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(天仁屋御嶽/天仁屋の宮)沖縄本島北部の「名護市」北東部の東海岸沿いに「天仁屋(てにや)集落」があり、沖縄の方言で「ティンナ」とも呼ばれています。「天仁屋集落」の西側で天仁屋公民館の南側に「天仁屋原(てにやばる)遺跡」があります。この遺跡は「天仁屋」が発祥した初期集落と考えられており、グスク時代の土器片や中国製の青磁や青花、更に近世から近代に沖縄で作られた陶器などが発掘されている事から「天仁屋集落」の歴史や当時の人々の生活様式を知る上で重要な遺跡となっています。「天仁屋原遺跡」には「天仁屋御嶽」があり「天仁屋の宮」とも呼ばれており、集落の住民により拝まれています。(天仁屋御嶽/天仁屋の宮の鳥居)(天仁屋御嶽のイビ)「天仁屋御嶽/天仁屋の宮」は「琉球国由来記(1713年)」に「アフラヤマ嶽/神名:コパヅカサノ御イベ」と記されており、ニガミ(根神)の崇み所であったと伝わります。ニガミ(根神)とは集落発祥のニーヤ(根家)から出たノロ(祝女)を意味します。「天仁屋集落」にはかつてニガミ(根神)、ウドゥイガミ(踊神)、サンナンモー(神人の小使い)、ニーブガミ(男神)と呼ばれる神役が存在していました。「天仁屋御嶽/天仁屋の宮」の鳥居を抜けた先には「天仁屋御嶽」のイビが鎮座しており、御嶽で最も重要な聖域であると崇められています。この御嶽は「天仁屋集落」の南西側にある「嘉陽ウイグシク(上城)」へのウトゥーシ(遥拝所)であるとされています。(神アシアゲ/神アサギ)(神アシアゲ/神アサギのウコール)(神アシアゲ/神アサギ脇の拝所)「天仁屋御嶽/天仁屋の宮」の敷地に琉球赤瓦屋根造りの「神アシアゲ/神アサギ」があります。「天仁屋集落」の祭祀は「天仁屋ニガミ(根神)」ではなく、集落の南西側にある「嘉陽(かよう)集落」の「嘉陽ノロ」の管轄で執り行われていました。祝女による祭祀は「神アシアゲ/神アサギ」で拝され、稲穂祭・稲作事始めの儀礼の年浴・祭りの物忌である柴指・芋祭のヲンナイ折目などの年中祭祀が司られていました。ノロによる祭祀において最も重要な聖域である「神アシアゲ/神アサギ」の内部にはウコール(香炉)が祀られ、更に脇にもウコールが設置された拝所があります。それぞれのウコールは「天仁屋」の浜に向けられて設置されています。(ニガミヤー/根神屋)(ニガミヤー/根神屋のヒヌカン)「天仁屋御嶽/天仁屋の宮」の東側に道を挟んだ場所に「ニガミヤー/根神屋」があります。この建物は「天仁屋集落」の祝女である「ニガミ(根神)」が暮らした屋敷があった場所であると考えられ、建物内部には「ニガミ(根神)」のヒヌカン(火の神)が祀られています。ヒヌカンのは神が宿る三体の霊石と陶器のウコール(香炉)が設置されています。沖縄では古より家のかまどの神(火の神)を拝んだ風習があり、やがてかまどを模った3つの石を神体として拝むようになりました。ヒヌカンの霊石は人が普段立ち入らない場所から持ち帰り、その時に決して他人と会話をしてはいけない決まりがありました。更に、現在でもヒヌカンが祀られた拝所では絶対に文句を言ってはいけないと伝承されています。(天仁屋ウッカーヌビジュル)(ビジュルの神体)「ウッカーヌビジュル」の霊石は「天仁屋集落」の東側を流れる「ウッカー」と呼ばれる川の中に鎮座しています。幅82センチ、高さ40センチのなだらかな山形の砂岩が川の中央に突き出ています。このビジュルは土手側にあった石が一晩で川の真ん中に移動したと伝わっています。ビジュルの前には3つのヒヌカン(火の神)石とウコール(香炉)が祀られており、このヒヌカン石は古老が人の踏んでいない海岸で拾い、竹篭で運んできたものを安置したと言われています。ビジュルを洪水などから守る為に造られた囲いは昭和3年10月18日に建てられ、当時のコンクリート建築を知る上で貴重な資料となっています。(ウッカーヌビジュルへの階段)(ウッカー)「ウッカー」の清水は今日も懇々と流れており「天仁屋ウッカーヌビジュル」は旧暦1月3日のハチウクシ(初起こし)の行事で行われる、水の神様に感謝して水の恵みを祈願するカーウガンの時に住民により拝されています。その際に各家庭から供物を持ち寄り、子孫繁栄・雨乞い・五穀豊穣・海の航海安全などが祈願されます。また「天仁屋集落」の住民が旅に出る際にもビジュルが拝まれています。かつては天仁屋ニガミ(根神)やカミンチュ(神人)により拝されていましたが、現在では集落の長老女性が中心になり拝まれています。なお「天仁屋ウッカーヌビジュル」は名護市指定文化財/民族文化財に指定されています。(ちむどんどん/ロケ地/西山原バス停)(ちむどんどん/ロケ地/バスが名護に向かう道)(ちむどんどん/ロケ地/4兄妹が抱き合う場所)「天仁屋集落」の南側はサトウキビ畑や農地が広がってえり、NHK連続テレビ小説「ちむどんどん」のロケ地として知られるようになりました。劇中ではヒロインの比嘉暢子(稲垣来泉)が東京に旅立つシーンで登場し「西山原」バス停、バスが名護に向かう道、去って行くバスを必死に追いかける兄妹、バスを停めて4兄妹が抱き合う家族の絆が描かれています。「ちむどんどん」の子供時代の最後を締め括る重要なシーンに「天仁屋集落」が使われており、沖縄本土復帰の7年前を描くシーンとして撮影されました。当時の沖縄の美しい原風景が「天仁屋集落」には現在でもそのまま残されているのです。
2022.04.30
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(アクナ浜)沖縄県中部のうるま市に「宮城島(みやぎじま)」と呼ばれる車で行ける離島があります。この島は「平安座島(ハナリ)」と「伊計島(イチハナリ)」に挟まれており「高離島(タカハナリ)」とも呼ばれています。また、地元では「ミヤグスクジマ」とも言われています。「宮城島」の東側の崖下に「アクナ浜」と呼ばれる天然の浜があり、2022年4月から放送のNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」のロケ地として知られており、ドラマでは物語の重要な場面で登場する「シークワーサーの木」がある場所として有名になりました。この「シークワーサーの木」は撮影用に植樹されましたが、周辺のソテツの木、琉球石灰岩、亜熱帯植物は原風景のまま使われました。(シークワーサーの木の場所)(シークワーサーの木から右に進む道)(シークワーサーの木から左に進む道)「ちむどんどん」の第3話ではこの場所で「比嘉暢子」が必死に飛び跳ねてシークワーサーの実を取ろうとするシーンが特徴的です。そして「シークワーサーの木」から右に進む道は、東京から来た「青柳和彦」の父親である「青柳史彦」に「暢子」が始めて作った沖縄そばを食べに来るように誘う場面でも使われ「史彦」がこの道を進んで行くシーンがあります。更に「シークワーサーの木」から左に進む道は、第10話で「ねえ、手繋いで帰ろう」と「和彦」が「暢子」に手を繋がれて恥ずかしがり走り抜ける道です。撮影用に植えられた「シークワーサーの木」は現在は存在していなく、緑豊かな雑草でこんもり覆われています。(シークワーサーの木の場所)(暢子が男子生徒に馬鹿にされる場所)(暢子が荷物を置き忘れた小岩)「ちむどんどん」第5話でもこの「アクナ浜」が登場します。「シークワーサーの木」の左側をバックに「暢子」が学校の男子生徒2人に「おてんばは結婚できないってよ!おてんば暢子〜!」と馬鹿にされる場所でも有名です。その直後「暢子」は初めて自分でシークワーサーの木の枝から実を取る事が出来て「お父ちゃ〜ん!自分で取れたよ〜!」と海に向かって叫ぶ場面も印象に残るシーンです。そして「暢子」は嬉しさと共に急いで学校に行こうと走り出すのですが、自分の荷物を忘れた事に気付き戻って来ます。その時に「暢子」の青い荷物が置かれていた小岩は今でもこの場所に現存しています。(4兄妹が走ってくる道)(シークワーサーの木の場所)(4兄妹が走り抜ける道)「ちむどんどん」第5話では父親の「比嘉賢三」が倒れてた知らせを聞き、4兄妹が学校から家まで懸命に走り抜けるシーンで使われた道があります。「シークワーサーの木」を通り過ぎる時に長女の「良子」が足が遅い三女の「歌子」に「歌子、早く!」と叫んでいます。ドラマではドローンにより空撮されていましたが、画像は必死に走る4兄妹の目線に映っていた風景です。ドラマの舞台は沖縄本島北部のヤンバル(山原)ですが、沖縄本島中部うるま市の離島にも「アクナ浜」のような大自然が、今でも残っている事は美しい沖縄を象徴しています。それまで「アクナ浜」は地元住民のみが知る浜でした。しかし今回ドラマのロケ地に採用された事は非常に素晴らしい事で、魅力的な沖縄の美しい原風景が残っている証拠です。(シークワーサーの木の下の岩)(岩に置かれた4つの貝殻)(アクナ浜)「ちむどんどん」のドラマで最も重要な場面の一つである「シークワーサーの木」の下には一際目立つ琉球石灰岩があり、ドラマでもその岩を確認する事が出来ます。現在、この岩塊は生い茂る雑草の中に埋もれていますが、岩の上に4つの貝殻が置かれているのを偶然発見しました。ドラマの「比嘉家」は長男「賢秀」長女「良子」次女でヒロインの「暢子」三女「歌子」の4兄妹です。この4つの貝殻はドラマの4兄妹と何か関連があるのでしょうか?真相は分かりませんが、偶然すぎる4つの貝殻の存在に今後のドラマの進展が楽しみになります。現在「ちむどんどん」は第10話が終了したばかりで、今後もこの「アクナ浜」の「シークワーサーの木」が要所で登場する事が予想されて楽しみです。
2022.04.24
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(クーガー/古河)沖縄本島中部のうるま市に「東恩納(ひがしおんな)集落」があります。うるま市は平成17年(2005年)4月1日に具志川市・石川市・勝連町・与那城町が合併して生まれた市で「東恩納集落」は石川市にありました。この集落の中央部に「チチグシクウタキ(嵩城嶽)」があり、御嶽の祠に隣接して「クーガー(古河)」という井泉があります。この名称から「東恩納集落」で最も古いカー(井泉)であると考えられ「クーガー(古河)」は「ウブガー(産河)」とも呼ばれています。集落で子供が産まれた際にこの井戸の水を汲みウブミジ(産水)として利用していました。更にウブミジを赤ちゃんの額に三度撫でる「ウビナディ」という儀式で健康祈願をしていました。(クーガー/古河)(クーガー/古河のウコール)「クーガー(古河)」は井戸を中心に5段に渡り円形に石が積まれ、高度な石積み技術により現在も美しい姿が健在しています。井戸の東側に入り口の石門が設けられ、西側の石積み3段目にウコール(香炉)が祀られています。集落の生活に欠かす事が出来ない水の恵みに、住民は線香を備えて拝していました。水の神様を崇める聖地として現在も「カーウガン」で祈られ大切にされています。琉球国由来記(1713年)にも記されている「チチグシクウタキ(嵩城嶽)」に隣接している聖域として「クーガー(古河)」は生活用水や産水に限られた井泉であり、野菜洗いや洗濯に利用する事は禁じられていたと考えられます。(東恩納ヌール墓の丘陵)(東恩納ヌール墓の石碑)(東恩納ヌール墓)「クーガー(古河)」の北東側にある森の丘陵中腹に「東恩納ヌール墓」と呼ばれる歴代の「東恩納ノロ(祝女)」の遺骨が納められた古墓があります。1957(昭和32)年に米軍海兵隊「ナイキ・ハーキュリーズ」ミサイル基地の設置の為、西側にある「青木原(あおきばる)」の土地に墓が移設される際に12基の石棺と12基の厨子甕が確認されました。その後、1989(平成元)年頃にノロの遺骨は現在の元の墓に戻されました。丘陵中腹の自然洞窟を利用したノロ墓は入り口を石積みで塞がれ、門石の前にはウコール(香炉)と霊石が祀られています。東恩納ノロは「東恩納集落」と西側に隣接する「楚南集落」の2つのシマを管轄した由緒あるノロとして、両集落の祭祀を纏めて司っていました。(シチャヌカーの森)(シチャヌカー)「東恩納ヌール墓」の南側で「高原ゴルフクラブ」のクラブハウスの東側に「シチャヌカー」があります。このゴルフコース北側で、4番ホール脇の崖下に深い森があり「シチャヌカー」があり沖縄の言葉で「下の井戸」を意味します。「高原ゴルフクラブ」のスタッフが「シチャヌカー」まで車で案内してくれたお陰で訪れる事が出来て非常に感謝しています。現在も湧き出る「シチャヌカー」の豊富な水は周辺の農業用水として利用され、昔から部落の人々の生活を支えてきました。飲料用水の他にも収穫した野菜を洗ったり、馬や牛に水を与えたり、農業用具を洗ったりする為に重宝したと考えられます。(ハチジャーの水源)(ハチジャーの溜池)(ハチジャーの水)「東恩納集落」の西側に「東恩納青木原」と呼ばれる土地があり、その更に西側の森に「ハチジャー」と呼ばれる井泉があります。比較的規模の大きな井泉で崖下の岩間から湧き出る豊潤な水は溜池に貯められ、溢れ出る水は西側に続く水路を流れてゆきます。「ハチジャー」周辺は田芋やクレソンを栽培する広大な畑が広がり、井戸の水の恵みが豊かな土壌と作物の豊穣を生み出しています。周囲の森には古い墓群があり、昔から風葬が行われる神聖な場所として崇められていたと考えられます。同時に収穫した野菜や農具を洗ったり、馬や牛の水浴び場としても利用されていたと推測されます。(シカガン/世界河の祠)(シカガン/世界河の井戸)(シカガン/世界河の祠内部)「ハチジャー」の北東側にはかつて「東恩納闘牛場」があり大勢の観客を集めて賑わいました。この闘牛場の南側にある森の麓に「シカガン」と呼ばれる井戸があり、漢字で「世界河」と表記します。隣接する森の丘陵から滲み出た水が湧き出ており、井戸は現在も枯れる事なく水が溜まっています。井戸には祠が建てられていて内部には石造りウコール(香炉)が祀られています。井戸の水に感謝する住民が現在でもヒラウコー(沖縄線香)やお賽銭をお供えして拝しています。この井戸の敷地が広いため、かつては飲料用水の他にも水浴びや衣類の洗濯にも利用されていた井戸であったと考えられます。(クーガー/古河のモクマオウ)(知事校舎跡のフクギ並木)「東恩納集落」のある旧石川市地区では「みどりと水に包まれた彩りとふれあいのまち」をモットーにしており、樹木の保護と植樹活動が積極的に行われています。「クーガー/古河」の「モクマオウ」の原産地はオーストラリアで、東南アジアから太平洋諸島に広く分布している樹木です。昔、防風林や防潮林として自生していなかった沖縄に入り、その後に野生化したと言われています。また、かつて東恩納公民館の向かいには沖縄県知事の迎賓館として利用された「旧知事校舎跡」があり、この敷地に現在も自生する美しい「フクギ並木」も保護樹木の対象として「東恩納集落」の景観と共に大切に守られているのです。
2022.04.18
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(イーヌ御嶽/ヨセ森)沖縄本島中部のうるま市北部(旧石川市)の東海岸沿いに「東恩納(ひがしおんな)集落」があります。この集落は沖縄貝塚時代前期〜中期(縄文時代後期)の遺跡があるほど歴史が古く「大山式・室川式・室川上層式・カヤウチバンダ式・宇佐浜式土器・グスク土器」が出土され「石器・貝製品・骨製品」も発見されています。「東恩納集落」の4箇所に御嶽があり、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には「ヨセ森(イーヌ御嶽)」「嵩城嶽(チチグシクウタキ)」「金謝敷嶽(カンジャシチウタキ)」「雲古嶽(クモコウタキ)」が記されています。「東恩納集落」の北側には「ヨセ森(イーヌ御嶽)」の丘陵があり拝所の祠が設けられています。(ヨセ森/イーヌ御嶽の祠内部)(ヨセ森/イーヌ御嶽のイビ)(ヨセ森/イーヌ御嶽のガジュマル)丘陵の麓にある「ヨセ森(イーヌ御嶽)」の祠内部にはウコール(高炉)が祀られておりヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。この祠は御嶽の遥拝所としての役割があり、森に鎮座する巨岩に向けて建立されています。この巨岩こそが御嶽の「イビ」であると考えられ、神が宿る聖域として崇められています。「イビ」とは「イベ」とも呼ばれ、御嶽の中で最も重要かつ神聖な場所を意味しています。また「ヨセ森(イーヌ御嶽)」は「琉球国由来記(1713年)」に神名「イシノ御イベ」と記されています。ちなみに「イシノ御イベ」とは霊石を守護神とする沖縄における「霊石信仰」の事を意味しています。(嵩城嶽/チチグシクウタキ)(御嶽の祠内部)「東恩納集落」の中央部で、県道255号(石川池原線)と県道75号(沖縄石川線)の交差点に「嵩城嶽(チチグシクウタキ)」があります。かつてこの地には「嵩城(チチグシク)」と呼ばれるグスク(城)があったと考えられ、この地に祀られたイビ(霊石)に神が宿るとして、住民の祈りの対象となったと思われます。「琉球国由来記(1713年)」には「嵩城嶽/神名:イシノ御イベ」と記されており、祠内部には御嶽のイビ(霊石)が鎮座しています。この御嶽も「ヨセ森(イーヌ御嶽)」同様に「東恩納ノロ(祝女)」により祭祀が執り行われていました。かつて「東恩納ノロ」は「美里間切」に属する「東恩納集落」と、西側に隣接する「楚南(そなん)集落」の2つのムラ(集落)を管轄していました。(金謝敷嶽/カンジャシチウタキ)(アガリ/東恩納之殿)(金謝敷嶽/カンジャシチウタキのシーサー)東恩納公民館の南側に「金謝敷嶽(カンジャシチウタキ)」の社があり、この御嶽も「琉球国由来記(1713年)」に「カンジャシチ嶽/神名:イシノ御イベ」と記載されています。「琉球史辞典(1993年)」には「威部(イベ)は沖縄の御嶽の中で最も重要な部分、イベは神のよりまし、つきしろで、所謂神を斎くところである」と記述されています。「金謝敷嶽(カンジャシチウタキ)」の隣には「アガリ」と呼ばれる「東恩納之殿」の社があります。「殿(トゥン)」とは集落の住民による年中行事が執り行われる集落の中心的な場所であり、現在でも「清明祭」「旧暦五月六月ウマチー」「十五夜ウスデーク」「清明祭」「旧盆」「獅子舞」「カー拝み」「旧正月」などで拝されています。(雲古嶽/クモコウタキ)(雲古嶽/クモコウタキの祠内部)(雲古嶽/クモコウタキ)東恩納公民館の北側敷地内の斜面に「雲古嶽(クモコウタキ)」の森があり、丘陵の中腹に祠が建立されています。琉球国由来記(1713年)には「クモコ嶽/神名:イシノ御イベ」と記されており、祠内部には霊石3体とウコール(高炉)が1基祀られています。沖縄において「3」には深い意味が込められており、沖縄を創造した「天・地・海」または「今が世・中が世・御先世」の3つの世を示しています。この3つの要素を3つの霊石に宿らせた「ビジュル」が沖縄に於ける「霊石信仰」の原理となっているのです。「ビジュル」とは豊作、豊漁、子授けなど様々な祈願がなされる「霊石信仰」の対象で、16羅漢の一つの「賓頭盧(びんずる)」から由来し、主に自然石が拝所やヒヌカン(火の神)に祀られています。(雲古嶽/クモコウタキのイビ)(東恩納ノロ殿内)(神下毛/虎毛/カンサギモー)「雲古嶽(クモコウタキ)」を祀る祠の裏手に急勾配の丘陵があり、この森の頂上には御嶽のイビである大岩が鎮座しています。「雲古嶽(クモコウタキ)」の西側に「東恩納ノロ殿内」があり、建物の内部には「東恩納巫火神」が祀られています。「ノロ殿内」とは琉球王府から任命されたノロ(祝女)が住んだ場所で「ヌンドゥンチ」とも呼ばれています。また、東恩納公民館の敷地内に「神下毛(虎毛)」の祠があり「カンサギモー」と呼ばれるこの地には、かつて「東恩納ノロ」の「神アサギ(カミアシャギ)」があったと考えられます。「東恩納集落」と「楚南集落」の2つのムラを管轄した「東恩納ノロ」が集落の祭祀を執り行った「神アサギ」が存在した「カンサギモー」は集落の祭祀において最も重要な場所として現在も聖域として崇められているのです。
2022.04.14
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(上勢頭井戸の合祀所)沖縄本島中部の「北谷(ちゃたん)町」北東側に「上勢頭(かみせど)集落」があります。この集落は沖縄戦以前は「上勢頭屋取集落」として繁栄していましたが、戦後は米軍嘉手納基地に集落の3分の2の土地を接収され、住民は強制的に他集落に分散して暮らしています。今でも集落にルーツを持つ人々は団結して「上勢頭屋取集落」の文化財を大切に守り続けています。現在の「上勢頭集落」の北側で米軍嘉手納基地フェンスに隣接する場所に「上勢頭井戸の合祀所」があり、米軍嘉手納基地の敷地に分散する「上勢頭屋取集落」の井戸を遥拝する石碑が6基建立されており「カーウガン」で拝する住民が訪れる聖域となっています。(かー小の石碑)(いなみぬかーの石碑)(いーま小ぬめーぬかーの石碑)「上勢頭井戸の合祀所」に向かって左から「かー小」「いなみぬかー」「いーま小ぬめーぬかー」の石碑が建立されています。「上勢頭屋取(ウィーシードゥヤードゥイ)」は今から200年以上前に「首里・那覇・泊・久米」からヨカッチュ(良人)と呼ばれる士族が入植して発展した「屋取集落」で、後に生まれた「下勢頭屋取(シチャシードゥヤードゥイ)」と合わせて「勢頭七組」と称されました。「田仲組・稲嶺国・瑞慶覧組・与那覇組・喜友名組・勝連組・佐久川屋取」で構成された「勢頭七組」は、その後10組まで増えて「上勢頭/下勢頭」の行政としてそれぞれ区長が置かれるようになりました。集落は主に農業で栄え、芋やサトウキビの栽培には集落の井戸水が農業用水として活用されていました。(いなみ小ぬかーの石碑)(みーがーの石碑)(ふえぬかーの石碑)更に「上勢頭井戸の合祀所」の向かって右から「いなみ小ぬかー」「みーがー」「ふえぬかー」の石碑が建立されています。「みーがー」は共同の「ニーブガー」と呼ばれる浅い井戸で、飲料水として「喜友名組」と「勢理客組」が利用していました。「ふえぬかー」は「喜友名組」の区域にあり、周辺住民の生活用水として重要な井戸でした。「ふえぬかー」は「上勢頭屋取」の「ウブガー(産井戸)」の一つで、集落で子供が生まれた時に産水として使用されました。「上勢頭屋取」では農業の他にも副業として「カマンタ」や「バーキ」と呼ばれる竹細工の生産が盛んで「シードゥカマンタ」と称され、仲買人や行商人により那覇やヤンバル(山原)に出荷されるほど有名でした。(下勢頭集落の合祀所)「上勢頭集落」の東側の丘に「下勢頭集落の合祀所」があります。「下勢頭集落」は「上勢頭集落」の北側に位置し、土地の全てが米軍嘉手納基地の敷地内にあります。そのため「上勢頭集落」から眺める事ができる丘の上に遥拝所が設けられています。「下勢頭集落の合祀所」には「アシビナージー」「ユシミヌ神/四隅の神」「ハナグスクヌメーヌカー」「水ヌ神」が合祀されています。「アシビナージー」はかつて「下勢頭集落」と「上勢頭集落」の境界近くに「シードゥヌシー」と呼ばれる岩塔があり、その北側には「下勢頭集落」のアシビナー(遊び庭)がありました。旧暦12月24日のウガンブトゥチ(御顔解き)や2月2日のニングヮチャー(クスユックイ)などの祈願の際に拝されています。(南無諸大明神の石碑)(年豊人楽とウコール)「下勢頭集落」では旧暦12月24日にムラの有志らによるウガンブトゥチ(御願解き)の行事が行われた。「ユシミヌ神(四隅の神)」と呼ばれる東方の「持國天王」西方の「廣目天王」南方の「増長天王」北方の「多聞天王」へは、この行事に祈願を行なっていたと伝わり、この「四天王」は仏教における東西南北を守護する四人の神を意味します。「南無諸大明神の石碑」の土台には「年豊人楽」と刻まれておりウコール(香炉)が祀られています。これは「年豊かに人楽しむ」の意味で集落の五穀豊穣を祈願しています。現在「ユシミヌ神」は「アシビナージー」と併せて祀られています。(御通し所/遥拝所の石碑)「下勢頭集落の合祀所」には「御通し所(遥拝所)」と彫られた石碑が建立されています。現在、米軍嘉手納基地の敷地内にある「下勢頭屋取集落」にはかつて屋号「ハナグスクヌ(花城)」の屋敷前にカー(井戸)があり「ハナグスクヌメーヌカー」と呼ばれていました。更に屋号「山佐久川」の屋敷の東側には、村人が野良仕事からの帰り農具や野菜を洗う約100坪の大きな池(ウフグムイ)がありました。人々はこの池を「ミジヌ神(水の神)」として崇めていたと伝わります。現在は旧暦12月24日に「旧字下勢頭郷友会」の有志らにより「お通し所(遥拝所)」からお通し拝みが行われています。(ウキンジュガー/受水ガー)(ウキンジュガーのウコール)(ウドゥンジーミチ/御殿地道)「上勢頭屋取集落」の南側に「ウキンジュガー(受水ガー)」と呼ばれる井戸があります。「御殿地組」の新屋小の南側、現在の北谷町立北谷第二小学校の北側にある土手の下に「ウキンジュガー」はニーブガー(浅い井戸)で柄杓を使って水を汲んでいました。水量が豊富で旱魃の際にも水が枯れる事がなく、遠く離れた集落から水を汲む人々が訪れました。「ウキンジュガー」の北側には「ウドゥンジーミチ(御殿地道)」と呼ばれる「御殿地組」の土地を東西に通る道があります。西側に隣接する「桑江(クェー)集落」に近い方は「ナルカーミチ」とも呼ばれており、現在の県立北谷高校と北谷ゴルフ練習場の間を西海岸に向けて続いていました。(トゥクガーシー)(上勢頭北公園)(拓/竣工記念碑)米軍嘉手納基地の敷地内の「下勢頭屋取集落」南側に「トゥクガーシー」と呼ばれる岩山があります。元々は風葬に利用されていた丘陵でしたが、沖縄戦の際には「トゥクガーシー」の自然壕に旧日本軍の監視哨が置かれました。現在の「上勢頭集落」の北側に「上勢頭北公園」があり「拓」と刻まれた竣工記念碑が建立されています。第二次世界大戦の敗戦により接収されていた「上勢頭屋取集落」の土地は1970年に3分の1ほど返還されました。1973年には本土復帰に伴う記念国民体育祭「若夏国体」が開催され、国道58号線から沖縄市へ通じて「上勢頭集落」を横断する県道23号線(国体道路)が開通しました。この碑は「上勢頭」地域の発展を祈願して建立されています。
2022.04.09
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(シーサー/石獅子)沖縄本島中部の沖縄市南西部に「山里(やまざと)集落」があります。この集落は南北に約1キロ、東西に約500メートルの小さなムラで、隣接する「山内集落」と「諸見里集落」から分離独立した「屋取(ヤードゥイ)集落」です。「屋取集落」とは近世後期に政治、経済、文化の中心地域であった首里、那覇から「士族帰農」として士族が地方へ都落ちし、人里離れた地に仮小屋に住みながら荒地を開墾した集落を言います。「屋取」は「他の土地に宿る」の意味で、居住人と呼ばれた士族が寄り集まり次第に集落を形成して行きました。沖縄にはこのような「屋取集落」が130余存在すると言われています。(シーサー/石獅子)「山里集落」の東側にウスクギー(アコウ)の古木があり、麓に琉球石灰岩で造られた「シーサー(石獅子)」が鎮座しています。この「シーサー」は東側に隣接する北中城村「島袋集落」に向いて設置されており、その昔「島袋集落」で火事が多く「山里集落」に飛び火しないように「ヒーゲーシ(火返し)」の願いを込めて据えられたと伝わります。このような意味を込めた「シーサー」は沖縄の各集落の出入口や外れに魔除けや火返しの願いを込めて設置されていました。「山里集落」の「シーサー」は琉球王国の時代から集落を守っていると言われています。(山里ビジュルの碑)(ヒヤーナー)(破損した石碑)「山里集落」の東側に「ヒヤーナー」と呼ばれる場所があり「ビジュル」が祀られた祠が建立されています。この拝所は「山里集落」の南側に4キロ程離れた「普天満宮」を拝する遥拝所として知られています。「ビジュル」とは神が宿る「霊石」を意味し、主に沖縄本島でみられる霊石信仰の対象で豊作、豊漁、子授けなど様々な祈願がなされます。16羅漢の1つの「賓頭盧(びんずる)」に由来して「霊石」と崇める自然石が拝所に祀られています。「ヒヤーナー」の敷地内には破損した石碑があり「竜宮神、天孫子、水神」と記されているのが確認できます。「天孫子(天孫氏)」は琉球最初の王統とされる氏族として知られています。(祠のウコール)(祠右側の霊石)(祠左側の霊石)「ヒヤーナー」の拝所は宜野湾市にある琉球八社の1つである「普天満宮」を拝する遥拝所です。「山里集落」の土地神は「普天満宮」であり、屋取集落として首里や那覇から移住してきた士族の主要な神社であったと考えられます。「ヒヤーナー」の祠にはウコール(香炉)が設置され、左右には様々な形をした霊石が祀られています。沖縄における霊石信仰は昔から人々の生活に浸透しており「石敢當」「石獅子」「ヒヌカン(火の神)」も神が宿る霊石として崇められて来ました。「琉球国由来記(1713年)」によると「普天満宮」は洞窟の中にあり、そこには「八箇霊跡」と言われる「白鶴岩・明王石・獅子座・龍臥石・神亀岩・鷹居石・洞羊岩・大悲石」と称される霊石が祀られています。(山里都市緑地)(並里カー)(ナカマチガーの祠)(ナカマチガー)「山里集落」の北側に「山里都市緑地」の森があります。森の北側には「並里カー」と呼ばれる井戸があり石碑が建立されています。現在、この井戸の水は周辺の農業用水として活用されています。「波里カー」の西側には「ナカマチガー」と呼ばれる井戸があり豊富な水が懇々と湧き出ています。この井戸は「ナカマチペーチン」と言う人物により造られたと伝わり元々は石囲いの井戸だったと言われています。「ナカマチガー」周辺の住民は子供が生まれた時に産水として利用し、さらに旧正月元旦には若水を汲み一年の健康を祈願しました。
2022.04.04
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