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次に訪ねたのが「首大仏」の」ある「福泉寺」。境内への石段の横に「福泉寺」碑があった。静岡県熱海市泉191−1。福泉寺は、天文元年(1532)保善院四世帰雲元守により再興され、曹洞宗となった。 高台にある境内に、最近では珍しい茅葺屋根の本堂や庫裏、創建から500年以上とのこと。福泉寺は保善院の末寺で、曹洞宗、本尊は釈迦、開基は養心信公。 開山した帰雲禅師は大永元年(1521)伊豆田中にて第を結び、大永七年から報恩に居たが、晩年に保善院に帰ると庵を造り「竹葉軒」と名付けて住まい、天文七年(1538)に他界した。 明和元年(1764)九代目の時に竹葉軒が焼失し、明和八年(1771)2月に再建された。この竹葉軒が現在の福泉寺になった。寺名: 青谷山 福泉寺宗派: 曹洞宗建立: 天文元年(1532)保善院四世帰雲元守により再興開山: 帰雲禅師 , 開基: 養心信公本尊: 釈迦如来茅葺きの本堂ここ福泉寺は千歳川にかかる泉大橋の約80m下流、熱海市側にある。熱海市内では唯一の茅葺きの本堂を構えるこの寺は、明治8年(1875年)に金160両にて再建されたとあって、風格のある古寺の雰囲気を醸し出していた。彩色が施された迫力ある見事な龍の彫刻。扁額は山号の「青谷山」。正面に「首大仏」。肩から上だけの珍しい陶製の釈迦像は、名古屋城主徳川光友公が亡き母を弔うために造ったと言われるもの。その高さは約2.5m。胸から下のお姿の行方は現在も謎に包まれていると。もとは名古屋城内に安置されていたが、戦後、福泉寺に奉納されたのだと。裏から。螺髪も立派なのであった。「首大仏」を守る「仁王像(阿形像)」。「首大仏」を守る「仁王像(吽形像)」。「福泉寺釈迦如来像この釈迦如来像が建立されたのは、尾張名古屋藩主・徳川家三代光友公(一六ニ五~一七〇〇)の時代です。光友公の父・義直公がある日、城を出られ狩りに行かれたその帰り道、馬上より遙か遠くを見ると【沿道添いに、耳の遠い老婆が殿様の列に気づかず、家の前で行水していたところ、それに気付いた娘が咄嗟に老婆をタライごと家の中に運び入れた】その姿を見ていた義直公は娘の孝心とその行為に感激され、その娘に御殿奉公を命じ側室に迎えました。いつの日か娘は懐妊し若君を授かりました。若君出産にあたり【四天下郎、・身分の低い者がお殿様のお子を不壌な股からお産み申すのは万世の恥であり、腹からお産み申す】と言い切り懷断切腹して若君を出産され、母胎のその娘は命を落としました光友公は若くして孝順厚く、自分自身の出生経緯を知り、母上の菩提を弔う供養をされ、供養として迦如来像の建立を発願されました。その像の製造を中国人陶芸家・陳元贇に命じ、尾張瀬戸・赤津村大仙山の土を使用したと伝えられています。現在この像は頭部だけですが、胸部が何処かに埋まっているとの諸説もあります。時代の変遷で此の像は幾多の地を廻り、戦時中この福泉寺に安置され現在に至っています。」寺務所の扁額は「龍鳳閣」。境内の斜面には多くの木々、石、石仏。石碑が見事な調和で。奥の段上には享保6年(1721)奉納西国順禮供養碑、奉納西国三十三所観世音菩薩碑等、石塔群等が祀られていた。「南無阿弥陀佛」碑。岩でできた祠の中に白亜の石仏が。近づいて。三面八臂像。ここにも苔生した石仏が。御神木のような大きな木のうろの中に鎮座しておられるのはお地蔵様近づいて。石灯籠。石灯籠再び「首大仏」を離れて見る。観音像であろうか。「鬼子母神」碑。「鬼子母神堂」「鬼子母神堂」内陣。こちらは六地蔵。左手の石仏。右手の石仏。中央に「三界萬霊等」と刻まれた石碑が。墓地を散策する。「水子地蔵尊」「南無釋迦牟尼佛」と刻まれた永代供養墓であろうか。「本堂」を見下ろす。墓地の先にはみかん?畑が広がっていた。立派な墓石が並ぶ。再び「本堂」を。こちらの「庫裡」も藁葺き屋根であった。駐車場から湯河原温泉を流れる千歳川を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.31
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次の目的地「丹那トンネル殉職者慰霊碑」に向かって「頼朝ライン」をひたすら熱海市の西部に向かって進む。そして熱海「梅園前」交差点を直進すると右側に「丹那トンネル殉職碑」案内板があった。その横には「丹那神社 丹那トンネル殉職碑 救命石・水力発電所跡」案内板も。駐車場に車を駐め、散策開始。駐車場の前には「丹那隧道工事風景写真」の掲示板があった。「坑内6,045尺(約1.8km)地点での掘削工事の状況」「坑内7,893尺(約2.4km)地点での掘削工事の状況」。「坑内6,600尺(約2.0km)地点での巻立て工事の状況」。「水抜き坑(排水用トンネル)600尺(183m)附近」。「旧熱海線鉄道施設群 丹那トンネル(熱海ロ) 延長7,804m 昭和9年12月竣工当初の東海道線を輸送強化するため、御殿場廻りから熱海廻りの旧熱海線が計画され、その最難関工事である丹那トンネルの工事が大正7年から始まった。破砕帯の出水事故などで多くの犠牲を払い、困難を克服して、ようやく昭和9年に完成した。その過程では丹那方式と呼ばれる水抜き坑、圧搾空気掘削法など日本の工事で初めて実用化された工法が数多<ある。このため、世界に誇る日本のトンネル技術の発展を物語る貴重な土木遺産であることから、令和元年度の土木学会選奨土木遺産に認定された。」「土木學会選奨土木遺産 JSCE 2019 旧熱海線鉄道施設(丹那トンネル熱海口)」と書かれたプレート。JSCEとは公益社団法人土木学会(どぼくがっかい、Japan Society of Civil Engineers)「丹那トンネル(熱海口)」に向かう東海道本線。JR東日本とJR東海の境界線はこのトンネルの入口のところになるのだ。「丹那隧道殉職者供養碑」元来は野中大乗院大明神境内に設置されたものだったが、昭和44年(1969年)6月に現在位置に移転。東海道本線は当初、箱根を避けて国府津から御殿場経由で沼津に向かったが、この区間は急な勾配が連続する難区間で、東海道本線の隘路となっていた。 これを解消するために熱海からトンネルで函南に向かう線が計画され、1918年に起工された。 しかしながら、工事では1920年に熱海口で、1923年には三島口でトンネル崩壊事故が発生した。 また1930年の北伊豆地震でも崩壊事故が発生した。これらの崩壊事故等により67名の方が亡くなった。 丹那トンネルの工事ではトンネル崩壊による人命損失のほかに、トンネル内への湧水により丹那盆地等で渇水災害が発生した。この渇水対策として該当地区に見舞金が交付され、水道が敷設された。「丹那トンネルの殉職碑」「丹那トンネルの殉職碑この碑は丹那トンネル開通にさいして鉄道省によって建てられました。この工事の際、67名の尊い犠牲者がでました。 碑には尊い犠牲者の姓名が刻まれています。 この工事は足かけ16年の歳月を要した世界的な難工事でした。 完成まで大事故は6回を数え、死者67名、重傷者610名という多大な犠牲をはらって昭和9年に開通いたしました。」この案内板の特徴的なものは、韓国語でも書かれていること。丹那トンネルは着工が1918年、開通が1934年で、第1次世界大戦終結の年の着工ながら、とにかく軍事活動を活発に行っていた時代。中国大陸、朝鮮半島出身の工夫も多く参加していたとみられ、殉職者の名前を見ると、李さんや金さんなどの名前が見られるのであった。丹那トンネルの工事は当初7年で完成の予定が大幅に遅れ、結局16年の歳月がかかるほどの難工事であった。常に大量の湧水に悩まされ、トンネルと引き換えに7つのわさび沢を失うことになりましたし、大正9年(1920年)と大正12年(1923年)にはトンネル崩落事故があり、完成までに熱海口31名、函南口36名の犠牲者を出した。右側の球形モニュメント。中央に「殉職碑」と。正面彫刻家 斎藤素巌氏 作レリーフ右手は丹那隧道工事開始直後の手掘り時代。レリーフ左手は丹那隧道工事晩期の削岩機使用時代。その67名の犠牲者の殉職碑として熱海側に建てられたのがこの慰霊碑で、函南口にはそのうちの「36名の慰霊碑」👈リンク も別に建てられていた。これは函南口を請け負ったのが鹿島組(現=鹿島建設)という事情もあるようだ。李さんや金さんなどの名前が見られるのであった。左側の球形モニュメント。奥に進むと「新丹那トンネル」から出て来た新幹線の姿が。正面には「東日本旅客鉄道(株)来宮変電所」の車両入口があった。引き返して「丹那神社」に向かって進む。右手に小さな社が。その先にあったのが「救命石」を奉納した社。「救命石」。「救命石の由来大正10年「1921」4月1日午後4時20分頃、熱海ロの坑口から約300m奥に入った所で一大音響と共に、約2チャイン( 4 0 m )位崩壊しました。丁度この大崩壊の数分前です、ずり(残土)出しの者達が頂設盤のずりを漏斗にあけ、下でトロに受けて居りますと、この大石が漏斗にひっかかった、さあ大変、何とかして、これを取り出さなければいかんというので、ほかのトロ(トロッコ)と共に坑外に出る筈の作業員一同が手伝って、大石の取り除きに従事しました。そのうちに大崩壊がやってきて一同坑奥に閉じ込められたのです。もしこの大石が漏斗に引っかからず、仕事が順調に進んでいたものとすれば、丁度この石にかかっていた多数の作業員はトロと共に崩壊の箇所を通っている時分で、当然埋没される事になった筈です。この石の為に、一同の命が助かったというわけで、救命石と命名して坑門の上の山神社の所に保存してあるのです。」その先に「丹那神社」碑。「丹那神社」はJR東海道線の熱海―函南間にある丹那トンネルの熱海側入口の真上にあります。丹那トンネルは、大正年間から昭和にかけて16年に及ぶ難工事の末に1934(昭和9)年に開通しましたが、事故の発生は6件を数えたとのことです。丹那神社は、67人に上るその犠牲者を祀っています。神社の向かいには慰霊碑があります。このトンネルが開通するまでは、東海道線は神奈川県の国府津から静岡県の沼津まで、現在の御殿場線を通っていました。丹那トンネルによって、東京から名古屋や大阪、神戸までの所要時間も短縮されたのであった。社殿に近づいて。更に。そして再び「東日本旅客鉄道(株)来宮変電所」方向に向い、空き地の隅から丹那トンネルの熱海口をカメラに納めた。丹那7,841mと。熱海側の坑門上部には、写真ではちょっと見づらいが開通時の鉄道大臣・内田信也が書いた「丹那隧道」の扁額(へんがく)があり、左に2578、右に2594の数字があった。ネットで調べてみると、この数字は、着工と開通の年を表す皇紀であると。着工:皇紀2578年 (大正7年) 1918年開通:皇紀2594年 (平成9年) 1934年 着工から16年後に開通皇紀 とは初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とする日本の紀年法であり因みに今年・2022年は「皇紀2682年」。西暦に660年プラスしたものが日本の皇紀年。再び正面に「東日本旅客鉄道(株)来宮変電所」の車両用入口が。左側には新幹線用の「新丹那トンネル(熱海口)」が見えた。「新丹那トンネルは」、「丹那トンネル」の約50m北側に並行して延びる長さが7,959mの東海道新幹線(三島〜熱海間)のトンネルである。「丹那トンネル」より118m長いのだともちろん出入口の位置は異なるものの、並行して延びているはずであるが、118mも異なることに驚いたのである。理由は、断層等に起因する、内部の上下勾配、カーブの有無等によるものであろう。詳細理由に興味があるのだが・・・・。ウィキペディアによると「新丹那トンネルのトンネル工事が開始されたのは、1941年(昭和16年)8月にさかのぼる。新丹那トンネルは、もともとは戦前の高速鉄道計画である弾丸列車計画に基づくもので、他に、日本坂トンネル、東山トンネルが同時期に着工されている。しかし、1943年(昭和18年)には第二次世界大戦の戦況悪化にともない中止されてしまった。中止の時点において、熱海口(東口)は647m、函南口(西口)は1,433mの先進導坑がすでに掘削され、両坑口ともに200 - 300m程度の覆工を完成させていた。なお、戦時中の約1年半の期間でスムーズに工事が進行したのは、掘削に数々の新手法を投入したためでもあった。新オーストリア式逆巻方式と呼ばれる導坑の掘り方や、4 - 5台のドリフター型削岩機を装備した自走・自碇する削岩車が活用され、人力に依存して掘削を行なった丹那トンネルの工事よりも安全面において有利だった。戦後も長らく放置された状態であったが、東海道新幹線のために弾丸列車計画のルートが採用されたため、新丹那トンネルは今度は新幹線用のトンネルとして利用されることになった。新丹那トンネルは、1959年(昭和34年)に工事が再開され1964年(昭和39年)に完成した。丹那トンネルの難工事とは異なり、新丹那トンネルの工事は順調に進んだ。地質構造がよく分かっていたことと、既設の丹那トンネルを水抜き坑代わりに利用できたことを差し引いても、工事再開から4年4か月という工期の短さはトンネル掘削技術の進歩を物語っている。新丹那トンネルの工事は、熱海口は間組、函南口は鹿島建設(鹿島組)が請負った。なお、工事の殉職者は熱海口10名、函南口11名だった。ただし、丹那トンネルの工事とは異なり大きな崩壊事故は1件も発生していない。」と。再びJR東日本の「島田行き」の下り電車の姿を。右側は引込線で出番を待つ電車。そして駐車場に戻って行くと、この場所には、かつて「熱海水力発電所」があり、旅館街に給電していたそうで、その記念碑があった。「明治28年 当寺」の水力発電所のシステム図。・発電所は、熱海の旅館街(富士屋、相模屋、熱海御用邸等)への距離が1.1kmと近く、 地点に恵まれていた・発電用水は、初川の取水部(現在の梅園橋辺り)より160問(291m )を木樋で導き、落差73尺 (22m )を鋼管(320m )で水力発電所の水車に落水・水車 レッフェル形横置12インチ(30cm)、 30馬力、三吉電機工場製」「熱海水力発電所由来記」明治28年間10月20日送電日本で8番目の発電所名称 熱海電燈株式会社持主 国府津村 杉山仰次郎場所 熱海町字谷戸685番地出力 30馬力(22kW)電圧 1千Vを100Vに変圧電灯数 300灯(価し16燭光)熱海の旅館、民家に送電した平成6年4月吉日熱海電気協議会 会長 内藤弘」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.30
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「最誓寺」を後にし次に訪ねたのが「物見塚公園」内にあった「伊東祐親像」。伊東市役所に隣接し、伊東市街地から初島まで望めることのできる小高い丘の上の公園。櫓を組んで敵情の見張りをしたと伝える「物見の松」や「伊東祐親像」、「尾上柴舟の歌碑」などがあった。静岡県伊東市大原2丁目80−1。馬上の「伊東祐親像」。「伊東祐親」は、藤原南家の流れを汲む武将で、伊豆国田方郡伊東荘を本拠としていた。1160年(永暦元年)、前年末の平治の乱に敗れた源頼朝が伊豆国流罪となるとその監視役を務める(参考:蛭ヶ小島)👈リンク。1180年(治承4年)、頼朝が挙兵すると、大庭景親らとともに平家方に付き、石橋山で頼朝を敗走させるが、富士川の戦いで捕らえられ、三浦義澄に預けられた。義澄の嘆願によって助命されたが、1182年(養和2年)2月14日、相模国の義澄邸で自ら命を絶ったのだという(参考:鐙摺山(葉山町))👈リンク。※三浦義澄は伊東祐親の娘を妻としていた。※北条時政も祐親の娘を妻とし、政子・宗時・義時の母は祐親の娘とも・・・ 「北条政子と北条義時の母は伊東祐親の娘?」👈リンク。 ~政子と義時は曽我兄弟といとこ~「物見塚公園 伝伊東家館跡と物見の松」碑「物見塚公園 伝伊東家館跡と物見の松伊東を発祥の地として全国に広がった伊東氏は、平安時代末期に、ここに住みついた藤原南家工藤氏に始まるといわれます。曽我兄弟の祖父伊東祐親の二代前、伊東家次が初代と考えられています。伊東家は、以後鎌倉時代をへて戦国時代末期まで、長い間この地とかかわりがあったので、伊東家館跡の伝承地は幾つかあります。この高台の一角にある物見塚に、物見の松と伝承される老松があり、この場所は伊東家館跡と伝承されてきました。現在は物見塚公園となり、馬上姿の伊東祐親像が置かれています。永くその姿を誇って来た物見の松は、昭和57年に枯死し、現在はその塚の上に小さな三代目の松が植えられています。この高台のふもとにあたる仏光寺も、鎌倉時代の伊東の地頭であった伊東八郎左衛門尉の屋敷跡と伝承されています。」東側にあったのが「伊東市役所」。外観の奇抜さや自由度という点で飛び抜けている感があった。左側が低層棟、中央が市民ロビー、右側が高層棟となっている近代建築そのもの。Google Mapで上空から見ると、全体の形としては鋭角のハの字型に置かれた二つの弓型の建物とその二つを繋ぐ中央のアトリウム的な部分という構成。西側の広場から。中央に彫刻のモニュメントが。中央が市民ロビー入口部は周囲の景色がガラス?に映り込んで。これも設計内か。落成したのはなんと1995年。建物の前に立った時にはとても27年前の物とは思えなかったのであった。これもバブル・・・???。西側広場重岡建治の彫刻「大池より生ずる」。近づいて。西側広場津田裕子(女子美術大学名誉教授) 模刻 「風の通る道」と。模刻とあるが、Originalはどなたの作品?西側広場彫刻 「ドリーマー」 中岡慎太郎。「松尾芭蕉 句碑けふばかり 人もとしよれ 初しぐれ」揮毫した五世雪中庵對山(1787~1843)は江戸時代後期の江戸の俳人。以前は伊東市内の別の場所にあったが、旅館を取り壊す際に伊東市役所内の物見塚公園に移転。さらに以前をさかのぼると、中伊豆(伊豆市)より移入したものという。「伊東祐親像」を裏側から。「伊東祐親公」。「壽永元年(1182年)武将伊東祐親が自ら壮絶な死の道をあゆんでより、すでに800年の歳月がきざまれた。源平両氏交替期の大きなうねりのなかで、その行く手を冷静に見きわめながらも譜代の臣として、斜陽の平氏への忠節に、ひとすじ、武将の信と意地をつらぬきとおした生涯であった。後の世、この地に生をうけた一歌人が、次のようにうたった。まぼろしの 雄叫びきこゆ 滅ぶると 知りつつ武将の ちから竭しき(つくしき)ゆたかな歴史の息づくわたしたちの町・伊東には、その昔、領主として地域の繁栄に重要な役わりをはたした伊東氏をめぐる史蹟がかず多くつたえられている。」「尾上柴舟(さいしゅう)の歌碑」。「尾上柴舟歌碑つけすてし 野火のけぶりの あかあかと みえゆくころぞ 山はかなしき 八郎明治から昭和にかけて活躍した歌人で、若山牧水など多くの歌人を育てました。草仮名の名手としても知られる柴舟自筆の美しいかな字で書かれたこの歌は、連作「天城野火」の中の一首として伊東で詠まれたもので、大正二年の歌集「日記の端より』の巻頭を飾る柴舟の代表作で、八郎は柴舟の本名。昭和初期に伊東(岡・広野)に別荘を構えて晩年の多くをここで暮らしました。この碑は、昭和六年に柴舟会によってこの丘に建立されました。」「物見塚公園」の桜を見る。「平野萬里歌碑相模灘 湖水の如し 月照らし 軍をよそに 松蟲の鳴く」。「平野萬里(本名久保)は明治十八年埼玉県北足立郡大門町に生まれた。四十一年東京帝国大学を卒業し商工省に入省、我が国の化学工業全般の育成と発展に尽力した。他方、明治三十四年に與謝野寛(鉄幹)に師事して以来、昭和二十ニ年に死去するまでの約四十五年間にわたって一貫して新詩社の中心メンバーとして四千首余りの短歌と百十篇の長詩を詠んだ詩歌人でもあり、その独特な作風は高く評価されている。伊東市へは吟行先として與謝野寛・晶子夫妻とともに昭和初期から幾度か訪れていた。その縁で商工省退官の後、伊東市西郊の水道山に尚文亭と名付けた山荘を建て、しばしばここに滞在して風光明媚な景観と豊富な温泉を楽しみながら、作家三昧の日を送った。今般没後七十年にあたり、昭和十八年秋に尚文亭で詠んだ一首を刻した歌碑を建立することになった。」更に石段を上り高みに進む。宇佐美方面の海が見えた。桜に近寄って。再び伊東市役所の庁舎を見る。太くなった松が2本あったが、どちらが三代目の松であっただろうか。それともこの松が「物見の松」の三代目?再び「伊東祐親」の顔をズームして。「伊東祐親像」と「伊東市役所」。最後に「伊東市役所」の全景を再び西側から。「柴舟歌碑道」碑。「伊東祐親像」のあった「物見塚公園」の散策を終え、伊東市内を後にして帰路に。途中、熱海市の奥の山中にある「頼朝の一杯水」を訪ねた。国道135号をひたすら北上し、「上多賀」交差点を左折して県道105号線に入る。更に「頼朝ライン」を利用して「頼朝の一杯水」に到着。道沿いにあった小さな駐車場に車を駐め散策に向かう。入口の桜が開花して迎えてくれた。「頼朝公一杯水」案内板。「水師営の「なつめ」この道は、愛称「頼朝ライン」と名付けられており、古くは鎌倉街道の一部とも云われております。往時鎌倉幕府を開いた源頼朝が伊豆と鎌倉を結んだ道であります。 ここに植えられている街路樹は、すべて「なつめ」の木で全部で135本あります。大部分市内外の人達の好意により寄付を受けたもので、植木は市職員の奉仕によるものであります。特にこの中には、日露戦争で乃木将軍が敵将ステッセルと旅順近郊の一寒村「水師営」👈リンクで会見し、開城を約したとき、その場所の民屋に植えられていた「なつめ」の木の種子を明治の末期、熱海在住の元子爵曽我祐邦氏が持ち帰り自宅の庭にて育成しましたが、(樹齢九十有余に達しましたが平成8年11月朽果てました。)これを分木し、植えたものが十数本あります。市に居住されていた国文学者・佐々木信綱先生が作られ戦前国民的な愛唱歌として親しまれた「水師営の会見」では明治三十七年、日露が国運?を賭けた旅順の攻防について「所はいずこ水師営 庭に一本(ひともと)棗(なつめ)の木」と歌われています。この場所は、沖に初島を望み、波静かな多賀湾を一望できる景勝地であり、近くには史跡「頼朝の一杯水」があります。また、この道、この土地は、古く源氏再興のため豪族が往来したゆかりの場所であり、植えられている棗の街路樹は人々の善意によるものです。今に残る、十数本の水師営の「なつめ」の木は、私たちの胸裡に限りない郷土愛と共に源氏・平家盛衰の昔を懐古し、明治のロマンと郷愁を感じさせてくれます。平成十年六月吉日 伊東線親和会 上多賀なつめの会」「頼朝一杯水苑地」案内図。そして数分歩くと「頼朝の一杯水」に到着。「頼朝の一杯水」案内板。「峠地蔵尊由来此地蔵尊は元禄六年歴雨凉二十四日今より約ニ七〇年前駿河国富士郡比奈村の住人鉄意道心なる者其昔頼朝と伊東祐親の娘八重姫との間に生れし千鶴丸の不遇の死を憐みて頼朝に因縁深き此地・地蔵尊を安置し其の霊を慰めたり為に往時の村人はもとより遠近の美男美女の参詣する者多かりしが海岸道路開通により宝泉寺に移せしが宝泉寺役員及有志の意志により昭和三十五年十二月二十四日旧地に仮遷座し其の後浄財を募り昭和三十六年四月二十四日堂宇を建設し正式に遷座を行ふ」ここが「頼朝の一杯水」。水溜り場に屋根がついているほか、お地蔵さんの社があった。水溜り場の奥からは綺麗な湧き水が流れ落ちていた。「頼朝の一杯水」のほとりにある「子育て延命地蔵尊」地蔵尊は、鎌倉幕府が開かれた約500年後の1693年、仏教修行僧の鉄意道心によって創建された。上多賀の宝泉寺に道心が留まった際、村人からこの悲話を聞き、「頼朝の一杯水」のほとりに小さな祠(ほこら)を建て、自ら彫った地蔵の石像を安置し、供養したという。よく見ると近くに水道の蛇口が。水溜り場の奥から綺麗な湧き水が流れ落ちていたがこれも水道水なのであろうか?遠く、真鶴半島の姿も確認できた。そして帰りは別ルートで駐車場まで戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.29
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伊東市街に入り、最初に訪ねたのが伊東市の中央を流れる音無川(松川)の西岸に鎮座する「日暮八幡神社(ひぐらしはちまんじんじゃ)」。静岡県伊東市桜木町1丁目2−10。「日暮八幡神社」を正面から。伊豆にて流刑となっていた源頼朝は、最初、伊東祐親の監視のもとに置かれて、ここ伊東「北の小御所」にて暮らしていたと。「ひぐらしの森と日暮八幡神社日暮(ひぐらし)の森は、若き日の流人源頼朝が、伊東祐親の娘八重姫との逢う瀬を楽しみに、日暮らし過ごしたというロマンスの伝承を秘めている場所で、明治中期の絵図では、田んぼの中に大きくこんもりと繁った日暮の森が川のふちまで続いている。この周辺の発掘調査によリ、弥生時代(約ニ千年前)から古墳時代(約千五百年前)にかけての集落跡が発見され、日暮(ひぐらし)遺跡と名づけられて、出土品の一部は伊東市文化財管理センターに展示されている。この神社の創建年月の明らかな記録は無いが、古くから村民の五穀豊穣、家内安全、安産の守護神として崇敬されて来た。祭神 誉田別命(ほむだわけのみこと)例祭日 九月十五日」「日暮神社 ひぐらしの森 由来源頼朝は、伊豆流人の約二十年の一時期、伊東の「北の小御所」に暮らした。その時伊東領主・伊東祐親の娘八重姫とのロマンスが生まれたのである。二人は対岸の音無の森で逢瀬を重ね、その折頼朝が日暮れを待ったのが、ここひぐらしの森であったと伝えられている。二人の愛は、一子千鶴丸の誕生を迎えたが、平家をはばかる祐親の激怒に触れ、仲を引き裂かれ、多くの悲劇の中ではかなく消え去った。最近のひぐらしの森付近の考古学調査によると、弥生時代前期(二千年前)から古墳時代前期(千七百年前)に及ぶ遺跡が発見され、勾玉・壺・石斧等と共に、当時の墓も発掘され、まさにひぐらしの森は、先人達の生活の場であったことを物語ってくれている。この森の最も古い記録は、文禄三年(一五九四年)午、八月の「岡村差出帳」である。同書によると、頼朝とのかかわりの事蹟を伝え、「道法、村より四町御座候」と記録している。(当時は名主の家を中心に道法を出していて、その頃の名主は瓶山下の堀井家であったと考えられる。)また嘉永年中の「伊東誌」によると、この地に程近い所に、日暮山龍明寺という寺があったと伝え、建久三年(一一九二年)八月十五日に頼朝が、寺領五十三石を永久の祈願料として与えたと記している。このような点から、鎌倉幕府創建の人、頼朝にとって生涯の忘れ得ぬ思いで深い森であったと想像出来る。日暮神社は、祭神「誉田別命」が、村民の五穀豊穣、縁結び、安産の守護神として崇敬され「日暮八幡」として祀られた。神社として風格を現したのは江戸時代中期後で、以来地域住民の氏神として篤く信仰されるに至ったのである。」「日暮八幡神社」の社殿。愛し合う二人が密かに会っていた場所が昨年訪ねた「音無神社」👈リンク のある「おとなしの森」だったと伝えられ、裏を流れる松川の対岸のこの「ひぐらしの森」は、頼朝が八重姫に会うため日暮れを待った所といわれているのだ。「伊東大川(音無川、松川)」を挟んで「日暮八幡神社」と「音無神社」👈リンク がある。扁額は「日暮神社」。社殿に貼られていたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のポスター。内陣。御祭神は誉田別命。最奥に石の祠が確認できた。境内の樹の根っ子が地面に蔓延って。近づいて。「日暮神社建立記念碑」。文字が刻まれていたのであろうか。神社左手に小さな祠もあった。「?斉稲荷大神鎮座」と。この大木もタブの木であっただろうか?道路から「日暮神社」を見る。そして次に訪ねたのが「最誓寺」。寺号標石「曹洞宗 宝珠山 最誓寺」静岡県伊東市音無町2−3。「最誓寺縁起開創 鎌倉初期真言宗「西成寺」として建立さる開基 北條氏二代の執権江間小四郎とその室八重姫の立願による由緒 源頼朝が伊豆流配の折八重姫との間に一子千鶴丸をもうけしが平家の寵臣たる 父伊東祐親の怒りに触れ「稚児が渕」に沈めしをその菩提を弔うため創建さる変遷 慶長年間曹洞宗に改宗寺号も最誓寺と改め現在に至る本尊 阿弥陀如来他に千鶴丸地蔵尊閻魔大王奉祀さる「目は高く 頭は低く 心は広く 気は長く」。門前の「◯ 萬霊等」碑。「等」は「なかま、ともがら」の意で「あらゆる霊」を意味すると。「山門」から境内を見る。扁額「祐心」。「祐心」とは、神仏の助け。 神が助けること。 天の助け と。曹洞宗の宗門「五七の桐(総持寺)紋」「伊東家墓碑」が左手に。近づいて。「伊東の地に来た伊東氏の先祖は藤原南家の武智麻呂から八代の子孫にあたる藤原為憲と言われています。藤原為憲から七代の子孫になる家次祐隆の代に狩野から久寝(伊東の地)に移り住んだと思われ伊東氏の歴史を家次から始まりとするのが普通です。伊東家一族の墓はその昔、最誓寺の南東約0.5kmの東光寺に存在したが、伊東家の衰えとともに江戸末期に廃寺となり東林寺に合併されたが墓(石製五輪、宝筐印塔)は最誓寺に移されました。一族の墓は伊東氏の歴史を物語る貴重な文化財です。」「伊東家墓碑由緒藤原鎌足十六代の後胤、狩野家継は伊東の庄に移り伊東祐隆と改め河津の庄を領した。長男祐家の他、二児をもうけたが妻に死なれ後妻を取りしが、その連れ子との間に生まれた祐継を嗣子として伊東祐継(工藤祐経の父親となる)と名乗らせて、伊東の舘におき、一方嫡流である祐家の長子祐親(曽我五郎、十郎の祖父)を河津の庄に追いやり河津次郎祐親とした。これがやがて伊東家騒動の始まりとなり「仇討ち曽我物語」の発端となるのである。これら一族の墓は東光寺及び東林寺に納められているが東光寺はこの地より南東〇・五キロの所にあって領主、伊東祐隆の再興によって栄えたが、徳川時代に至り伊東家のおとろえるに同じうして江戸末期、ついに廃寺となり墓は、当最誓寺に移されまつられるようになって久しく境内の木陰に苔むしていたものが、昭和三十四年本堂再建の時に整備供養され市文化財の規定が設定されるや第一号として指定され、今後も永く一族の菩提を弔う為、護寺されるものである。ちなみに当最誓寺は今を去る八百五十年前、源頼朝が伊豆流配の折、祐親の娘八重姫と密通し一子千鶴丸をもうけたが、平家の流れ汲む祐親の怒りにふれ、稚児ヶ渕(この裏を流れる松川の上流)に沈められた後、八重姫が北条家家臣江間小四郎氏に嫁ぎしより、許されて稚児菩提の為に頼朝と毎夜相見しこの地音無の森に一宇を建立し、西成寺と名付けるに始まり、慶長元年、禅宗に改められ寺号も最誓寺となり今日に至る。寶珠山 最誓寺 二十六世代」斜め方向から。伊東家の墓は、廃寺となった東光寺にあったもの。東光寺は、東林寺とともに伊東家の菩提寺として栄えたが、伊東家の衰えとともに衰退し、江戸時代末期に廃寺となったのだという。伊東市の指定史跡。寺務所。「稲荷大明神」。「本堂」。近づいて。見事な彫刻。扁額「寶珠山」。曹洞宗の宗門「五七の桐(総持寺)紋」と「久我竜胆(永平寺)紋」がここにも。境内の樹齢600年ともいわれる大ソテツは、伊東市の天然記念物に指定されている。「市指定天然記念物 最誓寺のソテツ蘇鉄(ソテツ)は、九州から沖縄にかけて、主として海岸近くの岩場に自生し、鹿児島県佐多岬や内の浦町では、国の然記念物に指定されている。ソテツ類は、恐竜のいた時代のような太古の昔を彷彿とさせる特異な形態をした常緑裸子植物の一種で、古くから各地の社寺や家庭で観賞用として植我されている。伊豆半島には、国の然記念物に指定されている河津町字峰の正木家(徳川家康の側室「お万の方」の生家と伝わる)の「新町の大ソテツ」がある。市内にも寺院境内を中心に植我されたソテツを多く見るが、最誓寺のソテツは、市内で一番大きく、樹勢も旺盛である。根廻 4.9m 目通 6.0m 樹高 5.8m」「水子供養地蔵尊」。正面から。近づいて。「淡島尊堂」。和歌山県和歌山市加太の淡嶋神社を総本社とする全国の淡島神社や淡路神社の祭神。婦人病治癒を始めとして安産・子授け、裁縫の上達、人形供養など、女性に関するあらゆることに霊験のある神とされ、江戸時代には淡島願人(あわしまがんにん)と呼ばれる人々が淡島神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻った事から信仰が全国に広がった。多くの石仏が「本堂」の左側に並ぶ。歴代の「六地蔵」であろうか。「本堂」の裏の墓地から、昨年訪ねた「音無神社」👈リンク が見えた。墓地内の立派な五輪塔。こちらは宝篋印塔。「最誓寺寺族之墓」。歴代住職の墓であろうか。尚、「伊東祐親の墓」👈リンク は別の場所・静岡県伊東市11にあり、昨年既に訪ねているのであった。伊豆に配流された源頼朝の監視を任される、そして頼朝と通じた八重姫の父親、また義時の祖父「伊東祐親」を演じる「浅野和之」さん。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.28
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そして次に訪ねたのが「独鈷の湯公園」。桂川河畔に湧く修善寺温泉発祥の『独鈷の湯(とっこのゆ)』の対岸側にある公園。その昔、桂川の河原で病気の父の背中を流していた少年を不憫に思った弘法大師(空海)が、持っていた仏具(独鈷杵とっこしょ)で川の岩を打ち霊泉を湧き出させたという伝説の『独鈷の湯』にちなんで作られた公園で、石造の独鈷杵のオブジェや、湯掛け稚児大師像があった。石灯籠の奥に石祠があった。「熊野権現」。「熊野権現由来熊野権現(湯谷権現)がこの地に祭られてありしは古く天明六年(1768)の記録にもあり。古来温泉の祭り神として人々の信仰篤く 祭礼等も行われ居りたるも、戦後の廃社に伴い御神体は日枝神社に遷座奉安し今日に到れり。されどここに志ある人々の奉仕を得、史蹟再現の意味もこめて新たに小祠を建立せしものなり。」「湯掛け稚児大師」 「独鈷杵古代インドの武器の一種で後世の密教法具として僧侶の修行に用いられ仏像とともに日本へ伝来した。この独鈷杵は昭和三十六年修禅寺裏山から発掘されたものを原形拡大したもので実物は金銅で作られ長さ二十四糎、平安中期のものと言われ、工芸美術的にも優れた作品であり、修禅寺に秘蔵されている。独鈷の湯は弘法大師がこの地をご巡錫のとき、桂川で病夫洗う少年を見てその孝心に打たれ「流れ水では冷たかろう 今温かくしてつかわそう」と言って、手にもっていた独鈷杵で川の岩を打ち砕くと霊湯がこんこんと湧き出したので、父子は大いに喜んで入湯すると不思議に十数年の痼症が平癒したと伝えられている。独鈷の湯は修禅寺温泉発祥の地であり、昭和五十ニ年この地に独鈷の湯公園を開園するにあたり独鈷杵をこの公園のシンボルとして建立したものである。」手に密教法具・独鈷杵(とっこしょ)を持っていた。「湯掛け稚児大師前の川の中に在る独鈷の湯は、その昔、孝行者の息子が年老いた父親の背中を川の水で流してやっているのをご覧になった弘法大師が、水では冷たかろうと、持っていた独鈷で岩を掘ったところ湧き出したものと伝えられています。この故事にあやかって、当町旅館組合が、皆さんの健康を願って、ここに稚児大師の像を建立しました。お子さまの健全を願う方、ご自身の健康を願う方、もしくは、現在疾患をお持ちの方等、願いを込めてお湯を灌(そそ)いであげてください。」芝生の中には竹灯篭が。「修善寺の歌」碑。「修善寺の歌長 徳太郎 作詞原田彦四郎 作曲一、春はあけぼの城山に ゆかりの雲の浮かびつつ 秋夕ぐれのもみぢ葉は 月のかつらの瀬々に散るニ、かなしき跡をしのびつつ 露けき夏の草をふみ くしきみ業をたたへつつ あふれ湧く湯に冬を愛つ三、恵みゆたけきこの里に 訪ひくる人と住む人の えらぎおのづととけ合ひて いよよさかゆく修禅寺よ「独鈷の湯公園」碑。「比企能員」パネル。武蔵・比企郡の豪族。源頼家の乳母夫。「桂川」沿いの「新井旅館」方向を見る。いつの日か宿泊したいが。「独鈷の湯」を対岸からズームして。土産物店「湯川修善寺屋」に立ち寄った。様々な木彫りの面が並んでいた。こちらは鬼の面。木彫りの仏像も。そしてここが「仰空楼(筥湯横無料展望台)」。扁額も「仰空楼」。「仰空楼夏目漱石と修善寺温泉小説家夏目漱石(本名・金之助、慶応三~大正五)は、明治四十三年八月六日から門下生生松根東洋城(当寺、宮内省御用掛、俳人)の案内で修善寺温泉に滞在した。ところがまもなく病(胃かいよう)がきざして、八月二十四日晩には一時人事不省におちいるなど、悪化した。このため、医師団に懸命の治療をつづけ、また身内のほか、全国から多くの門下生らがかけつけて見舞った。この後、病気はじょじょに快方に向かい、ニか月ほどした十月十一日には帰京できた。この修善寺について、門下生松岡譲(小説家)は、訪れたということで名所になるようなそんな生易しいところではないと言っている。つまり、この修善寺で漱石は病と心から生き返ったのである。改めて自分の生命の尊さを自覚し、周囲の多くの人々の温情に感謝する気持ちを深めた。この体験は、またその後の創作の上にも少なからず影響をもたらしたとされるのである。修善寺ゆかりの作品に、多くの俳句や漢詩、書簡のほかに、随想「思い出す事など」、小説『行人』などがある。夏目漱石が滞在した菊屋旅館本館(現在、修善寺「虹の郷」に移築して茶室「漱石庵」と称している)は、この地にあった。ここには、なお往時の二棟の建物のほかに、中央に大きな百日紅などがある。漱石は部屋(二階)の窓から、毎日松の木の間に咲きつづける爽やかな百日紅の花を見、広がる青空・浮かぶ白い雲、羽を輝かせて飛び交う赤トンボなどを眺めていた。また、ある晩は、修禅寺(お弘法さん)の祭りの花火を楽しみ、さらに朝な夕なこの寺の鐘の音を聞いて過ごしていた。まず黄なる百日紅に小雨かな生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉温泉の村に弘法様の花かな仰臥人如唖 黙然看大空 仰臥 人唖の如く 黙然 大空を看る 大空雲不動 終日杳相同 大空 雲動かず 終日 杳かに 相同じ(漢詩大意)仰向けに寝たまま、静かに窓から広がる青空を眺めているが、ぽっかりと浮かぶ白い雲はほとんど動かない。終日向かい合ったままで、まさに主客融合したような境地である。この漢詩は作品中でも傑作とされ、最初の夏目漱石文学碑(修善寺自然公園、昭和八年建立)の碑文にもなっている。また、漱石は風呂好きで、宿を訪れると毎日いく度も入った。文豪ゆかりの地に立つ筥湯、その望楼の名「仰空楼」はこの漢詩にちなむものである。なお、扁額「仰空楼」は修禅寺四十ニ世田中徳潤師の書によるものである。」「仰空楼」を見上げる。階段を上って行った。最上階に到着。修善寺温泉の「新井旅館」方向の眺望を楽しむ。そして車を駐めていた場所まで戻る。車の横にあった軽食屋さん。車で次に「修善寺ハリストス正教会顕栄聖堂」を外部から訪ねた。顕栄(主の変容)祭を記憶して建てられているこの聖堂は、一九一二(明治四十五)年に成聖されたもので、病床あったニコライ大主教(後の亜使徒大主教聖ニコライ)の快復を願って建てられたと言われる。十八メートルの鐘楼を揚げる聖堂内のイコノスタスは旅順にあった聖堂から移設されたもので、色彩、デザインとも他の日本の正教会ではあまり類を見ない。また、聖所のシャンデリアは水晶製である。至聖所内の全能者ハリストスと主の変容、降誕、大十字架のハリストスの磔刑はイリナ山下りんの筆によるものもである。二〇〇四年に伊豆を直撃した台風22号の影響を受け、聖堂と信徒集会所は大きな被害を受けたが、府主教ダニイル座下のご高配と全国の神品、信徒のご協力によって無事に修復、成聖を終え、聖堂は美しい姿を取り戻した。尚、昭和六十年十一月二十九日に静岡県の有形文化財に指定されている。ビザンチン様式の姿形が美しく、技術的にも芸術的にも優れていることから、県の有形文化財になっている。中は非公開なので見られないが、美しい外観は一見の価値がある。静岡県伊豆市修善寺861。そして「修善寺」の散策を終了し、東海岸の伊東市に向かって山越え。県道12号線、県道59号線を利用して冷川峠を越えてひたすら伊東市に向かって山道を進む。途中、昨年、「河津桜」見学時に立ち寄った、しかし山門が閉ざされていた「光識寺」前でこの日も車を止めた。「光識寺」の前、県道59号線沿いにあった石仏。 静岡県伊東市鎌田1131。しかし、この日も「光識寺」への入口のゲートは閉ざされていたのであった。「掲示板」。「光識寺のご案内 参拝料は無料光識寺は唯識を広く知ってもらうために開山しました。唯識とは個人にとってあらゆるただ「識」によって成り立っ主観的な虚構にすぎず、あらゆる存在は生滅を繰り返す無常であり実体のない「空」であるという思想です。戦後、わが国は伝統、文化、家族関係や地域社会を犠牲にして高度経済成長を達成しました。反面、個人主義、拝金主義的価値観が台頭し、無秩序、無規範、無連帯状態の社会に陥り、は将来に夢を持っことができず、言い知れぬ不安や孤独感に苛まれています。光識寺はこのような悩みや苦しみを仏教の根本原理である唯識思想によって救済するお寺です。毎週講話会を行っておりますのでご自由にご参加くたさい」やむ無く、境内の石仏をズームでカメラに収める。「大聖観音」。移動して別の場所から。「不動明王像」。境内には多くの石仏の姿が。伊東の海が見えた。「光識寺 散策図」。「ご自由に参拝下さい。開門時間:午前9時~午後5時」とあったが・・・???近寄って。そして伊東市街に向かって、坂道を更に下って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.27
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「源範頼の墓」を後にして、「桂川」の南側の商店街の道まで戻る。これから訪ねる場所を確認。商店街を「桂川」の下流方面に戻って行った。左手にあったのが懐かしき射的場「初音遊技場」。右手奥にあったのが「宙 SORA 渡月荘金龍」。鉄塔の下には源泉があるのだろうか。「竹そば 八百考」の店頭には、蕎麦を打つ姿の「ひょっとこ」の如きオジサンの姿。左手にあったのが「桂川 花小道」。伊豆修善寺温泉に佇む旅館、湯の宿 花小道は江戸川乱歩など文人・画人に愛された名旅館。大正時代に建築された創業当時の木の温もりを大切にレトロな雰囲気漂う新しい宿として生まれ変わったと。大正・昭和の香り漂うノスタルジックな館内では、日本建築の美しさも味わえる。全13室ある客室は、床の間があり和の雰囲気も味わえるツインルームの洋室。館内にある2つの内湯と2つの貸切露天風呂を利用できる。食事処は桂川を望める和食レストラン。ドライヤー、バスアメニティ完備。女性客は色浴衣と浴衣等を入れて浴場へ持ち運べる籠を無料で利用できる と。この宿にも「内裏雛」が。店頭脇にあった木造彫刻はなんとなく異国風。「指月殿」へはここを曲がれと。そして坂の上にあったのが「指月殿」。桂川を挟んで相対する鹿山の麓にあった。修善寺で暗殺された頼家の冥福を祈って母政子が修禅寺に寄進した経堂で、伊豆最古の木造建築物といわれている。この時宋版大蔵経、釈迦三尊繍仏なども合わせて寄進し、門前の虎渓橋も架け替えたといわれている。堂内中央に禅宋式という珍しい様式の丈六釈迦如来座像が安置されているが、持ち物はないはずの釈迦像が右手にハスの花を持っているのが特徴と。堂に向かって左手に頼家の墓があった。静岡県伊豆市修善寺934。扁額「指月殿」。扁額の実物は、宋の名僧一寧一山(いちねいいっさん)の書といわれ、修禅寺本堂に保存されている と。右手に蓮の花を持つ「釈迦如来坐像」。「釈迦如来坐像」の体内には経典が納められており「為征夷大将軍左金吾督源頼家菩提、尼置之」と書かれた北条政子の直筆の墨書があったと。(修禅寺宝物館蔵)お顔をズームして。「北条政子」のデジタルスタンプラリーのパネル。源頼朝の妻。北条時政の長女で北条義時の姉。「指月殿この地で非業の死を遂げた鎌倉幕府二代将軍頼家(よりいえ)の冥福を祈り、母北条政子(ほうじょうまさこ)が建立したもので、伊豆最古の木造建築と言われている。指月とは経典を意味し、禅家が愛用している不立(ふりゅう)文字を解く言葉である。建立の際、政子が寄進した宗版大蔵経(そうはんだいぞうきょう)は大半が散失し僅か8巻しか残っていない。そのうち「放光般若波羅蜜多経(ほうこうはんにゃはらみたきょう)」の第23巻が静岡県指定文化財となっている。本尊の釈迦如来座像(しゃかにょらいざぞう)は、寄木(よせぎ)造りで高さは203センチ、持ち物のないはずの釈迦像が右手に蓮の花を持っているのが特徴である。「指月殿」の扁額(へんがく)の実物は、宋の名僧一寧一山(いちねいいっさん)の書といわれ、修禅寺本堂に保存されている。」「手水舎」。旧本堂の「宝珠」であっただろうか?「指月殿」の左側の高台には「源頼家の墓」があった。「源頼家」のパネル。源頼朝・政子の長男。鎌倉幕府第ニ代将軍。「お伺い石」。「お伺い石「あたたかき湯の湧くところ、温かき人の情けも湧く」人もお湯も温かい修善寺・・・実は恋愛成就の聖地とも云われています。ある時、釈迦は弟子たちの前で一輪の花を拈(ひね)って示しましたが、摩訶迦葉(まかかしょう)だけがその意味を悟り笑み、釈迦から以心伝心の法脈を伝授されました。この「拈華微笑(ねんげびしよう)」の故事に基づき、指月殿の釈迦像は蓮のつぼみをかざす大変珍しいお姿て鎮座しておられます。ここにある蓮花の形をした石は以心伝心を占う「お伺い石」。想いを込めて持ち上げましよう。軽く感じたら思いが伝わると言われています。もし重く感じてしまったら指月殿に祈願しましょう。あなたの願いをかなえてくれるでしよう。「言葉にしなくても伝わるこの想いを君と一緒に一生繋いでいこう。ふたりで」 (縁をつなぐ恋の橋より)石段の上に「源頼家の墓」があった。静岡県伊豆市修善寺935。正面に「源頼家の墓石」。源頼家は、鎌倉に武家の都を築いた源頼朝の嫡男。母は北条政子。1199年(正治元年)、父頼朝の死をうけて18歳で家督を継ぎ、1202年(建仁2年)には征夷大将軍に任ぜられた。『吾妻鏡』によれば・・・1203年(建仁3年)8月27日、病の床に臥していた頼家の病状が悪化する中、日本全体の惣守護職と関東二十八ヶ国の地頭職を頼家の長子一幡に、関西三十八ヶ国の地頭職を弟の千幡(のちの源実朝)に譲ることが発表された。この決定に頼家の乳母夫比企能員が反発。9月2日、側室若狭局(比企能員の娘)を通じて「北条時政を追討すべきだ」と伝えられた頼家は比企能員を呼んで、北条氏追討の許可を与えたのだという。しかし、その密議は、障子を隔てて聞いていた北条政子に知れてしまった。同日、比企能員は北条時政邸で天野遠景と仁田忠常に暗殺され、比企邸も北条義時らに襲撃されて比企一族は滅亡させられた(比企能員の変)。頼家の嫡子一幡も焼死している(参考:一幡の袖塚)。この時、危篤状態だったという頼家は、9月5日、奇跡的に快復して事件を知ると、和田義盛と仁田忠常に時政討伐を命じるが失敗に終わり、病気と政治不安を理由に出家させられた。9月29日には、ここ伊豆国の修禅寺に幽閉され、翌1204年(元久元年)7月19日には、その死が鎌倉にもたらされている。※7月18日、入浴中を襲われ最期を遂げたと伝えられている。「源頼家の墓正治元年(1199年)に父頼朝の後を継いで18歳で鎌倉幕府の二代将軍となった頼家は、父の没後に専横になった北条氏を押さえて幕府の基礎作りに懸命であったが、大きく揺れ動く時流と、醜い駆け引きに終始する政争に破れ、在位わずか6年でこの修善寺に流され元久元年(1204年)祖父北条時政の手で入浴中に暗殺された(享年23歳)。「修禅寺物語」ではこうした政治的背景の上に配所の若き将軍頼家と、面作り師夜叉王を中心に、それにまつわるロマンスを綴ったものである。この碑は、元禄16年(1704年)頼家の500回忌にあたって、時の修禅寺住職伐山智船和尚が建てた供養塔であり、墓はその裏側にある2基の小さな五輪石塔である。」手前は供養塔であり、源頼家の墓積はその裏側にある2基の小さな五輪石塔であると。「仮名垣魯文の句碑」。「谷川や 月のはこびも 九折(つづらおり)」と刻まれている と。「江戸期最後の戯作者仮名垣魯文の句碑桂谷眺望谷川や 月のはこびも 九折この俳句は仮名垣魯文(1829 ~ 1894 )によっ書かれた。彼は江戸時代に文学界で活躍した最後の戯作者である。彼は幕未から明治にかけて当時の世相を巧に描いた。彼は津国屋藤ニ郎(芥川龍之介の母方の大叔父)に俳諧を学び、多くの文学者・俳諧師と親交を深めた。彼の出世作は『滑稽富士詣』(1860年発行)であった。明治になると、彼は『西洋道中膝栗毛』、「安愚楽鍋』、「葫瓜遣い』など次々に発表し、彼は人気作家となった。この句睥は1891年に仮名垣魯文本人と三州園の主である三須圭山によって建てられた。圭山は仕事の傍ら、俳句や絵画を嗜んだのでこの地に滞在した魯文と親交を深めた。」最奥には神社もあった。この石碑は??「南想塔之記」碑「昭和十六年秋名古屋にて編成された独立自動車四十五大隊は、大東亜戦争緒戦にジヤワ・スマトラ作戦に参加。後に主力はビルマ方面に転戦、戦運我になく戦友相ついで南雲の下に散る。昭和廿一年復員の後有志集い修禅寺に於て法要を重ね今日に至る。激戦の年より茲に廿三年英霊追善のため仏縁深き修禅寺に塔一基を寄す。」横に立つ南想塔・十三重石塔。「桂谷(八十八ヶ所)第四十四番 十一面観音」碑。「桂谷八十八ヶ所第四十四番本尊 十一面観世音菩薩笹の葉に、おく白雲も、輝きぬ、さやけき月の、影をやどして」と。「桂谷第四十四番 十一面観音」と刻まれた石碑。十一面観音の線刻が描かれていた。「修禅寺温泉観光ガイド」。「十三士の墓」。頼家が暗殺された後に、家臣13人が謀反を企てたが発覚し、殺害されたとも、殉死したとも言われている と。「源頼家 家臣 十三士の墓」案内板。「源頼家 家臣 十三士の墓北条氏との確執で、病気を理由に修善寺に配流された頼家は、元久元年(1204年) 7月18日、入浴中に暗殺された。吾妻鏡(鎌倉時代史書)によると、この6日後、頼家の家臣らは謨反を企てたが、挙兵以前に発覚して、相州金窪太郎行親らに殺されたことが記されている。この基はその頼家の家臣13名の墓と伝えられている。頼家と運命を共にしたこれら家臣の名前は判っていないが、全国的にある十三塚の一例との説もある。この墓は元々ここより東へ200m程の麓にあったが、台風被害により平成17年(2005年) 7月17日にこの地に移築された。」右の石碑には「澄宮崇仁親王雨下行啓記念碑」ではないかと学友から。左の石碑も同じく以下、学友から。『御庵洞畔起天承細耶 閑兒魂七百余年浮世興 亡眞實之事山僧渺涙 候碑 〇聴 昭和戊辰卯秋第(?)房祭山〇 瑞雲庵 原田力松 建石』 本文読み下し文 御庵洞の畔[ほとり]を起こして(天)細[こま]や(耶)か(閑)に(兒)魂七百余年を承る 浮世の興亡真實の(之)事山僧渺[はるか]に涙しそうろう(候)碑 と(?)聴く この石碑は原田父子の徳行を記したのではなく、御庵洞の山中に散在していた墓石を一か所に集めて合祀した土地所有者(碑文中の山僧の事か?)に思いを致して初代原田力松氏が建てた碑ということではないでしょうか。 語句解説 ※ 御庵洞 [ごあんぼら]北条時政の隠棲の庵室跡や、頼家の庵室跡などといわ れてる。もともと「十三士の墓」は御庵洞の山中に散在していた。 ※ 畔 ある場所の周辺。ほとり。「河畔・湖畔・江畔・池畔」 ※ こまやかに すみずみまで行き届いているさま ※ 承る 引き受ける くらいの意味か ※ 山僧 さん‐そう《[さんぞう]とも》 1 山寺に住む僧。 2 山門の僧。普通比叡山延暦寺の僧をいう。 3 僧が自分をへりくだっていう語。愚僧。 ここは1の 「山寺に住む僧」 か ※ 渺(はるか)に 水面などが限りなく広がっているさま。はるかにかすんでい る さま。 ※ 昭和戊辰 昭和3年(1928) ※ 卯秋 秋の卯の日か? 卯の日は陰陽五行思想に従うと再生・更新を意味する日 (wiki新嘗祭参照)だそうで、新嘗祭を「卯」の日に行うという慣例が、 律令以前にすでに出来上がっていた。他にも酒造りは「卯の日」にはじめ、 「酉の 日」に完了する慣わしがある。など、卯の日には意味がありそう。 ※ 第 やしき。邸宅の意か。「源頼家 家臣 十三士の墓」に近づいて。この先、山の上には下記の観光スポットがあった。急な山道を上って行った。窟(いわや)の如き場所に石仏が。そして手前にあったのが「おしゃぶり婆さんの像」。「岩屋観音とおしゃべり婆さんこの鹿山のことを正式には「塔の峰」と呼び、昔は「塔の峰の観音さん」または岩を削って石仏を安置してあることから「岩谷観音」とも呼んでいました。この下の谷のことを「観音洞」と呼び、谷から直接登山するのが本来の参道だったようです。正面は桂谷八十八ゲ所、四十番の石碑。右の祠には「おしゃぶり婆さん」と呼ばれる子宝子育ての神様も祀られて犯られいます。赤子がロにすらオシャブリが語源といわれ、左の石仏は母乳に恵まれるよう豊かな胸をしています昭和初期までは、この山中にも老舗旅館の茶屋があって鹿を飼ったり、湯治客の自然散策に訪れる私設公園でした。中腹には大弓と呼ばれる矢場の広場があり、土地の子供が逗留中の幼い宮様と相撲に興じたり、まだ珍しかった自転車の競争をしたりしました。」「源義経像」。「源義経像義経は、源氏初代将軍頼朝や、修禅寺で自害した源範頼の弟に当り、この鹿山の麓に墓のある二代将軍源頼家の叔父にあたります。幼名が牛若丸であり、京都の鞍馬山で育ち、五条大橋での弁慶との出会いなどは有名な話ですが、後の蒙古へ渡ってチンギスハンになったという説もあります。この獅子にまたがった像の胞には源氏の紋所笹リンドウが刻まれており、義経像ともチンギスハン像ともいわれています。大正末期、芸術を愛好した修善寺温泉菊屋旅館の先々代野田修治の依頼で、修善寺温泉に滞在していた彫刻家によって、天城山中から運ばれた軽石へ彫られました。これが「吉田絃二郎 明枝の墓」だったのだろうか。「指月殿」の境内まで下ると「絵馬」の自動販売機があった。「絵馬掛け処」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.26
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「修禅寺」を後にして「虎渓橋」を正面に見る。県道18号線・修禅寺戸田線を桂川沿いに上流に向かって進む。桂川の左下の岩場にある「独鈷の湯(とっこのゆ)」が姿を現した。露天風呂からは湯気が。「指月殿」の案内を確認する。石段を下り、「独鈷の湯」を訪ねた。修善寺温泉の中心を流れる、桂川河畔に湧く修善寺温泉発祥の湯。大同2年(807)、修善寺を訪れた空海(弘法大師)は桂川で病気の父の身体を洗う少年の孝行の心に打たれ、持っていた仏具(独鈷杵(とっこしょ))で川の岩を打ち霊泉を湧き出させた。その湯につかったところ父親の病気はたちまち癒え、温泉療法が広まった伝わる。現在も自然石を使用しており、修善寺温泉の象徴的存在。修善寺温泉は伊豆最古の温泉と言われている。※現在、独鈷の湯は見学のみで、入浴は不可となっていた。足湯としても利用できないと。湯面にカメラを向けて。「修善寺 亀屋 甘泉楼」。「甘泉楼 KANSENRO新井旅館「甘泉楼」1924年(大正13年)築登録有形文化財第22-0022号伊豆最古の温泉街である修善寺温泉には多くの文人・墨客が訪れました。当時の賑わい、溢れる才能と活気を、年月を経た今も感じられる「墨客の小径」(ぼっかくのこみち)。ぶらり散策と味めぐりをお楽しみください。」「内裏雛」。「女雛」。「男雛」。可愛らしい木彫りの仏様が2体。「新井旅館」。新井旅館三代目館主は文人墨客と親交が厚く、日本画や文学など数多くの作品が新井旅館で生まれた。芸術家の感性は建物や庭園にも生かされ、貴重な文化遺産となっている。敷地内に建つ15棟の登録有形文化財の建物。館内に1歩足を踏み入れると、昔懐かしい時代にタイムトリップしたかのような、ノスタルジックな空間が広がっている と。一度、宿泊してみたい宿なのであった。笹竹の生える桂川の小径を進む。「伊東祐親」のパネル。「河原湯」が左手に。湯が足湯場に流れ込んで。「河原湯(足湯) Kawara-yu (Foot Bath)修善寺温泉にはその昔、河原沿いに7つの外湯があり、当時外湯として親しまれていた河原湯は、この足湯の少し上流に佇んでいました。このため、平成22年4月3日に開湯したこの足湯が外湯時代と同様に、皆様に楽しんでいただけることを願い、河原湯と命名しました。足湯として開湯した河原湯を、皆様お気軽にご利用ください。」「独鈷の湯」を振り返る。前方に見えて来たのが「桂橋」。「桂川」に沿った小径はここまでで、左折すると「桂橋」。「桂橋(結ばれ橋)桂川にかかる五つの橋其々に恋にまつわるご利益があると言われています。願いをかけながら渡ると、その思いが、成就するとか・・・。」「桂橋」を渡る。「桂橋」の「橋紋」。桂の葉とその下に「桂」の文字がデザインされていた。上流の「楓橋(かえでばし)」別名:寄り添い橋 を見る。横から瀧の如き流れが。下流側は左に大きく蛇行。そして右側に「竹林の小径」が。平成6年(1994年)から3年間を費やして整備された温泉街の中央を流れる桂川沿いの散策道、竹林の小径(ちくりんのこみち)。竹林の小径を歩くと、茶処や火の見櫓が懐かしく、竹林中央にある大きな竹の円形ベンチに座れば竹林を通る風を感じることが出来ます。日没後はライトアップされ、幻想的な夜の散歩を楽しむことができます(ライトアップは日没~23時まで) と。竹林中央にある大きなベンチ。竹製のベンチ。「八重」のパネル。義時の初恋の人にして、源頼朝の最初の妻。伊東祐親の三女。さらに奥へと進む。様々な竹の種類が植えられていた。そして右手にあったのが「楓橋」。「楓橋(かえでばし) 寄り添い橋桂川にかかる五つの橋其々に恋にまつわるご利益があると言われています。願いをかけながら渡ると、その思いが成就するとか・・・」「楓橋」の「橋紋」。「楓」の葉と太鼓橋そして「楓」の文字のデザインが下部に。上流を見る。下流の「桂橋」を見る。そして「竹林の小径」を引き返す。多くの竹灯籠が。若竹の林の中に。夜になると。円形の巨大ベンチはスクリーンに変身するようである。そして「滝下橋」別名:安らぎ橋を渡る。「桂川にかかる五つの橋其々に恋にまつわるご利益があると言われています。願いをかけながら渡ると、その思いが成就するとか・・・」「滝下橋(安らぎ橋)」の「橋紋」。竹林の姿と、「滝」の文字のデザインが下部に。「源範頼」の墓に向かい坂を上って行った。「源範頼の墓」。源範頼は、源頼朝の異母弟で、義経の異母兄。遠州池田宿の生まれで、幼少期を蒲の御厨で過ごしたため、「蒲の冠者(がまのかじゃ)」とよばれていた。源氏の総帥として平家討伐で大きな武功を立てたが、建久4年(1193年)、源頼朝討ち死にの誤報が伝えられ、悲しむ北条政子に「範頼ある限りご安心を」と慰めたため幕府横領の疑いを招き、範頼は百方陳弁に務めたが、ついに修禅寺八塔司(はったす)の一つ信功院に幽閉された。その後、梶原景時の不意打ちに会い、防戦の末自刃したといわれている。信功院は、現在の日枝神社の下あたりにあったと伝えられている。修禅寺から西の小山地区の山腹にあり、源範頼の墓と伝わる祠があったが、明治12年に骨壺が掘り出され、範頼の墓を裏付けるものとなった。静岡県伊豆市修善寺1082。現在のこの墓は昭和7年に、日本画家・安田靫彦のデザインにより建立されたものであると。「源範頼の墓範頼は鎌倉初期の武将。源義朝の第六子で蒲冠者(がまのかじゃ)と呼ばれた。治承4年( 1180年)に兄頼朝と義仲が対立した時、弟義経と共に義仲を倒し、次いで一ノ谷の合戦で平家を破り、功によって三河守に任じられた。その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が範頼に義経討伐を命じたが断ったため、頼朝から疑われるようになった。建久4年( 1193年)の曽我兄弟仇討ちの際、頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ政子を「範頼あるかぎりご安心を」と慰めたため、幕府横領の疑いを招いた。範頼は百方陳弁に努めたが、ついに修褝寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、日枝神社下の信功院で自害したと伝えられている。」「鎌倉殿の13人」に登場する「源範頼」、演じるのは「迫田 孝也(さこだ たかや)」さん。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.25
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「檀信徒会館(慈照閣)」前から「本堂」、紅梅を見る。「本堂」の右にある松の根元に、大きな「達磨石(だるまいし)」があった。江戸時代後期に奉納された物であると。再び「本堂」を見る。巨大な銅製の灯籠(右)は黄色く塗られていた。。巨大な銅製の灯籠(左)。扁額「修禅寺」。内陣。本尊の「大日如来坐像」の御姿が御簾の奥に。内陣の彫刻。「本堂」から「山門」方向を振り返る。「弘法大師像」。「南無大師遍照金剛」の奉納のぼり幡が周囲に。真言宗のお経で、「南無」は「私は帰依する」を意味しており、「南無大師遍照金剛」の7文字で「弘法大師空海に帰依する」の意味になるのだ。お顔をズームで。こちらにも石仏が。再び「檀信徒会館」の入口の「十六羅漢像」のお姿を。右側。再び庫裡を。「たいせつなこと けんきょ すなお かんしゃ」。「良寛さんの詩聞道須洗耳 不則道難持 洗耳其如何 莫有在見地 知見有纔存 与道相離支似我非為是 異我是為非是非始在己 道其不如是 以水没石頭 祇覚一場癡 道を聞くにはすべからく耳を洗うべし しからざれば即ち 道は持しがたし。耳を洗ふこと それ如何(いかん) 見知を在することあるなかれ。知見 わづかに在するあれば 道と相離支す。我れに似なば 非も是となし 我れに異ならば 是も非となす。是非 始めより 己にあり 道はそれ かくのごとくならず。水をもって 石頭を没す ただ覚る 一場の癡(ち)たることを【訳】道を聞くには、かならず耳を洗わねばならない、でないと道と共に行くことはできない。一体 耳を洗うとは どうゆうことなのか、それは自己の見聞知識を捨て去ることだ。手前勝手な見解が 少しでも残っていると、道と 遥かに分離してしまう。自分の考えに似たものなら 間違ったものも是とし 異なるとなると 非とみなす。この様では 是と非とが始めから 自分の思いの中にあることになる 道はこの様なものじゃない。言ってみれば人間の小細工は水で石を とっさに浸し隠すような、まやかしごと その場限りの愚かさにすぎない------------------------------------------------------力をぬいて、まっすぐ、今・ココを死ぬる時まで生き切る。『道』は、言葉を使えば使う程、伝わらないものだな。」ここにも小さな石仏が。丸瓦に「修」の文字が。見事な「本堂」の瓦の造形。さらにズームして。正面の唐破風の左右に「唐獅子瓦」、「鯱瓦」が。鐘楼を見上げて。梵鐘を再び。境内の竹林では、椎茸が栽培されていた。椎茸が顔を出しいた。「六地蔵」。境内のこの枝垂れ紅梅は開花を初めていた。近寄って。「千聖(せんしょう)の森」像。修禅寺の裏山が【千聖の森】と名づけられ、梅林までの森林コースが整備された と。お顔をズームで。「修禅寺平和観音古道」を上って行った。この石碑には? 「南無阿弥陀佛」であろうか。近づいて。「安政四丁巳年 八月日」と刻まれていた。無縫塔が並ぶ。境内を見下ろす。中央に「本堂」の巨大な屋根が見えた。歴代の上人の墓石であろうか。多くの無縫塔をカメラで追う。数の多さに歴史を感じるのであった。「功徳は 無量霊場に 溢る慈」布袋 と。様々な石碑、墓石が。「萬霊等」。「塔」ではなく「等」の字が書かれることも多いが、いろいろな霊という意味で、わざと等の字を使ったのであろうか。「平和観音像」。太平洋戦争の際、修禅寺(伊豆市修善寺)の裏山に安置されていた観音像は、金属製であったため軍に供出されてしまった。終戦後も再建されず、残された台座に「早く再建してください」と張り紙がされるなど、観音像の再建は修禅寺護持会をはじめ、地域住民の積年の願いでしあった。そして戦後70年の節目の年である平成27年に、修禅寺護持会が白御影石製の観音像を寄進し、同じ場所に設置され、同年5月21日(木)に開眼法要が行われた。観音菩薩像の高さは210cm、台座は255cmで、全体は465cm。桂谷(けいこく)八十八ヶ所めぐりの、88番札所となっている。以前の観音像は、東京・日本橋の商人より寄進されたそうで、台座には『日高屋為三郎』と刻まれていた。『修善寺平和観音』の文字は、お寺の名前の『修禅寺』ではなく、地名の『修善寺』の字が使われており、地域のみんなの平和観音である、という思いが込められているのだと。そして「修禅寺平和観音古道」を下まで戻る。「源範頼の墓」案内。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.24
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「虎渓橋」の正面に現れたのが「福地山 修禅寺(ふくちざん しゅぜんじ)」の「山門」。正式名称は「福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)」。温泉の「修善寺」と、寺の「修禅寺」の”ぜん"の字が異なるのであった。修善寺温泉発祥の寺で温泉場の中心にあり、平安時代初期の大同2年(807)弘法大師の開基と伝わっている。鎌倉時代に北条氏が帰依したことから寺運が隆盛となり、堂塔が連なる大寺となった。一方、建久5年(1194)源範頼は兄将軍頼朝の猜疑を受けここに幽居、梶原景時に攻められて自刃したといわれている。また、頼朝の長子で2代将軍頼家は、母政子と祖父北条時政の謀略により幽閉され、元久元年(1204)入浴中に暗殺されるなど、源氏一族の骨肉相はむ悲劇の舞台となり、源氏滅亡の場として歴史にその名を残している。隣接の宝物殿「瑞宝蔵」には、空海が温泉を湧き出させたという金銅の独鈷杵、北条政子が我が子頼家の冥福を祈って寄進した宋版放光般若経、岡本椅堂が戯曲「修禅寺物語」を書くヒントとなった2代将軍頼家の最期をうつしたといわれる木彫りの古面などが展示されている。平成26年9月には、山門の修復に伴い仁王堂が新設され、長い間指月殿に安置されていた金剛力士像が山門の仁王堂におさめられた。静岡県伊豆市修善寺965−1。開基の「弘法大師」碑。「献燈」碑。「修善寺温泉観光ガイド」案内板。「現在地」にズームして。「修禅寺 配置図」。平成26年9月に修復された修禅寺「山門」。修禅寺「山門」の「仁王堂」におさめられた「金剛力士像」(阿形像)この金剛力士像は全国でもまれな藤原時代の作。一木彫りで像高は183cm、作者は不明。夜にはライトアップされるため、より迫力ある金剛力士像が見られるのだ と。昔の修禅寺は広大で総門まで約2km。金剛力士像はそこで寺を守護していたが、明治初め頃に総門が無くなり指月殿に安置されることになりました。その後、2014年に山門を改修した際、仁王堂が新設され、また山門で守護できるようになったという歴史があるのだ と。下半身を。横から。「木造 金剛力士像 阿形 平安時代後期作」。「金剛力士像」(吽形像)下半身を。横から。「木造 金剛力士像 吽形 平安時代後期作」。「山門」の扁額は「降魔場」、 西有穆山(にしあり ぼくざん)禅師書。西有穆山禅師は、江戸時代文政4年八戸湊町に生まれ、江戸後期から明治時代に活躍された名僧。永平寺西堂、可睡斎住職、大本山能登の総持寺独住三世、曹洞宗管長など、数々の要職を歴任され、明治天皇より勅持賜直心浄国禅師の号を賜っている高僧。小田原海蔵寺の月譚老和尚のもとに12年間修学し『正法眼蔵』を参究、明治33年横浜に西有寺を開き、同34年に能登総持寺に晋住、同43年、90歳で示寂されたと。「降魔場」とは護摩場とのこと。「山門」を潜ると左手に「石灯籠」その奥に「鐘楼」。「山門修復寄付芳名碑」。山門の内側にある切り株上に祀られている石像、「双体道祖神」であろうか。「百度石」。「お百度参り」による願掛けは、ここをくぐっては本堂に参拝することを百回繰り返して行ったのだと。山門をくぐって右前方に見えるのが「手水舎」。鬼瓦や欄間に彫られた龍が見事。「桂谷霊泉 大師の湯」と呼ばれ、龍の口から流れ出るのは、なんと温泉なのであった。「桂谷霊泉」とあるが、弘法大師が開創当初は「桂谷山寺」と呼ばれていたと。源泉かけ流しで、約60度とちょっと熱め。手と口を清めるための御手水ですが、修禅寺の場合、その場で飲むことも可能と。龍の口から出る温泉!!温度は熱すぎずぬるすぎずの適温。冬でも楽しく手、口を清めることができておすすめ。観光客からも人気がありペットボトルに入れて持ち帰る方もいたのであった。「洗浄偈以水滌穢、当願衆生、具足浄忍、畢竟無垢」と。【水を以て穢(けがれ)を滌(あら)わば、当に願うべし、衆生の、浄忍を具足し、畢竟無垢ならんことを】水て汚れを流すにあたって、すべての生あるもののために願わん。忍耐の身心をもち、どこまても清浄ならんことを と。「手水舎」の奥にあったのが「温泉分析書」。ズームして。泉温 60.1℃知覚的試験 殆ど無色、透明、無味、無臭水素イオン第度(pH値) 8.6電気伝導度(EC値) 86.1mS/m蒸発残留物 0.512g/kg(110℃)「修禅寺縁起この寺の歴史は宗派的に、真言、臨済、曹洞の三つの区分にすることができます。創立は大同2年(807)で弘法大師とその弟子によって開かれた真言宗の寺で、当時はこの地一帯に密教型式の堂宇が建ち並び、東国の真言宗の拠点ともなった模様です。この時代の末期ともいうべき元久元年(1204)源頼家がこの地で殺害されています。本尊の大日如来像(重文)は、その母北条政子が頼家公の菩提のため、七回忌に当たる承元4年(1210)に実慶に造らせたことが、解体修理の結果わかりました。その後、寛元4年(1246)宋から渡来した蘭渓道隆禅師(鎌倉建長寺開山)が一時止住されたのが縁で宋の皇帝から勅額が下るほど修禅寺の名が中国に広がり、約二百四十年ほど臨済宗として栄えました。次は今の曹洞宗でありますが、いつの時代でも栄枯盛衰はつきもの、北条早雲が韮山城主になるや、戦禍によって見る影も無いほどに荒廃したこの寺の再興のため、自分の叔父に当たる隆渓繁紹(りゅうけいはんじょう)禅師を住職として招き、広大な土地を寺領として寄進されたので復興することができました。禅師が入山されたのが延徳元年(1489)ですから既に五百年を過ぎて今日に至っています。 (注)昔は住した僧の宗旨で寺の宗旨が変わりました。大祭は毎年4月と8月、共に20日21日の 両日(弘法忌) 正式寺名 福地山修禅萬安禅寺 」「鐘楼」。「梵鐘」。「門及門衛所塗塀」碑。そして正面に「本堂」。脇に「庫裡」。「宝物館」。「宝物館」入口。修禅寺の貴重な寺宝を拝観することができる(入館料300円)。岡本綺堂氏の『修禅寺物語』が創作されるきっかけとなった古面も収蔵されている。この日は入場しなかったが「修禅寺に伝わる宝物の紹介」👈リンク をネットから。「宝物館」前に展示された「前代の本堂」の瓦。全長1m80cmあると。「前代の本堂」の唐獅子瓦。「前代の本堂」の鯱瓦。札所・売店の壁にはTシャツや手拭が販売されていた。「修禅寺 寒桜」。「修禅寺 寒桜(名称) シュゼンジカンザクラ(学名) Cerasus ✗ Kanzakura Rubescens Sugimoto(花色) 淡紅色(花期) 3月中旬(花弁枚数) 5枚「伊豆市に櫻を植える会」は、平成十八年ニ月にこの原木より接ぎ木をして、修褝寺寒桜の若木を増やして参ります。」3月下旬になれば(ネットより) 【https://www.at-s.com/event/article/flower/595321.html】より「鐘楼」を再び「本堂」前から。「修禅寺 檀信徒会館」。檀信徒会館の入口の左右には様々なポーズで座る「十六羅漢像」が並んでいた(正面左側)。表情豊かで、見ていてほっこりするような羅漢像が16体並んでいた。気に入った羅漢像をカメラで追う。正面右側。「檀信徒会館」の正面。扁額は「慈照閣」。その先の扁額「観月堂」。「檀信徒会館(慈照閣)」の内陣。ズームして。「賓頭盧様」であっただろうか。「告諭いま、私たちは多くの苦難に直面しています。新型コロナウイルス感染症の全世界的な拡大により、多くの尊い生命か失われ、人びとは、深い悲しみの中にいます。また、戦笋、貧困、格差などの社会不安、近年頻発する自然災害は、私たちに、大きな痛みをもたらしています。今日、曹洞宗の信仰に生きる私たちは、どのような生き方を目指すべきでしょうか。お釈迦様は、人生における苦悩の中で、菩提樹の下、座禅を重ねられ、お悟りを開かれました。その御教えは、祖師方によって相承され、いま、私たちも頂くことが出来ます。身を調え、息を調え、心静かに座りましょう。仏さまの智慧と同じ正信により、ものごとを正しく見ることが出来ます。その時、おのずから他者を重いやり助け合う慈悲のこころが育まれるのです。私たちの社会ではさまざまな分断が現出しています。感染症の広がりにより人間関係のさらなる希薄化が進む中、いまこそ、一人ひとりか菩提心を発し、人と人の温かなつながりを深めていかなければなりません。お互いに手を携え、四摂法(ししょうほう)の「同事」のおさとしを行じてまいりましょう。すべての人びとが求われることが御仏の願いであります。日々の生活の中で、仏さまに掌を合わせ、世界中の人びとが安らかに暮らせるよう念じ、皆とともに菩薩行を進めてま入りましょう。南無釈迦牟尼仏南無高祖承陽大師道元禅師南無太祖常済大師瑩山禅師 令和三(ニ〇ニ一)年四月一日 曹洞宗管長 南澤道人」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.23
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我が菜園の3月19日(土)のイチゴの苗の成長の姿です。3月の第1週に追加の施肥をし、黒マルチを敷きました。別の畝の苗です。マルチングの前に枯れ葉や古葉、わき芽を取り除きました。気温の上昇とともに新葉が日に日に数を増やして出て来ています。近づいて。イチゴ栽培でマルチを使う利点として、次の5点が挙げられるのです。① 雑草が生えにくい…黒マルチで覆うと光を通さないため、雑草が生育するのを抑えられます。② 地温が上がり、よく育つ…生長が早く、実の太りがよくなります。③ 果実が汚れるのを防ぐ…土に触れないのできれいな状態が保てます。④ 土の乾燥防止となる…根の周辺の水分を保ちます。⑤ 病虫害の被害が軽減される…ナメクジやダンゴムシの果実への食害が少なく、ボトリチス (灰色かび病)も少なくなるようです。既に花も咲きだしました。イチゴはバラ科の多年草で、イチゴの花は、桃やりんごなどと同じ種類に属します。一般に4~5月ごろに白くて小さな花を咲かせ、春の訪れを感じさせてくれのが特徴。イチゴの花は、花びらが5枚あり、花びらと同じ数のがく片がつきます。この花の内側にある黄色の中心部分が花托(かたく)と呼ばれている部分です。この花托のまわりをおしべが取り囲むように輪を描き、緑の葉の群れの中から顔をのぞかせているのです。イチゴの花の開花時期はこの時期。3月~5月ごろに白い小さな花をつけてくれます。花が終わってしばらくすると、実が少しずつ大きくなって来ます。緑色の実が赤くなって、実が食べられるぐらいになるまでに、だいたい一ヶ月かかります。イチゴの花が咲き、メシベとオシベが受粉すると、メシベの元になっている花托が膨らんで来ます。この花托こそ、イチゴの実となる赤くなる部分なのです。ところが、通常の果実は、花托が大きくなったものではなく、メシベの下にある子房が大きくなったもの。つまり、通常、食されているいちごの赤い実、は正確には果実ではないということになります。イチゴの表面にあるツブツブは種ではなく、ひとつひとつが果実なのです。 それぞれのツブツブの中に種が入っています。 一粒のいちごは、200個から300個の果実が集まった「集合果」なのです。そしてこちらは、ソラマメ。ソラマメ(空豆)も既に開花を始めています。ソラマメの花期は3月から4月で、花の色は白や薄紫です。花はヒラヒラとして蝶々が羽を広げているように見えることから「蝶形花」とも呼ばれます。ソラマメの花は5枚花弁で、花弁をよく見るとそれぞれ形や大きさが異なります。そのなかでも一番上にある大きな花弁を「旗弁」と呼びます。また、ソラマメの花には黒い斑があるのも特徴的なのです。そして、5月に入れば収穫が始まるのです。
2022.03.22
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「渡月橋(みそめ橋)」を渡り右折すると「日枝神社」の石鳥居が左手に現れた。静岡県伊豆市修善寺826。扁額は「日枝神社(ひえじんじゃ)」。「日枝神社」。 「北条氏・源氏ゆかり 13 の地を巡るデジタルスタンプラリー」の「梶原 景時」。「日枝神社日枝神社は修禅寺の鬼門に当り、弘法大師の建立と言われている。明治元年(1868年)の神仏分離令により分離されたもので、もとは修禅寺の山王社(鎮守)であった。毎年10月18日、19日には例祭が行われ、18日の前夜祭には神輿が練り歩き、威勢の良い掛け声が温泉場中に響き渡る。境内には夫婦杉の大木や、静岡県指定天然記念物の一位樫(いちいかし)などがそびえ立っている。一位樫は九州地方に生育する木で伊豆では珍しい。また、源範頼が幽閉され住んでいたという信功院跡(庚申塔のみ現存)もある。」「日枝神社」石塔。石段に向かって進む。「「日枝神社」にまつわる神話大山咋神(オオヤマクイノカミ)と建玉依比売命(テタマヨリヒメノミコト)の縁結びど子宝の神話(日木書紀)よりある日山に狩に出かけた大山咋神、獲物に向けて放ったはずの矢がはずれ、近くの小川に落ら、流されてしまいました。その時下流を散策していた建玉依比売命は川の中にきらきらと光る矢を見つけ持ち帰りました。その矢は丹塗り(にぬり)の大変美しい物だったのて、寝床に飾り毎日眺めていると矢に化身した大山咋神が現れ、ニ人は結ばれました。そしてその後子宝にも恵まれ、幸せに暮らしたという伝説があります。この云われから、この日枝神社では玉依比命の真心を真っ白い花に例え、良縁と子宝を望み祈願する風習が今も残っております。女性は白い花、男性は丹塗矢を持って正面の階段を上ります。境内にある夫婦杉の前に立って、肩のカを抜いて天を仰ぎ静かに目を閉じましょう。天の光を感じ、優しい力に包まれ、次第に心が開放されていくのを感じることが出来るでしょう。あなたの想い 天高く届け」階段の脇に、『玉依の花』と『丹塗り矢』を奉納するための掛所があり、絵馬のように願いごとを書いて結んであった。これは玉依姫の丹塗り矢伝説に由来していると。『玉依の花』に願い事を書いて。「信功院跡(しんこういんあと)修禅寺の八塔司(たっす)の一つである信功院のあった所です。建久四(一一九三)年、源範頼は兄である頼朝の誤解により、この信功院に幽閉されました。翌年、梶原景時率いる五百騎の不意打ちに合い、範頼は防戦の末に自害したといわれています。信功院は後に庚申堂となり、今は文政元(一八一八)年建立の庚申塔が一基残っています。」これが「信功院跡」の「庚申塔」。さらに両脇の杉の大木を見ながら石段を上って行った。そして石段を上りきると狛犬が迎えてくれた。(阿形像)。吽形像。手水場は巨石を彫り込んで。そして「日枝神社」の「社殿」。「拝殿」前には石灯籠が対で。「拝殿」の大きな注連縄には太房が3本。「本殿」を見る。右手にあったのが「イチイカシ」。「日枝神社のイチイカシ静岡県指定天然記念物(ブナ科)昭和32年5月13日 文化財指定根廻り5.5m、目通り4.5m、樹高25mの大木、一位樫は九州地方に成育する木で伊豆には珍しい。日枝神社は修禅寺の鬼門に当たり、弘法大師の建立といわれる。明治初年(一八六八)の神仏混淆廃止令(神仏分離令)により分離されたもので、もとは修禅寺の山王社であった。境内には杉の大木、欅、槙等が亭々(ていてい)とそびえ立っている。」「静岡県指定 天然記念物 日枝神社のイチイカシ」碑。絵馬掛所(えまかけどころ)。「夫婦杉」。「夫婦杉(子宝の杉)天に向かって真直ぐに聳え立つごく稀なる根幹が接合した樹齢八百年の杉。夫婦円満や子宝を夫婦杉にお祈りください子は夫婦の鎹(かすがい)」。「夫婦杉」を見上げて。隣にも1本。これも根幹が接合しているようでであるので「不倫杉」か?「拝殿」奥にあった「征清軍士昭忠之碑」。明治29年建立。明治27年から28年にかけて行われた日清戦争の慰霊碑です。第11代・13代・15代と三度内閣総理大臣をつとめた、陸軍中将従三位勲一等 桂太郎 の名前が刻まれていた。奥の高い場所には滝の姿も。再び「本殿」を逆側から。「社務所」。最後に再び「日枝神社」の「拝殿」を振り返る。県道18号線に戻ると、左側に「虎渓橋(こけいばし)」、別名:あこがれ橋を見る。「虎渓橋(あこがれ橋)の橋紋」。「虎渓」の文字が、下部にデザインされていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.22
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昨日・3月20日のAMに我が家の横にある菜園の隅に生えて来た「ヨモギ」を妻が摘み取りました。草餅はゆでた「ヨモギ」の葉を混ぜ込んだ餅のことで、餅の中にあんをつめたものもある。草餅というと、今では「ヨモギ」を使うのが一般的です。しかし、平安時代や江戸時代には春の七草のひとつ「御形(ごぎょう)」(母子草のこと)が使われていたのだと。ハサミで摘み取る妻。「ヨモギ」の新芽をズームして。草餅は中国から伝わったとされていると。中国では古来から日本の桃の節句にあたる上巳(じょうし)の節句に、御形を練り込んだ草餅を食べる習慣があったとのこと。御形には邪気を祓う力があるとされていたから。その風習が日本に伝わり、平安時代にはすでに「母子が健やかに過ごせますように」という願いを込めて御形を使った草餅を食べていたようです。しかし、御形には母子草という別名がある。母子の幸せを願って食べる草餅に、母子草をすり潰して混ぜ込むのは縁起が悪いと考えられるようになり、御形と同じように邪気を祓う力があるとされていた「ヨモギ」を使うようになったのだと、ネットより。そして、妻によると・摘み取った「ヨモギ」を沸騰した湯で1~2分茹で冷水に。・その後に、水気をしっかり切り、包丁でみじん切りしてからすり鉢でする。・上新粉にお湯を少しずつ加え、耳たぶくらいの固さになるまでよく捏ねる。 お餅を握り拳半分くらいの大きさに取り、20分程蒸す。・すり鉢に入れてよもぎと一緒に潰しながら混ぜる。・食べやすい大きさに丸くまとめるそして出来上がった草餅。新鮮なヨモギの繊維が草餅の中に見える。そしてこの日は、きな粉で。瑞々しい「ヨモギ」の香りが口いっぱいに広がり、爽やかなヨモギの若葉の風味を楽しめたのであった。さりげなく香るヨモギと口当たりのよい生地の感触が、食欲をそそるのであった。
2022.03.21
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「加藤景廉一族の墓」を後にして、国道136号を狩野川に沿って南下する。「横瀬」交差点を右方向にカーブして進むと右手にあったのが「横瀬八幡神社 (よこせはちまんじんじゃ) 」。静岡県伊豆市修善寺256。社号標石には「八幡神社」。石鳥居の扁額は「八幡宮」。石段を上がると「拝殿」が正面に。「神楽殿」。「手水舎」。「拝殿」。「八幡神社当社は、旧修善寺村の氏神として古来より厚く尊崇されている神社で、相殿は鎌倉二代将軍頼家公である。当所はここより二百メートル東側の月見ヶ丘に在り、ニ体の古像が祀られた旧祠であったが、後に当所へ社殿を建立し、頼家公束帯(正装)の立像を作り、神を引いて頼家公の廟(みたまや)とし、八幡と称した。社殿は現在も両扉となっており旧規を残している。右側の本社には、頼家公の母北條政子悪病平癒の伝説をもつ「孔門石」又は「玉門石」と呼ばれる陰石が祀られている。昔修禅寺の総門が当地横瀬の大門(字名)これよりニ~三百メートル下がった附近にあった時代に、仁王像があったが、総門がこわれてしまった時(徳川時代)に当社に移され、さらにある老婆の夢枕にこの仁王像が現れて、修禅寺に帰りたいと云うので、頼家公にゆが(か)りのある指月殿に納めたという。この指月殿は、政子が非業の最後(期)を遂げた、我が子の冥福を祈って建立したものである。祭礼日は毎年十月十九日となっているが、最近は近くの日𫞂(曜)日に行なわれる。又昭和五十年迄は三番叟が奉納されていたが、現在は後継者が少なく、行なわれていない。」同じ鎌倉幕府に縁の深い由緒ある史跡であるにもかかわらず、修善寺温泉郷の賑わいとはほど遠く、この社はひっそりと静かで、落ち着いた佇まいの神社であった。内陣。「修善寺橋」の袂にあった「月見ヶ丘愛童将軍地蔵尊」。「月見ヶ丘愛童将軍地蔵尊ここより二百メートル下った狩野川沿いに月見ヶ丘と呼ばれる丘がある。この丘は、建仁ニ年(一ニ〇三)に鎌倉府ニ代将軍源賴家公が、北條氏の政略により修善寺に幽閉されていた時、幽棲の寂しさを慰める為いつもここで月を眺めては鎌倉を偲び、この里子達と遊んでは我が子を思ったという。丘の上のわずかな平地は、八幡神祠と保倉神の小さな石の祠が今に残っている。又丘の中腹には非業の最後(期)を遂げた頼家公の冥福を祈り、里人による愛童将軍地蔵と名付けられた笠冠地蔵が建立されていたが、昭和三十六年の道路拡巾工事により月見ヶ丘が削られて修善寺橋際に移転された。地蔵尊の縁日は八月ニ十四日で、この日は地元老人クラブにより祭礼が催され、参拝者には、家内安全のお礼と手づくりのだんごが渡される。又近くの広場では子供角力大会や盆踊り大会も開催される。」「北条と源氏ゆかりの史跡めぐり 修善寺温泉街モバイルスタンプラリー」の「源頼朝」。ちょっと変わった狛犬横瀬八幡神社の狛犬は、一般的な狛犬と形が異なっており、カエル?やナマズ?のような風貌。台座には『奉納宝暦十三年十一月吉日』とあり、1757年に奉納されたことがわかった。この狛犬は、当時の石工が狛犬を見たことがなかったため、口伝のみの想像で彫られたものと言われているようである。ちょっととぼけた顔をしたかわいい狛犬なのであった。阿形像。お顔を正面から。吽形像。お顔を正面から。朱の祠に「孔門石」がまつられていた。北条政子が修善寺に湯あみに訪れていた際に女性の下の病に罹り、鎌倉から名医を呼び寄せたが、政子の侍従から「奥殿の扉を開けてはいけない、手も触れてはいけない」と、申し付けられてしまい困った医者が苦肉の策で、糸の端を政子に持ってもらい、その動きでなんとか病を特定したが、今度は薬を塗る場所をどのように説明したらよいかと困っていたところ、神夢のお告げがあったという横瀬八幡神社の神主が、女陰の石尊を医者のもとへ持ってきた。医者がその石に丹粉鉄の3色(丹は赤、粉はおしろい、鉄はお歯黒)を塗って薬を塗る場所を指定し、政子が承知し従ったところ、たちどころに病が治った。それ以来、この石は女性特有の病、子宝開運のご利益のある石として祀られています。また、石は人の手で彫られたものではなく、自然石であることも伝えられています と。正面から一番右の赤い幕のかかった祠に、北条政子に縁があると伝わる女陰石が祀られていた。陰石の前には、教育的配慮のため?か赤い蝶ネクタイの付けられた神前幕があったが・・・。失礼して、「孔門石」を・・・・。左には石祠が並んでいた。「横瀬八幡宮縁起兼ねて修善寺温泉に湯あみしける徒然に横瀬八幡宮に詣うで、ゆかりある祠にてめづらかなる世のまれごとを伝えたり此所は、狩野川と桂川との合流点にあたり此の辺一帯は碧潭六十尺葛羅のたれさがれる磐石の断崖なるも船土のわたりより舟もて渡りなば、渓谷をひらきて修善寺温泉に通ずる小径あり、すぐその道上に昼なお暗き老杉の森ありて、八幡宮はここに鎭座するなり。前從ニ位征夷大将軍源頼家公を奉祀すときくだに英雄武運つたなく、とらわれの身となり、元文元年修善寺に於いて北條氏のため人浴中虐殺されたる末路を思ふだに哀れなり。誠に祇園精舎の鐘の声諸行無情のひびきあり。御年いまだニ十三才。北條氏の専横を憎しみて青雲の志、軒昂にすぎたるが災いを招くに至り果敢なき悲運に魅せられて若き御命をおとし給う。又この宮の末社に比賣神社と云う小祠ありて御神体は女陰なり。高さも巾も一尺五寸ばかりの自然石にて、上方やや恰も擬宝珠に似たるが、正面に女陰大きく深く刻みあり。但し決して人間の刻みたるものにあらず、社伝に日く昔尼将軍政子、修善寺に湯あみし折、時秋深く、奥殿の病に罹りて鎌倉より名医を招き、病状を断定せしめ給う。その時に侍従日く奥殿の扉を開くべからず、手もふるるなかれしと申しつけられ、名医も困りはて勘考の極み、糸の一端をとりて他の一端をおそれながら尼将軍にささげまいらせ、その動きによって患部を察知するを得たり。さて次に薬石を如何ようなるわざにしてつけまいらせと謀るに、これには応答一人だになし、しかる処に八幡宮の神主、横瀬の主人と云うありて神夢の御告げに從い、右なる女陰の石尊を奉昇して見参しければ名医相手して、いたく喜び即ちこの石尊によって丹粉鉄(丹はべに、粉はおしろい、鉄はおはぐろ)の三色を、そのところにぬり、以って薬石を色別したるに尼将軍うなづき給ひて、これにしたがいければ立ち処に平愈したり。それより婦女の下の病、子宝開運の御霊験あらたかなり。あなかしこ。(石尊のまたの名を紅門石とも孔門石とも云うなり)」2017年、道路の拡張のため境内の一部が削られた際、鳥居と神橋が撤去され、新たに鳥居が奉納されたのだと。撤去された鳥居と神橋は拝殿の横に置かれていたのであった。旧笠木をズームして。石の太鼓橋・旧神橋も置かれていた。横から「本殿」を見る。国道まで坂を下った場所にあったのが「伊豆市消防団 第一分団下部詰所」。走っているとバス停「うなり石」を右手に発見。民家の前に巨石が鎮座。高さが3mはあっただろうか。名前・「うなり石」には諸説あるようだが①裏山から転がってきた時の音が唸るような音だった。②風の通り道なので、強い風が吹くと唸るような音が聞こえる。③うなり石の傍に沼があり辺り一帯は湿地の為、人が通るたびにうなりながら揺れ、みずしぶきが あがり大変恐かった。その話を聞いた弘法大師がありがたいお説教をして静めたそうです。と湯ヶ島層群の修善寺凝灰岩類に属する凝灰角礫岩のようだ。そして修善寺温泉の「渡月橋(みそめ橋)」を渡り空き地に車を駐め修善寺の散策を開始する。左手にあったのが「夏目漱石の句碑」。「生きて仰ぐ 空の高さよ 赤蜻蛉」1910年(明治43年)8月、修善寺温泉「菊屋」にて療養中、大量の吐血とともに生死をさまよった夏目漱石。「修善寺の大患」と呼ばれた事件 と。その後奇跡的な回復を見せ、10月には帰京できるようになった。一時的とは言え「死」を体験した漱石は、その後の作品にも活かしている。奇跡的にも回復を見せた際に呼んだ句が、この「生きて仰ぐ 空の高さよ 赤蜻蛉(あかとんぼ)」句碑には、地元の紙切り作家「水口千令(ちひろ)さん」が漱石のイラストを切り絵で製作し刻んであるのだと。その先、左手にあったのが温泉街を見渡せる高さ12mの「仰空楼(ぎょうくうろう)」(筥湯横無料展望台)と外湯「筥湯(はこゆ)」。その昔、鎌倉二代将軍「源頼家」が入浴していたという伝説のお風呂でもあるのだと。「筥湯(はこゆ)かって修善寺川沿いにあった七つの外湯のひとつで、元久元年(1204年) 7月18日に当地に幽閉されていた鎌倉幕府ニ代将軍源頼家が入浴したという伝説の名湯。入浴中に北条氏の刺客に襲撃された温泉であったと伝えられている。 入浴中に北条時政の家来により襲われて亡くなったと言われているが、その襲われた温泉がこの筥湯だと言われている。 昭和初期まで続いていた外湯巡りを復活させるため、平成12年2月12日にこの地に再建された。併設する高さ12メートルの「仰空楼」は、かって修善寺を愛した文豪「夏目漱石」の漢詩にちなんで名付けられた。」「ニ〇一〇年 文豪夏目漱石修善寺温泉・菊屋旅館滞在一〇〇年~菊屋旅館本館跡・百日紅の樹など~作家夏目漱石(慶応3~大正5)は、病後の静養のために、明治43年8月6日から松根東洋城(俳人、漱石門下生)の案内で修善寺温泉「菊屋旅館」に滞在した。初日は別荘に、翌日からはこの地にあった本館に滞在した。当初は読書のほか、近隣の地の散策などもしていた。ところが暫くすると胃病が兆して、殊に日晩には大吐血をおこすなど、一時は病状が悪化した。このため、医師たちは厚い医療をつづけた。この間はまた、身内の外、多くの友人、門下生らが見舞った。その後、症状は徐々に快方に向かっていった。帰京も近い日の句に「帰るは嬉し梧桐(ごとう)の未だ青きうち」がある。こうして10月11日、医師、鏡子夫人らに見守られ、この地を後にした。本館跡地の百日紅(「さるすべり」とも)は、晩夏から秋にかけては、美しい桃色の花をつける。この頃の句に「先づ黄なる百日紅に小雨かな」がある。なお、現在の菊屋旅館の裏通りは本館にも通じ、かっては漱石や友人、門下生らが往き来した往還でもあった。」正面に「渡月橋(みそめ橋)」。「とげつばし(渡月橋)」。修善寺温泉街にある「桂川」に架かる橋。5つの橋を渡る「恋の橋めぐり」の1つとして有名。「渡月橋」から「桂川」の下流を見る。「渡月橋」から「桂川」の上流を見る。「渡月橋(とげつばし)・みそめ橋良縁祈願桂川にかかる五つの橋其々に恋にまつわる、ご利益があると言われています。願いをかけながら渡ると、その思いが成就するとか・・・。」「夏目漱石詩碑仰臥人如唖 黙然看大空 大空雲不動 終日杳相同(仰臥して人唖の如く 黙然として大空を看る 大空は雲動かず 終日杳として相い同じ。)九月ニ十九日に詠まれたこの五言絶句の漢詩は漱石の漢詩の中でも傑作と言われる。昭和八年四月十日、漱石十七回忌記念し鏡子夫人と、家族「九日会」の門下生 多くの友人達と地元の有志により修善寺白然公園の丘に建立、除幕された。碑文・狩野亨吉書 ・菅 虎雄又、建立に盡カした松岡譲(長女筆子の夫)は、修善寺に有るべくして建てられた立派な詩碑であると書いている。漱石の最初の碑である。大患(たいかん)の部屋胃潰瘍の転地療養の為に菊屋別館を訪れ、翌日には本館(筥湯横駐車場) に移った。しかし其の後の病状は思わしいものではなく、八月ニ十四日には、大吐血による人事不省に落ちいったが、奇跡的に回復に向い約ニヶ月余の闘病生活を過した後、無事十月十一日帰京された。この大患時を過された本館、「一番」の部屋は、現在、「虹の郷」に移築され「夏目漱石記念館」として保存、一般公開されている。「漱石・修善寺の大患」を偲んで頂き度い処である。」「桂川」にかかる「渡月橋(みそめ橋)」を振り返る。ズームして。「桂川」の白き流れをカメラで追う。JR修善寺駅近くで「狩野川」に合流する「桂川」の流れ。「渡月橋(みそめ橋)」の路面に埋め込まれた「橋紋」。修善寺の5つの橋には、それぞれ橋を表すシンボルの『橋紋(きょうもん)』があり、橋の路面に御影石で出来た「橋紋」が埋め込まれていたのであった。「修善寺梅林」の梅の花に「渡月橋」の「渡」の文字がデザインされているのであろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.21
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この日は2月19日(土)、「源頼朝と北条氏ゆかりの伊豆の地を訪ねる」の2回目の2日目。宿泊した伊豆の国市長岡にあった「ホテルサンバレー アネックス」を7:00に出発し、この日の最初の目的地に向かう。県道129号線・韮山伊豆長岡修善寺線を南下する。最初に訪ねたのは「東昌寺」。「偈供養◯◯霊堂」?石碑。伊豆の国市天野にある「東昌寺」は、源頼朝に仕えた天野遠景(あまの とおかげ)が、薬師の段と呼ばれる高台に建立した薬師堂を始まりとする寺院。1957年(慶長2年)、薬師如来像を現在地に移し、遠景の娘萩野氏が念じていた阿弥陀如来を本尊する東昌寺が建立された。遠景・弟の光家・子の政景の位牌、遠景が彫ったという毘沙門天像が残されている。そして遠景・政景・光家の墓が今も並んでいる。静岡県伊豆の国市天野537。山門に向かって石段を上がって行った。「東昌寺と天野遠景本寺は天明山東昌寺と称し、浄土宗に属している。本寺に現存している「薬師如来縁由記」によると、はじめは、ここより三〇〇メートル南方にある「薬師の段」と呼ばれる高台に、天野遠景が建立した薬師堂であり真言宗であ-った。密家の僧智源法師を迎え、遠景が崇拝した薬師腹籠を安置したものであった。その後、慶長ニ年(一五九七)、僧信誉が薬師の段から現在地に薬師像を移し、遠景の娘萩野氏が念じていた行基作の阿弥陀如来を本尊として、建立されたのが本寺である。現在、本寺には遠景、子の政景、弟の光家の位牌と共に遠景自身が彫刻した毘沙門天像や馬の像が現存している。薬師の段には、遠景・政景・光家の墓が今も並んでいる。遠景は、治承四年(一一八〇)、源頼朝が韮山で挙兵した当初より頼朝に仕え、数々の功をたてた武将である。西国での平家討伐の際、遠景は流れ矢を受け、傷に苦しんだ。このとき、現れた異僧より聖徳太子の作といわれる薬師腹籠の像を贈られた。遠景は、この像を身辺よりはなさず、当地に持ち帰り、薬師堂に安置した。これが、先に述べた薬師堂の本尊である。」朱に塗られた山門を潜る。正面に「本堂」。扁額「東昌寺」。掲示板。「私たちの宗旨名称 浄上宗宗祖 法然上人(源空) (一一三三~一三一ニ)開宗 承安五年(一一七五)本尊 阿弥陀仏(阿弥陀如来)教え 阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ、「南無阿弥陀仏」とみ名を称えて、 人格を高め、社会のためにつくし、明るい安らかな毎日を送り、 お浄上に生まれることを願う信仰てす。お経 お釈迦さまがお説きになった『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の 三部経をよりどころとします。」と。「薬師堂」。扁額「薬師堂」。「秘仏 天野遠景公念持佛 腹籠薬師如来」と。薬師堂には、天野遠景が崇拝した「薬師腹籠」が安置されているのであった。内陣。「腹籠薬師如来」は秘仏であると。「寺務所」。境内の左手の斜面にあった墓地。「狩野家」と刻まれた墓が多いのであった。六地蔵であろうか。こちらにも「狩野家之墓」と。石の祠の中には狐樣が2体。「南無阿弥陀佛」碑。庚申塔であろうか。そして500mほど進むと「天野遠景の墓」があった。石段に向かって進む。「市指定史跡 天野遠景の墓源頼朝から厚く信頼された家臣天野遠景の墓である。中央が遠景、向かって左が子政景、右が弟の光家の墓と伝えられている。遠景は中豆の豪族狩野茂光に従い、源為朝討伐で功を挙げた。治承四年(一一八〇)、頼朝の挙兵に加わり山木判官兼隆を討ち、石橋山の合戦では敗走する頼朝を援護し、安房国(千県)に落ら延びさせた。また、富士川の合戦を前に、平家軍に属しようとした伊東祐親を捕らえ、さらに頼朝の弟範頼に従って西国に向い、平家追討に多くの武功をたてた。遠景は鎮西奉行職に任命され、九州の平定に取り組んだ。頼朝の死後、剃髪して「蓮景」と号した。建仁三年(一ニ〇三)、謀反を企てたとして比企能員を北条時政の命により討った。のちに天野に帰り、この地に没した。」「天野遠景の墓」に向かって進む。大きな石碑があった。「天野遠景遺績之碑」と。天野遠景は、源氏ではなく藤原氏の一族である。天野遠景は藤原南家の末裔。藤原南家の子孫は伊豆に住んで武士となったものが多く、遠景も伊豆国田方郡天野郷(伊豆の国市天野)に住んで「天野」を名字とした一族であると。墓を正面から。頼朝が天下をとると、天野遠景は鎌倉幕府で重用され、子孫は遠江・安芸・武蔵・能登など各地に広がって全国の天野さんのルーツとなった。なかでも、遠江と安芸の天野氏は戦国時代まで続いて戦国大名となり、安芸天野氏の一族は毛利元就の子を養子に迎えて右田毛利氏と名乗り、江戸時代には長州藩主の一門に連なっている。中央が遠景、左が子の政景、右が弟の光家の墓と伝えられている。角度を変えて。様々な角度から。左の、子の政景の墓石が一番小さかったが。次に訪ねたのが「狩野川台風復興記念碑」。昭和33年(1958年)9月26日に台風22号(狩野川台風)が伊豆半島の南端を通過し、旧修善寺町では土石流、がけ崩れ、洪水氾濫により、一夜にして死者469名、家屋の流失256戸などの被害が発生した。「狩野川台風復興記念碑」は、伊豆市の狩野川記念公園内に設置されていた。正面に廻って。「狩野川」そして「狩野川大橋」その奥に「城山」が。標高342mの山。城山は地下にあったマグマが冷え固まり、浸食によって地表に現れることでできる岩頸と呼ばれる地形である。麓には狩野川が流れ、岩肌が現れた特徴的な姿から、周辺地域のシンボル的存在となっている。修善寺道路の「新狩野川大橋」を見る。そしてこちらが「狩野川台風殉難者慰霊碑」。近づいて。「裏面」昭和三十三年九月二十六日台風二十二号伊豆半島を急襲縦断した。天城の降雨量七百五十ミリ、最大時間雨量百十ミリを越え全山至る処崩壊して三千余箇所、崩壊の土砂木石は豪雨を堰止め豪雨又堰を破ることその何百回なるを知らず。ついに修善寺橋に於いて狩野川の本流を堰止めたり。遂に上流地帯は、一大濁湖と化し浮遊物は皆天城を指して逆流するに至る。堅を誇る修善寺橋もその暴圧に堪ゆること得ず突然陥没した。時午後九時五十分頃か。橋壁を突破した濁潮は一大怒涛と化し、まっしぐらに下流熊坂を直撃する。かかる上流の事態を夢想だにしなかった熊坂の夜は一瞬にして阿鼻叫喚の修羅地獄無気味な地鳴りと荒れ狂う波の底に沈んだ。やがて、水退き満月照らしださるる魔の爪跡、百戸の村にして夫婦もろ共死せし四十五組、寡夫となりし十六人、寡婦五人、孤児二十二人を出し、犠牲者の数は二百九十一人にのぼり、家屋の流出七十六戸百九十三棟耕作地の荒廃三十六ヘクタールに及ぶ。かくの如き惨害は村史口碑にも伝承なく実に前古未曾有にして、国この二十二号を名づけて狩野川台風となす。時移り人交って災害二十周年を迎う。茲に熊坂土地改良区は碑を建て惨状を録すと共に台風全殉難者九百四十一柱の霊を弔う。 昭和五十三年九月二十六日 熊坂土地改良区之建」「儀牲者の数は二百九十一人」と。「伊豆はひとつ」 I❤ IZU と。そして次に訪ねたのが「加藤景廉一族の墓」。加藤景廉(かとうかげかど)は伊豆国の牧之郷を治めた武将。工藤茂光とともに源為朝を征伐したと伝えられている。1180年(治承4年)8月17日の源頼朝の挙兵に従い、山木館襲撃では佐々木盛綱とともに伊豆国目代の山木兼隆を討ち取った。8月24日の石橋山の戦いでの敗戦後、兄・光員と甲斐国に逃れるが、10月には武田信義らとともに駿河国に侵攻、鉢田の戦いで目代・橘遠茂を滅ぼした。1185年(元暦2年)の平家追討では、西海(九州)において特に功があったとして、北条義時・小山朝政・小山宗政・中原親能・葛西清重・工藤祐経・宇佐美祐茂・天野遠景・仁田忠常・比企朝宗・比企能員とともに頼朝から感状(かんじょう)を受けている。1193年(建久4年)11月28日、永福寺の供養の際に女性問題を起こした安田義資を誅殺。翌年、義資の父義定も謀反の疑いで梟首されるが、一説によると景廉は追討使だったのだという。頼朝の亡き後の1203年(建久3年)に起こった比企の乱では、比企能員を暗殺した仁田忠常を誅殺(仁田忠常の誅殺)。1219年(建保7年)に将軍源実朝が暗殺されると、警備の最高責任者だった景廉は、その責任を負って出家し、覚蓮房妙法と号している。1221年(承久3年)8月3日没ここ牧之郷に葬られた。静岡県伊豆市牧之郷53−35。「真言律宗 金剛寺跡」碑。「金剛寺跡説明この地は、鎌倉時代より室町時代に至るまで牧之郷の地頭であった加藤氏及び子孫の遠山氏の菩提寺の真言律宗の金剛寺のあった所である。この寺の伽藍は室町時代、狩野川の大洪水により流失したが、現在まで立派な五輪塔と寺中という字名や、堂の前、弥陀堂、弥宜屋敷といったような寺に関係した名が残っている。又この附近より鎌倉時代の瓦が時々発見される。天明五年 (一七八五) この地より鎌倉極楽寺三代善願上人 (順忍) の舎利が発見された。上人は加藤景廉の孫である。上人の火葬骨の蔵器は其の他鎌倉の極楽寺、奈良の額安寺からも発見されている。このことは、上人が如何に立派な名僧であったかを物語っている。尚、現在ある五輪塔及び塚は、昭和三十三年の狩野川台風により流失、或は散乱したが牧之郷の鈴木治作氏により現在のように整備された。」「伊豆指定史跡頼朝重臣 加藤景廉(かとうかげかど)一族の墓 (五輪塔)景廉は、源頼朝による源氏旗揚げの挙兵に加わり、大野 (伊豆市) の堀藤次親家とともに山木 (現 伊豆の国市) 判官の平兼隆を討ち、石橋山 (現 小田原市) の合戦でも活躍するなど、鎌倉幕府を創り上げた功労者の一人です。頼朝は手柄をたてた景廉に牧之郷を始め各地に領地を与えました。美濃国遠山庄 (現 岐阜県恵那市岩村町) では、日本三大山城の一つとして有名な岩村城を築き、この地を長男景朝に譲り渡した後、景朝は遠山の姓を名乗り、美濃遠山氏の発展の基礎をつくりました。子孫の中には、北条早雲の第一の重臣であった遠山直景や、江戸時代の町奉行「遠山の金さん」こと、遠山左衛門尉 (金四郎) 景元などがいました。建保七年 (一二一九) 一月、鎌倉幕府の三代将軍源実朝が暗殺された際の警備最高責任者であった景廉は実朝の霊を弔うため出家し、覚蓮房妙法と号しました。承久三年 (一二二一) 五月、鎌倉から牧之郷に帰った景廉は、再び地頭職に就きましたが、八月三日に没し、この地に葬られました。この五輪塔は、狩野川台風によって流され、散乱したものを住民がここに集め、流失部分を補完して祀ったものです。昔、この付近に金剛寺という大きな寺があったといわれ、天明五年 (一七八五) この墓の下から、景廉の孫である善願上人の蔵骨器 (舎利瓶) が発見されました。この舎利瓶は県指定文化財に」指定され、現在修善寺郷土資料館に展示されています。」現在、ここ牧之郷に並んでいる五輪塔は、1958年(昭和33年)の狩野川台風によって流され、散乱していたものを住民によって集められたもの と。「讃景廉公 吉岡?星 鎌倉名将景廉公 翁目牧郷輪塔中 物挽星移垂八百 豆州挙仰武功雄」と。墓の前を「伊豆箱根鉄道駿豆線」が通過。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.20
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「古奈 湯谷神社」を後にして、南に300mほどの場所にあった「西琳寺」を訪ねた。西琳寺は、810年(弘仁元年)に弘法大師が草庵を結んだという地に建てられた寺。弘法大師が刻んだ弥勒菩薩にちなんで弥勒寺と名付けられ、弥勒菩薩の伝説から山号を西琳山と称した真言宗の寺院だったが、1748年(文明10年)、本願寺八世の蓮如の教化によって浄土真宗に改宗され、西琳山弥勒寺から弥勒山西琳寺と改められた。静岡県伊豆の国市古奈38。「山門」前には「弥勒菩薩参道」碑があった。ここ、麓の西琳寺山門から奥にあった弥勒堂までは「弥勒菩薩参道」として整備されているのであった。「西琳寺の由来真宗大谷派 弥勒山 西琳寺弘元午(八一〇年)弘法大師は当地の山中に草庵を結んで滞在された。里の人々は大師に深く帰依し、一宇のお堂を建てて上げた。これが当寺の始まりで、大師の刻まれた弥勒菩薩にちなんで弥勒寺と名づけられた。弘仁三年の初春、大師は草庵を第子の海心に与えて修善寺に移られた。北條斉寄は子がないので弥勒菩薩に祈願したところある夜奥方が当寺の後ろの山から光る玉が飛んで来てロの中に入ると夢見て懐妊し、男の子を生んた。斉寄は大いに喜び、西の山から玉が飛んで来たというので、西琳山という山号を贈った。(球は美しい玉の名)のち源頼政の子孫、稲垣頼忠が出家して当寺に入り文明十年(一四七八年)本願寺第八世蓮如上人の教化を受けて真言宗から真宗に改宗した。その時に寺の称号も徒来の西琳山弥勒寺を弥勤山西琳寺と改めて今日に至っている。現在の本堂は明治初年に完成したものである。弥勒堂の由来西琳寺寺の背後の山の中腹にある。弘仁年間、弘法大師が当地に滞在されたとき、高さ一丈(三メートル)の自然石に弥勒菩薩の尊像を彫って安置されたと伝えられる。この弥勒菩薩は日本三体の一言われて古くから諸人の崇敬を集め、源頼政の妻あやめ御前も深く信仰したという。現在も近隣の人々はもとより、遠く京浜地方からも、参詣する人が絶えない。この像は、美術的にもすぐれた価値を認められ、町の文化財に指定されている。弥勒菩薩は釈迦入滅の後、五十六億七千万年を経て、この世に出現し、衆生を済度すると言われる仏である。境内には左記の旧跡があります。あやめ御前 供養塔六代目 美女桜」「山門」。扁額「弥勒山」。「手水舎」が参道右側に。「本堂」。「寺務所」。「親鸞聖人像」。お顔をズームで。「永代供養墓」。「南無阿弥陀仏」、「倶会一処(くえいっしょ)」と。「倶会一処」とは、『仏説阿弥陀経』に出てくる「倶(とも)に一つの処(ところ)で会(あ)う」というご文(もん)。今は寂しいお別れをしますが、またいつか、お浄土(天国)でお会いできますよ。先にお浄土に行って、往生している先祖たちと、同じ浄土で往生させていただきますよ。そんな意味であると。「慰霊塔」。「あやめ御前 供養塔」。ここ、伊豆の国市の西琳寺には、伊豆の古奈(こな)の生まれで、都に上り鳥羽上皇に仕え,後に源頼政の妻となった「あやめ御前」の供養塔があった。あやめ御前は、院で最も美しい女性だったと。美人で貞操だったあやめ御前の霊を慰めようと、心ある人たちの浄財によって供養塔が建てられた。西琳寺の周辺には「あやめ小路」をはじめとして、「あやめ」がつく店や共同浴場などがあったり、「源氏山」と呼ばれる丘陵があったりして、歴史に思いをはせることができるのだ と。「弥勒堂」。本尊の弥勒菩薩は弘法大師が高さ約3メートルの自然石に刻んだもの。源頼政の側室菖蒲御前の念持仏であったと伝えられている。源頼政は、源頼光を祖とする摂津源氏(参考:六孫王神社)。平清盛に信頼されて、平家政権下で清和源氏としては突出した従三位に叙せられ、源三位(げんざんみ)と呼ばれた。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の源氏の長老・源頼政を演じる品川徹さん。平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害した(以仁王の挙兵)。以仁王の令旨を受けた源頼朝は、1180年(治承4年)8月17日に挙兵。石橋山で大敗したものの、安房(源頼朝上陸地)に渡って軍勢を整えると10月6日には相模国に入り、鎌倉を本拠と定めたのであった。そして、この日の最後に訪ねたのが「最明寺」。最明寺は、鎌倉幕府五代執権北条時頼の遺骨を分骨するために建てられた寺。当初は臨済宗の寺だったが、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めで焼失した後、1605年(慶長9年)に日遠が再興して日蓮宗に改宗されたのだという。山号は東光山。「山門」前には「北條時頼公之墓」碑。「山門」の右側に建つ「若宮八幡大菩薩」。内陣北条時頼は兜の八幡座(兜の鉢の頂上)に若宮八幡大菩薩を奉安していたという。「八幡大菩薩」と書かれた提灯が対で奉納されていた。「最明寺」の前、道路を隔てた南側には「順天堂大学医学部附属 静岡病院」があった。ここに急性心筋梗塞で救急車で救急搬送され、緊急手術を行い、生還した方を知っているのである。ネットから航空写真を。円形の部分がドクターヘリの離着陸場所。静岡市から東の静岡県東部を主に担当。静岡県西部は聖隷三方原病院に基地を置く静岡県西部ドクターヘリが担当。双方が協力しながら静岡県全域をカバー。治療の関係上、隣接県へ患者さんを搬送する場合もある。基地病院より下田まで(約40km)、出動要請から約15分で到着する と。院内配置図。こちらが救急外来の新棟・H棟。こちらが一般病棟のC棟・H棟。「本堂」。本尊は十界勧請曼荼羅。『吾妻鏡』によれば、赤痢を患っていた北条時頼は、1256年(康元元年)11月22日、執権職を辞任。翌日、鎌倉の最明寺で蘭渓道隆を戒師として出家し、「最明寺入道」と呼ばれるようになる。それから7年後の1263年(弘長3年)11月22日、最明寺の北の屋敷で37歳で亡くなった。『吾妻鏡』には、 坐禅をくみながら臨終をむかえたことが記されている。「窪田空穂 歌碑」「最明寺 寺うらにしてさヽやけき 五輪の塔を 苔に見出でぬ」苔むした時頼の墓を見て、遙かな時が墓を建てたその昔の人びとの思いをも遠くへ追いやってしまったことへの感慨と同時に、空穂の時頼に対する敬慕の気持ちが伝わってくる歌である。題目碑「南無妙法蓮華経」。「伊豆長岡温泉 源氏山七福神「布袋尊」」案内。「布袋尊」像。さらに近寄って。「最明寺時頼入道之墓」碑。墓地への門に向かって進む。左手に大きな墓石が。「陸軍歩兵上等兵 勲八等 功七級 渡邉清次郎之墓」「町指定史跡 北条時頼の墓鎌倉幕府の五代執権北条時頼の墓と伝えられている。時頼は賢母の誉れ高い松下禅尼を母とし、文武を奨励、善政を行なった。建長寺と開山蘭契道隆(大覚禅師)に深く帰依し、出家して「道栄」と号し、世に最明寺入道と称せられた。謡曲「鉢の木」で有名なように、出家後は密かに諸国を巡回して政治民情を視察したといわれる。北条氏発祥のゆかりの深いこの地の人々が、名執権の誉れ高い時頼の徳をその分骨を幕府に願ってこの地に墓を建てたものという。萩原麦草の句碑最明寺 時頼よりの 時雨ふる萩原麦草は、明治二十七年、川西村(現伊豆長岡町)小坂に生まれた。若くして俳句の道に入り、後上京して波郷、草田男らとも交遊し、中央俳壇にも知られるようになった。戦後、故郷の小坂に帰り、郷土の俳句指導に尽力し、晩年静岡県俳句協会の代表となった。昭和四〇年没。句集に「麦嵐」、「枯山仏」がある。昭和五二年一月、弟子、友人達によって句碑が建てられた。「上田五千石 句碑」。「時頼の 墓へ磴積む 落椿」北条氏にゆかりの深いこの地の人々が、時頼の徳を慕い、その分骨を幕府に願い出てこの地に建てたという最明寺入道時頼の墓。その墓の上にうち重なるように落ちた椿の花があたかももう一つの石塔のようだ と。「最明寺時頼入道之墓」碑。鎌倉幕府五代執権北条時頼は、1227年(嘉禄3年)5月14日に誕生。父は北条時氏。四代執権北条経時の弟。母は松下禅尼。幼名は戒寿。時頼が生まれて3年後に父時氏が亡くなったことから、祖父の北条泰時に養育される。正面が「最明寺時頼入道之墓」。北条氏にゆかりの深いこの地の人々が、名執権として誉れ高い時頼の徳を慕い、その分骨を幕府に願い出てこの地に墓を建てたのだという。「宝篋印塔」の墓。北条時頼は、1227年(嘉禄3年)5月14日、北条時氏の次男として誕生。母は松下禅尼。兄に四代執権の北条経時がいる。1246年(還元4年)3月23日、重病となった兄経時から執権職を譲られ五代執権に就任する。1256年(康元元年)11月22日に執権職を辞して出家するが、政治の実権は握り続けていた。『吾妻鏡』は、時頼のことを「平生から武道をもって君を助け、仁義を施して民を憐れみ、天道の理にかない、人望があった」 と記し、臨終に際しては、「手には定印(じょういん)を結び、辞世の頌(じゅ)を唱えて即身成仏のめでたいしるしを示したことは、神仏の再誕である」 と記している。その先の斜面一面に墓地が広がっていた。「萩原麦草 句碑」「最明寺 時頼よりの 時雨ふる」この時雨は時頼の頃も降っていたことだろう。老松は幾代を経て今日に至っている。それに比べて人の無常は感に堪えないというのである。麦草(1892~1965)は当地小坂に生れた俳人。お地蔵様。この日の最後に「最明寺」の「山門」を振り返る。この日の予定を全て完了し、近くにあったビジネスホテルに向かったのであった。そして、コロナ対策のため外には出ず、コンビニで買った酒、ツマミ、夕飯でホテルの部屋で、この日の反省会を旅友・先輩と行ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.19
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次に訪ねたのが、北江間地区に鎮座する「珍場神社(ちんばじんじゃ)」。「珍場神社」は、元久元年(1204年)に北条義時の嫡子・安千代丸が大蛇に呑み込まれ亡くなった事から、安千代丸の霊を若宮八幡神として祀るため建立したと伝わっている。また珍場神社は、明治時代初期頃までは今と違って『第六天社』と呼ばれていた と。静岡県伊豆の国市北江間1171。「珍場鎮座 若宮八幡 子神第六 大鵡大神 三社神社」碑。若宮八幡(安千代丸)、子の神(この地に住んだ最初の居住者を十二支の最初と表現)、大鵡大明神(正体不明の主神)の三社を祀っているのだと。「珍場神社鎮座地 伊豆長岡町北江間一一七一番地御祭神 伊耶那美命(いざなみのみこと) 若宮八幡 子の神第六天・大鵡大明神例祭日 十月十日由緒当神社、元は第六天神社と称したが明治十二年珍場神社と改称した私達の御先祖が此の地に住み初めた時、子は十二支の始め村人も亦住居の始めであると子の神第六天神を氏神としてまつりの各家の安全と子孫の繁栄を祈願された。又元久元年当地の領主北條義時は長男泰千代丸の不遇の死を悲しみ、神社を建立し若宮八幡に擬してその霊を祀ったという。大鵡大明神の記録はないが画像が現存している」「珍場神社珍場神社は伊邪那美命(いざなみのみこと)・若宮八幡(わかみやはちまん)・子ノ神大六天(ねのかみだいろくてん)・大鵡(おおむ)大明神の四柱を祭神とする神社です。神社の由緒書によれば、珍場神社は、元久元年( 1204 )に北条義時が大蛇に襲われて亡くなった長男安千代の死を嘆き、若宮八幡神として祀ったのがはじまりと伝えられています。安千代に似た木像を彫刻して若宮八幡神とした、という言い伝えもあります。」石段の上に「社殿」。内陣。「社殿」前から。「二代執権 北条義時 生誕の地」幟。そして南下して訪ねたのが「古奈 湯谷神社(こな ゆたにじんじゃ)」。静岡県伊豆の国市古奈1。手前にあったのが「頼朝の湯 本陣」。「頼朝公本陣入浴の図」をネットから。多くの名だたる武将などの名士たちが訪れたことから、やがて「本陣」を名乗るようになり文治期(1187年頃)には源頼朝公がこの地に長逗留し、当館を宿舎としてこの温泉に入浴したと伝えられています。「古奈 湯谷神社」の手前の左手には大きな石切り場跡らしきものがあった。近づいてみると四角い穴が。中の凹んだ場所には石灯籠が鎮座。円盤状のものには仏の姿が。そして「古奈 湯谷神社」の石灯籠前まで戻る。右手にあったのが「古奈の元湯」と刻まれた石碑。「古奈の元湯この旧ポンプは伊豆長岡温泉発祥の温泉趾として記念すべき処です。昭和初期に源泉を掘削して揚湯したものです。昭和三十年の初め頃まで薬湯が出ていました。火傷によく効き子宝の湯としても知られていました。」手前に「揚湯ポンプ」。場所を変えて「揚湯ポンプ」と「温泉湧き出し口」を。奥には「伊豆長岡温泉発祥の温泉跡」。「あと」の漢字の多さにいまさらながら。址 , 阯 , 後 , 迹 . 痕 , 趾 , 跡 , 墟 . 踪 , 蹟 , 蹤 ・・・と。どの様に使い分けているのであろうか。「古奈の元湯この源泉は古来亜州古奈湯と呼ばれ伊豆の国では、伊豆山の走り湯、修善寺の独鈷の湯と共に三名湯のひとつとして特にその薬効をうたわております。蛭ヶ島流刑の身となった源頼朝公も入浴されたことが、鎌倉時代の文書吾妻鏡に記されております。この案内書の付近は昔の共同風呂の跡地で、この下の岩盤の割れ目から温泉が湧出していた。浴槽の底に格子状に工夫されたものを洗浄の時に取り外すことが出来る様に、埋め込み底からも温泉が絶えず出ておりました。この湧出は大正時代の末頃まで続いていたわけですが、各所に新源泉が堀削されたため止まってしまいました。」「伊豆石のツル目跡石表面の斜め模様はツルハシにより人力で掘り出され削られた跡です。」この案内板の後ろには、ツルハシにより人力で掘り出され削られた斜め模様の跡が。ツルハシ(鶴嘴)は堅い土面を掘り起こしたり、岩石を掘削する工具。弦状に湾曲した鉄の両端を尖らせたものと、片方だけをとがらせたものがあり、そのとがった様子が鶴の嘴に似ることから、この名がある。いずれも、中央部に木製の柄が付いている。前者は「鶴」、後者は「鳶」または「ばち」という名でも呼ばれている。そして「古奈 湯谷神社」の散策開始。「村社 湯谷神社」碑。「湯谷神社祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)・少名比古那命(すくなひこなのみこと)相殿 住吉神社例祭日 十月十日 奉祭地 古奈一番地大己貴命は大國主命の別の御神名ですが神仏習合の時代となってから卋に大黒様として親しまれている神様です。また命は温泉と医薬用に用いることを始めて人々に教えられた神として崇められ全国の古い温泉地ではおゝむね祭神として祀られております」石鳥居。石灯籠。石段の上にさらに石段が続いていた。夕方になり、ライトも点灯。「湯谷神社の由来旧称二社権現といった湯谷神社の歴史はきわめて古くいまだ創建は詳かではないが村社加列は明治6年のことで、現在、大己貴命、少名比古那命が祭られており神無月十日は毎年祭礼が行われる。」右手に「手水舎」。その先に「恵比寿神」。「恵比寿神清廉を表わし商売繁昌をもたらす神 日本古来の神とされ本来は漁村の神でしたが後には大黒天と並んで商売繁昌の神となりました。左手に抱えている鯛は”めでたい”ですべてのめでたいことを授ける心を表しています。」「恵比寿神」に近寄って。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。正面に「拝殿」。「御神木」は・・・・・切断された上部は金属製の蓋が被されて。「湯谷神社ご神木についてこのご神木(杉)は威風堂々と天に聳え、三百年余の歳月地元氏子の信仰の対象として生き抜いてきた。しかし平成ニ十九年(十月例祭を前に)九月下旬蜂の駆除の際、ご神木に火が移り大火となる。懸命なる消火活動のお蔭で無事に鎮火した。焼けた根株を保存し今後の教訓とすべく地元の総意に基づき整備するものである。(伊豆長岡町史より)胸高周囲 四八四センチメートル根廻り 七四〇センチメートル樹高 三、六〇〇センチメートル (平成四年計測)」扁額「湯谷神社」。内陣。絵馬掛所(えまかけどころ)。そして、石段を降りて、「古奈 湯谷神社」の隣・東側にあった「頼朝の湯石切場跡」を訪ねた。石切り場としての歴史も古く、江戸城築城の際には産出された伊豆石を献上したのだと。巨大な穴が地下に向かって掘られていた。ツルハシの跡が鮮明に見えるが、この規模を人力でやるとは!!この場で、コンサート等も行われていたのであろう。穴の奥には入らず、カメラのズームで。石切場への入口から「湯谷神社」の石鳥居、そして上方に「社殿」を見る。「社殿」をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.18
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北条義時が創建したと伝わる「豆塚神社」に、「江間郷土研究会」が「北条義時歴史館」をオープンしていた。町屋区の山車小屋として使用していた境内の倉庫を「北条義時歴史館」にしたのだと。北条義時公の歴史的功績を地域住民をはじめ全国に周知することにより、江間地区を全国に PRするとともに、江間地域の文化財の保護や活性化につなげ、次世代に継承することを目的として「江間郷土研究会」がスタートしたと。。「梁銘板拡大図」や「系図」などを展示するほか、御朱印の授与も行っていた。「北条義時歴史館」内には。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の各回のストーリー解説が素晴らしい出来栄えの「感想絵」とともに展示されていた。第1回 〈大いなる小競り合い〉 2022.1.9 放映時間60分佐殿(頼朝の官位)が北条館に匿われたシーンから始まる。伊東祐親から密かに北条の地に逃げ、義時の兄三郎宗時が匿ったのであった。父北条四郎時政が、都での大番役を終え北条に戻ってきた。これを祝い、三浦介義澄等を招き北条館で宴が催された。佐殿のことは知らせていない。そこに、みすぼらしい姿の工藤祐経が現れる。印象的にシラミの浪人である。実は、この工藤祐経の父工藤ニ郎祐継(伊東・河津・宇佐美の領主)は、若くして亡くなり、嫡男祐経が家督を相続したのであった。このときに後見役として、河津ニ郎祐親(後の伊東ニ郎祐親である)が就いたのだ。15歳になると祐経に次女萬劫を嫁がせ、祐経を京の平重盛の大宮御所に伺候(高貴な人の側に仕える)させて、この間に祐親は、相続した祐経の領地を押領し、名前を伊東に改称したのであった。祐経は、これに気づき抗議をするが、祐親は、萬劫を離縁させ、土肥遠平に再嫁させてしまう。土地も嫁も失った祐経は、後見役の祐親の暗殺を企て、狩りの帰りに矢を放つが、祐親の嫡男祐泰を誤射して殺してしまったのである。何と祐泰の子息が、富士野の巻狩りで仇討ちを成し遂げた十郎・五郎の曽我兄弟であった。工藤祐経は誅殺されたが、次女萬劫の妹が、三女八重である。八重は、佐殿の間に、御曹司千鶴丸を生んだのであったが、3歳のときに大番役から戻った祐親の庭で遊ぶ子を不審に思い、平家を怖れ、この御曹司を家臣に命じ、伊東松川の上流の轟が淵に生埋めにしたと伝わるのであった。平氏家人である祐親は、佐殿を捉えるために、北条館に押しかけるが、佐殿は、義時の馬に相具して、ドヴォルザーク交響曲第9番"新世界より"第4楽章のクラシック音楽に乗って、山間の草原を逃げ去るのであった。この撮影場所が、達磨山近くの沼津市西浦河内の金冠山と言われる。なんと映像に、戸田湾が映り込んでいたのであった。」真田丸からの大河ドラマ&時代劇ファンでドラマなどの「感想絵」を趣味で描いている方の作品であると、現場の係の方から。ネットで調べてみると「KEI-CO (@keico)」👈リンク さんの作品。素晴らしい出来栄えに感激したのであった!!以下ネットから転載させていただきます。「鎌倉殿の13人 第1回 大いなる小競り合い」。 【https://twitter.com/keico/status/1480155398237990922】より北条家の人々。 【https://twitter.com/keico/status/1480462904013234184】より「第2回〈佐殿の腹〉 2022.1.16 放映時間45分佐殿を連れて逃げた義時は、富士の裾野にいた。そこへ突然、山内須藤経俊の矢を放たれた。佐殿の乳母の子息であった経俊は、源氏の再興を願い、佐殿の挙兵を待つと促すのである。鎌倉の山内荘を所領とする豪族であり、通称滝ロ三郎と称された。後に、佐殿の挙兵にあたり、高祖父義家の父頼義時代から河内源氏の家人であり、縁の深い山内須藤経俊の、協力を窺うが、参陣を拒否されるのであった。北条館では、伊東祐親と北条時政が、佐殿をめぐり、一触即発の危機にさらされる中、相模国の大豪族大庭景親が北条館に現れ、仲裁にかって出る。これによりひとまず治まることとなるが、これは、三浦義澄と義村父子が。北条が佐殿を匿っていることを大庭景親に告げたのであった。だが、この仲裁により佐殿の監視役が伊東祐親から北条時政に移ったのである。伊東祐親は道中で、工藤祐経が襲い、はねのけられ退散をするシーンがある。後の祐親暗殺を予感させる印象的な場面である。また、父祐親は、ハ重に向い、佐殿は北条が預かることになったので、ニ度と合ってはならぬと告げる。さらに八重には、嫁に行ってもらうことも告げたのだ。ハ重が、御曹司千鶴丸に合せるようにと懇願するが、父祐親は、孫千靏丸は、伊豆山権現に出家させたと告げるのであった。殺していないのだろうか?この後、義時は、兄宗時からハ重が嫁ぐことが決まったことを知る。相手は、見張りに就いていた家人の江間次郎である。不憫なハ重の望みを叶えて上げたいと、三日後に武蔵国の圧企尼館で佐殿と合わせる計画が告げられた。義時は、佐殿に比企でハ重が会いたいことを告げると、佐殿は、比企に出向くことを断るのであった。義畤は、比企に伝える道すがら伊豆権守堤信遠の一団に遭遇する。堤信遠は平相国清盛に近く、流人山木平兼隆の後見役でもあった。義時の挨拶が非礼として、無理に水溜りに押しつけるシーンが、この後の佐殿挙兵で、平家追討の矢が倣たれた最初の標的が、この堤信遠であったのだ。」「鎌倉殿の13人 第2回〈佐殿の腹〉」。 【https://twitter.com/keico/status/1482702249046339591】より第3回く挙兵は慎重に> 2022.1.23 放映時間45分都に激震が走る。平清盛が後白河法皇を幽閉した”治承3年の政変”である。この間に清盛の孫を帝(安徳天皇)に即位させたが、1歳と3ヶ月であった。治承4年(1180)年、佐殿と引き離された八重は、江間次郎に嫁いでいる。江間は狩野川を挟んで北条館の対岸にある。北条館では、狩りを終えた北条宗時、畠山重忠、工藤(狩野)茂光、和田義盛、三浦義村が酒を飲み交わすシーンで、工藤茂光が、妙な坊主を見かけたぞ。首から下げた袋に、源義朝様のドクロを持つとする文覚上人であった。北条館では、山伏の姿をした行家が、館を訪ねてきたのである。政子や佐殿は、行家を不審がるが頼朝の父義朝の十番目の末弟にあたる河内源氏の十郎義盛であった。源氏の嫡子となるが、後白河法皇の皇子以仁王の令旨を給わるときに改名をしていることが『源平盛衰記』の『行家使節の事』として載る。ここで行家は、来る6月に以仁王が挙兵することを告げる。これは、平相国清盛により院が停止され、後白河法皇の幽閉を解く、平家追討の挙兵であった。行家は、『以仁王様の御令旨であるぞ。受け取る方も、それ相応の礼を以て致すべし』に応じ、佐殿は、武士の正装、水干に装い、まず男山(現大男山)に遥拝奉り、謹んで披閲するのであった。これは『吾妻鏡』に記される。この令旨は、十郎蔵人行家により、各地の源氏に届けられたのである。攝津源氏の源頼政や子息仲綱(伊豆国知行国主)も院に御方をするのであった。この時、頼政は76歳である。以仁王の挙兵は、あっけなく鎮められ、頼政も宇治の平等院で自害したことが、都にいる下級役人三善康信から佐殿の北条館に知らされたのであっった。大番役の勤めを終え、京から戻ってきた大庭景親は、頼政の謀反が鎮められ、伊豆国知行国主が平時忠(清盛の正室時子の弟)に代わり、散位であった平兼隆が目代に就いたことを知らせる。私設の令外官であったと言える。東国各地でも、後白河院の知行国が衰退し、平家方へと入れ替わっていった。義時は、石高から兵の数を推定し、佐殿は、挙兵の意思を固めたのであった。」「鎌倉殿の13人 第3回〈挙兵は慎重に〉」。 【https://twitter.com/keico/status/1485230758583160836】より第4回く矢のゆくえ> 2022.1.30 放映時間45分一同が集まり、御籤を振り混ぜる音が静寂を破る。挙兵の日にちを決める御籤が行われた。「いざ」時政の声が上がる。”牧の方”(りく)が差し出す壺から、佐殿が1本を引き抜く。”拾七"とある。それは治承4 (1180)年8月17日を示しているのであった。三島明神の祭りの当日である。挙兵の相手は、平家の目代山木判官平兼隆である。※目代とは私設の地方官そこへ小四郎(北条義時)が、「堤信遠を討ってしまったらいかがでしようか?」堤信遠は、目代の後見役であった。この際に平家に与するものはこうなると広くしらしめることとなるのであったが、これは堤信遠のごう慢な態度への仕打ちである。ー同一団となり、相模国鎌倉を目指すのであった。ところが前日に集まった兵は、北条から9人、仁田が4人、加藤が5人、合わせて18人であった。少なすぎると佐殿が嘆く。政子は、ハ重を気にして小四郎に問う、「八重さんは、江間に嫁いだと言うことですから、江間にいるでしようね」その後、小四郎は、道の途中で八重と会うが、「仮の話となるが、戦になれば北条と江間が争うことになるでしよう。」と八重に注意を促す。さらに、相模国土肥實平は、挙兵に同意してないことがわかると小四郎は、佐殿に頭を卞げることを伝えるが断られる。だが、佐殿は、土肥實平や岡崎義實ら個々に、「誰にも洩らすな。お前の武勇は耳に入っておる、力を貸してくれ、お前だけが便りじゃ。一緒に戦ってくれ」を繰り返し、同意を得るのであった。藤九郎盛長が、相模国山内須藤経俊館に出向き、わが殿のもとで平家を倒しと協力を窺うが、頼朝は流人ではないか?富士山に犬の糞が喧嘩を売っているようなものだと拒否する。北条館に佐々木4兄弟や工藤茂光が加わるが、兼隆が山木に在宅していることが重要であった。これを小四郎は八重に頼むのである。兼陸の在宅を知ったハ重は、北条に向かって矢を放つ。挙兵が開始されたのだ。まず、後見役堤信遠に放たれた一矢が、源平の戦いの始まりであった。」「鎌倉殿の13人 第4回〈矢のゆくえ〉」。 【https://twitter.com/keico/status/1487763352558268420】より第5回 く兄との約束> 2022.2.6 放送時間45分堤信遠への一矢が放たれ、「かかれ!」の宗時の雄叫びにより、源平の戦いが始まった。弓箭と刀剣の討ち合う音に、喊声が交じる。炎が激しく揺れて唸る。堤館の方より炎が上がる。頼朝「もう後には引けぬ」緊張のシーンである。時政らが信遠を斬り捨て、「小四郎止めじゃ。武士の情けじゃひと思いに行けっ」に小四郎の太刀が振り下ろされた。倒れた信遠の首を時政が斬り落とす。山木兼隆の首級と信遠の首級が並ぶ。初陣の夜襲は大勝利に終ったのだ。19日に頼朝は、兼隆の親戚、史大夫中腹知親に対し、「下す、蒲屋御厨の住民等の所、早くの知親の奉行、早くの知親の奉行を停止すべき事等、安堵すべきものなり」が、頼朝から下知された。(吾妻鏡)これにより東国は、頼朝が沙汰することと宣言をしたのであった。大庭景親、伊東祐親、山内須藤経俊ら平氏家人怒りをあらわにして、頼朝を成敗しろと梶原平三景時に命じる。この時、大庭軍3000対頼朝軍300の兵であった。小四郎は、政子らを伊豆山権現に送ることとなる。江間に住むハ重に、山木の勝利の御礼を告げるために頼朝が農民に化け出向くと八重と会って程なく、江間次郎が帰宅したのであった。慌てて逃げる頼朝。一方、祐親亭では、善児(不詳の者)を刺客とし、宗時の誅殺を命じる。八重には、父上の命により、江間から伊東に移って直くことが告げられた。「戦が始まるのですね」と、ハ重の問いに、江間次郎から挟み撃ちの作戦を聞き出したハ重は、佐殿を助けるために舟に乗り込むのであった。大雨の空の館。伊豆山権現の僧、文陽房覚淵に匿われた政子らは、寺女として過ごすために、寺女の衣装に着替え、寺の掃除など修行に務めるこことなる。頼朝勢は大雨の中、石橋山で陣を構える。三浦勢は、増水で酒匂川が渡れない。敵を前に時政が「我が主は、清和天皇が第六の皇子貞純親王の御子たる六孫王の七代の後盾八幡太郎義家様四代の御係、先兵衛権佐源頼朝殿なるぞ」と名乗るのであった。が、圧倒的な不利な戦で、逃げ場を失う。時政と小四郎は、援軍で甲斐武田に向い、宗時と茂光は、河原で刺客善児に討たれた。『吾妻鏡』では、早河の辺で、小平井の名主紀六久重に討たれ、茂光は自害するとある。」「鎌倉殿の13人 第5回〈兄との約束〉」。 【https://twitter.com/keico/status/1490318258901164035】より第6回く悪い知らせ> 2022.2.13 放映時間45分山内須藤経俊ら大庭軍が迫る石橋山の”ししどの窟"に身を潜める佐殿らは、敵方梶原景時に見つかったのだ。だが、何故か?そのまま見逃すのである。甲斐源氏武田信義の陣にたどり着いた時政と小四郎は、「わが軍と手を組みたいと聞いた。」とする信義に、「是非ともお力を貸して欲しい」と時政が願い出るのであった。が、信義は「源氏の棟梁は誰か?」と問うのである。小四郎が、「佐殿はご自身で平家討伐軍を率いるご決意」と応えるのであった。佐殿が、院宣(上皇や法皇から発せられる命令書)を持っと聞いた信義は、「法皇様の院宣」の引き渡しを時政に迫るのであった。また、北条を助けてやるが、われの家人になれとの要求も、時政はあっさりと了解してしまうのであった。これで北条は安泰とする時政であったが、小四郎は、不安が増すのである。窟に身を隠す佐殿は、北西に25里難れた筥根権現へ逃れようとするが、敵方が多く、途中で窟に引き返してくるのだった。甲斐国の帰り、佐殿を運ぶ舟を準備した三浦義村(平六)と浜で小四郎が出会う。安房国の安西景益は、我らの御方、そこで立て直すと平六が告げる。一方伊豆山権現に寺女で匿われた政子のもとにハ重が訪ねて来るのだった。政子に、佐殿が夢枕に立たれたことを伝えるためであったと告げるが、同じものを見たと、政子が負けずと応じるのである。実は虚言であった。ハ重は、帰りがけに僧覚淵に5年前に3歳になる千鶴丸を預けたが、一目会いたいと願うと、ハ重を一つの立派な墓の前に連れて行くのであった。「来た時には、すでに骸(死体)であった」と告げられると、ハ重が泣き崩れる。小四郎は窟に戻り、佐殿に岩浦浜に三浦殿の舟が待っており、安房に渡ることを告げると、佐殿は、「岩浦とはどこにある?」、小四郎は「ここから岩浦まで東へ25里離れている」と伝えるのだった。再び25里の詞に佐殿はうんざりする。大庭景親は、北条三郎宗時の首実検をすませ、裏切った三浦の衣笠館を攻めるように奸計(悪巧み)に嵌った畠山次郎重忠に命じるのである。佐殿、小四郎、盛長、土肥は、真鶴岬から小舟で安房を目指す。無事安西景益館に辿りついたが、時政は、三郎宗時の安否がわからぬままだった。・・・・・。」「鎌倉殿の13人 第6回〈悪い知らせ〉」。 【https://twitter.com/keico/status/1492855897525133314】より第7回 〈敵か、あるいは〉 2022.2.20 放映時間45分石橋山で平家方の大庭景親(國村隼)の軍勢に敗れた後、海を渡って安房に逃れた頼朝は、そこで再起を図る。その際、味方になってくれるように手紙を送った相手が、一帯を支配する上総広常(佐藤浩市)だった。大庭方からも声が掛かる中、使者として派遣された主人公・北条義時(小栗旬)の尽力もあり、広常は頼朝に就くことを決意。そして初登場の安房の漁師の娘・亀。庭先を掃除していたところを見初められ、思いがけず頼朝の愛妾(あいしょう)に。妻を寝取られ、怒りに燃える亀の夫・権三(カミナリ・まなぶ)が頼朝の宿に乗り込んできた際、亀は「権三が?」。「人妻だったのか?」と驚く頼朝に、亀は「言ってなかった?」。その後、平家方の安房の豪族・長狭常伴(ながさ・つねとも=黒澤光司)も頼朝の宿を夜討ち。漁師の権三たちと長狭常伴たちとの争いになる中、頼朝は難を逃れた。「敵の大将を討ち取って参ります」という見張りの三浦義村(山本耕史)に、亀は「だったら、ついでにうちの人も討ち取って」と頼むのであった。その後、上総広常は2万の軍勢を率いて参陣する際にわざと遅刻する。その下心を見抜いた頼朝が怒りを込めて発したのが、下記の言葉だった。 「遅参する者なぞ戦場では役に立たん。おまえの連れてきた軍勢を見た。敵に回ればこれほど恐ろしいことはない。しかし、だからどうした。礼儀を知らぬ者とは、天下草創の志を同じうできん。焦らして、己の値打ちをつり上げようとしたか。笑わせるな。さっさと帰れ!一戦を所望なら受けて立とう」。今まで、味方になってくれた武将は肩を抱いて歓迎していた頼朝だが、このとき見せた厳しい態度は、これまでにないものだった。 ここで素直に謝罪した広常は、頼朝から陣に加わることを許される。後に彼は義時に、頼朝の器を試し、棟梁にふさわしくなければその場で討ち取り、首を平家に差し出すつもりだったと打ち明ける。その頃頼朝の弟・源義経(菅田将暉)もついに動き出し、ますます本格化していく源平合戦。「鎌倉殿の13人 第7回〈敵か、あるいは〉」。 【https://twitter.com/keico/status/1495383399913037825】より「鎌倉殿の13人 第8回〈いざ、鎌倉〉」。ついに鎌倉入り!勢力を増した頼朝勢はこのまま順調に進むのか武蔵の国に入った頼朝勢を討つため、平清盛は追討軍を送ります。義時は頼朝の命を受けて甲斐の武田信義のもとへ行き、無事に頼朝の味方になる約束を取り付け、これにより勝利を確信した頼朝は御所を大倉にすることに決めました。その頃、降伏してきた畠山重忠を受け入れ、相模入りの先陣を任せるなどにより頼朝に不満を漏らす者も出てきますが、義時と三浦義家がみんなで酒を飲む機会を設け、一つにまとめます。そして、石橋山で大敗したわずか1ヶ月半後、頼朝勢はついに鎌倉に入りました。頼朝は鶴岡八幡宮を建立し坂東をまとめ上げ、平家を滅ぼすと宣言します。 【リンク】より「鎌倉殿の13人 第9回〈決戦前夜〉」。水鳥のおかげで富士川の戦いを制する!?対面を果たした頼朝と義経は心を一つに頼朝は平家方を捕らえるために和田義盛と畠山重忠を派遣しますが、義時と三浦義村により伊藤祐親と八重は救われました。平維盛率いる平家の追討軍が迫る中、頼朝軍は武田信義と合流し、翌々日の出陣に合意。ところが信義は頼朝を出し抜こうと深夜に出陣します。そのとき、追討軍の対岸で時政とケンカをしていた三浦義澄が転び、数万羽の水鳥が飛び立ちました。この羽音を奇襲と勘違いした追討軍は退陣。平家軍を一気に追い込むチャンスでしたが、坂東武者たちの兵糧が尽き、断念します。そこへ、ついに義経が現れて頼朝と対面。父親の仇を討つことを涙ながらに誓うのでした。 【https://mobile.twitter.com/keico】より「鎌倉殿の13人 第10回〈根拠なき自信〉」。富士川の西岸に陣を構えていた平維盛率いる追討軍が退却。『吾妻鏡』〈治承4年(1180)10月21日条〉によると、これを知った源頼朝は、坂東武者たちに平家軍の追撃をかけて上洛するように命じた。しかし、千葉常胤、三浦義澄、上総広常ら有力な坂東武者が反対します。その理由は、常陸の佐竹氏をはじめ坂東には頼朝に帰服していない勢力がまだ多数あり、まずは足元を固めるべきだというものです。常胤と広常にとって佐竹氏は、常陸地方の権益をめぐって争う競合相手でした。多くの坂東武者が頼朝に協力したのは、在地支配の安定や所領拡大のためであり、このまま上洛することにはメリットがありません。後白河法皇の救援、そして、平家打倒を目指す頼朝とでは、意識の違いがありました。坂東武者の協力なくして、頼朝の悲願は達成できません。常胤・義澄・広常らの諫言かんげんを受け入れた頼朝は、上洛を断念して鎌倉へ帰還。その途中の相模国府で大規模な論功行賞を行い、従って戦った坂東武者たちの本領を安堵あんどしました。平家の追討軍を見事に退けた源頼朝(大泉洋)。これを聞いた後白河法皇(西田敏行)はほくそ笑み、平家の総帥・清盛(松平健)は都を京へ戻すことを決断。奥州の覇者・藤原秀衡(田中泯)は義経(菅田将暉)の文を一読し、静かに源平の様子をうかがう。そんな中、鎌倉では八重(新垣結衣)が侍女として頼朝のそばで働き始めるが、北条義時(小栗旬)の気づかいに亀(江口のりこ)が疑念を抱くなどそれぞれの思惑が入り乱れていた…… 【https://mobile.twitter.com/keico/status/1502997678527033351/photo/1】より「鎌倉殿の13人 第11回〈許されざる嘘〉」。 【https://twitter.com/keico/status/1505536286731345922】より以下、様々な見事な『作品』を紹介させていただきます。「鎌倉殿の13人 追記①」。 【https://twitter.com/keico/status/1482628701678288897】より「鎌倉殿の13人 追記②」 【https://twitter.com/keico/status/1484825138478518272】より「鎌倉殿の13人 追記③」 【https://twiman.net/user/5857142/1487763352558268420】より「鎌倉殿の13人 追記④」 【https://twiman.net/user/5857142/1490243531188801537】より「鎌倉殿の13人 追記⑤」 【https://twiman.net/user/5857142/1492332915941801984】より「鎌倉殿の13人 追記⑥」 【https://twiman.net/user/5857142/1494869598964903937】より「鎌倉殿の13人 追記⑦」。 【https://twiman.net/user/5857142/1497398981768343553】より「鎌倉殿の13人 追記⑧」。 【https://twiman.net/user/5857142/1499942888976773120】より「鎌倉殿の13人 追記⑨」。 【https://twiman.net/user/5857142/1502453160945758210】より「鎌倉殿の13人 追記⑩」。 【https://mobile.twitter.com/keico/status/1504748257427156994/photo/1】よりそして【鎌倉殿の13人 主な“退場者”】は以下の通り。(番組公式サイトの「登場人物」にあるキャラクターのうち、劇中、その最期が言及された人物。カッコ内は手にかけた人物)<第1話> 千鶴丸(善児)<第3話> 源頼政(宇治の平等院で自害) 以仁王(奈良へ逃げる途中で落命)<第5話> 堤信遠(北条宗時) 山木兼隆(北条宗時?→首桶) 工藤茂光(善児) 北条宗時(善児)<第7話> 長狭常伴(三浦義村)<第9話> 江間次郎(善児)<第10話> 大庭景親(上総広常) 佐竹義政(上総広常)千鶴丸、工藤茂光、北条宗時、江間次郎の命を奪った「善児」(梶原 善さん)。第10話で上総広常に斬首された「大庭景親」(國村 隼 (くにむら・じゅん)さん)。「梁銘(はりめい・りょうめい)」。豆塚神社梁銘とは当神社の由来などが書かれた板で、元文5年(1740)に社殿を修造した際に製作されたのものである。裏面には修築に関わった人物の名前が墨書されている。要点は以下である。①江戸時代には豆塚神社が豆塚大明神と称され、南江間村、北江間村両村の惣鎮守として祭られて おり、神仏混合の影響を色濃く反映して、当祭神は千手観世音菩薩の垂迹(※)であると考え られていること②江間の北条義時が小池堀のある丸山(※2)に鎮座していた神社を館に近い現在の地に移したと 伝えられていること③鎌倉時代以降、永い歳月のながれとともに社殿の荒廃甚だしく、元文5年、財力のあるものから 浄財を集めてこれを基金に社搬の修築を行ったこと北条義時と豆塚神社との関係を裏付ける史料として、また江戸時代頃の当神社の様相を記したものとして大変貴重ある。※1 垂迹・・・仏や菩薩が民衆を救うために、神の姿になって現世に現れること。※2 丸山・・・現在の伊豆中央道江間料金所付近の山。工事によって平坦地になった。「豆塚大明神梁銘板(りょうめいばん)。人王八十三代の頃名将相模守江間小次郎義時 千手観世音菩薩垂迹也」(1/3)大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時の名が記されている「梁銘板」。「豆塚大明神梁銘板(りょうめいばん)」(2/3)「豆塚大明神梁銘板(りょうめいばん)」(裏面)(3/3)本願主 禰宜諸岡民部末孫 諸岡氏豊昌 井惣氏子大工 伊奈清八同 伊奈善六同 大芦市右衛門同 小沢八兵衛同 野極勘左衛門脇棟梁 伊奈又七郎両工匠 本棟梁 高井三郎兵衛 浜村利兵衛広吉 奉行 石井半七通永天下禅林之末葉東漸禅寺現住昩無門叟謹書焉」「江間小次郎義時」の文字が。「豆塚大明神梁銘板(りょうめいばん)」解説文。「原文」は下図のごとしと。「梁銘文読み下しの説明 〈大意〉」が続く。「韮山竹灯篭まつり」他のポスター。「頼朝出陣の図」。本年1月15日に「義時歴史館」が開館の新聞報道。伊豆の国市の江間郷土研究会(師岡明弘会長)は15日、同市北江間の豆塚神社に「北条義時歴史館」をオープンする。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時の名が記されている「梁鐇板(りようめいばん)」の拡大図やドラマに登場する人物たちの相関図、桓武天皇・源頼朝・義時の系図などを展示する。。「源頼朝」、「北条政子」の案内。「三島明神に参詣する頼朝、政子を見そめる」。「二人の阿波局」 *北条政子の妹と義時の妻(泰時の母)に阿波局がいた?「陽気で、気さくな、この保子は、いまは頼朝の異母弟、全成の妻となり、すでに男の子を生んでいる」と、北条政子の妹・通称保子である。(永井路子著「北條政子)今回のドラマでは、"実衣(みい)と呼ばれる。後に、頼朝の異母弟阿野全成に嫁ぐこととなるが、建久3 (1192)年8月9日に政子、男子を出産する。後の千幡3代将車実朝であるが、阿野上総の妻室(阿波局)御乳付けとして参上する。建仁3 (1203)年9月10日に千幡君を吹挙し、将軍に奉る間、沙汰有り。若君今日尼御台所より遠州(時政)の御亭に渡御す、御興を用いらる。女房阿波局同興に参る。江間太郎殿(泰時)、三浦兵衛尉義村ら御興寄せに候ず。今日諸御家人らの所領元の如く領掌すべき由、多く以て遠州の御書を下さる。これ世上を危ぶむが故なり。」とある。(吾妻鏡)9月7日条の『明月記』によると、「左衛門の尉頼家御薨ず」とあり、次なる将軍を決めるのが急がれる状況にあったと見られる。9月15日には、「阿波局、尼御台所に参リ申して云う、若君遠州の御亭の御座すこと然るべしと雖も、つらつら牧の御方の躰を見るに、咲いの中の於いて害心を挿むの間、伝母を恃み難し。定めて勝事出来せんかと、この事兼ねて思慮の内の事なり。早く迎え取奉るべき由御返答。即ち江間四郎殿、三浦兵衛尉義村、結城七郎朝光等を遣わし、これ迎え取奉らる。遠州子細を知らず周章し給う。女房駿河局を以て謝し申さるの處、成人程は同所に於いて扶持すべき由、御返答を仰せらる。幕下大将軍ニ男の若君(字千幡君) 関東の長者と為り、去る七日従五位下の位並ぶに征夷大将軍の宣旨下さる。その状鎌倉に到着す。」とあった。(吾妻鏡)。ここで挙げられる阿波局は、北条政子の妹(阿野全成の妻)である。だが、義時の側室の阿波局と言われる。幕府内に於いて、このような事がありうるのだろうか?義時と阿波局の間に生れた子泰時は、頼朝の命により、三浦介義澄の孫娘(三浦義村の娘)矢部禅尼を正室に迎える。後に離別をし、安保実員(一説では”阿保”と称す)の女を継室に迎える。だが、義時の側室の阿波局は、御所または幕府の女房とされるが出自は不詳である。ここで、子泰時に係わる阿保の女が、父義時の側室の阿波に誤って伝えられたするが、本来は阿保局が、泰時の母であり、義時の側室であったのではなかろうか?」「鎌倉殿の13人」に登場する北条義時の妹・実衣(みい)=阿波局。演じているのは宮澤エマさん。母方の祖父は第78代内閣総理大臣の宮澤喜一。母は宮澤喜一の長女。父はアメリカ人で元駐日代理大使クリストファー・ラフルアー。「牧の方」 (別称)りく (夫)北条時政 (父)牧宗近 (子)北条政則範 (婿)平賀朝雅ドラマでも、時政が大番役で都に過ごしていたときに、見初めての牧の方(りく)を北条館に連れてくるのであった。父牧宗親が、『吾妻鏡』に登場するのは、寿永元(1182)年11月に、牧の方からの知らせで頼朝の愛妾を知り、政子は牧宗親に命じて、頼朝の愛妾亀の前の住居を破壊する事件を起こした。これに怒った頼朝が、牧宗親の髷を落としたことで時政は舅宗親への仕打ちに一族伊豆北条に下ったと伝わる。この時に義時は従わす、鎌倉に残り、頼朝から称賛された。牧宗親は、『愚管抄』(慈円著巻第五)では牧の方の父とあり、かって藤原宗兼の子頼盛に仕え駿河国大岡の牧(沼津市)を知行していた。『吾妻鏡』では、牧の方の兄弟とされる。ここで、地方の小さな豪族である時政に、藤原道隆につながる牧の方とは、位や年令が不似合いのために、裏に何らかの工作があるとする見方もある。牧の方の子政範は、16歳で従五位下に叙され、年上の義時と官位が同じとした。(後に義時は従四位下となる)政範は、実朝の遣いにより上洛するが、都で夭死(若死に)する。これにより時政は、牧の方の娘婿平賀朝雅を将軍へと擁立を企てるが、実朝方の政子、義時に知られ失脚する。これにより時政は伊豆に幽閉され、牧の方は時政と離縁して都で出家したと伝わるが、娘婿平賀朝雅は誅殺されたと言われる。」大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で宮沢りえさん演じるりく(牧の方)。「北條義時と八重(姫)の系図(略)」。現在地は左側が北方向。時間があれば、もっとゆっくりと「感想絵」を楽しみたかったが、帰宅してこのブログを書きながら、大いに楽しませて頂いたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.17
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昨日夕方のテレビの天気予報では「九州~東海で夏日続出 3月として記録的な暖かさの所も 東京都心2日連続20℃以上」と。気温の上昇に伴い、我が家の庭、畑の花々も開花を始めています。4月下旬の陽気であると。これは、何の花でしょうか:クイズ1クイズ2そしてスイセンも開花を始めています。こちらは一昨日の雨に濡れて・・・。ヒヤシンス(白)。ヒヤシンス(紫)。ムスカリ。木瓜(ボケ)。そして今後も更に様々なスイセン、ニワウメが咲き出すでしょう。畑では、ブロッコリーの脇芽も開花を始めています。そしてクイズの回答です。クイズ1:チンゲンサイ(青梗菜)クイズ2:コウサイタイ(紅菜苔)、中国野菜です。
2022.03.16
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「北條寺」を後にして次に訪ねたのが「江間公園」にあった「北条義時邸跡」。北条義時は、伊豆国北条郷の豪族北条時政の次男。江間四郎あるいは江間小四郎と呼ばれた義時は、分家の江間家の初代だったと考えられている。菩提寺の北條寺の近くにある江間公園は、「北条義時邸跡」があった所と伝えられる地。 静岡県伊豆の国市南江間768−4。「北條義時(江間小四郎義時)屋敷跡 江間村尋常髙等小学校跡」碑が公園の北東の角にあった。石碑に近づいて。「北条義時館跡北条義時は、江間小四郎義時とも呼ばれ、江間に館があったと言われています。『増訂豆州志稿』(明治21 ~ 28年刊)に「北条義時ノ宅址ハ江間村町屋ニアリ、今尋常小学校ノ敷地トナル」と書かれていることから、現在江間公園となっているこの付近が北条義時の館と推定されています。公園の一角に「北條義時(江間小四郎義時)屋敷跡」と彫られた碑が建っています。」「北条家 略系図」。「北条時政は、娘北条政子が源頼朝の妻となったことから頼朝の挙兵に協力して鎌倉幕府の創立に尽力、頼朝が征夷大将軍に任じられると、有力御家人としての地位を得る。特に独裁権をふるった頼朝の死後は源氏以外で初の国守に任官したり、政策機関としての13人合議に親子で名を連ねるなど、並び御家人から一歩抜きん出た勢力となっている。頼朝の子源頼家・源実朝の外戚として幕府内で強い影響力を持ち、初代執権となった。そして2代将軍頼家を追放し、修善寺に幽閉した上で謀殺。さらに、第3代将軍・実朝をも暗殺して娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようとしたが、娘の政子や息子の義時に反対され出家させられた。2代執権義時から数代にわたって他の有力御家人を次々と排除し、執権政治を確立した。実朝が暗殺されると、義時は京都から九条頼経を第4代将軍に迎え(摂家将軍)、将軍の地位を名目的なものとし、後鳥羽上皇の討幕運動である承久の乱に勝利し、幕府を安定させることに成功した。3代執権北条泰時は御成敗式目を制定し、幕府の御家人支配をゆるぎないものにした。北条氏は、得宗と呼ばれる嫡流を中心に名越、赤橋、常葉、塩田、金沢、大仏などの諸家に分かれ、一門で執権、連署、六波羅探題などの要職を独占し、評定衆や諸国の守護の多くも北条一族から送り出した。なお、これらの分流はすべて時政以降のものであり、一族が膨れ上がる中でも、それ以前の北条家の流れはまったく歴史に登場していない。得宗家の家臣は御内人と呼ばれ、しばしば得宗の代官として得宗家の所領や守護所などに派遣されている。また、得宗家の家政を取り仕切る最高責任者は内管領と呼ばれ、長崎円喜のように権力を振るうものも現れた。摂家将軍・頼経、頼嗣は成長すると独自の政権運営を指向し、執権に反抗的な態度を取る。第5代執権・北条時頼は第5代将軍・頼嗣を追放し、宗尊親王を第6代将軍に迎える事で、この危機を乗り切り朝廷との関係を固めた(皇族将軍)。第8代執権・北条時宗は元からの国書を黙殺して、御家人を統率して元寇と戦う。これを機に鎌倉幕府は非御家人への軍事指揮権も獲得したほか、西国での支配権が強化され、北条一門が鎮西探題、長門探題として派遣された。また、北条一門の諸国守護職の独占も進む。時宗の息子第9代執権・北条貞時は平禅門の乱で内管領の平頼綱を滅ぼして得宗専制を確立する。これらにより、御家人層の没落が進行し、没落した御家人の中には御内人になる者もあらわれる。貞時の子・第14代執権・北条高時は後醍醐天皇の挙兵計画である正中の変を未然に防ぐが、後醍醐が2度目の計画である元弘の乱に続いて1333年(元弘3年/正慶2年)に再度挙兵すると、御家人筆頭の足利高氏(尊氏)がこれに呼応して京都の六波羅探題を滅ぼし、上野国の新田義貞も挙兵し、高氏の嫡子千寿王(足利義詮)が合流すると関東の御家人が雪崩を打って倒幕軍に寝返り、鎌倉を陥落させる。最後は、東勝寺合戦において敗戦し北条一族のほとんどは討死、また直後に自害し北条氏は滅亡する。」と ウィキペディアより。その横にあったのが「国指定天然記念物 地震動の擦痕(さっこん )」。静岡県伊豆の国市南江間809−2。「地震動の擦痕 解説昭和五年三月十日忠魂碑建設の時に海軍より魚雷を下附され附属物として展示されていた この年十一月二十六日北伊豆地震が起こり台石が針となって魚雷が震動し魚雷腹部をけずり擦痕をつけて自然の地震計となった 天然記録としてきわめて珍しく昭和九年一月二十二日国の天然記念物に指定された魚雷は台石の上に頭部を南五度東に向けて安置され地震に対して不動点となったため擦痕を印した擦痕の曲線は左下方より始めて一往復半の後四回の一進一止をくり返して合計七七二五ミリの移動を示した この曲線は地震動の実大を示したものではない」「天然記念物 地震動擦痕」を展示する建物を別の位置から。「天然記念物地震動擦痕史蹟名勝天然記念保存法ニヨリ昭和九年一月文部大臣指定昭和十三年三月建設」「地震動の擦痕:魚雷に記録された地震のゆれ」案内板。1930年11月26日の北伊豆地震(マグニチュード7.3 )は、丹那断層をはじめとする活断層が震源となり、現在地付近でも建物の全壊率25 %をこえる強いゆれに襲われました。この強いゆれで旧江間小学校校庭に展示されていた魚雷がすべり、台座に引っかかれたキズ(擦痕)が残りました。このキズからは、複雑なゆれの様子を読み取ることができます。「案内板」をズームして。「天然記念物「地震動の擦痕」案内板。カメラをガラス戸につけて。左が「ゆれ始めの弱い振動でできたキズで、ゆれ始めの弱い振動で魚雷が回転し、キズがつきました」と。そして右側が「強いゆれでできたキズで、それに続く強いゆれで魚雷が前後(左右)にすべり、キズがつきました」 と。擦痕を更にズームして。この地震で、地面はまず上下にグイと動き続いて、その後4~5回のステップで42.5cmも水平移動し、30cm程元にもどり、再び9.5cm逆方向に移動しているのが解るのだ と。「天然記念物「地震動の擦痕」(昭和9年1月22日 文部省指定)昭和5年11月26日に発生した北伊豆地震は、最大震度6の烈震と推定されており北伊豆地方に死傷者825人、家屋の全半壊7,501件の大きな被害を与えた。この地震により、台石が針となって魚雷の表面が削られ全長725mmの傷あとが残った。 この地震動の擦痕(傷あと)は、魚雷と台石が天然の地震計となって地震の激しさを刻み残したものとして大変貴重である。なあ昭和60年度の保存事業を機に、擦痕(傷あと)を見やすくするため従来後方の台石にあった魚雷を現在の位置に移動した。」「江間公園」にあった築山も昔からあったものであろうか。「江間公園」。現在は広い芝生広場として整備されていた。そして次に、近くにあった「石徳高神社(豆塚神社)」も訪ねた。静岡県伊豆の国市北江間3。「延喜式内 石徳高神社」碑。「豆塚神社(まめつかじんじゃ)豆塚大明神と索拝されている豆塚神社は、平安時代の「延喜式」神名帳に記されている「石徳高神社」に該当する由緒ある神社です。「相模守であった北条義時が小池堀丸山の震廟をこの地に移し再建した」と記された江戸時代の梁銘(元文五年[1740] )が現存しています。「吾妻鏡」では、青年期の北条義時は「江間小四郎」という名で登場しており、「江間」とは深い関わりがありました。」石鳥居。扁額「豆塚神社」。石鳥居下から境内を見る。「ようこそ伊豆の国市へ」。現在地をズームして。これまでに訪ねて来た多くの寺社、遺蹟名が載っていた。「豆塚神社(郷社) 鎮座地 伊豆長岡町北江間小字町屋御祭神 石徳高命例祭日 四月三日由 緒創建の年代は詳でないが明細帳に 依れば大明神と書いた古額あり、 又文明四年と記した神器あり。昔 は雄徳山大男山に鎮座せしを幾度 か遷祀し江間小四郎平義時は崇敬厚く現地豆塚に遷し大明神と稱せり。明治六年九月郷社に定められ 大祭には県よりの奉幣便により神事を行う。往時は江間郷北條郷は 一郷にて狩野川の流れが中間を流れる様になり、總鎮守を江間郷に 北條郷は守山の地に遷し祀った。」「拝殿」。扁額「大明神」。内陣。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.16
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ご近所の庭に咲く「河津桜」が今年も満開になっていたので、昨日、楽しませて頂きました。樹齢20年程度のものでしょうか。見上げると、ミツバチの姿と羽音がブンブンと。既に若葉も顔を出していました。今年も鮮やかなピンクの花が青空に映えて。キンカン(金柑)もタワワに。ソメイヨシノの淡いピンクに比べ、はっきりとした明るいピンク色。オオシマサクラとカンヒサクラの交雑種ではないかと言われています。人間の手で作られた園芸品種ではなく、自然が作り出した偶然の産物です。静岡県の河津町で発見されたのが名前の由来です。そしてこちらは、ミツマタ(三椏)の花。ミツマタは早春に枝の先に花が咲き、その後に同じ場所から3本の枝が伸びます。そのため、ミツマタの枝は常に3本セットで先端が3つに枝分かれしています。この独特の枝ぶりから「ミツマタ」の名がついたといわれています。 沈丁花(ジンチョウゲ)と同じように花には花弁がなく、花弁のように見えるのは萼片である。 花にはよい香りがあり、黄色い色をしている。 花はボンボンのように密集しているが、よく見ると4枚の萼片を持つ花の集まりである。もう1本、別の場所にも。手前には白の枝垂れ梅も。白の枝垂れ梅とのコラボ。そしてこちらは、我が菜園の隅に植えた桜:楊貴妃(ヨウキヒ)。蕾もピンクの色が濃くなって来ました。今週末には満開を迎えそうです。
2022.03.15
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「眞珠院」を後にして次に訪ねたのが「北條寺(ほうじょうじ)」。「北條寺」は、伊豆の国市南江間にある臨済宗建長寺派の寺院。山号は巨徳山(ことくさん)。鎌倉幕府二代執権北条義時の創建と伝えられている。本尊は、源頼朝が源氏再興を祈願したという「木造観世音菩薩坐像」(県指定文化財)義時の父時政も頼朝の挙兵時に武運長久を祈願したのだと伝えられる。その他、運慶作と伝わる「木造阿弥陀如来坐像」、義時の姉北条政子の寄進と伝わる「牡丹鳥獣文繍帳」(県指定文化財)を所蔵。境内には、北条義時夫妻の墓がある。静岡県伊豆の国市南江間862−1「山門」前には寺号標石「臨済宗 北條寺」。「山門」。「北條寺北條寺は、北条義時が幼くして亡くなった子、安千代の冥福を祈って建立したと伝えられています。鎌倉時代前期の慶派による阿弥陀如来坐像(県指定文化財)、鎌倉時代後期から末期の中国宋風の観音菩薩坐像(県指定文化財)、牡丹鳥獸文繍帳(県指定文化財)など、貴重な文化財があります。また、これらは北条義時・時政・政子が信仰・寄進したという伝承が伝えられ、北条氏とのつながりの深さがわかります。」山門の扁額は「巨徳山」。「山門」を潜り境内へ。「巨徳山 北條寺宗旨 臨済宗建長寺派 伊豆の国八十八ヶ所霊場拾三番札所 横道三十三ヶ所霊場八番札所 中道三十三ヶ所霊場十六番札所鎌倉幕府創立に功績があった北條時政の子息、義時(江間次郎)が創建した寺院。伝承によれば、義時の嫡子安千代が大蛇に襲われて命を落としたため、北條寺を墓所とし、七堂伽藍を建立したという。この時、仏殿の本尊「阿弥陀如来坐像」を運慶(鎌倉時代仏師)に命じて作らせたと伝えられている。本尊「観音菩薩坐像」は、南北朝時代の作で、寄木造、漆塗で、高い髻や全面に広がる絵画的表現の衣文など、中国宋代風の像容である。また、北條政子が奉納したとされる「牡丹鳥獣文繍帳」三張が伝来している。境内にある「小四郎山」と呼ばれる丘の上には、北條義時夫妻の墓がある。木造観音菩薩坐像 静岡県指定文化財 南北朝時代 桂材寄木造木造阿弥陀如来坐像 静岡県指定文化財 鎌倉時代 桧材寄木造 国重要美術品(昭和一三年認定)牡丹鳥獣文繍帳 静岡県指定文化財北條義時の墓 伊豆の国市指定文化財」多くの石仏が並ぶ。六地蔵。庚申塔群。お地蔵さまや石仏。この石碑には「豆駿横堂八番 北條寺」と、古字、くずし字解読の師匠の学友から。「北條寺」は「伊豆横道三十三観音第八番札所」だと。何故か、「道」が「堂」と刻まれていたが、北條『寺』を意識し、敢えて「堂」と刻んだのであろうか。800年前、伊豆に流されていた源頼朝が文覚上人の説得を受けて源氏の再興を決意、その成就を祈りながら「三十三観音」を巡ったのが始まりと伝えられている。これが伊豆横道(よこどお)三十三観音巡りである。伊豆横道三十三観音は、西伊豆の1番延命寺から南伊豆伊浜の33番普照寺まで、西伊豆、松崎、河津、下田、南伊豆にあり、明治始めの廃仏毀釈によって2ケ所のお寺がなくなっているので、実際には31ケ所 と。この石碑は、以前は「山門」前にあったが、「山門」の建て替え時に現在の位置に移されたのではないかと、これも頼もしい学友から。「北条家」と刻まれた巨大な墓石。「北条義時夫妻の墓」の案内に従って進む。境内には多くの墓石が並んでいた。「義時公の墓道⬅」碑。石段を上って行った。入口にあった「大乗妙典供養塔」。「近世の大山信仰のあり方と深い関係があったと思われる習俗として、大山寺境内および周辺の山麓地帯に広く分布している、「大乗妙典(奉読)供養塔(だいじょうみょうてん(ほうどく)くようとう)」と、「大乗妙典一字一石供養塔」建立がある。大乗妙典とは、法華経のことです。法華経の一字を一石に記して土中に埋めた供養塔で、近世中期以降盛んとなった大乗妙典納経廻国修行の風とも結びつき、その発願成就記念に建てられることが多かった。大山分かれの茶屋跡(大山町)近くには寛政七年(1795)建立になる大乗妙典一字一石塔が残り、そのかたわらに由来塔も立っているそうです。」とネットから。そして「北条義時夫妻の墓」に到着。右が北条義時、左が後妻佐伯氏娘の墓であると。「北条義時夫妻の墓北条義時は時政の次子で、源頼朝夫人政子はその姉である。幼少より江間の館に育ち、江間小四郎と称した。頼朝の旗揚げ以来、父 時政 兄 宗時とともに従い大功があった。鎌倉三代将軍実朝の不慮の死により、源氏の正統が絶えると京都より頼朝の姉の曽孫に当たる藤原頼経を迎えて自らわ執権となり勢威を極めた後鳥羽上皇はその専横を憤り、承久三年(1221年)院宣を下して義時を討とうとされた。義時はその子 泰時、弟 時房に大軍を率いて京都に攻め上がらせ、官軍を大いに破り、帝を廃し後鳥羽、順徳、土御門の三上皇を配流した。これが世にいう承久の変である。義時は承久の変後三年、元仁元年六月十三日急死した。時に六十二才であった。長子泰時らは、北条氏発祥の地にあるこの寺に墓を建て追善の碑とした。なおこの墓は向かって右が義時、左が後妻佐伯氏娘の墓である。」北条義時の墓。『吾妻鏡』によれば、北条義時は、承久の変後3年、1224年(貞応3年)6月13日、62歳で急死。「鎌倉の源頼朝墓の東の山上に葬られたという」👈リンク。ここ北條寺の墓は、義時の子で三代執権北条泰時が北条氏発祥の地に追善のために建てたものと伝えられていると。後妻佐伯氏娘(伊賀の方)の墓。北條寺の案内板には、義時の妻は佐伯氏の娘と記されているが、墓石の側面には藤原朝光の娘と彫られていた。藤原朝光は藤原秀郷の後裔で、伊賀守に任ぜられてからは伊賀氏を称したと。「北条義時」像。「北条義時」は鎌倉幕府2代目執権であり、源頼朝の妻・北条政子の弟。初代将軍「源頼朝」の亡き後、2代目将軍「源頼家」や3代目将軍「源実朝」を支え、頼朝が実現しようとしていた鎌倉幕府の政治基盤を築く。政敵を徹底的に潰し、敵対するなら実父ですら失脚させるなど、冷酷な振る舞いをしていた義時は「権力のために他人を蹴落とす悪人」と呼ばれることもあった。「鎌倉殿の13人」の北条義時を演じる小栗 旬さん。「江馬家の墓」と。江馬氏は、桓武平氏経盛流を称した江馬輝経が北条氏に仕えたのに始まるという。『飛州志』所収の江馬氏系図によれば、「平経盛の妾腹の子輝経が、伊豆国の北条時政に養育され、伊豆田方郡江馬庄の地名をとって、江馬(江間)小四郎と名乗った」と記されていると。無縫塔が並ぶ。「歴代塔」(左)と「心宗詮大和尚」(右)。「北条義時夫妻の墓」を後にし石段を下る。「伊豆の国市 北条義時ゆかりの地」の幟が並ぶ。「無縁塔」、文化七年午十月と。「天満宮」。そして「北條寺」の「本堂」。「北條寺」のパンフレット。「木造観世音菩薩像」。南北朝時代 桂材寄木造 静岡県指定文化財全面を黒漆塗りとし、玉眼をつけている。頭部は髻の後方及び耳の後ろを通る線で前後にニ材を寄せ、さらに後頭部に蓋板を当て、首を柄差しとする。髻は高く結い上げ、柄衣を通肩にまとい、腹前に下衣のくくりをあらわす。左手は臂を曲げ、掌を下にして左膝に置く。右手は右腰脇に下ろす。両肩にかかる衣は複雑な衣文を描いて両協すそに広がる。中国宋代の仏画の影響をよく見ることができる。「木造阿弥陀如来座像鎌倉時代 桧材寄木造 静岡県指定文化財 国重要美術品像高66.7 cm、桧材、寄木造りで古色仕上げ、玉眼で、鎌倉時代の作である。衣をまとい、定印を結び座る姿で、背面のひだまで如実に写した入念の作であリ、運慶派の特徴がよくでている。北條寺文書(寛永9年)によると、土御門天皇の御代、相模守江間小四郎義時の嫡子(安千代)が、領内の大池で大蛇に襲われて命を失った時、北修寺を墓所とし、その子の冥福を析って七堂伽藍を建立し仏殿の本尊を運慶に命じて作らせた。運慶は信心をもって一刀三札、金泥細金の彩色を施し3年かかって完成したといわれる。この阿弥陀如来が日本無類の尊容であり、また以後運慶の阿弥陀如来像は無いため、伊豆の無き阿弥陀といわれるようになった。」「観音菩薩像」。仏殿の本尊を運慶 (鎌倉時代の仏師)に命じ作らせた 。 また 、観世音菩薩像 (県文化財)は室町時代南北朝期の寄木造り、 漆塗で、高い髻、全面に広がる絵画的表現の衣など中国宋風の仏像である 。「牡丹鳥獣文繍帳静岡県指定文化財800年以上前に中国で製作されたものを北條政子によリ北條寺に奉納したもの。当時の中国の刺繍の代表的作品であり、わたしぬい等17種の技法を駆使して全面あますところなく刺した本邦最大の品と言われている。豆州志稿には「ニ位尼ノ寄贈セリト云フつづれの錦ノ斗帳を蔵ス」とある。主張 長92.5cm 幅247cm 左右帳 各長249cm 各幅48.5cm 室町~桃山時代。三帳とも生地は縹色の絹地にすべて界線をを施して牡丹、果樹、鳥獣文をを平縫いと纒縫の技法で帳全面をあますところなく縫いつめた稀有の大作である。」御朱印を頂きました。「本堂」の殿鐘(でんしょう)。これが鳴り出すと、「そろそろ法要がはじまるよ」という合図になっていたのだと。「本堂」前から「北条義時の墓」のあった丘の方向を見る。境内には蝋梅の花が開花中であった。近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.15
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さらに「眞珠院」の境内を八重姫に想いを馳せながら、さらに巡る。正面に「本堂」。「本堂」に近づいて。水引虹梁の上の中備(なかぞえ)に見事な龍の彫刻が置かれていた。内陣。正面に本尊、釈迦牟尼佛。涅槃図であろうか。扁額「守護山」。「本堂(法堂(はっとう))禅宗では佛殿と称し、寺院加藍の中心となる本尊をまつる建物当寺では正面に本尊、釈迦牟尼佛を安置し、脇立として阿難尊者・迦葉尊者のニ佛を配し、その左右に永平寺御開山高柤承陽大師(道元禅師)、総持寺御開山太柤常済大師(瑩山禅師)をまつる。又、堂内には、達磨大師・十六羅漢等の佛像が安置されております。」 「眞珠院 案内図」。「御朱印受付所」は「庫裡」玄関に。御朱印を紙で頂きました。十三重石塔。観音像。正面から。お顔をズームで。歴代住職の墓地。多くの「無縫塔」が並んでいた。塔身が卵形という特徴があり、別に「卵塔」とも呼ばれる。無縫塔は、鎌倉期に禅宗とともに大陸宋から伝わった形式で、現存例は中国にもある。当初は宋風形式ということで高僧、特に開山僧の墓塔として使われた。近世期以後は宗派を超えて利用されるようになり、また僧侶以外の人の墓塔としても使われた。 現在でも寺院の墓地に卵塔が並んでいたら、ほぼ歴代住持(寺の長である僧・住職)の墓である。正面に「歴住塔」。横から。「五輪塔」👈リンク。「定仙大和尚塔(じょうせんだいおしょうとう)」と呼ばれ、正安4年(1302年)の銘のある五輪塔。別の角度から。「五輪塔地・水・火・風・空の五大をそれそれ、方・円・三角・半月・宝珠の形で象徴し積みあけた塔で、後年、板塔婆の上部に切り刻む原形ともなる。当寺の五輪塔は正安四年(一三〇ニ年)の建立で、県内最古の五輸塔です。水輪の四方に四方佛(東方・阿閦佛、南方・宝生佛、西方・阿弥陀佛、北方・不空成就佛)がきざまれた、非常に貴重な塔といえます。」無縁仏。「陸軍歩兵 上等兵 勲八等 矢田三作之墓」。「陸軍歩兵上等兵 勲七等 岩崎勝俊之墓」。「古川」沿いに墓地が続いていた。墓地の奥にあった貞治2年銘の阿弥陀如来磨崖仏を訪ねたのであった。ズームして。貞治2年(1363年)銘の阿弥陀如来磨崖仏であると。「本堂」と「庫裡」の間の渡り廊下を潜って進むと見事な庭園があった。庭園の隅にあった「水琴窟(すいきんくつ)」を訪ねた。「水琴窟」👈リンクは、日本庭園の装飾の一つで、手水鉢の近くの地中に作りだした空洞の中に水滴を落下させ、その際に発せられる音を反響させる仕掛けで、手水鉢の排水を処理する機能をもつ。水琴窟という名称の由来は不明である。同系統もしくは同義の言葉に洞水門(とうすいもん)がある。伏鉢水門、伏瓶水門ともいう と。池に架かる太鼓石橋。枯山水の庭を楽しむ。「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で頼朝に向かって矢を放つ八重姫。江間次郎(芹澤興人)が八重を三島明神の祭りに誘うと、八重は「あの方は?目代の」。山木兼隆が落馬し、足を痛めたため館にいると聞き出した。最初の夫・頼朝を思う八重の心が動いた。夫が表で待つ間、館を抜けた八重は渾身の力で弓を引き、対岸の北条館へ矢を放った。頼朝に矢が届けられ「川向こうから。八重か。八重とは人の目を盗んで会っておった。伊東の庭の梅の枝に結ばれた白い布は、今夜会いたいということ」。義時は「今夜出陣せよとの合図です。山木は館にいます」。頼朝の腹は決まり、ついに出陣したのであった。八重の夫の「江間次郎」を演じる芹澤興人さん。八重が伊東家の家人だった江間次郎のところに嫁いだのは、自分の留守中に頼朝と恋仲になって男児を産んだことに激怒した父・伊東祐親が八重に与えた罰で、八重は江間次郎について「夫と思ったことはございません」と言い放ち、あたかも家来に対するように冷たく接し続けているのであったが・・・・。息子・千鶴丸の墓石を撫でる八重姫。八重は伊豆山権現の長・文陽房覚淵(諏訪太朗)とも面会。5年前に父・伊東祐親(浅野和之)が連れてきた自身の息子・千鶴丸(太田恵晴)に会わせてほしいと訴える。覚淵は「何かのまちがいでは?」と応えるが、それでも食い下がる八重。すると覚淵は立ち上がり「こちらへ」と八重を外へ案内する。 覚淵に案内された八重がたどり着いたのは、木々に囲まれた墓。手を合わせていた覚淵は八重に「ここへ来た時にはすでにむくろになっておりました。川で溺れたと聞いております」と明かす。八重は墓石にゆっくり近づくとひざまずき、目を泳がせながら「立派なお墓…」とポツリ。そして八重は墓石をなでると、言葉にならない声をもらしながら号泣。帰らぬ人となった息子の前で大粒の涙を流すのだった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.14
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次に 頼朝との悲恋・八重姫の寺「眞珠院(しんじゅいん)」を訪ねたのであった。入口の巨大な自然石には「曹洞宗 眞珠院」と刻まれていた。 静岡県伊豆の国市中條2。「伊豆の国市 北条義時ゆかりの地」幟が。山門前に「案内板」が並んでいた。「眞珠院山門をくぐると右手に佇む八重姫御堂があります。この御堂は源頼朝との仲を裂かれた伊東祐親の娘「八重姫」が祀られ、八重姫の木像と供養の石塔が安置されています。八重姫は悲恋を嘆き「我が身を捧げ女人の守護神となりましよう」と近くにあった梛(なぎ)の一枝を取り、当時寺の南側にあった真珠ヶ淵に身を投げて亡くなったと伝えられています。「梯子があれば救うことができたのにという里人の気持ちが、今日願い事がかなったお礼参りに小さな梯子を奉納する習慣となっています。」「伊東八重姫入水の地源頼朝との契りの一子「千鶴丸」を源平相尅のいけにえにされた伊東祐親の四女「八重姫」は、悶々日を送る中、遂に意を決し治承四年七月十六日待女六人と共に伊東竹の内の別館をぬけ出し、亀石峠の難路に、はやる心を沈めながら頼朝の身をかくす北条時政舘の門をたたきました。然し既に政子と結ばれていることを知る邸の門衛は冷たく、幽閉された身の我が舘に帰る術もない八重姫は、あわれ真珠ヶ淵の渦巻く流れに悲愁の若き「いのち」を断ってしまいました。悠久八百年、狩野川は幾度か流れを変え、今は「古川」の小さな流れに閉ざされた悲恋のしのび音を偲ばせてくれます。尚、当院境内に県下最古の「五輪塔」(一三〇ニ)並びに磨崖仏(一三六三)その他宝篋印塔(一三三五)等々貴重な石造物が安置されています。」白梅の樹々の奥には「聖観音像」が。「聖観音像」に近づいて。白梅もズームで。「狩野川台風最高水位 昭和三十三年九月二十六日」。狩野川台風・台風第22号は昭和33年9月26日から、27日にかけて伊豆半島と関東に甚大な被害をもたらしたのであった。被害 ✱死者・行方不明者数:1,269人 ✱負傷者数:1,138人 ✱住家の全半壊、流出:16,743戸 ✱住家の床上床下浸水:521,715戸 ✱耕地被害:89,236ha ✱船舶被害:260隻 正面に「山門」。「守護山 眞珠院 古来、修行道場として栄え「祇樹林(ぎじゅりん)」の別称がある。宗旨 曹洞宗「禅宗」本山 福井 永平寺(道元禅師開山) 横浜 総持寺(瑩山禅師開山)本尊 釈迦牟尼佛開山 実山永秀禅師開創 鎌倉時代、真言宗として開創。 室町時代に曹洞宗に改宗し現在に至る。」「宝篋塔」、1764年(宝暦14年)の建立。「三界萬霊塔」、1689年(元禄2年)の建立。「山門」の奥に「本堂」が見えた。扁額には「祇樹林」と。「眞珠院」のパンフレット。可愛らしい「六地蔵」。永代供養墓。「大強精進勇猛佛」碑。石平道人は、江戸時代初期の禅僧で俗名を鈴木正三と言う。鈴木正三はもと徳川家の家臣で、歴戦の勇士であったが、元和元年(一六二〇)四十二才で出家し禅門に入ったが、一宗一派に属さず「南無大強精進勇猛佛」の信仰を唱え、仁王禅を提唱した人物である。プロの宗教家だけが修行して仏道に到るのではない。いかなる職業でも精進してその道を究めれば、それが仏道。勇猛果敢、強直に信じる道を行け鈴木正三が偉いのは、この信条を自ら実践してきたことにある とネットから。右手の石段の上にあったのが「八重姫御堂(静堂(しずかどう))」「八重姫御堂(静堂)鎌倉初期、源頼朝との恋にやぶれ悲恋の入水をした伊東ハ重姫をまつる御堂で、堂内正面に八重姫の木像を安置し、下に供養塔を収める。那木 堂の右手の大木は那木(和木)といい、平和、穏やかの意。この葉は横に割けす、 愛のお守りとして、又、家族平穏のお守りとして持っと功徳があるという。願かけ石 堂左前にある願かけ石は、自分の年の数だけ石をたたき、願い事をすると必ず 成就すると古来より伝えられている。」「梯子供養八重姫が入水した時、せめて梯子があったら救う事が出来たのにという里人達の気持ちが、今日、願い事が成就した時そのお礼参りとして梯子を供える習慣として残されている。」こちらにも手作りの小さな「梯子」が数多く。内陣。八重姫をまつる御堂で、堂内正面に八重姫の木像を安置し、下に供養塔を収める。八重姫の木像をズームして。八重姫の木像の手前にも多くの梯子が納められていた。更に。「静堂由来記この御堂は、治承4年(1180)源頼朝との悲恋のすえ当院に程近い真珠ヶ淵に入水して果てた伊東八重姫を祀ったものである。平家のため伊豆韮山の蛭ヶ小島に流されいた頼朝は監視役の伊東祐親が与えた北の小御所に遊ぶうち祐親の四女八重姫と契り、一子をもうけた姫は史上名高い曽我兄弟の叔母にに当たる。京都での大番役を終えて三年ぶりに帰郷した祐親はこれを知り、平家への恩義と娘への愛との相剋に悩んだあげく、三歳に満たぬ千鶴丸を轟ヶ淵に沈め八重姫を館の一室に幽閉した。治承4年2月半ばのことである。頼朝は難を避け韮山の北條時政の館へ走った。同年七月十六日未明八重姫は六人の侍女を連れて脱出険しい亀石峠を越え茜さす暮れ方にようやく北條の館にたどりついたが頼朝はすでに八重姫には姪に当たる時政の娘政子と政略結婚していた。愛する人に一目合うことも許されず父のもとへも帰れず、重い余った八重姫は死を選ぶほかなかった。当時狩野川の支流は守山南麓を流れ、当院の近くには激流渦巻く真珠ヶ淵があった。八重姫は「吾は不幸にしてこの世を去るも魂は永くこの土に留まって女人の守護神とならん」と誓願をこめ、傍らの梛の一枝を手折って淵に身を投じた六人の侍女は悲嘆にくれながら姪の遺体を抱き上げて近くの萬願寺に葬り、知らせに走った一人のほかは皆その夜のうちに田中山の松の大木の下で自害、姫の後を追った跡には供養塔が建てられ「女塚」と呼ばれている。里人たちは八重姫をふかくあわれみ、供養塔を建て梛の枝を手向けせめて梯子があれば救えたものをとの心から手作りの小さな梯子をそなえて霊を慰めた。この御堂の前にはいまも梛の大木が茂り梯子供養の習慣も続いている。また頼朝の憎しみを受けて愛児を鎌倉由比ガ浜に沈められた義経の愛妾静御前は、相似た境遇で落命した八重姫母子に同情し、真珠ヶ淵の近くに祠を建てて冥福を祈ったと伝えられる。すなわち「静堂」の由来である。以来数百年、八重姫は「お静さん」と呼ばれ縁結びの神、子授けの神として親しまれてきた。頼朝の異母弟、金成はこの静堂に心ひかれ、萬願寺の地続きに弟の義円と義経の菩提を弔うべく真珠院を建立した。萬願寺は明治初年に廃寺となり、静堂、八重姫の像および供養塔は真珠院に移されて今日に至る。その静堂も昭和47年(1972)七夕豪雨により損壊、56年(1981)地元有志によって、設立された八重姫奉賛会の活動が縁となりここに再建をみた。堂内には「八重姫供養塔」と木彫りの「八重姫像」が安置されている。もし八重姫の恋が実っていたら歴史は一変していたであろう。この御堂の由来には日本史上の大きな転機が秘められているのである。一説に、八重姫の愛児千鶴丸は祐親の情けによって生きのび甲斐源氏の庇護を経てやがては島津忠久になったともいう。堂内の膜に織りこまれた二つの家紋は伊東氏の「庵に木瓜」と八重姫の頼朝から贈られた「立牡丹」である。」「八重姫慕情」さくら吹雪に 木洩れ陽の揺れて無情の 憂いあり伊豆韮山の 中條に立てば遠き 空の果て侍女に守られ 八重姫は頼朝公を 御慕い悲恋はかなく 落葉舟真珠ヶ淵の 渦の中里人出でて 走れども岸高くして そこ深く夕暮れせまり いかにせん救わせたまえ 姫の身を那木の木末の そよぐ下供養の塔に かけられし小さき梯子 数いくつ治承の昔 偲ばれる同じ歌詞が石碑にも。梛・那木(なぎ)の巨木が「静堂」の右側に。梛はマキ科の常緑高木。針葉樹でありながら、広葉樹のような幅の広い葉をもつ。その葉には、縦に細い平行脈が多数あって、主脈がない。その独特の構造のため、梛の葉は、横には簡単に裂くことができるが、縦にはなかなかちぎることができないと。葉の丈夫さから梛にはコゾウナカセ、チカラシバなどの別名があり、その丈夫さにあやかって男女の縁が切れないようにと女性が葉を鏡の裏に入れる習俗があった。また梛の葉は裏も表も同じようなので裏表のない夫婦生活が送れるとか。それらのことから「梛」の字には良縁に恵まれますようにというような願いを込められるのだと。その後に別の場所で梛・那木(なぎ)の葉っぱを2枚頂きました。実際の葉を縦に引っ張ってみましたが、すんなりと。そして横に引っ張ってみましたが、なかなか、いや全く切れませんでした。やむ無く、葉の端に傷をいれ無理やり引っ張ると何とか切れたのですが、剥がれた場所には葉の繊維が顕に。葉の丈夫さから梛にはコゾウナカセ、チカラシバなどの別名があり、葉脈の方向に引っ張っても葉がなかなか切れないことから、その丈夫さにあやかって男女の縁が切れないと、また縁結びの願掛けに、女性が葉を鏡の裏に入れる習俗があり、お守りにしていることが理解できたのであった。また梛の葉は裏も表も同じようなので裏表のない夫婦生活が送れるとか。「願かけ石」。八重姫御堂左前の願かけ石は、自分の歳の数だけ石をたたくと願い事が必ず成就すると伝えられているのであった。私も歳の数だけ石をたたいたのであったが・・・。「八重姫主従七女之碑」。八重姫に従っていた侍女6人が、真珠ヶ淵に身を投げた八重姫を葬り弔ったのが真珠院の始まりともいわれる。八重姫を葬った侍女たちは、伊東へ帰る途中で自害したのだという。碑には「八重姫 治承4年7月16日真珠ヶ淵に入水。侍女 同日大仁田中山にて自害」と記されているのであった。7月16日は私の誕生日。合掌!!境内の石灯籠、五重塔。さらに参道を「本堂」に向かって進む。こちらは「十三重塔」。美しく整備された境内。寺務所。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.13
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「願成就院」の後方にある神社・「守山八幡宮」を次に訪ねた。源頼朝挙兵、ゆかりの神社。静岡県伊豆の国市寺家1204-1。「守山八幡宮」碑。「史跡 源頼朝挙兵之碑源頼朝 治承四年(一一 八〇)八月十五日守山八幡宮に平家追討を祈願して 挙兵 夜陰 源氏重恩の軍兵数十騎、山木判官平兼隆を襲い討つ、其の間、頼朝 、遥かに山木館の火煙を望み、悲願の達成を悦ぶ、蓋し鎌倉幕府草創の礎はここに於て成ると、故に記して建碑の所以とする」これは「舞殿」であろうか。扁額「八幡宮」。そして「舞殿」の裏に長い石段が続いていた。ズームして見ると、こちらが「拝殿」のようであった。長い急な石段を息を切らしながら頑張って上って行った。そして何とか「拝殿」に到着した。「拝殿」の扁額は「八幡宮」。「當社の創建は大化三年(六四七年)御祭神は大山祇神で延喜式内石徳高神社である延喜七年(九◯七年)豊前国宇佐宮より八幡神を勧請合祀其の後専ら伊豆国総社八幡と称す。治承四年(一一八〇年)源頼朝此處に源家再興を祈り兵を挙げる。現在の本殿は寛永九年(一六三二年)久能城主榊原大内記照久の造営である」内陣。「拝殿」前から石段を見下ろす。崖下に鎮座する「本殿」を見る。「拝殿」の横にある狭い山道を「守山山頂展望台」に向かってさらに上って行った。切通しの如き山道を進む。そして10分弱ほど上って「東屋」のある「守山山頂展望台」に到着。「守山山頂展望台」からの富士山の勇姿。手前には標高は191mの「日守山」の姿が。北東にある伊豆の国市四日町方向を望む。「展望案内図守山の展望台の真下には史跡北条氏邸跡(円成寺跡)や願成就院が広がり、狩野川の向こうの北條寺や北条義時館跡を眺望することができます。源頼朝は、この地で旗揚げをし、まずはじめに平家方の山木兼隆の討伐に向かいます。伊豆の国市は源頼朝による鎌倉幕府草創の出発の地です。」最後に紹介する「守山登頂証明書」の裏にも同様な説明がありました。①北條寺北条義時が長男安千代のために建立したとされる寺院。境内には、「北条義時夫妻の墓」がある。仏師集団「慶派」による作品「阿弥陀如来坐像」や、姉の北条政子が寄進したと伝わる「牡丹鳥獣文繍帳」など、数多くの貴重な寺宝を有する。②江間公園(北条義時館跡)義時の館があったとされる場所。現在は江間公園。義時は青年期、「江間小四郎(こしろう)」を名乗っていたとされる。③堤信遠の館 推定地この地で旗揚げした源頼朝は、山木兼隆の討伐に向かう。途中、兼隆の後見である堤信遠の館を襲撃する。④山木兼隆の館 推定地源頼朝の監視役であった山木兼隆の館があったとされる場所。近くには山木兼隆が創建したと伝わる「香山寺」があり、供養塔が建立されている。⑤蛭ヶ島公園源頼朝が配流され、14歳から34歳まで過ごした地といわれている。頼朝・政子が富士山をみつめる「蛭ヶ島の夫婦(ふたり)」の像が建っている。⑥願成就院源頼朝の奥州攻めの戦勝を祈願して北条時政が創建した北条氏の氏寺。時政の子、義時や孫の北条泰時も堂や塔を建立しており、境内には時政の墓もある。⑦史跡北条氏邸跡(円成寺)発掘調査により北条氏の館跡であることが明らかとなっている。遺跡の年代から北時政の館跡であり、義時はこの地で生まれたと考えられている。「守山の展望台の真下には史跡北条氏邸跡(円成寺跡)や願成就院が広がり、狩野川の向こうの北條寺や北条義時館跡を眺望することができます。源頼朝は、この地で旗揚げをし、まずはじめに平家方の山木兼隆の討伐に向かいます。伊豆の国市は源頼朝による鎌倉幕府草創の出発の地です。」手前に「狩野川」が。山の手前が伊豆の国市北江間地区。「守山登頂証明書」を頂きました。そして「守山」を下り、「願成就院跡」に駐めてある車まで戻り、次に訪ねたのが「信光寺」。右手に「曹洞宗 熊野山 信光寺」碑。静岡県伊豆の国市寺家90。白塀に囲まれた「信光寺」。「曹洞宗信光寺縁起」「本尊は秘佛十一面観世音菩薩を安置し、境内には大師堂があり空海の加持井と称する井戸が残る。当山は武田五郎信光入道光蓮の開基であり信光公の廟所(宝篋印塔)がある。武田氏は清和源氏、源義家(八幡太郎)の弟義光(新羅三郎)を祖とし、義光の三代後の信義のとき武田氏を名乗る。武田五郎信光については吾妻鏡・平治物語・平家物語、他にも甲斐国史などに多くの記事がある。鎌倉大草紙には信光について尼将軍北条政子(頼朝の妻)の時、伊豆の国を給わり、十二年間伊豆に居住したと記す。源平盛袞記には、信光は特に流鏑馬の儀に通じ四天王の一に数えられ、後に執権時頼に伝授するともある。伊豆の国の守護職に任せられ、又、安芸の国(広島)の守護職も勤め、晩年「伊豆入道光蓮」と名乗った信光は晴信(武田信玄)より十四代前にあたる。縁起には信光、鎌倉より頼家の病状伺いに修禅寺に赴き、鎌倉への帰路ここに到って頼家の殺された事を聞き、それを嘆きて入道し守山の麓に小庵(方広庵)を結び、出家して「光蓮」と称し頼家の菩提を弔ったという。法名は「月照信光大居士」応保二年(一一六二)~宝治ニ年(一二四八)八十七歳と伝えている。」信光は修禅寺に幽閉されていた頼家の監視役だったのだ と。「法華塔」碑。「本堂」。境内の出土物などから、鎌倉時代には願成就院の寺域に含まれていたと推定されているのだと。本尊は十一面観音菩薩(秘仏)。内陣。「本堂」内の笙を吹く天女(右)。「本堂」内の蓮の花を持つ天女(左)。「願成就院跡」、「伝堀越御所跡」、「北条氏邸跡」の各敷地推定図。「歴史的風致範囲図」。六地蔵。「馬頭観音堂」。「三面観世音」であろうか。「慈母観音立像」。「西国三十三番観音霊場」の観音石仏群。「西国三十三番観音霊場石佛について嘉永四年(一八五一)当山三十二世一応實全和尚の時、本堂裏の岩山に始めて西国三十三番観音霊場の本尊を石佛として建立す。その後六十年を経て明治四十三年(一九一〇) 当山四十一世橋本真順和尚の発願により、二代目の三十三番観音石佛を岩山に安置する。平成十五年(二〇〇三)岩山の石段を登るのが危険であることなどから、ここに三十三体が整備安置された。又、当山四十四世伊藤正義和尚は昭和五十九年から六十二年の四ケ年にわたり近隣御寺院方と檀信徒三十余名共々西国三十三番観音霊場を参拝し、各寺院より「土」を頂き石佛のもとに納める。此の石佛をお参りすることにより「西国三十三番観音霊場順拝」のご利益があるといわれております。」西国三十三番観音霊場石佛が並ぶ。「信光寺開基 武田五郎信光入道光蓮公廟所応保二年(一一六ニ)~宝治ニ年(一ニ四八)没 八十七歳」碑。武田氏は清和源氏で、八幡太郎義家の弟の新羅三郎義光を祖とし、義光の三代後の信義の時に武田氏を名乗る。源頼朝旗揚げの際には共に挙兵しており、奥州合戦などでも戦功を挙げている。信光は弓馬四天王の一人に数えられる名手で、執権時頼にその技を伝授したと伝わっている。また、信光は武田信玄から遡ること14代前の武田家当主となる人物。武田信光の墓塔・「信光寺開基 武田五郎信光入道光蓮公廟所」の宝篋印塔。歌碑「玉の井乃(の) 和(わ)具(く)や泉の能(の) 志(し)ん光寺 大地の免(め)くみ まもる水可(か)奈(な)」寺務所。「永代供養墓地」であろうか。「永代供養墓地のご案内」。門前の石仏。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.12
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「願成就院」の散策を続ける。「大御堂」への参道には巨大な石灯籠が。近寄って(左側)。近寄って(右側)。「願成就院」の看板犬の秋田犬のROCKY(ロッキー)くんも居眠り中か?扁額「大御堂」。国宝が鎮座する内陣を「ネット」👈リンク から。大御堂にお祀りする運慶作、国宝五身區の仏像群をネットから。阿彌陀如来坐像国宝・運慶作・1186年(文治2年) 像高142.0cm力強い体軀で、圧倒的な重量感にあふれている。深く刻み込まれた流れるような衣文も流石運慶と思わせる。縵網相の説法印を結び、激動の時代を生き抜かなければならない当時の武士や民衆を救おうという強い意志を感じさせます。不動明王・矜羯羅童子・制吒迦童子三尊立像国宝・運慶作・1186年(文治二年)像高 不動明王 137.2cm、羂索をとる左手を、利剣を握る右手と同じ高さに上げた逞しく若々しい上半身、玉眼の両眼をかっと見開き、眉毛をつり上げた眼光鋭い忿怒の形相の不動明王が、左前にあどけなく、清浄無垢な愛らしい矜羯羅童子を、右前に手に宝棒を持ち、眉間にしわを寄せ、ロをへの字にしたきかん気で今にも動き出しそうな制吒迦童子を伴って悪に立ち向かう頼もしいお姿は、様々な難儀、災厄から人々を守ろうとされる強い法力を感じさせます。制吒迦童子立像(せいたかどうじりゅうぞう)・83.5cm。矜羯羅童子立像(こんがらどうじりゅうぞう)・74.4cm。毘沙門天立像国宝・運慶作・1186年(文治2年)・像高148.2cm二匹の邪鬼を踏みつけて、玉眼入りで眼光鋭く一点を凝視して立つ雄渾なお姿には、躍動感、緊張感が巧みに表現されていて、運慶が出合ったであろう東国の若武者のイメージが彷彿としてきます。守護神として、尚武招福の仏様として、東国武士や民衆に崇められてきたことを感じさせます。本堂の本尊、阿彌陀如来坐像。県指定文化財・鎌倉前期・慶派作(作者不詳)・像高86.8cm 玉眼入り 願成就院・本堂蔵十三世紀初頭の作風から、時政公の供養のために、1215年(建保三年) 12月に二代執権北條義時公が建立した南新御堂本尊阿彌陀三尊の中尊であるとされています。地蔵菩薩坐像(通称:北條政子地蔵)県指定文化財・鎌倉前期・慶派作(作者不詳)・像高51.6cm 玉眼入り 願成就院・宝物館蔵像座に「寛喜の銘文」が残り、政子七回忌頃の作で、北条泰時が願成就院に奉納したかと思われています。北條時政公肖像制作年代・作者不詳 玉眼入り 願成就院・宝物館蔵唯一の北條時政公の肖像であります。境内の「五百羅漢(ごひゃくらかん)」の表情が楽しいのであった。「弘法大師御像」。茅葺の本堂。願成就院創建六百周年にあたり、1789年(寛政元年)に建立。時政供養のために1215年(建保三年)にできた南新御堂の後身堂である。二百三十年の風雲に耐えて本日に伝えられています。「浅草と願成就院伊豆の大仁を愛する浅草の住人高坂公一 和田長敬 大塚金太郎の三氏がゆくりなくも当韮山の願成就院を訪れ荒廃せる堂内に国宝の御佛を拝するに及び痛恨の念に暫し去りやらず茲に護持の一念発起して浅草の人々の協力を求める篤信の人雷おこし主人穂苅氏を講元に仰ぎ昭和三十年九月浅山講を創立爾来講費頓に加わりて本年講費壱阡七百名を算する事となる此の信仰の結果は昭和三十七年二月願成講倉島講元天山講真鍋講元との共同発願に依り不燃建築の護持大御堂を建立し重要文化財なる御佛の数々を未来永劫に安置し得る大業を了し終りぬ本碑に願成就院が浅草人に依り復興の端緒となりたるを刻して記念となす梅が香の千代に伝へむこの御霊」。「運慶謹作仏像五体 国宝指定記念之碑」。「浅山講五十回団参記念之碑」と「五百羅漢」。近づいて。「浅山講五十回団参記念之碑歳月の過ぎゆくは矢の如しというが、浅山講五十年の歩みもまた夢のようである。創講者の一人である故高坂公一氏は、昭和ニ十九年の晩秋、友人の和田長敬・大塚金太郎の両氏と初めて願成就院を訪れ、荒廃せる堂内にみ佛を拝観したときのことを後の手記に書き残している。「阿弥陀如来の慈顔溢れる結構さと、不動明王・毘沙門天の眼光炯炯としてあたりを威圧するが如き尊厳さを拝し、平伏合掌したのが、私どもの胸の中に今でも強い印象となって残っている。浅草に帰った私たちは、国宝護持の目的をもって上條貢先生(元台東区長・都議会議長)と相談して浅草の浅と韮山の山をとり浅山講という信仰団体を創立することにした。講元には篤信家の常磐堂雷おこし社長徳刈恒一氏の就任をお願いした。第一回団参には約八百名の参加者があった。」創講から八年後、昭和三十七年ニ月、悲願であった不燃建築の新大御堂の建立が、同志との共同発願により達成され、願成就院復興の端緒となる。尊きみ佛護持顕彰の創講の精神は、ニ代目穂刈幸雄講元、三代目穂刈敬子講元に継承され、歴代副講元・世話人・支部長衆の尽力によって毎年団參が継続実施され、本年五十四回目を迎える。本碑に浅草と願成就院の因縁深きことを刻して記念とする。 合掌。」至る場所に五百羅漢が。池と石橋。「五百羅漢」を追う。右手に「宝物館」。「五百羅漢」とは仏陀に付き従った500人の弟子。またはそれをかたどった像のこと。私に似た五百羅漢を探すが・・・。この付近の五百羅漢は眼鏡をかけている方が多かったが。知人に似ている!!そして仲良く夫婦で並んで。十三重塔。「五百羅漢」を更にカメラで追う。この後に訪ねた「守山八幡宮」の舞殿が隣奥に見えた。そして「足利茶々丸公方御墓」を訪ねた。左手には、俳人石田波郷の句碑があった。「寂かにて 願成就院 梅雨はれぬ」。「足利茶々丸公方御墓」。足利茶々丸は堀越公方足利政知の子。1493年(明応2年)、北条早雲が伊豆に攻め入った際、願成就院に逃げ込んで自害したと伝えられている。ただし、近年の研究では、伊豆から追放され、1498年(明応7年)、甲斐国で自害したとされている と。父の死後に一族間で内紛を起こして家督を相続するが、伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められて各地を転戦の果てに自殺、堀越公方家は滅亡した。「茶々丸」は幼名であり、元服をする前に死去したため、成人としての実名である諱は伝わっていないとされる。「成就院九成居士」と刻まれていた。出来たばかりの?五百羅漢。この場所は工房であっただろうか。以前は希望すれば、指導の下、自分でこの「五百羅漢」を作成でき、境内に奉納できたようであったが現在は??斜面にこれでもかと。「永代供養廟」。「大御堂」(右)と「宝物館」(左)を横から。「洗心庭」。「枯山水庭園 洗心庭中央の右手に阿弥陀如来に見立てた大きな不動石を配し五石の石組をし刈入の木と自然な木を調和させ優しいやわらかな雰囲気をかもしだす庭園です。白雲上の仏樣たちを想像するなど見る人それぞれの心でこの庭を鑑賞してください。」「守山八幡宮」への角に立っていたのが「頼朝公建立 天守君山 願成就院」と刻まれた石碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.11
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「北条政子産湯之井戸」を後にして、その先「狩野川」に向かって進むと、左手にあったのが「北条氏邸跡(円成寺跡)」。静岡県伊豆の国市寺家13。「北条氏邸」は鎌倉幕府の執権として活躍した北条氏の館があった場所。「北条氏邸跡」が位置する守山は北条氏の本拠地で鎌倉時代に伊豆北條と呼ばれていた。守山の東側には氏寺である願成就院が建てられ、北西側の谷の内部には館が建てられた。平成4年(1992)から平成5年(1993)にかけて行った発掘調査では平安時代末から鎌倉時代はじめにかけての大量の出土遺物とともに建物跡が発見され、北条氏の館があることが確認された。元弘2年(1333)、鎌倉幕府の滅亡後、北条一族の妻や娘たちは鎌倉から韮山に戻った。そして、一族の中の円成尼(えんじょうに)という女性が中心になって、館の跡に寺院を建て、北条氏の冥福を祈ったのがこの円成寺であると。円成寺は室町時代にも尼寺として続き、江戸時代まで続いたことが分かっているのだ と。「北条氏邸跡」は北条氏が鎌倉に本拠地を移すまでの館跡と北条氏滅亡後の円成寺跡が発見され、北条氏の興亡を物語る遺跡として国指定史跡に指定された。「北条氏邸跡(円成寺跡)」は、現在、整備、活用に向けた計画の立案を進めている と。右手に「北条氏邸跡(円成寺跡)」碑が。2種類の案内板が立っていた。「北条一族のふるさとと寺院 国指定史跡・北条氏邸跡(円成寺跡)北条氏邸跡は鎌倉幕府の執権として活躍した北条氏の館があった場所です。狩野川の東岸にある守山の北西部の小さな谷になっているところです。ここを含めて伊豆北条と呼ばれた一帯(現在の寺家(じけ)・四日町付近)は平安時代末期から鎌倉時代にかけて北条氏の本拠地であった場所です。北条氏邸跡は武士の地方での生活を知ることができる遺蹟としてきわめて重要なのです。1333年、鎌倉幕府の滅亡後、北条一族の妻や娘たちは鎌倉から韮山に戻りました。そして、一族の中の円成尼という女性が中心になって、邸宅の跡に寺院を建て、北条氏の冥福を祈ったのが円成寺です。円成寺は室町時代にも尼寺として続き、上杉氏の一族の女性が尼として入っていたことがわかっています。現在の発掘調査では、円成寺に関連する池や溝が見つかっています。」「北条政子産湯之井戸」近くにあった案内板・「守山中世史跡群案内図」がここにも。①史跡北条氏邸跡(円成寺跡):現在地②堀越御所跡③成福寺④守山八幡宮⑤願城願寺⑥満願寺跡⑦真珠院跡「史跡北条氏邸跡(円成寺跡)当寺の様子円成寺は、14代執権北条高時の母である覚海円成(円成尼)が北条一族の菩提を弔うために北条氏の邸宅跡に建立した寺です。円成寺が最も繁栄したと考えられるのは山内上杉氏の庇護を受けた14世紀後半から15世紀前半のころです。土手状の高まりに囲まれた礎石建物と池が発見されています。礎石建物は、円成寺のお堂と考えられ、周囲からは仏具に用いられた土器、陶器、水晶製宝珠などが出土しています。お堂の正面にある塀は目隠しであると考えられます。伊豆の国市では、先人たちにより守り継がれてきた北条氏邸跡(円成寺跡)を広く知ってもらうため、今後も、本史跡の普及・啓発・情報発信を進めてまいります。」「北条氏邸跡では、平安時代末から鎌倉時代前半にかけての堀立柱建物や塀の跡、井戸、区画のための溝などがみつかっています。全盛期は12世記末から13世紀初めにかけてで、源頼朝の挙兵から鎌倉幕府が成立するころです。13世紀後半になると建物跡はみつからなくなるため、館が使われたのは、北条3代の泰時のころまでで、それ以降の北条氏の生活は鎌倉に移ったものと考えられます。」次に訪ねたのが「光照寺(こうしょうじ)」。正面に印象に残る朱の山門が現れた。静岡県伊豆の国市寺家30−1。右手には洒落た「御簾垣(みすがき)」が。細くて細かい竹を密に並べた風通しの良い竹垣。割らずに丸竹のまま使用する上品なデザイン。竹を割らずに作られていることから、裏表がないのが特徴。すだれに似ていることから、「御簾垣」と呼ばれているもの。「光照寺光照寺には、源頼朝の子、2代将軍頼家にまつわる「頼家公病相の面」があります。この面は病気と政変によって修善寺に幽閉された頼家の様子を、母政子に知らせるために製作されたと言い伝えられています。面が鎌倉の政子の元に届く前に頼家が没したため、当寺にとどめ置かれ、寺宝として今に伝わっています。また、かって当寺の南に広がっていた池の守り本尊であったと言われる「有賀(うが)辨財天」を祀っています。」「本堂」。無量山寿覚院光照寺。光照寺(こうしょうじ)は、願成就院の支院だった寺院で、建久年間に俊乗坊重源の開創と伝えられる(もとの名は松寿院)。源頼朝の宿館跡とも伝えられ、願成就院の池の島にあったとされる弁財天や、古い舞楽面が残されている。舞楽面は、修禅寺に幽閉されていた源頼家の「病相の面」で、鎌倉へ運ばれる途中で頼家が亡くなったため、この寺に納められたのだという。面を鎌倉へ運ぶ使者が、武田氏初代当主・武田信義の5男・武田信光だったという言い伝えもある。1397年(応永4年)、浄土宗に改宗。本尊は阿弥陀如来。鎌倉期の甲斐武田氏の系図。治承4年(1180年)4月に以仁王の令旨が出され、いわゆる源平合戦がはじまると、信義はこれに応じて信濃国伊那郡へ出兵し、のちに源頼朝と会って駿河国へも出兵して軍功を立てています。信義は源平合戦で頼朝と協力関係にありました。しかし、頼朝はまもなくして信義の駿河守護を解任し、信義の嫡子・一条忠頼も殺害しています。これは頼朝が、自らを脅かすほど強大な力となった甲斐源氏を恐れていたからといいます。このため、武田氏は忠頼の弟・信光が跡を継ぎました。信光は治承4年(1221年)で武功を立てて安芸国の守護に任命されています。武田家の家祖義光を初代とし、武田信義が四代、信玄を十九代とする系図が一般に知られている。しかしながら、系図は一本に描けても必ずしも直系歴代で嫡子相続を守れたわけではない。実際には鎌倉時代の四代信義の後に忠頼、有義が、六代信政の後に信長が、また室町時代の十三代信満の後に信元、信長、伊豆千代丸がそれぞれ惣領職を継承していたのではないかとする有力な説がある と。 【http://syakeassi.xsrv.jp/4296】より甲斐武田氏の祖・「武田信義」を演じる「八嶋智人(やしま のりと)」さん。扁額「光照寺」。内陣の扁額は山号の「無量山」。内陣をズームして。「源頼家の「病相の面」」をネットから。 【https://www.yoritomo-japan.com/nirayama-koshoji.html】より「無量山 光照寺」碑。六地蔵。古い石仏が墓地の通路に並ぶ。歴代住職の墓地であろう。近寄って。 法然上人の御歌。「阿弥陀仏と 十声(とこえ)唱えてまどろまむ 長きねむりと(登) なりもこそすれ」たとえ瞬時のまどろみであっても、「南無阿弥陀仏」と十回唱えてから眠りに落ちよう。そのまま永遠の眠りになることだってあるのだから と。石祠の中に安置されている小さな石仏。こちらは無縁塚であっただろうか。寺務所。右手に五重石塔。左の石碑は「明治二十七八年ノ役戦没者紀念塔」。「守山周辺案内図」。守山の周辺には、堀越御所跡と北条氏邸跡以外にも、多くの史跡や寺社が存在し、下記の全てを訪ねたのであった。A.史跡北条氏邸跡(円成寺跡)B.史跡伝堀越御所跡C.北条政子産湯の井戸D.光照寺E.守山八幡宮F.願成就院G.北条時政公御墓H.真珠院次に訪ねたのが「願成就院」。正面に「願成就院」の「山門」が前方に見えて来た。「國寶旗挙不動尊」碑。「国指定史跡 願成就院跡」碑のある空き地の隅に車を駐めて散策開始。「国指定史跡 願成就院跡願成就院は鎌倉時代初期、北条時政によって創建された寺院てす。鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」文治5年(1189)6月6日条には、源頼朝の奥州平泉攻めの成功を祈願して建立された、と書かれています。また、大御堂に安置されている国宝の仏像群のうち、四体から胎内銘札がみつかっていますが、そこには北条時政と仏師運慶の名前をみることができます。時政の死後も、子の義時、孫の泰時によって、「南新御堂」や「北塔」などの建立があり、伽藍が整えられていきました。当時の願成就院の姿は、発掘調査によって明らかになっています。昭和36年から現在まで、境内やその周辺20ヶ所以上で発掘調査が行われ、建物の礎石や雨落ち溝の一部がみつかっています。とくにこの一帯は、発掘調査によって、基壇や大量の瓦がみつかっている場所で、承元元年(1207)に時政が建立した「南塔」の遺構と推定されています。また、周辺の地形測量によって広大な池の存在も想定されています。鎌倉時代の願成就院は、西側の守山を背景にして、池の周囲に堂や塔が建ちならぶ「臨池伽藍」と呼ばれる様式の寺院でした。臨池伽藍は、浄土の世界を御堂や庭園の姿であらわす、当時を代表する寺院様式です。」「国指定史跡 願成就院跡」がここ一帯であると。現在の「願成就院」の山門。「高野山 真言宗 天守君山 願成就院」と。「北条時政公開基 奥州征討戦勝祈願 願成就院」天守君山 願成就院(高野山真言宗)の創建について鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』と近年発見された国立歴史民俗博物館本『転法輪抄』の「伊豆堂供養表白」により、願成就院が北条時政によって造営され、文治五年(1189)六月六日に立柱上棟の法要が営まれて、本尊阿弥陀三尊と不動・多聞(毘沙門天)の形像が安置され、源頼朝と後白河法皇の長寿と天下泰平、そして北条氏の繁栄と奥州藤原氏征討の成功を祈っていることが明白になった。今日大御堂にお祀りする国宝の運慶作5驅の仏像は正に創建時の形像である。伽藍の営作は、ニ代義時、三代泰時までの40年間に及び北条氏の氏寺として栄えた。前面に池が広がる浄土様式の庭園をもつ大規模な臨池伽藍寺院であり平泉の毛越寺を模したと言われている。昭和48年に守山(後山)東斜面と 内及び東側隣接地が「史跡願成就院跡」として国指定史跡に指定されている。」山門前にはラッピングされたタクシーが駐まっていた。山門前の左側には多くの石碑が並んでいた。山門を潜ると参道左側に多くの無縁仏が。六地蔵。「北条時政公御募」案内に従って進む。近づいて。赤白のおみくじだるまが至るところに。水原秋桜子句碑。「時政が ふるさとにのこす 露の墓」。水原秋桜子(1892~1981)は昭和37年の修善寺来遊の途次願成就院を訪れている。句に詠む時政は源頼朝の正室北条政子の父。晩年は失脚して韮山に隠棲した。人生のはかなさが感じられる句である。鐘楼。別の角度から。梵鐘。正面に「北条時政公御墓」。「北条時政公御墓」碑。この碑には「北條時政公 没八〇〇年忌供養として造立北條時政公(一一三八年生、一ニ一五年没 享年七十八歳)は、願成就院の創健者で、今日に伝わる国宝指定の運慶作諸仏の檀越である。時政公は、この地、伊豆国北條に居館を有した平家一門の伊豆における有力豪族の一人で、伊豆国府在庁官人であった。一一六〇年十四歳で伊豆配流となった源頼朝を伊東祐親と共に監視する立場にあった。激動する歴史の中、娘政子が流人頼朝に嫁し、一転して頼朝の岳父となる。一一八〇年八月十七日の頼朝伊豆挙兵では、平家目代山木兼隆攻めの主将となりてこれを成功させる。以後、平氏討伐、鎌倉幕府創設では、頼朝の参謀役、智将として大いに活躍してその立役者となる。頼朝亡き後も、幕府初代執権に就任して、東国武家政権の確立に努め、北條氏繁栄の礎となり、鎌倉北條氏の祖と呼ばれる幕府草創期の最重要人物の一人である。」「北条時政公御墓」1205年(元久2年)閏7月19日、牧の方(後妻)と共謀して将軍源実朝を亡きものにして娘婿の平賀朝雅を将軍に据えようと企てたことから、子の北条義時と娘の北条政子によって出家させられ、伊豆国追放となった。伊豆の何処でどのように暮らしたのかは定かではないが、1215年(建保3年)1月6日、北条の地で亡くなったのだと。「大日本六十余将の「北条時政」。画:歌川芳虎」。「北條時政」を演じる「坂東彌十郎」さん。奥にあった墓石群。「願成就院略縁起」碑。その横には願成就院の看板犬、ROCKY(ロッキー)くんがのんびりと。秋田犬で1歳10カ月?「願成就院略縁起当山は、山号を天守君山と称し、阿弥陀如来を本尊とする高野山真言宗の寺である。創建は、鎌倉時代初頭の文治5年(1189)に遡る。この地で源氏再興の旗揚げをし、鎌倉幕府を開いた源頼朝公の奥州藤原氏征討の戦勝を祈願して、幕府初代執権北条時政公が建立し「願成就院」と称したことに始まる。幕府の事績を伝える「吾妻鏡」には、時政公が大御堂と南塔を建立し、二代執権北条義時公が亡父時政公の供養として南新御堂を建立、三代執権北条泰時公が北条御堂と北塔を建立したことが記されており、堂塔伽藍の営作は北条氏三代にわたる。貞応元年(1222)には「定額寺」(官寺)とする宣旨が朝廷より下されており、この地に、守山を借景として、中之島のある池を配した「浄土様式」の壮大な寺院が、北条氏の氏寺として造営されていたのである。数回の発掘調査でその遺構が概ね明らかになり、昭和48年、境内を中心に周辺一部地域を含めて「願成就院跡」として国指定史跡となる。鎌倉時代の伽藍は、15世紀末、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)の堀越御所(北条時政館跡)攻めの兵火で焼失するが、創建時に祀られた大仏師運慶謹作の五仏を中心とする七体の仏像と、仏像胎内造像銘札四枚は、奇跡的にも今日に伝えられており、この尊き御仏像を拝観すると、幕府最大の権力者北条氏とこの寺の盛時を偲ぶことができよう。本尊阿弥陀如来・不動明王・矜羯羅童子・制吒加童子・毘沙門天の五体の仏像は、文治2年(1186)の造像で、運慶30代半ばの謹作、日本彫刻史上、運慶様式の成立を考える上で大きな意義を有する尊像とされ、造像銘札4枚と共に重要文化財の指定を受ける。境内には、北条時政公と足利茶々丸公(堀越御所2代公方)の墓所があり、両公の菩提寺である。運慶作五仏、胎内銘板四枚は平成二十五年に国宝に指定される。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.10
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次に訪ねたのが「成福寺(じょうふくじ)」。浄土真宗大谷派の「成福寺」は、北条正宗入道によって正応2年(1289)に建立された。北条正宗は、鎌倉幕府8代執権北条時宗の三男(幼名 満市丸)とされている。正宗は北条氏一族の菩提を弔うため、曾祖父・北条時政の持仏堂を基にこの地に一宇を開創し、正宗の長子・宗仁がこれを修造して成福寺とした。本堂北側には北条氏一族の供養塔がある。静岡県伊豆の国市四日町981。「北條氏 菩提寺」碑。昔、私達が教わった歴史では、鎌倉は:北條氏、小田原は:北条氏であった記憶が。ネットによると「條は条の正字ですから、北條氏と書いても北条氏と書いても全く同じことです。かつては鎌倉と小田原の両氏を区別するために。前者を北條氏,後者を北条氏と書き分けたりしていました。 しかし、1981(昭和56)年に文部省国語審議会(現文部科学省文化審議会国語分科会)から常用漢字1945文字が発表され、法令、公用文書、新聞、雑誌、教科書などもこれに準拠することとなりました。 以前の当用漢字では條でしたが,常用漢字では条を採用していますから、人名も北条氏に統一されることになり、現在では鎌倉は北条氏、小田原は後北条氏と書き分けています。」と。「生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ 乗せてかならず渡しける」生死の世界は苦しみばかりの海のように果てがない。この海に遠い過去より沈んでいる私たちを、阿弥陀如来の本願の船は、乗せてかならず渡してくださる と。寺号標石「浄土真宗 晴雲山 成福寺」。「一人いて喜ばば 二人と思うべし 二人いて喜ばば三人と思うべし その一人は親鸞なり」一人いるときは二人、二人の時は三人と思ってください。うれしい時も悲しい時も、決してあなたは一人ではありません。いつもそばにこの親鸞がいますよ という意味であると。「成福寺」は蓮の寺でもある。「成福寺の蓮成福寺には約200種類250株の蓮花が植えられています。毎年6月中旬から8月までたくさんの花が境内に咲き竸います。昭和の終わり頃、20世秀門住職がインドのブダガヤの池から一粒の蓮の種を持ち帰り、植えてみたら発芽したことから蓮の栽培が始まりました。平成に入り、蓮博士古幡光雄先生が管理してい100種類の貴重な蓮を成福寺に寄付され、爾来花蓮の会友との交流、交換で現在に至っています。」「本堂」。現「本堂」は平成元年に建てられた。それまでの「本堂」(江戸時代後期の建物)は改造され、客殿として使用している と。近づいて。扁額は「成福寺」。内陣。本尊の阿弥陀如来像。頂いたパンフレット。「成福寺縁起」成福寺は真宗大谷派(本山・東本願寺)に属し、阿弥陀如来を本尊とします。鎌倉幕府八代執権・北條時宗の三男の北條正宗入道(幼名・満市丸)が正応ニ年(一ニ八九)五月ニ十五日に北條氏発祥地の当地伊豆北條村(現在伊豆の国市四日町)に建立したといわれています。当時、元の国(今の中国)が日本を支配するために、大軍を九州に派遣しました。俗に言う「元寇の役」です。これがニ回に及び多くの戦死者が出ました。この元兵をも含む十余万の霊を弔うために、八代執権北條時宗は鶴岡八幡宮に一切経書写奉納の大願を立て、子息の正宗に命じて校合の為、各宗派の高僧を招きました。このとき親鸞聖人の孫で本願寺ニ世の如信上人と出会い、念仏の教えを受け、正宗は信仰を確立しました。時宗の死後正宗は、北條氏発祥の地韮山北條村にもどり、曾祖父北條時政の持仏堂を基に成福寺を建立しました。爾来、北條氏の血脈を保ち、現代に至っております。北條正宗公法名、成福寺殿釋正宗、延慶元年(一三〇八年)六月ニ日入寂室町時代の終わり頃、浄土真宗の本山、大坂石」山本願寺は織川信長に攻められ十一年間の本願寺に物資を送るときの中心的寺院に麻布善福寺とともに伊豆成福寺がになっていたことがわかります。現本堂は平成元年に建てられました。それまでの本堂(江戸時代後期の建物)は改造され、客殿として使用しています。百メートルほど離れたところに、北条政子の「政子産湯の井戸」、足利氏が北条屋敷跡につくった堀越御所跡地(国指定史跡)がある他、近辺に北條高時の母、円成尼が建てた円成寺跡(国指定史跡)があり、源頼朝の流された蛭が小島や北条早雲が没した韮山城(跡)の他、成福寺周辺には前の北条氏、後の北条氏の史跡がたくさん見られます。発掘調査が、成福寺境内で数回行われ、土器、陶磁器、古銭、金具などが出土し、史実が明らかになってきました。」「北條氏系図(成福寺系)」「北条氏ゆかりの成福寺寺伝八代執権北条時宗の子、北条政宗(幼名満市丸)が父の遺志を継ぎ正応二年五月二十五日(一ニ八九)鎌倉よりもどり成福寺を建立した。成福寺は現在真宗大谷派に属し、阿弥陀如来を本尊とする。本山は京都東本願寺である。平安時代桓武天皇の流れをくむ、伊豆の国在庁官人であった。平時家時方(北条氏の先祖)の庁舎持仏堂の跡に寺を建立したと伝えられる。父北条時宗は元寇の役の全戦死者我が将兵と元兵を含む十六万余人の菩提を弔うため、長男貞時には、一千体の地蔵尊、正宗には一切経写経奉納を命じた。正宗は校合の師として如心上人に懇請し大願成就した。全国の高僧により追弔法要が鎌倉にてとり行われた。敵も味方も皆仏と時宗は考えた。如信上人の教を受けた正宗は、浄土真宗の僧となり、各地に念仏の布教を行い、特に貧しい人々の心の支えとなった。父時宗の死後、正宗は鎌倉を離れ、北条氏の故郷、伊豆北条村に成福寺を建て、両親の遺骨の一部を鎌倉より持ち帰り墓を造り、また歴代北条氏の菩薩を弔っている。戦国時代、韮山の地に、山城を造り住んだ、早雲と成福寺は交わりがあり、孫の氏康は虎の朱印状を出し、浄福寺の僧が、大阪本願寺に行くことを援助している永禄五年(一五六ニ年)の朱印状が現存している。今も北条氏の子孫が、法灯を護り現在に至っている。史跡発掘調査により史実が明らかとなってきた。」「成福寺と北條館・堀越御所源頼朝をもりたて、鎌倉幕府の基礎を築いた北条氏の居館は・守山の麓から成福寺を含む広大な地域を占めていたと言われ、地籍図にも御所の内、築山、中之島等の字名があり、また成福寺境内には土るい、堀、水路などの遺構が残存しています。北条時政が政子と頼朝の新居として建てた別亭(吾妻鏡による)は、ちょうどこのあたりであったと言われています。当寺から東へ直行する道は、頼朝配所の地とされる蛭が小島に通じ、逆に西行すると狩野川対岸の江間の小四郎義時(政子の弟)の居館趾に至るのでこれを北條大路の名残りとする説があります。当寺門前を南北に走る小路は、往時の下田街道で農業構造改善の区割整理以前は四方平野の条理は全てこの方向と一致しています。室町時代になって、長禄元年(一四五七)足利義政は古河公方への対抗策として、弟政知を伊豆に配置しましたが、政知の居館、堀越御所も、当寺付近であると言われ、旧北條館跡の一部が復興利用されたものと思われます。当寺の境内全般にわたって、土器類や古瓦の破片が出土して当寺をしのばせます。」掲示板には「恩は石に刻むべし、怨みは水に流すべし」。「成福寺寺の縁起によれば、成福寺は鎌倉幕府8代執権北条時宗の子、正宗(幼名満市丸)が建立したと伝えられています。正宗は元寇(モンゴル軍の襲来、文永の役・弘安の役)で亡くなった人々の菩提を弔うため、鎌倉から伊豆に移り成福寺を開きました。境内に、正宗と父時宗、母覚山尼の供養塔があります。」墓地からの富士山。蘇鉄の横には石碑が。「まぼろしの 花湧く花の さかりかな」。上田五千石の句。「寺務所」。玄関。扁額「去来現(こらいげん)」。「過去も未来も現在の中にある」という意味であると。例えば 、どんなに辛い過去があっても、「あの経験があったからこそ今の自分がある」と思える人と、「思った通りにならなくて悔しい、腹立たしい」と思う人では、過去の意味合いがまったく逆になる のだとネットから。枯山水の庭にも句碑が。「水澄みて 亡き諸人の 小声かな 」秋元不死男。見事な石庭の姿をしばし楽しむ。「永代納骨堂」であろうか。そして「北条氏廟所」案内板。「北條正宗公 正宗母堂 北條時宗公」墓碑。墓碑を手前から■北條時宗公 (法光寺殿杲公大禅定門) 1284年(弘安7年)4月4日没。■正宗母堂(覚山尼) (潮音院殿覚山志道尼) 1306年(徳治元年)10月9日没。■北條正宗公。 (成福寺殿釋正宗) 1308年(延慶元年) 6月2日没「鎌倉北条氏と成福寺の由来平安時代に桓武天皇の流をくむ伊豆の国在庁官人であった、平時家(時政の父・政子の祖父)の持仏堂か成福寺(天台真言)の前身であったと伝える。鎌倉幕府創立の源頼朝を補佐した北条氏も当地より鎌倉に移住し、「成福寺」👈リンクも北鎌倉小袋谷に建立された。幕府の招きで来られた親鷲聖人の門弟となった泰次(泰時の子)が浄土真宗に改宗、現在も鎌倉成福寺がある。北条時宗の時、元(モンゴル)と高麗の大軍が九州に攻め来り(元寇)十余万人の戦死者を出した。全戦没者追弔会が幕府によって国中の高憎により施行された。その時北条時宗の子正宗は本願寺第二世如信上人の直弟子となり伊豆北条村に浄土真宗成福寺を再興した。時に正応ニ年五月ニ十五日(一ニ八九年)正宗は両親の遺骨を鎌倉より分け持ち帰り館の高土手(築山)に墓を造りまた北条一族の供養塔を建て菩従を弔った北条氏子孫法灯を守り現在に至っている。現本堂は親鸞聖人生誕八百年中興開基釋正宗七百年遠忌を記念し、平成元年十月再建した。建立にあたり、史跡発掘調査が実施され本堂下境内より当時の遺品が多数発見され史実が明らかになってきた。」「北條氏歴代墓所」。「北條一族供養塔」。「無量壽」と刻まれた石碑。 阿弥陀仏の寿命が無量であるところから阿弥陀仏のこと と。多くの宝篋印塔が。墓地を望む。「本堂」を斜めから。駐車場の北側の「納骨堂」。中央に阿弥陀如来像。そして「頼朝・政子語らいの路」を利用して「伝堀越御所跡」へ。「伝堀越御所跡・所在地 静岡県豆の国市四日一町及び寺家地区(左図)・指定年月日及び面積 昭和5 9年1 0月8日指定 1 4 , 0 8 3.0 5平方メートル 昭和6 2年9月8日追加指定 1 3 , 1 3 0.9 4平方メートル 総指定面積 2 7 , 2 1 3.9 9平方メートル指定理由 2 0回に及ぶ発掘調査で発見された園池(庭園内の池)や、中国から輸入された高級な焼き物 などから、鎌倉時代の北条氏の屋敷跡に、室町時代の堀越御所がつくられたことが わかりました。 このことから、日本の中世(鎌倉・室町時代)の歴史を物語る重要な遺跡ということで、 国の史跡に指定されました。・守山を中心とした中世遺跡群 伝堀越御所跡周辺には、史跡願成就院跡をはじめとして中世の寺院群や、御所之内遺跡 (一部は北条氏邸跡として国指定)などの遺跡群が連なっています。 この近くには、伝北条政子産湯の井戸、御所の庭にあったと伝えるむつ石などが 存在しています。・史跡公園に向けての構想 町では、このような重要な史跡を皆さんに開放して、郷土の歴史を再発見し、歴史の町・ 韮山町に誇りをもっていただけるよう、史跡公園とする構想をたてています。 現在、土地の買い上げを進めていますが、終了しだい発掘調査を実施し、その結果をもとに 復元・整備をして史跡公園としていく予定です。」「堀越御所跡」。発掘調査では堀や池の跡などが確認されたらしいが、現在は保存の為に埋め立てられている と。「頼朝旗揚げ物語」のポスター。「幕府の関東支配の拠点伝堀御所跡は「堀越公方」と呼ばれた足利政知の御所があったと伝えられる場所です。室町時代の後半、大名の勢力争いが激化し、日本各地で戦乱が起こっていました。とくに関東地方は、京都にある室町幕府に従う勢力と対抗する勢力とが激しく争っていました。そこで、将軍の足利義政が、直接関東地方を支配するため、鎌倉公方として派遣したのが兄の足利政知です。しかし、政知は戦乱のため関東(鎌倉)まで行くことができず、韮山の堀越の地に居館を作って身を落ちつけました。これにより政知は「堀越公方」と呼ばれました。しかしこの御所も、その子「茶々丸」の時に北条早雲によって滅ぼされてしまいました。発掘調査によって、池跡や遣水、建物跡が見つかっていて都風な公方の生活を知ることができます。発見された御所の池堀越御所跡の発掘調査では庭園の池や遣木(導水路)が発見されています。また、周辺の発掘調査によって御所跡とその周辺は溝によって碁盤の目のような区画がされている様子が明らかになっています。発見された池の岸は人頭大の石によって護岸されていたり、河原石を敷き詰めて州浜状の池岸が作られていました。一つの池に様々な護岸の変化をつくり庭園の景色に変化を持たせていたことが分かりました。これまでの発掘調査では堀越御所跡の建物がどこにあるのか明らかになっていません。今後発掘調査を実施して、建物跡の位置を確認して堀越御所跡の実態を明らかにする必要があります。」「守山中世史跡群案内図②堀越卸所跡堀越卸所は室町幕府8代将軍足利義政の義兄足利政知が関東を治めるために開いた政庁兼館跡です。発掘調査により大きな池の跡などが見つかりました。御所は政知の死後、茶茶丸に引き継がれますが、戦国大名北条早雲に焼き討ちにあい滅びてしまいます。」そして次に訪ねたのが「北條政子産湯之井戸」。「北條政子産湯之井戸」碑が立っていた。正面に「北条政子産湯之井戸」。「北条政子産湯の井戸保元2年(1157)年、源頼朝の妻・北条政子がこの地に誕生した時に、産湯の水をとったのがこの井戸と伝えられています。かっては、妊婦がこの井戸の水を飲んで安産を祈願するという信仰がありました。※現在は飲めません。北条政子 保元2年(1157)ー嘉禄元年(1225)鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。伊豆国韮山の豪族、北条時政の長女で、源頼朝が韮山の蛭ヶ島に流されていた時に出会い、恋仲となる。打倒平家のため、挙兵した頼朝を支え、武家政権の樹立に貢献した。頼朝が鎌倉に幕府を開いた後は、御台所として存在感を放った。頼朝の死後、嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺されたが、京都から迎えた幼い将軍の後見人となって幕府の実権を握り、世に尼将軍と称された。」「北条政子産湯の井戸」を覗き込む。そして富士山の姿も望む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.09
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「この時代の東国武士の文化・風習ここが武士の歴史のスタート地点この時代は歴史上にようやく武士が出始めてきた時代です。まだ武士たちも素朴でローカルな雰囲気が漂っていますが、この東国の地で頼朝や北条家が心に葛藤を抱えながらも戦い抜き、その後数百年続く武士の時代を作りました。つまり、この地は武士の歴史のスタート地点です。大河ドラマでもあまり描かれてこなかった難しい時代ではありますが、三谷さんの見事な脚本と手練な役者の皆さんのおかげで、とても分かりやすく面白い物語になっていると思います。都と地方の武士の対比に注目この物語の前半の面白さの一つに、都の武士と地方の武士の対比があります。これまで貴族社会に君臨していた朝廷に陰りが見え始めると、平家はその隙をついて富や権力を手にしていきました。一方、農民と紙一重の存在だった地方の武士たちは素朴で、生活そのものがとても質素でした。その違いは彼らが身に纏う物にも顕著に表れており、たとえば平家はツヤのある絹製の着物を着ているのに対して、地方の武士は縄文時代から続く伝統的な植物繊維の布から作られた直垂を着ていました。また甲冑も、平家は真新しいものや綺麗なもの、豪華なものでしたが、地方の武士は古色蒼然としたもの、簡素な甲冑を着けています。ドラマの中では、こうした衣装や甲冑などで当時の武士たちの貧富の差を表現し、彼らの対立を分かりやすく描いています。また、この時代は武士の世の幕開けともいえます。農民から武士へと職能を移し始めた彼らが、今後自分たちの土地を守るためにどう変わっていくのかも見所です。今回の作品は当時の風俗をかなりリアルに再現していると思います。」烏帽子は当時の武士の必需品今回の時代性を示すアイテムの一つに烏帽子があります。当時の成人男性の風習の一つに、自分の頭頂部を人に見せてはいけないというものがありました。現在では考えられないことですが、当時は他人に頭頂部を見られたら、人によってはしばらく人前に出られないくらい恥ずべき事柄だったのです。だから、彼らは就寝中も入浴中も烏帽子を取らず、頭に被っていました。この烏帽子も種類があり、たとえば京都の貴族や武士の烏帽子は薄く黒漆で塗り固めたようなぱりっとしたものでしたが、坂東武士の烏帽子は柔らかくて質素なものでした。しかし、東国の武士の中でも源頼朝のように武士団を束ねる大将ともなると貴族と同じような立烏帽子を被り、折烏帽子(別名:侍烏帽子)を被る家人や所従とは一線を画していました。今回の大河ドラマでは、烏帽子が武士の間の序列や状況の違いを表す重要な小道具として用いられています。」現在までの様々な放送画面がパネルで紹介されていた。義時が女装した頼朝を馬に乗せて逃げるシーン。女装姿の頼朝は「これよりわしを姫と呼べ」と言い、政子から「ご無事をお祈りしております。姫、行ってらっしゃいませ」と声をかけられると、やや裏返ったような声で「はい!」と返事。さらに義時からも「姫、振り落とされないように気を付けて」と言われ、再び「はい!」と答えたのであった。富士の山裾へ逃げた頼朝(大泉洋)。「鎌倉殿の13人 人物相関図」平泉、武蔵、相模、房総で活躍・登場する人物。伊豆で活躍・登場する人物。京、頼朝の協力者、甲斐、信濃 で活躍・登場する人物。頼朝に仕える人々、伊豆の国ゆかりの人々 で活躍・登場する人物。「伊豆の国市オープンセット「鎌倉殿の13人」は、物語序盤の舞台である伊豆の国市内に作られた広大なオープンセットで撮影されています。細部にまてこだわったオープンセットの見所をご紹介します。」「知恵を絞り自然と共存当時、田舎の豪農と大差のなかった武士たちは、板屋根や茅葺屋根の家に暮らしていました。一方、農民たちの家はとても粗末なもので、その中には縄文時代の竪穴式住居のような家も残っていました。また狩野川がたびたび氾濫していたこの地域では、蔵や家の軒先に船を吊り、いつでも逃げられるようにしていた様子も再現しています。藁の鹿を的に矢の練習万全の応援体制て撮影自然の神々を崇める戦とは無緑の坂東武士簡素な造りが当時の主流当時の情景を見事再現今回のオープンセットは北条時政の館周辺を中心に作られました。実際にはセットとして作られていない場所からの景色もイメージすることで、当時の雰囲気により近づけることができました。守山を彷彿させる小高い山や周囲の自然、季節の移ろいなどがリアルさを伴い、まるでタイムスリップしたかのようなセットになりました。」オープンセットのCGであっただろうか。「遙か遠い昔に思いを馳せる北条家ゆかりの地 伊豆の国市」名所案内。1.北條義時館跡2.北條寺3.豆塚神社4.池田の大蛇伝説5.史跡北条氏邸跡(円成寺跡)6.眞珠院 八重姫御堂(静堂)7.頼朝・政子語らいの路8.蛭ヶ島(蛭ヶ島公園)9.守山10.願城願寺11.北条政子産湯の井戸12.光照寺13.香山寺現在地周辺をズームで。この後に訪れた寺社、名所が赤い字で案内されていた。1.北条義時館跡2.北條寺3.豆塚神社4.池田の大蛇伝説5.史跡北条氏邸跡(円成寺跡)6.眞珠院 八重姫御堂(静堂)7.頼朝・政子語らいの路8.蛭ヶ島(蛭ヶ島公園)9.守山10.願成就院11.北条政子産湯の井戸12.光照寺13.香月寺今回は、上記の全ての名所を訪ねたのであった。「鎌倉殿の13人 サイン入り色紙」が並ぶ。ビデオコーナー。再びメインキャストのパネルの顔をズームして。北条義時役:小栗旬源 頼朝 : 大泉 洋。北条政子:小池栄子八重:新垣結衣北條時政:坂東彌十郎再びパネル、衣装コーナーを。出口手前から展示室を振り返る。そして「鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館」の外に出て「韮山時代劇場 」を散策する。フォットスポットからの富士山。額縁はハート型、イチゴや花が飾られていた。近づいて。更に。図書館であっただろうか。建物の周囲を歩く。観光案内所。三つ鱗は鎌倉時代の北条氏(特に得宗家)が使用していた。伊豆の国物産館を覗く。様々な土産物が並んでいた。様々なデザインのTシャツが。手提げバッグ。ハチミツも売られていた。大きなイチゴ。1粒100円以上と。「北条さんぽ 御朱印めぐり① 義時コース」。義時コースは、江間小四郎の名が残る地域、義時公が建立した寺や厚い信仰心を抱いた神社等を巡るコース。「北条さんぽ 御朱印めぐり② 政子コース」。政子コースは、北条氏の本拠地、守山周辺、平治の乱に敗れ、源頼朝が配流されたとされる土地、蛭ヶ島、その蛭ヶ島公園には、源頼朝と政子をイメージした「蛭ヶ島の夫婦(ふたり)」像が田園風景越しに富士山を眺めているのであった。時計塔。「伊豆の国市ノルディックウォーキングコース案内」韮山文化センター(韮山時代劇場)は509席の大ホールに120名収容の映像ホール、研修室やリハーサル室、和室、アトリエ、図書館などを備えた、芸術文化の鑑賞や活動に利用できる施設。大ホールでは様々なコンサートやミュージカル、寄席などが開催されると。その前はここ「日だまり広場」と呼ばれる広い芝生の広場があった。「鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館」を振り返る。花壇の前にも。2005年(平成17年)4月、伊豆長岡町、韮山町、大仁町が合併して、伊豆の国市となる。旧韮山町マンホール蓋。富士山と特産のイチゴと反射炉のデザイン、そしてなぎの葉、スミレの花も。「にらやま」「おすい」 の表記になっていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.08
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次に訪ねたのが「鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館」。南側にあった駐車場に車を駐め「大河ドラマ館」に向かう。「鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館」案内。「大河ドラマ館」は、ドラマに登場した小道具や衣装の展示、メイキング映像の上映、ストーリーやキャスト紹介のパネル等の展示など、大河ドラマの世界観を体験できる施設。歩道に埋め込まれていた「清和源氏系図」「源氏(げんじ)平安時代、皇族が源という姓をもらい臣下となった一族です。なかでも清和天皇の孫 経基に始まる清和源氏は武門の家として栄えました。」「韮山時代劇場」案内図。伊豆の国市韮山文化センターは平成9年4月にオープンした複合施設。大ホール、映像ホール、研修室やアトリエ、韮山図書館などを備え、コンサートやあらゆる芸術文化の鑑賞、活動に利用できる施設。通称「韮山時代劇場」と呼ばれている。この「韮山時代劇場」内に「鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館」が今年の1月15日にオープンしたのであった。「韮山時代劇場」が左手に。そして正面が1月15日にオープンした「鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館」。人の姿は少なく・・・。「大河ドラマ館」の正面。「鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館」。「鎌倉殿の13人」。400円のチケットを購入し、「大河ドラマ館」に入場。「北条義時」の手前には大河ドラマの人物の衣装の様々な色が広がっていた。パンフレットを頂きました。「鎌倉殿の13人 伊豆の国市 大河ドラマ館北条義時を始めとする勇猛な武士たちの活躍により、源頼朝が開いた史上初の武家政権 鎌倉幕府。その中心的存在となった北条家の原点が伊豆の国です。大河ドラマ館では、主人公の北条義時が源頼朝と出会い、父・時政、兄・宗時、姉・政子、妹・阿波局たちと共に、歴史を動かす存在へと成長していく姿を展示しています。また、伊豆の国市の特産品等を扱う「伊豆の国物産館」、文化財展示「義時の里」を併設。1⃣ 「鎌倉殿の13人」の世界 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のストーリーや登場人物をパネルで紹介。人物相関図も。2⃣ 出演者サインコーナー 北条家など、伊豆の国にゆかりの深い役を演じる出演者を中心に、サイン色紙を展示。3⃣ 衣裳・小道具展示 見て楽しめる、作中で登場した衣裳や小道具を展示。4⃣ シアター映像コーナー ドラマのダイジェスト紹介やメイン出演者のインタビュー、伊豆の国市で行われたオー プンセットロケのメイキング映像のほか、市内の北条家ゆかりの地を紹介。5⃣ フォトスポット 当時の時代の雰囲気をイメージしたフォトスポット。記念撮影用。」「人物相関図」正面に主人公「北条義時」のパネルが迎えてくれた。登場人物のパネルの後ろには出演者のパネルが並ぶ。展示パネルをカメラで追った。「全てはここから始まった武士の世を切り開いた真の立役者・北条義時を三谷幸喜が描く予測不能のエンターテインメント「鎌倉殿の13人」は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝にすべてを学び、武士の世を盤石にした男、二代執権の北条義時の物語である。野心とは無縁だった若者は、いかにして武士の頂点に上り詰めたのか。権力の座を巡って男たち、女たちが繰り広げるパワーゲームが、ここ伊豆から始まろうとしていた。時は平安時代末期、それまで栄華を極めた貴族の勢力は弱まり、時代は武士の世へと移り変わりつつあった。この国を支配していたのは、保元の乱、平治の乱において宿敵・源氏を追い落とし、帝さえも思いのままに操る平家一門。源氏の嫡男・頼朝は、父を殺された上、自身も伊豆に流刑となるが、平家を討つ機会を虎視眈々と狙っていた。そして伊豆の弱小豪族だった北条家が、監視役の伊東祐親を激怒させた頼朝を匿ったことから、義時の運命の歯車が回り出す。想いを寄せる八重の悲恋、姉・政子と頼朝の結婚・・・、そして打倒平家に向けて、頼朝を中心に曲者揃いの豪族たちも勢力争いに加わるべく動き出す。それぞれの思惑が蠢くなか、頼朝に翻弄されながらも、義時は歴史の表舞台に躍り出ていく・・・。脚本を手掛けるのは『新選組!』(2004年)『真田丸』(2016年)に続き、大河ドラマ3作目となる三谷幸喜。戦国や幕末と比べあまり馴染みのない鎌倉時代、さらに歴史上それほど名の知られていない北条義時にスポットを当て、現代のエンターティンメントとして予測不能のストーリーを展開していく。」「野心とは無縁の一人の若者武者が頼朝の右腕となって天下取りを支える伊豆の弱小豪族である北条時政の次男として生まれた北条義時。野心家の兄・宗時と気の強い姉・政子、そして皮肉屋の妹・実衣とともに暮らし、戦にも政(まつりごと)にも全く興味を示さず、米蔵で木簡の整理に勤しむ日々を送っていた。そんなある日、伊豆国で一番の力を持つ伊東祐親の娘・八重が子どもを産む。子どもの父親は、平清盛率いる平家に敗れ流人となり、祐親が監視役を担っていた源頼朝だった。このことに激怒した祐親は頼朝を殺せと命じるが、頼朝は危険を察しいち早く逃亡。平家に反感を持つ宗時に助けられ、北条家に身を寄せることになった。北条家に匿(かくま)われた頼朝は八重のことも顧みず、政子と結婚。幼いころから八重に恋心を抱いていた義時の心境は複雑ではあるものの、陰ながら八重を見守るしかなかった。義兄となった頼朝の曖味な言動に翻弄され、また坂東の地のためと立ち上がった武士たちのいざこざに巻き込まれながらも、次第に策を以て駆け引きする政の面白さに目覚めていく義時。頼朝の信頼を得た義時は、いっしか右腕となって平家討伐の挙兵に力を注ぐことになる。虎視耽々と挙兵の機会を伺ってきた頼朝は、1180年(治承4年)、ついに関東武士団を結集し、平家に反旗を翻(ひるがえ)す。この無謀な大博打に乗った義時に待ち受ける未来とはーー。」「作 三谷幸喜(みたにこうき) 大河ドラマ3作目の舞台は陰謀渦巻く鎌倉時代『新選組!』『真田丸』に続き3作目となる今回は、幕末や戦国と比べるとあまり知られていない鎌倉時代を舞台に、今までの大河ドラマにはない、予測不能な面白さのある新しい大河を作ろうと思いました。物語は当時を克明に記した『吾妻鏡』を基本にしています。ただ史実に忠実であればあるほど、その裏側が見えてこない部分があります。そこは僕なりの解釈でイメージを膨らませて書いています。実際に北条家のあった場所などを見て回ったのですが、東京に近いにも関わらす、のどかな田園風景が広がっていて、当時と変わらない光景を目にしたような気がして新鮮に感じましたし、脚本を書く上でもとても役立ちました。今回は伊豆の国市での出来事が発端となり、鎌倉に幕府が開かれ、その後、日本の歴史上では初めてとなる合議制で執り行った13人の御家人たちの物語です。この13人が勢力争いで次々と脱落していくなか、最後に残ったのがニ代執権・北条義時。いちばん若かった彼が、最終的に鎌倉幕府を引っ張っていく最高権力者になる。そこまでを、今回のドラマで描いていきたいと思っています。」「音楽 エバン・コール ドラマの世界観をシネマティックな音楽で盛り上げるオファーをいただいてすぐに台本を拝見しました。今回の大河ドラマは脚本家・三谷幸喜さんらしい、とてもエンターテイメント性の高い作品だと思いました。私はこのドラマの面白さを音楽のカで伝えていきたい。そこで日本の楽器も使用しましたが、あまり馴染みのない外国の伝統的な楽器を使い、ノスタルジックな工ッセンスは残しつつ、シネマティックなアプローチで曲を作リました。歴史ある大河ドラマの多くのファンの皆さんに、映像だけではなく、音楽も楽しんでいただきたいと思っています。プロフィール作曲家・編曲家。バークリー音楽大学にてフィルムスコアリングを学び、2012年より日本で作曲活動を開始。映像音楽を中心に、ボーカルソングへの楽曲提供、作詞、歌唱等、幅広く活躍する。アニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』シリーズ、NHK土曜時代ドラマ『螢草 菜々の剣』などの音楽も手がける。」「語り 長澤まさみ 登場人物に寄り添い、それぞれの行く末を見届けたい大河ドラマのナレーションに憧れていたので、オファーをいただいたときは嬉しかったです。三谷幸喜さんからは、その場にいるような感覚で登場人物に寄り添ってナレーションしてほしいといわれました。責任重大だなと思いつつ、監督たちと打ち合わせを重ねながら、私自身も出演者の一人のような気持ちで挑んでいます。三谷さんの脚本は、時代が醸し出す殺伐とした雰囲気はありながらコメディ要素も散りばめられています。そこにBGMと同じような、ドラマに相乗効果をもたらすようなナレーションをしていきたいです。そして、皆さんと同じように登場人物たちに愛着を持ちながら、それぞれの行く末をしつかり見届けたいと思います。」プロフィール1987年、静岡県生まれ。女優。第5回「東宝シンデレラ」オーディションでグランプリ受賞。2003年、初主演映画『ロボコン』で日本アカデミー賞新人俳優賞受賞。その後も話題の映画やドラマ、舞台に多数出演する。大河ドラマでは『功名が辻』『天地人』のほか、三谷幸喜脚本の『真田丸』に出演。」「北条政子」小池栄子さんの衣装。着物と草履、どちらも「撮影使用品」と。「萌黄色地染め萩の葉花散らし柄絞り麻小袖に草色地染め菱絞り麻褶 薄萌黄捩り緒草履当時は小袖に「褶(しびら)」という布を腰に巻くスタイルが武家の女性に多くみられた。政子の衣装は丈夫な麻や綿を使用し、北条家のイメージカラーのアースカラーで彩られている。」「北条政子」、「八重」のパネル。「源頼朝」のパネル。「八重」新垣結衣さんの衣装。着物と草履、どちらも「撮影使用品」と。「紅鳶(べにとび)色地染め桔梗柄絞り紬(つむぎ)小袖に淡香(うすこう)色地染め赤褐色流水に松葉柄絞り紬褶 (つむぎしびら)捩り緒(ねじりお)草履 色晒手拭伊豆で力を持っ伊東家の箱入り娘である八重は、やや豪華な衣装を身にまとっている。紅鳶色や淡香色を使用し、華やかななかにも少し落ち着いた印象を加えている。」「北条義時」小栗 旬さんの衣装 着物「複製品」 草履「撮影使用品」と。「松葉色地染め木綿小袖に若苗色地染め桔梗亀甲柄麻直垂(ひたたれ)捩り緒(ねじりお)草履当時の坂東武士の装束は上衣と袴で構成された「直垂」だった。まだ一介の田舎侍に過ぎなかった義時の若々しさを、爽やかな若苗色(萌黄色に近い)で表現している。頭には頭頂部を隠すための折烏帽子を着用。」「伊豆の若武者が武家政権の礎を築く 北条義時伊豆に拠点を置く北条時政の次男。戦にも政にも特に興味がなく、万事において実直で控えめな性格ではあったが、姉・政子と源頼朝が結ばれたことで、思いがけず頼朝の右腕となり、鎌倉幕府の誕生に向けて邁進する。頼朝の最初の妻・八重に対し、一方的に恋心を募らせる初心な一面も。INTERVIEW 小栗 旬(おぐり じゅん)1年半にも渡り、一つの役を演じることに戸惑いがあったのですが、逆にそれほどの長い間、一人の人物に向き合いながら生きていくことへの好奇心の方が勝り、オファーを受けました。義時はあまり自発的に行動するタイプの人物ではないので、最初は頼朝の行動や考え方を理解できなかったと思うんです。でもニ代執権として権力を握っていくと、いつの間にか自分も頼朝と同じような人間になっている。そこが本当に不思議だなと思うし、人間の面白いところだと思います。そんな義時を僕らしく演じていきたいです。撮影は順調に進んでいて、北条ゆかりの伊豆の国市に作っていただいた広大なオープンセットでは、当時にタイムスリップしたような気分で演じることができるので、本当にあリがたく思っています。」「孤独を胸に秘めた源氏の棟梁 義時を右腕に天下を狙う。 源 頼朝源氏の棟梁。父・義朝が平清盛率いる平家との戦に敗れたため、14歳で伊豆国に流刑となった。監視役の伊東祐親の娘・八重と結ばれたことで、祐親の逆鱗に触れる。北条家に匿われ、時政の娘であり、義時の姉・政子と結婚。やがて、義時ら坂東武士の力を借り、打倒平家の兵を挙げる。ついには平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開く。INTERVIEW 大泉 洋(おおいずみ よう)今回、演じる役が源頼朝と聞き、僕からは程遠いキャラクターだなと思いました。でも、脚本を拝見すると、史実にあるような怖い頼朝の姿もしっかりと描かれつつ、「これは大河ドラマなのか! ?」と思ってしまうような笑いの要素もあって。その笑いと怖さと切なさが絶妙な匙加減で描かれているので、この辺りは三谷さんの真骨頂だなと思いました。三谷作品への出演は、私にとってはご褒美みたいなもの。頼朝の孤独さを胸の内に感じながら演じ切りたいと思います。」「義時の姉にして源頼朝の妻。のちには尼将軍として君臨 北条政子伊豆の豪族・北条時政の娘。長女として家族の世話に明け暮れるなか、北条家に匿われた源頼朝に一目惚れし、結婚。夫・頼朝の最初の妻である八重に対してライバル心を燃やしつつ、頼朝の打倒平家に向けた挙兵や鎌倉幕府の成立を陰で支える。INTERVIEW 小池 栄子(こいけ えいこ)政子は策略家といわれていますが、今回の政子は一目愡れした頼朝を信じ、家族のために信念を貫き通す、とても情の深いチャーミングな女性に描かれています。実際に伊豆の国市にもお伺いし、歴史上で有名な源平合戦の始まりが、こんな距離感でのご近所争いを発端に始まったと知り、そのギャップが面白いなあと思いました。これから強さや逞しさを得ていく政子に私自身も学びながら、皆さんの記憶に残る政子を演じていきたいです。」「北条義時の初恋の人であり、源頼朝の最初の妻 八重源頼朝の監視役だった伊豆の大豪族・伊東祐親の娘。祐親が大番役として上洛している間に頼朝と恋仲になり、千鶴丸をもうける。しかし、そのことを知った祐親は激怒し、千鶴丸を取り上げ、八重も別の男性の元へ嫁ぐことになるが、頼朝への想いは断ち切れずにいる。また義時が密かに思いを寄せる相手でもある。INTERVIEW 新垣 結衣(あらがき ゆい)私が演じる八重は、とても悲しい運命を背負った女性なのですが、ドラマ中では逞しさや愛情深い女性として描かれています。歴史上の人物ではあるけれど、そこは三谷さんらしく、血の通った魅力的なキャラクターに仕上げていただいていると思います。八重のゆかリの地にも伺いましたが、地元の皆さんたちがこの地で歴史を築いてきた方たちを大切にする気持ちが伝わってきました。改めて八重の存在を感じながら、私自身も楽しんで演じたいと思います。」「弟・義時とは異なり、打倒平家に燃える若き夢想家 北条宗時伊豆の豪族・北条時政の嫡男。のちに源頼朝の妻となる政子や義時の兄にあたる。源氏の棟梁である頼朝の立場を利用し、打倒平家に燃える若き夢想家。しかし、その一方で父・時政譲りのお気楽な面も持ち合わせており、何かにつけて義時を頼ってしまう。伊豆目代・山木兼隆邸の襲撃では襲撃隊の先導役を務めた。」INTERVIEW 片岡 愛之助(かたおか あいのすけ)宗時は資料があまリ残っておらず、その存在はべールに包まれています。難しい役ではあリますが、演じる側としてはイメージに固執せずに役作りができますし、自分とは異なるタイプの人生を演じられるのは役者の醍醐味なので、宗時の人生を歩ませてもらえることに歓びを感じています。坂東武者らしく、熱く強い思いを持ちながら、その一方で父譲リのお気楽で前向きな宗時像を演じていきたいです。弟・義時との兄弟の絆も見どころの一つだと思います。」「源頼朝の不遇の時代を陰ながら支えた乳母 比企尼武蔵国を治める比企能員の母であり、源頼朝の乳母。頼朝が京から伊豆国へと流刑となり、自らも坂東の地へと下る。その後は長年に渡り仕送りをするなど、頼朝の味方となって援助をし続ける。NTERVIEW 草笛 光子(くさぶえ みつこ)比企尼は頼朝の乳母で、不遇の時代の頼朝を支えた人です。とても難しい役柄ですが、三谷さんは役者をのせるのがとても上手なので、どうやって演じようかとワクワクしています。今は大人しく凪いだ状態でいますが、実は娘たちをしかるべき人に嫁がせるなど、したたかな面もあリ、今後の展開が楽しみです。大泉洋さんとは『真田丸』以来の共演でしたので、少し緊張しましたが、実際に演じてみたら子どもの頃の頼朝の顔が浮かんで、自然に演じることができました。」「頼朝の弟。北条の栄枯盛衰を見つめる 阿野 全成(あの ぜんじょう)源頼朝の異母弟であり、源義経の同母兄。平治の乱で父・義朝が破れたことで、幼くして京の醍醐寺に出家する。しかし、兄・頼朝の挙兵を知り、伊豆に駆けつける。得意とする易や星で戦や政の吉凶や凶兆を占い、頼朝の天下取りを陰ながら支えていく。INTERVIEW 新納 慎也(にいろ しんや)歴史上はあまり知られていない阿野全成を演じます。三谷さんはこういった人物を描くのが本当に上手なので、全成が兄・頼朝と弟・義経に挟まれ、どのようなことを思っていたのかを想像するだけで楽しみですし、とても演じ甲斐のある役だなと思います。「悪禅師」ともいわれた全成が、どういう意味での「悪」なのか、また悪にならざるを得なかった理由とは何なのか。彼の心の内が染み出るような奥深い阿野全成を演じられるように頑張リます。」「兄・義時を慕うも、北条家を冷静に見つめる皮肉屋 実衣(みい)(阿波局)伊豆の豪族・北条時政の娘。源頼朝の妻・政子と北条義時の妺にあたる。次女らしく調子のいい面もありながら、政子の頼朝への恋心にいち早く気づくなど、北条家の中でもっとも冷静に家族を見つめる皮肉屋でもある。また父・時政とりくとの再婚に複雑な心境を抱く。INTERVIEW 宮澤 エマ(みやざわ えま)伊豆の素朴な武家の娘だった実衣が、鎌倉幕府の政局を揺るがすほどの影響力を持つ「阿波局」になるには、混沌とした勢力争いの中を生き抜く北条家ならではの逞しさがあったのかなと想像しています。三谷さんからは「阿波局の人生を思い切り明るく演じてほしい」といわれましたので、長い時間をかけて一人の人物を演じる喜びを胸に、明るく退しく生きる阿波局を「歴史上の人物」を超えて愛されるように精一杯演じたいと思います。」「家族思いがゆえに、苦渋の決断も下す八重の兄 伊東 祐清(いとう すけきよ)伊豆の伊東を拠点とした大豪族・伊東祐親の息子。妺・八重と源頼朝の関係に激怒した父・祐親から逃すため、北条宗時に頼朝を託す。叶わぬ恋に悲嘆する八重に同情し、頼朝との再会の場を計画するが、その一方で祐親の命令に従い非情な決断を下してしまう。INTERVIEW 竹財 輝之助(たけざい てるのすけ)伊東祐親の次男・祐清を演じさせていただきます。大河ドラマで武将を演じることは、役者として一つの目標でした。今回、その目標が叶い、今は興奮と緊張が半端ないですが、演じられることに幸せを感じています。祐清は妹・八重を大切に思う心優しきお兄ちゃんです。しかし、その八重をきっかけに、祐清は親族のゴタゴタに巻き込まれてしまいます。家族思いがゆえ、その中で揺れ動く祐清の心情を丁寧に演じたいと思っています。」「義時を支え、頼朝の天下取りに力を注ぐ勇敢な坂東武士 仁田 忠常(にった ただつね)伊豆の武将。カ自慢であり、初めての戦を前に準備を怠らない真面目な性格の坂東武士である。義時らとともに源頼朝の挙兵に加わり、その後の戦では多くの手柄を挙げ、頼朝からも厚い信頼を得る。INTERVIEW 高岸 宏行(たかぎし ひろゆき)大河ドラマはもちろんですが、本格的なお芝居も今回が初めてとなります。僕自身、「応援」をテーマに活動している者として、視聴者の皆さんや出演者、スタッフの皆さんを鼓舞することはもちろん、演じる仁田忠常を応援するような気持ちで、全身全震をかけて一生懸命チャレンジしていきたいと思っています。心を一つに、素敵な大河ドラマにするぞ!みんなならやればできる!」「頼朝の髻観音像14歳て伊豆へと配流された頼朝の心の支えとなったのが、幼いころから肌身離さず持ち歩いている小さな観音像。北条家に乗り込んてきた祐親から逃れるときも、信心深い頼朝は観音像に祈りを捧げ、そっと髻*の中に入れた。*頭頂部に集めた髪を束ねた部分 第1回「大いなる小競り合い」「八重が頼朝へ宛てた矢義時から頼朝挙兵の動きを聞き、父・祐親と頼朝の間で心が揺らぐ八重。思い悩んた未、八重は対岸の北条家に向け、白い布を結び付けた1本の矢を放った。それは頼朝だけに通する秘密の合図であり、父や兄を裏切るものであった。 第4回「矢のゆくえ」「千鶴丸おもちゃ義時から手渡された頼朝の手紙を読む八重の傍らで、馬を模して作られた藁のおもちゃを手に無邪気に遊ぶ千鶴丸。幼いながらも、将来は父・頼朝のような武士になることを夢見ていたのかもしれない 第1回「大いなる小競り合い」」「木簡:米の納品伝票まだ紙が貴重な物であったこの時代、米の納品伝票として木簡という木の板が用いられていた。万事に控えめな義時は、時政らか酒を交わす宴の席を避け、米俵か積まれた蔵の中でこの木簡の整理に勤しんでいた。 第1回「大いなる小競り合い」」フォトスポット。この日は烏帽子を冠って。「北条時政」のパネル。「義時の父、北条一族のため天下取りの大勝負に挑む田舎武士 北条 時政伊豆を拠点とした在地豪族であり、義時の父にあたる。欲がなく大らかな性格で、後妻に迎えたりく(牧の方)にメロメロだったが、娘・政子と源頼朝の結婚を機に、北条一族のために平家討伐へと舵を切る。いざ戦に出ると息子たちが驚くほどの剣の達人でもある。鎌倉幕府の初代執権。INTERVIEW 坂東 彌十郎(ばんどう やじゅうろう)歌舞伎に登場する時政はとても怖い人物です。でも、今回の時政は武骨で自分や一族のことしか頭にない、田舎侍の印象でした。だからこそ、歌舞伎の時政はすべて消し、私なりの時政をゼロから作り上げています。実は演じる前に時政のお墓や館跡などゆかりの地にも足を運びました。そこで時政がどのような気持ちで美しい富士山を眺めたか。鎌倉幕府の執権となる前と後ろでは、その思いも違ったのかもと思うと感慨深かったです。この先の展開は全く読めないので、今はそこを楽しみながら演じています。」「義時の継母。傍らで夫の欲を煽り、権力の座へと導く りく(牧の方)公家である牧宗親の妹。大番役として上洛していた北条時政に見初められ、後妻として北条家へ嫁ぐ性格はしたたかな面があり、欲のなかった人・時政を傍らで鼓舞し続け、天下取りを後押しする。しかし、のちのち、りくの言動が思わぬ事態を巻き起こすことになる。INTERVIEW 宮沢 りえ(みやざわ りえ)史実での牧の方は悪女のイメージがあリますが、この激動の時代に名誉や権力に対して強い憧れがあったり、周りへの焦りなどが積み重なって、本人も気づかないうちにそうなってしまったのかなと思います。ただ夫である時政は無償の愛を注いでくれるので、そういう意味では彼女はとても幸せな人なのかもしれません。今は公家出身らしく、優雅さを意識しながら一つひとつのシーンを演じていますが、これから先、役が体に駅染んでいくといいなと思っています。」「義時の祖父。平家に謀反を企てる頼朝の命を狙う老武士 伊東 祐親(いとう すけちか)伊豆の伊東を拠点とした大豪族。北条時政は娘婿にあたり、義時や宗時、政子は孫になる。平家に仕え、伊豆に流刑となった源頼朝の監視役を務めるが、大番役として上洛している間に娘・八重と頼朝が深い仲となり、子どもまでもうけたことに激怒。平家討伐を目論む頼朝を目の敵にして命を狙う。INTERVIEW 浅野 和之(あさの かずゆき)三谷さんから送られてきた祐親の人物像は、「老いても矍鑠とした老武士。眼光鋭く、自分の中にある人格者の要素を総動員してください。大事なのは威厳です」でした。どれも私にない要素ばかりで(笑)、とても戸惑いました。しかも、祐親は自分のプライドのために親族までも手にかけてしまう。この時代は仕方なかったのかもしれませんが、本来の祐親の包容力などの人間性も想像しつつ、自分の中で出来る限りイメージして撮影に挑んでいます。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.07
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「韮山城跡」を後にして次に訪ねたのが「源頼朝公配流の地・蛭ケ小島(ひるがこじま)」。静岡県伊豆の国市四日町12。「遺蹟 永暦元年(一一六〇)源頼朝公配流の地 蛭ケ小島」碑。1160年(永暦元年)、平治の乱で敗れた源頼朝は、平清盛に捕えられたが、清盛の継母池禅尼の命乞いで、翌年、伊豆国のここ蛭ヶ小島に流罪となった。伊豆国で約20年間を過ごした頼朝は、1180年(治承4年)、ついに源氏再興の兵を挙げたのだ。「蛭ヶ島公園源頼朝は14歳の時、平治の乱に敗れ、伊豆に配流されました。その後20年間流人として過ごしました。ここ蛭ヶ島は頼朝が流人生活を送った場所と伝えられています。公園内には、江戸時代に伊豆の地誌「豆州志稿」を著した秋山冨南が、この場所を頼朝配流の地と考証したことを記念する「蛭島碑記」(市指定文化財)があります。また、平成16年に富士山に向かって頼朝と政子が寄り添うプロンズ像「蛭ヶ島の夫婦」が建てられました。」「蛭ヶ小島」の場所はここ。当時の蛭ケ島は洪水の度に田方平野を縦横に流れていたであろう狩野川の中洲、あるいは湿田の中の微高地(びこうち)(田島)であったと考えられていると。 中州にある中で一番小さかったことから後年「蛭ヶ小島」と呼ばれるようになったものと。公園内には多くの俳句作品が展示されていた。「北條の里に 漲(みなぎ) る 淑気かな」(右)。『遠藤韮城』の句碑。碑には「ふるさとは富士の全き良夜かな」と刻まれていると。 彼はのちに朝鮮俳壇で知られる俳人のひとりであり、『ホトトギス』の虚子選雑詠にも入選を果たした俳人 と。「蛭ヶ島の夫婦(ふたり)」と呼ばれれる頼朝と政子の銅像。逆光故に斜めから。ズームして。源頼朝(31歳)と北条政子(21歳)の像であると。こちらは、2018年2月に訪ねた際の写真です。源氏再興を誓い富士山を見つめているのであろうか。富士山を間に入れて。時計塔。「源頼朝公配流の地・蛭ケ小島」の前、「蛭ヶ島の夫婦」が見つめる北方向の道の西側を見る。煉瓦で出来た遊歩道には陶製のプレートが、韮山駅から蛭ヶ島公園、韮山城まで、伊豆の歴史を説明するタイル板が埋め込まれていたのであった。『源平のおもな合戦(1180~1185) 【一ノ谷の戦い】 京に上ろうとする平氏を義経らが打ち破った戦い。 【屋島の戦い】 屋島で体勢を立て直そうとした平氏を襲撃。 【壇ノ浦の戦い】 源平最後の大決戦 清盛の妻二位尼は8才の安徳天皇を抱き海中へ飛び 込み自害しました。平家の滅亡(へいけのめつぼう) 1185年(元暦二年)、源平最後の決戦、壇の浦の戦いで平家軍は壊滅。平家は滅亡します。』『弟 義経との再会(おとうとよしつねとのさいかい)👈リンク富士川を平家が敗走したのち、黄瀬川に陣をはる頼朝の元にはるばる奥州から弟の義経がかけつけました。父義朝が平治の乱で討死した時、義経はまだ2歳の幼児でした。』『韮山名物” いちごの電照栽培 ” 冬の夜景は見事です。』『富士川の対陣(ふじかわのたいじん)頼朝追討の平家軍は、平維盛を大将軍として京を出発し、富士川の西岸に布陣していましたが、水鳥の羽音を夜襲と思いにげてしまいました。』その他、以前に訪ねた時、様々な場所にあったものです。『平治の乱平治元年(1150年)に興った平清盛と源義朝の権力争いです。このとき、13才の頼朝は初めて戦に参加しましたが、源氏は敗れ父義朝も討たれました。』『平 清盛保元・平治の乱で平氏の武士団を率いて藤原氏と源氏の勢力をおさえました。太政大臣になり平家を栄えさせましたが、強い勢力にまかせておごった平家は人々に嫌われるようになり、反旗を翻した源氏との戦いの最中に熱病にかかり世をさりました。宋との貿易にに乗り出す等、先進的な考えをもつ政治家でもありました。』『蛭ヶ島もとは狩野川の氾濫によりできた中の一つで、当時は湿田に囲まれた島状の地形でした。頼朝は永歴元年(1180年) 1 4歳の時にここに流され、約20年間の流人生活をおくりました。』『真珠院とハ重姫若き日の頼朝とをに落ら、悲恋の末失意のうちに古川に身を投げた伊東の豪族の娘八重。真珠院に建てられた供養堂では「はしごがあったら、ハ重姫を教うことができたのに」という人々の思いからはしご供養が行われています。』『頼朝と政子北条時政が都にのほっていた時、娘の政子と頼朝の間に女の子が生まれました。しかし時政は平家ー門の山木判官兼隆に政子を嫁がせようとしました。婚礼の日の夜山木の館を抜け出した政子は雨の降る中を夜通し走り頼朝のもとに行きました。』『北条時政(ほうじょうときまさ)伊豆国の役人だった時政は平家から頼朝の監視役を命じられていました。しかし頼朝がむすめ政子を妻とした後は、娘婿頼朝をたすけ鎌倉幕府の、初代執権となります。しかしその後息子の義時・政子との対立に敗れ引退。耳は願成就院にあります。』『江川邸この地の世襲代官として長く領民に親しまれた江川氏の住宅です。主屋は鎌倉時代の住宅を今に伝え、国の重要文化財に指定されています。』「蛭ヶ島茶屋」。「鎌倉殿の13人」のポスター。「北条氏歴史紀行 スタンプラリー」が行われていると。「蛭ヶ島茶屋」案内板。「蛭島碑記」の古碑の碑文を撰文した秋山富南の顕彰碑「源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政2年(1790年)豆州志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、韮山町の有形文化財に指定されています。また、この碑の西側にある高い碑は、秋山富南頌徳碑(しょうとくひ)で、豆州志稿の増訂に当たった萩原正夫が、明治26年に建立したものであります。」 と。 公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は市指定文化財。「平治の乱に敗れた源頼朝は、平清盛に継母(ままはは)・池禅尼(いけのぜんに)の命乞い(いのちごい)によって伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に配流(はいる)されました。1160(永暦元)年2月の14歳の少年期から、1180(治承4)年8月に旗挙げする34歳までの20年間をこの地で過ごしたとされています。流人とはいえ、その監視は比較的ゆるやかであったと思われ、伊東祐親の娘・八重姫との恋、北条政子との結婚のほか、箱根・伊豆山・三島の三社詣(さんじゃもうで)、天城山での巻狩り(まきがり)などの伝承も残されています。当時の蛭ケ島は洪水の度に田方平野を縦横に流れていたであろう狩野川の中洲、あるいは湿田の中の微高地(びこうち)(田島)であったと考えられます。 他にも蛭ヶ小島と称する中州がある中で一番小さかったことから後年「蛭ヶ小島」と呼ばれるようになったものと思われます。現在は、伊豆の国市の文化財に指定されています。」 と。「蛭ヶ島(源頼朝配流の地跡)このあたりを、伊豆の国市四日町町字蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた源義朝の嫡子、兵衛佐頼朝配流の地といわれている。狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河・和田島・土手和田等の地名が現存するところから、往時は大小の田島(中洲)が点在し、そのひとつが、この蛭ヶ島であったことが想像される。永暦元年(1160)14才でこの地に流された頼朝は、治承4年(1180)34才で旗揚げ、やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、配流20年間における住居跡等の細部は詳らかではない。しかし、『吾妻鏡』治承4年の記事によれば、山木攻め(頼朝旗揚げ)の頃は、妻政子の父、北条時政の館(当地より西方約1.5粁の守山北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたとある。このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(1177)頃までの約17年間を、ここ蛭ヶ島で過ごしたものといえよう。当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政2年(1790)豆州志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、伊豆の国市の有形文化財に指定されている。また、この碑の西側にある高い碑は、秋山富南の頌徳碑で、豆州志稿の増訂に当った萩原正夫が、明治26年に建立したものである。」「韮山史跡・観光総合案内図」。様々な観光スポットが写真入りで説明されていた。頼朝と政子の「梛(なぎ)の葉の縁結び」記念碑。伊豆国に流罪となった源頼朝と北条政子は、変らぬ愛の証として、伊豆山神社の御神木の葉を持っていたといわれている。それが「椰の葉」。政子は、椰の葉を鏡の下に敷き、頼朝との愛を祈ったといわれている。「椰の葉」は、横に裂けないことから「愛のお守り」として、また、「家族平穏のお守り」として功徳があると。「頼朝と政子(梛の葉の縁結び)北條時政が大番役の一人として京に上り伊豆を留守にしている間(1177年頃)、三十一歳の源頼朝と二十一歳の北条政子は恋に落ちました。源氏の御曹司と結ばれたことが表沙汰になると面倒なことになると考えた時政は、政子を伊豆国の目代である山木判官平兼隆の元に嫁がせようと企てますが、祝言の晩政子は山木館を脱出し、熱海の東方伊豆山の走湯山権現に逃げ込みました。当時の伊豆山権現は格式の高い神社である上、多数の僧兵が山にこもっていたので、平兼隆も北條時政も手出し出来ず、政子のしたためた手紙を受け取った頼朝は、伊豆山に行き、政子と相会することができたのです。かくて頼朝と政子は、伊豆山権現の保護によって、そこでめでたく夫婦になることができました。近世中期の投節のひとつに『こんどござらば持て来てたもれ、伊豆の小山のなぎの葉を。』という歌があります。「今度、おいでになるときには、伊豆の小山のなぎの葉を持ってきてくださいね」という願いのうちに「それをお守りにしたいから」との意がこめられています。女の方から男に言った言葉です。当時の俗信では、梛の葉を鏡の裏に入れて「お守り」にすると、願いごとがかなう(結ばれる)とされていました。「伊豆のお山」とは伊豆山権現のことです。源頼朝と北条政子の熱烈な恋愛は伊豆山権現で成就したのですから、この故事にならって梛の葉は、当時の娘たちのあこがれであり、願いであったことでしょう。梛を鏡の裏のお守りとすることは、寛永の頃から享保の頃まで流行したようです。」そして駐車場横にあった「歴史民俗資料館」を訪ねた。「伊豆の国市 歴史民俗資料館この民家は、旧韮山町土手和田地区に江戸初期から続く上野家の住宅で、記録こそないが18世紀中頃以前に建造されたものと推定される。軒が低く、土間が広く、暗い内部は架構も単純で、中央通りに建つ二本の太い柱は棟持柱となって上までのびている。この形式は重要文化財、江川家住宅の四天柱の構造と同じもので現存する庶民農家の住宅としては、県下にも例の少ない古い型式である。昭和50年1月、所有者上野唯雄氏から韮山町へ寄贈された。その後昭和52年12月20日、静岡県の有形文化財(建造物)に指定されたことを契機に、町は国庫及び県費の補助をうけ、韮山町歴史民俗資料館として昭和54年3月30日解体、移築復元したものである。」蛭ヶ島敷地内にある、民族資料館。建物は、18世紀初期頃の創建と推定される庶民農家で、住宅としては県内最古。県指定文化財。土間にあった懐かしい農機具。畳のない板の間のみの広間・座敷を見る。「旧上野家住宅について一、この建物は間口11.9m、奥行5.9m、建物面積は65.7m2(19.9坪)です。ニ、広い「土間」を左にとり、右側に「ひろま」「ざしき」「なんど」の3間を配しており、 この形式を「広間3間取型式」といい、口伊豆地方に多い型式です。建物の総面積に比し 「土間」や「ひろま」を広く取っているのは、民家が単なる「住まい」という単一目的だけの ものではなく、「生産」という大きな役割を果たす場所でもあったからです。三、建物の材料は松・けやき・杉の他、竹、茅等を使っており、これらはすべて近くの山野で入手 できる材料ばかりです。また柱等の表面仕上げは鉋(かんな)を用いず、手斧(ちょうな)等を 使用した荒仕上げがふつうでした。四、「土間」と「ひろま」の中央境の柱が大黒(柱)、また「ひろま」と各部屋の中央境の柱が 小黒(柱)です。それぞれの柱は梁を抜けて棟を支えています。このような柱を棟持柱といい、 平屋建てで使われるのはたいへん古い型式です。尚、各間柱や梁の間隔は寸法が一定せず、 不揃いのことも古い民家の特徴といえます。五、当時の一般農家には天井がなく、また部屋に畳を敷くこともなく、このような板の間に、 必要により、ゴザやムシロを敷いて起居したようです。六、「いろり」は単に煮物や暖を採るだけのものではなく、生木等を燃やすことによって出る煙が 木材や屋根茅にしみ込み、虫害や腐蝕を防止する役目をしました。またテレビやラジオの なかった時代における一家団らんの場所としても、たいへん親しみ深い場所でした。 尚、「いろり」には一家の者の座る場所がハッキリと定まっており、それぞれの場所に名前が つけられていました。七、広い「土間」の入り口に近く、「わら叩きの台石」があるのも農家の特徴でした。雨の日や、 夜の仕事に縄やぞうりを作る「わら」を打った場所です。八、この建物を復元するにあたり、「わら縄」はすべて手ないのものとし、また、新しく補てん した材料も近在古民家の古材を使用し、昭和五十三年の焼印を打ち区別してあります。 その他、屋根棟の(瓦)覆いを「口伊豆型」にあらためるとともに、やぐら煙出し(あげおむし) は後世の改造になるもののため、移築の際、撤去しております。」天井のない藁葺き屋根の内側。水場には壺や樽が。はたご(機)・(機織り機)。水田器具や背負い駕籠。木臼と杵。ゆりい(囲炉裏)。再び屋根裏を見る ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.06
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「本立寺」を訪ねた後は「韮山城跡」に向かう。「城池親水公園」沿いを駐車場に向かって進む。「城池親水公園」韮山城の堀の跡を利用して作られた公園。駐車場に車を駐め散策開始。「ようこそ伊豆の国市へ」観光案内地図。池の岸からの富士山。水面の静かな早朝であれば・・・逆さ富士が。案内に従い「韮山城跡」に向かって進む。「城池親水公園」の「城池」では釣り人の姿もあった。再び富士山をズームして。「城池の野鳥たち」案内板。三叉路を直進する。「北条氏のミツウロコと韮山城」の幟であったが。「韮山城跡」案内板。「韮山城跡韮山城とは明応2年(1493)、伊豆に侵攻した北条早雲(伊勢新九郎盛時)によって本格的に築城され、およそ100年にわたって存続した中世城郭。早雲は、韮山城を本拠地として伊豆から関東地方へ進出し、戦国大名北条氏の基礎を築いた。永正1 6年(1519)早雲が没したのも韮山城である。北条氏の本拠地が小田原に移った後も、韮山城は領国支配と防衛の重要拠点であった。天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めの際、4万を超える軍勢に包囲されたが、約3か月にわたって持ちこたえ、小田原城と前後して開城した。その後、徳川家康の家臣内藤信成が城主となり、慶長6年(1601)信成の駿府転封とともに廃城となった。韮山城は通称「龍城山」に所在し、本丸・ニの丸などの曲輪や、土塁、堀などが良好な状態で残存している。平時の居館などがあったと思われる平地部分には「御座敷」の字名が残る。(現県立韮山高校校地)。また、周辺には本城を囲むように「土手和田砦」、「和田島砦」、「天ヶ岳砦」、「江川砦」があり、現在でも曲輪や土塁などの遺構が確認できる。」「伊豆国田方郡韮山古地図」。更に「韮山城跡」に向かって坂を上って行った。石段が整備された場所も。「静岡県立韮山高等学校」のテニスコート横を進んでいった。「三の丸」案内板。案内に従い右手に進む。前方に石鳥居が姿を現した。「熊野神社」の石鳥居。「由緒一、神社名 熊野神社一、鎮座地 静岡県伊豆の国市韮山字天主百九十五番地一、祭神 伊耶那美命(いざなみのみこと)一、由緒沿革 当社は、後北条の初代伊勢宗瑞(新九郎盛時 通称北条早雲)が 明応二年堀越御所の 内紛時に伊豆に進出し、ほどなく伊豆一円を平定し、この地に韮山城を築いた。 明応九年韮山城の守護神として伊邪那美命を祀り熊野神社を創建した。 その後、天正十八年(一五九〇年)秀吉の天下統一の戦いで北条氏滅亡後、江川家に 於いて社屋を修復して同地区の土手和田村松並の 鎮守の神として祭りつがれ、 現在、土手和田区松並地区に於いて 維持管理をしている。一、境内地 二百五十八坪(江川家所有)一、氏子崇敬者 二百六十余戶 平成二十八年十二月吉日」「熊野神社」の社殿。扁額「熊野大神」。内陣。「二の丸跡」。「二の丸跡」案内と「韮山城 早雲公 終生の居城」幟。富士山の絶景をジワジワとズームで追う。そして「本丸跡」に向かって木製の階段を上って行った。そして「本丸跡」に到着。「本丸跡」から「北条義時館」方面の眺望。「韮山城跡周辺案内図」。ズームして。「韮山城跡の立地と構成韮山城は中心となる①本城と、天ヶ岳(てんがたけ)に配置された「外郭の遺構群」によって構成されています。さらに、周囲には豊臣秀吉軍の「付城(つけじろ)」があります。本城本城は龍城山(りゅうじょうさん)とも呼ばれる細い尾根上にあります。尾根の長さは約400m、幅は約100mです。北から「三ノ丸」・「権現曲輪」・「二ノ丸」・「本丸」の4つの曲輪が直線的に並び、本丸の南にも小さな曲輪があります。現在地が本城の最高地点で、標高は約53mです。周囲の低地部との比高差は38mあります。本城まわりの低地部分には、幾重にも堀が廻っていました。現在 ②県立韮山高校のある一帯には、「御座敷」・「大手」などの小字名が残っており、城主などが住んでいた場所であったと考えられます。また、③韮山中学校と④城地付近は、当時も湿地が広がっていました。まわりには家臣や職人の住む屋敷が集中していたようです。」「外郭の遺構群(砦)天ヶ岳は、南北約1,100m・東西約700mの山体で、山頂部の高さは128mです。山頂部に⑤天ヶ岳砦、北東と南西の尾根末端部に⑥江川遺構群」・⑦土手和田遺構群があります。各遺構群と山体との間には、独立性と防御性を保つための深い堀切をみることができます。付城跡(つけじろあと)天正18年(1590)、韮山城は豊臣秀吉軍に囲まれますが、その時に豊臣軍が築いた⑧太閤陣場付城跡・⑨本立寺付城跡・⑩追越山付城跡・⑪上山田付城跡・⑫昌溪院付城跡が東側の山中に残されています。」再び富士山の勇姿を。手前が「静岡県立韮山高等学校」。「韮山城跡」の「本丸跡」を後にし坂道を下って行くと右手にあったのが「ほほえみ観音このお地蔵様は昭和35年当時13才の韮中生2名が舟遊び中水難事故死したものを御供養した地蔵様です。お気付きになりましたら、御手合せください」と。「ほほえみ観音」に近づいて私も合掌。更に下って行った。右手には深い堀切が確認できた。韮山城主郭部と天ヶ岳とを繋ぐ尾根筋を断ち切っていた。そして「城池」岸に再び出る。近くには白梅の林があったが、漸く開花が始まったばかりであった。ところで鎌倉時代の執権「北条氏」と戦国時代に相模国の小田原城を本拠とした「北条氏」は同じ「北条氏」を名乗っている為、同じ一族かと思うかもしれませんが、両氏族は全く関係がないのです。というのも、戦国時代の「後北条氏」の祖とされる北条早雲は、もともと伊勢宗瑞(いせそうずい盛時)という名前で、「北条」ではなかったのです。戦国時代の後北条氏が「北条」を名乗ったのは2代目の氏綱の時代からで、初代の北条早雲はあくまでも後年の呼び名であって、生前には一度もその名で呼ばれていなかったと言います。鎌倉時代の「北条氏」と戦国時代の「後北条氏」の家紋も異なるのです。どちらも三角形を用いた家紋でとてもよく似ているが。鎌倉時代の「北条氏」の家紋は正三角形を用いた家紋であるのに対し、戦国時代の「後北条氏」は二等辺三角形を用いているという違いがあるのです。鎌倉時代の「北条氏」は、鎌倉幕府の執権として権勢を誇っていた。幕府は日本の武家の頂点に位置していますから、現代で言えば内閣にあたる存在。一方、戦国時代の「後北条氏」は、室町幕府を武家の頂点とした制度の地方を統治する大名であり、言わば都道府県知事のような存在。簡単に言うと、「国」を統治していた「北条氏」と、「地方」を統治していた「後北条氏」という立場の違いがあるのです。戦国時代の「後北条氏」の祖である北条早雲は「伊勢氏」であったのに、なぜ2代目の氏綱は「北条」に改姓したのか?本格的に関東地域全域の支配を目指す2代目の氏綱は、「伊勢氏」よりも鎌倉時代に関東で栄華を誇った「北条氏」の方が関東の武士には馴染みがあると考え「北条」を名乗るようになったのだと。「北条早雲」像をネットから ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.05
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「立木皇大神宮」を後にして次の目的地の「本立寺(ほんりゅうじ)」に到着。山門の前におられた地元のオジサンが駐車場の位置を教えてくださいました。本立寺は江川氏の菩提寺。世界遺産の「韮山反射炉」👈リンク は、江川家三十六代目江川英龍の建言によって造られた大砲鋳造のための施設。1261年(弘長元年)、伊豆(伊東)に流されていた日蓮(参考:伊豆法難)が、十六代当主江川太郎左衛門英親に招かれて教化を行ったところとされる。のちに、英親は身延山へ登り、日蓮より「日久」の法号を授けられている。1506年(永正3年)、二十四代当主英盛が江川邸内にあった大乗庵を移して本立寺を建立。江川氏は平安時代末から続く名家で、五代執権北条時頼に酒を寄進して褒められているという。また、北条早雲はそれを「江川酒」として贈答品としたという。「本立寺」の「山門」を見る。静岡県伊豆の国市韮山金谷268−1。右側に題目碑「南無妙法蓮華経」。左側の石碑には???「山門」の扁額は山号の「大成山」。「日蓮宗本山 本立寺」。「命はかぎりある事なり すこしもをどろく事なかれ」。日蓮聖人ご遺文『法華證明鈔』からであると。本書は別名『死活鈔』とも呼ばれ、弟子日興上人を介して檀越南条時光公に与えられた書状。日蓮聖人自身病床にありながらも檀越南条時光公が重病との知らせに、治病の護符の作法を日興上人に伝授されたのだと。併せて本人には、自らの病魔を呵責し信心堅固にして病悩を克服するように励まされた。その結果、時光公の大病は全快し長寿を遂げたのであった と。こちらの碑にも「南無妙法蓮華経」と。「日蓮宗 本山 大成山 本立寺(江川家菩提寺)縁起当山は、比叡山で修行中の大擅那江川家十六代の当主江川太郎左衛門英親公か日蓮聖人を当地に招き、そのおり日蓮聖人より御自筆の火伏の曼荼羅を授与され、家門繁栄・子孫長久の祈願を奉行される。以来江川家は七百年の伝統を継承し現在に至る。英親公七十三歳の春、身延山に登詣、日蓮聖人より優婆塞日久の法号を授け御眞筆の曼荼羅・祖師像を授かる。本立寺建立の歴史は英親公(日久上人)のカ大なるものあり。後、永正三年六月(一五〇六)江川家ニ十四代英盛公が邸内にあった大乗庵を当地に移し本立寺を建立す。現在の本堂は、昭和三年四月八日落慶入仏式を奉行す。本堂裏に江川家代々の墓碑が並び一段目の中心に開基優婆塞日久上人の墓、最上段に源英龍・坦庵公・源英敏公・源英武公の墓碑が七百年の伝統を伝え現代に至る。」「参道」からの富士山の勇姿をここでも。「本堂」への石段が前方に。左手にあったのは「寺務所」であろうか。ここにも「本立寺」と。入口にあった石碑には「菩提の庭」と。寺務所の玄関。参道の石段を上って行く。右手に「手水場」。玉を抱えた龍の手水口。「江川太郎左衛門英龍(坦庵公)像」。近づいて。銀杏の御神木。ここにも「手水舎」。「鐘楼」が右手に。本立寺の鐘は、鎌倉の東慶寺にあったものであると。大旦那は北条高時の母・覚海尼。1332年(元徳4年・元弘2年)の鋳造だが、その翌年に鎌倉幕府は滅亡した。幕府滅亡後、覚海尼は伊豆に移り住んだが、その時に鐘も伊豆に持ち込んだものと考えられているのだ と。別の角度から。ズームして。梵鐘銘文「相陽山内松岡山東慶禅寺鐘銘梵刹置鐘号令人天休息輪苦利益大矣松岡住山了道長老以寺用百緡鋳洪鐘求銘於円覚清拙叟銘曰松岡之山 寺曰東慶 鉄磨華宗末山芳循 緇流駢羅 禅学鼎盛必仮洪鐘 発号施令 孔方載馳工倕是命 炉鞴奏功 範模畢正簨簴既張 蒲牢斯震 晨興夜坐朝諷夕詠 鯨音一吼 趨集率敬」 と。梵鐘銘文「左建右円 天近楼迥 新声飄揚邇答遐応 層旻開聡 厚壌徹聴十虚消殞 五濁清浄 聞塵忽空返我聞性 檀門福寿 紺園殊勝千秋万年 国界安静壬申元徳二二年結制後十一日 都寺比丘尼 遠峯性玄 首座比丘尼 無渠親證 住持比丘尼 果庵了道 大檀那菩薩戒尼 円成」と。「鐘楼」の扁額は「鯨海」。正面に「本堂」。見事な龍の彫刻。ズームして。「日蓮宗の寺紋」が。「日蓮宗の寺紋」は井伊家の家紋とよく似ているのだ。井桁紋の中に橘が配置されており、まるで井伊家の定紋と替紋が合体している如くに。日蓮宗の祖・日蓮上人の出自が井伊家の支流に連なっているという伝説もあるので、意外なところでつながりがあるのかも。横の梁の上の彫刻(右)。横の梁の上の彫刻(左)。日蓮聖人像。像の材質 青銅高 さ 十二尺 3.6m重 量 一・五t 1500kgお顔をズームして。墓石が並ぶ。戦争で亡くなった方の墓石であるようだ。「故陸軍兵長大倉武之墓」と。「佛殿位牌堂」。右側には鳥居と石段があった。「玉女峰」と書かれた鳥居。石段を上って行くと小さな社・「山神社」があった。江川家の墓を。向かって左側が韮山反射炉で有名な江川英龍こと坦庵の墓であると。江川家36世「源英龍墓」。江川 英龍(えがわ ひでたつ、享和元年5月13日 - 安政2年1月16日)は、江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山代官。通称の太郎左衛門(たろうざえもん)、号の坦庵(たんあん/たんなん)の呼び名で知られている。韮山では坦庵と書いて「たんなん」と読むことが多い。洋学とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。地方一代官であったが海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入を果たし、勘定奉行任命を目前に病死した。江川家37世「源英敏墓」。天保10年(1839年)、第36代当主・江川英龍の三男として生まれる。安政2年(1855年)に父が死去した(2人の兄は既に早世していた)ため、家督を継いで第37代当主となり、太郎左衛門を称した。生前に父が進めていた農兵育成・反射炉の完成・爆裂砲弾の作成などを次々と推し進めたが、家督を継いでから7年後の文久2年(1862年)に夭折した。享年24。継嗣がなく、末弟の江川英武が養子として跡を継いだ。江川家38世「源英武墓」。戊辰戦争のときの当主。文久2年(1862)兄・英敏のあとを継ぎ当主となる。嘉永6年(1853)生まれらしいので11歳で当主、15歳で戊辰戦争。明治天皇が慶応2年(1866)12月1日に16歳で踐祚(せんそ) と。遠く南アルプスの山々の姿が。境内の参道脇にも墓地が並んでいた。そして再び富士山をズームして。更に宝永火口、山頂を。「山門」に向かって進む。富士山頂付近は強風なのであろうか。雲が湧き上がっているのであろうか?それとも雪が舞い上がって?右手にあったのが「霊儼大明神」。社殿。社殿の扁額「霊儼堂」。内陣。「霊儼大明神当堂は今を去る一八〇年前に建立祭祀の霊儼明神を勧請し信者の守護神老若男女の信仰をあつめて今日に至る。堂内には頸(くび)の真骨が安置され渇仰(かつごう)の象徴といわれ頸から上の難病を平癒する明神であります。病を祈願する者は必ず霊験あらたかに不思議の力よく病体を加被(かび)して苦悩を除き災厄、病難を消除する明神であります。特に子供に知慧をさずけ試験合格 学業成就 頸から上の眼病、頭痛、熱病、痴呆諸病を消滅し息災延命を司る御守護神であります。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.04
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そして次に「成願寺」の近くにあった「荒木神社」を訪ねた。県道136号線沿いにあった「一の鳥居」。社号標石「郷社荒木神社」。「式内社 郷社 荒木神社神社名 荒木神社(茨城(ばらき)神社 鞍掛神社)鎮座地 原木上町九〇番地の一外御祭神 天津日子根命(あまつひこねのみこと)例祭日 十月十八日創建 不詳由緒創建はさだかでないが、境内や隣接する荒真木遺蹟からは古墳時代の祭祀土器が見つかり、遺蹟包蔵地に指定されていることからも神社の存在が推測される。「延喜式神明帳」(九〇五年)に荒木神社名があり「伊豆の国神名帳」に正四位上あらきの明神と記載されている中古は茨城神社、鞍掛神社とも称しており、歴史ある神社といえる。原木(ばらき)の地名は「荒木神社」「茨城郷」の「あらき」「いばらぎ」「ばらき」に転訛したものと考えられている。」「二の鳥居」に向かって進む。参道両側は様々な花木が植栽されていた。「二の鳥居」の先に「拝殿」。「手水舎」。左側にあったのが「神楽殿」。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。社殿正面。荒木神社は、伊豆国の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝頼朝が参拝の度に社木に鞍を掛けたという言い伝えから「鞍掛明神」とも称されていたという。扁額「郷社 荒木神社」。「疫病終息祈願 静岡県神社庁」と。荒木神社のクスノキ(楠)。樹高 :28m目通り幹囲 :6.6m推定樹齢 :300年以上「本殿」を見る。「境内社」。社殿の右手に境内社がいくつか並んでいるが詳細は不明。昭和十六年の『静岡県神社誌』には、伊勢両大神宮、三珠神社、風神社、御門神社、稲荷神社、許登比良神社、山神社、八坂神社、厳島神社、八衢神社の十社相殿の祠があると記されているとのことだが。巨大な石碑。詳細不明。巨大な石碑。砲弾が祭られていた。日露戦争の慰霊碑であろうか。こちらも詳細不明。「拝殿」を振り返る。狛犬をズームして。そして次の「山木皇大神宮」に向かう途中に車窓から富士山を。雲一つない富士山の勇姿。これぞ日本のシンボル!!そして「山木皇大神宮」に到着。 皇大神社は、山木地区の鎮守。本殿に平兼隆、天照大神、相殿に菅原道真・八牧幣座神(やまきみてぐらのかみ)を祀っている。平兼隆とは山木 兼隆(やまき かねたか)のこと。治承4年(1180年)8月、頼朝は 以仁王の令旨を受け挙兵、兼隆の館を急襲する。三島大社の祭礼のために郎党の多くが留守だったため兼隆は満足に戦うことができず、加藤景廉によって討たれた(山木館襲撃)1880年(明治13年)、山木地区の神明宮・天神社などが合祀されて成立した神社。毎年年末には、江川家から供え餅と注連縄飾りが納められている。一の石鳥居。前回は「山木兼隆邸」があった「香山寺」👈リンク を訪ねたが、この「山木皇大神宮」は訪ねなかったのでこの日に。石鳥居の扁額「皇大神社」。「手水舎」。二の石鳥居。そして「拝殿」。内陣。右隣に「境内社」。境内社に、来宮神社・八牧別所幣座神社・滝山明神・山木稲荷がある。来宮神社(右)と「八牧別所幣座神社」(左)。来宮神社の御札には・・・・その縁起が。中央に「滝山神社」の文字が。「本殿」を見る。「山木神社」。山木村の山木判官を祀る兼隆神社は、嘉永六年(1853)の山木大火で堂社を焼失し、皇大(こうたい)神社に合祀されたのだと。「正一位山木・・・」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.03
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「仁田忠常」の墓があった「慶音寺」を後にして、伊豆縦貫自動車道を進み、「狩野川」に掛かる「日の出橋」、「石堂橋」を渡って次に訪ねたのが県道129号線沿いにあった「成願寺」。静岡県伊豆の国市原木158。寺号標石「曹洞宗成願寺」。頼朝が餅売りの媼(おうな・老女)の為に建立した寺。源氏再興の悲願を胸に、若き頼朝は三島明神への百日詣でに通う道すがら、折にふれ原木にある餅売りの媼の店に立ち寄りました。媼は不遇な源氏の御曹司を励まし、時には蛭ケ小島を訪れ餅を献じることもあったといいます。1180(治承4)年8月、頼朝は兵を挙げ 平家を倒して鎌倉幕府を開きました。頼朝は旧恩を忘れず、媼を訪ね「何なりと望みをかなえよう」と言ったところ、媼は「私は老い先短いので、阿弥陀仏を拝んで余生を送りたい」と願ったといいます。頼朝は早速阿弥陀仏を与え、一寺を建立して媼の望みをかなえてやりました。成願寺は媼の「我が願い成る」と喜ん だ言葉を寺号としたもので、本堂に向かって左側に餅売媼の墓があった。山門の左側にあった「童地蔵」。入口に享和2年(1802)建立「三世一切諸経塔」、「六地蔵」、萬霊塔、庚申塔等石仏石塔群等が祀られていた。「六地蔵」。「成願寺源頼朝が流人として蛭ヶ島にいた頃、たびたび三嶋大明神(現・三嶋大社)に参詣していました。途中の原木に餅売りのお婆さんの店があり、頼朝は参詣の折に立ち寄り休息しました。その後、将軍となった頼朝は、恩に報いるため、お婆さんの願いである寺を建立しました。その寺が成願寺で、境内には「餅売り媼の墓」があります。」「庚申塔」。近づいて。立派な「檀信徒会館 真慈閣」が左側に。多くの墓石、石仏が並ぶ。無縁仏塚だっただろうか。「檀信徒会館 真慈閣」前にあった石の祠。山門方向を振り返る。「心經五萬部讀誦供養塔」。「戦没者霊供養塔」。「本堂」。曹洞宗 宝樹山 成願寺。「本堂」の扁額は「徳光」であろうか。「本堂」の「内陣」。「本堂」前の白梅。近づいて。歴代住職の墓か。その中の左側にあったのが「餅売りの嫗の墓」。場所を変えて。「本堂」裏の墓地内からの富士山の勇姿。富士山を追う。多くの古い墓石が並んでいた。「廣雲孩児」と書かれた卒塔婆の前には石仏が。「孩児」とは乳飲み子のことと。境内の紅梅。屋根には「笹竜胆(ささりんどう)」の家紋が。笹竜胆は鎌倉幕府を樹立した源頼朝(みなもとのよりとも)の家紋。「飾り瓦」。そして「成願寺」の斜め向かいにあった「実相寺」も訪ねた。静岡県伊豆の国市原木154。「浄土宗 実相寺」。「狩野川台風洪水之碑」。境内左側には、狩野川台風の際に浸水した洪水の水位が示されていた。「昭和三十三年九月二十六日天城山に七百ミリ以上の雨が降り、いたる所で狩野川の堤防は決壊し八百六十人もの尊い人命が奪われた。当地の浸水位はこの碑の高さである。今、防災意識の高揚を計ると共に犠牲者の冥福と住民の幸を祈るためこの碑を建立す。」ここにも「六地蔵」。「本堂」。仁安2年(1167年)840年昔、「俊乗坊重源」が源平の争乱で東大寺が「平重衡」の放火で消失し「源頼朝」の発願で再建費用の調達の為にこの地に来たとき、住民の要望に答えて「小松院」と称する真言宗の寺院を建立した。その後、明徳3年(1392年)室町幕府三代将軍「義満」の時、「実蓮社相誉真阿至誠不脱上人」が浄土宗に改宗し、「実相寺」と改め、現在に至っている。現在の本堂は、昭和63年4月「落成」した。扁額「名號山」。内陣。ズームして。観音像。石祠。「當山 浄誉代」と。「実相寺」から「成願寺」を見る。 ・・・つづく・・・ ・・・もどる・・・
2022.03.02
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次に訪ねたのが「日蓮宗 正福山 慶福寺」。 静岡県田方郡函南町仁田164。掲示板。「令和四壬寅(みずのえとら)年」と。2022年(令和4年)は寅年(とら年)ですが、「干支は寅・とら」というのは正しくない と。「干支(えと)」とは、正確には「十干(じっかん)」と「十二支(じゅうにし)」の組み合わせ。< 十干(じっかん) >甲:きのえ乙:きのと丙:ひのえ丁:ひのと戊:つちのえ己:つちのと庚:かのえ辛:かのと壬:みずのえ癸:みずのと< 十二支(じゅうにし) >子:ね丑:うし寅:とら卯:う辰:たつ巳:み午:うま未:ひつじ申:さる酉:とり戌:いぬ亥:い今年、2022年の場合、十干は「壬(みずのえ・じん)」、十二支はご存知の「寅(とら・いん)」なので、干支は「壬寅(みずのえとら・じんいん)」となるのだと。丑(うし) う=憂う日常 し=しばし我慢 ⬇寅(とら) と=共に歩む ら=礼拝の日々 と。 山門には「日蓮宗 正福山 慶福寺」と。1570年(元亀元年)に創建された、身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗の寺院。背に霊峰富士を仰ぎて山門をくぐると、紅葉並木と紫陽花の参道がつづき、その右側には大黒堂があり、正面に本堂を拝す。鎌倉時代より続く仁田家の菩提寺でもあり、先祖の仁田四郎忠常公は鎌倉幕府初代将軍 源頼朝公の信頼厚く重要な任務を度々任されていた。1193年の富士の巻狩での猪退治は有名な逸話として現代に語りつがれている と。境内の右手にあった「大黒堂」。扁額「大黒天」。「大黒堂」の内陣。「歴代上人廟」。「本堂」。1570年(元亀元年)に創建。一族が居住した仁田館があったのがこの場所。「仁田四郎忠常」は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。伊豆国仁田郷の住人。1180年(治承4年)8月17日、伊豆国に流されていた源頼朝が挙兵するとこれに従った。1185年(元暦2年)の平家追討では源範頼に従って活躍し、西海(九州)において特に功があったとして、北条義時・小山朝政・小山宗政・中原親能・葛西清重・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美祐茂天野遠景・比企朝宗・比企能員とともに頼朝から感状を受けている。1189年(文治5年)の奥州征伐でも武功を挙げた。1193年(建久4年)の富士裾野の巻狩りの際に起こった「曽我兄弟の仇討ち」では、十郎祐成を討ち取っている。頼朝亡き後も二代将軍源頼家の信任を得て、頼家の嫡子一幡の乳母夫に就任。1203年(建仁3年)9月2日の比企の乱では、北条時政の命により天野遠景とともに比企能員を暗殺したが、9月6日には、恩賞を受けに北条時政邸に向かい、帰宅の遅れを怪しんだ弟たちの軽率な行動を理由に謀反の疑いをかけられ、加藤景廉に誅殺される。享年37歳。」扁額「慶音寺」。「本堂」の「内陣」。「事務所」。掲示板「浅きを去りて深きに就くは丈夫の心なり」。「この堀はから八〇〇年前頃、源頼朝の平家追討に従うなど、鎌倉時代初期に活躍した武将、仁田四郎忠常一族が居住した仁田館の一部で、館の周囲に土塁を築くために堀られた空堀(からぼり)です。県下でも数少ない遺構の一つです。」東側は、来光川が天然の堀となっており、西にある慶音寺との間に空堀(からぼり)が確認できた。別の場所から。「本堂」裏の墓地に進む。大きな石仏が。ズームして。「仁田家之墓」碑と大きな五輪塔。「仁田家之墓」。墓地を望む。歴史を感じさせる石碑。「南無妙法蓮華経法界」の文字が。ここにも「仁田家之墓」。こちらの方が古そうであった。再び空堀、土塁を見る。そして「仁田忠常・忠正・忠時公の墓」が境内の南側にあった。現在もご子孫の仁田さんが墓地の奥にお住まいになっているようであった。中央が仁田四郎忠常、左が弟五郎忠正、右が同じく六郎忠時の墓。「仁田四郎忠常兄弟の墓所在 西南町仁田 素封家仁田家邸内にあり、仁田四郎の富士の巻狩の猪退治は有名である。治承四年(一、一八〇)の山木判官平兼隆邸夜襲を初陣として平家追討奥州藤原攻め等において数多くの手柄をあげ、頼朝の信が厚かった。頼朝の没後建仁三年(一、ニ〇三)北条時政のために弟と共に殺された。墓は右 六郎忠時 中央 四郎忠常 左 五郎忠正」「鎌倉殿の13人」で「仁田四郎忠常」役の高岸宏行(たかぎし・ひろゆき/ティモンディ)さん。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.01
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