊集ノロ」を乗せる馬を管理しており、同門中の男性は馬の手綱役を務めていました。1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』に記されている『里主根屋 津覇村 毎年六月、為米初、神酒三同村百姓中供之。伊集巫ニテ祭祀也。』という記述は「呉屋門中」の「御神屋」であると考えられます。(ウシクルシドゥクマー)(クバニー門中の拝所)(クバニー門中の拝所/祠内部)「呉屋門中」の「御神屋」から南東側に「ウシクルシドゥクマー」と呼ばれる場所があり「シマクサラシー」という集落の厄祓い行事の際に牛を解体した場所であると伝わっています。行事の後には集落の人々が集合して貴重な牛肉が振る舞われました。また、この場所から更に南西側には「クバニー門中」の拝所があります。「クバニー門中」の祖先は「勝連グスク・座喜味グスク・中城グスク」構築の際に石細工の職人をしており「津覇集落」に移住したと言われます。「クバニー」の名称は先祖が住んでいた土地にクバの木が沢山生えていた事に由来しています。この拝所の祠内部には「久場 勝連」と彫られた石碑と霊石が祀られており、近隣の屋号「勝連」の屋敷には現在も「クバニーガー」と呼ばれる井戸があり拝されています。(1〜4号サーターヤー/製糖場跡)(1〜4号サーターヤー/製糖場跡)「津覇集落」の南側に「津覇構造改善センター」と呼ばれる旧公民館があり、この土地は戦前まで集落で共有する1号〜4号の「サーターヤー/製糖場」がありました。「サーターヤー」での作業は収穫したサトウキビを持ち込み、順番を決めて1家分ずつ製糖作業が行われました。サトウキビの汁を絞る「サーターグルマ」を引くのは馬の役目で、同じサーターヤーを利用する人同士で馬を出し合い交代で引かせました。このサーターヤーやサトウキビの生産量が少ない人達が利用していた為、利用者を"借りた車"という意味の「カイグルマー」と呼んでいたそうです。また、利用者は「サーターグルマ」の扱いに不慣れな人が多く、度々「サーターグルマ」を壊していたので「カイグルマー ヤ 道具ヤンジャー(道具を痛める)」と言われていたと伝わります。
2022.10.01
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