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この日も早朝から目が覚めましたが、外は未だ真っ暗。ここ宮崎の地は我が家とは日の出の時間が40分ほど遅いのです。6時を過ぎ漸く明るくなって来たのでホテルを出発。ホテル前の大道りは、未だ交通量も少なく椰子の並木が朝の空に向かって立ち並んでいました。そしてココの並木はとても背が高く、幹が太くてまるでゾウの足の如し。県庁から橘通りをはさんで西側の通りが、宮崎市の繁華街。通称「ニシタチ」(西橘通り)は、柳の並木がある通りです。ニシタチの中央部に宮崎にゆかりのあるアスリートの手形モニュメントがありました。そして宮崎駅へ。駅前には『神話のふるさと宮崎へようこそ』の観光案内が。日豊本線に乗り隣の駅『宮崎神宮駅』で下車。宮崎神宮駅から歩いていくことができる宮崎神社を訪ねた。宮崎宮、神武さまと呼ばれ親しまれているのである。 宮崎神宮駅は無人で、駅の出入口が鳥居になっていた。国道10 号線を隔てて神宮側は閑静な住宅街となっており、駅前は通勤・通学客の自転車で一杯。5分ほど歩くと宮崎総合博物館への入り口に辿りついた。入って目についたのが、鶏の放し飼い。春日大社の鹿のように、鶏は神のお使いのような立場なのだろうか。近づいても逃げずに悠々とカメラに向かってポーズを。奥に行くと宮崎県総合博物館になる。まず民家園。宮崎県でも山辺の辺境地になる五ヶ瀬町、椎葉村、西米良村、高原町の4箇所の、江戸中期から幕末にかけて建造された農村民家をこの地に移設したのです。西米良村「米良の民家」。この民家は、山間の三段石積みの上に建てられていたもので、外観・間取りなどに古い西米良の農家の形が残されているとのこと。また、がっちりした骨組みの馬屋も残っていました。 そして私が子供の頃我が実家にもあったような記憶のある足踏み脱穀機が展示されていました。博物館はなかなか壮大な建築物でしたが、勿論早朝のため閉館中。そしてこの後、宮崎神宮に向かいました。玉砂利が敷き詰められた参道の周りには、鬱蒼とした森が広がる。森といっても、シダ類が幅を利かせているのが宮崎らしい。 宮崎神宮は、神武天皇の孫で、筑紫を開拓した健磐龍命(たけいわたつのみこと))が創建したと伝えられていると。正確な造営時期・由緒は不明とのことで、建久 8(1197)年に地元の地頭の土持太郎信綱が現在地に社殿を造営したというのが最古の記録として残されているとのこと。社殿の中央には大きな鏡が奉納されており、ここに私の姿が映っていました。ところで、宮崎神宮は神宮と言い、近くにある青島神社は神社と言うのは何故と感じ自宅に戻りインターネットで調べて見ました。「神宮」は、特別に許可された名称で、宮崎神宮のように「○○神宮」と称するものには、そのほかに明治神宮、熱田神宮・香取神宮・平安神宮などがありますが、これらは古代から皇室と深いつながりを持つ神社、あるいは天皇を祭神とする神社なのです。そして「神宮」といった場合、これは伊勢の神宮を指すとのこと。「伊勢神宮」は通称で「神宮」が正式な名称と。「神宮」と言う名称は、全国に、23社しかないとのこと。全国に8万社ほどある神社の99%以上が、「神社」と言う名称なのです。つぎに「○○大社」については、昔は出雲大社だけが「大社」を称していましたが、戦後になってからは住吉大社・春日大社・諏訪大社・三嶋大社・富士山本宮浅間大社などのように、「大社」の呼称が増加しているとのことです。そして次に隣にある宮崎 護国神社へ。護国神社は日本の都道府県全てに各一つある、日本という国の為に命を散華された地元出身者の英霊を祀る神社なのです。
2010.09.30
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27日の夕方から前夜泊で宮崎に出張しました。同僚との出張でしたが、同じ便を予約したつもりでいましたが羽田空港で荷物検査を終了後搭乗口へ向かおうとすると、搭乗口が同僚と異なることが判明し、初めて別便であることが判明したのです。私が予約したのはANAとSNAの共同運航便、同僚が予約したのは5分後に出発のANA便。宮崎空港の到着便掲示パネルです。19:10到着予定が3便表示されていました。最上部がANA便、その下2便が共同運航便なのです。どちらもほぼ満席状態。この時期、宮崎への旅行客の多さの理由は何なのでしょうか。しかも同じ時間帯にJAL便もあるのです。 あの口蹄疫事件が、終息したからでしょうか。4月末の発生確認から4ヶ月余りという長期間に及ぶ苦闘は、毎日テレビ報道され県民のの必死の努力により、この日を迎えることが出来たのでしょう。空港ロビーでは東国原知事が今回も迎えてくれました。昨日のニュースによると、東国原県知事が、次期知事選挙に出馬しないことを正式に表明したとのこと。知事を辞めた後の進路については明らかにしませんでしたがが、衆議院議員選挙や東京都知事選挙への立候補が取りざたされているのです。彼の本音は如何に?いずれにせよ相変わらず話題性に富む人物です。空港の外は既に暗くなっており、夜間照明に南国宮崎のシンボルの椰子の木が浮かび上がっていました。まさに宮崎を象徴する街路樹として、今では宮崎市内のいたる所で、中央分離帯にその高さとトロピカルムードを誇り、行き交う人々にに親しまれているのです。力強い掌状葉で、葉から白い髭のように伸びる様から、翁ヤシとも呼ばれているとのこと。ホテルにチュックイン後、同僚と夕食に。東京は涼しくなっていましたが、宮崎の地は未だ残暑が十分残っていました。先ずはビールを注文。そしてツマミに名物、骨付き地鶏の炭火焼きを注文。店員のオバチャンの話によると、備長炭で焼く事により、多量の遠赤外線効果で中はジューシーに表面はカリッと香ばしく焼き上がり材の味を最大限に引き出してくれると。又、燻し焼く時に付く食欲をそそる芳醇な香りも備長炭にこだわるひとつの理由と自慢げに。噛めば噛むほど鶏の弾力とスモーキーな味わいの肉の旨みが口一杯に拡がって旨いのです!!新鮮な地鶏が骨にすだれのようにぶら下がった状態に下ごしらえするのにも技がいるそうです。付属のハサミで切りながら地元の味を堪能したのでした。いろいろと頼み、締めにはこれも名物の冷や汁を注文。この名物冷や汁は、すり鉢にいりこもしくは焼いてほぐした鯵などの魚と、炒った胡麻と麦みそを入れ、すりこぎですった後、冷たくした出汁を注ぎ入れてのばすのです。仕上げに手でほぐした豆腐、輪切りの胡瓜、千切りの紫蘇、茗荷などを混ぜて良く冷やしこの汁を温かいご飯かけて食べる郷土料理なのです。 宮崎の郷土料理を久しぶりに多いに楽しみ、明朝の早朝散歩をまたまた決意し?ホテルへ戻ったのでした。
2010.09.29
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我が農園の苺の苗を定植しました。7から9月にランナー(葡萄茎)という茎がのびてきます。 http://blog-imgs-44.fc2.com/d/a/a/daaako/20100419230803eaf.jpgよりその先端に子苗が発生します。子苗は土に触れた部分から根を出し子株になるのです。そして全ての子株を苗として使うわけではいのです。使うのは上図の子株2(孫株)と3(曾孫株)を使うのです。別の言い方をすれば、長男は使わず、次男坊、3男坊を使うのです。そして私は次男坊なのですが・・・・・・・・・・・・・・・・・。 http://www.flora-japan.co.jp/hbworld/saibai/ichigo/より理由としては、子株1は生育はよいのですが花数が多くなり、実が小さくになってしまうのです。さらに1の株は親の老化や病気を引き継いでいるのです。我が農園のイチゴの親と子供達です。本葉が3~4枚になったらランナーの親株側の部分を3cmほど残して子株を切り取ります。畝には化成肥料と米糠を施肥しました。そして20cm間隔で定植。イチゴの場合は残したランナーと反対側にできるので、定植する際に揃えて植えれば、収穫が容易になります。8月に定植した苗は、連日の猛暑による地温上昇と雨が降らないための乾燥で全て枯れてしまったのです。今回の苗は、昨日の雨で着生してくれると信じているのです。いちごは寒さに比較的強いのですが、わらを敷いたり株を覆って越冬させるのです。春先の3月上旬には古い葉や枯れ葉を取り、黒いポリフィルムでマルチング(土全体を覆い、泥のはねあがりや雑草の発生を防ぐのです。そして開花するのを待つのです。今年は隣で農園をされているSさんにJAから、新たなイチゴの苗を30本購入依頼しました。春には立派な真っ赤の大きなイチゴが実ることを期待している『趣味の農園主』なのです。
2010.09.28
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土曜日の我がミツバチの内検時、そして昨日の農作業時にオオスズメバチがミツバチを狙いに我が農園を訪れています。オオスズメバチはスズメバチ類の中で最も大型のハチ(世界最大)で、体長は女王バチが40~45mm、働きバチが27~40mm、オスバチが35~40mm。日本の北海道から九州に分布しており、コガネムシやカミキリムシといった大型の甲虫類、あるいはスズメガなどの大型のイモムシ等を捕らえるほか、これらの大型昆虫が減少し、また大量の雄蜂と新女王蜂を養育しなければならないこの時期には攻撃性が非常に高まり、スズメバチ類としては例外的に、集団でミツバチやキイロスズメバチといった巨大なコロニーを形成する蜂の巣を襲撃し、反撃するその成虫を根絶やしにした後、それらの巣から幼虫やさなぎを自分たちの幼虫の餌として搬出するという行動をとるのです。第4群の巣箱の廻りには我がミツバチの働き蜂の死骸が。群れ全体の1割くらいがやられたかもしれません。巣門入り口に設置してある捕獲機(トラップ)には4匹ほど捕獲されており1匹は未だ動いていました。最初、1匹のオオスズメバチが偵察に来るのです。そのオオスズメバチが捕獲器に入ればOKあるいは、十数匹の働き蜂が攻撃して、背中に乗って毒針を差し込めば蜜蜂の勝ち然し、失敗して、偵察のスズメバチを帰らせてしまうと、次には数十匹のスズメバチが来襲するのです。こうなると、もう数万匹の蜜蜂の群れは全滅の危機となるのです。オオスズメバチは巣近くでホーバリングし働き蜂たちを次々にかみ殺していくのです。(スズメバチと闘うのは働き蜂、、身体の大きな雄蜂は巣箱の中から出てこないのです)これは、我が西洋ミツバチの場合ですが、日本蜜蜂は、最初の偵察に来たスズメバチを数百匹でボールのように包み込んで、熱で殺してしまう術を持っているのです。しかし、数十匹で来襲されると、西洋ミツバチ同様もう全滅の危機となるのです。そして蜜蜂を噛み殺した後は、肉団子にして巣に持ち帰るのです。 オオスズメバチは獰猛で、襲われ刺されると命にも関わる猛毒を持っているのです。その為、防護には万全を期さなければなりません。もちろん長ズボンに長靴、長袖の上に網ジャンパーを着て、厚手のゴム手袋、フードを被りその上に面布という完全防備で、当然肌の露出面はなし。西洋ミツバチ巣に近づくオオスズメバチを1.5m程の柄のついた虫取り網で捕まえたのです。勿論 超緊張の一瞬なのです。捕まえたら、そのまま網を長靴で踏み、オオスズメバチを踏み殺すのです。土曜日には4匹、そして昨日は3匹、合計7匹を捕殺。頭:オレンジ色、胸部:黒色 腹部:オレンジと黒の縞模様と危険色の塊です。腹部のみの死体でも触ると反応して刺してくるため、絶対捕獲直後には触ってはいけないのです。しかしながら捕獲し損なうと、攻撃性が高まりますので積極的には捕獲することはやめた方が良いと考えている『素人養蜂家』なのですが・・・・・・・・。
2010.09.27
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク今日は妻と午後から『藤沢市民まつり』の大パレードを見学に藤沢駅周辺まで行ってきました。第37回を迎えた『藤沢市民まつり』は、市制施行70周年記念事業として9月25日(土)・26日(日)に開催されたのです。今年の大きな特徴は、「ふじさわ屋台村」が市民会館前広場と奥田公園多目的広場で25・26日の両日行われたとのこと。そして今日は、藤沢駅南口と北口で大パレードです。友好姉妹都市の保寧市(韓国)が来藤し、パレード参加とサンパール広場に出展。サンパール広場では名物の韓国海苔の味見と販売をしていました。藤沢駅に到着してみると、すでに駅前から賑やかな太鼓と鉦の音が聞こえてきました。既に南口ロータリーでは御輿の大パレードがスタートしていたのです。南口パレードの最後は地元川名町の山車、山車の上には鎌倉権五郎平景政の像の飾りが。人形山車と共にお囃子(川名屋台ばやし)がロータリーを練り歩いていました。ついで藤沢駅構内を横断して北口へ。サンパール広場ではミニコンサートが行われていました。そして屋台では金魚すくいを楽しむ子供達の姿も。しかし真剣なのは子供よりもお父さん達?北口道路ではすでにお囃子のパレードがスタートしていました。トラックに乗り込み祭囃子(まつりばやし おはやし)の演奏のパレードが。囃子の奏者は祭りを主催する神社や寺社の氏子や檀家の人々と子供達。和太鼓、笛、、鉦の3種が軽やかにその地域特有のお囃子を奏でていたのでした。先週頃から我が家にも聞こえてきたお囃子の音はこの氏子のお囃子だったのです。いろいろなユニークなお面を被り舞う人たち。地元白旗神社の御輿も。この白旗神社の近くに伝源義経公首洗井戸があるのです。腰越浦での首実検の後、境川に捨てられ流れ着いた義経の首がこの地に葬られたという伝説の場所なのです。そしていかにも重そうな大きな御輿。神輿を激しく振り立てていました。神の霊威を高め、豊作や大漁を願うものなのです。そしてパレードの最後には清掃用のパッカー車と小型トラックが。約2時間にわたる、山車、お囃子、御輿のパレードを大いに楽しんだのでした。目の前を通過する神輿全てに、日本の伝統文化と様式美、礼節や作法が息づいており、この祭りや神輿を通して日本人の魂を子供達に伝えていきたいと願っているのです。
2010.09.26
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我が社の健康保険組合主催の『マップウォーキング』に申し込み、先日万歩計と記録表が送られてきました。 http://www.yamasa-tokei.co.jp/seihin/furiko_takinou/mp_400.html より今回の歩数計は、歩数、歩行距離、歩行時間、時計の機能付き。私の歩幅は75cmですのでこの値にSETしたのです。10月から来年2月までの5ヶ月間、毎日の歩数を記録するのです。万歩計と書きましたが, 厳密には歩数計(英語ではペドメター)と言うのが一般名称。運動不足解消のために一日一万歩あるこうと言うスローガンが提案された昭和40年に(株)山佐時計計器が万歩計と言う商品を販売し、その名前が広く普及したために、今では歩数計のことを誰もが万歩計と呼んでいるのです。万歩計は歩いた歩数を測る器械ですが、その本質は振動計。 よって万歩計を腰 につけて歩く時に、腰がしっかり振動すればその振動の回数を正確に測定してくれるのです。そして万歩計の如く 一般名称 と思っている名称には、実は 登録商標 であるものがたくさんある事を知ったのです。 http://manpokei.net/qa/2010070101.html より ウォーキングは最も手軽に出来るスポーツで、運動強度もそれほど高くなく、年配の方や運動が苦手な方にはお薦めなのです。今やウォーキングは人気の高いスポーツの1つではないでしょうか。実際ウォーキングを行っている人の数は年々増え続けているとのことです。ウォーキングは運動不足を解消し、生活習慣病を予防したり体脂肪を燃焼させるなどダイエット効果もある有酸素運動の1つなのです。この時間も冷たい風の中、私の家の前をウォーキングされている方が窓越しに見えるのです。目標10,000歩/日と言いたいところですが、あまり欲張ってもいけませんので5,000歩/日でスタートしたいと思っています。来月中旬にはネパールのカトマンズ、ポカラ他の旅に出ますので、この地でのミニトレッキングで、周りの美しい山々の景色を楽しみながら歩くことによって歩数を伸ばしてきたいと思っているのです。
2010.09.25
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昨日は秋分の日、暑さ寒さも彼岸までと言いますが、今までの暑さは何処にいたのでしょうか。 昨日は雨もありかなり温度が下がり、半袖一枚では寒いくらいでした。秋分は二十四節気のひとつで、太陽が真東から昇って真西に沈み、昼と夜の長さがほぼ同じになるのです。秋は秋分の日(彼岸の中日)を境に日が短くなっていき、秋の夜長に向かっていくのです。つまり、太陽の出番がどんどん短くなるので、暑さも和らいでいくわけです。春はこの逆。しかし、昼と夜の長さが同じだからといって、春分と秋分の気候が同じになるわけではないのです。暑さの名残で秋分のほうが10度以上も気温が高いのですが、厳しい暑さや寒さも目処がつく頃なので、「暑さ寒さも彼岸まで」といわれるようになったのです。しかしこれは日本にいるからこそ実感できるのであって、一年中真冬であるような地域や、その反対に、一年中真夏であるような国に住んでいては、何のことか解らないのではないでしょうか。日本には美しい四季があり、四季それぞれの変化を楽しむことが出来る事に感謝なのです。そして我が家にはクーラーという冷房設備が全くありませんが、冷房設備が完備されているような家に住んでいると、夏でも暑さに苦しむことはないのでしょうが・・・・・・・・・・。 ところで妻がおはぎを作ってくれました。春には『ぼたもち』、そして秋には『おはぎ』と呼ぶのです。ぼたもち(牡丹餅)は、牡丹の季節、春の彼岸に食べるものの事で、あずきの粒をその季節に咲く牡丹に見立てたものと。一方、おはぎ(お萩)は、萩の季節、秋の彼岸に食べるものの事で、あずきの粒をその季節に咲く萩にに見立てたものなのです。餡とすり胡麻の2種類を作ってくれました。先日は片瀬の龍口寺のぼたもち供養のお祭りに行ってきましたが、この時は出足が遅かったため、撒かれたぼた餅を拾うことは出来ませんでした。このぼたもち供養のお祭りは(先日もブログに書き込みましたが)、日蓮が鎌倉の龍ノ口の刑場へ引き立てられていった際、急を聞いた桟敷の尼が、なにか最後のご供養をと考えたが、急であったため餡をつくる時間が無く、きな粉と胡麻をまぶして牡丹餅を作り日蓮に献上したのです。日蓮は、難を免れ佐渡に流罪となったのですが、この故事にちなみ陰暦9月12日、日蓮宗では「御難の餅」という胡麻のぼたもちを作って供えるのです。また「難除けぼたもち」「首つなぎぼたもち」などと呼ばれているのです。やや甘さ控えめのおはぎ、ひと味違う手作りあんこを楽しんだのでした。ミョウガの吸い物も一緒に楽しんだのですが、食べる前から『物忘れがひどくなり』デジカメのピントをしっかり合わせることを忘れてしまったのです。そして今日は再び仕事に、そしてまたまた休み。今秋は飛び石に3日働いて前後5日は休日と『棚からぼた餅』的な、いわゆる『タナボタ』の1週間なのです。
2010.09.24
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まだまだ残暑が厳しいですが、我が家の庭・農園では、秋の果実たちが実っています。 今年も柿の実が大きくなってきました。昨年枝下ろしをしたのでどうかなと思っていましたが思いの外の数の実が付いています。まだ青いですが・・。柿には「甘柿」と「渋柿」がありますが、これらの違いは渋み成分「タンニン」が口の中で溶けるかどうかで決まるとのこと。溶けると渋くなり、溶けなければ甘くなるのです。実が幼い頃にはどちらも渋みが溶ける「可溶性」タンニンを含みますが、甘柿は成長過程でタンニンが「不溶性」に変化して口の中で溶けなくなり、渋みを感じなくなるのです。渋柿が甘くなるのは、アルコールや炭酸ガスを使って処理することで、タンニンを可溶性から不溶性に変化させているからなのです。なお干し柿にすると、渋みは自然に抜けるようです。もともと柿は中国が原産で、日本には「古事記」や「日本書紀」に柿の名前が記されていることから奈良時代には登場していたと。現在のような柿が日本で栽培されるようになったのは明治時代から。干し柿は、平安時代にはすでに作られていたようです。その記録は平安時代の法典「 延喜式 」に残されているとのことです。我が家の柿は富有柿でしょうか。形はふっくらと丸みがあり、熟すると果皮はオレンジ色。果肉はやわらかくて果汁も多く、甘みが強く旨いのです。完熟すると野鳥が狙いに来ます。この時期は妻と野鳥のけんか?が始まるのです。『鳥に先に盗られた、まったく・・・・』と。そして農園の隅に植えてあるミカン。ミカンには「有田ミカン」や「愛媛ミカン」・・・・・などいろいろありますが、これらはどれも「温州ミカン」のことを指すのです。ミカンのおいしさは、含まれている糖と酸の量・バランスによって決まるのでしょうか。糖度が高いことは重要ですが、酸の量も同様に味の決め手になるのでは。皆さんはミカンをどの様に食べていますか?内皮を丸ごと食べる人と食べない人で個性も分かれているのです。私は前者。また、むき方も「へそ」からむく方法と、へたからむく方法と、刃物で切る方法・・・とさまざまなのです。こちらも私は前者。やや黄色くなり始めた実もあります。秋の実りを眺めながら収穫できる日を楽しみにしている『アラカンオジサン』なのです。
2010.09.23
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我が家の庭や畑に生えているホウキグサが花を付け終わり小さな実を着け始めています。高さ70~100センチになり、細かく枝別れして、円錐状に茂っているのです。剪定をしなくても、丸い非常に見事なそして美しいな形に育っているのです。春先から夏の間は目に涼しい存在、そしてフワフワこんもり感が良いのです。去年生えたホウキグサのこぼれ種が、あちこちで育っているのです。しかしホウキギってよく増えるのです。今年は去年の倍以上の数が育っています。和名は『ホウキギ』、別名『コキア』、『ベルテーレ』、『ネンドウ』とも呼ばれています。青い朝顔がからみついています。秋が深まって行くにつれ枝葉は赤くなり、実は『トンブリ』と言う食用になるのです。秋田の名物。私は食べたことがないのですが、ほうきぐさの種を40分くらい煮てから水を切り、12時間おき、よくもんで皮をむいて利用するのだそうです。「陸のキャビア」「オカキャビア」ともいわれているのです。しかし、一般家庭でなった果実を食べるには、一度煮て、一粒一粒、果皮を取らなければならないため、非常に面倒なのです。そして我が家のものは実があまり大きくなりませんので、食用のものとは種類が異なるのでしょうか。夏は爽やかなグリーン色の葉ですが、秋が深まり真っ赤に紅葉・変身する姿を楽しみにしているのです。
2010.09.22
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8/11に種苗箱に種蒔きを行い9/5にポットに移植しておいた冬野菜の畑への定植をこの3連休で行いました。穴あき黒マルチを敷設しブロッコリーの定植です。マルチは地温の上昇と雑草の防除が目的なのです。猛暑の中のポットへの移植でしたが、毎日水まきを行いここまで順調に成長しました。花が咲く前、つぼみの形がくずれないうちに収穫するのです。中心の頂花蕾(ちょうからい)を収穫後、わき芽の側花蕾(そくからい)もどんどん出てきますのでこれも収穫できる効率的な野菜なのです。続いて白菜。所々青虫やバッタに葉を食べられてしまいましたが大丈夫でしょう。かたく結球した無病のハクサイを作るのに一番大切なことは、適期に種まきし、健全な苗を作り、有機質を十分与えた肥よくな畑に植えつけ、害虫防除を怠らないことなのです。 まき時は酷暑が過ぎたすぐの頃。早まきし過ぎると暑さで育ちにくく、遅れると寒くなるまでに十分な葉数(70~100枚)と葉の大きさが確保できず、ゆるい結球の小玉になってしまうのでなかなか微妙な野菜なのです。キャベツ。こちらは1列にしたためマルチ無しとしました。ことらも葉を少し食べられてしまっています。そしてカリフラワー。昨年は黄色や紫のものの苗を購入し定植しましたが、今年は白いものだけを種蒔きし定植しました。やや小振りですが元気に成長して欲しいのです。早くから人々に親しまれながら、仲間のブロッコリーに押されて消費は減少気味でしたが、最近は見直されて人気も回復傾向とのこと。色の白さと歯触りが身上ですが、いろいろな色などの品種も加わり、用途も和・洋・中と広がって、育てる楽しみも多くなってきたのです。ロマネスクも種蒔きし移植しました。ブロッコリとカリフラワーを掛け合わせてできた野菜で、"ロマネスコ"、"ブロッコフラワー"と、いろんな名前が付いているようです。幾何学的に非常に面白い形の「フラクタル野菜」なので、毎年栽培しています。11月初旬から12月中旬頃が収穫時期です。今から楽しみなのです。その他に、ニンニク、エシャレット、ワケギ、ほうれん草、赤子蕪の種蒔きも行いました。今週中には雨も期待できそうですので、早めに芽が出て成長して欲しいと願っている『休日菜園家』なのです。
2010.09.21
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養蜂の師匠のYさんから、『わいわい市場』が建設中であり、木造建築のようだとメールをいただいたので、昨日いつもの早朝散歩ならぬ『早朝散輪』に現場まで行って来ました。途中我が子供達が通った小学校の屋上に太陽光パネルが設置されていることに気がつきました。いつから発電を開始していたのでしょうか?建設場所は国道467号線を藤沢に向かって"藤沢養護学校入口"の信号の左側あたり。目安となる建物は"藤沢生コン会社"と"山田うどん亀井野店"、との間。都市農業活性化拠点施設整備事業の看板が。現在寒川町にある「わいわい市」に次で2番目となる大型直売所が設置されるとのことです。わいわい市場はJAさがみがやっている、農家達がその日の朝に収穫し持ち寄った新鮮な野菜などを販売する直売所。野菜だけでなく、花や苗、餅、弁当、惣菜・・・・・、いろいろなものが販売される予定なのです。わいわい市場の魅力は、農家の個性が出ていること。スーパーではお目にかかれない珍しい野菜も出店されるのです。いわゆる国土交通省『道の駅』のJA番なのです。この地は我が家から直線距離で300m程、昔から農業が盛んで、農業景観が残されており、国道沿いでアクセスがよいことがこの場所を選んだ理由なのでしょう。当初計画として売上高5億円、年間来店客数48万人を見込むとのこと。仮設足場越しに木造の建物であることが確認できました。約1haの敷地には集出荷施設(1階・720平方メートル)、撰果場施設(2階・720平方メートル)、農業用倉庫(350平方メートル)、産地形成促進施設(350平方メートル)、直売所施設(800平方メートル)の設置が予定されているとのこと。集出荷施設の基礎部なのでしょうか。事業予定は22年6月1日から12月28日と表記されていました。よって開店は来年正月明けからなのでしょうか。私は現在JAの会員ではありませんが、趣味の農園で収穫した野菜や我がミツバチ達が地元の花々から集めてきた蜂蜜を、このわいわい市場に置かせてもらうことが出来ないかと考えている『アラカンオジサン』なのです。
2010.09.20
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あの夏の朝は何処に行ったのでしょうか。朝夕がだいぶ涼しく少しずつ秋めいてきました。まだ日差しは夏の名残があるものの、風は爽やか。我が農園の近くの荒れ地にも『ネコジャラシ』の姿が多く確認出来るようになりました。ブラシのように毛の長い穂の形が独特な雑草なのです。しかし『ネコジャラシ』は俗称。正式名はエノコログサ(狗尾草)。夏から秋にかけてつける花穂が、犬の尾に似ていることから、犬っころ草(いぬっころくさ)が転じてエノコログサという呼称になったとされ、漢字でも狗(犬)の尾の草と表記するのです。猫じゃらしの呼称は、もちろん、花穂を猫の視界で振ると、猫がじゃれつくことから。そして昨日訪ねたホームセンターの近くには早くも秋の七草の一つ、赤い萩の花が咲いていました。秋の七草とは次の7つのことで、秋を彩る植物として親しまれているのです。・萩(ハギ)・桔梗(キキョウ)・葛(クズ)・藤袴(フジバカマ)・女郎花(オミナエシ)・尾花(オバナ/ススキのこと)・撫子(ナデシコ)子供の頃に"おきなはすくふ"(「沖縄救う」の旧仮名遣い)と覚えろと言われた記憶がありますが。春の七草は七草を食べて無病息災を とされていますが、秋の七草はその花を眺めて楽しむもののようです。そしてホームセンターの園芸コーナーにはこれも秋の七草である桔梗(キキョウ)の青紫の花が。そして我が家の庭のフェンスには依然として毎朝琉球朝顔が先続けています。「オーシャンブルー」「宿根アサガオ」など多くの異なる名称があるのです。草勢はきわめて強健で、蔓は驚くほど伸び、垣根や家の壁面などをカーテン状に覆い尽くすのです。葉もアサガオより大きく掌大で、花は多数が房咲きし壮観。時刻と気温によって花の色が変化し、早朝は青く昼は紫になるのです。アサガオのように結実しないので種を取ることはできず、挿し木で繁殖させる花です。蔓の拡がりが旺盛すぎて我妻の評価は今一なのですが・・・。そして先日行った果樹園の梨。「実りの秋」という言葉にふさわしく、様々な果物が旬を迎えるこの季節。秋を満喫しに、ぶどう狩りなどに赴く人も多いのではないでしょうか。そして我が家からの秋の夕焼け。秋の空は空気が澄み夕焼けが美しく、また日の長かった夏から徐々に日没が早くなっていくため夕焼けをとくに意識しやすいのでは。清少納言も『枕草子』のなかで「秋は夕暮れ 夕日のさして山の端いとちかうなりたるに、からすのねどころへ行くとて三つ四つ、二つ三つなど飛びいそぐさへあはれなり」と記しているのです。辞書によると、古語「あはれなり」⇒感慨深いという意味と。【感慨深い】は・ ・しみじみと深く感じている と。そして源氏物語には「あはれなり」が931も現れるとの事。これぞ日本文化を「もののあわれ」とする見方、ワビとサビの文化のもととなる感じ方なのでしょう。自然・芸術などを楽しみながら、しみじみとした情趣や哀感『もののあはれ』を、これからも感じながら生きて行きたいと思っている『アラカンオジサン』なのです。
2010.09.19
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今月も東京電力さんから『電気ご使用量のお知らせ』が届きました。 使用期間:8/17~9/15(30日間)使用量合計:353kwh 昼間:10kwh 朝晩:134kwh 夜:209kwh請求予定金額:5,835円先月6,009円から174円の減額となりました。東京電力さんへの売電金額25,296円は発電開始以来の3番目の記録となりました。(京セラ 5.76KWH 南東 20度) 発電開始以来の月別売電金額の推移です。もちろん2009年12月分からの固定売電金額=48円/KWHが大きく貢献しているのですが今後の売電金額増加が楽しみなのです。 先日の新聞報道で以下の記事が目に留まったのです。「三洋電機と両備グループは、太陽電池を搭載した未来型バス『SOLARVE』(ソラビ)を共同開発した。太陽電池を搭載した大型バスは世界初。ソラビの車名は「ソーラービークル」の略。両備グループは創立100周年を記念して2台のコンセプトバスを導入する。このうち1台が今回の環境未来型ハイブリッドバスのソラビ。 http://response.jp/imgs/zoom/278402.jpg よりソラビには、三洋電機の420Wの高効率HIT太陽電池と、薄型で丸い角などの形状加工に優れた378Wのアモルファスシリコン太陽電池アモルトンをバスの屋根に搭載する。日中の太陽光のエネルギーを電気に変え車内の照明用LED電灯の電気として使用する。クリーンエネルギーを有効活用することで、燃費の低減も図れる。車内LED照明は無日照時でも約9時間の連続点灯が可能。」数年後にはJR車両の屋根、そしていつの日か上部に日光を遮断する邪魔ものがない線路にも太陽光電池が一面に張られている姿を思い浮かべている『太陽光発電所長』なのです。
2010.09.18
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初夏に薄紫色の花を咲かせた【コムラサキ】、この時期に、垂れた枝に紫色の小球形の果実を多数付け始めています。コムラサキと似た花に、ムラサキシキブ(紫式部)がありますが、通常、家庭の庭で見られムラサキシキブと呼ばれるものは、実際には、コムラサキであることが多いとのこと。私も以前はこの木をムラサキシキブと呼んでいたのです。ムラサキシキブは果実が比較的疎らに付きますが、コムラサキは固まって付くのです。葉の鋸歯もムラサキシキブは全葉にありますが、コムラサキには上半分にしかないのです。薄い紫の美しい実をつけています。まるで小粒の甘い菓子のような、なにか形容し難い不思議な色合いなのです。樹木の実の中では特異な色であることと、実つきも良好なことから庭木として多くの家庭で植えてあるのではないでしょうか。アップにすると、秋の味 完熟ぶどうデラウェアに似ているのです。まだまだ緑の実のものもあります。深まる秋に向けてお色直しの準備をしているのでしょうか。漸く猛暑の夏が終わり、ここ数日涼しい日々が続いています。"コムラサキ"の実の艶やかな紫に、移りゆく時の流れを感じながらも、常にみずみずしい感性と好奇心を保ち続けていたいと感じている『アラカンオジサン』なのです。
2010.09.17
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我が家の庭の『酔芙蓉』が今年も花を開き出しました。早朝から真っ白に咲いた一重の酔芙蓉の花です。1 本の雌しべの先端は 5 つに分かれ,雌しべの下の方に雄しべがついています。よく見ると雄しべの芯が黄色、雌しべは赤い縁取りとなっています。そして 昼には薄いピンクに、中国で「芙蓉」といえば「蓮」のことで、「芙蓉の顔(かんばせ)」とは、蓮の花のように清楚で美しい顔、美女のたとえ。日本では「蓮」を「芙蓉」と呼ぶ習慣はないのです。 夕方には濃いピンクや紅色に変わります。この様を,酒飲みの顔がだんだん赤くなってくることにたとえて「酔う芙蓉」⇒「酔芙蓉」ということからつけられた名前です。それにしても、昔の人たちは粋な命名をしたのです。ほろ酔い加減の色、「わたしを酔わせてどうするつもり?」とテレビのコマーシャルがありましたが。 高橋 治の小説「風の盆恋歌」には、随所随所に象徴的にこの酔芙蓉の花が登場します。越中八尾(やつお・富山県)の風の盆を舞台に男女の話。熟年になってふと燃え上がる人妻の死に至る破滅の恋をまさに象徴しているのです。別の方のブログ記事によると、八尾町で「酔芙蓉」が多く見られるようになったのは、フジテレビ系列で放送された「風の盆恋歌」(1985年)のテレビロケ以後とのこと。ロケ当時は八尾町や近隣からも「酔芙蓉」を調達できず、東京から取り寄せたと。雪の八尾町では直植えで越冬させることも「風の盆」期間中に花を咲かせることも難しいのだと。真っ赤になって咲き終わり、丸く萎んだ花。疲れた気怠さが感じられます。1日花はたった1日で咲き終わってしまうので、はかなげな感じがするのです。そのかわりたくさんのつぼみがついていて、次々と新しい花を咲かせ続けるのです。純白な若い花と、熟年の真っ赤になって萎んだ花が並んでいます。それにしても、朝から飲み出して昼過ぎにほろ酔い、夕方にはできあがって日暮れとともに眠るとは羨ましいご身分なのです。私もあやかりたいもの、しかしこの花は1日花 明日がないのです。そして下の歌を思い出している『アラカンオジサン』なのです。【風の盆恋歌】 作曲/三木たかし 作詞/なかにし礼 唄 / 石川さゆり蚊帳の中から花を見る 咲いてはかない酔芙容若い日の美しい 私を抱いて欲しかったしのび逢う恋 風の盆
2010.09.16
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク江の島の散歩の後、徒歩で20分ほどの龍口寺(りゅうこうじ)に向かいました。日蓮聖人入滅ののちに、直弟子だった日法聖人が1337年に寂光山龍口寺と称し寺を建立したのが始まり。大本堂と県内唯一の本式木造の五重塔は神奈川建築物百選に選定されているのです。毎年9月11日~13日の間、ここ龍口寺において『法難会』が開催されるのです。龍口寺は、「立正安国論」を唱えた日蓮上人が、幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、現在の寺のある場所、腰越龍ノ口刑場にて処刑されかけるが、処刑を免れ、その後の評定の結果佐渡へ流罪となったのです。そして今年はその時から740年目に当たるのです。日蓮上人が1271年9月12日にこの刑場に引き立てられ、いざ処刑というときに江の島の方から光が輝いて斬首役人の目をくらませ、上人は危ういところで斬首から逃れることができ、これを龍の口法難と呼ばれているのです。9月11日~13日にかけて盛大な法要が営まれ、万灯籠数十基が灯され、門前には夜店が並び、厄除けぼた餅が撒かれるのです。このぼた餅撒きは、日蓮上人が龍の口の刑場へ引き立てられて行く時に、桟敷にいた尼僧が仏の加護を願って胡麻のぼたもちを差し上げたところ、その法難を避けられ斬首から逃れることができたという故事に由来するとのことです。境内の階段を上がり本殿に近づいて見ると、既に本殿内部には多くの人々が集まって来ておりこのぼた餅を食べると年中無事のご利益があるといわれている為、ぼた餅が撒かれるのを待ちわびている様子。小さな胡麻のぼた餅が2個、これも小さなビニール袋に入れられ撒かれるのだと妻の言葉。妻はこの寺の付近で生まれ子供の頃からこの祭りに慣れ親しんでいるのです。7時前に漸くぼた餅が撒かれ一時本堂入り口部は騒然となりましたが、けが人もなく撒き始めると一分くらいで終わってしまったのです。餅を確保しようとする大人たちで大混雑のなかでの空中キャッチは難しく、床に落ちたものを拾う事に専念した子供たちの方が確実であったのでは とこれも妻の経験談が。そしてしばらくして遠くから鉦と太鼓の音が聞こえてきました。漸くこの夜のメインエベント、「万灯練り供養」が始まったのです。「万灯練り供養」は鎌倉や東京池上などの寺院の檀徒が次々に本堂に訪れるのだと。先頭の者が、江戸の火消し衆が参拝する折りに始めた纏を勇壮に振い、そのあとを摺鉦や太鼓、横笛など軽快な音色を奏でる人達、そのあとに花をあしらった山車が続くのです。各地から集まった数十基が続々と続き本堂を目指して練り歩いて来たのでした。そして本道の手前でアップテンポになり、纏を操る人のベストパフォーマンスを披露するのです。クライマックスは「万灯」と呼ばれる花笠状の飾りと一緒に纏いを翳す若い衆。子どもたちも一緒にドンツクドンと練り歩くのです。この日は日曜日とあってごった返す賑わい。県道沿いや寺の前の空き地には各種の多くの屋台が。残暑厳しき中、湘南のこの時期の最大の夜祭りに今年も大いに感動し、その華やかな纏の動きとお囃子の音の去った中に、秋の気配を感じさせる静けさの余韻を楽しみながら家路へと向かったのでした。
2010.09.15
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク日曜日に妻と江の島へ早夕散歩に行ってきました。小田急線に乗り15分で終点片瀬江ノ島駅に到着。ここで隣の駅の鵠沼海岸の『鵠』の字に注目。『鵠』とは訓読みで「くぐい」と読み白鳥の古名。かつてこの辺りには沼が多くあり、そこに鵠(くぐい)が多く飛来していたことが「鵠沼」の由来と。今は「牛」+「口」+「鳥」であるが、昔の漢字は「告」+「鳥」であったのが変更になったのだ。しかし牛+口よりも告の方が理にかなっていると考えるが、何故現在の字になったのであろうか?「鵠」の字は国内で鵠沼の地名で使う以外に使われていないのでは思っていたが、あにはからんや、下記の如き地名があることが解ったのであった。 ふりがな漢字地名県名経度 緯度掲載地形図名くぐい鵠徳島134゚37'E/33゚51'N馬場/橘くぐいがわ鵠川徳島134゚37'E/33゚51'N馬場/橘くぐいど鵠戸茨城139゚52'E/36゚02'N水海道/宝珠花くぐいどぬま鵠戸沼茨城139゚52'E/36゚02'N水海道くげぬま鵠沼神奈川139゚29'E/35゚19'N江の島※鵠沼海岸・本鵠沼などの住所表記も出てくるが、周知なので省略する。こうのしり鵠ノ尻石川136゚46'E/37゚21'N皆月こうのす鵠ノ巣石川136゚57'E/37゚23'N輪島こうのもりやま鵠ノ森山岡山133゚30'E/34゚46'N高梁 http://kugenuma.sakura.ne.jp/k094b02.html より小田急線片瀬江ノ島駅から江の島に向かう途中の境川に架かる橋からの江の島の眺め。「江の島」「江ノ島」と表記には違いがあるが、市により正式な地名としているのは「江の島」なのである。江ノ島電鉄や小田急江ノ島線の駅名はそれぞれ「江ノ島駅」「片瀬江ノ島駅」であるが、湘南モノレールの駅名は「湘南江の島駅」なのである。一方、神社名は江島神社で「えのしまじんじゃ」と読ませるのだ。あまりとやかく言わずにこれも重い歴史の為せる産物と理解したい。 江の島の玄関口「青銅の鳥居」をくぐり、参道を登る。途中、干物や海苔、相模湾の海の幸はもちろん、夫婦饅頭や羊羹、貝細工の土産物店をはじめ、老舗旅館が左右に。行列が出来ている店があった。見事にタコがプレスされた、丸焼きタコせんべいを売っている店。朱い鳥居の奥には龍宮城の入口のような瑞心門が見える。今回は江の島名物エスカー(昭和34年に運行開始した国内初の屋外エスカレーター)には乗らずに徒歩で江ノ島展望灯台へ向かう。途中、旧江の島植物園の中に大きな果実がぶら下がっている植物を発見。これは実ではなく芭蕉の花。花の元の方にはバナナに似た小さな実を付けているが、秋にはどの様になるのだろうか。展望灯台からの眺め。苑と同じく平成15年にリニューアルされた。高さは59.8mあり、その斬新なスタイルは江の島の新しいシンボルとして親しまれているのだ。スチール製のフレームのみで囲まれ、その中心にあるエレベーターの周囲を取り巻くように螺旋階段がぐるぐると続いているのだ。高さ42mのところにガラス張りの展望フロア、さらにその上には屋外展望台があり、富士山や丹沢などのワイドな眺望が楽しめるのだ。しかし残念ながら雲がかかり、勇壮な富士山や夕焼けはこの日は諦めなければならなかった。灯台の下のレストラン横のテラス下には太陽光発電のパネルが並んでいた。この発電を蓄電してで灯台のライトアップ?まさか・・・・・・・・・・・。振り返ると灯台のライトアップが始まっていた。参道を下っていると、途中懐かしき同級生の女性と再会。5分ほどご主人の話(同じ同級生)や10月に開かれる予定の同窓会の話で盛り上がった。歩道専用の江ノ島弁天橋からの江の島灯台、既に暗くなり灯台の光は鮮やかになってきていた。この時間でもまだまだ江の島へ向かう観光客の多さに驚く。江の島の夜景を楽しみながら、この日の主目的である龍口寺の大祭(日蓮 龍の口法難会)見物に向かったのであった。
2010.09.14
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我が養蜂場の農園の隣で定年後農園作業に専念されているご近所のSさんから落花生をいただきました。見事に成長した落花生の畝です。落花生は、マメ科ラッカセイ属の一年草で、別名はナンキンマメ(南京豆)、英語では、ピーナッツと呼ばれています。原産地は南米のボリビア、アンデス地域といわれています。落花生の栽培の歴史は古く、ペルーのリマ近郊の遺跡からの出土品により、紀元前850年頃には既に栽培されていたそうです。日本には中国を経由して1700年代初頭に渡来し、当時は南京豆と呼ばれていました。落花生の名前の由来は、花が地中に落ちて、そこから豆が生まれる事から名付けられたのです。落花生の花がこの時期でも付いていました。なんとなくパンジーの花の一部分のように見えますが、可愛らしい花です。花が終わると子房柄(しぼうへい)と呼ばれるものが伸びて土に刺さり、この先に莢が出来て結実するのです。子房柄とは、雌しべの一部で、受精後針のような根が茎から伸びてきます。下の写真の釘の様に伸びているものが子房柄といわれるものです。これがだんだん伸びて土の中に入ってその先端に落花生の莢をつけるのです。南京豆は地上に実っていると思っている方も多いのではないでしょうか。高いところに咲いた花から伸びた子房柄に付いた可愛い落花生が見つかりました。実の上に長い蔓のようなものが見えます。花が咲いてから3ヶ月程度で収穫時期となります。20分ほどもぎとり、たくさん収穫できました。土付きの落花生はできるだけ早く、さやごと水洗いします。両手でさやどうしをこすりつけるように洗うのです。何度か水を替えてきれい洗いました。Sさんの話では、、手間を短くするために圧力鍋で5分程度茹でると美味しいとの事でした。茹で上がった【茹でピー】。農園主だけが楽しめる堀り立ての風味なのです。芋のような、そして甘く柔らかく絶品、小さな白いものは殻ごと食べられるのです。ビールのつまみには最適、至福の時間でした。大自然というのは偉大なのです。じっと待っていれば自然に落花生ができてしまうのです。実が地中にできることから、虫にねらわれる心配も少なく農薬散布なしでも栽培できるのです。今回は頂き物でしたが、家庭菜園のすばらしさを再認識した『趣味の農園主』なのです。
2010.09.13
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ここ尼崎は鎌倉時代には海人崎(あまがさき)と書かれ、漁民、海民の崎を意味していたとのこと。お寺の尼さんのアマではないのだ。それほど海運や漁業に恵まれた海辺の城下町であったのだ。寺町の西の方に進むと、長遠寺の白壁が。長遠寺は寺町にある日蓮宗の寺院。道路右側は昔ながらの寺院があり、狭い石畳みの道路の左側には現在の住宅地があるというなんとも不思議な光景。長遠寺は本堂が国の重要文化財。客殿、庫裏、鐘楼は県の重要文化財。本殿は1623年の改築と。多宝塔は円筒形の塔身に四角形の屋根をかけた宝塔に裳階(もこし)をつけて重層にした仏塔の一形式とのこと。長遠寺のものは比較的小規模なもので、高さ15m程度の2層、本瓦葺。軒のそりの形が見事であった。江戸時代初期の建築で、軒下の組物などがよく原形を残しているとのこと。本堂横の白壁には朝日を浴びた木々の陰が映ってまたまた水墨画の世界を表現していたのである(最近これらの写真に凝っている自分に気づく)。そしてこれも同様。そして何処のお寺の入り口にあったかは失念してしまったが下の写真の如きカレンダーが貼り付けてあった。絵と文は、仏画伝道の活動をしている荒了寛(あらりょうかん)氏の作品とのこと。「一言多かったか 一言足りなかったか 一言で 人生が変わることもある」Did I say too much or too little,A single word can change one's life.自分の言った一言で誰かが変わったという実感は少しは確かにありますが、他人に言われた一言によって自分の考え方が変わって、そのお陰で自分の生き方、考え方が変わったのではないか思う事は多々ある。この珠玉の言葉は心に響き残る言葉。ふとSUMISEI BEST BOOK?に載っていたある外国人?の言葉【心の奥底に達してあらゆる病を癒せる音楽、それは暖かい言葉だ。】を思い出していた。 庄下川沿いを阪神尼崎駅向かって歩いていくと赤煉瓦のクラシックな建物が現れた。英国から煉瓦を輸入して建設された歴史ある建物。これは阪神電鉄の旧尼崎発電所。1904年竣工とのことなので、100年以上経過。なお、今は発電所としては機能していない。【尼崎城址公園】へ足を運ぶ。尼崎城は、1610年代に5万石の大名として赴任してきた戸田氏により、約300メートル四方、三重の堀をもち、甲子園球場の約3.4倍に相当する敷地に築かれたとのこと。5万石の大名の城としては大きすぎる城を幕府が作らせたのは、尼崎城に大坂城の西を守る役割を期待したため。現在の庄下川も西側の外堀として利用され、沖からみると城全体が海に浮かんでいるように見え、美しく水に写る姿は「琴浦城」の名称で親しまれていたとのこと。城は本丸・二の丸・松の丸・南浜・西三の丸・東三の丸と渦巻き状に外へと広がり、中心の本丸には本丸御殿や4層の天守閣が建てられていたと。明治初めにに廃城が決まった後、城の建物は売却されたり取り壊され、堀も次第に埋められていったために、今では全くその姿を見ることはできなくなってしまったのだ。しかし、これまでの発掘調査では、地下部分に遺構が残存することが判明。震災の被害を受けた尼崎市立城内小学校の建て替え工事に先立つ発掘調査では本丸御殿の一部が発見されたと。 尼崎市立城内小学校はビックリするほど近代的な外観。城内小学校校庭にある、コンクリート製尼崎城天守模型。この模型も昭和15年製作で、相当な年代もの。そして最後にユニチカ記念館へ。ユニチカ記念館はニチボー(大日本紡績)の前身尼崎紡績が、操業当時、工場の総務事務所として使用していた建物を使っていたもの。そしてユニチカのあらゆる資料が保管されていると。市内に現存する最も古い洋風建築。煉瓦造り2階建て、設計は日本人のようだが、外壁を覆う赤煉瓦はイギリスからの輸入品。1964年の東京オリンピックで、日本中を感動させた金メダルチームというのは、ほぼ、このときの「東洋の魔女」日紡貝塚のメンバー。この時の記念の品々も2階に展示されているとのことだが、もちろん早朝の為入り口は閉鎖中。尼崎市は、東に大阪市、西に西宮市と隣接した阪神工業地帯の中心地。しかしながら歴史的には江戸時代に尼崎藩として城下町だったこと、そして寺町の如く多くの国指定の重要文化財がある街とは想像もしなかったのである。この日も新しい知識と感動の早朝散歩であったのだ。 そして何故か永六輔の【遠くへ行きたい】という曲の歌詞が昔から好きなのだ。知らない街を歩いてみたいどこか遠くへ行きたい知らない海を眺めていたいどこか遠くへ行きたい この歌詞そしてメロディと同じように、知らない街の風景とその感動、そして新たな知識を求めて早朝に歩き回っている好奇心だけは誰にも負けない?『アラカンオジサン』なのです。
2010.09.12
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富山から台風の中、なんとか羽田空港に戻り、その足で翌日の尼崎でのうち合わせの為 大阪伊丹空港へ向かいました。やはり到着便の遅れで離陸時間が変更になりましたが、何とか大きく揺れながらも、大阪伊丹空港に着陸。バスで尼崎まで約1時間でビジネスホテルへ。近くのお好み焼き屋で夕食。お好み焼きMIXとイベリコ豚のホルモン焼きを注文。もちろん生ビール付き。そして翌日は朝からのいつもの早朝散歩。台風一過の朝、雲も秋雲に変わっていました。駅前のホテルを出てまずは阪神尼崎駅へ向かう。この日は9月9日 『救急の日』。 厚生省(現在の厚生労働省)が1982年に制定。「きゅう(9)きゅう(9)」の語呂合せ。救急業務や救急医療について一般の理解と認識を深め、救急医療関係者の士気を高める日。駅前の消防署にも横断幕が。駅前の噴水の流れが、台風一過の涼しさを更に増してくれていました。兵庫県の南東端に位置する尼崎市。新大阪からも快速で20分程度の交通の便は非常に良い街。阪神電車も運行されている阪神尼崎駅ですが、JR尼崎駅とはかなり離れているのです。若い頃、市南部の工業地帯にある工場へ仕事で何回も通い、1ヶ月ほど常駐しましたがその頃は早朝散歩の趣味もなく、尼崎の街は全く未知。先ずは阪神尼崎駅から5分ほどの寺町へ足を進める。前日ホテルのフロント横のインターネットで早朝散歩コースの見当をつけておいたのです。尼崎といえば工業都市としてのイメージが強いのですが、江戸時代、尼崎は阪神間唯一の城下町として栄えていたと。現在も、その城下町としての面影を思わせるような建物が、市内中心部である阪神尼崎駅前に点在しているのです。この中でも代表的な歴史空間、それが寺町。11の寺が軒を連ね、国指定の重要文化財、7件をはじめ、県、市指定の文化財も戦火に遭わずに多く残されているとの案内板が。最初に本興時を訪ねました。尼崎寺町の中でももっとも大きなお寺。1420年に日隆上人によって創建された日蓮宗のお寺とのこと。本興寺三重塔、昭和49年建立 高さ27m 一辺5.7m。この塔はコンクリート造の地下室の上に建っているとのこと。日蓮聖人像。この朝は聖人も何となく涼しげなお顔。鐘楼は兵庫県指定文化財。阪神・淡路大震災の修復の際、天文年間の建物であることが判明したと。朝夕に梵音を響かせ、除夜の鐘でも有名とのこと。京都にいると錯覚するような大きな寺、そして早朝の静けさの中、歴史を感じさせる寺だったのです。--------------続く-------------
2010.09.11
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仕事で昼食は現場近くにある地元では有名な『手打ち専門店アラキ』へ。この日は2回目。この日も券売機の前には10人ほどの行列。やはり人気はは衰えていない。今回は、「みそホルモン中華」に挑戦。おろしにんにくが置いてあるので、午前中に客先との打合せが終わり、食後に客とは会う予定がないので、タップリと。 並盛りに挑戦しましたが、腹がいっぱいで、何もする気がなくなるくらいの大盛り。やはり残してしまいました。中華そばだけでなくそば・うどんもあり、全てが手打ち。毎朝早くから生地をこねて麺を打っていると。富山で麺のコシを楽しめるラーメン店といえばここしかないと現場の同僚の言葉。麺の量も自家製麺ならではのサイズ。具の「ホルモン」は内臓ではなくロースやヒレなどの肉を細切れにして煮たもので、普通のチャーシューよりもやわらかくあっさりとしているのです。 東京方面に台風9号が向かっているとのことで予約便より1便早い便に急遽変更。ただし特割Cの格安切符を購入していたため、キャンセル手数料を払い、新たに当日の普通切符を購入する羽目に。やはり特割Cはハイリスクである。案の定、到着便遅延で出発が遅れるとのアナウンス。空港ロビーには世界遺産、そして国指定重要文化財である五箇山の合掌造り『村上家』の1/10模型が。秀吉の天正年間に建設されたと伝えられており、戦国時代の武家造りから書院造りに移行する過渡期の様子を示すなど、多くの古風、古式の遺構が残っているのは、全国にその類を見ないといわれているのだ。以前、本物の村上家を訪れ家の中を見学したことを懐かしく思い出す。しばらく土産物屋を早夕散歩?。『ますの寿し』。富山県の郷土料理。駅弁としても知られ、鱒(サクラマス)を用いて発酵させずに酢で味付けした押し寿司の一種。木製の曲物(わっぱ)の底に放射上に笹を敷き、味付けをした鱒の切り身をその上に並べてあるのだ。曲物の中に笹で包まれた状態のものが1つのものと、2つ重なっているもの(二段重ね)の2種類があるのだ。そして同じく富山名物『細工かまぼこ』富山の細工蒲鉾は、古くから結納、結婚披露宴など、おめでたい席には欠かせない引き出物。富山の蒲鉾のもう一つの特徴は、板に乗っていない巻き蒲鉾。これは北前船が北海道から運んだ昆布を巻いたのが始まりとの理由。食感としては、いわゆる小田原を始めとする「板付き座り蒲鉾」と違い、「もっちり」とした食感が持ち味なのである。可愛らしい蛸の飾り蒲鉾が行儀良く並んでいた。おはら風の盆の人形。越中八尾にて毎年9月1日から3日にかけて行われるこのおわら風の盆は、今も昔も多くの人々を魅了しているのです。そして三味線と胡弓がなくてはならない楽器、特に哀調を奏でる胡弓の音色は この風の盆では主役。是非一度このおはら風の盆を生で見てみたいのである。そして2階待合室手前には富山ならではの薬屋さんが。富山の置薬で全国に知られる廣貫堂は、約130年の歴史があり、本社は富山市の観光名所。富山空港店では六神丸、熊胆円、赤玉はら薬などのなつかしい家庭薬が並んでいた。我が実家では私が子供の頃から、この富山の置き薬を置いていたのである。そして我が家は今でもこれを引き継ぎ中。なつかしき『ケロリン』。ケロッと治るから「ケロリン」。この鎮痛薬は、子供の頃何か痛みがあれば必ず飲まされた懐かしい薬なのである。X線荷物検査を受け搭乗待合室で座って待っていると、係りの女性が私に話しかけてきた。キャンセル料等を支払って航空券を変更したが、台風による遅延が発生したため変更無しの料金で利用できるようになったと。有り難いことである。支払った領収書等を手渡し、カードへの払い戻しと引き落としはキャンセルするとのこと。JALとの激しい競争の中でのCSの一環なのであろうか。15分ほど出発遅延の中離陸。羽田に近づくにつれ、左右上下に大きな揺れ。そして着陸と思いきや滑走路に滑り込もうとした瞬間、急激な再上昇。いわゆる『タッチアンドゴー』に近い状態を初体験。気流の乱れがあり再離陸との機長アナウンス。そして再び房総半島上空まで戻り再び着陸態勢へ。揺れは先程と同様に激しいものの今度は無事着陸に成功。久しぶりに機上での緊張の時間であった。
2010.09.10
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昨日朝の我が家から見えた朝焼けです。一般に「夕焼けは晴れの兆し」に対して「朝焼けは雨の兆し」と言われること が多いようです。天気が西から東へと移ることの多い日本では、朝焼けは、すでに通り過ぎた空に 雲がない(好天であった)ことを示します。つまり、そろそろ次の天気(=悪天 )がやってきますよという意味なのです。そしてやはり、昨日は台風がやって来たのです。しかし待ちに待った雨なのでした。これで今度の週末は冬野菜の種蒔きが出来そうです。昨日は小田急始発を利用しての出張。朝焼けの光景があまりに美しくて、慌ただしい早朝の時間でしたがしばらく眺めいってしまったのです。そして空の色合いがどんどんと変化して、ちょっと待ってくれ~~、慌ててデジカメを取りに部屋に戻り、消えないうちにシャッターをと、あわてて激写したのでした。
2010.09.09
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先日、養蜂の師匠が2回目のハチミツ絞りを行ったとブログに掲載されていましたので私も急遽、妻の援軍を頼み挑戦してみました。真っ白に蜜蓋で被われた巣枠。重さもズッシリ。妻が熱湯で加温した包丁で巣蓋を切り取ってくれました。これまでに何回か経験し腕も上達しています。採取したハチミツです。この春に採取したハチミツと比べて色がかなり濃いことが解ります。季節によりこの様な色の違いがあるとは感激であり驚きでした。妻は春のものの方が味がまろやかであると、私には余りよく解りませんが。
2010.09.08
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先日出張した山口県長門市青海島からの帰り道、道端の背の低い蘇鉄の木の真ん中にバスケットボール大のドーム状のグロテスクな白いボールを発見。健康食品(脳を活発にし、老人性ボケ・痴呆症を防ぐ)として最近話題を集めている『山伏茸』に似た海綿状の物体。近寄ってみると蘇鉄の雌花。雄花は知っていたが、この時期の雌花は見るのは初めて。9月下旬頃に赤い実が顔を出すのだ。この木は有毒で特に種子部分を大量に食べると吐気や痙攣を起こすと。戦前の沖縄で、極度の食糧難の中、十分毒抜きが出来ていないソテツの実を食べて、亡くなった方が沢山おられたと数週間前のテレビで知った。私が中学生時代?に聞いたバタヤン 田端義夫の「島育ち」の1節を思い出した。『赤い蘇鉄(そてつ)の 実も熟れる頃 加那(かな)も年頃 加那も年頃 大島育ち』我が庭の『棕櫚』の花といい、この『蘇鉄』といい椰子(やし)科の植物の花はいかにも不気味な姿なのである。
2010.09.07
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我が勤務地の東京・山手線大崎駅の近くの建設中のビルの外装がいつもと違うので す。 工事中のため、仮設設備と思っていましたが、実は違うようです。このビルが採用した新技術、日本の伝統的な風習である打ち水の効果で建物周囲の気温を約2℃下げようとの設計。打ち水効果で約50%の省エネになると。コンクリートやアスファルトが太陽光を吸収して熱を蓄えることなどが原因で、都市部の気温が異常な高温になるヒートアイランド現象を抑える効果を期待できるのです。時事ドットコムによると、『今年の夏は暑さが厳しく熱中症にかかる人が後を絶たない。消防庁によると、8月に全国で熱中症のため救急車で病院に運ばれた人が昨年8月の4.4倍となる2万8千人(速報値)に上ったと。全国規模での統計を始めた2008年以降で、最多だった今年7月の1万7750人をさらに1万人以上上回ったのだ。5月31日からの累計では計4万8304人となる。搬送直後に死亡が確認されたケースも前年同月比8倍の64人に上った』とのこと。この装置は、すだれ状に組み上げた陶器製の管の中にビルの屋根で集めた雨水を通ししみ出させる仕組み。ビルの地下に備えた雨水タンクからポンプで水を屋上に引き揚げて循環させると。ビルの東側の壁全体に配置した幅約140m、高さ約120mのすだれに流す水の量は、1日当たり最大20~30m3になると。不足した分は水道水で補給するとのことだ。管の表面にたくさん開いた小さな穴から水を蒸発させ、この際に周囲の熱を奪う性質(気化熱)を利用、外部の空気を冷却するしかけ。【気化熱】とは、液体が気体になるときに周囲から吸収する熱のこと。液体が蒸発するためには熱が必要でであり、その熱は液体が接しているものから奪って蒸発するのです。だから体が濡れていると、表面の水滴が体温を奪って蒸発するから涼しくなるのです。人間も気温が高いときは、汗腺から汗が出て皮膚の表面を濡らします。皮膚上の汗は、蒸発するときに体から気化熱を奪うので体温が上がりすぎるのを防ぐのです。打ち水をすると涼しくなるのも、同じ気化熱の仕組みで、撒いた水が蒸発することで廻りの空気の熱を奪って、気温を下げる効果があるからで、決して、冷たい水をまいたから温度が下がるというわけではないのです。やや専門的になりますが、常温の水を1%蒸発させると、残りの水は約6度下がるのです。水の潜熱を2500kJ/kg、比熱は4.2kJ/kgKとします。水が100kgあったとして、その1%、つまり1kgが蒸発するとします。このとき、水の潜熱から2500kJの熱が蒸発に必要になります。もしも、残りの99kgから熱を奪って蒸発するならば、2500/(4.2×99)≒6.012 [K]となるのです。つまり6℃水の温度は下がるのです。この装置が設置されているのは東面のみ。裏側の西面の外装です。打ち水側の窓の清掃はどの様に行われるのでしょうか?チョット楽しみなのです。 また建設中のこのビルの仮設現場事務所は『グリーン電力』を利用していると。『グリーン電力』とは、温室効果ガスや有害ガスの排出が少なく,環境への負荷が小さい自然エネルギーによって発電された電力を選択して購入する仕組みなのです。そして我が社のある大崎駅東口もヒートアイランド防止を実施しているのです。夜間に下水の処理水を道路舗装内部に散水し、これを日中に蒸発させ温度上昇を防ぐ仕組み。そして余剰の下水処理水(中水)を目黒川の橋沿いの場所で散水しているのです。目黒川の水質改善とイメージアップを兼ねて、2004年末に御成橋の下から放水ができるように改装されたのです。この水は芝浦水再生センターから下水処理された「再生水」で、毎朝9時から夜9時までの間、1時間毎に10分から30分程度の放水がおこなわれているのです。 夜間はライトアップもされ、幻想的な光の彩られた水のカーテンを帰宅時に楽しむことが出来、新たな名所となっているのです。酷暑の続く毎日ですが、週末の農園作業の為に雨の恋しさがヒートアップしている『アラカンオジサン』なのです。
2010.09.06
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我が家の庭そして我が農園の朝顔たちが、この酷暑と水不足にもかかわらず健気にも毎朝いろいろな色の花を咲かせています。ただし今年は春の日照不足、そして夏の猛暑、水不足で葉が大きく茂って花の数を圧倒していますが、他所の家のものはどうなのでしょうか?よって花のみのアップ写真を撮りましたので紹介します。まずは宿根朝顔ケープタウンブルー。琉球アサガオとも呼ばれている品種。周囲に白斑のあるピンクの姉との弟でしょうか?紫の高貴なそして大きな花。先程の姉たちが纏まって咲いていました。小柄な桔梗朝顔も咲いています。養蜂場所には放射状の水色と白の縞模様の花が。そして色の濃い青紫。花は小型ですが5枚の花弁の如き朝顔も。中心が白い水色のやや小型な朝顔。放射状の白はやや遠慮気味。そして 夜顔。かんぴょうの材料「ユウガオ(夕顔)」とは、別の種類。源氏物語に登場するのはこの夕顔。アサガオ(朝顔)・ヒルガオ(昼顔)は共に同じ科の【ヒルガオ科】で、かんぴょうのユウガオ(夕顔)は【ウリ科】とのこと。先日の山口・長門への出張時に道の駅で販売されていた夕顔の実、それとも白瓜?。いずれにせよ、こんな大きな実がなるとは知りませんでした。夜の開花を待ちわびているかの如き蕾。まるでスリムな抹茶ソフトクリーム?この時期の初秋の夕刻から白い朝顔のような花が咲き、翌朝には萎んでしまうのです。白い花と仄かな甘い香りで夜の虫?を誘います。そして中心部はヒトデの如きアイボリーの星形。昨晩フラッシュにて撮影しました。闇に浮かぶこの一夜の白い花は怪しく花言葉の如く『妖艶』なのです。別名「夜開草」、英語名は「ム-ンフラワー」と。なんと今日9月6日の誕生花とのこと。たまたま一致しただけですが・・・。 そして夏の花かと思えば「朝顔」は秋の季語とのこと。同じ仲間で朝、昼、夜と咲く花は他には無いのではと考えながら、色とりどりの花を楽しんでいる『厚顔』な『アラカンオジサン』なのである。
2010.09.05
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先日蜂友のEさんからベトナム出張の土産として、べトナムの米の麺、インスタントフォー(PHO)をいただきました。日本で麺と言えば、ラーメン、うどん・そうめん、ひやむぎと、小麦でできたものが主力であるのに対し、ベトナムでは、麺はその多くが米でできているとのこと。これは、米のほうがベトナムでは生産が圧倒的に多く、安価なため。中国でも、南の方はビーフンがありますが、北に行くと麺は小麦だけになり、さらに餃子や焼売などの小麦を使った料理がほとんど主食として食べられるのです。よって、麺を何で作るかは、その国や地域で生産される主力穀物を反映するといえるのです。原料は米粉と水であり、ライスヌードルの一種。水に漬けた米を挽いてペースト状にしたものを熱した金属板の上に薄く流し、多少固まったものを端から裁断して麺の形状にするとのこと。別名、ベトナムうどんと呼ばれるだけあって、麺の太さは細めのうどんくらい。今回のものの2つは鶏ガラスープの透明なあっさりした味のインスタントフォー。チリソースと乾燥バジルがそれぞれの小袋に入っていました。日本のインスタントラーメンと同じく、熱湯をそそぎ3分間まつのです。ベトナム語、英語、フランス語、中国語で説明されており、インスタントフォーにもベトナムの歴史を垣間見ることが出来るのです。やや薄めの鶏肉出汁風味。バジルの香りが効いています。先日名古屋で食べたきしめんによく似ています。そして、畑で取れた茄子焼きも一緒に。取れたてのオクラの花とオクラのネバネバセットも三杯酢で。もちろんこの横には缶ビールが。越南(ベトナム)風味と採れたての和(日本)風味のMIXを農園作業後の昼食に楽しんだ『アラカンオジサン』なのです。
2010.09.04
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翌日の出張に供えて前夜泊にて岡崎に宿泊しました。夜は9ヶ月ぶりにスペイン旅行のKさん母娘と再会。21:30過ぎまでビール片手に楽しい一時でした。秋の香嵐渓の紅葉見物での再会を約束してこの夜の宴はお開き。人の『邂逅』の不思議さに思いを馳せながらホテルへ戻ったのでした。 そして翌朝はいつもの早朝散歩。ホテルを6時前に出て岡崎城公園へ。ホテルの部屋からの朝焼けです。岡崎城 大手門。岡崎城は徳川家康誕生の地。徳川家康は、6歳で織田信秀(信長の父)、8歳で今川義元の人質となり、少年期を他国で過ごしたのですが、桶狭間の合戦で、今川義元が戦死したことを契機に自立。ときに19歳。以来、岡崎城を拠点に天下統一という偉業への基礎を固めたのです。花時計。時間は6:10。からくり時計塔。定刻になると時計盤3面がはねあがり、照明のついた舞台に能装束の家康公が登場。音楽に合わせて能を舞うとのことですが、この朝は何故か故障中の張り紙が塔の下部に貼り付けてありました。家康公もこの夏の猛暑の中、能装束の厚着での熱中症に罹ったようです。「三河武士のやかた家康館」の入り口に掲げてある徳川家 家紋。テレビの人気ドラマ水戸黄門で、「頭が高い、この葵の紋どころが目に入らぬか」という格さんの決め台詞が有名。 岡崎城の敷地へと繋がる赤い橋。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望み起こらば、困窮したるときを思い出すべし。堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身に至る。己を責めても人を責めるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり。」の有名な家康の言葉を刻み込んだ石碑。人間の一生は苦しく長く、責任も重いもので、忍耐と努力を重ねて一歩一歩進まなければならないという教えなのです。その石碑を亀が背負っています。 朝の柔らかな陽射しが緑のもみじ葉の陰を白壁に映していました。まるで一幅の水墨画のようで心洗われる一瞬でした。安土桃山時代の絵師・長谷川等伯の代表作 松林図屏風にも匹敵する我が自信の一枚?。城郭の大部分は明治6年から7年にかけて取り壊されてしまいましたが、岡崎の象徴である天守閣がないままではしのびないとする市民の思いは強く、昭和34年(1959)に、ほぼ昔どおりの外観の天守閣が復元されたと。ただし鉄筋コンクリート造りの3層5階。矢作川の枝流である乙川に、早朝の建物の陰が美しく映っていました。水面には野鳥のつがいが仲良く、私と同じく早朝散歩中。そして対岸の建物の時計は6:45過ぎ。この日も約1時間の早朝散歩で岡崎城公園の朝を楽しんだのでした。ホテルに戻りシャワーを浴び、朝食を済ませ「いざ出陣」 の慌ただしい朝だったのです。
2010.09.03
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佐賀県伊万里の、30年以上仕事でお世話になっているお客様、そして今では大切な友人であるMさんが特産の『伊万里梨』を送って下さいました。大きな段ボールはズッシリとした重さ。箱を開けてみると大きな『伊万里梨』が10個、行儀良く並んでいました。一個一個丹念にに育てられた旬の果実、そして伊万里湾の傾斜地で太陽の光がいっぱいに浴びて大きく育っているのです。そして地名入りは珍しい?『伊万里梨』。早速、妻と新鮮な夏の味を楽しませて頂きました。甘さと軟らかな酸味があるジューシーな梨、豊水でしょうか。Mさんありがとうございました。30年以上前、新工場建設時に工場用地のミカン畑のミカンをもぎ取り、段ボールいっぱいに詰め自宅に送ったことを懐かしく思い出しています。あの頃は二人とも若かったですね。その時から今日までの親しいお付き合い、ありがとうございます。奥様によろしくお伝え下さい。そして来年も、伊万里育ちの大きな梨をよろしくお願いいたします。(笑)
2010.09.02
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我が家の太陽光発電の8月の稼働状況がまとまりました。我が太陽光発電システム図です。京セラ製 5.76kw 南東 25度 です。 発電量 767kw・・・・・新記録消費量 531kw売電量 587kw・・・・・新記録買電量 343kw自給率 144% と言う稼働実績となりました。2008年5月の発電開始以来、月別の従来の記録は2009年4月の756KWHでしたがこの記録を11KWH超える新記録となりました。この結果、売電量も新記録の28176円となりました。祝、祝、祝・・・・・・・・・・・・・・・・・。最終日の昨日8/31日も好天に恵まれ27KWHを記録しました。下の写真の如く10時30分前後に太陽が雲に隠れて発電量が一気に低下したことが解ります。この情報を同じく太陽光発電を楽しんでいる、そして我が自宅から遠くない所で勤務されているYさんからメールで知らせて頂きました。これで新記録の達成は無理か?と半分諦めましたが、その後 天気が回復 との親切なメールを再度受信し、自宅に戻るのが楽しみになったのでした。太陽光発電導入以来の月別発電実績です。緑が今年の6月からの記録です。今年は絶好調なのです。この8月は雨が殆ど降らずに猛暑が続いているのです。8月の下旬には連日30kwh付近の発電量を達成したのでした。そして発電量の80%以上が余剰電力として東京電力さんに売ることが出来ていることが解るのです。それにしても雨が降らないのです。太陽光発電の新記録達成を喜んでいる『発電所長』と、雨が降らずに畑がフカフカのために冬用の野菜の種が播けない『農園主』の葛藤が続いている『アラカンオジサン』です。
2010.09.01
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