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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「甘沼 八幡大神」を後にして、次の目的地の「玉林寺」に向けて県道404号線・小出県道を北東に向かって進む。前方に見えたのが15階建て高層マンション「オクトス湘南 茅ヶ崎ヴィスタヒル」。「玉林寺」の入口手前には小さな地蔵堂があった。地蔵堂の中には一体の長身のお地蔵様と生花が。赤いマントの如き衣服で覆われていた地蔵様。そして寺号標石「吉祥山 玉林寺」。神奈川県茅ヶ崎市甘沼217。左手に石碑群。左から「造立大六天 明和五戊子年 (1768)十一月吉日 玉林寺長◯代」と刻まれた石碑。「三界萬霊等」碑。「三界は仏教語で、欲界、色界、無色界をいい、俗界というのは、食欲、性欲、睡眠欲をいう。色界は食欲よりも性欲の強いことをいい、無色界は性欲のない心の世界をいう。万霊というのは欲、色、無色界の有情無情の精霊などのあらゆる世界をさしている。それらを供養することが三界萬霊等(塔)である」と。次の石碑は解読不能。そして山門に向かって進むとブロンズ製の仁王像が迎えてくれた。右手に仁王像・阿形像。お顔をズームして。横から。そして後ろ姿を。仁王像・吽形像。お顔をズームで。横から。そしてこちらも後ろ姿を。「山門」を潜る。蟇股の見事な彫刻。そして「本堂」。曹洞宗 吉祥山 玉林寺(ぎょくりんじ)。扁額「玉林寺」。境内の銀杏の老木は丸裸にされて。石祠には天保九年?(1838)十二月吉日と。墓地の一角には歴代住職の墓地が。中央の石碑には「玉林寺歴住諸大和尚禅師」と。墓地を見る。寺務所。「本堂」前から「山門」を見る。再び「オクトス湘南茅ヶ崎ヴィスタヒル」を見る。黄色と白の混じった花菖蒲の群生地。ヤグルマソウ(矢車草)。茅ヶ崎市赤羽根の住宅地を南に進む。右手の高台の墓地の一角に「道祖神」碑があった。中赤羽根の「道祖神」碑。自然石板文字道祖神昭和四十七(1972)年と。「廻国供養」塔。江戸時代中期には観音巡礼や四国遍路にならって日本国中の社寺を廻ること(日本廻国行者)が流行しており、国中の神社仏閣を参詣し、その記念としてこの供養塔を建立した と。「廿三夜供養」塔。「陸軍歩兵ニ等卒勲八等島村賢治之碑」。墓地、石碑群を振り返る。次の目的地の「西光寺」に向かって進む。アヤメの花が道端に。「時計塔」のある「中赤羽根自治会館」が右手に。前方の山の下に目的地の「西光寺」があるはず。純白のツツジ。1本のツツジの木に2色の花が。「コンボルブルス」であろうか。近づいて。そして道端の民家の生け垣の中に地蔵様が。神奈川県茅ヶ崎市赤羽根3226。「享和三年」(1803)の文字が。民家の庭の見事な藤棚をカメラで。見事な藤の花。オレンジ色のアヤメも。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.31
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「成就院」を後にして、ゴルフ場「スリーハンドレッドクラブ」の前の道への坂道を上って行った。道路脇には紫の菖蒲(しょうぶ)の花が。近づいて。ゴルフ場の入口に向かって坂を上って行った。相模川方面の街並みを見下ろす。そして左側にあったのがゴルフ場「スリーハンドレッドクラブ」の入口。神奈川県茅ヶ崎市甘沼441。ここスリーハンドレッドクラブは日本の政財界の超一流人300人だけが会員になることが許されている超が付く名門コース。歴史を紐解けば昭和37年、東急電鉄が造成したメンバークラブで、当時の入会基準は、政治家は首相か外相の経験者のみ。財界人は東証一部上場企業で50歳以上という狭き門であったと聞くが現在でも?アメリカのトランプ大統領が来日した際に安倍首相が埼玉県・川越市にある『霞ヶ関カンツリークラブ』でゴルフ外交をしたのは有名だが、その直前に“コソ練”をしたのが、ここスリーハンドレッドクラブだったのだと。さすがに、多くの高級車が駐車していた。その先、左にあったのが「茅ヶ崎配水池」。「茅ヶ崎配水池災害用指定配水池概要構造 鉄筋コンクリート造大きさ 12m☓12m☓1池 48m☓48m☓1池有効水深 4.0m満水時水位 標高50.0m容量 5184m3この配水池は、寒川浄水場から送られてきた水を貯えて、茅ヶ崎市の皆様に供給するために築造されたものです。また、この配水池は、地震など災害が発生した場合に応急給水に必要な飲料水を確保する配水池に指定されています。」配水池の平・断面図。そして坂道を下って行くと右手に小高い山への上り口があった。そこを上って進むと、次の目的地の「甘沼 八幡大神」の社殿境内への裏道が続いていた。前方に「新湘南バイパス」、その先に「江の島」の姿が。「江の島」をズームして。裏道を下り、「甘沼 八幡大神」の境内に入り、正式な入口まで進む。石段の先に石鳥居そしてその奥に拝殿の姿が見えた。社号標石「甘沼 八幡大神」。石段横の老木の内部には空洞部も。石灯籠と石鳥居。「甘沼八幡大神と甘沼村の由来八幡大神社 格 相模国高座郡甘沼村明治六年十二月披列村社候事祭 神 八幡大神は誉田別命(注応神天皇)軍の神様境内に末社あり殿山稲荷と云う祭神に倉魂神 農業の神様創 立 明暦二年丙甲(西暦1656年)今から参百弐拾六年前である。現建物 奥殿は昭和二十六年十月に再建された。本殿は昭和四十八年九月に村有志により再建 されたものである。甘沼村の由来由 来 昔より高座郡に属す起源詳ならず口碑に今の本村の田地震にて概て一円沼地にして其辺 甘草の生茂せしを漸々開墾したるを以って甘沼村と云い懐島郷(旧大庭の庄)の一つで あったが冠稱を廃して現今は単に村名のみを用う。沿 革 往古詳ならず永禄年間北条氏の臣近藤孫三郎来地たり天正十八年庚寅徳川氏に代り 承応三年甲午旗下堀順三郎の知行所となり明治元年戊辰八月韮山県に属し同年九月に 神奈川の所轄となる。」石鳥居の下を進む。右手にあったのが「鐘楼」。「八幡大神拝殿新築記念」と。「昭和四十八年九月吉日再建」と。「平和の鐘」と。その先に「庚申塔」。青面金剛像をその表に彫りつけた形式の庚申塔の出現期のものである。4臂の像で、2猿を従えている。この形式の庚申塔は今までに7基が知られており、内1基は年号が分からないが、他は承応2年(1653年)から明暦4年(1658年)の間の年号銘をもつ。しかもそのいずれもが、相模川下流域に集中している。この庚申塔は、この7基の内の2番目に古い年号銘をもっている。「八幡神社の庚申塔 平成十八年二月十四日 神奈川県指定有形民俗文化財庚申塔は、庚申信仰に基づいて江戸時代に盛んに造られるようになったもので、人の延命招福を願ったものである。この塔は青面金剛像を彫った庚申塔の出現期のもので、承応三年(1654)の年号が見える。基部には造立者十人の名が刻まれている。四臂(よんび)(うで)で二猿を従えるこの形式の塔はこれまで七基が見つかっており、いずれも相模川下流域(茅ヶ崎三、平塚二、寒川一、藤沢一)に分布している。初期の青面金剛像の庚申塔として貴重なものである。」石碑群。左から●舟形光背型「廿三夜塔」・明治三十七年一月吉日、●山状角柱型「道祖神」・「丙安政三年/辰正月吉日」(1856)、●山状角柱型「道祖神」・「安政二乙卯正月吉日」(1855)石段を上り終えると正面に「拝殿」。狛犬「阿形像」。狛犬「吽形像」。太い丸太で蓋をしてあったのは手水場であっただろうか。「拝殿」御祭神 誉田別命( ほむだわけのみこと )祭礼 1月1日 元旦祭(がんたんさい) 7月15日 浜降祭(はまおりさい) 8月4日 例祭(れいさい)屋根の鬼瓦とその下の彫刻。頭貫の彫刻。裏に 木彫師 渡辺豊雲 と。木鼻(右)。木鼻(左)。扁額「八幡大神」。「境内社」。「神輿殿」。扁額「神輿殿」。「甘沼 八幡大神」の神輿。 【https://ameblo.jp/syounan0211/entry-10016796571.html】より「神楽殿」。この境内社の名前は??「甘沼八幡大神」を後にして小出県道に出て南西に進み暫くして左折した場所にあった「小祠」。神奈川県茅ヶ崎市甘沼594。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.30
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「成就院」の入口。神奈川県茅ヶ崎市甘沼473。寺号標石「高野山真言宗 甘沼山成就院」。石仏。思惟手(しゆいしゅ)の姿の弥勒菩薩であろうか。それとも如意輪観音の庚申塔であろうか。石段の手前の両脇には陶器の象の置物そしてその上には葉牡丹を植えた鉢が置かれていた。石段の先に「本堂」が見えた。祈る姿の石仏。鹿の親子の置物。「本堂」。「甘沼山成就院」。成就院の創建は四百有余年前とされ江戸初期の創建であろう。寺のホームページには開山や創建年などの由来や縁起は記載されてはいない。寺のホームページに縁起・由来を記載していないお寺は実に珍しい。「本堂」の彫刻。屋根の「飾り瓦」。大きな「宝篋印塔」。「十三層塔」。奉建者のお名前の横に「十三層塔」と。正面に「修行大師像」。脇には隣に鎮座されていた「南無一言大師」の幟。近づいて。「修行大師像」と。「大師堂」。「一言大師この石仏は文政年間相模国八十八ヶ所霊場第三十五番札所の成就院ご本尊として造立された「弘法大師空海」のお姿です。その霊験あらたかなるが故に信仰され大切な願い事を一心に念ずれば必ずやかなえて下きるご利益により「ひとことだいし」と伝えられます。」「弘法大師像」。宝塔。「本堂」を横から。熊の置物。「不動明王」。中央に海波上に立つ「波切不動明王」の線刻像。不動明王が背負われている真っ赤な火炎「迦楼羅炎(かるらえん)」が激しく動いていた。炎の光背・「迦楼羅炎(かるらえん)」を背にし、手には剣と羂索(けんじゃく)を持っている。「不動明王」の脇侍として八大童子のうちの矜迦羅(こんがら)・制多迦(せいたか)の2童子が配されていた。正面左側に海波上に描かれた「矜迦羅(こんがら)童子」。蓮華冠をつけ、 合掌した親指と人差し指の間に独鈷杵をはさんで持つ。 天衣と袈裟を身に着けている。正面右側にこれも海波上に描かれた「制多迦(せいたか)童子」。金剛棒をもち頬杖を付く独自のポーズをとっている。再び「不動明王」、「矜迦羅童子」、「制多迦童子」の線刻像を振り返る。「本堂」を横から見る。石段の右側、しだれ桜の下には石碑があった。句碑のようであったが・・・。茅ヶ崎在住の学友も成就院を訪ねて「㐂(よろこ)びを重ねて舞ふや宵の春 はん女」と。「はん女」とは「武原はん」氏ではないかと、これも学友から。「樹木のお墓」案内。墓地。五輪塔。ハナズオウ(花蘇芳)。象の置物。そして満開の「なんじゃもんじゃ」の木。明治時代、東京の青山練兵場(今の明治神宮外苑)の道路沿いにこのなんじゃもんじゃの木があり、名前がわからなかったので「何の木じゃ?」とか呼ばれているうちにいつのまにか「なんじゃもんじゃ?」という変わった名前になってしまったのだと。 「何でふ物ぢゃ」→「なんじゅうものじゃ?」 →「なんじゃもんじゃ?」と。本種は小葉を持たない単葉であることから『ヒトツバタゴ(一つ葉タゴ)』の和名がある。モクセイ科の植物。ズームして。プロペラ型の白い花。すぐ散ってしまうのだと。「本堂」前には接ぎ木ではなく「実生(種)」から育てた多くの苗木が並んでいた。「ハンカチの木」は花が終わっていた。「寺事務所」、「墓苑管理事務所」。「五輪塔」「阿闍梨 光全 不生位」と刻まれていた。光全和尚の供養塔のようだ。三界万霊塔他。樹木葬の墓地。「本堂」を見下ろす。「敬愛の陵」。「聖観世音菩薩像」。お顔をズームして。「樹木葬、樹木のお墓」を見る。そして通常の墓地。富士山の姿は見えなかったが、大山の姿は見えたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.29
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次香川7丁目2−1にあった「道祖神」を後にして「遊水池」まで戻り、「遊水池」の先を西に折れて進む。次に訪ねたのが「曹洞宗 玄珊寺 ( げんさんじ )」。神奈川県茅ヶ崎市香川2丁目27−24。道路の角にあった「供養塔」。右側面には「萬霊塔」、左側面に「禁葷酒」と刻まれていた。裏面には「天明三癸卯十一月 施主観音講中」と。「玄珊寺 」の正面に。山号は「香川山」。「六地蔵」。歴史を感じさせる石仏は弘法大師像であろうか。「御詠歌碑相模國 新四國八十八ヶ所 弘法大師第五十五番札所御詠歌伊予の海 三嶋の神の みづかきを にほふ香川の うつしくみけり」「お姫子育て地蔵」。「お姫子育て地蔵元文三年(一七三八年)当時の領主、本間家十代季元忠左衛門が早世した娘の菩提を弔うために造立したもので、当時よりお姫地蔵とも呼ばれていました。いつしか子供を守る子育て地蔵としても親しまれ現在に至っております。」「お姫子育て地蔵」。寺務所。「本堂」。宗派:曹洞宗開基:開山宗賢院四世の長厳創建:天正9年(1581)本尊:釈迦牟尼仏(お釈迦様)曹洞宗 香川山玄珊寺 ( げんさんじ )は、天正九年(1581年)、現在の 茅ヶ崎市 香川の地に創建された。開山は冷室長厳(れいしつちょうごん)大和尚、藤沢市大庭にある宗賢院の第四世住職であった。開創当初は禅修行のための草庵であったと想像される。天正十二年、当地の地頭であった本間李忠(ほんますえただ)候が長久手の戦いで戦死し、その菩提を弔うため、伽藍をたて、寺領を寄進した。李忠候の戒名は「金剛院殿樹心玄珊居士」、現在は本堂裏手の墓地に本間家の墓所がある。ちなみに、玄珊寺本堂は西向きというめずらしい建て方がされているが、これは合戦の地であった長久手を望んでいるためと伝えられている。当時より香川の村は平坦で田畑多く、その村の中心地に建てられた玄珊寺は、村の名前がそのまま山号になるほどに村と寺の結びつきが強かったようである。正面左に安置されているお姫子育て地蔵尊は、元文三年(1738年)、本間家10代季忠元左衛門が早世した娘の菩提を弔うために造立したもので、当時よりお姫地蔵と呼ばれていた。以来子供を守る子育て地蔵としても親しまれ、今でも多くの方に参詣されている。内陣。ご本尊: 釈迦牟尼仏。「晋山結制法要 令和四年五月二十九日厳修」と。「晋山式」とは、新しく任命された住職の正式な就任式であり、また、「結制法要」とは新住職が最高の法階である大和尚の位に就くための儀式である と。先代の「本堂」の鬼瓦であろうか。石庭には、狸の置物が鎮座。親子連れ?「本堂」前から境内を見る。境内は管理された芝生で覆われていた。寺務所であろうか。「玄珊寺」を後にして「香川小学校」の通学路を南東方向に進む。民家の庭のツツジの八重咲きが美しかった。その先にあったのが「日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会」。神奈川県茅ヶ崎市香川1丁目34。「日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と。十字架の見える位置から。掲示板主日礼拝:毎日曜日 午前10:15~11:30湘北地区ボランティアセンター。「当センターは湘北地区社協が運営しています。湘北地区にお住いの65歳以上の一人暮らしや高齢者世帯の方、病気がちの方、アクシデントでお困りの方などが、手助けがほしいときに、当センターに登録したボランティアがサポーターとしてお手伝いします。」と。左手に「松風台南公園」。神奈川県茅ヶ崎市松風台3−9。茅ヶ崎市甘沼の住宅街を次の目的地の「成就院」に向かって進む。住宅街には、1本のツツジの木に様々な色合いの花が。ツツジの花の特徴とも言えるのが、いろいろな色の花を一本の木から咲かせること。そして正面に「成就院」が姿を現した。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.28
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次4月28日(木)に「茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る」の3回目、茅ヶ崎市内のJR相模線の東側で松林通りの北側、そして室田1丁目、高田1丁目を歩いて来ました。この日も6:10に自宅を自転車で出発し最寄りの小田急線の駅に向かう。途中にある民家の藤の花が満開であった。毎年、手入れも行き届き、美しい花を楽しませてくれるのです。「万葉集、金槐和歌集、源氏物語だけでなく、藤の花を詠んだ俳句や短歌は、とても多く残されています。また、日本に多い苗字として、藤田・佐藤・加藤・伊藤など、藤が付く名字が多いです。これは、平安時代に栄華を極めた藤原氏の影響と言われています。藤は、名門藤原氏のゆかりの漢字でもあるのです。」とネットから。そして我が現住所と名前に「藤」がそれぞれに。そして6:25発の電車で藤沢駅に向かう。そして藤沢駅、茅ヶ崎駅で乗り換え、JR相模線の香川駅で下車しこの日の散策をスタート。下の写真は1981(昭和56)年の「香川駅」前の広場と商店。「相模鉄道」は1921(大正10)年に茅ヶ崎~寒川間で開業し、茅ヶ崎町(現・茅ヶ崎市)内には「香川駅」も置かれた。その後、茅ヶ崎~香川間には、1932(昭和7)年に「円蔵駅」、1940(昭和15)年に「日東駅」、1941(昭和16)年に「香川台駅」と3駅が設けられたが、戦時中の1944(昭和19)年、国策により「相模鉄道」は国有化され国鉄(現・JR)相模線となり、この際に「円蔵駅」と「香川台駅」が廃止、「日東駅」が「北茅ヶ崎駅」に改称となった。 【https://smtrc.jp/town-archives/city/chigasaki/p03.html】より最初に訪ねたのが、香川駅の西側の路地の角にあった「小祠」。朱の鳥居には「正一位」の文字が。神奈川県茅ヶ崎市香川4丁目48−16。「正一位稲荷大明神」。小さい稲荷神社にも最高位「正一位」を名乗ることを、鎌倉時代の天皇・後鳥羽天皇が許可を出してしまった為であると。後鳥羽天皇が稲荷神の本社である伏見稲荷大社を訪れた時に、分霊先でも正一位を名乗ることを許可してしたのだと。ちなみに分霊は日本全国で3万社ほどあるとのこと。そしてJR相模線まで引き返し、踏切を渡る。「香川踏切3 K 2 8 5 M茅ヶ崎市香川字南744-2」踏切からJR相模線の「香川駅」の単線のホームを見る。80mほど進み、左側の「神奈中タクシー(株) 茅ヶ崎営業所」の前にあった「稲荷社」を訪ねた。神奈川県茅ヶ崎市香川6丁目4−3。「神奈中タクシー(株)茅ヶ崎営業所」の安全の守り神なのであろうか?直ぐ先の路地の角を左折すると直ぐ右側にあったのが「殿内道祖神」。神奈川県茅ヶ崎市香川6丁目3。石祠(流れ造)道祖神には「奉納 殿内氏子中 貳(二)百年祭 昭和四拾六年五月」と。後ろが旧世代・1772年 (安永元年)の石祠(流れ造)道祖神。旧世代の後ろにも大量の五輪塔の部位が。位置的にこれが一番古い世代のものなのであろうか。祠の中には「殿内道祖神」と。「殿内道祖神」の銘。茅ヶ崎市香川6丁目の住宅街を東に進む。民家の庭に咲いていた「オオデマリ」の花。「オオデマリ」はヤブデマリの花(ガク咲き)が、すべて装飾花(手まり咲き)になったもので、英名はジャパニーズ・スノーボール(Japanese snowball)と言うと。手入れの行き届いた生け垣の前を進む。右折すると左手にあった石碑。神奈川県茅ヶ崎市香川2丁目24。「念徳碑」と書かれているのであろうか。「三𫞏大五郎氏ハ安政四年十一月五日三𫞏清兵衛氏二男二生ニ十七歳ノ時横濱ニ志ヲ立出郷明治二十三年四月一日獨立シテ銅鐵商ヲ開業累年盛大〇〇◯常ニ敬神ノ念厚く大正四年天水桶大正十丑年火見櫓大正十年鳥居奉献大正十二年震災に倒潰スルヤ再建維持費奉納セラル昭和三年社殿改築ニ當リ銅板ヲ寄進昭和十三年敷石奉献ト共ニ石段ノ修理ヲ寄進セラレ之レガ為ノ境内ノ荘嚴ヲ加ヘタリト謂ウベシ其ノ篤行常ニ郷党ノ渇仰スル所謙譲ノ徳ヤ世ニ範ク此処ニ建碑シテ永ク徳行ヲ表スモノナリ」そして「香川諏訪神社」の入口の石段が現れた。社号標石、由緒案内板を見る。社号標石「指定村社 諏訪神社」。「由緒一 創建 推定平安朝時代一 社號 相模國大庭庄河村総鎮守 諏訪大明神(後神社)一 祭神 建御名方神(大國主神)一 例祭日 一月一日 元旦祭 二月十七日 祈年祭 七月二十七日 大祭 八月十四日 夏越祭 十一月十五日 七五三祝式 十ー月 二十三日 勤労感謝祭 十二月三十日 大祓」鳥居に向かって石段を上る。正面に「拝殿」。社務所。「諏訪稲荷神社」。立派な石の台座の上に境内社「諏訪稲荷神社」が鎮座。三猿像を彫った庚申塔ではごく初期のものであると。近づいて。「庚申塔」碑。「神輿舎」。「神楽殿」。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。「香川諏訪神社」の「拝殿」。「香川の地名の由来は皇国地誌に「遠い昔、隣の下寺尾村に咲く梅の香が、小出川の流れに乗って漂ってきたことによる」と記載されている。同誌に、信濃国の一之宮で元官幣大社であった諏訪大社の御分社として1589年(天正17年)に勧請したといわれている。1842年(天保12年)相模国の地誌新編相模国風土記稿によると、高座郡大庭庄香川村の項目には、当山修験普賢寺(現在の香川五丁目付近にあった寺院)の別当寺と名を記載されている。明治維新の神仏分離令により寺を分離する。信濃の諏訪大社に上社下社があるように、香川字篠谷(現在のスリーハンドレッドクラブ付近)に上諏訪神社、香川字東(現在の香川二丁目)にも下諏訪神社があったが、1875年(明治8年)7月に上社を下社に合祀されたのが現在の諏訪神社である。合祀前は、上諏訪神社と下諏訪神社が1年交代で例大祭を執り行っていた。祭神は上社が建御名方神、下社が八坂刀売神で古来旧香川村の総鎮守として農耕生産、開運招福、交通安全の守護神として崇敬され、氏子の信仰が篤く住民のより所となっている。ちなみに上諏訪神社跡には1935年(昭和10年)に建てられた旧跡碑がある。今なお「上の諏訪」といって住民に親しまれている。戦前までは、神仏習合の名残で釣鐘があったが、戦時中、鉄が不足したため撤去されたこともあった。」とネットから。「香川諏訪神社御祭神 建御名方之神(タケミナカタノカミ) 八坂刀賣之神(ヤサカトメノカミ)例祭神 一月一日 元旦祭 二月十七日 祈年祭 六月第一日曜日 例大祭 七月 (海の日) 浜降祭 八月十四日 夏越祭 戦没者慰霊祭 九月三日 諏訪稲荷神社例祭 十一月十五日 七五三祝式 十ー月 二十三日 勤労感謝祭 十二月三十日 大祓」扁額「諏訪大神」。「拝殿」の彫刻を追う。木鼻(右)。木鼻(左)。御神木。境内社。「神輿舎」の屋根越しに「本殿」の屋根を見る。境内を振り返って、「香川諏訪神社」を後にする。そして次の目的地に向かって香川6丁目と香川2丁目の境の道を北上する。右手にあったのが遊水池。茅ヶ崎市みずき4丁目18。その先にあったのが「道祖神」。神奈川県茅ヶ崎市香川7丁目2−1。銅葺き屋根の、凝った造りの祠であった。左に五輪塔の残欠多数。フラッシュで。勘重郎堀を開削した香川村名主・三橋氏の名前他が多数書かれていた。内陣には、「双体神祇道祖神」が鎮座していた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.27
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久々の趣味の養蜂のブログアップです。春先は越冬した3群からスタートしましたが、その後順調に群勢を強め人工分蜂にて3群を増やしている途中で、現在は合計6群になっています。人工分蜂とは王台(女王蜂が育っている、働き蜂より数段大きい巣部屋)の付いた巣板と働き蜂を別の巣箱に移動し新たなFAMILYを誕生させることなのです。働き蜂も元気に動き廻っていました。蜜も集まり始めています。働き蜂によって、蜂蜜(ハチミツ)の濃縮が終わると、自ら白い蜜蓋をして保管します。蜜蓋の場所をズームで。黄色い蓋は、女王蜂が卵を生んだ部屋に蓋がされているのです。女王蜂はメスである働きバチの卵を産むときには、卵を産み落とす直前に体に貯めておいた精子を送り出して受精させます。働きバチの幼虫には、最初はローヤルゼリーとあまり変わらない食事が与えられますが、幼虫がどんどん大きくなりはじめる3日目頃には食事に花粉や蜜が混ざりはじめます。食事の違いから幼虫の期間も女王バチが5.5日であるのに対し、働きバチは6日ほど。サナギの期間もそれぞれ7.5日、15日程度です。その後羽化して成虫となった働きバチは、掃除や子育てなどの仕事をするようになります。所々にポツンと巣蓋の無くなっている場所もありますが、ここは既に蜂児(蜂の幼虫)が誕生した場所。写真の中央に女王蜂を発見。卵を生む「巣房」を探しているようでした。こちらが別の巣箱の女王蜂。巣枠を引き上げる前に燻煙器で煙をミツバチに吹きかけます。煙を吹きかけることによって、一時的に蜂が大人しくなるのです。新たな巣礎も入れておきましたが、既に巣を盛り上げ巣坊が出来始めていました。右上がっ「巣礎」の状態、左側が働き蜂が六角形の「巣房」を盛り上げた場所。「巣礎」は、蜜蝋の薄い板の両面に六角形の刻印が連続でしてありそれに沿って蜜蜂が「巣房」を完成させていきます。「巣房(すぼう)」は六角形の「巣礎」の上に約1cm以上に盛り上げた1つの房(部屋)。ここはハチミッ、花粉の保管庫そして卵から蜂児への「育児室」なのです。「ムダ巣(無駄巣)」が作られている巣箱もあった。「ムダ巣」とは、巣枠外の場所に作られた巣の事を言います。ミツバチの造巣が盛んな時期(春と秋)によく見られます。巣枠外にある巣は管理できず百害あって一利なしですので早めに除去しなくてはなりません。「ムダ巣」を放置すると、どんどん大きくなり除去が面倒になっていきます。 また、「ムダ巣」に作られた王台は発見が難しく分蜂の原因にもなるのです。この日の「ムダ巣」。出来立てホヤホヤの真っ白の「ムダ巣」。こちらは少し日時の経った「ムダ巣」。そして1時間ほどでこの日の6群の内検が終了しました。 ・・・END・・・
2022.05.26
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次そして「大岡越前通り」を先程訪ねた「妙伝寺」の角まで戻る。この先を左に入り南に向かって暫く進むと右手に「堤貝塚」案内板が。写真左のフェンス下が堤貝塚の東斜面。「堤貝塚(十二天A遺跡)この台地(海抜30m~34m)には貝塚を伴う縄文時代の集落跡があります。貝塚は台地の両佩にあって、東側の貝塚(本説明板前)はこの台地縁辺に接した斜面にのこされたもので、過去、昭和十三年、十四年に調査されています。西側のものは台地の平坦部から斜面へかけてのこされており、この貝塚の台地平坦部の一部は昭和三十四年、三十七年に調査され、台地の中央より東に寄った所から竪穴住居跡(後期・堀之内Ⅱ式期、三千五百年~三千年前)一基が見つかっています。また斜面の貝層下から大型の石囲いが、竪穴住居跡が見つかり、さらに五十七年には既存の道路下にも貝層が確認されています。貝塚をつくっているものは、大部分がダンペイキシャゴという巻貝で、ほかにはハマグリ、バイ、ツメタガイなどがふくまれ、そのほか魚骨(マダイ、カツオ等)、獣骨片(イノシシ、ニホンジカ、イヌ、サル等)などが見られました。ここからの出土品は市文化資料館(中海岸ニ丁耳)に展示されています。」「茅ヶ崎市指定史跡 堤貝塚(東斜面貝塚)貝塚の時代 :縄文時代後期( 3500年前頃)立地 :北に伸びる尾根の東側斜面 海抜約30m所在地 :茅ヶ崎市堤字十ニ天1467番1貝の種類 :ダンべイキサゴが主体、他にハマグリ、ツメタガイ ワスレガイ、バイガイなど伴出遺物 :縄文土器(堀之内Ⅰ~Ⅱ日式土器を主体) 骨角器(鯨骨製品、釣り針など) その他、サルボウ製の貝輪など・昭和13年、14年に考古学者の赤星直忠博士によリ発掘調査された 茅ヶ崎市では最初の考古学調査地点でもあリます。 貝塚は斜面に造られた竪穴住居跡に残されていました。 平成27年6月1日に茅ヶ崎市の史跡に指定されました。」航空写真「堤貝塚と十二天古墳群」。◯の位置が堤貝塚、◯▢が「十二天古墳群」。 【http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/kouhou/khf120210/hiroba01.html】より里山の奥の細道に入ると、「堤十二天古墳群」の円墳と前方後円墳の2基の高塚古墳の案内板・案内柱があった。「堤十二天古墳群 茅ヶ崎市堤字十二天ここに見られる二つの高塚は古墳時代後期(六、七世紀)の古墳です。これらの存在はかなり以前から知られていましたが、その実体は不明でした。昭和五十年三月に行った調査の結果、南の一基は、その外形とすそ部をめぐる周溝の形(長方形)から前方後方墳(全長約30m、巾約15m、墳頂部の高さ標高39.5m)と考えられています。北の一基は円墳(径約20m、墳頂部の高さ標高36.9m)です。二基の墳丘は北に向かって緩やかに傾斜する尾根上の台地に、自然の地形を利用して、約19メートルの間隔で造られています。これらは墳丘の規模からみて、茅ヶ崎市北部を中心とした小領域を支配する中・小首長(豪族)二世代の墓と考えられます。」これが径約20m、墳頂部の高さ標高36.9mの円墳であろう。全長約30m、巾約15m、墳頂部の高さ標高39.5mの前方後方墳。古墳の奥には、長い墳丘が続き、古墳時代の様子が保存されていた。元の道まで戻ってさらに進むと、このテニスコートのある場所が「堤貝塚」👈リンク の一部であると。テニスコートの管理事務所の前に案内板が2枚設置されていた。「神奈川県指定 堤貝塚平成四年二月十四日 指定指定地面積 五百平方メートル本貝塚は茅ヶ崎市堤字南谷及び十二天に所在する縄文時代後期前半の貝塚で、小出川の一支流に北面する標高三十数メートルの舌状台地の基部に立地しています。この台地の平坦部を挟んで東西両斜面に貝塚が残されています。指定地は、西側の貝塚の一部で、貝層は南北三十五メートル×東西十メートル程の広がりをもっているものと思われます。東側の貝塚は昭和十三年と十四年に貝層の試掘調査が行われました。西側の貝塚は、昭和三十四年に貝層の試掘調査が、三十七年には平坦部を含めた発掘調査が行われ、平坦部の東寄りに竪穴住居跡が一軒発見されました。また、昭和五十四年には貝層の範囲確認のため、平坦部の西側と指定地内の一部が発掘調査され、貝層及びその下に竪穴住居跡、石囲い炉が確認されました。さらに昭和五十七年の調査では、指定地東側の道路下で貝層が確認されています。貝層は台地縁辺から斜面にかけて堆積し、ダンベイキサゴを主としてバイ、ツメタガイ、アカニシ、サザエ、ハマグリ、カキなどの貝類や、サメ、マイワシ、ボラ、カツオ、スズキなどの魚類の骨、イノシシやニホンジカなどのホ乳類の骨も出土しました。相模湾沿岸には縄文時代にいくつかの貝塚が形成されましたが、今日まで残っているものは数少なく、本貝塚はそのひとつであり、貝層の規模も大きく、保存状態もおおむね良好で、当時の人々の生活を知るうえで極めて重要かつ貴重な遺跡であります。● お願い この史跡の現状をみだりに変更したり、荒らしたりしないで、大切に保護して下さい。」「堤貝塚ここから出土した主な動物(骨)哺乳類 イノシシ・ニホンジカ・ニホンイヌ・サル・マイルカ魚類 タイ類・カツオ・サメ類・トビエイ・マイワシ・ウツボ・ボラ・ブリ・スズキ・メバル ・・・貝類 (巻貝)ダンベイキサゴ・バイ・ツメタガイ・アカニシ・サザエ (二枚貝)ハマグリ・カキ・シジミ」出土した土器・深鉢。堤貝塚は、縄文時代後期(約3500年前)の遺跡である。規模が大きく、保存状態も良好な貝層が今も地下に残っており、神奈川県でも有数の貝塚として平成4年に県指定史跡となった。この貝塚を残したムラは大規模と考えられ、当時の生活を知る上で、とても貴重な遺物群が多量に含まれていることが分かった。貝塚はダンベイキサゴが主体で、バイやカキの他、鹿角(ろっかく)製のモリや釣針、魚骨、イノシシやイルカなどの獣骨類が出土した。また石斧、木の実などをすりつぶす石皿や磨石(すりいし)、網の重りにする石錘(せきすい)や土錘(どすい)なども多く出土した。この土器は、昭和37年の調査で発見された堀之内1式期の特徴をもつ朝顔形の深鉢で、考古学の概説書などにも同時期の典型として紹介されてきた。茅ヶ崎の縄文時代を語るには欠かせない土器であり、考古遺物としては初めて重要文化財に指定された。土器の文様は、外面の上半部を鎖状の隆帯で区切り、S字状の渦巻き紋が棒状具で丁寧に充填(じゅうてん)されている。文化資料館に常設展示されている。しかし、文化資料館は現在休館中なのである。「十二天社」。神奈川県茅ヶ崎市堤1486。テニスコートの管理事務所の横を通り「小出県道」に向かって坂道を下っていくと、右手に小さな「稲荷社」があった。朱の鳥居が鮮やか。中には狐様が数体。そして「小出県道」を渡り「堤 南久保の道祖神」も訪ねた。神奈川県茅ヶ崎市堤2515。社の中の地蔵様。「文字道祖神」。そして「双体道祖神」。道祖神であっただろうか?茅ヶ崎市堤3084。そしてこの日の予定を無事に全て完了し帰路に。近くの神奈中のバス停「長谷戸」から小田急線・湘南台駅へ向かうこととする。これも当初の予定どおり。バスの時間は、この日は日曜日であったので湘南台西口行きの16:25。5分ほど遅れて到着。そして小田急線・湘南台駅で乗り換え。17:30に帰宅。折しも南東の空には虹の姿が。久しぶりに虹を見たのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.26
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「小出県道404号線」を横断し直進する。右手にあったのが「茅ヶ崎市消防団17分団」。神奈川県茅ヶ崎市堤2381−1。更に東に進むと、左手奥、階段の上にあったのが「羽黒大神」。「羽黒大神」の「社殿」。「社殿」内部の石祠が「羽黒大神」。そして「大岡越前通り」に戻り東に進むと、右手にあったのが「妙伝寺」。「山門」手前の右手に天保9年 (1838) 銘の万霊塔が立っていた。神奈川県茅ケ崎市堤1032。「山門」に向かって石段を進む。左手に「掲示板」。「けわしき山 あしき道 つえをつきぬれば たおれず」と。=一人で抱え込まないで= 針に糸を通すのは中々大変です。針を固定して糸の先を穴に通していたら、「糸を固定して針を動かすほうが通しやすいよ」と、助言してくれる人がいました。それ以来この方法で糸通しをしていましたが、細い針金を使った糸通しの道具を見つけました。これは便利です。糸通しひとつにしても、やり方は色々あるものです。人生の様々な場面においても、解決策は一つではないと思います。自分一人では困難なことも、他の力を借りれば乗り越えられる方策が必ず見つかります。一人で抱え込まず、肩の力を抜いて、他に頼ることも時には大切なことではないでしょうか。日蓮聖人ご遺文 『弥源太殿御返事』 日蓮聖人の有能な外護者、北条弥源太入道に与えた書状です。書中、聖人は法華経を諸仏発心の杖とたとえられ、弥源太入道に「日蓮のことも杖や柱と思って頼ってください」と呼びかけられます。入道が聖人に従って法華経を信じるようになったのは不思議の因縁であるとして、いよいよ信心強くしたならば霊山浄土のみ仏のもとに導いていただけることと諭されています。文永11年(1274) 聖寿53歳「山門」の扁額は「妙傅寺」。「手水舎」。「山門」の左手にあった「鐘楼」。そして正面に「本堂」。日蓮宗 歓照山 妙伝寺。文禄元年(1592年)に、日安を開山として草創されたといいます。山門前には天保9年(1838年)銘の万霊塔があり、境内の墓地入口右手には、昭和31年(1956年)に建立された「長閑さや 群盲の象を評しける」と刻まれた、村井湖月庵の句碑が。茅ヶ崎北部の丘陵地帯のふもとにあり、境内の楷(かい)の木は「学問の木」として有名。小出七福神の毘沙門天(交通安全・財宝富貴)も祀られていた。「日蓮聖人像」。祈るお姿。「本堂」の扁額は「歓照山」。「本堂」内部に入れて下さいました。「日蓮上人」のお姿が。右側に「鬼子母尊神」の祭壇。そして左側に相州小出七福神「毘沙門天」。近づいて。「毘沙門天」。ズームして。左手に宝塔、右手に宝棒を持ち、甲冑に身を包んだ勇ましい姿の神様。もとはインドの財宝福徳を司る神だったと。日蓮宗の寺院の御朱印が掛け軸になっていた。ズームしたがいずれもピンボケ。「南無妙法蓮華経」塔。「句碑」。「長閑さや 群盲の象を 評しける」昭和31年(1956年)に建立された村井湖月庵の句碑であると。『多くの盲人が象をなでて、自分の手に触れた部分だけで象について意見を言う意から』凡人は大人物・大事業の一部しか理解できないというたとえ。群盲象を撫 (な) ず。群盲象を模 (も) す。群盲巨象を評す と。つまり・視野の狭い者が多く集まり、銘々の観点から理解したことを述べ、結果として物事の本質が 見失われている状態の喩え。・視野の狭い者は、いくら集まったところで、本質を理解することは難しいと言うこと。 また、小人物はスケールの大きな人を理解することができないと言うこと。「水子地蔵堂」。台座には、「普明照世間」。堂内には多くの塔婆が立つ。「妙法水子地蔵菩薩」碑。「水子地蔵菩薩像」。「慈照殿」と。斜めから。墓地の最奥、四阿の先にあった永代供養墓「のうこつぼ」。墓地から「本堂」を見る。次の目的地の「天満威徳天神」に向かって茅ヶ崎市堤の坂道を北方向に上って行った。そして右手に折れて坂道を下っていくと、左手の高い場所に社殿が見えた。正面に「天満威徳天神」。神奈川県茅ヶ崎市堤890-2付近。社号標石「天満威徳天神」。「平成八年拝殿境内石垣積再建」とあった。「社殿」。菅原道真公をお祀りしているのであろう。「内陣」、「本殿」のお姿は確認出来なかった。そして次に訪ねたのが「稲荷社」。小さな「稲荷社」。神奈川県茅ヶ崎市堤。「社殿」には大きな丸石が置かれていた。そして「八王子神社」に向かって進む。美しいツツジの花が迎えてくれた。そして路地の角に「八王子神社」の石鳥居が左手に見えた。神奈川県茅ヶ崎市堤507付近。石段の横には小さな石祠・道祖神があった。前方に石鳥居。そして小さな「社殿」が現れた。「文字庚申塔」(右)と「奉納 石灯籠」と刻まれた石碑(左)。「社殿」。多くの御祭神と。■八王子命(はちおうじのみこと) アマテラスがスサノオと誓約した時に生まれた五男(天照大神側)三女(須佐之男命側)の 神々のこと。 ・天忍穂耳命(あめのおしほみみ) 天照大神の左のみづらにかけられた珠から化生した神、出雲の国譲り一番目に派遣され 出雲への降臨を取りやめた神、ニニギの父神、稲穂の神、農業神 ・天穂日命(あめのほひ) 天照大神の右のみづらにかけられた珠から化生した神、菅原家の祖神、出雲の国譲り 二番目に派遣され大国主命に寝返った神、出雲国造、武蔵国造、土師連の遠祖にあたる神、 農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神 ・天津彦根命(あまつひこね) 天照大神の首の珠から須佐之男命の左腕に化成した神、多くの氏族の祖神/天皇家に忠誠を 誓った氏族 ・活津彦根命(いくつひこね) 天照大神の左手にかけられた珠から化成した神、太陽の神、繁栄の神 ・熊野樟日命(くまのくすび) 天照大神の右手にかけられた珠から化成した神、火の神、紀州・熊野三山の本源とされる神 ・宗像三女神(むなかたさんじょじん) 須佐之男命の剣から化成した神、海上守護、航海安全の神、水の女神、財宝の神、学芸/芸能 美の神御利益 商売繁盛、五穀豊穣、海上安全、安産祈願、家内安全 他 [対応業種]繊維業/衣料業内陣。「八王子神社」の前は「市民の森」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.25
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「浄見寺」を後にして東に向かって進む。道端には「山吹(ヤマブキ)」の花。「ツルニチニチソウ(蔓日々草)」。そして「堤神明谷の道祖神」。神奈川県茅ヶ崎市堤4276−3。「道祖神」碑。「明治三庚午年正月吉祥日◯下」の文字が。右隣に「双体道祖神」。そして次の目的地の「正覚院」に向かって進む。ミツカドネギであっただろうか?白い花弁に淡いグリーンのラインが印象的。西洋ミツバチの姿が。ピンクの椿の花。近づいて。道路脇にあった社。中には地蔵尊が。台座には先祖?供養の文字が。「安永九年 (1780)子十一月日」の文字が。そして「大岡越前通り」に出て東に進む。左手前方に見えてきたのが「正覚院」。「正覚院」の入口に到着。神奈川県茅ヶ崎市堤3681−1。寺号標石「堤源山 正覚院」。「正覚院檀徒駐車場寄進芳名」碑。山門の手前両脇に大きな石仏。「布袋尊」。大きなお腹に幸せな笑顔になれる布袋様の石像。布袋様は不老長寿と無病息災の神様。「延命地蔵尊」。「布袋尊」の後ろにあった「高座郡南部地蔵尊札所」碑。相模国高座郡南部地蔵二十四札所の第2番そして相州小出七福神巡りの布袋尊の札所。朱に塗られた「山門」。扁額「堤源山」。山門を抜けると右側にあったのが「六地蔵」。「為禅徳院悟友宗顕居士菩提」碑。六地蔵を奉納された方の名前の刻まれた石碑。稲荷神社であろうか?社殿。水子地蔵尊であっただろうか。お顔をズームして。「嗚呼九月一日」碑と石仏。「嗚呼九月一日」碑。正面の左下には小さく「名月書」と。大正12年9月1日11時58分。 相模湾沖を震源として、大きな地震があった。ここ茅ヶ崎も、関東大震災で大変大きな被害を受けた。この石碑は、ここ堤の「正覚院」にある十三回忌の供養碑。よって1935年(昭和13年)頃の建立であろう。裏面には「大正十三年大震災 殃死者十三回忌」の文字。以下犠牲者?と見られる五人の名が刻めれていた。最後に「伊藤養山建之」とあった。更にその脇に「◯・・・・一日・・・・言◯政司作」と碑の製作日付と製作者が刻まれているようであったが解読不能。養山は寺の29世上人とのこと。石仏に近づいて。足下にも多くの石仏が囲むように。「十三重石塔」。「本堂」裏の墓地を見る。そして「本堂」。宗派 曹洞宗開山 決翁和尚創建 17世紀本尊 釈迦如来先代本堂は、明治期に修験道場として利用されていたという。扁額「正覺院」。「布袋尊」の大きなお腹、笑顔を振り返りながら「正覚院」を後にする。次に訪ねたのが「大岡越前通り」を左に入った場所にあった「堤 仲谷の道祖神」。神奈川県茅ヶ崎市堤3412-3。「八幡神社舊跡」碑。この場所に「八幡神社」があったのだろうか。石祠(流造)。その右に三基の石碑が並ぶ。右側の道が「古道」なのであろう。左から「文字庚申塔」。「角柱文字道祖神」明治二(1869)年と。「馬頭観世音」「馬持中」の銘は「馬を所持している人々の集まり」であると、学友から。そして茅ヶ崎市堤地区の住宅街を進むと左手にあった旧家の門。そして小出県道404号線の民家の庭にあった神社。民家の為、中にはいれず道路脇から。稲荷神社のようであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.24
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「本堂」前から「浄見寺」の境内を振り返る。正面に大岡忠相の墓地への石段、そして右手に「六地蔵」が。「本堂」前を左に入り、枯山水の庭に向かって進む。入口の石仏(右)。入口の石仏(左)。後ろにはアセビの花が。右側には白砂の庭が拡がっていた。白砂に描かれた模様のことを「砂紋(さもん)」または「箒目(ほうきめ)」といい、水の流れを表しているのだ。水紋(すいもん)はー滴の水が落ち、そこから広がる波紋を表現しているのだと。「旧三橋家住宅」の方向から。ツツジも輝きを増して。そして芍薬の花も開花。近づいて。モミジも春に赤く変身。墓地への石段を上って行った。石段の途中から「本堂」を振り返る。日本庭園の中にある石段を更に上る。そして大きな墓地が拡がっていた。大岡越前守一族墓所の南側を見る。大岡越前守一族の墓石が並ぶ。再び大岡家の「歴代当主」を。一番左に「十四代 慈徳院殿 忠輔」の墓。三河西大平藩大岡家第十四代当主。「大岡裁き」で名を馳せ、後に時代劇で「大岡越前」として人気を博した大岡家5代当主で、西大平藩初代藩主の大岡忠相とは名前が同音異字の別人物である。1924年〈大正13年〉誕生 - 2018年〈平成30年〉12月14日没は、日本の実業家。三河西大平藩大岡家第14代当主。味の素グループのクノール食品の元社長と。「十二代 賢性院殿 忠明」と「十三代 誠徳院殿 忠綱」の墓。大岡忠明は安政四年(1857)五月二十六日誕生。19歳で夭逝。大岡忠綱(1894年(明治27年)3月17日- 1948年(昭和23年)5月4日)は、大正から昭和期の銀行家、政治家、華族。貴族院子爵議員。「十二代 賢性院殿 忠明」と「十三代 誠徳院殿 忠綱」。「十一代 謙徳院殿 忠敬」の墓。文政11年(1828)生誕、明治20年(1887)死没。幕末には当初は佐幕派に属したが、鳥羽・伏見の戦い以後は小藩故に多勢に無勢であり、新政府軍に帰順して挙母藩や田原藩とともに輸送の任にあたった。明治2年(1869年)、版籍奉還により西大平藩知藩事に就任する。「十一代 謙徳院殿 忠敬」そして大岡忠相の墓に向かって、来た道を引き返す。六地蔵の前を通り大岡忠相の墓に向かって石段を上って行った。石段の上の両側に石灯籠。左側の石灯籠の後ろに「オハツキイチョウ」。右側の石灯籠。天然記念物「浄見寺のオハツキイチョウ」。葉の上にギンナンが接して結実する非常に珍しいイチョウの変種。大岡家の家紋がイチョウの葉を使用しているところから浄見寺の建立時に植えられたとされている。葉の上にギンナンが接して結実する非常に珍しいイチョウの変種であるとネットからの写真。 【http://blog.livedoor.jp/nonko0127/archives/55754372.html】より「浄見寺のオハッキイチョウ 昭和三十六年三月十四日 神奈川県天然記念物指定葉にギンナンが結実するイチョウの変種。昭和六十三年に行った年輪幅の調査から樹齢はニ百年前後と推定されていますが、並んでいるナギとともに、浄見寺の創建時に稙えられたとも伝えられています。浄見寺の寺林 昭和四十ニ年七月ニ十一日 神奈川県天然記念物指定相模野の自然樹林が少なくなっている中で、昔の樹林の様子を残す寺林として貴重です。スダジイ、タブノキなどの照葉樹か多く見られます浄見寺の大岡家一旋墓所 昭和三十六年ニ月十四日 茅ヶ畸市史跡指定浄見寺は越前守忠相で有名な大岡家代々の善提寺で、初代忠勝をはじめとする墓などが立ち並んています。天正十九年(一五九一)ニ代忠政は徳川家康からこの地、堤村を与えられ、その後慶長十六年(一六一一)に浄見寺を建立しました。」墓石の前には多くの句碑、歌碑が並んでいた。以下、学友が現地に出向き、解読して下さいました。「浄見寺 春めぐり来て 蘇へる 史蹟の墓に 大き公孫樹に(尓) あしかび」。句碑。「花守と(登) な(奈)らばや 月も(毛) 夜頃とて(天) 十八世鴫立庵芳如八十九」。 「物が(可)た(多)り かく(久)て幾世の 公孫樹の芽 九一」、飯田九一の句碑。「越前守 大岡公乃紋ところ 銀杏の実こそ 踏むに惜しけり 川田順」。「二代 頂源院殿 忠政」、「三代 源忠院殿 忠世」、「四代 真覚院殿 忠真」の墓。その奥に「五代 松運院殿 忠相」の墓」。ズームして。「二代 頂源院殿 忠政」、「三代 源忠院殿 忠世」の墓石。「二代 頂源院殿 忠政」。「三代 源忠院殿 忠世」。「四代 真覚院殿 忠真」の墓石。「四代 真覚院殿 忠真」。「五代 松運院殿 大岡忠相」の墓。8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、関東地方御用掛(かんとうじかたごようがかり)や寺社奉行を務めた。越前守だったことと『大岡政談』や時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現代では大岡越前として知られている。通称は求馬、のち市十郎、忠右衛門。諱は忠義、のち忠相。大岡忠相の法名は「松運院殿前越前刺史興誉仁山崇義大居士」。墓地の内部には入れないので「五代 松運院殿 忠相」の墓の正面からの写真をネットから。 【https://spice.eplus.jp/articles/300299】より3月17日(木)に大岡越前守・大石忠相の墓地に参拝する歌舞伎俳優の尾上松緑氏。 【https://spice.eplus.jp/articles/300299】より「十代 徳元院殿 忠愛」の墓。そして大岡忠相の墓地入口から「浄見寺」境内を振り返る。「大岡家一族墓参の方へ」と。石段を降りて再び「本堂」を見る。そして境内から「山門」を見る。「山門」を潜り直進し見上げると墓地の隅に無縫塔が並ぶ歴代住職の墓が見えたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.23
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次次に訪ねたのが江戸時代の奉行・大岡忠相(おおおかただすけ・大岡越前守)をはじめとする大岡家の菩提寺として知られる「浄見寺(じょうけんじ)」、過去にも何回か訪ねている寺であるが。「大岡越前守菩提所」碑。江戸時代の奉行大岡越前として知られる大岡忠相を輩出した大岡氏は、初代忠勝の三男である2代目当主大岡忠政の代に広忠の子徳川家康に仕え、家康の関東入国に従いここ高座郡堤村(茅ヶ崎市)に知行200石を与えられ本貫地とし、後には同郡の大曲村(寒川町)、高田村(茅ヶ崎市)を加え600余石となる。慶長16年(1611年)、大岡家2代目当主大岡忠政が、亡父の初代当主大岡忠勝を慰霊するために建立したのが、浄見寺の始まり。開山は深誉円察(一説に柴田勝家の子といわれる)。享保2年(1717年)に南町奉行となった大岡忠相は、翌3年に名主たちの意見も取り入れ、火消組合の組織化。享保15年(1730年)には、いろは47組を一番組から十番組まで10の大組に分け、大纏を与えて統括したと。大岡越前守墓提所と書かれた石柱の側面には彼が組織した町火消しの大纏の絵が刻まれていた。裏面には「各區仲好會」と刻まれた火消し関係団体からの奉納者の名前が刻まれていた。山門前の「掲示板」。「元祖 法然上人 御忌(ぎょき)」ポスター。法然上人滅後の大永四年(一五二四)正月十八日、後柏原天皇の詔勅により上人の御命日を特に「御忌」と尊称することとなったとのこと。令和四年度は四月二日(土)~七日(木)に増上寺で行われると。そして「四月大歌舞伎」のポスター 令和4年4月2日(土) 初日 ~ 27日(水) 千穐楽 《休演》11日【月】 19日【火】第一部 午前11時開演 通し狂言 天一坊大岡政談第二部 午後2時40分開演 江戸絵両国八景 一、荒川の佐吉 ニ、義経千本桜第三部 午後6時20分開演 一、ぢいさんばあさん ニ、お祭り 2022年4月2日(土)に歌舞伎座にて初日を迎える歌舞伎座『四月大歌舞伎』。第一部では、通し狂言として『天一坊大岡政談』が上演される。この度、尾上松緑氏が茅ヶ崎市・浄見寺大岡越前守の「墓参り」👈リンク をしたとのこと。 【https://spice.eplus.jp/articles/300299】より「本堂」に参拝する歌舞伎俳優の尾上松緑氏。 【https://spice.eplus.jp/articles/300299】より寺号標石「浄土宗窓月山源忠院 淨見寺」。裏には「宗祖法然上人八百年記念」と刻まれていた。寺号標石の後ろに立つ案内板。「浄見寺の弁才天坐像 昭和四十一年十月二十五日 神奈川県重要文化財指定 銅造弁才天坐像 一躯弁才天は音楽、財福などをつかさどる女神で、水とも深い関係をもつとされています。頭上に人頭蛇身の宇賀神をいただいた像高約十センチメートルの像です。鎌倉時代末期から室町時代にかけてのものと考えられますが、来歴は不明です。頭、体部をとおして一鋳とし、腕はそれぞれ別鋳として本体にほぞでとめてあります。それぞれの腕についていたはずの持ち物は宝珠のみを残し、また光背も失われています。弁才天像は二臂、八臂の像が多く、本像のような六臂像は大変珍しいものです。」浄見寺の六臂の「弁才天坐像」をネットから。像高11cmの小さな弁才天だが、銅造で六臂をもつ珍しい優品である。室町時代の作と考えられ、美術的にも優れたものである。 【https://ch.kanagawa-museum.jp/exhibition/5337】より「山門」。扁額「窓月山」。「山門」を潜ると右手には鐘楼があった。梵鐘。別の角度から。左手に手水舎。「法然像」。浄土宗では法然を元祖と崇めている。「旅立ちの法然さま」碑。浄土宗を開かれた法然上人は幼名を勢至丸といい、美作国(現在の岡山県)にお生まれになった。九歳の時父親の漆間時国公は夜討ちにあい、「仇を恨んではならない」と遺言した。勢至丸は父の菩提を弔うため母とも別れ、叔父の智鏡房観学が院主を勤める菩提寺に入り仏教を勉強した。「一を聞いて十をさとる」勢至丸の非凡な才能を早くから見抜いた智鏡房は、求道の志が篤いのを知り、さらに勉強を勧めるため、当時学問の(仏教)中心地であった比叡山へ旅立たせのだと。時は久安三年(1147)勢至丸十五歳の春のこと。この「旅立ちの法然さま」は、母と別れ一人比叡山をめざし旅立つ勢至丸の平和を求めるお姿を表すものである と。お顔をさらにズームして。大きな石碑。「贈従四位大岡忠相御廟宇塋域修築記念碑」ひたすら漢字が続いていた。「十三重石塔」が手水舎の先に。十二という数は、十二因縁、十二支を意味。因縁を超えた十三という数、宇宙の摂理である十二支、十二か月を超えた十三という不思議な数に因んだと。また十三は十三仏の最後、虚空蔵菩薩をあらわしているとされ、十三重の塔は虚空蔵菩薩をあらわすと。大岡家と浄見寺大岡家の始祖の地は三河国(現・愛知県)で、家系図には左大臣藤原教実の子孫とあります。鎌足を祖とする藤原氏の一族です。教実は京の九條に屋敷を構えたことから姓を九條と改め、後にその子孫が三河国の大岡に居を移して大岡を名乗りました。現在に続く大岡家の初代忠勝は、徳川家康の祖父にあたる松平清康ならびに父広忠に仕えて武勲を上げ、広忠より「忠」の一字を賜り、それまでの名を改めて忠右衛門忠勝としました。二代忠政は、天正19年(1591)5月3日に家康より相模国高座郡堤村を賜りました。その後、慶長16年(1611)に、三代忠世が父兄の冥福を祈るために窓月山浄見寺を建立しました。寺山号は初代忠勝の法名である「大綱院殿忠誉窓月浄見居士」に由来しています。以来、今日まで大岡家代々の菩提寺となっています。「大岡裁き」で有名な五代忠相は、享保2年(1717)2月3日に町奉行に就任し、官職名を越前守に改めました。町火消しの結成、小石川養生所の設置、物価政策などに尽力する一方で、多くの人材を登用しました。後に、寺社奉行に就任し奏者番を兼ね、加増によって一万石の大名となり、三河国西大平に陣屋を構えました。大岡家との縁により、西大平藩のあった愛知県岡崎市と浄見寺のある茅ヶ崎市は、昭和58年に「ゆかりのまち提携」を結び、現在においても様々な交流を続けています。歴代当主の系統図。「手水舎」、「十三重塔」、「旅立ちの法然さま」を見る。同じ場所から「本堂」を見る。「本堂」前の「慈母・水子水子観世音菩薩像」。「慈母・水子観世音菩薩」。観音菩薩像の左右に水子地蔵(右側)。観音菩薩像の左右に水子地蔵(左側)。「延命地蔵尊」。近づいて。「絵馬奉納場所」。こちらの正面には「大岡七宝紋」が。七宝は連続文様の『輪違い紋』から生まれた文様。輪が四方に広がるという意味から「四方」➡「七宝」になった。また、仏教では宝塔を飾る七つの宝玉が功徳を指すことから「七宝」も吉祥の紋とされる。大岡忠相の法名は「松運院殿前越前刺史興誉仁山崇義大居士」であることをこの位牌から以前に知ったのであったが・・・。今年の干支の寅の絵馬。達磨の絵馬。墓所入り口の階段の前に立つ「六地蔵」。赤い帽子の地蔵様に干支の石像が奉納されていた。そして「本堂」の前に。巾着袋の形をした賽銭箱。この形は宝袋型といい、江島神社の辺津宮にも同様なものがあったのでは。ここにも「大岡七宝紋」が。見事な龍の彫刻。「本堂」の扁額「浄見寺」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.22
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次そして次に「浄見寺」の山門の前にある茅ヶ崎市重要文化財・「旧和田家住宅」を訪ねた。「旧和田家住宅」案内柱。正面に「下寺尾廃寺(七堂伽藍)👈リンク の礎石」。下寺尾廃寺(七堂伽藍)の礎石ここに置かれている大きな石は、市内下寺尾に所在した古代寺院(七堂伽藍)跡から出土したものの一部で、当時のお寺の建物の柱を支えた礎石と考えられています。石質は凝灰質閃緑岩と鑑定されており、柱を据える部分を加工したものと見られます。このような礎石の多くは、古くから土地所有者の方が掘り出されていたようで、現在では下寺尾周辺で約三十個が庭石等として保存されていることが確認されています。下寺尾廃寺(七堂伽藍跡)と呼ばれているこの寺院は今から約1300年前に創建されたと考えられており、海老名にある国分寺より古い時期に建てられた、相模国における初期寺院として注目されています。七堂伽藍跡からは古墳時代後期および奈良・平安時代の古代土器などに混じって瓦も出土しており、これらの礎石の存在から、このお寺には礎石建ちで瓦葺きのりっぱな建物があったことがわかります。場所を変えて。「民俗資料館 旧和田家」。「茅ヶ崎市景観重要建造物 第1号 平成29年4月7日指定民俗資料館 旧和田家和田家は、江戸時代に萩園村の村役人を務めた家柄です。旧和田家は、同家11代和田清右衛門によって建てられたもので、幕末の民家の特徴を備え、良質の材料を使い、また改造も少ないことから建築当時の姿が見られる歴史的にも価値の高い建造物です。移築復元のため、解体作業中に「安政2 (1855)年3月吉日」の年号のある棟礼(むなふだ)が発見され、建てられた年代が明確になりました。また、「居宅普請財木買入帳(きょたくふしんざいもくかいいれちょう)」などの建築に係わる記録も残っており、建築準備が始まったのが嘉永4 (1851)年であることや、建築資材の購入先、普請に関わった人々のことが詳細に分かりました。開館時間 午前9時~午後4時休館日 月曜日(祝日が月曜日のときは翌日が休館) 年末年始(12月27日~翌年1月4日)」 「旧和田家について茅ヶ崎市指定重要文化財 旧和田家住宅この建物は、茅ヶ崎市か萩園の和田家から寄贈を受け、移築復元したものです。和田家は、萩園の旧家で江戸時代には萩園村の村役人をつとめました。この建物は、同家11代和田清右衛門によって建てられました。遺跡復元のための解体作業中に、「安政二年三月吉日」(1855)の年号のある棟札が発見され、建てられた年代が明らかです。解体した昭和57年まで、123年間の歴史を経たものです。また、棟札の他に「居宅普請財(材)本買入帳」などの記録も残っていて、嘉永4年(1881)に材木の購入が始まったこと、これらの購人先、工事にたずさわった職人たちのことなどがわかりました。建物は、桁行約21m、梁行き約11m、面積224平方m、7つの部屋と広い土間のる大型の民家です。この民家は、①幕未大型民家の特徴を備えている、②ケヤキを主とした良質の材料を用いている。③改造が少ない。④残されている記録から建設の経過などがわかるなどの特徴を備えていることから、茅ヶ崎市重要文化財に指定し、ここに移築復元しました。所在地 茅ヶ崎市堤3,882番外敷地面積 3、991平方m旧所在地 茅ヶ崎市萩園2,334番寄贈された年 昭和57年文化財指定の日 昭和57年7月20日 茅ヶ崎市重要文化財 構造・間取り 寄棟 木造 平屋建 藁ぶき屋根 7間取り変形竣工 昭和60年4月会館の日 昭和60年4月18日」旧和田家住宅 間取図。土間に面した「チャノマ(茶の間)」。家族の団らんする場所、囲炉裏がある。ナガト(手前)。そしてその先にナカノマ(中の間)、オクノマ(奥の間)。「市指定重要文化財旧和田家耐震改修工事~何が変わったの? ~茅ヶ崎の宝である「旧和田家住宅」では、令和元年度から2年度にかけて、耐震改修工事が行われました。一般的な住宅の改修工事(リフォーム)とは異なり、文化財の建物の改修工事は、元々使われていた部材をなるべくそのまま使います。朽ちてしまっていた場合は、新しくしますが、同じ材を使います。「以前と一体何が変わったの?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。ここでは耐震改修工事の内容をご説明します。①耐震補強建物に、耐震補強をしました。震度5で損傷しない・震度6でも倒壊しない強度となりました。②土壁各所の土壁を修復しました。東京の左官屋さんが携わっています。左の写真は、オトコペヤで作業しているところです。」③建物周辺の溝建物を適切に保存するため、今回の工事で設置しました。雨水による建物への影響が減りました。④屋根屋根に挿し茅(さしがや)をしました。茅の生産や職人は年々減少しています。建築当時は市内で茅を調達しましたが、今回、茅は京都から運ばれました。また、宮城県石巻市の茅職人が今回の工事に携わりました。古い茅は廃するのではなく、そのまま残し、新しい茅を挿していきました。また、棟飾りは移築当初の意匠にしました。⑤犬走り犬走は、砕石で底を固め、その上に土を盛って叩いて固めました。土には、もともと旧和田家の犬走りにあった土と、新たに5種類の土(荒木田土・石灰・山砂・ビリ砂利(細かい砂利)豆砂利(普通の砂利) )、そして苦汁水を混ぜています。南側の犬走りは、小出小学校の5年生(令和2年度当時)が、たたきました。⑥不同沈下北側に大きく不同沈下していたため、平行になるよう持ち上げました。よく見ると、持ち上げた分、コンクリートを入れ、高さを調整しています。」土間には農機具の唐箕(とうみ)や樽が置かれていた。「オトコベヤ(男部屋)使用人の男性の部屋。ゴザが敷かれていた。」「民族資料館 旧和田家昭和五十七年七月 茅ヶ崎市指定重要文化財市内萩園の旧家で、江戸時代には村役人をつとめていた和田家の住宅を、昭和六十年に移築復元したものです。この民家の特徴は、幕末の大型民家であること、良質の材料を用いていること、改造が少ないこと、記録が残されていて建設の経過がわかることてす。「安政ニ乙卯年(一ハ五五)三月吉日/御棟札/富家十一代和田清右衛門盛久」と書かれた棟札もあり、棟上げした時期がわかります。また、建築に関わる記録から、用材などを買い始めたのは嘉永四年(一ハ五一)、地ならしなどを始めたのは嘉永七年(一ハ五四〕であることや、用材の購入先、関わった職人職種や数などもわかります。」ナカノマ(中の間)。仏壇。オクノマ(奥の間)。「オクノマ(奥の間)。客間として使用された。普段は使用せず、親類が来た時に泊めた。」斜め前から。正面から。旧和田家住宅のそばに旧三橋家住宅があったので、浄見寺の境内を横切って向かう。浄見寺はこの後にゆっくりと。階段の横にはシャガの花が。和田家よりも30年ほど早く建築された住宅。三橋家もかつて香川村で名主を務めた旧家ですが、こちらの住宅は和田家と比べると一般的な造りの家で、田の字型の間取りをしている。旧三橋家住宅も、昭和46(1971)年に市の重要文化財に指定されている。その後昭和47年(1972年)に香川から現在の浄見寺境内に移築され、同48(1973)年に民俗資料館として開館した。「民俗資料館(旧三橋家)お願い」「民俗資料館 旧三橋家住宅昭和四十六年三月 茅ヶ崎市指定重要文化財この建物は、旧家て江戸時代には香川村の中の、旗本戸田氏の知行地の名主をつとめていた三橋家の住宅を昭和四十八年に移築復元したものです。建築の経過を記録した「大工木引(挽)萬控帳」(文政十年一ハニ七)や同十一年の年号のある揀札が伝えられています。この民家の特徴は、江戸時代末期の大型民家であること、改善や改造が少ないこと、また先に紹介した記録などがあって建築年代やその経過がわかることてす。建設当時の当主を伊右衛門といい、その後六代の間、三橋家の住宅として使われていました。」「茅ヶ崎市景観要建造物 第2号 平成29年4月7日指定民裕資料館 旧三橋家三橋家は、香川の旧家で江戸時代には、香川村の中の旗本戸田氏の知行地の名主を務めました。旧三橋家は、三橋伊右衛門によって建てられたもので、幕末の農家の作りの特徴を備え、改造が少ないことから建築の当時の姿が見られる歴史的にも価値の高い建造物です.文政11(1828 )年の年号のある棟札や、建築経過を記録した「大工木挽萬控帳」(文政10年)などが付属し、「控帳」によると、文政10 (1827)年7月9日に木挽き職人の仕事が始まり、手斧立、棟揚げ、内装などの作業を経て、翌年の2月未に建物は完成しています.会館時間 午前9時~午後4時体館日 月曜日(祝日が月曜日のときは翌日が休館) 年末年始(12月27日~翌年1月4日)」間取図。ここの土間にも農機具の唐箕(とうみ)等が展示されていた。土間から上がり框を見る。板床のザシキ(座敷)を見る。井戸は立入禁止。その奥に地蔵尊と山神社碑。文化六己巳年(1809)八月吉日と刻まれていた。「山神社」碑。明治二十六年と。再び室内を見る。床の間にあったのは藁細工の祝い舟であろうか。奥の畳の部屋。囲炉裏もあった。階段箪笥。別の場所から囲炉裏と階段箪笥を。奥の床の間を見る。土間。大きな竈門の上には釜と蒸し器セイロが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.21
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「文教大学 湘南キャンパス」を後にして「文教大学入口」交差点を右折して「小出中央通り」を西に進む。前方左手に「建彦神社(たけひこじんじゃ)」の看板が見えた。「建彦神社」と。そして「小出中央通り」を左折して進むと再び別の案内板が姿を現した。「建彦神社⬅入口」と。そして脇入口の石鳥居が正面に。神奈川県茅ヶ崎市堤3580。「建彦神社新築寄付金芳名」碑。「建彦神社 社務所」。社務所はあったが、基本は無人だと思われる。その社務所玄関上にあった神紋は、武田菱が二つ連なっている珍しい紋。建彦神社は、神奈川県茅ヶ崎市堤にある神社。現在は第六天神社の兼務社である。南側は、小出川に注いでいる駒寄川が、東から西へ流れ、谷戸を形成している。岡の尾根筋に当るところを通る県道 47号線(小出中央通り)や、谷戸を東西に延びる道路からは未舗装の細い道路が通じていた。明治43年(1910年)、堤の諏訪神社、行谷の金山神社、下寺尾の諏訪神社が合祀して創立された。例祭は8月最終日曜日と。建彦の由来は、諏訪神社の御祭神である建御名方命(たけみなかたのみこと)の「建」と、金山神社の金山彦命の「彦」をとり、命名されたという。御祭神は、・建御名方命(たけみなかたのみこと)・金山彦命(かなやまひこのみこと)・下照姫命(したてるひめのみこと)・大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと)・総明玉命(ふさあかるたまのみこと)・国常立命(くにのとこたちのみこと)・澳津彦命 (おきつひこのみこと)・天照姫命(あまてらすひめのみこと)・大国主命(おおくにぬしのみこと)・菅原祇命(すがわらつみのみこと)・大山祇命(おおやまつみのみこと)・誉田別命(ほんだわけのみこと) と盛り沢山。総明玉命(ふさあかるたまのみこと)は玉作連、玉祖連の遠祖である櫛明玉神・天明玉命などとの関係を連想させるが、不詳。天照姫命(あまてらすひめのみこと)は天照大神を連想させるが、天照大神を天照姫命と表記する例は少ないと思われる。下照姫命との対照かもしれないが、稚日女尊のこととも考えられる。菅原祇命(すがわらつみのみこと)の神名も珍しい。該当するのは菅原道真だけだと思うが、道真をこのような神名にする例は他にないと思われる。昭和30年(1955年)8月浅草翠雲堂謹製の鐘がある。鳥居と階段は、昭和63年(1988年)に社殿落成記念として奉納されたもの。唐破風下の彫刻。龍の彫刻も見事。扁額「建彦神社」。「脇障子」(右)。「脇障子」(左)。「建彦神社」の「拝殿」前から境内を振り返る。銀杏の新緑が美しかった。境内にあった「石祠」。「神楽殿」。「鐘楼」。「梵鐘」。「講和記念」の文字が。浅草翠雲堂謹製の鐘であると。「建彦神社」の文字が。「昭和三十年八月」の文字が。こちらが「一の鳥居」。鳥居と階段は、昭和63年(1988年)に社殿落成記念として奉納されたものとのこと。「建彦神社」を後にして、再び「大岡越前通り」に出て右折し西に進む。左手にあったのが建設中の「茅ヶ崎市歴史文化交流館」。そして前方にあったのが「宗泉寺」。神奈川県茅ヶ崎市下寺尾2085。RC作りの「真言宗大谷派 宗泉寺」。宗泉寺の建物は中古の住宅をリフォームしたものであると。2004年6月から活動開始と。境内のツツジは美しかったが、境内に石碑や石仏の姿はなかった。そして来た道を戻ると右手にあった「茅ヶ崎市歴史文化交流館」を再び見る。今年の夏頃のオープン予定であると。神奈川県茅ヶ崎市堤3780。周辺の遺跡や重要建造物とも連携して、茅ケ崎の自然や歴史、文化を気軽に学べる博物館として開館を目指すと。交流館は広さ約6600m2の敷地内に建てられ、鉄骨一部2階建て総面積約2000m2。東側半分を収蔵庫とし、西側半分に展示室や市民交流スペースを設ける。敷地内には広場や26台収容の駐車場も整備するとのこと。次に「池端道祖神兼庚申塔」を訪ねた。神奈川県茅ヶ崎市下寺尾2140−3。左から文字庚申塔。「庚申講中 九人」の銘その右は不明の石塔願主名のみの面が正面に。この二基は双体道祖神兼庚申塔の建立碑の可能性もある。その右側に双体道祖神が2体。右は天明六(1786)年 庚と刻まれていた。左も天明六(1786)年 申と刻まれていた。「池端道祖神兼庚申塔下寺尾ニ一三四番市内に道祖神は約九十九体、庚申塔は約九十四体あるが、両方に数えられるのは数少ない。彫刻は同時にされたものと思われるが、もとは池の南側と北側に祭られていた。明治初年比処に移され共に池端の守りとして栄えている。勘重郎堀発端の地昔安永年間、香川村名主三橋勘重郎は天水場で川の無い香川村の田地ニ十五町歩に灌漑の水を引く為苦労した。隣村下寺尾は水は豊富だ。併し殿様も違い村も違う下寺尾の水を貰うのは至雉の業だ。漸くにして下寺尾の了解を得て難工事に着手した。下寺尾の村民は快く之を受け入れ共に工事を手伝った。足掛け三年、水路四尺、両側通路六尺宛の堀は出来た。満々たる水は遙か香川村まて流れて行った。今は埋まって通路となっているが、此処が堰をして水を揚げた処である。」そして「旧和田家住宅」に向かって進む。道路脇にはピンクの芝桜が。紫色のムラサキツユクサ(紫露草)。白色のムラサキツユクサ(紫露草)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.20
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タイトル 👈リンク付き 発表日★茅ヶ崎・浜降祭へ(その1~5) 2023.8.11★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その1) 2022.4.07 鶴嶺八幡宮へ(1/2) ★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その2) 2022.4.08 鶴嶺八幡宮へ(2/2) ★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その3) 2022.4.09 龍前院~弁慶塚★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その4) 2022.4.10 辻堂駅~辻堂駅開設記念碑~源 頼朝公落馬地~茅ヶ崎東教会~高山稲荷★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その5) 2022.4.11 浜竹踏切~金森稲荷神社~赤松稲荷神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その6) 2022.4.12 小和田・熊野神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その6-2) 2022.4.13 廣徳寺~千手院~本行寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その7) 2022.4.14 坂下稲荷神社~稲荷社~茶屋町稲荷大明神~須田家之墓~牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)跡~ 東海道の松並木★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その8) 2022.4.15 本村 八王子神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その9) 2022.4.16 厄一王子社~三嶋社~茅ヶ崎一里塚~正一位左近稲荷大明神★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その10) 2022.4.17 厳島神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その11) 2022.4.18 神明宮~第六天神社~茶屋町大神宮~南湖の左富士之碑★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その12) 2022.4.19 松尾神明神社~善福寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その13) 2022.4.20 柳島八幡宮★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その14) 2022.4.21 民俗資料館 旧藤間家住宅(1/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その15) 2022.4.22 民俗資料館 旧藤間家住宅(2/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その16) 2022.4.23 神明神社~でかまん菓子舗 ★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その17) 2022.4.24 国指定史跡 旧相模川橋脚★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その18) 2022.4.25 上国寺~信降寺~男女双体道祖神~中島川ガード~八坂神社~忠霊塔~浄林寺~日枝神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その19) 2022.4.26 湘南ベルブリッジ~柳島スポーツ公園~青木稲荷社~柳島水再生センター~柳島記念館~ 柳島閘門跡★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その20) 2022.4.27 柳島海岸の地蔵~湘南道路之碑~善行者之碑~八大龍王神~相州砲術場竝柳島湊跡之碑~ 柳島海岸~柳島嚴島神社~南湖の地蔵~南湖院★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その21) 2022.4.28 南湖八大龍王神~住𠮷神社~正一位 川端稲荷神社~南湖稲荷社~御霊神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その22) 2022.4.29 西運寺~金剛院~金刀比羅神社~稲荷神社~赤とんぼ作曲の地~六道の辻~茅ヶ崎漁港~ 八大龍王神~中海岸・八大龍王神★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その23) 2022.4.30 中海岸神社~松籟庵~茅ヶ崎サザン神社~サザン通り~高砂緑地~松籟庵~茅ヶ崎市美術館★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その24) 2022.5.01 辻堂駅~日本基督教団 茅ヶ崎平和教会~桜道~茅ヶ崎聖契キリスト教会~アトンメントの フランシスコ女子修道会~セブンスデー・アドベンチスト教団茅ケ崎キリスト教会~平和学園~ 浜須賀立体歩道橋★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その25) 2022.5.02 浜須賀海岸~八大龍王碑~ヘッドランド(Tバー)~茅ヶ崎市開高健記念館・茅ヶ崎ゆかりの 人物館~恵泉キリスト教会湘南グレースチャペル~佐々木氏追悼記念碑★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その26) 2022.5.03 鉄砲道~雄三通りモニュメント~氷室椿庭園~上原謙邸跡~茅ヶ崎海岸~八大龍王神★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その27) 2022.5.04 茅ヶ崎サザンC~国木田独歩追憶碑~平和の礎~慰霊塔の記憶~茅ヶ崎公園野球場★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その28) 2022.5.05 体験学習センターうみかぜテラス~恵泉幼稚園~茅ヶ崎市文化資料館~西行法師の歌碑~ 茅ヶ崎館~日本キリスト教団 茅ヶ崎教会~鉄砲道★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その29) 2022.5.06 八雲神社(1/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その30) 2022.5.07 八雲神社(2/2)~茅ヶ崎恵泉教会~サザン神社~JR茅ヶ崎駅~帰路★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その31) 2022.5.08 JR香川駅~浄心寺~茅ヶ崎北陵高校★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その32) 2022.5.09 下寺尾官衙遺跡群(1/2) ★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その33) 2022.5.10 下寺尾官衙遺跡群(2/2)~西片貝塚~旧北陵高校旧跡地~湘南公園墓地・茅ヶ崎霊園★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その34) 2022.5.11 下寺尾西方の道祖神~下寺尾中山山王社の道祖神~地蔵尊~白峰寺(1/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その35) 2022.5.12 白峰寺(2/2)~下寺尾諏訪神社~道祖神★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その36) 2022.5.13 金山神社~宝蔵寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その37) 2022.5.14 茅ヶ崎霊園 永久の郷~臼久保遺跡~追出地蔵~光照山普門寺観音堂跡~来迎寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その38) 2022.5.15 蓮妙寺~タコ公園~久保山貝塚★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その39) 2022.5.16 腰掛神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その40) 2022.5.17 芹沢石仏石像群~石祠道祖神~芹沢大谷の庚申塔と道祖神と地蔵~延命子育地蔵堂跡★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その41) 2022.5.18 善谷寺~芹沢中の谷の道祖神★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その42) 2022.5.19 神奈川県立茅ヶ崎里山公園~文教大学湘南キャンパス★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その43) 2022.5.20 建彦神社~宗泉寺~茅ヶ崎市歴史文化交流館~池端道祖神兼庚申塔★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その44) 2022.5.21 旧和田家住宅~旧三橋家住宅★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その45) 2022.5.22 浄見寺(1/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その46) 2022.5.23 浄見寺(2/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その47) 2022.5.24 堤神明谷の道祖神~地蔵尊~正覚院~堤 仲谷の道祖神★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その48) 2022.5.25 羽黒大神~ 妙伝寺~天満威徳天神~稲荷社~八王子神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その49) 2022.5.26 堤貝塚~堤 南久保の道祖神~長谷戸バス停~帰路★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その50) 2022.5.27 自宅~香川駅~正一位稲荷大明神~稲荷社~殿内道祖神~念徳碑~香川諏訪神社~道祖神★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その51) 2022.5.28 玄珊寺~茅ヶ崎香川教会~松風台南公園★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その52) 2022.5.29 成就院★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その53) 2022.5.30 スリーハンドレッドクラブ~茅ヶ崎配水池~甘沼 八幡大神★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その54) 2022.5.31 玉林寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その55) 2022.6.01 西光寺~伊勢宮神社~法然上人二十五霊場★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その56) 2022.6.02 妙覚院~茅ヶ崎バイオマス発電所~宝積寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その57) 2022.6.03 赤羽根八雲大神~六地蔵堂~菱沼八王子神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その58) 2022.6.04 長福寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その59) 2022.6.05 長福寺庚申塔~室田橋碑・道祖神~永昌寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その60) 2022.6.06 道祖神~八王子神社~妙行寺~村役場跡★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その61) 2022.6.07 赤羽根神明大神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その62) 2022.6.08 大山道句碑~赤羽根六地蔵堂~高田緑地~鶴田栄太郎氏頌徳碑★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その63) 2022.6.09 本在寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その64) 2022.6.10 高田熊野神社~赤羽川~茅ケ崎駅北口ペデストリアンデッキ★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その65) 2022.6.11 茅ヶ崎駅~一里塚~地蔵尊~本村居村遺跡~本村観音堂~うしのごぜん碑~北茅ケ崎駅~ 茅ヶ崎中央公園★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その66) 2022.6.12 茅ヶ崎中央公園~市民文化会館~飯島橋~本社丘~長善寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その67) 2022.6.13 本社宮~唱導寺妙光殿~鶴嶺参道歴史ひろば★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その68) 2022.6.14 馬頭観音~梅雲寺~下町屋橋★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その69) 2022.6.15 松尾大神~萩園日枝神社~須賀夕映え公園~新田八幡宮★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その70) 2022.6.16 三島大神~来恩寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その71) 2022.6.17 第六天社~十二天神社~常顕寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その72) 2022.6.18 満福寺~十王堂~稲荷社跡地~八幡神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その73) 2022.6.19 萩園橋~神奈川県立茅ケ崎養護学校~懐嶋山の碑~民話「河童徳利」伝承について~ 小出川流路の今昔★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その74) 2022.6.20 河童徳利ひろば~妙運寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その75) 2022.6.21 日吉神社~大山街道の道標・庚申塔~宝生寺(1/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その76) 2022.6.22 茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その76)・宝生寺(2/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その77) 2022.6.23 北向地蔵~茅ヶ崎中央通りモニュメント~あおぞら輝き保育園★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その78) 2022.6.24 神明大神宮(1/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その79) 2022.6.25 神明大神宮(2/2★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その80) 2022.6.26 了覚院~円蔵祇園社~輪光寺(1/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その81) 2022.6.27 輪光寺(2/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その82) 2022.6.28 山王社(日枝神社)~懐嶋郷本圓蔵辨財天~オチョバンバ~円蔵稲荷神社~茅ヶ崎市役所~ 旧寛永寺石灯籠 四基~JR茅ヶ崎駅★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その83) 2022.09.30 松下政経塾~藤沢土木事務所汐見台庁舎 なぎさギャラリー(1/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その84) 2022.10.01 藤沢土木事務所汐見台庁舎 なぎさギャラリー(2/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その85) 2022.10.02 浜須賀歩道橋~汐見台海岸~えぼし岩遠望~江の島遠望~日本初ロケット火薬実験の地~ 富士山遠望~海浜自然生態園★茅ヶ崎・浜降祭へ(その1) 2023.08.11★茅ヶ崎・浜降祭へ(その2) 2023.08.12★茅ヶ崎・浜降祭へ(その3) 2023.08.13★茅ヶ崎・浜降祭へ(その4) 2023.08.14★茅ヶ崎・浜降祭へ(その5) 2023.08.15
2022.05.19
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「善谷寺」の後は「神奈川県立 茅ヶ崎里山公園」に向かう。茅ヶ崎市芹沢の住宅街を進む。農家?の前の畑にはピンクの芝桜が美しく咲いていた。石段を上り東側から「神奈川県立 茅ヶ崎里山公園」に入る。「茅ヶ崎里山公園」マップ。目の前に現れたのが「中ノ谷池」。「多目的広場」が前方に拡がっていた。多目的広場の巨大な支柱。鯉のぼりのロープ用の支柱の様であった。普段なら毎年GWには300匹の鯉のぼりが旗めくのであるが・・・・。「風の広場」。ちびっ子たちに人気の遊具「風のとりで」や「雲のトランポリン」があります。く雲のトランポリンの利用時問9 : 30 ~ 16 : 30 とのことだが、この日は改修中の様であった。「風のとりで」。「風の谷」70mの「風のすべり台」と、30mの「谷のすべり台」にのって、風を感じてください と。ローラー滑り台。里山公園の目玉である長~いローラー滑り台は全長70m。「茅ヶ崎里山公園 パークセンター」が前方に。「この場所は、「里山保全エリア」から連なる緑地として、草刈りの回数や草丈を制限した管理を行い、いきものが住みやすい環境づくりを目指しています。」北の方向を見る。「山頂休憩所」で一休み。「谷の家(やとのいえ)」方面への階段を下る。新緑に溢れていた。前方に「谷の村」案内板。「谷の村(里山保全エリア)里山の文化や循環の仕組みを継承し、生物多様性の保全を図っていく場」「県立茅ヶ崎里山公園」マップ。「柳谷池」の水は少なく。前方に「はたけ」エリア。「茅ヶ崎里山公園倶楽部茅ヶ崎里山公園倶楽部は、里山の多様な生態系の保全・啓発事業並びに、県民に親しまれる茅ヶ崎里山公園であり続けるための事業を、指定管理者と取り組んでいます。」「小麦」の栽培。モミジの新緑が美しかった。「谷の家」。「谷の家」の先にあった「芹沢の池」。ここまでとし「風のテラス」まで引き返す。ゆるやかな弧を指く屋根が特徴。小学生2クラスほどが同時に利用できる広さで、休憩やイベントの会場、雨宿りなどに最適です と。八重桜を楽しむ。そしてここが「県立茅ヶ崎里山公園」の正門。再び「県立茅ヶ崎里山公園」のマップ。「茅ヶ崎里山公園 パークセンター」横の道路沿いの藤棚は見事な光景であった。そして「文教大学湘南キャンパス」の正門に向かって裏側を廻り込んで進む。外壁がレンガ造りの「文教大学湘南キャンパス」。「文教の森」の中を桜と新緑を楽しみながら進む。赤レンガのキャンバスに聳え立つシンボル「聳塔(しょうとう)」。ズームして。そしてここが「文教大学湘南キャンパス」の正門。 神奈川県茅ヶ崎市行谷1100。正門から「聳塔」を見る。掲示板には「オープンユニバーシティ講座案内」が。「文教大学」。1985年、情報学部、文教大学女子短期大学部を神奈川県茅ケ崎市へ移転。湘南キャンパスとして開校。茅ケ崎駅、湘南台駅から文教大学行き路線バスにて約20分。・情報学部、健康栄養学部・情報学研究科・湘南総合研究所 が現在開設されている。湘南キャンパスから、国際学部と経営学部の全学年が2021年4月1日付で新設の東京あだちキャンパス(足立区)へ移転した。湘南キャンパスの学生の定員数は3180人から約半減の1540人と半減したとネットから。湘南キャンパス 配置図。そして南に進むと左手には「文教大学」バス停があった。JR茅ヶ崎駅行きと小田急線湘南台駅行きがある。そして正面が「文教大学入口」交差点。「文教大学」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.19
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タイトル 👈リンク 発表日★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その1) 2021.09.25 往路~かしわ台駅~念仏坂~護王姫の碑~産川せせらぎ公園~萩原神社★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その2) 2021.09.26 史跡 秋葉山古墳群★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その3) 2021.09.27 おしな坂~榎戸制水門~お松地蔵尊~弁財天社~地蔵堂~永珊寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その4) 2021.09.28 三島神社~浅間神社~泉橋酒造~井戸坂 ★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その5) 2021.09.29 常泉院★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その6) 2021.09.30 かいな坂~いちご遊園~杉本稲荷社~子育地蔵~狐坂~清水寺公園★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その7) 2021.10.01 龍峰寺(その1)★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その8) 2021.10.02 龍峰寺(その2)★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その9) 2021.10.03 弥生神社~蚕影神社★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その10) 2021.10.04 石坂~源頼朝公碑~吾妻坂~郷土かるた「ん」~史跡相模国分尼寺跡~かがり塚~浅井の水~ 前の坂~内出稲成神社~足折坂★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その11) 2021.10.05 宗珪寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その12) 2021.10.06 上郷地蔵尊~祠~相模三川公園~さくら橋~大藪稲荷神社~わくわくランド~大日如来堂~ 龍昌院~有鹿神社中宮~ 三王三柱神社~有鹿井★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その13) 2021.10.07 海老名氏記念碑~上郷水管橋~有鹿神社~有鹿姫之霊地史跡~總持院(1/2) ★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その14) 2021.10.08 總持院(2/2)~海老名氏霊堂~海老名市立歴史資料収蔵館~ 末日聖徒 イエス・キリスト教会★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その15) 2021.10.09 三眼六足稲荷社~安養院★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その16) 2021.10.10 弁財天社~あゆみ橋~海老名市民活動センター~海老名市文化会館~海老名駅~帰路★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その17) 2021.10.11 ViNAWALK~海老名中央公園~七重の塔~温故館★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その18) 2021.10.12 相模国分寺跡★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その19) 2021.10.13 海老名市消防署第一分団~稲荷社~伊勢山大神宮~史跡逆川~石橋供養塔~新道稲荷社~ 海老名の大ケヤキ ★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その20) 2021.10.14 相模国分寺~正一位稲荷大明神~しんえむ坂~音坂薬師堂跡(旧国分寺)★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その21) 2021.10.15 国分八景公園~尼の泣き水跡~龍峰寺跡~大六天社~真福寺跡~四十坂 ★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その22) 2021.10.16 ひさご塚公園~瓢箪塚古墳~上浜田6号墳~浜田三塚公園~上浜田1号墳~上浜田2号墳 ★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その23) 2021.10.17 鳳勝寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その24) 2021.10.18 八坂神社~水神社~浜 田歴史公園~上浜田古墳5号墳(太鼓塚古墳)★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その25) 2021.10.19 大谷神明社~福壽院~天神社~妙常寺・鈴木三太夫の墓★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その26) 2021.10.20 宇賀神~大谷公民館~大谷八幡宮~神遊苑~ 鈴木三太夫霊堂~大谷宿★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その27) 2021.10.21 大谷観音堂 ★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その28) 2021.10.22 海老名市消防庁舎~海老名市役所★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その29) 2021.10.23 海源寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その30) 2021.10.24 増全寺~諏訪神社★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その31) 2021.10.25 伊勢宮大神宮~養蚕発祥の地~川寿稲荷神社★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その32) 2021.10.26 東興寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その33) 2021.10.27 大島記念公園~今福薬医門公園~大谷水門・高座郡海老名町耕地事業竣工記念碑~沖の坂★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その34) 2021.10.28 山王社~妙元寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その35) 2021.10.29 真鯨稲荷社~清水坂~善教寺~不動明王堂~杉久保遺蹟・富谷横穴墓群★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その36) 2021.10.30 豊受大神~社家駅~茅ヶ崎駅~帰路★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その37) 2021.11.19 JR門沢橋駅~地蔵尊~海老名南JCT~若宮八幡宮~妙泉寺~中野八幡宮(1/2)★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その38) 2021.11.20 中野八幡宮(2/2)~盛福寺~相模川水管橋~相模大堰~社家取水管理事務所★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その39) 2021.11.21 JR社家駅踏切~海老名JCT~法閑寺~明窓寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その40) 2021.11.22 三島社 ★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その41) 2021.11.23 常在寺~十王堂~浄光寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その42) 2021.11.24 山王社~今里道祖神~東林寺~今里正八幡宮~清水坂~釜坂橋★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その43) 2021.11.25 かぶき場の坂~かながわ農業アカデミー~有馬のはるにれ~椿地蔵尊★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その44) 2021.11.26 有馬水道記念碑~定國寺~横須賀市水道局有馬浄水場~有馬中・小学校~吾妻坂~貴日土神社★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その45) 2021.11.27 忠魂碑~義勇奉公碑~本覚寺~吉祥寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その46) 2021.11.28 金剛寺~本郷ふれあい公園★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その47) 2021.11.29 寿閑寺~大山道~道祖神~真光寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その48) 2021.11.30 地神塔~石造宝篋印塔・石灯籠~本郷神社~郷土かるた「ほ」~不動明王坐像・二十三夜塔★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その49) 2021.12.01 居合坂・柏尾通り大山道~居合の道祖神~下原橋天満宮~正覺寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その50) 2021.12.02 浄久寺~渋谷神社~門沢橋駅~茅ケ崎駅北口ペデストリアンデッキ~帰路へ ・・・完・・・
2022.05.18
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次そして道路の反対側にあったのが「善谷寺 ( ぜんこくじ )」。曹洞宗 恵日山 善谷寺。神奈川県茅ヶ崎市芹沢1137。寺号標石「曹洞宗 善谷禅寺」。『新編相摸国風土記稿』には「恵日山と号す、曹洞宗獺郷村東陽院末、本尊釈迦」と記載。開山は藤沢市獺郷「東陽院」👈リンク の三世、茅ヶ崎市行谷「宝蔵寺」👈リンクの二世を務めた心翁宗伝和尚。寺伝では天正六年(1578年)の創建と。整えられた境内の隅には相州小出七福神の福禄寿の堂があった。「石段改修 晋山結制記念碑」と。晋山結制とは、新しく任命された住職の正式な就任儀式のこと。掲示板。石段の途中から民家の鯉のぼりを振り返る。「善谷寺」の石段の両脇には「南無観世音菩薩」の幟が並ぶ。「本堂」。中之谷の集落の中心にある寺で、昭和48年に本堂を改築。平成2年の春には本堂前に金銅の「恵日観音」も建立された。「本堂」の扁額も「善谷寺」。「恵日山 善谷寺曹洞宗(禅宗)南無本師釈迦牟尼佛当山本尊 釈迦如来大本山 福井県 永平寺 御開山 高祖道元禅師 横浜市 總持寺 御開山 太祖瑩山禅師 伝 統 お釈迦さまよりの正伝の佛法は達磨大師によって中国へ伝えられ曹洞の禅風として 開花し鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となす。その教義は瑩山禅師に よって広く全土に実践教化され今日に至る。教 義 人は本来 佛性有り 己に佛心の具え有り 正法の経典を讃仰読誦し深く黙照して坐し脚下照顧して己の足下を見つめ自然 (宇宙)と一体なる自己を見極めて活達なる人生をいかしきるのが禅の実践なり。経 典 修証義 般若心経 観音経 寿量品等を読誦する。 本堂のご本尊に先ず合掌 」 「六地蔵」。「本堂」の左側にあったのが「相州小出七福神」の「福禄寿」の御堂。「福禄寿」。長寿・人徳の神様 ご利益は子孫繁栄・立身出世・健康長寿・招徳人望巻物を読む姿で。右側に「延命地蔵尊像」。奉納者の名前の刻まれた石碑。「本堂」前の「恵日観音」。手前に常香炉。平成2年の春に御鎮座。お顔をズームして。客殿であっただろうか。その手前に「善谷寺歴住大和尚供養碑」が。扁額「恵照閣」。境内の「稲荷社」。「正一位 稲荷大明神」。社殿。「本堂」、「恵日観音」を振り返る。石仏が並ぶ。石碑群。そして「善谷寺」を後にして、石段を下る。再び鯉のぼりを。さらに門越しに。そして前の道を北に進むと、角にあったのが芹沢中の谷の「道祖神」。神奈川県茅ヶ崎市芹沢1458。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.18
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「腰掛神社」を後にして東に進むと民家の入口の横にあったのが「権現様」。神奈川県茅ヶ崎市芹沢1722。さらにスマホの案内に従い「芹沢石仏石像群」に向かって進む。途中、民家の庭にあった八重桜。そして「茅ヶ崎市斎場」の入口前を通過し東に進む。左手の丘の上に見えたのが「慶應義塾湘南藤沢中等部・高等部」の校舎。そして四辻の手前右手にあったのが「芹沢石仏石像群」。神奈川県茅ヶ崎市芹沢。歴史を感じさせる多くの石碑が並んでいた。左手には石仏の姿の有る石碑が。それぞれに近づいて。頭が補修の為に繋がれたようだ。何かを持っていたのであろうか。「正徳三癸巳(1713)十二月十一日」と。「宝永七庚寅(1710)」と。削ぎ取られた如くに。こちらも。「正徳(1711~1716)」の文字が。「芹沢石仏石像群」を後にして畑の畦道を進む。路地の角にあった神社。二つ並んだ小祠のうち、左側が「宇賀神(はっとりさま)」と呼ばれていると。こちらは石祠道祖神(流造)であろうか。左の社の中にはユニークな形のものが。内陣には左右に四体の蛇のような像が祀られていた。「宇賀神も突き詰めれば不思議な神様ではありますが、一般的には穀霊・稲霊と考えられていて、稲の豊作をもたらす水神としても受け止められ、このように蛇体で現されることの多い神なのだ。しかし、ここ芹沢の宇賀神がなぜ「はっとりさま」と呼ばれているのかは良くわからないそうです。「はっとり」にどのような字をあてるのかも定かではありませんが、「はっとり」は機織りに由来する「服部」なのでしょうか。宇賀神と稲荷の祭神:宇迦之御魂神は同一視されることも多いのですが、この稲荷神は養蚕・機織りなどに精通していた秦氏が信仰していた神であり機織りの神としても知られています。また、古代において諸国の織部を統率していた服部連は秦氏同族とも言われているので、そういう意味では宇賀神と「はっとり」との間に全く関係が無いとは言えないのですが……ちょっと良くわかりません。水辺で機を織る巫女と水神の関係は民俗学者の折口信夫氏が言及して久しいですが、あるいはそのあたりと何かしらの繋がりがあるのかもしれません。」とネットから。柿園の中を進む。次に訪ねたのが「芹沢大谷の庚申塔と道祖神と地蔵」。石鳥居の奥に石祠と社が。神奈川県茅ヶ崎市芹沢411。内陣。その横には道祖神、石仏が並んでいた。右から「兜巾型文字道祖神」明治二十二(1889)年台座の横にあった五輪塔の水輪(丸石)と頭部(繭玉石)は道祖神には付き物。「青面金剛庚申塔」上部欠損は悲しい。廃仏毀釈の嵐は、地蔵の首狩りと双体道祖神の切断の形がが多く見られるのだが。この地蔵尊も首を刈られていたのか、セメントで補修の痕が。民家の入口にあった庚申塔。茅ヶ崎市芹沢308。文字庚申塔。下部に三猿が削られた痕跡?近くにあった「山王神社」。石鳥居の横から。そして今度は梨園の中を通過。たわわに咲く梨の花。「芹沢スポーツ広場 野球場」の横を進む。そして再び畦道に案内される。そして大きな民家の塀の前にあったのが「延命子育地蔵堂跡」碑。民家の庭には立派な鯉のぼりが。これが寺の山門の如き民家の門。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.17
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次次に訪ねたのが「腰掛神社」。ここを訪ねるのは3回目であろうか。「腰掛神社」の一の鳥居が正面に。『新編相摸国風土記稿』に「腰掛明神社 村の鎮守なり」とあるのはこの神社のことで、江戸時代から変わらず芹沢の鎮守として祀られてきたとのこと。現在も芹沢北部の里山の中に古式然とした姿で鎮座。日本武尊が東征の折に通りかかり暫くのあいだ休息せられた旧跡とも伝えられ、境内にはこのとき日本武尊が腰を掛けたと伝えられる腰掛石も残されていたのです神奈川県茅ヶ崎市芹沢2169。「六臂青面金剛像」。元文5年(1740)11月板駒型月日(手持)・青面金剛像(剣/数珠・六臂)正面右側「奉納庚申供養」 〃左側「元文五庚申天 十一月吉日」 〃下側 7人の名日輪・月輪を両手の掌に奉げたデザインが素晴らしい。日本武尊を髣髴させる青面金剛像。「芹澤腰掛神社」碑。「掲示板」。一の鳥居の後ろに二の鳥居。境内には巨木も多く、眩いばかりの緑に覆われていた。こうした雰囲気の良い社叢は、都市部ではなかなか目にすることが出来なくなって来たのです。 「二の鳥居」には青く縁取られた扁額「腰掛神社」。「二の鳥居」は「両部鳥居(りょうぶとりい)」であった。両部鳥居は、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。 名称にある両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残。 四脚鳥居、稚児柱鳥居、権現鳥居、枠指鳥居などの別名がある。「二の鳥居」を潜り、「拝殿」への参道を進む。「手水舎」。「社務所」は「芹澤公民館」にもなっていた。狛犬(阿形像)、昭和六十三年。狛犬(吽形像)、昭和六十三年。正面に「拝殿」。御神木の銀杏。左手に「神楽殿」。更に「拝殿」に近づいて。御祭神日本武尊 ( やまとたけるのみこと )大日霊貴命 ( おおひるめむちのみこと )金山彦命 ( かなやまひこのみこと )白山彦命 ( しらやまひこのみこと )宇迦之御魂命 ( うかのみたまのみこと )祭礼1月1日 元旦祭・交通安全祈願祭2月11日 建国祭7月海の日 浜降祭9月吉日 秋季例大祭11月23日 勤労感謝祭12月31日 除夜祭。その先にも狛犬(阿形像)、大正十四乙丑年十月吉日建之 と。こちらは江戸唐獅子とか関東型とか言われるタイプのもの。狛犬(吽形像)。「腰掛神社 由緒沿革」案内板が「腰掛玉石」を覆う屋根付きの建物にあった。「腰掛神社 例祭日 九月十八日鎮座地 茅ヶ崎市芹澤ニ、一六九番地由緒沿革 『相模風土記』に「腰掛名神社村ノ鎮守ナリ大庭ノ神腰ヲ掛シ旧跡ト云伝フ、想フニ旅所ノ跡ナドニヤ 小石一顆ヲ置神躰トス 本地大日、寛永十二年八月十九日勧請 爾来此日ヲ以テ例祭ヲ執行ス」とある。又社伝には 景行天皇の朝 皇子日本武尊御東征の際 此の地を過ぎ給ふ時 石に腰を掛け 暫時此處に御休息せられ 西の方大山を望み指示して大いに喜び給ふ 後 村民永く其の霊跡を存せんとして社を建て尊を祀りしと言伝ふ今猶社前には一大石 (凡長さ二尺九寸 幅二尺五寸) あり 腰掛玉石と称する。再建は寛政元年(一七八九)十一月であり、現在の本殿は大正七年に再建で 拝殿は震災後大正十四年に再建したものである。神社の関係古文書類は 天保四年 鍵取職矢野新兵衞氏居宅の火災により全て焼失した。明治六年村社に列せられ、明治四十二年指定村社に列せられる。」立体感が溢れる見事な龍の彫刻。木鼻(右)。躍動感と迫力に溢れた獅子の姿が。木鼻(左)。扁額「腰掛神社」。「腰掛玉石」。日本武尊が東征の際に、この地で石に腰かけて大山を眺めながら休憩したという伝説に由来し、当時の人々がこの石をご神体として社を建設、日本武尊を祀ったことが腰掛神社の始まりとされている。高さ40cm、タテヨコ100cmほどの上が平たい石。 「腰掛玉石」は台座の上に載せられ、それを覆う屋根と木の柵もあったが、こういうケースはむしろ例外で、大部分の「腰掛石」は雨ざらしにされされている場合が多いのだが。以下はネットから「ところで『新編相模国風土記稿』では、腰掛石に腰をおろしたのは「大庭の神」と記載されているので、江戸時代には現在の社伝のように日本武尊ではなく大庭の神の旧跡地と伝えられていたことがわかります。芹澤村の所属する大庭庄は中世に成立した荘園で、その中心地の大庭には式内社の大庭神社が鎮座しています。大庭の神とはこの大庭神社の神のことを言っているのだと思いますが、『新編相模国風土記稿』ではこの伝承をうけて「想うに旅所の跡などにや」と、その関係を推測しています。跡と述べている以上、江戸時代の当時においても腰掛神社と大庭神社の間には直接的な関係はなかったものと思われますが、元々は何らかの繋がりがあったのかもしれません。さて、『相模の古社』では腰掛神社を一之宮・寒川神社の末社であったとしたうえで次のような伝説を紹介しています。腰掛神社の境内に、寒川大神の腰掛けられたという石が存している。差渡し85センチほどの石である。ところでこの地方の伝説として、寒川の大神はいずれの地方からか相模国へ来て、この芹沢の地にしばらく逗留され、それから間もなく、北西3キロほどの宮原という地に移ったと言われている。(中略) この宮原部落には、現在も寒川社という小社がある。寒川大神はやがて宮原の地も去って、最後に現在寒川神社のあるところに移って来て、長く居住したということがむかしから伝えられているのである。 (菱沼 勇・梅田義彦 『相模の古社』 昭和46年 学生社)」と。この伝説の出典は不明とのことですが、これによると腰掛石に腰をおろしたのは「寒川大神」であるとされ、この場合は寒川神社の創祀縁起として語られている訳です。「腰掛玉石」碑。「神輿殿」。神輿をネットから。「拝殿屋根葺替竣工記念」碑。「當拝殿は大正十二年九月の大震災の際崩壊 大正十四年 新築再建五十年の永き間夏の暑さにも冬の寒さにも耐へて今日に到れるが最早屋根の亜鉛板も限界と成りたるが故に氏子崇敬者諸氏と相謀り、銅板にて屋根の修復を致す事に決定し九月に工事の竣工を見ました。此の挙を記念しここに碑を建立致しました。昭和四十八年九月十八日」「拝殿」の奥に「本殿」。拝殿脇には2つ並んで境内社がありましたが、名前が書いてないので詳細は不明。『神奈川県神社誌』には境内社として伊勢大神、金平大神、稲荷社、白山大神の記載があるとのことなので、このうちのいずれかでしょうか。右側の境内社。左側の境内社。境内社前から「腰掛神社」の境内を見る。「拝殿」を振り返って。参道脇には、伐採された巨木が転がっていた。銀杏の樹であろうか、樹皮のみで完全に空洞のみ。「腰掛神社」を後にして、その前にあった「関東の富士見100景 富士山の見えるまちづくり地点名 茅ヶ崎市からの富士」を訪ねた。しかし、この日は・・・・。天気が良ければ。「関東の富士見100景」から「腰掛神社」を見る。そして「腰掛神社」前の坂道を南東に向けて上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.16
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「来迎寺」を後にして、次の目的地の「蓮妙寺」に向かって田園の中を進む。左手の田んぼの中には多くの親子連れが。田植えの準備の除草作業等、耕耘等の準備作業を体験学習しているようであった。道端には花ダイコンの花が。これぞ田園風景。そして「蓮妙寺」に到着。神奈川県茅ヶ崎市芹沢2472。「南無妙法蓮華経 日蓮 在御判」と刻まれた石碑。日蓮聖人の花押を「在御判」 、あるいは「日蓮 在御判」 と表している ようである。因みに日蓮聖人の「花押」をネットから。 【https://aucfree.com/items/j612943569】より「蓮妙寺縁起当山の山号は弁財山、寺号を蓮妙寺と称します。開山は日殿上人にして、上人は、静岡県富士宮市北山、大本山富士山重須本門寺根源第十世歴代上人なり。よって当山は本門寺の末寺にして、本門寺を常に本山と称しております。本山の御開山は、日蓮大聖人第三番目の御弟子、白蓮阿闍梨日興上人の開創せられた寺であります。当山の開山日殿上人は、大永六年(一五ニ六)に誕生せられましたが、その生国と姓氏ともに詳らかではありません。永禄十三年(一五七〇)八月十三日、時の駿河守護職今川氏より寺号をたまわり小田原の城外に蓮成寺を建立されたのでありますが、元亀三年(一五七ニ)三月十五日、その蓮成寺を現在地芹沢久保山に移して弁財山蓮妙寺と改称されたのであります。よって当山の建立年月日を元亀三年三月十五日と定める。御開山日殿上人は、天正十年(一五八ニ)二月五日、御年五十七才でなくなられております。尚、当山には弁財天女尊神、鬼子母尊神の両母尊神様が勧請なされております。平成七年八月八日当山施餓鬼会砌建立為 諦道院法成日亀居士 浄心日妙大姉 両親追菩提 施主 矢野福徳辨財山蓮妙寺第三十八世随祥代」「辨財山」。正面に「本堂」。右側にあったのが周りを池に囲まれた七福神の「弁天堂」。しかし入口には鍵がかけられ近づけなかった。その代わりに閉ざされた扉の横に案内板があった。「弁天堂このお堂には弁財天女尊神様を勧請しております。当山は山号を弁財山と定めておりますように、当山建立以前にこの土地の人々によってすでに信仰がなされていたのてはないかと考えられます。弁財天女尊神信仰の歴史は奈良、平安、室町時代を径て江戸時代に入ると福神信仰として繁栄、長寿財宝などあらゆる功徳を与えて下さる神様として信仰が発展していたようです。当山の弁財天女尊神信仰に於いても、昔から、この弁天様に願い事をするとその願いを、かなえて下さると云って信仰されております。又、音楽や芸事の神様ともいわれています。」「弁天堂」の内陣の写真の右側には「弁財天女尊神様」のお姿が。「明治百年祭記念植樹」碑。「本堂」。弁財山蓮妙寺。日蓮宗の寺院。『新編相摸国風土記稿』には「弁財山と号す、日蓮宗駿州富士北山本門寺末、本尊三宝四菩薩等」と記載されています。開山は静岡県富士宮市にある北山本門寺十世の日殿上人。寺伝によれば、もともと小田原にあった蓮成寺というお寺を元亀三年(1572年)に当地に移して名前を蓮妙寺に改めたものと伝えられています。江戸時代には芹沢を領した旗本戸田氏の庇護を受け、境内には最後の領主、戸田隆之助勝信の墓も残されています。相州小出七福神:弁財天が祭られていた。扁額「辯財山」。この右向きの鶴紋の名は「右向き舞鶴」であると学友からご教示頂きました。「本堂」右側にあったのが「鬼子母神堂」。扁額「鬼子母神」。「妙法 無縁法界萬霊塔」碑。「慰霊碑」全国檀家の戦没者を慰霊する碑である。昭和50年1月に蓮妙寺によって建立された。裏面には当寺院檀家の戦没者9柱の姓名と戦没年月日が刻されているが、うち2柱は当寺院の関係者である。碑高:196㎝、幅80㎝、厚さ16㎝、台石40㎝。碑正面:「萬國檀方中全國 慰靈碑 當山第卅八世随祥代」碑裏面:「當山檀方中戦没者飯島保直 昭和十三年九月十五日 廿五才 塩川重雄 昭和十五年九月四日 廿三才 青木 寛 昭和十九年四月十二日 廿三才 下田信雄 昭和十九年十月二十日 廿七才 川口直喜 昭和二十年三月廿三日 廿六才 塩川迪夫 昭和二十年六月十九日 廿五才 田代音次 昭和二十年八月十日 廿五才 霜島正覚 昭和二十年六月廿九日 三十才 当山第卅七世日成上人 神藤春美 昭和二十年四月廿三日 卅八才 当山第卅八世随祥師父昭和五十年十一月吉日 辨財山蓮妙寺建之」「辨財山 蓮妙寺抑モ当弁財山蓮妙寺ハ富士重須大本山本門寺第十世日殿上人ノ開創シ給ウ所ナリ 日殿上人ハ大永六年・・・」と内容は上記の「蓮妙寺縁起」と同じであった。「鬼子母神堂」を振り返る。墓石と左側は句碑であろうか。寺務所。そして隣にあったのが「タコ公園」。巨大なタコのすべり台があったが、日曜日にもかかわらず子供の姿はなく。これも未だコロナ禍の影響か?次に訪ねたのが「久保山貝塚」。神奈川県茅ヶ崎市芹沢。「久保山貝塚」は、茅ヶ崎市北部に広がる芹沢の久保山に所在する貝塚。県立茅ヶ崎里山公園の北西端に位置し、北側を流れる小出川に注ぐ小さな谷の西側斜面(標高17mから19m)の地中に残されていた。1996(平成8)年に里山公園の外周道路の整備工事に伴う事前の発掘調査が行われ、工事範囲となる南西から北東に傾斜した斜面で、縄文時代後期(3500年前)に属する多量の土器とともに貝塚(3m×4m)が新たに発見されたもの。調査を開始すると注口土器や深鉢形土器をはじめとした、堀之内1.式から加曽利B式というタイプの土器が足の踏み場もないような散乱状態で出土した。さらにその一画からダンベイキサゴやヤマトシジミなどの貝がらが層をなして発見された。そして複数の土偶、土製耳飾り、石器なども一緒に出土した。このことから、この斜面が当時のムラの人々の廃棄場(ゴミなどの捨て場)であったこと、また土偶の存在や多数の注口土器がほぼ完全な形で捨てられていた事実は、このムラで何らかの祭祀が大がかりで行われたことを物語る。この地域の縄文社会を担った中心的なムラがあったことは間違いありません と。「久保山貝塚久保山貝塚は、平成9年3月に新たに発見された茅ヶ崎市5番目の縄文時代貝塚です。この貝塚は約3、500年前の縄文時代後期にこの尾根上で集落を営んだ人々が一時期にまとめて投棄したものと思われ、3x4mの範囲にほぼ純粋な貝層が形成されていました。貝はダンべイキシャゴを主体とする海水産が大半で、ほかに汽水性のヤマトシジミもまとまって含まれていました。この時期には食料確保のために近くの海と川を積極的に利用したものと思われます。また、尾根上に営まれた集落は、多数の土偶や注ロ土器をはじめとした多量の土器類の出土から、かなり大規模なものと想定されます。貝塚の時期 縄文時代後期(堀之内Ⅱ式)員の種類 ダンべイキシャゴ バイガイ ツメタガイ チョウセンハマグリ ハマグリ トカシオリイレ ワスレガイ コタマガイ ヤマトシジミ他集茗の時期 緩文時代後期(堀之内I式から加曽利BI式)出土遺物 注ロ土器 深鉢 浅鉢 小型土器 土偶 石器類」そして次の目的地の「腰掛神社」に向かって畦道を進む。ここを左に折れて進む。そして「腰掛神社」の前の道に出て坂を上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.15
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「宝蔵寺」の石段を上り左手に墓地を見ながら進む。突き当りを右に曲がると、右手にあったのが「茅ヶ崎霊園 永久の郷」。神奈川県茅ヶ崎市芹沢4183。その先左手にあったのが「茅ヶ崎霊園永久の郷 管理事務所」。更に進むと、右手にあったのが、寺院の如き立派な山門。民家?の庭園への入口のようであったが。両脇には緻密な石の彫刻が。(右側)。左側。そして来た道を引き返すと、民家の横の花壇にはルピナスの花が。以前に北欧を旅行した際には、道路脇のいたるところに群生している様子を見かけたことを思い出したのであった。近づいて。そして次に訪ねたのが「神奈川県企業庁水道局 芹沢配水池 芹沢ポンプ所」内に展示されている「臼久保遺跡(うすくぼいせき)」。神奈川県茅ヶ崎市芹沢4222他 。しかし入口は閉ざされて中には入れなかった。「芹沢配水池」。「芹沢ポンプ所」。「芹沢配水池の工事に伴う調査で、縄文時代、弥生時代、古墳時代、中近世の遺構・遺物が発見されました。「臼久保遺跡」では盛り土して造られた直径18m程度の円墳と考えられるものが3基発見されましたが、塚部分は削られてしまっており周囲に巡らされた溝(周溝)がかろうじて残っていたため、その存在と大きさがわかったものです。また小出川を眼下に臨む西側の急崖に横穴を掘り墓室を造り上げた横穴古墳も4基発見されました。ともに約1400年前の古墳時代後期に造営されたもので、この地を治めた首長またはムラ長の代々の墳墓とみられ、領地を見下ろす絶景を選んだものと考えられます」と。「芹沢配水池」の水槽の壁の下に展示パネルが置かれていたので、門扉の隙間からズームで。弥生時代の住居の想像図のようだ。縄文時代の住居跡の写真であろうか。発掘された弥生時代の壺型土器(右)と土器、石器類。そして次に訪ねたのが「追出地蔵」。茅ヶ崎と寒川の堺の追出橋から延びる道と芹沢の外周をまわる「根通り」の道が交差する三叉路の真ん中に「追出地蔵」と呼ばれる地蔵様が立っていた。茅ヶ崎市芹沢4238−1。この地蔵菩薩も、例えば、「あの世」と「この世」の境界たる賽の河原にあって子供の魂を救済するものと信じられているように、境界性を強くもった神仏の一つとして理解されている。そうした背景もあって、道祖神同様、峠や村境など境に祀られることが多いとされているのだが、実際にこれほどわかりやすい「境界」に祀られている地蔵様というのは案外珍しいかもしれない。何の変哲もない小さな橋だが、その周辺は古い信仰世界が広がるちょっと不思議な空間だったりするのだ。左側には、石碑に彫られた地蔵様。そしてその右側には地蔵様が二体。お顔は復元されたものであろうか?こちらのお顔は失われていた。地蔵様の足下には、恵比寿様とキューピー人形?が。キューピーの眼が不気味であったが。花瓶には、アマドコロの新鮮な花が手向けられていた。次に訪ねたのが「光照山普門寺観音堂跡」神奈川県茅ヶ崎市芹沢3335かつてここに木造聖観音立像を本尊とする普門寺という建物があり、地元では「下馬落観音(げばらくかんのん)」とか「観音堂」と呼ばれていた と。奥には石碑と案内板が置かれていた。石碑「光照山 普門寺 観音堂阯」。裏面には「本尊「下馬落観世音菩薩」様は、芹澤山来迎寺に還歸遷座されました。」と。右手前にあったの「ぎゃーぎ婆さん」・「咳気神(げいきしん)」石仏。地元ではのどを患って亡くなったお婆さんを祀ったものと言われていて、咳に苦しむ人は竹の筒にお茶を入れてお供えし、そのお茶を飲めば病気が治ると信じられていたのだそうです。『茅ヶ崎市史3』では「ぎゃーぎ婆さん――咳気婆さんの意であろう」とその字義を推測していますが、咳気とは咳の出る病気で風邪の事。つまり「ぎゃーぎ婆さん」とは「咳のお婆さん」という意味で、古くは咳の神様として信仰されていたことがわかります。造立年は寛文六年(1666年)といいますから結構古いものです。胸がハダケた「ぎゃーぎ婆さん」。「道祖神」碑。「普門寺(下馬落観音堂)跡地かつてここに木造聖観音立像を本尊とする普門寺という建物があり、地元では「下馬落観音(げばらくかんのん)」とか「観音堂」と呼ばれていました。『新編相摸国風土記稿』の高座郡芹沢村の項には「普門寺 光照山と号す、来迎寺の寮なり 元和三年(一六一七)八月造立す 観音を置」とあります。本尊の観音像が「下馬落観音」と呼ばれた訳は霊験あらたかで馬に乗ったまま前を通ると、その無礼のために落馬すると言われたためです。「観音堂」には、本尊のほかに、その厨子、御前立の木造観世音菩薩立像、木造六観音立像、大数珠、および元和三年(一六一七)から平成十八年(ニ〇〇六)までの紀年銘を持つ棟札二十ニ枚(内1枚は記録はあるが現物は無し)などがありました。その中の最古の棟札に、元和三年に草堂を再建したとあります。諸般の事情から 「観音堂」は平成二十八年に取り払われて観音像その他は本寺の芹沢山来迎寺(浄土宗)に移されました石造女性座像胸をはだけた女性座像は「ぎゃーぎ婆さん」と呼ばれ、風邪やのどの病気を治してくれると伝えられています。市内には同様のものが今宿にもあり、やはり「ぎゃーぎ婆さん」と呼ばれ風邪治癒に霊験ありとされています。芹沢の像には、正面に向かって左側に「(1661~73)」の紀年銘があります。江戸時代になると、いわゆる路傍の石像が数多く作られますが、その初期のものに属する貴重な事例の一つです。なお、「ぎゃーぎ」は「咳気(がいき=咳あるいは咳の出る病気のこと)」に基づくと考えられています。また、胸をはだけた特異な姿は何かを表していると思われますが、それが何なのかは分かっていません道祖神正面に「道祖神」、向かって右側面に「享和ニ年(一八〇ニ)」左側面に「石井氏/作太□」と彫ってあります。なお□内の文字は「郎」のくずし字と思われます。市内に道祖神は数多く祭られていてセーノカミ、サイノカミとも呼ばれています。ここに祭られている道祖神は道の分かれる所にあり祭られている場所の伝統的なあり方を良く伝えていますが、他のところでは道路の拡張工事などで移されたものも少なくありません。道祖神は一年間の厄を背負ってくれる神と伝えられてきました。一月中旬にこの神の近くでセートヤキ(サイトヤキ、団子焼き)を行うのは、引き受けてもらった厄を焼き尽くすためと考えられています。」平成二十八年までこの場所に建っていた「下馬落(げばらく)観音堂」の在りし日の写真。本尊は下馬落観音で、三十三年に一度しか拝むことはできません。高座郡三十三観音霊場第14番札所という説があります。本堂は元和三年(一六一七)に再建されたものである と。田園地帯をひたすら歩く。そして「来迎寺」に到着。神奈川県茅ヶ崎市芹沢3291。寺号標石「浄土宗 芹澤山 來迎寺」。「芹沢山 高安院 来迎寺」。参道を進むと右側には「六地蔵」が。手前に「南無阿弥陀仏」碑が。「六地蔵」に近づいて。「六地蔵能化縁起供養誌六道の衢、五濁悪世の闇を輝らし衆々の厄難を済い訶伊の種子は醍醐を証らしめん六道に輪廻する衆生を救済する菩薩にして本願圣に曰く諸々の厄難を取り除いて地道を司祭し道をあやまらないよう見守る菩薩であります。 六地蔵尊の名称と持物と役割 一、大定智悲地蔵菩薩 香炉 地獄道教主 一、大徳清浄地蔵菩薩 宝珠 餓鬼道教主 一、大光明地蔵菩薩 合掌 畜生道教主 一、大清浄無垢地蔵菩薩 旌旗 修羅道教主 一、大清浄地蔵菩薩 錫杖 人間道教主 一、大堅固地蔵菩薩 念珠 天上道教主六地蔵尊は今から二百五十五年前、寛延三年一七四六年に建立されました今回柏木明氏の浄財喜捨によって修復再建がなされました。」七重石塔。五輪塔の「普門寺供養塔」。横には「普門寺歴代上人誌」碑があった。ここ来迎寺から数百メートル離れたところに「光照山普門寺」という堂が、平成28年8月まで建っていたのであった。「光照山普門寺」の歴代上人の墓石等がこの場所に移されたのであろう。「芹澤山 来迎寺 本堂新築落慶記念碑」。正面に「本堂」。参道右側に新しい「延命地蔵尊」。大きな石灯籠(右)。大きな石灯籠(左)。「本堂」に近づいて。扁額「芹澤山」。内陣。ズームして。「本堂」の中に七福神の「恵比寿神」が鎮座していた。寺務所。掲示板。「月影杏葉(つきかげぎょうよう)」と呼ばれる紋が浄土宗の宗紋。法然上人がお生まれになった漆間家の紋杏葉に、宗歌「月かげ」の月を配したもの。「本堂」の前の右から境内を見る。無縫塔が並ぶ。無縁塚。石仏の台座には「無縁一切之霊」と。雨が再び降り始め天水桶の水面がざわめく。本堂前から「来迎寺」の参道を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.14
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次茅ヶ崎市行谷の道を進んで行くと、右手に「金山神社」への入口が現れた。入口には可憐なダッチ・アイリスの花が。そして入口右手に「金山神社の庚申塔」が並んでいた。庚申塔(六臂青面金剛庚申塔)。庚申塔(四臂青面金剛庚申塔)承応4年:1655年銘「文字庚申塔」。「金山神社の庚申塔平成十八年ニ月十四日神奈川県指定有形民俗文化財庚申塔は、庚申信仰に基づいて江戸時代に盛んに造られるようになったもので、人の延命招福を願ったものである。この塔は青面金剛像を彫った庚申塔の出現期のもので、承応四年(一六五五)の年号が見える。元はここから東の芹沢境にあったと伝える。四臂(うで)でニ猿を従えるこの形式の塔はこれまで七基が見つかっており、いずれも相模川下流域(茅ヶ崎三、平塚ニ、寒川一、藤沢一)に分布している。初期の青面金剛像の庚申塔として貴重なものである。」正面に「金山神社」の石鳥居が見えた。扁額「金山神社」。そして参道の石段を上って行くと正面に「金山神社」の素朴そして小さな社殿が現れた。扁額には「金山大権現」と。「金山大権現堂再建成就之碑 宝蔵寺二十六世大○明芳建立」。社殿の左奥に「金山神社紀会碑」と刻まれた石碑。石段を下って下まで降りると、左手にあったのが「身代(みがわり)延命地蔵堂」。扁額「身代延命地蔵堂」。大、小のキイロスズメバチの巣がぶら下がっていたが、どこかから運んだものであろうか?内陣。宝蔵寺 身代延命地蔵相模国 高座郡 南部 地蔵尊 第一番札所。「身代延命地蔵堂」の石段の下の左手にあったのが「宝蔵寺庫裡」。「宝蔵寺庫裡」を正面から。「宝蔵寺庫裡」前から「宝蔵寺」の境内を望む。「宝蔵寺」の山門に廻り込み境内を見る。神奈川県茅ヶ崎市行谷318。寺号標石「宝蔵寺」。「身代延命地蔵尊 高座第一番札所」碑。「相模国 高座郡 南部 地蔵尊 二十四札所」。「相模国高座郡南部地蔵尊二十四札所というのは、江戸時代の中ごろから広く行われるようになった神仏「札所巡り」の一種で、全国各地に設定されています。二十四という数は、二十四日が地蔵尊の縁日とされていることからきているのではないかといわれています。高座郡南部地蔵尊二十四札所は、第一番の宝蔵寺(茅ケ崎市行谷)から始まり、茅ケ崎市の南部を巡って寒川町、藤沢市の北西部へと北上し、海老名の南部へ至るもので、最終の二十四番は海老名市中河内の地蔵堂(吉祥寺持ち)です。(茅ケ崎市内九カ所、寒川町内九カ所、海老名市内四カ所、藤沢市内二カ所。)」石段の上にある「山門」を正面に見る。「金峰山 宝蔵寺」掲示板。「聖観音菩薩像」であっただろうか。お顔をズームで。石板に彫られた「六地蔵尊」。右から、延命地蔵、宝手地蔵、宝処地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、堅固意地蔵 の名前が像の下に書かれていた。十八臂の千手観音、文化十四年五月の銘。「山門」。扁額「金峰山」。そして正面に「本堂」。宗派 曹洞宗開基 開山 傳室宗馨大和尚創建 天正8年本尊 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ札所 相州小出七福神(大黒天)相模国高座郡南部地蔵二十四札所 第1番御詠歌 「有難や 黄金の峰に 鳴る鐘は 実りの絶(たえ)の 響なりけり」本堂は昭和45年再建。1873(明治6)年5月1日、旧・ 行谷(なめがや)村の宝蔵寺に、行谷村外四ヶ村小学舎(現在の茅ヶ崎市立小出小学校)が設立された歴史がある。その後、堤にも学校ができ、統廃合の後、所在地も現在地へ移り、児童数も増え、校舎も拡大されたのだとか。扁額「宝蔵寺」。雨が落ちて来て「天水桶」の水面が揺れる。「金峰山 宝蔵寺曹洞宗(禅宗)南無本師釈迦牟尼佛当山本尊 釈迦如来大本山 福井県 永平寺 御開山 高祖道元禅師 横浜市 總持寺 御開山 太祖瑩山禅師 伝 統 お釈迦さまよりの正伝の佛法は達磨大師によって中国へ伝えられ曹洞の禅風として 開花し鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となす。その教義は瑩山禅師に よって広く全土に実践教化され今日に至る。教 義 「人は本来 佛性有り 己に佛心の具え有り」 正法の経典を讃仰読誦し深く黙照して坐し脚下照顧して己の足下を見つめ自然 (宇 宙)と一体なる自己を見極めて活達なる人生をいかしきるのが禅の実践なり。経 典 修証義 般若心経 観音経 寿量品等を読誦する。 本堂のご本尊に先ず合掌 」 「宝蔵寺 寺務所」。「震災記念 聨芳塔」。歴代住職の墓は「聯芳塔」(れんぽうとう)と言うようだ。「當寺開山 傳室宗馨大和尚禅師」が中央に刻まれていた。以下廿三世までの住職の名が刻まれていた。小祠の「稲荷社」。右側の石碑には「當寺開山 傳室宗馨大和尚禅師」と。本堂の左側にあった七福神社。「大黒天」像。「大黒天」を崇めると、五穀豊穣や商売繁盛など、主にお金にまつわるご利益があるとされている。なぜならば、大黒天が左肩に背負う袋は財宝、右手に持つ打ち出の小槌は湧き出る富、足で押さえた米俵は豊作を意味しているからである と。本堂の左側には「十二支地蔵尊」が並んでいた。「十二支地蔵尊」碑の正面から。「南無水子供養地蔵尊」。後ろにある銀杏の大木は大胆に伐採されていたが。「水子地蔵御和讃浮かびて小さき 泡一つ はかなく水に 消えゆきぬ面かげさえも ありなしの 追うに術なき あわれさよ育ちてあれば ほほえみて 母とし呼びて 縋り来んその名を呼べば 顔あげて 聲も明るく 駆け寄らんむねには迫る なげきあり 母にははゝの なみだありこの世の縁は 浅くとも 深くちぎらん つぎの世に南無や能化の 地蔵尊 南無や能化の 地蔵尊」「南無水子供養地蔵尊水子とは、不幸にしてこの世に生命を授かる事の出来なかった胎児の事を言います。悲しき水子の霊魂を供養し、更には子育子安地蔵尊として奉安されました。何卒万人の回向により無辺の功徳を得られん事を祈念致します。尚、特別回向御希望の方は寺の方に御申し出下さい」こちらの石段からも「金山神社」へ行けるのであった。「 萬霊塔」であっただろうか。「あじさい聖地和讃母と子の 両の手合せし 波羅密多に 依る故深く 慈悲にあふるゝ無心にて 願いをこめし 菩提心 法灯にすがる 母の心にあじさいの聖地に眠る 身佛と般若心経 浄土への旅」「宝蔵寺聖地亡き人の 面影偲び 今日もまた 墓参りし得たる 我が身 うれしき」そして境内を縦断する石段を上り「宝蔵寺」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.13
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「白峰寺」の境内の散策を続ける。ペット共同墓地には「想い出」碑があった。合同で火葬を済ませたペットを埋葬するための墓。また、希望により「納骨堂に安置されていたペットの遺骨を土に返したい場合」もこの墓に埋葬出来るのだと。「●お線香は左後ろのガラス台にあります。 ●お供えの食べ物などはココにあるボックスに入れて下さい。外に置くと すぐにカラスが来て散らかします。 ●お墓の前などで紙などを絶対に燃やさないで下さい。火種が飛び非常に危険です。 ●防犯カメラ作動中です。」「本堂」の左側の一段高い場所にあったのが「地蔵堂」・「地蔵様」をズームして。その隣には「太子堂」。「弘法大師坐像」。相模国準四国八十八ケ所 第81番札所正面に「四国八十八ヶ所之内本地千手観音第八十一番讃州白峰寺写文政三辰年(1820)十二月吉日」の銘があった。御詠歌:かしらには 月日の霜を いたヾきて 數の御寺を めぐるうれしさ。石碑群。左には「馬頭観世音」碑。「萬霊塔」。「本堂」横の参道には両脇に墓石が並んでいた。多くの陸軍戦死者の墓石であった。墓地の左側には無縫塔も並んでいた。歴代住職の墓であろう。そして「本堂」裏の参道を進む。「本堂」と新客殿「隨雲殿」間の回廊が右手下に。右手新客殿「隨雲殿」の横には休憩所が。そして「諏訪神社」。正面から。「諏訪神社」は、「下寺尾諏訪神社」とも。創建年代や由緒は不詳。当社はもともと、曹洞宗白峰寺の東側に鎮座していた。明治時代末期に堤地区の諏訪神社、行谷地区の金山神社、下寺尾の諏訪神社の三社が合祀され、現在の建彦神社となった。合祀以後、旧諏訪神社については白峰寺の一角に神社記念碑が残されるのみとなった。昭和60年(1985年)、神輿が制作、完成したことをきっかけに、白峰寺の一角に神輿殿が造られた。さらに平成6年(2004年)5月、建彦神社より御霊分けをし、社殿がここに設けられ、再建された。御祭神は建御名方命とされる。横にあったのが「神輿殿」。「下寺尾諏訪神社」の「神輿」👈リンク をネットより。鳥小屋もあった。烏骨鶏(うこっけい)に似ていたが。「諏訪神社遺跡紀念碑」。「道祖神碑」。「祈願町内安全 道祖神」。昭和五十三(1978)年。「双体神祇道祖神」碑。安永八(1779)年。「掲示板」。「全て行動だよ 考えていてもどうしようもない」。「白峰山」を後にして、「小出中央通り」を東に進み坂道を上って行った。そして左折し北に向かう。雨がポツポツと落ちて来た。トキワマンサク(常葉万作)の大きな樹が満開。その先にあったのが「茅ヶ崎新北陵病院」。そして茅ヶ崎市行谷のT字路を左折して「宝蔵寺」に向かった。先のT字路を右手に50mほど進むと、左手の山の斜面にあった道祖神。「行谷長久保の道祖神」。茅ヶ崎市行谷245。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.12
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次茅ヶ崎市寺尾の住宅地を進む。大きな家の庭には、手入れの行き届いた大きなカイズカイブキの樹が。「大岡越前通り」からの分岐地点に石碑があった。「下寺尾西方の道祖神」。左側には五輪塔の部位が。兜巾型文字道祖神であり文化二(1805)年と刻まれていた。「道祖神」の銘がはみ出るほど大きいのであった。神奈川県茅ヶ崎市下寺尾1174。そしてこちらは民家の岩塀の隙間に置かれていた「下寺尾中山山王社の道祖神」。茅ヶ崎市下寺尾1139。兜巾型文字道祖神で安政二(1855)年と。「大岡越前通り」の「みずき」交差点を東に進む。「駒寄川」に繋がる水路の近くには「正一位伏見高倉稲荷神社」があるはずであったが現在この場所は造成中であり、その姿はなかった。どこかに遷宮されたのであろうか?この「正一位伏見高倉稲荷神社」は何処へ? 【https://www.sagami-yashiro.net/2013/12/blog-post_7002.html】より県道47号線近くの墓地の角にあった石碑群。白峰寺の手前の小出中央通りに面した場所にあった「地蔵尊」。木立に囲まれ一段高い場所に鎮座した「地蔵尊」。神奈川県茅ヶ崎市下寺尾1559。既に桜は今年の仕事を終えて。銅葺屋根の社の中には「地蔵尊」と石碑が。「地蔵尊」に近づいて。「・・・観世音」と刻まれた観音碑であったが。歌碑。「里まもる 観音様も 江戸そだち 包む白衣も 子等安かれと」。地蔵堂前に立つ歌碑には、「朝霧に 深き緑の 白峰の 後世守り給いし 地蔵尊 佐藤セン」と。そして脇の小径を進むと正面に石碑が姿を現した。「不許葷酒入山門」碑。「葷酒山門に入るを許さず」と。多く禅宗の寺の門前に立つ結戒の一つ。 「不許葷酒入山門」とあり、臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。石碑の後ろには、これから訪ねる「白峰寺」が拡がっていた。脇の入口の石段を見る。「小出中央通り」沿いにあった入口には寺号標石「景徳山 白峰寺(はくほうじ)」が立っていた。神奈川県茅ケ崎市下寺尾1551。「景徳山 白峰寺」の境内案内板のようであったが・・・これぞ「白包地」。元気な頃の姿をネットから。 【https://hotokami.jp/area/kanagawa/Hkyty/Hkytytp/Dmmpt/54789/】より更に詳細図もネットから。これがあるとブログの書き込みが楽なのである。 【http://www.t-samukawa.or.jp/~petreien/facilities.html】より右手に「隨雲殿」。法要会場・会食場であろうか。扁額「隨雲殿」。境内右側には見事な庭が拡がっていた。石灯籠。「本堂」と「隨雲殿」の間の庭には池が拡がっていた。懐かしき「井戸ポンプ」の姿が。「白峰寺池」に近づいて。「本堂」と「隨雲殿」の連絡回廊を見る。銀杏の樹には瑞々しい緑色の若葉の新緑が。その奥には「動物愛護の会受付寺務所」があった。動物愛護の会がペットの葬儀火葬埋葬の面倒を見てくれるようであった。本堂手前左側にあったのが、「寿老人」の社。「相州小出七福神」の寺であった。「寿老人」。今年、2022年1月4日(火)~31日(月)の期間、「相州小出七福神」スタンプラリーが行われ我が旅友も電動アシスト自転車で廻ったとのことであった。【https://www.chigasaki-kankou.org/wp/wp-content/uploads/2018/12/6df237f5d4652bce0b74d9708a0353c7.png】よりそして「本堂」が右側に。曹洞宗 景徳山 白峰寺。開基 松平家開山 峩国(がこく)禅甫和尚創建 天文13(1544)年本尊 阿弥陀如来札所 相州小出七福神(寿老人) 札所 相模国準四国八十八ヶ所第81番御詠歌第81番景德山白峰寺「頭(かしら)には 月日の霜をいただきて 数のみ寺にめぐる嬉しさ」現在の本堂は、大正14年に火災により焼失したものに代わり、昭和2年に檀信徒の力添えにより再建されたもの。内陣にあった「圓通(えんずう)」の額。伊予松山第9代藩主松平定国公によって書かれたもの。天明元年(1781年)5月24日、定国公は白衣観音を礼拝され、同年5月30日に「圓通」の2字を賜りました と。「圓通」とは「周圓融通」の略。仏語。智慧によって悟られた絶対の真理は、あまねくゆきわたりその作用は自在であること。また、真理を悟る智慧の実践 と。「観音堂」。安永8年(1779年)の頃、白峰寺第11世大嶺梅薫(だいれいばいくん)大和尚が江戸に布教していた折に、その説教に感銘した芝宇田川町の花屋治郎兵衛より唐国伝来の白衣観音像が奉納された。以来、白峰寺の観音信仰は江戸時代から庶民の信仰を集めてきた。しかし、本堂と同様に火災により当時のものは焼失してしまったが、昭和49年に復興した と。「白峰寺 白衣観音観音さまは、世の中の音声を観じて、一切の生きとし生けるものに無量の慈しみの心をもって、苦しみから救ってくださる菩薩さまです。観音さまは救済にあらわれる時、多くの姿をとると言われています。白衣観音はその姿のひとつであり、深く信仰することにより立派な子供が授かるといわれています。当山の白衣観音への信仰は江戸時代から続き、当時盛んだった大山詣りの帰り道には当山を訪れ、安産祈願はもとより、育児祈願、息災延命や家内安全などを願って手を合わせたと伝えられています。皆さまも、生きとし生けるもののために心静かにお参りください。 合掌」ズームして。現在は火葬、納骨されたペット達を供養するための塔であると。「観音堂」入口。ここがペットの「納骨堂」入口なのであった。正面に「観音菩薩像」。その後ろには犬の姿が。壁には見事な絵画が周囲全域に渡って。白衣観音の姿であろうか。授乳する母の姿。裸婦の姿。祈りの姿。見上げて。天井。裸婦そして鶴の姿も。動物の「納骨堂」とは思えない、芸術的な光景が拡がっていたのであった。ペットを飼う人の人気の寺であることが何となく解かったのであったが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.11
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次次にもう一つの詳細な「案内板」へ。左側は「七堂伽藍跡から出土した遺物七堂伽藍跡からは、多くの遺物が出土しています。写真は古墳時代前期から平安時代までの土器類の一部をまとめたものです。古代では、土器のほか瓦や金属製品なども出土していますが、その中には、寺院の存在をうかがわせる仏教関係の多くの遺物をみることができます。土器 灯明皿土器の口縁部や内側に煤痕がみられるもので、灯明皿として使用されていたものです。灯明皿はまとまって出土する場合があり、万灯会などの仏教行事が行われていたことがわかります。土器 墨書土器土器に文字などが墨書されているもので、写真資料は「生」という文字が読めます。当時この地域で力があった壬生氏との関係も考えることもできるかもしれません。軒丸瓦屋根の軒先に使用される瓦で蓮花の花の文様がみられます。相模国分寺(海老名市)や相模国府域(平塚市)より出土している瓦にも、同じ文様がみられることから、その関係が注目されます。写真、上から土器 灯明皿土器 墨書土器軒丸瓦仏鉢 須恵器と呼ばれる窯で焼かれた土器で、形は僧侶が修行に使用する 托鉢と同様な形をしています。 高さ11.9cm、口径15cm。鉄製釘 釘の断面形は現在のような丸ではなく四角をしています。 推定講堂の周辺からややまとまって出土しており、建物に使用された 釘であることを窺わせます。壁材 廃棄土坑からまとまって出土していたもので、熱を受けています。 火災にあった建物の壁材である可能性が高いと思われます。ニ彩陶器当時の焼物としては高級なニ彩陶器が出土しています。 薬壺(やっこ)(上段左側) 薬壺の蓋でつまみを有しています。 径5.1cm。 壺(上段右側) 小型瓶のロ縁部です。 残存高は1.3cm。 火舎香炉(下段) 仏具に関連するもので、三足と思われますが、右側は火を受けて 足が欠損しています。 左側高さ4.85cm。右側3.9cm。鋼製品七堂軏跡からは出土例が少ない鋼製品も出土しています。 銅匙(上段) 長さ15.9cmで、一部が欠けています。銅成分の調査から、国内の材料ではない ことが明らかになっており、朝鮮半島から持ち込まれた可能性があります。 都との関わりを考えることのできる資料です。 軸端(下段左側) 経典などの巻物がずれないように軸の両端に密着するもので、神奈川県では 初めての資料です。最大径1.85cm、長さ3.1cm 懸仏(下段右側) 円板につけられる十一面観音菩薩。時期は古代末から中世初頭と考えられます。 この場所で信仰が継続ていた可能性が高いのです。高さ3.1cm。」「発掘で明らかになった七堂伽藍跡」中央左側案内。整地層寺院を建立する際に地形を平坦にする造成工事が行われた跡が、整地層などから確認できました。土層観察によると寺院の北側を中心に広くみられることから、北側が低い地形であったことがわかりました。推定講堂 掘立柱建物(四面廂(ひさし))伽藍域内中央西寄りには、規則的に並んだ柱跡が見つかり、東西7間、南北4間で、各辺に廂のある建物が建っていたことがわかりました。形状などから講堂と推定されます。また、数回の建て替えが行われており、掘立柱建物から、礎石建ち建物に変遷しています。廃棄土坑土坑は穴のことで、大量の焼土とともに火を受けた瓦や土器などがまとまって埋まっていました。なかには火を受けた壁材と思われる塊もあり、火災にあった建物の瓦礫を捨てたものと思われ、火災が起きた可能性を示しています。区画遺構(掘立柱塀)西側の区画遺構で、溝状遺構とその中に規則的に掘られた柱穴列が確認されました。創建期の掘立柱塀が構築されていたと思われ、不整ですが方形にお寺が区画されていたことが明らかになりました。中央右側の案内。瓦集中遺構割れた瓦が大量にまとまって出土している遺構で、範囲は東西約5.6m南北約7 .7mを測ります。この瓦は建物の基礎を固めるために二次利用されたと思われ、伽藍区間の北東外側に位置していますが、寺院に伴う施設と思われます。区画遺構(築地塀)伽藍域を示す北東部分では並行する溝の跡が確認されています。土を版築して構築された築地塀にともなう溝と考えられます。再建期のものと考えられ、一辺78mの正方形に区画されていたことがわかりました。推定金堂 基壇建物南北15.8m東西1 8.8mの範囲で地盤改良された遺構(堀込地業)が確認されました。これは地盤を硬く固め、瓦葺きなど重量のある建物を建てるためのもので、仏像を安置する重要な建物である金堂であったと考えられます。確認された礎石径約70 cm厚さ約30 cmの大きな石が検出されましたが、上部が概ね平らに加工してあることから柱を置く礎石と思われます。関連する礎石は発見できす建物の向きや規模ははっきりしていません。周りには礎石を据え付ける為の人頭大の石が置かれていました。右側の案内「七堂伽藍跡と下寺尾官衙遺跡群」。遺跡配置。「七堂伽藍」とはお寺を示す言葉で、この場所には今から約1300年前の古代(飛鳥・奈良時代)にお寺が建っていました。地元では長い間、古いお寺があったと言われていましたが、1978年に行われた発掘調査で、古代寺院の存在が明らかになりました。本遺跡は七堂伽藍跡という名で知られていますが、所存する地名から「下寺尾廃寺」とも呼んでいます。七堂伽藍跡の周辺には茅ヶ崎市の西方遺跡や北B遺跡、寒川町の大曲五反田遺跡や岡田南河内遺跡など同じ古代の遺跡が確認されており、これらは関連する遺跡であることから全体を下寺尾官衙遺跡群として捉えています。官衙とは役所のことで、西方遺跡では相模国高座郡の役所(高座郡家)が発見されています。この役所を中心に役所である七堂伽藍跡や船着き場(川津)、さらに祭祀が行われた跡など関連する場所が見つかっています。こうしたことから下寺尾官衙遺跡群は、古代における地方の官衙遺跡を知る上で重要な遺跡であると評価され、2015年3月10日付けで国の史跡に指定されました。下寺尾官衙遺跡群が所在るす位置は地理的にみて当時の陸路や海路などを交通の要所てあったことが窺えます。まに、立地する地形は、西に向かって延びる標高約13mの平垣な台地と、台地南側を流れる駒寄川との間に形成された砂州や凹地の低地で、高座郡家のある西方遺跡は台地に七堂伽藍跡や川津は低地にあたり、当時の景観も復原することも可能です。「下寺尾遺跡群略年表」。今から約1300年前のもので、官衙 (かんが) とは役所のこと。当時は律令国家と呼ばれる、天皇を中心とした政治がおこなわれていた時代で、国家を国―郡―里 という形で統治していた。全国は約66か所の国に分かれており、現在の神奈川県は、相模国と武蔵国の一部にあたる。地方の国には都から役人が派遣されるとともに地方を統治する役所である国府が置かれ、その下の郡には郡衙(郡家)と呼ばれる役所が設けられていた。相模国には 8 郡が存在しており、現在の茅ヶ崎市は高座(たかくら)郡に該当していることから、下寺尾で発見された官衙遺跡は、相模国高座郡の郡役所の跡であることが明らかになったとのこと。発掘調査完了後は、遺跡保護の為に完全に埋め戻され、雑草が生い茂っていたが。その先にはJR相模線の線路が。「発掘調査現場の様子現在の地表面より深さ50cmの位置から、寺院の区画や関連遺跡が発見されています。」。この場所の下の様子なのであろう。遺跡の奥まで歩いて案内板の設置されている方向を振り返る。「推定講堂規則的に並んだ柱跡が見つかり、東西7間、南北4間の建物で、各辺に廂(ひさし)が設けられていたことがわかりました。形状などから講堂と推定されます。また、数回の建て替えが行われており、掘立住建物から礎石建ち建物に変遷しています。」建物跡には「カラーコーン」が置かれていたのであったが、風で?倒れて。タンポポの綿毛が一面に旅立ちの準備を。近寄って。JR相模線、R相模線の「小出川橋梁」方面を見る。そして発掘時の生の現場を見たかったと思いながら「下寺尾官衙遺跡群」を後にしたのであった。菜の花越しに小出川に架かるJR相模線の「小出川橋梁」を見る。歴史を感じさせる橋で随分重厚な感じがあったのだが、曲線が優美ななかなか美しい橋。そして正面に「小出川」が見えた。「小出川の架かる「寺尾橋」が見えて来た。「寺尾橋」とその先に寒川町岡田の住宅街が。「小出川」。橋名板「寺尾橋」。多くの橋名板での、記載事項の設置位置は次のようになっている。道路起点側から見て左側に「漢字表記の橋名」道路起点側から見て右側に「交差する河川(鉄道)などの地物名」道路終点側から見て左側に「竣工年月」道路終点側から見て右側に「ひらがな表記の橋名」 【https://blue.ap.teacup.com/feeling/img/1379837828.gif】より日曜日の為か、車の数は少なく。「小出川」の上流を見る。そして引き返して坂道を上って行くと左側に小さな丘があった。案内板があった。「西片貝塚貝塚の時代 : 縄文時代前期( 6 ~ 7 0 0 0年前頃)立地 : 相模野台地南西端の平坦部北側海抜約12m所在地 : 茅ヶ崎市下寺尾601付近貝の種類 : ヤマトシジミ(主体)、チョウセンハマグリ、 カキ、サザ工など伴出遺物 : 縄文土器(関山式、黒浜式を主に上坊式を含む) 石器(石鏃、打製石斧、削器など)この時期は、地球温暖化による海面上昇で、眼下まで海が寄せていました。小出川、駒寄川の河口には海水と淡水が混ざリ合うラグーン(潟湖)が形成されてヤマトシジミが生息していました。縄文時代前期頃の人々の活動やその頃の自然環境を知ることができる貴重な遺跡です。」「下寺尾官衙遺跡群と弥生時代環濠集落下寺尾官衙遺跡群は、相模野台地南西端のこの地に7世紀終わり頃に営まれた高座郡衙(郡の役所)と南側の低位部に存在した古代寺院(七堂伽藍跡)、及び小出川に築かれた津(船着き場)、河川を利用した祭祀場などからなる古代の公的機関を包括しています。弥生時代環濠集落は、空堀(巾3m深さ2m程度)で囲まれたムラで、関東では最大級の規模といわれていま。(弥生時代中期: 2 0 0 0年前) 」「西片貝塚」跡を廻り込んで見る。左手に見えたのが「茅ヶ崎北陵高校」のグランドであろうか。ここは「大岡越前通り」。「神奈川県立茅ヶ崎北陵高等学校」の旧正門。私が中学1年生であった1963年に設置開校された。当時の高等学校の略称は北陵(ほくりょう)。徳田章(元NHKアナウンサー)、野口聡(宇宙飛行士)の出身校である。旧正門から北陵高校旧跡地を見る。校舎の老朽化に伴い、校庭を活用した建て替えを計画したが、2002年に地中から古代の役所「郡衙(ぐんが)」の跡が見つかったため一時断念。2013年に、遺跡を傷つけないよう、校舎の基礎上に木造校舎を建てる計画を打ち出したが、地元市議会や考古学の専門家が「歴史的資産の公開・活用を無視している」などと反対し、中止に追い込まれた。一方、生徒は2006年から約200メートル先の民有地に建設されたプレハブの仮設校舎で授業を受けて、未だに新たな用地が未決のまま現在にまで至っているとのこと。現在の旧茅ケ崎北陵高校跡地には、体育館(写真奥)とグラウンドだけが残る。校舎は14年に解体され、現在は木の柵(体育館手前)で囲われているのであった。「大岡越前通り」を東に進むと、道路脇の大木が道路側を深く伐採されて。大型車の為に道路上部が円形に刈り込まれていた。茅ヶ崎北陵高校のグランドは旧グランドも使用されていたのであった。そして次に訪ねたのが「湘南公園墓地・茅ヶ崎霊園」。正面の多目的ホールを見る。「湘南公園墓地・茅ヶ崎霊園」と。「管理棟」であっただろうか?そしてこちらが正門。こちらにも「湘南公園墓地・茅ヶ崎霊園」と。正門から多目的ホールを見る。一面に墓地が拡がる。総面積/区画数:55,304m² / 8,129区画とのこと。なんと□230m以上の広さ。反対側にも。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.10
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次更に「茅ヶ崎北陵高校」の東側の道を進んで行くと、正面角に石碑が立っているのが見えた。石碑、案内板を正面から。近づいて。「七堂伽藍跡」と。更に。「下寺尾寺院跡(伝、七堂伽藍跡)茅ヶ崎市下寺尾字西方このあたりは昔から七堂伽藍跡と呼ばれており、周辺からは古い布目瓦や土器が出土し、建物を支える礎石も多数発見されています。「上正寺略縁起」によると、昔この地に、「海円院」という寺院があって寿永・文治の頃(一一八ニ~一一九〇)兵火によって焼け落ちたと記されています。昭和五十三年七月に茅ヶ崎市史編さん事業の一環として行われた確認調査の結果、瓦の破片、灯明皿として使われた多量の土師器などが出土して、このあたりが古代寺院の跡であることが明らかになりました。平成十二年度から開始された詳細確認調査では、寺院の主体である伽藍域を囲む大型柱穴列などの区画遺構が発見されたことから、一辺約八十メートルに及ぶと推定される方形区画の伽藍域を中心に、七世紀の終わり頃に創建された寺院であることがわかってきました。また、この伽藍域の中では、丁寧に版築した「掘り込み地業」と呼ばれる土地造成遺構が確認され、この部分に礎石建ちの主要な建物があったことが明らかになっています。また、こうした調査によって、銅匙、軸端、墨書土器、香炉など寺院に関連する建物も出土しています。なお、石碑の土台石は当時の礎石を利用しています。」「七堂伽藍跡碑について本碑は、昭和32年(1957)12月15日に七堂伽藍遺跡保存会によって建立されました。保存会には、石碑建立の発起人142名、特別賛助員19名、寄付等に協力された45の市内の商店や会社などが参加していました。碑文には、七堂加藍跡の歴史的説明に加え、建立の趣意が次のように刻まれています。「今回我等が建碑の趣意は是等の貴重な資料の保存と今後研究家の訪れるのを待っ為に他ならない」七堂伽藍跡は、下寺尾官衙遺跡群の一部(下寺尾廃寺)として、平成27年(2015) 3月10日付けで国史跡に指定されその中心部が保存されています。今回建碑60周年を記念し、遺跡保存の足跡を後世に継承するため説明板を設置しました。石碑仕様石質 新小松石 産地 根府川規格 高さ325cm 幅44cm 厚さ24cm揮毫 内山岩太郎(神奈川県知事)碑文 撰文 鶴田栄太郎 書 佐々木孝之製作 石工 殿代忠義」建碑式の記念写真 昭和32年(1957)12月15日下寺尾の「人物」&「民話」紹介。「下寺尾の都市資源紹介「人物」 鶴田栄太郎氏( 1888 ~ 1968 下寺尾遺跡群の一画にある「七堂伽藍跡の碑」建立の中心となったのが、鶴田栄太郎氏です.彼は茅ヶ崎生まれの郷土史研究家で、一生を茅ヶ崎の史跡発掘、研究、紹介活動に尽くしました。伝説の七堂伽藍については、本当なのかどうかや時代者証などで多くの議論があり、結論は将来の『研究』にゆだねられました.彼は、この「七堂伽藍」研究を機に、西久保宝生寺の阿弥陀三尊像の発見、東海道ー里塚は、懐島の碑など数々の句碑の建立、大岡祭の開催など茅ヶ崎の文化財保護活動をはじめ、郷土史小冊子「あしかび叢書」を創刊し、郷土史雑誌「武相文化」などにも積極的に投稿し、茅ヶ崎の史跡・文化財を積極的に紹介し読けました。1968年10月20日、講演を終えた後、「これで今日の講座を終わります」と言い終えるや、隣の人に倒れかかり絶命したと言ういきさつは、終生の研究者を象徴しています.近年「古代寺院( 七堂伽藍跡)」の存在が証明され、国の史跡になるにあたり、草むす「碑」のそばに立ら、大いに喜んでおられることでしよう。こんなに素晴らしい宝を探究し伝えてくださった鶴田栄太郎氏に、茅ヶ崎市民として深く感謝いたします。(増田・富水)」「下寺尾の都市資源紹介「民話」 民話 【七堂伽藍】昔、下寺尾に大きな寺がありましたが、火事で焼けて今はありません.この火事は住職の尼さんの比丘尼が、南港の漁師の苦情に耐えかねて寺を焼いたというお話です.今からハ百年ほど昔、現在の茅ヶ崎北陵高校の南の所に、海円院というお寺がありました。大きな規模ですので近在の人々は七堂伽藍とも呼んでいました。比丘尼は、30歳そこそこで、美しく聡明で気立てがよく、近郷の村人にたいへん慕われていました。比丘尼は空腹で倒れていた乞食の助三の看護をして、寺にしばらく住ませていました。お寺の灯明の灯りのせいで魚が取れないという漁師の苦情に思い悩む比丘尼に、助三は心を痛め、本堂を焼いて姿を消しました。海円院の火歩の後、南湖の海ではもとどおり豊漁が続くようになりました.身代わりになって役人に捕らえられた比丘尼は、詮議を受け、処刑されたとのことです.「茅ヶ崎の民話劇 第一集」編集 茅ヶ崎民話の会(要約 川合)」 【https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/006/155/vol12.pdf】よりそして更に下寺尾の住宅街を進む。前方にJR相模線の線路が現れた。「下寺尾官衙遺跡群」の上空からの写真を「Google Map」から。右側に「神奈川県立茅ヶ崎北陵高校旧校舎」、左下に斜めにJR相模線は走る場所。そして前方に「下寺尾官衙(かんが)遺跡群・下寺尾西方遺跡」が現れた。「史蹟 下寺尾官衙(かんが)遺跡群」案内板。ここは相模国・高座郡家のあった場所。郡家(高座郡家)・郡寺(下寺尾廃寺)、関連施設の川津(船着場)・祭祀場などが発掘調査で明らかになっている。相模国では2例目とのこと。寒川駅を過ぎ茅ヶ崎駅方面に向かうと左手に『下寺尾官衙遺跡群」の大きな看板が設置されていてこの文字だけはJR相模線に向いているので車窓からも確認できるのであった。以前から気になっていたが、今回初めて訪ねたのであった。案内板が2基、それぞれ詳細に書かれていた。「史蹟 下寺尾官衙遺跡群」案内板が手前に設置されていた。「発見された下寺尾官衙遺跡群は、今から約1300年前のもので、官衙(かんが)とは役所のこと。当時は律令国家と呼ばれる、天皇を中心とした政治がおこなわれていた時代で、国家を国―郡―里という形で統治してい ました。全国は約66か所の国に分かれており、現在の神奈川県は、相模国と武蔵国の一部にあたります。 地方の国には都から役人が派遣されるとともに地方を統治する役所である国府が置かれ、その下の郡には郡衙(郡家)と呼ばれる役所が設けられていました。相模国には8郡が存在しており、現在の茅ヶ崎市は高座(たかくら)郡に該当していることから、下寺尾で発見さ れた官衙遺跡は、相模国高座郡の郡役所の跡であることが明らかになりました。」「相模国の八郡現在の神奈川県は、古代においては相模国と武蔵国の一部に該当していました。このうち相模国は、さらに8郡に分けられていました。」相模国には、足柄上(あしがらのかみ)郡、 足柄下(あしがらのしも)郡、余綾(よろぎ) 郡、大住(おおすみ)郡、愛甲(あゆかわ)郡、 高座(たかくら)郡、御浦(みうら)郡、鎌倉 (かまくら)郡の8郡があり、この中でも高座 郡はその位置や大きさなどから相模国の中心的な郡であったと推定されます。 ここ下寺尾は、郡の役所(郡衙)としては、古い 段階に造営されたと考えられます。「史蹟 下寺尾官衙遺跡群下寺尾官衙遺跡群は茅ヶ崎市下寺尾に所在する西方遺跡と七堂伽藍跡を中心に、香川北遺跡や隣接する寒川町の大曲五反田遺跡、岡田南河内遺跡を含めた複数の遺蹟からなるもので、今から約1300年前に古代相模国高座郡に設置された官衙(役所)を中心とした遺跡群です。本遺跡は比較的限定された範囲に郡家(ぐんけ・高座郡家)や郡寺(下寺尾廃寺)さらには関連する施設(川津)と祭祀場などが発掘調査によって明らかになっており、地方における官衙遺跡の全体像や変遷、立地を知る上で重要であると評価され、平成27年(2015)3月10日に国の史跡に指定されました。」「下寺尾官衙遺跡群周辺の景観推定復元図(平成20 (2008)年作成)(田尾誠敏:構成霜出彩野:画)」下寺尾廃寺(七堂伽藍)全域遺構配置図。「下寺尾廃寺(七堂伽藍跡)」案内「下寺尾廃寺(七堂伽藍跡)下寺尾廃寺では昔から古瓦などが発見されており、昭和32年(1957)には142名の有志が中心となり遺跡の調査と保存を願い「七堂伽藍跡」の石碑が建立されています。昭和53年に行われた確認調査で伽藍域の範囲、主要建物の内容、年代などが明らかになりました。寺院の年代は創建期が7世紀末から8世紀前半、再建期が8世紀後半、改修期が9世紀第2四半期から中ころ、そして寺院廃絶期は9世紀後半と考えられています。さらに10世紀後半から11世紀代にも仏堂が建てられていたと考えられます。」掘込み地業模式図。金堂発見された金堂は丁寧に版築された掘込地業を伴う基壇建物で、周辺からは瓦が多数出土しており瓦葺きであったと思われます。掘込地業とは重量のある建物を建てる部分を掘り下げ、新たに土や粘土などで突き固め堅牢な地盤として安定させる工法のことです。礎石建物(金堂)の掘込み地業(西から)。講堂講堂と考えられる建物は柱が3間×7間の規模を有する大型掘立柱建物で、東西方向に建てられています。この建物には各面に廂が付いており格調の高い建物であることが窺えます。建物は再建期においてもその場所を引き継ぎながら建替えられたと思われます。大型立建物復元図(上)大型堀立柱建物(北から)(下)伽藍域寺院の伽藍域については、大型柱穴列や区画溝によって規模や時期が確認されています。創建期には掘立柱塀によって区画され、不整の方形に囲まれた形であることが、また再建期には築地塀によって一辺78mの正方形に区画されていたと考えられます。区画遺構復元図(築地塀)(上)区画溝と土器集中遺構(北から)(下)区画遺構復元図(掘立柱塀)(上)大型柱穴列(掘立柱塀) (北から)(下)案内板 中央部。「川津と祭祀場小出川河川改修に伴う調査で、川津(船着き場)が発見されました。近くには掘立柱建物が複数並立して建っており、役所に関連する物資の荷揚げや積み出しのための一時保管施設であったと考えられます。時期は8世紀後半から9世紀中ごろと考えられています.また川津が発見された付近からは、人面墨書土器や、皇朝銭、斎串などが出土しており、この場所で水辺の祭祀が行われていたことが明らかになっています。官衙周辺で行われていた穢れなどを祓う神祇祭祀がここでも行われていたと考えられます。」小出川河川改修関連遺跡の河道跡と祭祀関連遺物(「小出川Ⅱ・Ⅲ」より転載一部改変)河道跡と川津(北から) (「小出川Ⅲ」より転載)案内板 右部高座(高倉)郡家郡庁、正倉、館、厨など郡家を構成する建物が明らかになっています。郡家の範囲は区画を示す溝状遺構が発見されており、東西約270mの規模を有していた時期があったと思われます。また、郡家の年代については中心となる郡庁の遺構状況からⅠ期が7世紀末から8世紀中葉、Ⅱ期が8世紀中葉から9世紀前半と考えられています。なお、郡家は台地に配置されており往時は遠くから郡家の存在を知ることができたと思われます。正倉正倉は納められた税を保管していた倉庫で、郡庁北側約100m地点で、東西方向に総柱の高床構造を持つ掘立柱建物が4棟以上並んで建っていました。また、南側には並行して東西方向に2間×12間以上の長い建物があったことも明らかになっています。郡庁郡家の中心となる郡庁は政務や儀式が行われた場所で、規模は東西約66mを測り、中央に位置する正殿は建物の四面に廂(ひさし)が付いていた格調の高いものでした。当初は正殿の北側に後殿、東と西側に脇殿が配置されていましたが、後に塀で区画する形に変化しています。祭祀場みずき地区の区画整理事業に伴う調査では、発見された旧河道から木環、墨書土器、皇朝銭、銅鈴、櫛、さらには漆紙文書などが出土しています。川津付近で発見された祭祀場と比べるとやや仏教的要素が見受けられる内容の祭祀が行われていたことが窺えます。」雑草の生える遺跡の中に防草用?&遺跡保護用シートが貼られた帯状の一角があった。「寺院の伽藍域を区画する遺構寺院西側の区画遺構で、溝状遺構とその中に規則的に掘られた柱穴列が確認されました。創建期のものと想定される堀立柱塀が構築されていたことが明らかになりました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.09
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次この日は4月17日(日)、3回目の「茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る」にJR相模線の「香川駅」からスタートする。線路に沿って進み、踏切を渡らずに反対方向へ。香川 浄心寺前の「双体道祖神 」その横に五輪塔部位の積み重ねが。茅ヶ崎市香川5-9-23 「双体神祇道祖神」に近づいて。この日の最初に訪ねたのが歴史のある日蓮宗寺院「浄心寺(じょうしんじ)」。神奈川県茅ヶ崎市香川5丁目8−1 。「浄心寺」は通称「七面さん」と呼ばれている と。「開運 七面大明神」碑。七面天女は、法華経行者の守護神・鬼子母神(きしもじん)の子どもにあたる十羅刹女(じゅうらせつにょ)の一人であるとも、八大龍王の孫娘の一人にあたる龍神だともいわれている。高座の説法に参席していた見知らぬ美しい女性に向かって、日蓮上人が「本体をあらわしなさい」と言うと、「私は釈尊の使命を受けて大法守護のため派遣された七面天女です。これより七面山に住んでお力になりましょう。」と答え、龍の姿になって飛び去って行ったということです。以後、七面天女を末法の鎮守としてお祀りしたと伝えられ、七面山敬慎院としてその霊験をあらたかにしているのだ と。題目碑「南無妙法蓮華経」。掲示板。「熊沢山 浄心寺」は、文禄4年(1596年)に浄心院日敬上人により開山された日蓮宗の寺院で、通称「七面さん」と呼ばれている。そして香川村の熊沢氏によって開基 と。「熊澤酒造」と関連のある人物なのであろうか。元々寺・寺院は仏教における修行の場であり、俗世から切り離れた世界だったため、山の中に寺院を作ることが多かったので、山を切り開くということで「開山」というようになった。開山は初代住職で、開基は寺院の創始にあたって経済的支援を行った人、スポンサーとなった人のことであるようだ。ただし、宗祖を特に「開山」と呼ぶ宗派もある。浄土真宗では、宗祖とされる親鸞を「開山」(「御開山」)とも呼ぶことから、末寺の創始者を「開基」と呼んで区別する。曹洞宗では、道元を「開山禅師」と呼んでいる。「浄心寺」の入口門。「熊沢山(くまざわさん)」。 「浄心寺」。「本堂」。入口門とは向きが異なる「本堂」。左手にあった石塔。「南無妙法蓮華経 高祖 日蓮大菩薩」と。三橋勘重郎の「供養塔」。名主で農地整備などに尽力したが、飢饉の折に領主に直訴して処刑されたのだと。勘重郎については、この供養碑のほかは記録も無く、詳細は不明とのことである。香川の古老の伝承ということになっている。それによると、勘重郎は、寛政二年(1790)ごろの名主であった。当時の香川は、本間忠左衛門季賢の知行地で、石高は三四七石二斗六升であった。年貢は米で納めることになっていた。ここ香川は開村以来水利のきかない土地で雨がなければ収穫皆無もあり、無残な生活に陥った。この頃は、毎年不作が続き、名主の勘重郎は年貢の軽減を奉行所に嘆願したが、聞き届けられず、単身江戸に赴き、強訴に及んだ。その結果、願いは通ったが、強訴は御法度。勘重郎は、財産没収、死罪になった。寛政五年三月(1793)村中総施主という異例の供養を行い、石塔を建ててねんごろに慰霊の式をあげたのが、今に残る供養塔の由来とされている。旱天に一滴の雨さえない天水場の嘆きはその後も続き、昭和六年(1931)でさえ未曾有の旱魃に襲われ、田が割れて植え付け不能となったため、やむなくまずい外米何百俵かを部落で一括購入して凌いだことさえあったといわれている。供養塔正面には「俗名三橋勘重郎妙法実相院寿仙日量霊 村中世話人惣施主十二月二十九日」と。右側面には「寛政五癸丑 村澤山十八世日啓代奉誦久遠偈十八万巻為菩薩 三月朔日 村講中面々祈祷」 左側面には「本間氏 為先祖御菩提 御武運長久」の文字が刻まれていた。こちらにも題目碑。「南無妙法蓮華経 日蓮」碑。石祠。「本堂」を正面から。「常香炉」。「伏見稲荷大社」と。「浄心寺」を後にし、茅ヶ崎市香川5丁目に住宅街を北に向かう。正面に橋が現れた。川の名は「駒寄川」。橋の名は「中通橋」。上流側を見る。下流側を見る。前方の橋の先で「小出川」に合流する。そしてJR相模線の踏切を渡る。「下寺尾第一踏切」と。JR相模線の電車が通過。その先にあったのが「駒寄川右岸調整池」。この日は調整池には水はなく。調整池とは開発に伴って失われた保水機能を補うため、雨水を一時的に貯めて河川への雨水の流出量を調節することにより洪水被害の発生を防止する施設。そしてこちらが「神奈川県立茅ヶ崎北陵高校」の現在の校舎。「神奈川県立茅ヶ崎北陵高校」。1963年に設置された。高等学校の略称は北陵(ほくりょう)。私が中学2年生の時に開校したのであった。これは仮設校舎であるようだが・・・・。理由は、明日に。更に東に進むと左手の高い場所にあった「稲荷社」。神奈川県茅ヶ崎市下寺尾343。石段を上り鳥居の前から「社殿」を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.08
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「八雲神社」の「拝殿」前から境内を見る。左手に「神輿殿」、「手水舎」を見る。右手に「神楽殿」、その先には満開の桜が。満開の桜を見上げて。石鳥居の前の石段を下り正面右側にあった石碑。「なんご(古”)の(能) 茶屋の(乃) 江戸屋では(者)十七を(越)そろえて おめ(女)しを も(毛)らせる」と。クルリ棒による麦打ち作業に唄われていた南湖「麦打ち唄」👈リンク の一節であるようだ。茅ヶ崎にも昔は麦畑がたくさんありました。初夏の頃、収穫期になるとあちらこちらから脱穀のための麦を打っクルリの音とこの唄が聞かれました。刈り取った麦を、よく干してムシロに広げ、クルリで打って粒を落とします。その作業は重労働で、疲れをまぎらし、皆の調子を整えるのに歌われました。『歌詞』南湖の浜にや名所がある 波元には平島沖にゃ姥島南湖ではやる魚売り キスやキス なまキス サメのかまぼこ南湖の茶屋の江戸屋では 十七を揃えておめしをもらせるお前の声を聞きたさに 七つ八つ山越えてここまでも鎌倉殿はよい男 作り木にかんなかけた如くよ上記の解読・出典については茅ヶ崎にお住まいの我が高校時代の学友が執念で調査・解析!!ありがとうございました。そして「萬(よろず) 鐵五郎」案内板「萬 鐵五郎(一八八五 ~ 一九ニ七)萬鐵五郎は明治十八年に岩手県東和賀郡に生まれた。油彩画・水彩画・水墨画(南画)・版画に多数の作品を残した。大正八年、東京から此の地に移り住んで、南湖の海辺や柳島の風景などを描き、また文章の中にも所々に当地が出てくる。昭和二年五月一日茅ヶ崎4275番地(南湖4の5)の自宅において死去した。享年四十一才五か月。彼の芸術は日本近代洋画史上に大きな足跡を残した。南湖・柳島の地名も萬の筆によってより広く、また永く知らしめられることとなった」「八雲神社」前にあった地図、上部が東、右側が相模湾方向。北側から「八雲神社」の境内を見ながらJR茅ヶ崎駅方向に進む。ここが前回訪れた「六道の辻」。東方向を見る。北方向を見る。「サザン通り」に向かって進むと右手奥にあったのが「日本基督教団茅ヶ崎恵泉教会」。茅ヶ崎には様々な宗派の教会があるのだった。「「茅ヶ崎恵泉教会」は、1951(昭和26)年に設立された、日本キリスト教団に属するプロテスタント教会です。しかし、茅ヶ崎におけるキリスト教の歴史は、1899(明治32)年に開設された、結核サナトリウム「南湖院」でのキリスト教礼拝と日曜学校から始まります。その後、「南湖院」の関係者らを中心として、1921(大正6)年に、平塚美普教会の指導の下に、信徒団体「恵泉会」の集会と日曜学校も始められました。それらの活動が母体となって、茅ヶ崎美普教会(後に茅ヶ崎教会と改称)が生まれ、その茅ヶ崎教会から分離独立する形で、茅ヶ崎恵泉教会が設立されたのです。70年の歴史を持つ恵泉幼稚園も、かつてはこの茅ヶ崎恵泉教会の場所にあり、教会もその建物を使わせていただいておりました。1970年に現在の会堂が完成し、1979年には教育館が与えられ、現在の姿が整えられました。また1988年には、この教会の特徴の一つであるパイプオルガンが設置されました。」とHPより。掲示板。隣にあった建物が「日本基督教団茅ヶ崎教会牧師館」であっただろうか。さらに「サザン通り」に向かって進む。前回はシャッターが降りていた「茅ヶ崎サザン神社」に立ち寄る。商店街の事務所だった場所を、2008年茅ヶ崎サザンビーチで結成30周年を記念したサザンオールスターズのライブにあわせ、神社へと姿を変えたのだと。今では茅ヶ崎を代表する観光名所のひとつとなっている と。神奈川県茅ヶ崎市共恵1丁目11−13。入口に形どられた朱の鳥居の扁額には「サザン神社」と。サーフボードには「茅ヶ崎 サザン神社」と。「茅ヶ崎サザンC」のモニュメントと「烏帽子岩」の姿も描かれていた。内部には狛犬と社殿が写真にて。壁には大きな「寄せ書きコーナー」が。反対側にも。サザンオールスターズの歌・「神の島遙か国」👈リンク。「御祈祷メニュー」(右)。「御祈祷メニュー」(左)。サーフボードには「サザンSt」と。StはStreetのことであろう。「茅ヶ崎サザン神社」を後にしてJR茅ヶ崎駅に向かって進む。そしてJR茅ヶ崎駅南口に到着。1899(明治32)年頃の茅ヶ崎駅。1887(明治20)年、官営鉄道(現・JR東海道本線)の「横浜駅」(現「桜木町駅」)から「国府津駅」間が開業し、湘南地方へと延びた。当時、駅は「東海道」の旧宿場ごとに設けられる方針だったことから、「茅ヶ崎駅」は設置されなかった。その後、茅ヶ崎・鶴嶺両村を中心に近接村の賛同も得ながら開設運動が行われ、1898(明治31)年に「茅ヶ崎駅」が開業した。開業当日には多くの人が集まり、神楽、相撲、手踊り、花火などが催されたという。当時、新橋からの所要時間は約2時間。開業当初の頃の一日平均乗者数は、150~200人程度であった と。 【https://smtrc.jp/town-archives/city/chigasaki/p02.html】より ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.07
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次次に訪ねたのが「八雲神社」。〒253-0061 神奈川県茅ヶ崎市南湖4丁目4−29。狛犬(右)。角度を変えて。足下に、見上げる子供?の狛犬の姿が。狛犬(左)。石鳥居を潜った先正面に「拝殿」。左手に「神楽殿」。「松苗植樹記念之碑」大戦末期、連合軍の本土上陸に備えた陣地構築の用材として、八雲神社の松が伐採されてしまった。戦後、復元のために地域の協力によって植樹を行ったことを記念して、昭和54年3月に建立された。碑碑高126㎝、幅63㎝、厚さ11㎝、台石25㎝。碑正面:「松苗植樹記念之碑(篆書)時ハ昭和十九年大東亜戦争モ決戦 ノ時ヲ迎ヘテ敵ノ本土上陸ヲ阻止 スルタメ日本軍ハ湘南ノ海岸線ニ 陣地ヲ作ル用材トシテ八雲神社ノ 松モ古木数本ヲ残シテ伐採サレ終 戦後ハ神社トシテノ荘厳サヲ失イ 見ルニ忍ビズ中町同志会員ガ発起 シ区民多数ノ協力ヲ得テ昭和二十五年四月二十九日会員ノ奉仕ニヨ リ目的ヲ達成セリ」裏面:「発起人(中町同志会員)尾高長吉 青木武重 青木義治 池田重太郎 飯島元義 飯田梅吉 岡崎正則 鈴木仙太郎 鈴木長五郎 鈴木冨士松 鈴木孫丈 竹ノ内金太郎 永島大次 林梅吉 三橋卯之助 三橋武重 山本菊司 米山芳男昭和五十四年三月吉日建之 松涛書」幕末の嘉永4年(1851年)銘のあった「双体神祇道祖神」。「〆金神・風神」この石碑は?「南湖麦打唄記念碑」と。下部には朱書きの文字が。「拝殿」を斜めに。境内の南側に建つ「戦没者慰霊碑」。中町区の戦没者58柱(日清戦争1柱、日露戦争1柱、大東亜戦争56柱)を合祀する慰霊碑。昭和37年3月15日に同地区民らによって建立された。裏面に建立由来及び戦没者氏名、享年、戦没年月日が刻されている。碑碑高259㎝、幅106㎝、厚さ19㎝、台石48㎝、基壇70㎝。「戦没者慰霊碑」に近づいて。碑正面:「戦歿者慰霊碑 八十□ 重郎書」碑裏面:「日清・日露及大東亜戦争に應召され幾多の困苦の末不幸戦歿された方ゝに対し其の靈を永久にお慰めし平和な国を建設することを誓って中町区民の総意によりこの碑を建立しました 昭和三十七年三月十五日 中町区・・・日清日露戦争、大東亜戦争での戦没者の名前、年齢、歿日が数多く刻まれていた・・・ 松濤鈴木冨士松 謹書 四ツ角 富田石材店刻」「石鳥居」と桜を振り返る。「神輿殿」。ネットより「八雲神社」の神輿を。 【http://www.scn-net.ne.jp/~mickun-7/konjyaku/yakumo/yakumonomikosi.htm】より正面に「拝殿」。石灯籠(右)。台座がユニーク、地震等で倒れないのであろうか、心配。石灯籠(左)。右手に「手水舎」そして両脇に「奉納碑」。右側の「奉納碑」2基。左側の「奉納碑」2基。「拝殿」を再び。「南湖中町八雲神社とも呼ばれていると。現在は市内中島の日枝神社の兼務神社である。創建年代は不詳。口碑によれば、郷土が拓けてより、郷民が産土神として奉祀したものだという。御祭神は素盞嗚尊。江戸時代前期の正保・慶安年間(1644年-1652年)の頃、徳川幕府により茶屋町が東海道の宿場として指定されると、宿泊の旅人は当社に参詣して道中の安全を祈願したという。また、大山阿夫利神社詣の人々は、当社で遠く大山を望んで遙拝することが多かったために、当社境内を石尊山と称したという。江戸時代中期の宝暦12年(1762年)、当地が幕府の天領となり、また附近に砲術場もあって、幕府要人も来往の度に当社に参拝したという。江戸時代後期の天保2年(1831年)、当時の名主である茶屋町の重田八郎左衛門により社殿が再建された。明治に入り、社殿は改築されたが、明治24年(1891年)12月、火災により焼失。翌明治25年(1892年)には本殿を、明治37年(1904年)7月には拝殿が再建された。大正12年(1923年)9月の関東大震災では、本殿を残して倒壊。昭和5年(1930年)から3ヶ年計画により、昭和8年(1933年)3月、完全に復興した。昭和19年(1944年)、太平洋戦争の際、米軍の本土上陸を阻止するため、湘南海岸線に築く陣地の用材として、当社の古木が使用された。境内の古木は数本を残して伐採されたという。現在は、松苗植樹記念の碑がある。また、平成13年(2001年)7月、屋根が修復された。」とのネット情報。「注連縄」の後ろにあった「扁額」には「八雲社」と。唐破風下・唐破風懸魚の彫刻。水引虹梁の上の中備(なかぞえ)の見事な彫刻。「素戔嗚尊(すさのおのみこと)のオロチ退治」の場面と。「素戔嗚尊」の後ろにいるのは「奇し稲田(くしいなだ)姫」。オロチに呑まれるところを「素戔嗚尊」に助けられたと。木鼻(右)。木鼻(左)。拝殿の扉にも見事な鳥の彫刻が。精緻なキジ?の彫刻なのであろうか?右側。左側。拝殿の扁額「八雲大神」。脇障子(右)。脇障子(左)。旗竿が邪魔!!海老虹梁(右)の龍の彫刻。海老虹梁(左)。「八雲神社の由来 祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)創建年代は不詳なるも、口碑によれば郷土が開けてより、郷民が土産神として奉祀せるに始まり正保(1644~1648) 慶安(1648~1652)の頃、徳川幕府により茶屋町が東海道の宿場として指定されるや宿泊の旅人は当社に参詣して道中の安全を祈願する者多く、特に大山阿夫利神社詣の人々は、遠く大山を望んで遙拝するを常とせり故に境内を石尊山と称した。宝暦十二年(1762)、当地が幕府の天領となるや、又、附近に砲術場もあって幕府要路の人々も来往の都度当社に参拝するを常とせり。社殿建立の記録は天保二年(1831)、当時の名主茶屋町の重田八郎左衛門により再建され明治十四年一月これを改築、明治二十四年十二月火災により焼失。翌二十五年本殿を、三十七年七月拝殿を完成した。大正十二年九月一日の関東大震災には本殿を残し倒壊。昭和五年より三ヶ年計画にて、昭和八年三月完全に復興した。平成十三年(2001)七月、屋根を修復する。この由緒ある当社は、南郷地方の総鎮守として古来より郷民の尊崇をあつめ、今日の荘厳をみるに至る」屋根をズームして。「本殿」を右側に廻り込んで。南湖の最も歴史のある神社で、南湖全体の氏神だったが、明治に入り、地域が大きくなると、南湖は茶屋町・鳥井戸・上町・中町・下町の5つの町内に分かれた。当社はそのうち、「なか」と呼ばれる中町の氏神になっている。他の地区にも現在はそれぞれの氏神が祀られている。・茶屋町…茶屋町大神宮・鳥井戸…御霊神社・上町……金刀比羅神社・中町……当社・下町……住吉神社」とのネット情報。本殿を左側から。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.06
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「茅ヶ崎公園野球場」の前の「高砂通り」を北に進むと左手にあったのが「茅ヶ崎公園体験学習センターうみかぜテラス」。神奈川県茅ヶ崎市中海岸3丁目3。茅ヶ崎公園内に建設されたこのうみかぜテラスは、青少年の自立心育成、高齢者・障害者の健康やいきがいづくりをテーマに、野球場や庭球場などの周辺施設と連携しながら、あらゆる世代が交流できる施設を目指している。延床面積3296・42平方メートルの地下1階、地上2階で、海抜7〜8mの地点にあり、津波一時退避場所としての役割も兼ね備える。また、太陽光をふんだんに取り入れられるよう大きな窓が配置され、明るく開放的なイメージに仕上がっている。地下は、世代を超え多様な体験学習を実施できる多目的室、ピアノや音響設備を備えたスタジオ、調理室などを設置。半地下から1階は、素足で遊べる育児向けの集会室や新オリーブ広場などを配置。2階は、和室などのほか、屋外にはまかぜ菜園や子どもたちが遊べる広場などが整備されている。」とネットから。5月28日(土)に開催予定の「姥島(烏帽子岩)自然観察会」の案内。「えぼし岩に上陸して、観察会をします。」「うみかぜテラスで育てた朝顔(NAOKO☆アサガオ)の種を配布します。宇宙朝顔について平成22年(2010年)に宇宙飛行上の山崎直子さんと一緒に約9か月間宇宙に滞在したのが「NAOKO☆アサガオ)です。今回皆さんへお配りするのは、1階花花壇とオリーブ広場東側花壇で育てた「NAOKO☆アサガオ」の8代目の種です。昨年は7代目の種を市民のさんへお配りし、朝顔の成長を記録していただくための『私の朝顔自慢』も一緒にお渡ししました。44作品がうみかぜテラスに届きました。一部を紹介します。」「今回は「NA〇K〇☆アサガオ」(宇宙朝顔)を全部で400袋用意しました。1袋には20粒ほどの種が入っています。宇宙へ思いをはせながら、個人で、こ家族で朝顔づくりに挑戦してみてはいかがでしようか。開花を楽しんたり、「緑のカーテン」を作ったり、地球環境問題についても是非考えてみてくたさい。「NA〇K〇☆アサガオ」は開花の時期が遅いのが特徴です。また、発芽や開花がない種があるかもしれません。こ容赦くたさい。」「宇宙朝顔の種を配布中です。」「体験学習センターうみかぜテラス」各階案内図。「体験学習センターうみかぜテラス」の建物を入口から見る。隣にあったのが「恵泉幼稚園」。 神奈川県茅ヶ崎市中海岸3丁目1−19。「恵泉幼稚園」の北側の路地を進むと、見事に手入れの行き届いた民家の庭のイトスギ(糸杉)?の樹。「恵泉幼稚園」の北側の駐車場後ろの擁壁には様々なモザイク画?の動物壁画が。前方の舟に向かって進む動物たち。旧約聖書・「ノアの箱舟」👈リンク に乗り込む動物の姿が。「ノアの箱舟」をズーム。「恵泉幼稚園」の園舎を見上げる。屋根には「風見鶏」の姿が。そして次に訪ねたのが「茅ヶ崎市文化資料館」。神奈川県茅ヶ崎市中海岸2丁目2−18。自然、歴史、民俗といった文化財や茅ヶ崎を語るに欠かせない郷土資料の保護・保存の必要性が叫ばれ昭和46 ( 1971 )年7月1日に開館した。各種資料の記録・収集・保管、さまざまなワークショップや展覧会等の教育・普及活動を展開。しかし茅ヶ崎市歴史文化交流館への移転準備のため、令和3年3月末をもって休館した と。「茅ヶ崎市文化資料館」入口にあったのが「西行法師の歌碑」。神奈川県茅ヶ崎市中海岸3丁目5−60。「西行の歌碑文治ニ年(一一八九)年八月十五日、源頼朝が参詣のために鶴岡八幡宮の鳥居に近づくと、老僧が一人たたずんでいました。その老僧は西行であり、頼朝は彼を招いて武芸や歌道について話を聞いたとされています。西行. (元永一年(一一一八)年~建久一(一一九〇)年)は、東国の武将藤原秀郷(田原藤太)を祖先にもち、朝廷に仕える武者でしたが、ニ十三歳の時、妻子も官位も捨てて出家、真言宗の僧となり、全国を旅しながら自然と仏道に心を寄せ、多くの歌を残しました。『新古今集』の代表的歌人で、歌集に『山家集』があります。西行が頼朝とまみえた時は六十九歳で、この歌は、茅ヶ畸を通りすがりながら、人の世の寂しさを詠んだ歌といわれています。芝まとふ葛のしげみに妻こめて砥上ヶ原に牡鹿鳴くなりこの歌碑は、鶴嶺八幡社の鳥居の古材を用いたものです。以前、国道一三四号のバスロータリーにありましたが、道路改修の際に、折損し、取り除かれました。」途中から折れた歌碑。国道一三四号にあった頃の歌碑(一九六〇年代)。MOA美術館蔵の西行像。 【http://intweb.co.jp/miura/myhaiku/saigyou/syukke3.htm】よりそしてその先の空き地にあった八重桜も満開手前。この空き地には以前は福祉会館が建っていたが、今後マンションが建設されるようであった。神奈川県茅ヶ崎市中海岸2丁目2−42。ズームして。更に。中海岸2丁目の住宅街を西に進む。このあたりの桜の花は頑張っていた。そして次の目的地の「茅ヶ崎館」の案内板が現れた。「茅ヶ崎館」が正面に。神奈川県茅ヶ崎市中海岸3丁目8−5。「茅ヶ崎館」入口右側には巨石岩が。「登録有形文化財第14-0148-0151号この建造物は貴重な国民的財産です。文化庁」と。「茅ヶ崎館」の創業は1899年(明治32年)。茅ヶ崎の別荘地・保養地としての歩みを具体的に示す存在であり、湘南にかつては多く存在した海浜旅館としての様相を良く残す。小津安二郎監督、新藤兼人監督ら松竹の黄金期を支えた監督や脚本家の定宿としても知られ、現在も映画人の利用が多い。旅館としての宿泊・予約制の飲食サービスほか、映画上映会やコンサート、かるた会などのイベントも行っている とウィキペディアより。廻り込んで。小津監督が定宿にしていた「二番」の部屋をネットから。机も、実際に使っていたものと同じ。コップの跡まで残っている と。 【https://entrie.net/amy/210611/】より唐傘天井の浴室は明治時代から残っているもの。床には関東大震災時にできた亀裂が生々しく残る と。 【https://entrie.net/amy/210611/】よりそして「サザン通り」を渡り中海岸4丁目の住宅街を北に進む。民家の庭では、ピンクのサクラと白のハナミズキが競演・共演中。そして「日本キリスト教団 茅ヶ崎教会」に到着。神奈川県茅ヶ崎市中海岸4丁目2−18。「日本基督教団 茅ヶ崎教会」。掲示板。「今月の御言葉御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある ローマ書十章八節」「茅ヶ崎教会は、日本基督教団所属のプロテスタント・キリスト教会です。1927年に創立し、以来、茅ヶ崎の地で伝道活動を続けています。当教会は、教会員の手により建てられた会堂が特徴のひとつです。これからも、説教と聖礼典に基づく主日礼拝を大切にしながら、主イエスの愛を実践する教会として、地域への宣教に取組んでまいります。」とHPより。窓のステンドグラスをズームして。そして「鉄砲道」に向かって「美濃部の坂」を進む。神奈川県茅ヶ崎市中海岸4丁目2。「鉄砲道を中海岸自治会館から西へ50m程進むと、南方への坂道があります。近くに美濃部達吉・亮吉の居宅があったことから「美濃部の坂」と呼ばれています。達吉は明治〜昭和時代の憲法学者です。大正デモクラシーといわれる時代背景の下で明治憲法の解釈論争が起こり「天皇機関説」を唱えました。議会から非難を浴び、貴族院議員などの要職を辞職しました。達吉の子・亮吉は経済学者で、1967年に東京都知事となりました。軽妙な語り口と「美濃部スマイル」で知られています。達吉・亮吉や家族が過ごした居宅は今はなく、住宅地となりました。」とネットから。そして再び「鉄砲道」に出る。「神奈川県営水道」のマンホール蓋。中央に県の花:ヤマユリ,県の木:イチョウの葉,県の鳥:カモメ をデザイン。蓋全体が青く塗られていた。「鉄砲道」を横断し直進する。桜の花をここでもズームして。次の目的地の「八雲神社」に向かって中海岸4丁目の住宅街を西に進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.05
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「茅ヶ崎海岸」の西側にあった「八大龍王神」前から「茅ヶ崎港」方面を見る。「茅ヶ崎港南防波堤灯台」が見えた。右手のカルバートは封鎖されていたが、以前は川が流れ込んでいたのであろうか?そして前方に人気のモニュメント「茅ヶ崎サザンC」が姿を現した。「サザンビーチモニュメント「茅ヶ崎サザンC」。このモニュメントは、ニ人で円の側に立っと円が結ばれ完結する、「縁(円)結びの輪」であると同時に貧困や民族対立、環境汚染や交通禍等、人々が抱える様々な問題に、いたわリや譲リ合う心を思い出し、不完全な円(縁)を完成させ、幸せな暮らしを形づくる、「思いやリの輪」をイメージしています。平成14年3月3日竣工」「茅ヶ崎サザンC」から望む「烏帽子岩」。Cの中央に「烏帽子岩」(えぼしいわ)が写っているが、ちょーっと小さく見えない!?この場所より烏帽子岩まで約1.5km。左手には「江の島」の姿が「烏帽子岩」より大きく見えた。「烏帽子岩」をこの場所からズームして。さらに。「烏帽子岩烏帽子岩は、自然と人間が共存するまち、湘南茅ヶ崎のシンボルです。茅ヶ崎の海岸から約1.2kmの沖合に、大小30ほどの岩が集まる岩礁群(がんしょうぐん)があります。岩礁の一つである姥島(うばしま)の中央に、烏帽子岩はひときわ高くそびえています。頂上は海抜約15mあり、本市の海岸のどこからでも、その姿を目にする事ができます。烏帽子岩と呼ばれるようになったのは、その姿が昔の公家などが被った烏帽子(えぼし)に似ているからです。太平洋戦争後の一時期、米軍が射撃訓練の標的にしましたが、射撃訓練を中止させるために多くの市民の働きかけがありました。姥島の付近は、昔から豊かな漁場として知られ、今も海釣りの場所として有名です。烏帽子岩は四季折々の姿で、茅ヶ崎の海岸を訪れる人々をいつも暖かく迎えています。」Cの上部にはソーラーパネルが。夜間に照明等で光るのであろうか?チタン製で、直径は3.5mだと。Cのリングには「CHIGASAKI SOUTHERN BEACH」と。モニュメント「茅ヶ崎サザンC」を洗浄するボランティアの方々の姿。チタン製のCリングを水洗いされていたのであった。ご苦労さまです!!「ヘッドランド(Tバー)」越しに「江の島」の姿をズームして。沖合の岩場が。この時間は干潮に向けての時間だったのであろうか。そして再び国道134号に戻り「野球場前」交差点まで戻る。交差点を左折して「茅ヶ崎公園」を訪ねた。「園内マップ」。5.56ヘクタールもの広大な土地の中に、野球場、テニスコート、体験学習施設等があった。最初に、野球場南側のレフトスタンドの海側斜面にある「国木田独歩追憶碑」と手前の「日時計」を訪ねた。日時計には「この標識はこの地点における地球上の科学的な位置を示しており、なお太陽の見かけの運行により時刻を知る水平式日時計盤である。緯度経度は日本国経緯度原点(東京麻布旧天文台子午環の中心)において天文測量により決定した値から、三角測量によって逐次算出した国家三角点を用いて球場内に導き、天文方位角測量を行い、位置標の値を算出した。標高は東京湾の平均海水面(永年にわたり測定した干満潮位の中等値)から起算した水準原点に基いて測った国家三角点を用いて間接水準測量を行い盤面上の高さを決定した。」そして「独歩追悼碑」。「国木田独歩と茅ヶ崎国木田独歩(明治四年~四十一年 一八七一~一九〇八)は、詩人・小説家で、『武蔵野』や『鎌倉夫人』はその代表作として知られている。胸を病んで、湯河原などに転地療養を続けた。東洋一の結核療養所といわれた南湖院への入院(明治四十一年ニ月四日)とその死(同年六月二十三日)は、「茅ヶ崎」と「南湖院」が広く全国に名を知られるきっかけとなった。友人の真山青果が海浜旅館・茅ケ崎館に滞在し、「独歩氏の近状を報ずる書」を『読売新聞』に連載して、多くの人が読んだからである。入院の時はすでに筆を執る気力もなく、口述筆記の『病床録』を残すのみであった。田山花袋『東京の三十年』などの文学作品に独歩の死の前後のようすは詳しい。この碑は、齋藤昌三らの発案で昭和三十五年(一九六〇)六月に建てられた。平成二十年六月には、没後百年を記念しての献花式や記念講演会が盛大に開催された。なお、碑の「独歩」の署名は、自筆を拡大したものである。」「独歩追憶碑渚永劫の海に落ちてゆく世世代代の人の流れが、僕の前に横はって居る。独歩」と独歩の顔の線刻とともに記されていた。石碑の裏には「副碑」「本碑の蒙額は牧野英一博士で像は三橋兄弟治画伯、感想文は独歩終焉直前の作「渚」の一節にして碑石は故人にゆかりの湯河原産を、彼町役場より当市に寄贈されたるものにて成る。」レフトスタンドの外から「野球場」を見る。子供たちの野球の試合が行われていた。この後にバッターがライトオーバーのヒットを打ち、ランニングホームランになったのであった。そして見えて来たのが「平和の礎(いしずえ)」の後ろ姿。「平和の礎」を正面から。F R P製の天蓋の中に、直径2m、御影石の球体の「平和の礎」が置かれていた。台石正面には「戦没者慰霊之碑 建立 茅ヶ崎市 平成20年2月」と。「平和の礎」案内板。「平和の礎われわれ茅ヶ崎市民は、今日の平和の礎となられた戦没者の方々の冥福を祈り、この碑が世界の恒久平和の確立に寄与し、平和の尊さが後生に継承することを 願い、記念碑「平和の礎」を建立した。平和の礎の中心の球体は、戦没者の方々の追悼と地球の恒久平和への祈りを表し、世界5大陸を表した五角形の台座に鎮座しました。天蓋は、高さ及び直径が約5メートルの楕円形で、球体を包み込む天空を意味し、礎に込められた追悼と平和の願いが地球全体に広がる思いを込めています。周辺は、バリアフリー化を考慮しながら、公園と一体化し、植栽をするなど市民の憩いの場として相応しいものとしました。あわせて、茅ヶ崎市が宣言する平和都市宣言及び核兵器廃絶平和都市の碑も設置し、戦没者への慰霊とともに平和の尊さを後生に伝えるため、ここに「平和の礎」を建立しました。 平和の礎は、老朽化した平和慰霊塔を建て替えるため、関係団体のご参加をいただき、「茅ヶ 崎市平和慰霊塔建て替え検討会議」を設置し、検討した結果、円や曲線を用いた形状で、現在の場所にこれまでより低層で、塩害に強い材質を用いて建て替えを行い、環境や美観にも配慮しています。」「天蓋:高さ 約4.8m :中心付近径 約4.8m :素材 F R P製 球体:直径 2. O m :素材 黒御影石 台座:五角形 1辺約1 m :素材 御影石 」「ここは戦没者の御霊が祀られています遺族の方々の意思を尊重し、使用には事故のないように十分注意してください。なお、事故等があった場合は、一切責任を負いません。」と。「慰霊塔の記憶」。「平和慰霊塔の碑茅ケ崎市民は明治以来幾たびかの戦争において、祖国の興隆を信じて参戦され尊い生命を捧げられた犠牲者のみ霊を慰め、そのご冥福を祈るためここ茅ヶ崎市公園に市民の浄財と市費をもつてこの塔を建立した。われわれはこの塔を前に永遠の世界平和と、郷土の発展に一層努力することを誓います。」「平和慰霊塔」。「平和慰霊塔の記憶」案内板。「平和慰霊塔の記憶茅ケ崎市民は明治以来幾たびかの戦争において祖国の興隆を信じて参戦され、尊い生命を捧げられた犠牲者の御霊を慰め、そのご冥福を祈るためここ茅ヶ崎市公園に市民の浄財と市費をもつてこの塔を建立した。旧平和慰霊塔は、昭和39年9月に茅ケ崎市遺族互助会から「明治、大正、昭和の各戦争で戦没された御霊に尊敬と感謝の意を込めて追悼するために建立し、永く御霊を顕彰したい」という陳情書が提出され採択となり、市はこれを受け、建立場所を茅ヶ崎公園内に決定し、戦没された御霊を慰めるため昭和42年3月に建立されました。約19メートルの高さにそびえ立つこの塔には、世界平和実現と明治以来の戦没犠牲者の冥福を祈る思いがこめられ、塔の台座には、当時の野村宜市長、深川六郎助役による碑文が刻み込まれ、那智石を敷き詰めた塔の周辺の表面には、太平洋諸島の島々が円形でかたどられていました。平成19年に立て替えによって取り壊しが実施されるまでの約40年間、戦没者の方々の慰霊する場、集いができる場、次代に平和の尊さを伝える場として一役担った施設となっていました。」以前の、高さ19mの「平和慰霊塔」の姿。「慰霊塔の記憶」横から「平和の礎」その後ろの「花の丘」を見る。「野球場」の横には4面のテニスコートもあった。「えぼし号」。茅ヶ崎市が2002年(平成14年)5月25日から神奈川中央交通(茅ヶ崎営業所)に委託して運行しているコミュニティバスの愛称。運行開始当初の車両であるオムニノーバ・マルチライダーは2011年に運用を離脱しているが、そのうち1台は2012年3月21日からここ茅ヶ崎公園に遊具として展示中であった。「しおさい広場」内の遊具場。帆船の形の遊具も。そして「茅ヶ崎公園野球場」。「茅ヶ崎公園野球場」の正面入口を見る。1950年代にプロ野球が開催されたことがあるのだと。近年は、日本女子ソフトボールリーグで使われることがあると。この石柱には何かが刻まれていたのだろうか?再び「茅ケ崎公園 園内マップ」。「茅ケ崎公園」案内ボード。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.04
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「鉄砲道」の「松が丘交差点」から「ラチエン通り」の南・海岸方向を見る。小和田村と茅ヶ崎村の郷境には、明治期頃までは、明確な道はなかった。現在は「国道1号」沿いにある「TOTO」(旧「東洋陶器」)の東側あたりから「烏帽子岩」に向かって、通りが真っ直ぐに延びている。この通り沿いにドイツ人貿易商のルドルフ・ラチエンが住んでいたことから、通りは「ラチエン通り」と呼ばれているのだ。「鉄砲道」の「東海岸北五丁目」交差点を通過。「東海岸南2丁目」を歩く。「鉄砲道」案内板。「JR東海道線と海岸道路(国道134号)との間を東西に貫く道を、一般に「鉄砲道」と呼んでいる。江戸幕府は1728(享保13)年、火砲(かほう)(大筒(おおづつ))の操作や射撃の訓練を目的に南湖から藤沢の片瀬に至る海岸線に鉄砲場を設けた。現在は、国道134号沿いにある柳島記念館に鉄砲場の複製図が展示してある。鉄砲道と呼び伝える道筋は、異説もあるが、柳島河岸(浜見平団地の西南の隅)から旧南湖院の北側を通り、南湖下町の住吉神社から六道の辻を中海岸自治会館前に抜けて、東海岸北から平和学園に至る道筋のことである。現在、鉄砲道の東海岸北五丁目交差点から松が丘交差点の南側には、旧道の一部が残っているところがある。この道を「鉄砲道」と呼ぶいわれは、伊豆の韮山で造った鉄砲を柳島湊(やなぎしまみなと)に荷揚げして、鉄砲場まで運んだからといわれていますが、証拠となる文献などは見つかっていない。鉄砲場の中を縫っていた道という意味からそう呼ばれたと解する方がよいと思われる。」そして「鉄砲道」が「雄三通り」と交わる「雄三通り中央」交差点に到着。茅ヶ崎駅から海に向かう道は「雄三通り」という。2001年(平成13年)愛称名の公募により多数の中から選ばれた。以前は「上原謙通り」といった。上原謙は加山雄三の父親で全国でも珍しい通り名の世代交代と云う事になる。この通り沿いの海に近い所に上原謙の旧居があった事からの命名であった。現在、旧居の建物は既に無くマンションに変わっていた。昭和初年に駅の南側、現在の東海岸南の砂丘一帯は『高砂(たかすな)分譲地』として販売されていた。昭和10年過ぎて上原謙がNo.9区画を購入し、自宅を建て住んでいた。加山雄三の生育地である。赤が「雄三通り」、緑が「ラチエン通り」。横断歩道の先に「雄三通り」モニュメントがあった。歌手・加山雄三は幼少期から茅ヶ崎市で過ごし、2010年に茅ヶ崎市民栄誉賞を受賞。湘南サウンドを代表する音楽活動など、様々な場面で茅ヶ崎の名を全国に広められた。また、茅ヶ崎市立東海岸小学校の校歌を作曲されるなど地元への貢献も高く、JR茅ケ崎駅から海に向かってまっすぐ伸びる通りは「雄三通り」と呼ばれ市民から愛されている。2020年にデビュー60周年を迎えたことを記念して、「雄三通り」沿いの東海岸商店会ではこのモニュメントを製作した と。「雄三通り」モニュメント。「海その愛👈リンク作詞 岩谷時子作曲 弾厚作海よ俺の海よ大きなその愛よ男の想いをその胸に抱きとめてあしたの希望(のぞみ)を俺たちにくれるのだ」まち歩きマップ。相模湾が左側、この場所から10min以内の徒歩で円形内を訪ねることが出来ると。海までも10min強で辿り着けることを確認したのであった。「雄三通り」を海岸に向けて進む。現在地を左に入り、「氷室椿庭園」に向かう。ここは「氷室椿庭園」の南出入口。入口案内板。ここが正式な入口であったが開園時間の9:00前であった。「茅ヶ崎市 氷室椿庭園この庭園は、平成3年に氷室捷爾さん・花子さんご夫妻のご遺族の方から寄贈されました。夫妻は、植物、特にツバキを好まれ、多くの品種を生み出しました。園内では千本を超えるツバキを育成中です。貴重な庭園を大切にしましょう。 ・楼蘭花(ろうらんか)【氷室種】 ・氷室雪月花(ひむろせつげっか) 千重の唐子咲き 一重咲き 極小輪、桃色 中輪、白や淡桃色地に紅色の絞り ・川 霧(かわぎり)【氷室種】 ・黒 椿(くろつばき) 半八重の平開咲き 八重の抱 ~ 平開咲き 中輪、白色 中輪、黒紅色」この日の開園時間は午前9時~。入口から「氷室椿庭園」内を見る。花が白色の大島桜であろうか・そしてフェンス越しに椿の花をカメラで追ったのであった。そして「氷室椿庭園」を後にして、その先にあったのが「ほし潮香公園」。ベンチでしばし休憩し水分補給する。再び「雄三通り」に向かって東海岸南3丁目の住宅街を進む。ここが加山雄三氏の父の「上原謙邸跡」であったが、現在は「東急ドエルシーサイドコート茅ヶ崎東海岸南」というマンションに姿を変えていた。路地に入り込んで「案内板」等を探したが見つからなかった。そして「東海岸南1丁目」交差点まで戻りここを左折し海岸に向かう。国道134号の「茅ヶ崎駅南口入口」交差点が前方に。「茅ヶ崎市東海岸南 N-37」案内板。そして横断歩道を渡り「茅ヶ崎海岸」に向かって進む。「江の島」と「ヘッドランド(Tバー)」を見る。「江の島」をズームして。「ヘッドランド(Tバー)」をズーム」して。多くの釣り人の姿が確認できた。「烏帽子岩」をズームして。「茅ヶ崎港南防波堤灯台」を見る。「茅ヶ崎港南防波堤灯台」をズームして。「平島」の岩場も見えた。「湘南海岸・砂浜のみち片瀬橋を経て江の島へ 8.1km 茅ヶ崎漁港へ 0.9kmここは東海岸(茅ヶ崎駅入口)」茅ヶ崎漁港の方向に歩く。前方に朱の鳥居が姿を現した。「八大龍王神」👈リンク。「八大龍王神」碑。裏面には明治三十九年九月建立 と刻まれていた。小さな木造仏のお姿も。御札には「船玉大明神御◯」と。藤沢市大鋸に「船玉神社」👈リンク があったがその御札であろうか?乗船海上守護の祈願のために勧請されたと推定され、鎌倉幕府3代将軍源実朝が入宋のための船の材木を切り出した場所であるとされているのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.03
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昨日・5月1日(日)に保土ケ谷の友人宅を訪ねました。途中湘南台で横浜市営地下鉄に乗り換える際に「湘南台駅地下広場」を通過しました。この場所は、広い空間になっており、時折イベントなどが行われるなどしていますが、普段はやや薄暗く、ただ広いだけという状態。その空間がもったいないということで立ち上がったのが、「湘南台アートスクエアプロジェクト」。この日は一面真っ赤な壁画が展示されていました。壁画は幅25m。湘南台在住の画家・廣田雷風さんが「郷土に捧げる讃歌」をテーマに描いたとのこと。ネットで調べてみると、廣田氏は、国内外で壁画の実績を持つ画家で高校の3年先輩の作品であるようだ。1日に16万人が利用する、湘南地域北の玄関口・湘南台駅。人々の心の拠り所となるような、わくわくする空間・心豊かになる空間を創り出したい と。正面に廻り込んで壁画の左側を。正面に廻り込んで壁画の右側を。左側から作品を追う。ピアノの鍵盤が最下部全面に描かれ、その上を長靴が動き回り音楽をかなでる、様々な楽器も一緒に合奏。大きな樹も音楽に合わせて葉(バイオリン、ビオラ、チェロ)を揺らす。自転車も鍵盤の上を疾走する。鮮やかな赤の空に浮かぶ白い雲の中からトランペットを奏でる女の子の姿も。中央には大きなピアノ。その周囲で様々な楽器が音を奏でながら踊っている。白い雲の上には、多くの幟を立て祭りの山車を囲む懐かしき時代の人々の姿が。近づいて。鍵盤の上を走る馬に乗り、その祭りの様子を見上げる子供の姿。そして様々な楽器が、色とりどりの世界を奏でて、心地よい音が楽譜から溢れ出て来ているのであった。湘南台駅を利用された際には、しばし足を止めて壁画から溢れ出る音楽を楽しんでみてはいかがでしょうか。 ・・・FINE・・・
2022.05.02
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次国道134号「小和田浜公園東側」交差点を渡り海岸に向かって進む。海岸に出た場所が「浜須賀」と「汐見台」の境界近くで現在の「サザンビーチちがさき」の最も東側の場所。遠くに「江の島」の姿が確認できた。この先約500mで藤沢市の「辻堂海岸」。「江の島」をズームして。更に「江の島シーキャンドル」を。そして「姥島(烏帽子岩)」。ズームして。そして「浜須賀」海岸を見る。1953(昭和28)年の浜須賀の海岸の写真。「太平洋戦争」後、「茅ヶ崎海岸」の旧「日本海軍」施設は、「連合国軍」(のち「米軍」)に接収された。「烏帽子岩」を含む沖合一帯も含まれ、「チガサキ・ビーチ」と名付けられた。特に「横須賀海軍砲術学校 辻堂演習場」跡地の約103万㎡(「東京ドーム」約22個分)の広大な敷地では、上陸、砲撃、爆発物の処理などの訓練が行われた。下記写真は1953(昭和28)年に撮影された、「米陸軍第1騎兵師団」の上陸演習風景。右奥にはうっすらと「江の島」が見える。演習は、騒音などで住民に多大な影響を及ぼし、戦車の砲撃訓練では「烏帽子岩」に照準が合わせられ、先端が吹き飛ばされた。「チガサキ・ビーチ」は1959(昭和34)年に日本に返還された。演習場を迂回していた「国道134号」(旧「湘南遊歩道」)は、翌1960(昭和35)年に海岸沿い部分が開通した。現在、演習場の跡地は「神奈川県立辻堂海浜公園」をはじめ「UR(都市再生機構)」の「辻堂団地」「湘南工科大学」「松下政経塾」などになっている。「湘南海岸サイクリングロード ランニングコース」を「ヘッドランド(Tバー)」に向かって進む。「湘南海岸サイクリングロードコースマップ」。【コースデータ】・距離:5.8km 鵠沼海浜公園の起点~茅ヶ崎サザンCまで・距離表示の有無:時々出現・道幅/道の状態(アスファルト、砂など):アスファルト ※風の強い日は砂に覆われていることも・・・・高低差:15m ※ほぼ平坦・信号の有無:無・トイレの有無:有・給水箇所:スタートとゴール地点には自販機があるが、道中は無。辻堂海浜公園などに コースアウトすれば有り。・ランステなど着替え/シャワー施設の有無:スタート地点付近の鵠沼スケートパーク内、 ゴール地点の茅ヶ崎サザンビーチで有料シャワー有り・ランナーの多さ:休日はランナー、自転車は多いが混雑は無・車の往来:無・夜の走りやすさ(明るい、暗い):暗い・駅からのアクセス:鵠沼海岸駅徒歩15分・景色の良さ:良好「津波避難情報」。現在地は海抜5.8mと。「湘南海岸サイクリングロード」の車止め?の反射板が取り付けられている石も「烏帽子岩」の形で。「S-29 茅ヶ崎市浜須賀柳島4.7km← →鵠沼海岸3.0km」「S-29 」の意味は? S:SOUTHか?竹造りの防砂垣をすり抜けて多くの砂がランニングロードにあったが、係の方に隅に片付けられていた。そして右側奥の防砂林の中に朱の鳥居があった。朱の鳥居の扁額は「八大龍王」。「八大龍王」碑。裏側には「元治元(1864年)甲子卯月吉日 再建」とあった。再び「烏帽子岩」を見る。神奈川県茅ヶ崎市9 相模湾 と。再び「サザンビーチちがさき」の「浜須賀海岸」&「江の島」を見る。海岸で投釣りをする御夫婦の姿を。「ヘッドランドビーチ」から「ヘッドランド(Tバー)」越しに「茅ヶ崎港」方向を見る。「明治後期のヘッドランドビーチ」「相模湾」では鎌倉時代から地引網漁が行われていた。明治後期、小和田村には10軒の網元がいたという。明治期から大正期にかけて、浜が忙しいときは漁に出て、漁がなければ畑を耕すという半漁半農だった。中海岸にある「カネサ網重政商店」は1887(明治20)年創業の老舗で、「相模湾」で専業漁業地引網元として漁師を営むかたわら、加工業も行っている。 【https://smtrc.jp/town-archives/city/chigasaki/p07.html?id=a03】より「ヘッドランド(Tバー)」をズームして。茅ヶ崎「ヘッドランド(Tバー)」は砂浜と石積の堤防からなる釣り場。ヘッドランドは砂浜の浸食を防ぐための人口の岬で、T字型になっているので「Tバー」とも呼ばれている。「現在の湘南の海は、マリンレジャーや海水浴客が多く、かつての地引網漁の風景から大きく変わっている。1950年代、駐留する米兵が、日本にサーフィンを持ち込んだといわれる。1960年代後半には、雑誌『平凡パンチ』にサーフィンの記事が掲載され話題を呼び、茅ヶ崎・辻堂近辺のショップも紹介されるようになった。また、1970年代後半には雑誌『POPEYE』などでも湘南エリアのサーファーやサーフショップが特集され、特に湘南がサーフィンの地として脚光を浴びることになった。湘南の海岸は東京からアクセスしやすいこともあり、多くのサーファーたちが訪れるようになっている。」手前には波を待つサーファーの姿が。烏帽子岩を最大ズームで。釣り人の姿が左側に。そして海岸を離れて国道134号「菱沼海岸」交差点に出る。交差点の向かいの前方に高級マンション「パシフィックガーデン茅ヶ崎」の建物が。4380万円(3LDK)と。LDKは約19帖、全居室6帖以上の広さの南向き3LDK住戸。南北の両面バルコニーにつき通風良好。リゾート感あふれる白壁のマンションであると。「茅ヶ崎菱沼海岸 N-31」。「菱沼海岸」交差点を渡り、高級マンション「パシフィックガーデン茅ヶ崎」を左に見ながら進む。実はこの「パシフィックガーデン茅ヶ崎」の建つ場所には、昔は「パシフィックホテル茅ヶ崎」があったのだ。1965年(昭和40年)湘南海岸・国道134号線沿いに、俳優の上原謙、加山雄三、小桜葉子(本名:岩倉具子)の弟岩倉具憲らが共同オーナーとなって建設・開業されたホテルである。当時の「パシフィックホテル茅ヶ崎」。残念ながら、1970年運営会社株式会社パシフィックジャパンが倒産。ホテルは売却され、その後、休業・再開を繰り返すも1988年完全に廃業となった。廃墟と化した建物も1998年に取り壊され、1999年跡地にはリゾートマンション「パシフィックガーデン茅ヶ崎」が建設されたのであった。国道134号線 湘南海岸に異様とも見える、ひときわ高くそびえたっていた姿が懐かしいのであるが。 【https://ameblo.jp/sayojikan/entry-12177868827.html】よりそして茅ヶ崎市東海岸南6丁目6の住宅街を北に進む。道路沿いの左手に「茅ヶ崎市開高健記念館・茅ヶ崎ゆかりの人物館」案内板があった。「茅ヶ崎市開高健記念館・茅ヶ崎ゆかりの人物館」案内がその先にもあった。左に折れ「茅ヶ崎市開高健記念館」に向かって進む。正面に門柱と両開きの白い門扉が。「茅ヶ崎市 開高健記念館」。この時まで「かいこうたけし」ではなく「かいこうけん」と思っていたのであった。(1930-1989)大阪市生れ。大阪市立大卒。1958(昭和33)年、「裸の王様」で芥川賞を受賞して以来、「日本三文オペラ」「流亡記」など、次々に話題作を発表。1960年代になってからは、しばしばヴェトナムの戦場に赴く。その経験は「輝ける闇」「夏の闇」などに色濃く影を落としている。1978年、「玉、砕ける」で川端康成賞、1981年、一連のルポルタージュ文学により菊池寛賞、1986年、自伝的長編「耳の物語」で日本文学大賞を受けるなど、受賞多数。『開高健全集』全22巻(新潮社刊)。「臨時休館」と。表札には「開高健 牧羊子」と。牧羊子は大阪府生まれ。奈良女子師範学校物理化学科(現、奈良女子大学)卒業。教師を経て戦後、壽屋(現・サントリー)に勤務。同人誌「えんぴつ」で7歳年下の開高健と知り合い、1951年に結婚。開高の壽屋入社と入れ違いに退社し創作活動に入る。娘はエッセイストの開高道子。詩のほか料理に関するエッセイが多かった。2000年1月19日、夫、娘に先立たれて一人住まいをしていた茅ケ崎の自宅で持病の悪化のためにひとり倒れて亡くなっているのが発見された。検死の結果、病死で死後数日と見られた。墓所は鎌倉・円覚寺塔中、松嶺院にある と。茅ケ崎市開高健記念館リーフレット(表面)。■開高健略年譜1930 (昭和5)年 12月30日、大阪市天王寺区東平野町に生まれる。1948 (昭和23)年 旧制大阪高等学校文科甲類に入学。1949 (昭和24)年 学制改革により、大阪市立大学法文学部法学科に人学。1950 (昭和25)年 処女作「印象生活」を「市大文芸」に発表。 同人誌「えんびつ」に加入。1951 (昭和26)年 「あかでみあ めらんこりあ」を「えんびつ」解散記念とし て刊行。1952 (昭和27)年 住吉区杉本町の牧羊子の家へ移る。長女道子生。1954 (昭和29)年 寿屋(現・サントリー)に入社、宣伝部員に。 1957 (昭和32)年 「バニック」を「新日本文学」に発表。一躍新人作家として 注目される。1958 (昭和33)年 「裸の王様」で第38回芥川賞を受賞。寿屋を退職。嘱託となる。 杉区矢頭町に自宅をかまえる。1959(昭和34)年 「日本三文オペラ」を文藝春秋新社より刊行。1960(昭和35)年 中国訪問日本文学代表団の一員として中国を訪問。 「ロビンソンの末裔」を中央公論社より刊行。1961 (昭和36)年 「過去と末来の国々」を岩波書店より刊行。 アイヒマン裁判の傍聴にイスラエルに赴く。1964(昭和39)年 「ずばり東京」を朝日新聞社より、「見た揺れた笑われた」 を筑摩書房より刊行。 朝日新聞社臨時海外特派員としてベトナムへ出発。1965 (昭和40)年 戦地取材中、ベトコンに包囲されるが、死地を脱出。 「ベトナム戦記」を朝日新聞社より刊行。1968 (昭和43)年 「輝ける闇」を新潮社より刊行、毎日出版文化賞を受賞。1969 (昭和44)年 ビアフラ・中東戦争を視察。1971 (昭和46)年 「フィッシュ・オン」を朝日新聞社より刊行。1972 (昭和47)年 「夏の闇」を新潮社より刊行、文部大臣賞を打診されたが辞退。1974 (昭和49)年 茅ヶ崎市東海岸南に仕事場を完成し、移り住む。1978 (昭和53)年 「ロマネ・コンティ・一九三五年」を文藝舂秋より、「オーパ!」を 集英社より刊行。芥川賞選考委員に加わる。1979 (昭和54)年 「最後の晩餐」を文春秋より刊行。 「玉、砕ける」で川端康成文学賞を受賞。 南北アメリカ大陸縦断旅行。1981 (昭和56)年 「もっと遠く!」、「もっと広く」を朝日新聞社より刊行。 ー連のルポルタージュ文学により菊池寛賞を受賞。1983 (晒和58)年 「オーバ、オーバ!!」を集英社より刊行。1986 (昭和61)年 「耳の物語」を新潮社より刊行、翌年、日本文学大賞を受賞。1989 (昭和64・平成元)年 「珠玉」第三部を脱稿、翌年文藝春秋より刊行。 12月9日、食道潰瘍に肺炎を併発し逝く。 北鎌倉・円覚寺松嶺院に眠る。」茅ケ崎市開高健記念館リーフレット(裏面)。「ふつう私は小説家として暮している。ここ五年ほどは湘南海岸の茅ヶ崎市である。海岸から三百メートルか四百メートルほどのところでひっそりと起居している。月曜日と木曜日の夕方になると二キロ離れたところにある水泳教室へ行くために外出するが、それ以外はほとんど家にたれこめたきりである。」(「国境の南」から)作家開高健は1974 (昭和49 )年に茅ヶ崎市東海岸南のこの地に移り住み、亡くなるまでここを拠点に活動を展開されました。その業績や人となりにふれていただくことを目的に邸宅を開高健記念館として開設。書斎は往時のままに、展示コーナーでは、期間をさだめてテーマを設定し、原稿や愛用の品々を展示してまいります。これらを通じて、たぐい稀なその足跡を多くの方々にたどっていただけるなら幸いです。」隣にあったのが「茅ヶ崎 ゆかりの人物館」案内板。「ラチエン通り沿いの、海を望む小さな丘に、「ひと」と「まち」をつなぐ新しい文化交流の拠点として、平成27年2月に誕生した「茅ヶ崎ゆかりの人物館」。茅ヶ崎の新しいまちづくりに貢献するために、ひとを結び、賑わいを創る次世代型のミュージアムとして市民と共に成長していきます。」と。丘の上に在る「茅ヶ崎 ゆかりの人物館」。「茅ヶ崎市開高健記念館・茅ヶ崎ゆかりの人物館」入館案内。「茅ヶ崎ゆかりの人物館」をネットから。 【https://www.shonan-navi.net/shop/shop.shtml?s=4790】より再び「茅ヶ崎市開高健記念館」👈リンク を見る。庭先には「朝露の一滴にも天と地が映っている 開高健」と。「この石のことを思い出すたびに月下に輝く白い宮殿と巨大な鐘の沈んだ深い淵という光景を思い出す。(略)エンドウ豆ほどの石から宮殿を喚起するのは誇大妄想に近いけれど、最初の一瞥の魔力にとらえられているのだし、朝露の一滴にも天と地が映っているのだという託宣からすれば荒唐とは感じられない。(「珠玉」文藝春秋刊 147頁)スマホの案内に従い次の目的地の「恵泉キリスト教会湘南グレースチャペル」に向かって茅ヶ崎市東海岸6丁目の住宅街を進む。民家の庭の桜を楽しむ。そして「恵泉キリスト教会湘南グレースチャペル」に到着。神奈川県茅ヶ崎市東海岸南6丁目1−20。「キリスト教は初めてという方には、キリスト教の団体はとても分かりにくいと思います。日本で良く知られているのは、カトリック、プロテスタント、正教会(ギリシャ正教・ロシア正教など)の3つだと思います。私たちはプロテスタントの教会です。プロテスタントにはたくさんの団体があり、その中で「保守バプテスト同盟」という団体に所属しています。所属教会は東北地方に多く、約60教会が加盟しています。さらに、湘南グレースチャペルは、「恵泉キリスト教会」という教会の1つのチャペルです。恵泉キリスト教会はもともと1つの教会でしたが、教会員の転勤や被災地支援などがきっかけで新しい教会を作り、現在は11のチャペルがあります。山形県米沢市にある恵泉キリスト教会米沢チャペルに通っていた教会員が転勤で茅ケ崎市に戻ることになり、自宅で教会を始めることにしました。牧師がいない教会でしたので、恵泉キリスト教会の他のチャペルの牧師が毎週応援に来てくださっていました。最初は自宅のリビングで集会をしていましたが、手狭になり、現在の会堂を増築しました。その後、家と教会を切り離したため、現在の民家のような会堂が残っています。2010年に牧師を迎えて現在に至ります。」とHPより。茅ヶ崎市東海岸南5丁目2にあった樹々に囲まれた巨大な屋敷の山門が左手に。住居を樹々の隙間から見上げる。そして前方に「鉄砲道」が見えて来た。「鉄砲道」との合流地点の角にあったのが「佐々木氏追悼記念碑(佐々木卯之助)」。写真は「東海岸北五丁目交差点」で、ここまで歩いて来た右の道が旧「鉄砲道」、左が現在の「鉄砲道」。この分岐点に「佐々木氏追悼記念碑」(写真中央付近)が建てられていた。佐々木伝左衛門の子として生まれた卯之助は、1824(文政7年)、29歳の時に江戸幕府の相州炮術調練所の責任者として、幕府大筒役となった。当時茅ヶ崎の海岸は幕府による天領とされていて、鉄炮方役人の銃術鍛錬の場として茅ヶ崎柳島村から藤沢の片瀬までの広域に調練場が設置されていた。赴任中に、いわゆる佐々木卯之助事件が発生する。時は天保(1833~1839)。大筒役を命ぜられた卯之助であったが、世は大飢饉に見舞われ、民は食料に困窮し、餓死者が発生。天保の大飢饉に発展した。この茅ヶ崎の民の惨状を目の当たりにし、卯之助は相州炮術調練場の敷地(茅ヶ崎市南湖の周辺)の一部を開放、耕作することを事実上黙認。卯之助の計らいは、茅ヶ崎の民から大変感謝された。しかし、のちの検地により、この耕作が発覚し卯之助は長男の菊次郎と共に、伊豆の離島青ヶ島へ遠島の判決を受けた。1868(明治元年)に赦免となるが、明治9年、82歳で青ヶ島で死去する。死後、初代茅ヶ崎村長の発起人により、感謝を表し茅ヶ崎市東海岸五丁目に追悼の碑を建立。また、半農半漁だった茅ヶ崎市南湖の人たちは、鉄砲場内の耕作の恩恵に感謝し、南湖地区中町八雲神社境内に記念碑を建てた。墓標は当初青ヶ島にあったが、のちに海前寺(茅ヶ崎市本村四丁目)に移されている。茅ヶ崎には鉄砲道と呼ばれる通りがあり、この相州炮術調練場まで、伊豆の韮山反射炉で作られた鉄砲が運ばれる道であったという説がある。「佐々木氏追悼記念碑」茅ヶ崎の農民は、卯之助への感謝を忘れることはなく、1898(明治31)年、初代茅ヶ崎村長が発起人となり「佐々木氏追悼記念碑」を建立した。「佐々木卯之助追悼記念碑のいわれ茅ヶ崎一帯の海浜は享保十三年以来幕府の鉄砲場となっており、区域内への村民の立入りや耕作などは禁じられていた。佐々木卯之助が大筒役(鉄砲方役人)になったのは文政七年のことで、そのころ南湖では田畑が少なく農民はこの地の耕作を願っていた。それを察した佐々木氏は上司に内密で耕作を許可し、農民はこの情けある計らいに心から感謝していた。しかし、この事が発覚するに至り天保六年その罪で佐々木氏は八丈島を経て青ヶ島へ遠島となりその後赦免となったが、かの地で一生を終えた。時移り明治三十一年、茅ヶ崎村村長、伊藤里之助が発起人となり村の恩人・佐々木氏を追悼してこの碑を建立した。初め南湖六道の辻に建てられたが逝たびか場所が変わり末永くこの地に収めることになった」裏面には「昭和五十六年五月五日 佐々木卯之助記念碑移設委員会 東海岸自治体」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.02
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4月28日(木)に「茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る」の4回目、茅ヶ崎市内のJR相模線の東側で松林通りの北側、そして室田1丁目、高田1丁目を歩いて来ました。その時の、様々な「花」の姿を新鮮なうちにアップさせていただきます。まずは我が家の最寄りの小田急線の駅までの途中にある民家の藤の花。紫色の花房がたわわに。手入れがよく、毎年、楽しませてくれるのです。そして茅ヶ崎市香川の民家のオオデマリ。ボール状の花を咲かせるのがオオデマリ。花が大きく鞠のようにまとまってつくことから名づけられたと。オオデマリはヤブデマリの花(ガク咲き)が、すべて装飾花(手まり咲き)になったもので、英名はジャパニーズ・スノーボール(Japanese snowball)と。八重咲きの美しいツツジ。ツツジの甘い香りが漂っていた。こちらは、1本のツツジの木に様々な色合いの花が。ツツジの花の特徴とも言えるのが、いろいろな色の花を一本の木から咲かせること。そして「成就院」の「なんじゃもんじゃ」の木の花。明治時代、東京の青山練兵場(今の明治神宮外苑)の道路沿いにこのなんじゃもんじゃの木があり、 名前がわからなかったので「何の木じゃ?」とか呼ばれているうちにいつのまにか「なんじゃもんじゃ?」という変わった名前になってしまったのだと。 「何でふ物ぢゃ」→「なんじゅうものじゃ?」 →「なんじゃもんじゃ?」と。本種は小葉を持たない単葉であることから『ヒトツバタゴ(一つ葉タゴ)』の和名がある。モクセイ科の植物。「単葉」とは。「単葉」は下の写真で丸く囲った部分が1枚の葉。単葉の樹木では、葉が落葉すると、枝と小枝(分枝)が残るため、これを維持するためのエネルギーが必要になるのだと。「複葉」とは。丸く囲った部分が1枚の葉で、四角で囲った葉を「小葉(しょうよう)」と言うのだと。「丸く囲った部分が1枚の葉」なのだと??複葉の樹木は、落葉すると、残すべき枝が少ないため、維持するエネルギーも少なくてすむと。複葉の樹木は、「10枚の葉をつけるなら、10枚で1枚の葉にしよう!そうすれば、小枝(分枝)要らずで、エネルギーを抑えることができるぞ!!」という戦略を取っているのだと。プロペラ型の白い花。すぐ散ってしまうのだと。「本堂」前には接ぎ木ではなく「実生(種)」から育てた多くの苗木が並んでいた。そして道端のアイリス、いや花しょうぶか。こちらは黄色の群生が。純白のツツジ。こちらも1本の木であっただろうか。ジャスミンの花。香りがとても良く、「香りの王様」とも呼ばれ、優雅で甘美な香りが特徴の花。マスク越しにも甘味な香りが確認できた。そして先日もアップした「白旗神社」の「辨慶藤」。花房の長さが特徴。そして純白の「義經藤」。「鯉の滝のぼり」の如くに。花言葉は「可憐」「歓迎」「恋に酔う」と。白藤は、古い時代から、歌にも詠まれた優雅な花。そして我が姓も「◯藤」。そして帰宅して我が家の花を。ピンクの芍薬(シャクヤク)。黄色の芍薬(シャクヤク)。花びらに網目状の模様があるのでアヤメであろうか。ドイツアヤメに似た色合い。そしていわゆる、アイリス。シラン(紫蘭)。オダマキ。 ・・・END・・・
2022.05.01
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次この日は4月9日(土)、「茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る」の2回目に向かう。自宅を6:15に出発し地元の小田急線の駅に向かう。駅の桜の花はこの日も未だ頑張ってくれていたのである。ズームして。JR藤沢駅で東海道線に乗り換え、この日もJR辻堂駅で下車。改札口をでた場所には辻堂駅駅員の心遣いが。JR辻堂駅の改札口を見る。南口に出る。「第72回 藤沢 市展」ポスター。この日の最初の目的地の「日本基督教団 茅ヶ崎平和教会」までは徒歩にて25min以上かかるので神奈中バス「茅ヶ崎駅南口行き」を利用した。バスの車窓から辻堂駅駅舎を見る。「美住町」バス停で下車すると目の前にあったのが「日本基督教団 茅ヶ崎平和教会」。神奈川県茅ヶ崎市出口町4−71。「茅ヶ崎平和教会は1948年に設立された、日本基督教団に所属するプロテスタントのキリスト教会です。教会の名前が「平和」であることが、私たちの教会の特色です。平和学園の学校の中で生まれたので、平和教会という名前になりました。心の平和はもちろん、世界の平和、すべての人と、造られたものとの平和を、私たちはいつも祈り求めています」とHPより。「掲示板」。十字架を見上げて。「桜道」を西に向かって進む。「桜道」は「JR茅ヶ崎駅南口」前から東に進む「浜竹通り」の「浜竹二丁目」交差点までのJR東海道線に沿った南側の道。「桜道」案内板。この先、茅ヶ崎に向かって進むと「桜道」とほぼ直角に交差する「ラチエン通り」がある。国道1号沿いのTOTO(株)茅ヶ崎工場から、134号までの約2.14kmの直線道路が「ラチエン通り」。通り名はルドルフ・ラチエン(1881〜1947年)にちなんでいる。ラチエンはドイツ生まれ、1902年(明治35年)に来日、都内で貿易商を営み、茅ヶ崎に15,000坪を保有、その中に建てた別荘を終生の住居とした。親日家だったラチエンは、別荘の前の道(現在のラチエン通り)に120本の桜を植えたそうで、当時は「桜道」と呼ばれたと。昔の「桜道」が「ラチエン通り」と名前が変わったのでこの道を「桜道」と呼んだのであろうか。「桜道」と「ラチエン通り」。そして「ひばりが丘」交差点を左折して進む。右側にあったのが「茅ヶ崎聖契キリスト教会」。神奈川県茅ヶ崎市ひばりが丘7−23。「茅ヶ崎聖契キリスト教会は、キリスト教プロテスタントの教会で、1957年6月、アメリカ人宣教師リンストローム、クリスターセン教師によって始まりました。「しかし、ついには上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森と見なされるようになる」(旧約聖書イザヤ書32章15節)というビジョンを掲げ、聖書のみことばに立ち、一人一人の賜物が生かされ、組み合わされて主の使命を果たす教会を目指しています。現在、教会員は80名です。1998年秋からは赤羽根チャペルでの伝道が始まりました。」とHPより。掲示板。住所から「ひばりが丘チャペル」と呼ばれているのであろう。スマホのGoogleマップの案内に従い、未舗装の小径を進んで行った。茅ヶ崎市美住町12の住宅街を東に向かって進む。左手に姿を現したのが「アトンメントのフランシスコ女子修道会」。「会名の「アトンメント」(atonement)は新約聖書の「ローマ人への手紙」5章11節からとられ、一般には「和解」と訳されているが「あがない」という意味も持ち、語源的には「at-one-ment」で「一致」という意味にも解釈できる。このことに生涯を捧げる決意をしたワトソン神父は、自身の敬愛するアッシジのフランチェスコに倣うべく、フランシスコ会の会則を取り入れた。元々、高教会(ハイチャーチ:カトリックに近い立場)の神学を信奉していたワトソン神父は、聖公会とカトリック教会との一致を願って活動を始めたが、当時の聖公会では受け入れられず、活動の場も段々と狭められていった。ついにワトソン神父はカトリックに帰属することを決意し、同時期に創設された女子修道会(アトンメントのフランシスコ女子修道会)とともに1909年10月にカトリック教会に受け入れられ、それぞれカトリックの修道会として再出発した。会名の通り「全てが一つになるように」をモットーとして「神と人」、「人と人」の和解と一致を目指し、エキュメニズム、宣教、福祉など様々な活動を展開している。」とネットから転記したが、私にはついて行けない内容なのであるが・・・外装のレンガ積みが印象的な教会ではあったが。イエスを抱くマリア像であろうか。こちらはワトソン神父像か?この花の名は?ハゴロモジャスミンに似ているが?その先にあったのが「セブンスデー・アドベンチスト教団茅ケ崎キリスト教会」。神奈川県茅ヶ崎市平和町1−12。「セブンスデー・アドベンチスト教会(以下アドベンチスト教会と略す)は、聖書主義に立つキリスト教・プロテスタントの教会です。アドベンチスト教会は、聖書に示されている神の愛による救いを全人類に伝え、その愛を、人々の必要に応えるさまざまな活動を通して実践しようとしています。アドベンチスト教会の名称の由来ですが、「セブンスデー」とは、「第7日」の意味で、これは週の第7日である聖書の安息日を聖日として守る教会であることを表しています。また「アドベンチスト」とは、聖書の重要な教えである、キリストの再臨(アドベント)を待望する人々を意味します。そのほかにも、アドベンチスト教会を特徴づけるいくつかの教えがあります。その教えは多くの点において、プロテスタント諸教会と共通しています。当初数十人の集まりでしかなかったアドベンチスト教会は、その後世界中に広がり、過去30年間では、10年毎に倍増する成長を逐げ、信徒数2000万人を越えました。アドベンチスト教会は、現在209の国々で活動しており、福音宣教活動に加え、発展途上国において支援活動を行っているADRA(アドラ・ジャパン)の働きによっても人々によく知られています。」とこれもHPより。「美住町」と「平和町」の境界の道を進む。「美住町」交差点を右折して「学園通り」を進むと左手フェンスの奥に歴史を感じさせる門柱のみが残っていたが。その先にあったのが「社会福祉法人 児童養護施設 白十字会林間学校」。神奈川県茅ヶ崎市富士見町4−54。「「社団法人 白十字会」(現「社会福祉法人 白十字会」)は、結核予防を目的に1911(明治44)年に設立された。設立者の一人、林止(とどむ)医師は、1903(明治36)年から2年間、「南湖院」の副長を務めた人物でもあった。「白十字会」が「白十字会林間学校」を設立するにあたっては、林医師の進言もあり、茅ヶ崎が療養に適した地として建設地に選ばれ、1917(大正6)年に開校、林医師は校医を務めた。「白十字会林間学校」は、国内初となる医療と教育を備えた虚弱児のための寄宿制私立小学校で、設立時の児童数は8名であったが、1939(昭和14)年には120名を超えるまでになった。」と。「昭和戦前期」の「白十字會林間學校」の姿。戦後、児童福祉と教育の機能が分離され、現在は児童養護施設の「白十字会林間学校」と、学校法人の「平和学園」が隣接して存続している。「平和学園」は1946(昭和21)年に設立され、初代理事長は賀川豊彦が務めた(理事としては1926(大正15)年より関わっていた)。現在「平和学園」は、この地で「平和学園幼稚園」「平和学園小学校」「アレセイア湘南中学校」「アレセイア湘南高等学校」を運営している と。 【https://smtrc.jp/town-archives/city/chigasaki/p06.html】より湘南海岸に向かって「学園通り」を進む。左手にあったのが「平和学園小学校」。戦後、児童福祉と教育の機能が分離され、現在は児童養護施設の「白十字会林間学校」(写真)と学校法人の「平和学園」が隣接して存続している。「平和学園」は1946(昭和21)年に設立され、初代理事長は「賀川豊彦」👈リンクが務めた(理事としては1926(大正15)年より関わっていた)現在「平和学園」は、この地で「平和学園幼稚園」「平和学園小学校」「アレセイア湘南中学校」「アレセイア湘南高等学校」を運営している。「平和学園前」交差点から「鉄砲道」に架かる「アレセイア湘南中学校」~「平和学園小学校」の間の連絡橋を見る。連絡橋の先。右側に「アレセイア湘南中学校」、「アレセイア湘南高等学校」の正門があった。「平和学園前」交差点を右に曲がり、250mほど「鉄砲道」を西に進むと右手「茅ヶ崎警察署 平和町交番」の手前の「平和町第一公園」の隅にあったのが「団十郎山の碑」。「団十郎山のいわれ歌舞伎界で名優といわれた「九代目市川団十郎」👈リンク は、この地に別莊を構えていました。明治ニ十九年、ここに土地を求め、建物を孤㮤庵(こしょうあん)と名付けました。土地は、約一万九千八百平方メートルといわれています。地元では、今ても団十郎山と呼んで親しんでいます。」JR茅ケ崎駅北口を出て、すぐの通路部分に茅ケ崎にゆかりのある著名人の手形が並んでいたが、そのうちの一人が歌舞伎役者の12代目市川團十郎であったが、その理由が理解できたのであった。そして再び「平和学園前」交差点まで戻り右折して「緑が浜小学校前」交差点を通過。右手に防砂林が現れた。この場所が「小和田浜公園」の東側。西側には茅ヶ崎市営の「浜須賀水泳プール」がある。「N-24 茅ヶ崎市浜須賀」表示板。この表示板の意味は?さらに「N-24」のNの表示は何を意味しているのであろうか?この後に同様に「S-〇〇」もあった。そしてN&Sが路地の入口の左右に連番で。N:NORTH S:SOUTH であり、国道134号を境にしているような気もするが、設置の目的が知りたい。茅ヶ崎にお住まいの方に、ご教示願いたいのである。そして茅ヶ崎にお住まいの我が高校の学友が茅ヶ崎市役所、藤沢土木事務所に問い合わせてくださいました。防砂林の維持管理番号であり、N、Sは国道134号N:北側、S:南側を示すのだと。番号は管理区画ごとに付けられていて、1番の藤沢市鵠沼から大磯まであるとのこと。スッキリしました!!。学友のSさん、お手数をおかけいたしました。左手に国道134号「浜須賀 立体歩道橋」を見る。正月の「東京箱根間往復大学駅伝競走」の復路では、この「浜須賀 立体歩道橋」の下を走り海岸線から離れ戸塚茅ヶ崎線で藤沢の遊行寺坂に向かって走っていくのである。「浜須賀 立体歩道橋」をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.01
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