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この旅行の全ての観光を無事完了しホテルに戻る。空港へのスタートまで時間があったので、3人で再びマッサージへ向かう。ホテルにあったパンフレットの地図を見ながら店を探すがなかなか見つからない。何人かの人に聞くが、辿り着かない。漸く少年が知っているとのことで店まで案内してくれた。彼には御礼のチップを少々。タイ式マッサージを1時間受けホテルに戻る。20:00にホテルを出発して30分ほどでカトマンズ空港着。ガイドのバイラジャさんへ御礼と別れを述べチェックインし23:15発の香港行きを待合室で待つ。途中、水を買いに待合室を出るために、入り口の係員に許可をもらおうとすると首を横に振る。ここネパールでは首を横に振るのが『OK』、縦に振るのが『NO』なのであった。旅の途中何回かこれを経験、何回か勘違いしそうになったのであった。機内乗り込みの前に、厳しい荷物検査。X線検査設備が無いためリュックサックを開けさせられる。高山植物や果実、麻薬等の持ち出し防止が主目的とのこと。会社への土産にチョコレートを購入。香港空港へ早朝到着のため免税店がOPENしていないのではと思い、made in germany のものを購入。ネパール産のチョコレートは皆無。早朝6時に香港空港到着。ここで3時間ほどまち成田へ。成田へ14:30に無事到着し成田エクスプレスで自宅へと戻ったのであった。 澄み切った空に悠然とそびえ立つヒマラヤ山々とその麓で暮らす人々。ネパール王制の廃止により新たな局面を迎えるネパール。雄大なヒマラヤの絶景とたくましく生きるネパールの人々の営みをこの目で確かめる旅であった。ネパールは産業が少なく、電気や水などの資源もない。政府もフラフラとして安定せず、政情不安が続いているのだが、それでもこの国の人たちは動じない。この環境でベストな生活を送っているように思えたのだ。この旅のガイドの一人に、ネパールの人々が一番大切にしているものは何かと聞いてみた。すると答えは「家族」であると。仕事でも金でも安定でもなんでもないのだ。そういった国民性だから、知らない人たち同士での会話も弾むし、滞在していても心地よかったのであった。それにしても良く歩いた旅であった。早朝散歩、トレッキング等1日平均20、000歩の旅であった。変化に富んだ国土に、様々な民族が暮らしているネパールであった。それぞれに独自の言語や文化を持ち、すれちがう人々は真に『民族のモザイク』。そしてヒマラヤの山々に囲まれながら、昔ながらの素朴な生活が今も営まれ、人々はゆったりとした時間の中で暮らしていたのだ。特に感動したこと、印象に残った点は★エベレスト遊覧飛行にてエベレストが雲一つ無く大きく目の前に。 そして各地からのヒマラヤの高峰の絶景を堪能できたこと。★エベレストの帰路、カトマンズ空港が視界不良で閉鎖になりインド国境のビラトナガル空港へ 緊急着陸したこと。★ネパールの神聖な儀式 ダサインのティカを体験できたこと★ネパールの人々と交流でき、一般家庭で夕食をご馳走になり、その暮らしぶりを 見ることができたこと。★カトマンズの喧騒に驚き、インフラ(電力、道路、水道・・・)、人権、教育は世界でも かなり遅れている。★田舎の人々の生活も、男が出稼ぎで不在、女性と子供が過酷な労働をしており、 地方は都会よりかなり生活格差がある。★ヒマラヤの山々を中心とした自然は厳しいが故、生活は貧困で、庶民は生きることに 一生懸命で、長年の間、深い『祈り』によって生きている。★物乞い、物売り、障害者が町にあふれていた。これが今のネパールの現実。★ポカラ フェワ湖の水質汚染が進んでいること。観光で生きる国ネパールの緊急課題。★多くの世界文化遺産を巡ることが出来、至福の時間となったこと。ダルバール広場 シヴァ寺院 クマリの館 パタン クリシュナ寺院 パタン博物館 スワヤンブナートパシュパティナートボダナート ネパール国に幸あれ!!!! ・・・もどる・・・ ---------完------------
2010.10.24
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★カトマンズ・ ダルバール広場(Durbar Square)「ダルバール」とは「宮廷」という意味。名前のとおり、マッラ王朝時代にはカトマンズ王国の中心地となっていたのだ。王たちが美しさを競い合って建てた広場のため、建物の装飾の美しさには目を見張るものが。ダルバール広場に立ち並ぶ20数棟にも及ぶ寺院にはいろいろな時代のものがあるとのこと。この広場には生き神の住むクマリの館やハヌマン・ドカと呼ばれる旧王宮を始めとする見どころが数多くあったのだ。左よりナラヤン寺院、はヴィシュヌ神を、シヴァ寺院はシヴァ神を祀る寺院。一番右には緻密な彫刻が施された、木彫りの窓枠が見事であったシヴァ・パールヴァティー寺院。ガッディバイタクの右手に続く 白い壁、茶色の屋根の建物がマヘンドラ博物館、その右の4重の塔のように見えるのがナウタレダルバール(ナウ=9 タレ=階 ダルバール=宮廷)。 バサンタプールダルバールとも言うと。 広場の中央にはシヴァ神とその妻パールヴァティーが窓から顔を覗かせる寺院が。これは「シヴァが見てる」ということを意味するので、ここの下で様々な儀式を行うとのこと。神様の人間的な面が垣間見られ、親近感も湧いてきたのでした。★クマリの館1757年にカトマンズ最後のマッラ王朝の王であるジャイ・プラカース・マッラによって建てられた館で、生き神と信じられているクマリが住んでいるのだ。2頭のライオン像が入り口を守っていた。クマリはタレジュー神(ドゥルガ)の化身であると信じられ、ネワール・サキャ族の由緒正しい家の出身の少女の中から選ばれるとのこと。さらに、昔はネパール王国の王様もひれ伏すこの少女は、過酷な条件をクリアした少女しかなれないと。選ばれるクマリの条件は、・怪我の跡や体に欠けたとこがない・血の汚れないのない少女(つまり初潮前)・美しく利発その他にも・・・青または黒い目、牛のようまつ毛、神のような脚線、手がやわらかく繊細等。他の地域にもクマリは何人かいるとのことだが、このカトマンズのクマリが最も重要なクマリであるとされていると。★カーラ・バイラヴ(Kala Bairav)ヒンドゥーの恐怖の神・破壊神シヴァの化身地球の歩き方によると、「世界を創造したのは俺だとシヴァとブラフマーが口論し、激高したシヴァ神はバイラヴに変身してブラフマーの頭をひとつ切り落としてしまった」と。多くの人が礼拝していた。周囲の落ち着いた建物の中で、私には異質なものに思えるほど色鮮やか。この像の前には、怒りを鎮めるために毎日いけにえ(鶏や豚など)を捧げていると。帰り道、ネパールのお茶の産地として有名な、イラム地方の紅茶を買いこんだのであった。 カトマンズの中心部から西に3kmほど離れた丘の上にたっているスワヤンブナートを最後に訪ねた。400段弱の急な石階段を上ったところが寺院の中心になっていた。 我々は楽な回り道で頂上まで歩く。この場所にも、物乞いの老若男女や若い母親が乳飲み子を抱きながら我々に近づいてきて、『この子はお腹が空いている。ミルクを欲しがっている、お金を恵んで欲しいと』。これがネパールの真に現実の姿の一面であったのだ。寺院中央には仏塔がそびえていた。大きさではボダナートの仏塔よりもはるかに小さいが、ここもネパール仏教にとっては最も重要な仏塔。仏塔には仏陀の『知恵の目』が四面にここでも描かれていた。この旅行の至るところのヒンズー教徒の民家にも仏教の民家にも見られるのだが、いずれにせよ神の目を表し、この世界が神が見つめるひとつの空間にあることを示していたのだ。 また、この仏塔の周囲にも、チベット仏教の特徴を示すマニ車が並んでいた。そしてストゥーパを飾る5色の旗、タルチョーが強い風になびいていたのであった。この5色の光の中から5人の仏が現れたといわれており、またストゥーパの頂上は仏の世界を現し、旗が天界へ通じる通路の役割を果たしているのだ。民家に知恵の目やこのタルチョーが飾られているのは、神の空間を再現しようとしているわけだ。ネパール人の信仰の深さに驚く毎日であった。スワヤンブナートの立つ丘からはカトマンズの街並みが拡がっていた。この後に、日本への帰路のスタートとなる、カトマンズ・トリブバン国際空港も遠くに小さく見えた。周囲山に囲まれたカトマンズの街を見下ろしながら、この旅行の懐かしき思い出に耽りつつある私がいたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.23
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パタンは別名サンスクリット語の『ラリトプル』とも呼ばれ『美の都』という意味。カトマンズに隣接した南の街で、かってのマツラ三王国の都として栄えたため、旧王宮をはじめ17世紀に建立されたヒンズー教の寺院や仏教寺院など見事な建築物が多いのである。中世建築の極地とも言われる王宮や、傑作に挙げられる寺院や彫刻など、貴重な工芸文化遺産が多いが、長い仏教の歴史があるため、街中が美術品で仏教工芸の街として仏具の工房も多いとのこと。パタンもカトマンズバレイとして、世界文化遺産にいち早く登録された街。★ダルバール広場パタン・ダルバール広場はパタン市の中心に位置し、ここはかつてパタン王の宮殿があった土地。宮殿には3つの中庭があり、中心の最も古いものがムルチョウク。複合建築群の西方には、様々な大きさの種々異なるスタイルを持つ寺院が多数。石造寺院の傑作、クリシュナ寺院、ビムセン寺院、ゴールデンテンプル(正式名はハラニャヴァルママハヴィラ)とスンダリチョウクは、この時代に燦然と輝くネワール族名工の建築物。旧王宮の北側には、マンガ・ヒティと呼ばれる水汲み場があり、今も町の人々が沐浴や水汲みに利用していた。★クリシュナ寺院17世紀のシディナラシン王の時代に建てられたと言われ、ヒンドゥー教のヴィシュヌ神の化身であるクリシュナが祀られている。クリシュナとは、マハーバーラタ戦争の際に正義のために戦ったとして、ヒンドゥー教徒に広く人気のある神様。クリシュナ寺院は、ネパールでは珍しい石造りで、他の追随を許さぬ石造建築の傑作であるといわれているのだ。寺院の前には、ヴィシュヌ神の乗り物であるガルーダの像があり、壁と2階には「マハーバーラタ」の物語が、3階には、「ラーマーヤナ」の物語が刻まれていると。ネパールを代表するシカラ建築の建物で、21の祠を持っており、ブッダも祀られているのだ。ヒンドゥー教徒にとっては非常に重要な寺院で、クリシュナの誕生日にはインドからも多くの巡礼者が訪れ、寺院が人々に埋め尽くされると。★ゴールデン寺院(ヒラニャ・ヴァルナ・マハー・ヴィハール)寺院が金色に輝いていることからゴールデン寺院と愛称されているのだ。★パタン博物館入口上部に掲げられている金色の半月盤はトラナと呼ばれ謂わば寺院の表札に相当すると。ネワール文化によって彩られた、ヒンズー教と仏教の装飾品が飾られ見事な木彫装飾を施された壁が見事であった。★クンベシュワル寺院14世紀末の建造でパタンで最も古く、またネパールでは珍しい五層の屋根を持つヒンズーー寺院。シヴァ神を祀っているのだ。クンベは水瓶、イシュワルは神の意味で、境内の井戸の水はヒマラヤ地方のゴサインクンド(ヒンドゥーの聖地)からの湧水と信じられていると。★ヴィシュワナート寺院格子模様の連窓、男女神の方丈などで飾られていた。★マハボーダ寺院インド・シカラ様式の塔に無数の仏像が彫られた高さ30mの寺院~そして遅い昼食を取った後、最後の観光地となるカトマンズのダルバール広場に車で向かったのであった。 その途中、ガイドのブッダ氏に、この旅行で常に気になっていたネパールの『時差』について話をした。日本との時差3時間15分と細かく15分を敢えて入れてある理由は何故かと。インドの3時間30分、バングラデッシュの3時間は理解できるが。インドを意識して敢えてインドと15分異なる時間にしたかとの問いには『それもあるかも』との回答。そして、日本との時差3時間15分は昔は?非常に日本人には解りやすかったと。例えば日本が6時の時にはネパ-ルは時差3時間15分であるので2時45分となると。その時には『アナログ』時計を右に90度回転させるて『3』の位置を上に持ってきて、この時間を読むと2時45分となり非常に解りやすいと。その場では『なんとなく』理解したが、自宅に戻りこの話を思い出し、自宅のアナログ時計で試してみると『なるほど』と理解したのであった。ネパール時間 6時そしてこの時の日本時間は、時差が3時間15分なので2時45分!!短針の位置は多少異なるのであるが・・・・・・・・・・・。6時に限らず、いつでも四六時中、右に90度回転させれば日本の時間となるのである。もちろん『たまたま』の事であろうが、非常に面白い、私にはヤケに!!好きな話であったのだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.23
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この日は、観光の最初にパシュミナ(Pashmina)のショール工場を訪ねた。パシュミナとは、カシミヤ繊維等を糸に紡ぎ、織り上げた、ネパールやインドで伝統的に作られてきたストール・ショールおよびその素材を指すのだ。高級ウールとして有名なカシミヤよりも繊細で肌触りの良い、いンドのカシミール地方やネパールに伝わる手織りの毛織物なのである。伝統的なカシミール産のパシュミナには、標高4000メートル以上のヒマラヤの高地だけに生息するパシュンの冬毛が使用されていると。(パシュンは、一般的なカシミヤ山羊とは別の、小柄な犬くらいの大きさのカシミヤ山羊。)このパシュンの原毛は、採取の難しい希少なもの。また、パシュンの毛はあまりにも繊細なため、機械によって糸を紡いだり生地を織ったりすることができないとのこと。そのため、カシミールでは、現在でも、パシュミナが完成するまでの全工程(72段階)のすべてを手作業で行っているのである。 ところがカシミール産パシュミナと全く同じスタイルに織られた、写真では区別ができないほど類似した製品がカシミール産パシュミナとして流通しているのだが、これも、本物のカシミール産パシュミナとは素材と製法が異なると。 この工場生産能力、ミシンの数、コストから想定すると、パジュンの冬毛を100%使用した本物のカシミール産パシュミナとは考えにくいのも事実であったが・・・・。 工場の敷地内には、赤煉瓦の豪奢なオーナーの自宅が。前庭の芝生にはミツバチが飼われていたので感激。前庭に白いミツバチの巣箱が40箱ほど設置されていた。近くに寄ってみると私が飼っているセイヨウミツバチとはやや形が異なり丸い形状。いろいろな品種のセイヨウミツバチの存在をこのネパールの地で実感したのであった。正面道路を隔てて正妻と第二夫人が住んでいるとのこと。ここネパールの金持ちには、法律的には認められていないようだが、一夫多妻の習慣は、まだ残っているのであろうか? この日は土曜日のため、工場は休み。工場稼働時にはこの織機の前に200人前後の女性が働いているとのこと。染色工場のは大きな釜がたくさん置いてあった。工場の責任者の女性が休日出勤してくれ各種の商品を見せてくれた。そして4人それぞれスカーフやセーターを妻や子供、友人の土産用に購入したのであった。この後、今回のトレッキング会社のOFFICEを訪問。 この会社は2008年にプロスキーヤー、三浦雄一郎が世界最高峰・エベレスト(8848メートル)登頂に75歳(世界歴代2位)で成功した時に、ガイドやシェルパを請け負った会社なのである。この日は日本の○○大学山岳部の5~6000mの山へのトレッキングを請け負っており、その準備の真っ最中であった。調理用バーナー他を整備中のシェルパ。シェルパが担いでいく調理器具。このレベルのトレッキングガイドがこの会社の本来のビジネスであり今回の我々のツアーやガイドは赤子の手をひねる如きであったのであろう。そして今回の旅行最後の世界遺産 パタンへ向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.23
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ネパールでの最後の朝も前日の飲み過ぎにもめげずに、カトマンズ市内の早朝散歩に4人で向かう。カトマンドズの市内は南北約2キロ、東西はそれより狭い地域。30分も歩けばどこへでも行けそうなのだ。この日は、ホテルを出てカンティ・パト通り(Kanti Path)を南に向かう。暫く歩くと大きな歩道橋があり、その上から見渡すとラーニ・ポカリという池で、中に白い寺が建っていた。振り返るとカトマンズを囲む山々の姿が一望できた。ここカトマンズは2~3万年前までは、大きな湖であったとのこと。南から浸食してきたバグマティ川(白き川)がチョーバ渓谷で外輪山の壁を破ると、湖の水が逆流して湖底が現れ、人間が住めるようになったとのこと。この地質学的な事実は、現在においてもネパールの人々の間に伝わる神話の中にも深く生きているとのことであった。すなわち、ガイドブックによると、大昔に、この湖に浮かぶ千弁の睡蓮の花から聖なる光が解き放たれ、各地から参拝者や修行者がこの地に集まるようになったと。これを聞いた『文殊菩薩』が隣国の中国から獅子に乗り、ヒマラヤを超えてやって来たと。菩薩はこの湖が参拝の邪魔になるのを見て、一刀のもとに谷を切り開きカトマンズの地が生まれたとのこと。その為ネパールの文殊菩薩の像は必ず炎を放つ刀をもっているとのことであった。道路の脇では貧しき人達であろうか、規則正しく並び朝食の施しを受けていたのであった。途中の広場には丸太を立て、その上に簡単な屋根を作りブルーシートで覆った場所が。何かと思い恐る恐る?中に入ってみるとこれが屋台となり、マーケットが開かれる場所であった。早朝のため中にいる人も少なく、この日の営業のために商品の展示の準備を始めている店もあったのだった。その店員は我々の姿にキョトンとした訝しげな顔で我々を見つめているのであった。この場所に来る日本人を見たのは初めてであったのだろうか。 その後、ネパールの国立競技場を見学した。スタンド下にいた男に競技場内を見学できるか聞いたところ、親切にも入り口まで案内してくれたのであった。この施設は中国の援助で1999年に建設されたとの銘板が。収容人数25,000人とのこと。中では20歳前後の青年達がサッカーの練習をしていた。そのうち練習を指導していたコーチが我々を見つけやって来たのだ。このコーチの話によると以前、ネパールのナショナルチームの主将をやっていたと。日本にも何度か試合に訪れたと。そして携帯電話に保存されている写真を私に誇らしげに見せてくれたのであった。その写真には、過去の日本の名選手である木村和、井原、三浦、中田とのツーショットの写真が。『あなたはネパール国の英雄か』の問いにも『 Of cause YES』との笑顔での返事であった。『木村和は引退し今はコメンテータをやっているようだな』とも。私から現在はチームの監督に就いているはずと説明したのだ。『ネパールのナショナルチームの戦力向上を祈る』と握手をし、記念に5人で写真を撮り別れたのであった。 先ほどの道を引き返しホテルに向かう。途中カトマンズで一番高い建造物ビムセンタワーの下へ。この白き塔は遠くからでも一際目立つ建物であった。1832年に当時の首相ビムセン・タパによって建てられ、ビムセンタワーとの名称になったのだ。高さは52m(50.5mという情報も)。上部には展望台があり、この日は、見上げると、早朝の土曜日にも関わらずたくさんの人が景色を楽しんでいた。 時間もなく、しかも中は螺旋階段になっていることもあって、展望台までは珍しく皆ギブアップしたのであった。この日の最後の観光が11時出発であり、足早にホテルに戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.23
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この日もまたまた早朝起床し、ホテルの屋上から日の出を迎える。ヒンズー教の寺院が朝日に浮かび上がっていた。そしてこの日も見事な日の出と朝焼けを楽しむことが出来たのであった。朝食後、ポカラ観光に向かうまでの時間を利用して街に土産物を探しに行った。トレッキングシューズを買う人、パシュミアのマフラーや絨毯を買う人、負けてもらう為に皆タフなネゴシエーターに変身したのであった。街道筋のところどころに立つ「チョータラ」(菩提樹の植わった日蔭で涼めるように出来ている青空休憩所)には、多くの市民が休息をとっていた。この姿からもネパール人の暮らしぶりを見ることが出来たのであった。ホテルに戻り、土産物をトランクに入れ込み、11:00に観光に出発。この日のガイドはブッダさん。この人の日本語流暢。 ポカラの最後の日、ホフェワ湖から4kmほど離れたところにあるかってインドとチベットの間を結ぶ山岳交易で栄えた街の中心だった「オールドバザール」へ車で向かう。ポカラの街の賑やかな商店街と異なり、完全に過去形の赤レンガ造りの家並が。ここはかつてはチベットとの交易により賑わいを見せていたバザールである。衣類、化粧品、食料品、家具などが売られており、ネパール人の暮らしぶりを伺えるバザールであった。1階部分は木製の店舗,2階部分が居住空間,3階部分が倉庫空間とのこと。レンガの壁に木造の屋根の3階建て構造で統一されている。この建物の屋根は、修復時にトタン屋根に変更されたようだ。また店舗部分は舗道まで張り出した長いひさしも共通であるようだ。 ポカラのビンドゥバシニ寺院は小高い丘の上にあり、丘に上がる階段の手前には寺院にお参りする際に必要なお供え物を売る店が並んでおり賑やか。白いドーム上の構造と石畳の広い境内を誇っていた。この寺院にはヴィシュヌやクリシュナも祀っているが、本尊はドゥルガ(女神)とのこと。寺院の装飾として施された彫刻などを見て回ると、見応えのあるものが多いのだ。そしてあまり広くない境内に多くの神々が祀られていることは驚きであった。多くの参拝客がひっきりなしにやって来ていた。如何にも信仰心の厚い国ネパール。 パタレチャンゴ(Patale Chhango)若しくはデビィフォール(Devi´s Fall)と呼ばれる滝を訪ねた。その昔Daviというスイス人女性が落ちたと言う話しからDavid´s Fallとも呼ばれるようになったとのこと。滝の落ちた先がどうなっているのか覗き込むが下がよく見えない。滝ではあるが,滝の落ちた先が無いのであった。地中に水が吸い込まれていく,そんなように見えたのだ。だから穴でもあると言える。暗渠(あんきょ)になっていて出口は2~3km先とのガイドの説明。観光終了後、ポカラの街の中華料理屋で昼食をとり、ホテルで荷物をピックアップしポカラ空港へ向かう。空港には各航空会社のカウンターが並び、その横に赤茶に塗られた特大の秤(はかり)があって、大きな荷物は厳しく計量されていたのだ。そしてカトマンズ空港に再び着陸し、車で初日に宿泊したホテルに戻ったのであった。ホテルで一休みした後に、この夜は再び今回の旅行を企画していただいた、トレッキング会社の社長のRamさんのご自宅に招かれた。Ramさんの長男も留学先の日本の大学を卒業しネパールに帰国し、第2の人生を歩み出しているとのことで、この日の夕食に参加してくれたのであった。日本料理を楽しみながら、旅の思い出を語り合い、深夜まで盛り上がり、記憶も薄れながらホテルへ戻り、ベッドに潜り込んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.22
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湖岸の周回道路をフェワ湖岸に向けて更に歩く。ここポカラは穏やかな自然に囲まれた静かな盆地にある魅力的な街。ネパールのトレッキングのメッカであり、最近は、川下りも盛んになってきたと。フェワ湖の岸辺には、ホテルやレストランが連なり、トレッキングを楽しむ人たちがバーやレストランに集まり、ヒマラヤのふもとで見てきた美しい景色について、おしゃべりに花を咲かせるのだ。ポカラは第一級の観光地なのである。漸く湖岸沿いの道を歩く。湖にはホテイアオイが繁殖し薄紫の花を咲かせていた。そしてその先には蓮が一面に白い花を見事に咲かせていた。その横には可憐なガガブタの花も。葉は睡蓮に似ているが、もじゃもじゃの白い花がユニークな形。花の中央部は黄色のアクセント。しかしこの湖に流れ込む小川は真にドブ川状態で悪臭とゴミがあちこちに。そして繁殖し過ぎたホテイアオイが湖岸に山のように積まれこれも悪臭を発していたのだ。トレッキング中の山道からは美しく見えたフェワ湖も生活排水で汚染が進んでいるのであった。このホテイアオイは、昔日本でも、その繁殖力を生かして、水中の窒素分などをこの植物に吸収させることを目指して、水質浄化のために利用しようとの試みであるが、多くの場合、繁殖した植物体をかき集めて処理する手間がかかるために永続性に欠け、水域に投入しただけで環境に良い事をしたつもりになって放置しているケースが問題を起こしてきた、曰わく付きの植物なのである。今回の旅で仕事柄多いに気になったのは、カトマンズの車の排気ガスによる空気汚染とこの湖の汚染であった。いずれもこの国の緊急課題であろう。そして併せてネパール国民への環境教育も必須である。湖岸からはこの日のトレッキング開始したサランコットが見えた。そしてサランコットと反対側の山の上には日本山妙法寺の白き仏塔・ストゥーパが見えた。日本山妙法寺は、ここポカラの地に「アジア平和の塔」というこの仏塔を立てて、祈願しているとのこと。この日も湖岸のレストランで遅い昼食。ホテルに戻り一休みし、再びマッサージを受け、この日に酷使した脚の疲れを取り、その後ネパール民俗ダンスを見ながら夕食を取ったのであった。この晩はステーキを注文したが、歯ごたえは小学校時代に給食に出たクジラの肉のようであり、恐らくヒンズー教の国であるので水牛の肉ではなかったでろうか。 もちろん焼き具合などの問いは一切無し。ベリーウエルダンでしか選択肢がない肉なのであった。ヒンドゥー教徒が多数を占めるネパールでは一般に牛を食べる習慣はないが、水牛は牛の仲間とは見なされないらしく、こちらは結構ポピュラーな食材として広く使われているのだ。スパイスを効かせて食べれば肉の臭みはそれほど感じないが、とにかく噛み切れないくらい硬く、また少しパサパサしているのであった。正直それほどうまい食べ物ではなかったが、話のタネにはなる夕食であったのだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.21
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昨夜の宴会の疲れもなにするものか、この日も5時に起床しサランコットの丘に日の出を見るために暗い内にホテルの玄関に集合。空にはこの日も見事な星がまだ輝いていた。全員の集合を待つ間、この旅の最年少のIさんが星座講座を。子供の時、星空に興味を持ち星座について学んだと。我々の海外旅行には今回初めての参加であるが、Iさんの新たな一面を垣間見たのであった。懐中電灯片手にサランコットの丘に向かう。眼下にはポカラの街並みがこちらも星座の如く煌めいていた。サランコットの丘はフェワ湖の北側丘陵のなかの一番高いピーク。丘と言えども標高は1592mもあり、日本なら立派な「山」。しかし幾つもの6000~8000m峰を有するネパールでは、標高2000~3000mの山は「丘」。「○○コット」のコット(kot)は丘という意味。サランコットは北側真正面にマチャプチャレがそびえ、遮る物ひとつないアンナプルナの展望が得られる絶景ポイントであった。丘に登ると既に多くの観光客が集まって来ていた。その頂きに朝の光を浴びるのを待っているマチャプチャレ(6993m)とその左にはアンアプルナ1(8091m)とアンアプルナ・サウス(7219m)の見事な勇姿が。 そして6:12頃にフェワ湖東の空がバラ色に染まって来た。アンナプルナはまだ薄暗闇の空に、雪の白さをぼんやりと浮かび上がらせていた。そして10分後朝日の光が届いたマチャプチャレの頂上が輝きはじめたのであった。そして直後にはアンアプルナ1とサウスも東側からほんのりとピンクに色づき始めたのであった。そして約8分後にご来光が。目の前の山の山頂が輝きだしてから、日に出まで8分強。この時間差に目の前の山が8000m級の山であることを実感した瞬間であった。そしてサランコットの丘からの眺めは、昨日のポカラから見るよりは遙かに迫力満点であったのだ。青く澄んだ空に白い雲。谷間に流れる白き川・セティ川と集落も見えるようになってきた。 約1時間の早朝の興奮のドラマが終わったのであった。あっという間だったような、長かったような、そのどちらでもあるような至福の時間であった。これから朝のヒマラヤの姿を見に登って来る観光客とすれ違いながら、朝の白きヒマラヤ連峰の姿を、これでもかとシャッターを押しまくりながらロッジまで戻ったのであった。途中上空にはエンジン付きグライダーに乗る観光客の姿も見えた。朝食後に車で山を下る予定であったが、この日は時間に余裕があるので、サランコットの丘からガイド無しの我々4人だけでの、フェワ湖岸までの800mの下りの山道をトレッキングをすることに決定。10時前にトレッキングスタート。途中パラグライダーのスタート地点の横を歩く。ひとつのパラグライダーでパイロットと乗客それぞれ1名が一緒に飛ぶフライト。パイロットと乗客は別々のシートに座り、ジョイントさせているようだ。パイロットは後ろに座り、全てコントールするので、乗客はのんびりと景色を楽しむことが出来るのであろう。風を確認しスタートするパラグライダー。パイロットが『RUN RUN・・・・』と叫んでいるが女性の乗客が怖いのか足が前になかなか進まない。しかし何とか空中に浮揚したのであった。短時間ではあるが800mの高度差を、眼前に広がる自然景観との一体感を感じながらのフライト。まるで自分自身も鳥になったかのように、ポカラ盆地上空を滑空。目の前には雄大なヒマラヤ山脈が広がり、視線を下方に転じれば、村々や僧院、寺院、フェワ湖、ジャングルなどを、まさに鳥の目線で満喫できそうであった。これも予約しておけば良かったと内心・・・・・・・・・。下りの途中から見上げるとサランコットの丘に立つ電波塔が見えた。眼下のフェワ湖が段々と大きくなってきた。湖畔に近づくに連れて民家がポツポツと。民家の庭には撓わに実ったバナナの木が。さすがここは亜熱帯地域であるのだ。最後の石畳みを下ると湖畔周回道路に到着。殆ど下りの標高差800mのトレッキング。それにしても坂が急峻のためか約3時間のトレッキングであったが、すれ違った観光登山者は1名のみであった。我々もこのコースを逆に登るという計画を立てなかったことに安堵。タフなコースであったが、山道を下りながら変わっていく風景を十二分に楽しんだのであった。タフなトレッキング無事終了で4人には皆笑顔が。そしてそれぞれの膝も大いに笑っていたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.21
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車でルムレから、今日の宿泊場所のサランコットの丘の上にあるロッジに向かう。サランコットの丘はヒマラヤの展望台として知られているのだ。標高1592Mの展望台からは、至近にアンナプルナ山群の偉容を望めるのだ。途中眼下にはポカラの街とフェワ湖の姿が。車は舗装道路を抜け、未舗装で石がゴロゴロ転がっていく山道を登っていく。そしてだんだんと道路に転がる石の大きさが大きくなっていく。車の中でこの揺れに絶えるため窓の上にある手すりに必死に掴まる。こんなに揺れる車に乗るのは生まれて初めての感、そして最初で最後ではないかとまで想う。そして終に我々の車は急坂を登りはじめた所で前に進めず立ち往生。実は後で解ったことであるが途中から道を間違えていたのだ。全員とりあえず車から降りる。ドライバーが携帯電話で今日の宿泊地のロッジに電話している模様。そして15分程するとロッジから従業員と想われる2人が救援の?ために、ロッジ方面から降りてくる姿が。ガイドもドライバーも車でこのロッジに来るのは初めてと。これぞAdventuredな旅そのもの。ガイド、ドライバー、ロッジの2人が語り合い結論がでたのだ。ここで車を捨てトランクを担いで獣道をロッジまで登っていくという結論。車の屋根からトランクを下ろし山登りの準備。そしてロッジのふくよかな女性が私の20kg以上あるトランクを肩に担いで獣道を登りはじめたのであった。併せて7人で交代に4人のトランクを担ぎながらロッジまで15分。汗ビッショリ、そしてこの旅行で最もタフな山登りで、漸く無事この日の宿泊場所のロッジ『SHERPA RESORT』になんとか辿り着いたのであった。チェックイン後、フロントの椅子で一休みし呼吸を整えていると、Sさんが大切な思い出の品?である筆記用具を何処かに落としたと。2人で散歩がてら先ほどの獣道を下りながらこの筆記用具を探しに向かった。そして先ほど我々が車を捨てた真にその場所に、別の車が立ち往生しているのを発見。近づいていくとフロントバンカーがはずれかかった車の中から、老年のアメリカ系女性が降りてきて、私に片言の日本語で話しかけてきたのであった。我々と全く同様、このドライバーもこの場所、この道は初体験。我々と同じロッジに宿泊するので彼女の車に乗って、案内して欲しいと、我々にすがるように英語と片言の日本語で語りかけてきたのだ。この場所から道を暫く下り、別の分岐の道が遠回りでもロッジに繋がっている道ではないかと考え、車に乗り込みロッジを目指しスタートしたが、何故か下り坂になってしまったので自信がなくなり引っ返す。(これも後で解ったことだが引き返さず強行すればロッジに辿り着く道であったのだが)先ほどの我々の行動を説明し、この女性にも我々と同様な決断を進める。最初はNOであったが、この選択肢が確実なBEST CHOICEであることを説明。我々二人で彼女のトランクは運んでやるから心配するなと説得。漸く諦めたのか、彼女も車を捨てる決断をしてくれたのであった。そして私より年配のSさんが彼女のトランクを担ぎ、私はこの女性の後ろに回り、ふくよかな?お尻を押しながら再び急な獣道をロッジに向かい登っていったのであった。これぞ旅の『一期一会』、『邂逅』の瞬間なのであった。山道をあえぎながら、そして休みながらも登る女性。それ以上にあえぐSさん。そして最初の夫は日本人、結婚式は高野山で、今はハワイに住んでいること、そしてネパール来てから2週間目と彼女は自ら語ってくれたのであった。 この後、我が長老のHさんを除く3人でサランコットの丘まで夕焼けを見に20分程の山道散歩。下界には再びポカラの街とフェワ湖の夕方の姿が楽しめたのであった。しかし夕焼けは雲が多く今一であった。この夜はハワイの夫人『Ambika:安美香』さんと、夕飯を共に、この日の出来事を語り合い、多いに盛り上がったのであった。そして安美香さんから、我々に『命の恩人』との感謝の言葉と、明朝のサランコットの丘の日の出とヒマラヤ鑑賞にも是非一緒に連れて行って欲しいと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.20
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この日も早朝起床後、ホテルで日の出を見るために6時前にホテル屋上へ。未だ暗く、澄み切った空気が。空を近く感じるほど、夜空には満天の星たちがきらめいていた。"ほんとに来たんだ"と、ヒマラヤにいる自分に感動。ようやく空が明るくなり、目の前に巨大な白き山が見えてきたのだ。山の名はマチャプチャレ。マチャプチャレ(Machhapuchhre) 6993mはネパール語で『Fish tail:魚の尻尾』という意味。南西方面から見ると双耳峰が魚の尻尾を逆さにした形をしていることから名づけられたのだ。ポカラからは魚の尻尾の形には見えないが、頂上付近が雪形から虎の横顔に見えるため、タイガー・マウンテンとも呼ばれているのであるとのこと。ポカラから見ると、アンナプルナ連山の中央に位置し、距離が他の高い山よりポカラに近いため、大きく優美な姿は見事であった。朝日を浴び光り出したマチャプチャレの山頂。刻々と変わる山頂の色合い。これを見にこの地を遙々訪れたのだとつぶやく自分がいたのである。そして暫くすると美しい日の出の光景が。朝食後、8時前にポカラのホテルを出発。ヒマラヤの連峰を望むためにチャンドラコットをめざしたのだ。途中、セティ・ガンダキ(白い川)に添って車は走っていった。氷河から溶け出した白い水の川である。おなじように「黒い川」もネパールにはあるのだそうだが。山間部に入るにつれ、また一面に段畑がひろがっていった。わたしたちを驚かせたナガルコットの棚田が見劣りするほど広大な棚田であった。その山間部でいちど途中下車した。そのポイントからもヒマラヤがみえた。ヒマラヤとはネパール語で「雪の家 him-alaya」を意味し、常時雪を抱いている標高6000m以上の山をさす。ここポカラではアンナプルナ連峰がよくみえる。途中下車したビューポイントからは、アンナプルナ南峰、ユンツリ、マチャプチュレ、アンナプルナ4などが視野におさまった。この地では3000m以下のものは『山』と呼ばずに『丘』と呼ぶのだそうだ。よって我々の今回のトレッキングは謂わばハイキングなのである。 そこからまたしばらく車は山を上がっていき、ルムレという村に到着。ここがトレッキングのスタート地点である。車を降りて、頂上まで続く石畳を登っていく。めざすチャンドラコットまで約1時間のトレッキングいやハイキングだが、その急峻な崖の向こうにも広大な棚田と原生林がひろがっていた。集落の中を細い石畳の道が走り、家々はその両側にへばりつくように建てられている。そして民家の屋根も壁も石畳と同じ種類の岩でできていた。途中、山のわき水を利用した村の共用洗い場で洗濯をする主婦の姿が。トレッキング中にすれ違った村の少女。そして約1時間でチャンドラコットに到着。チャンドラコットの集落にたどり着いて、さらに道を右まわりに旋回すると、いきなりヒマラヤが姿をあらわした。このヒマラヤの『山』を見るために、ここまでのトッレキングを計画したのだ。しかしながら白き山、アンナプルナ南峰は雲がかかり白きヒマラヤの姿は、山頂の所々しか垣間見ることが出来なかった。この地のトレッキングで常に白きヒマラヤの山を見ながらのトレッキングを楽しむためには、3~5000mの尾根を歩かなければならないのである。我々のコースでは尾根の高度が低く、ヒマラヤの前には『丘』や低き『山』が立ちはだかり、白き山を隠してしまうのである。道路では学校が休みの子供達がコインを小さな穴に入れる賭博ゲームを楽しんでいた。帰りは往路とは異なる道を再びルムレまで戻り、この日のトレッキングを終了し、この日の宿であるサランコットの丘の上にあるロッジを目指し車は走ったのであったが再び・・・・・・・・・・・・・・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.20
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カトマンズからポカラへ飛ぶ飛行機の中からもヒマラヤの眺めを楽しめたのだ。遠くアンナプルナ3峰(7556m)の頂上部が雲の海から顔を覗かせていた。晴天であればアンナプルナ山群がクッキリ見えるとのこと。そしてダウラギリ(Dhaulagiri 8167m)も。この時間はやや雲が多いながらも、白い山の頂も時々見ることが出来た。カトマンズから40分ほどでポカラ空港に到着。ポカラはラェワ(Phewa)湖に面した盆地にあるネパール第2の都市。風光明媚な景勝地、リゾート地という趣があり、アンナプルナ山群の登山、またアンナプルナ山麓のトレッキングの登山基地でもあるのだ。標高は833mで、年間降水量は国内最大であるとのこと。飛行機が遅れていることもあり、我々が飛行機からの荷物を待っている間に、我々が利用した飛行機は帰りのカトマンズへの旅客が搭乗を始めていた事に驚いたのであった。飛行機の整備点検が確実に行われているのであろうかと??。迎えの車でこの日のホテルへ向かう。ポカラで宿泊したのは、ホテル「STUPA」。フェワ湖近くに位置する、ユニークな石造りのホテル。客室からは、ヒマラヤ連峰やフェワ湖の素晴らしい景色を望むことができ、レストランでは、ネパール料理、中華、西洋、インド料理などの様々な味が楽しめるホテル。チェックイン後街に出かけて昼食。フェワ湖畔のレストラン・ブーメランの野外席で湖を眺めながらネパール料理の昼食を楽しんだのだ。昼食後湖畔を散策。 ペワ湖の真ん中にぽっかりと浮かぶ小さな島が。この島にはヒンズー寺院であるバラヒ寺院(Barahi Mandir)があると。2層のパゴダ形式の寺院で、シャクティ(女性の力)の守護神であるアジマ神の化身とされる猪が祀られているとのこと。ダサインの祭りの最中であることもあり、この寺のお参りに多くの参拝客が小舟で向かっていた。しかしこの小舟には、定員人数を大幅に超える人が乗船、直ぐに転倒しても不思議ではない数であった。と言うことで、我々4人は船着き場でこの光景を眺めるのみで、バラヒ寺院観光はリスク回避したのであった。その後は今回の旅行で初めての自由散策・買い物。Sさんは街の繁華街にある床屋で髪の手入れ。この旅行前からこの地での散髪を計画していた模様。このネパールの街のいたるところに床屋があるのです。日本のコンビニ並に300mに一店はあると思って良いのでは。路上の床屋も多いのであるが、2~3畳ほどのスペースにお客さん用のイスが3つほどの床屋も多くあるのです。理容師はふたりといったところ。ほとんどハサミ一本でテキパキと仕上げてくれるのです。しかし言葉は通じず?Sさんが丸坊主になってしまうのではと心配していましたが無事・・・・・・・・・。他の人たちはバラバラで土産物屋、本屋巡りで楽しんだのだ。そして再び4人でマッサージ屋へ。日本と違い1時間約1200円と超割安。タイ式マッサージを注文、ここでは言葉は不要、半分うとうとしながら旅の疲れを取ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.19
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エベレストの絶景に感動しカトマンズ空港に戻ろうとしているとき、スチュワーデスのアナウンスが。『カトマンズ空港が視界不良により滑走路が閉鎖になった為、○○空港へ着陸し天候回復を待つ』と。○○は全く聞き取れず何処なの??眼下には後で解ったことだが、ガンジス川の上流に当たる大きな川が見えた。約30分ほど飛行し、着陸態勢へ。窓からはカトマンズ空港とは異なる田園風景が見えた。そして着陸し滑走路の脇に駐機。着陸した空港はネパール第三の都市、ビラトナガル空港。ガイドブックの地図を見ると、この地はカトマンズから300km以上あるインド国境に近い空港であることにビックリ。全員飛行機から降ろされ、飛行機の脇でカトマンズ空港の天候回復と飛行機の給油を待つ。機長も我々と同様に飛行機を降り機側でくつろぎ始めた。機長の話によると、『今日はエベレスト周辺は気流が安定していたためかなりエベレストに近づくことができた』と。『君たちは非常ラッキーな客だ』と、『昨日はエベレスト近くまで飛行したが雲が多くエベレストの姿は見えず戻った』と。しかしカトマンズ空港は視界不良。山の天気は急変するのであろう。勿論、この空港への緊急着陸に対す侘びの言葉もあったが、これも彼にとっては珍しい事では無い模様。そして待つこと約1時間、漸くカトマンズ空港が再開されたとのことで、ビラトナガル空港を離陸しカトマンズ空港へ。お陰で?再び3度目の遠きエベレストの姿を確認出来たのであった。途中、記念にフライトNOと機長の名前の入った『ヒマラヤ遊覧飛行証明書』を貰ったのでした。そして40分程度で無事カトマンズ空港に着陸。しかし我々はこの日、エベレスト遊覧飛行の後ポカラ空港へ移動の予定。このポカラ便のフライトも遅れながらも予定時間が迫っていたため、我々4人だけは送迎バスを降りずにそのままポカラ行きの飛行機に向かったのであった。まるで4人だけ拉致され移送される状態となったのである。一人であれば、さぞかし不安であっただろうが4人となれば。辛うじてポカラ行きの飛行機に間に合い、飛び乗り次の観光地に向かったのであった。 ネパール旅行で、最も楽しみにしていたヒマラヤ遊覧飛行は、興奮そのものであった。雲も風もなく天候に恵まれ、ヒマラヤの山々を身近に見ることが出来、感動のフライトとなったのであった。そして思いも寄らぬ地までも連れて行ってもらったのっであった。また、下界に雲がない場所では、はるかに広がる大きな氷河や遠くチベット平原までもが見渡せ、ヒマラヤ以外の眺望も多いに楽しんだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.19
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この日も5時起床。待望のエベレスト遊覧飛行に向かうのであった。早朝のため、ホテルの朝食は間に合わないので前日、ガイドのシェッカルさんが朝食用にサンドイッチを注文しておいてくれたのである。車で30分ほどでカトマンズ空港、国内線ターミナルに到着。入り口は遊覧飛行の客、国内移動の客でごった返していた。Yeti(イエティ)航空の係員が、我々を優先して待合室に案内してくれた。これも恐らくガイドからの袖の下のなせる技ではなかったであろうか??もちろん待合室も搭乗客でごった返していた。そして搭乗口には便名の表示が出る仕組みにはなっておらず、係員が搭乗便をマイクで放送する仕組み。ダンボ耳で待っていると漸く搭乗便が呼び出された。何故か、いや恐らく搭乗前の、X線ではなくタッチ式の身体検査のスペースの都合上、男女が区別された別々の搭乗口から、バスに乗り込みプロペラ機へ。7時出発であったが、この日のイエティ航空の双発機はなかなか飛び立たない。ヒマラヤの山の状況のためか、7時の出発予定が一時間半近く待たされる。観光客18人乗り、これに添乗員と機長、副操縦士の総勢21人のプロペラ機。観光客は両窓側に9人ずつ座りヒマラヤの山々を楽しむのであった。8時半に漸く離陸。雲の中を上昇していき雲を抜けると、遠く白く輝くヒマラヤの山々が青空の中に確認出来た。飛行機はランタン・ヒマ-ルからエベレストのあるクンブ-・ヒマ-ルを往復するコ-ス。「エベレストが見られる」ことが完全に保障されているので、運航予定日が悪天候で欠航となる場合は、自動的に翌日(または、利用者の都合のよい希望日)に、追加料金等なしで振り替えてもらうことができるのだ。カトマンドゥ空港を離陸し、エベレスト近くまで飛んで行ったものの、雲が多く、あまりヒマラヤが見えないときなども、いったん空港まで引き返し、この日のフライトはなかったことにしてくれ、翌日以降の都合のよい日に振り替えてくれるという、良心的な対応もうれしいのだ。しかしもちろん旅行日程に余裕があっての話であるが。そして左手に連なる白きヒマラヤの山々を見ているとスチュワーデスのエベレストが見えてきたとの声。子供の頃から、世界最高峰のエベレストを是非間近に見てみたいと思っていたが、これが実現した瞬間であった。サンスクリットの「ヒマ・アラヤ」(雪の住む処)を語源とするヒマラヤ、カラコルムを含む広義のヒマラヤは8000m級14座、7000m級240座、6000m級1350座を擁する巨大高連峰群で、世界の高峰べストテンの8峰までがこのネパール国内か国境上にあるのです。ネパールツアーのハイライトはもちろん世界最高峰エヴェレスト(8848m)遊覧飛行。ネパール語ではサガルマータ、チベットではチョモランマ、西欧風にはエヴェレストの名を持つこの山は、いまでこそ専門家ならかなり容易に?登頂できる山となって神秘性は薄れたが、世界最高峰の威厳は変わらないのである。その内に乗客1人ずつコックピットに案内され、操縦席から目の前に迫る山々を眺めることが出来るサービスが始まった。運が良く、ちょうどエベレストに差し掛かったとき順番が来たのだ。コックピットからエベレストの勇姿とこれを囲む白銀の峰峰はさすがに圧倒的な姿で私に迫ってきたのであった。標高8848mの世界一の山は、周りの山々の中で群を抜いて大きく、堂々たる威厳。そしてエベレストとその横にはヌプチェ(7855m)とローツェ(8501m)の雄大な姿が間近に。なんとネパール人の?女性副操縦士が指を指しながらこれら3山の名を説明してくれたのであった。更に飛行機はエベレストに近づいた。ズームで撮影してみると、頂上に登頂した登山家が旗を振っていれば、その姿を確認できるのではと思うほど近い場所で、この世界最高峰の山と対面することが出来たのであった。こちらはエベレスト南東壁であろう。通常はこの山の背面に雲が出来るのであるが、この日は全く雲が作られていないのであった。席に戻るとスチュワーデスも窓から見えるヒマラヤの山を説明してくれるのだが、名前など聞いても、同じような山が多くて、よく分からないのであったが。そして写真を撮るのに夢中な私がいたのであった。そしてあっと言う間に30分程の朝日の輝いて神々しいばかりのヒマラヤ山脈の遊覧飛行が終わり、カトマンズ空港に戻りつつあったが、その時・・・・・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.19
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4時間のトッレキングの後、やっと辿りついたチャングナラヤン寺院は、ヒンドゥ教のヴイシュヌ神の化身であるナラヤン神を本尊にした寺院で、カトマンドゥ市内のパシュパティナ-ト寺院とともに知られているのだ。 チャング・ナラヤン寺院は323年に建立された寺院で、ネパールでも最も古いものになる。しかしながら、現在のものは火災の後、1702年に再建されているとのこと。世界遺産にも登録された寺院。カトマンズ市街から東へ13km、バクタプールからは北へ4kmの丘の上にあった。標高1541mのところにあるので、盆地の町並みが見渡せたのであった。チャングナラヤン寺院の入り口。5世紀頃のものと思われる寺院の石銘には、カトマンズ盆地で最も古い寺院の1つであると刻まれていると。この寺院は紀元初期のネワール様式の芸術と建築の格好の見本となっており、石、木、金属等で造られた工芸品の典型例を見ることができたのである。世界遺産であることを示す石碑。チャングナラヤン本堂。4世紀に造られたこの像は、ネパール紙幣の10ルピーにも載っている貴重なもので、ビシュヌ神がガルーダに乗っている姿を現していると。寺院の屋根を支える板材の方杖彫刻。優雅でありながら力強いその彫技は見事。特に知られているのは、方杖下部のエロティックな世俗的彫刻とのことで、探してみた。写真下は男1人女2人で"お戯れ"のシーン。女性は現代でもインドの民族衣装としておなじみの短い丈のブラウスを着け、左の女性はスカートを脱いで足下に敷き、右は膝上までスカートをずらしてのお戯れで状態。正面のトラナと言われる本尊を洗わした表札。4本の手の内上部左手に棍棒、右手に円盤を持ったヴィシュヌ神が神妃ラクシューミ(左)とガルーダを従え、半円状のトラナに納まっているとの説明が。 人顔のガルーダ像。ガルーダはヴィシュヌ神の乗り物。城内には6~7世紀のヴィシュヌ神に関する国宝級の石像が数基あった。この日訪れたチャングナラヤンの境内の石像は上の写真の如く、とりわけ多くの花びらや色で被われていた。 日本では、たとえ寺の本堂に安置されている仏像でも、重要な文化財である以上その姿を改変するのはもっての他。こうした国宝級の作品が野ざらしで、しかも日々供養によってその姿を変えて行くというのを目にするのは、新鮮な驚きであったのである。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.18
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ビュータワーでの壮大な白きヒマラヤ山脈の絶景に感動した後は、ナガルコットからチャングナラヤンまでの4時間程度ののトレッキングを開始した。粘土の渇いた様な、滑りやすい曲りくねった道を歩き始めた。このコースはチャングナラヤンまで下りが多く、我々のトレッキングレベルで十分対応可能と私が判断し現地のRamさんに、このコースのトレッキングを事前予約しておいたのである。途中多くの段々畑(棚田:陸稲と粟を栽培)が見られ、その中に民家が散在していた。途中の広場では子供達が例のブランコで遊んでいた。この様な山間の田舎の子供達の明るい表情を見ると足の疲れが吹っ飛んでいく気分になったのである。そして子供達の目が、我が家の近くの公園で遊んでいる日本の子供達より数倍も輝いていると感じたのは私だけではないはずである。トレッキングコースとは言え、民家の前庭を通るところが各所に。日本であれば民家の敷地に無断で入り込んで行き叱れる状況。民家の軒先には、保存食用であろうか、乾燥のためのトウモロコシが見事に積み上げられていたのである。あどけない子供達の表情、そして右の男の子はふるチン。途中、中学生くらいの男の子2名が私に近寄ってきて英語で『自分の村は貧乏なので図書館に本が非常に少ない。本を購入するためにお金が欲しい』と。今一うさんくさいので無視して歩いていると、今度は私の目の前に広げた手を。その手のひらには日本円の硬貨が。100円玉と50円玉の2枚。この硬貨はこの村では使えないし、カトマンズの街へ行っても両替できないのでネパールルピーに両替して欲しいと。日本人の誰かが本の購入用に寄付したのであろう。これには負けてしまって100ルピー2枚と交換。この時のためにトレッキングをしている日本人を探していたのであろうか。 1回の休憩を入れ2時間ほど歩きテルコットという地に到着。ここテルコットはミニトレッキングの開始地点。ここから歩く事2時間で目的地のチャングナラヤンに到着するのだ。テルコットにあったヒンズー教の寺院。この場所でしばらく休憩していると屋根にも多くの乗客を乗せた乗り合いバスが到着。ネパールでバスの屋根に人が乗っているのを最初に見た時は、アクション映画以外では初めてでビックリしたのであるが・・・・・・・・・・・・。しかし、車で観光地を移動中にすれ違う多くのバスにも、同じようにバスの屋根に座っている人がいたのでネパールでは普通のことのようだ。普段は穏やかなネパール人のワイルドな一面をみた気がしたのであった。そしてガイドによると、最近屋根に乗っていた乗客が樹木の枝に引っかかり転落し死亡したと。ネパールは公共交通がほとんどない。市民はもっぱら遠いところへは白タクを利用するのだ。白タクはこのようなバス、乗用車、オート三輪などいろいろ。白タクはカトマンドウ、ポカラ市内ではどこでも拾えて、どこでも降ろしてくれるとのこと。市内なら10ルピー(日本円12円以下)とのこと。よって、道路のあちこちに白タクが呼び込み駐車するので、道路は一車線完全にふさがれていたのだ。これも数十年前の日本の姿にそっくり。よって先程の2階席付バスも高原行きの白タクバスに違いない。そして2階席のバス料金は室内と同額との話もあった。いやネパールはこの時期でもかなり気温が高いので、ここが冷房の効いたビジネスクラスになるのであろうか?暫く歩くと民家の庭先で洗濯をしている主婦の姿が。裸足で足も洗剤で真っ白。おそらく金ダライに衣類をいれ裸足の足で踏みつけて洗濯しているのであろう。流石に私の記憶の中では足踏み洗濯の姿は初めて見るのであった。山道では主婦が羊の放牧の最中。山の斜面は芝刈りをした如く、綺麗に草が山羊により見事に食べられていたのであった。まるでゴルフ場のグリーンの如し。そして最後の坂を汗をビッショリかきながら登りきると、目的地のチャングナラヤンの街並みが丘の上に姿を現したのであった。ナガラコットからチャングナラヤンまで4時間弱の山道を歩いてみたが、標高2000mの高地まで段段畑が造成され、盆地では稲作と野菜、山地では大麦の栽培と羊などの牧畜が盛んに行われていたのであった。こんな高地の山頂まで段段畑になっているのには、感動と感心の連続であったのだ。トレッキングの山道ですれ違うオバちゃん達に手を合わせ『ナマステ!』と言うと、にっこりと笑い、オバちゃんもやや恥じらいながら?『ナマステ!』と答えてくれたのであった。彼女等の所作を見ていると、自然の時間の流れの中で日の出と共に起床し、日の入りと共に寝るといった、ゆるやかな時の流れに身をゆだね生活をしている様で、遠い昔の日本の懐かしい原風景を見ているように感じられたのであった。彼女等は素朴に同じ事を毎日繰り返す、変わりの無い日常の中に、幸せを見付けているのであろうか。ヒンズー教では毎月祭りや行事があると。これも素朴な生活に潤いを与える為の彼らの知恵ではなかろうかと感じながらのトレッキングであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.18
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ナガルコットはカトマンズの東32kmに位置し、バクタプル地区の中でも最も風光明媚な観光ポイントのうちの1つ。標高2195m。好天の時にはヒマラヤの白き山々とそこから登る素晴らしい日の出の眺望が見られることで有名なのです。日の出をゆっくり鑑賞できるよう、カトマンズから前日の夕方にナガルコット入りすることを計画したのです。ナガルコットはエベレストをはじめ、頂上に雪を頂いた東部ネパールのヒマラヤを眺める最高のポイントとしてどのガイドブックやブログにも。さらに東にはインドラワティ渓谷の素晴らしい眺めが広がっているのです。前日の夜はロッジで夕食を済ませ、別棟の部屋に戻り、部屋でこの日も宴会。この夜は曇っていたため夜の星空は楽しむことが出来なかった。この日も5時起床。部屋の窓を開けると、雲は多いがその合間に青空も見え、日の出が期待できたのだ。カメラを持ちテラスへ。時間と共に黄金色の朝日が周囲の雲を空く赤く染めてきた。 (写真の時間表示は時差3時間15分が設定できていませんでした)日の出で山並みが光り、日が昇るに連れて変っていく空の色を存分に楽しむことができたのであった。テラスの下の山並みには雲海が拡がり幻想的な朝の景色。ロッジの建物が朝日を反射し輝いていた。カメラを構えていると、先ほど待て隣で写真を撮っていたHさんがいない。朝焼けが益々増して見事になってきたので大声で呼ぶも部屋から現れない。結局見事な朝焼けと日の出をHさんは見逃したのであった。後で聞いてみると、一時雲が厚くなったため日の出は無理と判断し、部屋に戻り電気カミソリで髭剃りをしていたと。その音で私の呼び声も聞こえなかった模様。7千、8千メートル級の白き山々を見渡しながらの展望バルコニーで朝食。その景色の見事さにしばし言葉を失う。そして食事も忘れるが如く、デジカメで朝日に輝くヒマラヤの山々を撮りまくったのであった。ホテルの展望バルコニーから正面にヒマラヤ連峰が見え、180度に拡がる大山脈のパノラマは壮大・絶景の一言。どの山が何で・・とその一つ一つの正しい山の名は解らないが。 山々が連なっているのだ。高く目立つ山は、ランタン・リルン(7,246m)、カンチェンボ(6,297m)、クールカポリ(6,874m)、ドルチェ・ラクパ(6,990m)であろうか・・。西側には、その後ポカラから大きく見えたマチャプチャレ(6,993m)、東側にはエヴェレスト(8,848m)が見えるとのことだが・・・・。ホテルの屋上には太陽光発電パネルが朝日に光っているのを発見。これもまた太陽光発電所長として至福の瞬間であった。朝食後チェックアウトし、ナガルコット・ビュータワーへドライブ。徒歩でも1時間ほどでビュータワーに着くのだという。しかしこの日はチャングナラヤンまでのトレッキングが控えているため車を利用。それにしてもネパールのドライバーは、常に手をクラクションの上にのせ、隙あらばクラクションを鳴らしているのだ。これもこの地ネパールでの安全運転の為の必須技術?車が辛うじて行き違えるほどの幅のゆるやかな登り道。所々の高台には警備所らしい建物が見え、歩行者や車を監視している姿が。兵舎や訓練場も見え、警備が厳しい模様。駐車場から5分ほど山を登るとビュータワーに到着。ビュータワーは我々5人のみで独占状態。やはり早朝に来た甲斐があったのだ。ヒマラヤの山々を鑑賞するには日の出から2時間程度が勝負なのである。快晴の朝でも、その後は山には急激に雲がかかってきてしまうのである。中央の山はドルチェ・ラクパ(6,966m)いや山々が自ら雲を作り自分の姿を隠すのである。山々が雲の隠れ始めたので、ビュータワーを後に下っていくと、若い日本人夫婦とすれ違う。彼らももう30分早く来れば絶景にあえたのであるが・・・・・・・・・・・。山、朝日、夕日鑑賞は一時の時間が勝負と痛感。まるで白き山々が湖の湖面に映っているような錯覚を覚えたのであった。山の名前を入れてみたが、文字が小さくて見えない。左からガンチェンボ(6,837m)、シシャパンマ(8,013m)、ドームブランク(6,083m)ドルジェラクパ(6,988m)、ランポガング(6,722m)、レディースピーク(6,000m)パブリチャーチュ(6,660m)と思われる。カトマンズの汚れた空気とは非常に縁遠い、ナガルコットの新鮮な空気を肺の隅々までいっぱい吸ってリフレッシュしたのであった。そしてナガルコットは1泊ではなく少なくとも2泊が必要と痛感しながら、チャングナラヤンまでの4時間強のトレッキングを開始したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.18
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バクタブルに移動する途中、カトマンズの郊外、焼き物の街ティミに立ち寄る。ティミはカトマンズから東へ10Kmに位置し、カトマンズ盆地の真ん中に位置するので「マディヤプル」(真ん中の町)と呼ばれているのである。 ティミはネワール族の伝統的工芸で有名な町で、焼き物、彫刻品、人形、お面、手織り布など多様な生産がされているが、中でも素焼きの水瓶、土鍋など日用品で使う焼き物が有名。この街の周辺で良質の土が採れるからであるが、その土は周辺の田畑から掘り起こした粘土とのガイドの説明。道の舗装の壊れているところが、非常にぬかるんでいる事に納得。しかしこの日はダサインのお祭りと日曜日が重なっていたため焼き物を造る職人の姿を見ることは出来なかった。庭隅に並べられ天日干しにされた素焼きの植木鉢?ティミの街を後にして15分ほどでバクタブルのダルバール広場に着く。『バクタ⇒礼拝者』、『ブル⇒街』、よってバクタブルは礼拝者の街、信仰の街の意、そしてダルバールとはネパール語で「宮廷」を意味する言葉であるとこれもガイドからの説明。王宮前の広場としてカトマンズやパタンにも同様のダルバール広場があったが、3人の王が美しさを競って造っただけあって、この広場も見事な宮殿や寺院が建ち並んでいたのであった。★ニャタポラ寺院トウマディー広場にあり、18世紀初めにプパティンドラ・マッラ王により建立され、5重の塔を持ち、高さ30メートル、カトマンズ盆地にある寺院の中で最も位の高い寺とのこと。石段両側には下から、伝説の戦士マッラ・象・獅子・グリフィン・女神の像が一対づつあり、普通の人間の10倍の力を持つ伝説の戦士から上へ行くほど力が10倍づつアップするのだそうだ。ニャタポラ寺院の本尊は女神シッディ・ラクシュミであるといわれているが、扉は釘付けされており、一度も開けられたことがないとのこと。1934年の大地震の際にも、ニャタポラ寺院は最小限の被害にとどまったため、建築技術の高さが評価されているのだと。5段の基壇の上に立つと町を見渡すことが出来るとのことだが残念ながら上ることは出来なかった。いやガイドに上がりたいと言えば良かったのだが予習不足。4人のツアーなので、この辺がこのツアーの特権であったのだが。★旧王宮の中にある王の沐浴場★ゴールデンゲート写真は旧王宮への入り口の門、ゴールデンゲート、この門にはガルーダにまたがるカーリー女神やヴィシュヌ神などヒンドゥの神々の装飾が一面に施されていた。ゴールデン・ゲートは彫刻もすばらしいが、特に門の上のトーラン(破風)が、凝っている。そして正面の4つの顔で10本腕の女神がタレジュ・バワニ。マッラ王朝の守護神であると。ゴールデンゲート前には、ネパールの石像の中で最も素晴らしいといわれるマッラ王の石柱が旧王宮に向かって祈る姿が。 ★パシュパティナート寺院バクタプル最古の寺院と言われているパシュパティナート寺院は、屋根の支柱の彫刻が特徴的。シヴァの化身のひとつであるパシュパティを祀っていますが屋根の支柱にはチベット仏教の影響を受けたエロティックな彫刻が施されていた。 ヒンズー教はカースト制が強いが、神様の姿は随分と世俗的でSEX中の彫刻もあるのだった。★55窓の宮殿ゴールデンゲート右側の55窓の宮殿。1427年にヤクシャ・マッラ王の統治期間に建てられ、17世紀にブパティンドラ・マッラ王によって再建された3層の建物には、その名のとおり55の窓が。本当に55窓あるかは数えたわけではないが・・・。★ダッタトラヤ寺院1427年にヤクシャ・マッラ王の統治時代に建立され、1458年にビシュワ・マッラ王により、改築された寺院。1本の木から彫りだされたといわれているのだ。ヒンドゥー教の寺院で、本尊はヴィシュヌの化身であるダッタトラヤ。寺の正面には柱があり、その上にはヴィシュヌの乗り物であるガルーダの像が。また、入り口には、伝説の戦士のジャヤ・マッラとパッタ・マッラの力士像が一対。ダッタトラヤはブッダのいとこであるとされるため、仏教徒にとっても重要な寺院とのこと。★ 孔雀の窓ダットラヤ寺院の裏側、木彫美術館となっているプジャリ・マート左側面の窓。かつては僧院だった15世紀の建物で、孔雀の窓はネワール彫刻の最高傑作とされる見事なもの。ひとつの窓を作るためにどれだけの時間が掛かったのであろうか。このような窓が、よく今まで保存されたものだ。窓枠というより、美術品と呼ぶべき造形。バクタブルの観光後、車に戻る途中に私のカメラにポーズを取ってくれた少年と少女。ティカを付けた額と愛らしい黒い目が印象的。ネパールの子供たちの笑顔を見ているとこの国の貧困さが信じられないのであった。バクタブルから15km程の、この日の宿泊地ナガルコットへの山道を車は登っていった。途中、乗り合いバスが急な山道の側溝に脱輪し、多くの乗客達は大きな荷物を持って、このバスを諦め、山道を徒歩で登っていくのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.17
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次にカトマンズの東に位置するパシュパティナート寺院を訪ねました。ここはネパール最大のヒンズー教寺院あるばかりではなく、世界中のヒンズー教徒にとっても重要な寺院であるとのこと。もちろんヒンズー教を国教とするネパールでは最高の聖なる場所なのです。寺が面しているバグマティ川は、ヒンズーの聖地バラーナシのあるガンジス河に通ずる支流にあたるため、ここのガート(ガンジス川岸に設置された階段)で荼毘に付せば母なる大河ガンガーへと戻ってゆくのだ。ゆえに、自分の遺灰をこの川に流してもらうのが、ネパールのヒンズー教徒の最高の願望なのです。墓を作らぬヒンズー教徒は、死んだら地球と一体になるのだと。そのバグマティ川の中では身体を清めている者もあれば、洗濯をする女の姿も見受けられるのであった。川に沿って10基近くの火葬ガートが並んでいて、かつてはカーストの身分によって使用できるガートが決まっていたそうだが(上流ほど高い身分)、現在はそういう制度はなくなったとのこと。パシュパティナート寺院はヒンズー教徒以外は立ち入れないが、火葬場は入場料を払えば誰でも入れるのです。この日も遺体が黄色いシートに包まれガードの最上段に安置され、その廻りを家族や親戚の方と思われる人々がこの遺体を囲んでいました。そしてガードの最下段まで遺体を運び、バグマティ川の水で遺体の最後のお清めをしていたのであった。近くのガートにはこの遺体を火葬にすべく、木材が積まれその上には鮮やかなオレンジ色のマリーゴールドの花輪が飾られていました。終日立ち込めるカトマンズの霧は火葬場の煙であるとさえ言われているほど、この場所で毎日多くの火葬の儀式が行われているのです。橋をはさんだ下流ではもう一つの遺体が荼毘に付されていました。藁に火を付けこれを積まれた木材の下に入れ木材を燃やすのです。ガイドの説明によると、完全に燃えるまでには2時間以上かかると。サドゥと呼ばれる3人のの修行僧も座りながらこの儀式を見つめていました。川沿いに並んでいる火葬ガートを見下ろす場所には多くの観光客が、この火葬風景を見つめカメラを構えていたのでした。(そう言う私もその中の一人なのでした)日本では遺体など屋外でそうそう見るものではない為、不思議な感じが妙にしたのでした。そしてヒンズー教では、人間は何千回も生まれ変わりを繰り返すとされていると。つまり「死」というものが何千回も来るものであり、そう考えればそのうちの1回が来たからといって特に悲しむことでもないのであろうか。ガートの近くには遺族らしい人たちが集まっていたが、遠くからではあるがそう悲しんでいる風にも見えなかったのは私だけであろうか。近くのこの川の河原には、巨大な竹製の大きなブランコが縄で縛った手作りで作られ。これに乗り遊んでいる子供達の姿があったのでした。これはヒンズー教の祭り「ダサイン」のために設置されたブランコでその後いろいろな場所で、この姿を見ることが出来たのでした。日本の昔の正月は、凧揚げやコマ回しをして遊びましたが、これに通じる遊びであることが解ったのでした。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.17
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観光の最初にカトマンズの東約6kmに位置する世界でも最大級の規模を誇る仏塔(ストゥーパ)が建つユネスコ世界遺産に登録されている「ボダナート」を訪ねた。チベット仏教徒の主要な巡礼地で、チベットから多くの巡礼者が来ているという。入場門から仏塔が見える。高さ36m、もちろんネパール最大のチベット仏教の仏塔で、四方を向いている目玉が印象的。この目が「目玉寺」と呼ばれる由縁なのだ。見る角度や気分によって、微笑んでいる様にも怒っている様にも見える。風にはためいている万国旗のようなものは『タルチョ』といって、それぞれに経文が書かれているのだ。ボダナートの「ボダ(ボゥッダ)」は「仏陀の」「仏教の」「知恵の」を意味し、「ナート」は「主人」「神」などを意味するのだ。三重の基壇と直径27mの石造りドームからなり、塔頂からのタルチョが、独自の雰囲気を醸し出していた。仏塔の周囲には仏塔を取り囲むように360度にわたってチベット人が経営する土産物店やレストラン、ホテルが立ち並び、観光地特有の賑わいをも見せていた。この仏塔の周りを、毎朝、信者たちがマニ車を持って周囲を108回コルラ(ストゥーパを右手に見て回ること)するとのこと。仏塔の4段の台座は瞑想を、白いドームは全ての煩悩から開放された無の境地、目の描かれた塔は涅槃に至るまでの13段の階段を表現しているとも言われているのだ。同時に、台座は地、半円球ののドームは水、四方を見据える目が描かれた部分と13層の尖塔は空を表すといわれているのだ。仏塔の横では、お参りをする人のためにローソクが売られていた。初めてネパール・チベットに日本人が訪れたのは1891年のことで河口彗海というお坊さんで、原初的な仏典を求めてチベットに入国し、ダライ・ラマ13世に謁見。1903年に帰国し、「西蔵旅行記」を刊行した人物の記念碑。仏塔の横の土産物売り場の前には人だかりが出来ていた。近づいてみると、どの人だかりも現金を賭けた各種のゲームが公然と行われているのであった。ネパール式?サイコロ博打で、この祭りの時期に大人も子供も小遣いを賭けて遊んでいるのだ。それにしても堂々たる巨大なストゥーパであった。そしてストゥーパ自体が曼荼羅になっているのだ。チベットのラサからの商人や巡礼者は、ヒマラヤを無事越えられた事、また、帰りのヒマラヤ越えの無事をここで祈り、この「眼力」に救われたに違いないとの想いを深くしながら次の観光地であるパシュパティナートへ車を走らせたのであった。下の車が我が旅行の移動の車、そして手前が見事な安全運転で我々のカトマンズ世界遺産巡りを楽しませてくれたドライバー、そして後ろが日本語が極めて堪能な、そして博識でユーモアに富んだガイドのバイジャラさん。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.17
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ホテルに戻ると、既にトレッキング会社の社長のRamさんが、我々を迎えに来てくれていました。東京で会ってから3ヶ月ぶりの再会となりました。『ようこそ ネパールへ』と。朝食後にRamさんのご自宅へ招かれ、車で向かいました。この日は、『ダサイン』と呼ばれるネパールでの年間で最大の秋祭りの真っ最中。街並みは多くの人々と、道路脇には数多くの出店が並びごった返していました。主な祭りの期間が10日間あるので、10を意味するダサインと呼ばれるとのこと。この祭りの間、会社や学校は休みになり、ラジオやテレビからはダサインの音楽が流れてくるのです。ここカトマンズでは、子どもたちが凧上げに興じ、市場は農家の人たちが連れてきた水牛やヤギ、ニワトリなどで一杯になるのです。これらの家畜は各家庭で悪を制覇した女神ドゥルガに犠牲としてささげられるのだと。祭りのメインの日であるこの日の10月17日、ダサミには、人々は真新しい洋服を着て一族の長老の家に挨拶に出向き、ティカと呼ばれる真紅の印を額に付けてもらうのです。Ramさんのご自宅に到着し、部屋に招かれると、既に10人以上の親戚の方が一つの部屋に集まっていました。日本でいう正月のようなものらしく、毎日家族や親戚、友人が集まってお祝いをするのです。そして長老の女性から年令順に次々とティカをつけてもらうのです。赤い粉と米粒をまぜて、これを額につける ヒンドゥ教の儀式なのです。長老の女性の前にはこの儀式で使われる大麦の芽??を黄色く染めたものが飾られていました。ティカと一緒に、このジャマラと呼ばれるものを耳に乗せたり、髪にさしたりしてもらうのです。社長のRamさんもティカをつけてもらいました。そして可愛い子供も。Ramさんの家の手伝いをしている姉妹。そして我々4人にもティカを付けてくれたのです。ティカを受けるSさんの後ろ姿。ナマステの挨拶の時の如く胸の前で手を合わせ祈りながらティカを受けるのです。このティカは自然に落ちるまで取っては行けないとのこと。併せて老女から、袋に入った100ルピーの『お年玉』?とリンゴをいただいたのです。約1時間弱の儀式でしたが、この国の伝統ある神聖な儀式に参加させていただいたのです。初めはヒンズー教に無知な我々が、この儀式に参加して良いのか、そして、してはならない行動をしてしまうことで、ご迷惑をかけてしまうのではないかとお断りしたのですが、『NO-PROBLEM』とのRamさんの言葉に甘えさせていただいたのです。そして儀式の後は、ティカを受けた全員でご自宅の庭での食事会にも参加させていただいたのです。バイキングスタイルの本格的なネパール料理を、この旅のスタートに楽しむことが出来たのです。そして同時に歓迎のビールもいただきました。約1時間の食事会が終わり、ネパール観光の旅がスタートしたのです。車で最初の観光地であるボタナートに向かう車窓から見えた街並みは、ティカで真っ赤な額を誇らしげにした人々で溢れ、賑わっていたのでした。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.17
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6時に起床し身支度を調え7時にホテルを出発しタメル地区への早朝散歩。ホテルは旧王宮の近くのカンチ道り沿い。ホテルを出て暫く歩くと赤い3重の塔をもつ トリデビ寺院 が左手に。日曜日のそして日本の正月に当たるダサイン祭の為か、店はシャッターを閉め開いている店は未だ無し。しかしこの場所は、ネパールの首都カトマンズ市内で外国人観光客に一番人気のタメル地区。あか抜けして洗練されたレストランやホテル、それに観光地の証し「みやげ屋」の立ち並んでいる街並。観光客だけではなく、地元の人たちも買い物やビジネスにやって来るので昼間はいつも人が溢れる混雑した街なのである。電柱に絡みついている電線の数に驚く。ぐちゃぐちゃ電線。これでは毎日停電するのも解る。そして一軒のみが停電した場合の原因を探すのに時間が掛かることは十分理解できる。複雑に絡み合った電線が、生き物のように街中を行き交っているのである。狭い道路の横には既に野菜を広げて売っている。ミニトマト、短めのダイコン、そしてカリフラワー・・・・・・。生きたナマズを売っている店もあった。ネパールは海のない国、よって魚は殆ど売られていない。唯一海の魚の干物が売られていた。 コインの木。コインが打ち付けられた仏像。近くでみるとネパール・ルピーの硬貨がクギで幾重にも重ねられて打ち付けられているのが確認できた。ちょっと遠目からみると「いったいアレはナンだろう?」と想像もつけられないような形状。立派な由緒のある仏像とのこと。地元の人たちはひっきりなしにやって来て、仏像の中央部に右手を伸ばし祈っていた。何千枚?ものコインが釘付けされている。歯痛を治す神様が祀られているとのこと。散歩の道には多くの野良犬が屯したり、横に寝ている。ただし殆どの犬が吠えずに物静かなのである。しかし朝から元気に子孫を残そうと頑張っている我々と同じく4人組が。朝から誠にご苦労様なのである。既に道端で髪を切ってもらっている者も。手に載せたうどん粉の液体を油鍋に見事に注ぎ込み、リングドーナツが出来上がって行く。ただ、揚げ油が古そうだ...。1つ買って食べて見たかったが、胃もたれしそうな感じの為断念。でも、1個10円ならこの油でも仕方ないのかもしれないが。衛生面も若干気になるところではあるが、高温の油で揚げていて、中までしっかり火を通しているので、大丈夫な気もするが...。ネパールで過剰に衛生面を気にしすぎると、ローカルな旨いいものを食べ損ねるばかりか、生活ができなくなってしまうのではと感じた。もちろん、自分の身を守るための、必要最低限の衛生・清潔はこだわる必要があるが。タメルとダルバール広場の中間地点くらいにあったストゥーパ。このカトマンズを代表するストゥーパはネパール人の熱い信仰の対象であり、それ自体がマンダラの構造をなしているとのこと。描かれた目は四方を見渡すブッダの知恵の目であり、常に変わることなく世界を照らしているというから、崇高にして有り難い図像なのである。日本では常に仏様の顔も姿も荘厳で慈悲に溢れるものとして造形されるが国と民族によって変容する仏の一端を見たように思ったのは私だけであろうか。約2時間弱の早朝散歩を楽しんだが、ネパールには日本でおなじみのコンビニがないのである。海外でも良く見かけるセブンイレブンもファミリーマートもない。早朝散歩時は必ずコンビニでお茶を買っていた私としては、ちょっと寂しいのであった。それでも、外国人が集まるこのタメルには大きめの雑貨屋さんはあった。飲み物(アルコール類も含む)、お菓子、シャンプーやトイレットペーパーや洗剤などの日用品、チャウチャウ(インスタントラーメン)などが売られていた。日本のコンビニと違うのは、弁当類がないことと雑誌類がないことくらいであろうか。店の広さも、日本のコンビニと同じくらい(地方にあるコンビニ限定)ということは、かなりコンビニに近いということか。9時には今回の旅行をアレンジしてくれた、このカトマンズでトレッキングツアーの会社の社長であるRam氏が、ホテルに来てくれることになっていたため、ホテルに急いで戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.17
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【海外旅行 ブログリスト】👈リンク今日からネパール旅行。『世界の屋根』ヒマラヤ山脈がはぐくむ壮大な自然と輝かしい文化の精髄に触れる旅である。今年は会社の先輩、後輩4人の男だけの旅である。4500万年以上前に、大陸だったインドがユーラシア大陸に衝突し、8000m級の山々がそびえるヒマラヤ山脈が形成されたのである。この山々に抱かれた肥沃なカトマンズの谷では、仏教とヒンズー教が融合した独特のネパール文化が発展し、街並みや暮らしの中に深く根付いているのだ。 早朝5時起床。9時の成田空港到着を目指して、前日会社からの帰宅後タクシー会社に早朝配車のTELをするも、3社とも何故か既に予約で満車であるとの回答。よって小田急線の駅まで徒歩でトランクを転がして行く事を決意。5時半に妻に見送られ自宅を出る。小田急線に乗り地元JR駅に到着後、成田空港行きのバス停に6時過ぎに到着。既に6:15発のバスに乗るために5人の外人がバスの到着を待っていた。バス乗車券を3700円で購入。バスに乗り込むと茅ヶ崎駅から乗車のSさんが迎えてくれた予定より早く8:20に成田空港第2ターミナルに到着。9時集合であったが既に76才のHさんは到着していた。もちろん今回もエコノミークラスでの旅。早速3人でチェックインの列に並び残り1名のIさんの到着を待つ。全員チェックイン、出国手続きを済ませ11:00発のキャセイ航空香港行きに搭乗。定刻に出発そして離陸。早速機内昼食が出た。そして昼食後機内から窓の下を覗くと、鹿児島県の薩摩半島の南端に位置する開聞岳と池田湖が見えた。別名薩摩富士とも言われている如く見事な円錐形の山容である。昔、池田湖には巨大水棲生物が存在していると噂され、ネス湖の未確認生物ネッシーになぞらえて「イッシー」と呼ばれていたことを思い出す。そして台湾上空へ。下には台中空港が。若い頃台湾出張時に移動に利用した懐かしい空港である。香港空港到着。巨大なハブ空港である。3.5HRのトランジット。4人で免税店巡りを行う。ホテルの部屋での宴会用に高級?ウイスキーを2本購入。空港待合室の横で開かれている香港の歴史や京劇の展示を楽しみ待ち時間を過ごす。そしてドラゴン航空のバングラデッシュのダッカ経由でネパール・カトマンズ行きに搭乗。予定どうり18:05発のKA192便でDhaka(ダッカ)へ。以前は香港からカトマンズへの直行便であったが、利用客を増やすためにこの10月からバングラデッシュのダッカ経由に変更となったのである。ドラゴン航空の機内夕食 鶏肉入りのパスタ。現地時間20:00にダッカ到着、そして機内に待つこと1時間半ほどでカトマンズへ向けて離陸。現地時間22:40に無事ネパール・カトマンズ空港に到着。ネパールと日本の時差は3時間15分。細かい15分と言う数字は何が目的?空港内にはWELCOM TO NEPALと画かれたエベレストの写真が迎えてくれたのである。荷物がなかなか出て来ず、そしてコンベヤーの不調もあり手間取ったが無事回収。『水戸黄門 ご一行様』と書かれたプラカードをもって、現地のトッレキング会社のバイジャラさんが迎えてくれたのである。車でホテルへ。そして現地通貨であるネパールルピーを各自1万円分バイラジャさんが準備してくれていたのである。心憎い気配りに皆感謝。深夜のため両替が出来ないのであった。左上から下に1000、500,100ルピー、 右上から下に50、20、10ルピー。車で30分ほどでホテルへ。チェックイン後早速部屋で宴会。そして7時からの早朝散歩を約束して、2:00に各自部屋に戻り就寝したのであった。 ・・・つづく・・・
2010.10.16
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我が家の庭のあちこちに各種の紫~赤の秋色の花が開花しています。まずは『ホトトギス』。名前の由来は花びらの斑点模様が鳥のホトトギスの腹の模様に似ているところに由来とのこと。花弁は6枚で、やや斜めに開いています。外側は白色で毛があり、内側は全体に紫紅色の斑点があり、基部近くに黄色の斑点が入っているのです。そして『ホウキグサ』も赤い色に紅葉してきました。そして『コムラサキ』。紫の実の鮮やかさが日に日に見事になってきています。『ミズヒキ』。茎の先端から数本の長い花茎を出し、まばらに赤い花をつけています。和名の由来は細くて長い花穂を祝儀封筒や進物にかける水引にたとえたものと言われているのです。最後に『食用菊』。黄色と紫色の2種類を栽培していますが、毎年この紫の花が先に開花するのです。この日は三杯酢でいただきました。しゃきしゃきとした歯ごたえ、ほのかな香り、ふっと甘くてほろ苦く、最高でした。この日は我が庭の秋の各種の紫の花々を目と口で鑑賞したのでした。 そして明朝からネパール旅行に出発します。ネパールは北を中国、南はインドと国境を接する東アジアの国。多民族国家であり、ヒンズー教と仏教文化に根ざした生活様式は多岐にわたり、数々の宗教儀式も相まって、非常に興味深い国なのです。ユネスコの世界遺産のスワヤンブナート、パシュパティナート、ボダナート、チャングナラヤン等の数々の寺院を訪れたいと思っています。そしてポカラ。ポカラはアンナプルナ山群、マチャプチャレに近く、世界的に有名なリゾート地。街の南西にあるペワ湖から眺めるヒマラヤの絶景に出会う旅なのです。また、トレッキングでサランコットの村まで出かけ、静かな農村風景と雪に覆われたヒマラヤのコントラストを楽しみたいと思っているのです。と言うことで暫く我がブログはお休み。
2010.10.15
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仕事で都内の竹橋の事務所に行ってきました。地下鉄東西線で竹橋駅で下車。地上に出て竹橋の交差点から北の丸公園方面に向かって歩いていると人混みが。その場所は国立近代美術館。上村松園展が開催されていたのだ。上村松園は 近代日本の美人画の代表的作家、そして 女流画家として初めての文化勲章を受章しや有名な画家である。看板には彼女の代表作『母子』の写真が。着物姿の母子を、夏のすだれの前にすずやかに描きだしているのである。長蛇の列の横で係りの男がマイクを片手に『チケット購入の列は70分』と。並んでいる人は女性が圧倒的に多い、そして年令は私より年配の人が多いのであった。そして入り口近くにある、やわらかい竹ならではのしなやかな空間の下で既に休憩中の老婦人が。美術館前庭の屋外に設置されたアトリエ・ワンの《まちあわせ》。見学が終了したのであろうか、それとも並ぶのを諦めたのであろうか。私も上村松園・松篁・淳之三代の作品が非常に好きである。いつか見学したいと思っていたが東京での展示は10月17日まで。今回は諦めざるを得ないと思いながら、長蛇の列を横目に客先事務所へと向かったのであった。
2010.10.14
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先日の北海道の出張帰りに、余市の国道沿いにある北海道の海産物点である『柿崎商店』にトイレ休憩も兼ね立ち寄りました。余市町は積丹半島の付け根に位置し、荒削りな岩肌、大自然によりつくられ連なった奇岩、怪石を眺めることが出来るのです。またソーラン節発祥の地として、ニシン漁とともに発展してきた街なのです。私が会社に入って間もない頃、この地にあるニッカウヰスキー余市工場に先輩に連れられて行ったことを懐かしく思い出したのです。「柿崎商店」は水産会社直営で、魚類が新鮮で安いことで有名な店。1Fで水産物を中心に販売している「柿崎商店」、2Fが食堂の「海鮮工房」なのです。駐車場は車を置くところがないくらいに大盛況!観光客だけでなく、地元民も買いに来ているくらい、その安さは魅力的なのです。家への土産に『カスベ』、『鮭筋子』『ホッケの開き』『生サーモン』を買って帰りました。カスベは、エイの仲間で分類上はサメとほとんどおなじ種族であり、標準和名はガンギエイというとのことです。写真のように、市場に入荷されているのはヒレの部分を皮を剥いた状態で、更にスーパー等ではこれをトレイに入る大きさにカットしたものが並べられているのです。 とは言うものの我が家の付近ではこのカスベを売っているのをあまり見たことがないのですが。カスベの煮付けを楽しみました。ちなみにカスベの骨は軟骨なので骨ごと食べられるのです。このコリコリ感を久しぶりに楽しんだのです。そういえば隣国・韓国にはもの凄い臭い食べ物でエイを発酵させた「ホンオ・フェ」という食べ物があるのです。若い頃仁川(インチョン)の近くに出張した折、客先の工場長がご馳走してくれたのです。エイには尿素が含まれているそうで、時間と共にこれがアンモニアになるそうで10日も置けば物凄い激臭を醸し出すのです。(笑)流石に一口だけ味わい『テッソヨ カムサムニダ』と言った記憶があります。 そしてホッケ、基本的に一年中漁獲されているとのことですが、漁獲は、定置網(ていちあみ)や底曳網(そこびきあみ)にて行われ、11月から12月にかけて漁獲量が増えるとは店員の話であった。また鮮度低下が早いため、開き干しにされることが多くなっているとのこと。しかし北海道では、ホッケの刺身が郷土料理になっていると自慢げに話をしてくれたのでした。ホッケの開き。こちらでは手に入らないくらいの大物。そして鮭筋子。筋子・イクラは、どちらも同じ鮭の卵なのです。筋子は卵をほぐさずにそのまま塩などで漬けますが、イクラは卵をほぐした後で漬けたものなのです。脂ののった秋鮭から採りだした新鮮な筋子。コクのある濃厚な味わいを楽しんだのでした。北海道土産を夕食に何日か品を変えて楽しむことが出来たのでした。
2010.10.13
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今年も我が養蜂場にオオスズメバチが来襲しています。そして今年のオオスズメバチの働き蜂は去年より大きいのです。この暑さで今年は大きくなったのでしょうか・・・。オオスズメバチがこの季節に幼虫に与えられる餌は、コガネムシやカミキリムシといった大型の甲虫類、あるいはスズメガなどの大型のイモムシ等とのこと。しかしこれらの大型昆虫が減少し、また大量の雄蜂と新女王蜂を養育しなければならないこの秋口には攻撃性が非常に高まり、オオスズメバチは集団で我がセイヨウミツバチいった巨大なコロニーを形成する社会性の蜂の巣を襲撃することで需要を満たすのです。これらの巣の働き蜂を全滅させるために働き蜂の筋肉に富む胸部に一気に噛みつき、これを肉団子にして巣に持ち帰るのです。昨日も巣門の前に多くの働き蜂の死骸が積み重なっていました。きっとオオスズメバチの集団攻撃を受けたに違いないのです。昨日はこれを防止するため、ホームセンターから16mm目のネットを購入しこれを巣に被いオオスズメバチの襲来対策としました。これで巣門入り口ののオオスズメトラップとの2重の安全装置となったのですが効果は如何に。 やや時期が遅れましたが、これで多少でも我が西洋ミツバチの命を守ることが出来ればと思って敷設したのです。更にミツバチの巣箱のオオスズメバチ対策として、インターネットでねずみ捕獲用の粘着シート『ねずみタイホ』を今年も購入しました。このシートは本を開くように開くとその内側両面に強力な粘着剤が貼り付けてあるのです。昨日もオオスズメバチが巣箱の廻りを探っていましたので、これを長柄の虫取り網で捕獲し踏みつぶしました。セイヨウミツバチに対しては恐怖感はほぼ無くなっていますが、さすがにオオスズメバチに対しては恐怖感があり超緊張するのです。捕獲したスズメバチを2匹、粘着シートに貼り付けて囮としたのです。貼り付けられたスズメバチはニオイで仲間を呼ぶので更にこの粘着シートに捕獲できるのだというのです。なるほど先日はオオスズメバチを捕獲し踏みつぶした後に立てかけて置いた虫網の踏みつぶした場所に新たなオオスズメバチが留まったのです。やはり捕獲され踏みつぶされた瞬間に敵対分泌液を噴出しこれが網の繊維に付着しここに次のオオスズメバチがこの分泌液に誘われた事が確認出来たのです。流石にこの虫網の柄を束みに行く勇気はなく、もう1本の虫網でこのオオスズメバチを捕殺したのでした。自宅に工具を取りに戻り、約5分後に養蜂場に戻ったところ新たなオオスズメバチが粘着シートの上でもがき苦しんでいたのです。効果抜群なのですが、こんなに早く捕まえることが出来たことを喜んでいいのか複雑な心境なのでした。もがき苦しめば苦しむほど粘着剤が体に巻き付き動けなくなっていくのです。一番安心なのはオオスズメバチが来襲しないことですが、これは無理ですのでなんとか昨日SETした細め網と粘着シートで我がセイヨウミツバチを守りたいと思っている『素人養蜂家』なのです。
2010.10.12
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娘夫婦が沖縄にダイビングに行き、土産に『豆腐?(とうふよう)』を買ってきてくれました。 沖縄豆腐?は、豆腐を米麹、紅麹、泡盛を使って発酵、熟成させたもので宮廷料理の逸品として今日に受け継がれている一品。豆腐とは思えないチーズのような食感と、雲丹(うに)の様な風味が酒の肴に最高なのです。独特の濃厚な味なので、ほんの少し舌の上にのせ、とろけるようなコクを味わう事が出来たのでした。今日はビールのつまみにいただきましたが、クラッカー、薄切れのフランスパンに豆腐?をつけてカナッペ風にすればワイン等とも合うし、もろきゅうの如くにキュウリにつければ日本酒のつまみにもイケること間違い無しです。そして説明書きによると、漬け汁の赤紅色(朱色)は紅麹そのものの麹発酵菌糸体の自然な色で合成着色料の色ではないとのことです。 ところで『豆腐』と『納豆』とは意味するものと字が入れ替わって逆であるという俗説があるのです。(以前にもブログに書いた記憶がありますが)「豆を腐らせたもの」は『納豆』ではないか、「豆を箱に納れて絞ったもの」が『豆腐』ではないか、という訳なのです。妙に納得してしまうのです。しかし納豆の語源は、寺の納所(台所)で作られたことに由来するといわれているのです。肉食が禁じられていたお坊さんたちにとって、納豆は非常に重要なタンパク源であったようです。納所で大豆を原料に作るから「納豆」なのだと。そのほか「煮豆を神棚に備えたところ、しめなわに付着していた納豆菌の働きで納豆になったと。神に納めた豆=納豆という説もあるのです。 http://www.nattou.com/topics/syurui.htmlよりそして豆腐は、中国から日本に持ち込まれた際,既にこの表記が使われていたとのこと。中国で豆腐と表記される様になった理由としては、豆乳を固めた物だからと。中国では「腐」と言う字は「凝固させる」「塊(かたまり)」の意味もあるのです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E8%85%90より日本語の「腐る」とは全く違うようです。漢字を使う国、中国、韓国、日本で、その漢字の意味が国によって微妙に違うのです。日本語の「腐」は、腐る(腐敗)、古くて役に立たない(陳腐)、心を苦しめる(腐心)・・・と、マイナスイメージのみで使用されているのです。 我が家では時々コストパーフォーマンスの良い『豆腐のもろみ(味噌)漬け【豆酩】(とうべい)』を妻が買ってくるのです。 豆腐を水切りした後、布に包んでもろみ味噌に1週間~半年ほど漬けこんだもので、漬けこむ味噌によって味が変わり、豆腐?と同じように酒やチーズのような風味を持つ一品なのです。 http://www.antennashop.jp/kongetsu/kongetsu_201003.htmlより熊本県の五木村周辺に伝わる保存食として有名で、伝承では1200年頃に平家の落者に よって保存食として利用されたことが発端であると伝えられている歴史ある食べ物なのです。 そしてこの日の夕食に、先日下諏訪出張の折り、高島城趾公園から拾ってきた銀杏を楽しんだのです。1週間ほど水につけ。果皮をこちらも腐らせ、実をとりだしたものです。そして妻が焼いてくれ、殻を割ってくれました。上の写真のお皿の文字に注目してください。この日のために購入しておいたのです???。
2010.10.11
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岩内での1日の仕事を終え、この日は岩内港の近くのビジネスホテルに宿泊。そして翌朝は岩内港魚市場への早朝散歩。岩内港は、積丹半島のつけ根に位置し北海道西海岸の中央の漁業基地そして商港として重要視されているのです。ホテルから歩くこと5分弱で岩内港に到着。港の岸壁には進水式が終わったばかりと思える新船が多くの大漁旗を飾った状態で停泊していました。この船の建造費はどの程度かかるのでしょうか。エンジン、通信設備等も全て入れると1000万円以上なのでしょうか?湾の向こうの突堤の中に岩内郡漁業協同組合 岩内地方卸売市場の建物が見えた。ここが魚市場であることは前夜ホテルのフロントの方から情報を入手しておいたのである。卸売市場に向けて歩を進める。湾内岸壁にはイカ釣り船が漁を終えて戻ってきたのか停泊中。それとも出港の準備をして時間が来るのを待っているのか。イカ釣り船は沢山のライトを搭載している、それがまたいい雰囲気なのですガラスの明かりが朝の太陽の光で、これから輝き出すのです。市場の中には既にいろいろな種類の魚が並べられ、競りの開始を待っていました。ヒラメやカレイ、小振りのフグもあがっていました。岸壁には多くの海鳥が餌を狙って集まってきていました。アホウドリやウミウなのでしょうか。岸壁では港に戻ってきたばかりの漁船が魚を陸揚げ中でした。近づいて箱の中を見せてもらうと大きめのホッケが。写真を撮っていると中年の漁師の方が話しかけてきました。今年はイカやサンマが不漁でどうしようもないと。ホッケは平年並みに捕れているが と。そして競りの開始時刻は8時半頃と。1時間半以上待たなければ行けないので諦めてホテルに戻る事としました。陸地側の岩内町の背後にはニセコ連山の北西端に位置する岩内岳が、ドッシリと聳えていました。まさに岩内町のシンボル的な山ですが、早朝のためか頂上は雲に覆われていたのでした。そして岩内港越しに北海道電力泊原子力発電所の3機の頂部が丸い薄緑の原子炉格納施設が小さく見えました。この加圧水型軽水炉(PWR)は3機とも稼働中とのこと。朝の潮騒、そして海鳥の鳴き声を心地よく耳にしながら、水面に映る朝日と潮の香りを楽しみながらの1時間強の散歩だったのです。
2010.10.10
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今週は北海道の積丹半島のつけ根に位置する日本海沿いの町、岩内町へ出張しました。定時まで会社に勤務の後、19:30発の飛行機で羽田空港から新千歳空港に向かいました。新千歳空港でレンタカーを借り、札幌方面へ。札幌駅周辺のホテルまで行きたいところでしたが到着が遅くなるため、手前の千歳駅前のホテルに宿泊することとし、途中札幌ラーメンで夕飯をとりホテル着。翌朝はこの日も早朝散歩。まずは近くの千歳駅へ。待合室には人が数名のみ。外観がうすいピンク色の駅。駅大道を歩き近くのグリーンベルトへ向かう。 かつては北大通りという通りであったが地下駐車場整備と同時に、広場などを設けた公園として整備されたとのこと。整備中の公園の木々は既に紅葉の真っ盛り。前日の雨での落葉。グリンベルト内の駐車場換気設備の廻りには色とりどりの花が植栽されていた。ピラカンサ?の実が見事な赤を魅せてくれていた。建物周辺の木々も見事に紅葉。ここでは秋の紅葉の真っ盛りである。グリーンベルトを横断する千歳川。支笏湖を源として石狩低地帯を流れる石狩川水系石狩川支流の一級河川。川沿いの遊歩道にも多くの花が植えられており散歩する市民の目を楽しませてくれるのである。千歳川に流れ込む小川の風景。木々も黄色く変身を始め、川面にその姿を静かに映していた。心洗われる田園風景であった。遊歩道の脇の空き地には名前は解らない植物が、野鳥の訪れを待っているのであろうか黒い実を真っ赤な衣装で飾っていたのである。この日も約1時間の北の大地の秋の早朝の冷気を心地よく感じながら、紅葉を楽しんだのであった。
2010.10.09
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下諏訪の仕事の帰り道沿いにある『諏訪大社』に立ち寄ってきました。 諏訪大社はお諏訪様と呼ばれる諏訪神社の総本社。上社と下社があり、上社が本宮(諏訪市)・前宮(茅野市)、下社が秋宮・春宮(共に下諏訪町)に分かれる二社四宮で鎮座。上社は建御名方神を祭神とし、古くは風の神、水の神、農耕・狩猟の神として信仰を集めていたとのこと。中世以降は東国第一の軍神として崇拝され、名将たちが全国各地に分霊を持ち帰ったのです。そのため全国に一万余りの御分社が祀られているとのこと。諏訪造りと呼ばれる本殿をもたない建築様式で、社殿と神宝は国の重要文化財に、社叢は県の天然記念物に指定されているのです。下馬橋(太鼓橋)諏訪大社下社春宮の大鳥居の前、御手洗川にかかる反り橋です。長さ10m・幅3mほどの小さな橋でしたが、桁行四間の銅瓦葺の屋根がかかっていました。1578年(天正6)に造営され、現在の橋は元文年間(1736~1740)に修築されたものとのこと。昔は境内に入る前に下馬し、参拝したと。現在でも遷座祭(神霊を本殿から仮殿へ、または仮殿から本殿へ遷す祭)の際は、御霊代[みたましろ]の御輿はここを渡るのです。 諏訪大社下社春宮の大鳥居下社は妃神の八坂刀売命〔やさかとめのかみ〕を祭っています。、八坂刀売は下社背後の和田峠守護の神と考えられているのです。鳥居をくぐり境内に入ると中央に神楽殿が。太い注連縄が飾られていました。下社では半年ごとに遷座祭が行われ2~7月には春宮、8~1月までは秋宮に祭神が交互に鎮座が変わるとのこと。この神事は秋に山の守護となっていた山の神が春になり里へ降り農作物の守護となる田の神に変わるという行為によく似ているとのことです。 幣拝殿。昨年9月から取り組んできた屋根の修復工事が終了し、これまでの銅板ぶきから、昭和初期の姿という檜皮ぶきに戻ったとのこと。 幣拝殿の見事な彫刻は、案内によると、柴宮長左衛門によるとのこと。下社春宮には本殿が無く御神木である杉の木を祭っていているとされ、その前には東西宝殿、さらに前には幣拝殿と左右片拝殿が建立され、さらに境内を囲むように4本の御柱が建てられていました。これらの社殿配置は諏訪大社特有のものとされ、諏訪周辺の神社にも同じ様な系統の神社が分布しているのです。諏訪大社では七年に一度の寅と申の年に宝殿を新築し、社殿の四隅にあるモミの大木を建て替える祭りを行うのです。この祭りを「式年造営御柱大祭」、通称「御柱祭」と呼び、諏訪地方の6市町村21万人の氏子がこぞって参加する天下の大祭です。そしてこの祭りが今年行われたのです。今年5月に立柱された春宮二乃御柱。直径約1メートル、長さ約16メートル、重さは約12トンもある樅(もみ)の大木なのです。諏訪大社の御柱祭だけでは終らないのが、諏訪の御柱のすごいところ。御柱の年である寅と申の今年は諏訪一円のあらゆる小宮でもそれぞれの地区や団体ごとに御柱祭が行われているのです。中には「大社には胸を貸しただけ。本当のお祭りは小宮の方だ」という人もいるほどと、屋台の土産物屋のオジサンの話でした。 そして更に、この御柱祭、実は何の為に行われているのか今となっては誰も知らないと。なにしろ、諏訪大社自身さえ、なぜこのお祭りが始まったのかはわからないのだと。
2010.10.08
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我が職場の近くにある保育園の校庭の『金木犀』が満開を迎えています。この時期に芳香の強い橙黄の小花を多数付けるキンモクセイ科キンモクセイ属の常緑小高木。花の香りによってこの木の存在が判るほどの強い良い香りなのです。花の直径は1センチ位でしょうか。花は無数に付くので、盛りを過ぎるとぽろぽろと散り、地面一面が黄色くなるのです。雨の後には金色の絨毯の如し。中国が原産とのこと。南部の有名な桂林市は並木や公園に多数の『金木犀』が植えられていて、名前の由来にもなっていると。ちなみに中国語で「金木犀」は「桂花」。よって「桂花」が林の如き地→「桂林」。この木は雌雄異株とのことですが、日本では雄性化してしまうため果実は見られないようです。また「金木犀」の咲くころに「松茸」が最盛期とも。年によっては2回咲くこともあり、「松茸」も同じとのことです。キンモクセイの花言葉は、『謙遜』と。謙遜→へりくだること。控え目な態度をとること。また、そのさま。花の強烈なあの香りの割に『謙遜』とはこれ如何に。 金木犀の薫りと冷たくなり始めの空気、そして紅葉、本格的な秋の到来です。金木犀が薫りだすたびに「四季のある日本」に感謝の『アラカンオジサン』なのです。
2010.10.07
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下諏訪に出張した折、茅野駅前のビジネスホテルに宿泊し、今回もこのホテルから徒歩で15分ほどの『高島城』へ早朝散歩に向かいました。我がホテルの部屋からの眺めです。中央に明るさを増した『高島城』が確認できました。ホテルの前の道路には、御柱祭りの大きな提灯がぶら下がっていました。15分ほど歩き、高島城交差点に到着。天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原城の北条氏を攻略して天下を統一すると、時の城主諏訪頼忠は武蔵に移され、秀吉配下の武将日根野高吉が2万7千石で高島城に入城したのです。文禄元年(1592)日根野高吉は茶臼山の山城を廃して、諏訪湖畔に新しい城の築城に着工、慶長3年(1598)にこの城が完成したとのこと。高島城の堀に架かる冠木(かぶき)橋。橋は全長約20メートル、幅4メートルほど。高島城は諏訪湖といくつかの河川が周囲をめぐって天然の堀となり、諏訪湖の波も城壁に迫り、あたかも水中から城郭が浮き出た形であったので「諏訪の浮城」と呼ばれ、その威容を誇ったと。現在の本丸には3層の天守閣があり、二の丸跡は庭園となっているのです。眼下には諏訪湖が広がり、遠く、富士山・八ヶ岳・穂高槍を遠望できるとのこと。勿論この朝は未だ閉館中につき遠望は楽しめませんでしたが。平城としては、国内最高の海抜(約760メ-トル)にあるとのこと。城内の公園には2羽の白鳥が仲良く餌を啄んでいました。いや本当は白鳥像なのです。人の字形の池に心を島で表わし、滝や渓流を配して躍動感を与えて造られたものであるとのこと。堀沿いの柳が朝の風に揺れていました。高島城からホテルに戻る途中に、上諏訪病院の歴史ある正面入口門が。歴史的な建物の壁には緑の蔦が壁一面を被っていました。この日も約1時間の早朝散歩を楽しんだのでした。この日は前日のブログにも書きましたように、高島公園内でたくさんの銀杏を拾いこれをビニール袋に入れホテルに持ち帰ったのです。
2010.10.06
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我が家の9月の太陽光発電(京セラ、5.76kw)の実績がまとまりました。 発電量 585kw消費量 537kw売電量 437kw買電量 389kw自給率 108% と言う稼働実績となりました。中旬までは順調でしたが、9/23の秋分の日以降の長雨の影響が出ました。 発電開始以来の月別発電量実績です。緑が今年の実績です。6月以降、2008年、2009年実績を上回っています。我が市の住宅用太陽光発電システム設置費補助金の概要です。藤沢市住宅用太陽光発電システム設置費補助金対象市内の住宅に新規に太陽光発電システムを設置する個人補助金額1kWあたり5万円/上限15万円申請期間平成22年5月6日~問い合わせ先経営企画部 環境都市政策課TEL:0466-25-1111そして最大受けられ補助金のシュミレーションです。市の方が最大受けられる補助金の合計 (3kWの場合)国の補助金21万円神奈川県の補助金6万円藤沢市の補助金15万円合計42万円我々住宅用太陽光発電の仲間が増えることを大いに期待している『発電所長』なのです。
2010.10.05
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先週末は長野・下伊那に出張しました。JR茅野駅の近くのビジネスホテルに前夜泊。そして翌朝はいつものように早朝散歩。目指すは「高島城」、散歩の報告は別途とし、城内公園で銀杏拾いをしましたのでこの報告を。イチョウは漢字変換すると『公孫樹』そして『銀杏』、ギンナンを漢字変換すると『銀杏』、よって『銀杏』はイチョウ、ギンナンの両方に使われているようです。中国原産。昔、留学僧が持ち帰って広まったらしいのです。 「公」は祖父の尊称。祖父がタネをまいても、実がなるのは孫の代になることから『公孫樹』 城内でやや黄色く紅葉を始めたイチョウの木の下に、腐って萎れたサクランボのようなギンナンの果実が???そのものの臭いを発散して大量に落ちていました。ギンナンのくさい果肉を取り除くのはけっこう大変で、食べる際に種の殻を割って中身を取り出すのもまたひと苦労なのですが、手間が掛かる分なおさら美味しく感じるというもの。と言うものの殻割りは妻に100%依存していますが・・・・。城内の清掃をしていたボランティアのオジサン?が持っていたビニール袋を1枚くれましたので大きめの実を拾ってきました。大きなビニール袋に入れ袋を2重にして、匂いが漏れていないことを確認し、鞄に入れ持ち帰りました。子供の頃、銀杏の果肉を取り除く際は非常にカブレやすいので必ずゴム手袋をして、果肉が皮膚に触れないようにくれぐれも注意が必要だと亡き祖母から教わった記憶があります。現在は自宅の空きバケツの水の中で果肉を腐らせている最中です。
2010.10.04
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妻が先週末にスーパーで米と国産松茸を買ってきました。「食欲の秋」の到来です。スポーツや読書は1年中できますが、秋の味覚はこの秋にしか満喫できないのです。日本人の魂ともいえる最高級の香りがたまらない『松茸』と大きく実った甘味『栗』を買ってきてくれたのです。10月に入り、平年なら旬を迎える秋の味覚、国産マツタケに不作の懸念が出てきたとのテレビ報道。市場に出回る量が少なく、卸値も急騰。猛暑が原因とする見方が多く、生産量は過去最低だった昨年をさらに下回る可能性もあるとのこと。先週末に下諏訪に仕事で行ってきましたが、この地にお住まいのお客様も今年はこの辺も不作で殆ど採れないのではないかとの話でした。現場の廻りは赤松林で囲まれ松茸には絶好の場所に見えたのですが。松茸はキシメジ科キシメジ属キシメジ亜属マツタケ節のキノコの一種。秋の9月~11月にかけてアカマツやコメツガ、ツガなどの林地に生えます。現在のところ日本の技術でも人工栽培することができず、自然に生えているものを秋に収穫するだけなのです。過去には日本でも多く取れましたが、マツクイムシにより松林が激減したことや、乱獲と山林の開発、そして松の葉や枝を燃料として利用しなくなり松林が荒れたことにより収穫量が激減してしまっているのですそのため、高価で取引されています。高級食材としてのイメージがとても強いいや高級食品そのものなのです。最近では韓国や北朝鮮、カナダ、米国から安い輸入物がスーパーマーケットなどで多く見られますが、日本産に比べると風味が落ちると言われているのです・・・・・・・。"姿・形は中国産 松茸!" "風味・味ならアメリカ・カナダ産 松茸" とも言われています。今回購入したものは長さは7~9cmくらいでしたが、一番太いのは直径が5cmくらいあり、なかなか立派なのです。 松茸ご飯。この季節には一度は食べたい、秋の香りを満喫できる炊き込みご飯 松茸のお吸い物。松茸の魅力は、その香りと、傘が開く前の愛らしい姿にあるのです。松茸入りすき焼き風味。松茸は噛むと、しこしことかなりの歯ごたえが。醤油と砂糖の甘い煮汁により松茸独特の香味が強く味わえたのでした。松茸のバター焼き。味付けは僅かな醤油と、我が農園のミカンの絞り汁。なかなかの歯ごたえでした。 最初の文章に誤りがありました。『米と国産松茸』と書いてしまいました。『と』が余分でした。『米国産松茸』なのでした。でも国産並み?に旨かったのです。いや国産の松茸を食べたのはいつだったのでしょう・・・・・・・・・・・・。
2010.10.03
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今年も自宅から車で15分ほどの慶応大学藤沢キャンバス近くの小出川沿いの彼岸花を見に昨日 6時出発の「早朝ドライブ」をしてきました。小出川大黒橋(藤沢市遠藤)~追出橋(茅ヶ崎市芹沢)までの約3km区間が彼岸花鑑賞のための散策コースになっているのです。もちろん今年も早朝のため、見学者はほとんど無く地元の叔父さん、叔母さんがゆっくりと犬と散歩をしている程度。畦道に延びる『赤い帯』。『彼岸花まつり』は先週の9/23(祝日)に行われたのですが、今年は猛暑の影響で開花が約1週間程度遅れているとの情報から、早朝鑑賞を昨日に変更したのです。昨日はまさに満開となり、田んぼの畦道に彩りを添えていたのでした。 彼岸花は曼珠沙華(マンジュシャゲ、またはマンジュシャカ)とも呼ばれる多年生の球根性植物。朝の陽射しの中で輝き始めていました。その姿は独特で、この夏の終わりから秋の初めにかけて、高さ30 - 50cmの枝も葉も節もない花茎が地上に突出し、その先端に包に包まれた花序が一つだけ付くのです。そして包が破れると5 - 7個前後の花が顔を出すのです。赤い花の中に遠慮がちに白い花が混じっています。まるでメスの働き蜂(赤)の中の雄蜂(白)の如し。白ではなく近くの赤に染まってしまったのでしょうか、うすいピンク色の彼岸花。花は短い柄があって横を向いて開き、全体としてはすべての花が輪生状に外向きに並ぶのです。花弁は長さ40mm、幅約5mmと細長く、大きく反り返る特徴ある形なのです。花と葉を同時に見ることはできない彼岸花。葉のあるときには花はなく、花のときには葉がないのです。このことから韓国では「サンチョ(相思華)」と呼ぶとのこと。「花は葉を思い、葉は花を思う」という意味からと。国それぞれで風流な名前を付けているのです。(旅友からの情報です) 薄紅の秋桜と白い萩の花に囲まれた中、真っ赤な赤を主張している彼岸花。 そしてこの花は異名が多く、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花 (ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花 (すてごばな)、はっかけばばあと・・・・呼んで、日本では不吉であると忌み嫌わ れることもあるとの事。そう言う我が家もこの花は白いもののみ植えてあるのです。 妻の意見もあり、やはりなんとなく赤は・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 赤と緑の相対色の中で黄色の花が存在感を示していました。 先日も昼休みの同僚との会話で「子供の頃、彼岸花を見ると足がすくむほど 怖かった」、「何だか不気味」という人もいれば、「あの妖艶さが好き」「この花を 見ると癒される」という人と人それぞれ。いずれにしても彼岸花は妙に "妖しい" 花なのです。 この花の群生をこの場所で見る度に、山口百恵の歌『曼珠沙華』を思い出すのです。 阿木曜子さん作詞のこの歌が「マンジュシャゲ」ではなく「マンジュシャカ」なのが 話題となったのです。サンスクリット語ではmanjusakaと書くことからのようですが。 マンジューシャカ 恋する女は マンジューシャカ 罪作り 命すべてを もやし尽くすの マンジューシャカ 恋する女は マンジューシャカ 罪作り 白い夢さえ 深紅に染める 彼岸花は、この場所の如く、田んぼのあぜ道や土手に多くみかけますが、 これはノネズミがあぜ道や土手に穴を開けるのを、彼岸花の毒性のある球根を 植えることで防ぐ、という説と、彼岸花の根茎は強いため、田んぼの畦部分に 植えて畦の作りを強くするためなどの説があるとのことですが真相は如何に。 今年も見事に咲いてくれていました。これも地元の方がこの土手の除草を丁寧に 行って、この日の為にきめ細かい管理してくれたお陰なのです。感謝・感謝・感謝。 曼珠沙華という名は、サンスクリットでは「天上の花」「赤い花」という意味で、 おめでたいことが起こる兆しに、赤い花が天から降り落ちるという仏教の経典に 由来しているのです。 そして10/16からはネパール旅行。先日読んだネパール案内書には、 ネパール語はヒンディー語、ウルドゥー語とも近いが、ペルシャ語や英語からの 転用語は比較的少なく、サンスクリット起源の単語が多いとのこと。 さらにネパール仏教では、インドで成立した大乗仏典がサンスクリット語のまま継承 されており、四方を山に囲まれたカトマンズ盆地に残っていたサンスクリット経典が、 近代の大乗仏教研究に大きく貢献したと。そして現在、世界各地で研究されている サンスクリット語仏典にはネパールに伝わっていたものが数多く含まれている とのこと。 サンスクリットでは「天上の花」「赤い花」の意味である『曼珠沙華』の花。 燃えるような真っ赤な色の帯をなす光景が、稲の黄、空の青、雲の白、草の緑 との素晴らしいマッチングに、今年も大いに感激しながら、そろそろネパール旅行が カウントダウンに入ったと実感しながら自宅に戻った『アラカンオジサン』なのです。
2010.10.02
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護国神社見学後、県総合文化公園へ。 宮崎 県立図書館。県総合文化公園の北側に建つ施設で、県内有数の蔵書数を備えた図書館。建物側面に連なる円形の柱が印象的な外観を有していたのです。歴史に名を残している宮崎が誇る俳人、若山牧水の銅像。若山牧水は1885年(明治18年)宮崎県内の村(現の日向市にあたる)の医師・若山立蔵の長男として生まれたのだ。宮崎県立延岡中学校に入学。このころから短歌と俳句を始め、桂露と号し、17歳のときに様々な雑誌に歌を出版するようになり、そして19歳のとき、牧水と号したと。その後早稲田大学文学科に入学し、同級生に北原白秋がいるとのこと。宮崎県立美術館とその前庭の彫刻作品。アメリカの彫刻家ジョージ・シュガーマンが、宮崎県の自然を象徴的に表現した彫刻作品とのこと。この緑は高千穂峡や日向岬にある柱状節理の断崖 馬ヶ背を表言しているのでしょうか?メディキット県民文化センター、旧宮崎県立芸術劇場。県総合文化公園の南側に位置する県内有数のコンサートホールを備えた施設で、現代的な外観を有していました。毎年、この施設を中心に宮崎国際音楽祭が開催されるなど、県の文化芸術の中核拠点として、多くの県民・市民に親しまれているとのこと。抽象的な表現の支柱が池の水面に映り美しい光景を見せてくれていたのでした。美しい女が金色の球体を抱き口づけしているのでしょうか?球体は彼女の『夢』? 以前 大阪「中之島緑道」で見た河原 明 氏の作品「雲の詩」を思い出したのでした。県立美術館西側の屋外に常設展示してある彫刻『天泉(てんせん)』『天泉』は世界的彫刻家安田侃さんの代表的な作品で、2002年に同美術館が安田さんに依頼した作品とのこと。高さ2・6メートルほどで、かまくらのような形をしており、素材は大理石の見事な曲線空間を表現した作品であった。公園の芝生のなかに立つ 石井十次の銅像。石井十次は、日本で最初に孤児院を創設した人物と。「児童福祉の父」と言われるいると。これも子供達に歩むべき道程を指し示しているのであろうか?県総合文化公園を後にし、ホテル近くの大淀川にかかる橘橋まで戻る。橋の手前の植栽には南国の花 ブーゲンビリアが濃いピンク色で出迎えてくれた。ブーゲンビリアも濃いピンクや赤い部分は花ではないのです。白いラッパのような部分が花で、ピンクや紫色のパーツは苞(ほう)というのだそうです。南国の情熱的なイメージの花なのですが、香りがまったくないのもちょっと不思議な感じです。その為か虫たちが殆ど集まってきていないことで納得。太陽も次第に高くなり南国の青空に椰子の木も映えてきていた。6時過ぎスタートの約2時間の宮崎での早朝散歩を終え、ホテルに戻りシャワーを浴び朝食後仕事先の現場へ向かったのであった。この日、宮崎から飛行機で羽田空港経由で早めの帰宅。そして帰宅時の万歩計である。
2010.10.01
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