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【友愛数】(ゆうあいすう、英: amicable numbers)とは、異なる 2 つの自然数の組で、自分自身を除いた約数の和が、互いに他方と等しくなるような数をいう。親和数(しんわすう)とも呼ばれる。最小の【友愛数】の組は (220, 284) である。220 の自分自身を除いた約数は、1, 2, 4, 5, 10, 11, 20, 22, 44, 55, 110 で、1+2+4+5+10+11+20+22+44+55+110=284、和は 284 となる。一方、284 の自分自身を除いた約数は、1, 2, 4, 71, 142 で、1+2+4+71+142=220、和は 220 である。それぞれ相手と一致する。【友愛数】はピタゴラス学派の時代にはすでに知られていた。現在まで知られる友愛数の組は、すべて偶数同士または奇数同士の組である。(220, 284) の次に求められた友愛数は (17296, 18416) である。この友愛数はそれ以前にも求められていたが、フェルマーにより再発見された。2番目に小さい友愛数(1184、1210)が発見されたのは、1866年にニコロ・パガニーニという16歳の少年によるものだった。その後、オイラーにより 60 余りの友愛数が求められているがこのオイラーをもってしても、2番目に小さい友愛数を発見することができなかったということになる。なお、自分自身を除いた約数の和が元の数と等しい場合には、「完全数」と呼ばれる。自分自身を除いた約数の和を次の数として同じように計算していき元の数に戻る場合には、その組を「社交数」という。【友愛数】の例友愛数の組を小さい順に列記すると(220, 284), (1184, 1210), (2620, 2924), (5020, 5564), (6232, 6368), (10744, 10856), (12285, 14595), (17296, 18416), (63020, 76084), (66928, 66992), …17世紀中ごろに、フェルマが「17296」「18416」を、デカルトが「9363584」「9437056」を見つけ、18世紀には、L=オイラーが友愛数を探し出すための法則を考え出すことによって、60組み余りを発見した。現在は、こうしたオイラーの法則やコンピューターを用いることによって、多数の友愛数の組が確認されており、2018年1月1日現在においては、12億以上の友愛数の組が発見されているようである。「1000万以下の友愛数」👈リンク。未解決問題・友愛数の組は無数に存在するか?・偶数と奇数からなる友愛数の組は存在するか?友愛数を作り出す法則 たとえば、n=2 を以上 3つの式に代入してみると、 p=5 、 q=11 、r=71となり、p,q,r すべてが素数になります。 よって友愛数(220、284)を求めることができました。 n=3 のときは r が合成数になるためダメですが、n=4 のときは p、q、rすべて素数に なるので、代入して計算すると、【友愛数】 ( 17296 , 18416 ) を求めることができます。そして、【友愛数】の概念については、さらに一般化された概念が存在している。例えば、「友愛三数(amicable triple)」というのは、「三つの数字のうちのどれかひとつの自分自身を除いた約数の和が、残り二つを足したものに等しくなるという関係にある数字の組」のことをいう。具体的には、(103340640、123228768、124015008)がその例となっている。即ち、以下の関係が成り立っている。103340640の(自分自身以外の)約数の和 247243776=123228768+124015008123228768の(自分自身以外の)約数の和 227355648=103340640+124015008124015008の(自分自身以外の)約数の和 226569408=103340640+123228768このような概念は、さらに一般的にn個の数字の組に一般化されていくことになる。数字を巡る世界は、興味・関心の幅を広げていくと尽きないものになっていく。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.31
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桜木町の北改札西口出口前から横浜駅方面を見る。ーーがこの日・(その20)の散策ルート。「桜木町2丁目交差点」の横断歩道を渡り、旧横濱鉄道歴史展示(旧横ギャラリー)に向かって「東京環状道路」に沿って進む。左側にJR東日本ホテルメッツ(HOTEL METS) 横浜桜木町の看板があった。そして「旧横濱鉄道歴史展示(旧横ギャラリー)」内部に入る。ここシアル桜木町アネックスは1階には「成城石井」、フードホール「KITEKI(キテキ)」、2階に「スターバックス」が出店していた。また1階には旧横濱鉄道歴史展示「旧横ギャラリー」があり、誰でも見学無料なのであった。右窓側に鉄道創業期に使われていた110形蒸気機関車。「鉄道記念物」だと。近づいて。110形は、かつて日本国有鉄道の前身である鉄道院・鉄道省に在籍した蒸気機関車。150形などと共に、1872年(明治5年)の日本初の鉄道開業に際して、イギリスから輸入された蒸気機関車5形式10両のうちの1形式で、1両のみが輸入された。1871年(明治4年)、ヨークシャー社 (Yorkshire Engine Co., Meadow Hall Works) 製(製造番号164)で、国鉄、私鉄を通して日本唯一のヨークシャー製蒸気機関車であった。正面から。主要諸元をウィキペディアより転記。原形と水タンク増大後の値をスラッシュ( / )の前後に示す。全長 : 7,004mm/7,194mm全高 : 3,353mm/3,327mm軌間 : 1,067mm車軸配置 : 2-4-0 (1B)動輪直径 : 1,219mm弁装置:スチーブンソン式基本型シリンダー(直径×行程) : 292mm×457mmボイラー圧力 : 7.7kg/cm2火格子面積 : 0.74m2全伝熱面積 : 51.0m2/51.3m2煙管蒸発伝熱面積 : 46.6m2/46.9m2火室蒸発伝熱面積 : 4.4m2ボイラー水容量 : 1.7m3(1914年版形式図による)小煙管(直径×長サ×数) : 44.5mm×2,565mm×130本機関車運転整備重量 : 22.31t(1909年版形式図による。1914年版では23.01t)機関車空車重量 : 18.84t(1914年版形式図による)機関車動輪上重量(運転整備時) : 15.50t(1909年版形式図による。1914年版では15.88t)機関車動輪軸重(第1動輪上) : 8.48t(1909年版形式図による。1914年版では8.61t)水タンク容量 : 2.01m3/2.34m3(増大後は推計値)燃料積載量 : 0.56t機関車性能シリンダ引張力(0.85P): 2,090kgブレーキ装置 : 手ブレーキ、蒸気ブレーキ(後付け)1961年(昭和36年)に鉄道記念物に指定され、鉄道開業90周年を記念して開設された東京都青梅市の青梅鉄道公園に移され、同公園で車体を切開されたままの状態で静態保存されていたが、2019年(令和元年)8月31日]をもって展示を終了し、青梅鉄道公園から搬出された。2020年(令和2年)に入りここ、神奈川県横浜市の桜木町駅南側で新たに開業した複合ビル「JR桜木町ビル」の1階にある商業施設「CIAL桜木町 ANNEX」の「旧横濱鉄道歴史展示(通称・旧横ギャラリー)」に移設し、切開部分の復元が施行されたうえで英国の資料や専門家の協力を基に作成された中等木造客車の実物大レプリカなどの資料と共に設置され、6月27日の新南口の供用開始とともに公開されたのであった。「帰ってきた110形機関車」展示の実物機関車は、1872年の鉄道創時に英国から輸入された蒸気機関車です。この地に荷掲げされて以来、日本各地で活躍し、2020年に再びここへ戻りました。「長き航海を経て日本に到着、ここ横浜の地に陸揚げされた。」「鉄道創業時の機関車」1871 (明治4)年、英国からス工ズ運河(1869年開通)を経由し、横浜港に5種10両の機関車が到着しましたこれらの車両は、この地に存在した横浜停車場構内の作業場で組み立てられました。「受け継がれる鉄道への夢」憧れの汽車とモノづくり明治期から、蒸気機関車の疾走する力強い雄姿、そして汽笛の音と煙は、子供たちの興味と憧れの対象であリ、科学の扉を開く教材でした。「憧れの汽車とモノづくり明治期から、蒸気機関車の疾走する力強い雄姿、そして汽笛の音と煙は、子供たちの興味と憧れの対象であり、科学の扉を開く教材でした。」「技術者への道昔の製図器・蒸気気関車図面・製図教本等明治初期から政府は日本人技師の育成に努め、その結果、明治10年代には日本人技師設計による建造物や、同26年には国産の蒸気機関車を造るまでになった。以降、産業立国として数多くの優秀な技術者か登場した。」「夢を載せて走る!鉄道玩具造らせて遊び、なりきって楽しむ・・・いつの時代も変わることがない、鉄道玩具に投影する想い」エスカレーターで2Fに上がると、正面には「STARBUCKS」があった。2Fから、「110形機関車」を見る。廻り込んで。客車を見る。エスカレーターを下りながら。ボイラー部分のバルブ、配管。ここが「運転台」であったのであろう。レールと車輪。動輪直径は1,219mm (4ft) 、のちには1,245mm (4ft1in) とされている。車軸配置2-4-0 (1B) で2気筒単式の飽和式タンク機関車である。同時に輸入された10両のうちで、最も小柄な機関車であった。弁装置は当時多かったスチーブンソン式、安全弁はサルター式で、ボイラーの中央上部に蒸気ドームを有している。運転台は、前面に風除けを設け、屋根は4本の細い鋼管により支持されるのみで、後部は完全に開放されていたが、後に後部にも丸窓を設けた風除けを整備している。水タンク高さも原形では低かったが、1887年(明治20年)から1892年(明治25年)の間に5インチ (127mm) ほど上に継ぎ足している。枕木が全く見えないほどの砂利が敷かれていたのであったが・・・。現在の線路では枕木の上部は見えるのだが・・・。車輌の速度が上昇し、上部の砂利の飛散が発生するのが理由だったのか?「双頭レール1872 (明治5 )年の鉄道創業時は、英国から輸入した錬鉄製の双頭レールが使用されました。双頭レールは裏返して再使用する予定でしたが、摩耗や腐食などにより再使用されず、1879 (明治12)年から順次、鋼鉄製の平底レールに置き換えられました。このレールは1873 (明治6)年、英国のダーリントンで製造され、新橋~横浜間または大阪~神戸間にて使用するために輸入したものと考えられています。後に日本石油(株)柏崎製油所(新潟県)で使用され、地元有志の尽力により長年大切に保管されてきました。レールには標記(ロールマーク)が付せられており、製造者・製造年・発注者の情報が読み取れます。下の拓本は本展示のロールマークを縮小表示したものです。●重量:60lb/yd(29.8kg/m) ●レール1本の全長:24ft(7.32m)」機関車に連結されている客車は、イギリスから輸入した当時の客車を再現しているのだと。前後にデッキを有する中央通路式で、室内左右にロングシートが配置されていた。「鉄道創業時の中等客車(再現)日本に輸入された客車は、上等車1 0両、中等車40両、緩急車8両の計58両で、全て英国製でした。外観や車内の構造は上等車、中等車ともにほほ同じで、両端に出入口を兼ねたオープンテッキがあり、車内は中央通路式となっています展示の客車は、鉄道開業期にM.モーザーが撮影した、横浜停車場に留置中の車両写真、英国製古典客車図面、車両形式図等の記載寸法を参考に、中等客車として再現しました。木造の客室部、車輪脇の板バネは新造し、本来は金属製である緩衝器は、木地をろくろ挽きで製作。他の国内で入手困難な金属部品は英国から輸入した古物を使用しています車輪の外観は、創業期に用いられ乗り心地に優れているとされる、木製の「マンセルホイール」をイメージし、その造形を施しました。室内照明(オイルランプ)は、古文献や英国製のものを参考に電気式で再現しています。色彩は、当時の浮世絵、M、モーザー撮影写真のコントラスト、そして昔の英国車両を参考に配色しました●客車サイズ:全長7,630mm(緩衝器含む) 全幅約2,21Omm (客室側壁部) ●定員: 24名」壁面パネルや明治初期の横濱停車場と街の風景を再現したジオラマなど鉄道発祥の地にちなんだものを多数展示。鉄道ファンならぜひ一度は足を運びたいコーナーでは。「最初の客車と明治のお客様」「創業時の客車と出札新橋~横浜間29kmにおいて、創業時の時刻表では1日9往復で、全線所要時間は53分でした。当時の人々にとって、馬より速い乗り物で移動することは大変な驚きでした。」「創業時の客車客車は全て英国から輸入され、その数は上等車10両(定員18名、サロン客車の定員12名)、中等車40両(定員22名または24名)、貨物緩急車8両の計58両であった。中等車のうち、26両は鉄道開業時までに下等車へと改造された。模型は明治の資料や洋世絵、写真を元に、イメージ、再現したものである。」「鉄道創業期の切符仮開業時の横浜~品川間の運賃は上等1円50銭、中等1円、下等の料金が50銭で、4~12才の小児は半額だった。以下略。」「旅の小物と駅前送迎明治期、鉄道に乗って旅する人々のスタイルは江戸時代の風情を残しながらも、あらゆる面で利便性が追求され、現代へとつながる進化が始まりました。」ホームに停車中の写真。「旧横濱停車場~乗降場の演出本施設では、開業時の汽車の発車情景をイメージし、音と光による演出を行なうています。実際には当時の横浜と新橋の汽車出発時刻は下記の通りで、1日9往復、片道53分の行程でした。( 12 : 00と13 : 00発は無し)■1872 (明治5 )年10月、開業期の汽車発車時刻(横浜、新橋共通) 08 :00、09: 00、10: 00、11 : 00、14 : 00、15 : 00、16 : 00、17 : 00、18 : 00列車の時刻が迫ってくると、その5分前と2分前に振鈴(鐘)が鳴らされました。駆け込んで来る乗客も多く、石貼りの停車場内には下駄などの足音が響いていました。機関車の運転台では動力源の蒸気圧を上げるため、シャベルで石炭を火室に投炭し、出発の準備をしています。客が乗り終えると、係員が安全のため客室ドアを施錠しました。定刻に駅長が手笛の合図を発すると、汽笛一声!蒸気と煙を吐きながら、汽車は一路、新橋方面に動き出すのです。」「道床の砂利創業時の道床は主に川砂利が利用され、焼土・細砂・砕石も用いられました。道床(砂利部)の高さはレールの外側はレール上面まで、内側はレール上面から約5cm下までで、レールを固定するチェアや枕木は砂利に覆われていました。現在のように砂利が枕木の上面までとなったのは1906 (明治39 )年以降です。」明治初期の横濱停車場と街の風景のジオラマ。別の角度から。「明治初期の横濱停車場と街の風景1872 (明治5 )年に開業した日本初の鉄道駅である横浜停車場は、外国人居留地に隣接する野毛浦の海を埋め立てた現在のこの場所に存在しました。明治初期、厳重な柵に囲まれた広大なこの鉄道施設は、江戸時代からの生活感が漂う対岸の野毛の街並みとは対照的でした。柵越しに当時の人々の目に映る機関車や客車、モダンな建築、設備、そこに行き交う洋装の職員や乗客たちの様子は、まさに西洋の科学技術・文化を知るショーウインドウとなりました。明治初期の庶民にとって停車場を利用し、汽車に乗車する事は大きな憧れであったことでしよう。以来、この地は長きにわたって日本の産業や文化の発展を支えていく、重要な場所となっていくのです。」横濱停車場の駅舎をズームして。「横濱停車場構内案内圖 明治初期の施設配置★現在地 このジオラマおよび案内図の位置①駅本屋 1871 (明治4)年竣工。新橋駅舎とほぼ同じ造り。②乗降場 長さ90.9mのプラットホーム。③造車庫 貨客車用車庫。修繕や組立てにも使用された。④荷物積所 貨物や小手荷物の積み卸しが行われたと思われる。⑤荷物庫 構内において最大規模の面積を持つ建物。⑥三ツ車台 貨物車用の転車台。隣の線路への移動が可能。⑦鍛冶所 車両修繕などの金属材料の加工を行なっていた。⑧機関車庫 機関車を収納。一般的な扇形でない特殊な形状。⑨転車台 蒸気機関車の方向を転換させる装置。直経12m。⑩給水塔 蒸気機関車に水を供給するための貯水設備。⑪石炭渡所 蒸気機関車に石炭を積み込むための台状の足場。⑫倉庫 最初に建てられ、機関車等の組立てを行なった建物。⑬石炭庫 蒸気機関車に使用するための石炭貯蔵施設。⑭外国人官宅 上級職(技師など)以外の、外国人作業員の官舎。」「明治の鉄道建設と発展に貢献した人々お雇い外国人の顔ぶれ明治政府は殖産興業と富国強兵を推し進めるため、欧米の技術・学問・制度の導入を決定し、英国をはじめ、大勢の外国をを雇用しました。中でも鉄道関係者は多かったといわれます。・エドモンド・モレル・トーマス・R・シャービントン・ウォルター・フィンチ・ページ・フランシス・ヘンリー・トレビシック鉄道建設に尽力した日本人鉄道導入の成功と、その後の飛躍的な発展は、政府の役人をはじめ、実業家・技師・職工・職員に至る、多くの日本人関係者による献身的な努力の賜物でした。・井上 勝・高島 喜右衛門・佐藤 政養・三村 周」1階に下りて、蒸気機関車と客車の連結装置。「銘板」と「案内板」。「鉄道記念物 110形蒸気機関車 1961(昭和36)年10月14日指定」。「110形蒸気機関車(110号)1871(明治4)年、英国のヨークシャー・エンジン社の製造で、1872 (明治5)年の鉄道創業時に「10号機関車」として新橋、横浜間で使用され、後に「3号機関車」と呼ばれた日本で最も古い機関車の一つです。1909 (明治42)年、「110号」に名を改められ、1918 (大正7)年まで各所て活躍し、廃車後は車体の一部を切開ののち.大言工場内にあった「鉄道参考品陳列所」て技術者育成の教材として展示されました。1961 (昭和36)年には「鉄道記念物」に指定され、翌年から2019(令和元)年まで青梅鉄道公園で保存展示されました。その後、大宮工場にて溶接を使用しない工法で切開箇所を閉腹し、錆の除去や破損箇所の修復を行い、本機の晩年頃の姿を再現しました。(形状が不明な箇所は資料が残る明治初期の形状を参考にしました。)そして、2020 (令和2)年、旧横濱停車場であるこの地へ戻りました。●機関車全長:7,214mm●動輪直径: 1,245mm●動輪配置:1・B・0●シリンダ直径x 行程: 299x 432 mm●機関車重量:運転整備23.04t 空車18.85t●購入時価格:2,600ポンド(船賃含む)●使用蒸気圧: 8. Okg/cm2」「移りゆく野毛山からの景色桜木町駅近くの野毛山は、昔から横浜の風景を一望できる景勝地でした。人々は幕末から近代にかけて変貎する街の姿をここから展望してきました。」「初期の横濱停車場構内とその界隈1923(大正12)年9月1日、関東大震災発生。」「鉄道創業時の信号や設備日本で最初の鉄道は、様々な技術や車両の導入だけでなく、その運用を安全かっ正確に行なうための仕組みも英国に倣って整備されました。」「ステンショ周辺の名所と施設外国人居留地に隣接した横浜停車場の周辺には、昔からの名所とともに、他に先駆けて設置された最新の施設がありました」鉄道創業期の遠方信号(再元)。「鉄道創業期の遠方信号機(再現)これは、日本初の鉄道信号機を実物大で再現したものです。創業当時の信号機は、英国製で「相図柱」と呼ばれ、木造でした。相図柱は高さ約9.3mの「ホームシグナル」(場内信号機)と、高さ約6.9mの「ジスタントシグナル」(遠方信号機)の2種類があり、新橋~横浜間ではこの腕木式信号機が計16基設置されていました。列車への走行指示は、腕木の角度やランプの光の色で示し、腕木垂直(夜間白色光)は「進行」、腕木水平(夜間赤色光)は「停止」を意味しました。この信号機は設置当初、ランプの昇降装置が装備されておらず、はしごを登って設置、点火していました。」外に出ても、展示品が外に向かって。「初代鉄道建築師長 エドモンド・モレル」。「エドモンド・モレル」。窓ガラスが反射して・・・。「旧横濱鉄道歴史展示この地に存在した、日本初の鉄道駅「横濱停車場」の様子と横浜~新橋間を駆け抜けた機関車や客車、そして新たな時代を「鉄道」という文明の利器によって切り拓いた、明治の先人達の活躍を紹介します。」「鉄道創業時に使用され蒸気機関車展示の110形蒸気機関車について1871 (明治4)年 英国にて製造され、日本に輸入。1872 (明治5)年 鉄道創業時、10号として運用。1876 (明治9)年 機関車の番号を3に改番。1909 (明治42)年 形式称号改正で110形となる。1923 (大正12)年 廃車(諸説あり)後、大宮工場に展示。1961 (昭和36)年 鉄道記念物に指定。1962 (昭和37)年 青梅鉄道公園へ移転。2020 (令和2)年 この地へ移り、屋内展示となる。」「英国から輸入された最初の客車再現された創業時の客車輸入された客車は、上等車10両(定員18人)、中等車40両(定員22か24人)、荷物緩急車8両の計58両でした。構造は前後にデッキを有する中央通路式で、室内左右にロングシートが配置されていました。開業時に中等客車を改造し、26両を下等客車としました。展示の客車は英国や、明治期の資料を元に再現した中等客車です。」「この地に存在した日本初の鉄道駅「横濱停車場」旧横濱停車場と桜木町駅1872 (明治5)年 横濱停車場がこの地に開業。1915 (大正4)年 横浜駅は移転、桜木町駅に改名。1923 (大正12)年 関東大震災にて初代駅舎消失。1927 (昭和2)年 2代目桜木町駅舎が完成。1964 (昭和39)年 根線開通に伴い、駅舎を改築。1989 (平成元)年 3代目駅舎は高架下駅となる。」現在の地図に重ねた鉄道創業期の横濱停車場。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.31
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7月13日(水)からNHK総合で毎週水曜 午後11時 (2022年7月~9月)に『笑わない数学』と題して、パンサー尾形貴弘が難解な数学の世界を大真面目に解説する異色の知的エンターテインメント番組が放送されている。現在までに7月13日放送 『素数』7月20日 『無限』7月27日 『四色問題』8月 3日 『P対NP問題』8月10日 『ポアンカレ予想』8月17日 『虚数』 8月24日 『フェルマーの最終定理』 が放送されてきた。そして先週の『フェルマーの最終定理』は17世紀、フランスの天才数学者フェルマーは、あるメモを書き残した。「“xのn乗+yのn乗=zのn乗”を満たす自然数x、y、zは存在しない(nは3以上)」。すなわち「3 以上の自然数 について、xn + yn = zn となる自然数の組 (x, y, z)は存在しない」、という定理のことである。ところが、これが正しいことを示す証明が「紙の余白がない」という理由で残されていなかったのだ。果たして、フェルマーの言葉は正しいのか?中学生でも理解できるこの問題に、多くの数学者たちが挑戦し、敗れ去った。証明に至るまで350年、苦闘のドラマをテレビは描いたのであった。放送内容が非常に面白かったので、学生時代を想出しながらもう少しこの内容を学びたいと思い、市民図書館で下記の本『サイモン・シン 青木薫訳 フェルマーの最終定理』を借りて読み始めているのである。その中の、導入部で『不思議な数』についても触れられており、これらの内容についても、昔を想い出しながら私も学びたいと考えたのである。1回目の今回は【完全数】について学んだので、ここに私の『備忘録』&『メモ』として、アップさせて頂きたく。【完全数】(かんぜんすう、英: perfect number)とは、自分自身が自分自身を除く正の約数の和に等しくなる自然数のことである。完全数の最初の4個は6 (= 1 + 2 + 3)、(6の約数は1,2,3、以下同じ)28 (= 1 + 2 + 4 + 7 + 14)、496 (= 1 + 2 + 4 + 8 + 16 + 31 + 62 + 124 + 248) 、8128 (= 1 + 2 + 4 + 8 + 16 + 32 + 64 + 127 + 254 + 508 + 1016 + 2032 + 4064)である。「完全数」は「万物は数なり」と考えたピタゴラスが名付けた数の一つであることに由来するが、彼がなぜ「完全」と考えたのかについては何も書き残されていないようである★完全数は限られている実は、完全数は、現時点で確認されているものは51個しかない(2021年1月時点)。小さい順に、6、28、496、8128……と続くが、1万以下の完全数はこの4つしかないのだと。この後33550336、8589869056、137438691328、2305843008139952128、・・・・・とつづく。2018年に見つかった51番目の完全数は4900万桁以上もある、とてつもなく大きいものである。そして、その全てが「偶数」であると。紀元前4世紀頃から続く研究の中で、わずか51個しか見つかっていないのだから、完全数は相当珍しい数であることは間違いない。しかし、完全数は無数に存在することが期待されている(証明はされていない)。★完全数を巡る未解決問題完全数については、・「完全数が無数に存在するのか、有限なのか」、・「奇数の完全数は存在するのか」、・「1の位が6か8以外の完全数は存在するのか」といった問題は未解決のままであるのだ と。これらの問題自体はシンプルで、数学者でなくても理解できるが、その解答は極めて難しい と。★メルセンヌ素数とは「メルセンヌ数(Mn:Mersenne number)」とは、メルセンヌ数Mnが素数であるとき,メルセンヌ素数 (Mersenne prime) という完全数については、「偶数の完全数は、全て2n-1×(2n-1)の形である」ことが知られている。より、詳しくは、2n-1が素数であるような正の整数nに対して、2n-1×(2n-1)は完全数となるが、逆に、偶数の完全数は2n-1が素数であるような正の整数nを用いて、2n-1×(2n-1)という形で表される。「メルセンヌ素数と偶数の完全数は1対1に対応している」ことが知られている。また、現時点で確認されている完全数は限られており、2021年6月に51個目が発見されていた。整数 完全数n=2 6=21× (22-1) n=3 28=22 × (23-1)n=5 496=24 × (25-1) n=7 8128=26 × (27-1)n=13 33550336=212× (213-1)★完全数の興味深い特徴完全数はいくつかの興味深い特徴を有している。例を挙げると以下の通りである。(1)6以外の完全数は、奇数の立法和で表される。 具体的には、以下の通りである。 28=13+33 496=13+33+53+73 8128=13+33+53+73+93+113+133+153 33550336=13+33+53+73+93+113+133+153+ ・・・・・ +1233+1253+1273(2)6以外の完全数は4の倍数となっている。(3)完全数は、連続した自然数の和で示される。 具体的には、以下の通りである。 6=1+2+3 28=1+2+3+4+5+6+7 496=1+2+3+ ・・・・・ +31 8128=1+2+3+ ・・・・・ +127 33550336==1+2+3+ ・・・・・ +8191完全数の歴史紀元前3世紀にユークリッド(Euclid)が、既に先に述べた「2n-1が素数であるような正の整数nに対して、2n-1×(2n-1)は完全数となる」ことを証明し、最初の4つの完全数を発見したといわれている。従って、極めて古い歴史を有している。 なお、現在51個の完全数(メルセンヌ素数)があると述べたが、通常我々は、これは小さい順に発見されており、今後発見される新たな完全数は現存する最大のもの以上になるだろう、という感覚がある。ところが、現実は47番目の完全数が見つかった後に、それよりも小さい45番目の完全数が発見されている。2016年9月に、現在の45番目までのメルセンヌ素数より小さいものは存在しないことが確認されているが、46番目から、現時点で最大のメルセンヌ素数までの間に、新たなメルセンヌ素数がないことは未だ確認されておらず、新たなメルセンヌ素数が発見されるかもしれない、とのことである。多くの方々は、数学のような世界では、もっとシステム的に秩序だって事実が解明されていくものだと認識していると思われるが、必ずしもそうとは限らないというところが、何とも不思議な話ではないだろうか と。完全数は、どんな意味を有しているのか完全数の6は「神が世界を6日間で創造した」ことに関係していると言われている。6といえば、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の6種の曜からなる「六曜」があるが、これは1ヶ月(≒30日)を5等分して6日を一定の周期とし(30÷5 = 6)、それぞれの日を星ごとに区別するための単位として使われたとのことであるが、これに完全数が関係しているのかは定かではない。さらに、6という数字は各種の単位の基礎数字となっている。例えば、12(=6×2)は、1年の月数であり、干支や星座の数でもある。24(=6×4)は1日の時間数であり、30(=6×5)は1ヶ月の日数である。60=(6×10)は1時間の分数であり、360(=6×60)は円の角度である、といった具合である。28は「月の公転周期が28日である」ことに関係していると考えられている。28といえば、成人の頭蓋骨は舌骨を除いて28個の骨からなっており、人間の歯の本数は、親知らずを含めなければ28本ある。496は、古代ギリシャ人が「天地創造の神の数字」として崇めていた神秘的な数字と言われている。数字はいろいろと面白い性格を有している。暇な時には、数字遊びをしてみるのも、頭の体操にはよい事間違いなし。そして【擬似完全数】もあるのだ。【擬似完全数】とは自分自身を除く『いくつかの約数の総和』が元の数に等しい ということ。例えば12は【擬似完全数】です。12の約数は、1, 2, 3, 4, 6, 12です。このうち、2と4と6を使うと、2+4+6=12となり、12と等しくなります。よって、12は【擬似完全数】であることがわかります。そしてΠ(パイ)の数字に似た304も【擬似完全数】である。304の約数は、1, 2, 4, 8, 16, 19, 38, 76, 152, 304このうち、1, 2, 16, 19, 38, 76, 152を使うと、1+2+16+19+38+76+152=304となるので、【擬似完全数】の条件を満たすことがわかります。【擬似完全数】を小さい順に列記すると6,12,18,20,24,28,30,36,40,42,48,54,56,60,66,72,78,80,84,88,90,96,100・・・・更に【擬似完全数】のうち、その約数に他の擬似完全数を含まない数を【原始擬似完全数】という。【原始擬似完全数】は無数に存在し、そのうち最小の数は 6 である。【原始擬似完全数】を小さい順に列記すると6, 20, 28, 88, 104, 272, 304, 350, 368, 464, 490, 496, 550, 572, 650, 748, 770,910, 945, 1184, …となる。20の約数は1,2,3,4,5,10,20であるが、20=1+2+3+5+10であり【擬似完全数】が含まれない。上記の304も【擬似完全数】が含まれないので【原始擬似完全数】である。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.30
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この日は8月19日(金)、天候も回復したので、久しぶりに『港・ヨコハマ』を訪ねることに。2019年の9月に『港・ヨコハマ』を巡る で(その18)までアップしたが、まだまだ訪ねていない場所があったので、更に!と思っていたが、この日に『落穂拾い』を決断し向かったのであった。前回訪ねた2019年9月はコロナの前。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、2019年12月初旬に、中国の武漢市で第1例目の感染者が報告されてから、わずか数カ月ほどの間にパンデミックと言われる世界的な流行となった。わが国においては、2020年1月15日に最初の感染者が確認されたのであった。そして2020 年1月から2月にかけて、アジア各国を周遊してきた大型客船ダイヤモンドプリンセス号(DP 号)船内で新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の集団感染が起きた。DP 号船内では 3,711人の乗員・乗客のうち、最終的に672名の感染が報告されたのであった。DP号は2020年2月3日に、ここ横浜港大黒ふ頭に接岸し、乗員・乗客の検疫が始まるとともに、無症状者、軽症者は主に関東地方各地および遠方の医療施設へ、医療を必要とする中等症、重症者は主に神奈川県内の医療機関に転送された。患者の転送は2020年2月3日から3月1日まで続いたのであった。そして神奈川県内12施設に転送されたCOVID-19感染者は70名にも及んだのであった。そして現在も継続しており、8月26日時点 のおいて全国の感染確認数19,413人、死亡者数321人、それぞれ延べ人数としては感染確認数1821万2025人、死亡者数3万8582人の深刻な状況が継続しているとのことである。上記の如きコロナの影響で、ここ1年以上は我が住む市の隣都町の『社寺旧跡』巡りをひたすら巡り続けて来たが、気分転換もあり、再び『港・ヨコハマ』を巡ることにしたのでもあった。この日も早朝に自宅を出発し、小田急線で湘南台駅に。そして横浜市営地下鉄で桜木町駅に向かったのだ。そして35分程で桜木町駅に到着。JR桜木町駅周辺の地図をズームして。JR根岸線 桜木町駅西口へのエスカレーターを上る。エスカレーターを下り、振り返る。「野毛ちかみち」は、はにかんだピエロがお出迎え!「ちかみち」は「地下道」それとも「近道」それとも「両方」の意か?ーーがこの日・(その19)の散策ルート。桜木町駅周辺を散策。JR桜木町駅南改札前(西口)が前方に。南改札口を出た正面には、なんと柱一つ一つが桜木町駅や鉄道にまつわる資料展示スペースになっていたのであった。「桜木町にやってきた鉄道車両初代横浜駅は新橋駅と同じく、アメリカ人建築家、R・P・プリジェンスの設計で、この場所から関内駅方面へ120m程の地に位置し、華麗な外観を誇りました。」「追憶の野毛・桜木町駅」「庶民の街として親しまれてきた野毛、またその玄関口として街の変遷を見守って来た桜木町界隈は、いつの時代も人々の活気ある息吹を感じ取る事ができます。野毛の風景 明治から大正、昭和まで、桜木町周辺の写真が展示されていた。夕焼けのような演出も相まって、ノスタルジックな雰囲気が。」「2代目桜木町駅舎と昭和40年代半ばの街初代横浜駅舎は改装を重ね、大正時代まで使用された。その後2代目駅舎は初代駅舎とほぼ同し位置に建てられた。駅が終点であった頃は、左写真のように左右対称の姿だったが、根岸線の開通、延伸とともに展示模型のような形になった。」「昭和の桜木町駅プラットフォーム昭和40年代、奥に見える商店街は間もなく消えようとしている。駅のプラットホームは街の移り変わりを見つめて来た。「横浜停車場」(初代桜木町駅)と「桜木町駅」( 2代目)の位置左 1883 (明治16)年の地図(青色)十2020 (令和2)年の地図 初代横浜停車場(初代桜木町駅)の歴史 1872(明治5)年 横浜停車場(初代横浜駅)開業 1915(大正4)年 横浜駅移転につき、桜木町駅に改名 1923(大正12)年 関東大震災のため駅舎等消失右 1932(昭和7)年の地図(緑色)十2020 (令和2)年の地図 2代目桜木町駅の歴史 1927(昭和2)年 2代目駅舎完成(関東大震災の4年後) 1964(昭和39) 根岸線延伸に伴い、駅舎の一部改築 1989(平成元)年 駅舎移転に伴い、旧駅舎はその設割を終え、解体」「鉄道が発信する文化鉄道創業時に、早くも横浜停車場の構内で商いをする人たちが現われました。以来、鉄道に関連した数多くの商売や文化が生まれてきました。・構内販売の変遷・明治~昭和 停車場と周辺の風景・鉄道がテーマの趣味と芸術」「鉄道旅行のお楽しみ江戸期の旅は徒歩による信仰と巡礼が目的でした。明治期、鉄道が利用されるようになると、やがて旅の目的は観光や仕事など、多様なものとなりました。・時刻表と観光案内詩のはじまり・鉄道の旅路で楽しんだ様々な飲食・明治~昭和 横浜ゆかりの名物たち「明治の横浜・鉄道路線案内明治初期、当時の人々にとって鉄道への関心は高く、多くの錦絵が残されましたり開業時の路線は現在でもほぼ同じルートをとりながら、高度に複線化されています。浮世絵展示が画面スクリーンに表示され、数秒ごとに桜木町駅にまつわる様々な絵に変わっていくのでついつい長居してしまいそう。この映像で桜木町駅周辺にたくさんの跡地が今も現存していることもわかります。・神奈川駅・鶴見駅・横浜の鉄道史跡 横浜には明治から昭和にかけて鉄道関連の史跡が数多く存在します。「横浜の鉄道史跡 横浜には明治から昭和にかけての鉎道連の史跡が多く存在します。」①神奈川駅跡②3代目 横浜駅跡③高島ヤード跡④2代目 横浜駅跡⑤鉄道発祥の地記念碑と初代横浜駅長室跡⑥東横浜駅跡⑦汽車道と橋梁⑧旧横浜駅プラットホーム跡⑨鉄軌道と転車台跡⑩外国人鉄道技術者の墓「錦絵」が画面に次々と。「河崎鶴見川蒸気車之図」。「横済ステーション蒸気入車之図」。「横浜新埋地高嶋町掲屋三階造海岸遠景之図」。「横浜鉄道蒸気出車之図」。「初代横浜駅と発着場の情景」初代横浜駅は新橋駅と同じく、アメリカ人建築家、R・P・プリジェンスの設計で、この場所から関内駅方面へ120m程の地に位置し、華麗な外観を誇りました。「初代横浜駅舎 半立体模型明治--大正の頃、初代横浜駅は観光スポットであった。桜木町駅時代も含め、多くの古写真が残っている。」「初代横浜駅乗車場 半立体模型明治初期、鉄道を題材にした錦絵が数多く出版された。和と洋が混在した人や街の様子がイメージできる。」「開業直前の横浜停車場1872 (明治5)年の舂頃に撮影されたと思われる横浜停車場の写真です。これにより鉄道創業期の客車の様子など、新たな発見がありました。」「鉄道創業の地・桜木町駅(旧横濱停車場)日本人と鉄道の出会いは江戸時代の末期でした。明治時代になるとその導入が決定し、1872 (明治5)年、横浜と新橋の間で日本初の営業運転が始まりました。・日本人と鉄道の出会い・鉄道敷設の計画と工事 1869 (明治2)年、明治政府は鉄道建設を決定し、英国から技術者や機材を導入しました。・双頭レール 明治初期の鉄道創業当時は、英国から輸入された錬鉄製の双頭レールが使用された。 このレールは上下対称の形状になっており、裏返して再利用する予定だった。 (実際には再利用されなかった) 当駅、新南口に隣接するJR桜木町ビル1階には、1873年製の双頭レールか設展示されています。・華やかな開業式典 1872 (明治5)年新暦の10月14日、秋晴れのもとで執り行われた開業式典の記録。」「日本人と鉄道の出会い」。「鉄道敷設の計画と工事1869(明治2)年、明治政府は鉄道建設を決定し、英国から技術者や機材を導入しました。」「華やかな開業式典」。「日本の産業を支えた横濱停車場鉄道開業の翌年、1873 (明治6)年9月、横浜~新橋間の鉄道による貨物営業が始まりました。以来、横浜は日本の産業における重要な物流拠点となりました。・貨物輸送のはじまり 創業期の貨物輸送は貨車75両で始まづた。 ・明治初期の貨物 1873(明治6)年の貨物営業開始時の輸送量は合計2千トン程度であった。初期の貨車には 家畜車、魚車、木材車などがあったが、その後、鉄道延伸のための工事に必要な土砂車が 増加した。鉄道網が拡がった1897 (明治30)年の貨車は、全国の官営と私鉄あわせて1万両を 超え、輸送量は876万6千トンとなった。」・延伸する鉄道路線 明治中期になると、地方の生産地と港を結ぶ鉄道は日本の新たなる産業の芽を育みました。「延伸する鉄道路線明治中期になると、地方の生産地と港を結ぶ鉄道は日本の新たなる産業の芽を育みました。」「みなとみらい時層マップ明治初期から平成までの海岸線の変化を俯瞰しながら、この地区の産業や街並みの発展を「時間を旅する」感覚で観察すると、新たな発見があるかもしれません。「明治初期の周辺地図」。明治:横浜開港後、臨海地区には港湾の付帯施設として、造船と鉄道という2つの 産業が生まれ発達しました。それに伴い、周辺の海は急速に埋め立てられました。大正:造船と鉄道流通の関連産業は、戦前から戦後にかけて最盛期を迎え、昭和 日本の高度成長期を支えてきました。昭和末期になると、これらの産業は転換期を 迎えます。現在:「みなとみらい21地区」となって、この一帯は日本屈指の国際ビジネスセンターとなり、 さらに、これまでの産業遺産を活かした観光地として、進化と発展を続けています。「みなとみらい地区の記憶明治から昭和までの臨海地域は造船と鉄道物流の拠点で、この街のシンボル的存在でした。現在は国際的なビジネスと観光の街として生まれ変わリました。」「YES’89横浜博覧会 横浜博覧会は「宇宙と子供たち」をテーマとして1989年(平成元年)に開催されました。 これを機に、みなとみらい地区は大きく変貌、発展しました。」「造船産業の隆盛 明治半ば、付近の臨海地域に横浜港の付帯施設として造所所が設けられました。 その後、日本の基幹産業の一翼を担い、昭和末期まで稼働していました。」「鉄道流通の拠点 鉄道はその開業以来、横浜港をはじめその付帯施設に関連する流通を支えました。 そして日本の貿易や工業の発展とともに貨物の取扱量は増加しました。」そして駅舎を後にして、この日の散策の本格的なスタート。正面に久しぶりに見る「横浜ランドマークタワー」の姿が。「横浜ランドマークタワー」は、神奈川県横浜市西区みなとみらいの超高層複合ビル。「横浜みなとみらい21」地区の開発を主導した三菱地所が建築・設計・保有している。1990年3月20日に着工し、1993年7月16日に開業した。タワー棟は、地上70階建て、高さは296.33mで、超高層ビルとしては、あべのハルカス(300.0m)に次いで日本で2番目に高い。また、構造物としては東京スカイツリー(634m)、東京タワー(332.6m)、あべのハルカス、明石海峡大橋(298.3m)に次ぐ日本で5番目の高さである。桜木町駅前広場の右手、歩道橋への階段の下にあった「昔の桜木町駅前」の写真。「この光景は、明治20年(1887)頃の初代横浜停車場(現桜木町駅)前を撮影したものです。写真中央の噴水塔は、高さ約4.4m、重さ約1.3tの鋳鉄製で、日本初の近代水道創設を記念して設置され、往来する方々に親しまれていました。この噴水塔は、現在、横浜市保土ケ谷区の横浜水道記念館に保存されています。」と写真右下部に。この姿は竣工当時の新橋停車場に酷似しているのであった。この塔の下部はその名も『獅子頭共用栓(ししがしら きょうようせん)』と呼ばれていたと。そう言えば、日本の水道事業は、明治20年(1887年)に横浜で初めて近代水道が布設されたことから始まったのだ。これは当時、外国の窓口であった港湾都市を中心に、海外から持ち込まれるコレラなどの伝染病が、水を介して広がり蔓延するのを防ぐことを目的としたもの。横浜に続いて、明治22年に函館、明治24年に長崎と、港湾都市を中心に次々と水道が整備されて行ったのであった。この辺は、私の昔の仕事の関係で。現在、横浜市保土ケ谷区の横浜水道記念館に保存されている噴水塔の写真。桜木町駅前のワシントンホテルを見上げる。そして正面に案内プレートがあった。ここにも何か書かれているようであったが解読不能。「東横浜駅の碑」と。案内板が2枚。『ここに駅があった 大きな貨物駅だった 往時は六十五万トンが発着 多くの人が働き汗を流した ある時代は生糸だった ある時代は疎開荷物だった ある時代は進駐軍輸送 それに輸入食料だった そしてこの駅はいつの時代も 市民の生活とともにあった 一九七九年十月 この駅の使命は終わった かって日本の鉄道開業の 栄えをになった駅 追憶のなかに永遠 東横浜駅』「東横浜駅について 東日本旅客鉄道株式会社 横浜支社明治五年汽笛一声新橋を発した日本初の鉄道の終着駅横浜はこの地でした。時を経て横浜駅は現在の位置に移り、この地の駅は客貨の機能を分離して桜木町駅、東横浜駅となりました。さらに幾星霜、国運いよいよ隆昌に向かう我が国現代史の過程において、鉄道の果たした役割はかぎりなく大きいものがありました。この間市民生活の一部としてその責めを全うした貨物駅東横浜は昭和五十四年その終焉を迎えました。いまこの地は新しい都市みなとみらいとして秀麗かっ壮大な偉容をととのえつつあります。古より世のため人のために日々営まれる活動に支えられて、暮らしが、社会が、街並みが時代に応じて生き生きと発展するさまは無量の感慨を私たちに与えてくれます。この碑文は東横浜駅廃止に際し往時ここに汗となみだをながした人びとの意をうけて書かれたものです。 平成十八年三月」つまり、東横浜駅は新橋-横浜駅間の鉄道開業時の初代横浜駅のあった場所に位置し、貨物専用駅として大正4年12月に開業。1979年(昭和54年)10月1日に廃止された と。「桜木町駅西口」を振り返る。「桜木町駅前広場」を「横浜ランドマークタワー」方向に進むと正面にあったのが「YOKOHAMA AIR CABIN 桜木町駅」。「YOKOHAMA AIR CABIN 桜木町駅」の前から「ランドマークタワー」を。横浜市は、下水道事業のPRと市の魅力発信などを目的としてポケットモンスターのキャラクター「ピカチュウ」とコラボレーションしたマンホール「ポケふた」を、みなとみらい21地区周辺に2019年8月5日(月)から設置した と。「YOKOHAMA AIR CABIN 桜木町駅」を正面から。桜木町駅前と横浜ワールドポーターズ前を結ぶ"日本初"の都市型循環式ロープウェイ「YOKOHAMA AIR CABIN(ヨコハマエアキャビン)」が2021年4月22日(木)に運行開始。【全 長】 約1,260m(片道約630m)【最大高さ】 約40m【ゴンドラの特徴】・36台(1台の定員:8名)・バリアフリー対応・冷房完備・夜間景観を演出【事業主体】 泉陽興業株式会社(よこはまコスモワールド 運営会社)【営業時間】10:00~22:00 とのことでこの時はまだ動いてはいなかった。【運 賃】 片道券:大人 1,000円、子ども(3歳~小学生) 500円 にビックリ!!「ランドマークタワー」、階段状の建物「みなとみらい東急スクエア」を見る。その右奥に見えたのが「横浜国際平和会議場(パシフィコ横浜)」、大観覧車「コスモクロック21」。桜木町駅の北改札東口の出口に向かって進む。線路下の通路を進み西口に出ると左側に案内板があった。「温故知新のみち 鉄道発祥の地」。「鉄道発祥の地明治5 (1872)年、品川一横浜間で日本初の鉄道事業の仮営業(本営業は新橋ー横浜間)が開始されました。現在の横浜駅から桜木町駅までの土地は埋立によリ造成され、初代横浜駅(現桜木町駅)が置かれました。鉄道資機材は横浜港から陸揚げされ、横浜から工事が進められました。駅舎は米国人建築家R. P.プリジェンスによリ設計され、ほぼ同しデザインの新橋駅と初代横浜駅は双子の駅と称されました。鉄道事業にはエドモンド・モレルをはじめとする外国人技師が携わり、現在の掃部山(かもんやま)公園には外国人技師の拠点となる官舎が建てられました。掃部山は鉄道開業後も鉄道院用地として利用され、山の地下水が鉄道用水に用いられたことなどから、当時は「鉄道山」と呼ばれていました。明治20 (1887)年に横浜ー国府津間が開通し、初代横浜駅は中間駅となりました。この際行われたスイッチバック運転は輸送能率が悪かったため、貨客利用の増加に合わせ、大正4 (1915)年には現在の高島町駅付近に横浜駅を移転し、初代横浜駅を経由しない新路線が整備されました。あわせて初代横浜駅は桜木町駅へと改称されました。大正7(1918)年には2代目横浜駅と桜木町駅間が高架化され、桜木町駅は京浜線(現在のJR根岸線)の専用駅になりました。大正12 (1923)年には、震災により桜木町駅(初代横浜駅)は駅舎を失いますが、昭和2 (1927)年に移転開業した3代目横浜駅と共に新たな駅舎が建てられました。現在の駅舎は平成元( 1989 )年に建てられました。平成16(2004)年、みなとみらい線の開通により、東横線の桜木町駅が廃駅となりました。それにともない、桜木町駅の整備が行われて、平成26 (2014)年には北改札が新たに開設されました。」「絵葉書「横浜停車場」(明治末~大正初期)・(様浜開港資斟館所蔵)」。「初代横浜駅に停車する列車、(横浜開港資料館所蔵)」。「横浜停車場遠景(明治初期撮影)・(長崎大学附属図書館所蔵)」。「桜木町駅」周辺の観光案内図。現在地は、北改札西口出口。「温故知新のみち」とは安政6年の開港以来、横浜の成長と共に大きく変貌してきた西区のまち。立ち止まってよく見てみると、積み重ねられてきた様々な西区の魅力が見えてきます。「温故知新のみち」はそんな西区の歴史資源を楽しむことができる散策ルートです。横浜開港に尽力した偉人たち、みなとまちの発展を支えた地域、西区の歴史に思いをはせながら、少しゆっくリ歩いてみてください。きっと新たな発見があリます。「横浜実測図 明治14 (1881)年(中央図書館所蔵)」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.30
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「⬅参拝路 うらまいり 御殿の裏側に進み、神様に一番近い場所でお参り戴けます。矢印の方へお進みください。 平塚八幡宮社務所」「本殿」の下の通路を「本殿」の裏、北側に向かって進む。石段を上って行った。踏み石の参道を進む。燈籠であっただろうか?その横には監視カメラも。「うらまいり」のご賽銭箱が置かれていた。「本殿」の奥、左側にあったのが「太子堂」。「建築土木の守り神」を祭ると。近づいて。「太子堂」は聖徳太子を祀る。「拝殿」、「幣殿」、「本殿」を西側から見る。社殿は拝殿・幣殿・本殿を連結した権現造。昭和3年建立 と。「冬青(そよご)冬青は別名「正五位(しょうごい)」といい一般的に神社では神前に供える玉串やお祓いをする大麻は常緑広葉樹の榊を用いますが、雪深い地方では榊が育たないため冬青の木を用います。寛治元年(西暦一〇八七年)に平塚八幡宮の御分霊をお祀りされた岐阜県高山市山口鎮座の櫻ヶ岡八幡神社でも同様に春の祭礼をはじめ神事には冬青を用います。この度、櫻ヶ岡八幡神社の皆さま方のご厚志により冬青の献木を戴きました。御分社との交流も今年で四十余年になりますが高山と平塚の繋がりがこれからも冬青が常に青々と茂るが如く続きますように祈願しております。」「冬青」。右側:「忠魂碑」には、元帥伯爵東郷平八郎 書左側:「明治丗七八年 戦役紀念」、側面に明治四十二年四月三日 建之。「浅間社」 安産女性の守り神「道祖神」 疫病、性病除けの神「此より先立ち入りを禁ず」と。「社殿」を一周して、「拝殿」前のご神木まで戻る。「神輿殿」。「神輿殿」内には大小四基の神輿が奉納されていた。ガラス越しに「神輿」をカメラに。子供用か?「神輿殿」。この年の「七夕飾り」も役目を終えて。すると、境内には「神馬 皐月」の姿が。散歩から戻って来たようであった。ズームして。絵馬展示場・「献華殿」。日本全国の神社の絵馬を掛けた屏風が展示されていた。美術館のコレクションを見ているかの如くに。「茅の輪くぐり」を再び。「参拝記念鎮地大神 相模國一社 平塚八幡宮令和4年7月22日」「拝殿」。つるみね幼稚園児が描いた「絵馬」。大きな「悪疫退散」の札。西参道脇に「浄銭池」の中にあった「聖願臼」。芸能とパワースポット神様と。龍の口から水が。木製の太鼓橋。「若松橋「東海道は松並木」と歌われるようにこの辺りは松の多い地であったといわれます。当宮でも度々植樹を行い境内に松林を残す取り組みをしていますがその松も風で倒れてしまうものや枯れてしまうものもあります。この橋の橋桁も倒れてしまった松が新しい役目をになったため若松橋と命名されました。松が新しい役目をになったため坂松橋と命名されました。松は不老長寿をあらわし神を待つ木だといわれます。どうかこの橋が大神さまと皆様との架け橋になりますように念願しております。」「金運・芸能・美容の神 弁財天社」。ご祭神 市杵嶋姫命七福神の石像・弁財天。平塚弁財天社は平成二十三年三月に当宮の兼務社である岡崎鎮座駒形神社末社の弁天社より御分霊を戴き境内に勧請されました。その御祭神は市杵嶋姫命とも弁財天とも称えられ、御神徳は芸能や財福の神、また様々な災難を被い去るおカがあるとされ、お使いの白蛇の姿から豊穣の神ともいわれております。江ノ島の弁財天とは異なり立像。琵琶を演奏する像。この像は琵琶の名手として知られた太政大臣・藤原師長が信仰していた像とも言われていると。西参道入口の石鳥居。西御池の中に鳥居と「弁財天社」。白い鳩。そして交通安全祈願場所への鳥居。 「交通安全祈願」案内。「平塚八幡宮 奉納演奏の夕べ」ポスター。「宮の前」交差点の陸橋を渡りながら、平塚駅方向を見る。7月10日(日)に訪ねた平塚七夕祭りの旧東海道・湘南スターモールを見る。そして平塚駅から帰路に、相模川に架かる馬入川橋梁から相模湾方面をこの日の朝と同様に見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.29
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「平塚市役所」を西側から見ながら「平塚郵便局」方面に向かう。「郵便局前」交差点を渡り「イチョウ並木通り」を更に西に進む。「イチョウ並木通り」。右手に「横浜ゴム(株)平塚製造場」の正門。その先に「海軍火薬廠跡の碑」案内板があった。「海軍火薬廠跡の碑」。「海軍火薬廠の跡 岸本肇書ここを正面に 四十余万坪の地は海軍火薬廠の跡である同廠は明治三十八年日本政府と英国アームストロング ノーベル チルウォースの三会社との契約により設立された日本爆発物製造株式会社を 大正八年海軍省が買収したものであって 爾来昭和二十年まで日本海軍の火薬 技術の中心として 数多い功績を残すと共に 平塚市の発展と文化に多大の貢献をしたところ であるここにその事績を偲びこの碑を建てる昭和四十九年秋日 海軍火薬廠跡の碑建立の会 水島英耀書」「平塚郵便局」。「地球絵手紙ネットグループ(ネット湘南) 平塚絵手紙の会」と。作品の数々が展示され、季節ごとに道行く人のひとときの憩いとなっているのであった。神奈川道606号線の道路上にあったこの絵の意味するものは?大山の姿なのであろうが。「八幡山公園」内の「八幡山の洋館」を見る。神奈川県平塚市浅間町1−1。旧横浜ゴム平塚製造所記念館(愛称 八幡山の洋館)。1905 (明治38)年、創建された火薬工場のイギリス人技術者の宿舎と食堂・ホールとして建てられました。その後、海軍火薬廠に引き継がれ、1923(大正12)年には、関東大震災に見舞われましたが倒壊は免れました。そして1945(昭和20)年7月16日、平塚は大空襲をうけ市内の70%が焼き尽くされましたが、火薬敞の中にあったにも拘わらず、この建物は標的から外されたようでした。関東大震災と平塚大空襲という二つの大きな災難にも奇跡的に残った、この建物は、今は神奈川県内でも数少ない明治期の洋風木造建造物で、国登録有形文化財に指定されています。整った塔屋の姿、アーチ型の窓や、上げ下げ窓、北側の壁に設けられた出窓など、ビクトリア朝様式の建物です。現在は八幡山公園に移築されて、様々な市民活動に活用されています。「平和慰霊塔」。平塚市における明治以降の戦争において戦没された英霊(空襲等の市民被害者等も含む)2,365柱の慰霊塔。塔内部には戦争犠牲者の霊名簿と千羽鶴2組が収められている。コンクリート井桁積み構造で、昭和40年12月27日に建立された。塔の裏手には平和慰霊塔の記が刻まれ、また、昭和47年10月12日に建立された合祀碑があり、空襲で亡くなられた市民を合祀した旨を伝えている。敷地内には、昭和44年10月に遺族会婦人部が奉納したモニュメントもあり平塚市民慰霊の地になっている。神奈川県平塚市浅間町1−1。「八幡山の洋館」そして「平和慰霊塔」を振り返る。「平塚八景 八幡山公園」碑。「平塚八景 八幡山公園相模国八幡庄の総鎮守であった平塚八幡宮が鎮座する八幡山は、昔から景勝の地であった。としてこの公園は造成され、中心街の公園では最大の広さ戦後、浅間町の近隣公園としてこの公園は造成され、中心街の公園では最大の広さの1 . 6 0ヘクタールである。八幡宮の森とともに緑豊かなオアシスとなっており、園内には平和の慰霊塔、戦災復興事業完成記念碑がある。なお、平成2 1年4月には、国の登録有形文化財(建造物)である旧横浜ゴム平塚製造所記念館が移築・復原工事を経て開館した。この明治時代の洋館は、公園内の四季の変化を反映して美しい姿で佇み、日没後にはその夜景を楽しむことができる。」すなわち、1905年日本海軍はイギリスのアームストロング、チルウォーズ、ノーベルの3社と合弁で日本火薬製造会社を設立し、ここ平塚に火薬工場を建設し、その敷地内にイギリス人技術者宿舎とともにこの洋館が建てられた。1919年(大正8年)火薬工場は海軍火薬廠に引き渡され、この洋館は海軍将校クラブハウスとして使用された。海軍火薬廠は平塚市の約38万坪の敷地に存在した、大日本帝国海軍の兵器に使用する爆薬・火薬を製造していた海軍省直属の工廠である。海軍火薬廠は1939年(昭和14年)8月に海軍火薬本廠に改編。 1941年4月に第二海軍火薬廠に改編された。火薬廠は1945年(昭和20年)7月16,17日の平塚空襲で米軍の主要な攻撃目標となり、壊滅的打撃を受けた。市街地の大半は焼失したがこの洋館は奇跡的に残った。終戦後火薬廠敷地は進駐軍により1950年まで接収され、接収解除後はこの洋館とともに横浜ゴムに払い下げられた と。以前に、「八幡山の洋館」を訪ねた時の写真。そして次に暫く振りにぶりに「平塚八幡宮」を参拝。「平塚八幡宮」は、平塚市浅間町にある神社。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。古くは「鶴峯山八幡宮」と称されたほか、「一国一社の八幡宮」「鎮地大神」と称えられている。御神徳:初宮 安産 厄除 家内安全 商売繁昌 交通安全 芸能上達他御祭神:応神天皇(おうじんてんのう) 神功皇后(じんぐうこうごう) 武内宿禰(たけのうちのすくね)東海道(国道1号沿い)に朱色の一の大鳥居を見る。神奈川県平塚市浅間町1−6。社号標石「平塚八幡宮」。「平塚八幡宮」案内図。「狛犬」(右)のマスクは口からズレて。大正十一年(1922)奉納の「狛犬」と。「狛犬」(左)。正面に太鼓橋・「神橋」。右手に「東御池」その島の中にあったのが「鶴峯山稲荷社」。「鶴峯山稲荷社」。「東御池」の多くの鯉やアヒルの姿が。 「五穀豊穣・商売繁盛の神 鶴峯山稲荷社」と。「源平の池」には小さな滝が。「東御池」の中にある「鶴峯山稲荷社」を振り返る。左手には「天照皇大神宮」碑があった。その先の石碑には「八幡大神 天照皇大神 春日大神」と刻まれていた。参道の左手には「楠(クスノキ)」の巨木・御神木が聳える。幹の周囲には多くのお神籤は結ばれていた。同じく周囲には方位を示す「干支」が示されていた。その先に「手水舎」。右手に「御朱印請所」。青銅鳥居の手前にも一対の狛犬(右)。狛犬(左)。「御札・お守り授与所」が右手に。「手水舎」で身を清め、参道を進むと「二之鳥居」が。万延元年(1860)に再建され、鳥居再建の発願主と寄進者の人名・村名は合計で358にも及ぶ。「二の鳥居」の扁額「平塚八幡宮」。珍しい造形、透かし彫りの如き扁額。 県内の神社で唯一の「神馬」として「平塚八幡宮」に奉納された「皐月(さつき)」が入る「神厩舎(しんきゅうしゃ)」が左手に。「神馬 皐月(しんめ さつき)誕生 令和元年五月ニ十六日生天県陛下御即位奉祝記念事業の一環として、令和元年11月26日に岐阜県高山市からやってきました。元気で少しお転婆なところもあリますが優しいいい子です。食べること、走ることが大好きで、好きな食べ物はニンジンです。時間 ・10時~12時 ・13時~15時」。「神馬 皐月は只今お休み中です」と。「神厩舎」は清掃中であった。ここにも「おみくじ掛け」があった。この日は「拝殿」の正面に「茅の輪くぐり」が。「茅の輪くぐり古来より茅萱(ちがや)で輪を作り、罪穢(つみけがれ)・疫病を祓います「水無月の夏越し(なごし)」の祓する人は千歳の令延ぶというなり」」。「拝殿」右側に末社が3社。「諏訪社(向かって右) 御祭神 建御名方神 若宮社(向かって中央) 御祭神 仁徳天皇 神明社(向かって左) 御祭神 天照大御神 事代主神(えびすさま) 徳川家康公」。「諏訪社 開運・交通安全の神。」「若宮社 子育・子供の守り神」。「神明社 出世・商売繁盛の神」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.28
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次に3階展示室を訪ねた。テーマ:星のひろば天文・宇宙に関する展示とプラネタリウムがあります。 隕石や先代のプラネタリウム投影機、最新の太陽画像などを展示しています。3F展示室のご案内。3展示室には、本物の石や2010年まで使用したプラネタリウム投影機などを示しています。階段踊り場の展示・『太陽と太陽系の惑星たち』更に階段を上がり再び階段踊り場の展示を振り返る。「太陽は宇宙に輝く恒星の1つです。大きくもなく、小さくもないごくあリぶれた普通の星です。その周りを、わたしたちの住む地球をはじめ、感星、小惑星、彗星、流星のもとになるちりなど、無数の天体が回って、太陽系を作っています。太陽と太陽系は46億年前に、星と星の間に漂う巨大なガス星雲から誕生しました。たくさんのチリを含むガスが、近くの星の星風や超新星爆発の衝撃波などで集まり、集まったガスは回転を始め、やがて重力による収縮がはじまりました。その後、平たい巨大な円盤状になり中心に原始の恒星(太陽)が生まれました。ほぼ同時期に、回転するチリやガスの中から微惑星が形成され、さらに微感星が衝突合体して大きな原始惑星に成長していきました。太陽に近い惑星たちは、原始太陽の熱でガスが飛ばされ、主に岩石質の地球型の惑星になりました。太陽から遠いところでは、氷を主な材料にした氷質の巨大な原始惑星が誕生し、まわりのガスを大量に捕らえた、木星型の惑星が誕生しました。今では、大きな9つの感星と無数の小惑星、彗星などが太陽系のメンバーの星たちです。ここでは、そのうちから、太陽と9つの惑星を同じ縮尺(1/ 255,126,000 )でご紹介します。」太陽系の惑星の一覧表。冥王星は、長らく太陽系第9惑星とされてきたが、現在は太陽系外縁天体のなかの準惑星に分類されている。「HYPOTHESIS PTOLEMAICA」昔の人も同じように「地球は宇宙の中心にあって、太陽や月や星が、この地球の周りを回っているのだ」と信じていた。これを『天動説』という。これは、アレキサンドリアの天文学者プトレマイオス(2世紀ころ)の考えがもとになっている。地球を中心に、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星、恒星が並ぶと。「HYPOTHESIS COPERNICANA」プトレマイオスの天動説はその後1400年も長い間信じられてきたが、ポーランド生まれのコペルニクス(1473〜1543)は「地球やその他の惑星が太陽の周りを回っている」と考えた方が、惑星の動きなどを無理なく説明できると考え、『地動説』を唱えた。ただし、このころはまだ観測機器もなく人々を納得させるほどの観測結果を得られなかった。『いん石-宇宙の情報箱』。太陽系が誕生した46億年前、地球は太陽を取り巻くチリの雲の中から誕生しました。その後地球は地殻変動や火山活動を繰り返し、誕生した頃の情報をすっかりなくしてしまいました。一方、小惑星と呼ばれる天体の中には、いまだに太陽系誕生の頃のままでいるものもあります。こうした天体が地球にいん石として落ちてくるのです。ここに展示されたいん石はそれぞれ異なる成因を持っており、太陽系誕生の様子を伝えてくれます。「ギベオン隕鉄」。「ギベオン隕鉄この隕鉄は1989年に南西アフリ力、ナミビアのギベオン( Gibeon )の約60km南東で採取されたものです。地球に落下してきた時期は不明ですが、ヤギの番をしていたナマ族か発見したものです。隕鉄の表面は地球の大気圏に飛び込んだときに空気との摩擦熱で融け、スプーンでえぐったようなくぼみが見られます。成分は鉄とニッケルがほとんどで、重さは26.3kgあります。様々な隕石(1/2)。様々な隕石(2/2)。「リュウグウの起源は彗星だった!?小感星探査機「はやぶさ2」が持ち帰った小惑星リュウグウの試料の分析が着々と進んでいる。そのうち岡山大学の研究成果が論文として発表された。リュウグウの試料からはアミノ酸やその他の有機物などが検出された。さらに、内部がスカスカな天体であるリュウグウは、従来考えられていた説とは異なり、氷に富むダストが集積した氷天体から彗星核のような天体を経て現在の姿になったようだ。」「リュウグウは太陽系の”標準物質”だった!小惑星探査機「はやぶさ2」が持ち帰った小惑星リュウグウ料の試料の分析が着々と進んでいる。そのうち「はやぶさ2初期分析チーム」の「化学分析チーム」の研究成果が論文として発表された。どうやら、リュウグウの試料は、これまで人類が手にした地球外物質の中で最も始原的のようだ。」「2022年3月31日の太陽の黒点」。「最近の火球や流星」と「最近の太陽」。『プラネタリウム』入口。プラネタリウムは、星空を再現する装置です。技術的には、星の配置や運動を再現するものですが、都市部のプラネタリウムには、失われた星空の美しさを再現する機能も求められています。また、増大する宇宙情報を逐次解説し提供する機能も求められ、備えてきました。 プラネタリウムはまた、解説者の存在によって、単なる装置ではなく、宇宙を表現し、それを楽しむ「場」として機能します。平塚市博物館では、毎回学芸員が肉声解説にあたり、その日その日のニーズに合わせ、鮮度の高い情報を提供しています。「小惑星探査機「はやぶさ2」「はやぶさ2」は、小惑星リュウグウを調べ、そのカケラを持ち帰ること(サンプルリターン)を目的とした小惑星探査機です。2014年12月3日に打ち上げられ、2018年6月27日にリュウグウに到達、上空からの探査(リモートセンシング)や2度の着陸(タッチダウン)と試料採取、複数台の小型ローバーの投下、人工クレータ生成実験などを行い、2020年12月6日、試料が入った帰還カプセルを地球に届けました。現在は延長ミッションのため別の小惑星へと向けて航行しています。「はやぶさ2」は「はやぶさ」の後継機で、かっ実験機であった「はやぶさ」に対し、科学的成果を上げるための「実用機」でもあります。ほぼすべてのミッションを完璧にこなし、いくつもの"世界初"を成し遂げました。」リュウグウを探査する「はやぶさ2」の想像図。「はやぶさ2」 ミッションロゴ(帰還フェーズ)。「小惑星リュウグウ「はやぶさ2」が探査した小惑星リュウグウ(162173Ryugu)は有機物や水を多く含むC型小惑星です。地球に近づく軌道を持つ地球近傍小惑星でもあります。1999年5月10日に発見されました。直径:約700m質量:約4.5×1011kg自転周期:約7.6kg太陽からの平均距離:約1.189au」 (太陽から地球までの距離を1天文単位(au)と表します。 約1億5000万km)。小惑星「リュウグウ」。「なぜ小惑星を調べるのか?1 .太陽系の成り立ちを探る小惑星のような小天体の中には、太陽系がつくられた当時の情報を留めているものがあります(惑星などの大きな天体は形成過程で一度ドロドロに融けてしまい情報が残されていません)。小惑星を調べることで、太陽系、そして地球がどのように誕生し今のような姿になったのかを解き明かすことができるのです。2 .地球の水と生命の起源に迫る小惑星の中には、リュウグウのように水や有機物を豊富に含むと考えられている天体があります。それらによって地球に水や生命の材料が運ばれた可能性が高く、小惑星を調べることで、その謎を解く鍵が得られるのです。3 .人類の発展に資する小惑星の一部は地球に衝突する可能性があります。戦に勝っためには敵を知ることが肝要・・・小惑星がどのような天体かを知ることで、衝突を回避する手だてを考えることができます。また、ほとんど鉄からなる小惑星もあり、いわゆるレアメタルを含んでいる可能性がある小惑星も見つかっています。それらは資源として活用できるかもしれません。」「レプリカの元になった試料について「はやぶさ2」が小惑星リュウグウで採取した試料の中で3番目に大きな粒子で、左が実物大、右が10倍に拡大したものです。2019年7月11日の第2回タッチダウン時に採取されました。右のスペクトルの波長2.7μmのところに大きな凹みがあることがわかります。これは試料が水を含んでいることを示しています。サンプル名:C0002質量:93.5 mg大きさ:8.648 mm」。「レプリカとなった試料の写真」「「はやぶさ2」が2回目のタッチダウンで採取した大型の粒子」 大きいものは長径が10mmを超える。ロで囲ったものかレプリカになったもの。 グリッドの問隔は5mm。右下のアルミ片は探査機起源の人工物。「高度約5kmから撮影された試料採取地点(●の地点)リュウグウの赤道付近、人工クレーター(黄丸)の近くで採取された。」「人工クレーター付近の拡大画像」そして館内の「学び」を終え、館外に出る。館外の左手にも展示品が置かれていた。最初に「大釜」。正面から。「大釜市内万田の造り酒屋、出縄酒造(いでなわしゅぞう)で使用されていた大釜です。湯を沸かし、上に甑(こしき)をのせ、米を蒸すのに用いられました。蒸した米に麹(こうじ)と水を加え、桶へ仕込んで発酵させ、これを絞ったものが清酒になります。釜は三州釜といい、愛知県で製造されたもので、醸造用具の機械化により使用されなくなりました。」「甕(かめ)」。「甕(かめ)昭和20 (1945)年以前、海軍火薬廠で薬品の貯蔵に用いられていたという甓です。海軍火薬廠は、明治38 (1905)年設立の日本爆発物製造本朱式会社を大正8 (1919 年に海軍が買収し、海軍兵器の火薬を製造していた軍需工場です。総合公園や博物館も火薬廠の敷地で、館北側のユリノキの巨木は、火薬廠時代からのものです。」「仕込桶」。「仕込桶市内四之宮の漬物屋で使われていた桶です。大きさは直径、高さとも約2mあります。およそ30石(約5,400リットル )入りで、底板の厚みは10cmくらいです。30石とは300斗のことで、一升瓶3,000本分の容量です。造り酒屋や醤油屋でも同jiような桶を仕込桶として用いました。 (四之宮 田辺久太郎氏 寄贈)」。「天道大日如来」石塔。「天道大日如来石塔(てんとうだいにちによらいせきとう)」。この石塔は、平塚市山下の県道に面して建てられ、のちに道路拡幅のため下山下の近藤家屋敷内へ移されたもので、「おてんとう'さま」と呼ばれていました。塔身中央に「天道夫百如来」および大日を表す種子(アーンク)、左右に「愛染明王」「勢至菩薩」の文字が彫られています。塔身左面には願主の近藤惣兵衛、台座左面には念仏講中20名の氏名が刻まれており、日乞いの天道念仏が山下で行われていたことを推測させます。太陽信仰と大日如来との結びつきを示す市内で唯一の貴重な石塔です。 (山下 近藤知行氏 寄贈)」。「敷石住居跡岡崎・上ノ入遺跡より移築したもの。昭和51年に岡崎小学校新築工事に伴う発掘調査を博物館で行いました。その時に発見された縄文時代後期の敷石住居跡を博物館の庭に移しました。この移築作業には遺跡の調査をお手伝いして下さった岡崎の西海地稲作研究会の会員の方も加わって、手作りで再現しました。総重量が約1トンもある石は輝石安山岩(根府川石)ですが、縄文人はどのような方法で運んできたのでしょうか。丸木船を使ったと考えますが、直接取りに行ったのか、交易品として運ばれてきたのかまだ謎です。一般に敷石住居は関東地方西部から中部地方に多く見られ、縄文中期後半に出現し、後期前半に最盛期を迎えます。この住居の成立過程は、敷石の一部に石柱・石壇が設けられる例もあり、これに埋甕を埋設した小さな張り出しをもつ住居が出現し、その後、全面敷石と張り出し部の発達によって、柄鏡形敷石住居と呼ばれる特異な形態の住居が出現したと考えられています。この住居の性格は祭祀的特殊施設とする考え方と一般住居の一形態とする考え方がありますが結論は出されていません。なお、上ノ入遺跡では縄文後期の配石遺構や中期の住居跡群(有孔鍔付土器や炭化球根出土)も確認されています。」「敷石住居址復元されている敷石住居址は、昭和50年に平塚市岡崎上ノ入B遺跡の発掘調査で検出されたものを移築したものです。時代 繩文時代後期(約4000年前)石質 根府川石(輝石安山岩)」「「礎」の碑「礎」の碑は、1949年5月24日に開催された学校定礎式で、平塚市立の各学校に贈られた。書は田中真洲の揮毫で、本礎は平塚市立商業高等学校のものである。学校定礎式は学校の戦災復興と新制中学建設にともなうもので、当時、平塚市立であった学校では、現在も残っているものもある。」「赤碧玉(赤玉)」「赤碧玉(赤玉)産地:新潟県両津市赤玉地層:豊岡層 下部中新統 多量の酸化鉄を含む、極めて微細な石英(玉髄)よりなり、石英安山岩質火砕岩中に脈状またはレンズ状に産します。」この岩石(チャート)は放散虫という珪質な微化石が深海底で堆積したものです。鉱物的には、微細な石英(玉随)よりなり、多量の酸化鉄を含んで赤みを呈します。佐渡のチャートは緻密な朱赤色の色調が特徴で、佐渡赤玉石として観賞用飾り石や水石、庭石として珍重され、昭和40年頃まで採石されました。現在庭石としてよく利用されるチャートは、秩父中古生層と呼ばれる地層(秩父帯)に含まれるチャートで、群馬県鬼石町三波川などで採取されたものです。時代:二畳紀~中生代古期寄贈:内沢忠三郎氏」「珪化木」「珪化木(けいかぼく)産地:岩手県二戸郡一戸町地層:白鳥川層群 四ツ役層 下部中新統本の幹の細胞中に水に溶けた珪素がはいり、内容物と置換してできた材の化石で、約1600万年前のものです。」珪化木は木の幹の細胞中に水に溶けた珪素が入り、内容物と置換し、メノウやオパール化した材の化石です。日本では岩手県や福井県のものが有名で、庭石や置き石に利用されます。岩手県一戸町の珪化木は有名で、「姉帯・小鳥谷・根反の珪化木地帯」として国の天然記念物に指定されています。中でも、一戸町根反(ネソリ)の大珪化木は、セコイア杉の高さ6.4mの大木の化石で、国の特別天然記念物となっています。時代:約2000万年前・寄贈:内沢忠三郎氏。「箱根の神代杉(樹齢700年)」「箱根の神代杉産地 箱根町仙石原終末処理場地層 神山山崩れ堆積物時代 3100年前(樹齢700年)神山山崩れは早川をせき止めて芦ノ湖を出現させた大規模な崩壊です。神代杉はこの地層中に数多く産出しており、芦ノ湖の生い立ちを物語るものです。」寄贈 神奈川県西湘下水道整備事務所」約3100年前、神山で水蒸気爆発が起こり、これに伴う崩壊により山崩れ堆積物が早川をせき止め芦ノ湖を出現させました。この神代杉(ヒノキ)はこの堆積物中から産出したもので、芦ノ湖の生い立ちを物語っています。外輪山の丸岳付近から仙石原を見ると、神山が崩壊してできた扇状地地形がよく分かります。大涌谷は、箱根火山の最新の火山活動の名残をとどめています。「丹沢の岩石●西丹沢の岩石(産地:山北町丹沢湖水没域)●東丹沢の岩石(産地:清川村宮ヶ瀬湖水没域)西丹沢の岩石は酒匂川支流である中川川から、東丹沢の岩石は相模川支流の中津川から、ダム工事中に神奈川県企業庁より提供を受けたものです。いずれも丹沢を代表する岩石で、かつて丹沢が海底火山として活動していた証拠を示す様々なタイプの凝灰岩類と、地下深部に貫入したトーナル岩類(花崗岩類)などからなり、南の海からプレートに乗って移動し、本州に衝突して隆起し、丹沢山地となった大地の歴史を刻んでいます。」「相模川流域の岩石相模川流域は大部分が丹沢山地や御坂山地に位置しています。そのため、河原にはそれらの山地をつくる凝灰岩類(海底火山の火山など)が、良く見られます。こうした岩石は最近の研究では、1500万年ほどまえに伊豆七島のような南の海底での海底火山活動により形成され、その後プレートに乗って運ばれ、本州に衝突して作られたと考えられています。 また、桂川や相模川に沿っては2万年前より新しい富士山の溶岩や泥流が流れています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.27
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『宿場のくらし』東海道の宿駅が発展した背景のひとつに、寛永 12 年 (1635) に制度化された諸大名の参勤交代があります。これにより、東海道の交通量が増大し、街道や宿場が整備され、出稼ぎ、商用、寺社参詣などを目的とした庶民の旅もおこないやすくなりました。とくに近世後期になると、伊勢参宮を中心とした周遊型の旅行が盛んとなり、旅行者による「道中日記」が書かれるとともに、名所・旧跡や旅での注意事項を記した名所案内書や旅行指南書が刊行されるようになりました。「宿場のくらし江戸幕府は、慶長6年(1601)に宿駅制度を成立させ、江戸ー京都間を結ぶ主要道路として、東海道を整備します。東海道は、慶長~寛永年間までに五十三の宿駅が設置され旅行者の利便がはかられました。平塚宿は、江戸から数えて七番目の宿にあたり、天保14年(1843)当時、宿は五町で構成され、ニカ所の問屋場と東仲町を中心に本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋54軒を含む全戸数443軒(加宿共)の規模を持ち、2,114人(加宿共)が住んでいました。」「平塚宿絵図 江戸時代後期」。「平塚宿」江戸時代の平塚宿のミニュチュア模型(写真)では、旅籠(旅館)や、見附(宿場の出入り口にある見張り場)、高札場(法を書き記した立て看板)、髪結床(床屋さん)などの場所が、ボタンを押すとランプで表示され、子供も楽しめる工夫がされています。「街道 平塚宿模型 尺度:1:200平塚宿は慶長 6 年(1601)、徳川家康による東海道の整備とともに設定されました。また、慶安 4 年(1651)には八幡村の一部が八幡新宿として平塚宿の加宿となり、明暦元年(1655)に平塚新宿と改称しました。宿は幕府や諸大名の荷物を継ぎ立てる目的で設定され、そのための人馬を常備する義務を負い、問屋場がその運営をおこないました。1862年ころの平塚宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠42軒、湯屋4軒、髪結床2軒を含む210軒の屋数が建ちならんでいました。そのほか、宿場に欠くことのできない問屋場、高札場などもあリました。当時の平塚宿を文久ニ年(1862)に作られた「宿内軒別畳数坪数書上帳」などの資料により推定復元しました。」東海道が宿内を東西に貫通し、道幅は 4 間(7.2 m)~ 6 間(10.8 m)、家並みは街道を挟んで両側に 19 町 5間(2km)の長さにつらなっていました。なお、平塚宿と隣宿の大磯宿との距離は 27 町(約3km)で、東海道の宿場のなかでも御油・赤坂間の 16 町(約 1.7km)に次ぐ短い距離でした。大磯宿に近接した平塚宿の設定は、中原御殿・陣屋との連絡基地として必要とされたためと考えられます。模型は文久 2 年(1862)に作られた「宿内軒別畳数坪数書上帳(宿並帳)」をもとに、当時の平塚宿を200分の1で推定復元したものです。この史料は宿内それぞれの家について間口・畳数・坪数を書き上げたもので、本陣や脇本陣、高札場、毎月 10 日交代で勤めた東組・西組問屋場など宿の規模と位置関係がわかります。201年前の1821年8月7日、伊能忠敬らの測量結果をもとに作成された日本地図『大日本沿海輿地全図』が完成、幕府に献上されました。忠敬は享和元(1801)年の第二次測量で平塚に立ち寄りました。平塚宿に描かれた☆マークは、彼がそこで天測をしたことを示しています。「平塚宿」。「平塚宿」街道案内。「平塚宿本陣向三軒両隣旅籠屋絵図」。「平塚宿加藤本陣絵図」。「平塚宿山本脇本陣絵図」。近世後期になると、周遊型の旅行が盛んとなり、旅行者による「道中日記」が書かれるとともに、名所・旧跡や旅での注意事項を記した名所案内書や旅行指南書が刊行されるようになった。「宿並帳「宿内軒別畳数坪数書上帳」文久三年三月、十四代将軍徳川家茂が上洛します。その警備及び随従する諸侯の宿割り等のため、前年に東海道と宿駅の調査が行われました。東海道に面した家々の家主・間ロ・奥行き・畳数などが詳細に記録されています。」。「道中絵巻」。石碑・南無阿弥陀佛と両脇に石仏。「地蔵」。「二世安楽を願って造立された地蔵東八幡 泉蔵院境内寛文10年(1670)銘文に「二世安楽」とあり、現世と来世の安楽を願って建てられた地蔵、台座には何々の母とか妻とかあって、女性たちが建立したことがわかる。」「山の神」。「山の神 (複製)四之宮 路傍 享保13年(1728)碑に「山神宮」と刻む。先が少し曲がった鳥帽子をかふリ合掌している。山の福の侈は市内唯一である。西町では、正月17日に山の神講がおこなわれていた。」『農家の四季』。鍬は最も基本的な農具といえるでしょう。昭和 10 年代に牛馬耕が普及し、昭和 30 年代にトラクターを導入する以前は、「耕す」という行為は鍬一本で行っていました。そのため、用途や土質に応じ、様々な種類の鍬が使われてきました。水田用のマンガには、乾田用と湿田用とがあり、乾田用のマンガの方が刃が細く、硬い土でも深くうなえるようにできています。湿田は土が軟らかいため、土がこぼれないように刃が太めにできており、もっと深い湿田では平鍬のサクリグワを使用しました。乾田用のマンガは、トラクターを操作できない水田のコバをうなうのに現在も使用されています。懐かしき多くの農機具が展示されていた。平塚には何々マンガ(マンガー)と呼ばれた農具を5種類ほど確認することができます。①マンガックワ、②コマンガ、③フリマンガ、④稲こきマンガ、⑤馬鍬です。マンガの語源は不詳ですが、「ガ」は鍬の「グワ」が詰まった音です。5種類の用途はコマンガとフリマンガが似ている以外は異なります。形状と材質に共通点があり、それは鉄製の刃が何本か付いた道具ということです。「マン」は、千石や万石など、作業効率の良い新種の道具に「千」「万」など大きな数字が冠せられたことと関連があるかもしれません。市域ではかつて7月中旬にマンガアライという農休日が出され、鍬やマンガなどの農具を洗いムシロに並べて供え物をし、農具に感謝する日がありました。藁で作られた御仮屋の中に石仏そして五輪塔が。セエトバライは、この地方で見られた、1月14日に道祖神の周囲に御仮屋を作る風習。中央に「高根の双体道祖神元禄8年(1695)造立。年号が確認でき市内で最古の道祖神。左右同型の僧形合掌像(複製)」。「セエトバライ道祖神は、セ工ノカミサンと呼ばれ、平塚市内213ヶ所に祀られています。1月14日のセ工トバライには、お飾りを燃した火で団子を焼いて食べ、厄除けをします。かっては、この日までに道祖神のまわりにオカリヤを作り、子ども達はここを根城にして、ムラ中からお飾りやお賽銭を集めて回りました。小屋にお参りに来る人に、御神酒やお菓子を売ったり、幣束でお祓いしたりしました。岡崎や下吉沢では今も簡単な小屋を作ります。下島や下吉沢の一部では賽銭集めも続けられています。」私の住む地域では「サイト(斎灯?)」と呼んでいた行事である。『相模国府を探る』。「相模国府を探る「律令」という法に基づいた古代国家は、地方行政の拠点として国ごとに国府を置きました。相模国府は文献上では「大住府」(和名類聚抄)と「余綾府」(伊呂波字類抄1 0巻本)が認められています。その所在地に関しては「国府三遷説」が考えられており、小田原市→平塚市→大磯町と海老名市→平塚市→大磯町が有力視されてきました。近年、平塚の四之宮周辺から国府所在地を示すような「曹司(そうし)」「国厨(くにくりや)」「鼓(くき)」の墨書土器や金銅製の鍵が発見されたことにより、当初から大住国府が存在した可能性が強くなっています。」律令に基づいた中央集権国家は公地公民制を実現するために畿外を七道(東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道・西海道)に分け、道筋に国々を配置します。相模国は東海道に属しています。国は郡の数により大国、上国、中国、下国に分けられ、相模国は8郡(足上・足下・余綾・大住・愛甲・高座・鎌倉・御浦)からなるので上国になります。国府はその国の行政、司法、経済、文化の中心となり、都市としての組織や機能をもっています。中央から国司が派遣され、職務を遂行します。「相模国8郡・武蔵国3郡と国府推定地大化の改新(645年)でヤマト王権が中央集権化を進める過程において、現在の神奈川県域には武蔵国と相模国が成立しました。県東部(ほぼ横浜市と川崎市全域)は武蔵国の一部となり、それより西の地域は相模国に編入されたのです。行政単位としての国が設置されると、首長である国司(こくし)が任命され、国司が政務をとる政庁(国衙(こくが))、すなわち国府(こくふ)が定められます。ところが相模国の場合、日本で唯一、現在に至るまでに国府の所在地が特定されていません(武蔵国の国府は東京都府中市)。というのも、相模国の国府は三遷したために、所在地があやふやになってしまっているのです。三遷した場所についても諸説ありますが、有力な説としては、まず最初に高座郡(海老名市国分)に国府が置かれ、次に9~10世紀頃には大住郡(平塚市四ノ宮もしくは伊勢原市三輪)へと移り、そして12世紀以降は余綾郡(大磯町国府本郷)へ移転したとされています。「相模国の歴史」。「推定相模国庁 1/300スケール 坪ノ内遺跡 奈良・平安時代(約1300年前)」。「国府と国庁古代日本の行政は「律令」という法律に基づいて行われました。地方の行政単位は「国」と呼ばれそれぞれの国は中央から派遣された「国司」が統治しました。統治の中心となる施設は「国庁」です。国庁の周辺には様々な行政事務を行う施設である「曹司」が建てられ、多くの役人と労働者が活動していたのです。そしてこれらの人々の住まいが並び、生活を支える物資が運ばれて流通することになり、国庁を中心として周辺はたちまち都市的な様相を帯びてきます。これが「国府」という古代都市なのです。地方統治の中心となる国庁は南面する東西棟である「正殿」と、正殿の南側で内側を向く南北棟である「脇殿」で構成され、建物は南側に開く「コ」の字形に配置されます。平城京や平安京における大極殿にあたる施設で、統治儀礼を行う場でした。」「国府東脇殿跡の発見平塚市が属する相模国は、永らく国府の所在地が確定しませんでした。ところが昭和50年代に実施された国道129号線の拡張工事に伴う発掘調査は、沖積低地における古代の遺跡の存在を世に知らしめただけでなく、堆積土の基準や土器の様相などその後の調査・研究を支える基礎資料を提供し、調査を指揮した小島弘義は相模国府=平塚設を打ち出したのです。そして平成16年、湘南新道建設に伴う発掘調査において、東西に向かい合う大型の掘立柱建物2棟が検出され、国庁脇殿と断定されました。遂に最大の懸案であった国庁の所在が突き止められたわけですが、新たな課題も出現しました。確認された国庁は継続することなく西暦800年前後にその場所から姿を消していたのです。中心政庁である国庁に何が起きたのか、その真相を探る上でも国府域全体のさらなる分析が不可欠になってきたのです。」「国庁東脇殿の復原古代の建物には地面を掘り込む半地式のものと、地上に柱を立ち上げる地上式のものかあります。半地下式のものは「竪穴建物」と言い、地上式のものに柱の土台に礎石を据える「礎石建物」と礎石を使わない「堀立柱建物」があります。奈良時代から平安時代の中頃にかけて、東国における一般庶民の住居は竪穴建物が主流でしたが、政庁・寺院や倉庫などの建物は堀立柱建物や礎石建物が使われました。特に、威の象徹としての文化を規する寺院阯築には、瓦葺きの屋根とその川を支える礎石が使われます。」------「延喜式」による復元道路------「延喜式」の官道以前の駅路平塚市内の様々な発掘現場の写真。『道具の歴史』私たちの身の回りには無数の道具がありますが、その道具ーつにも生活の知恵が生かされ続けて現代に至っています。今では鉄、鋼、プラスチック等の多様な素材が使われていますが、原始・古代の道具は身の回りから採集できる素材を巧みに利用していました。生活に必要な道具は長年の生活の知恵から生まれたものです。道具の歴中を見直すことは、その時代に生きた人々の歴中を明らかにすることでもあります。その時代・時代に生きた人々が残した道具の歴中は今何を語ろうとしているのでしようか。「縄文土器を復元」「縄文の竪穴住居を復元」。縄文時代の石器類。「集落」、「古代土器の生産地」、「縄文中期の土器文化圏」。『生活を語る土器』。私たちが毎日使う容器には様々な形があり、使い方によって形がきまっています。今から約1万2千年の縄文時代に食糧を煮る器として出現した土器は、縄文社会を支えるための重要な道具の一つにあげることができます。その後、土器は時代によって形、使われ方や作り方が変わりますが、士器のもつ本質は現代社会まで受け継がれています。ここでは、原始・古代に使われた土器の交流や生産地を取り上げ、特徴や背景を探ることによってその時代のくらしを考えます。『岩石と地形』。相模川流域の地形は丹沢山地や伊豆地塊が本州に衝突し、関東山地や丹沢山地が急激に隆起して作られました。流域の山々は比較的新しい時代に形成されたもので、急峻な壮年期の地形をしています。流域の地形は岩石の硬さや地層の構造、断層の存在などをよく反映しています。相模川にかかる滝には、富士火山の溶岩流の末端にできているもの、断層運動によって生じたものが多く見られます。第四紀という最も新しい時期に形成された富士や箱根には、火山特有の地形がよく見られます。ここでは、相模川流域の大地がどのような岩石からできているのか、どのように地形と関係しているのかを、流域の地質図と、様々な地点での写真・実物標本をもとに紹介します。『大地の生い立ち』。相模川流域の源流部をなす丹沢山地や小仏山地は、現在とはかけ離れた場所で地層が形成され、フィピン海プレートに乗って運ばれ本州孤に衝突して付加され、山地となったものです。相模川は丹沢山地が関東山地に衝突したことによって誕生しました。箱根や富士の火山活動もこうしたプレート運動と密接に関わっています。ここでは、こうした流域の1奥年にわたる大地の歴史を見てみましょう。身近な自然の中にも大地の生い立ちを知る証拠が数多く遺されています。ここでは、相模川流域の1億年に亘る大地の歴史を9つのステージ、すなわち四万十帯の堆積と付加、南の海の丹沢、石英閃緑岩の貫入、丹沢の衝突と相模川の誕生、伊豆の衝突、二宮層の海、下末吉海進期、古富士火山活動期、縄文の海に分けて、古地理図や写真、岩石や化石の実物標本を基に展示しています。身ぢかな自然の中にみられる様々な岩石から大地の生い立ちを知る証拠を読みとって下さい。平塚駅西から産出したタブノキ。「平塚駅西から産出したタブノキこのタブノキは1964年(昭和39)平塚駅西の中央地下道工事の際、地下5.1mから発見されたものです。標高2 mの砂層より産出し、材質を同定した結果、タブノキであることがわかりました。樹齢は3OO年ほどです。炭素による放射年代測定の結果、1950年±50年(西暦1950年を基準とする)という値が得られました。よって、この木が産出した東海道線付近は、2000年前には海岸で、台風や津波などにより漂着物としてタブノキが打ち上けられたことになります。海岸までは1 .4kmあるので、漂着後700m / 1OOO年の割で海岸線が前進していったことになります。」『まつりの世界』。日常の生活には収穫する喜び、病気の苦しみ、人が亡くなったときの悲しみ、地震・火災などの災害に対する不安・恐怖などが生まれます。様々な思いが形として現れるのが、「まつり」です。まつりで使われる、願いや祈りをこめた特別な遺物を通して、原始・古代人のくらしの中から生まれた「まつり」の一端を探ります。人が生きていく上で、よりよい生活を願う気持ちは、現代人と変わらなし、ことかわがるでしよう。手前に展示されていたのが「有孔鍔付土器」 出土遺跡 : 上ノ入遺跡 時代 : 縄文時代 中期 年代 : 約4500年前 土器型式 : 勝坂式『川から海へ』。波打ち際で拾う物の中には、野山や街のものもたくさん含まれています。たとえば、必ず拾える物の一つであるオニグルミの実を見ていると、山の自然と海の自然が川を通してつながり合っているということを実感することができます。きれいに穴が開いたオニグルミは、アカネズミが食べたものです。拾った物の観察は、生きもののつながりについてもいろいろなことを教えてくれます。「川から海へ浜で出会う漂着物には、川から流れてきた物が多く含まれています。その中には.クルミの実のように山から流れてきた物、おもちゃや空き缶のように街から届いた物、フナやザリガニのように川にすむ生き物などがあります。それを見ていると、山も街も海も、その環境が川を通して一続きにつながっていることがよく分かります。タバコのフィルターも多く見つかりますが、何気なく捨てている吸い殻が、めぐりめぐって海の自然にまで影響を与えているのです。」『浜でひろう海の自然』。かっての湘南海岸はアカウミガメがよく産卵に訪れていました。現在でも、大磯・片瀬などで年に1回は産卵が確認され、虹ヶ浜でも子ガメが観察されたことがあります。また、時には死体が漂着することもあり、相模湾にアカウミガメが定期的に訪れていることは確かです。展示した剥製と骨格標本はどちらも平塚海岸に流れ着いたものです。アカウミガメが安心して卵を産むには、静かで車や人家の灯りが届かない暗い浜が必要です。そうした条件の浜を取り戻したいものです。「浜でひろう海の自然浜にはいろいろな海の生きものが打ち上がっています。その中には.近くの海底にすむ貝やヒトデ、沿岸でくらしている魚が多く見られ、その種類や数からは相模湾の自然環境の変化について知ることができます。また、外洋を飛リ回る海島、広く回遊しているウミガメ、黒潮に乗って流れ着く果実のように、遠くの海がら浜にたどりつくものもあります。私たちは、浜を歩きながら地球上を広くおおっている海の自然をかいま見ることができるのです。」「ムカシオオホホジロザメ(メガロドン)の顎歯(復元模型」。「ムカシオオホホジロザメ(メガロドン)の顎歯(復元模型)約2300万年前(中新世)から360万年前(鮮新世)まで生息していたサメの仲間で、全長12 m以上に達したと考えられる大型の種です。現在も生息するホホジロザメの同属という説や、オトドゥスという絶滅したサメのグループに属するという説など、その分類についてはまだ議論か続いています。当時は世界中の海域に生息していたと考えられ、大磯周辺に分布する大磯層からも、まれに発見されます。『ミショー式自転車』。「ミショー式自転車この自転車は、平塚市明石町の平田忠心氏(明治31年~昭和63年)が所蔵し、東京都の旧・交通博物館に常設展示示されていましたが、交通博物館の閉館にともない、当館へ寄贈されました。平田氏は自転車店を経営し、若い頃は自転車競技の選手としても鳴らし、平塚市の交通文化の発展に尽力された方です。また、大雄山最乗寺の篤信者でもあり、平塚復実講の講元を生涯にわたり務められ、道了講の普及に貢献されました。前・後輪異径のミショー式自転車です。この自転車は1869年(明治2)にアメリカから購入されたものと言われています。「ミショー式自転車について1863年、ピエール・ミショー(フランス〕が考案したミショー式の自転車です。車輪に直接べタル・クランクを取り付け、前輪を駆動します。この自転車は発明後、ミショーによって月間400台もが量産されたと伝えられ、べロシベードの名前で親しまれました。イギリスに渡ったこの自転車は、ポーンシェーカー(骨ゆすぶり)の愛称で呼ばれ、アメリ力でもP・ラルマンによって特許が取られ量産され、1880年代まで世界に広まりました。」『相模湾に生きる』。海が私たちにもたらしてくれる恩恵は、計り知れないくらい豊かです。このコーナーでは相模湾を舞台に繰り広げられた漁業について紹介しましよう。平塚では古くから地曳網やカツオー本釣りが盛んで、アジ、イワシ・シラス、サバ、カマス、カツオなど様々な魚を捕ってきました。水掲げされた魚は、ボテイと呼ぶ行商人によって遠く八王子市辺りまで運ばれたり、シラスは平塚名産のタタミイワシ(カクボシ)に姿を変えます。また、漁業だけでなく、平塚市旧須賀村は川と海を結ぶ交通の要衝としても栄えました。平塚の海岸は砂浜が長く続くため地曳網に適し、昭和初期には合わせて18統もの地曳網がありました。現在は、シラス船曳網の影響や乗組員不足などにより、一統が観光網を操業するだけになりました。地曳網では現在も木造船を用いています。木造船はFRPの船よりも重く、荒波を受けても安定感があるためです。大磯や二宮の地曳船と比べると、平塚の船は船体が大きく、先端のミヨシがせり上がっているのが特徴です。船の形は、網の規模や対処する波の高さにより漁場ごとに違いが生じます。ブリ大謀網(だいぼうあみ)模型。地曳網用の木造船。「イキョ」。「イキョカツオ釣りの餌にするシコイワシは、イキョに入れて浜に漬け、馴らしてから船に積んだ。「マイワイ(万祝)」。絹や木綿に鶴・亀・松・竹などの縁起のよい絵柄を描いたもので、大漁に網元や船主が、漁師たちに配ったものです。漁師はこれを着用して、海の神に大漁御礼の参拝をします。昭和十年代まで盛んに着用されました。マイワイ(万祝)のマは運を意味する漁師言葉である。不漁の時はマナオシといって、祈祷してもらったり、大山へ参拝に行くなどし、大漁の時は、オキアガリといって酒宴を開き、網元からマイワイと呼ぶ着物が船方に配られた。マイワイは、大正時代から昭和20年代にかけて、ブリが豊漁の時に配られることが多かったが、展示したマイワイに記されている富国丸という船はカツオ一本釣り漁船だった。須賀のマイワイは、銚子など房州で染めたものが多い。「大漁旗 加藤網 松本曻一」。「地曳網地曳網は、鎌倉から小田原までの砂浜を持つムラで盛んに行われました。現在平塚では、1統が観光地曳を中心に行っていますが、最盛期には18統もの網組がありました。地引網こ使われる船は、今も木造の和船が使われています。プラスチック船より木造船の方が波の抵抗を受けにくいからです。船の形は、同じ相模湾内でも違いがあります。東部の方が船体が大きく、ミヨシもせり上がっていますこうした.違いは、それぞれの浜の地先の海底地形に起因しています。」「神代杉(ヒノキ)の年輪産地: 箱根町仙石原終末処理場(現仙石原浄化センター)地層 : 神山山崩れ堆積物時代 : 約3100年前寄贈 : 神奈川県西湘下水道整備事務所このヒノキは約3100年前に起こった神山の山崩れにより、山腹に生育していたものが仙石原湿原に埋められたもので、樹齢700年もあります。この山崩れにより早川がせき止められて芦ノ湖が生まれました。ですから、このヒノキは芦ノ湖の生い立ちと、約3100年前~ 3800年前の縄文時代の気候を物語っています。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.26
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県内外の様々な企画展示のポスターが。「平塚市博物館平塚市博物館は相模川流域の自然と文化をテーマとした博物館です。この地域の過去・現在・未来にわたる人間の生活と、それをとりまく自然について、調査し資料を集め展示などの活動を行なっています。市民による市民のための博物館としてみなさんとともに歩んでいきたいと思います。」シンボルマークは、「人と相模川と相模平野と博物館」を表現しているとのこと。「平塚大空襲 ー学徒動員・十五歳の生と死ー」茨城県立麻生中学校4年生で海軍火薬廠の動員学徒だった平野哲男さんが、昭和20年(1945)7月16日の空襲を描いた絵です。学友の永峰光さんが焼夷弾の直撃で亡くなりました。下の2枚の絵は上の様に一枚の絵であったのだろうか。「昭和20年7月16 ~ 17日、平塚は米軍による激しい空襲を受けます。この空襲により、当時、平塚第ニ海軍火薬廠に学徒動員されていた茨城県立麻生中学校生徒永峰光君が焼夷弾の直撃を受け死亡します。亡くなった永峰君の友人であり、一緒に動員されていた平野哲男氏は、その時の印象を「平塚大空襲一学徒動員・1 5歳の死と生ー」と題し描きました。この作品は、1999年3月に開催された「日本アンダバンダン展〈20世紀の戦争と人間〉展」に出品展示され高い評価を受けています。この度、平野哲男氏のご好意により博物館に寄贈されました。」「平塚市制90周年」展 コーナー。平塚市は、昭和7年(1932年)4月1日に市制を施行し、令和4年(2022年)4月1日に市制施行90周年を迎えた と。「平塚市制90周年」展。 「平塚市制90周年」展 令和4年6月21日(火)~昭和 7 年(1932 年)市制祝賀式の記念写真 (初代平塚市長 鈴木清寿氏、前列左から 2 人目)「新興大平塚全圖」須馬町との合併により新たな「平塚町」となった と。須馬町(すばまち)は、神奈川県中郡に存在した町。町名の由来 旧村名の須賀、馬入からの合成地名。沿革1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、須賀村、馬入村が合併して 大住郡須馬村が発足。1896年(明治29年)3月26日 - 郡制の施行のため大住郡が淘綾郡と統合され、 所属郡が中郡に変更。1927年(昭和2年)1月1日 - 町制施行。1929年(昭和4年)4月1日 - 平塚町に編入。同日須馬町廃止。市政90周年を迎えた平塚市の人口推移案内や歴史資料が展示されていた。「昭和のくらし」コーナー。「博物館の「平塚の空襲と戦災を記録する会」では、1989年から昭和期の平塚について、特に戦時下の平塚と平塚大空襲に的を絞って調査を続けてきました。その結果、当時の平塚は第二海軍火薬廠などの大規模な軍需工場をはじめ、中小の軍需工場が多く存在した、県下でも有数の軍需工業都市であったことがわかりました。平塚市は、昭和20年(1945)7月16日から17日の未明にかけ、米軍のB29爆撃機132 機による大規模攻撃を受けます。このとき、B 29から投下された焼夷弾は44万本を超え、一夜の投弾数としては全国で二番目といわれます。ここでは戦時下の平塚と平塚空襲の実像を、市域に残る戦中・戦後の資料から紹介して、平和の尊さや平塚の近現代史を明らかにしています。」と。「昭和のくらし昭和の元号は、国際協調と世界平和を願って制定されたものです。しかし、現実は、国際的孤立と戦争への道を当初から歩むものでした。初期の世界恐慌に端を発し、日本国内の経済活動は急激な低落状況になります。これを打開するため、軍需主義が強化され、戦時体制が恒常化されます。個人の生活は全体主義思想の中に押し込められ、戦争への協力を強いられました。戦後は、経済の立ち直りにあわせ、技術新が進み、くらしが豊かになります。しかし、環境を巡る多くの問題が新たに現れています。」「軍都への道平塚への軍需工場の進出は、大正8年(1919)の海軍火薬廠の開設に始まります。その後、大正12年には、海軍技術研究所研究部が開設。そして、戦争の激化にともない昭和12年(1937)に日本航空工業(日本国際航空工業)、同16年に横須賀海軍工廠造兵部工場、同17年に横須賀海軍工廠造機部工場と第ニ海軍航空廠が開設されました。また、民間軍需工場には、二荒航空工業や近江航空工業もあり、海車兵器工場や航空技術開発の研究と工場が集中する都市に発展しました。」「戦争への道と戦争協力」「昭和6年(1931)、日本は中国東北(満州)に得た権益の維持拡大を狙った侵略戦争を開始します。そして、同12年の日中全面戦争、同16年の太平洋戦争と拡大する中で、国家的危難を一致団結して乗り切るよう国民に強制します。同13年「国家総動員法」が制定され、すべて軍需優先となりました。その結果、生活用品の配給制や切符制、国民学校の発足、金属回収、勤労報国、臨時増税食糧増産、防空体制強化等々の諸施策が実施され、戦争に協力させられました。」「平塚大空襲」。「平塚市は、昭和20年7月16日〜17日の未明にかけ、アメリカ軍B29爆撃機132機による大規模な攻撃を受けます。これが「平塚大空襲」です。この空襲により、平塚市の60%近くが破壊され、300名を超える尊い人命が奪われました。また、空襲による被害は、軍需工場より市街地に多く、罹災戸数7,678戸、罹災者数35,336人を数えました」。「空襲による平塚市の焼失図」。グアムから伊豆大島の上空を通過し平塚を空襲したB29。平塚市の焼失域。爆撃中心点:現まちかど広場付近(神奈川県平塚市紅谷町12−30)B29の投弾状況。大島上空を高度3270mで平塚に向かって北に飛行し、小型焼夷弾を投下開始。小型焼夷弾は、M50といわれるテルミット・マグネシュウム焼夷弾で1 1 0本結束されたM 1 7集束弾として投下され、3.3m2あたり1 .6発が落下するよう計算されていた のだと。「焼夷弾」。「平塚の空襲で投下された爆弾は、その数447,716本、総重量1 , 162.5トンで、大型油脂焼夷爆弾と小型焼夷弾のニ種類でした。特に、小型焼夷弾は、M50といわれるテルミット・マグネシュウム焼夷弾で1 1 0本結束されたM 1 7集束弾として投下され、3.3m2あたり1 .6発が落下するよう計算されていました。当市に対する焼夷弾の投下数は、全国の空襲の中で一・ニを争うものでした。このことから小都市平塚の空襲が、いかに激かったが理解できます。」「大型油脂焼夷爆弾」。「大型油脂焼夷爆弾正式名称は、ANーM47ーA2ー1OOI. B.と呼ばれ、直系20cm、長さ1 .2m、重量45 .3kgの円筒形の焼夷弾。M69同様ナパームを充填し、落下と同時に爆薬が破裂、ナパームを高さ2・30mに吹き上げ、15 ~ 30mの範囲に飛散させました。」「B29爆撃機」。「B29爆撃機昭和19年(1944)、サイバン島やグアム島が陥落すると、アメリカ軍による日本本土への本格的な空襲が始まり、平塚など主要な軍需都市がその目標になりました。対日戦の専用機として開発されたB29爆撃機は、「超空の要塞」といわれ、マリアナ基地から発進するB29は、ほぼ日本全土をその爆撃範囲とすることができました。日本を空襲したB29は、延べにすると27,OOO機以上、約16万トンに及ぶ爆弾・焼夷弾を日本の各都市に投下しました。」「紙の爆弾= B29投下「宣伝ビラ」米軍は、日本国内の空襲都市を予告した「ビラ」を投下します。空襲体験者の証言でも平塚空襲に際し、予告の「ビラ」が空襲前々日(7月14日)にばらまかれたとの情報が伝えられます。平塚空襲の後、7月26日付き「マリアナ時報」や7月28日付き「落下傘ニュース」が投下されています。」「平塚大空襲平塚市は、昭和20年7月16日~ 17日の未明にかけ、アメリカ軍B29爆撃機132機による大規模な攻撃を受けます。これが「平塚大空襲」です。この空襲により、平塚市の60 %近くが破壊され、300名を超える尊い人命が奪われました。当時の平塚市は、第ニ海軍火薬廠などの大規模な軍需工場が多く、それが空襲される理由でした。しかし、空襲による被害は、むしろ軍需工場より市街地に多く、罹災戸数7,678戸、罹災者数35,336人を数えました。」市内被災状況現在の旧国道1号線と不動通りの交差点付近(米国立公文書館蔵)●空襲時の平塚市の被災状況 人口:45050人(1944年12月 平塚市調べ) 人口:43000人(1940年10月 国勢調査) 面積:11.21km2 死亡者:237人(神奈川県警察本部調べ『神奈川県警察史』中巻) 228人(米戦略爆撃調査団調べ 奥住喜重『中小都市空襲』三省堂) 343人(『全国戦災史実調査報告書』昭和52,53年度 日本戦災遺族会) 363人(平塚の空襲と戦災を記録する会調べ) 負傷者:268人(神奈川県警察本部調べ) 罹災者:35,336人(神奈川県警察本部調べ) 罹災戸数:7,678戸(神奈川県警察本部調べ) 攻撃面積:米軍見積もり 6.02km2 市街地 3.74km2 工業地帯 2.28km2 焼失面積:米軍見積もり6km2のうち44.2%を焼失破壊 市街地:2.1km2/3.7km2 (見積もり市街地区全体の57 % ) 工業地帯:0.5km2/2.1km2 (見積もりエ業地区全体の23.8 % ) 当日の天候:曇り(雲と雲の筍の見通し良) 風速:高度3300m付近で西の風20m 月齢:6.4 (午前10時00分出、午後11時06分入) ※攻撃面積以下は『作業任務報告書』(米国立公文書館蔵)による●米軍の攻撃データ 作戦番号:No. 274 (日本中小都市空襲のの9回目) 所属軍:米陸軍第20航空軍第314航空団(グアム島ノースフィールド基地) 投弾機数:ボーイングB29 133機(先導機12、レーダー対策機4を含む) 攻撃始点:伊豆大島 乳ヶ崎付近(北緯34度47分30秒、東経139度22分) 爆撃中心点:リトモザイク上084,080の点(市の中心、現まちかど広場付近) 飛行速度:426.5km /時(平塚滞空時間約20秒) 飛行高度:3300~ 3660m 離着陸時間(日本時間):1番機離陸16日午後4時38分 最終機離陸 16日午後5時45分 1番機帰着 17日午前5時58分 最終携帰着 17日午前8時28分 所要時間:グアムから平塚 1番機の所要時間 6時間54分 初弾投下時間:7月16日 午後11時32分 最終投弾時間:7月17日 午前1時12分 投弾焼夷弾本数:M50焼夷弾 406,010本 M47焼夷弾 6,951本 総投弾本数: 412,961本 50口径機銃弾消費:総数4105発(内訳 テスト発射3,305発、投棄800発) ※「作戦任務報告書』(米国立公文書館蔵)による。」「●撮影された平塚の惨状終戦後の1945年9月、米戦略爆撃調査団(USSBS)によって平塚市の様子が最影されている。米軍が攻撃した日本国内の各都市、軍事施設・軍需工場等に与えた人的・物的損害が、政治・経済・社会および国民の心理面などに与えた影響を調査する目的で記録されたもので、そのフィルム・写真が米国立公文書館に収蔵されている。空襲後1ヶ月半を経過した時期の記録であるが、戦災の傷跡が生々しく写されている。また、同時に被災市民の生活の様子も伺える。」被災した平塚の街並みと「描かれた空襲」。「描かれた空襲博物館には平塚空襲を体験された方から寄せられた空襲の様子を描いた絵が収蔵されている。これらの絵は、言葉だけでは伝わらない空襲の様子や心象を視覚的に伝えてくれる。」そして次に2階展示室を訪ねた。テーマ:地域を探る相模川流域の自然や生活に関わるいろいろな情報について、実物資料を中心に展示しました。流域の自然と文化をより深く理解し、過去の情報から現在や未来も見つめるように展示が構成されています。「失われるもの」私たちの周りに存在したもので整備、開発、新設などの過程で「失われたもの」がたくさんあります。整備、開発、新設により私たちの身のまわりは確かに豊かになり、暮しやすくなったといえます。この二、三十年の間に、私たちの身の周りは海で、山で、川で、街でそして田園で大きく変りました。今後もそうした変化を見守り、失ってはならないものを大切にしていかなければなりません。・平塚海岸の変化・街の変化・田園風景の変化・相模川の変化・丘陵地の変化巨大な「酢甕(すかめ)」。「酢甕 16世紀中原上宿の磯部家で成瀬酢の醸造に使用されていたと伝えられる常滑焼の甕。口径63.4cm、最大幅88.6cm、高さ66. 0cm /当館蔵」「成瀬酢成瀬酢はかって中原(平塚市御殿)で醸造され、将軍家御膳酢として江戸幕府に献上されていた酢です。中原代官成瀬五左衛門が中原御殿前で酢屋を営んでいた佐藤金右衛門方の酢を徳川家康に献上したところ、大変喜ばれたことから御膳酢となリました。17世紀末に著された食の事典『本朝食鑑』に「近代では相州の中原の成瀬氏で造られるものが第一等」と評価され、名酢として知られていました。中原宿は御膳酢献上の見返りに平塚宿への人馬役負担免除の特権が認められていました。しかし、享保8年(1723)にに献上が廃止されるとその特権を失い、天保期(1830~1844)には成瀬酢の醸造もおこなわれなくなってしまいました。」「都市化と生物人口が増え、多くの土地が住宅地や工場に使われ、環境が大きく変わっていくことを都市化と呼んでいます。都市化は人間生活に変化をもたらすだけでなく、もともとそこにすんでいた生き物たちの種類や分布にも大きな影響を与えます。カエル類のような水辺の生き物、タカ類のように広い林を必要とする猛禽類などは、都市化によってまっさきに姿を消していきます。カントウタンポポからセイヨウタンポポのように、いつのまにか種類が移り変わっていくケースも知られています。」「平塚市の土地利用」。「地震と平塚の地盤私たちが直接感じる大地の動きに地震による変動があります。神奈川県内では、神奈川県西部地震・南関東地震・東海地震が叫ばれ、地震に対する関心が高まっています。1995年に起こった阪神淡路大震災では活断層が地表に現れ、地盤の液状化が発生し、甚大な被害をもたらしました。平塚周辺もプレート運動の力を受け、台地や丘陵に数多くの活断層が知られ、過去に地盤の液状化を何度か経験してきました。ここでは、平塚市域の地盤を地震との関係からみてみましょう。」「平塚の地形と地盤」。・平塚市域の軟弱地盤の厚さの分布(左)・平塚市域の地形分類図(右)平塚の平野は大きく真土以南に広がる砂州砂丘地帯、相模川や金目川沿いに広がる自然堤防と後背湿地地帯、谷沿いに分布する谷底平野などに分けられます。地表の地形の違いは表層の地盤が異なっていることを示しています。砂州砂丘地帯では砂地盤が厚いのに対し、後背湿地や谷底平野では泥地盤が厚くなります。泥地盤は水分を多量に含み軟弱地盤となります。」「南関東地震」と「神奈川県西部地震」。「南関東地震南関東地震は1923年の大正関東地震級の再来を想定したものです。この地震の震源とされる国府津ー松田断層の最近の調査結果では、過去3000年間動いた形跡がなく、約3000年程度の間隔で活動することが明らかになり、今後数100年以内にマグニチュード8級の地が発生する可能性があると、国で発表しました。神奈川県の震度予想では、震度7が厚木以南の相模川低地、金目川低地などに広く分市しています。相模川下流域では液状化の可能性が極めて高いと予想されています。」「神奈川県西部地震小田原付近は江戸時代以降繰り返しマグニチュード7級の地震に見舞われて来ました。この地震は平均73年周期で繰り返していると言われ、1923年の大正関東地震より数えてほぼ満期にきており、近い将来の襲来が叫ばれています。神奈川県下では、神奈川県西部地域(小田原付近)を震源とするマグにチュード7.0の地震を想定して、液状化、崖崩れ、津波などに対して被害想定をまとめています。それによれば、平塚では震度5~6が想定されます。」液状化現象の写真。多くの石仏が並ぶ。石仏の代表格は地蔵、道祖神、庚申塔。これらの石仏に彫られた像容や銘文はさまざま。多くの庚申塔に彫りものは、上から順に日月、主尊像(ここでは 24 文字の光明真言を梵字で彫り、その意味は大日如来に智慧と慈悲でお救い下さいの願文で珍しいもの。よくみかけるのは青面金剛、猿田彦、大日如来、帝釈天、地蔵、阿弥陀如来等々)、その下に三猿(並びは写真のように中央に雌の不聞猿(きかざる):左右に雄の不見猿(みざる)・不言猿(いわざる)の配置が多い)と両脇に二羽の鶏が代表的な構図となっている。この庚申塔に彫られた内容は二世安楽(現世と来世の幸せ)を願って、寛文3 年(1663)10 月に寺田縄村の寄進者達が満海和尚の勧めにより庚申塔を建立したとの内容が彫られている。三猿の目は丸く三猿は横一列ではっきりしている。ふくよかに彫ってあり龍前院型の猿像に似ている。 緻密に彫られている貴重な庚申塔。「板碑型三猿庚申塔 寺田縄 吉祥院境内 寛文3年(1663)「奉造立庚申石塔爲ニ世安樂也」の願文と、金剛界の五仏である五智如来に対し光明を 放つように祈願する光明真言を梵字で刻んでいる。像、文字ともに鮮明な庚申塔である。」「大島正福寺の舟型青面金剛ニ猿庚申塔」。四臂青面金剛像・二猿像。塔高82cm(台座を除く) 塔幅45cm 塔奥行24cm。60日に1回の庚申(かのえさる)の夜に眠ると、寿命が縮まるという民間信仰があった。そこで徹夜で語り合って酒食を共にする庚申講が盛んに開かれていた。その信仰に基づいて建てられたのが庚申塔。この石塔は、明暦2年(1656)霜月の紀年銘をもつ光背型塔で、刻像は四臂青面金剛と二猿で、青面金剛の四臂の持物は右上手に剣、右下手に宝棒、左上手に三叉戟、左下手に索を持ち、頭には三股冠とともに怒髪様のものを刻む。二猿は両膝を立てて正面を向いて座り、左右の猿とも手を膝の上におく。刻銘は光背正面の左右にあって、明暦2年霜月の紀年銘と「相州大島郷為寒念仏供□造立為浮図一基者也」の銘がある。 このことから、寒念仏供養の為に造立されたと考えられる。同じ形式の石塔は、全部で7基あり、市内長楽寺、寒川町下大曲神社、茅ヶ崎市八幡大神、金山神社、神明宮、藤沢市御嶽大神に残っている。 (塔身正面) 相州大島郷為寒念仏供□造立為浮図一基者也 明暦二年丙申霜月吉日「大島正福寺の舟型青面金剛ニ猿庚申塔明暦2年( 1656 )建立。寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市、平塚市札場町に存在する同型の庚申塔と合わせて7基が県有形文化財に指定されている。」社の中に鎮座する「双体道祖神」。「「不動明王像」がのった道標岩座上の不動明王像は、右手に降魔剣、左手で羂索を握り、火炎光背を背負い威厳が漂います。下部道標の正面に「カーン 不動明王 右糟屋 左大山」と刻まれ、右面に「文化十癸酉七月豊田本郷村」(1813)とあります。左面に「導師福蔵院舜」とあり福蔵院(真言宗・廃寺)にゆかりを持ちます。以前は大山道と糟屋道の分岐点(豊田本郷バス停傍)に建っていました。」「不動明王(複製)豊田本郷 清雲寺境内 文化10年( 1813 )市内を代表する不動尊。台石正面に「右糟谷 左大山」とあり、大山道と糟屋道の分岐点に建てられていた。大山道は鈴川の堤防上を進み、糟屋道は城所を経て北へ向かっていた。」「講の集い」講とは、元々仏典を講義する会という意味でしたが、やがてある特定の神仏を信仰する組織や、経済的な互助組織をも指して呼ぶようになりました。稲荷講は2月初午や2月 11 日に、講中で祀る稲荷や本家の稲荷へ、藁のツトッコに入れた赤いご飯や、油揚げ、尾頭つきの魚を供え、ヤドへ集まりご馳走を食べて過ごします。念仏講には月並み念仏と法要の念仏があり、月並み念仏は毎月1回、日を定めてヤドで念仏を唱えます。地蔵和讃や御詠歌を唱える所もあります。法要の念仏は、お通夜に枕念仏をあげ、四十九日、一周忌、三回忌などに招かれてお念仏をあげます。」「講のつどい講とは、ある特定の神仏を信仰する集団のことをいいます。庚申講、地神講、念仏講、大山講、稲荷講などが代表的な講で、これらは市内ほぼ全域で組まれていました。この他にも、徳本講、不動講、観音講、地蔵講、ニ十三夜講、金比羅講など様々な集まりがあります。また、カヤ講など経済的な助け合いを目的にする講もありました。近所の家同士や本家分家の関係で組まれる講が多く、娯楽親睦的な要素を多分に含みます。私的な集まりであるがゆえに、酒の力も借りて本音が言い合える機会でもあります。」「社寺参拝神社仏閣詣では江戸時代中期から盛んになり、その多くが講の形をとりました。市内には大山講(伊勢原市大山)、伊勢講(三重県伊勢神宮)、富士講(富士浅間神社)、御嶽講(青梅市御嶽川)、導了講(南足柄市最乗寺)権現講(相模湖町与瀬神社)などがあります。なかでも大山は、大山講による参拝をはじめ、盆山登山、茶湯寺への百一日詣り、雨乞いなど多くの信仰を集めています。夏山開山期間には、辻々に大山燈籠が立てられ、現在も上沢地区では献灯を捧げています。」「さまざまな講」。「さまざまな講念仏講:月並み念仏といって、年輩の女性たちが毎月地蔵や観音の縁日に集まって念仏を唱えたり、通夜に枕念仏をあげたりします。稲荷講:稲荷にはムラ共同のもの、本家分家で祀るもの、屋敷神などがあり、いずれも初午や2月1 1日に祭をします。ツトッコに小豆飯を入れて稲荷祠に供えます。庚申講: 60日に一度、庚申の日に当番の家に集まります。江戸時代前期から大正時代にかけて造立されている170基程の庚申塔のほとんどが庚申講中によるものです。地神講:年に2回、舂秋の社日に行います。社日に土いじりをすると地の神の頭を傷つけるといわれます。地神塔は13基造立されており、その半数が土沢地区に分布しています。不動講:大山不動を信仰する講は、市の北部に濃く分布しています。まわり不動といって、厨子に入った不動像をヤドの家に回し、毎月28日に集まって真言を唱えます。」「鉦(かね)と鐘木野辺送りにも叩いた鉦で、裏面に「大極上 七寸 重目上等」と刻んである。」「念仏講中連名帳明治40年~平成12年までの死亡者と穴掘り当番2名ずつが記録されている。」「田村下町念仏講中用具田村下町では妙楽寺の檀家十三軒で講仲間を組んでいました。田村の念仏講の特色は、野道具作りや墓穴掘りなど、お葬式の準備を講仲間が行っていたことです。資料に、穴掘り当番表が残されています。下町では、平成13年頃までお葬式や法事にお念仏をあげていました。講は、近所の情報交換や郷土料理伝承の機会でもあったのですが、信仰心が薄れ、経費もかかることから解散することになり、博物館に寄贈していただきました。田村からは、すでに横宿から念仏講用具が寄贈されており、また民家前の子育て地蔵さんは上町念仏講中が祀っていたものです。」「不動明王像(田村上町不動講)」。「お不動様田村上町の不動講では、お不動様(不動明王)を祀っていると流行病に罹らないといわれ、毎月28日に講を行っていました。最後の不動講の折には、講中の方々が涙を浮かべながら見送られた、大切な資料です。(平塚市田村 上町不動講中寄贈)」拍子木、不動講日待費用扣帳。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.25
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1階展示室テーマ:相模平野と人間相模川によって作られた相模平野の大地や自然の様子と、その恩恵を受けた人々の暮らしを、地模型やジオラマ、移築した民家などにより展示し、自然と人々との関わりを紹介します。正面に「相模川のめぐみ」コーナー。「相模川のめぐみ昭和初期までの相模川は、上野原町付近と須賀湊の間を高瀬船が往来する物流の大動脈でした。川には、アユをはじめとする多種の魚が生息し、投網やコロガシなどの漁が盛んでした。しかし、昭和22年の相模ダム完成以降は、ダムや堰ができるたびに環境が変わり、水質汚染も進んでアユは激減しました。水道水や電力の供給など、私たちの快適な暮らしのために川が利用されてきたのですが、かっての豊かな恵みも忘れずにいたいものです。」「相模川の水運」。「相模川のめぐみ 水運相模川水運の史料は戦国時代からみられます。近世には甲斐、津久井の材木や流域村々からの年貢などを河口の須賀、柳島の湊へ送り、海船に積み替え江戸へ送る輸送路が確立しました。寛文4年(1664)には、津久井県太井村に荒川番所が設置され、流通物資に運上金が賦課されました。物資の輸送を担った高瀬船には時として大山参拝の人々も運ばれ、相模川は人と物資の行きかう動脈として発展し、須賀湊は川と海の結節点として繁栄しました。」元亀元年(1570)北条氏印判状。麦130俵を須賀から熱海まで船で輸送するように命じています。ここからは須賀が相模平野で収獲された農産物を集積し、出荷する役割を担っていたことがうかがえます。「相模川のめぐみ 船」。「相模川のめぐみ 船相模川には、高瀬船、サンパ船、平田船、馬船、砂利船などの船が使われていました。高瀬船は上流の村々から炭、薪、木材などを積んで須賀湊へ下り、帰りは米や塩、干鰯などを積み、帆を張って上りました。サンパ船は現在も投網やハゼ釣りに用い、平田船は砂利などの物資運搬に用いました。馬船は馬や荷車をのせた大きな渡船で、砂利船は川底の砂利を採取する機械船でした。また、須賀には船大工がいて、流域各地の船を製作していました。」「サンパ船」。投網を打ったり、釣りをするなど、相模川で漁を行われるのに使われる船で、現在も見ることができる。長さが3間半(約6・4m)から4間(約7・3m)、底板の幅が3尺(約0・9m)の大きさである。相模川の漁といえばアユ漁が代表的だったので、アイブネ(鮎船)とも呼ばれている。通常は竿一本で船を操るが、「竿は3年、櫓は3月」という言い方があるように、一人前になるには熟練が必要である。竿で船を漕いで漁場に向うほか、南風の吹く夏には帆を張ることもあった。船は杉が材料に使われ、底板がシキ、船側がシタカキ(シタダナ)、ウワカキ(ウワダナ)、船首がミヨシ、船尾がトダテと呼ばれ、これにカンヌキ、ナカバリ、トモバリ、トコとコベリが付けられ、さらに中央部に生簀(イケス)が設置されている。「高瀬船」。おおよそ大正時代末まで相模川に就航していた荷物の運搬船。鉄道、自動車以前の物資の輸送に大きな役割を果たし、上流から薪・木炭・ソダ・杭木などを積んで厚木や須賀(平塚市)まで運び、川口の須賀で弁才船(ベザイセン)に積み替えられて江戸などにも運搬された。逆に須賀からは干鰯(ホシカ)などの肥料・塩・砂糖・米・麦といった、食料や日用雑貨が上流に運ばれた。この船を所有して物資運搬にあたっていたのは、相模原市の北西部から上流の地域の人々で、最上流部は上野原町まで及んだ。都留郡新田村(現上野原町)の天保13年(1842)の村明細帳によれば、「高瀬船四艘、但し当時四艘、船頭九人、右は先年秋元但馬守様御知行所之節江戸表御屋敷に郡中より納候薪添、須賀浦積送申候」とあって、高瀬船が四艘、船頭九人がいて、これで須賀まで薪を下ろし、江戸の領主の元に送っている。元禄2年(1689)4月の「愛甲郡津久井領太井村川船書上帳」によれば、同村には船長6間(約11m)・幅5尺(約1・5m)の「高瀬船」や7艘、船長3間半(約6.4m)・幅2尺1寸(約0・6m)の「広網船」が10艘、渡船が2艘あると記されている。天保年間に編さんされた「新編相模国風土記稿」の小倉村(現城山町)の条には、「河岸場相模川の南にあり、通船十二艘を繋ぐ、大住郡須賀浦まで運ぶ、水路八里」とあって、高瀬船12艘があったことがうかがえる。高瀬船と呼ばれる運搬船は、森鴎外の小説「高瀬舟」からわかるように、全国的にあって、利根川や荒川のものは大型船だが、相模川のは小型の船で長さが6間半(約12m)が標準的だった。シキと呼ぶ船底は、幅広の板を使うと川底の石に当たって割れる恐れがあったので、幅6寸(約18cm)・長さ1寸2分(約3・6cm)の板をつなぎ合わせて造っているのが特色である。荷物の運搬は請負制で、初めに船主が運賃の2割をフナゾコ(船底)といって取り残りの8割が船頭に渡され、これで途中の宿泊費などの必要経費も賄われた。高瀬舟の就航はほぼ通年行われ、下りは竿で船を操り、先の小倉から須賀までは1日の行程だった。上りは、南風が吹く春から夏にかけては帆を張って風をうけて上っていったが、北風が多くなる秋から冬は帆を使えず、船首の穴に背張り棒を通して一人が押し、さらに1~2人でロープで船を引きながら上っていった。帆を張って上れば小倉までは半日から1日であったが、背張り棒とロープで引き上げるのでは3~4日かかったといわれている。そのため相模川筋の田村(平塚市)、厚木、下依知(厚木市)、上依知(厚木市)田名(相模原市)などには、船頭が泊まる船宿もあった と。「高瀬船船の長さは12m前後。5枚に分かれ、すき間が網目になった大きな帆が特徴です。春から夏は南風を帆に受けて川を上り、冬は綱を引いて上りました。(船は水野波次郎氏製作)」。「相模川の渡船場と河岸」。相模川の渡船場の位置と名前が詳細に示されていた。この日に歩いた相模川河口近くの渡しをズームして。馬入の渡し江戸時代、幕府は大きな川に橋をかけることを禁止しました。そのため相模川(馬入川)では「渡し船」により通行人を渡していました。相模川には60以上の渡し場がありましたが、特に大動脈であった東海道の渡しは「馬入の渡し」と呼ばれ、幕府管理の下、須賀村や馬入村(現在平塚市)と柳島村(現在茅ヶ崎市)など5カ村が支えていました。「馬入の渡し」は、明治初期まで存在していましたが、その後橋が建設されたことにより、この渡し舟の伝統は途絶えることとなりました。「相模川のめぐみ 川漁」。「相模川のめぐみ 川漁相模川は、古く平安時代の「太政官符(だじようかんふ)」に「鮎河」と記されており、アユ漁が盛んな川でした。他にも、ウナギ、ハゼ、ソーメンコ、工ビ、カニなどを対象に、様々な漁が営まれてきました。下流域は網漁が盛んで、投網が網目の大きさにより細かく分かれているのが特色です。目の大きな順に、オオメ・アキメ・チュウメ・コメ・アズキメがあり、アユにはコメを用いました。専業の漁師は、主にコロガシでアユを捕りました。」「サンバ船と投網(とあみ)」。「サンバ船と投網船の長さは7 ~ 8m。船から打つ投網をフナブチといい、川を歩いて打つのをオカブチやカチブチといいます。網の広げ方は川の状況や捕る魚により円・楕円・四角などがあり、アユの場合は網を斜めに落とします。」見突き漁。「モジリ」。「モジリ薄暗く狭い所を好む魚の習性を利用した漁具です。真竹のヒゴで円錐形や角錐形に作りますが、金網のモジリもあります。魚の種類ごとに形が異なり、ウナギモジリはくびれた形で、コシタが二重になっているのが特徴です。エサは奥のコシタの内側に詰めます。」私も子供(小学生)の頃、このモジリを近くの境川に仕掛け、ウナギを捕まえた想い出があるのだ。「ウナギガマ冬に日だまりでじっとしているウナギをひっかいて捕る道員で、ウナギカキといい、船に乗って行いました。」「里山の四季平塚市西部の吉沢、土屋地区から大磯町、二宮町、中井町などの大磯丘陵にかけては、県内でも里山環境のよく残されている地域です。谷間には谷戸田と呼ばれる水田が耕作され、斜面は雑木林、台地の上は畑として利用されており、谷戸の入口や斜面を背中にして集落が配置されています。こうした里山は長年にわたる農業的な利用で形作られてきた景観で、数百年にわたって維持されてきたと考えられます。里山は、人々の暮らしの場であると同時に多くの動植物の生活の場ともなってきました。水田は、シュレーゲルアオガエルやアカガエルの仲間が産卵に利用し、カエルを餌にするヤマカガシのような爬虫類やサシバのような猛禽類が多く見られます。水路には、ホトケドジョウやカワニナが生息し、ゲンジボタルが集団で発生する場所も少なくありません。雑木林にはキンラン・ヒトリシズカのような多くの野草が花咲き、クヌギの樹液にはカブトムシやノコギリクワガタ、オオムラサキやゴマダラチョウが集まっていました。しかし、燃料革命によって薪や炭が石油にとって替わられたために雑木林の手入れがされなくなり、また農家の人手不足によって耕作されない農耕地が増えてきました。大規模な開発によって失われた場所も多く、里山の景観が大きく変わりつつあります。今、私たちは里山の意義をしっかりとらえ、どうすればその豊かな環境を保全していくことができるか、考えるべき時にさしかかっているということができるでしょう。「まちの中の石材」コーナーへ。「私たちの暮らしの中には様々な石材がいろいろな用途に利用されています。街、公園、社寺、住宅等の中に使われている石材には、現在では外国や日本各地のものが多く見られます。しかし、古くから、玉石や七沢石、富士や箱根の溶岩のように相模川・酒匂川の流域の石材が使われてきました。こうした石材から、流域の岩石や成り立ち、日本列島や地球の誕生の歴史をひもといてみましよう。」平塚の街の中にはさまざまところにいろいろな種類の石材が使われています。石材の性質を巧みに利用し、古くから人々は生活に石材を取り入れてきました。こうした石材からは流域の大地のことだけでなく、日本列島の誕生や地球の歴史を知る情報を得ることができます。今回の常設展示替えでは「まちの中の石材」をテーマとした展示コーナーが生まれました。「大地の歴史と石材」。右手に「海と山を結ぶ鳥-アオバト-」コーナー。「海と山を結ぶ鳥-アオバト 👈リンク -大磯町照ヶ崎海岸の岩場には、毎年初夏から秋にかけて、アオバトの群れが海水を飲むために飛来します。多いときには200羽を超すような群れも見られ、多くの人が観察を楽しんでいます。このアオバトはおもに丹沢山地から飛来すると考えられていますが、なぜ海水を飲むのか、毎日同じ鳥が来るのか、冬に海水を飲まないのはなぜかなど、分からないことが多く、その謎を解こうと調査を続けているグループがあります。「アオバト」についての説明が。現在までの調査で確認されていることの一つは、照ヶ崎を訪れるアオバトの多くは丹沢山地から飛んで来るにちがいないということです。アオバトは丹沢山地のブナ帯で繁殖していますが、そのあたりからの数十キロを通ってくるのです。照ヶ崎で採集されたアオバトの糞から、山地にしか見られないミヤマザクラやヤマブドウのたねが見つかったことも、丹沢から飛んでくることの証拠の一つとなりました。アオバトは夏鳥として渡来すると言われてきましたが、県内でも冬期に観察されることがあり、西日本では冬期に各地で普通に見られています。しかし、冬期には海水を飲んだ記録はなく、季節によってなぜ習性が変わるかも今後の研究課題です。このようにアオバトは、身近な所で見られる野鳥の中でも謎の多い興味深い種類なのです。アオバトの飛ぶ姿。「アオバトの四季野鳥観察グループである「こまたん」は、十数年にわたって照ヶ崎海岸でアオバトの調査を続けてきました。その観察によると、照ヶ崎にアオバトの群れが飛来するのは5月から11月までで、1日ののべ飛来個体数は3000羽をこすこともあります。丹沢方面から定まった飛来ルートがあるのか、みんな日帰りで来ているのか、1羽が何日おきに来るかなど、多くの観察課題も残っています。」「相模川流域をさぐる」平塚の母なる川・相模川は、富士山麓の忍野八海で生まれ、丹沢山地の山々の間を流れ、広大な相模野台地を経て、厚木以南で相模平野を作っています。人々はこの相模川の恵みを受け、深く関わりながら暮らしてきました。ここでは、大地の成り立ちや恵み、歴史時代から現在に至る人々の暮らし、自然との関わりなどを地形模型を通して考えてみましょう。「相模湾周辺のジオラマ」平塚市は相模川の河口部に位置しています。平塚の母なる川・相模川は忍野八海に代表される富士山北東麓の湧水に源を発し、丹沢の山々の間をぬって流れ、丹沢と離れてからは相模野台地や相模平野を通って、相模湾に注いでいます。平塚市博物館はその相模川によって作られた大地の自然や、それを舞台に繰り広げられてきた人々の暮らしについて、すなわち「相模川の自然と文化」をテーマにしています。ここでは、相模川流域の地形・なりたち・動植物などの自然と、縄文時代から現在に至る私たちの暮らしとの関わりを地形模型でみてみましょう。地模型と押しボタンやパソコンでの画像とが連動していますので、相模川流域や平塚に関する様々な情報を引き出して見てください。相模川の周辺と河川の流路相模川の形成は約500万年前にさかのぼるとされています。川が運ぶ堆積物は、長い時間をかけて相模野台地を形づくり、そして台地の縁は川に削られて、河岸段丘ができました。地球の気温が低下する氷期には海面が大きく低下したため、相模川の河床は河口付近で今より90mも低くなり、逆に約6,000年前には、温暖化による海面上昇で現在の寒川町付近にまで海が入り込んでいました。その後海岸線はゆっくりと後退し、平野部には相模川の運ぶ砂礫によって自然堤防が、海岸付近では海風により砂丘が発達しました。これらの河岸段丘面や自然堤防・砂丘は、現在も人々の生活の場となっています。相模川水系の河川流域。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.24
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そして「平塚市博物館」を訪ねた。入口の壁には「平塚博物館」。このシンボルマークは、「人と相模川と相模平野と博物館」を表現している と。平塚市博物館では夏期特別展として「野鳥愛」を7月21日(木曜日)~9月4日(日曜日)に開催されると、ポスターが入口に。「博物館にようこそ博物館には、1976年の開館以来多くの資料が集められてきました。それらの資料を、調べたり、比べたり、読みとったりすることで、私たちは自分の住んでいるまちや、その近くの川や山について多くのことを知ることができます。博物館にはどんな資料があるのか、まず見てください。その中にあなたが興味を持つものがあったら、館の別の展示の中でその資料を探し、さらにくわしく観察してみてください。」館内案内。「平塚市博物館」は平塚市役所のほど近くに位置する公立博物館。平塚市博物館では相模と平塚の太古から現在までの歴史を体系的に紹介しており、展示室では、海、自然、歴史などさまざまなテーマの常設展示が行われている。特別企画展も開催されており、幅広い知識とインスピレーションが得られるスポットとなっている。1階~3階までの展示室となっていた。★1階展示室 テーマ:相模平野と人間 相膜川によって作られに相模平野の大地や自然の子と、その恩恵を受けた人々の喜らしを、 地膜型やジオラマ、移しに民家などにより展示し、自グと人々との関わりを紹介します。★2階展示室 テーマ:地域を探る 相模川流域の自グや生活に関わるいろいろな情報について、第物貞料を中心に展示しましに。 流域の自然と文化をより深く理解し、過去の情報から現在やま来も見つめるように展示が 成されています。★3階展示室 テーマ:星のひろば 天文・宇由に関する展示とプラネタリウムがあります。 隕石や先代のプラネタリウム投影機、最新の太陽画像などを展示しています。この日は特別展示として「平塚空襲展」が行われていた。会期:6 月 21 日(火)~ 7 月 31 日(日)「平塚市は昭和 20 (1945)年 7 月16 日午後 11 時 30 分ころから 約 100 分間、B29 爆撃機133 機による空襲にさらされました。この空襲による被害は平塚市のみならず、茅ヶ崎市・大磯町・二宮町・ 小田原市にも及び、362 名以上の方が亡くなりました。 本展示では、空襲後の平塚市のまちの様子の写真や、空襲体験 者自身による空襲体験絵画、平塚に投下された焼夷弾などに、昨年度開催した特別展『平塚空襲 その時、それまで、それから』 の成果も加えて展示いたします。平塚空襲は風化させてはならない まちの記憶です。本展示を戦争と平和を考えるきっかけにしていただければ幸いです」と。「平塚空襲展」展示パネル。平塚市は昭和20 (1945)年7月16日午後11時30分ころから約100分間、B29爆撃機133機による空襲にさらされた。この空襲による被害は平塚市のみならす茅ヶ崎市・大磯町・二宮町・小田原市にも及び、362名以上の方が亡くなった。本展示では、空襲後の平塚市のまちの様子の写真や、空襲体験者自身による空襲体験絵画、平塚に投下された焼夷弾などに、昨年度開催した特別展「平塚空襲その時、それまで、それから』の成果も加えて展示されていた。平塚空襲は風化させてはならないまちの記憶。本展示を戦争と平和を考えるきっかけにしていただきたい と。」「平塚空襲展6月21日(火)~7月31日(日)」1945 (昭和20年7月16日午後11時30分ころから約100分間、平塚市はB29爆撃機133機による空襲を受けました。この空襲による被害は平塚市のみならす、茅ヶ崎市・大磯町・二宮町・小田原市にも及びました。本展示では、被災直後の平塚市のまちの様子の写真や、空襲体験者自身による空襲体験絵画、平塚に投下された焼夷弾などを展示いたします。また、平塚の空襲と戦災を記録する会の調査により犠牲者数が362人以上にのぼることが明らかとなり、成果を踏まえて更新いたしましたので、本展示で報告いたします。」「相模湾上空から空襲前の平塚市を望む1945(昭和20)年3月10日午前10時ころ、東京大空襲の被害状況を記録する偵察機から撮影。写真中央に平塚市域が見える。左上にはまだ燃え続ける東京の煙が見える。この4か月後に平塚市は空襲を受けることになる。」「平塚空襲作戦の概要」展示コーナー。「平塚空襲作戦の概要米軍の空襲作戦は『作戦任務報告書』で概要を知ることができます。それによると、平塚空襲は爆撃中心点を工場地帯てはなく、市街中心部の現「まちかど広場」付近に置き、爆撃中心点から半径1.2kmの円内に、焼夷弾を投下するという作戦でした。この円内に総投下量の50%が落ちれば、消火不能な火災が発生し、重大な損害を与えることができると見込まれました。つまり、平塚空襲は市街地を焼き払うことを目的とした作戦だったのです。」「B29爆撃機」。「平塚のリト・モザイク偵察写真を合成し、攻撃目標を示した図。円の中心は爆撃中心点。この点から半径1.2キロメートルの円内に、搭載した焼夷弾の50%以上を落とす作戦計画であった。」リト・モザイクは石版集成図と訳される。リトは、リトグラフ(石版印刷)のリトであり、モザイクは何枚もの写真を寄せ集めて作られた一枚の合成写真を指す。すなわちリト・モザイクはモザイク写真を石版印刷によって印刷複製した写真のことである。「空-海救助図平塚空襲作戦ででB29が海上に不時着した時に備えて、救援機や艦艇が待機していた。日本本土に接近した待機が可能になっていた。」「作戦任務報告書米陸軍航空軍の司令部が作戦命令を発して行った攻撃の結果を航空軍総司令官宛に報告したもの。1945(昭和20)年2月の神戸空襲から作られた。攻撃目標、巡行経路、弾薬類の種類と搭載量・目標地域の防御設備と能力・燃料積載量等について細部に渡った指示とそれに対する結果報告が記されており、作戦関連部署に配布され次の作戦に活用された。平塚空襲の作戦番号は274号である。」「米軍の作戦概要作戦番号 :NO.274 (日本中小都市空襲の9回目)所属航空軍 :米陸軍第20航空軍第314航空団(グアム島ノースフィールド基地)投弾機数 :B29 133機(先導機12、レーダー対策機4を含む)攻盤始点(IP) :伊豆大島 乳ヶ崎付近(北緯34度47分30秒、東経139度22分)爆撃中心点 :市の中心、現まちかど広場付近飛行速度 :426. 5km/時(平塚滞空時間約20秒)飛行高度 :3300 ~ 3660m離着陸時間 : 1番機離陸 16日午後4時38分 最終機離陸 16日午後5時45分 (日本時間) 1番機帰着 17日午前5時58分 最終機帰着 17日午前8時28分グアムから平塚 :6時間54分1番機の所要時間初弾投下時間 :7月16日午後11時32分最終弾投下時間 :7月17日午前1時12分搭載焼夷弾量 :M50テルミットマグネシウム焼夷弾 406 , 010本 M47油脂焼夷爆弾 6 , 951本50口径機銃弾消費:総数4105発(内訳 テスト発射3305発、投棄800発)」空襲直後の平塚市内の被災状況写真。平塚駅付近の被災状況であると。展示台の中央にはM50焼夷弾も。これはM17集束弾(AN-M17A1)に110本集束されているテルミット・マグネシウム焼夷弾で、直径5cm、長さ35cm、重量2㎏で六角形の形をしており、上空1500mで散開し、地上に降り注いた。テルミット(酸化鉄とアルミニウムの還元反応により2300度の高熱を発する)で、外側を包むマグネシウムを燃焼させ、閃光を発しながら火花をまき散らす。対ドイツ戦でコンクリートの建物を破壊することを目的に開発された。終端速度(地上に落下する直前の速度)は130m/秒。M50焼夷弾は平塚空襲では406,010本投下された と。写真説明図。「平塚空襲直後の航空写真POST STRIKE」中央に平塚駅。右手に相模湾、上下にJR東海道線が走っている。「平塚空襲直後の航空写真POST STRIKE空襲直後に与えた損害を分析するために撮影された写真。焼失部分が白く際立つ。」「空襲体験絵画にみる空襲空襲の体験は主に証言者からの言葉で伝えられます。しかし、視覚的な様子や印象はなかなか伝えることができません。そこで博物館では体験者に平塚空襲て見たものを描いていただき、視覚的にも空襲の記録をとどめ、その収集をおこなってきました。ここでは博物館へご寄贈いたたいた空襲体験画を紹介します。これらの絵からは逃けまどう人びとの様子や、まちが燃える様子、また、恐怖感といった気持らが見る人に伝わってきます。」「空襲体験絵画」。「紙芝居 おもいでのなつ 渋谷千鶴子 当時17歳」。「紙芝居 おもいでのなつ 渋谷千鶴子 当時17歳作者は平塚第二国民学校(現港小学校)の教員だった。児童の安否を気遣いながら逃げ惑った体験を紙芝居に残した。1986年制作。」「平塚空襲の焼失域図」。「平塚空襲の焼失域図平塚空襲は市街地を主たる攻撃目標としていました。しかし、実際に被害や投弾が確認された範囲は、茅ヶ崎市上赤羽根からニ宮町一色までの東西17km、北は平塚市横内までの6kmに及びます。また、平塚の空襲と戦災を記録する会では、聞き取り調査により焼失家屋を記録した焼失域図を作成し、地域の被災状況を明らかにしました。ただ、焼失域図は家屋の焼失状況を表したものであり、避難先での人体への被弾など人的被害は表されていないことに注意が必要てす。」「7月16日平塚空襲の投弾範囲」図。平塚空襲は、旧平塚市中心部に爆撃中心点をおいた空襲であったが、実際には平塚以外の広い範囲に投弾があった。投弾範囲の幅は、現茅ヶ崎市上赤羽から二宮町一色とすると、東西17kmである。現平塚市内の焼失家屋の北限は横内地区で海岸線から約5kmの位置である。現平塚市の焼失家屋は、本文中の各地区被災状況地図に基づいて1軒1軒を表示した。現茅ヶ崎市と大磯町の焼失家屋は、位置が確定できない爲、地区の位置に■を表示した。茅ヶ崎の戸数には一部被災を含んでいる。現平塚市以外については、投弾や投下物が確認できた場所を▼で表した。■の大きさは必ずしも家屋の大きさを示すものではない。平塚駅周辺をズームして。「●現在の地図にみる火薬廠の位置火薬廠がどこに位置したか、地図上に外郭線を示し、要所に現在の写真を添える。地図上の番号が写真の位置である。第二海軍火薬廠は現在の追分・浅間町・大原・新町・西ハ幡・四之宮にかけての南部だけてなく、1942 (昭和17)年には渋田川に沿った東中原に火薬を乾燥・保管する第六工場ができた。人の少ない地域であったが、大野中学付近の三谷地区住民を真土に移転させて建設された。火薬廠跡地は、戦後各種の公共幾関や学校、総合公園などとして利用されているとともに、自動車・化学関係の工場ができて戦後の発展を支えてきた。一部には往時の「火薬廠の塀」の名残も残っている。交通上は、現在も東西に貫通する道路が少ないという状態がある。」「もっと知りたい 私たちのまち航空写真は、私たちが暮らしているまちのようすを知るのにたいへん役に立ちます、ここでは、戦争直後の昭和22年と、平成15年に撮影された平塚市周辺の写真を示しました。約60年の間に、集落や田畑、川や海、丘陵地などにどんな変化があったのか、モニターの情報をヒントにしてじっくり観察してみてください。」空襲前の平塚市の航空写真。平塚市の航空写真。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.23
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「蓮光寺」を後にして、国道1号に出る。国道1号の横断歩道を渡り、「馬入橋」への下り車線の下の道を相模川方面に進む。正面に石碑と案内板があった。「陸軍架橋記念碑」。「陸軍架橋記念碑大正十ニ年(一九ニ三年)九月一日、関東大震災によって馬人橋が倒壊し、交通が途絶しました。地元の消防組・在郷軍人会・青年団によって即日渡舟が運行されましたが、数日後の豪雨で流失し、しばしば中断してしまいました。九月十七日、陸軍第十五師団(豊橋)所属工兵大隊と第十六師団(京都)所属工兵大隊が急きょ派遣され、架橋工事が開始されました。橋の全長四五〇メートルのうち、馬人側の三〇〇メートルを第十六師団、茅ヶ畸側を第十五師団が担当して、同年十月三日に完成しました。この記念碑は馬人側を担当した第十六隊の事績を称えたものです。」工兵隊の架橋作業。来た道を国道1号に向かって戻る。暫く進むと右手にあったのが「馬入一里塚跡」碑。「東海道 馬入一里塚跡」「東海道 馬入の一里塚慶長九年(一六〇四年)、徳川幕府 は東海道 など五街道 を整備し、江戸日本橋からの距離が分かるように一里塚を整備しました。一里塚は街道に一里(約四キロメートル)ごとに造られ、築造時の資料によれば、五間(約九メートル)四方の塚でした。塚の上には、目印として主に榎が植えられました。旅人にとって一里塚は、旅の進み具合を知らせる目印であるとともに、木陰は休息場所にもなりました。馬入の一里塚 は、この付近にありました。江戸日本橋から数えて十五番目の一里塚で、旧東海道をはさんで南北に一つずつの塚がありました。文化三年(一八〇六年)に出版された「東海道分間延絵図」には、北側の一里塚の前に井戸が、馬入の渡しに向かう東側に川会所や川高札が描かれています。」「東海道分間延絵図〈部分〉(東京国立博物館所蔵)」。少し戻り、国道1号の「馬入交差点」を渡って反対側に進む。路地を北に向かって進むと、榎木町にある「蓮光寺」の墓地が拡がっていた。右手に「丁髷塚(ちょんまげつか)」「むかし馬入村の若衆十六人のちょんまげを埋めた処という 丁髷塚」「むかし相模国府祭の日の夕暮れ、東海道を期間途中の一之宮寒川神社の神輿をかつぐ馬入村の若者たちがささいなことから喧嘩をおこし、馬入の若者たちが一之宮の神輿を奮い取って馬入川の深瀬に投込んでしまうという事件が起こった。相模国の一之宮の神輿に対し乱暴をはたらいた馬入村の若者たちは代官江川太郎衛門の厳しい取り調べを受けることになり、下手人の16名は打首断罪の判決を受けたが、処刑の日、代官はその丁髷だけを切り落し打首にかえた。その丁髷を埋めたところにこの碑をたてたものである。」歴史のある「蓮光寺」の墓地が広がっていた。胡座をかき、右に傾いだ頭を右手の掌で支えているような姿の如意輪観音像が並ぶ。「高山家 先祖代々之霊」碑。墓地の間の道を西に向かって進む。平塚市「榎木町」の下水管マンホール蓋。平塚市は、関東三大七夕祭りの一つ、「湘南ひらつか七夕まつり」で知られる。そのメイン会場である湘南スターモール(旧東海道本通り)に飾り付けられる大型の竹飾りと、ヨットが浮かびカモメが飛ぶ湘南の海が描かれていた。左に「榎木町」の文字。上部右には供用開始年度と思われる「2006」の文字。そして国道1号に戻り西に進み、「宮の前」交差点を右折し北に向かって進むと左手に「平塚市役所」があった。「平塚市役所」の「本庁舎」。「現在地」を確認。「平塚市役所」。「平塚市役所」の掲示板が並ぶ。正面入り口にあるこのモニュメントは、旧庁舎から移設してきたものだと。平塚市役所の前庭に設置されているモニュメント・「平塚市民憲章」。中央の石には前文が刻まれており、周りを囲む5つの石には主文が記されていた。「平塚市民憲章(前文)わたくしたちのまちは、東海道五十三次の一つの宿場として古く知られていましたが、国鉄が開通してから農・漁・商業に工業が加わり、近代的な都市となりました。不幸にして関東大震災と第二次大戦によって打撃を受けましたが、雄々しく立ち直り、今や湘南屈指の都市として発展をつづけております。北に丹沢、西に富士を仰ぎ、南は相模灘に臨み、おだやかな四季、豊かな水など自然の環境にめぐまれています。このまちを一層住み心地のよい都市に成長させることがわたくしたちの責任です。市制50周年にあたり、わたくしたち平塚市民の生活指標として、ここに市民憲章を制定します。」(主文)1 わたくしたちは、自然を愛し、秩序をまもり、うるおいのある心を育てます。1 わたくしたちは、心身を鍛え、仕事に励み、明るい家庭をきずきます。1 わたくしたちは、地域の行事にすすんで参加し、友愛の輪を広げます。1 わたくしたちは、心を合わせ、安全なまち、豊かなまちをつくります。1 わたくしたちは、教養を高め、文化をはぐくみ、世界に目を開きます。平塚市市役所の内部に入る。次に「平塚市博物館」を訪ねた。「平塚市文化センター公園」入口には「文化センター」案内碑があった。「平塚市文化センター公園のD52 403号機」。「D 5 2機関車の見学についてD 5 2機関車の見学をご希望の方は、博物館事務室においでのうえ、所定の書類に必要事項を記入して申し込んでください。◆見学時間は9 : 00~ 1 6 : 3 0です。◆博物館の休館日には見学できませんのご注意ください。」D52 403号機は昭和20年3月に日立製作所笠戸工場で製造され、昭和44年に平塚市に貸与され文化センター公園に静態保存されています。D52と言えば国内最大出力を誇る貨物列車牽引用の蒸気機関車で285輌製造、現在では全国に7輌保存されていますが、なぜか3輌が神奈川県、2輌が静岡県で保存されています と。「D52型403号蒸気機関車について」。「D52型403号蒸気機関車についてこの機関車は、昭和43年6月末日まで勾配の多い御殿場線で客貨両用として活躍をしておりましたが、昭和43年7月1日に同線が電化されたのでその任務が終わり使用休止、廃車、さらにスクラップ化が計られておりました。これを憂い、市内のSL ファンや市民の方々、国鉄OBの方々の機関車保存への熱意が実り、昭和44年11月30日国府津機関区の区長から平塚市長へのメッセージとともに市民の憩いの場である平塚市文化センターに移されたのであります。D52型蒸気機関車は、昭和18年に戦時設計で計画され戦時中の資源の乏しいときに木材や、コンクリートの魂をつかってつくられた国鉄最大の機関車です。この機関車は、昭和20年3月18日に生まれ昭和43年6月末日までに走ったキロ数は1,100,097.7キロメートルでその距離は、地球を約27.5周したことになります。」「D52型蒸気機関車の諸元表機関車 D52型過熱テンダ機関車機関車番号 D52403車種 IDI過熱テンダ機関車製造所 日立製作所笠戸工場製造年月日 昭和20年3月18日 改装 昭和27年5月10日長さ 21 , 105ミリメートル幅 2 , 914ミリメートル高さ 3 , 987ミリメートル燃料積載量 石炭 10.0トン水槽容量 水 22.0トン機関車重量 積 85.13トン 空 74.42トン炭水車重量 積 57.35トン 空 20.14トン車輪直径 動輪 1,400ミリメートル 先輪 860ミリメートル 従輪 860ミリメートル 炭水車々輪 860ミリメートル」。「平塚市文化センター公園」内の彫刻作品をカメラで追う。「森の住人」。「森の住人 三梨 伸作」「円の拘束着」。「円の拘束着 渡辺行夫作」。裸婦像。「夢の女 菅沼五郎作」。球状のモニュメントは宮沢 賢治の「詩」が刻まれた石碑。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない 宮沢賢治」と。平塚市と岩手県の花巻市は、昭和59年に「友好都市」提携をしたと。花巻市は、宮沢 賢治の「ふるさと」でもあり、更なる親交を深めるべく「平塚ライオンズクラブ」が建てたと。この作品は?別の角度で。「ハィ!ポーズ」。「ハィ!ポーズ 圓鍔元規作」。この時の時間は14:40。公園内の噴水にはミストシャワーが。近くまで行きしばしミストを浴びる。虹の姿も。「立志」と名付けられた銅像。近づいて。「立志」。少年期から青年期への門出に当る十四才の少年少女に、明日の日本を支える者は自分たちであるいう自覚を促し、良識ある国際的社会人たらんと立志することを勧め、その基本としてまず健康なれ、と毎年立春の日に呼びかけるのが十四才立春式です。平塚ロータリークラブは創立十周年記念事業として、この式の趣意の具象化を決議し彫刻を亀貝保氏に嘱し、ここに傑作立志の像を得、昭和四十六年立春の日を卜して、これを贈るものであります。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.22
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「馬入の渡し跡」を後にして、「馬入ふれあい公園 馬入サッカー場B面」の横を西に歩き「テクノロード」に出て南の進む。左手にあったのが「湘南ベルマーレ スポーツクラブ」。馬入ふれあい公園内にサッカー練習場が数面あるのだ。そして再び相模川に向かって入っていくと、前方に現われたのが結婚式場「グランドビクトリア湘南」。スコットラントより移したチャペル「グランドビクトリア湘南」今から約150生前のスコットラントに建てられた教会が海を渡り1999年当ホテルに移築された。移移後、約1万組のカップルが誕生していると。多くの映画やテレビドラマのロケが行われていると。花壇も美しく整備されていた。連絡歩道橋も整備されていた。路地の角にあった古い石造りの建物。「湘南シノワ チャイニーズ レストランブリーズ オブ チャイナパーチランド」と。」 旧イギリスの洋館を使った建物であると。真っ直ぐ進んでいくと、結婚式場「グランドビクトリア湘南」の地下?駐車場の入り口の右手にあったのが「史跡 東海道 馬入の渡し跡」木柱。イギリスの名車『オースチン』が新郎新婦を待っていた。ナンバーは11-22は「いい(11)ふうふ(22)」と。屋上にはプレジャーボートが。「湘南ひらつか たなばた 合流 榎木町」マンホール蓋。「馬入ポンプ場」の建物の左手前に石碑があった。「馬入渡川會所跡」碑。下部には「新編相模國風土記稿曰く、江戸時代この付近に「・・・川會所一宇アリ 川年寄ト稱シ渡船ノ事ニ與ル者 爰ニ在テ其指揮ヲナス」と。「川会所跡(かわかいしょあと)川会所は、江戸時代に川越を取り締まった役所で川役所とも言いました。川会所には川役人(川名主と年寄)が在勤し、川の深浅を計り、川留・川明を決めたり、渡船の管理や渡賃の徴収などを行っていました。通行人は渡賃を払って、川越をしていました。元禄三年(一六九〇)当時の旅人一人の渡賃は十文でした。馬入の川会所は、間口一間半、奥行二間ほどの家で、馬入川渡し場の西川端にありました。馬入の渡しには渡船が常備されていて、定掛り村が須賀と柳島村、定助郷村が馬入村ほか四か村、加助郷村が田端村ほか十か村で、それぞれの村々が渡しの業務の負担をしていました。 平成十九年(二〇〇七年)三月 平塚市」「ホテルサンライフガーデン」の送迎シャトルバス。駐車場にあった「ホテルサンライフガーデン」案内地図。道路脇の壁には写真が窓の如くに。どこの写真なのであろうか?「ホテル サンライフ ガーデン」。「ホテル サンライフ ガーデン」の玄関の手前にも石碑が。近づいて。「明治天皇馬入御小休所跡」の石柱。「遺跡の由来平塚市榎木町ホテルサンライフガーデンの敷地はわが平塚市の文化史、経済史の上で特筆されるべき遺跡だといわれている。大住郡公所村の大官端山家に生まれた杉山久五郎は、若い頃江戸に出て生薬を学習。縁あって杉山家を襲い、この場所で薬種商を営んで大成功を収め、子息泰助を大阪に遺し緒方洪庵に就いて医学を学ばせたという。かくて父子協力して家業の発展に努め財を成す。又、折柄、明治の新時代を迎えて、石油と砂糖の需要の増加を予測し、馬入川(相模川)の舟行を利用して、上流各地に広く販路を拡大していった。更に陸路は馬力を利用し神奈川県中央部で石油と砂糖の大問屋となって、大成功を遂げ、豪壮な家屋を建築した。屋敷の周囲には石垣を構築みずから「石垣」と称し、世間もまた「石垣」と敬称した。明治六年八月三十日、天皇(明治)皇后(昭憲)お二方が東海道御通行の時、ここに立寄られ休息されたのは天皇二十二歳、皇后二十四歳のときである。又、明治十一年十一月八日には明治天皇の再度御立寄の光栄に浴した。明治十五年七月、この石垣の邸内に株式会社江陽銀行が開業したが、同行は神奈川県中央地域に於ける最初の銀行で頭取は杉山泰助、江陽の名は耕餘塾小笠原東陽の命名である。「明治天皇馬入御休所跡の碑」は昭和十五年皇紀二千六百年記念に泰助の孫久吉が建立した。揮毫は子爵金子堅太郎である。 平塚市文化財保護委員 八十三叟 高瀬慎吾」来た道を引き返して、「グランドビクトリア湘南」を見上げて。「馬入ふれあい公園」の入口まで戻る。「馬入ふれあい公園施設案内」。「グランドビクトリア湘南」を横から見る。この写真は数年前の晩秋に撮った「馬入ふれあい公園」のメタセコイアの並木。そして再び相模川右岸堤防上に。「馬入排水樋管」が前方左に。形式:鋼製ローラーゲート、径間:5m×2連、門扉高さ:3.75m、竣工:1980年(S55)。占用目的:雨水及び雑排水処理施設(馬入幹線排水路・馬入ポンプ場)。国道1号の馬入橋を見る。その先には東海道線の「馬入川橋梁」が見えた。「グランドビクトリア湘南」を堤防上から振り返る。堤防の下に降りてゲートの下流に架かる橋を渡る。右手に「馬入排水樋管」のゲートが。橋の名は「馬入水門橋」。「馬入排水樋管」の全景を見る。「馬入ポンプ場」の建物を「馬入川」側から見る。国道1号下の連絡通路まで戻る。その先に東海道線が。「グランドビクトリア湘南」の相模川側にあった駐車場入口の像。そして次に訪ねたのが「蓮光寺」。神奈川県平塚市榎木町9−9。この山門は高野山総本山金剛峯寺東京別院(旧徳川幕府江戸在藩所、長寿寺)より拝領移築したものであると。寺号標石「高野山 真言宗 蓮光寺」。「馬入山 蓮光寺御本尊 不動明王宗 派 高野山真言宗 立教開宗は大同二年(807)総本山 高野山金剛峯寺 和歌山県伊都郡高野町宗 祖 弘法大師(空海) 宝亀五年(774) 六月十五日 香川県善通寺市で御誕生 承和二年(835) 三月二十一日 高野山奥之院に御入定御宝号 南無大師遍照金剛教義と信仰 宇宙のすべてのものは、大日如来のいのちの顕れであり、このいのちの世界をあらわして いるのが曼荼羅です。 高野山真言宗の教えは、いのちの平等と尊厳をさとり、大日如来の智慧をこの世に実現する ために、生かせいのちを実践し共存共生の世界をめざすことにあります。 本宗の御宝号念誦運動は、弘法大師の共利衆生の精神に立って、すべてがいのちを共にして いる社会の福祉をめざす具体的な活動です。 弘法大師は未来永劫にわたって衆生を救済すると御誓願され高野山奥之院に入定留身されて います。同行二人の信仰のもと大師の御教えをこの世に生かし実現することが、私たちの務 めであり喜びです。」「本堂」前から「山門」方向を見る。「本堂」。本堂前右に立つ幟「湘南ひらつか 七福神めぐり」。本堂前には樹高3メートル近い柱サボテンが聳える。花もところどころに。「本堂」を見上げて。高野山真言宗、宗祖は弘法大師(空海)。開創は慶長年間である。本尊は不動明王。神戸山流入院と号す。平塚八幡宮の供僧を兼帯、馬入神明神社、一宮寒川神社とも係る。「切篭(きりこ)貼る沙弥(しゃみ/若い修行僧)の幾何学面白や」。平塚市を拠点に活動する俳人・松尾隆信さんの句碑。「龍の玉 人にやさしく なる齢」この句も松尾隆信さん・本人の直筆で彫られているとのこと。「龍の玉は、深く蔵する玉であるとともにあかるく弾む童心の玉でもある 人生の秋 俳句の秋を冬に至って人を楽しませる弾み玉のごとく志を深く蔵して進めればと思う。 令和三年四月 松尾隆信」本堂前左側に、左から蓮光寺境内鎮守、七福神・布袋尊、持ち上げ地蔵、七福神舟が並ぶ。朱の鳥居。狛犬の親子(右)。狛犬の親子(左)。社殿。「ようこそ! 湘南ひらつか七福神めぐりへ (一社)平塚市観光協会・湘南ひらつか七福神会蓮光寺・・・布袋尊布袋尊は、中国に実在した布袋和尚という僧がモデルだと云われています。上半身をはだけた格好で、肩には大きな袋を担いでいました。裸同然の格好をしているにも関わらず、雪の中で寝転んでいても周りの雪が溶けてしまうという言い伝えがあります。寺を持たず、周囲の村を点々をしながら、人々の吉兆を言い当てていたので、弥勒菩薩の生まれ変わりであったとも伝えられています。七福神と秋の七草」秋の七草は、万葉集に出てくる歌人、山上憶良が「萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 女郎花 また 藤袴 朝貎の花」という和歌を詠んだことから生まれたとされています。湘南ひらつか七福神では、各境内(五ヶ所)に秋の七草を植我・育成中です。蓮光寺の七草萩 マメ科の低木 花期7月~10月日本全土に分市し、やせた土地でもよく育つので砂防など緑化利用として活用されています。中秋の名月にはススキと共にお供え物として利用されます。また、家畜の飼料や屋根ふきの材料、長い枝を束ねたものは、ほうきにも使われます。毎年、根を残して枯れて、翌年に新しい芽を生やすため、「生え芽(ハエギ)」と呼ばれていてそれが「ハギ」になったと言われています。」湘南ひらつか七福神・布袋尊。境内には「持ちあげ地蔵」と言うお地蔵様があった。願い事を念じながら持ちあげて軽く感じたら願い事が叶うのだと。「持ちあげ地蔵」に近づいて七福神舟(宝船)。近づいて。本堂左側の塀際に奉納された石仏がならぶ。中央台座に「延命尊」と。左から無名水子菩提、先亡童子菩提、順考孩児菩提。左から珠恒善童子、浄光妙嬰女、亡子諸霊菩提。戦没者の石碑が並ぶ。「蓮光寺累代寺族◯霊」と刻まれた五輪塔。「累代先師尊霊〇〇」と刻まれた五輪塔。寺務所であろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.21
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相模川右岸堤防を進むと、水門が2基あった。神奈川県平塚市四之宮。「鹿見堂排水樋管」。排水路や支川が堤防を横断して川へ流れ込む場合に、堤防の中をトンネルのように通り抜けるものを「樋管」または「樋門」というとのこと。相模川の水位が上昇した時、ゲートをぴたりと閉じて支川への逆流を防ぐのです。左手前方に「湘南銀河大橋」。相模川にかかる道路橋で、神奈川県高座郡寒川町と平塚市を結び、神奈川県道44号伊勢原藤沢線(湘南新道)を通す橋。橋の下には、通行人用のトンネルが。 構造種別:3径間連続鋼斜張橋 河口からの距離:4.3km 橋の長さ:520.3m 有効幅員:20.5m 完成:1996年(H8)橋の名称は公募により「湘南銀河大橋」に決定、1998年(H10)の優秀な建設事業の道路部門として、全建賞を受賞している。橋から右岸方向に富士山が良く見えるのだが、この日は・・・。「湘南銀河大橋」「湘南銀河大橋」を注意して横断し、再び堤防上の道路を南下する。そして「湘南銀河大橋」を振り返る。この相模川右岸堤防上の道路はランニングコースにもなっているようであった。⬅3.0(km)との表示が路面上に。左手前方に国道1号の「馬入橋」の姿が確認できた。遠くには、「新湘南バイパス」の「湘南ベルブリッジ」の姿も。そして「ひらつかサン・ライフアリーナ(ひらつかアリーナ)」の手前の河川敷にあったひまわり畑を訪ねた。「イシックス馬入のお花畑」と呼ばれているようであった。約3万平方メートルの花畑には、春はポピー、夏はヒマワリ、秋はコスモスを中心に四季折々の花が咲き、ボランティアと協力しながら、草取り等の維持管理を行っているとのこと。「つくし幼稚園の年長さんが植えました」と。比較的背の低いひまわりが一面に。こちらは百日草。マリ-ゴールドも。近づいて。堤防に戻ると、右手下にあったのが「F.ドリーム平塚」。レンタルカートサーキット「F.ドリーム平塚」通称「Fドリ」。初心者でも安心して遊べる、本格的なカート体験ができると。本格サーキットで、体感時速100キロの世界が味わえる、カート体験!カートは、気軽にモータースポーツの醍醐味を味わることができる、まさに小さなF1のような乗り物です。運転免許証やライセンスを持っていなくても、気軽に体験することができる。タイムトライアルやグループバトル、貸切使用など、様々なメニューがある。夜10時までやっているので、空いた時間に、手ぶらで楽しめる場所であると。「ひらつかサン・ライフアリーナ(ひらつかアリーナ)」の屋根が大きくなって来た。河川敷のサッカーグランドは「湘南ベルマーレ・馬入サッカー場」。グランドの芝生への散水が行われていた。右側に「ひらつか サン・ライフアリーナ」の入口が見えた。神奈川県平塚市の馬入ふれあい公園内に位置する平塚市立の体育館。日産クリエイティブサービス・湘南ベルマーレSC共同事業体が指定管理者となって管理・運営している。各種スポーツイベントに使用されるアリーナの他、会議室、多目的ルームも備えている。総工費は38億4,300万円。2004年6月完成。堤防からの連絡橋。「湘南ひらつかテクノフェア」が毎年、この場所で開かれており、私と協力会社の社長で共同出願して特許を取得した物の、紹介展示を行っていた場所なのである。「馬入ふれあい公園 馬入サッカー場B面」では、昼休みを利用した練習が行われていた。「湘南ベルマーレ・馬入サッカー場」を再び。河川敷の川沿いには多くの舟が係留されていた。前方右手に石碑と案内板が見えて来た。ここが「馬入の渡し跡」。「東海道五十三次 平塚 馬入の渡し跡」茅ヶ崎から馬入川を渡る際、一番の目印であったタブの木が繁る当時の馬入の渡し。中央の狂歌は、「大磯へ いそぐえき路の すずのねに いさむ馬入の 渡し船かな」初代廣重画東海道五十三次之内平塚「馬入川渡船」天保末期(一八四ニ年頃)「東海道 馬入の渡し跡」碑。近づいて。「東海道 馬入の渡し江戸時代、幕府は大きな河川に橋をかけることを禁止しました。そのため、相模川(馬入川)や多摩川(六郷川)は「渡し船」、酒匂川は「徒歩(かち)渡し」などで渡っていました。相模川には六十以上の渡し場がありました。大動脈である東海道は「馬入の渡し」と呼ばれ、幕府が管理し、周辺村々の負担によって成り立っていました。当初、船は須賀村だけで用意していたようですが、元禄五年(1692年)に対岸の柳島村が加わりました。また、渡船賃の徴収などを扱う「川会所」の運営や船頭の確保は、馬入村など5か村が務めました。川会所や、渡船額などの情報を掲示する「川高札」は馬入村にありました。渡し船には「小舟」と「馬船」がありました。小舟は人を乗せる船で定員二十人ほど、馬船は大型で馬が荷物を積んだまま横向きに乗ることができる船です。このほかに、将軍や大名用の「御召船」などが常時用意されていました。また、将軍の上洛など特別の大通行があった場合、幕府は「船橋」を架けさせました。」「船橋」は川にたくさんの船を横に並べてその上に板を渡し、橋をつくる方法。これは上記のごとく、将軍の上洛や朝鮮通信使の来朝といった特別の大通行があった場合に橋の代わりとしたもの。「渡船場眺望図(新編相模国風土記稿)」対岸の茅ヶ崎には柳島村、中島村、平大夫新田の文字が書かれていた。碑の裏には、「碑文此の地より約三百米下流に存在した東海道馬入の渡し場に替わり明治十一年馬入村民念願の橋架る 爾来百二十八年間その痕跡見ること無し 今日馬入住民が総力を挙げて此の馬入の渡し跡碑を建立す 題字 広重画(平塚馬入川の渡し)浅草並木山清板より 平成十八年八月二十日 馬入住民一同(氏名略)」「東海道五十三次 平塚・馬入の渡しの風景」案内板。大山遠望の詩情あふれる構図で捕らえた馬入の渡し。江戸末期は渡し船三艘、平田船(底の平らな船)三艘、御召船二艘、各船に水夫(かこ)三名ずつを割り当てていた。遠くの白帆は相模川を上がって甲斐国へ到る荷物船「高瀬舟」。「東海道五十三次名所図会 八」平塚 馬入の渡し 初代廣重 蔦屋吉蔵版 安政二年「東海道五十三次」平塚 馬入川舟渡しの図 初代廣重船着場で渡船を待つ馬子、近在の商人。富士と大山を背景に、渡し舟が一艘。旅人の煙管入れや根付、胴乱、道中差し、荷駄馬の口先、荷、馬わらじなど細かい描写も面白い。渡し賃は十二文であったという。銭一文は現代で約12円、よって十二文は150円程度か?安い!!「平塚」東海道五十三次 北斎 鶴屋金蔵版 文化年間平塚新宿鎮座平八幡宮の鳥居前。鳥居前を通る荷物を監督する武士とその荷を運ぶ人足。馬子は荷駄馬を休ませている。北斎の東海道錦絵は人物を主体とした風景画である。「東海道 八」「五十三次之内 平塚」 初代廣重 蔦屋吉蔵版 嘉永期平塚宿の西の入口「京方見附」の風景。遠方に高来山と箱根連山・富士が見える。手前は、宿名を書した標柱(傍示杭 ぼうじくい)と人馬の継ぎ替えを行った立場茶屋。「「平塚」大磯へ廿六丁 北斎 享和年間平塚宿の東の入口。「江戸見附」に近い十八軒御並木と思われる。街道並木の老松の下で鎌を研ぐ農夫に話しかける旅人。よくあったかつての旅の一場面であろう。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.20
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「前鳥神社」の散策を続ける。西側入口にあった朱の鳥居。掲示板。「まことの道【文月】七月『我は海の子』👈リンク我は海の子 白波のさわぐいそべの 松原に煙たなびく とまやこそ我がなつかしき 住家(すみか)なれ」『我は海の子』は、1914年(大正3年)刊行の「尋常小学唱歌」第六学年用に掲載された文部省唱歌。歌詞は、文部省の懸賞募集に応募した鹿児島市出身の宮原晃一郎(1882-1945)の詩が採用された。鹿児島市の祇園之洲公園には歌碑が建てられている。歌詞は全部で七番まであるが、今日歌われるのは一般的に三番まで。明治後期の詩人による作品だけあって古めかしい表現が多いのだと。西門の社号唐「相模國十三坐之内 前鳥神社」。社号は「左喜登利」 「前鳥」「前取」など色々な表記があるのだと新倉新右衛門が「お伊勢参り」の参拝記念に鏡智院住職證如の代に 奉納した と。「相模國十三坐」は下記であると。平安時代の「延喜式」という書物に、重要な行事の際、調停や土地の長官から祝いの使者が向けられる全国の神社名が記載されている。醍醐天皇延喜5(905)年に編集を始め、延長5(927)年完成し、当時全国に3132座2862社、相模国は十三神社社名が登載されている。いずれの社も千年以上の歴史をもつ古社である。項番神社名所在地1有鹿神社(あるか)海老名市上郷27912石楯尾神社(いわたてお)相模原市緑区名倉45243宇都母知神社藤沢市打戻26614大庭神社藤沢市稲荷9975大山阿夫利神社(おおやまあふり)伊勢原市大山126小野神社厚木市小野4287川勾神社中郡二宮町山西21228前鳥神社平塚市四之宮4-14-269寒川神社高座郡寒川町宮山391610寒田神社(さむた)足柄上郡松田町松田総領176711高部屋神社(たかべや)伊勢原市下糟屋220212比々多神社伊勢原市三ノ宮147213深見神社(ふかみ)大和市深見3367狛犬(右)。狛犬(左)。西門の鳥居の扁額は「前鳥神社」。そして境内に戻り、正面に「拝殿」を見る。「手水舎」。蘆簾(あしすだれ)の屋根の日陰の中で、風鈴の音が心地よかった。この句碑には多く(45句以上)の俳句が刻まれていた。「上部の文字は「句史」ではないかと。最後に同想会と刻まれており、多くの句が2段に刻めれているので、俳句グループが自分たちの歴史という意味で「句史」としたのでは」といつもの学友から。お神籤結び所。近づいて。「あなたも前鳥神社崇敬会会員になりましょう」と。「拝殿」。修学・学問の神さま。 我が国で初めて中国からの典籍を学ばれました。活動と福禄の神さま。 明治期に村内の日枝神社を合祀しました。火難除けと安全守護の神さま。 東征の折り、当地にて身を憩われました。以上三柱の神さまをあわせて「前鳥大神」と称し、この御祭神の御神徳を慕い広く関東一円より、信仰を集めている と。前鳥大神(菟道稚郎子命)は、第十五代応神天皇の皇太子です。当時、百済から来朝していた阿直岐(あちき)から帝王への道を学ばれた後、博士王仁(わに)を師として学問の道をひらかれた。論語や千字文などの漢籍をわが国で最初に学ばれた方でもある。このことから、古くより修学の神、学問の神、就職の神として広く尊崇されている。また命は、帰化した渡来人技術者を篤く庇護し、産業技術の導入を計られ、日本の農業・土木建築等の急速な発展をなされた。さらに、その俊秀の誉れから、皇太子と定められたが、兄大鷦鷯命(おほさざきのみこと、後の仁徳天皇)と皇位を譲り合い、ついには兄君をたてて自らはお隠れになった。この「謙譲の美徳」は、古今に関わらず範とされている。なお菟道稚郎子命を祭神として祀る神社は極めて稀である と。拝殿の扁額は「佐喜登利神社」と。『前鳥神社 御由緒』によれば、江戸時代まで社号を「左喜登利」「埼取」「前取」など色々用いてきたが、現在は『延喜式神名帳』に基づき「前鳥」の社名を用いているのだと言う。現在も拝殿内の扁額には上の写真の如く「左喜登利神社」、西鳥居前の社号石碑では「前取神社」の表記が使用されているのであった。「参拝の栞当神社は学問の宮にしてまた商工業の繁栄、厄除、交通の守護神として広く崇敬されています。御祭神 ・菟道稚郎子命(うぢのわきいらつこのみこと) ・大山咋命(おおやまくいのみこと) ・日本武尊(やまとたけるのみこと)大祭日 九月二十八日月参り 一日、十五日、二十八日参拝の作法 正しく神前に向かって二拝(二礼)二拍手、一拝」「相模国四之宮 前鳥神社御由緒御祭神 菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと) 大山咋命(おおやまくいのみこと) 日本武尊(やまとたけるのみこと)境内社 神戸神社(ごうどじんじゃ) 奨学神社 祖霊社 稲荷社御由緒前鳥神社の創祀は奈良時代以前、第十五代応神天皇の皇子菟道稚郎子がこの地へ移り住み、後にこれを祭神として祀ったことに始まると伝えられ、千六百五十年の歴史を有します。奈良時代から十世紀半ばにかけて、この地には相模国府(現代の県庁)が置かれ、当神社は国府の鎮護として国司(県知事に相当)を始め官人により神拝がなされたと考えられます。十世紀初頭に醍醐天皇によって勅撰された「廷喜式」神名帳では奉幤社の一社に挙げられ、十世紀末に大磯町国府本郷へ国衙が遷された後は、国司巡社の第四番に列し、爾来相模国四之宮と称されております。鎌倉時代には源頼朝公より夫人政子の安産祈願の神馬奉納に与り、将軍家御祈祷所と定められたことが「吾妻鏡」に記されます。続く室町・安土桃山時代の動乱を経て衰微しましたが、徳川氏の崇敬篤く、家康公より社領地十石の寄進と朱印状を得て再興いたしました。江戸慕府成立後は、将軍家武運長久の祈願所と定められ、「四之宮大明神」として身分の上下を問わず広く信仰されてまいりました。現在は渡来人から最新の学問を学び、その技術を篤く庇護した御祭神の生涯に因み、学徳・就職・安全守護の前鳥大神として広く尊崇を集めています。年間祭典一月一日 歳旦祭 二月三日 節分祭 二月十七日 祈年祭 三月第二日曜日 奨学神社例祭五月五日 相模国府祭 五月第三土曜日 崇敬会大祭 六月三十日 夏越の大祓七月第二日曜日 八坂神社例祭 九月二十八日 御本社例祭 十一月二十三日 新嘗祭十二月二十三日 天長節祭 十二月三十一日 師走の大祓 毎月一日・十五日・二十八日 月次祭」「拝殿」の左側奥には「神輿堂」があったがピンボケ。神輿をネットから。「神符授与所」。近づいて。境内の右手にあった「奨学神社」。近づいて。百済の王子であった阿直岐(あちき)と王仁(わに)博士、そして菅原道真を祀っている。阿直岐は菟道稚郎子命が皇太子時代に帝王学を学んだ人物。王仁博士からは中国の書籍を学んでいる。菅原道真は言わずと知れた学問の神様。よって、この奨学神社には学問の神様が3柱も祀られているのだ。受験生や資格の取得を目指している方には心強いばかり。そして奨学神社の中には沢山の達磨。この達磨は受験・就職のお守りとなるために、ここでお供え・祈願されているのだ と。内陣には奉納された多くのダルマが並んでいた。志望校に合格した際は願い主の名札をつけて奨学神社にお供えするのだと。扁額「奨學神社」。本殿の前に「幸せの松」と呼ばれる松があった。幹はそれほど太くはなかったが。「幸せの松この松の木は稀に四本の葉をつけた松葉が見つけられますいつの頃よりか「しあわせの松」と呼ばれ、この四合わせの松を身に付けると運が開け幸運を招くと伝えられています。」通常、松葉は三本で一つの葉となっているが、この松は稀に四本が一つになっている葉があると。四本葉の松の葉をネットから。「天祖参神」碑。古事記に伝えられている天祖三神を称えた碑。天祖大御神 : 伊勢の皇大神宮にお祭り申し上げ、「これ祖、これ宗、尊きこと並びなし」と たたえられた、諸神の本源の神様で、明るい(鏡)、円満な(玉)、 強い(剣)心を持って暮せとお教えになりました。稲荷大神 : 衣、食、住の祖神で、すべての産業の守り神、又福徳開運成就の神とあがめられ、 京都、伏見の稲荷大社から、明和年間にお迎えしました。北野大神 : 詩歌、筆道に秀でられた、菅原道真公をお祭りし、学問、文芸の道に御神威が高く、 特に入学祈願の方が数多く御恵をいただいております。「絵馬掛所(えまかけどころ)」神戸神社(ごうどじんじゃ)。天照大御神をお祀りする神明神社、須佐之男命をお祀りする八坂神社の二社をお祀りする神社。農業、諸業繁栄、厄除、防災招福の神様 と。「弟橘比命(おとたちばなひめ)の碑」。日本武尊のお后、弟橘比命が尊を救うべく入水した際に詠まれた歌の碑。碑文には「日本武尊之后 弟橘比命之御歌佐泥佐斯 佐賀牟能遠怒邇 毛由流比能 本那迦邇多知氐 斗比斯岐美波毛」「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」【ああ、相模の野原で火に囲まれた時、火中に立って私を気遣ってくださった(愛しい)あなた。(どうかご無事でありますよう。)】と。「神楽殿」。「社務所・研修所」。「社務所・研修所」。この建物で挙行される結婚式・「神前式」のポスターであろう。「拝殿」と「神符授与所」を振り返る。「太鼓始めるよ」の案内。「前鳥囃子」👈リンク 夏季練習並びに新人募集のお知らせ。「拝殿」と「幸せの松」を振り返る。そして西門から出て「西国四国供養塔」に向かう。右手に「西国四国供養塔」の社があり中には石仏が鎮座。神奈川県平塚市四之宮4丁目13−24。台座には「秩父 坂東 西国四国供養塔」と。江戸時代後期に、四国八十八ヶ所、西国三十三ヶ所・坂東三十三ヶ所・秩父三十四ヶ所を巡礼してきた人たちが記念に建てたもので、一緒に行けなかった村人も、この巡拝塔をおがむことで、お参りしたのと同じ効力があると考えられていたとのこと。中には歴史を感じる石仏のお姿が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.19
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次に訪ねたのが「前鳥神社(さきとりじんじゃ)」。神奈川県平塚市四之宮4丁目14−26。「一の鳥居」。扁額「前鳥神社」。社号標石「延喜式内社 相模國第四之宮 前鳥神社」。「相模六社」とは・一之宮:寒川神社👈リンク(以下同じ) 神奈川県高座郡寒川町宮山3916・二之宮:川匂神社(かわわじんじゃ) 神奈川県中郡二宮町山西2122・三之宮:比々多神社(ひびたじんじゃ) 神奈川県伊勢原市三ノ宮1472番地・四之宮:前鳥神社 神奈川県平塚市四之宮4丁目14−26 ・平塚八幡宮(五之宮格) 神奈川県平塚市浅間町1−6 ・総社:六所神社 神奈川県中郡大磯町国府本郷935 一之宮寒川神社、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、平塚八幡宮の 分霊を合わせ祀り相模国総社六所神社と称されるようなった と。「学問の宮 奨学神社」碑。境内社として「奨学神社」があった。百済の王子であった【阿直岐(あちき)】と【王仁(わに)博士】そして【菅原道真】を祀っている。【阿直岐】 :古代の百済からの帰化人。 応神天皇のとき,百済王の使者として,良馬2疋を 貢進し、大和の厩坂(うまやさか)で、その飼育をつかさどったと。【王仁博士】:応神天皇のとき、百済から呼びよせたとされる渡来人。 「古事記」に「論語」 「千字文」をもたらしたこと、「応神紀」に太子 道稚郎子が師としたことが見え、 書首(ふみのおびと)らの祖とされる。【菅原道真】:忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、 醍醐朝では右大臣にまで上り詰めた。しかし謀反を計画したとして(昌泰の変)、 大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後怨霊と化したと考えられ、 天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神、受験の神として親しまれる。この「奨学神社」には上記の学問の神様が3柱も祀られているのであった。境内の配置図。参道の「太鼓橋」を渡る。昔は水が流れ、ここに朱の欄干の「太鼓橋」があったのであろう。「御鎮座壱千六百四拾年記念前鳥神社表参道整備事業竣工記念碑」表参道を進むと、境内は樹齢を重ねた木々に囲まれていて、古社の雰囲気は十分。清々しい空気に包まれていた。前方に石燈籠が、その先に二の鳥居と拝殿が見えた。「四之宮東町稲荷社」。別の場所にあったものが移設されたらしい。右手にあったのが「鐘楼」。梵鐘は台座に支えられていた。梵鐘には文字が。「稚郎子命は学問の道に秀で給ふ 改に學業増進成就の神として仰ぐべく大山祇命は不断活動福禄招運の神と讃へ奉るべし當社に古鐘あり寛政庚戌八月改鋳す太平洋戦争中金属回収に際し供出氏子久しく之を惜む 茲に巨鐘の面影を留め新たに巨鐘を鋳す 宮鐘殿 響き渡るところ鎮守永へに加護あらん 昭和43年戌申秋 創祀壱千六百年記念 前鳥神社宮司神代幸夫謹撰 奥州田中真治敬書」この面にも。ピントが合わず解読不能。「鐘楼」の横にあった「宝篋印塔」。「寶篋塔」と刻まれていた。石碑群。左手に「忠魂碑」右手に「殉国之碑」。「殉国之碑」。四之宮地区における太平洋戦争の戦没者と平塚空襲の犠牲者75柱を合祀した慰霊碑。前鳥神社の氏子らによって建立された。建立年の刻字はないが、御鎮主壹千六百年祭記念とあることから、創祀千六百年式年大祭が行われた昭和43年9月であろう。隣接して大正6年建立の日清・日露戦争戦没者の忠魂碑が建てられている。碑高232㎝、幅12㎝、厚さ30㎝、台石40㎝、基壇110㎝。「平塚八景 森の前鳥神社」碑。「平塚八景」は市制施行50周年を記念して、市民の推薦のもとに制定された平塚の代表的な8つの景色・景観のこと。「平塚八景」は・湘南平 👈リンク(以下同じ)・金目川と観音堂・七国峠・遠藤原・霧降りの滝、松岩寺・森の前鳥神社・八幡山公園・湘南潮来・平塚砂丘の夕映え と。「平塚八景 森の前鳥神社ケヤキの老樹などの森にかこまれた、四之宮に鎮座する前島神社は、平安時代の延喜式神名帳に、相模国第四之宮として載っている古社である。社号は大住郡サキトリの郷にあったため左喜利・前島・前取の文字があてられている。祭神は菟道稚朗子命と大山昨命、そして日本武尊命であり、これら祭神にちなむ前鳥神事がある。また境内には、奨学神社や神戸神社などがあって、古い時代をしのばせる。」「二の鳥居」とその手前に狛犬の姿が。狛犬(右)。狛犬(左)。参道左側に「花供養之碑」。近づいて。昭和33年に当時の花の生産者であった故相原仙太郎氏によって四之宮中庭地区に建てられたものを、平成24年御遺族により神社境内二の鳥居先の参道左側に移したもの と。「近藤雪竹先生書碑」。「研以静而壽詩聞乃心之聲」であると学友が解読して下さいました。近づいて。「近藤雪竹先生略傅先生名は富壽字は考卿雪竹はその號?である文久三年六月江戸に生る先生人となり活淡和雅己を誇らず人に阿諛せず毅然として自らを持し座談の間時に諧謔を弄するを得意とされた幼少より學を好み紀州藩儒井上韋齋に漢藉を學び日下部鳴鶴に就いて書道を修め傍ら益を巖谷一六に受け上は三代の鐘鼎彝器下は漢魏六朝より唐宋元明清に至る歴代名家の碑帖著録等により一意研精すること四十年伎倆圓熟學徳兼ね備わるに至った書は各體を善くし就中隷書は最も得意とせられ鳴鶴一六梧竹等諸大家の擧つて推賞するところであった先生の書名は全國に髙く談書會書道奨勵協會日本書道會文墨協會健筆會法書會平和博覧會日本美術協會日本書道作振會戌辰書道會等に幹事又は審査委員として盡瘁せられ入門の士亦三千の多きを數えた先生は小壮より職を逓信省に奉じ後年從六位勲六等に叙せられ大正十二年退官後は優游自適筆硯に親しまれたが昭和三年十月十四日澁谷の自𨚎にて病沒翌十五日青山龍巖寺の塋域に葬られた行年六十六歳法名 大徳院雪窓竹庭居士昭和五十一年十月建之」「筆墨塚」。川戸先生(川戸飛鴻)句碑。近づいて「木の実落ちし 音しんかんと 残りけり」。左手に「祖霊社」。狛犬(右)。狛犬(左)。「祖霊社」の社殿。昭和53年(1978年)創祀。歴代の宮司と氏子総代・副総代、崇敬会会長を祀る と。扁額「祖霊永鎮」。「祖霊社」。御神木の大欅を見上げる。幹も太く。「御神木 大欅(けやき)境内に立ち並ぶ欅の巨木の中ても、随一の樹高と枝ぶりを誇る大樹である。樹齢は約三百年といわれるが、その樹勢はなお盛んであり、強い生命力をじさせる。天高く真直にそびえ立つ形は美しく、御神木が前鳥大神とともにこの地を見守り、人々も大神の鎮まる森を仰ぎ守ってきた永き歴史を今に伝える。」「大震災記念碑」。裏面には「大正十五年九月一日 建立」と刻まれていた。参道を振り返る。萩原先生(萩原夏絵)句碑。萩原は1905年に東京神田で生まれ、若い頃から川柳作家として活躍。42年に平塚市へ移った後、平塚駅近くで相模屋という旅籠(はたご)を経営しながら後進の指導も行った。旅籠は、神奈川川柳作家クラブ(現在は解散)の七夕川柳大会や新年会の会場としても利用されていたとのこと。「あるときは 羽織にほしい 雲の色」。石祠が2基そして双体道祖神か。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.18
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「妙楽寺」を後にして「八王子道」に戻ると、右手角にあった石碑と社。「田村 こまかへ𣘺 駒返橋 跡」碑。「田村駒返橋跡ここは、臨済宗妙楽寺の門前で古くから馬継の場であったので駒返橋の名が発生したものと思われる。古歌に「ふるさとを たちいでる幾月ぞ 夕月あおぐ 駒返の橋」天正十八年(一五九〇)徳川家康が関東に入国すると、このあたりは家康の最も好んだ狩場となった。たまたま家康が鷹狩にこの地に来たとき、大雨のあと道路がひどく悪かったので田村の人たちがたたみを出して運行の便宜を図ったので、家康は田村の人たちの苦労を思んばかって、ここから馬を返したという伝説がある。」「 馬を返した」とは山路等で、道を馬で進むのが困難になって、そこから先は馬では進めないため、乗ってきた馬を下りて、馬を返すこと。もう1基の石碑には「庚申供羪塔」と。天保13年(1842)1月山伏角柱右側面「天保十三壬寅正月吉日」台 石「講中」台石右面「世話人」・11人の名 が。祠の中には「道祖神」碑と「五輪塔」。祠内に新旧二基が五輪石に隠れるように鎮座している。右側後方の石塔:安永7年単体像:烏帽子を被る。 <形>舟型 <材>凝灰岩 <寸>42×25×13 <銘>(正面)安永□年下町 戌正月十四日氏子中央に新しい石塔:<形>自然石 <材>安山岩 <寸>52×28×11 <銘>(正面)道祖神そして手前に「五輪塔」が並ぶ。少し戻った右手奥にあったのが「諏訪神社」。神奈川県平塚市田村7丁目7−9。「諏訪神社」の鳥居と社殿。住宅街の民家と民家の間にぽつんと鎮座しているが、地域の人々に大事にされているのだと。扁額「奉納 諏訪神社」。内陣。「田村下町 諏訪神社新築落成記念 平成九年四月吉日」碑。次に訪ねたのが「常勝寺」。神奈川県平塚市田村7丁目6−47。「真言宗 宝幢山 常勝寺」。「本堂」。高野山真言宗寺院の常勝寺は、宝幢山と号す。常勝寺は、金輪寺の僧だった宥雄(寛文3年・1663年寂)が、小田原にあった常勝寺を引寺して創建したと。本堂の扁額「宝幢山 常勝寺(ほうどうざん じょうしょうじ)」。文化八年(1811)相模川の大洪水の際、当時の住職覚厳和尚が住民のために入定したと。「入定」とは、高僧が断食・生き埋めなど苦行の果てに絶命すること と。立派なそして歴史を感じさせる「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」。この宝篋印塔は享保20年(1735)建立、基壇部分には、田村の人の名前が刻まれていた。「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう) 」を納めた供養塔を宝篋印塔 と云う。最上部の棒状の部分は相輪と呼び、頂上に宝珠をのせ、下に請花、九輪、伏鉢などと呼ばれる部分がある。相輪の下に露盤と階段状を持つ笠 があり、笠の四隅には隅飾(耳)と呼ばれる突起がある。笠の下の四角柱の部分は塔身という。江戸時代のものは、飾(耳)と呼ばれる突起が反りかえりひらいている。 その左に小さい石仏が左向きで。お釈迦様の姿であろうか。この石碑は?地蔵尊。「常勝寺」の前の道沿い東側にあった墓地。ここが「常勝寺」の墓地なのであろうか?立派な石塔があった。再び相模川の堤防に向かう。堤防に上がると正面にあったのが「駒返幹線排水樋管」。排水路や支川が堤防を横断して川へ流れ込む場合に、堤防の中をトンネルのように通り抜けるものを樋管または樋門という。堤防を分断し完全な開水路で通り抜ける場合の構造を水門という。水門はゲートを閉めたときに堤防の役割を果たす。「駒返幹線排水樋管」案内板。「神川橋」を振り返る。さらに相模川の右岸堤防を南下する。人の姿はなく相模川の右岸堤防を独り占め。堤防を下りてこの先を右折する。左手に「平塚市 リサイクルプラザ」。市内から発生する資源再生物のうち空き缶類、ビン、ペットボトル、容器包装プラスチックの4品目を合理的かつ経済的に処理し、有価物として鉄、アルミ、ビン、ペットボトル、容器包装プラスチック(プラクル)を資源化するための中間処理施設の工場部門と、廃棄物の減量化・資源化及び環境負荷の低減について理解することのできる施設の啓発部門を併せ持つ施設であると。その先にあった水路。「鹿見堂都市排水路」。神奈川県平塚市四之宮7丁目。橋の名は「しのみやはし(四之宮橋)」。そして到着した場所は「田村の一里塚の跡」。この辺りは平塚で最も古い道で平安時代の奥州道と云われ、後に中原街道・八王子道として利用され、榎を有した一里塚が設けられていたと 。東海道の平塚の一里塚が日本橋から15里60キロですから、中原街道では田村の一里塚が同じ地点になるのであろうか?そして中原に一里塚があるから、田村から中原まで一里4キロとなるのであろう。「南 中原道 北 奥州道ゑの木需?一里塚 跡」。石柱の建立年は不明であるが、なぜ石柱や石仏が左側の道に向いて、裏側の古道に向いていないのかが不思議であるが。「田村の一里塚の跡ここに平塚で最も古い道の一つで、平安の昔の奥州道であったといわれ、後に徳川家康が、江戸城から相州中原(平塚市中原)の宿舎まで、鷹狩にくるのに用いたと言う中原街道といわれる重要な街道があった。このあたりに、東海道などと同様に一里塚が設けられ、榎が植えらていたという。「新編相模國風土記縞」には八王子道にかかる一里塚であるとの記述もあり、このあたりでは中原街道と八王子道は、同一であったと思われる。」碑の右側の社の中の石仏。神奈中のバス停「鹿見堂橋」。家康が雨宿りした時に鹿を見かけたという鹿見堂は残らず、バス停にその名を留めるのみか。鹿見堂橋と、家康が箸(はし)を地面にさしたら森になったという弘法大師みたいな話の「箸立の森」はここより少し南にあったようだ。右手に「四之宮交番前」交差点。神奈川県平塚市四之宮5丁目29−13。更に南に進むと正面にT字路が。右に進むと「神奈川県下水道公社(四之宮水再生センター)」と。「神奈川県下水道公社(四之宮水再生センター)」入口が左側に。「四之宮水再生センター」は、相模川河口から5km上流の平塚市四之宮(ひらつかし しのみや)に位置し、昭和48年6月に流域下水道として、神奈川県内で最初に処理を開始した。相模川流域の関連市町3市2町(平塚市、伊勢原市、厚木市、大磯町、愛川町)の下水を処理。現在は、1日に306,150m3/日最大の下水を処理する水処理施設や汚泥処理施設が稼働している。「四之宮水再生センター」の航空写真をネットから。そして再び相模川右岸堤防に辿り着くと案内板があった。「四之宮の渡し江戸時代、幕府は相模川の架橋を禁止し、相模川の渡河は幕府が定める馬入や田村の渡しによって行われていました。相模川の対岸に飛び地を持つ村々は、飛び地に開けた農地を耕作するため独自に渡し場を設けていました。四之宮の渡し場の一つでした。江戸時代のはじめ、徳川家康が江戸と中原御殿を往来した時、四之宮の渡しも利用していたようで、その時の話が「四之宮の逆さ舟」「箸立の森」などの言い伝えとして残っています。実際の渡し場の位置は、川の流れの変動に応じて目久尻川合流点付近から前鳥神社付近の間でたびたび移動していました。四之宮の渡しは昭和30年(1955)頃まで使用されていましたが、その後廃止されました。」神奈川県平塚市四之宮4丁目20−37。昭和20年代の渡し(岸田實 画)。ここ「四之宮の渡し」のすぐ上流には、幕府直営の「田村の渡し」が設置されていた。ここは「中原街道」と、大山と江ノ島・藤沢を結ぶ「大山道」共通の渡し場だったとのことだが、現在この場所には「神川橋」が架けられているのであった。そしてここ「四之宮の渡し」は江戸幕府「直営」の渡し場ではなく、近在の村々が利便を図るために独自で設置されたとのこと。でありながら、鷹狩りで頻繁に訪れた徳川家康も利用していた と。徳川家康もいわゆる「白タク」ならぬ「白フネ」を利用したのだろう。「四之宮の渡し」の南側にあったのが「平塚 四之宮霊園」神奈川県平塚市四之宮4丁目20−8。「平塚 四之宮霊園」の墓地を見る。平塚市の中央に位置し、大山、丹沢山系を望む平塚エリア初の大型公園墓地。南側に「湘南銀河大橋」を見る。手前に「横浜都筑リトルシニアグラウンド」と「西湘パワフルズ 四ノ宮グラウンドがあった。「湘南銀河大橋」をズームして。神奈川県高座郡寒川町と平塚市を結び、神奈川県道44号伊勢原藤沢線(湘南新道)を通す相模川にかかる道路橋である。橋の名称は公募され、2371通の応募の中から「天にそびえる2本の塔に支えられ相模川をまたぐ壮大さと360度の広がりで見渡せる湘南の雄大な展望に、無限に広がる宇宙の夢、希望」(選考理由より)をイメージした「湘南銀河大橋」に決定したのだと。外観は、ペイブリッジなどと同じ斜張橋で、二本の主柱の高さは路面から48m。長さは520.3mで往復4車線と両側の歩道が設けられている。2007年7月までに片側2車線で本供用し、国道129号とも接続した。相模川河川敷にある「湘南銀河大橋ゴルフ」方向を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.17
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そして数分で『座間エリア』に到着し仮設駐車場に車を駐め散策開始。朝焼けもだんだん怪しくなって。頭上には黒い雲が。「映え写真」用の木製ブランコ。カップルでの撮影用か?。強風にメゲずに頑張ったひまわりが迎えてくれた。模擬店や特産物・農作物の販売、イベント用のレンタルテント?は台風の強風による被害を避けて既に完全に撤去されていた。「座間エリア」のアーチ。「夏休み満喫中」と。強風と雨により項垂れている場所もあった。撮影用額縁も置かれていた。これもレンタル?それとも自家製?この手前に額縁をセットしてパチリと。ゴッホの「ひまわり」にも似て。遊んで見ました。こちらも「インスタ映え写真」用のピンクのドア。ドラえもんの「どこでもドア」の如くであった。1輪の花をズームして。大きな花は一つの花のように見えるが、実はたくさんの小さな花(小花)が集まってできている。このような構造を頭状花序と呼び、キク科植物の特徴。小花には二種類あり、外側の花びらのように見える部分が舌状花、中央の芯の部分に密集している小さな筒状の花を筒状花と言うのだ。炎の如き長い舌状花。鐘が前方に。「幸福の鐘」か?私もカランカラン〜と鐘の音♪を一人で。「あちーけど・・・きれいー。」と。座間市マスコットキャラクター「ざまりん」の姿も。「名前:ざまりん誕生日:11月3日住所:市内のひまわり畑性別:不明(妖精に性別はない?)特徴:頭はひまわりの花びら、体はひまわりのタネのひまわりの妖精趣味:日光浴、お絵かき特技:ダンス、一輪車ざまりんからみんなへ: 座間市マスコットキャラクター「ざまりん」だよ☆ 55万本咲くひまわり畑で生まれたひまわりの妖精なんだ! ぽっこりお腹には、夢と希望の種がいっぱい詰まっているから、お腹にタッチすると いいことあるかも♪ お腹はぽっこりでも、意外と動けるのが自慢だよ。 ダンスと一輪車だったら右に出る妖精さんは居ない!・・・はず。 全国のみんなに座間市の魅力をお届けするためにがんばります☆応援よろしくね~ 」束の間の朝の陽光を目一杯浴びるひまわりの花を。後ろ姿も。白いチェアーには散歩中の犬が休憩中。「歩行者天国ではありません。歩行者はカラーコーンの内側を歩いてください。」と。見事に整列しているひまわり達。テントフレームも折りたたまれて。大山山頂を背景に。西洋ミツバチの訪花を発見。近くに養蜂家の巣箱があるのであろう。向日葵畑の内部散策の小路。小路の中に入っていくと、ここにも。周囲の稲も順調に、台風の被害もなく。大山を背景にどこまでも拡がるひまわり畑を、展望台からカメラで追う。パノラマ撮影にTRY。これらのプレートの一つ一つの撮影にTRYしていると、横にいた若い女性が順番に掲げてくれたのであった。「WE 💕 ZAMA」。「座間のひまわりはやっぱりすごい説!」。「NO HIMAWARI NO LIFE」。「座間なう。」。「ひまわりまみれ」。「ひまわりは枯れても想い出は枯れない」。再び大山を背景に。富士山の姿はなし。風の通り道になってしまった場所であろうか?最後のもう一度振り返って。来年は青空の下で・・!!と。再び東の空がオレンジ色に染まっていたが、これも束の間。雨が降り出した帰路に相鉄本線の「さがみ野2号踏切」をわたる。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.08.16
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「平塚市田村地区から相模川の流れに沿って」のブログを継続アップ中ですが、チョット2日間の寄り道をさせていただきます。昨日8月14日(日)、早朝に車で自宅を出発し、8月11日(木)から開催されていた「座間市ひまわりまつり」に行って来ました。旅友のブログにても訪問されたとのことで、私も昨日の朝は雨もやんでいたので急遽決断し向かったのであった。今年のひまわり鑑賞は、7月22日(金)の平塚・イシックス馬入のお花畑、7月28日(木)の海老名、8月13日(土)地元に続いて4回目のひまわり鑑賞なのであった。今年の「座間市ひまわりまつり」は3年ぶりの「55万本のひまわりまつり」の開催であった。しかし【8月13日(土)・14日(日)開催予定の「座間市ひまわりまつり」は、台風が接近している状況から、参加者や関係者の皆さんの安全を考慮し、中止することに決定しました。楽しみにされていた皆さんには大変申し訳ありませんが、ご理解のほどよろしくお願いします。※8月12日(金)は開催しています。】と。今年・2022年の「座間市ひまわりまつり」のポスター。今年は2019年以来、3年ぶりの2会場合わせて「55万本のひまわりまつり」の開催であったが・・・。会場案内をネットから、今年のものであろうか?車で30分強で予定通り到着。まずは道端に車を駐め『四ツ谷エリア』のひまわり畑の散策開始。既に数台の車が。昨日の台風8号の強風の影響で傾いている場所もあったが、予想外に被害は少なかった。大山を背景に『四ツ谷エリア』のひまわり畑を。座間市のひまわりは、1993年に植栽が始まり、今では、座間エリアと四ッ谷エリア合わせると、5.5ヘクタールの畑に55万本ものひまわりが咲き誇り、会場を黄色く染めつくす圧巻のパノラマが広がっているのであった。ここ四ッ谷エリアは10万本のヒマワリ畑であると。移動してズーム。ひまわりは、昭和44年(1969年)に座間市の市花に制定された と。座間市のひまわりまつりは、平成5年(1993年)から農協青壮年部が中心となって荒廃地、遊休農地対策の一環として、ひまわりの景観植栽を行ったことが始まり と。また、緑肥化に取り組むことによって、環境にやさしい農業の推進にも貢献しているとのこと。この場所のひまわり畑のほか、市内の小中学校、商店街、事業所などでも自主的に植裁されており、街中でも多種多様のひまわりを楽しむことができるのだ と。束の間に朝の陽光が射し込んだが。ひまわり畑内への散策通路の入口アーチには「Welcome to ZAMA」と。こちらは造花のひまわりの花のようであったが。数日前に映画『ひまわり』が放送されていた。『ひまわり』(原題(イタリア語): I Girasoli )は、1970年のイタリア・フランス・ソビエト連邦・アメリカ合衆国のドラマ映画。監督はヴィットリオ・デ・シーカ、出演はマルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンなど。戦争によって引き裂かれた夫婦の行く末を悲哀たっぷりに描いた作品で、地平線にまで及ぶ画面一面のひまわり畑が評判となった。数あるローレン主演の映画の中で最も日本で愛されている作品であある。ロケ地となったひまわり畑はソビエト連邦時代のウクライナの首都キエフから南へ500キロメートルほど行ったヘルソン州にあるとされているが、NHKの現地取材では、ポルタヴァ州(ウクライナ中部・ドニエプル川左岸)の州都ポルタヴァの約27km北に位置するチェルネーチー・ヤール(ロシア語版、ウクライナ語版)(Чернечий Яр)村で行われたと特定されている とのネット情報。後ろ姿を。逆光にて。展望台にはご夫婦が。アーチの裏側には「ようこそ座間へ」と。「座間のひまわりはやっぱりすごい説!」。 そして車に戻り「座間会場」へ向かう。 ・・・つづく・・・
2022.08.15
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今日14日(日)の午後に我が実家のお盆のお参りに行って来ました。といっても我が実家は我が家から徒歩にて数分の場所。我が実家では13日(月)に迎え日(盆入り)を行い、15日(水)に送り火(盆開け)を行います。お盆は地域によっても違いますが、我が実家では8月15日を中心として8月13日~15日の3日間、故人を偲び、ご先祖様や精霊が家族のもとに帰って来て一緒に過ごす日なのです。13日の日に夕方早めに迎え火で故人を招き、15日には夜遅くに送り火で見送りをします。お盆は仏教行事としての正式な呼び名は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と言い、「お盆」は盂蘭盆会から変化して現在では親しみやすくそう呼ばれる様になったようです。我が家の周辺では、お盆の迎え火は、家の門の近くの屋敷内に小さな四角の土の盆塚(祭壇)を造り、その周囲にオガラを刺し、盆花を添えて準備をして、この土の盆塚(祭壇)の近くで、藁とオガラを燃やし、お迎え火としています。私が子供の頃は、この盆塚を作るのが私の仕事でした。畑の土を持って来て、土を箱に詰めるのではなく、四角く土を固めここに上る坂道も造った事を今、懐しく想い出しています。オガラとは麻の茎の皮をむいたもので、オガラの火に向かって煙に乗って先祖がやってくると言われています。8月13日のお盆の始まりの夕方に焚くことでこの世に帰ってくる時が来たよ、帰る場所はここだと知らせているのです。迷わず帰ってこれるようにと目印を出しているのです。併せて、この場所に、キュウリとナスで造った精霊馬(しょうりょううま)を置きます。精霊馬とは、お盆に飾られるご先祖様をお迎えしたり、お送りしたりする乗り物のこと。ご先祖様は東から来ると言われているので、迎え火、送り火の時はキュウリは西向き、ナスは東向きに置くというのが我が実家のやり方です。ご先祖様がいち「早く」家にたどり着いてほしい願いを込めて、キュウリを足の速い馬に見立てて作ります。我が家でゆっくりしていただいたあとは、あちらの世界にお戻りいただかなくてはいけません。名残り惜しい気持ちを込めて、「ゆっくり」と帰っていただくために、ナスを牛に見立ててご先祖様をお送りするのです。また、様々なお供え物をあちらの世界に持って行っていただくように、牛に荷物を持たせるという意味合いもあるとの事です。蓮の花の盆花です。蓮の花を供えると、祖先が花びらを舟にして帰ってくるのだと昔、祖母から。今年の我が実家の盆棚(精霊棚)。そしてキュウリと茄子で作った精霊馬と呼ばれる馬と牛が。キュウリとナスに麻幹(麻がら、おがら)を挿して作るのです。お盆には亡くなった人が足の速いキュウリの馬に乗ってやって来て、帰りにはゆっくりと景色を眺めながらナスの牛に乗って別れを惜しんで帰っていくと言われています。 地域によっては、行きも帰りもキュウリの馬に乗り、ナスの牛には旅の荷物を載せて運ぶのだとも言われているようです。 なぜキュウリやナスなのか、その理由ははっきりしないようです。おそらく夏の時期に多く採れる野菜のため手に入りやすく、またどこでも収穫できる野菜であったことから、広く全国的にキュウリとナスが使われているものと考えられているとのこと。そして水の子(馬牛の餌?)、我が家はナスを刻んで里芋の葉の上に。本来は里芋の葉ではなく、蓮の葉が用いられるのでしょうが。私が子供の頃は、ナスはもっと賽の目に刻んでいた記憶が。餌が新鮮さを保つように、香の葉(樒(しきみ)の葉)を束ねて清水と共に。あの世で飢えに苦しみ渇いたのどに少しでもらくに通るようにとの祈りをこめたものでもあるようです。樒の葉は香りが強く毒もある為、仏教では魔除けや獣除けにも用いられ、お墓参りの際に生花に変えてお供えする事もあるのです。我が農園の収穫物のデンスケスイカも奉納。果物、そしてナス、ピーマンも。そしておはぎ、ご飯も。私が子供の頃には、祭壇を設けた台の両側に葉のついた青竹を立て、竹の上部にしめ縄を張っていました。 そしてそのしめ縄にホウズキ(鬼灯)や枝豆、昆布等をぶら下げていた記憶も。精霊が迎え火や提灯の灯りを頼りに帰ってくるといわれることから、ホウズキ(鬼灯)を提灯に見立てて盆棚に飾るのだと。 また農作物の収穫が少なかった時代には、鮮やかな赤のほおずきをお供えすることによって、お供え物の不足を補う意味があったとも。我が実家は「日蓮宗」。「南無妙法蓮華経」と書かれた掛け軸。先祖代々の霊位牌。中央に我が両親の位牌が。日蓮聖人像。そして今年も我が兄弟姉妹の4夫婦が全員揃った頃に、檀家寺の住職がお盆法要に来て下さるはずであったが、住職の奥様から午前中に電話があり、住職が体調不良に陥った為に今年のお盆法要はお休みさせて欲しいと。コロナ感染ではなさそうであったが。今日は、我が父の妹であり、父の7人兄弟姉妹のうち、ただ一人元気な98歳になられて叔母さんがご子息に連れられてお線香を上げに来てくださいました。我が兄姉とも久しぶりの再会であり、懐かしく楽しい時間が持てたのであった。当面は100歳を目指して頑張って欲しいのである。よって兄姉夫婦8人全員で住職の後ろに座り法要に参加し、寛永年間(1630年代)から続く我が先祖を供養しその霊に感謝する時間は来年に持ち越しになり、個別にお線香を上げたのであった。そしてその後は、亡き父母の若かりし写真、父の兄弟の若かりし時の写真、我が祖母、曾祖母の写真等を見ながら、久しぶりの思い出話、歓談で盛り上がったのであった。 ・・・END・・・
2022.08.14
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「貞性寺」を後にして八王子街道を更に南下し次に「妙楽寺」を訪ねた。入口の左右には、大きな石碑が。神奈川県平塚市田村5丁目13。「湘南法窟之銘」と書かれた石碑。法窟は修行の道場のことである と これも学友から。寺号標石には「開基 足利基氏臨済宗建長寺派 祥雲山妙楽禅寺」と。「妙楽寺」は、足利左馬頭基氏(貞治6年1367年卒、泉院玉岩昕公大禅定門)を開基として、義堂周信(嘉慶2年1388年寂)が開山、応永11年(1404)には足利左兵衛督満兼の祈願所とされ、徳川家康の関東入国後には寺領10石の御朱印を文禄3年(1595)に受領していました。当寺の閻魔王像は、文禄4年(1595)の造像とされ、平塚市重要文化財に指定されています と。「妙楽寺 山門」。鎌倉市北鎌倉『浄智寺』の【鐘楼門(しょうろうもん)】に似て、2階には花頭窓という花形の印象的な窓があった。扁額には「江北禅林」。江北とは大河の北、ここでは相模川。禅林とは禅宗寺院のこと。「平塚市指定重要文化財 木造閻魔王坐像 一躯(もくぞうえんまおうざぞう いっく)平成ニ十五年(ニ〇一三)ニ月ニ十日指定寄木造。玉眼嵌人 像高九十九・六cmgennzai 現在は妙楽寺に安置されている。「新編相模国風土記稿』には当寺の閻魔堂が村内にあったことがみえ、本像はこの本尊であったとみられる。閻魔王は冥界の支配者で、初七日から三年まで順次、死者の生前の罪を裁く十王の中心を成す。本像は、頭部が大きく作られ、面貌は眉眼をつり上げ怒号する、かなり誇張した表現につくられている。体部はずんぐりとした体形で、量感があり迫力が充分であるが、左右の袖先は小ぶりで、衣文も強い表現ではなく、全体に頭部に比し穏やかにまとめられている。彫技は本格的といえ、作者の高い技量かうかがわれる。室町時代の像にみるような量感に富む体形と、近世期のやや誇張の勝った面貌表現を合わせ持っ作風とみることが出来よう。等身を超す大法量の本格的造顕で、作風にも中世彫刻の余風を遺す優れた作例である。閻魔王像の基準作例として、本市のみならず県内においても希少な存在といえる。構造は、頭・体部を前後に矧ぎ、別に脚部などを矧寄せる。現状、持物(笏)、冠飾を亡失し両袖先、裳先などに欠失部がある。像表面は、後補とみられる彩色仕上げが残る。像底からみえる体幹部前材下側に墨書があり、このなかに文禄四年(一五九五)の年紀と、佛士(師)長芸の名があり、造像年代・作者ともに判明する。」「木造閻魔王坐像 」。カラー写真をネットから。山門にも「臨済宗建長寺派 妙楽禅寺」と。先代の「本堂」の鬼瓦であろうか。2階建ての山門を潜り境内の庭園を見る。左手奥に「手水舎」。その手前には、咲き終わった蓮の鉢が並んでいた。そして「本堂」。「本堂」の扁額は山号の「祥雲山」。内陣をガラス戸越しに。さらにズームして。「客殿」であっただろうか。「本堂」前から「山門」を見る。「妙楽寺境内鎮守」。「内陣」。位牌「神田村戰傷災死者 霊」。狛犬(右)。狛犬(左)。「水子地蔵尊」。近づいて。墓地の入口にあった「六地蔵」。六地蔵の前には「南無阿弥陀如来 七・七日忌」と書かれた塔婆が玉石の上に並んでいた。六地蔵の前には「地獄 餓鬼 畜生 修羅 人間 天上」と「六道」の文字が。「天上道天上道は天人が住まう世界。天人は空を飛ぶことができ、享楽のうちに生涯を過ごすが、死を迎えるときは5つの変化と苦しみが現れ、これを五衰(天人五衰)と称し、体が汚れて悪臭を放ち、脇の下から汗が出て自分の居場所を好まなくなり、頭の上の髪飾りが萎み、楽しみが味わえなくなる。天の中の最下級のものは三界のうち欲界に属し、中級のものは色界に属し、上級のものは無色界に属する。人間道人間道は人間が住む世界。四苦八苦に悩まされる。『往生要集』の「厭離穢土」では「苦しみの相」・「不浄の相」・「無常の相」と、三つの相があると記されている。地表の世界。三界のうち欲界に属する。修羅道修羅道は阿修羅が住み、終始戦い争うために苦しみと怒りが絶えない世界。畜生道畜生道は鳥・獣・虫など畜生の世界。種類は約34億種で、苦しみを受けて死ぬ。地表の世界。三界のうち欲界に属する。餓鬼道餓鬼道は餓鬼の世界。腹が膨れた姿の鬼になる。『正法念処経』で餓鬼は36種類に分類されている。旧暦7月15日の施餓鬼は餓鬼を救うために行われる。地表の世界。三界のうち欲界に属する。地獄道地獄道は罪を償わせるための世界。地下の世界で、『往生要集』などでも、「上下に八層重なっている」と記述されている。三界のうち欲界に属する。「永代納骨堂」。内陣に鎮座する仏像であったが・・・。六地蔵の横には石仏が2体。墓地を望む。再び境内を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.14
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趣味の養蜂の師匠から、ご自宅近くのひまわり(向日葵)畑が開花しているとLINEにて連絡を頂きましので車で訪ねて来ました。自宅から5minの場所。比較的小柄なひまわり(向日葵)が満開。農家の方の畑の緑肥用に栽培されているのであろうか。主に土壌の菌根菌を増やして、後作の作物のリン酸吸収を促すのだと。また、深根性のため土壌の透水性改善効果もあるのだと。全国的に5~8月が播種に適しており、農地の景観アップには最高の植物。ズームして。放射能汚染された土壌の放射線除去にも使用したとかで話題にされたことがあったが、その効果はあったのだろうか?花が終わった直後に、トラクタ―のロータリーで、立ったままのひまわり(向日葵)を鋤き込むのだと。お盆過ぎには、鋤込みが始まるのであろうか? ・・・END・・・
2022.08.13
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次の目的地の「貞性寺」に向かって、平塚市田村7丁目の住宅街を西に進む。再びバス通りに出て、右に曲がると前方左に神奈中「田村十字路」バス停があった。その前にあったのが「貞性寺」。神奈川県平塚市田村5丁目21−26。「貞性寺」の山門を見る。寺号標石「日蓮宗 大龍山 貞性寺」。掲示板には「息を抜ける時間 思いきり泣けるところ 遠くから見守ってくれている人 ありがたい」と。「題目碑 南無妙法蓮華経」。「山門」。扁額は山号の「大龍山」。「日蓮聖人像」。ズームして。歴代住職の墓地であろう。「水子地蔵尊」。ズームして。境内の銀杏は夫婦銀杏のごとし。夫婦銀杏は珍しいのであった。ここにも「南無妙法蓮華経」碑。「本堂」大龍山と号す。貞性寺は、善覺院日久(文安元年1444年寂)が開山、園達院日喜(延享2年1745年寂)が中興開山したと。本尊:三宝祖師像 。「本堂」の扁額は「貞性寺」。無縁仏の墓石群。六地蔵。墓地を望む。「宗祖日蓮聖人第七百遠忌報恩塔」。「石灯籠」とその先の「本堂」を再び。「貞性寺」を後にして、バス通りを南に進むと、路地の角には小さな石祠が。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.13
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我が家からの朝焼けです。雲がオレンジ色に染まって。時間はAM04:49。高圧線鉄塔の奥の東の空。今日も酷暑のスタート。ズームして。朝焼け(あさやけ)は雨と。天気は西から東へと移っていく。そのため、天気のよい状態はすでに東に移っているため、日の出の時、東の空に朝焼けがおこると、まもなく西から雲が近づいてると考えられる。だから、雨になりやすいと昔に学んだが。そして今朝・12日(金)午前3時、日本の南で台風8号「メアリー」が発生した。中心気圧は1004hPa、中心付近の最大風速は18m/s、最大瞬間風速は25m/sと。台風8号は今後、北上を続け、あす13日(土)に関東や東海に接近するおそれがあるとテレビのニュースで。 ・・・END・・・
2022.08.12
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「田村八坂神社」を後にすると、雨が本格的に降り出し、雷音も聞こえて来た。傘をリュックから出す為もあり、伊勢原藤沢線(県道44号線)の「田村跨道橋(こどうきょう)」下に向かう。「田村跨道橋平成5年10月延長12.848m 幅6.000m高 4.500m神奈川県」と。壁面に描かれた絵画を左側から追う。田村地区を横切る東海道新幹線の姿、そしてその奥に富士山の姿が大きく描かれていた。手前には相模川も。向日葵(ひまわり)の姿が。右側。八坂神社の朱の鳥居、神輿、桜、神田小学校、そして仲良く手を繋ぐ老若男女の住民の姿が。相模川で遊ぶ少年の姿、相模川に棲む魚たち、そして神川橋の姿が。「田村の未来神田小学校 神田中学校神田小学校PTA 神田中学校PTA田村自治連合会 平塚をみがく会」と。傘をさして、堤防上の道に戻る。左手に見えて来のが「神川橋」。伊勢原藤沢線(県道44号線)の「田村跨道橋」越しには「さがみ川」の文字が。「神川橋」。「神川橋」は昭和二十八年開通、名は、神田村(現平塚市の一部)と寒川町を結んだ事による。「神川橋」から「寒川取水施設」の「洪水吐水門」を再び。「神川橋」から相模川の下流を見る。更に堤防上を進み、「神川橋」を振り返る。そして右手に現れたのが「田村の渡場跡」。「田村の渡場跡」碑。「田村の渡場跡」碑の横にあった石碑には、「 阿夫利嶺を まともに仰ぎ 旅人ら 声あげにけむ ここの渡しに 中村清四郎 」と。ちなみに阿夫利嶺とは、現・阿夫利神社のある大山のこと。「田村の渡し場田村の渡しは、中原街道と大山道の二つの往還の渡しでした。中原街道は中原村と江戸を結んだ脇往還で、大山道は藤沢・江ノ島からの大山参詣のために使われた道です。渡し場のある田村は、この両往還と平塚から厚木へ向かう八王子道が交差する所で、旅籠屋などもあり「田村の宿」とも呼ばれていました。渡船場の業務は、田村と対岸の一之宮村・田端村(寒川町)の三か村が勤めていました。また、田村の渡し場付近は、大山・箱根・富士山を眺望することができ、景勝地としても知られていました。」「歌川国芳「富士三十六景相州大山道田村渡之景」(天保5年(1834)頃)」。大山へ向かう中原街道にあった田村の渡し。空にはそれまでの日本の絵画には見られない入道雲が浮かんでいる。渡し場へと降りる高台から対岸とその背後に聳え立つ山並を眺望している。こちらにも昭和時代の説明碑が。「田村の地は 古くから 坂上田村麿に由縁の 地と伝え 箱根路につづく 陸奥への海道に 沿ったところに 相模川の渡し場があった鎌倉時代には 三浦平六義村の田村の館があり 鎌倉武士が しばしば往来したことは 史書にあきらかである また 江戸時代には 関東の霊域大山石尊社への 参詣道として繁昌した田村の渡し場は 大往郡田村 高座郡一之宮 村 同田端村の三村が管理し 渡し舟・馬舟 など四艘を常置していた明治初年の記録に「川幅五百二十二間(約 939米) 水流六十間(約108米)」とみえている渡し場から 西方諸山岳の眺景の記録は 最も著名で 詩歌の作品が多くのこっている」「神川橋水位観測所」。「神川橋水位観測所設置場所 神奈川県平塚市田村 相模川水系 相模川」と。八王子道と「中原街道・(田村通り)大山道」とが交差する「田村十字路」に向かうとサルスベリの花の下に「十王堂跡」の石碑があった。「十王堂跡碑」。江戸時代にはこの地に、十王堂が建てられていたということ。「田村十王堂江戸時代にかってこの田村十字路に十王堂が建てられていた。伝承によると、天文六年小田原の北条氏が河越の上杉氏を攻撃する際、相模川で合戦があり多くの戦死者を出した。この戦死者を妙楽寺の住職が集めて、篤く弔い後生のため十王堂一宇を建てたといわれる。」道標が2基。多くの漢字が刻まれていたが・・・。「右大山みち」と。左側面には「田村講中」と。その先、左にあったのが「(有)井筒屋菓子店」。明治時代からの老舗和菓子店。初代店主の「手焼きせんべい」をはじめ、「たむら 渡し最中」で県指定名菓第144号を取得、「いちご大福」「すあま」など『お菓子は繊細な生き物』をモットーに菓子づくりに励んでいるとのこと。しかし未だ開店前。神奈川県平塚市田村6丁目4−14。そして「旧田村十字路」交差点まで戻る。ここは八王子道と「中原街道・(田村通り)大山道」とが交差する場所。田村は平塚の北東部・相模川沿いに位置し、平塚~厚木線と藤沢~伊勢原線の交わる田村十字路を中心に展開した地域。田園の中を西に延びる街道の先に、大山を望める平坦で風光明媚な地域。古くは、藤沢~田村~伊勢原を通る大山街道と、南北に走る八王子道の茶屋町・宿場町であった。「田村」という名の由来については2つあると。1つは、田村とはもともと水田の村という意味を持っていて、単純に水田があったから、という説。もう1つは、平安時代の武将・坂上田村麻呂が、陸奥征伐の際に訪れたことにちなんだという説。再び相模川方面に向かって進むと民家の庭には。夜になるとゆっくりと自分で葉を閉じる。それがまるで眠るようなので「眠りの木」、それが次第に「ねむの木」に変化し、木の名前になったのだと。「昼は咲き 夜は恋ひ寝(ぬ)る 合歓木(ねぶ)の花 君のみ見めや 戯奴(わけ)さへに見よ」 万葉集 紀女郎(きのいらつめ)」の歌があると。歌の内容は「昼は咲いて夜は恋いつつ眠る合歓木の花をあるじだけが見てよいものだろうか。お前も見なさいな。」と、合歓木の花を自分だけが楽しむのはもったいないので家持も見なさいと詠い掛けた一首。「君」とは万葉の時代、女性が男性に対して使う言葉で、また身分の高い女性に対しても使われることがあったようだ。ただ、この歌の場合は気心の知れた紀女郎と大伴家持の間で、年上の紀女郎が自身を「君」と呼び、年下の家持を「戯奴」と戯れて呼んだのであろう。「昼は咲き夜は恋ひ寝る」とは合歓木の花のことを詠ったものと思われるが、これは同時に夜には男女が恋に乱れて眠るという意味の譬えでもあるのだろう。まさに「合歓(男女の伴寝の意味)」というこの植物の漢字の由来にもぴったりの表現。ただ、実際には夜に閉じて合わさるのは合歓木の葉で、花は逆に昼間は閉じていて夕方ごろに開いて夜の間咲きつづけるという特性があり、この歌の内容とはちょっと矛盾?。これは紀女郎が合歓木の花の性質を勘違いしていたからだとも言われているが、実際のところはどうだったのか。あるいは、この上の句までは「夜には葉を閉じて眠る合歓木」と合歓木そのもののことを詠って、そこに「そんな合歓木の花…」と続けたと解釈するのが正解か。合歓の木(ねむのき)の花が雨に濡れて。そして次に訪ねたのが「田村館」。神奈川県平塚市田村7丁目21−6。「三浦義村田村ノ館の跡」碑。「三浦義村田村ノ館の跡この地一帯は鎌倉時代の武将三浦平六義村の田村ノ館の蹟である 承久元年七月鎌倉第四代の征夷大将軍を嗣ぐべき人として迎えられた藤原頼嗣は五日間この山荘に滞在し七月十九日晴れの鎌倉入府を行った 東鑑によると頼経将軍は数回来泊している 安貞二年七月廿三日もそのひとつである この時は執権北條泰時 連署北条時房等 鎌倉の将〇多数が〇従し三日間にわたり田村の秋興を満喫した 館は田村の渡につらなる古街道に面し 大手を北にもっていたものと思われる 義村は延應元年十二月に歿している この館はそれに前後して廃されたものとおもう承久元年より七百四十年 昭和丗四年春建 平塚市長戸川貞雄撰真洲田中真治書」「詩この附近一帯は三浦平六義村氏の館跡と伝えられています。市はここに昭和三五~三七年に木造平屋建九五戸を建設しました。その当時田村の皆様は由緒ある館跡地が永遠に消えることを憂慮されこの敷地の一部でも後世に伝えたいと「由縁の碑」及び館跡地の一部二八一平方米(八五坪)を市に寄附され、市は田村館跡地として管理してきましたが、その後昭和五六~五八年に木造住宅を中層耐火構造住宅に建て替えした時、この事業に伴い寄附当時の位置から北側に若干移設し現在のように整備したものです。」「鎌倉殿の13人」で「三浦義村」👈リンク を演じている山本耕史さん。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.12
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次に「田村八坂神社」を訪ねた。「田村八坂神社」の創建年代等は不詳ながら、征夷大将軍坂上田村麿が奥羽征討の途中当地に滞留したことから「田村」と呼ばれるようになったと伝えられ、神田寺の本尊も坂上田村麿の祈念仏と伝えられることから、延暦年間(782-806)には当社も創祀されていたのではないかと。江戸期にここ田村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際して明治6年村社に列格、明治41年には天神社を合祀している。社号標石「八坂神社」。「八坂神社」境内図。「田村八坂神社略誌御祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと) 天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した神様です。御神徳 無病息災の厄払い、学問上達、商売繁盛、家内安全などにご利益があります。創 建 明治35年(1902)に記された『八坂神社由緒調査書』には、「延暦年間(782~806)以前に 創建された」とあります。これとは別に、社殿の最も古い棟札には元禄10年(1697)8月と 書かれたものがあります。神社紹介 江戸時代の後期に書かれた『新編相模国風土記稿』に「牛頭天王宮村の鎮守となり、幣殿、 拝殿建てり、鐘楼の鐘は聖徳3年(1713)に鋳造す」と記されています。 明治時代になると神仏分離令によりお寺から村営になるとともに、社名が牛頭天王宮から 八坂神社という称号に変わりました。 また、神輿とともに祭りの華である屋台は、横宿が江戸時代後期天保3年(1832)に、下町は 江戸後期に、一度焼失したと言われている上町は、明治21年(1888)に新調されました。例大祭 7月28日以前の日曜日です。」参道右手に、手水舎、鐘楼、神楽殿。参道正面に拝殿、その奥に本殿、周囲に末社4社。参道左手に、神輿殿、太皷練習場、社務所。石鳥居。石鳥居の扁額「八坂神社」。右側に「手水舎」。「手水舎」は平成二十三年十月再建された。手水盤は享保三年のものと。その先にあったのが「鐘楼」。「梵鐘」。江戸時代の後期に書かれた『新編相模国風土記稿』に鐘楼の鐘は聖徳3年(1713)に鋳造したと。「八坂神社社殿等移設記念碑」。神川橋の架け替え工事で社殿、末社(四社)、鳥居、神楽殿、狛犬、石燈篭等が平成2年に現在の場所に移設され、修復されたとのこと(北側に8m移動)。そのためか、社殿の木目が美しく映えていた。拝殿を見上げると、屋根が放射状に広がるさまが見事なのであった。裏面には、追 記 宮司 沖津昇治 謹書 鐘楼、梵鐘 再建 平成三年五月吉日 玉 垣 改築 平成五年六月吉日 社務所 改築 平成五年六月吉日 田村ばやし練習場 新築 平成五年六月吉日 幟旗幟支柱 再建 平成九年七月吉日 と刻まれていた。狛犬(右)。狛犬(左)。雨がポツポツと降り出して来た。「社殿」。祭神 :素戔嗚命境内社 :金刀比羅神社、日枝神社、稲荷神社、神明社祭日 : 例大祭7月28日近づいて。社殿が東日本大震災で被害を受けたことに始まり、改修工事が2019年スタート、2020年2月に竣工式が行われた。式典には約70人が参列。1200年以上の歴史を誇る神社の新たな船出を祝った と。拝殿の扁額「八坂神社」。拝殿の見事な彫刻を追う。唐破風の下。見上げて。右角柱の虹梁。「神輿殿」。「八坂神社」の「神輿」をネットから。大きな「倉庫」が境内に。寄贈されたようであった。「神楽殿」。石碑群が拝殿の東側に。近づいて。「記念石江戸中期に建立されたと言い伝えられる拝殿に使用されていた土台石。神川橋架替工事に伴う社殿移設の際、他の石を補填したのでこれを記念石として保存する。」庚申塔、道標他様々な石碑、石塔がこの場所に集められたのであろう正面右の大きな道標には、「左大山道」と読み取れた。その横面には、「渡し場道 いいやまみち」と。厚木の飯山観音の飯山への道のことであろう。「拝殿」、「本殿」を東側から見る。切妻屋根の「本殿」。1902(明治35)年に記された八坂神社由緒調査書によると、田村八坂神社の創建は延暦年間(782〜806)以前にさかのぼる。天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟にあたる素戔嗚尊(すさのおのみこと)が祀られ、無病息災・学問上達・商売繁盛などのご利益があるとされる。石柱が二基。「田村耕地整理記念碑設立 昭和五年九月二十六日完了 昭和十三年九月二十七日」。「築堰記念碑」。社殿の周囲には末社(四社)が並んでいた。反時計回りに末社を訪ねた。最初に「神明社五穀豊穣 国家鎮護 開運福徳祭神 天照大御神」「稲荷社商売繫昌 家内安全 所願成就祭神 宇迦之御魂神」「日枝社縁結び 恋愛成就 安産祈願祭神 大山咋神」「金刀比羅社招福除災 金運 農業殖産祭神 大己貴命」「金刀比羅社」越しに拝殿、本殿を見る。更に後方から。「田村ばやしの碑平塚市重要文化財指定無形文化財 平塚市長 石川京一書」「田村ばやし」👈リンク。裏には、「由来、田村は平塚市の東北に位置し、古い街道八王子、中原道大山道に沿っていた関係で文化が早くから開けていた鎌倉時代には、豪族三浦平六義村がこの地に山荘を設け、それを田村の館と称した。このころ九条道家将軍頼経の父のはからいで、京都より楽人雅楽が田村山荘に来道したといわれ、そのころ里太鼓が今日の田村ばやしの源流ではないかといわれている。そのことは吾妻鏡に安貞2年(1228)7月将軍頼経に従ってまた鎌倉の将星達が田村山荘え来遊し、暁に及んでご遊興の記録あり舞女数輩群り集るとみえる。 保存会初代会長 四宮持亮 〃 二代会長 亡 落合福次昭和57年7月吉日 〃 現在会長 吉本孝之 みきや商店開店20周年記念代表 高梨与四郎 藤本市郎謹書」と。西側にあったのが、「田村ばやし練習場」。「社務所」。境内に巨木が2本。「平塚市保全樹木 ・むくのき けやき ・指定第五十六、五十七号 ・平成五年十一月十日 平塚市」そして「田村八坂神社」を後にして振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.11
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相模川の平塚側の堤防に向かって進む。相模川の右岸堤防に到着。「洪水浸水想定区域」案内板。「この区域図は、「想定し得る最大規模の降雨(流域における48時間総雨量567mm )」により相模川が氾濫した場合に浸水が想定される区域と水深とを表示したものです。」右岸の住宅地はほとんど全ての地域が、0.5~3.0mの床上浸水が想定されているようだ。ダムの放流みよる増水に注意 と。「大神スポーツ広場 野球グラウンド」を見る。「大神スポーツ広場」には野球場9面、サッカー場3面、管理棟があると。神奈川県平塚市田村9丁目22−23。対岸には「さがみ縦貫道路」が。圏央道のうち茅ヶ崎市から神奈川県と東京都の都県境までの、延長約34kmの区間を「さがみ縦貫道路」と呼んでいるのだ。右手にあったのが「キヤノン 平塚事業所」。左手の対岸に見えたのが、先日に近くまで訪ねた「寒川取水施設」。「寒川取水施設の概要」。「寒川取水施設概要」。「取水せき」の配置を正面から見た図。堰高:6m 堰長:270m 取水口:幅20m 取水水位:標高5m土砂吐水門:幅13m×高3.0m 1門 ローラーゲート洪水吐:幅20m×高2.5m 3門 ローラーゲート。取水口には流芥よけのスクリーンが5門取付けられ、取水ゲートが4門。再び「寒川取水施設」を見る。「寒川取水堰」の特徴である魚道の一つの寒川舟通しデニール式魚道の横には白い野鳥の姿が。「寒川取水堰」の洪水吐水門と魚道を見る。取水堰の構造は神奈川県企業庁のリーフレットで説明されていた。向かって右側が「土砂吐水門」、その左に「洪水吐水門」が3連、その左が寒川取水堰の特徴である魚道。取水した水は左岸(この写真では右側)を通る圏央道の向こう側にある浄水場を経て、県内の市町村に給水されているのである。洪水吐水門のすぐ左が「階段式魚道」。その左は「呼び水水路」というそうで、魚を魚道に誘導する役目を果たすのだと。「階段式魚道」の左にあるのが「舟通しデニール式魚道」。「舟通しデニール式魚道」をズーム。水路底部に設けられた魚の骨のような形をした阻流板により、多様な水の流れを生みだすとともに、側璧の凹凸や休憩プールを設け、より多くの魚種が遡上できるよう平成年度に設置したのだと。「寒川浄水場平面図」。「寒川浄水場」の浄水処理の概要図。そして相模川の反対側にあった「相模川右岸排水樋門」、そしてその先に「天神森下排水路上流」を望む。大山が正面から見守っているとのことだが・・・。次に訪ねたのが、右岸堤防の下にあった「田村天満宮」。「田村天満宮」。「田村天満宮」の創建年代等は不詳。祭神は菅原道真公。扁額「天満宮」。境内には御神木の如き巨木が。堤防沿いにも社殿があった。神奈川県平塚市田村8丁目22−17。内陣には石地蔵のお姿が。「五十六川地蔵尊(いそろくがわじぞうそん)」と。右手に石碑群が。「魚族供養之碑」石碑には、「組合創立25周年を記念し、鮎と各魚族供養の為建立す 相模川第二漁業協同組合 海雲 水島英耀書」。海雲の意味は?この日の最後に訪ねた海軍火薬廠跡の碑にも水島英耀氏の名前があったが。神奈川県平塚市田村8丁目21-22。裏面には総代、組合員の名前が刻まれていた。財団基金 増殖資金設立記念碑衆議院議員 藤井裕久 書」財務相などを歴任した藤井裕久元衆議院議員が2022年7月10日(90歳没)に都内の自宅で亡くなったのであったが。「この財団法人の基金及び増殖資金は、昭和62年3月に妥結調印した宮ヶ瀬ダム建設、相模大堰の構築に伴う漁業補償金を相模川水系漁業協同組合員、約4,000人が「母なる川、相模川を守り」相模川の漁業を子々孫々まで守り育てる、との考えで拠出した寄付金によって造成されたものであります。このことにより相模川が、未来永劫に、この生み出る果実により漁業の振興を図る体制が確立したわけであります。この基盤を築かれた漁協役員並びに組合員の業績の大なることを思い、基金設立5周年を記念し碑を建立し、永くその功績を讃るものであります。 平成5年10月 吉日 相模川漁業協同組合連合会 津久井漁業協同組合 中津川漁業協同組合 相模川第一漁業協同組合 相模川漁業協同組合 厚木観光漁業協同組合 相模川第二漁業協同組合」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.10
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この日は7月22日(金)、「寒川町の寺社旧蹟を巡る」で「相模川八景寒川宮山の富士」を訪ねた折に、この場所には寒川と田村(平塚)を結ぶ「田村の渡し」があり、大山道や中原街道の往き来に利用され、昭和28年に初めてコンクリートの神川橋が完成するまで、渡し舟は人々の足となっていた事 を知ったのであった。そして「神川橋」を渡った平塚市側には「田村の渡場跡」の石碑があり、その先相模川の下流に向かって「四之宮の渡し跡」そして「馬入の渡し跡」が遺されているとの事。よって、この日は平塚市田村地区から相模川沿いを下りながら、名所旧跡を訪ねる事にしたのであった。この日も6:15に自宅を出発し、小田急線、JR東海道線を乗り継ぎ平塚駅を目指す。相模川に架かる「馬入川橋梁」を渡り、相模湾方向を見る。そして平塚駅から神奈中バス「本厚木駅南口行き」のバスに乗り、平塚市田村地区にある「相模神田」バス停で下車。バス停「相模神田」駅。神奈川県平塚市田村6丁目7。そしてこの日の散策開始。バス通りを北に向かって進むと、左手にあったのが「平塚田村郵便局」。神奈川県平塚市田村6丁目12−31。その先、右手にあったのが「鷹落ちびっこ広場」に鎮座する「天獏宮(てんばくぐう)」。「田村八坂神社」の境外末社であると。神奈川県平塚市田村8丁目4。公園内に入り、「天獏宮」を正面から見る。「天獏宮」の朱の鳥居も美しく塗られていた。「天獏宮」の屋根は両側に流れていた。内陣。「天獏宮」案内板。左側に「配置図」。「一、御祭神 主神詳ならず、白山姫神(はくさんひめのかみ)、稲荷神を合祀する。 一、御由緒 天獏宮は田村上町て祀られている八坂神社の摂社てある。具体的創建は不明であるが、 天保十二年(i一八四一年)に編纂された「新編相模国風土記稿」によると、「白山稲荷を 合祀す」と記載されている。白山は白山姫神で、稲荷は稲荷神のことである。 例祭日は、元々二月二十八日あったが、今日では二十八日以前の日曜日に開催している。 上町道祖神 この道祖神は亨保四年(一七一九年)に造立(安山岩)され、市内で三番目に古い。 以前、田村八ー四ー一路傍にあったが、今はここに安置されている。下町鹿見堂・ 常安寺の道祖神と碑形、像容、銘文が全く同じである。碑正面には奉造立道禄神と刻まれて いる。道祖神と刻む道祖神で現存するのは市内でこの三基だけである。隣に石猿があるが 詳細は不明である。上町庚申塔 この庚申塔の造立は天保四年(一八三三)て安山岩で造られている。上町道祖神と共に 田村八ー四ー一路傍から移動してきた。植竹道祖神 この道祖神は元々田村六ー二五ー二五農協神田支所の角にあったが、現在は境内の 木造小屋中央に祀られている。造立は宝暦十三年(一七六三年)で、材質は安山岩である。 かっては一月十四日に茅の屋根を壊して燃やし、一月二十四日に屋根を葺いたという。 小屋左側にはもう一体祀られており、全高二十四センチメートルと市内の双体・単体の 道祖神で最小である。なお、この道祖神は凝灰岩で造られている。造立年号は不明である。植竹庚申塔 この庚申塔は田村六ー二五ー二五農協神田支所の角にある。造立は天保十二年(一八四一)で 安山岩で造られている。」「忠魂碑」「忠魂碑修復記念西南の役以来大東亜戰争に至る迄の各戰役に参加戰没せられたる殉國の士百四十余柱並に戰災犠牲者八柱の霊を慰め感謝を捧げ有志の御寄附により碑の修復を行い霊を弔う」裏側には「殉難烈士 明治四十五年五月建設」と。西南戦争、日露戦争、日清戦争の戦死者そして昭和初期の病死者そして満州事変の戦死者の名が刻まれていた。「上町庚申塔」には「庚申供養塔」と。「植竹道祖神」。この中央の道祖神は元々田村六ー二五ー二五農協神田支所の角にあったが、現在は境内の木造小屋中央に祀られている。造立は宝暦十三年(一七六三年)で、材質は安山岩である。左側の道祖神は、全高二十四センチメートルと市内の双体・単体の道祖神で最小である。なお、この道祖神は凝灰岩で造られている。造立年号は不明である。その先、八王子道との交差点の路地の入口左にも石碑があった。「鷹落橋(たかおちばし)の碑」。八王子道(旧129号線)のバス道路の歌川排水路に架かる橋の名を鷹落橋と呼んでいる。「鷹落橋天正八年(一五九〇)徳川家康は関東に入国した。以後家康は関東経営のかたわら、相模国の山野をたびたび鷹狩をかねて巡視した。平塚市域の鷹狩の場所は、中原御殿を中心として玉川と金目川の沿岸、相模川河畔・高麗山より鷹取山にかけての山々が考えられる。この鷹落橋の橋名は、家康が相模川河畔の田村に鷹狩に来たおり、獲物を追っていた鷹が羽を傷めてこの橋に落ちたということから名づけられたという。」更に八王子道を北に進む。JA湘南 神田支店の手前の信号を左折して進むと右手にあったのが「常安寺」。「常安寺」は、村民源太郎(穏叟浄安)が開基となり、萬嶺祝(寛永11年1634年寂)が開山したと。神奈川県平塚市田村6丁目24−11。寺号標石「田村山常安寺」。曹洞宗系の寺であるようだ。無縁墓石。中には道祖神も安置されていた。観音像。下にも石仏が。掲示板には「七月の禪語 無心風來吹(むしんにかぜきたりふく)」👈リンク と。外を吹く風は一時の涼を与えてくれるが、風は涼しくしてあげようなどと考えて吹いている訳ではない、見返りを求めて行動してはならぬ と。六地蔵。「合掌の郷 倶會一處」。「倶會一處」とは「倶(とも)に一つ処(ところ)に会う」という意味である。ただし仏教では「極楽浄土に往生して人びとと一カ所に集う」という意味で使われている言葉で、浄土教の根本聖典である浄土三部経の一つである阿弥陀経に典拠がある。現在、浄土真宗系の墓や共同墓に刻まれていることが多いようである。観音菩薩立像。観音菩薩立像越しに本堂を見る。本堂の西側には墓地が広がっていた。「常安寺」を後にして、相模川方面に向かって進む。JA駐車場の角にあった自然石「庚申塔」。「植竹 講中」、「天保十二丑十一月吉日」(1841)」と刻まれていた。神奈川県平塚市田村6-25-25。交差点を南下して、農協神田支所前(バス停)の先の路地を左折し東に進むと2基の鳥居があった。「白山神社」と「稲荷宮」。神奈川県平塚市田村9丁目3−16。それぞれの社殿。「白山神社」社殿。田村下町に在った歯の神様「白山神社」がここに移転したらしい。「稲荷宮」。扁額「稲荷宮」。境内の右側にあった「社」。内部には石仏と五輪塔のごときものが鎮座。そして「常安寺」前の道に戻ると「平塚斎場」手前にあった水路。「天神森都市下水路」と。「公共下水道の整備に先立ち、雨水整備を早急に行う必要がある場合に、地方公共団体が都市下水路事業として雨水を排水するための幹線管渠やポンプ場を整備するもの。基本的な施設は公共下水道と同様。下水道は、下水道法(1958)により、「公共下水道」、「流域下水道」及び「都市下水路」の三つに大きくは分類される。都市下水路は、公共下水道事業を実施していない市町村において、市街地の雨水を排除し、すみやかに河川などに排水する施設で、市街地の浸水の解消を図ることを目的として地方公共団体が管理している。管渠とポンプ場よりなり、終末下水処理施設を設けず河川等に放流する。近年、生活排水を浄化処理しないで直接に都市下水路に排水するため、放流先の河川の水質汚濁が問題となっている。都市下水路に排水する前に、合併処理浄化槽を通すなど水質の浄化に協力を呼びかけている。」その先、右手にあったのが「平塚斎場」。神奈川県平塚市田村9丁目12−8。右手にあった建物は。「相模霊柩車有限会社 田村営業所」と。霊柩車は現在では斎場が保有していると思っていたが、独立した会社が今でもあることを知ったのであった。神奈川県平塚市田村9丁目10−14。 ・・・つづく・・・
2022.08.09
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露店・屋台を散策した後は、「白旗神社」の参拝の為に参道の石段を上って行った。石段を上ると、参道の先に社殿が見えて来た。「寒川比古命(さむかわひこのみこと) 源義経公 白旗神社」。寒川神社の御祭神は、寒川比古命(さむかわひこのみこと)・寒川比女命の二柱(さむかわひめのみこと)の二柱の神を祀り、寒川大明神と奉称しているのだ。干支絵馬掛。源義経公鎮霊碑。義経公の兜を象ったこの鎮霊碑。案内板。「義経松」碑「源義経公鎮霊碑文冶五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衝に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御首は奥州路を経て、同年六月十一二日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき。藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。」更にもう1つの石段を上がると社殿が。狛犬(右)。狛犬(左)。「社殿」。白旗神社は、藤沢宿西方面の総鎮守。もとは相模一の宮の寒川神社の寒川比古命の分霊を祀り、寒川神社と呼ばれていたというが、その創建年は不明。のちに、奥州平泉で自刃した源義経を祭神として祀ったことから、白旗神社と呼ばれるようになった。伝説によると、奥州平泉の衣川館で自刃した義経の首は、腰越の浜で首実検が行われた。その後捨てられた首は、潮にのって境川を上り、白旗神社近くに流れ着き、里人に洗い清められ葬られたと伝えられている。また、『東海道名所記』は、腰越に送られた義経と弁慶の首は、首実検後、夜のうちにこの付近に飛んできたと伝えている。このことを知らされた鎌倉の源頼朝は、白旗明神としてこの神社に祀るよう指示したのだという。 祭神 寒川比古命(さむかわひこのみこと) 源義経配神 天照皇大神 大国主命 大山祇命 国狭槌命昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置された。唐破風。唐破風下の見事な彫刻。源氏の家紋の「笹竜胆(ささりんどう)」が幕や賽銭箱等あちこちに。提灯にも「笹竜胆」が。その後ろには町内の名前の書かれた提灯も(右側)。町内の名前の書かれた提灯(左側)。木鼻(右)。木鼻(左)。拝殿正面。「忠友殿」の扁額。内陣をズームして。「拝殿」の横に白旗神社「弁慶の力石」があった。案内板。「力石 の起源 は、石占 (いしうら)といわれています。神社に置かれた特定の石を、老若男女にかかわらず願い事を唱え、持ち上げ、その重い・軽いの感触によって願い事の成否・吉凶を占っていました。しかし、時代の流れによって娯楽や鍛練のための力試しになったといわれています。白旗神社「弁慶の力石 」はその昔、神社の西側古美根茶屋 (現、古美根菓子舗 )前に置かれ、茶屋 で一服する近郊農家や町内の力自慢がこの石を持ち上げカ比べをしたといわれています。この石は神石 とも呼ばれ、この石に触れると健康になり病気をしないといわれています。ご参拝の皆様には、この石に触れ、御加護を頂かれますようにご案内申し上げます。尚、お参りにこられない方・遠方にお住まいの方のために、「弁慶分石守 」をお頒け致しておりますので社務所にお越し下さい。この石に触れると健康になり病気をしないと。亀の甲羅に似ている石は茶店で一服した農家や町内の若者たちが持ち上げて力比べをしたのだと。」「拝殿」前より参道を振り返る。小学生3人が浴衣姿で。脇の石段を使って下に降りると神楽殿 が。神楽殿で神楽の舞を見られる時があると。神楽殿内では毘沙門天を祭っている。「御神札授与所・社務所」昭和51年11月に完成した天平建築様式の社務所。お神札、お守り、おみくじの頒布、お祓い・お願い事の受付を行っている。道路・国道467沿いの脇にあったのが「歌川 広重 東海道五拾三次の内 藤澤 遊行寺 」藤沢は遊行寺の参詣者が多く、江ノ島への分岐点として賑わった。遠くに時宗の本山、遊行寺の伽藍が描かれ、その右手にある家並は道場坂の存在を示し、大鋸橋を挟んで、江ノ島弁天の鳥居がある。お参りをすませた人々が山門をでて橋を渡り、鳥居をくぐろうとしている。奥にあった境内社は共に「稲荷社」。向かって右。向かって左。白旗川に架かる「御典橋」から石鳥居を振り返る。藤沢市民病院駐車場に向かって白旗川沿いに進むと、左手に休憩ベンチが置かれていた。手摺には「白旗川」と書かれたオブジェが。白旗神社の由来「義経伝説」であろう。奥州平泉で死んだ義経の首は、鎌倉の腰越で検分された後、海に捨てられ、境川を上って白旗川までたどり着いたとされているのだ。義経の兜をデザインして「義経伝説」を表現しているのであろう。近くには「首洗いの井戸」👈リンク もあるのだ。こちらは藤沢市の鳥「カワセミ」。その先にあったのが「白旗保育園」。更にその先にあったのが「藤沢市民病院 西館」。「厚生年金特別融資 藤沢市民病院」碑。その奥に少女像があった。台座には「真心」と。近づいて。近づいて台座を確認すると「SADATO SUYAMA」のサインが深く刻まれていた。陶山定人(1926-2009)氏は広島県福山市生まれで相模原を拠点に活躍した彫刻家。県内各所に作品があるようだ。藤沢市役所の旧庁舎前にも陶山氏の作品があったと記憶しているが。そして「藤沢市民病院」の旧バス停の場所には、「歩いて見よう 藤沢市」の案内板が置かれていた。「市民病院のおいたち」。建設前の昭和36年の航空写真。着工中の風景。西館建設時の風景。昭和46年10月 開院。平成元年3月 西館完成。平成18年12月 救命救急センター完成。「浮世絵で見る藤沢宿今から180年前に描かれた浮世絵 藤沢宿は1601年に誕生東海道53次6番目の藤沢宿は、東海道、大山街道、江の島道、鎌倉道などの分岐点として大鋸橋(現遊行寺橋)を中心に大鋸町、大久保町、坂戸町の3町で構成されました。その繁栄の様子は歌川広重等が浮世絵に残されています。」「夕刻の賑わいの風景」。初代 歌川広重『東海道 五十三次 藤澤(隷書東海道)』このシリーズは表題の書体から俗に隷書東海道と呼ばれ、保永堂版、行書版と共に三大傑作シリーズの一つ。藤沢宿の夜の風景で、右側にある鳥居が江の島一ノ鳥居(江の島道入口)、左手にあるのが大鋸橋(現遊行寺橋)。宿場に着いた人々と客引きをする宿の人々の様子が描かれ、にぎわいが感じられる。江の島詣・大山詣の人々が行き来する風景。初代 歌川広重『東海道五十三次之内 藤澤(行書東海道)』このシリーズは表題の書体から俗に行書東海道と呼ばれる。画面右に江の島一ノ鳥居、辯才天と書かれた扁額が掲げられている。左の茶色の橋は大鋸橋(現遊行寺橋)。橋の上には御神酒枠(おみきわく・大山から水や酒を持ち帰るためのもの)を担いでいる大山詣の帰りの一行が描かれている。遊行寺坂上から大鋸橋まで続く行列の模様。作者: 橋本貞秀 制作時期:文久3年(1863)。江の島道鳥居・大鋸橋・遊行寺。初代 安藤広重作 『東海道五拾三次之内 藤澤』。藤澤は、時宗の総本山である 遊行寺の門前町として生まれ、東海道の宿駅となり発展。藤澤橋の手前の鳥居は、ここから5キロほど先の江ノ島弁財天の入り口を示している。大鋸橋を行く人々。初代 歌川広重『東海道五拾三次 藤沢(狂歌入東海道)』このシリーズは図柄の中に狂歌が1首ずつ折り込まれているために俗に「狂歌入東海道」と呼ばれている。保永堂版と反対に遊行寺の側から大鋸橋(現遊行寺橋)と江の島一ノ鳥居を描いたもので、背景にある山は大山。橋の上の人物が担いでいるのは御神酒枠で大山詣を象徴。橋のたもとの高札場など、宿場の様子も窺える。「藤沢御殿このバス停東側には「藤沢御殿」がありました。藤沢宿には「藤沢御殿」と呼ばれる将軍専用の宿泊所が置かれ、徳川家康、秀忠、家光の3代に利用されました。(1596年ごろ設置)その後、民間の本陣、脇本陣が設置され、大名や公家などの宿泊所となりました。」「藤沢御殿跡絵図」(堀内家文書) 江戸時代。「東海道分間延絵図」に描かれた御殿跡。「江戸時代の藤沢宿今から174年前に描かれた絵図「相中留恩記略」は1839年に完成した地誌です。この絵図には家並みや人の動きが細かに描かれています。藤沢宿は1601年ごろに誕生しました。」左から近づいて。現在の旧藤沢宿。「藤沢地区景観の一枚七福神や県内が緑や木々に被われた歴史ある仏閣が多くあります。市役所前、伊勢山公園、大清水口一ドなど、桜・アジサイの見どころ。」そして帰路に、丸亀うどんを楽しんだ後に帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.08.08
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この日は7月20日(水)、藤沢市民病院に行った帰りに、近くにあった「相州藤沢 白旗神社」のお祭り(7月15日~7月21日)に立ち寄って来ました。令和4年 白旗まつりの開催予定は・7月15日(金) 午後7時 出御祭・7月16日(土) 午後5時~6時 万灯神輿渡御 午後7時30分 野外映画の夕べ (上映作品 スポンジ ボブ スポンジ・オン・ザ・ラン)・7月17日(日) 午後1時 発輿祭 神幸祭 *台車での巡行 午後4時30分 還幸祭・7月20日(水) 午後5時 宵宮祭 ※午後1時~午後6時 露店出店(例年より縮小)・7月21日(木) 午前10時 例祭 ※午前11時~午後6時 露店出店(例年より縮小) 午後12時30分~ 神酒所巡拝 午後4時30分 還御祭 とのこと。手前に「御典橋」とその奥に「鳥居」。日本初のグラスファイバー製の「大鳥居」。高さ8m、幅6mの明神鳥居で、昭和59年12月に建立された。地震対策のために軽量で耐久性のあるグラスファイバーを取り入れ、建設時には新聞、テレビ、週刊誌等で報道されたのだと。「白旗神社」社号標石。平成8年8月に建立された。社名の「白旗」は平家の赤旗に対する源氏の旗。源平の戦いの時に敵味方を区別するものとして使われ、このとき以来、源氏の象徴として白旗が用いられることになったのだと。日本初のグラスファイバー製の「大鳥居」の先には多くの露天が出店していた。露天出店の業者もこの日を待ちかねていたのであろう。懐かしきお面屋さん。お面に近づいて。「源義経公武蔵丸弁慶公之像」。この「源義経公武蔵丸弁慶公之像」は2019年(令和元年)10月竣工。源義経公没後830年の記念事業の一つとして建てられたのだ。馬に乗る「源義経公」。平安武将の大鎧を再現した見事な源義経騎馬像。鎧だけでなく、馬具・轡(くつわ)なども忠実に再現したのだと。そして「武蔵丸弁慶公」。武蔵坊弁慶が主君の義経を仰ぎ見る忠義の士の姿。立派な手水舎。綿菓子。多くの方々が、子連れで。ほぼ全員マスク着用にて。こじゃがくん。小粒のじゃがバターか?スーパーボールすくい。とり皮焼。バナナチョコ。特製やきとり。さかなすくい。こちらが「弁慶藤」。一番奥にあり、今年も「弁慶藤」👈リンク の開花の時期に訪ねたのであった。「芭蕉句碑」。「草臥て 宿かる比や 藤の花 文化二年建」。夕刻、いい加減歩き疲れた。そろそろ宿に入る時分、眼前に藤の花を見ると。文化2年(1805)に江戸の俳人以足によって建立されたと。「芭蕉句碑草臥て 宿かる比や 藤の花 文化二年建」。プラスチックのカニ釣り?射的。ボール入れ。金魚すくい。金魚も三密。翌日から学校は夏休みのはずであるが、午後2時過ぎではあったが多くの小学生の姿が。エアーガンくじ。そして最後にとり皮焼きを一つ購入。 ・・・つづく・・・
2022.08.07
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「渋沢栄一記念館」を後にして帰路につく。バスの車窓左手から「尾高惇忠生家」を見る。尾高惇忠(おだか あつただ)は渋沢栄一の従兄であり、学問の師でもあった。明治維新後は富岡製糸場の初代場長、第一国立銀行仙台支店支配人などを務めた。この生家は、江戸時代後期に惇忠の曽祖父が建てたといわれ、惇忠や栄一らが高崎城乗っ取り計画を謀議したと伝わる部屋(非公開)が二階にあると。市指定史跡。尾高惇忠の母・やへが栄一の父・渋沢市郎右衛門の姉であり、惇忠と栄一は従兄弟であった。また、のちに惇忠の妹・千代(明治15年(1882年)没 42歳)は栄一の最初の妻となり、惇忠と千代の弟・平九郎は栄一の幕臣時代にその見立て養子となった。剣術については、おじの渋沢宗助(新三郎)が開いた神道無念流道場「練武館」に入門し、弟の尾高長七郎、従弟の渋沢栄一や渋沢喜作(成一郎)らとともに稽古に励んだ「尾高惇忠生家」の正面。生家内の土間部分を通路として公開していると。パンフレットをネットから。「尾高惇忠は天保元(1830)年下手計村に生まれました。通称新五郎、諱は惇忠、藍香と号しました。渋沢栄一の従兄にあたり、栄一は少年時代からこの藍香のもとに通い、論語をはしめ多くの学問を藍香に師事したことが知られています。後世、”藍香ありてこそ栄一あり”と称えられた人物で知行合一の水戸学に精通し、栄一の人生に大きな影響を与えました。明治時代を迎えると、惇忠は富岡製糸場初代場長や第一国立銀行の盛岡支店長と仙台支店長などを務め、幅広く活躍しました。この尾高惇忠生家は江戸時代後明に惇忠の曽祖父磯五郎が建てたものと伝わっています。「油屋」の屋号で呼ばれ、この地方の商家建物の趣を残す貴重な建造物です。この家で栄一の妻となった千代、見立養子となった平九郎、惇忠の娘で富岡製糸場伝習工女第一号となるゆうが育ちました。また、若き日に惇忠や栄一らが尊王攘夷思想に共鳴し、高崎城乗っ取り・横浜外国商館焼き討ちの謀議をなしたのもこの家の2階と伝わります。内庭の煉瓦倉庫は、「上敷免製」の刻印を残す煉瓦が周囲に残ることから日本煉瓦製造株式会社製の煉瓦で建てられたものと思われます。平成22 (2010)年に深谷市指定文化財(史跡)となりました。」「尾高家 家系図」。「小山川」に架かる県道14号線「共栄橋」を渡る。渋沢栄一の生家の近くにある西間堂本舗の看板。「もちもちいも万十」とは、そのままのさつまいもと、あんを小麦粉と餅粉の皮で包み込んで、さわやかな風味に仕上げた饅頭とのこと。令和2年7月27日に開庁した「深谷市役所新庁舎」が左手に。東側にある庁舎のメインエントランス。「深谷らしさ」の象徴となるレンガの外観で、上部のレンガは「透かし積み」となっていた。深谷市にあった日本煉瓦製造株式会社の工場で製造されていたレンガを床の一部で使用しており、中には製造元の証である刻印がされたレンガもあるとのこと。「透かし積み」。「中山道」を右折して「深谷駅」に向かって進む。車窓からの深谷駅。明治初期から煉瓦の町として知られる深谷のシンボル。ひときわ目を引く西洋様式の建築物は、深谷の煉瓦を約883万個出荷した東京駅を参考に2年の歳月と35億円の費用をかけて1996年に改築された。美しく生まれ変わった深谷駅は、関東の駅百選にも選ばれている名建築。赤いレンガはクラシカルな明治時代の建物のよう。地元の方には「ミニ東京駅」と呼ばれて親しまれている。深谷駅正面玄関。「JR東日本 深谷驛」銘板。JR深谷駅前の青淵(せいえん)広場の「からくり時計」👈リンク。第一国立銀行をイメージした時計台。7時~23時の定時になると、「ふっかちゃん」の下から、渋沢栄一翁が現れるのだ。深谷市イメージキャラクター「ふっかちゃん」。「ふっかちゃん」は、ウサギのようでシカのような「ふっか」という生きもので、地元名産「深谷ねぎ」のしなやかで豪快な角が特徴。また、「ふっかちゃん」の体は、深谷の伝統野菜である「白なす」のような形をしていて、胸には市の花「チューリップ」のボタンを付け、全身で「深谷らしさ」を体現している。平成22年6月28日に誕生した「ふっかちゃん」は、今や世代や地域を超えて広く愛される、深谷市自慢のイメージキャラクターであると。毎時00分になるとOP(オープニング主題歌)が鳴り、下から渋沢栄一が出て来ます。その後、渋沢栄一が人形を首をかしげながら見つめます。最後に渋沢栄一が帰って行き「ふっかちゃん」が出てきてからくり終了。「渋沢栄一からくり時計渋沢栄一(1840年~1931年)は維新後の急激な近代化を迎えた明治・大正期の日本を経済という舞台で支えた人物で、現深谷市の血洗島に生まれた。日本で初めての銀行である第一国立銀行の創立者。論語の精神を重んじ「道徳経済合一説」を唱え、生涯設立にかかわった会社はゆうに500を超える。日本人移民の排斥運動が加熱し日米関係が悪化したときには、それをやわらげるためにお互いの国の人形を交換した。そのとき日本に送られたのが「青い目の人形」、その返礼としてアメリカに贈ったのが「市松人形」である。このからくり時計は、時計塔の部分は当時の第一国立銀行をイメージし、定刻になると「青い目の人形」と「市松人形」を持った栄一が現れ、時刻を知らせる仕掛けとなっている。また、時計はソーラーエネルギーを使っている。平成24年2月 深谷市(渋沢栄一没後80年記念事業) 深谷ロータリークラブ(深谷ロータリークラブ創立50周年記念事業)」そしてこれも青淵(せいえん)広場の「青淵澁澤榮一像」。正面近くから。深谷駅を見つめる渋沢栄一の姿を後ろから。「碑文正二位勲一等子爵澁澤栄一先生は、天保11年(1840)2月13日私達のまち深谷市大字血洗島に生まれました。幼い時から読書を好み、家業を助け、少壮の頃は国事に奔走、慶應3年第15代将軍慶喜公の命令により渡欧して見聞を広め、帰国後明治新政府に出仕し、近代国家形成のための諸制度、諸事業を策定しました。明治6年富国の道を求めて野に下り、わが国最初の銀行を創立し、続いて製紙・紡績・製鋼・造船・鉄道・ガス・電気・窯業等先進諸国が有する諸事業のすべてを創立あるいは援助育成しました。一方、福祉・教育・医療等数多くの分野にそれぞれの機関を創設してその運営に挺身、その他労資協調・国際親善に心を砕き、昭和6年11月11日、91年の生涯を閉じられました。先生は常に道徳と経済の合一を説かれ、その思想を経営の基本とされました。先生を追慕する私達は、朝夕その教えを守り、後世に余光の及ぶことを祈念してここにこの像を建立しました。 建立 昭和63年3月吉日 青淵・澁澤栄一銅像建設協賛会建立 1996年7月 澁澤栄一座像 田中 昭 作」そして南口にあるという「ふっかちゃん」石像をネットから。再び北口に戻って。深谷駅から北へ約四キロ離れた上敷免(じょうしきめん)という地に日本煉瓦製造の工場が建設された。会社設立は一八八七(明治20)年。欧米流の近代建築が増加し、官庁や鉄道などの整備を急いでいた明治政府の意向に沿って設立の翌年から操業を開始したと。ここで製造されたレンガは、東京駅のほかにも日本銀行、赤坂離宮、旧警視庁、東京大学など数多くの建造物に使用され、日本の近代化に寄与した。上空からの写真をネットから。そして「深谷駅」を後にして、再び車窓から。深谷嵐山線の深谷中央陸橋から。「花園IC」から関越自動車道に。「狭山SA」でトイレタイム。帰路の車内ではアルコール無しでBINGOゲームを楽しんだ。車内のモニターにもインストール済み。私は残念ながら・・・・。そして関越道➡圏央道➡東名道を走り、往路と同じ「綾瀬スマートIC」で降り一般道へ。神奈川県道42号線を利用して、藤沢方面に進む。東名高速を下に見ながら進み、ほぼ予定時刻に帰宅できたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.08.06
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次に訪ねたのが「渋沢栄一記念館」。渋沢栄一は近代日本経済の父とも呼ばれ、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)や帝国ホテル、東京瓦斯(現在の東京ガス)、東京海上保険(現在の東京海上日動)など、一度は耳にしたことがあるであろう多くの企業の設立に関わり、その数はなんと500余りと言われています。また商法講習所(現在の一橋大学)や博愛社(現在の日本赤十字社)など600余りの教育・福祉や社会公共事業の支援を行うなど、数々の功績を残しました。深谷市下手計1204。この記念館は平成7年11月11日(栄一翁の祥月命日)に開館され、栄一の遺墨や写真など資料のほか、本人の肉声を聞くことができる展示があった。2024年からの新一万円札の顏として、昨年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公として、いまでも大注目されている渋沢栄一について詳しく知ることができるのであった。「渋沢栄一記念館」の正面。横断幕には「祝 新一万円札 渋沢栄一翁」と。その下には「渋沢栄一記念館・八基公民館」とも。「渋沢栄一翁と論語の里」案内図。渋沢栄一記念館、旧渋沢邸「中の家」、尾高惇忠生家を中心とした地域を一体的に整備・活用し、郷土の偉人たちの志を活かした深谷市独自のまちづくりに取り組んでいると。今回は、「渋沢栄一記念館」だけであるが、もう一度訪れて他の場所を訪ねたいと思ったのであった。深谷市バスくるリン北部シャトル便「渋沢栄一記念館 バス停」。「渋沢栄一翁ゆかりの地 諏訪神社」ポスター。「散策マップ お食事処」。「渋沢栄一記念館」の館内に入ると正面にあったのが「見学受付」。入館料:無料開館時間:9:00~17:00休館日:年末年始様々なお土産が紹介されていた。まずは体育館内の展示を訪ねた。渋沢栄一を紹介するビデオを鑑賞する。「デジタルLEDサイネージ上映「渋沢栄一物語」( 20分)大画面映像⇄手話通訳付映像 ※「大画面」と「手話付」が交互に繰返し放映されます※17 : 00に自動的に上映終了となります」青い目の人形を抱く渋沢栄一の写真。贈り主のギューリックは同志社大学で教鞭をとった人物であると。宣教師のシドニー・ギューリックは次世代の子どもたちのために、アメリカ人形を日本へ贈る提案をした。栄一は日本側の受け人れの代表となった。昭和2年(1927)、アメリカから約1万2000体の(青い目の人形)が届いた。栄一は各地で児童たちに披露。そして答礼として市松人形(着せ替え人形のひとつ) 58体をアメリカに贈った と。約300体の人形が現存していると。青い目の人形を抱く渋沢栄一の絵画。巨大な「拓本」。「渋沢青淵先生内山峡之詩」(拓本複製)渋沢栄一が主人公となる2 0 2 1年NHK大河ドラマ「青天を衝け」。このタイトルは、藍玉の商いのため尾高惇忠と信州に旅した際に、栄一が美しい景色を詠んだ漢詩『巡信紀詩』のうち「内山峡」の一節が由来となっています。渋沢栄一『巡信紀詩』のうち「内山峡」の一節「勢衝青天攘臂躋 気穿白雲唾手征」( 8行目~ ) 「読み下し]勢は青天を衝きて臂を攘て躋り 気は白雲を穿て手に唾して征く [意味]青空を突き刺す勢いでヒジをまくって登り 白雲を突き抜ける気力で手に 唾して進む渋沢栄一が信州を訪れた際に立ち寄った漢学者の木内芳軒の外孫の書によるこの碑は、昭和1 5年1 1月に内山村肱水(現在の佐久市)の岩壁に刻まれました。その内容からは、のちに「近代日本経済の父」と呼ばれるにいたる栄一の若き日の大いなる気概が感じられます。」「澁澤青淵先生之巌碑子爵青淵先生十九歳にして内山峡を過り絶勝を嘆賞して此詩を賦せらる、一誦して九十二歳の終生を一貫せる道徳経済合一の大義が既に胚胎せるを知るべく、再吟して明治・大正・昭和に亘り一世に高かりし功業徳望の由来する所を感得せずんばあらず、因て郷人有志相謀り、玆に巌碑を鑿立して景仰の意を致すと云 皇紀二千六百年十一月廿四日」。 1階には渋沢栄一資料室があった。入口から資料室を見る。資料室には渋沢栄一ゆかりの遺墨や写真など、たくさんの資料が展示されていた。残念ながら資料室内は写真撮影禁止であった。次に予約してくれていた「渋沢栄一記念館講義室」を訪ねた。「講義室心得★渋沢栄一アドロイドに手を融れないてください★飲食、喫煙は御遠慮ください★携帯電話等はマナーモード設定の上、通話は御遠慮ください★動画撮影、録画は御遠慮ください。写真撮影は可能です★混雑状況により、立ち見席での御案内となる場合がございます★忠恕(ちゅうじょ まごころと思いやり)のある行動をお願いします★係員の指示に従ってください。従わない場合は退出していただきます」「~「渋沢栄一アンドロイド」講演をお待ちのお客様へ~●列にお並びの前に、お手元の入場券をご確認ください。●ご予約1グループに1枚、人場券を発行しております。 皆さまお揃いになってから列にお並びください。●1講演につき20名までの入場制限を行なっております。【渋沢栄一アンドロイド公演時間】の表示のない券ではご入場いただけません。」演壇には「渋沢栄一アンドロイド」が迎えてくれた。「アンドロイド」とは「人間型ロボット」のこと。深谷市の郷土の偉人・渋沢栄一(1840年~1931年)の生誕180年にあたる節目の年、2020年に本物そっくりの「渋沢栄一アンドロイド」が完成した。渋沢栄一は、明治維新後に近代化を迎えた日本経済の発展に大きく貢献した。論語の精神を重んじた「道徳経済合一説」を唱え、生涯設立にかかわった会社は500を数える。また、約600もの社会福祉事業、教育・福祉の支援と民間外交にも熱心に取り組んだ。この渋沢栄一アンドロイドは、当時の渋沢栄一の風貌を忠実に再現しており、アンドロイドが語る言葉を通して、在りし日の渋沢栄一の考え方を今に伝えます。渋沢栄一アンドロイドは、深谷市出身の鳥羽博道氏(株式会社ドトールコーヒー名誉会長)の寄付により制作したのだ と。本日の基調講演は「道徳経済合一説」👈リンク について。「道徳経済合一説」とは、金儲けをするときには、しっかりと道徳も持ち合わせなければいけないという考えとのこと。「講義室」を振り返る。今回の製作にあたっては、株式会社エーラボと大阪大学の石黒浩教授に協力を依頼したと。話の合間合間に身振り手振りを混ぜ、楽しませてくれたのであった。お顔をズームして。「気持ち悪いくらいリアル」なのであった。「渋沢栄一アンドロイド深谷市郷土の偉人・渋沢栄一( 1840年~ 1931年)の生誕180年にあたる節目の年、2020年に「渋沢栄一アンドロ仆」か完成しました。渋沢栄一は、明治維新後の急激な近代化を迎えた日本経済の発展に大きく貢献し、論語の精神を重んじ「道徳経済合一説」を唱え、生湃設立にかかわった会社は500を数えます。また約600もの社会福祉事業、教育・福祉の支援と民間外交もに熱心に取り組みました。この渋沢栄一アンドロイドは、当時の渋沢栄一の風貌を忠実に再現し、アンドロイドから語られる言葉を通して、在りし日の渋沢栄一の考え方を今に伝えます。渋沢栄一アンドロイドは、渋沢市出身の鳥羽博道氏(株式会社ドトールコーヒー名誉会長)の寄附により制作しました。」「JR深谷駅」の写真。鉄道での深谷の玄関口「JR深谷駅」は東京駅にそっくり。なんと、1914年竣工の東京駅の赤煉瓦は深谷産だったのです。栄一はレンガを作るため、日本煉瓦製造株式会社を地元である深谷に作り、そこで作られたレンガを鉄道で運びJR東京駅の建設に使ったのだ。その縁で、1996年に建て替えられた深谷駅は、東京駅のミニチュア版のようになった。現在、東京~深谷間は直通電車で、約1時間半の道のり。「祝 渋沢栄一 新一万円札に」の幟の写真。渋沢栄一の写真。様々の幟も館内入り口ロビーに。旧渋沢邸「中の家」。旧渋沢邸「中の家(なかんち)」主屋は、渋沢栄一生誕地に建ち、栄一の妹夫妻によって明治28年上棟された建物です。渋沢栄一が多忙な中で帰郷した際に滞在し、寝泊まりした場所です。渋沢家の住宅として使われていましたが、昭和60年より「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され多くの外国人留学生が学びました。平成12年の同法人解散に伴い深谷市に帰属しました。県指定旧跡「渋沢栄一生地」、市指定史跡。「旧渋沢邸「中の家」1/70模型」2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」の様々なポスターも。渋沢栄一を演じたのは吉沢亮氏。渋沢栄一の銅像の案内板。記念館の北側に出る。「清水川」に架かる「西浦橋」を見る。記念館の北側に建つ高さ5mの「渋沢栄一銅像」。ズームして。下から見上げて。そして再び入口ロビーに戻る。ポスター「志を、紡ぐ」。渋沢邸「中の家(なかんち)」主屋を見つめる渋沢栄一の姿が。「明治を発展させ、資本主義の父と呼ばれた男 渋沢栄一1840年~1931年埼玉・深谷の豪農。徳川慶喜の家臣となる。龍馬が亡くなった1867年のパリ万博に約25人の使節団に加わり渡欧。パリの人達に触発され日本人で最初に髷を下ろす。帰国後に官僚・実業家となり、東京商工会議所・みずほ銀行・東京証券取引所・帝国ホテル・日本郵船・富岡製糸場など、500社以上の多種多様な企業の設立や運営に関わった。『日本の資本主義の父』と呼ばれる。なんと、91歳までご長寿でした。」渋沢が関わった現存する企業等(二〇二一年四月時点)。ブラタモリ「深谷」が2021年5月1日に放送されました。渋沢栄一の実物大パネル。「渋沢栄一記念館」のロビーを振り返り、館を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.05
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そして「拝殿」の先にあったのが「唐門」・(国指定重要文化財)。左右に「透塀」が。その先に世良田東照宮本殿(国指定重要文化財)があったが、保存修理工事中であった。1間社流造屋根は、安永6年(1777)の大修理時に銅瓦葺となり現在に至る。正面扉上部頭貫につがい親鷹の彫物、親鷹の中間にある蟇股上に3羽のひな鷹の彫物がある。昭和31年(1956)6月 重要文化財指定。ネットに詳細に紹介されている「ページ」👈リンクがありましたのでリンクさせて頂きました。右側の「唐門前石燈籠一、正保二年(一六四五) 忍藩 五万石 老中 阿部忠秋」左側の石灯籠。「重要文化財 東照宮 保存修理工事の紹介①」「本殿」。蟇股の彫刻。⑥本殿巣籠りに鷹家康公の嗜み(たしなみ)(鷹狩り)をよく表した彫刻。松の木に作られた巣に3羽のひな鳥が籠り、左右の親鳥がひな鳥の育成を見守る。家族愛、子孫の安泰、家内を守護している。」「本殿」正面の彫刻。④本殿塗装の傷み具合修理前の本殿は、絢爛豪華(けんらんごうか)に塗装されていましたが、色が落ちたり、変色していました。こちらも鷹の彫刻。次に「宝物保管陳列所」を訪ねた。「御供所この御供所は、東照宮創建時に幕府の命により建てられました。本殿へ供える神撰を調理する場、神前から撤した神酒を戴く直合場として使用され 大宮大修復と共に修繕が成されてきました。」「東照宮宝物保管陳列所」昭和三十九年(一九六〇)に宝物館に生まれ替わったようだ。設立: 1964(昭和39)年建築面積:70㎡(木造建築一階建て)収蔵点数:約2000点開館日:原則無休開館時間:——入館料:大人300円関連博物館:新田荘歴史博物館設立経緯寛永21年(1644)に御宮創建時に御供所として同期に造宮され、天保15年(1844)に造替、昭和39年(1964)宝物館として再度造替している。昭和31年に社殿・宝物などが重要文化財に指定された事により、昭和31年から同41年に亙り文化庁による修復の一環で御供所が陳列所として改装された。所蔵品と展示の概要展示はケース内の提示型展示を基本とする。重要文化財の太刀(刀身鎌倉末期了戒作・拵沃懸地銀装菊花紋散)御金幣、家康公の「御鎧召初式」に用いられた甲冑、三十六歌仙図(群馬県指定重要文化財)、神饌器具、狛犬、棟札(8回の修理記録を記した7枚の棟札、重要文化財)等々、他多数。この日は館内は撮影禁止であったので、「ネット」👈リンク を参照下さい。そして「世良田東照宮」の「御黒門」。「世良田東照宮」の創建当時、幕府によって建てられた門が現存しているのだ。「御黒門(縁結び門)東照宮創建時、幕府により建てられた門で、左右には八十メートルの白壁の塀がありました。江戸時代は平常閉ざされ、門前での参拝。正月・四月の祭典日などは特別に開かれ、拝殿下の階段前までの参拝が許されました。この門の蹴放し(溝のない敷居)をまたいで参拝すると、良縁が成就すると云われ、縁結び門とも言われています。」「国指定史跡 新田荘遺跡 東照宮境内」碑。「国指定重要文化財 東照宮」と。「東照宮 所在地: 元和二年(一六一六)徳川家康は駿府(静岡市)で七十五年の生涯を閉じた。遺命により、遺体は一旦駿府郊外の久能山に葬られ、翌年下野国日光に改葬された。それより二十年の後、社殿は三代家光によって全面的に改築され、今日の東照宮が完成した。当時日光輪王寺と長楽寺の住職を兼ねていた天海は、旧社殿の一部を長楽寺元境内に移築して東照宮を勧請した。当地が徳川氏発祥の地であり、当寺が徳川義季開基とする寺だからである。幕府は、長楽寺をその別当寺としてその管理や祭祀に当らせ、二百石の社領を与え、その社殿の修理や祭祀の費用は幕府の財政によって賄われることになった。桁行五間・梁間三間の拝殿は、日光奥社の拝殿を移したものである。家康の最初の墓標として建てられた多宝塔もここに移され、本地堂(俗に塔の薬師)として、明治初年までその豪華な姿をとどめいていた。東照宮の鎮座により地元世良田の住人はもとより、近隣十数か村の住民は、東照宮の火の番を奉仕することによって道中助郷を免除されたり、幕府によって開削された神領用水の利用を許されたり、種々の恩典に浴することができた。 東照宮の文化財(国指定重要文化財) 建造物─本殿・唐門・拝殿・附鉄燈籠・棟 工芸品─太刀銘了戒・附拵銀造沃懸地太刀(県指定重要文化財) 絵画─板面著色三十六歌仙図(県指定史跡) 法照禅師月船琛海塔所並びに普光庵跡 真言院井戸」「御黒門(縁結び門)」を潜って境内に入ると左手にあったのが「上番所」。「世良田東照宮 上番所」。上番所は世良田東照宮の防衛拠点として、江戸時代に運用されていた警備施設だそうです。「顔出しパネル」。「上番所江戸時代 徳川幕府は東照宮を護る為上・下の二ヶ所に番所を設け、昼夜警備に当らせた。この番所は二間と一間半の建物で、ここに川南(埼玉県深谷)の中瀬・横瀬・北阿賀野・南阿賀野・町田・血洗島・上手計・下手計・大塚・成塚・新戒・高島の村々、川北(群馬県太田市・伊勢崎市)の世良田・粕川・出塚・大館・堀口・上田中・下田中・上江田・中江田・下江田・高尾・八木沼・平塚・中嶋・高尾・境・女塚の村々から二~四人出仕していた。出仕の村々には、助郷の課役が免除されるなど他の地域とは異なる優遇を受けた。 番所にあった道具一、三ッ道具(突棒・刺股・袖搦)一、棒十本一、鳶口三本火災時には、縦横三尺の大団扇を以って数十数百人一団となり、火消しを行った」「三ッ道具(袖搦み・刺股・突棒)」が展示されていた。「東照宮御宮番江戸時代、世良田の東照宮は、将軍家先祖の地として徳川府の手厚い庇護を受け、その警固には深甚なる注意か払われた。下記村々は、その警固を勤めた村で、「火の番助郷」とも言われ、他の地域とは異なる優遇を受けた。川北(群馬県側) 下田中(新田町)世良田(尾島町) 高尾 〃小角田 〃 粕川 〃 川南 (埼玉県)出塚 〃 中瀬 (深谷市)大館 〃 横瀬 〃 境 (境町栄) 北阿賀野 〃 八木沼(境町米岡) 南阿賀野 〃平塚(境町) 町田 〃女塚 〃 血洗島 〃上江田(新田町) 上手計 〃 中江田 〃 下手計 〃 下江田 〃 大塚 〃 ・・・ ・・・ 」「手水舎」。「駕籠」の顔出しパネル。そして帰路に。一面に白のアジサイ・アナベルが拡がっていた。近づいて。「世良田東照宮」を後にして、昼食会場の割烹レストラン「楓」に。深谷市大塚334。「割烹 楓 創業 昭和五十年」と。2階に案内される。深谷出身で、明治時代に活躍した実業家、渋沢栄一氏も愛した「煮ぼうとう」を楽しむ。「煮ぼうとう」とは、小麦粉が比較的容易に手に入れることが可能であった土地ならではの、工夫と知恵がたっぷり入った深谷の郷土料理。特徴は、幅広の麺(およそ2.5cm、厚さ1.5mm程度)と、特産である深谷ねぎ、地元で収穫される野菜類をたっぷり使い、生めんの状態から煮込んでいると。生めんから煮込むことで、適度な「とろみ」があり、しょうゆで味をつける、深谷の冬の定番メニューであるのだと。そして生ビールもオーダーして。小天丼。赤身の刺し身。とろろ。デザート。「煮ぼうとう」を楽しむ旅友。「幽静」と。「幽静 鈴木響泉」と。「美人画」。「郷土の自然料理 「煮ぼうとう」について遠い祖先が 四季折々の農産物を活用し 知恵と真心を込めた この地の栄養食です。実業界の王 渋澤青淵翁は 天保十一年(一八四〇年)此の地の富農の家に生まれ 二十一才まで郷土の血洗島で過ごしました。翁はこの煮ぼうとうを こよなく好み 今尚庶民的な近親感を残し伝えています。青淵翁の薫陰により 立派な先覚者が此の地より輩出し また利根川小山川の大洪水で難渋したこの地域も 現在では日本屈指の野菜の大手産地として 活況を呈しています。」洪水に依る肥よくな沖積土の形成 その地に生産される地粉緑滴る深谷葱等が 調和され巾の広い手打ちうどんを煮込んだものです これが魅力ある本当の「煮ぼうとう」なのです毎年十一月十一日 青淵忌には市内の名士百名程が公民館に集い 翁の遺徳を追慕顕彰して盛大裡に「煮ぼうとう会」が催されます昔 武士が戦場で腹ごしらえに帯刀で切って陣中食として食した「煮宝刀」ともいわれる「煮ぼうとう」です。 昭和五十九年霜月 文化財保存委員 小山專一 撰文」「郷土の偉人 渋沢栄一(男爵当時)」様々な「渋沢榮一」の写真が展示されていた。「耕地整理記念碑」の横で。「漢詩」。ここにも「美人画」。「飾り花」。「楓」自慢の「たれ」の自販機が外に置かれていた。「もんじゃ」や「カレー」の自販機もあった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.04
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「徳川氏発祥の地 世良田東照宮 由緒寛永二十年(一六四四)、三代将車徳川家光公は、世良田が徳川氏の先祖の地ということから、日光東照宮古宮(元和年間造営の奥宮)を移築し、家康公をお祀りしました。奉斎にあたり家光公から御神領二百石が寄進。以後、幕府の手厚い保護を受け、徳川家康代々礼敬をつくされました。東照宮の御鎮座は文化・経済の発展を助成し、世に「お江戸みたけりや世良田へござれ・・・」とうたわれました。御祭神主祭神:徳川家康公(東照大権現)東照大権現とは、東から照らす朝日のように勢い盛んな神の意味です。家康公は、戦国乱世を終わらせ、日本を統一し平和な時代を築きました。平和の永続を願う公は、「日光山に小さな堂を建てて、自分を神として祀ること。自分は、日本の平和の守り神となる」と御遺言を遺されている。配祀:菅原道真公(学問の神)・倉稲魂命(穀物、商売繁盛の神) 須佐之男命(愛、農業の神)・伊弉冉尊(結婚・火防の神) 火産霊命(車、縁結びの神)・大穴牟遅命(招福、医療の神) 誉田別尊(安産、育児の神)・建御方神(スポーツの神) 豊城人彦神(開運の沖)・外十柱」「世良田 東照宮」配置図。左手にあったのが「開運稲荷社」。鳥居の扁額も「開運稲荷社」。「社殿」。「開運稲荷社創建当初の「稲荷社」は、当地に古くから祀られていた神様で、開運招福・商売繁盛・五穀豊穣に特にあらたかなご利益のある神様であります。東照宮の修復の際はこの稲荷社も幕府より手厚い保護が成されてきました。明治二十五年(1892)同世良田山内に鎮座していた世良田五社稲荷の一社と伝わる「開運稲荷社」を合祀。明治四十年(1907)「開運稲荷社」は、小社合祀奨励により、旧世良田村小角田「稲荷神社」、旧世良田村上矢島の勝手神社末社「稲荷社」、旧木崎村高尾の久呂住神社末社「稲荷社」と共に東照宮へ合祀。平成八年(1996)現在地に社殿が新築成り、遷座祭が斎行。御宮に合祀されていた全ての稲荷社が御遷座され、現在の「開運稲荷社」となる。 例大祭 三月初午日(旧暦)」「世良田東照宮」の「一の鳥居」。扁額は「東照宮」。「一の鳥居」の先にはー対3組の石燈籠が並んでいた。宮司さんの案内により「世良田東照宮」の拝観に向かう。ここが「拝観」入口。20名以上の団体は200円/人。宮司さんによる説明を聴く我がグループ。「御供水井戸」。正面から。「御供水井戸この井戸は寛永二十一年(一六四四)東照宮創建時に幕府の命により造られました。江戸時代は社殿と同時に修復が成され、汲まれた清き神水は神前へ供えられました。現在もこの神水は地下水となっておりますので容器持参の上でお汲みになり、ご利用ください。また、東照宮神域の清砂を社務所にてお頒け致しております。」「拝殿」参拝の後に訪ねた、「東照宮宝物保管陳列所」。この「鉄燈籠」は、元和4年(1618年)に総社石主・秋元長朝の命で造られたもので、当時の「鉄燈籠」では日本一の大きさを誇るものだったと。「鉄燈籠竿陽刻銘奉納燈籠東照大権現御寳前 元和二戊二午歳七月吉日 <注>元和4喬朝が奉納した年(1618) 秋元越中守藤原長朝 大工 中林仲次明暦4年(1658) 長朝の曾孫喬朝が奉納したものである」制作時と奉納時が40数年離れている理由は、世良田東照宮刊「徳川氏発祥の地 世良田東照宮」によれば、次のとおり長朝が日光東照宮創建時に奉納しようとしたが、諸大名が奉納する石燈籠より大きく、鉄燈籠、小藩ゆえに奉納叶わず、領地の深谷に東照宮を造立、鉄燈籠を据えた。世良田東照宮建立後、長朝の遺志を継いだ遺族・喬朝が奉納したのだと。祠。熱く「世良田東照宮」について語ってくれた宮司さん。一番奥の石灯籠。一、宝暦十三年(一七六三) 前橋藩 十五万石 松平朝矩場所を変えて近づいて。「奉納石燈籠一、宝暦十三年(一七六三) 前橋藩 十五万石 松平朝矩一、寛政八年(一七九六) 川越藩 十五万石 松平直恒一、天保十五年(一八四四) 忍藩 十万石 松平忠国 唐門前石燈籠一、正保二年(一六四五) 忍藩 五万石 老中阿部忠秋」「拝殿」。日光東照宮奥社拝殿として元和年間(1615 ~ 1623)に造営され、寛永17年(1640)~同19年に当地、徳川氏発祥の地「世良田」へ移築された。設計施工中井大和守正清の最後の作ともいわれ、桃山時代の特色をよく表している。中井正清は「関ヶ原の戦い」後、家康公に使えて江戸城、知恩院、駿府城天守、江戸の町割り、増上寺、名古屋城、二条城、内裏、日光東照宮、久能山東照宮、方広寺など、徳川家関係の重要な建築を次々と担当した名工。その名工・正清最後の作品が、この世良田東照宮の社殿であった(建立当時は日光東照宮の社殿として建立された。)「この拝殿は、日光東照宮奥社にあった建物で、将軍・御三家・勅使のみが昇殿を許されました。大工は二条城や江戸城天守閣なども築城した中井大和守正清です。」「唐破風」をズームして。徳川家を象徴する「三つ葉葵の御紋」もあしらわれていた。桁行5間、梁間3間、入母屋造平入り屋根は、当初檜皮葺、寛政8年(1796)修理時に銅瓦葺となり現在に至る昭和31年(1956)6月 重要文化財指定。正面向拝下の蟇股に、松に鷹の彩色彫刻。提灯にも「三つ葉葵の御紋」。「拝殿」の周り廊下の手摺の造形も鳥の如し。拝殿唐破風下の正面(東側)欄間の造形を右からカメラで追う。正面の左側の欄間の造形。内陣の扁額は「東照大権現」。中央に「鏡」が。拝殿内部の三十六歌仙を追う。右から紀貫之「さくら散る 木の下風は 寒からで 空にしられぬ 雪ぞふりける」伊勢「散り散らず 聞かまほしきを 古里の 花見て帰る人も逢はなむ」山部赤人は下記。小野小町「わびぬれば 身をうき草の 根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとそ思ふ」紀友則「夕されば 佐保の川原の 河霧に 友まどはせる 千鳥鳴くなり」遍昭増正「我やどは 道もなきまで あれにけり つれなき人を 待つとせしまに」写真右に山部赤人 「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」格子天井。「拝殿」を横から(北側)。拝殿懸魚(北側)。右側から欄間を。唐門側(西側)欄間を右から。中央。中央をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.03
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バスに戻る前に道の駅「おかべ」にあった六角形の「情報センター」を急いで訪ねたのであった。「中山道の熊谷宿」案内板。中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて8番目の宿場。上段左から馬頭観世音中山道を往来する馬を守り、冥福を祈るために、一里塚の協に立てられています。竹井澹如(たけいたんじょ)翁碑熊谷宿本陣をつとめた竹井家を継き、明治12年、初代の埼玉県議会議長になりました。政治・産業面でも大きな功績を残しました。万平公園に翁碑があります。「星渓園」は、翁が明治初年につくった名園です。秩父道道しるべ室町時代に始まった秩父札所の観音信仰は江戸時代に盛んになり、最盛期の巡礼の数は数万人にも達しましたが、江戸からの順路の一つとして熊谷宿に隣接した石原村で中山道から分かれるちちぶ道がありました。その分岐点付近に立てられた道しるべです。下段左から札の辻跡法令や禁令などの高札を揚げる場所で、「高札場」とも言われました。現在の中山道と大路地の交差する付近にたてられたと考えられます。熊谷本陣跡全本陣中でも大規模な本陣でした。面積1500坪(約4950m2)、建坪700坪( 2310m2)、畳間数47、畳数360畳という壮大な邸宅であったようです。代々、竹井家が本陣を動めていました。新島の一里塚通常、一里塚の樹木は、エノキやマツなどが多いのですが、この一里塚は、非常にめずらしく、ケヤキの大木です。「中山道の深谷宿」案内板。和宮御降嫁幕府は威信を回復するために、14代将軍家茂のもとに、孝明天皇の御妹宮降嫁を奏請しました。和宮は降嫁の際に中山道を使い汀戸に下向されました。途中、深谷宿本陣に宿泊しました。和宮の使ったとされる御草履が現存しています。深谷本陣道物寛永12年(1635)参勤交代制に伴い、中山道筋諸大名の道中宿所として指定された後、本陣として存在したものと推定されます。現存する建物は、正徳2年(1712)の再建です。北斎筆徐福図(ほくさいひつじょふくず)北漸が旅籠近彦に泊まった時に描いたものです。はじめ行灯部屋に泊まっていましたが、北斎だと分かると驚いて上等の部屋に案内したという逸話つきです。みかえりの松深谷宿は中山道でも屈指の遊郭がありました。宿を出た旅人はみかえりの松で宿に別れを告げたのでこの名前が付きました。渋沢栄一日本近代資本主義の父と呼ばれ、実業界に止まらず、生涯を通して社会福祉事業に尽力しました。「中山道の本庄宿」案内板。市神様宿で市が開かれるにあたり、市の神様を、街道に置きました。本庄宿では2箇所あり、一つは田村本陣の正面付近にありました。もう一つは、新田町にありました。現在の図書館入口付近にあたります。現在では、金鑚(かねさな)神社の境内に移築されています。神流川の常夜灯神流川の流れはよく変わるため、その度に橋や渡船場の位置が変わりました。昼間でも道筋が分かりにくいため、川の両脇岸に目印して見透灯籠と呼ばれる常夜灯を設けました。そ・・・人の小林ー茶も寄付したといわ・・・・当時の物は大光寺に移設されて・・。田村本陣の門本庄宿の北本陣といわれた田村本陣の北門です。田村本陣は、現在の中央一丁目にありました。この門は、皇女和宮が降嫁の際にくぐったといわれています。豪商・戸谷双烏中山道は政治・経済の大動脈として整備され、本庄宿は交通の要であったため、豪商も生まれました。今の宮本町と泉町の境あたりに、代々、戸谷半兵衛を襲名していた豪商がいました。その3代目が、「戸谷双烏」という人物です。双烏は、旅人の安全のために寄付を募り、神流川の渡しに高さ3mの豪華な常夜灯を寄進しました。泪橋跡碑橋の跡に石碑・・・埼玉県内の「道の駅」案内パネル。特定テーマ型モデル「道の駅」概要。「道の駅は、ドライバーが24時間利用できる「休憩機能」、道路や地域の情報を提供する施設としての「情報発信機能」、道の駅を接点に活力ある地域づくリを行う「地域連携機能」の3つの機能を基本コンセプトとして有し、この3つの機能による相乗効果から「地域とともにつくる個性当かな賑わいの場」を創出することが求められておリ、現在では、全国で1150箇所以上に広がっている。近年「道の駅」は、道路利用者への単なる「休憩機能」を持った施設から、地域住民のための交流施設や防災施設、そして地域創生における拠点へと、今やその役割リは大きく変貎しており、地元の名物や観光資源を活かして、多くの人々を迎え、地域の雇用創出や経済の活性化、住民サービスの向上にも貢献しているのだと。「2021年大河ドラマ(第60作) 青天を衝(つ)け」 案内パネル。「大河ドラマ第60作の主人公は新1万円札の顔として注目される「渋沢栄一」です。約500の企業を育て、約600の社会公共事業に関わった「日本資本主義の父」。晩年は民間外交にも力を注ぎ、ノーベル平和賞の候補に2度選ばれています。幕末から明治へ。時代の大渦に翻弄され挫折を繰り返しながらも、青天を衝くかのように高い志を持って未来を切り開きました。「緻密な計算」と「人への誠意」を武器に、近代日本のあるべき姿を追い続けた渋沢は、生涯青春の人でした。2021年、若き心で挑戦を続けた男・渋沢栄一との出会いにご期待ください。」「物語官尊民卑なんて、くそくらえ。百姓からの脱却を決意!栄一は、藍染めの原料となる藍玉づくりと養蚕を営む百姓の家に生まれた。頭の回転は早いが、大人や権力にものおじしないやんちゃ坊主に育つ。商才に長けた父・市郎右衛門の背中に学び、栄一は商売のおもしろさに目覚めていった。しかし17歳のころ、人生を変える最初の事件が起こる。御用金を取り立てる代官に刃向かい、理不尽に罵倒されたのだ。栄一は、官尊民卑がはびこる幕府の身分制度に怒りを覚え、決意する。「虐げられる百姓のままでは終われない。武士になる!」目指せ、攘夷の志士! ところが計画中止、追われる身へ……。栄一は、従兄の惇忠や喜作とともに、尊皇攘夷に傾倒していく。栄一らは江戸に出入りして同志を集め、ある暴挙を企てた。高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地を焼き打ちするという一大攘夷計画だ。ところが、京の情勢に通じた惇忠の弟・長七郎の猛反対にあい、実行前夜にしてあえなく断念。逆に幕府に追われる立場となり、喜作とともに京へ逃げる。そんな彼らに助け船を出したのは、一橋慶喜の側近・平岡円四郎だ。一橋家の家臣となるか、幕府に捕らわれて死ぬか、という二者択一を迫られる。このとき、“慶喜こそが幕府を変える人物となる”と望みを懸け、一橋の人間となったことで再び運命が変わっていく──。心ならずも幕臣に。パリ行きが人生を開く!栄一は持ち前の商才で一橋家の財政改革に手腕を発揮し、慶喜の信頼を得る。ところが、慶喜が将軍を継承したことで、倒幕を目指すどころか幕臣になってしまった。失意の栄一に、またとない転機が訪れる。パリ万国博覧会の随員に選ばれたのだ。産業発展めざましいフランスに渡った栄一は、「株式会社」と「バンク」の仕組みを知り、さらに官と民が平等である社会に大きな衝撃を受ける。「攘夷なんてとんでもない。民間が力を発揮する西洋の国づくりを日本も吸収すべきだ!」。そんな折、日本から大政奉還の知らせが届き、無念の帰国へ……。まさかの新政府入りで、続々改革。33歳でいよいよ民間へ。帰国後、様変わりした日本に衝撃を受ける栄一。約260年続いていた徳川の時代はすでに終わり、惇忠や喜作は「彰義隊」を結成。戊辰戦争、そして箱館戦争と新政府軍との戦闘を続けていた。栄一は、静岡で隠棲する慶喜と再会し、身をやつした姿に涙する。そして、民間に身を置きながら、慶喜をそばで支えることを決意した。しかし突然、明治新政府から出仕を命じられて上京。「改正掛」を立ち上げ、租税・鉄道・貨幣制度など次々と改革を推し進めること3年半。栄一はある決意を胸に辞表を提出した。この時、33歳。いよいよ、栄一の目指す民間改革が始まるのだった……!「主人公 渋沢栄一 吉沢亮渋沢中の家(なかんち)の長男。幼い頃から人一倍おしやべりで剛情っばり。従兄である惇忠の影響を受け、読書に没頭する日々を送る。勤勉な父・市郎右衛門の教えを受け、藍玉づくりの仕事の奥深さを知り、思わぬ商才を発揮していく。「物語のはじまりは、藍に染まった血洗島村(ちあらいじまむら)から天保11(1840)年。隣の清国でアヘン戦争が始まろうとしていたころ、武蔵国榛沢郡(はんざわぐん)血洗島村(現在の埼玉県深谷市)の農家に渋沢栄一は生まれた。家業は、染料のもとになる藍玉づくりと養蚕。職人気質の父と慈愛あふれる母のもと、近隣に住む従兄弟いとこたちとともに育つ。水戸学に心酔する年上の従兄・惇忠(あつただ)からは学問のいろはを学び、2歳上の喜作とは何をやるにも一緒で相棒のよう。そんな二人の憧れの的は、惇忠の妹である愛らしい千代だ。血洗島村のそばには中瀬河岸(なかぜかし)という船着き場があり、利根川を通じて江戸の文化や経済がいち早く伝わる情報の交差点でもあった。ジャパンブルーを生み出す藍の葉が揺れるこの村にも、ペリー来航から始まる維新の足音がすぐそこに迫っていた。運命の出会い。栄一と慶喜の物語がパラレルに展開。血洗島村から約150キロ離れた水戸藩では、栄一より3年早く生まれた七郎麻呂が、父・斉昭(なりあき)による厳しい教育を受けていた。彼こそ、のちの15代将軍となる徳川慶喜だ。まったく接点がなさそうに思えるこの二人だが、慶喜の存在なくして栄一は語れない。農民の栄一が倒幕を志したものの、まるで正反対の幕臣となり、さらに新時代を切り開くことができたのは慶喜との出会いがあったからこそだ。転身を繰り返し波乱万丈に生きた栄一だが、慶喜もまた、時代のうねりに翻弄された人生だった。「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」で知られる強烈な父を持ち、将軍になりたくなかった男が、最後の将軍として幕府を終わらせるまでにどんなドラマがあったのか……。さらに、その後の慶喜の人生においても、栄一との関係が途切れることはなかった。「慶喜の名誉回復」のため、栄一の忠義は生涯貫かれる。やがて重なる二人の物語が、血洗島と水戸からそれぞれ動きだす。」「近代日本経済の父 渋沢栄一」説明文。「祝渋沢栄一翁 新一万円記念近代日本経済の父 渋沢栄一渋沢栄一(雅号「青淵」)は、天保11年(1840 年)現在の深谷市 血洗島 の農家に生まれました。父親からは勤勉さ、人への思いやりを、母親からは 慈悲のこころを学びました。母「えい」は大変慈悲深い人で、栄一は母の愛 情をいっぱいに受けて育ちました。母は近所の人にも優しく、病弱な人の着 物や食事の世話までしました。のちに栄一が社会福祉事業に熱心に取り組ん だのはそんな母親の影響があったのでしょう。 また、いとこの尾高惇忠(雅号「藍香」) から「論語」をはじめとした学問を学ぶ とともに尊王攘夷思想の影響を受けまし た。23歳のころ、幕藩体制に疑問を抱 き挙兵を企てますが、中止して郷里をあ とにします。その後一橋家及び幕府に仕 え、慶応3年(1867 年)、第15代将軍 徳川慶喜の名代徳川昭武に随行して渡欧しました。約一年半滞在する中で、ヨー ロッパの進んだ社会制度・思想・文化などを目の当たりにし、大きな影響を受 けました。 明治元年(1868 年)11月に帰国した後、静岡に商法会所を設立したと ころ、大隈重信の説得により明治政府に租税正として迎えられ、様々な制度 の企画・立案に当たります。明治6年(1873 年)大久保利通らと財政運営 で意見が合わず辞職し、第一国立銀行を設立するなど実業界で活躍しました。 「論語」の精神を重んじ「道徳経済合一説」を唱え、各種産業の育成と多くの 近代企業の確立に努め、第一国立銀行をはじめ設立・育成に関わった企業は 500余に及びました。 また、600以上の社会福祉事業や教育に関わるとともに、昭和6年(1931 年)に亡くなるまで、国際親善にも貢献しました。実業家の出発点 栄一の家は農業、養蚕のほかに藍玉を製造していました。藍の葉を仕入れて、 藍玉という染料のもとにして売るのです。栄一もよく父親の供をして藍葉の仕入れや得意先まわりに出ていました。栄一が14歳の時、栄一と祖父とで買出しにでかけましたが、生意気ざかり の栄一は祖父を残し、一人で買い付けに 行きました。最初は栄一を相手にしなかった農家の 人たちも、「この葉は肥料が足りないね。これは乾燥が不十分だね。」と言う大人 顔負けの鑑識眼に驚き、栄一は上質の葉 を安く仕入れたそうです。倒幕から幕臣へ江戸時代には、御用金と称して、領主が富裕な領民に金を供出させることがたびたび行われていました。栄一が17歳の頃、富農であった渋沢家は、岡部 藩から500両の御用金を差し出すよう申しつけられました。父親の代わりとして代官所に出頭した栄一は、役人のごう慢な態度に正論」で対抗しました。この時のやりとりから「侍が威張るのは、結局は幕政が悪いからだ、階級制度が間違っているからだ。」という結論に達しました。こんな体制への反発が栄一を「倒幕」の意識に駆り立てていくのでした。栄一は、近郷きっての知識人で10歳上のいとこ尾高惇忠、惇忠の弟である長七郎、いとこの渋沢喜作らとともに、高崎城を乗っ取り、徳川幕府を倒すという計画を立て準備をはじめました。しかし長七郎は京都での見聞から、この計画に反対し、結局この計画は中止になりました。栄一は24歳の時、喜作とともに、世の情勢を探るため京都に向かいました。元治元年(1864年)かねてより懇意にしていた一橋家の重臣、平岡円四郎の勧めで一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)に仕官することになり、一橋家では歩兵の募集、財政の改革、新しい事業の運営などで頭角をあらわしていきました。ヨーロッパ派遣慶応3年(1867年)、栄一は、ナポレオンⅢ世の開くフランス・パリの世界大博覧会に招待された将軍の名代として参加する徳川慶喜の弟、徳川昭武(14歳)の庶務・会計係として随行しました。好奇心旺盛な栄一は、ヨーロッパに滞在中にチョンマゲを切り、洋装に変え、議会・取引所・銀行・会社・工場・病院・上下水道などを見学しました。進んだヨーロッパ文明に驚き、また、人間平等主義にも感銘を受けました。このヨーロッパ視察が、栄一の人生を大きく変えたのです。官界から実業界へ栄一は、帰国(明治元年)後、日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」を駿府(現在の静岡県)に設立しました。翌年には明治政府の高官・大隈重信の説得で大蔵省に出仕し、国家財政の確立に取り組みましたが、官界の硬直した体制に限界を感じた栄一は大蔵省を4年で辞め、実業界へ転身し、第一国立銀行をはじめ、約500社の設立に関与しました。栄一の生涯を通じての基本理念は「論語」の精神(忠恕のこころ=まごころと思いやり)にあり、単なる利益追求ではなく、「道徳経済合一」による日本経済の発展でした。ここに実業界の指導者としての栄一の偉大さがあるのです。慈悲のこころ 社会福祉活動栄一は社会福祉事業にも熱心でした。栄一は明治7年(1874年)のとき、東京府からの要請で、身寄りのない子どもや老人を養う施設である「東京市養育院」に関わり、以来92歳の天寿をまっとうするまで56年間も熱心に養育院の院長を務めました。また、孤児院の「埼玉育児院」、精神薄弱児施設「滝乃川学園」の設立・運営、「救護法」の制定などにも力を尽くしました。教育にも力を入れ、東京商法講習所(現・一橋大学)の経営にも尽力しました。また、日本女子大学校(現・日本女子大学)の創立委員にもなりました。栄一は医療施設の整備にも情熱を燃やし、東京慈恵医院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)、恩賜財団済生会、財団法人聖路加国際病院、日本結核予防協会などの設立と運営にも関わりました。国際交流にも尽力昭和に入り、日米関係が悪化してきたことに心を痛めていた栄一に、アメリカから人形による国際交流を行い、日米友好を図りたいという依頼がきました。栄一は外務省などと連携し「日本国際児童親善会」を組織し、アメリカ側から12,739体の「青い目の人形」を受け入れました。この人形は全国各地の小学校へ送られ、大歓迎を受けました。後に、返礼として58体の日本人形がアメリカへ贈られました。現在「青い目の人形」は埼玉県内の小学校などに12体(全国で270体余)が保存されています。また、栄一は第18代アメリカ大統領グラント、救世軍ウィリアム・ブース、中国の政治指導者・孫文など、世界の著名人とも親交がありました。論語の里栄一は、幼少の頃から「論語」を学び、生涯を通して論語に親しみました。初め父親の渋沢市郎右衛門に論語を学びましたが、7歳頃から尾高惇忠に習うようになりました。栄一が惇忠の家に論語を習いに通った道は、いつしか「論語の道」と呼ばれるようになりました。この「論語の道」周辺には、栄一ゆかりのある史跡等が数多く残されており、それらを総称して「論語の里」と呼んでいます。渋沢栄一年譜をネットから。「新一万円券」をネットから。「おしゃびき様~〈浦和宿〉~おしゃびき様は、こども百日咳によくきくといわれ、信者が納めた真白なよだれかけを、幾重にも胸のあたりにかけています古老の話では、おしゃびき様は、このあたりで行きだおれになった旅の老女をまつったものであるとのことです.おしゃびき様は、いつも子どもが大好きで、子どもがお賽銭を持ら出して使うのをみては喜んでいました。それをみた大人たちが「それはもったいないことだ」といって賽銭箱をつくり、賽賽を馭れなくすると、にわかに百日咳いはやり出して村人を困らせました。おしゃびき様は、子どものしたいようにさせておきたいのでしよう。社殿前に賽銭箱がないのはそのためです。とこらで、「しゃびき」はしわぶき(咳 ) の訛りだから、おしゃびき様とは、咳の神様ということになります。成田山にお詣りしない部落~〈浦和宿〉~成田山にお詣りしないという部落がありますが、たいてい平将門が祀られています。天慶年間、関東に兵をおこした平将門は、一時は関東一帯を支配下においたものの、藤原秀郷に討たれてしまいます。伝説上では、将門には七人の影武者いたとわれ、それが神出鬼没、変幻自在で、どれが本当の将門だかわかりません。困って秀郷は成田山に「本当の将門が姿を現わしますように」と祈ると、成田山は「お札を投げつけなさい」とか、「ロから白いものをたなびかせているのが将門だ」というお告げがでました。そのため妖術がとけて、将門はついに秀郷に首をはねられることになるのです。伝えるところによると、成田山にお詣りしないという禁忌を、最後まで固く守っていた家は、平将門の家臣の子孫で、将門が没落した後も、この土地に隠れ住みついたといわれています。ホタルの御殿~〈大宮宿〉~見沼の畔に、笛の上手な”小笛”という名の少女が住んでいました。初夏のある晩のこと、小笛が笛を吹きながら見沼の畔を歩いていると、はるか向こうから笛の音が聞こえてきました。こちらがやめると、その笛もやんでしまいます。不思議に思い、その笛の音のする方に歩いていくと、古井戸がありました。どうやら笛の音は、この古井戸の中から聞こえてくるようです。恐る恐る覗き込むと、ばっと井戸が明るくなり、いく百千ものホタルが一斉に飛び出してきました。その内に、美しく大きなホタルが現われ、小笛を招くようにう飛んでいきます。その後を追いかけ竹やぶに入ると、そこには綺麗な御殿が建っていました。まもなく少女が現われ、「お姫様がお待ちです」といって、案内してくれました。お姫様は見沼のホタルの謂れについて話してくれました。「私は昔ここにあった城の姫です。戦に負けて滅ばされ、一族ともどもホタルになりました。お願いです。私のために供養塔を建ててださい」小笛は、お姫様の悲しい、顔が忘れられず、願いどおり供養塔を建ててやりました.「岡部藩について岡部藩は、天正18年( 1590 )徳川家康の関東入国に際して、家臣の阿部信勝が武蔵国榛沢郡岡部などを拝領した計5250石を基に発展しました。信勝の遺領を受け継いだ嫡男・信盛は、上杉景勝討伐や大阪の役で功を挙げ、大番役などの役職を勤めました。江戸幕府初期のこの間、覚泉13年(1636)に三河国内4 , 000石加増、次いで慶安2年(1649)摂津国内に10,000石を加増されて信盛は大名となりました。その後、所領高20,250石となった岡部藩は、現在の深谷市岡部を本拠地にしながら、摂津国桜井谷(現在の大阪府豊中市)や三河国半原(現在の受知県新城市)に当地よりも大きな所領を有し、これを分割統治して幕末まで続きました。安部家は、江戸時代の全期間を通じて、移封・転封なく、岡部藩を治め続けたのです。慶応4年(1868)に最後の藩主となった信発は、半原へ本拠移転を願い出て半原藩となり、岡部藩の歴史は幕をおろすこととなったのです。」中宿遺跡中宿遺跡は、古代榛沢郡役所の正倉院跡です。櫛挽台地先端部に立地し、道の駅おかべに隣接します。これまでの調査で、稲穀類を収納したとみられる大規模な倉庫(正倉)群が、列をなして整然と並んでいるのが確認されました。存続時期は、7世紀末~1 0世紀と考えられます。建物のほとんどは総柱式の高床倉庫で、そのうち2棟が復元されています。北側には、自然流路を再掘削した河川跡が確認されており、運河的な機能を有していたと思われます。中宿遺跡は、『中宿古代倉庫群跡』として埼玉県の史跡に指定され、保存・整備されています。中宿遺跡倉庫群周辺の復元模型写真は、8世紀中頃の中宿遺跡倉庫群周辺の復元模型です。台地の緑辺に規格の異なる倉庫群が建ち並び、倉庫群直下には稲の運搬に利用されたと推定される河川跡が確認されています。「一般国道17号本庄道路神流川橋は「令和4年内」の開通を目指します」と。道の駅「おかべ」の「情報センター」での「予習」を終え、バスに乗り込み北に進み、「小山川」のい架かる県道14号線の「共栄橋」を渡る。そして更に進み「利根川」を渡る。「上武大橋」を渡る。埼玉県深谷市中瀬と群馬県伊勢崎市境平塚とを結ぶ橋。1934年10月30日開通した、橋長894.7 m、幅員5.5 mの鋼橋。「上武大橋」から利根川の上流を見る。そして群馬県伊勢崎市に入る。最初の目的地の「世良田東照宮」に向かって進む。そして太田市の「歴史公園」駐車場に到着。徳川氏発祥の地として知られている世良田東照宮の参拝に向かう。その周辺にも歴史的な建造物が多々あるとのこと。目的地の「世良田東照宮」に加え、新田荘歴史貞料館、周辺に鎮座する長楽寺、などを総じて「太田市歴史公園」と呼んでいるようであった。「ようこそおじままちへ」とあったが、ここは現在「世良田町」であり、この案内板は以前のものがそのままであるようであった。ネットで調べてみると、2005年3月28日に(旧)太田市、新田町、藪塚本町との合併により太田市となり「尾島町」は消滅したようであった。「太田市歴史公園案内図徳川氏発祥の地おじま平安時代の末期に後三年の役の内乱を定したハ幡太郎義家は、その後東国に強力な武士国を結成し、源氏は東国にその基盤を築きました。義家の子義国は関東に下りその長子義重が新田の荘を開さ、新田氏の祖となりました。さらに義重の子義季は徳川の地を領して徳川義季と名のり、その後承久三年(一ニニ一)後鳥羽上皇の勅願と伝えられる長楽寺を世良田に創建し、臨済宗開祖栄西の高弟栄朝を招いて開山しました。時を経て鎌倉幕府滅亡後、義重の後裔(こうえい)義貞の南朝方と義康の後裔足利尊氏の北朝方とが争った南北朝の抗争に義季の後裔は義貞と運命を共にして敗北を喫しました。その後足利政権の圧迫を受けた義季の後裔有親・親氏父子は当地を離れて流浪の旅に出、親氏は仏門に入って徳阿弥と名のった後、松平郷(豊田市松平町に移って松平太郎左衛門信重の入婿になったと伝えられています。以後代々相続し、永禄九年(一五六六)家康は松平姓から徳川姓に復姓し関東に入国した後、世良田藩徳川の地は徳川氏発祥の地として、将重家の厚い比護を受けるようになりました。」。「徳川氏略系図」徳川家康公の先祖は、新田氏の始祖である義重から新田荘の内、当地「世良田」 他5カ郷を譲り受けた子の義季である。義季は5カ郷内にある利根川沿いの押切を徳川と改称し、 徳川義季と称した。承久3年(1221)世良田郷を開発した義季は臨済宗長楽寺を開基し、世良田の義季とも称された。寛元4年(1246)頃、亡くなり同寺境内に葬られた。その後、頼氏・教氏・家時・満義と後継。 次の政義・親季・有親は、南北朝時代に南朝方として活躍したが、9代目の親氏に至り北朝の猛勢により徳川郷を追われ同志 や一族の居所を頼りに出国。諸国を流浪の後、松平郷に身をよせ郷主在原信重に入婿し、松平親氏と称した。 それから7代を経て家康公は誕生した。家康公は三河一国を統一した25歳の時、松平姓から 徳川・世良田を開発した徳川義季にあやかり、徳川に復姓した。また松平家二代泰親は世良田三河守、同三代信光は世良田二郎三郎、同七代清康は世良田次郎三郎、家康公第四子忠吉は世良田下野守、尾張家三代綱誠は元服時に世良田、徳川七代将軍家継は幼名時に世良田鍋松君と先祖の姓である世良田を称していた。「大光庵太田市茶会所」が右手に。茶会所「大光庵(たいこうあん)」は、太田市歴史公園内に建設された木造平屋建て数寄屋造りで、四畳半の小間と、八畳の広間に水屋を備えた本格的な茶室です。また、日本庭園内には、外腰掛、中門の外には野点広場なども設けられており、四季を通してお茶を楽しむことができると。 茶会所「大光庵」の庵名は、長楽寺開山栄朝の塔頭大光庵より名前をとったもの と。「尾島かるた ろ炉の湯でお点前大光庵茶会所大光庵は、平成五年十月尾島町歴史公園内に建設された本格的な茶室です。町内の茶道愛好者を中心に、多くの方々に広く利用されています。茶道との深いかかわりのあった長楽寺の旧寺域でもあり開山栄朝にちなんで大光庵と名付けられました。」「歴史公園東照宮・長楽寺新田荘歴史資料館」碑。「歴史公園案内図徳川氏発祥の地本町は、十二世紀中頃源義國の長子新田義貞がこの地に荘園を開き、新田の荘と呼ばれました。更に、義重の子、義季は徳川の地を領して徳川義季と名のりました。その後、承久三年(一二二一)義季は、世良田に長楽寺を創建しました。徳川義季を先祖として、家康は松平を徳川に復姓し、更に、三代将軍家光は、日光東照宮の大改築を行い、奥社にあった拝殿と宝塔を天海大僧正に命じて、徳川氏先祖の地世良田に移築しました。こうして世良田・徳川の地として将軍家の厚い庇護のもとに繁栄を続けました。」「歴史公園案内図」をネットから。「新田義貞公之像」。ズームして。南朝方として後醍醐天皇に従った忠臣として楠正成と並んで特に有名な人物。鎌倉を攻めあぐねていた新田義貞が稲村ケ崎で黄金の太刀を海中に投げいれて竜神に祈願したら、潮がひいて海上の北条軍がはるか遠くに流されたため、稲村ヶ崎を海側から越え突破でき、鎌倉に突入することが出来たという・・その祈願のシーンが銅像になっている と。「新田義貞公傅正安三年(西暦一三〇一年)尾島町世良田の新田館(現在の総持寺内)に生れ成人して鎌倉の北條氏に仕えていたが北條氏の横暴を嫌って郷里のこの地に戻る その後大塔宮護良親王の令旨を受け生品神社に於いて討伐の兵を挙げ親族足利尊氏の兵を加えてもその数は二百有余騎で兵力の不足を嘆く その時新田家相傳の守本尊安養寺村新田觸不動尊の神力に依り甲信越の親族からの援軍を得て二千有余の軍勢で鎌倉を攻め落す 時に元弘三年義貞三十三才後足利尊氏は北朝に仕え新田義貞は南朝に仕う足利氏の非行を嘆き尊氏と戦い福井の藤島に於いて斃る 時に延元三年(西暦一三三八年)三十八才 尾島四八五 建設省 大澤明治 筆者 島田照資」「新田義貞公之像」の後ろにあったのが「新田荘歴史資料館」。「新田荘歴史資料館」では、新田荘遺跡を構成する、隣接の「長楽寺」「東照宮」の貴重な文化財を始めとして、太田市の豊かな歴史を物語る古墳や埴輪など、多くの資料を保管・展示してあるのだと。展示品を見学したかったが、残念ながら素通り。「新田荘歴史資料館」碑。「新田荘歴史資料館」の前の芝生の中にこんもりと盛り上がった場所があった。「長楽寺遣跡1号墳長楽寺遣跡からは、東毛歴史資料館建設に伴う発掘調査により、古墳時代の住居跡30軒(4世紀)、古墳5基(6世紀初頭)、中世長楽寺々域を画したと考えられる大溝等が見つかりました。1号墳は、直径約18メートルの円墳で、盛土は失なわれ高さは不明ですが、1周する溝(周溝)と人を埋葬した石槨が見つかりここが石槨の位置です。石槨は、ローム層を掘りこんで、凝灰岩を側壁・天井石に使い側壁のまわりを河原石でおおい、さらに全体を粘土でおおっていました。出土遺物は、石槨より鉄鏃(矢じり)、周溝より壺、円筒埴輪等です。」見学通路の角にあったのが、屋根で覆われた井戸。「国指定史跡 新田荘遺跡 東照宮境内真言院井戸所在地真言院は、当會一紲に長楽寺別院として境内に建てられた。ここでは専ら密教をつかさどり灌頂(かんじょう)を行った。灌頂とは、真言密教の儀式の一つで、頭の頂きに水を灌れ(そそがれ)、それによって僧侶として一定の資格を得ることである。この時使用する閼伽(あか・水)は、きわめて清浄なものとして重視された。真言院井戸は、この灌頂に用いる浄水を汲むために設けられたものである。僧侶は、この水で灌頂を受けるために諸国からここに参集した。井戸は、底部より玉石を積み上げ、その上部には、花崗岩の大石を方形にくりぬき、縁を唐戸面に仕上げた井戸枠がすえられている。これは、徳川家康の命により長楽寺住職となり、当寺を再興した天海憎正(慈眼大師)によって、寛永十九年(一六四二)に作り替えられたものである。井戸枠の南面に良田山長楽寺真言院閼伽井山門三院執行探題大憎正天海長楽寺再興之砌(みぎり)彫刻北面に寛永十九壬午暦孟春十七日孟春ー旧暦一月の文字が刻まれている。その後、灌頂の儀式は長楽寺で行われるようになり、真言院は廃されたが、由緒あるこの井戸は丁重に保存され、今日にいたっている。」アジサイ【アナベル】が美しかった。「南御門」を潜る。「南御門この御門は東照宮が御鎮座したおり御神域を守護するため、現地より東南の位置に築かれておりました。また御黒門を中心とした北御門・南御門の門前には、下馬札が立てられておりました。」桜の老木。「御神域桜群馬県一太いソメイヨシノ樹齢年:不詳」と。更に「世良田東照宮」に向かって進む。「徳川氏発祥の地」案内板。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.02
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2020年4月から、我が地区の自治会連合会の役員をやっています。この2.5年間はコロナ禍で自治連での団体行動は中止していましたが、この日6月22日(水)には自治連役員、自治会長等による研修旅行に観光バスを利用して埼玉県深谷市に行って来ました。埼玉県深谷市への旅行は、2年前から計画していましたが、やっとこの日に実現したのです。定刻の7:30に集合場所の小田急線駅前から出発。参加人数は約30名。この日は、東名高速「綾瀬スマートチェンジ」に向かって進む。左手に「綾瀬市役所」庁舎。前方のモザイク模様の壁の建物が「MFLP 東名綾瀬」。東名高速道路「綾瀬スマートIC」に隣接。近郊・首都圏への配送はもとより西日本への配送にも対応可能なマルチテナント型物流施設。綾瀬市の玄関口に相応しい外観デザイン。屋上にはドクターヘリポートを整備し、緊急救命体制に寄与し地域に貢献していると。「綾瀬スマートIC」案内板が現れた。「スマートIC」とは、ETC専用インターチェンジのこと。緊急車両は除き、有効なETCカードを所持し、ETC車載器を搭載した車両しか出入できないのだ。「綾瀬スマートIC」南口の「東名(名古屋)」入口から東名高速へ。茅ヶ崎JCTにて、下に見える「東名高速」から圏央道に向かって進む。圏央道に入ると左手に見えたのが相模川。その先には厚木ガス 本社のガスタンクが。前方左手前に「相模大橋(さがみおおはし)」が。神奈川県海老名市と厚木市の間の相模川に架かる橋梁。旧国道246号の経路であり、現在は神奈川県道40号、43号、51号が通る。かながわの橋100選に選ばれている。その先には「あゆみ橋」が。「この橋の位置には、もともと「相模橋」と称する橋があった。現在の相模大橋の開通とともに、相模橋は廃橋となったが、地域住民の要望により、流されてもすぐに架け直せるような簡易な構造の沈下橋「相模小橋」を架けることになり、1966年(昭和41年)5月24日に開通した。それ以後、潜水橋に由来する「もぐり橋」という通称で、地域住民に親しまれた。大雨で橋の一部が流れてしまった場合、海老名市と厚木市が毎年交代で費用を負担することになっていた。しかし、台風が多い年は予算超過となる上、毎年交代での費用負担は不公平に見えることもあった。また、夜間は危険なため、午後7時から午前5時までは人も含めて全ての通行ができないことになっていたが、これは地域住民には不便であった。また、一方通行であり海老名から厚木方面のみに限り通行可能である為に、厚木市民側からは不公平だと言う意見も多かった。このような理由から、恒久的な橋に架け替えることになり、1992年10月から着工、1996年2月1日に開通した。なお、「あゆみ橋」は接続路も含めて、大型車の通行が禁止されており、これら車両は相模大橋に迂回する必要がある。」とウィキペディアより。ネットから「もぐり橋」の写真を。その右側は工事中の「あゆみ橋」の姿と。 【https://ioridreams2019.blog.fc2.com/blog-entry-248.html】より欄干は触ると下流側に折れ曲がる構造になっていたと。 【https://ioridreams2019.blog.fc2.com/blog-entry-248.html】より「中央自動車道」への「八王子JCT」手前を通過。左手に見えたのが「秋川」沿いにある「東京サマーランド」。東京都あきる野市にある遊園地。日本最大級の流れるプールや天候を気にせず遊べるドーム内プールなど、多彩なウォーターアトラクションが中心。「多摩川」を渡る。そして「圏央」の「狭山PA」で1回目のトイレ休憩。様々な種類の「狭山茶」が売られていた。「釜めし」も。バスのフロントガラスには我が自治会の名前が。そして「鶴ヶ島JCT」から「関越自動車道」へ。「関越自動車道」を降りる「花園IC」に向かって進む。「荒川」を渡る。「花園IC 料金所」を通過。国道140号(彩甲斐街道)を深谷市に向かって進む。そして左折して県道69号線に。「道の駅 かわもと」案内板。「深谷駅北口」方面を見る。右手奥に「深谷市役所」。「深谷警察署」前を通過。「渋沢栄一生地」案内板。田園地帯が拡がっていた。そして「道の駅 おかべ」で2度目のトイレ休憩。平成8年に建設され、地元物産品を扱う「ふるさと物産センター」や地元新鮮野菜を取り揃えた「農産物直売所」などを併設し、深谷市の西の玄関口として賑わっていた。店内を散策。農産物直売センターでは深谷ねぎをはじめ、野菜、切り花など地元品を販売していた。深谷ねぎを使用した「元祖ねぎみそ煎餅」。表面に刻みねぎがたくさん付いている煎餅で、贈答用の箱詰めセットもあった。私も袋詰めを1袋購入。そして六角形の「情報センター」を急いで訪ねたのであった。「現在地」周辺の地図をズームして。 ・・・つづく・・・
2022.08.01
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